一筆


買って半年ばかりなのに,マグカップの縁からは表面積に収まりきらない蔦が伸びて,描かれた絵そのままのオレンジ色の花を咲かせ,初めての空間を思う存分に楽しんでいた。それを追いかけたい蝶々は,カップの曲面に沿って必死に翅を動かしていたが,植物の成長速度には追いつけないようで,置いてけぼりになっていた。その代わりに,カップの表面にはその羽ばたきによって生まれた雨のような蝶々の努力が,新しい芽を刺激して,ひょっこりと顔を出すという合理的な場面が,イラストレーターの手を借りずに新たに描かれることになった。
この調子でいけば,人件費の削減に繋がるのでないかという思い付きをインクに浮かべて,文字にしようと試みようとしたところ,起きたばかりで眼鏡を外したままのサルが原稿用紙の二マスに跨いで,人がモノマネできそうな体操を始めてしまい,その全てが終わるまで,私は着想と一緒に夢を夢を見ることについて,言葉にしない議論を尽くさなければならない羽目に陥った。着想は実に現実的な思考を好むために,脳科学的見地から夢について主張を始めたのに対して,ペン先を宙に留まらせたままの私は,夢を見ることについての大切さを個人的な経験と感情に任せて語っていった。おかげで議論は一向に深まることなく,着想との間に隔たりが進んでいき,ついにはペン先で膨らんでいたインクが地面に向かって欠伸をするように零れ落ちたところで,私も着想も当初の目的を思い出し,原稿用紙に目を移した。サルは既にそこを去ったようで,マス目を無視した格好で,その足取りを用紙の外まで伸ばしていた。その足型のいくつかを上手いこと利用して,漢字の一部に利用した私は,文章に作法に従い,ゆっくりと,かつ着実に,続きを書いて,書き進めていった。机上の時計がカチコチ喋るのを聞き,マグカップに注いだはずの水が,一口たりとも飲んでいないにも関わらず,しっかりと減っていく不思議をしっかりと味わいながら,最後の一枚の,マス目の終わりを迎える前に全てを書き終えた。私がペンを置き,消しゴムを鼻で押して転がし遊ぶ,一頭の象の子供がペンに興味を示したのを目に止めて,私はマグカップの取っ手に指をかけ,咲いた花の邪魔にならないように縁を傾け残りの水を口にした。いい香りがするサービス付きの一杯に感謝をして,カップの内側に新たな水を注ぎ,同じ位置に,底から置いた。木と陶器による短い挨拶が心地いい,と思ったところで着想が腕を組み,疑問を呈し,修正を求め,反抗心と冒険心の狭間で想像上の表現をなんとなしに読み進めると,仔象が押し退けたペン先がコロコロと現れる。楽しそうに声を上げる象の鳴き声がそれに重なり,一休みする私はペンを取って,書こうとする。と,同時にメールと手紙が競争するみたいに届く。そのどれにも目を通し,手紙の最後の余白部分に,落書きみたいな返事を書いたら,ふとした疑問が私にも浮かび,原稿用紙の最初の一行にあるべきタイトルの代わりに,それを書いて,折って,送った。
後日,ヤギさんがそれに目を通して,「メェー」と鳴いてくれた。喫茶店にあるようなベルがカランコロンと祝ってくれた。
詩でも書いている気分になれた。

一筆

一筆

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-21

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