八咫烏(5)
第五話「オレたちの正義」
隼助はひとり、不忍池のほとりを歩いていた。天気はいいが、心は曇っている。隼助は、堂々と輝く太陽にそっぽを向きながら歩いていた。
「正義、か」
ため息混じりにつぶやくと、隼助は腕組みをした。ゆっくりとした足取りで、視線は遊ばせている。
いくら人助けのためとはいえ、盗みを正当化することなどできはしない。盗っ人に正義などないのだ――隼助は刀九郎の言葉を思いだした。
「オレたち八咫烏は、ただの盗っ人じゃない。義賊なんだ。でも」
所詮、盗っ人は盗っ人――胸の中でつづけると、隼助は上下の唇をぐっと押し合わせた。オレたちは盗っ人。しかし、盗む相手も悪党。いわば、盗っ人のようなやつらである。犯さず殺さず、貧しきからはけっして盗まず。それが八咫烏の掟なのだ。
「オレたちは……八咫烏は、義賊なんだ」
義賊の〝義〟は、正義の〝義〟でもある。だが、盗っ人が正義を唱えるのはやはりおかしい。自分たちを正当化しているだけなのかもしれない。わからない――オレたちは、いったい何者なんだ。
コツン……
つま先に石ころが当たった。ちょうど掌におさまるぐらいの大きさだ。
「くそ!」
隼助は、ちからいっぱい石ころを蹴り飛ばした。
ポチャン……
池に石ころが落ちるのを見届けると、隼助は額に脂汗をにじませながらうずくまった。右足の脛を両手でかかえ、歯を食いしばってうめき声をあげる。素足に草履。右足の親指に雷が落ちたような激痛が走っているのであった。
「いてて。血が出てらあ」
右足の親指。爪にも少しヒビがはいっている。
「ちくしょう」
隼助は忌々しそうに舌打ちをした。
――カァ!
烏の声に、隼助はふと顔を上げた。少し先のほうに辻堂が見える。その辻堂の屋根に、一羽の烏が留まっていた。ここで休んでいけ、ということだろうか。隼助は右足を引きずりながら辻堂のほうに向かった。
辻堂の階段――ちょうど大人が両手を広げたぐらいの幅の階段――を二段上がり、いちばん上の三段目に腰を下ろした。辻堂の右にそびえ立つ大木が、太陽の日差しをさえぎっている。正面の道をはさんで向こう側には、不忍池が陽の光を受けて白く輝いていた。
「とりあえず、手拭いで縛っとくか」
隼助は懐から手拭いをとりだすと、端を口にくわえて細く引きちぎった。そっと草履を脱いで、手拭いの切れはしを親指にまきつける。
「やれやれ」
草履をはきなおすと、政吉はふーっと長いため息をついた。辻堂の障子戸に寄りかかり、ふと池のほうに視線を向ける。盗んだ金で、貧しさに苦しむ人々を救う。方法はまちがっているが、人を助けることは正しい。そこは、まちがってはいない。しかし、自分たちが助けた相手は、はたしてどう思っているのだろうか。まかりまちがえば、どうして貧乏人のおまえがそんな大金をもっているんだ、と役人の詮議を受けることになりかねない。やってもいない盗みの罪で〝お縄〟になる、ということも、じゅうぶん起こり得るのだ。いまのところは、まだそういったことは起きていない――貧しい者が小判をもっていると怪しまれるので、八咫烏は一分金や〝穴あき銭〟などに両替した上で施している――が、長くつづけていれば、いずれ必ず起こるだろう。隼助は自分たちがお縄になることではなく、自分たちが救うべき人々に罪が及ぶことを恐れているのだ。
「ただの自己満足……」
なのかもしれない。自然とため息がもれる。隼助は、おもむろに懐から紙入れ(財布)をとりだした。紙入れの端にぶら下がる、象牙の根付。細工は不動明王である。以前、雷蔵からもらったものだ。隼助は、紙入れから不動明王の根付をはずすと、右の掌にのせてながめはじめた。
「すべての悪と煩悩をおさえしずめ、生あるものを救済する、か」
不動明王。鬼のような形相をしているが、その心は慈愛に満ちている。
「オレは……八咫烏は、貧しい人々を救済するために罪を背負っているんだ」
隼助の手の中で、不動明王がじっとにらんでいる。右手に剣をかまえ、左手には丸めた縄をもっている。
「そいつでオレを縛ろうってわけか」
皮肉を言うと、隼助は口もとで小さく笑った。
「でも、これも立派な正義なんだ」
隼助は手の中の不動明王に訴えた。
「たとえ方法がまちがっていようと、これもひとつの正義――」
「盗っ人に正義なんてありゃあしねえぜ?」
「え?」
隼助は声のほうをふり向いた。辻堂の右、大木の影から、見慣れた顔が現れた。
「雷蔵さん」
「こんなところで、なにしてなさる?」
雷蔵が薄い笑みを浮かべながら隼助の傍らにやってきた。
「じつは、ちょっとケガをして……」
紙入れと不動明王の根付を懐にしまい込むと、隼助は手拭いをほどいて傷口を見せた。
「なるほど。ケガは大したことねえが、甘く見ちゃいけねえ」
新しい手拭いを傷口にまきながら雷蔵がつづける。
「下手をすりゃあ、破傷風にかかっちまうからな。帰ったら、しっかり消毒しておきなせえ」
傷口を縛り終えると、雷蔵は隼助の顔を見上げて笑った。
隼助は雷蔵の肩につかまって歩いていた。浅草の街はずれ、路地裏にある長屋のちかくを通りかかったとき、なにやら言い争っている声が聞こえてきた。声の調子からして、おそらくヤクザのケンカだろう、と隼助は思った。
「ちょっと寄ってみるか」
雷蔵がそう言うので、隼助も雷蔵の肩につかまりながら怒声のするほうへ向かった。
「あっ」
隼助の感はハズレた。いや、半分は当たっていた。ヤクザ者が数人、長屋の住人らしき若い男――大工の格好をした――を恫喝している。隼助と雷蔵は、遠巻きに様子をうかがった。
「おう、才助」
ヤクザの親分らしき男が、若い男の胸ぐらにつかみかかった。
「一体ぇ、いつまでまたせるつもりだ。期限はとっくに過ぎてるんだぜ?」
才助の顔が恐怖でこわばる。
「そっ、そんなこと言われても、五十両なんて大金、いったいどうやって――」
「百両だ」
「ひゃっ、百両?」
才助が狼狽する。
「利子だよ、利子」
ヤクザの親分がせせら笑う。
「そ、そんな。たった十日で五十両の利子なんて、あんまりだ!」
この才助という男の妻は病気で、その薬代をこの親分から借りたらしい。正確には、このヤクザの親分を操っている悪どい金貸しから借りた、という話だった。
「雷蔵さん」
隼助が目をやると、雷蔵は無言でうなずいた。
「おめえさんは、ここでまっていなせえ」
雷蔵がヤクザたちのほうへ向かった。
「ちょいと失礼。通してもらいやすよ」
長屋を通りすぎるフリをして、雷蔵が才助の部屋のまえで足を止めた。
「あの、もし。ここはおまえさんの住まいで?」
雷蔵が部屋をのぞき込みながら才助に尋ねた。
「え?」
才助が戸惑いの表情を雷蔵に向けた。
「なんだ、てめえは」
才助から手をはなすと、ヤクザの親分は雷蔵をにらみつけた。
「用があるなら、あとにしやがれ」
でこぼこの煎餅のような醤油色をした丸い顔。頬一面に、ヒゲの剃りあとが青く残っている。そして、毛虫のような太いゲジゲジまゆ毛。半開きになった死にぞこないの貝のような腫れぼったい眼が、雷蔵をギロリとにらみつけているのであった。
「ちょいとおじゃましますよ」
雷蔵はヤクザの親分を無視して才助の部屋に入っていった。
「あ、あの……もし、おまえさん」
才助が戸惑った顔で部屋の中をのぞいている。
ほどなく、雷蔵が部屋からもどってきた。小さなぐい吞みのような物を、いかにも大事そうに両手で包んでいる。
「いや~、これは見事なぐい吞みですなあ」
ぐい吞みを顔のまえにかざしながら雷蔵が唸った。いつもとはちがう、丁寧な口調だ。まるで、どこぞの若旦那といった感じである。才助は不思議そうな顔で雷蔵を見ている。ヤクザの親分も、腕組みをしながら首をかしげている。ヤクザの子分たちも、顔を見合わせながらひそひそ話をはじめた。
上品な笑みを浮かべながら雷蔵がつづける。
「いや、じつは、私の父は大の骨董好きでして。おかげで、私もすっかり目利きになってしまったというわけなんです」
「それで、そのぐい吞みがどうかしたのかい?」
ヤクザの親分が言った。怪訝な目を雷蔵に向けながらアゴ先をさすっている。才助も雷蔵とぐい吞みを交互に見ながら小首をかしげていた。
「これはとても素晴らしい物です。もしよろしければ、ぜひ、これを私に譲ってほしいと思いまして。はい」
「べつに構いませんが、でも……」
才助は少し困った顔をした。
「でも、そんなぐい吞み、どこにでもある物でございますよ?」
「なにをおっしゃいます」
雷蔵がおおげさに呆れてみせた。ヤクザの親分と子分たちも、妙な顔でマユをひそめている。
才助にぐい吞みを見せながら雷蔵がつづける。
「このような素晴らしい物、滅多にお目にかかれるものではございませんよ?」
「は、はぁ……」
困り顔のまま、才助が小首をかしげた。
「それで、おめえはそれをいくらで買うつもりなんだ?」
うさんくさそうに細めた眼を雷蔵に向けながらヤクザの親分が尋ねる。
「はい。二百両でいかがでしょうか?」
才助の顔を見たまま雷蔵が答えた。
「ににっ、二百両?!」
その場にいる全員が驚嘆して飛び上がった。
才助からぐい吞みを買い取ると、隼助は雷蔵の肩につかまりながら長屋をあとにした。もちろん、このぐい吞みに二百両の値打ちなどありはしない。ただのガラクタである。それを承知で買い取ったのだ。二百両のうち百両はヤクザの借金に返済。残る百両は、才助の病気の女房の医者代である。
「雷蔵さん」
「なんだ」
「さっき……盗っ人に正義はない、って言いましたよね」
「ああ」
「でも、人を助けることが正義じゃないんなら、オレたちがやってることは、いったいなんなんですか?」
「ばかやろう」
まえを向いたまま雷蔵が肩をゆらした。
「いいか、隼助」
雷蔵は立ち止まると、隼助に顔を向けながらつづけた。
「アッシらは盗っ人だ。いくら義賊といっても、盗っ人に正義なんてありゃあしねえのさ」
「じゃあ、オレたちはなんなんですか?」
隼助は雷蔵の眼に訴えかけた。
「ただの偽善者ってことなんですか?」
「そうさなァ」
雷蔵は呆れたようにため息をつくと、まえに向き直ってゆっくりと歩きはじめた。
「雷蔵さん」
隼助はじれったくて仕方がない。
「アッシらは、ただの〝必要悪〟さ」
隼助は「はっ」として雷蔵のよこ顔をふり向いた。正義ではなく、必要悪。オレたちは、ただの必要悪。刀九郎が言っていた真の正義。そんなものは、ありはしない。正義なんて、所詮、幻想にすぎないのだ。正義などいらない。必要悪でもかまわない。オレたちは、人を救うことができるのだから。失望しながらも、隼助はむりやり納得していた。
「あ、もし、そこのおひと」
東橋(吾妻橋)の袂で見知らぬ老人に呼びとめられた。どこぞの大店の主、といった感じである。
「アッシらに、なにか御用で?」
雷蔵が尋ねる。
「いや~、見事なぐい吞みをお持ちでございますね~」
雷蔵の手の中のぐい吞みに興味を示しながら老人が言った。
「あ、これは失礼」
老人が改まって雷蔵に笑顔を向ける。
「じつは、私は骨董屋をやっておりまして、つい」
丁寧にあいさつをしながらも、老人は雷蔵のぐい吞みに目を落としていた。
「ああ、このぐい吞みですかい? こんなもの、よろしけりゃあただで差し上げやすよ?」
そう言って鼻で笑い飛ばすと、雷蔵は老人にぐい吞みを差し出した。
「とっ、とんでもない」
老人は掌を顔のまえでふりながら、おおげさに呆れている。
「このような品、ただでもらい受けるわけにはまいりません」
そして、老人は雷蔵の顔のまえで指を三本立てた。
「三百両で、お引き取りいたしましょう」
「ぇ?」
雷蔵が固まった。
「なっ」
隼助も固まった。
老人はぐい吞みを袱紗に包むと、大事そうに懐の中へしまい込んだ。それから手に下げた巾着袋から三百両――二十五両を包んだ切り餅を十二個――を取りだすと、まるで托鉢をする僧侶のように固まった雷蔵の掌の上に乗せるのであった。
才助から二百両で買ったぐい吞みが三百両に化けた。隼助は、ふと思った。才助は二百両でぐい吞みを雷蔵に譲り、そのうちの百両で借金を返済。才助の手もとには百両がのこった。そして、才助から二百両で買ったぐい吞みを、見知らぬ老人が三百両で引き取った。つまり、雷蔵は百両儲かったのである。
「なんだか〝三方一両損〟みたいですね」
隼助は雷蔵の肩につかまりながら冗談を言って笑ってみた。しかし雷蔵は笑わない。表情のない能面のような顔が、ゆっくりと隼助をふり向く。
「はあ?」
雷蔵は「バカじゃねーのオマエ?」と言わんばかりに荒んだ眼差しを向けてくるのであった。
「いや、わらしべ長者……かな……」
仕切りなおした隼助に、能面が冷ややかな視線を向けてくる。
「あっ、指が」
隼助はほほ笑みを浮かべたまま、ケガをした足の指にそっと目を落とした。
次回、第六話「雨」
おたのしみに!!
八咫烏(5)