八咫烏(6)
第六話「雨」
「……と、いうわけなんでさァ」
雷蔵は話し終えると手酌で一杯呷った。きのうの才助の一件、例のぐい吞みの話である。
「なるほどねぇ」
卓をはさんで向かいの席で、不思議そうに首をかしげて烏平次が笑った。
「おれたちは、骨董品にゃあ詳しくねえからなぁ」
八咫烏は盗っ人。といっても、なんでも盗むわけではない。狙うのは、主に千両箱である。骨董品などに興味はない。義賊である八咫烏は、貧しきものを救うために罪を背負っているのだ。
「オレも、おどろきましたよ」
隼助は煮物の小鉢に箸を伸ばしながら言った。
「まさか、あのぐい吞みに三百両の値打ちがあったなんて。ねえ、雷蔵さん」
格子窓のあるカベ際の席で、お猪口を手にもったまま雷蔵がうなずいた。
「あの才助の女房ってのは、どこにでもいる〝傘張り浪人〟の一人娘で、名はお志津。父親の三好好三郎は五年前ぇに、母親の〝おとき〟も、三年前ぇに病死」
さっき話したことを、雷蔵が短く繰り返している。
雷蔵のあとを隼助がつづける。
「その親父の家柄は、もとをたどれば織田家の家臣。あのぐい吞みは信長公より授かったもので、三好家の家宝だった。それを雷蔵さんが――」
「おっと」
掌を見せながら雷蔵がさえぎる。
「そっから先は言わねえ約束だぜ? 隼助」
三人で笑った。
「にしても、お志津ってぇ女房も人がわるいよな」
えび天をかじりながら烏平次が言う。
「そんな大事なもんを、亭主の才助にもだまってたなんてよ」
「才助は、まだ知らねえんですよ」
と、雷蔵。
「なにせ、信長公より授かったお宝でやすからねえ。うわさが立って、もし盗まれでもしたら、ご先祖様に死んで詫びなきゃならねえ。だから、このことは才助にもだまっていてくれ。お志津さんに、そう言われたんでさァ」
あのぐい吞みは骨董屋から買い戻し、その日のうちに無事、才助の女房に返すことができたのだ。
「才助には折を見ていつか話す、って言ってましたよ。お志津さん」
隼助は言い添えると、お猪口を静かにかたむけた。
昼を一時(約二時間)ほど過ぎている。めし屋の店内には、さほど客はいない。下働きの娘が、客の座っていない卓の上を拭いてまわっている。聞こえてくるのは、店の主人がまな板の上で野菜をきざむ包丁の音と、二つ隣の席で酒を飲みながら話し込んでいる町人風の男たち四人の大きな話し声だけである。
隼助たちの話し声は、この四人の声にかき消されて、だれにも聞こえていないだろう。それでも、隼助たちはずっと烏の鼾――自分が話したい相手にだけ聞こえるように話すという会話術で、関係のない第三者には、となりの部屋から聞こえてくるような、くぐもった唸り声にしか聞こえないのである――で話していたのだ。たとえ聞こえていたとしても、まわりの客には酔っぱらいがなにかブツブツひとりごとを言ってるようにしか見えないだろう。人目のあるところで重要な話をするときは、かならず烏の鼾で話すことにしているのだ。
「それじゃ、ぼちぼち行くとするか」
烏平次が席を立った。
「おやじ、ここ置くぜ」
雷蔵も卓の上に勘定を置きながら席を立った。隼助はお猪口をひと口呷ってから席を立った。
めし屋を出たときである。
「あっ」
隼助は、ひとりの小さな女の子と出合い頭にぶつかった。
「ご、ごめんよ。ケガはなかったかい?」
隼助はうろたえながら女の子のまえにしゃがみこんだ。しかし、女の子は地べたに尻をついた格好で泣きだすのであった。どうしたらいいのだろう。子供をあやすのは苦手なのだ。
「どいてな」
烏平次が隼助の肩に手をのせてうなずいた。
「どこもケガはねえかい? おじょうちゃん」
烏平次が女の子を立たせて、着物についた砂を手で払った。女の子が泣きながら地面を指差した。飴が落ちている。細い棒についた、鼈甲色の飴。
「そうか。アメを落としちまったのか」
困った表情で鼈甲色を見ながら烏平次が吐息をついた。
「よし、おじちゃんがまた買ってやろう。だから、もう泣かねえでくれ。な?」
女の子のあたまに大きな手のひらをのせながら烏平次が言った。
「……うん」
女の子の泣き顔に、少しづつ笑みが甦ってきた。
「よし。いい子だ」
烏平次も、うっとうしいヒゲ面に優しい笑みを浮かべるのであった。
さすがは八咫烏のカシラ。ただのヅラびと――烏平次は浪人マゲ(月代を伸ばした頭)のヅラを被っているのである。そして、烏平次のようにヅラを被るものを、世間では〝ヅラびと〟と呼んでいるのだ――ではない、ということか。隼助は雷蔵のわきに立ちながら、感心したようにうなずいた。
「おじょうちゃん、名前はなんていうんだい?」
女の子の手を引きながら烏平次が尋ねる。
「おくみ」
「おくみちゃん、か。いい名前だ」
達磨入道のような顔をしているが、烏平次は子供好きなのである。
「住まいはどこだい? おじちゃんが送ってってやるよ」
「とりごえちょう、とうべえながや」
鳥越町の藤兵衛長屋。
隼助は烏平次とおくみの背中を見ながら通りを歩いていた。雷蔵も懐手をしながら隼助のとなりを歩いている。
烏平次はおくみに話しかけながら、ゆっくりと足を運んでいた。
「いつも、ひとりで遊んでいるのかい?」
「うん」
烏平次に手を引かれながら、おくみが寂しそうにうなずいた。烏平次に買ってもらった飴を、おくみはもったいなさそうに少しづつ舐めている。金魚の形をした飴細工。たしかに見事な造形だ、と隼助も思った。
「家族は……兄ちゃんとか姉ちゃんは、いねえのかい?」
おくみはうつむくと、だまって首をふった。左手にもった飴は、まだ金魚の形をとどめている。
「そうか」
烏平次が吐息をついてうなずいた。
「おとっつぁんと、おっかさんの三人で暮らしてるのか」
「おっかさんは、しんじゃった」
烏平次が足を止めた。うしろを歩く隼助と雷蔵も、静かに立ち止まった。おくみは、ただだまってうつむいていた。
「そ、そうか。そいつぁ、わりぃこと訊いちまったな」
烏平次がおくみのまえにしゃがみこんだ。
「ごめんよ、おくみちゃん」
「ううん」
しかし、おくみはほほ笑みながらくびをふるのであった。
隼助もおなじだった。父親に早く死なれ、病気の母を看病しながら、その日その日をようやく暮らしていた。冬の川で、手を赤くしながらしじみを採ったこともある。湯屋で風呂焚きもやった。毎日、必死で母の薬代を稼いでいた。母のためだけに、毎日を生きていた。そして十三になった年の春、母は隼助をひとり残してこの世を去った。とうとう、母を救うことはできなかった。隼助は自分を責めつづけた。自分の無力さを呪った。この世から貧しさを消したい。ひとりでも多く、貧しさから救い出してやりたい。そういう世の不条理への義憤に駆られて自分は八咫烏に加わったのだ。そして、その思いはいまも変わらない。だから、隼助は八咫烏として罪を背負いつづけているのだ。
「おや?」
雷蔵が空を見上げた。
「降ってきやしたぜ、カシラ」
ねずみ色の空から、ポツリポツリと雫が落ちてきた。
「梅雨の季節ですからね。傘を持ってくるべきでした」
隼助もうっとうしげに空を仰いだ。
「かさなら、うちにあるよ」
と、おくみが言った。
「おとっつぁんが、まいにちつくってるの」
瀬川甚十郎。おくみの父は、どうやら傘張り浪人らしい。
「でも、おとっつぁん、びょうきなの。だから、さいきんはあんまりたくさんつくってないの」
「なるほど」
烏平次が隼助と雷蔵の顔にうなずいた。
「その傘、おじちゃんたちがぜんぶ買おう」
「え?」
おくみはおどろいた顔で烏平次を見上げている。烏平次は黄色い歯を見せながら笑っていた。
瀬川甚十郎から傘を買うと、隼助たちは長屋をあとにした。ひとつ三百文の番傘を十五本、しめて一両二朱である(※)。
雨は、まだ降りつづいている。三人とも傘を差しながら、空いてるほうの脇に四本の傘をかかえて歩いていた。
「甚十郎さんの病気、治るといいですね。カシラ」
隼助は、まえを歩く烏平次の背中に声をかけた。
「そうだな」
烏平次はふり向かない。
「医者にも、治るまで面倒を見るように頼んできたんだ。きっと、治るだろうよ」
隼助のとなりで雷蔵が言った。
烏平次は、ずっとまえを向いたまま歩いている。おくみのことを考えているのだろうか。
「ところで、カシラ。香典は、いくら置いてきたんです?」
隼助は知っていた。三人で、おくみの母の仏壇に線香をあげたとき、烏平次がそっと〝切り餅〟を供えていたのを。
「四つだ」
やはり、烏平次はふり向かない。
「百両、ですか」
傘をたたく雨音が大きくなりはじめた。
「雨脚が……強くなってきましたね」
傘を滴る雨垂れの向こうに、隼助はそっとささやいた。
(※)壱両が四千文、壱分が壱千文、壱朱が二百五十文として計算
次回、第七話「白昼夢」
おたのしみに!!
八咫烏(6)