迷った帰路と雨の帰宅。
曲がった先は?
高速を降りて真っ直ぐ直進する事、五分。屋根がバロックで覆われたソバ屋がポツンと道路の横に現れた。腹が空いていた私は舗装されていない駐車場に車を停車した。ソバを食べる為にだ。ドアを開けて地面に足を置くと。
べちゃり。
嫌な音が聞こえる。靴の底に赤い泥がへばりついた。雨が降った後らしい。それで車体を見ると泥が跳ねてタイヤとボディが汚れてしまっている。私は小さく舌打ちをした。
ムカついても仕方がないのでバロック屋根の戸を開いた。建付けが悪く、カトコトと擦れた振動を漏す。そうして私はソバ屋に入店したのである。
これがホンの数分前。
「へぇ、それで君が未来人?」
「そうなんすよ。ボクこう見えて未来人なんですよ」
少年は角煮を美味そうに頬張って、白い汁をジルジルと吸った。
私はゴボウを食いちぎって飲み込んだ。
「少年。おじさんに対してその様な発言はよしたまえ。見ず知らずであり、しかもゴボ天うどんを食っている最中にだ。この空いている席で、だだぴっろい空間に、何が悲しくて私の隣に座るのかね? 君の様に年若い少年は市内に行ってお洒落な喫茶店に入り、水玉のワンピースを身に着けた女の子の隣に座って説けばいいんだ。唐突に『ボクは十七年後から参りました。未来人であります』と言う対象を私に言う事は間違っているぞ。それは若い異性に言うからこそ発揮する冗談だ。おじさんに言っても味の切れたチューインガムを噛み続けるくらいに無駄だ」
「しかし、ボクは味がきれたチューインガムを噛むのは好きですよ」
「私は嫌いだ」
だが少年は私の発言を無視して反応した。
「この角煮しつこい味付けですね。ボクしつこいモノって嫌いなんです」
「そんなの私は知らん」
黒髪。シャギーの少年はフフと笑い、ソバをズルズルとススッた。それで少年は「ああ、すんません。時計、見せてもらっていいですか? 貴方の腕時計です」と言った。
「勝手に見ろ」私は答えた。
「ふむむ。そろそろですね。後三分程でこのボロいソバ屋に雨の雫が良く似合う『黒田涼子』さんが来ます。で貴方はそこで奇声を発して黒田涼子に抱き着くんです!」
「ごふっ!」私はゴボウを吹いた。
「な、な、なんだとこの、店に黒田涼子さんが来るだと……。と言うよりも何故、少年が黒田涼子さんを知っている!」
黒田涼子さんは私の会社の受付嬢で私の想い人でもある。笑顔の似合う、黒髪の大人しめで誰にも優しい女性である。
「しっ! ボクが言った通りにするんです。いいですか黒田涼子さんが戸を開いた瞬間に抱き着くんです!」
「そんなの無理に決まって……」
私がそう言い答えた時である。カタコトと木材が擦れる音が鳴りソバ屋の戸が開いた。
「さっ、勢い良く抱き着いて下さい!」少年の勇ましい声が店内に響いたと同時に私は少年に力強く押され戸の方にと誘導された。この少年の体内にこれほどの腕力があるとはと思った時にはもう遅い。私は戸に衝突する事を避ける為に防御反応として両手を突き出していた。
「ぐぁああ!」鈍い声が聞こえた。黒田涼子さんの声ではない。男の声であった。
私は目を開いて見ると目の前にはスーツの男が倒れ、その横に長い髪の毛が濡れた黒田涼子さんが立っていた。
「く、黒田さん」私は思わず彼女の名前を読んでしまっていた。
黒田涼子さんは赤いスーツを穿いている。何時もは受付の桃色の制服を身に着けて優しい笑みを浮かべているが、今、私の目の前に居る黒田涼子さんは冷たい笑みを浮かべて私を見ていた。まるで蛇に睨まれた蛙であった。
「あら、貴方。総務部の鈴木さんではないです? どうして此処に?」と言った。
私は冷ややかな汗をポタリと垂らし「いや、腹が減ったもんでソバを食いに……」と答えた。
「でも」黒田涼子は間を置いて言った。
「でも、おかしいです。この時間にこのソバ屋に鈴木さんの様な人が入店できるだなんて……。妙です」
黒田涼子はそう言い私を横切って店内の奥に言った。そして、私の前に戻ってきて「どういう事でしょうか? 店内に居るワタシの部下が全員、うどんの麺で猿ぐつわされて、便所に放り込まれているのですが? 貴方がやったのですか? 鈴木さん?」と言い私を奇怪な眼で見つめた。
「な、なんの事ですか? 私はそんな事知りませんよ? そもそも黒田さんの部下って何です? 黒田さんが言っている意味が私には理解できない!」
「そうですね。確かにワタシも貴方の様などんくさい男にこの様な業が出来ると思っていません。と言う事は貴方は何かのオトリですね」
そう言いうと黒田涼子は胸元からピストルを取り出し私に向けた。
「ひ、ひぇえ」
「なぁあに。ビビる事はありませんよ」
私は声の方向に向いた。少年がソバをズルズルと喰いながら私を見ていた。
「なに、呑気にソバを食べているのだ少年! 私はいま死ぬか死なないかの瀬戸際に居るんだぞ! と言うよりも何故、黒田さんは君に対して見向きもしないんだ」と私は震える声と震える心臓を堪えながら言った。
「いやねぇ、おかあさんは……いや、黒田涼子は僕に気づかない様に設定しているから、僕に気づかないんだ。そうそう、この文面を読んでよ取りあえず。そうすれば収拾は付くよおかあさんは意外にバカだから」
少年はそう言うと私に大学ノートを破ったメモを渡した。
「なにを一人でブツブツ呟いているんですか?」黒田涼子は人差し指に力を入れる。
「まぁまて」と私は言い少年が渡した文章を読み始めた。
「幼稚園生の時、饅頭の形をした粘土を食べて腹痛で二日間、幼稚園を休む。小学校三年生の時、饅頭の形をした丸めた泥を食べて病院に運ばれる。小学校六年生の時、腐った饅頭を食べて理科の実験中に嘔吐する。中学二年生の時、デパートのすみに落ちていた饅頭を拾い喰いして親戚の人に一部始終を見られる。高校三年生の時、社会科見学で回った饅頭工場に忍び込み、饅頭を食べている途中、饅頭を喉に詰めて死にそうになる。大学三年生の時、饅頭の弾力性を計測している最中に、計測している饅頭を食べて単位を落とす……」
「黒田さん……、こ、これは?」
黒田涼子は僕の困惑の顔を見ると「や、やめて! どうして貴方がその事を知っているのよ!」と叫んだ。
「黒田さん。饅頭が好きなんですか?」
黒田涼子は下を向いて「ええ、そうよ。私は饅頭が好きよ。愛してる。この世界が饅頭ワールドになって、鳥も飛行機もグラバー邸も饅頭になってしまえばいいとさえ思っているわ」と唇を震わせて言った。
「饅頭ワールド」と私は言った。
「ええ、饅頭ワールド」と黒田涼子は言った。
「しかし、黒田さんが饅頭好きなのは分かりましたが、どうして黒田さんがピストルを持つ……そうです、何か悪の組織的な感じな格好でこのソバ屋に来たのかがイマイチ私には理解ができないですが?」
「それは僕が説明しましょう」
少年が私の足元から張り上げた声で言った。
「ソバはもう喰い終わったのか? 少年?」
「喰い終わりましたとも。美味でした」と言って「おかあさんは……、いえ、黒田涼子は復讐の為にこの闇の組織に居るんです」と言った。
「復讐だと?」
「はい復讐です。黒田涼子は大学四年生の頃、完璧な饅頭、いわば彼女が求めていた饅頭が或る菓子メーカーから発売され、それは大層喜び、毎日幸せに暮らしていたのです。けれども突如としてその饅頭は永遠に食べられなくなるのです。その理由は菓子メーカーの会社と工場が何者かの手によって火をつけられたのであります。それにより、菓子メーカーは倒産。もちろん、黒田涼子が溺愛していた饅頭も販売中止。黒田涼子は復讐の鬼化と変貌したのです」
「阿保だろ」私は言った。
「えぇ、阿保です」少年も同調した。
「誰が阿保ですって? ワタシが四歳から探し求めた完璧な饅頭がこの世から奪い去られたのよ! その瞬間からワタシは放火した犯人と復刻版を作製しない菓子メーカーの役員と饅頭業界に鉄槌を下すと決めたの。誰もワタシを止める事はできないわ」黒田涼子は覇気がこもった表情で再び私にピストルを向けた。
「ささこれを」と少年は私に茶色い紙袋を渡した。
「なんだこれは?」
「この流れでどう考えても饅頭でしょうが? 貴方は本当にバカですね」と少年は言った。
「う、うるさい」
私は少年の手からそれを奪い取り茶色い袋を黒田涼子に見せた。
「なによ。それ」
「知らん。だが、開いて見ろ。多分だが黒田さんに取って大切なものだろ」
黒田涼子は黙って茶色い袋を受け取った。袋の口を開いて白い手をゆっくりと入れる。
「こ、これって」
「そうだ饅頭だ」
「どうして貴方がこんなものを? でも確かにこの饅頭はあの大学四年生の秋に紅葉を見ながら公園で食べた饅頭と一緒だわ……」黒田涼子はそう言いながら目元から大きな涙を流しながら食べ始めた。そして「おいしい」と言った。
バロックの屋根にパタパタと音が鳴る。どうやら、雨粒が跳ねているらしく、外を見ると細い線が泥を刺して波紋を幾つも作り出していた。雨の香りはまだまだ終わらない。雨雲は黒く重たい天井の様で冷たい風が店内にヒューと入る。
私はこのまま帰るか、黒田涼子を残して帰るか考えたが、結局であるが「黒田さん、送って行こうか?」と言った。
「これで黒田涼子と鈴木は結婚して饅頭店を開く改変が出来た。で僕は饅頭店の息子。闇の組織の頭領の息子なんて、面倒くさくてありゃしない。しかし、僕のとーさんが、あれほど情けない奴だったとは、予想外だった」
私はアクセルを踏み込みハンドルを軽くきる。隣には幸せそうな表情で眠る黒田涼子さんが居た。T字路に差し掛かる。しかし私は何時もと曲がる道を左に曲がった。雨の帰宅。
迷った帰路と雨の帰宅。