ノビーとアキュとミスターX
クリエイティブ・ピープル・ストーリーに発表した作品を、相当思い切って、分かりやすく手直ししたものです。
荒唐無稽な癒し系冒険物語。長編ですがお暇な方は時間潰しにおつきあいください……
プロローグ
*
着信専用電話機がコール音を響かせていることに、捨文王は気がついた。電話機に取り付けられた小型液晶ディスプレー上部には小さなパイロットランプが三つ並びに埋め込まれていて、そのうちひとつが真紅の光を点滅させている。ディスプレーには『Emergency Level‐1(緊急度レベル1)』の文字が繰り返し流れている。ランプの点滅数が少ないほど緊急性は低いのだが、どちらにしても内閣府と直接結ばれたホットライン専用電話なのだ。発信者は内閣総理大臣である。すぐ応答しなければならないはずた。
しかし捨文王は液晶デイスプレーをちらと一瞥しただけで、再び自分の世界に入り込んだ。「レベル‐1か。また世間話だべ。それどころじゃねえ、明日は日曜日だ……」
内閣総理大臣、恋占淳一郎(こいじめじゅんいちろう)からの私用電話が増えた。ホットラインを使ってである。用も無いのに……
このところ目に見えて支持率が低下している恋占淳一郎だったが、歴とした内閣総理大臣であることに間違いない。そうそう心のままを曝け出すこともできない立場にある。だから総理にとって腹蔵なく愚痴までこぼせる相手は、グランパと慕う捨文王を置いて他になかった。ホットラインを使えば極秘事項指示ということで、誰からも干渉されずに話をすることもできた。だから恋占総理大臣は頻繁にこの手を使った。やがてホットラインの緊急度レベル‐1は「狼が来た」という童話本と同レベルになってしまった。
コール音はやがて止まった。内閣調査室長である捨文王は少し後ろめたさを感じた。五分ほど経っても異常はなく、捨文王はやはり重要な連絡ではなかったようだと口元に笑みを浮かべた。
「悪いが総理、今日は長話ができんのよ。なにしろ明日はダービーがあるんでのう」
捨文王が執務用デスクの引き出しを開け、中から競馬専門紙を一部取り出したまさにその瞬間、再びホットラインの緊急電話がけたたましい着信音を響かせた。総てのランプが点滅している。捨文王は飛び上がらんばかりに驚いた。
執務室のドアが乱暴に開かれた。
黒のワイシャツに白のスーツを着こなし、純白のエナメル靴を履いた屈強そうな大男が飛び込んできた。首には目にも鮮やかなオレンジ色の幅広のネクタイが揺れている。
男はレベル‐3の点滅を見せる電話機を指差した、
「星、みっつですぅ!」
レベル‐3を知らせに飛び込んできたのは伊達針之介だった。捨文王が育て上げたスナイパーである。針之介は優秀な狙撃手であると同時に、もし国に存亡の危機が降りかかろうとするときには、身を投げ打ってでも事に当たるべき責務を負う内閣調査室諜報員、すなわちエージェントだった。
捨文王が大きく頷いてその勢いを制すと、針之介はいかつい顔に安堵の表情を浮かべ何も云わずに部屋から出て行った。
捨文王はレベル‐3を表示し続ける受話器をとった。
「はい。捨文王です」
落ち着き払って捨文王は名乗った。
「グランパですか? 恋占です。困ったことが起こりました」
内閣総理大臣の声は少し上ずっている。
「何があったのです? 総理」
レベル‐1からレベル‐3に緊急度を上げてまで続けて連絡してきたこと。そして口調から察せられる総理大臣の狼狽ぶりで、何か尋常ではない事が起こったのを捨文王は感じた。
「玉野幸次郎をご存知ですね?」
「わが自由自在党の代議士で、予算委員長を務めるあの玉野幸次郎ですか?」
「そうです。通称タマコー……」
「聞く所によりますと、なかなか豪快な人物らしいですな。彼が何か?」
「それが……」
恋占淳一郎内閣総理大臣は少しの間沈黙した。そして次に総理の口からこぼれ出たのは捨文王さえをも驚かせる言葉だったのである。
「失踪したのです。しかも党の金を持ち出して……」
恋占淳一郎はそれだけ告げ、沈黙した。
短期長期に関わらず国が何かを実施するとき、必ずついて回るのが予算である。だから
予算委員会は国会の中で最も注目される機構のひとつである。その委員長である玉野幸次郎が失踪した。しかも党費を持ち出して……
「金額は?」捨文王は総理大臣に尋ねた」
「250万円」
総理大臣は消え入りそうな声を聞かせた。
だが総理の口から出た金額を聞いて捨文王はほっとした。
「玉野幸次郎はすぐ連れ戻します。その程度の金額なら握りつぶしてください。いいですか、総理。何もおきてはいない。そういうことですよ」捨文王は念を押すように云った。
党費はあくまでも自由自在党の金であり国の予算とは関係はない。しかし玉野が横領したということなら大不祥事に違いないのだ。
捨文王には恋占総理の苦悩が目に見えた……
*
東京都府中市に広大な敷地を占める東京競馬場。その入り口近辺に軒を並べるバラック作りのような大衆酒場は、不景気の世相といわれる割に結構な賑わいを見せていた。最終レースが終了した後の、つかの間の賑わいだった。焼きイカやおでんを肴に安酒を煽る客たちは、そのほとんどが負け組みである。ずたずたに切り裂かれた互いの傷を舐めあうその姿は、競馬開催日の風物詩とさえいえるものだった。
開け放した粗末な引き戸の外、オレンジ色に染まる街路樹の並ぶ石畳をほとんどシルエットとなって流れる人波が見える。安酒を煽るためのささやかな小銭まで巻き上げられ、ひたすら駅へと急ぐ懲りない面々の隊列である。この道路がオケラ街道と呼ばれるのはよく知られている。
穂刈末人は、二杯目のコップ酒に口をつけた。
「だいたいね」穂刈は涎を拭うようにして、向かい側のパイプ椅子に座っておでんをほおばる、見ず知らずの中年男に話しかけた。
「どこの世界に、あんなことが許されるんだよ。あと50メートル。たった50メートルじゃないか。そこで、なんで転ばなきゃならないんだよぉ」
興奮と酒で多少呂律が回らなくなっている。
「ああ、あんたもかい」
話かけられた男が相槌を打った。
「5レースだろ」
「そうそう。障害。だけど、転んだ場所にハードルはなかったぜ」
回顧するように穂刈の視線が宙を泳ぐ。
「解る。気持ちは、よーくわかる」
「兄さんもかい?」
「そうさ。ありゃねぇよなぁ」
「三千円も買ってたんだぜ。一点で。よーし、とった。そう思った瞬間、ぼてっ。これだもんなー」
「へえ。三千円もかい。いい読みだったのにな、そいつは」
「な。そう思うだろ。まったく最近はそんなのばっかりさ。7レースだってそうさ」
「1―3。5万5千円ついたやつだ」
「あのレースだって1を頭にしてたんだぜ。人気薄の1をさ。何であそこから3が突っ込んでこなきゃならないんだよ。こないだろ。普通」
「まったくだなそいつは」
「俺はネ」
穂刈はコップ酒をぐいと煽ると、声をひそめて男の方に顔を寄せた。
「俺は思うんだがね、競馬の神様みたいな存在ってホントにいるんじゃないのかね」
聞き役に回っていた男は、あんぐりと口を開けた。
「今、何とおっしゃいました?」
「だってそうじゃないか。ついてる時はいい加減に馬券買っても嘘みたいに当たるし、コケ始めると一転して、裏目裏目になってくるだろうさ」
「ああ。確かに」
「それとな、こういうこともよくあるじゃないか?」
穂刈はますます声をひそめる。
「このレースは1―5一点だと決めて馬券を買いに行く。いざ買おうとしたその瞬間、『5じゃなくて3だよ』って誰かに囁かれたような感じがする。3なんかまったくの無印だ。無視して、初心貫徹で1―5一点にしておくと本当に3が来たりする」
「気にして一応抑えようかって買うと、どこにも来やしない」
興味が湧いたのか、共感したのか、おでんの男が穂刈の後を続けた。
「だろ? おおい酒。おぬしも呑め。酒、2個」
「おごり?」
「ダッチ。だから、俺はこう思うんだ。あれってのは神様からの啓示で、それをどう受け止めるかで幸せが左右されてるんだって。つまり、シックスセンスの問題なんだ」
「シックスセンス?」
「第六感ってやつさ」
「ああなるほど」
穂刈末人はコップ酒を一気に煽ると「しかし、この第六感てやつが間違いの元になるんだよなぁ」穂刈は手の平で額をぽんとたたいた。
「どう云うこと?」
「そりゃそうだろうさ、第六感ってのは普通なら『ひらめき』っていうことだ。俺は馬券買う時には頭使うぜ。ひらめきなんかじゃ動きたくない。でも……ひらめきは必ずある。あるんだよねぇ……。いったいどこから来るんだい? 見えない誰かが話しかけているんじゃないかなあ? でも聞こえない。だから、気のせいかななんて思っちまう。はっきり聞こえたら信じられるのに……いや、やっぱり弄ばれてるってことかな、みんな。俺はきっと競馬の神様とか幸運の女神ってやつは実在すると思う。そいつらはみんな、ヤなやつらなんだよ……」
穂刈末人の独演会は終った。その演説の終了とともに穂刈の全身に酔いが一気に襲いかかった。どうやってマンションまで辿り着いたのか、穂刈にはまったく記憶がない。とにかく穂刈は翌朝九時を少し回ったころ自宅のベッドで、何こともなかったようにごく普通の朝を迎えたのだった。
*
部長室を出たノビー・オーダは憤慨していた。
精悍な細面が引きつっている。それほど気の短いほうではない。しかし今度ばかりはいかに温厚な人間だって激昂するに違いない。はらわたが煮えくり返るとはこう云うことなのだろう。
完成まであと一歩という所まで来て、今更プロジェクトチームごと他の機関に管轄替えとはいったい何なのだ。問い詰めても、企画開発部長はバカの一つ覚えのように「上からの命令」を繰り返すばかりだった。
部長の上といえば総務部と理事会だけのはずだ。更に上というなら、所轄省庁である農事産業省くらいしかない。どこから発信された通達かは知らないが、それなりの理由は説明されているはずなのだ。ジー・ワン部長がもし噂どおりの『事なかれ主義』だったとしても、理由も聞かず「はいわかりました」と了解するはずもない。
聞き及んでいるくせにわれわれ主任研究員クラスには明かさないと云うことは、明かす必要もない。「黙って従っていればそれでいいのだ」要するにそういうことなのだろうか。
「ばかにしやがって……」
ノビーが思わずつぶやいたとき目の前で扉が左右に開いた。
ノビー・オーダはエレベーターを出た。ノビー・オーダの目の前に長い廊下がのび、その両側に主任研究員に割り当てられた個室のドアが並んでいる。どの部屋も防音対策が施されているため、外の音が室内に入らない替わりに、部屋の音も外に洩れない。ノビー・オーダが打ちつける乾いた靴音だけが静寂の中に響き渡った。
個人研究室は長い廊下の突き当たりを左に折れて三室目である。ドアの中央にF12―207と刻印された厚さ一センチほどの金属製プレートがとり付けられている。単なるルームナンバーのプレートならば少し厚く思われるが本人識別装置が組み込まれているためである。ノビー・オーダがプレートの右側に開いたスリットにⅠDカードをスライドさせると『音声認識をいたします』とコンピューターの声が流れた。
「ノビー・オーダ」
ゆっくりと声に出して識別装置のマイクロフォンに向かって声をかける。
『お帰りなさい。ノビー・オーダ』
人工的に造られた女性の声がして、ドアが機械音を小さく聞かせながら開いた。
第1章 神との遭遇
1
東京競馬場、C指定席のシートはお世辞にも座り心地がよいとは言えなかった。B席A席S席とランクが上がるにつれ、シートもそれなりに快適なものになるのだろうが、そういう席から順に埋まってしまう。朝早くから列ができるほどの人気なので、瞬く間に売り切れてしまう。指定席料金だってそう安くはないはずなのに、贅沢な世の中になったものだ。穂刈末人は行列を見るたびにそう思った。
穂刈末人にしてもつい数年前までは一般席での立ち見専門だったのだが、四十歳を過ぎるとさすがに辛くなってきた。
昨日はつい深酒をして寝過ごしてしまった穂刈だったが、競馬場は自転車で五分とかからない至近距離である。九時二十分にはなんとか到着。久々の立ち見かとほとんど諦めていた指定席も運良くわずかながら残っており、C席ではあったが購入することができた。一度指定席の快適さを体験すると、立ち見など考えられなくなってしまう。シートは多少堅くてもまあゴール前だし、専用馬券売り場や指定席専用トイレもある。立ち見席に比べれば別天地には違いない。
硬いシートに腰掛け、穂刈は煙草に火を点けた。眼下には、これから熱戦が繰り広げられるであろう緑のターフ。その向こうには中央フリーウエイと、日本最大の住宅団地といわれる多摩ニュータウンを抱いた多摩丘陵が陽炎のように浮かんでいる。
穂刈末人は自他ともに認める競馬ファンだった。同時にごく普通のサラリーマンでもある。そうそう本来なら連日の競馬場通いなどできる身分ではない。
この日は妻の遠い親戚筋で法事があった。ちょうどよい機会だから二三日のんびりして来るといって、妻の恵子はひとり息子の陽介を連れて、北海道の実家に戻っていた。だから穂刈にとってこの土・日は、まさに極楽浄土となるはずだった。
第1レースのスタートは午前十時ちょうどである。
未勝利の馬ばかりが出走するいわば前座のようなプログラムで、あまり力の入るレースではない。それでも穂刈はじっくりとパドック(下見所)で出走各馬の観察を終えた。競馬場にやってくると、どうにも馬券を買わずに居られなくなる。どんな競馬の達人でも全レースの馬券を買うならば、トータルでプラスする確立はきわめてゼロに近い。自信のないレースには手を出さず、検討し尽くしたレースに限って馬券を買って楽しむ。これが競馬を楽しむ本来の姿勢なのだ。そんなことは穂刈末人も十分に承知していた。しかし資料として購入した競馬新聞には全レースの予想が掲載されているし、窓口ではどのレースも差別なく馬券の購入ができる。このレースは買うまいと思えば思うほど誘惑も強くなって、やがて馬券購入の口実として『自信がある』という妄想にとらわれる。馬券は百円から買えるわけだから、ほんの少しなら影響ないだろう。
「千円くらいなら……」
この瞬間、負けが決定するのである。
「昨日はちょっと調子にのりすぎたかな」
煙草をくゆらせながら、穂刈は反省した。久しぶりの土曜競馬に興奮し、気がつくと財布の中身が寂しくなってしまっていた。このままでは極楽どころか生殺しの地獄にもなりかねない。何とか今日は、昨日の負け分を取り戻したい。と穂刈は思った。確かに数レースで中穴馬券を的中できれば、一気に取り戻すことが可能な程度の損失ではあった。しかしそういう思いは、えてして勝負の大敵である気負いとなって冷静な思考を狂わせる。数万円という単位であっても、それを取り戻そうと考える事は、初めから資金面でハンディキャップを負うことに他ならない。まして第1レースから勢い込んで勝負しようと考えること自体、既に冷静さを失っている証なのだ。
備え付けの灰皿にたばこを揉み消すと、穂刈はウェストバッグから投票用のマークシートとボールペンを取り出した。競馬新聞を広げ、確認するように目を通す。
「5番だろうな、ここはやっぱり」
予想紙の出走馬表に二重丸が多くついた5番枠の馬『カプリコン』のデータに目を通す。
「パドック回ってる感じも良かったし、脚さばきもしっかりしていた。前走三着だったけれど、出遅れの不利があった。どう考えても格がちがうんだろうな。配当金は人気馬だけに少ないけれども、まあ第1レースだし仕方ないだろう」
しっかり当てようと考えれば考えるほど、素人予想というものはこんなふうにどんどん横道にそれていく。
冷静に考えると未勝利クラスに格差なんてものがあろうはずがないのだ。
まして、第1レースだから仕方ないとはどういうことだ? まったく意味不明なのである。競馬新聞に付されたいくつもの印しに翻弄されていることに気付かず、逆に自分の出した答えをそれが裏付けているかのような錯覚に陥ってしまうのだ。
的中すれば自分の予想はこんなに素晴らしいとエスカレートし、次のレースで必ずといっていいほど墓穴を掘る。外れた時ははずれた時で、「この新聞が駄目なんだ」というように格好に責任転嫁の対象にできる。どちらにしても何の利もないわけだ。
この日の穂刈はまさにその泥沼に嵌まり込みそうになっていた。
しかし、それは突然やってきた。5番の馬カプリコンから2番、3番へと流したマークシートを発券機にまさに挿入しようとした瞬間だった。
「5番は、消しだぞ」
何者かが低音の効いたスピーカーを通したような、少しくぐもった声で穂刈に語りかけたのである。それは穂刈の耳からではなく、高性能のヘッドフォーンを通して頭の中に直接流れ込んでくるような奇妙な声だった。
穂刈は咄嗟に今まさに挿入口に吸い込まれようとしていたマークシートを引き抜いた。
「え?なに」
慌てて周囲を見渡した。しかし穂刈の周囲には誰もいない。指定席客専用の馬券売り場は、自由席のブースのように、締切り時間を気にしながら客が長い列を作っているわけでもなく、もし自分に話しかけた人間が周囲にいたとすればすぐに気がつくはずだった。
いぶかしげに周囲を見わたす。横一列に並んだ発券機に、第1レースの馬券を買い求めようとする何人かの客たちがいるだけである。
「呑み過ぎたかな、やっぱり」
気のせいかと思い直し、再度マークシートを挿入口にもっていく。
「だからぁ、5番なんか来ないって言ってるんだよ」
また、はっきりと声が聞こえた。
穂刈は思わず挿入口を覗き込んだ。そんな所にだれがいるわけもない。マークシートを天井の照明に透かしてみる。何の意味もない。首をかしげながら三度目。
「どうして、そんな無駄な馬券を買おうとする?」
「うわっ」
声にならない声を上げると、穂刈は二三歩あとずさった。近くの発券機で馬券を購入していた数人が、不審者を見るような視線を穂刈に向けている。穂刈は情けない愛想笑いを浮かべ、何事もないという風に手を振ってみせる。しかし行動とは裏腹に穂刈の脳味噌は完全にパニック状態に陥っていた。
「何だ。何だ。何だ」と頭の中の全細胞があちこちでショートしながら答を探している。しかし当然のことながら答えが見つかるはずもなかった。冷静を装う風に一度大きく深呼吸をすると穂刈は席に戻った。馬券購入のタイムリミットまで、まだ多少の余裕があったので態勢を立て直そうということだった。
さてどうしようか。穂刈はマークシートと競馬新聞に交互に視線を走らせる。しかしそれは行動だけの話で、焦点はどこにも合うことなくふわふわと漂っている。出てくるのは溜息ばかりだ。実体の見えない何者かからあんなにも明瞭な声で話しかけられたのである。もともと気の強いほうではない穂刈末人の心が、それなりにダメージを受けたのも当然のことだった。もしこのまま放置しておけば、一日のレースがすべて終了しても、穂刈のパニック状態は延々と続いていくのではないかとさえ危惧された。
「そんなこといったって、だって、こんなに二重丸ついてるしぃ」
穂刈がそう心の中でつぶやいた途端、またしても声が聞こえた。
「印がどうのこうのじゃないだろうが!」
「うぎゃ」というような奇声を発し、穂刈はその場に尻餅をついた。
二列ほど後ろのシートに座っていた男が驚いてスタンドの中に走った。警備員でも呼んでくるつもりだろう。
「おいおい、どうしたんだ。俺は何もしちゃいないぜ」
腰を抜かした穂刈末人にはお構いなしで、さらに声は続いた。
「なにも、おまえさんをとって食おうというわけじゃないんだから、そう驚くなよ」
「ナンマンダブ。ナンマンダブ」
穂刈は両手を合わせ、拝み始めた。
「おい。ナンマンダブはないだろうが、ナンマンダブは。……むしろ神道系だ」
声の主はそういって笑った。
「うわーっ。いやだってばあ。何なんだよぉ」
心の中でそう叫びながら穂刈はぎゅっと目をつぶって、あっちへ行けという風に両腕を振り回して駄々っ子のように泣きじゃくった。
「やれやれ、困ったな」
声は穂刈のリアクションの強さに困惑の色を帯び始める。そしてついに声の主がキレた。
「大のおとながいつまで泣いている気だ。もうすぐ締め切っちまうぞ。馬券、買うのか買わないのか早く決めろ」
「か、買います」
穂刈は瞬時に我に返った。さすが競馬狂といわれるだけあり、『馬券』とか締め切りという言葉は条件反射のキーワードになっているようだった。
「よし、それならば8番―9番一点で勝負してこい」
「8番ー9番?」一応予想紙に目をやる。8番の馬も9番も△印がひとつふたつ、ほんの申し訳程度につけられているだけだった。
「そんな。だって無印」
「印が有ろうがなかろうが、そんなこと無関係だ。俺は競馬の神だ。信じろ」
「はい」
「それから、これから俺と話をする時には、声を出すな。頭で考えただけで俺には分かる。他の人間が付近にいる時、俺に声を出して話し掛けると馬鹿かと思われるぞ。俺の姿は誰にも見えないし、声はおまえにしか聞こえない」
見えない声の主に穂刈が涙目で頷いたて見せたとき、スタンドの中に走り込んでいった男が、警備員を連れて戻ってきた。
「どうかしました?」
濃い灰色の制服を着た警備員は穂刈の近くまできて、心配そうにその顔をのぞき込んだ。
「ああ、大丈夫です。ときどき発作が。でももう平気ですから」
バツが悪そうに俯いて穂刈が言うと、警備員はほっとした笑顔を見せて戻っていった。
「さあ、早く買ってこいよ。もうじき締め切りだ。8番―9番だぞ」
声は優しく促した。
穂刈末人はべそをかきながら席を立った。
2
ノビー・オーダは主任研究員それぞれに割り当てられた個人研究室に入った。
室内は研究室と言うよりリビングルームと表現する方が当たっているような快適な空間だった。仕事が深夜におよぶことも珍しくはなかったので、いつでも寝泊まりできるように、ソファベッドや小型の冷蔵庫、テレビなどが財団の備品として配置されている。
ノビー・オーダはプロジェクトチームの共同研究室に内線電話で少し具合が悪いから自室で休んでいると伝えると、作業着を脱いでカジュアルウェアに着替えた。
冷蔵庫から冷えたビールを取り出してグラスに注いだ。ソファに深く腰掛け、ひと息に喉に流し込むといくらか気持ちが落ち着くようだった。リモコンを操作してテレビをつけると液晶式の画面に早朝から続いているデモ行進の様子が鮮明に映し出された。デモは秩序を保って整然と流れており、暴動を警戒して出動した警備隊員たちもなんとなく退屈そうに見守っているだけである。
「穏やかなデモ行進ですねぇ」
ニュースキャスターが少し不満そうにそう言って、横に腰掛けた男性に顔を向けた。何も騒動が起こらなければそれに越したことはないのだが、報道関係としてはまったくインパクトがないのも困りものだ。こんなに整然とした行進では、視聴率も稼げないじゃないか。ニュースキャスターはそう言いたいのをあからさまに感じさせて、横に腰掛けた男にコメントを求めた。
「そうですね。しかし機運は確実に高まってきているようですから、警備する方は気が抜けません」
キャスターから話を振られた男は不機嫌そうな声で答えた。表情はテレビ用の作り笑いを浮かべでいるが、目には狡賢い光が宿っている。画面の下に『デモに詳しい、政治局治安部長、タカマ・ガハラ』と文字が重なっている。
「タカマ・ガハラさんは最近だんだん強くなってきたこのような政治解放運動と言いますか、民主化運動と言いますか、そういうものについて、どうお考えですか?」
時間を繋ぐようにメインキャスターが質問をした。
「創造主族と転生族が力を合わせてより住みやすい世界を作っていく。いいことですね。反対する人などひとりだっておりません。最近は転生族の声もずいぶん取り上げられるようになってきていますね」
「しかしまだまだ不十分ということで、このような活動に結びつく。そんな声も聞こえますが?」
「不十分だからというのは転生族の皆さんから見たときの捕らえ方でしょう」
タカマ・ガハラは穏やかに言ったが、その視線は針のような鋭さでキャスターに突き刺さっていた。
キャスターが怯んだのを見てタカマ・ガハラは「政府はそうは思っていません。いいですか。この世界にも“向こうの世界”にも秩序というものは重要です。何でも開放すればよいということにはなりません。長い歴史的背景もあるわけですしね。創造主族には創造主族。転生族には転生族の、それぞれに課せられた役割というものもあるのです。それを蔑ろにしてまで突き進むような民主化運動ならば私は賛成できません。その辺りを良く弁えた上で良い社会を築いて行く努力を共にして行きたいものです。そういう意味で議決の最終決定権は、今はまだ創造主族が持っているべきだ。そう私は申し上げているのです」
「でも、ご覧の通り政治解放の声はますます膨らんでくるのではないですか」
「一時的にはそうかも知れません。でも大丈夫でしょう。結局彼らだって気がつくはずですよ。そのほうが良いということにね」
タカマ・ガハラ部長は含みのある言い方をした。
「なにいってやがる」何もかも腹の立つことだらけだ。ノビー・オーダは点けたばかりのテレビを消した。
治安部長といえば“向こう側”の体制に当てはめると、さしずめ警視総監といったところだろう。騒ぎを起こしたら一気に運動を潰して見せるぞ。ノビーはそういう響きをタカマ・ガハラの言葉の中に感じとった。政治の上でも文化の面でも、二つの種族が完全に対等の権利を持つことには賛成だ。そうならなくて真の民主化などできるはずもない。だが創造主族の上層部はどうだろう。これまで長い年月を費やし築き上げた社会機構の中に、かつては彼らに従うだけの存在だった転生族が介入しようとしているのだ。抵抗がないといえば嘘になるだろう。
タカマ・ガハラ治安部長は創造主族である。つまり彼のような生粋の創造主のみしか中央の要職に就くことができない体制である限り、基本的には何も変わりはしない。ノビー・オーダはいつもそう思っていた。
ジー・ワンから通知を受けたプロジェクトチームの管轄替えの件にしても同じことだ。一方的な通達に対して最初は抵抗する姿勢を見せても、結局は妥協してしまう。何も良くならないではなく、何も良くしようとしていないということではないか。
クーデターでも起こしてやろうという強硬な奴は誰もいないのか……
そこまでエスカレートして考えたとき、ノビー・オーダの頭の中を何かが横切った。
ノビーは立ち上がり、居間の奥に作られた実験室に飛び込んだ。
大きな実験台が部屋の中央に配置され、その上には歯車やスプリング、カラフルなコード類、そして幾何学的な形をした金属類に混じって、ピンクや白に輝くクリスタル状の物体などが所狭しと置かれている。
ノビーは実験台を回り込んで壁際に置かれたスチール製キャビネットの前に腰を屈め、暗証キーを操作して扉を開いた。中には、通常の物よりやや厚めの黒いアタッシュケースが置かれている。ケースにはノビーが開発したVTSのミニチュアが収納されているのだった。それはミニチュアとはいえ、実物とまったく同じ理論設計で制作したもので、対象区域を小規模に設定さえすれば十分な効果を示すはずだった。
もともとはプレゼンテーションの時にでも使おうかと、ノビーが勝手に作ったもので、どこにも登録されていない装置だった。
ノビーはミニチュアの点検を簡単に済ませると、実験台の引き出しから便箋を取り出し『一身上の都合により、本日で退職します』とペン書きして封筒に入れた。リビングに戻り退職届をテーブルの上に置く。体調がよくならないので早退するとチームに内線を入れると、ノビーはVTSの入ったアタッシュケースを持って部屋を出た。
地下2階の研究職員専用駐車場で自家用車に乗り込むと、ノビーはこれでいいのだと自分に言い聞かせるように大きく肯いた。
「きょうはお早いんですね」
警備員詰所から顔見知りの警備員が声をかけてきた。
「暫く休暇をもらったんだよ」
ノビーは車を停車させて微笑んでみせる。
「そりゃいいですね。最近ずっとお忙しいようでしたから」
ノビーは、車を財団の外へと発進させた。
財団からノビーの自宅までは距離にしておよそ100キロ。車を飛ばして約一時間半ほどの静かな海岸にあった。しかしノビーが財団職員となってから自宅で過ごした時間はほんのわずかだった。ほとんど研究室で寝起きし、研究開発に時間を費やしてきた。研究室が自宅で海辺の家はまるで別荘のような感じだった。だから車を進めるにつれて、財団の正門がバックミラーの中で小さくなっていくのを見ると、ノビーは胸の中に妙に感傷的な気持ちが膨らむのを抑えることができなかった。ノビー・オーダはそんな自分の弱さを払拭するように頭を振った。自分は財団に裏切られたのだ。
自分はグッドラック財団にいったい何年間勤務したのだろうか? 環境についても、待遇についても、これまで何ひとつ不満に思ったことはない。だから仕事にも熱が入り、誠心誠意取り組んできた。居心地の良い職場であったと今更ながら思う。それだけに裏切り行為のような今日の通達をノビーは許すことができなかった。財団を出て車を走らせるうち、辞職しようという考えは徐々に決意へと変わっていった。
ノビーが財団を辞めようが辞めまいが、VTSはあと半年もすればプロジェクトチームによって完成するだろう。自分が知らないどこかの機構の中においてである。そして思惑とはまったく異なる目的に使用されようとしているのだ。
ノビー・オーダがVTSを設計した動機は単純だった。向こう側世界で盛んに行われる競馬という遊びを盛り上げること。それだけなのだ。古くから向こうの世界に住む人々に対する各種の伝達は行われていた。意識伝送装置を用いた形で実行され、受け手にするとそれはふと思いついたひらめきのようなものになる。だからうまく利用できるか否かは受け手にかかっていた。もともと不安定な人間たちの心に、追い討ちをかけるような従来の方式は決してよいものではない。ノビー・オーダはそう考えており、そのポリシーがVTSを開発させたのである。VTSは簡単に言えば向こう側世界に住む人間と会話のできる装置ということである。この方法ならば受け手のほうに選択の余地はない。素直な形で喜びを与えることができるのだ。どちらにしてもそれだけの単純な開発目的だった。
だから今日の管轄換えの話にしても、その目的から説明があって、ああなるほどと頷けるものであったならばノビーもこのような行動に出ることなどなかったはずだった。しかしひとことの説明もなくということなら話は別だ。そんな勝手なことを許すわけにはいかない。理由は技術者のプライドである。
ノビーはアクセルを踏む足に力を入れた。どこまでも高く澄んだ空の下を走り抜け、やがて僅かに潮の香が漂い始めると、ノビーは少し車の速度をゆるめた。すでにノビーの所有地に入っている。本宅まではあと十分ほど走らなければならなかったが、その少し手前にお気に入りのロッジがある。素朴な造りのログハウスで、リビングとベッドルームにバスそしてキッチンだけのプライベートコテージである。研究室の仲間達を招待してパーティーをした時など、酔いつぶれた仲間たちに母屋を開放し、自分はこのコテージに引きこもった。テラスに置いたロッキングチェアにゆったりと腰掛け、月明かりの揺れる海を眺める。ノビーはそんな時間を最高に贅沢なことのように感じたものだった。
コテージの玄関前に車を止めノビーはドアを開けた。室内に入ると、ここ数ヶ月入っていなかったので、空気が少し淀んでいた。カーテンとベランダのガラス戸を大きく開いた。心地よい潮風が流れ込んだ。ノビーはいつものようにベランダ側のロッキングチェアに腰掛けた。
「コントローラ」ノビーが云うと足元の床から、直径30センチ程度の円筒形をした柱がせり上がってきた。安楽椅子に腰掛けたノビーの腰の位置までせり上がるとそれは自動的に停止し、上面の蓋が滑るよう開いた。いくつかのスイッチ類とキーボードを配置したコントロールパネが現れる。
メインスイッチを入れると居間のコーナーに置いたカラーディスプレーが、金属的な音を立てて起動する。
『パスワードを入力してください』ディスプレーに文字が表示された。
パスワードを入力すると、『現在のモニター数・3。表示しますか』と切り替わる。
ノビーは“Yes”を選択して、画面をダイジェストモードで確認しながら、財団から持ち帰った小型VTSをコントローラに接続した。
3
「空耳だ。空耳に違いない。そもそも競馬の神様なんてものがこの世にいるわけがない」
それは昨日酔って話した自分の意見とは正反対の叫びだった。穂刈末人は自称神様に指示された、8番・9番の馬連馬券を購入しながらも、まだ自分の身の上に起こった怪現象を理解できずにいた。きっと席に戻るといつもと何も変わらぬ状態で、あの奇妙な声が再度聞こえてくる事も無い。なぜならあれは幻聴だったのだからな。穂刈は必死になってそう思いこもうとしていた。いたって平凡な思考回路しか持ち合わせない穂刈にとって、幻聴と言う聞き覚えのある逃げ道しか選択肢はないのだった。
きっと昨夜の飲みすぎが尾を引いて、あろうはずもない声が囁きかけたように錯覚させた。これが本当の所だろう。だから第1レースは結局穂刈が最初に予想した5番の大本命馬が勝つ。そういう筋書きなのだ。
穂刈はそう結論を出した。ここで予想を覆して最初に決めた馬券をやめたりすると後悔することになる。これまでにも幾度となく経験があるだろう。本命馬券など買いたくはない。そういう邪心が幻聴となって現れたに違いないのだ。ただそれだけのことさ。勝手にそう決めてしまうと、気持ちがいくらか楽になった。
穂刈は最初に決めた5番の馬を中心にした馬券を買い求め、その他に一応神様が教えてくれた8番・9番も念のために購入した。そして何故か罪悪感を覚え、本命馬券の方をこっそりと胸ポケットに隠し、あたかも8番・9番だけを購入してきたように装って席に戻った。
目の前のオーロラビジョンにはスタートゲートとそのすぐ後ろに集合して合図を待つ出走馬たちが映し出されている。
シートに腰掛けると穂刈は自分の出した結論を確かめる目的で、競馬の神様に声をかけてみる事にした。
「あのぉ、買ってきましたけど」
口をほとんど動かさずにそういって、穂刈末人は虚空に視線を走らせた。
さっき自分に語りかけた得体の知れないものは、本当にいるのだろうか。それともやはり空耳だったのだろうか。この呼びかけはそれを確かめてみるためではなく、むしろ自分自身のはじき出した結論が正しいことを確認する目的と言えた。
自分の買った馬券をポケットに隠したのが多少悔まれたが、どちらにしても悔む対象がいるはずもないのだから、何の問題もない。呼びかけたとしても、問いかけに対する応答は来ぬはずだった。
しかし……
「おぉ。ちゃんとここにいるぞ」
「フヘェー。いたぁ」
穂刈の結論は第一ラウンドで見事に崩壊した。穂刈は、あらためて腰を抜かした。
「俺に話しかける時は声を出すなとは云ったが、腹話術を使えと云ったわけじゃない。念じるだけでいいんだよ。念じるだけで」
「初体験なもので……」穂刈はか細い声を出した。
「早く慣れろ」
「慣れろって、あなた。ずっといるので? 私のところに……」
「ありがたく思え」
「でも……」
「いいから黙って、レースの結果を見てから判断しろよ」
「フヘェー」
穂刈がひれ伏したところで、第1レースの出走を告げるファンファーレが鳴り響いた。
穂刈末人はソファにもたれて煙草をくゆらせていた。つかの間の独身貴族生活もあとわずか。明日の昼には郷里から妻子がもどってくる。こんな時は何故かまたいつもの生活に戻るのだという一抹の寂しさが漂うものである。しかし普通の生活に戻るにしろそうではないにしろ、この日の穂刈は妙に興奮していた。運動会を明日に控えた子供のように、わくわくと弾むような興奮である。女房子供よ早く帰ってこい。この心地よい興奮を一刻も早く家族と分かち合いたい。
安月給でささやかな生活を営んでいるごく普通の一サラリーマンにとって、その心にゆとりを持たせてくれるものは、寂しいようだがやはり金なのだろうか。穂刈がくつろいでいる十畳ほどしかない居間の中で、テーブルの上だけが燦然と輝いているようだった。
めったに見ることもない大量の一万円札が、テーブルの上に無造作に置かれている。
現金はおよそ百五十万円ほどあった。すべてがこの日一日の競馬による成果である。その日のつきによって十万円から二十万円程度のプラスは幾度か出したことはある。しかし、百万を越したことは、長い競馬歴の中でも初めてのことだった。
それにしても奇妙な一日だった、と穂刈末人は思った。この科学万能の時代に、今日自分が体験したようなことが本当にあるのだろうか。あって良いのだろうか。そう思わざるを得なかった。しかし何といっても穂刈の目の前に積まれた現金がそれが現実であることを立証している。だがどうやって獲得したのかを誰かに訊ねられたとき、その質問に正直に答えたとしても一笑に付されるだけだろう。これもまた火を見るより明らかだった。
「俺は今、おまえに一生遊んで暮らせるだけの稼ぎをさせてやろうと思っている。ただ、俺の存在についてだけは他言無用。万一俺のことを誰かに一言でも話したならば、俺はもう援助はしないし、生命を含めておまえ自身のことも保証はしない。これが唯一のルールだ」
最終レースが終了した後で、ノビー・オーダという名前の自称『競馬の神様』がそう云った。神の存在を他言したらもう自分に対して語り掛けることはしない。そういう事なのだろうが、他言などできる訳がない。他人に話したところで、信じる人間がいるはずもなかった。穂刈自身神が始めて話し掛けてきた時、あれだけ狼狽したではないか。それどころか結果が出てしまった現在でさえ、まだ信じられないという気持ちが穂刈の胸の内に揺らめいている。どの部分をどう切り取って見ても常識では決して説明することができない不思議な出来事に違いないのである。
しばらくぼんやりしていたものだから右手の指に挟んだ煙草の灰が長く伸びて、耐え切れずにテーブルの上にぽとりと落ちた。穂刈は煙草を灰皿にもみ消し、テーブルの上に崩れた灰をティッシュペーパーで拭き取った。穂刈は静かに目を閉じて、この日自分の身に起こったことを頭の中で整理していた。
第1レースがまさに開始されようとしたとき、突然、自称競馬の神だと言う存在から声をかけられ、まかふしぎな一日が始まった。
ノビー・オーダという名前のその存在が言うには、発端は昨夜のことだったらしい。
土曜日の競馬が終了した後、いつものように穂刈は競馬場近くの安酒場で気の合った初対面の競馬ファン相手に反省会を行った。その時熱弁をふるった穂刈の様子を、ノビーが向こうの世界でモニタ―していた。もちろん始めから穂刈をターゲットにしてモニタリングしたのではない。ランダムにストックされた記録の中から、ノビーが選択したというのである。これが第一因であったらしい。
「おまえさんがあの酒場でいっていた『勝利の神様』の話。あれはなかなかいい線をついていたナ」
ノビーは笑いながら素直にそう言った。
「こんな所で立ち話もなんだから私の家で少し休みませんか、」と穂刈は誘った。
立ち話といっても、向こうは神様。姿は見えないし、穂刈以外には声も聞こえないという。しかし穂刈はまだ慣れないため、どうしても会話にリアクションが出てしまう。これでは奇人変人扱いされ、悪くすれば不審な行動をする人物として通報でもされかねない。ノビー・オーダは誘いに乗った。
府中街道に面した穂刈のマンションは、日照権の問題で近辺に住む住民達による建設反対運動が起こった、いわくつきの物件であった。間取りこそ2LDKと、やや手狭ではあったが、反対運動に買い手の方が躊躇したのかなかなか買い手が付かず、ローンを組めば穂刈でも十分返済して行けそうな価格である。不動産屋の案内で入室してみると、日当たりも外から見た印象よりはずいぶん明るかったので、思い立ったがなんとやらで半ば衝動買いのように購入したのだった。
「さ、どうぞ、おかけください」
穂刈は見えない相手を促した。
「ありがとう。しかし、俺はここにいるわけではないのだから、気を遣わんでくれ」
ノビー・オーダは明るく答えた。
「おまえさんには俺が一緒にいるように聞こえるんだろうが、俺は今、俺側の世界でテレビに映ったお前に話しているんだよ。まあ言ってみればテレビ電話のようなものだと思ってくれ」
「そうなんですか。それじゃあ、電話代大変じゃないですか」
「そうじゃない!」
ノビーは少し声を荒げたが、すぐに思い直したように冷静に戻った。
「お前ともうひとりの酔っ払いとの会話。あれはなかなか面白かった。楽しませてもらった」
「あんまりよく覚えてはいないんですが、どこがそんなに?」
「当たらずといえども遠からず。そんな感じかな」
「よく分かりませんが、そうなんですか。しかし凄いもんですねえ。どうしてあんなに当たるんですか。ノビーさんの方でレースを作ってるんですか」
「まさか。レースは公正なものだ。我々でも操作はできない」
「それじゃあなぜ100%的中などできるんです?」
「説明してもわからんと思うがね」ノビーは笑ったて「時空間の操作、とでも言っておこうか……」
「よく分かりません」
穂刈はあっさり降参した。
「簡単に言うとだな俺はおよそ一時間後の出来事を知ることができるんだよ」
「本当ですか。ヘェーそんなことができるんだぁ。いやあすごいですよ。ノビーさんがつくりあげた理論なんですか?その時空間の操作って奴ですが」
「いやいや、時空間の操作自体はこちら側ではそう珍しいものじゃあない。俺が開発したのは、今こうしておまえさんと会話しているその装置だよ。Voice・Transport・System、略してVTSといって、これまでテレパシーみたいな感じでしか伝えることしかできなかったものを直接声で伝達……」
「やっぱりそうか。第六感ってやつだったんだ」
穂刈末人は神様の言葉を制するように、大きく頷いた。
「そんなところだよ。その方法では受け手側の捉え方ひとつだから、せっかく気がついたのに無駄にしてしまうやつも多かったはずだ」
「無駄にすることのほうが、ずっとずっと多かったような……」
「今日のように声が実際に聞こえると、信じられるのじゃないかな。昨日あの居酒屋でおまえ自身がそんな話しをしていたよな」
「そんなこと言ってましたっけ。ほとんど覚えていないんです。飲みすぎで。でも確かに声が聞こえたら信じ易いですよ」
「さてそれでは今日の所はこの辺でアクセスを終えることにしようか。バッテリーが不足してきたようだ。来週の土曜日にまた会おう」
「よろしくおねがいします」
穂刈が礼を言うと同時に、ふっとノビーの気配が消えた。アクセスが遮断されたことが穂刈にも解った。
4
カーテンの合わせ目から漏れる眩しい陽射しに、ノビー・オーダはとび起きた。ベッドサイドに置いたアラームクロックを見ると、九時半をまわっている。寝過ごした。ノビーは一瞬慌てたが、すぐ昨日のことを思い出した。穂刈末人とのアクセスをシャットダウンした後、バスを使ってそのまま眠り込んでしまったようだ。思い出すと、可笑しさが込み上げる。ノビーは笑いながらカーテンを大きく開いた。穏やかな朝の光が部屋の中に一気に満ち溢れ、ノビーを包み込む。バスローブを羽織って、大きなガラス戸を開く。バルコニーに出ると、優しくそよぐ潮風がノビーの思考回路を少しずつ回復させていった。
昨日職を辞す決心をしたばかりだというのに、この清々しさはなぜなのだろう。ノビーは自分の気持ちが不思議だった。様々な理由で職場から去っていった人間、職を解かれた人間を数多く見てきた。そういうすべてのドロップアウトした者達も、今の自分と同じような清々しさを味わったのだろうか。そんな奇妙な疑問がノビーの心の中に湧き上がった。
生活の基盤となっていた職場を去るには、先々の生活を真剣に考えた末の決心が必要になるはずだ。どのようなヴィジョンを持っているか、食べていく“あて”が有るかなど、それぞれ思いが異なるのは当然である。ノビーにしてもこれから先、自分の運命がどのように流れていくのか予測もつかないのである。しかし職場という制約から一瞬でも解き放されたという開放感は、現在の自分と同じようにだれしもが感じるものなのではないだろうか。ノビー・オーダはそう思った。
ノビーは冷たいシャワーを浴びて眠気をさますと、車を駆って近所のコンビニエンスストアに向かった。ミニチュアVTS用のバッテリーを補充しておく必要もあったし、何よりも朝食をとりたかった。昨日から飲み物以外何も口にしていないことに気がついたのである。駐車場に車を乗り入れ、ノビーは店内に入った。
「いらっしゃいませ、こんにちは」
アルバイトの女の子が元気のよい声で、マニュアル通りの挨拶をする。
業界最大手のチェーン店であるヘブンイレブンは、コンビニエンスストアというよりむしろ大規模なスーパーマーケットやデパートを中心においたショッピングモールのようなものだった。敷地の中にはファーストフード店や書店、理髪店やクリニックなどまでが店を並べており、ノビーのような独身者にはいたって便利なエリアである。
VTSに必要なバッテリーや日用品を買い揃え車に積み込むと、ノビーはセルフサービス式のファーストフード店に入った。窓際のテーブルについて、チーズハンバーガーとフライドポテト、そしてインスタントものとほとんど違いのないクラムチャウダーを注文し、一気にたいらげた、ノビーはのんびりと食後のコーヒーを楽しみながらガラス張りの向うに広がる公園を眺めた。青々と広がる芝生の中を心地よくうねる石畳の遊歩道。ほどよいバランスで置かれた木製のベンチ。ゆったりと腰掛けて読書する老人の姿。芝生の上を走りまわる子供と、追われて飛び交う小鳥たち。そんなごく日常的な風景がノビーには実に新鮮なものに感じられた。すぐ近くにいつも存在しているこのような当たり前の世界に今始めて気付くほど、自分は狭い視野の中だけで過ごしていたのだろうか。
財団の中だけに限定して考えても、確かに研究のことしか頭になかった。財団の運営のことや人事のこと、広い意味では民主化運動のような政治的な側面など、そういう研究以外の雑事には興味もなかった。それがほんの一歩外に出て別の角度から眺めただけでこうも新鮮に映るものなのか。
一昨日部長からの通達に腹を立て、そのまま財団を後にしたノビー・オーダだったが、今もし部長にひとこと詫びを入れて財団に戻りさえすれば丸く収まるだろうし、管理職の座も夢ではない。頭の中をそんな考えが一瞬よぎり、ノビーは思わず苦笑した。勿論そんなことをするつもりなど微塵もなかったから、そのイメージは一瞬で霧消した。一時の激情からとは言え、自分の判断で飛び出した職場である。そんな格好の悪いことはできるはずがない。ノビー・オーダは自分に言い聞かせた。
昨日ベッドに入ってから眠りの淵に落ちるまでのほんの僅かな時間にふと思いついたことがあった。初めて作動させてみたVTSが、ノビーの考えていた通りの機能を見せたことが引鉄になって閃いたことだった。VTS開発の不自然な管轄変更を阻止することは今更できないとしても、視点を変えて自分のほうが先行してその用途を変えてやるのも面白いかもしれない。たとえば……民主化運動に貢献することくらいならできるかもしれない。
穂刈末人という男とのアクセスはそれが可能か否かを確かめる第一歩くらいの意味はあったかもしれないな。ノビーはそう思ったのである。
財団に物申すための折角の閃きがあったというのに、何のアクションもすることなく財団に戻ることなど考えられない。胸の中にふと浮かんだ弱気の影を払拭するように、ノビー・オーダは席を立った。
第2章 神との契約
1
翌朝定時に出社した穂刈末人は、職員用掲示板の前に人だかりができているのに気づいた。近付くと、ざわめく職員たちの中から杉浦努が穂刈に向かって「よう」と片手を挙げた。営業三課長の杉浦努は穂刈と同期入社のせいもあり気の合う男だった。穂刈も挨拶代わりに片手を挙げてみせる。
「何の騒ぎだ?」
穂刈は声をひそめて杉浦努にいった。
「希望退職についてだってよ。来るべきものが来たってことだ」
掲示板の前に長机が置かれ、掲示されている通達事項のコピーが積まれている。杉浦が一枚とって穂刈に渡す。同じ年齢にしては杉浦の方がやや老けて見えるのは、頭髪がいくらか淋しくなったせいだろう。
エレベーターの扉がチンという音とともに開き、二人は乗り込んだ。穂刈が在籍する営業一課も杉浦と同じ五階にある。
「業績も相当ダウンしているし、時間の問題だと思っていた」
杉浦は渋い顔で穂刈を見た。
穂刈末人はコピーに目を落とした。『希望退職について』というタイトルが付されていたが、『募集』としてもよい文面だった。内容的には業績の悪化による経営を立て直す為、やむなく希望退職についての説明をさせていただく。希望する者には特別退職金の支給と、必要ならば関連企業への再就職の斡旋をするということだった。
穂刈末人が勤務するメトロコンサルタント株式会社は、従業員千二百人を超える大手建設コンサルタント会社である。
これまで常に業界のリーダー的存在でありつづけた会社だったが、例にもれず長い不況のあおりを受け、業績は一気にどん底まで落ち込んだ。業界でも生き延びるための受注合戦が熾烈を極め、力のない企業は討ち死にを余儀なくされる。勝者とて無傷ではいられず、体力は日に日に弱まり、メトロコンサルタントもこれまで負けることなど考えられなかった相手にさえ苦戦するケースが増えた。今まで羽振りの良かったリーダー格の企業だっただけに、反面危機対策については弱い部分があったのかもしれない。贅肉がついて巨大化した会社は、自らの体重に耐え切れず軋みを上げ始めたのである。
太平に酔いしれ、何の手立ても講じなかった無能な経営陣はここまできて初めて事の重大さに気づき、最も安易な方法でスリム化を図ろうとする。当然の帰結がこのプリントなのだ。ただこの通達が会社の経営不審を解決する特効薬になりうるかどうか、穂刈は疑問だった。会社の存続の為これまで共に戦ってきた社員たちを切り捨てるというのだから、敗北宣言と同じことだ。会社は自分たちの生活を守ってはくれない。全ての社員が大きな不安を抱くに違いない。自ずと社員の方から会社に見切りを付け、組織は近い将来その機能を停止してしまうだろう。
「崩壊間近かな」杉浦が声を潜めていった。
どうやら穂刈と同じ考えのようだ。
「次に出してくるカードも見えるよ」
杉浦は、グラスの氷をカラカラ鳴らした。
府中駅にほど近いターフという名のスナックで、穂刈末人と杉浦努は水割りのグラスを傾けていた。穂刈の自宅はこの店と同じ府中市内だったし、杉浦もタクシーで十分とかからない国分寺市だったからお互いに都合が良かった。
ふたりがこの店を利用するようになって、もう十四・五年になる。
お互い仕事にも力が入らず、示し合せて定刻で退社すると直行した。七時前とまだ時間が早いため、店を開けたばかりだったから、中には落ち着いた雰囲気が漂っている。
「各課の統合だろ」
「そう。機構改革とかなんとか言って、結局は俺達くらいの世代をどんどん切ろうって腹さ。これが本音だろうな」
「だろうな。営業1・2・3課を統合すれば課長職二人が消えることになる。残るのはお前か俺か。もしかしたら二人ともポイかもしれない」
「何か、難しい話ィ。何の話かなァ」
手際欲よく穂刈の水割りを作りながら、保子という丸顔のホステスが口を挟む。年齢は二十歳を過ぎたばかり。丸い目がくりくりと動く可愛らしい娘だが、頭の中身は羽毛のように軽そうだった。
「何でもないよ。会社は冷たいもんだってこと」穂刈は受け流した。
「もし俺かお前かという事になったら、どうする?」
杉浦はグラスを透かして穂刈を見た。
「ネエ、何の話なのよ?」
保子がまた口を挟んだ。
「うるさいな。あっちいけ。シッ、シッ」
杉浦は犬の仔か何かを追い払おうとするような仕草をした。
「ヒドーィ。ふたりだけでェ。仲間に入れてヨ。もー」
保子は水割りを穂刈の前に置いて、口をとがらせた。
「ちょっと困ったことがあってね。会社で」
穂刈は薄めの水割りを一口飲んだ。
「フーン」
保子はちょっと考え込むような表情を見せた後、不意に大きく目を見開いて穂刈と杉浦の顔を交互に見た。
「わかった。リストラだ。そうでしょ。杉ちゃんも穂刈ちゃんもリストラ……」
保子は大声ではやし立てた。
「ヤッちゃん。そんなこといっちゃ駄目よ。ごめんなさいね」
ちょうど突出しを運んできたママが聞きとがめて申し訳なさそうに二人に頭を下げた。
「お邪魔します」
ママは杉浦の横に腰掛けると、鮪の酢味噌が入ったの小鉢を二人の前に置いた。
「でも、何だか深刻そうじゃない」
「不況の風さ」
十年以上馴染みにしている気心のしれたママである。ことさら隠し立てする理由もなかった。
「今すぐってことじゃないんだけどね」
杉浦が穂刈の後を引きうけるようにママを見て続ける。
「ま、ヤッちゃんの言うことも当たらずといえど遠からずってとこかな」
「何処も厳しいのね。うちなんかも穂刈さんや杉浦さんみたいな常連さんが贔屓にしてくださるから、何とかなってるようなもの。ありがたく思ってます」
「俺達が落とす金なんか微々たるものだろうさ。やっぱりママの経営哲学が良いってことだよ」
杉浦が持ち上げると、ママは嬉しそうに微笑んだ。
「で、今二人で話してたのは、将来俺達がクビになった時、お互いどうするかってこと。どうだ、ママ。ここで雇ってくれるか」
穂刈は茶目っ気たっぷりにママを見た。
「お給料、安いわよ。でも、冗談抜きにホントの話?」
「可能性はあるってこと。だよな」
杉浦は穂刈に答えを促した。
「どっちにしろ会社は身を軽くしたがってるからね。動きはあると思う」
「そうなったらどうする?俺達くらいの年齢になると、働き口なんて殆ど無いと思ったほうがいいだろ。俺は、格好が悪いができる限りしがみついてやろうと思っているんだ」
「カッコ悪いことなんかないわよ。ねェ。ママ」
めずらしく保子が真剣な眼差しでいった。
「そうよ。杉浦さん。食べてくことが最優先なんだから」
「そうじゃなくてぇ、杉ちゃんリストラされたらお金なくなるから、お店に来られなくなっちゃうじゃん」
「やれやれ。そういう事か。思ったよりしっかりしてるんだな。ヤッちゃんも」
杉浦は笑って、今度は穂刈末人の目を覗き込む。
「穂刈。おまえは?」
穂刈はグラスに残った水割りを空けた。
ほろ苦い刺激が喉元を通り過ぎようとするその瞬間、穂刈の頭の中を何かを暗示させる小さな光のような物が一瞬過ぎった。もしあれが本当だったなら……
「おれはちょっと違ったことを考えてる」
穂刈は、一瞬の閃きであることを悟られぬように、ニヒルな感じで煙草を咥えた。保子がマッチを擦って火を点ける。
「何だよ、違うことってのは」
杉浦は興味深そうに穂刈を見つめた。
「今はまだ言えないんだ。近い内に結論を出そうとは思っているんだけどね」
穂刈は煙草の煙をゆっくりと吹き出した。するとその煙とともに閃きは一気に膨れあがった。
「もったいぶらずに話せヨ」
「変なこと考えちゃ駄目よ。奥さんや息子さんがいらっしゃるんだから」
意見を聞きたがっている杉浦の声も、たしなめるママや、はしゃぐ保子の声も、総てがフェイドアウトして、穂刈末人は沈黙の世界に入りこんだ。それは少しアルコールがまわった穂刈の脳細胞が創り出した仮想世界に違いなかった。
しかし紫煙が立ち込めたその世界は、穂刈末人にとってそう居心地の悪い世界ではなかった。仕事や家庭、付き合い、義理、人情。何をするにも総てが制約に縛り付けられたこの社会では、現実ばなれした空想の空間に遊ぶことなど大人には許されない。ただひとつ自分の心の中に作られたこの世界では、それが心の中から外へと流れ出さない限り大目に見てもらえる。思い切り虚構の空間に弄ばれながら、このケースあのケースと思いをめぐらせる事が可能なのである。
広がって行く紫煙の中に、酔いも手伝って少し虚ろになった視線を巡らせると、何か得体の知れない影が浮かび上がりかけている。
まだ形にもなっていないものだったが、それがノビー・オーダという神様の幻影である事を穂刈は察していた。きっと自称競馬の神様というノビー・オーダなる不思議な奴が、何らかのヒントを持っているはずだ。殆ど直感的に、穂刈末人はそう思った。
そうだ。今週中にでも結論を出そう。沈黙の世界から舞い戻ると、穂刈末人はそう自分に言い聞かせた。
2
ノビー・オーダは一度自宅に戻り、身支度を整えてからグッドラック財団へ出向いた。飛び出してから二日間、財団の方から何らかの連絡があるものと思っていたのだが、いっさい無かった。おかげで思いつきのアイディアを自分なりに青写真にして見ることはできたのだが、それはまた別の話で、財団にとって自分はさほど重要な存在でもなかったのだといじけた考え方をするとやはり多少腹が立った。ただ一度上司と衝突しただけで、引き止められることもなく捨てられた。それどころか上司に噛み付いたことで、財団にとって危険な反動分子とされてしまったのかもしれない。もしそうだとすれば当然しばらくの間財団から監視されることになるだろう。反動分子なのだからやむを得ない。そうなると計画してみたこれからの行動に致命的な支障が出ることも考えられる。形だけでも筋を通しておいた方が良さそうだ。一度財団に出向きひとこと詫びを入れ、退職願を提出する。円満退職したように繕うわけだ。筋さえ通しておけば反動分子ではないということになるから監視されることもない。完璧だ。ノビー・オーダは内ポケットに入れた退職届を手探りで確認するとにやりと笑った。
部長とやり合ってまだ三日である。少しはよそよそしさがあるものと覚悟してノビーは財団のドアをくぐった。だがノビー・オーダの心配は杞憂に終わった。三日前と何ら変わった所はない、いつも通りの財団の空気が漂っている。なぜだ。今はまだ反動分子のはずだ。それなのに廊下ですれ違ったりエレベータに乗り合わせたどの職員達も、数日前となにも変わらない顔で挨拶を返してくる。
ノビー・オーダは部長室のある三十七階のボタンを押した。
予想もしなかったこの変化のなさ。その理由が、エレベータがチンという音を聞かせて停止した瞬間ノビー・オーダの頭の中にひらめいた。なんだ。ただそれだけの事か。ノビーは部長室へと歩を進めながらそう思った。
ノビーが財団を飛び出したのが金曜日。穂刈末人との出会ったのが一昨日の土曜日。そして昨日が日曜日。現場組みを除いた財団職員は休日だ。それに財団を出るときには、体調が悪いからという言い訳を伝えておいたではないか。
大丈夫だ、まだ反動分子にはなっていない。
どんな顔をして部長室に顔を出そうかという心配事だけはひとまずなくなり、ノビーは少し安堵した。
部長室の前でノビー・オーダは一度大きく深呼吸をした。いよいよ計画をスタートさせるときが来た。その緊張感をジー・ワン部長に悟られるわけには行かないのだ。
ドアをノックすると、中から「どうぞ」と言う声。
「失礼します」と断ってドアを開く。
ジー・ワン部長は、ことさらにこやかにノビーを迎え入れた。数日前のやり取りが部長の中にもしこりとなって残っているようだった。「先日は申し訳ありませんでした」
ノビーは素直に切り出した。
「この週末いろいろと考えてみました」
部長はノビーが謝罪に来たものと思ったらしく穏やかに肯いた。
「誰でも衝突することはあるのだから……」
ジー・ワン部長を制して、ノビーは背広の内ポケットから封筒を取り出した。
「やはり自分は信念を曲げられません。何も言わず受け取ってください」
差し出された封筒を部長は受け取った。
「何だねこれは」
ジー・ワン部長は封筒に視線を落として尋ねた。
「退職願です。私なりの結論です。」
ノビーは胸を張った。
「これが?」
ジー・ワンはノビーから渡された封書をしげしげと見つめた。『夏の大謝恩祭!マルチコンビニエンス・ヘブンイレブン』の文字が鮮やかだ。
ノビーは部長の手から引ったくるようにそれを取り戻すと、慌てて反対側のポケットから退職願を取り出した。
「こっちです」
部長は困惑の表情を見せた。
「本当に良く考えた結論か?」
「VTSは既に完成した状態です。研究資料その他総てスタッフルームに整理しておきました。私の役目は終わったものと考えます」
「退職後の当てはあるのか」
部長はぽつりと言った。
「しばらくは休養して、充電しようと思っています。そのくらいの蓄えはありますので、心配なさらないでください」
「そうか。そこまで決心が固いのならばやむをえん。預かりましょう」
ジー・ワンは不機嫌な声を出してノビー・オーダから退職願を受け取った。
「ご期待に添えず申し訳ありません。長い間お世話になりました」
ノビーはそれだけ言うと部屋を出た。
背後で部長室のドアーが鈍い音を出して閉まった。第一ステージクリア。ノビー・オーダはそう思った。
3
大過なくという言葉がぴたりと当てはまるように穏やかに時は流れ、土曜日となった。穂刈末人にとって運命の日となるかもしれない土曜日がついにやってきたのである。
いつもならば朝から競馬に出かけるなどというと、ひどく不機嫌になる妻の恵子だったが、先週の大儲けもあったから、それほど大きな抵抗もなかった。穂刈は自転車を駆って勇んで出かけた。
ノビー・オーダという競馬の神様が、先週の約束を守って、本当に穂刈に幸運を与えてくれるかどうか。それをしっかり見極め、その上で杉浦やターフのママに思わせぶりに話した穂刈自身の進路を決めるつもりだった。進路とは言うまでもなく会社を辞めて自立する方向を選ぶということである。傾きかけた会社に邪魔者扱いされながら必死にしがみつくより、潔く退職して自立する道を選ぶ方がわゆるダンディズムが満たされるに違いなかった。
穂刈と同様の立場に立つ他の社員の中にも、同じ考えを持つ者はきっと数多くいるのだろう。しかしよく言われる通り、理想と現実はかけ離れているのが世の常である。穂刈にしても、先週ノビー・オーダとの不思議な出会いがもしなければ、それは一瞬閃いた他愛もない夢に過ぎず、線香花火のように次の瞬間には消え落ちてしまうものだったに違いなかった。穂刈末人の頭の中には、自立して何をするのかという最も重要な部分が欠落しているのだった。
形もない夢を追いかけることなどできはしない。そのくらいのことは穂刈にも解っていた。しかし穂刈の場合、一般的なケースと大きく異なる部分がひとつだけある。無計画な自立を可能にするための必須条件が既に満たされているということだ。
何を始めるにしても資本金が必要である事は言うまでもない。ところがその資金をノビー・オーダが保証してくれるという。それが本当ならば、形のない物に後から肉付けしていくことも簡単にできそうな気がする。失敗を恐れることもない。これはもう超ラッキーというほか言いようがない。だからまずノビー・オーダの存在と支援を確認することが先決だった。そしてその真偽があと数時間で確かめられるのだ。穂刈末人のペダルを踏む脚は軽やかに弾んでいた。
春の開催が終了すると競馬の舞台は北海道の函館へと移り、東京競馬場は場外馬券売り場として無料開放される。指定席のエリアなどはクローズされるが、前売り馬券を買い終えるとそのまま帰ってしまうファンがほとんどだから、一般席でもそれほど混み合うこともない。
じっとりと汗ばむような陽気で、芝コースの向う正面から、その先に見える高速道路は陽炎のように揺れ動いている。樹脂製の椅子に座って眺めると心なし寂しく思えるのは、先週までと違ってそのターフコースに動きがないためなのだろう。
「あ、どうも。このあいだは」
競馬新聞を広げた時、中年の男が穂刈に声をかけた。驚いて振り向くと、その顔に見覚えがある。
「忘れちゃいました?ほら、先週一緒に飲んだじゃないですか」
男は楽しそうに笑って、穂刈の横に腰を下ろした。
「ああ、あの時の」
穂刈も思い出して愛想笑いを浮かべる。
「無事帰る事ができましたか?随分飲んでたでしょう」
「まあ、何とか。あの時は何だか勝手なことばっかり言っていたような気がします。申し訳ない」
「いえいえ。メッチャ楽しかったです」
男は胸ポケットを探り、多少ヨレた名詞を取り出すと「これからもよろしく」
と笑顔で穂刈に差し出した。
名刺には、府中青果社長・出雲敏房と印刷されている。
「いつもびんぼう」
穂刈が声を出さずに胸の中で名刺の名前を読み上げたとき、それを制するように男が名乗った。
「いずも・としふさ、です」
「あ、どうも。私、穂刈末人といいます。名刺を持ちあわせていないもので」
「構いませんよ。いやあ、この間の穂刈さんの話がとても面白かったものだから、つい声をかけちゃいました」
出雲敏房がそういって人懐っこい笑い声を上げた時、第1レースの発売開始を告げるベルが鳴り響いた。
「まったく馬鹿なことばかり話してしまったようで。お恥ずかしい。忘れてください」
穂刈は愛想笑いを浮かべて頭を掻いた。
出雲敏房にとって先週穂刈が話した競馬の神様の存在など、酒の肴として盛り上がっただけで、他愛もない戯れ言である。だが穂刈末人にはもはや戯れ言ではない。ノビー・オーダという奇妙な名をした競馬の神様は間違いなく実在する。そしてその神は、自らの存在を他人に漏らすことを禁止した。それさえ守るなら穂刈に巨万の富を約束するというのだ。だから間違っても他人に勘ぐられるような素振りさえ見せる訳にいかない。
自分に付きまとわないで欲しいと穂刈は思った。余計な気を使うし、それになによりも自分が一人きりの時でなければ、ノビーも出ずらいのではと感じたからである。
「1レース。決めたんですか」
そんな穂刈の気持ちなどお構いなしに、出雲は楽しそうに接してくる。
「いや、まだ決めてないんですよ。」
穂刈は上の空でいい加減に返事をする。
「私、決めましたよ。これ。これでしょう。ここは」
マーカーペンを使って、出雲は競馬新聞に赤く印をつけて穂刈の顔の前に突出した。
「2番。頭はこれっ」
「ああ、そうかもしれませんねぇ」
「そうですとも。じゃ、私先に買ってきますから」
出雲は穂刈が気のない返事をしたので、つまらなそうに立ち上がりスタンドの階段を上がって行った。
腕時計を覗くともう九時四十五分を回っている。発売締め切りまであと約十分。やはり今日は出ないのかと殆ど諦めかけた瞬間、先週と同様どこかの空間から声が聞こえた。
「そんなに心配しなくてもいい。ちゃんと約束は守るから」
それは紛れもなく、ノビー・オーダの声であった。
「それに、出るとか出ないとか、オデキや幽霊じゃあるまいし、言い方を考えてくれよ」
ノビーの声が笑いに変わる。
「でも、やっぱり少し心配でしたよ。現実離れしてるものだから」
「そうだろうな」
ノビーは納得した声でいうと、話題を変えるように
「ところでだ。先週いったように、俺の事を他人に話したならばその時点でゲームオーバー。覚えてるだろ」
「もちろん覚えていますよ」穂刈は不安そうに見えないノビーを見た。
「それなら話は早い。先週は予告編。これからいよいよ本編が始まるわけだ。そこでさっきいったルールを大前提に、多少付け加える事がある」
「はい」
「まず馬券の購入金額についてだが、どんなに金があっても一点あたりの購入額は最高でも三千円を限度とすること」
「なんで?」
穂刈は不満そうな声を出した。
「これからお前は的中し続けることになる。こちら側には情報の漏洩がないかを監視する部局が有るんだ。三千円程度の投資なら不自然なこともないだろうから安全だ。もし一気に大金を入手するような買い方を続けたなら確実にチェックが入る。そうなると不正に情報を流している事がすぐにばれてしまう。特定個人にのみ情報を与えることは重大な法規違反なのだよ。警視局、お前らの言葉で言うサツってやつがのり出す。何年か前にそっちの世界で有名なテレビ局のアナウンサーが、一レースで八百万円も儲けた事が話題になった。覚えているか?」
「ああ。徳下アナウンサーのこと」
「そう。それそれ。あの時は今の俺のように直接声を聞かせる事はできなかったんだが、まあ徳下アナのアンテナが高性能だったのだろう。しかし情報を流したやつはパクられ、今も服役中だ。つまり……」
言葉を捜すような沈黙が一瞬あった。
「つまり、俺自身の身の安全も考えなくちゃならん」
「なんだかスリリング」
「それともう一つ。最初に約束したルールの通り、俺の存在を他人に告げた時、その人間がお前の話しを信じようが信じまいが俺は消える。ただ俺がお前に伝える買い目を、おまえ自身の予想として第三者に伝える事は許そう」
「なんで?」
「神はいつも寛大だから」
「なにか、ミステリアス」
「以上が条件だ。了解したならこれで契約成立としよう。約束できそうにないなら、これでさよならだ。どうする?」
「もちろん了解ですよ。今後とも何とぞよろしくお願いします」
「了解。契約成立だ」
ノビー・オーダの声も嬉しそうに弾んだ。
「で、早速ですが第1レースは?もうすぐ締め切りですから」
「ああ、第1レースね。ちょっと待て」
向うの世界で何かを操作する感触が穂刈にも伝わってくる。
こうして穂刈末人と神との契約は、今、なされたのである。
4
「以上が条件だ。了解したならこれで契約成立としよう。約束できそうにないなら、これでさよならだ。どうする?」
ノビーは日当たりの良いリビングで、テレビの画面に映し出された穂刈末人の真剣な表情を楽しんでいた。あれだけ嬉々としてやって来た訳だのだから答えは見えている。
ベランダの向うから小波の打ち寄せる音が、心地よく耳をくすぐっている。
「もちろん了解ですよ。今後とも何とぞよろしくお願いします」
「了解。契約成立だ」
ノビー・オーダは笑い出しそうになるのを必死に抑えた。
「で、早速ですが第1レースは?もうすぐ締め切りですから」
「ああ、第1レースね。ちょっと待て」
手元のキーボードを操作する。
画面の穂刈の姿が消え、まだスタートしていない第1レースの成績に切り替わった。『一回・函館・初日・第1レース結果7→12→9→5→2……』
ノビーがEnterキーを押すと穂刈の姿が画面に戻り、結果がオーバーラップして残る。
「それでは記念すべき第1レースの始まりと行こうか。フォーカスは馬連(1着馬の番号と2着馬のそれを1着2着の着順に関わらず的中させる馬券)で7番・12番。まずは軽くジャブといけ」
ノビーが言い終わらない内に穂刈末人は、画面から消え去っていた。
「やれやれ、どこまで忙しい男なんだ」
ノビー・オーダは思わず苦笑したが、何はともあれノビー・オーダと穂刈末人との契約は成立したのである。ノビーも胸にこみ上げる興奮を抑える事ができなかった。
この一週間かけて、ノビーは穂刈末人の個人データを調べてみた。初めてのアクセスでは何となく落ち着かない男というイメージが強かったが、業界大手のメトロコンサルタントで営業課長として手腕を発揮している程の男だ。そうそう羽目を外すタイプでもないだろう。
ロッキングチェアに揺られながらパイプ煙草をくゆらせていると、やがて画角の中に穂刈が戻ってきた。出雲敏房という八百屋の親父を従えている。
ノビーはボリュームを少し上げた。臨場感溢れるドルビー・サラウンド・システムが威力を発揮する。
「何で2を買わなかったの? 言ったでしょ、中心は2だって」
「いや、私の推理ではですね、2番はこないと思いますよ」
穂刈は一流の競馬評論家のように、気取った語り口で出雲の予想を否定した。
「あっ、あっ。そんなこと言って。何でそんな事が言えるんですか。2番の、えーと」出雲は手にした競馬新聞を確認する。「そう。ムキムキボーイ。この馬の強さはハンパじゃないよ。先週の未勝利戦だって、二着だったけど、どんじりからゴボウ抜きだったでしょう。鼻の差届かなかったけれど、惜しかったなあ。穂刈さん。あんただって見たでしょうが」
出雲はまくしたてた。興奮して鼻の穴が開いたり閉じたりしている。
「見ましたよ。じっくりと。確かに強い馬に見えましたよね」
「見えましたよねってなに、それ。素直じゃないなぁ。強いんです。間違いなく」
「でもね、上がりタイム見ましたか? 標準でしょう。どう考えても」
勝ち馬がわかっているから、穂刈も強気である。
「だから連闘は不利だと思うんですよ。目いっぱいの勝負しちゃっただけにね」
競馬の神様から教えてもらったとは言えないから、できるだけそれらしい理屈を考えて出雲に解説している様子が画面から見て取れた。さすが営業マンだけあって、うまく対応するものだとノビーは感心した。
「じゃ、穂刈さんはなに買ったのさ」
出雲敏房は興奮して詰め寄る。
穂刈は胸ポケットから馬券を取り出すと出雲に見せた。
「7番・12番」
出雲は甲高い声でキャハハと笑った。
「来ないよ。そんなもの。しかも一点。来ないよ、絶対」
「そ、そんなものって。あんた。ソンナモノはないんじゃないの」
さすがの穂刈も出雲敏房の言い方に腹をたて語気を荒げる。
ノビーは画面にかじりついて大笑いした。自分が提供してやった情報が原因で、早くも小さな人間ドラマが始まっている。二人の言い争いは暫く続いて、このまま放っておけば今まさに殴り合いの喧嘩になりそうだった。ゴング寸前の所でかろうじて二人を救ったのは、出走合図を告げる高らかに響き渡るファンファーレであった。穂刈と出雲は白熱した舌戦を一時中断する事にした。
テレビには突然黙り込んだ二人の表情が映し出され、実況アナウンスが重なる。
距離1200メートルの未勝利戦は、出雲敏房お勧めの、2番ムキムキボーイの積極的な逃げで開始された。出雲が言うように、そのスピードはなかなかのもので、向う正面から第三コーナーを回っても軽快に先頭を切って飛ばしている。出雲敏房は得意満面で興奮している。
「よーし。キマリだ。どうです。言った通りでしょうが」
ところが、第4コーナーを回った所で様相は一変した。あれほど軽快に先頭を走っていたムキムキボーイの脚色が、突然鈍った。後方から追走していた馬群との差が見る間に詰まってくる。
「あれっ。あれっ」と、出雲が地団太踏んでいる内に、追いついた馬群の中から、7番のエイユウカチドキと12番キタノノバラが、一気にムキムキボーイを交わし去りそのままゴールイン。
一瞬にして紙屑と化してしまった馬券を握り締めたまま、出雲の体は硬直したように固まっている。
「やっぱり、2番、だめでしたね」
穂刈末人は石像のように固まった出雲に優しく声をかけた。その途端、出雲の体は心棒を抜かれたようにへなへなと崩れ落ちた。
ノビーは画面の中で繰り広げられたどたばた劇を、両手を打って楽しんでいた。向うの世界に介入している実感が、開発したシステムのおかげで、以前とは比べものにならないほど強烈だ。テレビ画面の向こうにいる情報のレシーバーと、情報の送り手であるノビーとがライヴコンサートのようにリンクしているから実に面白い。VTSを開発した当人であるノビー・オーダにとっても、これは予想すらできない驚きだった。財団に研究者として籍を置いていた長い期間、研究の目的を与える者の立場からしか見ていなかった事がよく解った。
それはまったく一方的な思い上がりに違いなかった。喜びを与えることで、楽しさを返してもらっている。ギブアンドテイクの関係が、そこにはしっかりと出来上がっているのである。
「しばらくは楽しめそうだ」
ノビーはテレビの向うで新しいドラマを演じ始めた穂刈末人の姿を見ながらそうつぶやいた。
第3章 ミスターX誕生
1
自由自在党議員で予算委員長を務める玉野幸次郎は、ビヤ樽のような巨体をソファに沈み込ませた格好で、一方の壁面に取り付けた百インチディスプレーを睨みつけていた。画面には函館競馬第9レースのゴールインの瞬間が映し出されている。握り締めた拳が怒りに震え、もともと強面のブルドッグフェイスが魔人のように変貌している。二十畳はあろうと思われる居間の出入り口に立つ、黒スーツに身を固めた若いボディーガードは視線を宙に泳がせて、その怒りが自分の方に矛先を転じぬように祈っていた。
ガードされている玉野幸次郎のほうが、ガードする皆神頼(みなかみたのむ)という名のその若者より見るからに強そうだったし、「お前に危険が迫ったときには、必ず俺が助けてやる」と大笑いするのが玉野の口癖でもあったので、不安そうに視線を泳がせる若者の様子はそれほど不自然には見えなかった。
「俺は、何であんな調子のいい男の予想など信じちまったんだ?」
玉野幸次郎は少し後悔していた。いつもならもう少し慎重に行動したはずなのに。思い返すとますます怒りが膨らんでいく。
昨晩、玉野幸次郎は都内の某テレビ局で、自らがホスト役を務めるバラエティ番組『タマコーと遊ぼう』の収録に臨んでいた。
ゲスト出演していたのが江崎大五郎というマスコミなどでもよく知られた競馬予想家だった。江崎大五郎は弁舌の爽やかさが売りで、競馬というギャンブルを健全なレジャーに生まれ変わらせた功労者とまで言われている。すっかり乗せられてしまった玉野幸次郎は、迂闊にも江崎の口から軽やかに流れ出す怪情報を信じ大勝負に出た。そして予想は見事に外れた。しかも信じた馬は一着どころかまったく良いところなしの最下位入線である。
「いい加減な情報をたれ流しやがって。江崎大五郎とか言うあの男、今度会ったらただじゃあおかねぇ」
玉野幸次郎は江崎大五郎のにやけた顔を思い浮かべて唇を噛んだ。
政界の博打打ちとして名を馳せた玉野幸次郎がこのレースに賭けた金額は三百万円である。それがわずか一分少々で露と消えたのだから玉野幸次郎の怒りも当然といえるかも知れない。
「おい」
玉野は居間の出入り口で不動の姿勢をとっている皆神頼に声をかけた。
「金はまだあるのか?」
「はい。あと二百万円程度でしたら」
皆神頼は緊張して答えた。
小さく頷いて玉野は目をつぶった。沈黙の時間が流れた。玉野は目を閉じてじっと考えていたが、決心したようにゆっくりと目を開けボディガードを見た。
「コーヒを入れておけ」
玉野幸次郎は黒スーツの男にどすの効いた声で命じた。
「はい」
皆神頼は返事をして部屋を出て行ったが、五分もしないうちにトレイに一杯のコーヒーを乗せて戻ってきた。ホストのような仕草で床に片ひざをづき、若者は玉野幸次郎の前に湯気の立つコーヒーを置いた。
玉野幸次郎は不思議なものでも見るように少し口元をゆがめて、ボディガードとコーヒーカップに交互に目をやった。
「なんだこれは」
「コーヒーですが……」
「ばかもの!」
玉野幸次郎の怒りが爆発した。
「誰がコーヒーを注文したというんじゃあ。公費だ。公費。公の金のことをコーヒというだろうが。金庫に入れとる党の金を一千万円ばかりワシの口座に振り込んでおけと言っとるんだ」
「先生。いけませんよ。あの金に手をつけては……」
皆神頼は玉野の鬼のような形相に思わずたじろいだが、かろうじて踏みとどまった。
「あの金に手をつけたら、今度こそ先生の手が後ろに回ります。つい先週連れ戻されたばかりじゃないですか。あの時は、総理が内密にしてくれたから……」
「ばかやろう!なんで手をつけたことがバレるんだ」
玉野は叫んだ「貴様がチクるのか、アァ? 公費だろうが何だろうが金は金だ。札の一枚一枚に公費と印刷しとるとでもいうのか? 日本銀行のハンコが押してあるだけだろうが。みんなのお金ということだ。とにかくあとで埋めときゃ良いことだろうが。いいから早急に手を打ちなさい」
「しかし……」
「しかしもカカシもあるか。このばかたれ。今、持ち合わせがないからちょっと借用するだけじゃねえか。困ったときには、みなで助け合いましょう。お父さんお母さんを大切にしましょう。そう小学校で教わったろうが。ああ、それから明日ラス・ヴェガスへ発つ。準備をしとけ。ラス・ヴェガスのヴェは下唇を噛むんだぞ」
玉野幸次郎の迫力に負け、皆神頼は重い足取りで部屋を出て行った。
2
当然のことながら、穂刈末人は函館開幕戦を初日二日目と快勝した。連続的中するのを穂刈自身の力と思い込んで、出雲敏房が片時も傍を離れず
「大先生。大先生」と囃し立てた。これには穂刈末人もさすがに閉口したけれども、決して出雲が悪意や悪ふざけでそうしているわけではないことはよくわかった。裏表の無い子供のような性格の持ち主なのだ。だから出雲が穂刈末人を持ち上げるのは、凄まじいまでの的中に心臓が破裂しそうなほど驚いている証なのだろう。ことさら邪険にしなければならない理由も見当たらなかったし、考え方によっては穂刈とノビーの縁結びの神に違いなかった。穂刈末人はそれとなく勝ち馬情報のおすそ分けをしてやった。ただあまり露骨に的中馬券を教えすぎては、ノビー・オーダが言う向うの世界で監視の網に引っ掛かるかもしれないので、中心馬をさりげなく教える程度に止めたのである。
「7番のタイショウガッツが人気を集めているけど、9番のミカサレディーが勝負気配だと思うよ。9番という馬券ははずせないだろうなぁ」
こんな具合にである。出雲敏房は何の躊躇もなく穂刈が推奨した馬に賭けた。出雲はそれほど勘の働く男ではない。だから中心馬をせっかく穂刈から知らされても、相手馬の選択に失敗し的中を逃すケースも有った。しかし当然、的中率はこれまでとは比べようもないほど高くなっているはずである。バランスが取れているからこれで良かろうと穂刈は思った。
年齢的には殆ど同世代に見える穂刈と出雲だったが、午前中のプログラムが終わる頃には、与える者と与えられる者の関係、つまり労使関係のようなものが否応なしにでき上がっていた。別に穂刈が要求したわけではないのだが、喉が渇いたといえば飲み物を買いに走るし、煙草を咥えるとライターの火を差し出す。かえって穂刈の方が恐縮し、自分も儲かっているのだからと逆に気を使う始末だった。それでも出雲は嬉々として使い走りを続けた。
穂刈はそんな出雲の姿に苦笑しながら、知らず知らずの内に出雲の様子とこれまでの自分をダブらせていた。
考えてみれば生まれてから現在まで、自分もこの八百屋の親父のように、与えられる側の世界に属してきた。きっと殆どの人間が結局そこから脱出できぬまま、宿命として受け入れて、一生を終えて行くのだろう。人間とは思ったより利口なもので、抵抗してみたところで何一つ変えることはできないということを瞬く間に悟ってしまう。
これまでの穂刈にも、そこから抜け出そうと必死にもがきまわった覚えが幾度となくあった。若く血気盛んな頃の話である。そしてそのたびに『無分別』とか『世間知らず』という言葉で笑い飛ばされ、一時の夢から覚めるといつの間にか妙に居心地の良い元の世界に立ち尽くす自分を発見する。次第に年を取りバイタリティーが減少してくると、戦う気力が萎え、終いには戦おうとしていたことすら忘れてしまう。こうして人間は『良い大人』になって行くのだろう。
しかしこの日穂刈は。これまで一度も感じたことのない奇妙な感覚が、自分の胸の奥にふつふつと湧き上がるのを感じていた。好むと好まざるとに関わらず、与える側に立った人間だけが持つ感覚なのだろうか。馬券的中による出雲の喜びを、自分の喜びとして共有している事に気付いたのである。
ノビー・オーダから受け取った必ず的中する情報を、穂刈が仲介して出雲に流している訳だから、出雲の的中率は上昇する。当然出雲は大喜びする。大喜びする出雲の姿を見ていると、穂刈自身もなぜか暖かな幸福感に包まれる。という図式である。まか不思議なことに、なぜか出雲の喜びと穂刈のそれとが、完全に同調しているのである。
テレビなどでよく知られた『競馬評論家』と呼ばれる勝ち馬予想のプロフェッショナルたちも、この幸福感を生きがいにしているのかも知れない。穂刈はふと思った。
その瞬間穂刈末人の全身を、強烈な閃光を伴った電撃のようなショックが貫いた。それはノビー・オーダによるものではなく、紛れもなく穂刈自身の心の奥底から噴出したものだった。そしてこのショックが誘おうとしている一筋の道を、穂刈末人は決して見逃さなかった。
ノビー・オーダがこれから先ずっと勝ち馬情報を提供してくれるのだから、これをそのまま穂刈自身の予想として発表さえしていれば、ただそれだけで世界中のどんなプロにも負けない競馬予想家になれるのだ。自分の好きな世界に身を置いて幸せに過ごせるではないか。今の会社にしがみついて激しい競争社会に揉まれつづける一生を送るより、はるかに人間らしい暮らしができるはずである。
戦線離脱とか、逃げというのではない。人間として生きるということなのだ。結果として多くの競馬ファン達に、至福のひと時を与えることができる。これまで悔し涙に明け暮れていた多くの競馬ファン達を、自分が救ってやるのである。
つまり彼らにとって、ノビー・オーダではなく穂刈自身が競馬の神様になるということなのだ。そうか。自分は絶対神をパトロンにした新興宗教の教祖様なのだ。短絡的な発想ではあったが、これまで霧の中に隠れていた自分の進むべき道が今姿を現したことを穂刈末人は確信した。
3
「こんにちは。一回函館五日目。午後のレースは私、三風亭五九悪(さんぷうていごくあく)と」
笑顔を見せながら競馬専門チャンネルのメインキャスターは歯切れよく自己紹介し、手の平で横に座った元気の良い女性にアナウンスを促した。
「私、小田部玲子(おたべれいこ)がお届けします」
次に二人声を合わせて「よろしくお願いします」
お約束の立ち上がりである。
「今日も荒れてますねェ」
三風亭五九悪は、同意を求めるように小田部玲子を見た。
「本当ですよネェ。午前中も九百五十倍なんて馬券が飛び出したりして。一度でいいから取ってみたいですよ。ネェ師匠」
小田部玲子は好奇心旺盛な少女を思わせる童顔に精一杯の笑みを浮かべて見せた。
「取りたい。取りたい」
三風亭五九悪は力なく笑った。触れれば折れそうな細身の体と痩せこけた頬が玲子と対照的で、いかにも不健康に映る。三風亭五九悪はその名で判るように落語家である。競馬好きが昂じて競馬専門チャンネルというこのテレビ局で進行役を務めるようになったのだが、よほど水が合っているのか、本業よりこちらの方で名が売れた。風体があまりにもひ弱なので、体力が必要な高座では息が持つまいというもっぱらの噂である。
「で、師匠。今日はもの凄いお知らせがあるんですよネ」
「そうなんです。あるんですよ。これがまた恐ろしいお知らせですよ。さ、それではまず6レースのパドックです」
画面がパドックに切り替わった。
パドック解説が放送されている約三分間。スタジオは打ち合わせ事項の確認や、ちょっとしたメイク直しなどが行われる結構忙しい時間となる。映像が戻った瞬間までにすべてを完了させ、カメラがパドックを狙っている間も途切れなく番組が進行していたかのように装わなければならないからだ。
「竜ちゃん。このネタ、ホントに出しちゃっていいの?」
三風亭五九悪は襟元につけたワイヤレスマイクの位置を直しながらいった。
「言っちゃってくださいよ。結構インパクトあると思うし」
竜ちゃんと呼ばれたまだ三十才そこそこに見える若いディレクターが、調整室の中から親指と人差し指で丸を作ってみせた。
「知らないよ。先週のファックス、まぐれ当たりだったのかもしれないしさ」
「いいのいいの。その時は、師匠の話術でよろしく」
「楽しみよね」
小田部玲子も、ディレクターに合わせるように言った。
「はい。カメラ戻りまーす」
アシスタントディレクターの声を合図に、動き回っていたスタッフたちが手際良くカメラの画角から外れる。
「さ、それではお約束の恐ろしいお知らせに行きましょうか」
「でも師匠。これって恐ろしいというより、うれしいお知らせなんじゃないですか?」
「ばか云っちゃいけませんよ。恐ろしいですよこれは。死活問題になりかねないでしょう。予想屋さん達にとっては」
「あ。そういう意味で」
「さ、とにかくいきましょうか」
「いきましょう」
三風亭五九悪は小田部玲子の方に向けていた視線をカメラに戻した。
「私たちはこの番組を放送する時、別に行き当たりばったりでお送りしているわけじゃありません」
五九悪師匠の語り出しに、小田部玲子も相槌を打った。
「準備に準備を重ねて放送に入ります。特に数多く寄せられる皆様からの声。これには最大限気を配り、参考にさせていただいているわけです」
「そうですね」
「先週の土曜日の朝。八時頃のこと。私たちは皆様にいかにして楽しい番組をお送りするかということについて、準備というか打ち合わせをしておりました。そこに一枚のファックスが入る所から話は始まります」
仰々しい師匠の語り口に、玲子も大きく頷いた。
ちょうど一週間前。七月も半ばとなり急に夏の陽射しが強まった。例年より厳しい暑さになるという予報が真実味を帯びてくる。真夏日の暑さが一週間以上続いており、スタッフや出演者にも疲労の色が見え隠れし始めていた。モニターにはスタジオと比べると見るからに爽やかな北海道の風景が映し出されている。
レースそのものも二歳馬のデビュー戦に話題の中心がある程度で、ローカル競馬をのんびり楽しむという感じが強かった。
「いやあ暑いね、毎日毎日」
五九悪はハンカチで額の汗を拭った。
「これ以上汗かいたら鉛筆みたいに細くなっちまうよ」
「スタジオの中だから、まだまだ恵まれてますって、師匠」
半ば諦めたように言って、ディレクターの谷口竜一はコーラの缶に口をつけた。
「ま、そうだけどさ。でも何でこんな日まで競馬しなきゃならないのかな」
「でも師匠だって、始まっちゃったら暑さ忘れちゃいません?」
メイクを終えた小田部玲子が五九悪の横に座ってひやかした。
「違いねえや」
「じゃ、段取りはいいですよね。あんまり盛り上がるレースもないんで、そこのところ話で何とかお願いしますよ。あとはざっと脚本に目を通しといてください」
「まかせなさい」
形通りの確認を終え、局内の喫茶室へ行って少しのんびりしようかと立ち上がりかけた時、一人の青年が数枚の書類を持って入ってきた。アシスタントディレクターといえば聞こえが良いが、何のことはない単なる使い走りである。
「竜さん。ファックスです」
「ファックス?」
谷口竜一は面倒くさそうに受け取るとテーブルの上に広げた。
「何じゃこりゃ」
谷口の忌々しそうな声に、五九悪と小田部玲子はファックスを覗き込んだ。『本日の午後のレース結果』というタイトルが大きく記されており、その下から第6レース○番・×番。7レース○番・×番という風に、最終レースまでの馬番連勝のフォーカスが手書き文字で記されている。そして何よりも目を引いたのはその下に書かれた署名であった。『ミスターX』
「なんじゃこりゃ」
三風亭五九悪もディレクターと同じように目を丸くした。
「いるんだよね。こういう悪戯する奴。そんなに自分のこと売りたいものかねえ。あ、こんなもの捨てちゃって」
谷口ディレクターは忌々しそうに舌打ちして、ADにファックスを突返した。
谷口と五九悪そして小田部玲子も、本番が始まる頃にはそのファックスのことなどすっかり忘れてしまっていた。
事件はこの日の放送が終了して、帰り支度をしている時に起こった。いや、本当は午後のレースがスタートした時、すでに事件は始まっていたのだが、誰一人として気付く者がなかったという方が正しいのかもしれない。
「おつかれさま」
三風亭五九悪は、スタジオの後片付けをしているスタッフ達に愛想良く声をかけた。
「あ、どうもおつかれ様でした。今日も結構荒れましたね」
谷口が仕事の手を休めて師匠にいった。
「ほんとだね。嫌になっちゃうよね。だっていくらなんでも8・9・10レース、三つ続けて馬連万馬券。あれはいけないよ。ファンなくしちゃうぞ、って感じだね」
「あれ? 師匠は穴党だったんじゃ?」
谷口がひやかした。
「限度ってものがあるでしょ。限度ってものが」
五九悪は快活に笑って、スタジオの中を見渡した。
最初は気づかなかった。そのADも他のスタッフ達と同じように、器材の片付けをしているのだろうと思ったからである。
ADは五九悪や矢口ディレクターに背を向けた形でフロアにしゃがみこんでいた。ケーブルでもまとめているのかと思ったがいつもとどこか様子が違う。
普段なら愛想良く会話に入ってくる若者だった。不思議に思ってよくみると、ADはしゃがみこんだままの格好で体を小刻みに震わせている。
谷口ディレクターもADのただならぬ様子に気がついた。
「どうした。ぼうや」
谷口が声をかけると若いADは谷口の方に顔を向けた。わなわなと震える手に、何かを握り締めている。今朝、谷口から捨てるように言われたファックス用紙だった。
若者は谷口ディレクターに向かって握り締めていたその紙を突き出した。
「全部。あ、当たってるぅ」
ADはひとこと叫んで、気を失った。
4
「先週の土曜日の朝。八時頃のこと。私たちは皆様にいかにして楽しい番組をお送りするかということについて、準備というか打ち合わせをしておりました。そこに一枚のファックスが入る所から、物語りは始まります」仰々しい師匠の語り口に、玲子も大きく頷いた。
自分が仕掛けたこととは言え、思った以上の反応の早さに穂刈末人は驚いた。
先週の土曜日に初めてファックスを入れたのだが、歯牙にもかけられずそのままごみ箱行きに違いないと思っていた。何週間か根気よく繰り返している内に誰かが気付きさえすれば、きっと何らかのリアクションが出てくるだろうと信じて、のんびり構えていた。それが、二週間目で早くも反応が出た。
やっぱりミスターXという名前を使ったのがよかったのか。
午前中の涼しい内に馬券を買い終え、家に戻ってテレビを点けると、真っ先に飛び込んできたのが自分の話題であった。
「おい。恵子。ちょっと来てみろよ。テレビで俺のこと言ってるから」
穂刈は、キッチンで昼飯の用意をしている妻の恵子を呼んだ。
「本当?何かしでかしたの?」
「ばか。そうじゃないよ」
事の真相はノビーとの約束が有ったので、恵子にも秘密にしていた。だからテレビで夫のことが話題になっていると聞けば、興味を持つのも当然で、恵子は片手に包丁を持ったまま、キッチンから急ぎ足で出てきた。
恵子は穂刈の隣に腰を下ろした。
「危ないだろうが。包丁持ったままで」
「心配しないで。まだ殺さないから」
恵子は笑って包丁をテーブルに置くと、代わりにテレビのリモコンを取ってヴォリュームを少し上げた。
「驚いたことに、午後のレース全部的中していたんですよ。完璧に。しかも全レース一点で」三風亭五九悪は、経緯を面白おかしく説明し終えると小田部玲子に視線を向けた。
「でも本当だったらすごいですよねぇ」小田部玲子は、含みのある言い方をした。
「本当だったら? ほんとうだったらって。貴方も見たでしょ」
「可能性の問題ですよ。たとえば、朝入ってきたファックスと的中していたファックスが別の物だったとか……」
「ああそうか。あのADさんがミスターXとグルで、最終レースが終わってから的中しているものと差し替えたってことか。なーるほど。それはありうる」
三風亭五九悪は納得したように大きく頷いてみせる。玲子の方が五九悪のあまりの素直さに驚いて、困惑した表情を見せた。
「と、ここで頷いてしまえば、お知らせした意味がないでしょ。あなた」
五九悪はそんな玲子をたしなめるように落ちをつけた。
「そうですよね。ああびっくりした」
玲子は安堵の声を出した。
「はっきり言っときましょう。実はまた来たんですよ。ミスターXという人物からのファックスが。今朝」
穂刈末人はにやりと微笑を見せた。
「送ったの?」
恵子は穂刈に訊ねた。
「送ったよ。今朝八時前」
「ではお見せしましょう。これが、ミスターXの予言です」
予想ではなく敢えて予言という言葉を使った三風亭五九悪は、ファックスを拡大して貼り付けたボードを取り出すと、カメラに映るようにデスクの上に立てた。
「ご覧ください。間もなく発走の第6レースですがミスターXはこの通り2番―7番と予言しております。この通り決まれば、えーと、馬連で二十一倍ですが、果たしてそうなるのかどうか?さあ、函館第6レースです」
穂刈がミスターXなどと名乗ることに決めたのには理由がある。イエス・キリストのように最初は少人数の信奉者だけに情報を伝えてさえいれば、口コミによって穂刈の知名度は大衆の中にじわじわと浸透して行くに違いない。しかし穂刈はより衝撃的なデビューを望んだ。そのために選んだのがテレビである。
では何故急いだのか……?
ノビー・オーダと巡り合うまでは、穂刈自身も数多くの競馬ファンと同じように、悲しい気持ちで競馬場から帰路につくことが多かった。何処にも根拠のない怪情報に翻弄され、煮え湯を飲まされ続けてきた。そうという被害者意識が、気持ちの何処かにあった。
いんちき情報の発信源は、時には高名な競馬評論家だったり、競馬新聞のような情報紙だったりしたが。それがなんであったにせよ、共通するのは実に勝手な理論で無責任な情報をたれ流しておきながら、それを信じて損害を被った競馬ファンに対して一切責任を取ろうとしないというスタンスである。
競馬ファンは言ってみれば彼らにとってのお得意様のはずだ。普通の商売なら、客に損害を与えたならば懲戒処分を受けてしかるべきところだ。それなのに「申し訳ない」の一言も言わず平然としている。それどころか「的中した時は儲けさせてやっているのだから」と開き直る輩さえ出てくる始末である。そんな無責任極まりない予想屋どもに熱いお灸を据えてやりたい。そんな気持ちが穂刈の胸の中に膨らんできたのである。
穂刈末人はこの思いを遂げるためテレビを選んだ。情報産業の華とも言えるテレビなら ば標的にする輩たちをひとまとめにして大打撃を与えることができるはずだ。
だが思わぬ反撃があるかも知れない。その危険を回避するため、本名を隠し謎の男を演じることにしたのだった。
函館競馬五日目の最終レースが終了した。
「おそれいりましたぁ」
三風亭五九悪はカメラに向かって深々と頭を下げた。勿論、午後のレース総てが先週と同じように的中したからである。
「もう、ただただ恐れ入りました。それ以外言葉がありません。ミスターX大先生。よろしければぜひ番組まで連絡ください。よろしくなくてもご連絡ください」
五九悪は口元を少し震わせながら、畏敬の念を込めて、マジで言った。
「ぜひ、番組の中で色々なお話をお聞かせ願いたい。こう考えております。ミスターX。もし今、番組をご覧になっておられるのでしたら、ご一報を。ご一報をおん願い奉りますぅー」
テレビ画面に映し出された三風亭五九悪の顔が徐々に大きくなってくるのは、カメラがズームアップしたのではなく、三風亭五九悪の方が興奮して身を乗り出したためらしかった。その五九悪の横で、小田部玲子がなぜかオンオンと声を上げて泣きじゃくっていた。
万事予定通りだと、穂刈は微笑んだ。
5
予想家を目指すとは思いもよらなかった。
一瞬の閃きをすぐ行動に移す所がこの男の凄いところなのかもしれない。軽率さと紙一重で多分にリスキーだが、それが魅力でもあるのだ。そういう意味では自分と共通する所もある。ふとそう感じて、ノビー・オーダは苦笑した。
送り出す勝ち馬情報を、穂刈自身の予想として第三者に教える。これを許可したのは、ノビー自身である。いまさら撤回することもできないので、必要以上に表舞台には出ないよう諭すと、その辺は弁えているからと、燃える瞳をノビーに向けた。VTSを介しての会話にもすっかり慣れ、まるでノビーの姿が見えているように視線を向けて話すので、画面を見ているノビー・オーダのほうが思わずたじろぐ有様だった。主導権は自分のほうにあるのだからと諦めて許可すると、画面の中で穂刈末人は爽やかな笑顔を見せた。
穂刈が送りつけた一枚のファックスのせいで競馬専門チャンネルの中に引き起こされたどたばた劇を、ノビーも結構楽しんで見ていた。確かに視聴者にとってのインパクトは強大なものだった。放送局のスタッフはもとより、放送を見たすべての人間達も、ノビー・オーダのような存在が現実に居ようとは思い付く筈もなく、ミステリアスな予言者としてミスターXが位置付けられたことは間違いなかった。
だから三風亭五九悪の誘いに応じて次週の生出演に快く応じた穂刈末人が、果してどういう説明をしようとしているのか、ノビーは興味を持った。ガードが甘くなり、ボロを出さなければいいが。何しろ相手は百戦錬磨のプロたちである。彼らの誘導尋問に引っかかってしまえば、その先に待ち受ける物は逃げ場のない袋小路だったり、断崖絶壁や猛獣の牙だったりするかも知れない。ノビーにも分からないのだ。
穂刈末人はそのことに気づいているのだろうか。質問者の頭の回転が解答者のそれを上回っていれば、あっという間にメッキが剥がれる。向う側の人間達ならば、穂刈がノビーの存在について暴露したところでまともに取り合う者はいないだろう。問題はこちら側である。穂刈がひとことでもその関係について口に出しただけで、ノビーが不正に情報を流していることがこちらでは瞬く間に知れ渡ってしまう。ほんの思い付きで始めた悪ふざけが、ノビーにとって命取りになるかもしれない。許可を得ずして向こう側と関係を持つこと。これは法的に堅く禁じられているからである。
ノビーは、リビングの片隅に置いた木目の美しい書棚から、一冊の分厚い本を取り出した。『よく解る治安法規』とタイトルが附されている。
ロッキングチェアにもたれて、目次にある『情報の無認可転送』のページを開いた。該当しそうな部分に目を通すと、現在の情報転送に関して、その情報がいかなる種類のものであるかに関わらず、総務局情報管理部の許可を受けずに行った行為は厳しく罰せられることが明記されている。そして総務局に対する許可申請は、各組織の担当部局がこれを代行して行うこととなっている。読み進むと、例外として『情報の送り手がその受け手に対し守護の任を正式に受けており且つその情報があくまで受け手個人の利益または損失のみに係る場合を除く』とある。
要するに、守護神が虫の知らせという形で少しだけ個人的な情報を送ることくらいは認めるが、それ以外は許可なく行っては駄目。こういうことである。
そして違反すると、相当厳しい罰則が待ち受けているらしい。
手が後ろに回るのを恐れるならば、方法は確かにある。簡単なことである。今、この瞬間から穂刈末人との関係を絶てば良いのだ。
そうすれば穂刈が向うの世界で恥をかくだけで、それ以上の問題は生じない。しかしそれは動き出した穂刈の計画も、財団を辞してまで実行を決意したノビー自身のそれさえも何もしないうちに終わらせてしまうということである。それもまたな避けないことだ。
とにかく自分との関係についてだけは口が裂けても暴露することのないよう念を押す必要がある。放送中は一時も穂刈から目を離さぬよう監視して、不穏な雰囲気になってきたときは即座にアクセスして、事前に警告を出せるようにスタンバイしていなければならないだろう。不注意によって危険を生じさせることだけは絶対に許されない。
ノビーはもはや中止はできない段階に来ていると自分に言い聞かせるように、両手のひらで頬を二三度叩いた。きっとこれからの道のりは、財団を飛び出した時に想像したより厳しい物になりそうだ。ノビー・オーダは久しぶりにぞくぞくするような興奮に包まれていた。
6
前回取ったのがいつのことだったか思い出せないほど久しぶりの休暇だった。妻の恵子と連れ立って、というより恵子に先導される格好で、穂刈末人は新宿歌舞伎町に向かって歩を進めていた。
歌舞伎町といえば劇場や居酒屋、各種飲食店などの中に胡散臭い風俗店までもが堂々と軒を並べた我が国屈指の歓楽街である。反面何かと物騒な話題も多い一角で、それが大人の夜の魅力を漂わせるのだった。穂刈と恵子のような中年夫婦にとっては決して歩きやすい場所ではない。しかしまだ午後三時を少し回ったばかりで、街は本性を仮面の下に押し隠したように沈黙を守り、妙に白々しい雰囲気を漂わせていた。二人が目指す先は、大きな劇場横の路地をすこし入った所に店を構える、パーティーグッズの専門店だった。
初めて足を踏み入れた街だったが、探すまでもなく店はすぐ見つかった。居酒屋のように狭い間口に『衣装屋』と染め付けた暖簾を看板代わりにぶら下げた、お世辞にもセンスが良いとは言い難い造りだった。日が落ちてからの時刻であったなら相当胡散臭い店に見えるに違いなかった。店に入ると、きらびやかなステージ衣装やアクセサリー、仮装用のロイド眼鏡やクラッカーといった小物が所せましと並べられている。そして壁にはフランケンシュタインや狼男などの、悪趣味としか言いようのないゴムマスクがぶら下がっている。コスプレとか称して、若い女性で結構繁盛しているというのだが、穂刈には到底理解することができない世界だった。
仮面を付けた方が良いと言い出したのは、恵子の方だった。まだ正式に会社を辞めた訳ではないし、競馬というレジャーにまだまだ偏見を持った人間も数多い。それに折角ミスターXなどという妙な売り込み方をしたのだから、この際徹底的に謎の人物で通した方が面白いのではないか。恵子はそう主張した。なるほどそうかもしれないと納得して頷くと、恵子は手回し良くインターネットで歌舞伎町のこの店を調べ上げた。
店主は、店を開けたばかりのまだ眠そうな目を、不思議なものでも見るように穂刈夫妻に向けた。
「いらっしゃいませ」が欠伸と溶け合って、まったく似合わない口髭を貯えた店主の顔はくしゃくしゃになった。
「仮装パーティーをするんで、マスクが欲しいの。つけてみてもいいかしら」
恵子が店主にいった。
「どうぞ」
店主は気の入らない声で答えると、また大欠伸をしながらレジ奥の収納をあけ、何種類かのゴムマスクを取り出して陳列ケースの上に並べた。
「おいおい。ちょっと悪趣味じゃないか。これ」
穂刈は、少しひるんだような声を出した。
「面白いじゃない。ひとつ着けてみてよ」
恵子は面白がって穂刈を促した。
穂刈は少し躊躇したが、これから自分の売りになるのかもしれないと思い直して、手前のマスクを手に取ると思い切って顔に付けてみた。
「どうだ」
小さく開いた目の穴から恵子の顔を覗くと恵子はぷっと吹き出した。
「狼男みたい。ああ可笑しい」
「狼男のマスクですから……」
店主がつまらなそうにぽそりとつぶやく。
穂刈は狼男のマスクをはずし、次のマスクを被ってみる。
恵子は、また吹き出した。
「ドラキュラみたい。ああ、可笑しい」
「だって、ドラキュラだもの……」
店主がつぶやいた。
そんなやり取りを三十分くらい続けた末、思い切り謎めいたキャラクターはないのかと恵子は注文を付けた。
「ありますよ。思いっきりレアものが」
店主は半ばふてくされ気味に言うと、収納の奥をがさごそと捜した末、店主は一面のゴムマスクを持って戻ってきた。
「めったに売っちゃいないものですよ。どうです?」
店主はにやりと笑った。
「なんだ。これは」
「なにこれ?」
穂刈と恵子は思わず二三歩後ずさった。
それは妙にリアルな肌色の、ただそれだけのマスクだった。目も、鼻も、口もない、ただのっぺりとした肌色のマスク。いわゆるのっぺら坊のマスクだった。
一瞬たじろいだ恵子が、甲高い声を上げて突然笑い出した。
「いい。これがいいよ。ね、あなた。これがいい」
「ははは……」
穂刈末人は何を考えてかはしゃぎまわる恵子に向かってどうでもいいとは口が裂けても言えないので、代わりに愛想笑いを返した。
「まさかこんなマスクを売ってるなんて」
レジで支払いを済ませ、ビニール袋に入れたマスクを受け取ると、そう言って恵子は笑顔を見せた。
「まさかこんなマスクが売れるなんて」
店主はそう思って、飛び切りの笑顔を返した。
7
土曜日。ミスターXのデビュー当日を迎えた。本番に備えて昨夜は普段より随分早く床についた穂刈だったが、気持ちが昂ぶっていたせいか夜中に何度も目が覚めた。そうこうしている内に薄手のカーテンが陽射しを含んで明るくなってきた。寝不足で少し充血した目をこすりながら、穂刈はまだ鳴っていない目覚し時計を引き寄せた。六時半を回った所だった。
こんな気持ちは、もしかしたら、小学校に入って初めて迎えた運動会の前夜以来かもしれないと、穂刈は苦笑しながら蒲団を出た。
台所を覗くと、妻の恵子が朝食の支度を終える所である。きっと恵子もあまり良く眠れなかったのかも知れない。
開け放した子供部屋の中で、何も聞かされていない息子の陽介だけが、普段と変わらない気持ち良さそうな寝息を立てていた。
この日、普段と違った興奮に包まれていたのは、穂刈と妻の恵子だけではなかった。
メインキャスターの三風亭五九悪やアシスタントの小田部玲子、ディレクターの谷口を始めとする競馬専門チャンネルの関係者、そして向こう側ではノビー・オーダまでもが放送開始が近づくにつれ緊張感が高まるのを感じていた。
事の真相を知っているのは勿論ミスターXこと穂刈末人とノビー・オーダだけである。
この二人の緊張は如何にして真相を隠し通すか、いかにして真相を暴露させないようコントロールするかということが根底にある。これに対して三風亭五九悪を始めとするテレビ局の緊張は、二週間連続した全レース的中が果して単なる偶然によるものなのかどうかを見極めること、つまり本当に的中の秘訣があるのだとしたら、それを何とか公表させたいという報道に携わる人間の使命感から生じている。つまり両者の立場はまったく正反対といえた。
「もうじき到着よ。そろそろ着替えて」
恵子はレンタカーのハンドルを繰りながら、後部座席の穂刈にいった。
朝、穂刈は当然マイカーか電車を利用するものと思って気楽に構えていた所、恵子に一喝された。
「何考えてんのよ。ナンバーから足がつくかも知れないじゃない」
住まいが東京競馬場の在る府中市だけあって、近所には穂刈末人と同様の競馬ファンが多い。恵子はそれを心配しているらしい。
「足がつくって、逃亡犯じゃあるまいし。それなら電車で行って、局に入ってから着替えりゃいいだろ」
「局の人に言うわけ?ミスターXですが。変装しますので化粧室遣わせてください。……謎の預言者じゃないよね。それって」
恵子は呆れ顔を見せた。
「そうか。じゃあどうしたらいい?」
「レンタカー、手配しておいたわ。窓に黒いシート貼って中が見えないようにして」
「なるほどね。車内で着替えるわけか」
「当たり前じゃない。その瞬間から貴方はミスターXになりきらなくちゃいけないのよ。自覚してね」
「でもな。扮装してテレビ局に入ろうとして大丈夫かな。怪しまれるだろう」
「ちゃんと連絡しておきました。ミスターXは素顔を見せませんって」
恵子も何やかや言いながら、結構楽しんでいるらしく、行動が早い。
「やけに手回しがいいな。さすがだ」
「そりゃそうよ。ミスターXの女房だもの。それより、テレビ局までは私が運転して行ってあげるけど、局には入らないからね。ちゃんとミスターXになりきってよ」
そんなやり取りがあったことを思い出しながら、穂刈は窮屈な車内でゴムマスクを着けた。緊張感が見る間に高まってくるのがわかる。
「お前は本当に局には入らないのか」
緊張感とともに不安も大きくなってきて、穂刈はつい助けを求めるように妻に言った。
「当たり前でしょ。私の顔が出ちゃったら、そんなマスクしていてもあなたが何処の誰かすぐにバレちゃうでしょうが」
「そうか。でもそれじゃあ帰りは?」
「放送が終わる時間に局の駐車場に乗り入れるから、すばやく乗り込んでね。きっと向うは貴方の正体を見極めようとするはずだから十分気をつけて」
「そんな危ない橋を渡るくらいなら、お前もマスク着けりゃあいいじゃないか。そうすれば堂々と出てこられるよ。そうだ、俺がミスターXだから、おまえはミセスYってことでどうだ」
「ばか。いやらしい」恵子は何故かぽっと頬を赤らめた。
黄色に変わった信号を無視して、タイヤを軋ませながら恵子は大きく左にハンドルを切った。
競馬専門チャンネルの本社ビルは、穂刈末人を呑みこんでしまおうと両手を広げて待ち構える巨人のように、聳え立っていた。
8
矢部宗太郎はテレビのスイッチを入れた。
「おい、そろそろ始まるみたいだぞ」
「おっ。もうそんな時間か」
江崎大五郎が寝室から顔を出した。
リビングに置かれた冷蔵庫に直行した江崎大五郎は、ビールを取り出すとグラスに注いだ。
「あんたも飲む?」
「飲んじゃうとも、飲んじゃうとも」
江崎大五郎は冷蔵庫からもう一本ビールを取り出し、栓を抜いた。
「サンキュー」
矢部宗太郎はいつも通りの軽い乗りで礼を言うと、自分のグラスに注いだ。
矢部宗太郎と江崎大五郎はテレビ番組にも頻繁に登場し、軽妙な話術で視聴者を楽しませることでよく知られた競馬評論家である。二人とも明日に迫った一回函館最終日に、テレビ中継の解説を依頼されており、その下準備という名目で、昨晩から函館市郊外のこの温泉旅館でのんびりしているのだった。台本さえ無意味な二人に、早くから現地入りしてまで打ち合わすことなどあろうはずもない。たまたま今日は開催日にもかかわらず揃ってスケジュールが空いていた。それなら温泉にでも浸かってのんびりしようか、ということで意見が一致したというのが本当のところである。
北海道とはいってもこの数日間暑い日が続いている。今も既に三十度を楽に越えていると思われた。例年なら窓を大きく開け放しさえすれば、心地よい潮風が十分エアコンの代になったのだが、今年は少し違っていた。暑さに弱い矢部宗太郎は、もうだめだといって窓を閉め切りエアコンを入れた。しかも『強』にセットしたので部屋は涼しさを通りこして冷蔵庫状態になっている。そんな中で座椅子に背を持たせて足を投げ出しくつろぐ気楽な姿が、二人には妙に似合った。
「俺は忙しくてさ、見ていないんだけど、見たの?大ちゃんは」
矢部宗太郎は、四十代半ばにしては血色の良い丸顔の中に、申し訳程度にくっつけたような小さな目を江崎大五郎に向けた。
「見てない。俺は暇だったけど見てない」
江崎は呑み続けでいささか呂律が回らなくなった口調で返事をすると、カラカラと笑って「どこで知ったの?宗ちゃんは」
「スポーツ紙で見たんだよ。今日の午後テレビに出るってんで、えらい騒ぎらしい」 矢部宗太郎は忌々しそうにいった。
「俺なんか何にも知らないもんだから、恥かいちゃったよ。飛行機で隣に座ってたオヤジがさ、江崎さんでしょ。大変ですね、土曜日は、なぁんて言うもんだから、土曜日だって日曜日だっていつも大変なんですよ、なんてトンチンカンな答え方しちゃってさ。函館空港に着いてからなんか気になって、わざわざ会社に電話入れてみたんだ。そしたら、今何処にいるんだぁ、って怒鳴られちゃってさ。咄嗟に、あれ電波悪いな。モシモーシ。モシモーシ、って聞こえない振りして電話切っちゃったよ」
江崎大五郎は面白そうに大声で笑った。
「でもさ。きっと明日の解説でコメント求められるんだろ。まいったなぁ」
「ホントにまいったな。おれたちそんなにまじめに予想立ててねぇからなぁ」
江崎は甲高い声で笑った。
矢部宗太郎が、江崎につられて笑いながら何杯目かのビールをグラスに注いだ時、午前中のレースハイライトを流していたテレビ画面が三風亭五九悪のアップに切り替わった。
「こんにちは。函館競馬七日目。午後のレースは私、三風亭五九悪と」
「私、小田部玲子がおとどけします」
「さ、皆さん。今日は素晴らしいゲストをお招きしております」
三風五亭五九悪の語りだしに、小田部玲子も大きく頷いた。二人の表情はもちろん笑顔だったが、見方によっては笑顔を通り越して、何故か笑い出したいのを必死にこらえているようにも見えた。
「ワンパターンだねぇ。毎週毎週この出だしだよ」
江崎大五郎はテレビに向かっていった。
「ほんとだねぇ。何かこう、インパクトのある言葉が出ないものかねぇ。落語家でしょ」
矢部宗太郎も難癖を付けてみせる。
「さ。それではさっそくご紹介しましょう。ミスターXさんです」
カメラがスタジオの入り口に切り替わる。
ドアが開いて、そこに立った人物にスポットライトが当たる。この瞬間いったい何千何万の視聴者が思わず吹き出したことだろう。太ってはいないのだが悲しくも下腹が少し目立つ中年の体形を、黒装束は見事に強調していた。背にまとったマジシャンのような黒マントも、その体形まで隠してはくれない。そして、ひときわ目を引いたもの。それは男が被ったゴムマスクだった。
スポットライトに照らし出されたその額には、大きく太い『X』の赤文字が染め付けられていた。そればかりか、もともと何もなかったはずの顔面もパンダのように縁取られた目とアンパンマンのような鼻、そして福笑いのお多福を連想させるおちょぼ口まで、くっきりと描かれている。
「良くお越しくださいました。ミスターX」
三風亭五九悪は本気で笑いながらミスターXを自分の隣のシートに促した。
矢部宗太郎と江崎大五郎は、テレビ画面に映し出されたミスターXのインパクトの強さに絶句した。自分達の予想スタイルも普通の予想家と比べれば十倍もインパクトの強い物だという自負があった。しかし、今テレビに映っている謎の人物はそのまた百倍も凄いではないか。
「先々週そして先週と二週続けてのパーフェクト予想。我々一同感服いたしました」
五九悪はそう切り出すと、深々と頭を下げた。
「ばーか。マグレだよ。まぐれ」
「おい、五九悪。そんなにちやほやするな」
矢部と江崎はテレビに向かって悪態をついた。
「実は今日せっかくミスターX先生に来ていただいたので、我が方もあの江崎大五郎さんと矢部宗太郎さんを招いて、予想合戦をしようという企画を立てたんですが、どういう訳か二人とも行方不明になっておりまして」三風亭五九悪は少し身を乗り出した。「函館に向かったという情報はあるんですが。江崎さーん。矢部さーん。湯の川温泉あたりでビールでも飲んでいるのでしたら、連絡くださーい」
矢部宗太郎と江崎大五郎は、揃ってビールを思い切り吹き出した。
9
「基本的には、消去法に基づくものなのです」
的中の秘訣はという三風亭五九悪の問いかけに、ミスターXはゆったりとした口調で切り出した。
「どんなレースでもメンバー的にみて、三着までに来ることは絶対にない、そんな馬が出走馬の内半分以上です。第一段階として、それらを無条件に消すことです」
「なるほど。しかしそれが結構難しいんじゃないですか」
五九悪は興味深げに先を促した。
「そんなことありません。簡単なことです。出走馬の脚質構成や気合などを見ると、これは要らないという馬は結構見えてくるものです。例えば次の第6レースを見てみましょうか。パドックを見ただけですが、十二頭のうち、3番と5番…。それから7・8・9・10・12。この七頭は要りませんよね」
「え、5番のツインゴッドは断然の人気馬ですが、これも消しなんですか?」
「私たちは馬じゃない。人気といっても、はたして何が基準になっているのでしょう?」
「それは専門家の評価とか……」
ミスターXは三風亭五九悪の一言に、我が意を得たりというように手を打った。
「そう。そうでしょう。まさしくそれが元凶なのです。だいたい五着までにも入らない馬までをも推奨馬として挙げておきながら、はずれて責任も取らない輩が、なぜ専門家なのでしょうか。私には解りません。もしできればパドックを回っていた時の映像をもう一度出せますか。そういう専門家達が推奨するツインゴッドをもう一度見てみましょう」ミスターXが言うと、画面が瞬く間に切り替わった。
「ほら、見てください。ツインゴッドの目。輝きがまったくないでしょう」
ミスターXは自信たっぷりに言った。馬の状態などそれなりの人間から強くいわれると、そのように見えてくることをよく知っているミスターXだった。
「あ、本当だ」
案の定、三風亭五九悪は素直に納得したようだった。
「徹夜明けのサラリーマンみたいに、虚ろな目をしているのが判りませんか。馬は生き物であること。これを忘れちゃあ、その時点で外れたも同然なのですよ」
ミスターXの思いつきの説明に、五九悪と小田部玲子は大きく頷いた。しかし、馬の目を見て、生きているとか死んでいるとかなどわかろう筈がない。五九悪も小田部玲子も、結局ミスターXの言葉によって暗示をかけられたのである。
「あとは残った馬の中から細心の注意を払って勝ち馬を見つけ出せば良いわけです。6レースの場合残りは五頭しかいないので、簡単ですね」
「簡単じゃあありませんよ。五頭から二頭を選ぶわけですからね。組み合わせは十通りもあるじゃないですか」
小田部玲子は丸顔の頬を膨らませてブーイングをしてみせた。
「残った五頭が皆同じレベルだと思うから難しくなるわけですよ。軸になる一頭を見付けさえすれば、フォーカスは四通りまで絞り込めるでしょう」
「そのとおりですが、それが難しくて我々いつも泣いているわけですよ。どうやって中心馬を探し出すのですか?」
膨れ面をし続ける玲子に変わって五九悪が後を引きうけた。
「勘です」
ミスターXは平然と言ってのけた。
「勘とおっしゃっても、……」
質問を重ねようとするのを制するように、ミスターXは三風亭五九悪に視線を向けた。
三風亭五九悪は、なるべくゴムマスクの顔を正面から見ないよう心がけていたのだが、突然至近距離から見つめられ、思わずプッと吹き出した。
「そうです。信じられないかもしれませんが勘なのです。古い話ですが『日本沈没』という映画ごらんになりました? クサナギ君のじゃなくて藤岡弘が主演した……」
「ええ……」
五九悪は小さく頷く。
「映画の中で『直感とイマジネーション』という言葉が使われますね。まさしくそれなのです」
ここでミスターXは、前に置かれたオレンジジュースに口をつけた。視聴者や局の関係者には一寸喉を潤しているくらいにしか映らなかったが、この時穂刈はすっかり慣れたテレパシーを使って、ノビー・オーダと交信したのだった。
「ノビーさん。います?」
「おう。ちゃんと見ているぞ。それにしても変な顔だな」
「お願いがあるんですが」
「なんだよ」
「五九悪さんに、声ではなく、第六感みたいな形で6レースの勝ち馬を教えてやることができませんか」
「できるよ。朝飯前だ」
「ありがたい。それじゃあ私がきっかけを作りますので、一回だけお願いして構いませんか?」
「よし。やってみよう」
ノビーは楽しそうな声を出した。どうやら穂刈主導で放送は進んでおり、今の所一線を越えることもなさそうだった。
「いいですか。目を閉じて真剣に感じようとするのです。そうすれば必ず閃く物なのですよ」
ミスターXは暗示をかけるようにいうと、今度は五九悪師匠を挟んで反対側に座った小田部玲子の方に顔を向けた。小田部玲子はプッと吹き出した。
ミスターXはポケットから一枚の白い封筒を取り出すと、五九悪師匠の前を手で横切るようにして玲子にそれを手渡した。
「今お渡しした封筒には6レースのフォーカスを記した紙が入っています。もちろん私の予想を書いた物です。五九悪さん、さあ、目を閉じて勝ち馬を感じようとしてください。はいどうぞ」
三風亭五九悪師匠はミスターXの合図に素直に目を閉じる。そしてほんのわずか沈黙したが、次の瞬間驚いたように大きく目を開いた。
どうやらノビーが絶妙なタイミングで情報を送ってくれたらしい。
「どうです?閃きませんでした?」
「ひらめきました。確かに閃きました」
「閃いたフォーカスは何でした?」
「4番と11番」
五九悪師匠は少しおどおどとした声で言った。4番のクリントンも11番のセピアもともに人気薄の穴馬だったので、発言が公共の電波に乗ることを考えれば、よほどのことがない限り口に出せるフォーカスではなかったからである。
「玲子さん。先ほどの封筒、開けてみてください」
小田部玲子はミスターXから預かった封筒に鋏を入れ、中から一枚の紙片を取り出すと、恐い物を見るような仕草でそれを広げた。玲子は一瞬絶句したが、すぐに紙片をカメラに見える位置に掲げた。
「ご覧ください。師匠の感じた馬番とピッタリ一致しています。驚きです」
玲子はアナウンスを入れながら、カメラの横に立っている若いADに目配せをした。ADは打ち合わせの時に玲子から密かに渡された一万円札が財布に入っていることを確認すると大きく頷いて、次の瞬間脱兎のごとくスタジオを飛び出して行った。
第4章 いつもそこにある危機
1
週が変わった月曜日、日本競馬会と競馬専門紙出版業協会による合同緊急会議が競馬事業会館に於いて催された。日本競馬会は云うまでもなく競馬を開催する機構で、競馬の運営そのものを管理している。競馬専門紙出版業協会は数多く発行されているいわゆる競馬予想紙の内容向上と、そこで働く職員の社会的基盤の安定を目的に結成されたものである。聞けば堅苦しい感じがするけれど、要するに業界皆仲良くやっていきましょうという寄り合いである。競馬会がファンを満足させるためのレースの組み立てを行ない、協会を構成する各誌が、組み立てられた競走が馬券的に面白いものにるよう情報作りを行う。いってみれば持ちつ持たれつの関係だった。
招集された緊急幹部会の議題は、もちろん先週土曜日に放送されたミスターXの予言についてである。
彗星のごとく現れたミスターXなる謎の男が一体何を狙っているのか。今の所実害が出ているわけではないが、あらかじめ何らかの対策を講じておく必要があるのかないのか。そのあたりの意見を交歓しておこうということだった。
もう少し長時間トークに応じるものと思っていたら、関係者達の意に反して、ミスターXは6レースを的中させるとそそくさと帰ってしまった。事前にテレビ局からミスターXがゲスト出演するということだけは知らされていたが、結局協会の方も煙に巻かれた形になった。しかし第6レースは万馬券に近い大穴を見事的中させたし、放送中ほんの短い時間ミスターXからレクチャーを受けただけの三風亭五九悪が、まるで何かが乗り移ったように最終レースまで完全的中を重ねたので、協会も改めてミスターXの実力を認めざるを得なかった。
言うまでもなく三風亭五九悪の連続的中は種を明かせばノビー・オーダが潜在意識に情報を割り込ませたことによるものだった。しかし視聴者はもとより、緊急会議に名を連ねた競馬会と協会のメンバー、そして当の三風亭五九悪本人さえそのことに気づいてはいない。だから驚異的といえるその事実を体験者の口から直接聞きたいということで、緊急幹部会議に唯一の接触者である三風亭五九悪と小田部玲子が招聘されたのも当然といえた。
三風亭五九悪も協会のそういう思惑は理解できた。だがいったいどう説明したら良いのだろう。五九悪は気が重かった。何故かといえば、ミスターXから授かったはずの必勝法が一日限りのものになってしまったからである。全レースを的中させたあの予想法が、プライベートで臨んだ日曜日にはまったく役に立たなくなってしまったのである。
競馬事業会館の特別会議室は幹部専用に作られたものらしく、楕円形をした重々しい木製の会議用卓を中央に、見るからに高級そうな本皮張りの椅子が周囲に配置されていた。演壇やホワイトボードに類したものは見当たらず、代りというわけではないが、部屋の後方にソファーとガラステーブルを配した懇談エリアが設けられ、グラス類を収納した紫檀のサイドボードと洋酒のボトルを数本乗せたワゴンが置かれていた。会議室というより幹部たちの懇談室という色合いの濃い場所のようである。
三風亭五九悪と小田部玲子は、それぞれの名前を記したプレートが置かれた席に腰を下ろした。椅子は二人がこれまでの人生で腰掛けたことのあるどんな椅子よりも柔らかく、殆ど沈み込んでしまいそうな感触で二人を受け入れた。既に席に着いていた七・八名の出席者達が二人に好奇の目を向けた。
何か場違いなところに来てしまったような窮屈な感じでいると、二人の正面に座った恰幅の良い紳士が立ち上がりにこやかに右手を差し出し握手を求めた。
テーブル上に身を乗り出すようにしてその手を握ると、五九悪はほっとするような温かさに包まれた。
「五九悪さん。玲子さん。わざわざお呼びたてし、申し訳ありません。懇親会とでも思って、どうぞ気楽にしてください。よろしければ何か飲み物でも」
日本競馬会理事長の吉勝太郎は競馬専門紙出版業協会の特別顧問を兼任している。三風亭五九悪も小田部玲子もそのことは良く知っていたが、実際に会うのは初めてだった。
三風亭五九悪と小田部玲子は係りの女性にコーヒーを頼んだ。
「何とも不思議な人間が出現したものだと、いささか困惑しているというのが正直な所なのです」
理事長は椅子に腰を下ろすとそう云って五九悪と玲子を交互に見た。他の出席者達も同感だという様子で大きく頷いた。
「実際、ミスターXなる人物と直接対峙したのはお二人しかいないわけでして、どんな感じだったのかを伺いたいのです」
理事長はそう続けると、パイプ煙草に火を点けた。
突然ドアが大きく開いて、二人の男が賑やかに飛び込んできた。矢部宗太郎と江崎大五郎である。
「どもっ。遅くなりましたぁ」
「よっ。五九悪ちゃん。しばらく」
仕事上付き合いの長い五九悪と玲子が神妙な面持ちで控えているのを見て、ふたりはにこやかに笑って見せた。
「君たちはあそこに座ってくれないか」
理事長は自分達の座る場所を探している矢部と江崎に、後方のソファーを指差した。
「あそこ?」江崎大五郎は理事長が指差した懇談エリアを見やった。
理事長がにこやかに頷くのを見て、二人は不平も言わずソファーに腰を下ろした。賑やかな二人の登場で、緊張していた三風亭五九悪と小田部玲子の気持ちは少し軽くなった。
矢部と江崎が席につくのを見届け、それまで出入り口の傍に立っていた若草色の派手なジャケットを着た中年の男が、全員揃ったことを理事長に告げた。
「始めましょうか」
理事長は温厚な人柄を感じさせる穏やかな口調で、男に指示した。
男は頷くと会議室のドアを閉め、出席者に向かって姿勢を正した。
「突然招集をかけましたことにつきまして深くお詫び申し上げます。現在の所ミスターXなる人物の登場による被害が出ているわけでもなく、このような会議を招集する必要が本当にあったのかどうかさえわかりません。しかしその人物がこの先どう動くかによっては、少なからず我々にとってマイナスとなる局面が生じることも予測できると思います。転ばぬ先の杖ということで、ミスターXが今後どのような行動に出ても対応できるよう、今日はフリートーキングでご意見を交歓したいと考えております。では、理事長からお願いいたします」
男は台本を読むようにそれだけ言うと『予想紙ジャスト企画部長』のプレートが置かれた席に腰を下ろした。
「それでは五九悪師匠と小田部さんにお聞きします。ミスターXが何を計画しているのか。このことについて、先日の放送中直接ミスターXと話をされた中で、何か感じられることはなかったでしょうか?」
理事長の質問は単純なことだった。けれどもそれはミスターXがこれから先どのような行動に出るにせよ、考慮しなければならないことに違いない。出席者全員が興味深げな表情で、三風亭五九悪と小田部玲子の発言を待った。
「まったくわかりません」
三風亭五九悪はきっぱりといいきった。それは出席者全員を落胆させる答えだった。
「実は私たちもオンエア中に何とかその辺のことを探ろうとしていたのです。ミスターXの予想が常識では考えられない的中率だということ。これに関しては先週までのデータで局の上の方でも確認済みでした。だからもしミスターXが就職先として局を考えたのであれば、喜んで迎えようという結論まで出しておりました」
五九悪は正直に言った。
「そうでしょうな。企業としては当然の結論だと思いますよ。しかし、ミスターXからその希望は出なかった」
「はい。意外なことにまったく出ませんでした。というより、もしそういう要望がなかった場合にはこちらから誘いをかけて、私たちに有利な方向へ誘導していくつもりでした。ところが皆さんもご承知の通り、あっという間に帰ってしまった。何をしようにも時間がありませんでした。私たちとの接触も、皆さんがテレビで見ておられた通りのものでしかありません。レース中継には実況という時間の制約が付きまといますから慌てて後を追う訳にもいかず、逆に我々の方が翻弄されてしまったようですなぁ」
五九悪が申し訳なさそうに答えると、小田部玲子も大きく頷いて見せた。
「競馬グリーンの板垣です」と名乗りを上げて、頭の切れそうな目つきの鋭い青年が立ち上がった。「新聞社に入りたいとか、自分で予想紙を発行しようとか。そういう含みもなかったのでしょうか?」
「まったく、ありませんでしたね」
「いったい何を企んでいるのかな」板垣は席に座った。
「板ちゃん。板ちゃん」
懇談エリアの江崎大五郎が大声を出した。誰から許可を得たのか、ワゴンのボトルを開け、洋酒の入ったグラスを手にしている。
「自分で何かおっ始めるにしても、何処かの社に入るにしても、どうでもいいじゃん。そんなこと」
「その通り」
矢部が大声で同意した。矢部もまたなみなみと琥珀色の飲み物を満たしたグラスを持っている。
「どうでもいいことではないですよ」
板垣は気色ばんだ。
「どして?」
「百パーセント的中するんでしょ。そんな予想屋が売り出したら、そりゃもう独占企業でしょうが。競馬ファンが当たらない新聞を買うと思います?」
「買わネェだろうな。そんなもん」
「そうでしょう。だとすれば、我々の商売が成り立たないじゃないですか。倒産ですよ。あっという間に」
「するってぇと何かい? 板ちゃんのとこじゃあ、当たらない新聞作ってるわけだ」
揚げ足を取るように言って江崎はカラカラと嗤った。笑われた板垣は言葉に窮した。
「そうやってまじめに考え過ぎるから見えるもんも見えなくなっちまうんだよ」
江崎はテーブルの上にグラスを置いた。
「相手が当たる新聞で来るなら、こっちも当たる新聞出せばいいんだよ。出せば」
「そりゃあそうだけど、できるわけないじゃないですか。そんなこと」
板垣はふざけたことを言うなとでもいいたげに、顔を真っ赤にして江崎を睨みつけた。
「頭悪いんじゃないの。簡単ジャン、そんなこと」
江崎は楽しそうに笑った。会議室に集まった全員から発せられる鋭い視線が江崎と矢部に集中した。二人は一瞬たじろいだ。
「ヤ、ヤだなぁ。そんなコワイ目で見ないでくださいよ」
「それではお聞かせ願いましょうか。完全予想が簡単だとおっしゃる訳を」
会議の最初に挨拶をした予想紙ジャストの企画部長が代表して二人に詰め寄った。その口調には、ふざけたことを言ったら退席させるぞという語気が含まれている。
「みんなそんな恐い顔しちゃあヤだってば。今の件だって、シンプルに考えりゃいいんじゃないかな。ミスターXが何処に所属していようと結局することはたったひとつでしょ。競馬の予想だよね。だったら僕らはミスターXが予想を発表するのをじっと待っててさ、出てきたフォーカス見て『あ、僕のと同じだ』ってことにしちゃえばいいじゃないの。なぁんにも考えなくっていいし、ミスターXが的中なら僕たちみんな的中だよ」
「その通り」
矢部が大声で合いの手を入れた。
緊急会議の出席者全員が、江崎の単純な、そしてまったく危機感の欠如した発想に唖然とした。
「せこい。せこすぎる」
板垣は胸の奥でそうつぶやいた。
2
重苦しい気持ちを抱えて、穂刈末人は競馬専門チャンネルのスタジオを出た。妻と大はしゃぎして乗り込んだテレビ局だったが、実際に中に入ってその空気に触れた時、上辺は華やかに見えるその世界が、穂刈のイメージしていたものとまったくかけ離れている場所だということを知らされた。
競馬専門チャンネルという長たらしい名前のテレビ局で、計画通り穂刈末人は衝撃のデビューを果した。また番組の中で穂刈の気持ちを暗澹とさせる具体的な事件が起こったわけでもない。三風亭五九悪や小田部玲子を始めとする番組関係者達も、穂刈を暖かく迎え入れてくれた。思い通り自分が主導権を取って進行させることができたと思う。きっと数多くの視聴者も、楽しんだり、驚いたり、喜んだりしたことだろう。
しかし本当のことをいえば穂刈はスタジオに一歩足を踏み入れた時から、テレビ局はこれから先長く付き合っていける世界ではないという思いに包み込まれていた。それは自分に対する温かさの裏側にある、打算の影のせいだった。ミスターXに向けられた視線は驚きや尊敬というものではなく、嫉妬と羨望の光を宿しているように感じられた。どうにかしてミスターXから予想の秘訣を盗み取ろう。できなければミスターXもろとも抱き込んでしまおう。そういう局の思惑が、スタジオの中に充満していた。
テレビならば直接予想を立てるのが仕事ではない。だから無責任な予想屋達を懲らしめるには格好の舞台になる。最初、そう確信して乗り込んだテレビ局だった。しかしその考えが誤りであることに穂刈末人はすぐ気が付いた。
考えてみれば矢部宗太郎や江崎大五郎のようなタレント予想家が、ゲストとして常時出演する世界である。密接な関係が存在しないわけがない。そういう世界に新参者が乱入したとしても結局何もできはしない。いかに的中を重ねたにせよ、ニュースソースとしての鮮度が落ちてくれば結局は数多いタレント達と同格で、単に良く当たる予想屋として体よく干されて行く存在となるだけなのだ。そんな弱気の虫が、穂刈末人の胸の中で、もぞもぞと蠢き出したのだった。
どの業界にも、業界なりのしがらみが存在する。それは当前のことだ。それが嫌ならば迂闊に踏み込んではならない。穂刈は自分に言い聞かせた。そして、第6レースの結果を見極めると、必死で引き止める五九悪師匠達から逃げ出すように、テレビ局を後にしたのだった。
予定よりずいぶん早く出てきたので恵子とうまく落ち合えるかどうか心配だったが、こんな事もあろうかと思ったらしく恵子は駐車場で待機していた。
「ずいぶん早いのね。なにかあった?」
ハンドルを繰りながら、恵子は心配そうにいった。
「いや、なにもないよ」
穂刈はゴムマスクを外して一度大きく深呼吸をした。スタジオは適度に冷房が効いていたのでそれほど気にならなかったが、マスクを外した途端、滝のような汗が噴き出した。
「何もなかったんだけど、だめだよ。俺には向いていない」
「そうかも」
恵子はあっさりと頷いた。
「ま、デビューはできたんだ。無難な所だろうな。あのくらいが」
ノビー・オーダの声が聞こえた。
「自分でもそう思うよ」
穂刈はつい声に出して返事をした。
「そうよ。でも面白かった」
恵子は自分に対する返事と勘違いして優しく言うと、アクセルを踏む脚に力を入れた。
今後のテレビ出演を断念した穂刈は、完全予想を提供する他の手段を模索し始めた。
ミスターXのテレビ出演は、きっと数多くの純粋な競馬ファンに衝撃を与えたに違いない。ミスターXの次のアクションを待ちわびる競馬ファンも、きっとたくさんいることだろう。そのような期待を裏切ることはできない。
穂刈は自分勝手にそう思いこんだ。それはせっかく見つけた進むべき道を、たった一度の挫折だけで簡単に放棄してなるものかという、穂刈自身の思いと繋がっていた。
だがどんな方法があるのだろうか。私設の予想紙を出版するには、資金も準備期間も相当かかりそうだ。発行に漕ぎ着けるまでに、障壁がどの程度あるのか予想もつかない。印刷はどうするのか。流通させる手段はあるのか。穂刈にとって未知の部分が多すぎた。それに穂刈が標的としているのが予想紙に所属した予想陣なのだから、自分が同じ事を始めるのも世間体が良いとは言えないだろう。
テレビもだめ。新聞もだめ。後は何が残されているのだろうか。穂刈末人の心は次第に重く沈んでいった。
クーラーも入れず、どのくらいの時間ぼんやりしていたのだろう。玄関のドアが開く音にふと我に返って時計を見る。間もなく四時半になろうとしていた。
「ただいま」
陽介がばたばたと騒々しいスリッパの音を立てて、居間に顔を覗かせる。
「おかえり」
「ママは?」
返事の代りに陽介は母親を探した。
「車を返しに行ってる。買い物もあるらしいし」
「暑いよ」
陽介はクーラーを入れると、穂刈の隣に腰掛けた。
穂刈はリモコンを操作して、テレビを点けた。朝、出掛けにチャンネルを合わせたままだったので、三風亭五九悪と小田部玲子が映し出された。つい先ほどまで一緒に会話をしていた人間がまた別の世界に戻ってしまったような、奇妙な感覚に包まれる。
「師匠もすごいですよね」
「何が?」
「何がって。ミスターXからほんの少し指導されただけで全レース的中でしょう。素質ありますよねぇ」
「まあね。でも、ミスターXはこれからどうするつもりなのかなあ? テレビにも出ないようだし」
「本当ですよね。一人占めするつもりなんでしょうか。それはないですよね」
「お願いしますよ。一人占めは良くないですよ。また連絡ください」
五九悪師匠も玲子も、ミスターXがこの先どうやって予言を発表するつもりなのか図りかねているようだった。
「インターネットかもね」
ミスターXが自分の父親であるとは思ってもいない陽介が、何気なくポツリとつぶやいた。そのつぶやきが、穂刈末人の心臓を見事に貫いた。
「い、いま、なんといった!」
穂刈はがばと立ち上がり大声を出した。
陽介は驚いて飛び上がった。
3
結局何の結論も出ないまま、会議は終わった。三風亭五九悪と小田部玲子はタクシーを拾って、取りあえず局へ向かうことにした。車内は冷房が効いており、結論のない話し合いに疲れた二人にとってこの上なく快適な空間になった。睡魔が容赦なく襲った。
「いわれてみれば、江崎さんの言うことが案外的を得ているような気もしてきたよ。ミスターXはいったい何を考えているのかねえ。何だかよくわからないんだけど、嫌な予感がするんだ」
三風亭五九悪は眠気を振り払うように、誰にということもなくつぶやいた。
「そう思いますよね。マスコミの予想陣に対して,なんだか反感を持っているみたいな気がして」玲子も幾分眠そうな声で答えた。
「そうだなぁ。ああやってスタジオから逃げ出した所を見ると、何か企んでいるに違いないんだろうがね。だけど、何処に予想を発表しようとしているのかなんてことは、実はそれほど重大なことじゃないような気もしてきた。この世の中だ。やろうと思えば発表の場なんていくらでもあるさ。俺が言いたいのはそんなことじゃなく、何か嫌な予感がするってことなんだよ。それが何なのか……」
三風亭五九悪はじっと目を閉じた。
「何か嫌な予感がする」
理事長室のゆったりとした椅子に腰掛け、秘書が入れてくれたコーヒーの豊潤な香りを楽しみながらも、吉勝太郎は重い気持ちを払拭できずにいた。確かにあの騒々しいタレント予想家達が言うように、ミスターXが何処に身を置くかなどということはさほど問題視することではないのかも知れない。吉勝太郎の胸中にはもっと深刻なある不安が芽生え始めていた。まるで空想科学小説のようなそんな事態が実際に起こるのだろうか。何も心配することはないと否定しようとすればするほど、その小さな不安の芽は大きく膨れ上がっていった。吉勝太郎の顔から、会議中に参加者の前で見せていた温和な表情は消え去っている。
「細川君」
理事長は、インターホンのスイッチを押した。
「はい。何でしょうか」
秘書の若々しい声がスピーカーから流れ出した。
「捨文王老師に電話を繋いでくれないか」
吉勝太郎は沈んだ声でそう指示すると、静かに目を閉じた。
捨文王は黒のスーツに蝶ネクタイといういでたちで執務室のデスクにつき、各支部からの報告書に目を通していた。デスクライトの白色光は十分な明るさだったが、視力そのものが年相応に落ちてきて、書類の細かい文字を追うスピードがめっきり遅くなった。文字がじんわりと滲んで涙が出る。時々疲れ目に良く効くという目薬を点すのだが、その効き目も持続性が有るとは言い難い。
「年くったもんだな」
捨文王は少し自嘲的に苦笑すると、老眼鏡を外し、親指と人差し指で眉間をつまんだ。
二十畳はありそうな広い執務室は捨文王が座っているデスク側から見て真正面に出入り口の重厚なドア、右手の壁には夕暮れ時の牧場を駆けるサラブレッドの写真を入れたパネルが数点飾られている。パネルのちょうど下に、ガラステーブルを挟んで本皮張りのソファーと肘掛け椅子が二脚、来客用として配置されていた。
部屋の左側面は、右側とは対照的に、全面をガラス張りにしたテラス風の造りとなっている。ガラス張りの外側は、潅木の小さな茂みと、その向うには高さが5~6メートルほど有りそうな岩肌がそびえていた。そしてその岩肌を、心地よい水音を聞かせながら幾条かの細い滝が流れ落ち、まるで水墨画のようなたたずまいを見せている。
しかし林も滝も人工的に作られたもので、岩や作り物の倒木でカモフラージュしているものの、よく見ると立ち木を植えた素焼きの鉢が、隠しきれずに覗いている部分さえあった。見かけは広い自然の中に作られた執務室という印象だったが、どうやら奥行きはせいぜい5メートル程しかない。その作り物の庭から執務室に差し込む穏やかな陽射しも人工的な照明装置によるものだった。
捨文王は、自分の人生も結局この部屋と同じように、作り物に過ぎないのではと感じることがあった。今でこそ表向きには農場経営と観光事業の会社を合法的に営んでいる。だが大陸から終戦のどさくさに紛れてこの地に足を踏み入れ、組織を拡大していくことに全力を費やしていた当時は、かなり悪どい仕事にも手を染めた。自分自身の理想境を築き上げるためとはいえ、障害となるもの全てをを何のためらいもなく犠牲にして来た。そうやって半ば強引に奪い取った戦利品を、思い通りにレイアウトして、現在の世界を作り上げたのである。
出来上がったものは捨文王にとってそれなりに満足できるものとなった。それは捨文王の勝手な思い込みに違いなく、多分よく見ればガラスの向う側にある作り物の庭のような不自然さが見え隠れしているのだろう。大袈裟に言えば、これまで自分が犠牲にしてきた数多くの人たちの怨念が満ちているのかも知れない。
自分も既に八十の声を聞く年齢になった。気が付くとこの人工の理想境に、何も知らずただ自分を慕って集まってくれた、実に多くの人たちが住みついている。これから先はそういう人たちがいつまでも安心して暮らしていけるよう、この世界を維持管理していくことだけが自分に課せられた使命なのだろう。それが唯一の罪滅ぼしであるに違いない。捨文王はそんなことを考える日々が多くなっていることに気付いていた。
デスク上のインターホンが、柔らかい音を響かせた。
「協会の吉勝太郎様からお電話です。如何いたしましょう」
理知的な女性の声がスピーカーから流れ出した。
「あれま。吉くんからだってか。そりゃ珍しい。繋いでくれや」
捨文王は懐かしそうに目を細めて秘書に指示すると、煙草入れの蓋を開けキューバ産の葉巻を一本取り出した。
「御無沙汰しておりまして、申し訳ありません。グランパ」
吉勝太郎の声にはなぜか重苦しい困惑の響きが有った。
「なんもさ。あんたも忙しい身だから、仕方ないべさ。元気が何よりだわ」
捨文王は穏やかに言って目を細めた。吉勝太郎の声が沈んでいる理由は察しが付いている。
「で、今日わしに電話をくれたのは、やっぱしあれかい?ミスターXの件?」
「先生もご覧になりましたか」
「見た見た。昔からほれ、好奇心結構強いもんでな。いっつも婆ちゃんにヤキ入れられとる」捨文王は大声で笑った。「で、冗談でなく、吉くん。あんたの心配しとることは聞かなくったってよ、すぐわかるんだわ。だけどな、そんな心配事がいったいほんとに起こるんだべか。一寸ついてる奴の、まぐれ当たりなんでないかい?わしはそう思っとる。実際この先ミスターXとかいうバカ者がどんな手ぇ打ってくるつもりなんだかわからねえけどナ。それを見極めてからでも遅くないんでないかい」
「きっと、グランパのおっしゃる通りなのでしょう。しかし心配でたまらないのです」
「取り越し苦労だべぇ。もしあんたの心配事が本物になるようならょ、その時はわしが何とかしてやっから」
「ありがとうございます」
「でよ、万が一の時の根回しでな、君にひとつだけ頼みがあるんだわ」
「はい。ミスターXの割り出しですね」
捨文王の依頼に吉勝太郎は即座に答えた。
「んだ。その通り。正体さえ判ればやりやすいべ。だけどな探し出すのはけっこう骨ぇ折れるかもしれねえぞ。あっちも警戒しているはずじゃからな」
「はい、何とかやってみます」
「あんたのとこさうちの若い者を何人か行かせるから、うまく使ってけれ。悪いけどよろしく頼む」
受話器を置くと、捨文王は手にしていた葉巻の端を噛み切り、火を点けた。豊潤な香りが捨文王を包み込む。目をつぶると吉勝太郎の困惑した表情が脳裏に浮かんだ。
「そったらばかなことが、本当に起こるってかい」
一瞬過ぎった不安を打ち消すように葉巻の煙を一気に吹き出すと、捨文王はインターホンのコールボタンを押した。
「はい。何でしょうか」
秘書の声が返ってくる。
「伊達針之介は、今どこだべ?」
「ラスベガスです。例の代議士の件で。もうすぐ完了すると報告が入っております」
コンピューターのキーを叩く軽やかな音が聞こえ、即座に答えが返ってきた。
「週末にでも顔を出せって連絡を取って欲しいんだわ」
捨文王は秘書に指示すると立ち上がり執務室の出口へ向かった。出口は捨文王が近づくと自動的に左右に開いた。捨文王は地上へと繋がるエレベーターに乗りこんだ。
4
派手という言葉では完璧に物足りない毒々しいまでにカラフルな電飾が、ラス・ヴェガスの街全体を埋め尽くしていた。不夜城と呼ぶに相応しいきらめきと熱気が、甘く上等の酒となって降り注ぎ、街に集う者たち総てを陶酔の空間へと誘おうとしている。酒と女とギャンブルだけに市民権を与えられた無秩序な賑わいが、そこに集う人間どもの知性や理性を完璧なまでに麻痺させている。
その象徴のように、街のほぼ中心にカジノを抱えた巨大なホテルが聳えている。そのスィートルームから、一人の大物日本人が姿を消した。男の名は玉野幸次郎。“タマコー”のニックネームで知られる豪傑である。
その玉野幸次郎がホテルから忽然と姿を消した。誘拐されたのである。
警護していたはずのボディガードたちは皆見事なまでに睡眠薬をかがされ眠りこけている。事件が発覚したのは、玉野幸次郎が拉致されてから一時間も経過した後だった。
伊達針之介は夜闇に閉ざされたグランドキャニオン飛行場の滑走路の片隅に佇みそれの到着を待っていた。初夏とは言え真夜中の峡谷は震えが出るほど寒い。伊達針之介は思わずコートの襟を立てた。
やがて暗黒の空間にエンジン音が聞こえ始めた。
伊達針之介はコートのポケットからペンライトを取り出すとスィッチを入れる。普通のペンライトとは比較にならないほど眩い光が点る。資材部で作った特殊ライトだった。伊達針之介は小走りに滑走路に飛び出すとセンターライン上に、閃光を放つ数本のペンライトを30メートルほどの間隔を空けて配置する。一機のセスナを誘導するにはそれで十分だった。
十分ほどすると小型機は軋みを上げながら着陸し伊達のすぐ傍まで滑走して停止した。
ドアが開けられ中からサンドバッグのような荷が無造作に投げ落とされた。ドサッという音と同時に苦しそうな呻き声が洩れた。
伊達針之介は駆け寄ってライトを当てる。身動きができないようにロープでぐるぐる巻きに縛られ、口は新しいガムテープで閉じられているが、着陸してから貼り直されたようだった。確認するまでもなく玉野幸次郎だった。
巨人のようなアメリカ人パイロットが近づき、確認したかという表情で伊達針之介を見た。伊達針之介は親指を突出してみせ、飛行場の隅にライトを向けた。一台の車がライトの中に浮かび上がる。パイロットは渋々頷くと、玉野を楽々と担ぎ上げ伊達針之介の車まで運んだ。
約束の手間賃を払って礼を言うと、大男のパイロットは何も言わずにセスナに乗り込んだ。
「タマコーさんよ。あんたいったい何をやらかしたんだい?」
玉野幸次郎を助手席に何とか押し込むと、伊達は運転席に座りエンジンキーをひねった。アストンマーチンDB5は静かな排気音をたてる。伊達針之介が運転するこの車は、英国諜報部からの払い下げで、まるでスパイ映画に出てくるような秘密の装備がなされた物だった。例えば、現在自分が町のどのあたりにいるのかを即座にモニタリングする装置がある。また本部からの指示を録音したテープをワンタッチで再生する機能も備え付けられていた。それらの中でも伊達針之介が最も気に入っているオプションは、シフトレバーに仕込まれたスィッチにより運転席がドライバーもろとも天井に開いた脱出口から飛び出すという仕掛けである。
この装置はもともと助手席に座った敵を車外に放り出す為のツールだったが、伊達自身の希望で資材部の責任者である田中久(愛称Q)に運転席の脱出装置として作り直させた物だった。脱出用だからシートごとおよそ十メートルほど車から離れた時点でパラシュートが開くという仕組みになっている。
伊達針之介は腕時計を覗いた。午前三時少し前だった。
「まあ、あんたが何をやらかしたのか、俺には関係ないことだがね。とにかく地獄の入り口まで送っていってやろう」
伊達針之介は車を発進させた。
飛行場から数分間、森林の中に切り開かれた舗装道路が続いたが、カーブを曲がると突然片側の林が消えた。ヘッドライトに照らし出されたものは、大きく右へカーブするアスファルト道路だけしかない。しかし伊達針之介の運転するアストンマーチンは、減速する兆しさえ見せない。車はあっという間に道路を外れ、そのまま漆黒の闇へと飛び込んだ。高さおよそ千メートルのグランドキャニオンの渓谷へとダイブしたのだった。助手席に座らせられた玉野幸次郎の両目が恐怖のためかっと見開かれた。
伊達針之介はシフトレバーのグリップについた蓋を開け、赤いボタンを押した。大きな破裂音がして天井の一部分が外れた。星空が見えた。脱出口である。同時に伊達針之介はシートごと一気に持ち上げられるような感触を覚えた。さあ飛び出すぞ。伊達針之介は身構えた。
が、次の瞬間伊達針之介は脱出口周囲の天井と、自分が座っているシートとの間に挟みこまれ身動きが取れない状態に陥ってしまった。
「シートベルトはずすの忘れた」伊達針之介は自分の迂闊さを後悔した。
伊達針之介は猛烈なスピードで破滅へと落下していくのを感じた。
5
出雲敏房はスランプに陥っていた。
正確に言えば穂刈末人が暫く姿を見せないので、勝ち馬情報が途絶えて馬券が当たらなくなったということである。函館開催も残す所あと一週間。地方開催の期間東京競馬場は場外馬券売り場としてそれなりに賑うが、かつてほどではなくなってきた。電話投票やパソコンによる購入が可能になって、テレビの前に座ったまま競馬を楽しむファンが急増したためなのかもしれない。
だからというわけでもないが、穂刈が来場さえしていれば出雲敏房にはすぐわかるはずだった。それが姿を見かけなくなってもうひと月ほどになる。体を悪くして入院でもしているのではなかろうか。的中につぐ的中で競馬がかえってつまらなくなり、もう止めてしまったのだろうか。どこかの競馬専門紙にスカウトでもされて一般人の前に出てくる事ができなくなってしまったのかもしれない。
もしかしたら僕の事が嫌いになって、本当は来ているのに、どこかに隠れているのだろうか。いやだ。そんなの嫌だ。出雲敏房はつい不吉なことばかり連想し、思わず涙が零れるのを覚えた。
昼休みが終わり第6レースのスタートが近づいている。オーロラヴィジョンに映し出された函館競馬場は、これ以上の好天はないぞと言わんばかりの青空の下に有った。それに比べると、東京競馬場はもう梅雨も明けたはずなのにじっとりと重苦しい曇り空に包まれていた。
出雲はメインスタンドの堅いシートに腰を下ろした。ゲートの後ろで輪乗りをする出走馬たちの様子が、巨大なオーロラビジョンに映し出されている。やがて、明るいオレンジ色のスーツに身を包んだスターターが、赤いフラッグを力強く左右に振る。ファンファーレが高らかに鳴り響く。レースのスタートである。
全馬のゲートインが終わり、スタートが切られる。淡々とした流れでレースは展開し、何の起伏もなくそのままゴールイン。出雲敏房はただぼんやりとその模様を見ているだけだった。なぜか力が入らない。こんな調子だから脳細胞も活発に働くはずもなく、スランプに陥るのも当然だった。
「またハズレだよぉ」
出雲のすぐ後ろで、若者のボヤキ声が聞こえた。
「マジで?このレースはずすようじゃ、思いっきり終わってるジャン」めちゃくちゃな日本語で連れの若者がからかう。
「まあ次のレースを見てなって」からかわれた方もさらりと受け流し「しかしあのミスターXって予想屋、その後どうしちゃったんだろうな」と話題を変えた。
何気なく耳に入ってきたミスターXという名前に、出雲敏房は何故か心が共鳴するのを感じ取った。
「番組のレギュラーになるのかなって思ったんだけど、あれっきり出てこないしぃ」
「それにしても凄いやつだよな」
耳に入ってくる後ろの二人の会話に、出雲は直感は見る間に膨らんでいった。
そうかもしれない。もしかしたらミスターXと穂刈さんは同一人物じゃないのだろうか。きっとそうだ。そうに違いない。
この出雲敏房という男には重大な欠陥がひとつだけ有った。ある思いが胸の内に膨らんでくると、それを自分の中だけに留めておくことができない。自己コントロールができないということだった。
出雲はすくっと立ち上がった。
「俺。知ってるよぉぉ」くるりと振り向きざま、後ろの男たちに向かって出雲は大声を出した。
出し抜けに大声を浴びせかけられ、図体ばかりでかいが気の弱そうな若者たちは、飛び上がらんばかりに驚いた。
「何をだ、オッサン!」
ぜいぜいと肩で息をしながらかろうじてそれだけ言って、二人は出雲を睨みつけた。
「なにをってあんた。もちろん、ミスターXの正体をだよ」
「マ、マジすかぁ」二人は更に驚いて立ち上がると、口を揃えて叫んだ。
「大マジ。マジの極地」出雲は胸を張った。「俺の大親友で競馬の達人がいるんだが、それがミスターXその人なのだ」
「その辺りのお話を、少し詳しく聞かせてもらいましょうか」
どこからか湧いて出たように、この蒸し暑さにもかかわらず黒のスーツをきっちりと着こなした三十がらみの男が、二人組みの背中越しにぬっと現れた。
出雲、二人組み、そして現れた男の立っている位置関係は階段状スタンドで出雲が一番下段。その上の段に若い二人組み。一番上が最後に現れた黒服の男という並びである。だから最後に現れた男が威圧的な大きさを誇っているように出雲敏房には感じられた。男は若者二人の間をこじ開けるようにして前に出ると、出雲敏房に名刺を差し出した。
競馬専門紙出版事業協会調査員・幸円仁と印刷されている。
「サーチ・エンジン、さん?」
出雲は男の痩せこけた顔と渡された名刺を交互に見比べた。
「コウマル・ヒトシといいます」と黒服の男は名のった。
「あ、そう。で、いったいなんだい?そのあたりのお話っつうのは」
「アンタの友人がミスターXだ。そう聞こえたんですが」
「この競馬専門紙出版事業協会ってのは?」
出雲は男の質問には答えず、また名刺と黒ずくめの男を交互に見比べた。
「競馬新聞社の寄り合いという所ですよ」
「ああ新聞の人」
一応納得した風に相槌を打ったが、出雲は男のいでたちや横柄なものの言い方にどこか暗く、そして冷酷な影があるのを感じとってていた。それは危険な香のする影であった。先ほどまで楽しそうに騒いでいた二人連れもは、いつの間にか姿を消している。触らぬ神に祟りなしというところだろう。
「そうか、わかった。そのなんとか新聞協会って所でも、やっぱ、正体をあの人だと思ってるんだ。やっぱそうかぁ。そうなんだ。スゴイなあ。あのオヤジ」
「え。ま、まあその通りだよ」
幸円仁は出雲敏房の物怖じしない素振りにいささかたじろいだ。
「で、幸ちゃんよ。一体俺にミスターXの何を教えていただきたいんだい?」
「こ、幸ちゃん?」
幸円仁は腹立たしさをぐっと抑えて、無理やり笑顔を作って見せた。
「だから、その男の住所とか、電話番号だとか、家とかそういうことだよ」
「知らないよ。そんなこと」
出雲はさらりと言ってのけた。事実競馬場と、あの居酒屋でしか会った事がないのだからあながち嘘ではない。
「だってさっき友達だって言ったジャン」
「だって、ここでしか会った事のない友達だから、仕方ないでしょ」
「それじゃ、名前だけでも教えてよ」
幸円は諦めた。名前だけでも分かれば、あとはどうにでもなるだろう。すぐ調べは付くはずだ。幸円仁はそうする事に決め、内ポケットからペンと手帳を取り出した。
「で、名前は?」
「ミスターX」
「ミスター……。そうじゃなく!」
「ははは。からかっただけだぁ」
出雲敏房は高らかに笑った。
どうやら、スランプから脱出できそうに見えた。
6
玉野幸次郎は成田へ向かう飛行機のシートに窮屈そうに座っていた。ボディガードの皆神頼が隣に座っているのだが、いつ玉野幸次郎の雷が落ちるかそればかり気になって、いつものようにその視線は空中を漂っていた。
玉野幸次郎は自分の身にいったい何が起こったのか、エコノミークラスの窮屈なシートに拘束された格好で、必死になって思い出そうとしていた。
カジノからホテルの自室に戻った所で、待ち構えていた数名の男たちに麻酔薬を嗅がされ不覚にも気を失った。気がつくとゴーゴーとひどくやかましい音のする乗り物の中にいた。しかも合成皮革を張った安っぽいシート上に無造作に放り出された格好である。身を起こそうにも体がまったく動かない。どうやらロープでがんじがらめに縛られているらしい。手も足も出ないとはこういうことなのだろう。せめて首だけでも動かすことができれば。玉野幸次郎は思ったが、シートと背もたれの交点に頭が押さえつけられるような格好になっていたので、それもできない。玉野幸次郎はチッと舌打ちをした。
不意に体全体が大きくひねられ、高速エレベーターで一気に下降するような不愉快な感覚を玉野は覚えた。もしそれを幸いと呼ぶことが許されるならばの話だが、幸いにも玉野の日本人離れした巨体は遠心力の影響で、シート上から床に激しい音を聞かせて転げ落ちた。座席の継ぎ目から一瞬開放された玉野の目は、操縦桿を握る大男の背中とフロントガラスの向こうに広がる夜の闇をしっかりと捉えることができた。せいぜい十人程度を定員とした小型飛行機の中に違いなかった。
「ユー、オールライ」
パイロットは玉野に背中を向けたまま言った。
「バカヤロウ!オールライなわけネエだろうが。おおいてぇ。貴様、この俺をどうしようってんだ。ザケンナよ!俺を誰だと思ってやがるんだ。タマコーだぞ。タマコー。後悔するぞ」
玉野はここぞとばかりに大声を張り上げてまくし立てた。
「オーケイ、オーケイ。ウィル ビー ランディング スーン」
パイロットは笑いながら言うと、操縦桿を握ったまま振り返った。ジェットコースターのように、玉野幸次郎を乗せた機体は大きく旋回しながら急降下を始めた。
「オー!ナウ アイ ファウンド ザ エアリア。キャン ユー シー? メイ ビー ディーマン ウィル ビー ウエイチング ユー。ヨッホー!」
「うるせえ!なにがキャン ユー シーだ。この、ばかやろう。もう少し丁寧に、オーー 運転せんか」
狭い機内では大柄の玉野幸次郎とさらに巨大なパイロットとの大騒ぎが繰り広げられた。
そしてついに……。
数回大きくバウンドしながらも、巧みなブレーキ操作で小型機は闇の中の着陸に見事成功した。
ここまではこんな感じだったな。間違いない。
玉野幸次郎は確認するように頷いた。記憶という脳の働きは不思議なものだ。すっかり忘れていたことでさえ何かのきっかけ、たとえば出来事の発端をつかんだりすると、全体を一気に思い出すことがある。このときの玉野幸次郎がそうであった。混沌とした記憶の続きを思い出そうとゆっくりと目を閉じた玉野は、自分がすでにそれをすっかり思い出していることに気づいて驚いた。
着陸すると玉野はあのでかいパイロットに荷物のように担がれて、待機していた乗用車の助手席に押し込まれた。
それでも今度は足が地に着いているし、乗用車といっても十分大型で、乗り心地は小型飛行機と比べて遥かに快適だった。
しかし乗用車の運転手が最悪だった。何を思ったのか猛スピードで走りはじめ、挙句の果てにカーブを曲がりきれずに道路から逸れると、そのまま崖から飛び出したのである。見上げると天井にぽっかりと四角形の穴が開いて、その穴にドライバーがなぜかシートごと引っかかって、ヘルプ・ミーなどと叫んでいたのを覚えている。
やがて自分とを乗せたまま車は落ち続け、玉野の意識は遠のいていった。
玉野幸次郎は肘掛についたコールボタンを押した。国会中継やバラエティ番組で有名な玉野幸次郎が乗り合わせているということで、乗務員の間でも結構盛り上がっていた。その男からのコールだからと言うわけではないが、客室乗務員の対応はいつに無くてきぱきしている。
「お呼びですか?」
プロポーション抜群の美人キャビンアテンダントが待ち構えていたように用件を聞きに来る。
「すまんが何か飲み物をいただきたい」
「何をお持ちしましょうか?」
「そうだなあ。お嬢さん。あなたのその美しい瞳のように澄み切った、ジントニックをいただこう」
「かしこまりました」キャビンアテンダントは笑顔でオーダーを受けると、キッチンへと戻り、注文されたドリンクを準備した。
「何を気障なこと言ってるんですか。エコノミークラスですよ、先生。庶民が注目しています。軽率な言動はやめてください」
皆神頼が声を潜めるように勇気を出して、玉野幸次郎をたしなめた。
「わかってるって」玉野は苦々しい表情で若いボディガードを睨んだ。皆神頼の視線が空間に戻る。
「今、最後のシーンを思い出そうとしているんだから、声をかけないでくれたまえ」
玉野はまた目を閉じた。
ドスンと大きなショックがあって、玉野幸次郎は我に返った。お誂え向きに助手席側のドアーが衝撃ではずれ落ちていたので、ロープで縛り上げられた格好でも芋虫さながら全身をくねらせるようにして車外へ脱出することができた。玉野を縛り上げたロープもさすがに緩みが出ていた。ずきずき痛む全身の力を振り絞って、玉野幸次郎は立ち上がった。体に纏わりついたロープをなんとか外してようやく解放されたとき、キャ二オンの空は朝焼けに染まっていた。
玉野は周囲を見回した。乗用車の歪んだ車体の向こう側、およそ30メートルほどのところに黒スーツの運転手が倒れている。生きているのか死んでいるのか、ピクリとも動かない。不思議だったのは運転手を逃すまいとするように座席が男に覆い被さっていて、シートにはパラシュートが取り付けられている。パラシュートは巨大なもので風を含んでばたばたしている傘の部分だけでも、半径20メートル近くありそうだった。車は玉野と運転手を乗せたままこの巨大なパラシュートのおかげでグランドキャニオンの底に軟着陸できたのだろう。
玉野幸次郎は危険を感じた。もしあの男が意識を取り戻したら、今度は自分の身が危険に曝されるに違いない。本能的な直感だった。
近くで何かが動く気配がした。驚いて振り返るとすぐ近くに一本の杭が打たれ、小さなロバが一頭繋がれていた。ロバには。既に鞍まで着けられている。
玉野が近寄るとロバは甘えたような仕草で体を擦り寄せてきた。思わず微笑んだ玉野幸次郎はロバの鞍についた書類ケースに何かが入っていることに気づいた。抜き取ってみると一通の封書で、玉野幸次郎殿と記されている。
玉野は封を空けて便箋を取り出した。便箋には達筆なペン字で、こうしたためられていた。
『告。
党費を自らの遊興に当てるとは万死に値する不祥事である。貴殿のこれまでの功績に免じ、公にするところではないが、一ヶ月以内に工面して元に戻すことを命ずる。もしそれができなければ、ギッタギッタにしてやるので承知すること。
内閣総理大臣・恋占淳一郎』
署名には公印まで押印されている。
玉野幸次郎はすくみあがった。恋占淳一郎という男は、やると言ったらやる男だ。ギッタギッタが果たして如何なるモノか、それはよく知らないが、とにかくギッタギッタにされてはたまらない。だから一刻も早く日本に戻って、金の工面をしなければならない。そのためには向こうに倒れているあの黒い背広の男が意識を取り戻す前に、あるいは誰かがあの男の死体を発見して警察が動き出す前にここを立ち去ったほうが賢明だろう。玉野幸次郎はそう決断し、つぶらな瞳で玉野を見つめる小さなロバの手綱を取った。
第5章 ヨミランド
1
警視局監視部監視課のモニタールームは異様な雰囲気に包み込まれていた。数多くのケースを目の当たりにしてきた職員たちにとっても、経験のない事例だった。
もともと不正アクセスは受け取る側はともあれ、情報を流す側、つまり犯人にとっては得るものがまったくない犯罪といわれていた。受け取るほうの利害を考えれば、発信源が何処だろうかという推測は比較的容易なのだ。流し込んだ情報を受け手に送ろうとすれば大容量の電磁波が放出されるから、犯行も発覚しやすい。いわゆる割に合わない犯罪のはずだった。
いかなるシステムであろうと実用段階に入る直前には、警視局監視課の大型コンピューターに接続され、それを経由して初めて立ち上がる仕組みになっている。不正アクセス防止のためである。アクセスしたときには正規であれ不正であれ、必ず記録に残ることになる。だが今、監視課で注目しているミスターXの連続的中のケースにおいて、情報管理局の専用コンピュータは作動していない。コンピューターを使わず情報を送る技術など考えられなかった。ならばどこかにもぐりの発信基地でも存在するというのだろうか?
やむなく監視課長は捜査部に電話を入れた。
「どうやらミスターXの連続的中は、不正アクセスによるものではないと思われます」
「そんなばかな!」
捜査本部長タクラ・マクラは不機嫌そうに声を荒げた。
「あれほどまで連続した異常的中が、偶然や合法的なアクセスであるわけがなかろう」
「しかし、現に監視課のコンピューターは止まったままです。不正アクセスだとすれば、未認可のシステムを用いて何処か他の発信基地からと言うことに……」
「競馬関係のことだ。グッドラック財団の企画研究部に問い合わせは?」
「監視課の分掌事項外です。それで捜査部に連絡を」
「分かった。もういい。何か動きがあれば連絡をくれ」
タクラ・マクラは苦笑し、受話器を耳に当てたまま指先でフックを押して電話を切った。
「融通の利かないやつだ。また他人任せか」とつぶやいてフックを押した指を離す。
交換台に繋がる。
「グッドラック財団に繋いでくれ」と指示すると、電話は待たせることなく財団を呼び出した。
「はい。企画開発部長のジー。ワンと申しますが。」
受話器を通して不安そうな声が聞こえた。
ノビー・オーダは、久しぶりにのんびりした日々を過ごしていた。ホームページ開設の準備に専念するから、およそひと月間馬券の購入を休みたい。そう穂刈末人から申し入れが有ったからだ。実のところ、ノビーはこの申し入れに少しほっとしていた。ほんの一日だけとは言え、マスコミを使って派手に騒いだわけだから、穂刈の連続的中を不審に思う者が出始めても不思議ではない。計画がスタートしたとたんに追手がかかるのではハンデがきつすぎる。ゴールがないので所詮どこかで捕まる運命としても、大逃げを打ってできる限り水を開けておきたい。そのためにもこの一ヶ月間の休養は大きな意味がある。怪しいと勘ぐる者がいても、ひと月も動きを止めていればほとぼりも醒めるはずである。そして今度はテレビとは違って、ホームページという地味な所で再開する計画だから、気が付いて捜査を始めるのも相当遅れることだろう。これで追手を大きく引き離すことが可能になる。展開は逃げ馬有利。ノビー・オーダにとって理想的なレースとなりそうだ。
ノビーはロッキングチェアに体を預け、半ば夢の中に漂いながらぼんやりとそんなことを考えていた。
風鈴が風に泳ぐような音が聞こえた。あまりの心地よさにうたた寝をしていたノビー・オーダの脳細胞が、それが来客を告げるチャイムの音色であることを理解するまで、かなりの時間がかかった。いったいどのくらいの時間うとうととしていたのだろう。二日酔いの朝のように夢と現実とが溶け合って、居心地の良い眠りの淵からノビーが這い出そうとするのを拒んでいるようだった。
寝ぼけまなこを擦りながら、おぼつかない足取りで玄関に向かう。
「どなた?」
大きな欠伸をしながら、ノビーはインターホンのボタンを押した。
「突然お伺いして申し訳ありません。警視局の者です。ちょっとお尋ねしたい事があってまいりました」
ドアの外からインターホンを通して妙に丁寧な男の声が聞こえた。
警視局と聞いて、眠気はいっぺんに吹き飛んだ。もう足が付いたのか。ノビーは爆発しそうな心臓の鼓動を感じながら、諦めたように玄関のドアーロックを外した。
「先週の土曜日の事なのですが、不正アクセスが原因と思われる、奇妙な事件が発生しまして」
紺色のスーツに身を包んだ男は、警視局の調査官ミッチ・アキュと名乗ると、すぐに核心に触れてきた。調査官としてのキャリアを金縁の眼鏡を通して差し込んで来る鋭い眼光が物語っている。
「競馬関連情報の不正なアクセスが疑われるものですから、グッドラック財団に伺ってきました」
ミッチ・アキュはノビーに入れてもらったコーヒーを美味そうににすすった。
「以前にも、競馬予想の不正アクセス事件を担当した経験がありましてね。財団にはその折、事件解決のためいろいろとご協力いただきました」
ミッチ・アキュは遠くを見るように目を細めて、穏やかに言った。
「きっとノビーさんも良くご存知の事件だと思いますがね」
「ええ、よく覚えていますよ。向こう側で徳下という有名なテレビキャスターが大儲けをした、あの事件ですね」
「そうです、そうです」
アキュは嬉しそうに相槌を打った。
「で?今度の事件もそれと関係が?」
「そういうわけではありません。あの時は単に通常より強い出力を用いた、違法アクセスでした。今度の事件は、結果だけ見ると数週間続けての完全的中と、いかにも度を越しています。しかも総てのシステムに繋がっている警視局の大型コンピューターは動いていない。そんな事が可能かどうか。それを知りたかったものですから……」
「なるほど。それで、財団に問い合わせた所、つい最近退職したノビー・オーダという研究者が解決のヒントを知っているかもしれない。財団からそう教えられて、ここへ。というわけですな」
「そう。その通りです。さすが読みが早いですな。財団で、部長さんから伺った通りですな」
ミッチ・アキュはノビーを持ち上げるように言うと、楽しそうに笑った。しかしその目は決して笑ってはおらず、相変わらず他人を射すくめる光を宿しつづけている。
ノビーにとってミッチ・アキュは確かに敵である。しかしその内面から発するものに、自分と共通項があるような感じがした。自分がこうと決めたことに向かう時決して妥協をしないまっすぐな性格が見て取れたからだ。年の頃もノビーとほぼ同じくらいだろうか。同じスポーツ競技を戦うライバルという感じがした。
「まず第一に、昔からある伝達システムを使ったとすれば、必ず警視局の機械が作動します。それにこの方法ですと、受け手が100%送り手の意思を理解することは不可能に近いでしょうね」
アキュをライバルとして位置づけると、かえって腹が据わった。
ノビーは子供を諭すような口調で言った。
「財団ではいまVTSという新しいシステムを開発中です。これを使えば可能かもしれませんが、残念ながらまだ完成していません。私の見立てではまだ半年ほどかかると思います。それに……」
ノビーは少し口篭った。
「どうしました? 何でも仰ってください」
ミッチ・アキュは表情を変えずにノビーに先を促した。
「これは私が財団をやめた原因でもあるんですがね、そのVTSも今は管轄が政治局に移っていると思いますよ」
「そうらしいですな」
そんなことは百も承知していると言うような口調でアキュは先を促した。
「だとすれば財団のVTSがもし完成していたとしても不可能でしょうね」
「どうしてです?」
「だってそうじゃありませんか。正直言ってグッドラック財団のアクセス管理は多少ルーズなところもあります。公私混同したような使い方をしてもあまり大袈裟にならない限り大目に見ているような甘さを感じることもありました。でもいま管轄換えになって政治局から担当職員が出向してきているわけですよね。それじゃ無理でしょう。もし財団の装置を用いての不正アクセスをお疑いでしたら、VTS開発室にアクセス記録が残されているはずですから調べられたら如何ですか」
「よく分かりました。ところでノビーさん。VTSというのは、いったいどんなものなのですか?」
「ヴォイス・トランスポート・システム。簡単に言えば、向こう側の特定した人間と会話ができる装置。そう考えていただいて良いでしょう」
「そんなことができるんですか?」
アキュはどうやら本当に驚いたらしく、ノビーの方に身をのり出した。
「部長から聞いたのでは?」
「あの方の話は、時空間がどうの、タイムアクセスがどうのと、ちんぷんかんぷんで」
アキュは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「なるほど。よくわかりますよ」
ノビーも笑い声を出した。
「本当に向こう側と会話する事が可能なのですか」
アキュの瞳に、一瞬今回の事件とは別の何かが浮かんだように見えた。隠し立てしても始まらないだろうから、ノビーは素直に説明を始めた。
「会話ができるといっても、受け手の心に話しかけるのです」
「というと?」
「これまでの方法は、精神波動を専用機で飛ばすことによって行っていたので、受け手にとってその感じ方は単なる閃きのようなものになります。だから感受性が強い人間とそうでない人間とでは、かなりの差が有りました」
ノビーは、一呼吸置いてアキュの反応を見た。アキュは底光りする視線を、相変わらずノビーに注いでいる。
「VTS方式ですと先方の心の中にはっきりとした声が聞こえることになります。受け手が送り手の声を幻聴と判断しない限り、会話をする事が可能となりますね。出力の問題も受け手が送り手と同調したことを理解しあった形で始まりますから、むしろ非常に弱い電力で事足ります。あとは受け手が送り手の言葉を信じるかどうか。それだけです」
アキュは黙って説明を聞いていたが。その表情に驚きの色が急激に広がっていくのがノビーにも分かった。
「いや、突然窺いまして申し訳ありませんでした。またそのうちご協力お願いすることもあろうかと思います。そのときはまたよろしくお願いします」
ミッチ・アキュ捜査官はにこやかに言って帰っていった。
ノビー・オーダは自分の受け答えに不備がなかったかどうか旨の内に思い出してみた。多分大丈夫だろうとノビー・オーダは判断を下したが、不安はいつまでも続いてぃくようだった。
2
犯人はノビー・オーダだろう。公式にはまだ未完成にしても、ノビーが言っていたVTSという装置は既に完成している。ミッチ・アキュは、そう確信していた。ノビー・オーダの言っていた通り従来の伝達方法を用いた不正アクセスであれば、ミスターXの感受性が並外れて優秀だったとしてもここまで完璧な結果を出すことなど不可能だろう。監視課の録画をアキュも見たが、十中八九不正アクセスによるものであろう。100%そうであると言い切れないのは、監視用コンピューターが起動していないためだった。
ミッチ・アキュの推理はこうだ……
ミスターXは不正アクセスによる情報を得た。これまでの方法では無理だが、VTSを使えば情報を流すことができるとノビー・オーダがいう。財団で研究開発中のVTSは、今のところまだ完成していない。ジー・ワン部長のコメントである。監視課の大型コンピューターは動いていない。この三つの条件が正だとして、これらを満たしさらに犯行が可能となる方法があるか否かを考えればいいわけだ。結論は……
答えはひとつしかない。
VTSは既に完成しており、犯行に使用された。しかしそれは財団に有る装置ではない。別の誰かが完成したVTSを所有しているのだ。
ミッチ・アキュの頭に浮かぶ人物は、ノビー・オーダであった。突然の退職やその理由などもそう考えれば見事に一本の線でつながるではないか。ミッチ・アキュは自分の推理に自信があった。
ミッチ・アキュは今日中にも逮捕状が取れるものと思っていた。
局に戻り定例の操作会議に臨もうと捜査本部のドアに手をかけたミッチ・アキュは、ふと違和感を感じた。そのわけはすぐ解った。『不正アクセス事件捜査本部』と墨書きした看板がなくなっている。中を覗いてみたが誰もいなかった。デスクに戻ろうか会議室で待機していようか躊躇していると、廊下の少し先にある部長室あのドアが開いて捜査本部長のタクラ・マクラが顔を出した。本部長はアキュに気づいて手招きをした。
「収穫があったようだな」
アキュを部屋に招き入れて、本部長はそう切り出した。
「はじめから見えていますからね。明日か周囲を固めていきます……」
「そのことなんだがな」
アキュの張り切った様子を持て、本部長は少し悲しそうな目をした。
「本件に関する捜査は打ち切る。監視部から正式に事件性無しと報告があった」
「何故監視部分際の指示に従わなくてはならないんです」
ミッチ・アキュはプライドを傷つけられたように怒りを露にした。もともと監視部は捜査課の中に作られたひとつの係だった。監視を必要とする案件の増加により、係から課そして部へと規模を大きくした部門なのだ。権限はほとんどない。
「まあ聞け。私ももちろん突っぱねたよ。しかしその後すぐ、今度は政治局治安部長から直々に連絡が入った」
「タカマ・ガハラから?」
マクラ本部長は黙って頷いた。
驚いて立ち尽くすミッチ・アキュに本部長は追い討ちをかけるように
「VTSのプロジェクトも現在の財団から政治局直轄に管轄が変わる」
「それは知っていますが、いったい何を画策しているんですか?」
「知っていたか。……とにかく政治局が総てを見越した上で、これ以上捜査はするなと云っているわけだ。余計な詮索はするな。この捜査本部も解散になった」
厳しい口調で釘を刺すと、本部長は口を閉ざした。
ミッチ・アキュは家路についた。警視局から自宅まではマイカーで概ね三十分の道程である。そのちょうど中間地点辺りに、ログハウス風の『ポトス』という洒落たカフェバーが有った。アキュは仕事帰りにこの店に立ち寄り、ひとりのんびりとコーヒーを楽しむのが好きだった。しかしこの日、ミッチ・アキュには連れがいた。ノビー・オーダである。
本部長から言われた捜査打ち切りをミッチ・アキュは納得することができなかった。
政治局からの圧力ということだから、アキュごときの力では如何ともしがたい。
たびたび経験することだったし、あれこれ詮索しても良い結果に変わることなど決してなかった。だからミッチ・アキュはタクラ・マクラ本部長からの通達に対して「そうですか。判りました」と素直に了承したという姿を見せた。だがアキュの胸の内には不満が蓄積していた。
何のための警視局なんだ。今ようやく盛んになってきた政治の自由化運動も、国の上層部がこんな具合ではまったく意味を持たないものになってしまう。都合が悪くなれば圧力をかけて封じてしまえばよい。これではすべて創造主族の思いのままではないか。自由化の運動はポーズだけなのだろうか。少し『圧力』に抵抗してやろうか。ミッチ・アキュは決心した。
ミッチ・アキュから電話を受けたノビー・オーダは、もはやこれまでと覚悟を決めた。まだ殆ど何もしていないのだから、罪だってそんなに重い事もないだろう。気楽にそう考えると、さほど落胆もしなかった。ただ、張り切っている穂刈末人に、申し訳ないという思いだけが残った。
ノビーは急いで身支度を整えると、指示されたログハウスの喫茶店に向かった。
店に入ると、ミッチ・アキュは既にテーブルについて美味そうにコーヒーを楽しんでいた。店全体の証明は嫌みにならぬ程度まで押え込まれ、テーブルの一卓ごとを天井に取り付けた淡いスポットライトがムーディーに浮き上がらせている。
ノビーが店内に入ると、アキュはすぐ気付き、大きく手招きして白い歯を見せた。ノビーが軽く手を上げて近づくと、アキュは笑顔のまま向い側の椅子に腰掛けるようすすめた。
「この店、気に入ってるんですよ。静かに考え事ができる」
アキュは穏やかに言った。
ノビーはいわれるままに腰を下ろした。
ウエイトレスにマンデリンを注文する。
「貴方の仕業ですね?」
ノビーのコーヒーが運ばれるのを待って、アキュは単刀直入に切り出した。その声には強い信念のようなものが感じられた。
「やはり隠し通せるわけがないか……」
ノビーも悪びれずに答えた。まだ走り出したばかりだということが少し残念だったけれども、肩の荷が下りたような気もした。
「それにしてもこんなに早いとは思いませんでした」
砂糖もミルクも入れず口に運んだマンデリンのほろ苦さが、ノビー・オーダの心から敗北感を跡形もなく消し去っていった。
「商売ですからね、一応」ミッチ・アキュは愉快そうに笑い「安心してください。今日は貴方を逮捕するつもりで呼び出したわけではありません」と、続けた。
ノビーはミッチ・アキュが何を考えているのか計りかね、真意を探ろうという視線をアキュに向けた。
「ところで、ノビーさん。夕食はもう済ませましたか?」
アキュは話題を変えた。どう説明したら良いか、言葉を捜す時間を取ろうとしているのが、ノビーにもわかった。
「まだなんですよ。色々しなければならない事があって、食事はいつも不規則です。体には良くないんでしょうがネ」
「お互い様ですね。それじゃ、軽食でよければなにか食べましょう」
ミッチ・アキュは、ノビーの返事を待たずにウエイトレスを呼んだ。
食事を終えたアキュは虚空を見つめるような瞳で考えをまとめているようだった。やがて何かを思いついたようにノビーのほうに視線を向けた。
「何をたくらんでいるのかは解りませんが……」
ミッチ・アキュは思いつくままを話し始めた。
ノビー・オーダはアキュの説明を興味深そうに聞いた。アキュの推理はノビー・オーダもなるほどと頷けるものだった。
政治局はその企てを達成するためにVTSがどうしても必要だった。だが財団の装置はまだ開発途上である。VTSがいかなる機能を持った装置かと云うことは、財団の説明によって知っていた政治局だったが、具体的なイメージとして浮かんでこない。政治局で持ち上がった何らかの計画も、それが障壁となって先に進まない。そこで政治局は大胆な仮説を立てた。VTSは別の形で既に出来上がっているのではないかと言う仮説である。
「でもね、ノビーさん。この仮説をたてるのは、そう難しいことではなかったと思いますよ。今朝少し貴方に話をお聞きしただけで、私にも、ああVTSは既に完成しているんだなと言うことが感じられましたからね」
アキュは金縁めがねの中から射竦めるような視線をノビー・オーダに送った。
「説明のどの部分です?」
ノビーはプライドを捨てて訊ねた。
「あなたはこう云いましたね『出力の問題も受け手が送り手と同調したことを理解しあった形で始まりますから、むしろ非常に弱い電力で事足ります』受け手が人間であるからにはどの程度の電力が必要なのかと云うことは完成したものがあってそのテストを行った結果からはじき出されるものじゃないんですか。それに加えて先週土曜日あなたは10ダースものバッテリー乾電池をまとめ買いしています。これはもう間違いないと思いましたよ。乾電池を使用すると言うことならば、そう大きなものではない。たとえば携帯用のようなVTSが完成しているに違いないとね」
ノビーに反論の余地はなかった。さすがにすごい洞察力だ。素人の浅知恵でごまかせる相手ではないとノビーは認めた。
アキュによる推理は最終段階に入った。
政治局はその仮説を元に大きな賭けに出た。担当部局を財団から政治局に変更するというアクションである。財団は面子を潰されることになるので、必ず何らかの動きを見せると踏んだのである。
「ところが動きを見せたのは財団ではなく、ノビーさん、あなただった。これには政治局も少し驚いたでしょうね」
「なるほど。そうこうしているうちに私がミスターX事件を起こした。違法行為の不正アクセス事件だから警視局が動いてノビー・オーダは忽ちの内に逮捕されるだろう。下手をすると政治局の画策まで表に出てしまうかもしれない。そうなるくらいなら、事件をなかったことにしてVTSが如何なるものか見極める時間を作るほうが得策と判断した。そういうことですね」ノビーはアキュの後を引き継いで思いつくままを口にした。
「そう。その通りだと思います」
アキュは素直にノビーの洞察力を褒めた。
「で、政治局の企てというのは?」
「わかりません。今はまだ」アキュは忌々しそうに舌打ちすると「そんなことより、私は政治局から圧力がかかると無条件に追従する、わが警視局の体質に腹が立っているんですよ」と本音を吐いた。
3
不正アクセスの一件が事件性無しとなってから数日続けてミッチ・アキュはのんびりした日々を送っていた。定時に局に入り定時に局を出る。そんな毎日が始まっていた。
ノビー・オーダの一件が犯罪ではないと決まった以上、あの男に捜査の手が伸びることはない。始めて容疑者として会った時からノビーとなぜか馬が合うのをアキュは感じていた。共通点があるのだった。言うまでもなくふたりとも職場の運営や機構に対する強い怒りを持っているということである。決定権があるのは上層部だけで下のほうの意見などまったく無視されるという現実に遭遇し、反発する気持が湧き上がっているのだ。
同時に、如何に腹を立ててみても、子供の我儘だと一蹴されるだけだと言うこともよく分かっている。アキュは、理解していればいるほど反発心は大きくなるように感じる。きっとノビー・オーダも同じ気持だろう。
夕方、自分のデスクでそんなことを思いながらタバコを燻らせていると、本部長室のドアが開いてタクラ・マクラが顔をのぞかせた。捜査本部長はぼんやりしているアキュを見つけ「ミッチ・アキュ。ちょっと来てくれ」と手招きした。
アキュは部長室に入った。
「不正アクセスの一件が捜査打ち切りになったことにまだ不満があるのか」
タクラ・マクラは穏やかな口調でそういうと、自分も煙草を咥えた。
アキュは精一杯の皮肉をこめて、首を横に振った。
「慣れましたよ。もう。いつものことですから」
「そうか。それならいいんだ。慣れるのが一番」
「いつものことといわざるを得ない。このこと自体が問題だと思いますがね」
ミッチ・アキュは腹の中でペロリと舌を出した。
「私もそう思うよ、ミッチ・アキュ」
タクラ・マクラ本部長は、意外にもアキュの意見にあっさりと頷いて見せた。
「しかしなミッチ・アキュ。世の中は正義だけで動いているわけじゃない。一人にとっての正義がほかの人にとっても同じように正義だと言い切ることは必ずしもできないのだ」
「では伺いたいのですが、我々が命をかけて仕事に取り組むとき、いったいどんな旗を掲げていけば良いのでしょう。私はそれが正義と言うものだと考えていました」
「おやおや。熱いことを言うんだね。もちろん君のいう通りだよ。私が言いたいのは、その掲げるべき正義の在り様のことなのだ。つまり我々が守らねばならないものとは、人間個々の正義などではない。年月を費やして築き上げられた社会秩序に他ならない。個人的に理想論を振りかざして一気に覆そうとしても排除されるだけだ。秩序と言う枠組みから一歩でも超える行動をするなら、それはもはや正義とは呼べないんだよ」
「……」
ミッチ・アキュは、これ以上言っても無駄だと言うことを知っていたので、了解したように首を縦に振って見せた。
本部長はアキュの様子に安心したような笑顔を見せた。
「ところで、ミッチ・アキュ」タクラ・マクラ本部長は机の抽斗から小さな紙箱を取り出し、アキュに渡した。
「なんですか、これは?」
「監視部で新たに開発した高性能マイクロフォンだそうだ。仕掛けた場所から概ね500メートル以内にいれば、専用アンテナをセットすると車のラジオで傍受できるらしい」
「専用アンテナ?」
「箱に入っている」
アキュは小箱を開けてみた。ネクタイピンとカフスボタンのようなものがひとつずつ入っていた。
「カフス状のがマイク。タイピンみたいなのがアンテナだそうだ。現場で必要なときにテストを兼ねて使ってみてほしいとさ」
「分かりました」アキュは受け取り自分の上着のポケットに入れた。
「ミッチ・アキュ。ひとつ頼みがある。これからちょっと人に会わなければならんのだが、花舞という料亭だ。たしか君の家に向かう途中だと思った。悪いがそこまで送ってもらえんかな。勿論私を下ろした後は直帰して構わん」
「構いませんが。いったい誰とお会いに」
マクラはアキュの質問には答えず、腕時計に目をやって「もう15分くらいしたら出たいのだが」とアキュを急かした。
4
花舞は本部長の言うとおりアキュの通勤路の途中にあった。
政治局上級職やトップ政治家たちがよく使う高級料亭である。アキュのように「いらっしゃいませ。こんにちは」という挨拶が聞こえる店にしか入ったことのない一般人にとってはほとんど無縁の世界と言ってよかった。
玄関前に車を横付けするとそこには和服姿の女将が待機しており、アキュが回りこんで開いたドアから本部長が降りる野を見て「ようこそおこしくださいました。お連れ様も先ほどおみえになられまして、離れでお待ちでございます」と微笑んだ。
アキュは車に戻った。エンジンをかけて本部長が座っていた後部座席にふと目をやると、黒の革鞄が置かれている。どうやら本部長が置き忘れたものらしかった。すぐ引き返して届けようと鞄に手を伸ばしたアキュは、「そうだったのか」と納得した。タクラ・マクラ本部長はこれから会う者たちとの会話を、アキュに聞かせようとしているに違いない。
ミッチアキュは革鞄の中に本部長から預かっていた高性能マイクを隠し入れ、急ぎ足で花舞まで戻った。本部長を離れまで案内し丁度戻ってきた女将と出くわしたので「タクラ・マクラ本部長の忘れ物ですので、本人に渡してください」とだけ頼んで外に出た。
ミッチ・アキュは車を発進させた。しかし走り始めて百メートルほど進んだところにコンビニエンスストアがあるのを見つけ、車を駐車場に乗り入れたミッチアキュはカーラジオのスイッチを入れた。
置き忘れた鞄を届けに丁度離れに戻ったところらしい。スピーカーから思ったより明瞭な女将の声が流れ出した。
「本部長さん。お荷物、ここに置いときますので……」
「大変遅くなりました。申し訳ありません」本部長の声だ。
アキュは満足した。女将はどうやらおあつらえ向きの場所に小型盗聴マイクを仕込んだ鞄を置いてくれたらしい。
次に聞こえてきたのはミッチ・アキュも聞き違えることがないほどの大物の声だった。
「それでは女将、二十分ばかりはずしてくれ。よろしく頼む」
聞こえてきた声は間違いなく政治局治安部長タカマ・ガハラの声であった。
「今日はわざわざお呼びたてし申し訳ない」タカマ・ガハラが話し始めた。
アキュは自分が興奮してくるのを抑えることができなかった。
女将が部屋を出て行くとタカマ・ガハラは話し始めた。
「今日お忙しい御両名にわざわざお越しいただいたのは、最近目に余るものがある『自由化運動』についてのことなのです」
タクラ・マクラとジー・ワンがそろって治安部長に注目し、固唾を呑む様子が伝わってくる。
「治安部ではこれまでグッドラック財団で開発してきたVTSを、その鎮静化に役立てようと考えています。その目的達成のためVTSの監理担当部局をグッドラック財団から政治局直轄に切り替えました。ジー・ワン部長は現財団からプロジェクトチームへ出向してもらうことになります。研究開発の場所的なものは動かしませんがね」
カーラジオのスピーカーを通してタカマ・ガハラの抑揚のない、冷たい響きを持った声が続いた。「まずジー・ワン部長に伺いますが、VTSの完成にはあとどのくらい日数が必要なんでしょうか」
「早ければ約二ヶ月といったところでしょうか」
「結構。それでは現在完成していると思われるVTSは財団を辞めたノビー・オーダという人物が所持している一台しかないわけですな」
「本当にあるのかどうか、確認が取れているわけではありませんが」
「現に不正アクセス事件が発生している。それにも拘らず確認が取れていないとは、いささか手ぬるいのでは?……」
「重要な情報を手に入れた」
ノビーに告げると、コテージのほうにいるので今からでもいいからぜひ教えて欲しいと、答えが返ってきた。もともとノビーの家の方に向かって車を進めていたアキュはアクセルを踏む足に力を入れた。
コテージのドアをノックすると待ちかねていたようにドアが開いた。
「やっぱり黒幕は政治局治安部のようだ。いやもしかするとそれより上かも知れんがね」
アキュは興奮を抑えきれない様子を見せている。
ノビーはテーブルにウィスキーグラスを二つ用意し、アイスキューブを入れその上から上等のバーボンを注いだ。
「チェイサー?」
ノビーが聞くとアキュは「ノー、チェイサー」と言ってグラスのウィスキーを一口飲んだ。
「いったい何があったんだい?」
ノビーはアキュを落ち着かせようとして、穏やかに尋ねた。
犯罪という名の垣根が取り払われ、同じ年代にある気のあった者同士の関係が既に出来上がっていた。
アキュは深呼吸するように大きく息を吐いて話し始めた。
「夕方、うちの本部長から呼ばれて、これから人と会うので料亭まで送ってくれと言われたんだ。誰と会うのか聞いてみたが答えない。まあ俺みたいな下っ端に答える必要もないのだろうがね。しかしなんだか気になったんで、盗聴器を仕掛けてやった。そうしたら考えてもいなかった大物が引っかかったと言うわけさ」
「大物?」
「まずグッドラック財団、企画開発部長ジー・ワン。次に俺の上司、警視局本部長タクラ・マクラ。そして真打登場だ。」
「もしかしたら……」
「そう政治局治安部長、タカマ・ガハラ。この三人だ」
ノビー・オーダはこれまでの経緯から既に頭の中に描いていたこととはいえ、現実に中心になっている個人の名前がプラスされると妙に実感を帯びてくるのを感じた。
「で、何をどうしようとしているんだ? その三人で」
「三人でと言うより、タカマ。ガハラがうちの本部長と財団の部長を傘下に入れようとしている。そんな気配だった」
「政治局が、いったい何を?」
ノビー・オーダが先を急かすようにアキュを促した。ミッチ・アキュは大きく頷くと、いてごくりと喉を鳴らしてグラスの液体を飲み込んだ。
「自由化運動の封じ込めだ」
きっぱりといったアキュの一言にノビー・オーダは愕然とした。ノビーはVTSの開発者である。競馬という向こう側の世界にあるレジャーにメリハリを着け、少しでも楽しいときを過させるために考案した装置なのだ。それがこちら側の世界では、今ようやく盛んになり始めた自由を求める民衆運動を封じ込めるために使用される。考えられないことだった。
「どうしたらそんなことができるんだろう」ノビーはウィスキーで口を湿らせた。
「敵はこう計算している。今この世界では民主化を叫ぶ運動に火がつき始め、創造主族が完全に取り仕切っていた頃と比べると秩序というものだけ取り上げてみれば少し混乱しているだろう」
「過渡期なんだからやむをえないよ」
「俺もそう思うがね。しかし結果を見れば必ずしも自由化運動の方向が全て正しい方向を向いているとは言えない。奴らはそう考えている。いや、それはその通りだと俺も思う。しかし政治局では運動の結果として出てくる悪い部分を、こちらではなく向こう側の問題に起因すると言うことにしたがっている」
「何を根拠に」
「こっちと向こうの人口の増減は転生行為によるって事は知っているだろう」
ノビーが頷くのを見てアキュは続ける。
「向こうで寿命を全うした人間が転生してこちら側へ来る。そのとき向こうにいたときの記憶は消し去られるが、向こうでの生活習慣などで身についた性格みたいなものは完全には消えないらしい」アキュは空になったグラスに自分でウィスキーを注いだ。ノビーは黙ってアキュの説明を聞いている。
「かつて向こうの世界では神を敬っていた。宗教的に見て敬虔な生活を送っていた。だからこっちに転生しても秩序正しい人間であることに変わりはなかった。しかし最近は向こうの世界で人間は強くなった。空を飛んだり重い病気も自分達で治したり。昔は神々の受け持ち範囲だった行為を自分達のものにしてきた。代わりに人間達は神を敬うことをやめた。ガハラはそう勘違いしているようだ。そういう人間達が転生によってこちら側、つまりこのヨミランドに来て民主化運動に同調するから、秩序はどんどん乱れていく。タカマ・ガハラの主張はそういうことなんだ」
「それでVTSをどうしようと……?」
「具体的にはまだ分からん。ただ簡単に言うと、転生で向こうの世界に生まれ変わった特定の人間をVTSを使って啓蒙して宗教的リーダーに育て上げる。そうすればその人間は向こう側で言うところの“神の使徒”として信者たちに真の道などを説いていくはずだ。勿論、真の道というのは、創造主族に都合のよい社会のことだ。ガハラが描いているヴィジョンの最終形はそういうことなんだ。こ秩序回復に名を借りた民主化運動の封じ込めに間違いない」
アキュは話し終わって息をついた。
「俺のVTSでそんなことはさせない。」
ノビー・オーダは顔を真っ赤にしていった。顔が真っ赤なのはウィスキーのせいだけではなかった。「それに、……向こうの人間たちだって、必要があったから努力して強くなっていったんだろうが。それが民主化だろうさ。今さら指導したって成功するとは思われないがね」
「よし。それじゃ手を組もう。何を画策しているのか調べ上げてやる。警視局に動きがあったら知らせる。ノビー。君はミスターXとかいう変な奴の動きに付き合いながら、VTSの使い方について考えてみてくれ。こっちの民主化運動の指導者たちがミスターXのことに気がつき始めたころ、彼らと接触してみるんだよ。そうすれば民主化運動側も頭の整理をつけやすいだろうからな」
ミッチ・アキュはノビーに向かって右手を差し出した。ノビー・オーダはその手をがっちりと握り締めた。
第6章 祭りの気配
1
グランドキャニオンのダイブから奇跡的に生還した伊達針之介だった。シートベルトが外れず、車中でがんじがらめになった伊達針之介だった。だがもがいているうちに、何かの拍子で脱出用パラシュートが脱出口から発射された。ところが製作者の配慮か単なる間違いなのか、パラシュートは車もろとも減速させるほど巨大だった。車は伊達針之介と玉野幸次郎を乗せたままグランドキャニオンの底に見事軟着陸できたのである。
針之介は車から何とか這い出し、そのまま気を失ってしまった。結局意識が戻って周辺を探してみたが玉野幸次郎の姿はどこにも見当たらなかった。要するに最後の最後にターゲットを逃がしてしまったことになった。
伊達針之介は内ポケットからペン型高性能通信機を取り出した。“オジサン”という大手組織に在籍する高校時代のクラスメイトからもらったものである。結構貴重なものらしく、入谷(イリヤ)という名のクラスメイトは「大切に使ってくれよ」と幾度も繰り返した。
気が重いけれども捨文王に失敗の報告をしなければならない。針之介は通信機のスイッチを入れた。
捨文王は伊達針之介から任務に失敗したことを聞くと、「いや、あれでいい。ああなるようにセットしておいたのよ……」ぽつりとそれだけ言ってそれ以上その話題には触れようとはしなかった。耳に入ってくるグランパの声に針之介は一瞬不安を覚えた。気持ちがそこに無いような、沈んだ声だったからである。
「グランパ。何かあったのですか」
思わず針之介が尋ねると、我に返ったように普段のグランパに戻った。
「困ったことが起こりかけとるんだわ。すぐ帰国できねぇべか」
捨文王から伊達針之介が命じられた次の仕事は、競馬専門紙出版事業協会の吉勝太郎の下に出向き、別命あるまで待機せよということだった。
捨文王の命令は絶対である。たとえそれが納得できない指令だったとしても、命令には黙って従わなければならないのが組織の掟である。
伊達針之介はしぶしぶ朝十一時に協会のドアをノックした。
吉勝太郎の方にも、昨夜、何か事が起こった時に役に立つ男を差し向ける旨、グランパから連絡が入っていた。だから黒いワイシャツに同色のスーツ、そして極めつけは目にも鮮やかなオレンジ色のネクタイという、普段はあまり見かけないいでたちで伊達針之介が協会を訪れた時、吉勝太郎はすぐに伊達を自室に通すよう秘書に指示したのだった。
二人は形式的に名刺交換をした。
伊達針之介は、理事長の名刺に視線を落とした。
「良い名前だ」
伊達はぽつりと言った。
「商売柄、よく言われますよ。縁起のいい名前だとね」
吉勝太郎は嬉しそうに笑うと、伊達から受け取った名刺を見た。
「おお。貴方もよいお名前でいらっしゃる。ダーティ・ハリ……」
「だて・しんのすけと読む」
どう読めばダーティになるんじゃ。腹立たしく感じながら、伊達針之介は右手を差し出した。
捨文王は、優秀なヒットマンを送り込むといった。
ヒットマン。この聞き慣れない職業についてすこし予備知識を得ておこうと、
吉勝太郎は秘書に命じて取り寄せた数冊の資料に目を通していた。『ゴルゴ13』と題されたその資料によればヒットマンはいつでも敵に対処できるよう、握手のために右手を差し出すことなどありえないと記載されていた。
ところがダーティ何とかいうこのヒットマンは、まったく無防備に握手を求めている。捨文王が自分のことを心から信頼しても良い人間として、このヒットマンに言い聞かせているのだろう。そう思うと吉勝太郎は思わず胸中に熱いものが込み上げるのを覚えた。吉勝太郎は差し出されたその冷たい手を、強く握り返した。
伊達針之介は、左利きであった。
「いったい何が起きようとしているのだ?」
針之介は押し殺した声で素朴な疑問を口にした。向うでの滞在期間が長かったので、伊達針之介はミスターXのこともまったく知らなかったのである。
吉勝太郎は首をかしげた。
「わかりません。とんでもないことが起こるのか、それとも何も起こらないのか。今はまだ何も言えないのです」
吉勝太郎は淡々とした口調で言った。健康診断で発見されたポリープが良性か悪性のものなのか。その診断を待つ時のような、妙に醒めた心境だった。
針之介は、やれやれといいたげな表情で大げさに両手を広げて見せた。
テレビ画面に三風亭五九悪と小田部玲子が登場した。
「さ、土曜日の午後は、私三風亭五九悪と」
「私、小田部玲子がお伝えします」
滑り出しは毎週と少しも変わらないものだったが、テレビから流れ出す二人の声にはいつになく緊張したものがあった。
「さ、それではまず午前中にもお知らせしましたが、ミスターX関係のニュースからお伝えしましょう」
五九悪は確認するかのように小田部玲子に視線を向けた。
「ミスターXとは?」
伊達針之介はニヒルな口調で尋ねた。
「良くあたる予想屋です」
「予想屋?何処にでもいるだろうが。予想屋など」
伊達針之介は忌々しそうに舌打ちした。
「異常なまでの的中率なのですよ。百パーセントなのです。しかも、すべて一点予想で」
「なんだと。ありえないことだ」
伊達針之介は細い目を精一杯見開いた。全レース一点買いで、しかも全レース的中などということが事実ならば、もはやまぐれ当たりとは言えないではないか。神憑りか、トリックか。八百長か。情報が今のところ不明瞭なので分析することもできない。伊達針之介は混乱した。
「私も単なるまぐれ当たりだと思いたいのですが……」
「決まっているだろう。まぐれ当たりに」
たった今否定したばかりの結論を再度引っ張り出すより手がなく、伊達の口元に自嘲的な薄笑いが浮かんだ。それにしてもたかが競馬の予想屋が一人登場しただけのことで、なぜこんな大騒ぎをする必要があるのだ。アメリカからわざわざ自分を呼び戻してまで対処しなければならないことなのか。
ミスターXとかいうふざけた名前の予想屋がもし噂通りの人物だとすれば、確かに吉勝太郎を始めとする業界にとっては大打撃であろう。当たらない競馬新聞など誰も買いたいとは思わない。当然のことだ。しかしそれは業界の努力が足りないことの証でもある。言ってみれば自業自得のようなところもある。
それはそれとして、グランパが自分を呼び寄せたのは、そういう事態になった時にはミスターXを消せということなのか?それだけ自分の腕を信頼しているということなら嬉しい限りだが、あまりにも仕事が簡単すぎる。それに動機がなんだかやけに個人的なことみたいだ。この程度の仕事なら、わざわざ自分をアメリカから呼び戻すこともあるまいに。
影の社会に君臨する捨文王もついに老いたのか。伊達針之介はふとそう感じた。
「時はなんと速く流れ行くのだろう」
針之介は感傷的になってつぶやくと目を閉じた。閉じたまぶたの間から熱いものが頬へと流れ落ちるのを感じた。
2
玉野幸次郎は居間の長椅子をベッド代わりにして、天井を眺めていた。旅行帰りで、それもあんな形での強制的帰国だったから、心身ともに疲れきっているはずだった。何から手を着けるにしても、まずひと眠りして疲れを癒してからだ。そう自分に言い聞かせて、背広も脱ぎ散らかしたまま、長椅子にごろりと巨体を横たえた。少しでも眠ろうと目をつぶってみたけれど、気持ちが昂ぶっているせいで目が冴えている。玉野幸次郎は仕方なく、天井に視線を走らせながら、自分の身に起こった出来事を頭の中で順序良く整理してみた。
ラス・ヴェガスのホテルで自分を襲った連中の手際よさ。小型機のパイロットの素人離れした落ち着き。黒スーツを着た運転手の度胸。ロバが繋がれていた地点の完璧な計算とメッセージ。
すべてが計算しつくされた連係プレイではないか。きっと党の金を着服したりすればこういうことになるぞというデモンストレーションなのだ。恋占淳一郎という総理大臣はやると言ったらやる男だ。しかも融通が利かない。正しかろうが間違っていようが、信念に向かってまっしぐらなのである。入党以来の付き合いで、玉野幸次郎もその辺のところは良く心得ていた。だからもし一ヶ月以内にちょっと借りただけの党費を返済することができなければ、あの石頭に本当にギッタギッタにされるに違いないのである。玉野幸次郎は今度ばかりは頭を抱えた。
「おおい。皆神君」忌々しそうに舌打ちして「今日はいったい何曜日だ?」と尋ねた。
「金曜日です」
若きボディガードの皆神頼は、相変わらず居間の入り口で視線を空間に漂わせている。
「一ヶ月以内に返却だと?」
玉野幸次郎はつぶやくように言ってボディガードを見た。泳いでいた皆神頼の視点は、ほとんど天井近くまで跳ね上がる。
「一ヶ月以内ということは……」
「およそ三十日間以内ということです」
「わかっとる!そんなことは」
玉野の一喝に若者の視点はついに天井板を透過して屋根裏部屋まで逃げ込んだ。
「ところでだ。ちょいと借用した金のことだが、トータルでどの程度になっとるんだ」
玉野幸次郎は無理やり笑顔を作って皆神に尋ねた。
「七千五百万円くらいです」
「な、ななぜん、ごびゃく、まん!」
さすがのタマコーもその金額の大きさに驚きの声を上げた。天下の玉野幸次郎にしても一ヶ月以内に工面できそうな額をはるかに超えている。
「七千五百万を一ヶ月で返せと言うのか。一ヶ月で」玉野幸次郎は大きなため息をついた。
「皆神君。君ね、しばらくの間立て替えておいてくれんか?」
その瞬間、皆神頼の漂う視線が、玉野幸次郎を射すくめるようにぴたりと止まった。
「そんな金どこにもありませんよ。年俸五百万ですからね。ぼくは」
玉野幸次郎を睨みつけたまま皆神は語気を荒げた。睨みつけられた玉野幸次郎の視点が今度は虚空を漂い始めた。
「そうだろうなぁ。まあ、気にするな。ちょっといってみただけだから……」
玉野幸次郎は笑って見せたが、いつもの豪快さは影すらなかった。
「ギッタギッタにするっていうのは、いったいどうするってことなのかねぇ」
玉野幸次郎はか細い声で皆神に意見を求めた。
「さあ?私にはなんとも」
「政界での権限をすべて剥奪するぞと言う意味なんだろうか」
「いやあ、そんなことでは済まないでしょうね。焼きを入れることをボッコボッコにするって言うくらいですからね。足腰立たないくらいのランクだとガッタガッタ、さらにその上のレベルになりますからね。ギッタギッタですと」
「そ、そんなにレベルが高いのか。ギッタギッタまで来ると……」
玉野幸次郎の問いに皆神頼は大きく頷いた。
「高くて高くて……。先生ここは覚悟を決めておいたほうが良いと思いますよ」
玉野幸次郎はそれを聞いて力なく立ち上がった。後ろからついてこようとする皆神頼を手を振って制すると、がっくりと肩を落とし、長い廊下の先にある書斎へと姿を消した。あわてて後を追った皆神が書斎のノブに手をかけたとき、ドアは既にロックされていた。
「せ、先生」
皆神頼が大声で叫び書斎のドアをノックするのとほぼ同時に、中から『君が代』が聞こえてきた。そして曲と重なるように玉野幸次郎の句が流れ出す。
風さそう花よりもなお我は今、負けた恨みをいかにとかせん……
「先生!」
皆神頼は崩れるようにその場に膝をついた。
3
七月末。二回函館競馬七日目。土曜日。
競馬専門チャンネルの中継テスト画面に映し出された函館競馬場は、津軽海峡の涼しげな海岸線を背に、この上ない好天に恵まれていた。函館開催も今日明日の二日間を残すばかりとなり、ファンの関心は来週から開催される札幌シリーズへと移り始めていた。わずか一月ほど前あれほど大騒ぎしたミスターXのことも、ファンはおろか三風亭五九悪を始めとするテレビ関係者の胸の内からも次第に薄れ、話題に上ることもなくなっていた。
放送開始前の打ち合わせを終え、午後の担当である三風亭五九悪は、一休みしようとビル内の喫茶室に入った。見晴らしの良い窓際の席につき、甘ったるいアイスコーヒーを飲みながらぼんやりと窓外を見下ろすと、函館とはうって変わって、蒸し上がるような真夏の暑さが冷房の効いたこの喫茶室にまで浸透してくるようだった。
大きく溜め息をついて、今日の下調べでもしておこうとかと三風亭五九悪は競馬新聞をテーブルに広げた。ざっと目を通したがそれほど面白そうなプログラムもない。つまらないレースが多ければ多いほど、トークに気を遣わねばならない。レースそのものに話題性が乏しいから、ありきたりのしゃべりでは視聴者が満足しないからだ。落語家という肩書きが重くのしかかる。落語家ならもっと気の利いたことを話せないのか。時間をもてあましている暇な視聴者もいるようで、そんな投書がテレビ局宛に結構寄せられる。俺は落語家だ。競馬の解説者じゃあないぞ。思い切りそういってやれればどれだけ気分が良かろうかと思うのだが、視聴者あってのテレビ局だから文句も言えなかった。製作スタッフ側も噺家である五九悪に頼っているような所もあり、打ち合わせでも大まかな流れを検討するだけだった。細部をどうするかという詰めになると「ここは師匠の話術で」とか「トークで繋いで」と丸投げである。
今さら愚痴を言っても仕方ないと諦めて、今日はどういう話題で繋ごうか真剣に検討を始めた時、自分を呼び出すアナウンスが流れた。
「落語家の三風亭五九悪さま。いらっしゃいましたら、お近くの局内電話をお取りください」
五九悪さまってのはやめてほしいな。お地蔵様みたいでいやなんだよな。それから落語家のなんて肩書きをつけるなよ。落語家なんだからさ。そんなことを思いながら面倒くさそうに立ち上がると、五九悪はレジのすぐ横に置かれた局内用の受話器を取った。
「五九悪さん。大変です」
受話器をとるや否や、慌てふためくADの声が五九悪の鼓膜を破らんばかりに飛び込んできた。
「どうした?」
「で、電話っす」
「知ってるよ。電話だね。トランシーバーじゃない」
「冗談いってる場合じゃあないっすヨ。マジで。と、とにかく繋ぎます。そのまま電話取っててください」
何があったのか解からず受話器を耳に当てたまま待っていると、やがて聞き覚えのある声が流れ出した。五九悪の脳細胞は、さして時間もかけず声の主の検索を終えた。
「ミスターX」
「はい。ミスターXです。やはり覚えていてくださったんですね」
ミスターXは嬉しそうな笑い声を出した。
「当たり前ですよ。あれからどうしていらしたんです?」
「ちょっと準備に忙しくて」
「準備?」
「そうです。その準備もようやく完了したものですから、まずは五九悪師匠にお知らせしなければと思いまして」
「え?それじゃ、またスタジオに遊びに来ていただけるので?」
「そうじゃありません。実はホームページを立ち上げました。一回札幌から予想を公開します。もし必要なら、放送で利用していただいても構いませんよ。もちろん無料です」
「ホームページですか?」
五九悪は息を呑んだ。
「五九悪さん、聞いてますか?もしもし」
「あ、はい。ちゃんと聞いてます」
「一応、URLお知らせしておきます。メモってくれます?」
ミスターXからの電話は一方的に用件だけを伝えると、すぐに切れた。
三風亭五九悪は慌てて会計を済ませると、脱兎のごとく放送スタジオに向かって走り出した。このスクープをどう扱うか、谷口ディレクターに相談するためだった。
このビッグニュースは、結局三風亭五九悪の口から伝えるのが最善ということになり、第1レース出走前に飛び入り出演のような形で行われた。
「皆さんおはようございます。まだ第1レースも始まってないのに、何で五九悪が出てくるんだ。そういう皆さんの罵声が聞こえてくるようです。しかしですよ。良くお聞きください。眠気もいっぺんにぶっ飛んでしまうビッグニュースが、たった今飛び込んできたんです」
三風亭五九悪は軽妙なタッチでそこまでアナウンスすると、調整室の谷口ディレクターに目くばせをした。合図とともに、モニター上に文字がオーバーラップする。
「しばらくなりを潜めていたあのミスターXが、ついに沈黙を破って動き始めました。何と、今度はホームページを開設し、そこにすべての予測を掲載するというのです。これはつい先ほどミスターX本人から私自身に直接届いた、ホットなニュースです。URLは今流れていると思いますが、皆さんぜひ書きとめておいてくださいよ。ただし予想の公開は来週の土曜日。第一回札幌競馬初日から、ということですからお間違いないように。今日からじゃありませんよ。来週の土曜日からです。それではまた午後にお会いしましょう」
三風亭五九悪はそうコメントして、いつもの放送に番組を戻した。あとは午後、自分の時間帯に再度この話題を持ち出せば良い。今のオンエアが、口コミで広がって、もっとよく知りたいと思う視聴者もプラスされるだろうから、結構視聴率も稼げそうだ。三風亭五九悪は頭の中でそう計算した。
4
捨文王は普段と同じように、パソコン投票の準備を終えた。まだ現役を引退したわけではないが、最近では捨文王が直接携わらなければならない仕事など殆ど無くなっている。かつては広大な農場を自分が描いた夢の形に創り上げるため、協力を申し出てくれた何人かの若者達と、土曜も日曜もなく汗を流して来たものだったが、今ではそんな必要も殆どない。組織が出来上がったからである。大まかな指示さえ出しておきさえすれば、部下達がてきぱきと仕事をこなしてくれる。そういう意味では一般的な会社社長と何ら変わるところなく、重大なトラブルでも発生しない限り、捨文王も休日は好きな競馬を楽しむことができるようになった。
捨文王の農場は競走馬の生産地として知られる北海道日高にあった。サニーファームと名付けられた観光農場で、大手の育成牧場と軒を並べている。広さも牧場と比べ一歩も引けをとらない。
サニーファームは、観光シーズンになると驚くほどの賑わいを見せる。近くに有名な種牡馬を有する生産牧場が数多く存在するためだった。生産牧場には現役を退いたかつてのヒーローやヒロイン達が、種牡馬や繁殖牝馬として第二の人生ならぬ馬生を送っている。いつの頃からか熱狂的な競馬ファン達が、現役時代に興奮を与えてくれたそれらの馬たちを懐かしんで牧場を訪れるようになった。夕日の中をシルエットとなって自由に駆け巡る競走馬と子馬たち。その風景は北海道のイメージと見事に融和する。競馬が健全なレジャーとして定着してくると、牧場を訪れる観光客も徐々にその数を増やしていった。機を見るに敏感な多くの旅行会社は社会のそういう風潮を見逃さず、牧場見学ツァーという新商品を企画し売り出したのである。これが見事に成功し、日高地方を訪れる観光客はうなぎ上りに増加していった。
捨文王のサニーファームは競走馬の牧場ではなかったがスタッフの機転で旅行会社とタイアップ契約を結んだところ、これがまた大当たりしたのだった。
国道から折れて二百メートルほど入った所に、サニーファームの文字を刻んだ丸木作りの素朴な門柱が建てられている。門柱をくぐってさらに五百メートル程進むと捨文王の木造二階建の自宅が望めた。本当のサニーファームは、自宅の裏手に大きく広がっているのだが、観光客に開放されたエリアからは死角になっている。整備した範囲は家屋のはるか手前、門からせいぜい三百メートル四方程度の部分である。
捨文王は境界線代わりに細長い池を配置した。池には一個所だけコンクリートの橋が架けられている。サニーファーム関係者以外でこの橋を渡ることが許されているのは、捨文王に用件があって、アポイントメントをとってからやってきた者と捨文王が招いたゲストだけだった。そのため普段は橋の入り口に工事現場でよく見かけるプラスチック製のパイロンと、関係者以外立ち入り禁止と書いた看板が置かれている。
観光客に開放した区域には、スイートコーンだけではなく、トマト、ナス、メロンなどの無農薬野菜の畑と、芝生を敷き詰めた公園のような休憩エリア、そして売店を置いた。
丸木作りの門柱の向うに広がる、美しい公園のような農場と池、農場の持ち主夫婦が生活する素朴な家屋、その向うに聳える日高の山並み。その風景は、サニーファームを訪れた観光客たちが抱いてきた北海道のイメージを決して裏切りはしなかった。
サニーファームが適度に繁盛してくれることは捨文王の、もうひとつの、と言うより本来の仕事にとってこの上なく好都合なことだった。
時々明らかに普通の観光客とは異なった風体の人間達が、サニーファームの門をくぐるのを見かけた。時には黒塗りの高級車の後部座席にふんぞり返った老人であったり、或る時はバイクにまたがったヒッピー風の若者達だったりしたが、彼らの目からは普通とは明らかに違う眼光が放たれていた。しかし異質なその感覚も農場がにぎわっていれば、大勢の観光客の中に紛れて、殆ど目立たないものになったからである。
捨文王のもうひとつの顔。それは政府機関の命令により超法規的活動を行う組織のリーダーであることだった。
国家に緊急事態が迫ったとき、またはそれが予測される時、国はそれを回避する手段として捨文王の組織を極秘裏に利用した。簡単に言えば国のスパイ組織である。内閣調査室と呼ばれる組織だった。
組織のオフィスは農園の地下に、五階層の規模で広がっていた。この存在を詳細に渡って知っているのはほんの少数の上層部に限られていた。
オフィスサイトには捨文王の自宅から専用エレベーターで降りることができたが、そればかりではなく、隣接した牧場の納屋の中やコンビニエンスストアの倉庫の中、荒波に侵食された海触洞などから秘密の通路が繋がっていた。それらの通路は地下オフィスに作られたアクセス管理室のモニターによって二十四時間体制で監視されており、万一何らかのトラブルが生じた時には直ちに閉鎖されるシステムになっている。ただしこのシステムが実際に作動した例は、今まで一度もない。
ウィークデーには専用エレベーターを使って地下執務室に入り、休日は地上の自宅で老妻相手に趣味の競馬に興じるという、見かけはごく普通の暮らしを送る捨文王だったが、社会情勢が不安定な時には常に神経を張り詰めている必要があった。
兆候は些細なところに現れる。
捨文王は老妻が入れてくれた玉露を美味そうに楽しみながら、ふと競馬専門チャンネルの画面に目を向けた。午前中にもかかわらず三風亭五九悪が顔を出している。しかもその表情には不安による翳りが見える。
「何か動きがあったな」
捨文王は直感し、画面に注目した。
「暫くなりを潜めていたあのミスターXが、ついに沈黙を破って動き始めました。何と、今度はホームページを開設し、そこにすべての予測を掲載するというのです。これはつい先ほどミスターX本人から直接届いた、ホットなニュースです。URLは今流れていると思いますが、皆さんぜひ書き留めておいてくださいよ。ただし、予想の公開は来週の土曜日。第一回札幌競馬初日からということですから、お間違いないように」
ついに動き出した。あとはただミスターXの予想が、一般の予想屋達と同レベルであるよう祈るくらいしか手はないかも知れない。協会の吉勝太郎にはきっとまぐれ当たりだろうから、そう心配することもないと話をした捨文王だったが、これまでの現実を見ると、その祈りが叶う確率は限りなくゼロに近いものに思われる。捨文王は憂鬱そうに溜め息を吐いた。
廊下で電話がなり、老妻が受話器を取る音が聞こえた。
「幸円さんから電話ぁ」
老妻が廊下から大声で伝える。
捨文王はテーブルの上に置いた子機を取った。
「グランパですか」
若者らしい歯切れの良い声が飛び込んできた。
「おう幸円君か?どうだそっちの首尾は」
「はい。どうやらそれらしい人物を探し当てました」
幸円仁の声は弾んでいる。
「そうか」
「はい。まず間違いないと思います」
「簡単に説明してくれや」
捨文王の声も嬉しそうに弾んだ。
幸円仁は先週東京競馬場で、出雲良房という男から並外れて的中率の高い友人がいるという情報を入手したこと。穂刈末人というその人物が、ミスターXの放送があった数日前に新宿歌舞伎町のコスプレショップで、のっぺら坊のマスクを購入したこと。放送の後、府中市内の大型家電製品店で、ノートパソコンとホームページ作成用の初心者向けソフトを購入したこと。そして、最近会社を退職していることなどを説明した。
「んだかぁ。よくやったなぁ。まず、間違いねえべ」
捨文王は、若い調査員の報告を一言一言頷きながら聞いていたが、幸円仁が報告を終えると力強い声で賛辞を与えた。血気盛んな若者にとって、トップからの賛辞はやる気を倍増させる特効薬となることを捨文王はよく知っていた。
「それで、本人とはもう接触したかい?」
捨文王は穏やかに尋ねた。
「いえ。まだですが……」
「いやそれでいいんだわ。暑いところ悪いけどな、もうちょっと頑張ってくれ。この先万一まずいことが起こった時のためにな、その男ば捕まえておくことが大事なんだわ。その男から絶対に目え離さねえよう、見張りば続けていてくれねか。とくにその男のバックに誰かブレーンがいねえかということに気ぃ使ってな。そいつが誰かと接触することがあったらよ、すぐわしに報告してくれ。よろしく頼むじゃ」
「はい。了解しました」
幸円仁は嬉しそうな、歯切れの良い声を返し、電話を切った。
捨文王も上機嫌で受話器を置いた。ターゲットを見極めたことで、これから何が起こるにしても優位に立つことができる。向うは一人。こちらは組織である。もう殆どこちらの負けはなくなったと考えても良いだろう。
この朗報をすぐ吉勝太郎に連絡してやりたかったが、生憎第1レースのスタートが迫っていた。
5
ホームページで行こうと決意してからのおよそ一ヶ月、穂刈はひどく忙しい日々を過ごした。売り上げ計算とワープロの目的以外でパソコンなど使ったことのない穂刈にとって始めのうちは辛い作業となった。それでも陽介のコーチと穂刈自身の熱意が経験の薄さを十分にカバーして、予想以上に出来栄えが良いものになった。
生きる目的を見つけ、それを成し遂げるために何かをしなければならない場合、確かに時間は一日二十五時間あっても三十時間あってもまだまだ足りないように感じる。穂刈末人もホームページを作ろうと決意してからこの日まで、信じられないくらいのスピードで時間が流れたように感じる。しかしそれは苦痛を伴う忙しさではなかった。
忙しさを煩わしく思うのは、置き去りにする過去の尻拭いをしなければならない時だけなのだ。だからこの数週間穂刈が感じた忙しさの原因は、穂刈が現在まで安心して乗ってきた人生のレールから突然飛び降りたことで、後片付けをしなければならない雑事が予想以上に多かったことだった。
およそ二十年の間、わき目も振らず頑張ってきた会社だったが、穂刈末人は辞める事にそれほど未練も不安もなかった。たった一枚の『辞表』という紙片で終わりになるのである。要するに社内での自分の価値など所詮その程度のものでしかないという事だろう。上司やその上の役員たちも皆一様に驚いて、もう少し頑張れないのかなどと優しい言葉をかけてくれたが、穂刈はそれが形式上のセレモニーである事を知っていたので、むしろ滑稽にさえ思えた。
多忙を極めたのは、これまで世話になった客先への挨拶回りと、後任者への仕事の引継ぎだった。
二十数年間も勤務していると、やはりその長さの分だけ歴史がある。どうせ完全には受け渡しなどできるわけもないと割り切って、大まかな事だけ整理して渡したのだが、それでも優に十日かかった。その後、部下たちが送別会を催してくれたが、辞めた後自分が何を計画しているのか明らかにする事ができなかったので、嬉しくもあり苦痛でもありという不思議な気持ちだった。
そうした会社の形式をすべて終わらせてから、穂刈は杉浦努を行き付けのターフへ誘った。穂刈が会社に辞表を提出した時、杉浦は地方へ出張中だった。それでも定時連絡の時に穂刈が辞表を出したという情報が入ったらしく、出張先から電話をかけてよこした。以前それとなく話していたせいもあって、電話の声はさほど驚いた風でもなかったが、会社を去る前に、一度ターフで一杯やろうと誘いがあった。もし誘いがなくてもそうするつもりだったので穂刈はすぐに了解した。
「それにしても思い切ったもんだよなぁ」
杉浦は驚いたというよりむしろ羨ましいというような表情を浮かべた。
「ずっと考えていた事が有ってね。前にも話したよな」
「それにしてもこの不況の最中だぜ。食っていけるようなうまい話が有ったとはね」
「ほんとだわ。大丈夫なんでしょうね」
ママも相槌を打った。
「おいおい。俺だって女房子供を食わせていかなけりゃならない事くらい、ちゃんとわきまえてるよ」
穂刈は苦笑しながら、水割りのグラスを傾けた。
「どうせリストラの嵐が吹き荒れるのが目に見えてるだろ。チャンスが有る内に身を引く方が賢明なような気がしてな」
「それは確かに言えるがね。殆どがそのチャンスさえ見えないんだから羨ましい限りさ」
杉浦は本音を漏らしてグラスのウイスキーを飲み干した。
「会社辞めて、なにするの?」
保子が興味深げに穂刈の顔を見詰めた。
杉浦とママも興味深げに頷いた。
「うん。詳しい事は今はまだ言えないんだけれど。競馬関係の仕事なんだ」
「競馬?」
三人は揃って驚きの声を上げた。
「俺はバクチの事はよく知らんが、ヤバイ仕事じゃないんだろうな」
杉浦は厳しい表情を浮かべた。
「冗談言うなよ。軌道に乗ったら、ちゃんと話すから」
「それなら安心だが・・・」
「競馬をしないやつは、先入観念でギャンブルって言えばすぐに胡散臭いものと決めてかかるけれど、今は決してそんな事はない。競馬場内の公園には、楽しそうに弁当を広げてる家族連れがいっぱいだし、スタンドなんかにも楽しそうにじゃれあってる若いカップルがたくさん来ているくらいだ。お前も一度、カミサンとでも行ってみるといい」
「そうは聞いているが、どうもぴんと来なくてな。博打イコールやくざ者。そんな感じが強くて」
「やくざ映画の見過ぎじゃないの。このお店にも、開催している時は競馬場帰りのお客さんがたくさん来てくださるけど、いい人ばっかり」
ママが杉浦の偏見を窘めるように言った。
「まあ、いい人ばっかりって言うのはちょっと言い過ぎだけれどね。少なくとも俺が始める事は、決して胡散臭い事じゃないから安心してくれよ」
穂刈が付け足すと、杉浦の表情にようやく笑顔が戻った。
「頑張ってくれ」
杉浦は穂刈の目ををじっと見つめて、右手を差し出した。
「これからはお互い違う世界で生きていくことになるけど、遠くへ引っ越すわけじゃあないんだ。時々はここで落ち合おうぜ」
穂刈末人はそういってその手を強く握り返した。
「穂刈ちゃん。何だか、ものすごーく大人になったみたい」
保子が神々しいものを見るような潤んだ瞳で、穂刈を見つめた。
「それじゃ、また」と片手を上げて杉浦に背を向けると、するべき事はし終えたと言う満足感が穂刈を取り巻いた。明日、明後日は函館競馬の最終週。明日は一応五九悪師匠に電話を入れよう。穂刈末人は、歩き始めた。
6
ついにその日はやってきた。
朝七時、試験電波で入ってくる札幌競馬場はミスターXのホームページ開設を祝福するかのように、一点の翳りもなく晴れ渡っている。三風亭五九悪は今日という日が果たしてどんな一日になるのか、そればかり気になって、いても立っても居られず普段より一時間も早く顔を出した。どうやら同じ思いだったと見えて、五九悪が喫茶室のドアを開くと、窓側のテーブルに谷口ディレクターの姿があった。
「おはようございます」
挨拶して谷口の向かいに腰掛けると、「何とも、爽やかですねえ」谷口はモニター画面を指差した。
「本当だよね。こっちは冷房がなけりゃ地獄だからね」
五九悪は運ばれてきたコーヒーをうまそうにすすって「だけどあの爽やかさの向うからいったいどんな魔物がやってくるのか」とテレビの画面に目を戻した。
三風亭五九悪は半分ほど飲み終えたコーヒーカップの中をスプーンでいたずらにかきまわしながら、不安と好奇心が混じりあった視線を谷口ディレクターに向けた。
「師匠。昔『史上最大の作戦』って映画、ありましたでしょ。観ました?」
ふと思いついたように谷口は尋ねた。
「観たよ。ノルマンジー上陸作戦」
記憶をたどるまでも無かった。それは幾度も見直したくらい好きな映画の一本だった。
「あの映画の中で、ドイツ軍の将校がトーチカの中から、双眼鏡でドーバー海峡を監視するシーンがあったでしょ。穏やかな水平線にうす靄がたなびいてて平穏無事。ほっとして一度目を離すんだけど、何か気になって、もう一度双眼鏡を覗くと、大海原を埋め尽くすように連合軍の大艦隊が侵攻してくる……」
「あった、あった。凄かったねぇ。まさに見せ場だった」
「私ね、あのシーンを思い出すんですよ。何だか凄い事件の幕開けみたいな、そんな気がして」
「うまいこというね。まさしく俺たちはあのシーンのドイツ軍将校かも知れないな。でもあのときは大艦隊が反攻して来るって予測がついていただろうからなあ。そう考えると今度の方がたちが悪いのかもしれないぜ」
三風亭五九悪は飛び散ったコーヒーの雫で汚れてしまった黒縁の分厚い眼鏡を外すと、ポケットティッシュを取り出して無造作にレンズを拭った。眼鏡をとった五九悪の目は明らかに困惑の色を帯びている。
「ま、始まってみなけりゃわからないんだから、なるようになれってこと。腹を決めるしかないんでしょうね?」
「何だか無責任だけどね。ところで谷口ちゃん。昨晩打ち合わせしたこと手配しといてくれた?」
競馬も最近は健全なレジャーのひとつとして定着し、かつてのように博打ちうちのたむろする暗いイメージは払拭された。当然のように、いわゆるパソコン世代の若者達の中にも競馬ファンが増え始めた。何年か前になるがダービースタリオンという、競走馬を生産育成してレースに勝ちぬいて行くという内容のテレビゲームが驚異的な売れ行きを示したことでも、若い世代への浸透ぶりがわかる。このようなフィールドの延長線上に、脅威の的中率を誇るミスターXが出現した。そしてホームページに予想を掲載すると宣言したのだから、インターネットへのアクセスがパンクすることも懸念された。そんなことになれば、成り行き上ミスターX情報を唯一流しているこのテレビ局に苦情が殺到することだろう。番組への出演を断わられたわけだから、どうなろうと知ったことではない。そういってしまえばそれまでなのだが、苦情の出る要素があるなら、取り除いておくに越したことは無い。番組のマイナスイメージになることは避けなければならなかった。
先週ミスターXが連絡を入れてきた時、五九悪はそんな事態になる可能性もあると閃いたので、ホームページを公開する前にぜひとも局に知らせてもらえるよう頼み込んだ。「局で編集してホームページの公開と同時にテレビでも流したい」と頼むと、ミスターXは快く了承し、約束通り昨晩十時過ぎに予想を送ってよこした。これでいくらかでも交通整理ができる筈である。
成り行きとは言えミスターXとの仲立ち役になった三風亭五九悪は、そんなことにまで気を配らなければならないのかと思い、いささかうんざりした。
「手配終わってます。いつでもOK。サイン出してください」
「ありがとう。悪いね、余計な仕事頼んで」
五九悪は大きく溜め息をついた。
「何をおっしゃるやら。師匠とならばどこまでもですよ。それにきっといい視聴率稼げますって」
谷口ディレクターは付き合いが長いせいもあって、五九悪の性格をよく知っている。見かけはあっけらかんとした軽さを装っているが、実際は非常に神経質で、他人に対する気配りや目配りも並外れたものがあった。多分今回のミスターX騒動についても、かなり気が滅入っている筈だ。その気持ちを強く引きずったまま、番組に入られてはたまらない。
谷口ディレクターは、五九悪が落ち込んだような溜め息をついたのを見て、力づけるようにいった。
「大丈夫だって。心配しなくてもいいよ」
五九悪も谷口が気を使ってくれていることに気付き、明るく笑って見せた。
「本当はまた来てくれりゃあ一番なんですけどね」
「そうなんだよ。ま、これからどうなっていくのか予測もつかないけど、今日みたいに前日には必ず連絡がつくわけだから、その内必ず呼び出すようにしようと思ってるから」
三風亭五九悪は自分に言い聞かせるようにそういうと、カップの中にほんのわずか残っていたコーヒーを飲み干した。
7
午前九時。
日高にも澄み切った青空が広がっていた。
いつものようにパソコン投票の準備を終えた捨文王は、吉勝太郎の不安が現実のものにならなければよいがと心配しながら、この日のために新たに購入したノートパソコンを立ち上げ、ミスターXのホームページにアクセスした。
吉勝太郎の心配事が何であるのか。捨文王は吉と具体的な話をしたわけではなかった。しかしそれが、吉勝太郎自信の管理下にある競馬新聞社や予想屋の団体だけに関わるものではないことを捨文王は理解していた。
手配はし尽くしている。万一そんな事が現実になったとしても、心配するほどのこともなかろう。捨文王は自分に言い聞かせるように小さく首を振り、少し砂糖を入れすぎたレモンティーを一口すすった。
土曜日にもかかわらず早朝から出勤していた吉勝太郎は、理事長室の安楽椅子に沈みながら、秘書に命じて理事長室のパソコンをミスターXのホームページにアクセスさせた。
多分グランパは自分が危惧していることを十分承知しているのだろう。だからこそあの伊達針之介という子飼いのヒットマンを呼び寄せたに違いない。
まさかヒットマンが必要になる局面が生じることもあるまいが、万一の場合には覚悟を決めなければならないということか。吉勝太郎は思わず身震いをした。
矢部宗太郎と江崎大五郎の出番は午後からだった。それをいいことに、札幌市内のホテルで朝からビールをあおっていた。
昨晩すすきのに繰り出し、完全に二日酔いだったが、有名人のはしくれというプライドがあった。だから迎え酒と称してビールをあおりながらも、部屋に備え付けのパソコンを使って何とかミスターXのページにアクセスしようと努力しているらしい。しかし二人とも使い方をよく知らない。
「だめだ。大ちゃん。誰か呼んでさ、やってもらおうよ」
矢部宗太郎は諦めて江崎に同意を求めた。
「OK。じゃ、俺、電話しま~す」
江崎はろれつの回らなくなった口で簡単に同意すると、受話器を取ってルームサービスを呼び出した。
「あ、江崎大五郎という有名人でーす。あのぉ冷蔵庫のビール、もう無くなっちゃったんですが。どしたのかな」
矢部宗太郎は、パソコンでのアクセスを諦めて部屋のテレビを点けた。
幸円仁は、穂刈末人の部屋が正面に見えるウィークリーマンションの一室で、ミスターXと思われる穂刈の監視を続けていた。グランパに報告して以来、片時も目を離すことがないほどの密着監視だった。
しかし監視の対象である穂刈末人が、毎晩遅くまで双眼鏡で覗くことのできる居間の片隅で、パソコンを使って何かをしていること意外不審な行動をとったこともなければ、誰かと接触することもまったくないままこの日を迎えたことで、幸円仁は自分の報告に少し自信を無くし始めていた。
グランパはまず間違いないといってくれたし、監視を続けるようにと直接指示も出してくれた。今になって、もし穂刈という男が今回の騒動と無関係だったなどという事にでもなったなら、自分はいったいどうなってしまうのだろう。幸円仁はそんな不安にさいなまれ始めていた。どちらにしても結論はもうすぐ出る筈だった。
携帯電話の目覚まし機能が午前九時を知らせると同時に、幸円仁は監視の目を一瞬緩めてノート型のパソコンを開き、ミスターXのページにアクセスした。
伊達針之介は冷房装置にガタがきている都心のビジネスホテルの一室で、帰国してから一週間、猛烈な暑さに耐えてきた。
別命あるまで待機という捨文王からの司令を忠実に守ってきたという格好だったが、実のところグランドキャニオンでの失敗で成功報酬がパーになり、身動きが取れなかっただけである。しかし、伊達針之介はこの情けない日々が今日で終わることを本能的に感じ取っていた。
ベッドサイドに置いた目覚まし時計が午前九時を告げた。伊達針之介は跳ね起きるようにベッドを出た。
針之介は事故防止の目的でストッパーをつけた窓をできるだけ広く開けた。爽やかな風が流れ込むわけではない。気持ちの問題である。少なくとも酸素だけは補充できるだろう。
フウっと溜め息をつきながら中古品のノートパソコンを立ち上げる。苦虫をかみつぶしたような表情で煙草に火を点けると、伊達針之介はマウスを巧みに操作して、ミスターXのページにアクセスした。
朝の仕入れを済ませ、府中市内に構えた店に戻った八百屋の出雲敏房は、あとの仕事を妻の静子に押し付け、大急ぎで部屋に駆け込んだ。出雲はパソコンを持っていなかったので、リモコンを操作してテレビを競馬専門チャンネルに合わせた。
「ミナカミくーん!」
叫ぶように自分を呼ぶ声で、皆神頼は夢の中から現実に引き戻された。玉野幸次郎が書斎に閉じ篭ってしまったときにはさすがにうろたえた皆神頼だった。しかし、党本部に連絡すべきかどうか考えてオロオロしている内に、普段と変わらぬ豪快ないびきが聞こえ始めたので胸を撫で下ろした。居間に戻って長椅子に腰を下ろしゆったりとしているうちに、つい眠り込んでしまったらしい。
「皆神君。ちょっと来てくれ」
皆神頼を呼ぶだみ声がまた聞こえた。
急ぎ足で駆けつけると、書斎のドアを半開きにしてその隙間から玉野幸次郎が手招きをしている。
「何でしょう。先生」皆神はおどおどしながら尋ねた。
「ミスターXってのは、何だ?」
「はぁ?」
「ミスターXだよ。ミスターX.テレビで大騒ぎしとる」
玉野は書斎のドアを大きく開いた。書斎の奥に置かれたテレビに、札幌競馬場が映し出されている。
「ああ、ミスターXですか。なんだかよくわかりませんけれどね。異常なほど良く当る予想屋らしいですよ」
皆神が答えると、玉野の顔が一瞬にして鬼のように赤く染まった。
「何故それを早く言わんのだ!公費だ。公費を今すぐ持ってこい」
呆然と立ちつくす皆神頼に向かってどすの聞いた声で玉野幸次郎はそう命じた。
穂刈末人は居間の片隅に置いた新品のパソコンを起動させた。小さくブーンという機械音を出して、パソコンは立ち上がった。
穂刈は午後十時に約束通りノビーから入手した情報を三風亭五九悪宛にファックスで送信した。後はテレビ局のほうで編集して朝九時ジャストにオンエアという事になるはずである。
次に完成したホームページの予想欄に一レース毎に注意深くフォーカスを記入し朝九時に公開されるようセットする。これで午前九時ちょうどにミスターXの完全予想は世界に飛び出して行くことになる。
そう考えると穂刈は興奮を抑えることができなかった。
8
「おはようございます」
できる限り平穏を装って、三風亭五九悪は切り出した。
「土曜日の朝から、しかもせっかくの清々しい札幌競馬のスタートだというのに、半病人のように痩せ細った姿をさらけ出し、本当に申し訳なく思っております。本来ならば午後担当の三風亭五九悪と」
「本来なら午後担当の、私、小田部玲子がお届けします」
「さ、今日は第1レースのパドックに行く前に、パソコンをお持ちでない貧乏人の皆さんが、いま気になって仕方が無いというミスターX関連の情報から行きましょうか。それでは玲子さん、お願いします」
「はい。いよいよ今日からミスターXの予想がインターネットを介して公表されるようですが、五九悪師匠始め番組のスタッフがミスターXと交渉し、インターネットと同じ情報を番組で公表する許可を取り付けました。ミスターXとの接点が何かと多いこの番組ですから、パソコンをお持ちでない貧乏人のファンのためにも、ぜひホームページと同じ情報を送り出す努めがあると考えたわけです」
「接点と言ったって、ま、言うほど大袈裟な事でもないんですが、パソコンをお持ちでない貧乏人の方々にも報道に携わる者として公平にお伝えする責任があると考えたわけです」
割り込むように話を引き取った五九悪の説明に、玲子も大きく頷いた。
「さ、それでは早速ご紹介しましょう。ミスターXの予言です」
三風亭五九悪は調整室の谷口ディレクターにサインを送った。
絶妙のタイミングで、谷口は画面を三風亭五九悪との約束を守って昨晩のうちに準備した文字画面に切り替えた。
まず画面に最初に映し出されたのは、テレビ局のコメントだった。『警告!この予想はミスターX個人の見解によるものであって、的中を約束するものではありません。本予想の結果について当社は一切の責任を負いません』
保険をかけたような逃げ口上がフェードアウトすると、次にミスターXのメッセージが映し出された。言うまでもなく、それはミスターXのホームページにアクセスした多くの競馬ファンが目にしているものと同じ内容である。
『はじめに。この予想を、外れて損ばかりしている善良な競馬ファンと、的はずれの情報ばかりを垂れ流し、競馬ファンに損害ばかり与え、それでもなお何の責任も取ろうとしない予想屋達に贈る。
昨今、競馬は健全なレジャーとして完全に定着したように思われているようだ。だがそんなことは錯覚に過ぎない。どんなに上辺面がよくなったとしても、れっきとしたギャンブルであることに何の変わりもない。
多くのファンが競馬を楽しもうとする目的は何か。言うまでもなく一獲千金を夢見ること。これに尽きる。もし儲かったなら、そのお金で家族旅行をしよう。自動車を買う為の頭金にしよう。たまには部下達を居酒屋にでも連れていってやろう。床屋に行きたい。映画を見たい。飯、食いたい。ギャンブルだからこそ、そのような願いを一頭の馬に託せるのであって、それは当然のことなのである。
この思いを叶えるためにファンに与えられる唯一無二の資料。これが数多く出版されている予想専門誌である。
ゆえに競馬専門紙の発行に携わる者達は、競馬ファン個人個人の財産に関わる重要な資料を提供していることになる。これを自覚する必要がある。提示する情報には重い責任が含まれている。このことをしかと認識しなければならないのだ。
だがしかし、最近の予想家の不甲斐なさには目を覆いたくなるものがある。ただ面白おかしく人の心を煽り、間違った方向へと誘導しているようにさえ感じる。
公表した予想が外れるということは、ファンに損害を与えていることに他ならない。
予想家達よ。おまえ達はそれを知っているのか。もし知っているなら、なぜ外れた時に謝罪の一言すら言わぬのか。なぜ、ただ呆けた薄ら笑いを浮かべ、話を打ち切ろうとするのだ。
おまえ達にとって競馬ファンは大切なお客様ではないか。普通の商売ならば客に迷惑をかけ損害を与えた場合、懲戒免職を通告されても何の反論もできぬところであろう。
もう良い。私は、お前たち予想屋に鉄槌を下すことに決めた。
善良な競馬ファン達よ。もうつまらぬ競馬新聞など買うことはない。
スター気取りの予想屋の言葉などにも耳を傾けるな。
私,ミスターXが競馬予想の神髄を見せてくれよう。』
画面はここで一度フェードアウトし、次に第1レース、第2レースと各競走のミスターXによる予想フォーカスへと切り替わった。
ついに祭りの始まりを告げる花火は打ち上げられたのである。
第7章 みんなの心配ごと
1
ホームページに発表されたミスターXの予想を読み終え、吉勝太郎は思わず苦笑した。
ミスターXの予想が当たるか否か。それは時がくれば結論が出る。吉勝太郎が苦笑した理由は予想そのものではなく、画面上を流れたミスターXのメッセージに対してだった。
協会には勿論多くの予想担当者がいる。彼らが予想紙を介して送り出す情報はそれぞれの思惑に左右され、ミスターXが言う通りまちまちなものになる。結果はひとつなのだから、的中する予想もあれば、はずれる予想もあるのは当たり前のことなのだ。だからもし的中予想イコール正しい情報という考え方をするならば、結果として、外れた予想は無責任で悪い情報ということになる。
競馬の予想を生業としている予想屋は皆その道のプロのはずである。プロならば勝ち馬予想に長けていなければならない。だからプロである彼らが競馬新聞に公表する予想は的中して当然。はずすことは許されない。不的中は万死に値する。だが現実はどうだ。はずれてばかりではないか。そんな無責任が許される道理がない。
ミスターXの言わんとすることを要約すればこうなるのだろうか。
それは業界を一般的な社会常識に当てはめたときに言えることなのだが、同じ土俵上で無責任という言葉を使われたならば、ごもっともですと認めるほかはない。
『だがミスターXよ、こちらから送り出す情報のすべてが、お前を満足させるものだった時のことを想像してみたことがあるのか。何が起こるかを考えてみたのか。お前は今それを実行しようとしているのだぞ。』
吉勝太郎はそう思った。その思いが苦笑となって表れたのである。
冷房が十分に効かない安ホテルの一室で伊達針之介はパソコンの画面を流れるミスターXのメッセージを目で追った。蒸し風呂の中のような暑さに辟易しながら、殆ど丸裸に近い格好になっていたのだが、体中の汗腺から噴き上がる汗は止まることを忘れているようだった。
メッセージを読み進むにつれ、伊達針之介はディスプレイを流れる黄色の文字が、次第にぼんやりと滲んでくることに気付いた。それは噴き出す汗のせいではない。ミスターXのメッセージに感動して、熱いものが込み上げたからである。
ミスターXは凄いやつだ。伊達針之介はメッセージに込められたミスターXの思いを素直に評価した。競馬はもちろんのこと、競艇、競輪、オートレースと殆どすべてのギャンブルをたしなむ伊達針之介だったが、ミスターXが言う通り予想屋が流す怪情報にはいつも悩まされている。煮え湯を飲まされつづけてきた。そういうでたらめな予想屋たちを向こうに回し、ホームページを開設してまで、ファンのため敢然と戦いを挑んで行く姿はまさに男の中の男。予想家の鑑ではないか。もうミスターXの一点予想の結果などどうでも良かった。大きな力を持つ組織に孤独な戦いを挑む、あの写真で見ただけの奇妙な姿が、何故か神々しいものに見え始めた。
だがグランパは、アメリカから自分を呼び寄せた。そして今日まで何の連絡もなしでこのくそ熱い部屋での待機を命じている。実行が決まったときのターゲットはミスターXということなのだろうか。……
伊達針之介は止めどなく流れる涙と汗を、脱ぎ捨てたパンツで拭った。
「なにいってやがるんでい」
矢部宗太郎は例によって呑みすぎていた。「冗談じゃあねーよ。ごたく並べてる暇があるんなら、さっさと予想を流しやがれ。こちとら、酔っぱらっちまったじゃねーか」
江崎大五郎も殆ど正体を無くしている。アルコールに理解力を奪われているので、流れるメッセージが一体全体何を語っているのかちんぷんかんぷんだった。
二人が投宿しているのは普通のシティーホテルである。エアコンが効いて、ノンベエの上に汗かきという最悪の二人にとってこの上ない環境が整っている。その快適な部屋にいても、メッセージを読むことさえ億劫に感じるのだから、二人の頭脳の構造自体が普通ではないのかもしれなかった。
それでも数時間してテレビカメラの前に出るとそれなりに人格を取り戻すのだから、さすがその道のプロである。
「おっ。大ちゃん、でてきたでてきた」
矢部宗太郎はテレビの画面を指差した。
「メモメモメモメモ」
江崎大五郎は早口言葉のように声に出しながら、ベッドサイドから備え付けのメモ用紙とボールペンを持ってきた。
札幌競馬初日、全十二レース、といっても各レースのフォーカスは一点だから、写し取るのにさして苦労は無かった。
江崎がメモした用紙をテーブルに置き、二人は長椅子に腰掛けて、自分たちの予想が掲載された予想紙を広げた。
「ありゃりゃりゃりゃ」
江崎大五郎は予想紙とミスターXのフォーカスを見比べて思わず目を丸くした。
「ちょっと、ちょっと見てよ、これ」
江崎は相棒の矢部宗太郎に呼びかけた。
「この予想だけど、ほら、殆ど宗ちゃんの買い目と同じじゃん」
「ん?どれどれ。ああっ。ほんとだ。パクりじゃんか、これ」
「こんな予想なら、誰でもできるよなぁ」
「おっ。どういう意味だい?大ちゃん」
矢部宗太郎は、聞きとがめた。
「いや、そ、そういうことじゃなくってサ。凄いなって思ってるんだよ。ミスターXってもしかしたら宗ちゃんのことじゃないの?」
「ばか言うなよ。ほら。よく見ると、午後のレースは結構違ってるじゃん」
矢部宗太郎は指摘した。
「あ、そうだなあ。でもこれ、宗ちゃんの予想の方が正解なんじゃないの。だって見てみなよ。例えばこの7レース。7番―9番なんて、大穴すぎるよなぁ。それに比べてさ、宗ちゃんの予想5番―6番だろ。順当なところだよね。宗ちゃんの予想で決まれば7~8倍くらいの配当かな?これがもしミスターXの予言がの方が的中でもしてみなよ。万馬券になっちゃうよ。百倍は下らないじゃないの。ありえないよ。いくらなんでも。こりゃあ宗ちゃんの勝ちだわ」
「当然だよ大ちゃん。一体何年この稼業で飯食ってると思っているんだい」
矢部宗太郎は江崎大五郎に向かって嬉しそうに大声で笑った。
今日中に必ずグランパから指示がある。そう直感した幸円仁は一度立ち上げたミスターXのホームページを閉じた。
ミスターXの予想が的中しようがどうなろうが、それは自分に課せられた任務とは無関係だ。もちろん予想の結果に興味がないわけではない。しかし、今自分にとって最も重要なこと。それは雑念を頭の中から追い払うことなのだ。幸円仁は自分自身にそう言い聞かせた。
ノートパソコンを閉じ、穂刈末人を監視するために双眼鏡を持ち直した手の平が、汗でぬらぬらした。
双眼鏡の円形の視界に穂刈末人の姿があった。
監視を命じられてから現在まで、穂刈末人の動きに監視役として緊張を要する事態は一度もなかった。だからといって気を緩めるわけにはいかない。ミスターXの正体が穂刈末人にほぼ間違いないことを、偶然とはいえ突き止めた幸円仁だったが、ここで見失ってしまってはこれまでの努力が水泡に帰してしまう。ホームページが立ち上がった今、自分に課せられた任務はクライマックスを向かえているに違いないのである。
幸円仁は手の平を、タオル地のハンカチで拭った。
「かあさん。じゃあ、ちょっくら出かけてくらあ」
予言を写しとったメモ帳をバッグに入れ、出雲敏房は妻に大声で一声かけると外に飛び出した。
店前のコンクリートに打ち水をしていた妻がひとこと悪態をついたようだったが、その声も競馬場へと続く欅並木を疾走する出雲の自転車には届かなかった。
自転車のペダルをこぎながら、出雲敏房は暫く顔を見ていない穂刈末人の事を思っていた。やっぱり本格的に予想業を始めると、忙しいんだろうなあ。体でも悪くしなければいいんだが。
ミスターXイコール穂刈末人と勝手に決めている出雲は、そんな余計な心配までしていた。というより、数ヶ月前に始めて穂刈と出会って以来、穂刈末人は出雲にとってかけがえのない大師匠とでも言うべき存在になっていた。穂刈が真実ミスターXであろうがあるまいが、そんなことはどうでもよかった。出雲にとってのミスターXは、穂刈でしかありえなかったのである。だから、傍目からは余計な心配とも思えるその気持ちは、出雲の心からの気遣いなのだった。
出雲は欅並木の途中で自転車を止めた。そこには穂刈末人の住むマンションがあった。一瞬、心配なのでちょっと寄ってみようかと自転車を止めたのだが、かえって迷惑かもしれないと考え直した。ホームページを作ったりして予想活動をしているくらいだから、心配する事もないだろう。それに先週競馬場で出会った新聞関係者が、ああして相変わらず監視を続けているってことは、元気だという事の証だろう。
出雲は向かいの賃貸マンションから双眼鏡で穂刈の部屋を覗いている男に向かって、大きく片手を振ってみせた。男は音もなく部屋の中に引っ込んだ。
出雲は自転車のペダルを踏んだ。
第1レースの発走時間が迫っている。ミスターXがせっかく教えてくれた予想を無駄にしない事。これが大切なことだ。出雲はそう割り切る事にした。
程なく競馬場に到着した出雲は駐輪場に愛車を入れ、ゲートをくぐった。
場外発売をしている東京競馬場は、普段の土曜日に比べると少し混雑しているように見えた。
ミスターXの予言を体験しようとするファンも、どうやら大勢駆けつけているようだった。出雲敏房は記入台に置かれた馬券購入用のマークシートを数枚抜きとって、先ほどメモしてきた通り慎重に記入していった。ひととおり書き終え、間違いがないかチェックをしていると、あちこちの記入台からファンの声が真夏の熱い風に乗って流れてくる。
聞き耳を立てると、ミスターXの予言を話題にしている声も聞き取れた。
「本命だけど、仕方ないか」
「そうだなあ。ミスターXがそう言ってるんじゃなあ」
そんな呟きを耳にしながら券売機の列に移動して順番を待っていると、出雲は嫌な胸騒ぎがするのを覚えた。いま購入した馬券は間違いなく的中するだろう。しかしそれで良いのだろうか。今日からは、以前のようにこの的中情報を知っているのは自分だけではないのだ。それに考えてみれば何故ミスターXはこの情報を無料にしたのだろうか。予想業に就いたと決めてかかっていたけれども、無料という事はどういうことなのだろう。サービス期間という事だろうか。それにこれからいつまでもミスターXの予想が的中し続けるとしたらどうなるのだろう。配当がどんどん下がってしまうんじゃなかろうか。
それは出雲敏房の胸の内にふと芽生えた小さな疑問であった。そしてこの疑問こそ、多くの競馬ファンや競馬関係者の心に生まれ始めた漠然とした不安の原点だった。
2
全レース的中を成し遂げたミスターXの予言が及ぼした影響は、意外にも、意識して見なければ気がつかないほど小さな配当金の低下くらいのものだった。
競馬の何たるかも知らないピクニック気分の家族連れや、馬が可愛いなどとふざけたことをぬかす、一生馬など持てそうにない貧乏人のグループ。自分の予想が日本一だと言って絶対に譲ろうとしない頑固なハゲ頭。まだミスターXの存在さえ知らない、時勢に乗り遅れた万年平社員。ミスターXの予想は信じたのだが、最後にマークシートへの記入を間違えてしまった単なる大ばか野郎。
そういう、予想紙も買わずに競馬場へ足を運ぶような不謹慎な競馬ファンのほうが、残念ながら本当の競馬ファンよりも圧倒的に数が多いために違いない。
馬の名前や恋人の誕生日を参考に馬券を買ってみたりする邪道競馬ファンには予想もミスターXも何の関係も無いのだろう。
捨文王は伊達針之介と幸円仁に作戦の延期を告げ、一通りの指示をした後、ウィスキーグラスを取り出し、琥珀色の液体を注いだ。
捨文王は、グラスを揺らしながら久しぶりに笑顔を見せた。きっと協会の吉勝太郎も同じ思いでいることだろう。先々ミスターXという大ばか者がどう行動して、世間がどう反応するかにもよるが、強硬手段をとらなければならない時は何日か先延ばしすることができた。こんな具合にこの先ずっと続いてくれるなら、ミスターX騒動も一時の笑い話で終わらせることができるのだが。捨文王はそう思った。
インターホンが、吉勝太郎から電話が入っている事を知らせた。
「グランパですか?」
受話器から流れ出る吉勝太郎の声に、少しだけ明るいものが戻っているようだった。
「ああ、吉くんか。いやぁ、良かったんでねぇか。何にもおこらねかったもな」
「はい。第7レースは少し驚きましたが、許容範囲でしょう。何とかこのまま落着して欲しいものです」
「んだな。けどなぁ、気ぃ許すわけにいかねえべ。まだ札幌の初日と二日目が終わったばっかしだものな。……頑張るべや。競馬をわしらが終わらせたなんてこと、言われたくねえべさ」
きっとミスターⅩの出現以来、吉勝太郎は緊張の連続だったに違いない。捨文王は吉の気持ちを和らげようと、すこしおどけた調子で激励した。
捨文王の気配りが吉にも受話器を通して伝わったと見え「まったくです」と言う返事の中に明るい笑い声が含まれていた。捨文王もつられるように微笑んだ。
勿論二人とも、そんな感傷に浸っていられないことはよく理解している。これで事件が解決したと思っているわけでは決してなかった。心配していたほど大きい影響が出なかっただけで、払戻金額の低下は実際に起こっているのだ。
確かに競馬はこれから先もずっと続いていく。いや、続いていくようにしなければならないのである。吉勝太郎と久しぶりに少し他愛も無い世間話をして、捨文王は受話器を置いた。その途端、捨文王の胸の中に再びずっしりと重いものが溜まり始めた。
3
玉野幸次郎は長椅子の上に正座という不自然な格好で、壁掛け式の大型プラズマテレビに見入っていた。画面には札幌競馬場第7レースのゲートの様子が映し出されている。
朝、玉野幸次郎は皆神頼からミスターXについての情報を得ると、大慌てで居間に駆け込みテレビを点けた。皆神頼の話がもし本当なら千載一遇のチャンスではないか。まずは皆神の話が本当かどうか、しっかりと確認しなければならない。迂闊に信じて行動すると痛い目にあう。それを良く知っている玉野幸次郎だった。
そこで玉野幸次郎は、午前中にスタートを切る第1レースから5レースまでを確認のレースとし、午後に入って第6レースで流れが変わっていないか再確認をすることにした。勝負は第7レース。ラッキー7の第7レースである。玉野幸次郎はそう決めた。
レースがゴールインするたびに玉野は狂喜乱舞の状態になった。
「当たったぁ。また当たったぁ」
手を叩きながら叫ぶやら大笑いするやら、玉野幸次郎はまるでいたずら小僧のようにはしゃぎまくった。
これで恋占潤一郎のギッタギッタから解放されるのだから、玉野の喜びも当然のことである。第7レースのファンファーレが高らかに鳴り響きゲートインが始まると、さすがに玉野の口は閉ざされ、その目にも真剣な光が戻った。
玉野幸次郎はミスターXの予言する7番―9番に三百万円を投じていたのである。
結果はすぐ出た。ミスターXの予想が外れるわけもむかった。玉野幸次郎は労せずして七千五百万円という大金をゲットし、その上恋占潤一郎総理大臣から通告されたギッタギッタの刑をも免れたのである。
玉野幸次郎は首相官邸に電話を入れた。驚いたことに恋占総理自身が直接電話口に出た。
「あ、恋占総理でいらっしゃいますか?玉野幸次郎でございます」
「おう。玉野君か。いや、何も言わなくてよろしい。おめでとう」
「恐れ入ります。ところで総理」
「何だね?」
「あのミスターⅩという男は、いったい何者なんでしょうか」
「しかるべき筋に、今調査させているところだ。判明したら君にもすぐ知らせよう。いろいろと、御礼などもあるだろうからな」
そういって、電話は切れた。
玉野の頬を熱いものが伝い落ちた。
「ミスターX。あなたはわたしにとって、まさしく命の恩人だ。私は今日のことを決して忘れない。これから先、もしあなたの身に災いが振りかかった時には、この命を賭してあなたを守ることを誓う。ミスターXに栄光あれ」
玉野幸次郎は長椅子を下り、壁掛け式大型テレビの前に恭しく跪き、心の中で誓約の言葉を唱えた。玉野の後ろで皆神頼も何がなんだか分からないまま、同じように跪いていた。
4
関わる全ての人々の興奮や喜びそして不安を少しずつ膨らませながら、第一回札幌競馬は最終日を迎えた。札幌競馬は一開催8日間で、連続2開催である。来週土曜日になると第二回札幌競馬初日が開催される。見方によってはやっと折り返し点を過ぎたと言うことなのだが、競馬ファンにとって時の流れの速さを感じる開催変りだった。
昨夜遅くから降り出した雨は、一向に止む気配を見せず、それどころかますます激しさを増すばかりだった。札幌競馬場もこの豪雨によって、水を張った田圃のような状況になってしまった。レースが向う正面に入ると、双眼鏡を覗いてみても各馬の位置取りさえ確認できない有様である。
捨文王は忌々しげに舌打ちすると、レース観戦用のテラスから室内に戻った。
壁に組み込まれた大型のテレビ画面もどんよりとした灰色の雲に飲み込まれ、実況中継などと呼べるものではない。
捨文王は本革張りの肘掛椅子に深々と腰を沈めた。
ドアをノックする音が聞こえた。秘書を務める女性がドアの中央に取り付けられた小さなのぞき窓のレンズを覗いて、ノックの主を確認する。
「お見えになりました」
秘書は捨文王のほうに向き直っていった。
捨文王は今腰掛けたばかりの椅子から立ち上がり自分でドアを開けた。ドアの前にともに黒スーツに身を固めた伊達針之介と幸円仁の姿があった。
伊達針之介と幸円仁は、昨日突然捨文王から連絡を受け、今朝の羽田発第一便に乗り込んだ。台風の接近で果たして飛行機が飛ぶかどうか危ぶまれたが、欠航となったのは次の便からだった。伊達針之介と幸円仁を乗せた飛行機は、ほぼ定刻に札幌国際空港に到着。空港から競馬場までタクシーを飛ばしておよそ一時間半。指示された特別貴賓室に二人が到着したのは、第1レースのファンファーレが鳴り響くのとほとんど同時だった。
捨文王は満面に笑顔を浮かべ「いやぁ、よく来たなぁ」と二人の手をかわるがわる両手で握りしめて歓迎した。
「ひどい馬場ですが、よろしいんですか?ご覧にならなくて」伊達針之介が気を遣っていった。
捨文王は手を横に振った。
「だって見えねえもん。この雨だからな。代わりに当たるのはこの目にはっきりと見えとる」
捨文王は自分で口にしたこのジョークがよほど気に入ったと見え、甲高い声でケラケラと笑った。
伊達針之介と幸円仁も仕方なく笑い声を聞かせた。
捨文王は肘掛椅子に腰掛け、伊達と幸円にはソファーに座るよう手招きした。二人がソファーに腰掛けると、捨文王の秘書が湯気のたつコーヒーを運んできた。
「台風のせいだってな。この雨」
捨文王はテーブルの上に置かれたクリスタルの煙草入れから一本取り出した。
「日本海から直撃らしいです。内地には上陸していませんから、ほとんど弱まっていないということです」
伊達針之介が捨文王の煙草にライターの火を点けながら、車のラジオから得た台風情報を披露した。
「じきに風も強まってくるでしょう」
幸円仁が天気予報のような口調で付け加えた。テラスからはほとんど何も見えない有様だった。じっと目を凝らすと、競馬場周辺に植えられたポプラ並木のどんよりと重い憂鬱な影が、大きく揺れ始めている。
伊達針之介と幸円仁が並んで腰掛けている長椅子は壁際に置かれていた。二人の前にはガラステーブルがある。一般的なレイアウトなら、テーブルを挟んで捨文王の安楽椅子があるのだろうが、この特別観戦室では少し違っている。
捨文王が腰掛けた安楽椅子は、テーブルの短辺に面して置かれていた。ガラステーブルの向こう側には、打ち合わせ用の会議卓が一台。さらに会議卓の向うはレースの実況放送を流すディスプレーを三台埋め込んだ壁である。この配置ならばどこに腰掛けていても、テレビの画面でレースを観戦できることになる。モニターには同時開催をしている、ほかの競馬場の様子や各レースのパドックの様子、馬体重の増減、オッズといった情報が映し出されていた。
「あ、グランパ。確定しましたよ」伊達針之介はモニター画面に映し出された掲示板を指差した。
「どうだ?当たっとるべ」
捨文王は財布の中から自分が購入した馬連馬券を取り出して、ガラステーブルの上に置いた。
伊達針之介は画面と馬券を見比べた。フォーカスは『5ー9』確かに的中している。モニターテレビの画面に目を戻し、配当金を見る。馬番連勝5―9。配当金480円。三千円の一点買いだから、えーと……
「お見事です」と捨文王に賛辞を送った。
「なんもさ。エックスだもの」
捨文王は顔をしかめた。予想紙を伊達に手渡して「これを見て、どう思う?」と意見を求めた。
予想紙を一瞥しただけで伊達にも幸円にも捨文王の言わんとしていることが判った。二人はそろって捨文王に驚きの目を向けた。
「な。たまげたべ」
「この無印馬同士の決着が、480円?」
「んだ。これがミスターX効果なのよ」捨文王は憂鬱そうな声で説明した「ミスターXの予言を未だ知らねぇやつらやナ、予言ば無視するファンが結構多くいるんだべや。だけどなぁ、いつかは必ず行き着くところまで行っちまうんだべなぁ」
捨文王は寂しそうに言って大きなため息をついた。
「四百円でも三百円でも数字のあるうちにとってしまえと言うことですか」
伊達針之介がつぶやくように言うのを、捨文王は聞き逃さなかった。
「そうじゃねえべさ。伊達君。そうじゃねえよ」
捨文王は悲しい目を伊達針之介に向けた。
意味が分からず、針之介は捨文王の言葉を待つしかなかった。
「伊達君は競馬やるんだべ」
針之介は捨文王の言葉に頷いた。
「それなら聞くけどよ、いったい競馬のどこが面白いんだべな」
「それは何と言っても、一攫千金。大金持ちになるという夢でしょう」
「そうだよ。その通りだ。だからな、もしこのままミスターXの予言が出回ればよ、配当金なんか最後には元返しになっちまうべや」
「確かに」
「毎回配当金元返しの競馬なんかだれがやりてぇと思う」
捨文王は煙草をまた一本咥えた。今度は幸円仁がライターを点けた。
「伊達君。馬券ば買って、レース見て、勝った負けたの話ばっかりしてたらだめだ。わしらに楽しい競馬を見せようって頑張ってる人間もたくさんいるってこと、忘れちゃあいかんよ。競馬会職員の給料なんかも、馬券の売り上げの中から出てるんだ。全レース元返しなら給料も出なくなっちまうべ。そうなれば日本の競馬は解散するしかなくなっちまうんだ。嫌だべや。俺たちが終わらせたなんて言われるのは」
捨文王は諭すように言った。
「分かりました。申し訳ありません」伊達針之介も、素直に自分の非を認めた。
捨文王は腕時計を覗いて不思議そうに首を傾げた。ミスターXはいつもなら全レースの予言ををまとめて第1レーススタートの前に発表していた。それが今日に限って第1レース分はスタート直前に放送されたが、それきり何の動きもないのである。捨文王はモニターを見た。第2レーススタートまであと20分を切っている。
そのとき場内アナウンスが流れた。
「お知らせいたします。本日は台風の接近によりレースを安全に実施できないことが考えられるため、第2レース以降を中止といたします。なお本日中止となりました第2レース以降は、来週月曜日に代替とします。」
外の様子を見れば止むをえないことだ。捨文王は降りしきる雨の様子を見て思った。しかし次の瞬間、このアナウンスが示す重大な意味に気づき、捨文王は絶句した。そうか。だから予言が第1レースしかなかったのか。ミスターX。お前は一レースで中止になることを予め知っていたんだな。捨文王は恐怖を感じた。
予言そのものや、台風が直撃すると言う情報なら、何らかの方法で知ることができるのかもしれない。しかしレースが一レースだけ実施され、あとは中止となることをどうやって知ったのだ。無理だ。レースの中止については競馬会の中に設けられた運営協議会の決定による。そして第1レースを実施したからには、よほどのことがない限り最後まで実施するのが原則だった。予想各紙は既に全国で発売されているし、競馬場内の売店や飲食店も、仕込みを終えて営業を開始している。競馬場内や日本中のウィンズで働くパートタイマーたちだって、朝のミーティングを終わらせ、持ち場についていることだろう。
客の出足が遅く、スタンドにも空席が目立つ第1レースであっても、開催に必要なものはほとんど同じなのだ。もし途中で中止となればそれらに係る数十億円と言う莫大な開催経費が無駄になってしまうからである。それなのにミスターXは、第1レースしか実施されないことを知っていた。だから発表されたのが第1レースの予言だけだったのだ。ミスターXよ。お前は一体何者なのだ。捨文王はその胸の内に、不安とともに怒りの炎が燃え上がるのを覚えた。
第8章 誘拐事件の顛末
1
「朝御飯できたわよ」
ダイニングから妻の呼ぶ声が聞こえた。
食卓には湯気の立つカップスープとベーコンエッグ、それにバタートーストが並べられている。
「あら?陽介は」
普段なら、食事ができたと聞けば一番先に飛んでくる陽介だった。それが気配も見せない。子供部屋をのぞいてみたが、姿が無かった。
「ランニング中じゃないのか?」
「いくらなんでも遅すぎない?八時過ぎでしょ。もう」
恵子が口に出した言葉を聴いたとたん、二人の顔から血の気が引いた。
確かに遅すぎる。普段ならせいぜい一時間ほどでハーハーと息を荒げながら戻って来ていた。コースを変えるという話も聞いていないし、いつもの倍以上も走る体力だって持ってはいない筈だ。交通事故。この四文字が穂刈の脳裏をよぎる。ちょうどその時、窓外を救急車のサイレン音が通過した。
穂刈と妻の恵子は、青ざめた顔を見交わした。外へ飛び出すと、マンション前の通り沿い、百メートルばかり先に赤色灯を回したまま救急車が止まっていて、周囲を野次馬たちが囲んでいる。穂刈は救急車へと全力疾走した。恵子も穂刈に遅れず走った。
喘ぎながら何とか辿り着いて、恐る恐る野次馬たちの輪に首を突っ込んだ。
「知り合いの方ですか?」白衣を身にまとった救急車の職員が、穂刈の狼狽ぶりを見て尋ねた。
男が一人倒れていたが、陽介ではない。倒れた老人には気の毒だけれども、穂刈はほっと胸をなでおろした。
「いいえ。違いました」
穂刈は野次馬から抜け、追いついた恵子に大丈夫という身振りを見せた。
恵子がいつもの陽介のジョギングコースを知っていたので、二人してそのコースに沿って一応調べてみたが、何の手がかりも掴めないままマンションに戻った。自分たちが捜しに出ている間に、入れ違いで戻っているのではと、一縷の希望を持ってドアノブを回したが、やはり陽介は戻ってはいなかった。
ダイニングテーブルの上にはすっかり冷めてしまったスープやベーコンエッグが、淋しげにそのまま残っていた。
「待つしかなさそうね」
居間の長椅子に深く腰掛け、恵子はテレビを付けた。穂刈はただ息子の無事を祈りながら、長椅子に腰掛けて不安と戦うことくらいしかできることはなかった。
時間だけは容赦なく流れ、壁にかけた時計が正午を知らせた。ベランダからの陽射しが焼け付くような暑さで、まだ八月ということを忘れるなと言わんばかりに降り注いでいる。
「失踪届けを出そう」
決意して穂刈が立ち上がった。
それまで強がっていた恵子の目から、堰を切ったように涙が零れ落ちた。
その瞬間を待ち構えていたように玄関のチャイムが鳴った。
「ようやく戻ったのかしら」一瞬ほっとした表情を見せ、恵子が玄関のドアを開けると、そこには陽介ではなく、紺の背広を身にまとった大きな男が立ちはだかっていた。
男は名刺入れから一枚抜き出し「府中署のオサカベイチロウと申します」と声に出して読み上げながら恵子に渡した。名刺には、府中警察署捜査課・刑部一郎とある。恵子は「少々お待ちください」と刑部刑事を玄関に立たせたまま居間へ戻り、「あなた。警察のかた」と声を潜めるように言って名刺を穂刈に手渡した。
「お通しして」と穂刈にいわれて、はっと我に返ったように、恵子は来客用のスリッパを揃えた。
居間の長椅子に腰掛けた府中署の刑部(おさかべ)刑事は恵子の入れてくれた煎茶をひと口美味そうに飲んで「陽介君、やはり戻られていませんか」としかめ面をしながら言った。
「どこでそのことを?」
穂刈はまだ被害者である自分が誰にも言っていないのに、何故警察が既に情報を得ているのだろうと驚いた。
「こういう商売ですからね。いろんなパイプがある」刑部刑事はそういってクククと笑った。
「と言うことは、陽介は誘拐されたと言うことですか?警部さん」恵子が問い詰めるように聞いた。
「まだ、平の刑事ですから。で、そうそう。誘拐ですよ。間違いなく立派な誘拐です」
「立派なとは何だ。立派なとは」穂刈がたまりかねて語気を荒げた。
「いやいや、何も心配はないですよ」刑部刑事は楽しそうに微笑んだ。
「あんたになぜそんなことが分かるんだ」
刑部のあっけらかんとした言いように、穂刈はますます気色ばんだ。子供が誘拐された親にとって、それは当然の感情である。
「誘拐の原因がどこにあるのか、じっくりと考えてみてください。貴方が今していることが、本当に正義と言えるのかどうか」
穂刈を見つめる刑部刑事の目は何故か淋しげだった。
「残念なことに、私には貴方が今していることをやめろと言う権限はない。法的にも貴方には自由に行っても良い権利がある。だからこんな曖昧なことしかいえないのです。でもね、果たしてそれが良いことなのかそうでないのか。よく考えて行動してください」
刑部刑事は、恵子に陽介のことは絶対に心配ないからといい置いて帰って行った。
翌日、札幌競馬七日目が予定通り開催されたが、さすがに競馬に興じる心のゆとりはなかった。そして時計が正午を知らせた数分後……
電話が鳴った。穂刈末人が受話器をとった。
「穂刈末人さん。いや、ミスターXだね」
電話の声は年配の男のものと思われた。
「ミスターXではありませんが、穂刈末人は私です」
「まあどっちだっていいべ。そったらこと」電話の声は少し笑って「ありきたりの言いようですまんが、陽介君はよぉ、私が預かっている。ってか」
「何だって」穂刈は思わず大声を出した。恵子が涙をぬぐいながら傍に来る。
「何が狙いだ」穂刈は言った。
「まぁそったらに怒ったって駄目だべさ。今回はただのデモンストレーションだから。陽介君は明後日にはちゃんと帰してやっから。怪我なんかさせねえ。そったらこと、何も心配すんなって」
「デモだと。いったい何のデモだ」
「決まってるべや、そったらこと。わかんねえか? ちょっと頭悪いんでないかい? いっつもお前や、お前の家族のそばにいるってことば覚えてれ、って言ってるんだわ。何でこんな目に合うのかは、自分で考えてけれ。それとな、警察には連絡しなくていいぞ。わしがしといたから。あと新聞社にもこっちで連絡入れといてやったからな。ちょっと待て。電話を替わる」
受話器の声が変わり、次に聞こえてきたのは紛れも無く息子陽介の声だった。
「パパ?」陽介は言った。「朝、ランニングしようと思って外に出たら、知らないおじさんに、ハンカチで口を押さえられたんだ。そうしたら急に眠くなっちゃって」
「分かった分かった。で、今どこにいる?」
「わかんないよ。気がついたらこの部屋だったから」
「そうか。ひどい事されたりしていないか」
「大丈夫だよ。みんな優しい」
「みんなって。何人?」
「三人。ここにいるのはね。グランパとサーチさんと、ダーティ・ハリー」
陽介がそういった瞬間、ペシ、パシ、ピシッという音が聞こえ、陽介の泣き声が後に続いた。
「欧米人か……」
穂刈末人はぽつりとつぶやいた。
2
夕方五時のテレビニュースを見ていた国会議員の玉野幸次郎は激怒した。それは人間として決してしてはならない、卑劣極まりない行為ではないか。世の中の正義を守るため、男タマコウ、今こそ立ち上がるべき時。テメーら人間じゃネエ。ギッタギッタにしてやる。一気にテンションが最高状態まで跳ね上がっている。
「皆神くーん」
玉野幸次郎はテレビに目が釘付けになったまま、大声でボディガードの皆神頼を呼んだ。
「はーい。ただいまぁ……」
情けない返事をして、エプロン姿の皆神頼が大急ぎで、居間に入ってきた。
「このニュースはどういうことだ?」
玉野はテレビを見つめたまま、視線を空間に漂わせて立つエプロン姿のボディガードに尋ねた。
皆神頼は空中を漂っていた視線をテレビに向けた。
『東京都府中市で誘拐事件が発生した模様です。府中市に住む穂刈末人さんの長男陽介君が、本日早朝、日課としているランニングに出かけたまま行方が分からなくなっており、警察では事故と誘拐事件の両面から捜査を開始した模様です……』
「さあ? こちらに詳しい情報はまだ何も入っていません」
「そうかぁ、なんだか穂刈末人って名前に聞き覚えが……」
玉野が声にしていった瞬間、二人の頭の中で燻っていた爆弾が炸裂した。玉野幸次郎と皆神頼は互いに相手の顔を指差しながら、驚きの叫び声を上げた。
「ミスターXだ」
玉野幸次郎との約束を守って、恋占総理大臣はミスターXの正体が判ったと電話をしてきた。ひと月ほど前のことである。玉野幸次郎は、はっきりと思い出した。あれは第一回札幌競馬の最終日だった。あの大型台風が北海道を直撃し、第1レースだけは何とか開催できたものの、以降のプログラムが全て順延となった日だった。
恋占首相の口から出たその名前が、穂刈末人ではなかったろうか。皆神頼からも玉野と同時に驚きの声が飛び出したということ。それは玉野と総理のやり取りが記憶に残っていたせいだろう。むしろ玉野の記憶が正しいことを証明したことになる。
自分はミスターXに恩義がある。その借りを返すチャンスが早くも到来した。
玉野幸次郎は長椅子に深く腰掛け、新しい葉巻の口を切った。
それにしてもなぜ総理自ら動いているのだろう。テレビから流れる日常のニュースを聞きながら、玉野幸次郎は自分の心の中に、小さな疑問が芽生えるのを覚えた。恋占総理が競馬ファンだなどという話は一度も聞いたことがない。好奇心も手伝って、玉野は首相から教えられた穂刈末人と言う男のことを、少し調べてみた。大手の建設コンサルタント会社を退職していることしか情報を得ることはできなかった。悪い噂があるわけでもなく、何処にでもいる普通のオジサンというイメージしか湧いてこない。何の変哲もない一般人なのである。
ならばそんな男のことに、いったい首相は何故関わり合っているのだろう。こんな風に疑問はまた振り出しに戻ってしまうのである。
しかし誘拐事件が発生したということは、自分にはまだ見えていない何らかの関係がある。そう考えるのが適当だろう。悪戯に時間だけが経過して行く。時計を見ると、もう七時を回っている。
玉野幸次郎は再度首相官邸に電話を入れてみた。しかし……
「穂刈末人のことで」とひとこと口に出したとたん「然るべき手は打ってあるので心配することはない」と総理大臣は一方的に言うなり電話を切ってしまった。まるで取りつく島がない。
「タマコウさんよ、お前には関わり合いの無いことだ。余計なことに首を突っ込むな」そう一喝されたに等しいではないか。玉野幸次郎の闘争心に火がついた。
誘拐された子供は、自分を窮地から救ってくれた今話題のミスターXとかいう競馬予想家の息子だと言う。玉野幸次郎はこれらの情報を、恋占総理から直接得た。そのこと自体どう考えてもおかしい。なぜ一国の首相ともあろう者が誘拐などと言う個人的な事件に介入する必要があるのだろう。被害者がわが国の政治に関わる要人だというのならば話は別だが、そんな裏の話もなさそうだ。どう考えても首相が介入することなどあり得ない事件のはずなのだ。
玉野が総理と話をしたのは誘拐前と誘拐後にそれぞれ一回、合わせて二度である。一度目の用件は、借金を返済しギッタギッタの刑を許してもらった礼。
二度目は、つい先ほど、ミスターXの息子が誘拐されたことについてである。
誘拐事件が起こる前、恋占総理は上機嫌だった。むしろここ数ヶ月間に玉野の周りに起こった奇妙な出来事全てが、総理の指揮下で動いているように感じたほどである。そして今朝。今度はまるで手の平を返したように不機嫌になってしまった。それがどのような理由によるのか、玉野は興味をもった。
恋占潤一郎総理大臣の気分を陽から陰に変えた二つの出来事はともに穂刈末人、すなわちミスターXという共通項で括ることができる。だからと言って必ずしも同じライン上にあるとは限らないのだが、可能性が高いと考えて間違いはないだろう。玉野幸次郎は事件をミスターXで因数分解することに決めた。
まず誘拐前。首相の上機嫌は、ミスターXの予言を利用しようが無視しようが、結果として党の金庫に金が戻ったことによる。そう考えるのが良さそうだ。
党の金といっても不正に使われたことが発覚すれば、総理自身の管理責任を追及されるのは必至だし、ただでさえ反対の声も大きい行政改革を実施している最中、野党の追及も激しいものになってくるに違いない。玉野が耳をそろえて金庫に戻したことで、何もなかったことになり、一件落着とすることができる。
ラス・ヴェガスでの出来事まで遡って考えれば、総理も少しタマコウに脅しをかけ、分割でも良いから返済しろと命令するつもりだった。それが全額耳をそろえて一気に戻したので、ひと安心した。そんなところだったのかも知れない。玉野幸次郎は、自分の推測に満足そうに頷いた。
次に誘拐事件発生後、総理は何故不機嫌になったのだろう。玉野幸次郎は推理の糸口を捜し始めた。
誘拐事件でまず連想することと言えばやはり身代金だろう。「子供の命が惜しければ××万円用意しろ」というやつである。だが今回の事件にそれは当てはまらないと玉野は思った。警察関係のコネから得た情報でも、金銭を要求する連絡は入っていないという。当たり前だ。もし金がほしいのなら、罪を犯す必要などどこにもない。ミスターXの予想を信じて馬券を買いさえすれば目的は達せられたはずだからである。
ではどのような理由でミスターXの息子は誘拐されたのだろう? 総理が不機嫌になった原因が今度の誘拐事件と無関係ということはない。玉野の問いかけに恋占総理は「然るべき手は打ってある」と確かに言った。そう言うくらいだから事件は間違いなくわが国の内閣総理大臣ともリンクして動き出しているのだ。
玉野は長椅子に沈みながらいろいろな可能性を組み合わせていった。玉野幸次郎はあらゆる犯罪の中で、誘拐ほど卑劣なものはないと思っている。両親の悲しみを考えれば心が痛んだ。今度の事件で一番ショックを受けているのは陽介の両親、すなわちミスターX夫妻に違いない。
犯人のもくろみは身代金ではない。ミスターXが行っている活動が原因だ。言葉を変えればミスターXがホームページを立ち上げたことに対する抗議ということだ。それならば、競馬予想を生業とする競馬新聞社やそれに類した組織の犯行の可能性が濃くなってくる。しかし警察の目がその方向に向いている様子も無い。
犯人からのメッセージが何もないこの誘拐事件に、総理は然るべき手は打ってあるというが、いったいどんな手を打ったのだろう。玉野幸次郎は、ロマンスグレイの長髪をほとんどアフロへアーと区別がつかないくらいモジャモジャにした恋占総理を頭の中に思い描いた。強引な手段を採ってでもやると言ったら絶対にやる意志の強さが、どこに隠れているのか、玉野には分からない。その総理が手を打ってあると言いきるのだから、最悪の結末を迎えることには決してなるまい。しかし総理は何故そう断言できるのだろう? 深く事件に入り込んでいなければこの先どうなって行くのかなど分からぬはずなのに。
いやちょっと待てよ。強烈な電撃に打たれたような衝撃と閃光が玉野幸次郎の頭の中で炸裂した。
そうだったのか。総理は、本当は誘拐と言う非常手段など、採りたくなかったのだ。だがそれをしなければならないような要因が出始めた。首相としては不本意ながら実行を指示した。つまり……総理自身が糸を引いているのだ。だからこそ自信を持って何の心配もないと断言できるのだ。玉野幸次郎は全てのからくりを見破ったように感じた。
久しぶりに北海道の爺さんのご機嫌伺いにでも行って来るか。
「皆神君」玉野はボディガードを呼んだ。
ボディガードはいつの間にか玉野の横に座って、今にもぽとりと落ちそうな葉巻の灰を受け止めようと、灰皿を差し出している。
「明日の札幌行きを手配してくれ。ホテルもだ。一泊でよい。勿論お前も同行だ。時間はお前に任せる。夕方にはホテルに入りたい」
玉野幸次郎は指示しながら、葉巻の火を灰皿にもみ消した。
3
「どうしたんだ。なにかあったのか?」と問いかけるノビーの声が聞こえた。
危害は加えないし、月曜日には帰すという誘拐犯の言葉を信用した穂刈だったが、心の乱れはノビーに見透かされてしまった。
穂刈は一部始終を説明した。
ノビー・オーダに説明しながら自分のしてきたことを振り返ってみれば。起こるべくして起こった事件だと云えるようだった。誘拐事件の犯人は、『ミスターXの、激!競馬予言』が発表されるようになって、重大な不利益を被っている連中だろう。予想紙やテレビ、ラジオなどで予想をしている膨大な数の者たちのひとりに違いない。
いい加減な予想でも活字になったり電波に乗ったりすると何故か真実味を帯びる。競馬ファンは迂闊にもそれを信じて馬券を買う。そして外れる。信じたファンのほうが悪い。そう言われると反論の余地もないが、少なくとも生業として予想家の看板を掲げている以上売り物である情報には責任があるはずだ。それを忘れて、ただ一時のノリだけで、情報を垂れ流す連中が多すぎる。穂刈末人がミスターXとしてそういう輩に正義の鉄槌を下す。それが穂刈の目的だった。その目的に反論を持つ者が起こした犯罪なのだ。
問題は穂刈が攻撃のことしか考えなかったことだった。今更ながら、自分の甘さを悔いた。防御については何の手も打たなかった。というより反撃があることなど考えてもみなかったのだ。
今年の札幌開催は、これまで無責任な情報をたれ流してきた予想家どもや競馬新聞社にとって、面子丸つぶれの二か月だったに違いない。ミスターXがホームページで予言を公開し続ける限り、悲惨としか言いようのないその状態は、際限なく続くのである。予想家といえども人間。その中で最も自己顕示欲の強い部類に入る連中である。その屈辱にいつまでも耐えることなど出来はしない。やがて競馬専門紙など無用の長物と成り果て、まったく売れない状況に陥るときがやってくる。そうなる前にミスターXに予想を公開することをやめさせねばならないと考え、警告を発した。
これが陽介誘拐事件の真相なのだ。穂刈は自分の推理に満足し、思わずにやりとした。ただ、穂刈はこの結論に至る推理の中で、ある重要なポイントを無視していることに気がついた。どう考えても不自然なのである。それは府中署の刑部刑事が犯人からの連絡より先にやってきたこと。そして穂刈に言い置いた言葉だった。
「残念なことに、私には貴方が今していることをやめろと言う権限はない。法的にも貴方には自由に行っても良い権利がある。でも、果たしてそれが良いことなのかそうでないのか。よく考えて行動してください」
府中署の刑部刑事はそう言い置いて帰っていった。
穂刈はその言葉が自分の上に重くのしかかってくるように感じた。
「それにしても、犯人からアクションが何もないのに、警察が来たというのも奇妙な話だなぁ。お前、やってきたのが本物の刑事かどうか確認してみたのか」
「はい。刑事が署に戻る頃合を見計らって、電話を入れてみました」
「で?」
「確かに府中署の刑事でしたよ。本人が電話口に出ましたから間違いないでしょう」
「まるで警察が犯人のようだな」ノビーはそういって少し笑った。
「ノビーさん」穂刈末人は、長椅子に深く座りなおした。「警察は、捜査はしていないんじゃないでしょうか」穂刈は小さな声で言った。
「何故そう思う?」
「もう一つ選択肢があることを、無視していました。競馬評論家たちが犯人だと思い込んでいましたから。でもそうではなく、警察も含めてもっと上のほうが糸を引いている事件だという考え方をすれば……」
「もしそうだとすれば、犯人よりおまえに対する行動が早かったことも、陽介君は安全だと言うことも辻褄が合ってくる」ノビーは頷いた。
「きっとそちら側と同じように、事件性がないということにでもなって、捜査が打ち切られたか、それどころか事件として発生もしていないことになっているのかも知れません」
「しかし穂刈。この違いは大きいんじゃないのか。お前の立場の問題だよ」
「だから無視しようとしていたんですよ」
穂刈は叫ぶように言った。
確かに穂刈の立場も微妙で、予想家の犯行だった場合ならばわが身の危険も顧みず、ただファンのためを思って行動した結果と賞賛されるだろう。しかしオッズがどんどん下がり競馬がつまらなくなってきたのはお前のせいだと、主催者側から咎められているのだとしたら、まるで裸の王様ではないか。
「明日札幌最終日です。ノビーさん。ちょうどいい区切りです。しばらくホームページの予想は見合わせることに決めました」
穂刈末人はノビーに申し訳なさそうに宣言した。
「分かったよ。それはお前サイドの問題だからな。俺は今まで通り情報は流し続ける」
ノビー・オーダの少し残念そうな声が聞こえ、数秒間の沈黙があった。
「それにしても、そんなシナリオを書いて、実行できるやつが、本当にいるのだとすれば、」 ノビー・オーダは声をひそめていった。「この国の舵取りをしているグループのしかるべき人物だ、ということになる」
穂刈は大きく頷いた。
「なんだか、どちらの世界もおんなじことしているようですね」と、言葉を加えた。
「本当だねぇ」
ノビー・オーダの声が、ため息混じりに聞こえてきた。
4
オッズの低下は少しずつではあったけれども、着実に進行していた。前売りのあるレースでは、ミスターXの予言が発表される前と後では驚くほど予想配当金の変動があった。前売りの段階では万馬券近い倍率が示されていたのに、予言が発表されたとたんに2倍くらいに下がってしまうこともあった。きっとそう遠くない将来、前売り馬券など誰も買わなくなってしまうという噂さえ聞こえてくるようになった。
捨文王は渋い顔をしながら、パソコンのキーを叩いていた。もちろん札幌競馬七日目の馬券購入である。どんな状況になっても信念を変えず、自分の推理したフォーカスを購入する姿は、見方によっては哀れを感じさせるものであった。娯楽とか遊興のためだけで競馬と言うギャンブルに興じることのできる、一部の裕福な人間にだけ許されたことに違いなかった。捨文王と同じようなスタンスのファンたちが、結果的にほんのわずかオッズを上げることに成功したとしても、それはまさしく焼け石に水なのである。かつてはスタンドを埋め尽くした観客が少しずつ減り始め、今はあの熱狂的などよめきや歓声の中で興奮したことなど、遠い昔夢で見た出来事だったような気がした。
捨文王は第5レースの購入を終えるとデスクの引き出しを開けタバコを取り出し、火を点けた。紫煙の中に恋占首相の苦々しい顔が浮かぶ。ミスターXという大たわけに、なんとしてもホームページでの予言など止めさせなければならない。捨文王は伊達針之介と幸円仁に命じて、穂刈末人の一人息子陽介を誘拐させた。両親の気持ちを思えばこれ以上惨いことはないだろう。もちろん子供に危害を加えるつもりなどありはしない。ただ、我々はいつでもこのような強硬手段を取ることができるのだぞという脅しを、ミスターXにかけることだけが目的だった。
命じられた二人はいとも簡単に仕事を終えて、サニーファームに陽介を連れてきた。もちろん無傷である。捨文王は子供が到着するとすぐ電話で恋占総理大臣に報告した。総理はくれぐれも怪我などさせぬようにと捨文王に命じ、すぐ電話を切ってしまったが、その渋面が目に浮かぶようた。
伊達針之介は腕の中で寝息を立てている陽介を、そっと長椅子の上に寝かせた。後に続く幸円仁が陽介に毛布をかける。そこには黒ずくめ姿に似合わない優しい眼差しがあった。
「ご苦労さん。嫌な仕事させて、悪かったなぁ」
捨文王がねぎらうと、答える代わりに伊達針之介は陽介の寝顔に目をやって、にこりと微笑んだ。
三人が見つめる中で、陽介の目蓋が痙攣するようにピクリと動き、やがて悪戯小僧のような目がパッチリと開いた。陽介は瞳をくりくり動かして三人を見た。あったことのない何人の男たちが、楽しそうな目で自分を見ている。一人は優しそうなお爺さん。あとの二人は黒い背広を着たノッポのおじさんと、おそろいの服を着た小さいおじさんだった。ノッポのおじさんの胸には『伊達針之介』、小さいおじさんには『幸円仁』と書かれた名札が付けられていた。
「ここはどこですか?」
さすがに少し不安そうな声で、陽介は尋ねた。
陽介も現在の立場をわきまえているように大人しくしていたので、捨文王も安心した。
「何も心配すんなって、月曜日には家さ帰してやっからよ」
捨文王は陽介に不安を感じさせまいとニコニコ笑って「ほら、あそこの長椅子の所で、ちょっと一人でよぉ、遊んでいてくれや」
捨文王が言うと陽介は素直に頷いて、壁際に置いた長椅子にちょこんと腰掛けた。捨文王が「そこのテーブルの上によぉ、リモコンがあるべ。テレビって書いてるボタンでテレビが見れるし、ゲームって書いてるボタンを押すと、何と、ゲームもできるんだわぁ」
つい最近買ったばかりの液晶テレビに、ゲームメニューが映し出された。捨文王が使い方を説明しようとすると「僕、分かるから大丈夫です。グランパ」といって微笑んだ。
「おや?どうして私がグランパと……」
「本当は目が覚めてました。車の中であのおじさんたちが言ってたから」と陽介はゲームを立ち上げながら答えた。
「侮れないガキだ」捨文王は笑顔のまま心の中でつぶやいた。
陽介がゲームに夢中になるのを見て、捨文王は自分のデスクに戻り、穂刈末人に電話をかけだ。幸円仁の報告にあった電話番号をダイヤルした。まるで待ち構えていたように穂刈本人が電話口に出た。
「穂刈末人さん。いや、ミスターXかい」
「ミスターXではありませんが、穂刈末人は私です」
捨文王が訊ねると、不機嫌そうな声が返ってきた。
「まあどっちだっていいべ。そったらこと」
何だかありきたりの台詞かなと少し笑って「ありきたりの言いようで申し訳ねえけどよ陽介君は私が預かっている。ってか」と続けた。
「何だって。何が狙いだ」と、これまた陳腐な言葉が返ってきた。
いざとなると人間は何でもできると言うけれども、本当はありきたりのことしかできないのかもしれない。捨文王は悲しい思いをしたくなければ、もう予言などやめろという用件だけ伝え、少しでも穂刈を安心させようと陽介に電話を代わった。
捨文王は陽介が余計なことを言わないよう聞き耳を立てていた。しかし……
「三人。ここにいるのはね。グランパとサーチさんと、ダーティ・ハリー」
陽介が突然そういった。
三人は驚いて瞬間的に陽介の頭を平手でペシ、パシ、ピシッと張り倒した。
さすがの陽介も「フェーン」と泣き声を上げた。
デスクの上に置いたインターホンから秘書の声が流れた。
「玉野幸次郎様から電話が入っておりますが、お繋ぎしてよろしいでしょうか」
「ほう、来たか。やっぱり。繋いでくれ」
「それではお繋ぎします」
そのとたん、若い女性秘書の明るい声が、野太い男のだみ声に変わった。
「いやあ、ご無沙汰しとりました。国会議員の玉野幸次郎でございます」
「こっちこそご無沙汰してました。東京さ出ることも何べんもあったんだけどな、都合がなあ」
「いやいやこっちも同じですわ。ところで先生。明日の午前中は、ご在宅でしょうか?」
「明日。午前中?」
捨文王は卓上カレンダーを一瞥して「日曜だべさ」と言って玉野の反応を待った。
「はい。月曜日になりますと、子守などするには、いろいろとお忙しいかと思いまして」
玉野は含みのある言い方をした。
「なるほど。アンタがそう言うって事は、謎はすべて解けた、ってことなんだべなぁ」
「はい。お前たちの企ては総てそっくりお見通しだ、と言うところです」
玉野幸次郎と捨文王は受話器を通してお互いの大きな笑い声を確認した。
玉野からの電話を切ると、捨文王は伊達針之介にすぐ戻ると言い置いて、エレベーターで自宅へ戻った。老妻がひとりテレビのバラエティ番組を見ながら大笑いしている。開け放した引き戸を閉め、笑い声が聞こえないことを確かめると、捨文王は廊下に置いた電話を取りダイヤルを押した。相手はすぐ電話口に出たようだった。
「捨文王でございます。はい。たった今電話がありました。明日こちらに顔を出すようですな。分かりました。それにしても、お見事です。ラス・ヴェガスからずっと台本どおりですからなぁ。これでもしあの男の横領事件が見え隠れし始めても、握りつぶすことができるでしょう……」
捨文王は少し談笑して、受話器を置いた。
テレビを見ていた老妻が引き戸を少し開いて顔を出した。
「なにさ。下でかければいいべさ、電話」
「しかたないべや。プライベートだから」
「誰にかけたのさ」
「恋さんだ」
月曜日。玉野幸次郎は皆神頼に命じて全ての朝刊を購入させた。計算どおり各紙とも一面はすべて同じ話題で埋め尽くされていた。
『正義の人、タマコウ。人質を救出!』
次の選挙もこれで大丈夫。玉野幸次郎は心の中でそうつぶやくと、満面の笑みを見せた。
第9章 転生沼森林公園
1
陽介が誘拐されたというニュースをノビー・オーダから聞いたミッチ・アキュは少し嫌な顔を見せた。アキュには予測できる事件だったので、十分注意を払うようにアドバイスしておくべきだった。ミッチ・アキュは反省した。自分は競馬という世界についてそれほど多くの知識を持っているわけではないが、ミスターXというヒーローが現れたせいでオッズがどんどん下がっていくようになったとすれば、ミスターXを逆恨みする輩も数多く出現しても不思議ではない。穂刈末人という男もそれを考慮しなかったのは多少軽率だったと言わざるを得ない。
穂刈と言う男の立場を自分に置き換えて振り返れば同じことが言えるかもしれない。アキュは反省した。
こちら側の世界は創造主族と転生族というふたつの種族で構成されている。転生族ならば全て死を契機にしてこちらの世界と向こうの世界とを行き来する。転生というのだが、
向こう側の人間達は観念的にしかそのことを知らない。ヨミランドを天国とか黄泉の国などと呼んで恐れている。だからこちら側からVTSを通して語りかけたとするとその声は神の声ということになるらしい。滑稽なほど恐れおののいて、ひれ伏す始末である。これを利用し、多重構造になっている時空間の中の要所要所で、向こう側に生まれ変わった者を指導者として啓蒙し、次にヨミランドに転生してくる時にはすっかり毒抜きされた人格にしてしまおう。そうすることよって民主化運動を下火にしてしまう。これがタカマ・ガハラの計画に違いない。そう決め付けてアキュは考えている。ただ、以前ノビー・オーダが「それに、……向こうの人間たちだって、必要があったから努力して強くなっていったんだろうが。それが民主化だろうさ」と激高したのを見て、政治局のこの企ては失敗するとアキュは直感した。ノビー・オーダも同じ思いだったと見える。現に今民主化運動は起こっているのだから、ここまで強くなった転生族の意思がVTSによる“言葉”ごときで潰されるはずもなかろう。だが果たして自分が簡単に結論を導き出せる程度の未熟な計画を、首謀者達が真顔で進めるものだろうか。こちらが考えたものとは別のプランを練っているとは考えられないのだろうか。失敗しない方法がほかにないのか? まず第一にそれを考えなければならないのである。失敗すると結論を出すならそれで話は終わりなのだ。できるということを前提に対抗策を練らなければ何の解決もない。まだ遅くはない。ミッチ・アキュは敵が策していることをもう少し真剣に調べてみようと決意を固めた。
アキュは転生博物館と書かれたドアの前に立った。自動ドアは何のためらいも無く左右に開いた。
博物館を含む中央転生センターは、政治局から三百メートルばかり南へ下った官庁街の一画にある。明るいクリーム色に塗り上げられた、二十階建ての高層ビルである。転生にはどうしても死というものがついて回るので暗い印象がある。クリーム色は少しでもそのマイナスイメージを改善しようという気配りなのだろうか。
もともと転生行為は、極秘のうちに行われていた。死亡届が提出されるとそのデータは『転生者台帳』に登録され、霊魂とともに保管庫に管理される。この台帳を元に毎月一度転生委員会が開催され、誰をいつ何処に転生させるかを決定するのである。今でこそ中央転生センター内で機械的に実施されている転生も、この施設が完成するまではすべてが秘密事項であり、一般に公開されることはなかった。政治局直轄の天正沼森林公園の中にその設備があったということが公表されたのはやはりセンターにその移管されたときだった。わずか二十年ほど前のことである。
『転生族も政治の場に』というスローガンを掲げた運動が活発になり、創造主たちだけでこの炎を抑えこむことが難しくなった。創造主族はやむなく転生族にも政治の場での発言を認めた。
これによって政治機構が変化を見せた。転生院の誕生である。創造主族による一方的な構造を廃止して、創造院と転生院の二院制が敷かれた。創造主族にしてみれば形ばかりの転生院のはずだった。しかし庶民の考えを議題として正式に提出することが可能になったことも事実である。転生院から提出された第一号議案は『転生センターの新設と、その一般公開について』だった。この議案は創造主族から見てもそれほど問題があるとも思われず、いわゆるご祝儀立法と言うことで、簡単に可決した。そして転生族による初めての成果は、翌年春には設計を終え、更に一年後、現在の中央転生センターとして誕生したのだった。
入り口を入るとすぐ左手にチケットカウンターがあり、ブルーのユニフォームを身に着けた女性が座っている。警視局員手帳を提示すればフリーで入場できるのだが、敢えて一般のチケットを購入。電車の自動改札機のようなゲートが並んでいる。入場券を通すとゲートが開き、同時に中央転生センターの業務内容などを紹介するパンフレットが排出される仕組みになっている。アキュはそれを受け取って、歩を進めた。
中に入ると広いロビーとなっていた。大理石風の素材で作られた床も壁も、鏡のように磨き上げられている。壁際に数脚の長椅子とテーブルが置かれているのは、疲れた客のための計らいなのだろうか。
アキュは大理石のロビーを横切って『展示室』と書かれた案内板がついたドアをくぐった。どこの博物館もそうであるように、展示室内は照明が絞られて仄暗く、ガラスケースの中に密封された展示物だけに穏やかな照明が降り注いでいる。
まず壁にかけられたアクリル板が目に留まった。『何故転生族は転生するのか』『両世界を行き来する転生族の役割』
大きな飾り文字で、二つの命題が記されている。これが展示のテーマらしい。アキュは首をかしげた。創造主が自分たちの御都合で作り上げた社会をなんとか正当化しようと、言い訳をしているように感じた。それにアキュにはこの二つのテーマの違いがまるで分からなかった。展示品は何百年も昔の転生者が身に着けていたという着物や、それほど高価にも見えないアクセサリーの類が中心で、まったくインパクトに乏しかった。だからことさら興味を持つ研究者などならいざ知らず、一般人ではテーマに辿り着くことさえ不可能に近い。見学客がほんの数名しかいないのも分かるような気がする。ひと通り展示を見終え、アキュは博物館を出た。
政治局の魂胆は本当に盗み聞きした三者会談の通りなのだろうか? アキュは駐車場へと歩きながらどこか辻褄が合わないときの奇妙な気持ちが湧き上がってくるのを感じた。
盗聴によって知ったタカマ・ガハラ治安部長の謀略は、ノビーも話していたとおりやはり無理だとミッチ・アキュは思う。
それならば何か別の方法があるのだろうか。
アキュは車に乗り込みエンジンをかけた。向こう側の世界に直接軍隊でも送り込めるなら話は別だが。アキュは少し卑屈な笑みを浮かべた。そのとき小さな疑問がアキュの頭の中を過った。
「なぜだ?なぜ展示品が古い着物やアクセサリーなのだ?」
政治局の企みは必ず失敗に終わるものと高をくくっていたから気付かなかったのだ。ミッチ・アキュの胸の内で陽介が誘拐されたと知らされたときの不快感が膨らんでいくようだった。
転生はどちらの方向にせよ転生先に用意された新生児の肉体に魂を吹き込む行為のはずだ。それなのになぜ古着やアクセサリーが転生の資料として展示されているのだろう。
もしかしたら生前転生とでも言えそうな、生きているうちに転生を実行する方法があるのではなかろうか? もしそうならこちらの世界で訓練を積んだ世直し部隊を向こうへ送り込み、VTSを用いて作戦指示を送ればいいことになる。そうか、タカマ・ガハラが謀略の中心にいるらしいとノビー・オーダに説明したとき、自分は“VTS”、“自由化運動の封じ込め”、“転生”、“啓蒙”などというキーワードを用いてあの時点で考えられた思い付きの計画を頭の中に作り上げていたのかもしれない。しかも“失敗に終る”という間違った安心感と抱き合わせにしてである。
ミッチ・アキュは思い出した。あの時……
「それでVTSをどうしようと……?」と、ノビーに説明を求められた自分は、
「具体的にはまだ分からん……」と断った上であのシナリヲを説明したのだ。そのシナリオが一人歩きをして謝った方向へと導こうとしていた可能性もあるのだ。ミッチアキュは苦笑した。
ミッチ・アキュの脳細胞はようやく活発な動きを見せ始めた。
2
「実は昨日、転生博物館に行ってみた」
小波が寄せては引いていく砂浜を望むバルコニーで、ミッチ・アキュはノビー・オーダのロッキングチェアーに身体を預けながら切り出した。
「今回の騒ぎはミスターXの動きと俺達が直面している出来事とはまったく別物だ」
アキュは自分の中で確認するように頷くとポケットから煙草を取り出し、一本咥えて火をつけた。「しかしVTSという共通項でリンクしているから、そういう意味でまったく無関係とも言えない。となると、避けて通ることができないのが転生ということだろう。そう思って行ってみたんだが、博物館で俺は奇妙なことに気がついた」アキュはタバコの煙をフウっと吐き出した。
「転生博物館なら俺も一度だけ行ったことがある」
ノビーは淹れたてのコーヒーをテーブルに置き椅子に腰かけた。
「あまり面白いところだとは思わなかったな。展示品に輝きがまったくない」
「ノビー。やっぱりお前もそう思うだろう? 展示品のみすぼらしさにはうんざりするだろう」ノビーの意見を聞いたアキュは、悪戯小僧のような目をノビーに向けた。
「そのみすぼらしさが問題なんだ」
アキュが何を言いたいのか解りかねてノビーは沈黙した。待ちきれない様子でアキュは話を続ける。
「そもそも、転生ってなんだ?」
「それは、向うとこちらの世界を、死を契機にして……」
「そう。その通りだ。そこなんだよ、俺が不思議に思うのはね」
「どこが不思議なんだ?」
ノビーはアキュの言うことが理解できず、先を促した。
「単純な疑問だよ。疑問と呼ぶのも恥ずかしいくらいのね」
照れくさそうに前置きしたアキュは、真顔に戻って「ノビー。お前が言う通り、転生は確かに死を契機とした向うとこちらの移動行為のことだ。そこまではまあ誰でも知っていると言っても良いだろう」
アキュはコーヒーを一口すすって喉を潤した。
「それじゃ転生の工程はどうなっているのか。と言うことになると、嘆かわしいことに、あまり知られてはいない。PR不足もいいところだ。今思えばこれも七不思議のひとつだな。転生族の夢が叶ってやっと手に入れた博物館だろう。それなのに、こうまで宣伝しないというのはどうなんだろう」
「長い年月創造主族の天下が続いていたからね。二院制になって初めての機関だろう。どうすりゃ対外的にアピールできるかなんて事に、まだ慣れていないんだろう」
「そんな弱音を吐くくらいなら政治に首を突っ込む資格などないさ。中途半端は最悪だ」
アキュは横道にそれかけた話題を修復するために、二本目のタバコに火をつけた。
「話を戻そう。博物館の展示物のことだ」アキュは続けた「転生の展示物が衣装であるはずがないんだよ」
「何故さ?」
「考えても見ろよ。転生ってのは死んだ人間が向こう側で、いや逆の場合はこっちの世界で新たに生まれなおす行為じゃないか」
アキュは大きな声でいうとノビーの目を見つめた。
ノビーはアキュの気迫にただ頷くしかなかった。
「だったら衣装なんか必要なはずがないだろう。生れてくるときはみな裸さ」
ノビーは思わず息を呑んだ。何故今まで気づかなかったんだろう。あまりにも堂々と展示しているので、盲点のようになったのだろうか。
「そう思うだろ。だがちょっと待ってくれよ。話はまだ続くんだ」
「もったいぶらずに早く聞かせてくれよ」
ノビーが先を急がせるようにいうのを聞いてアキュは思わずにやりとした。
「あのボロ装束が転生の資料ではないと言うこと。これは理解できたかな?」
アキュの問いかけにノビーは素直に頷いた。
「よし。それじゃいおう。転生博物館に展示されていたあのオンボロ衣装は、実に重要な転生の資料に間違いないんだよ」
「なんだって?」
「なあノビー。近いうちに天正沼森林公園に行ってみよう。何か見えてくるかもしれない」
ミッチ・アキュはノビーの質問を遮って最後にそういうと、冷めてしまったコーヒーを飲み干した。
3
アキュは愛車を駐車場に滑り込ませた。森の一部分を伐採して整地しただけの未舗装の駐車場だった。高速道路を降りてから1時間ばかり、狭くほの暗い林道を走り続けてきたので、ぽっかりと開いた天空から降り注ぐ陽射しは目を開けていられないほど眩しく暖かいものに感じられた。車を停めてから改めて見渡すと、駐車場は乗用車なら三百台は収容できそうに広いスペースをさらしていたが、今はわずかに乗用車が数台置かれているばかりである。どうやら転生博物館同様、人気スポットとは云いがたいところのようだった。
ノビー・オーダとミッチ・アキュは車を降りると、およそ2時間のドライブでこわばった筋肉をほぐすように大きく伸びをした。
アキュはブルゾンのポケットから折りたたんだ観光マップを取り出しボンネットの上に広げた。
アキュは駐車場と案内図を見比べ駐車場の一点を指差した。公園入口と書かれた看板があり、そこから石畳の遊歩道がさらに先へと続いている。遊歩道が森に飲み込まれるように見えるのは、百メートルほどまっすぐに続いた先で左に直角に折れているせいだろう。
アキュはガイドブックのマップを見ながらそう説明した。
案の定森にぶつかるところまで歩いて道なりに左を向くと、そこには入口前広場と緑色のペンキで塗装したアーチ型のゲートがあった。ゲートには、『天正沼森林公園』と赤い文字で書かれた粗末な看板が取り付けられていた。ゲートを挟み、両側にチケット棟がある。右側の棟は一般入園者用、左側は団体客用のチケット売り場で、各5箇所の窓口があったが、一般来園者用窓口が一箇所開いているだけで他はシャッターが下ろされている。ゲートも所々にペンキの剥れ、その部分に赤い鉄さび色を晒していた。
ノビーとアキュはチケットを買って、ゲートをくぐった。園内に入ると右手に2階建ての管理棟が一棟、職員が詰めているのかどうかさえ疑いたくなるほどひっそりと置かれていた。遊歩道は二人が入園したゲートから管理棟の前を通り、公園の奥へと続いている。
やがて天正沼という地名が示すとおり、遊歩道は湿地帯に入った。実際には湿地帯の縁に沿っているのだが、それでも所々沼がせり出していて渡るように進まなければならない部分もあり、その部分にはゆらゆらとゆれる踏み板が橋の代わりに渡されている。噂を信じるならば底なし沼だと言うので、板張りの箇所を渡るときにはノビーもアキュも気を使わなければならなかった。
三十分ほど歩くと、休憩所と展望台を兼ねた広場に出た。小広場にはベンチが置かれ、水際にコンクリート製の手摺が設置されている。手摺に両手をついて眺めると、じっとりと湿った水草の群生が岸辺から離れるにつれ少しずつ水の中に沈み、湿地は沼と言うのが相応しい姿に変わっていった。
「なあ、アキュ」
ノビーはベンチに腰かけて煙草を燻らせているアキュに顔を向けた。
「どうかしたか?」
「この間の回答をまだ聞いていない」
「なんのことだ?」
「博物館の資料のことだよ」
「ああ、あのことか」
思い出したように頷いて、アキュは笑った。
「よし。それじゃ解答篇といこうか。さてどこまで話したろうか?」
「まず、転生博物館に展示しているメインの展示品の古びた衣装だが、重要な資料ではあり得ないと言うこと。確かに生れるときはみな裸だ。だから衣装が転生の記録だって言うのはどうかと思う。だけど資料ではありえないと否定したものを、今度は間違いなく重要な資料と肯定しただろ。矛盾しているじゃないか」
「ノビー。物事は見る角度を変えるだけで実に多くの姿を見せてくれる。たとえそれが正反対のことだとしてもだ。」
アキュはベンチの横に備え付けられた灰皿にタバコの火をもみ消した。
「たとえば俺はこうしてお前と親しく付き合っているが、もし不正アクセスで犯罪が成立していたなら俺はお前に手錠をかけているはずだ。善悪とか気持ちの問題なんかじゃない。見る角度と言うのはむしろ社会的な立場と言ったほうがいいのかもしれない」
アキュの話には説得力があった。確かにVTSを持ち出して穂刈に情報を流したのはノビーなのだ。ノビーは話の続きを待った。
「タカマ・ガハラがうちの本部長と財団のジー・ワンの密談を俺が盗聴してきたときのことを覚えているか?」
「勿論」
「あのときお前も言っていたが、俺も奴らの悪巧みには無理があると思った。それに俺自身やつらの尻尾を捕まえたと思い込んで、いささか舞い上がっていた。……もしかすると、俺たちに都合の良いシナリヲを書いて、それを信じ込んでいたのかも……」
「と言うことはVTSを使って実行可能な方法があると……」
ノビーは驚きの目をアキュに向けた。
アキュは頷いた。
「訓練した人間をそのまま送り込む。こんな言葉はないが、まあ、生前転生とでもいおうか、これが可能ならば奴らの企みは成功するかもしれない」
「生前転生?」ノビーは確認するようにつぶやいた。
「そうだ。しかるべき人間あるいは軍隊のような組織ごと転生させて任務に当たらせるわけだ。将来こっちへ来たときに治安を乱しそうな人間を、あらかじめ転生できないように封じ込めてしまう。こちらでモニターしていて、必要なときにVTSを使う。これで転生博物館の資料が装束だって事も頷けるだろう。あの薄汚い装束こそ生前転生の証しなんだ」
アキュはそこまでいうと再び先に立って歩き出した。
この男の脳みそはいったいどうなっているのだろう。ノビーはアキュの背中を追いかけながらそう思った。ひとつの可能性が否定されてもすぐまた別のものが生れてくる。自分にはまねのできないことだとノビーは思った。やがて正面に天正沼公園の大きな広場が見えてきた、
4
沼沿いの小道を歩き続けノビーとアキュは小広場からちょうど三十分ほどで天正沼公園広場に出た。公園広場は五百メートル四方はありそうな、芝生を敷き詰めた広場だった。周囲はやはり深い森林に囲まれている。芝生には幅二メートルの小道が幾条か、幾何学模様のように巡らされている。ノビーとアキュは沼を右に見ながら歩いてきた。左手は鬱蒼とした森が視界を遮り、どこまでも沈んだ重苦しさを払拭できなかったので、天正沼公園広場に出た瞬間、二人とも一瞬空気が軽くなったような気がした。
公園広場に入ると、これまで沼と岸との境を知らせていた手すりが消え、浜辺のような景観に変わった。ただ沼は波ひとつなく、どんより濁っていて、水遊びを楽しもうと言う気持ちさえ浮かばないものだった。
アキュとノビーは浜辺の中ほどまで進み、沼を背にして公園広場を眺めた。
広場に出たときの感覚ではほとんど平坦な地形と思ったのだが、正面から改めて観察すると、伸び放題の芝生の広場は奥に向かってだらだらと登っているように思えた。
「やっぱり誰もいない」アキュがポツリと口に出した。
「ああ」ノビーも小さく頷いた。「ということは、あそこに必ず誰かがいると言うことなのか」
ノビーは公園広場の奥を指差した。ノビーが指差した先には寺院風の白い建物が、森と沼から立ち昇る湿気に包まれて、水墨画のように霞んで見えた。
寺院風の建物には正面に五十段ばかりの石段があった。石段の上から天正沼を見下ろすように造られているのだった。建物の大きさを知りたいと思ったが、石段から建物まで距離があるので、二人が立っている場所からは、屋根と最上階の一部しか見えない。広い範囲を眺めると、芝生の中を走る石畳の小道も、最終的に石段の前に集中するように造られている。どうやら建物の全体像を掴むにははあの石段を登らなければならないようだった。
ノビー・オーダとミッチ・アキュはゆっくりと建物に向かって歩を進めた。
「見ろよ。あの建物はなんだろう?」
アキュが声を殺してささやくようにいってノビー・オーダの反応を窺った。
「屋根のつくりなんかはなんだか神社のように感じる」
ノビーはそういって白い建物を見つめた。
アキュもしたり顔で頷きアキュの意見に同調した。
二人はやがて石段の前に辿り着いた。一息ついて見上げると石段に隠されて、建物の姿はまったく見えない。
二人は登り始めた。登るにつれ、建物が全貌を現してきた。これまで見えなかった建物の一階部分がようやく見えた。ノビーもアキュも建物の全貌を見て愕然とした。これまで寺院だとばかり思っていた建物は、ガラス張りの引き戸を大きく開け放して営業中の土産物店だった。入り口に手書きの小さな看板が置かれていて、『一階:天正沼公園物産会館、二階:グリル天正沼は営業中』と記されている。
ノビーとアキュは店内に入ってみた。温泉街などによくある観光土産店と何ら変わらない店で、取り立てて言うほど怪しい所など何もなかった。客はノビーたちを除くと一人もおらず、店員も四十代に見えるパートのおばさんが二名、世間話に花を咲かせているだけだった。
「こんにちはー」ミッチ・アキュが大声で叫ぶと、おばさんたちは腰を抜かさんばかりに驚いて「ウギャ」と言う悲鳴を上げた。
「ああ、びっくりした」小太りのおばさん店員が心臓の上を手で押さえながら立ち上がった。
「驚かせて、すみません」
ミッチ・アキュは素直に詫びると「随分淋しいんだね」と、水を向けた。
おばさんたちは暇をもてあましていたらしく、商売そっちのけで入り込んできた。アキュはノビーにニヤリとして見せた。
「そうなのよ。お客さんなんて三日ぶりかしら」小太りのおばさんはようやく態勢を整えて、痩せたおばさんに同意を求めた。
痩せたおばさんは、思いを馳せるような目をして指を折ると「そうね。三日ぶり」と頷いた。
「この上はレストラン?」
「そうですよ」
「営業してる?」
「してますわよ、きっと。ここだってずっとこうだけど、潰れませんものね。国立ですからね。そうよ。国立お土産屋」小太りおばさんは、そう言ってケラケラと笑った。
「ところで、おばちゃんたちにちょっと聞きたいんだけどね、駐車場に車が3台止まっていたけれど、おばちゃんたちの車?」
小太りおばさんは、一瞬何の話か理解できず、少し警戒して表情を硬くした。やがてアキュの穏やかな雰囲気に安心したのか「正門の駐車場でしょう。お客さんの言ってる駐車場って」と、確認するように言った。
「切符売り場の傍の駐車場ですよ」
「ええ。あそこが正面駐車場。きっと管理棟の人たちの車でしょう。だってあんなところに置いたら、片道一時間も歩かなきゃならないじゃない」
「そうだよなあ。毎日往復で二時間も歩きたくないよなあ。それじゃ、他にもあるの?駐車場」
「ありますよ。この裏に」
小太りおばさんは奥の小窓を指差した。
「あの窓から見える?」
「覗いてごらんな。本当は公園のじゃないんだけどね」
「えっ」アキュは聞きとがめた。
「林の向こうにある製薬会社の駐車場。ああ、分かった。お客さん、不動産屋さんでしょう。やっ「ぱりこの公園、民間に売却されるって言う話、本当なんだ」
「ま、そんなとこ」アキュははぐらかして、窓に近付くと覗き込んだ。
窓の外は小太りおばさんが言うとおり駐車場になっていた。そして、駐車場には二十台ほどの乗用車が並んでいた。
天正沼公園のレストランで遅い昼食をとったミッチ・アキュとノビー・オーダは土産店から出ると、今度は石段の際に立って天正沼を見下ろした。石段の下から緩やかに下る芝生の向こうに天正沼が広がっている。水面はかつてここで転生が行われていた頃を懐かしんでいるように静まり返っていた。
対岸に目をやれば、正面やや右側に入り口ゲートと管理棟が霞んで見える。あのゲートからここまでおよそ一時間かかったことになる。一時間と言えば距離にしておよそ5キロメートル。いや、実際には途中の小広場で十分間くらい休憩をしたこと、踏み板混じりの歩き辛い小道を話しながらゆっくりと歩いてきたことなどを思えば、せいぜいその半分程度のものだろう。対岸に霞む管理棟前の一部分と、すぐ下の波打ち際以外は鬱蒼とした樹木に取り囲まれているので、それほど大きな沼にも見えない。どこといって特徴があるわけでもない天正沼のそんな佇まいだった。そこにはどんよりと暗い何かを感じさせるもがあった。
アキュはこの沼に何か重要なことが隠されていると思っていた。ノビーを同行させたことも、そのことを知って欲しかったからである。そしてアキュは自分の推測が間違いではなかったことを確信した。ノビーにもアキュの気持ちは伝わっていた。
「お客さーん」
大声で呼ばれノビーとアキュがびっくりして振り返ると、売店の小太りおばさんがニコニコ笑いながら走り寄ってきた。
「正面駐車場に入れたって、そうおっしゃってましたよね」小太りおばさんは精一杯の愛想笑いを見せて「また、一時間もかけて戻らなくちゃいけないでしょ。このままお帰りなら、向こうの駐車場まで送りましょうか?」
「いやぁ、そいつは助かるなあ。お願いします。図々しいけど、ありがとう」アキュは笑顔を返した。
物産会館の窓から覗いた民間会社の駐車場に、おばさんの車は停めてあった。
「さあ、どうぞ」
勧められるまま後部座席に乗り込むと、おばさんは車を発進させた。
「ところでね、おばちゃん」
絶好のチャンスだと言わんばかりに、アキュは運転するおばさんに声をかけた。
「こっちの駐車場には随分たくさんの車が停まっていたね。そんなに大きな民間の製薬会社があるの?」
「大きいのか小さいのかあたしゃ良く知らないけどね。会社の名前は中央麻酔株式会社とかいったかねえ」
「中央麻酔? 知らないなあ」
初めて耳にする会社名だった。アキュはその会社名になぜか胡散臭いものを感じ取っていた。この森は全体が国有地のはずだった。そこに何故………。アキュの胸の中で、疑問の火種が燻り始めた。
小太りおばさんに礼を言って自分の車に乗り換えると、ミッチ・アキュは車を発進させた。
「確認しないのか?」
助手席からノビー・オーダが尋ねた。
アキュはハンドルを操りながら頷いた。
「日をおいて出直しだ。しっかり準備してからだ。かなり危険だからな。ここから先は俺の仕事だ」
「俺がいちゃ足手まといだってわけ?」
ノビーは少し不満そうな声を出した。
「はっきり言ってその通りさ」
アキュは少し笑ってノビーを説得するように続けた。「いいかノビー。よく聞いてくれよ。俺もお前も、それに向こう側のミスターXもそうだが、皆それぞれの怒りに突き動かされてここまで来たよな。火付け役になったのが、お前が作ったVTSという装置だ。お前と知り合ってからたったの二ヶ月だ。お前とミスターXとの付き合いだって、少し長いだけだ。たったそれだけの期間で三人とも完全に団結したと思い込んでいる。しかし少し頭を冷やせば気付くことだが、怒りを向ける相手は三者三様だろ。みんな違うところへ矛先を向けているんだ。この違いが足並みを乱す原因にならないとも限らん。ここまでは危険はそれほどなかったから、情熱だけで来ることが出来た。だがここまでだ。これから先は危険すぎる」
「ああ。分かっているよ。何の訓練も受けちゃいないし。危険に身を晒すのはあまり好きじゃないから」ノビー・オーダはアキュを安心させようと穏やかに言った。
ノビー・オーダのコテージに帰り着いたのは午後十時を回っていた。遅くなったし運転し通しで疲れただろうから少し休んでいくように勧めたが、アキュは善は急げだからと、笑って帰っていった。ノビー・オーダはコテージの前に立って、アキュの車が見えなくなるまで見送った。
第10章 今はもう秋
1
捨文王は札幌競馬最終日の実況放送が終結するのを見終えると、伊達針之介と幸円仁を従えて東京へと向かった。日本競馬会の吉勝太郎理事長と、農林水産大臣そして刑事局長らと会うためだった。遅い時間に羽田に着くので、こちらで手配したホテルに直行し、明日早く協会に顔を出すと、捨文王は吉勝太郎に告げて受話器を置いた。だが羽田空港の到着ロビーに出ると、しばらくぶりに見る吉理事長の笑顔が捨文王を出迎えた。
「ご無沙汰しておりました。お元気そうで何よりです」
吉勝太郎は右手を差し出した。
「なんもさ。こっちこそご無沙汰でした」
捨文王も満面に笑を浮かべて、吉理事長の手を強く握り返した。
「さ、車を待たせておりますので」
吉理事長に促されてロビーから出ると黒のベンツが待ち受けていた。運転手が一行を見極め、後部座席のドアを開いた。幸円仁、捨文王、伊達針之介の順に後部座席に乗り込むのを確認し、運転手はドアを閉じた。助手席に吉勝太郎が乗りドアを閉めると、車は静かに走り始めた。
「思ったほど下がってこねえよな。今のとこはよ」
捨文王は窓外を流れる町の明かりを見ながらいった。
「きっと絶対に信念を曲げない気骨のある競馬ファンや、まだミスターXを知らないファンが残っているのでしょうな」吉勝太郎理事長は体を思い切り捻るようにして後部座席の捨文王に顔を向けていった。「しかしグランパ。ギャンブルとして競馬を捉えている分にはそれらの限られた投資で、何とか成り立っておりますが、それもそろそろお仕舞いに近付いているような気がします」
「売り上げのことかい?」
捨文王が水を向けると、吉勝太郎は大きく頷いた。
「激減しています。補助金がなければ運営も怪しくなる。グランパが仰るようにオッズの低額化はわずかずつなのですが、経営的な脆弱化は逆に猛スピードで進行しています」
必死に実情を訴える理事長の声は、苦しそうに聞こえた。
交通渋滞もほとんどなく、車は三十分ほどで西新宿の高層ホテルへ滑り込んだ。吉勝太郎は車から出て、後部座席のドアを開いた。
「明日の朝、九時くらいにお迎えにあがります。なんとしても、わが国の競馬を救わなければなりません。そう考えておりますので宜しくお願いします」
真剣なまなざしで捨文王を見つめる吉勝太郎の真心に打たれ、捨文王は目を細めて頷いた。
翌日――
日本競馬会の会議室には錚々たるメンバーが顔を並べることになった。
日本競馬会理事長・吉勝太郎。刑事局長・笹見光彦。農林水産大臣・米屋義助。内閣調査室長・捨文王。この四人が楕円形の会議卓に着いている。会議宅から少し離れた所にある小ステージには幅2mほどの乳白色のスクリーンが衝立のように張られている。スクリーンにはその向こうに立つ人物のシルエットが浮かんでいた。それが誰の影なのかは、会議卓の四人の想像に任せられていた。どういうわけか、四人ともシルエットから想像して導き出した答えは同一人物だった。しかし誰一人としてその答えを発表しようとはしなかった。
「息子の陽介君を誘拐して見せたのは、今考えれば失敗だったんでないべか。わしの大失敗だったような気がするんだわ」
捨文王は判断を仰ぐように他のメンバーを一人ひとり観察した。
「何故そう思うのかね?」刑事局長・笹見光彦が捨文王の発表を受け止めた。
「ミスターXは怖気づいているとわしも思うんだわ。ホームページの予想なんぞやめてしまうかもナ」
「それが我々の目的だったじゃないですか」
笹見刑事局長は捨文王の言うことが理解できず、吉理事長と米屋農林水産大臣の様子を伺った。
吉勝太郎も米屋義助も無表情でグランパと笹見のやり取りを見つめていた。
「ミスターXに予言を中止させ、健全な競馬運営の回復を図る。これがあのスクリーンに映ったシルエットの方から、われわれに指示された目的だったではないですか。だとすれば、むしろ大成功といって良いのでは」
「きっと笹見さん、あんたの言う通りかも知れんナ。それならわしは大威張りでこれからの仕事に戻ることができるんだわ。だけど考えて見れ。ミスターXが予言の一般公開をやめたら、あいつが持っている必勝法も一緒になくなるんだべか? そうでねえべ。書いたものなのか、あいつの頭の中にあるものなのかは知らんけどな、なくならねえって事だけは間違いねえ。今度はあの馬鹿野郎と個人的に接触しようとする大馬鹿野郎や、その必勝法を盗んでしまおうとする大たわけが、ワラワラと出てくるんでないかい?」
捨文王は静かな目で笹見刑事局長を見た。
陽介誘拐は失敗だったと捨文王は言う。自らが立案した計画が失敗であったと認めなければならなかった捨文王の悔しさが出席している者たちにも良く判った。
「ならば次に打つ手を考えなければなりませんな」
こんなときには下手に慰めるより、突き放したほうが効果的だ。そんな信念を持っていたので、笹見は追い討ちをかけるような口調で言った。
捨文王は大きく深呼吸をしてから立ち上がった。他の三人は何事かと固唾を呑んだ。
捨文王は一歩会議卓から離れ、スクリーンの影に向かって直立不動の姿勢をとった。
「競馬を廃止するわけにはいきませんか」
捨文王の問いかけに、モジャモジャ頭の影は「それは絶対にできん」と一蹴した。
「ならば方法は一つ。最終手段の許可をいただけますか」
「万事、君に任せる。もし反対するやつが出てきたら、私がぶっ潰す」影は拳を硬く握りしめデスクに大きく打ち下ろした。その力が強すぎたのか、弾みで影の主と出席者たちを隔てていたスクリーンが、出席者たちの方へパタリと倒れた。影の主は一瞬うろたえたが、咄嗟に右手の人差し指と中指を鼻の穴に突っ込み、左手の親指と人差し指で下目蓋を引っ張り下げて、アッカンベーの顔を作り、次の瞬間くるりと回れ右をしてステージ横の扉から退場した。残った四人は口々に「さて。今のは誰だったかな」
「よく見えなかったからなぁ」
「見たこともない男だったぞ」
「映画俳優の、ペ・なんとかだったべか」などととぼけるしかなかった。
2
競馬ファンは、九月に入り第4回中山競馬が始まると、例外なく初秋を感じる。六月からの約三ヶ月間は関東での開催がない。淋しい思いをしていた関東地方の競馬ファンにとって、この日は待ち焦がれた恋人との久々の再会のように、心弾む時なのであった。そして夕方になると、それらの心弾んでいた競馬ファンたちの大半がしょんぼりして家路につくことになる。
第4回中山初日を迎えたこの日、競馬専門チャンネルでは、朝から大騒動が持ち上がっていた。ミスターXから三風亭五九悪に朝七時ころ電話が入ったのである。
局に着いて間もなく五九悪師匠はまだ目が覚めきらないぼんやりした頭のままで電話を受けた。しかし受話器を通して飛び込んできた声を聞いたとたん、五九悪の眠気は一瞬にして消え去った。
「ミスターXさん?」五九悪は驚いた。
「はい。ミスターXです」
ミスターXの声から、いつものような快活さが消え失せているように五九悪は感じた。
「今日は今更ちょっと申し上げにくいことなのですが」
そう前置きしてミスターXは当分の間ホームページを閉じると宣言した。
「中途半端で、なんだかすっきりしないので嫌なんですが、家族にまで危険が及ぶとあっては、私の行動も考え直さなければならないでしょう」
「当然です」
三風亭五九悪はきっぱりと言い切った。「ということは、やはりあなたは穂刈末人さんなのですね。ご子息を誘拐された」
「はい。間違いありません。穂刈末人です」
「そうでしたか。で、息子さんは無事に?」
「はい。無事に戻りました。でもミスターXを演じ続けることには、もう疲れました」
ミスターXはつぶやくように言った。
三風亭五九悪は穂刈のこのひと言に腹が立った。突然自分勝手にこの世界に切り込んできて競馬の楽しさを奪い去り、そして形勢が悪くなると後始末もせずに逃げ出そうというのである。
「自分でまいた種だろうが」
三風亭五九悪はそう怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られた。それを抑えたのは、長いこと人気商売を続けているうちに、自ずと身についた生活の知恵というものだったのだろうか。
「ミスターX。あの『大予言』を中断するのはあなたの自由ですよ。家族の方々にまで災いが及ぶと言うなら、私も中止したほうが良いと思います。でもね、それだけじゃあなたの苦しみは終りませんよ。むしろこれからだと思います。頑張ってください」
三風亭五九悪は冷たく突き放す言い方で穂刈末人に告げると、電話を切った。
腹立たしい気持ちのまま喫茶室に入り、五九悪は窓際の席に座ると外の風景を眺めた。秋競馬を迎えたといっても暦の上だけの話で、外は快晴。今日もまた暑い一日になりそうだった。
五九悪がぼんやりとアイスコーヒーをすすっていると、「おはようございまぁす。随分早いんですね」と小田部玲子が元気な声をかけてきた。
「おはようさん。元気いいね。朝から」
ひややかすように五九悪が言うと「だって今日からまた中山ですよ。師匠、うれしくありません?」と、玲子は子供のような黒い瞳をくりくりさせて答え、右手を大きく振ってウエイトレスを呼んだ。
「私も師匠と同じもの」と注文して「師匠だって嬉しいですよねぇ」と勝手に決めてしまった。
「それは俺だって嬉しいけどね」五九悪は目ざとく谷口ディレクターが入ってくるのを見つけ「ほらもう一人、嬉しくてたまんないやつがやってきた」といって谷口ディレクターに手を振った。
「おはようッス」谷口ディレクターは挨拶して玲子の横に腰掛けた。
「みんなやっぱり好きなんですね。午後からなのにまだ八時前ですよ。私は午前中から通しですけど」
いつものように軽い話題で本番に向かう緊張を和らげようとする谷口を、五九悪は制した。
「何かあったんですね」気がついた谷口ディレクターは五九悪を見た。
「さっき、ミスターXから私宛に連絡があった。ホームページでの情報公開をやめるって。朝のうちにオンエアしといたほうが無難ですかね。今日もアクセスするファンもいるでしょうし」
三風亭五九悪は何の前ふりもなく突然言って、谷口と小田部玲子の反応を窺った。二人ともあんぐりと口を開けて呆然と五九悪を見つめている。
「理由は何でしょう?」
谷口がようやく声に出していった。五九悪師匠の爆弾発言からおよそ一分後のことである。
「息子を誘拐されたことで、いつまた災難にあわないとも限らないと、怖気づいているようだった」
「で、師匠。どうすればいいと」
「もういいだろうさ、ミスターXのことは」
三風亭五九悪はため息混じりに言った。
「あの男が現れたことで、何かいいことがあったかい?なにひとつありゃあしないよ。突然のファックスに載せられた俺たちも俺たちだけどね。ここへ呼んだ時も、まともな格好で来るだろうと思えば、馬鹿な装束で乗り込む。話を聞こうと思えば帰っちまう。サイトを開いて、勝手に予想を掲載したり。そして今度は勝手に引退だぁ。きっかけが誘拐事件という犯罪だから、手放しで喜ぶわけにはいかないけれど、あんな予言などやめてくれたほうが有難い。あの男には何も分かっちゃいないんだよ。何が無責任な予想屋達に正義の鉄槌を下すだ。競馬なんてのはなぁ、もともとまじめな遊びじゃないんだよ。あいつの言う無責任な予想屋たちこそが、競馬というギャンブルになくてはならない存在なんだ。畜生め」五九悪は自分の中で怒りの炎が燃え上がるのを感じた。
小田部玲子と谷口ディレクターはめずらしく興奮している五九悪を、ただ眺めているしかなかった。
3
ミスターXがホームページに載せていた大予言を中止したことで、競馬は再び息を吹き返した。毎週迫力あるレースが展開され、払戻金も大本命あり、大穴ありといったバラエティに富んだものに戻って、一喜一憂のドラマチックな興奮が蘇った。江崎大五郎が今回の騒動を逆手に取り、必要悪ワッペンなる奇妙なグッズを考案し、矢部宗太郎と組んで発売したところ、これが大当たりした。
しかし騒動を起こした張本人であるミスターXにその楽しさは戻ってはこなかった。それどころか予言の公開を中断したとたん地獄の苦しみが始まったのである。それは負け込んで懐が淋しくなった馬鹿者達の妬みが生み出したものだった。
「当たらねえ予想屋達に正義の鉄槌を下すだぁ。えらそうに抜かしやがって。外に出るときは気をつけろよ」
「自分ひとりだけうまい汁を吸おうと思っちゃいねえだろうな。覚悟しておけよ」
「アンタの編み出した必勝法、本にしまへんか?さいな。必勝本でっせ。え?いらん? そりゃいったいどういうこっちゃ。そうでっか。ほなら、せいぜい気張っとってや。どうなっても知らへんで」
脅迫まがいの、そんな電話がひっきりなしにかかるようになった。しかも昼夜をを問わずである。
これは穂刈ばかりでなく家族にとっても辛い攻撃で、眠れない夜が続いた。
妻の恵子さえ「あなたはもう十分やったんだから、必勝法、一般に公開してもいいんじゃない?」などと言い出す始末だった。
それができるなら苦労はないよ。穂刈はそう言いたかった。真実を発表したとき、どのような扱いを世間から受けるのだろう。その瞬間から馬鹿者扱いされるのが目に見えている。
本当は存在するのに、常識ではいないことになっているのが神様。本当はどこにもないのに、ファンの中では穂刈が持っていることになっているのが必勝法なのである。これはこの世で穂刈だけしか知らない事実なのだ。それにしてもミスターXが自分だということがなぜこんなに簡単に発覚したのだろう。実態を隠し、逃げ道を確保しておくためのミスターXだったはずなのに。穂刈は素人考えの脆さを見たような、悔しさを覚えた。
そしてもう一組、穂刈がいろいろな勢力に監視されていることを、渋い顔で見ているグループがあった。捨文王率いる、内閣調査室である。
捨文王は最初からこういう状況になることを予測していた。これを解消するには、ミスターXに消えてもらうしか打つ手がないことも良く理解していた。だが計算外だったのはわが身を肥やそうということしか考えない輩が、捨文王の計算を大きく上回ったことだった。恐喝しか能のないばかやくざ。かつてミスターXが標的とした予想屋たち。テレビやスポーツ紙などのマスコミ関係。倒産しかけている会社の経営者。実にさまざまな者たちが、それぞれの理由で穂刈をつけ回した。
よほどうまいタイミングを見つけ、慎重に実行しなければ捨文王自身に災いが降りかかる可能性もある。伊達針之介も幸円仁もそのことは理解していた。だから二人ともじっと息を潜めて、穂刈末人確保のタイミングを狙い続けているのだった。
第11章 神々の冒険
1
これまでは土・日を利用して動いてきたけれど、この先も同じように悠長に構えていていいのだろうか? 奴らがいつ計画を実行するつもりなのかもまだ知らないし、そもそも計画がどんなものなのかさえまだわかっていない。アキュの頭の中で組み立てたシミュレーションでしかないのだ。物産会館裏手にある中央麻酔株式会社と言う組織が関与している匂いがするけれども、あくまでも勘でしかない。何から何まで想像上のことでしかないのだ。裏付けを取る必要がある。
計画日が近付けばガハラ側も警戒を強めるだろうから、早急に動かなければならない。
アキュは中央麻酔株式会社という組織がはたして何であるのか気になっていた。警視局図書館に出向き『株式会社年鑑』を覗いてみたが、とり立てて奇妙な点も見当たらない。見事なまでに記載事項が完璧なのである。このことがアキュにかえって不信感を持たせた。とにかく行ってみることが先決だ。アキュはそう思った。しかし特定の施設に立ち入り捜査するためには、警視局長の許可、いわゆる捜査令状が必要なのだ。現在この民間会社が何らかの犯罪に関与しているという情報もない。つまり令状を申請しても下りる可能性はゼロである。ミッチ・アキュは手続きを無視することに決めた。いささか乱暴だが最も手間が省ける方法である。
日常の雑件に追われアキュがようやく行動を開始したのは、一週間ばかり日が流れてからだった。アキュは中央麻酔株式会社の駐車場へ車を滑り込ませた。以前ノビーと来たときのスポーツタイプは少し目立ち過ぎるので、なるべく目立たぬように気を使い、国産のワンボックスを選んだ。土産物屋の従業員の車が並んで停めてある一角にアキュは車を並べた。こうしておけば、もし捜査が長引いても物産会館職員のものと思わせることができるはずである。
アキュが車を進めてきた林道は、駐車場の入り口を右に見て更に30メートルほど直進したところで森林によって途切れているように見えた。行き止まりと見えるその地点で左方向へと直角に折れているからだった。
ミッチ・アキュは駐車場から出て小走りに曲がり角まで進むと、林道が折れた先を見た。アキュは思わず息を呑んだ。
10メートル先にブロンズ製の門扉が、行く手をふさぐように建てられていた。門扉は30cm四方のレリーフを施したブロンズ板を市松模様のように繋ぎ合わせたつくりだった。隙間から中央麻酔株式会社の社屋が、庭園を前にした純白の姿を見せていた。
アキュは注意深く道路際を進み、門まで辿り着いた。黄昏時の薄闇がアキュを森と同化させ、仮にもし監視カメラなどが設置されていたとしても、その姿を判別されることはなかろう。ミッチ・アキュは姿勢を低くして門扉越しに中央麻酔の様子を窺った。
会社は白一色に塗り上げられた二階建てのアンティークな造りだった。しかし広い芝生の庭園を含めたそのバランスは、なぜか見るものに威圧感のようなものを感じさせる。
アキュは腕時計を覗いた。あと10分程度で5時になろうとしている。
ふと不安が脳裏を過った。もうじき帰宅する職員達がぞろぞろ出てくるに違いない。そのとき自分はいったいどこに身を潜めていれば良いのだろうか。アキュは周囲を見渡した。
そのとき研究所の正面扉が開く気配がして、数名の人間が出てくるのが見えた。もうそんな時間なのだ。駐車場へ引き返すにも林道を横切るときに気付かれてしまう。アキュは仕方なく後ろの森の中に飛び込んで身を伏せた。
やがて談笑しながら門扉までやってきた男たちの姿が、じっと息を殺して身を潜めるアキュのすぐ前に感じられるようになった。驚いたことに男たちは五人いて、そのうち三名はアキュも良く知っている人物だった。
政治局長タカマ・ガハラ。グッドラック財団研究開発部長ジー・ワン。そしてもう一人は警視局捜査部本部長で、アキュの上司でもあるタクラ・マクラだった。
他の二名はアキュの知らない顔だった。きっとこの施設の職員であろう。
「どうもありがとう」ジー・ワンが云って、その二人に向かって頭を下げた。
「いえいえ、とんでもない。お役にたちましたかどうか……」職員二名の中で上級職らしい、少し頭髪の薄くなった男が答えた。
「そんなわけで、システム修復に、およそ三ヶ月。テストに十日間。そして微調整でこれもおよそテストと同じくらいかかりますので、十二月末頃ということで計画していただければと思います。勿論、進捗状況は逐次報告を入れますので、よろしいですね」
職員風の男が確認した。
「分かりました。こちらとしてもそのくらい余裕があったほうがしっかりした準備ができます。むしろ都合が良い。では今日はこれで失礼します」
タカマ・ガハラ局長はそういって右手を差し出した。職員たちは森に潜むアキュの目前で、ガハラと握手を交わした。
やがて社屋から次々と帰宅する職員たちがアキュの前を通り過ぎた。
数台の車を残し、研究所職員も物産館店員も帰宅したらしく、周囲は静寂に包まれた。
ミッチ・アキュは駐車場付近に動きかなくなって、念のため、十分間ほど森にもぐりこんだまま、息を殺してじっとしていた。やがて静寂の中に闇までが入り込み、虫の音と不気味な鳥や獣の声だけがアキュの周囲を支配しているように感じられた。
2
ノビー・オーダは明日のレース結果を穂刈に知らせようと、VTSシステムを立ち上げた。この日二度目のアクセスだった。しかし穂刈はまだ戻っていなかった。
いつものように午後九時に一度アクセスしたが、そのときから姿が見えないのである。
穂刈の都合で接触が難しいときは、サイドボード上に赤いハンカチを置いておく決め事を作っているのだが、いつもどおりの黄色のハンカチのままである。
いつも穂刈が座っているソファーには陽介がちょこんと腰掛けてテレビを見ている。
「ママ、遅いねパパ」陽介がキッチンのほうへ顔だけ向けた。
「今夜はパパ、お友達とお酒飲んでくるって言ってたから遅くなってるのよ。もうこんな時間よ。あなたはもう寝なくちゃだめでしょう」
恵子の声が画面に重なった。
なんだそうか。ノビーはひと安心した。酒を飲みに外に出たということはだいぶ気持ちも元に戻ってきたのだろう。
陽介の誘拐事件以来、穂刈がひどく気弱になっていることにノビーは気付いていた。ミスターXを名乗ってテレビ出演したり予想を公開したとき、穂刈末人の胸の中で燃え盛っていた正義の炎も今はもう完全に鎮火しているように見えた。
ノビーには穂刈の気持ちが分かるような気がした。根拠のない情報で競馬ファンに損ばかりさせている出鱈目な予想屋たちがいる。そのばか者たちに怒りの一撃を食らわせてやろうと始めたことだった。はじめのうち穂刈の予想は、これまで負けてばかりだった多くのファンたちから絶賛された。しかしそれも束の間、オッズの低下が目に付きだすと、今度は逆に必ず的中する予言など公開しないでくれという声が増え、陽介の誘拐事件にまで発展した。家族が危険にさらされてはと決心して、予想の公開を中止すると、今度は必勝法を独占するなと、脅迫まがいの電話攻撃である。
人間と言うものの身勝手に穂刈は失望したにちがいなかった。
「人間は結局自分を中心とした世界しか満足できないように作られているらしいね」いつのことだったか忘れてしまったが、交信中に、穂刈がしみじみと言っていたのをノビーは思い出した。
「そのとおりだ」ノビー・オーダは頷いた。
きっと穂刈が思っているとおりなのだ。
少しでも理想に近い世界を創ろうとするならば幾百幾千のライバル達が抱くあらゆるエゴイズムと戦って、勝ち取っていかなければならない。運良く闘いに勝利して自分の世界を何処かに築くことができたとしても、それはほんの一刻のものでしかない。いつまでもその幸福感に浸っていることなどできよう筈もないのである。なぜなら自分が掲げた信念もまた無数のエゴイズムの中のひとつに過ぎないからなのだ。
次から次へと他の旗印を掲げた無数の集団が襲いかかってくる。そしていつかは必ず力尽きる。人々が心に描く理想の形など各人各様だろうし、自分自身のイデオロギーだって、その時々で当然変化していくはずなのである。
ノビーは穂刈のことが本当に心配だった。まだ数ヶ月の付き合いしかないが、どの角度から見ても、穂刈末人という男の中にそういう野生的な強さを発見することができないからである。
ノビーはもう一度モニター画面に目を戻した。穂刈はやはりまだ帰宅していない。ただ時折画面に見え隠れする恵子や陽介の姿を見ると、普段と変わった所もなかった。
朝にでも再度連絡を入れてみようと決心したとき電話が鳴った。
モニターの中で穂刈の電話が鳴っているのだろう。そう思って様子を見ていたが恵子は電話に出ようともしない。それもそのはずで、音はノビーの電話からだった。
「ノビーか。からくりが全てわかったぞ」
受話器を取るや否や、アキュの興奮した声が耳に飛び込んだ。
3
アキュは冬眠から覚めた小動物のように、身を潜めていた枯葉の中からもぞもぞと這い出した。いつの間にか日はとっぷりと暮れ、弱々しい月明りだけが駐車場へ続く林道を照らしている。アキュは車へと急いだ。かろうじて車に辿り着いたアキュは、積み込んできた迷彩服に着替え、赤外線暗視ゴーグルを顔につけた。
暗視スコープのスイッチを入れると、闇に閉ざされていた世界がモノクロ映画のように浮かび上がる。アキュはこの完全装備で門扉の前に立った。駐車場に残されていた車の台数は、物産会館関係はアキュのものを除けばゼロ。中央麻酔のエリアに三台だけだった。アキュは機敏な動作で、門扉をよじ登り中央麻酔㈱の敷地内に飛び降りた。足が地に着いた瞬間アキュは建物に向かって猛然とダッシュを決めた。アキュはそのまま動きを止めず、社屋の裏手に回る。そこには職員出入口と手書きしたドアがあった。ドアにはその上部に明り取りの小窓が穿たれ、何の変哲もない曇りガラスが入れられている。その小窓に明かりがないということは、少なくともドアの向こうに、現在は誰もいないと思って差し支えないだろう。
ミッチ・アキュは思い切ってドアノブを回した。当然施錠されている。ウェストバッグから解錠装置を取り出し、電子ロック部分に取り付けスイッチを押すと、施錠はあっけなく解除された。
中に入ると照明の落とされた廊下が奥へと伸びている。廊下左手の壁には職員入口近くに厨房と書かれたプレートのついたドアがあった。そのドアの少し先に社員食堂の入口がある。通りすがりにドアの中を窺ってみたが、照明も消されていて人の気配もない。
アキュはやがて社屋の正面玄関から伸びる廊下に突き当たった。道路で言えばL字路の曲がり角のような具合である。首をのぞかせて左側を窺うと、思った通り20メートルほど先にロビーと正面入口が見えた。正面玄関のすぐ横には事務室があり、ドアの隙間から明かりが漏れていた。
右側を見るとガラスのドアがあり、研究室と書かれたプレートの下に『危険! 許可なく入室を禁ず』とシールが貼られている。アキュはノブに手をかけて押したり引いたりしてみたが施錠されている。周囲に誰もいないことを確認し、アキュは再び解錠装置を取り付けスイッチを押した。小さな電子音がしてロックが解除された。
速やかにドアを開け滑り込むと、さして広くもない部屋のようだったが、そこにはアキュの興味を惹くものがあった。部屋の壁に設けられた一基のエレベーターである。
不思議に思うのは何故二階建ての事務所にエレベーターが必要なのだろうという小さな疑問だった。
胸のポケットに警視局員手帳が入っているのを確認して、アキュは暗視ゴーグルをはずし、ボタンを押した。エレベーターの扉が音もなく開いた。
アキュは素早く中に身体を滑り込ませた。
目的の階を指定するボタンに目をやったアキュは驚いた。アキュが乗り込んだのは勿論一階で、上階は二階があるばかりだった。しかし下方向にはB1・B2・B3……という具合に地下へ向かうボタンがB28まできっしりとならんでいたのである。芝生庭園の向こうに瀟洒な佇まいを見せる二階建ての中央麻酔㈱の社屋は、実際には地下25階の規模を持つ巨大な建造物なのだった。
アキュは二階へのボタンを押した。扉を閉じたエレベーターはゆっくりと上昇し二階に停まった。扉が開いた。アキュはエレベーターから出て二階の様子を一瞥した。倉庫のような使い方をされているらしく、聞いたことのない薬品を入れた段ボール箱が積み重ねられている。ここには何もない。アキュの長年の経験がそう感じ取っていた。再びエレベーターに乗り込み、さて次はどの階をと考えていると不意に館内放送が流れた。
「警視局のミッチ・アキュ様。お連れ様が地下三階詰め所でお待ちです」
「チッ」アキュは小さく舌打ちした。行動を読まれていた。最早これまで。アキュは諦めてB3のボタンをを押した。
エレベーターはB3まで下降し、チンと音を出して停止した。ドアが開くと一人の男がアキュを待ち構えるように立ちはだかっていた。
本部長のタクラ・マクラだった。アキュが口を開きかけると本部長は「何も言うな」というようにアキュに目配せをして先にたって歩き始めた。アキュは無言で本部長の後に従った。やがて担当者詰め所と表示されたドアがあった。タクラ・マクラがドアをノックするとドアは静かに開いた。
詰所の中には男がひとりソファーに腰掛けて煙草を燻らせていた。頭髪が少し薄いがそれほど年をとっているわけでもない。40代前半だろうか。アキュはその男に見覚えがあった。森に潜んでいたときタカマ・ガハラ、ジー・ワン、そして今ここにいるタクラ・マクラ本部長を案内していた男に間違いなかった。
「ようやく到着しました。今手がけている事件の容疑者が突然動き出したので遅くなってしまったということです」
タクラ・マクラはアキュに代わって説明し「捜査課主任のミッチ・アキュです」とアキュを男に紹介した。
ミッチ・アキュは本部長が「話を合わせろ」と命じていることに気づいた。
「遅くなりまして申し訳ありません。捜査課主任のミッチ・アキュです」
アキュはきびきびとした口調でいって敬礼をした。
「いやいや、そう緊張なさらんでください。この中央麻酔を預かっておりますセッシュ・ナオカです」
頭髪の少ない男は右手を差し出した。アキュは快く握手に応じた。
「さてそれでは警備の計画については局に戻ってからにして、とにかく転生の施設を見学させてもらいましょうか」本部長はナオカ社長にいった。
ナオカ社長は頷いて部屋の奥にあるドアを手で指し示した。
セッシュ・ナオカに誘導されてタクラ・マクラ本部長とアキュはドアをくぐった。そこは小さなエレベーターホールだった。
「先ほどアキュさんの乗ってきたエレベーターは3B止まりといいましょうか、詰所でロック解除しなければここより下へは行けないのです。さ、どうぞ」
社長はエレベーターのドアが開くのを見て二人を誘った。
それは定員が5人の小さなものでガラス張りの展望エレベータであった。ナオカ社長がタッチパネルを捜査すると、エレベーターはゆっくりと下降を始めた。
4
ミッチ・アキュは予測もしなかった展開に少し混乱していた。自分やノビーが推測した計画などよりもはるかに悪質なやり方で、政治局は民主化運動に歯止めをかけようとしているに違いない。展望エレベーターが下降を始めると、アキュは自分が幻想的な時空の中に迷い込んだような錯覚に陥った。
3名を乗せたエレベーターが下っていくのは直径がおよそ30メートルはある巨大な円筒の内壁だった。巨大な円筒が地下へ向かってB25階まで延々と落ちている。深さにしておよそ百メートルといったところか? 円筒をちょうど4等分する形で内壁の4箇所に設置されたレール上を、それぞれのレールにアキュたちが乗り込んでいるものと同じガラス張りの箱が張り付いている。それらのエレベーターは今は動きを止めていた。
円筒の中央部には、直径約10メートルの透明なパイプが二本、エレベーターに沿って地底階へと続いていた。アキュはエレベーターの展望窓に額をくっつけてあちこちを探ってみたが、空間そのものが仄暗いせいもあってパイプがどこから入り込んでどこに出て行くのか確認はできなかった。透明パイプはどうやら無色の液体で満たされており、展望窓近くのパイプでは下から上に、もう一本のほうは上から下へと流れているようだった。パイプの中には無数の拳大の浮遊物が淡い青色や桃色の光を放ちながら流れに身を任せている。
「これが霊魂です」
中央麻酔のナオカ社長がぽつりと言った。
「こちらのパイプがこの世界に入ってくる霊魂。向こうが出て行く霊魂です。幾度見ても美しい。無垢な命の原点なのです」
ナオカ社長は目を潤ませた。
確かにそれは幻想的な美しさだった。アキュもタクラ・マクラも心を洗われる気持ちがした。
「何故私が来ることが……」
タクラ・マクラ本部長をワンボックスカーの助手席に乗せたアキュは、帰路を急ぎながら質問を投げた。
「この車だよ」
ぶっきらぼうに云ってタクラ・マクラはハンドルを操るアキュに目を向けた。
「この車?」
「私は局のおもな職員の車は総て記憶している。個人車についてもだ。だからこの車が駐車場に停めてあるのを見た瞬間、お前が潜んでいることが分かった。当日の警備の件で確認したいことがあるからといって、ガハラとジー・ワンを先に帰すのに苦労したぞ」
「申し訳ありません」
「いいか、アキュ。私が何のために治安部長との会話を聴かせたり、ノビー・オーダとかいう男との接触を黙認していると思うんだ。自由に動くのは構わん。だが報告くらいはしろ」
タクラ・マクラ本部長は語気を荒げた。
第12章 北へ……
1
普段となんら変わらない日々が駆け足で流れ、早くも年の瀬を迎えた。
ファン投票によって選ばれた年度を代表する名馬が出走し、千葉県中山競馬場の芝コース、距離二千五百メートルで争われる伝統の一戦、グランプリ・有馬記念。競馬には興味がないという人たちさえ、今年の締めくくりだから馬券でも買ってみようかと、ついのせられてしまうというビッグレースが一週間後に迫っていた。
穂刈末人は久しぶりに杉浦努と示し合わせ、ターフに顔を出した。穂刈がちょうど約束の八時にターフのドアを開けると、杉浦は既に席について保子を相手に水割りのグラスを傾けていた。
穂刈は右手を軽く上げ、「ヨゥ」と挨拶にもならない挨拶をした。杉浦も片手を上げて頷いた。
「しばらくね、穂刈さん」ママがお絞りを穂刈に手渡しながらいった。
「穂刈ちゃん。おなじものでいい?」
保子は言って、穂刈の返事も聞かずに水割りを作り、穂刈の前に置いた。
「でも、びっくりしたのよ。穂刈さんがあのミスターXだったなんて」
ママは他の客がいないことを確認してそういった。
「その話題はよそうよ」穂刈は冷たく突き放すように言った。ママを見る視線にも冷たく鋭いものが感じられた。
「穂刈ちゃん、なんだか変わったネ」
保子がつまらなそうに、言った。
保子には何も答えず、「どうだい。会社のほうは」穂刈は杉浦にたずねた。
「いよいよだめみたいだな。今年一杯で俺も退職が決まった。リストラさ」
杉浦は淋しそうに言って水割りを一気に飲み干した。
「予想通りの展開になったってわけだ。それで?」
「幸いにも弟のやっている会社が順調なもんだから、邪魔にされない程度に厄介になることにした」
杉浦は自分のことはさらりと流すように説明して「ところでおまえのほうも何かと大変らしいじゃないか」と続けた。
穂刈は寂しそうな目をして頷いた。
「ああ。こんなに自分勝手な私利私欲だけの世界とは知らなかった。何をしようにも自分のことしか考えない敵だらけだ。自分で飛び込んだ世界だ。もう少し頑張るつもりではいるが、一度仕切りなおししようと思っているんだ」穂刈は杉浦に正直に胸のうちを晒した。
一時間ほどさっぱり盛りあがってこない雑談をして、穂刈は店を出た。マンションへの近道である住宅地に入りこむと、所々に立つ街路灯のほかに明かりはなく、人の気配さえ飲み込まれてしまったような寂しさを穂刈は覚えた。
陽介が誘拐されるという事件があってからは、脅迫者の襲撃を警戒して、人通りの少ない細道や路地には入り込まぬよう気をつけていたのだったが、久しぶりの杉浦との酒が判断を狂わせた。
ひと吹きの冷たい風が穂刈の頬を撫で、路地の中を無警戒に歩いていることに気付かせた。後悔の念が穂刈の中に渦を巻いた。
不意に穂刈の行く手を遮るように、闇に溶け込む黒いスーツの大男がぬっと立ちはだかった。反射的に後ろを振り向くと、同じような黒スーツを着た小柄な男が、道を塞いでいる。小柄な男のほうが、手に持った何かを、穂刈の胸の辺りにぐいと押しづけた。
それが護身用電気銃だと気付いた瞬間、穂刈末人は全身に強い電気ショックを感じ、意識を失った。
2
競馬専門チャンネルのロビーは、他のテレビ局やスポーツ紙、一般新聞社の取材陣でごった返していた。
月曜日といえばレース実況もなく、ダイジェスト番組や競馬とは離れた農林関係のプログラムが主体となる。来局者も比較的少なく関係者にとって最ものんびりできる曜日のはずだった。ところが日曜日の競馬が終了した後、警察より突然の発表があったことで、事態は一変した。
警察による記者発表は、通り一遍のものだった。
「競馬評論家のミスターXさんの行方が、12月某日金曜日夜から分からなくなっており、何らかの事件に巻き込まれた可能性が大きいものとして、警察では捜査を開始いたしました」捜査を開始したばかりで情報もまったく入っていないと言う理由から質問も許されず、動きがあり次第会見の日時を連絡すると言う煮え切らない発表だった。そのためミスターXと接点のある競馬専門チャンネルというテレビ局が俄かに脚光を浴びることになったのである。
三風亭五九悪も、自宅でのんびりくつろいでいた所を、電話で呼び出された。高座のスケジュールもこういう日に限ってぽっかり空いており、局からの呼び出しに応じないわけにもいかない。身支度を整えて局に駆けつけると、三風亭五九悪は報道各社のカメラに取り囲まれた。
ロビー正面に設けられた、折りたたみ式の会議用テーブルを置いただけの仮説会見場には、小田部玲子と谷口ディレクターが既に席についている。
「どうにも参っちゃったね」
報道陣の中をかき分けるようにしてようやく辿り着くと、谷口ディレクターが挨拶する代りに渋い表情を見せた。
「なんだかねェ」
五九悪も言葉に窮した。
「お待たせしました。それではこれから各社の質問を受けようと思います」
局の宣伝部長が司会を務めた。
「三名ともスケジュールの間隙を縫ってこちらに来ていただきました。時間は十五分間、質問は各社一件に限らせていただきます」
間髪を入れず報道陣の間からブーイングが巻き起こる。
「局としましても驚いているとしか申し上げられないわけでして。一応担当者とディレクターがここにおりますが、彼らにしてもミスターXと懇意にしておったという訳ではございませんので、その辺をご了解の上でご質問ください」
宣伝部長はそう逃げを打つと、額に噴き出る汗をハンカチで拭った。
「事件とは無関係ということですか?」
報道陣の一人が質問した。
「勿論ですよ。さっき部長が言ったように、驚いてるんです。我々も」
三風亭五九悪がぶっきらぼうに答えた。
「でも、もしお宅の局がミスターXを番組に招きさえしなければ今回の騒ぎは起こらなかったわけでしょう。関係ないというのは少し無責任じゃありませんか」
質問者は追い討ちをかけた。
「そんなこと言われてもねぇ。無茶ってものですよ」
三風亭五九悪は質問をしたレポーターに向かって苦笑した。
「例えば骨董品を持っている人が、その値打ちを知りたくて鑑定してもらったとしましょうか。その結果、ものすごく高価な鑑定結果がでた。そのことが公になったことで持ち主は暴漢に襲われてしまった。これって鑑定した人間の責任ですか?」
三風亭五九悪が問うとレポーターは黙って下を向いた。
「良いですか皆さん。我々は今度の事件に関与などしていません。勿論、容疑者でもないんですよ。皆さんもそのことは百も承知でしょう。ですから局や我々を誹謗中傷するような質問には一切お答えしません。その辺りをわきまえてください」
五九悪はたたみかけるようにそういって、集まった報道陣を睨みつけた。その迫力に負けたのか、会見は十五分足らずで終了した。
取材陣が全て引き上げても三風亭五九悪、小田部玲子そして谷口ディレクターの三人は、しばらくその場に座ったまま動かなかった。いったい何が自分たちに起こったのだろう。三人の心の中には、確かにある種の後ろめたさが残っていた。あの記者が云った通り、ミスターXが誘拐された原因のひとつは、番組に出演して知名度を高めたことだろう。それはそれでやむをえないが、ミスターXを招いた動機に私利私欲がなかったろうかと考えれば、そうは言い切れない。だからそれが原因でミスターXの身が重大な危険に晒されているのならば、どうやって詫びれば良いのだろう。五九悪ばかりではなく、小田部玲子や谷口ディレクターもそんな気持ちに取り付かれていた。
3
早朝五時。VTSシステムのアクセス先を映し出すディスプレーは、穂刈家の異常事態をしっかりと捉えていた。
ノビーとアキュは、映し出されたその様子に釘付けになった。
府中警察署の刑事が二人穂刈末人の妻から事情を聞いている。どうやら穂刈が誘拐されたらしい。ノビーとアキュは思わず顔を見合わせた。陽介の誘拐事件以来ミスターXとしての活動も完全に止めていた穂刈末人が、なぜ誘拐などされなければならないのだろう?その理由は明白だった。短い期間だったがミスターXは全レース完全的中を見事にやってのけた。何故そんなことが可能なのか。ミスターXが何らかの競馬必勝法を持っているからだ。向こう側の人間ならばそう結論付けるより他に手立てはないからだ。実際に予言の公開を中止して以来、必勝法をターゲットにした脅迫や嫌がらせに苦しめられていると穂刈も言っていた。その必勝法とはノビーから提供される的中情報に他ならないのである。
「まずいな」ノビーの横でモニターを見ていたアキュがつぶやいた。ノビーは画面に目を向けたまま頷いた。
「誰がやったのかは分からないが、狙いは競馬必勝法だよ。だとすれば俺に責任がある。ミスターXにとっての競馬必勝法は、この俺のことなんだから」ノビーはそういって、すがるような目をアキュに向けた。
「みんな思い上がっていたんだ。自分の考えには一点の間違いもないとね。何とか手を打たねば、奴は消されるぞ」
「消される? まさか……」
「穂刈を拉致しても、犯人は目的の必勝法を手にすることはできない。穂刈が仮に真相を暴露したとしても、誰一人信じやしない。向こう側には共存するこちら側の世界についての観念がないからな。どんなに辛い拷問を受けようが、穂刈は口を割らない。というより、割れない。当然だ。必勝法などないのだから」
アキュはノビーを見た。
ノビー・オーダが黙って頷くのを見てアキュは続ける。「だからと言って犯人は穂刈を解放するだろうか。解放などせんさ。当たり前だ。穂刈は的中し続けるわけだし、自分は誘拐犯にされるんだからな。必勝法を」めたとしても穂刈の口から足がつくようなことは避けようとするだろうさ」
「おお。そう思うからこそ、何とか助け出したいんだ。なにか方法はないものだろうか?」
「ないことはない。だが危険を伴う」
「どうすればいい? あの男を死なせたくない」
ノビー・オーダはきっぱりと言い切った。
「わかった。ノビー、お前がそこまで腹を括るなら手を貸そう」
ミッチ・アキュのプランは非常に簡単なものだった。簡単どころか素朴とさえいえた。
ノビー自身が穂刈の世界に生前転生し、ミスターXに必勝情報を与えているのは自分であると告白すれば良いというのである。ありのままを告白することで穂刈末人に対する矛先を変えることができれば何とかなる。穂刈を救う手立てはこれしかないとアキュは言い切った。
「勿論はじめは誰も信用しないだろう。何レース分かのデータを土産に持っていく必要はあるだろうがな」
「確かに理屈ではそうだろうが、そんなことが可能なのかい?」
あまりにも素朴な理屈に、ノビーは少し不安を覚えた。
ミッチ・アキュは呆れたようにノビーに視線を向けた。
「おいおい、いまさら何を言い出すんだ。政治局では今まさにそれを実行しようとしているんじゃないか。その行き先と送り込む人間を、ちょっと変更してもらう。ただそれだけのことだ」
「………」
「ただしこの方法には大きな条件がある」
「なんだ?」
「ミスターⅩを狙う大ばかやろうどもが何人もいると言うことだ。その一人ひとりに真相を説いていっても埒が明かないから、効率的にことを実行する必要があるということだ。あのテレビ局を利用することが一番なんだが、突然行っても信用されるはずがないからな。クリアーできそうな方法が考え付くか?」
アキュは心配そうにノビーを見つめた。
4
穂刈末人は目を覚ました。
照明がほの暗く調整された部屋のベッドに横になっているようだ。しかし自分が今いったいどこにいるのか、何故ここにいるのか、その記憶はなかなか戻ってくれなかった。ベッドの柔らかさは申し分ないものだったけれども、右胸のあたりに何ともいえぬ痛みのような不快感が有った。
いったいどのくらいの時間眠っていたのだろうか。首をひねってベッドサイドに置かれたデジタル式の時計を見ると、四時を少し回っている。
「四時か」穂刈は頭の中でつぶやいた。
穂刈の脳細胞は、それでも少しずつ氷が溶けるように機能を回復していった。
ターフを出たのが十時ころだった。まっすぐ家に帰ろうとして、近道を選んだ。それが間違いだった。待ち伏せを食らった。暗くてよく見えなかったがでかい男と小柄な男だった。小柄な男のほうが護身用の電撃銃を持っていた。その武器によって自分は気を失ったわけか。
穂刈の脳細胞は、バラバラになった記憶の破片を繋ぎあわせるという修復作業を、殆ど終了させた。自分が何故こんな目にあわなければならないのか。理由は一つしかない。競馬必勝法である。ミスターXがホームページを立ち上げてまで発表した予言は、全て的中した。この事実は必勝法を穂刈末人が間違いなく持っていることの裏付けとなるだろう。誰しもがそう考えるはずだ。苦笑いしながら穂刈はベッドの上で身を起こした。二日酔いの朝のように体がゆらゆらと動いている。
「何の音だろう」
穂刈は耳を澄ました。
どこかはるか遠くから、MRI検査の装置が発する音に似た機械音が小さく、しかし途切れることなく聞こえてくる。穂刈は室内灯のスイッチを押した。
薄闇に慣れた目を、蛍光燈の光が容赦なく突き刺す。目をしょぼしょぼさせながら、穂刈は部屋を見回した。高級とは言いがたいが、小奇麗なシティホテルのツインルームほどの広さである。
部屋が広く感じられるのは、ベッドが一台しかないせいなのだろう。
ベッドから見て正面の壁に、カウンターのようなテーブルがあった。テーブルはベッドからおよそ2メートル程度のスペースをとってベッドに平行に取り付けられており、頭側にテレビ、その横にプラスチック製のカップと冷水を入れたポットが置かれていた。普通のホテルと少し異なるのは、電話がないことくらいだった。テーブルの片隅に 『電話は、ロビーの公衆電話をご利用ください』 と印刷した案内書が置かれている。ただこの時代である。ほとんどが携帯電話を持っていることを思えば、公衆電話さえ必要がないくらいなのだ。
空気が乾燥しているのか、ひどくのどが渇く。喉を潤そうと穂刈はスリッパをはいてベッドから出た。どういうわけか足元がふらつき、真っ直ぐに歩くことが難しい。穂刈は慌てて近くにある椅子に座りこんだ。眩暈がするのかと思ったが、どうやら気のせいではなく、部屋そのものが大きく揺れ動いているようだった。
穂刈は窓を覆っている厚手のカーテンを開いた。
窓の外を覗いた穂刈は、自分がどこにいるのかを知って愕然とした。
窓外には、遮るものひとつない大海原がどこまでも広がっていた。体全体が揺れているような感じがするのも当然である。自分が今閉じ込められているのは船の中に違いない。
昨夜、スタンガンの電撃ショックを食らわせられ、不覚にも気を失ったのが午後十時。それから六時間もの間ずっと意識を失っていたことになる。スタンガンにそれほどの威力があるとは考えられないから、目が覚めぬうちに麻酔薬でも使って気を失っている状態を引き伸ばされたのだろう。
水差しからプラスチック製のコップに水を注いで喉の渇きを癒すと、ほんの少し気持ちが落ち着いた。状況から見ると、どうやら自分は虜になったらしい。
予言を中断してから、必勝法の独占を羨む脅迫者があまりにも多かった。犯人はその中の誰かなのだろう。だとすれば今のところそれほど危険というわけでもなさそうだ。自分に万一の事態がでも起これば、必勝法も何も幻のように消えてしまう。当然犯人はそう信じているだろうから、滅多な行動も取れないはずだ。そう考えると、自分が犯人より優位に立ったような気持ちになった。
穂刈末人はベッドに腰掛けて窓の外に広がる大海原を眺めた。水平線まで視界を遮るものは何ひとつない大海原は、今まさに朝日が昇り始め、赤から白へと輝きを増しながら一日の始まりを告げているようだった。
暫くの間ぼんやりと水面を眺めていた穂刈の頭にふと閃くものがあった。
「そうか」
穂刈は思わず声を出した。
この船は、部屋の作りなどから考えれば、通常のカーフェリーなのだ。しかも国内航路である。『電話は、ロビーの公衆電話をご利用ください』という日本語の案内がそれを物語っているではないか。カーフェリー以外であれば、そんな案内が備え付けられているわけがない。次に穂刈が思いついたことは、このフェリーが太平洋側を北へ向かって航海しているということだった。
国内のカーフェリーは、伊豆大島や小笠原諸島、日本海側では佐渡航路などの離島行きのほかは、列島沿いの近海を北上、あるいは南下している。だから進行方向に対して右側にある窓からの風景に、陸地がまったく見えなければ、太平洋沿岸を北上しているか、さもなければ日本海側を南下しているかのどちらかしかない。そしてカーテンを開いた時見えた赤い太陽が、今は力強い光を振りまいているのだから、窓から見える方が東。進行方向が北。ということになる。
穂刈は自分の推理に一瞬悦に入って思わずにやりとした。
しかし次の瞬間、その満足感はたちまち輝きを失った。それが分かったとしても、何の役にも立たないことに気付いたからだった。
ドアはロックされて開かないし、室内に電話もない。その上、携帯電話も家に置きっぱなしで持ってこなかった。まさしくお手上げ状態である。
暫くぼんやりと海を眺めている内に気持ちの整理がついてきた。再び時計を見ると、六時を回っている。
少しでも情報が取れないかと、穂刈はテレビのスイッチを入れた。
フェリーに備え付けのテレビは、皆映りが悪い。波に揺られるせいで電波が乱れるのだろうか。穂刈が監禁されている船室のテレビも例に違わず、流れたり斜めに揺れたりと、落ち着かなかったし、音声も雑音混じりで何とか聞き取れるといった具合だった。見ているだけで船酔いになりそうだったが、折りよくニュース番組が始まったところだった。
年末の慌ただしさを少し伝えた後、アナウンサーが神妙な面持ちで穂刈のことを話し出した。
「昨夜失踪した穂刈末人さんの消息は、未だ分かっておりません。何らかの事件に巻き込まれた可能性が強まってきました」
穂刈の顔写真が映し出される。
「最近競馬予想で話題を集めておりますミスターXが、失踪した穂刈氏と同一人物という情報もあり………」
雑音を省いて繋ぎ合わせてみると、どうやら穂刈の失踪は、ミスターXが所有すると思われる『競馬必勝法』を狙う何者かによる誘拐の可能性が高いと解説しているようだ。
穂刈がミスターXだということがどこから洩れたのか不可解だったが、それならば思ったとおりむしろ身の安全を裏付けることになる。
何といっても状況が何らかの変化を見せるまで自分には何もできないだろうし、下手に動けばかえって危険が増える。ここはじっと辛抱して、チャンスを待つより手段はないのだろう。こうなったらもう腹を決め、ミステリーツアーのような久しぶりの船旅を満喫してやろう。穂刈はそう腹を決め、冷蔵庫からビールを取り出した
5
「もう時間がない。俺が集めた情報では式典の開催は12月24日夜8時だから、あと一週間だ」
ミッチ・アキュは苦虫を噛み潰したような目でノビーを見つめた。
「俺の心はもう決まっている」
ノビー・オーダはきっぱりと答えた。
「ミスターXの救出ということだな」
アキュの言葉にノビーは首を縦に振った。
「穂刈を救えるのはどうやら俺しかいない。民主化運動なら、敵がどんな手を使ったって大差ないだろう。これまで無視されてきた主張にようやく火がついたんだ。簡単には消えやしない。あきゅ、俺が戻るまで待っていてくれ」
「よし判った。それじゃ金曜日の朝10時に天正沼の物産会館で待ち合わせよう」
「了解」
ノビーがおどけて敬礼すると、アキュは少しさびそうに笑って背中を見せた。
アキュを送り出して、ノビーはソファーに戻った。テーブルを挟んで向かい側にはついさっきまでアキュが説明に使っていたホワイトボードが書きっ放しの状態で残っている。
ノビーは遠ざかって行くエンジン音を聞きながらアキュが本当は少しがっかりしたのではないかと思った。ノビーにしても穂刈が誘拐されたことを知るまではアキュとその興奮を共有していたのである。ヨミランドの歴史上未曾有の謀略がいま動き出そうとしているのだ。その国家規模の謀略にふたりで立ち向かう計画だった。確かに現在ノビーたちはなにひとつ有効な武器を持っているわけでもないし、謀略そのものの具体的姿が見えているわけでもない。そんなふたりが若さに任せて国家権力に対抗しようというのだから、タイミングとしては無謀に違いない。一時の冷却期間をとるのもひとつの手かもしれなと、ノビーは考えることにした。
ミッチ・アキュはノビーのコテージを出て、タクラ・マクラ本部長の自宅へと車を飛ばしていた。中央麻酔での本部長の動きが何を意図した行動なのかはっきりさせたかった。
アキュはタクラ・マクラと政治局のタカマ・ガハラ治安部長、財団のジー・ワン企画開発部長の三人をこの謀略の中心人物と思い込んで動いてきたが、ここまでのことを振り返ってみると、タクラ・マクラ本部長の手助けなしには入手不可能だった情報も多いのである。
首謀者の一人として疑うより、民主化運動を衰退させようとする謀略に巻き込まれ、何とか正しい道に戻そうと苦しんでいる姿を見せているいう方が当たっているのかもしれない。
タクラ・マクラ本部長はアキュの顔を見るなりアキュを客間に案内した。
「きっと来ると思っていた」
本部長はソファーを進めた。アキュはその声に辛そうな響きがあるのを感じた。
「今は本部長の胸の内など伺おうとは思ってはおりません。具体的なことをひとつだけ教えてください。閉園式のとき、向こうの世界に送り込もうとしている人物はいったい誰なんですか」
ミッチ・アキュは単刀直入に切り込んだ。アキュの射すくめるような視線にタクラ・マクラ本部長は思わず目を伏せた。
「アキュ、そんな質問をするところを見ると、やはりまだ君には何も見えていないらしい」
タクラ・マクラは情けないと言うように嗤った。
「しかるべき人間を生前転生させて、その人間にこちらから行動指示を出す。その人物にヨミランドに入ってくる転生者の色分けをさせ、将来ヨミランドで創造主族に不都合な行動をしそうなものの転入を拒否する。私はそういう作戦と読んだのですが」
ミッチ・アキュは当初考えたシナリヲを本部長にぶつけてみた。
タクラ・マクラは鼻で笑った。
「そんなことが可能だと思っているのか? 正直言って失望したよ」
「私も実のところこれは無理だと思っていました。だからまだ時間はあると……」
「その通りだ。政治局が本当の作戦を展開しようと考えているのはまだ何年か先のことなのだ」
「ではこの年末の転生沼森林公園の閉演式典には何の意味が?」
ミッチ・アキュはタクラ・マクラに刺すような視線を向けた。
「実験だよ」タクラ・マクラは云った「生前転生と言うものが本当に可能なのかどうかをテストすることが目的だ」
「それじゃVTSは何のために?」
「VTS? 何のことだ」
タクラ・マクラ本部長のこの言葉はアキュを愕然とさせた。ノビー・オーダと知り合って以来VTSというシステムのことがついて回っていた。しかも陰謀の黒幕のひとりとして、VTS開発の担当部長ジー・ワンが名前を連ねているものだから必ずどこかで繋がっているという先入観があった。
アキュは中央麻酔に忍び込んだときのことを思い返していた。
「そんなわけで、システム修復に、およそ三ヶ月。テストに十日間。そして微調整でこれもおよそテストと同じくらいかかりますので、十二月末頃ということで計画していただければと思います。勿論、進捗状況は逐次報告を入れますので、よろしいですね」
森に潜んでこの話を聞いたとき、てっきりVTSのことと思い込んでしまったのだが、一度もVTSという単語は出なかったのである。
「VTSを使用するのはまだずっと先のことになる」
「と云うことは……」
アキュは、できると言うことを前提にして考えなければ先に進まないとノビーを諭したときに例として挙げたことを記憶の中から手繰り寄せた。
「やはり生前転生が問題なく実施できたなら、次の段階は大規模な実行部隊の送り込みを……」
本部長は黙って頷き「そんなことを許してはいかん。そんなことをしたなら、民主化運動によるものなどとは比べようもないほどの混乱が起こるだろう。もはや戦争と云えるほどの混乱が……」と押し殺した声で云った。
「本部長はどうしようと?」アキュが訊ねると本部長は両手を広げ、お手上げのポーズをとった。
「話は変わりますが、本部長はさっき今回の閉演式が生前転生の実験だと仰いましたね。それならば、転生させる実験台は誰でも良いことになりますね?」
ミッチ・アキュが思いついたように問うと本部長は疑わしげな表情でアキュを見た。
「何を考えている?」
「転生の実験台に使ってほしい男がいるんですよ」
アキュはノビー・オーダのことを包み隠さずタクラ・マクラに話した。
「私がおまえに情報を流していると気付かれたくないんだが……」
「少しは臨機応変に対処してくださいよ。私から頼まれたなんてことを何で言う必要があるんです?」
アキュはすこし苛立った口調で云った。しかしまた穏やかな表情に戻って「VTSの完成品をクリスマスプレゼントにしても構いませんよ」と付け加えた。
ミッチ・アキュは重い気持ちで本部長宅を出た。街路灯の明かりにかざして腕時計を覗くと時刻は10時半を回っていた。どこか近くの家庭から少し気の早いジングルベルが風に乗ってかすかに聞こえてくる。ミッチ・アキュは空を見上げた。12月の夜空は満点の星を抱いてどこまでも深い漆黒を見せていた。そしてその星の隙間からひらひらと雪が舞い始めていた。
第13章 サンタがこっちにやってくる
1
穂刈を乗せたフェリーは、夜も更けた午後十時になって、ようやく苫小牧港の桟橋に着岸した。苫小牧市は、製紙業と石油備蓄基地で知られた北海道の小都市である。高度成長期には大規模工業団地の造成を目論んだが、企業がなかなか張り付かず、計画は難航した。現在では静かな地方都市と呼ぶのが相応しい鄙びた佇まいを見せている。
穂刈末人はフェリーから直接ターミナルに続くブリッジを抜けロビーに出た。すぐ後ろに黒のスーツを着たがっちりとした体格の大男が、手をポケットに不自然に突っ込んだ格好で寄り添っている。
何時に何処の港を出港したのか記憶がないので正確な所はわからないが、きっとまる一日は船の中だったのではと思う。船を降りてフェリーターミナルの寒々としたロビーに出ても、穂刈の感覚は船旅が続いているようにゆらゆらと揺れているようだった。
フェリーの旅はそう不快なものではなかった。
冷蔵庫から取り出した缶ビールのプルトップを引いた音と、船室の鍵を開ける音が重なった。少し緊張して音の方に目を向けると、ドアを開けて入ってきたのは、穂刈を拉致したまさしくあの二人組みだった。
「良く眠れたかな」
背の高い方が、少しニヒルな感じのする顔に自嘲的な笑顔を作って穂刈に向かって話し離しかけた。痺れるような低音である。
穂刈末人は自分が置かれた状況を理解していた。慌てたり逆らったりするのは得策ではないはずである。穂刈は質問に答える代りに手にした缶ビールを乾杯するように掲げてからひとくち飲んだ。
「なかなか聞き分けが良いらしい」
伊達は幸円仁を振り返った。幸円仁は逃げ道を塞ぐような格好で、船室のドアを背にして立っている。幸円仁はにやりと笑って頷いた。
「手荒なことをしてすまなかったな」
敵もそんな穂刈の気持ちを察して、騒ぎ立てさえしなければ手荒なことはしない、せっかくの船旅を楽しもうじゃないかと、条件付きの提案をしてきた。
穂刈がその提案を受け容れると、船室に幽閉されたままではあったけれども、食事を運んで来たり雑誌を買って来たりと、突然サービスの質が向上した。
時間が経つにつれ、穂刈末人と犯人二人組みは少しずつ打解け、雑談まで交わすようになった。そこで穂刈末人は自分を拉致した犯人二人との奇妙な昼食を楽しみながらタイミングを見て、彼らが自分をいったい何処へ連れて行こうとしているのかをさりげなく聞いてみた。
「日高の馬産地にあるサニーファームという観光農場だよ」
伊達針之介はサンドイッチをほうばりながらあっさりと教えてくれた。
「ファームのオーナーが君にぜひ逢いたいと言って待っている」
「観光農場のオーナー?」
穂刈は少し心配になった。伊達針之介にしても幸円仁にしても、その風体を見る限りまっとうな稼業とは思われない。しかし観光農場と聞けば、明るく健全なものを連想する。二人組みから受けるイメージとは何だかえらくかけ離れている感じで、頭が混乱した。それともオーナーということだから、いわゆるヤクザの親分ということなのだろうか。
「美しい農園だよ」
伊達は思いを馳せるように目を細めた。
「ならばなぜ誘拐なんて方法を取ったのか教えて欲しいもんだね。電話でも手紙でも、合法的手段はいくらでもあったろうに」
穂刈は単刀直入に尋ねてみた。
「うちのオヤジはのぉ、堅気の衆との付き合いがあまり得手じゃあないけぇのぉ」
伊達針之介は突然口調を変えた。
昨晩船内のシアターで上映していたヤクザ映画に熱中しすぎたようだ。
やっぱりヤクザだよ。参ったなぁ。穂刈は気が重くなった。
二人のそんなやり取りを、船室のドアにもたれるように立った幸円仁が渋い顔で見守っていた。
苫小牧フェリーターミナルのロビーは閑散としていた。土産物の売店やレストランもまだ八時を過ぎたばかりなのに既にシャッターを下ろしている。壁に取り付けられたデジタル式の掲示板を見ると、上り便の出帆時刻が午前零時になっている。きっと出航時刻が近付いて、客の数が増え始めると店を開けるのかもしれない。夕食は下船してからターミナルのレストランで取ろうと相談していたが、どうやら無理のようだ。そう思うと急に空腹感を覚えた。
待合所の長椅子に腰掛けて穂刈と伊達針之介は、所在なげに幸円仁を待った。伊達も穂刈同様空腹なのか、じっと目を閉じたまま口を開こうとしない。
拉致した方もされた方も、音の失われた息が詰まるように淀んだ時の中に取り残されたようだった。
カーフェリーの車両甲板にはドライバーひとりしか入ることができない。同乗者は一般乗船客と一緒にロビーに出て、ドライバーが車を回送するのを待つしかない。そして乗船時も下船の時も、通常は大型トラックから優先的に誘導されるので、乗用車が動き始めるまでは結構時間がかかる。場合によっては2~30分間待たされることもある。
穂刈は仕事で幾度かカーフェリーを利用したことがあった。洋上にいる間はただのんびりしている以外には何もできない。ある意味ではこの上なく贅沢な時間の過ごし方といえた。だが下船してからの待ち時間というものは実際より二倍にも三倍にも感じられる。これほど苛々することはない。そう感じるほどだった。一気につけが回ってくるのである。
「オムライスだっ!」
突然、伊達針之介が目をかっと見開いたと思うと、野獣のような大声を出した。
「うわあっ!!」
穂刈は驚いて飛び上がった。
「ここを出て十分ほど走った所に、二十四時間営業のファミリーレストランがある。そこで夕飯にしよう。俺はオムライスに決めた」
伊達針之介は、人生の重大な選択を今まさに行ったばかりというように、言葉を噛み締めながらいった。
ほどなく幸円仁がベンツをターミナルの正面口にまわし、クラクションを小さく二度鳴らした。先に立って歩けと伊達針之介が穂刈に根で合図する。
穂刈は渋々伊達の指示に従った。
フェリーターミナルは、苫小牧市の東のはずれに位置している。ターミナルビルをを出て左に進路を取れば、人口十五万人ほどの地方都市である苫小牧市内に入るのだが、音もなく走りだした幸円仁の運転するベンツは、右側にハンドルを切った。進行方向にはただ漆黒の闇が広がっているだけで、伊達のいったファミリーレストランも本当にあるのかどうか心配になるほどだった。
闇を照らすヘッドライトの中に、静内・えりもの地名が浮かんで消えた。
穂刈にとって、一度は訪ねてみたいと考えていた国内屈指の競走馬生産地である。穂刈は複雑な思いで、流れ去る案内標識板を目で追った。標識は瞬く間に闇の中に吸い込まれてしまった。
2
超高層ホテルの展望ラウンジから眺めるこの日の東京には、冬晴れという言葉が良く似合った。寒々としてはいるがその代わりに空気が澄みきって、三多摩の山並みの向こうには雪を頂いた富士山まで姿を見せている。視線を下に移すと、足下を首都高速道路新宿線が郊外へ向かって走っている。高速道路はすぐ先の高井戸で中央自動車道と名前を変え、山梨県を経て愛知県へと続いていくのだが、この高井戸で区部を抜け東京都下に入る。三鷹市、調布市、そして府中市という具合である。
「あそこから全てが始まったんだな」
少し感傷的になった三風亭五九悪の視線の先には、府中市の東京競馬場が見て取れた。
「どうも、お待たせして申し訳ない」
玉野幸次郎は精一杯の笑顔を見せて右手を差し出した。
「とんでもない。私もつい先ほど来たばかりですよ」
現職の国会議員からぜひ会いたいと呼び出された三風亭五九悪は少し緊張して、差し出された右手を強く握った。玉野幸次郎の肉厚の掌は母親のように暖かかった。
二人とも今日が初対面である。それでもお互いそれなりの有名人同士だったので、テレビなどを通して幾度も顔を見ている。まるで古くからの知己であるような錯覚に捕われそうだった。
玉野は滝のように流れ落ちる汗をタオル地のハンカチで拭った。
「体重が増えると少々歩いただけで、ご覧の通り。もう汗が止まらんのですわ。この師走の寒さにもかかわらず」
玉野はそういってラウンジ中に響き渡るような大声で笑った。ボディガードの皆神頼が五九悪の後ろのボックスから伸び上がるように玉野を睨みつけて渋い顔をした。五九悪と玉野はアイスレモンティを注文した。
「今日わざわざご足労いただいたのは」玉野幸次郎はアイスティで喉を潤すと話し始めた。
「ミスターXが何者かに拉致されたことについてなのです。今回の事件については師匠もご存知でしょう」
「勿論知ってますが…」
「実はその件で師匠に折り入ってお願いがありましてな」
「お願い?」五九悪は疑うような視線を玉野に向けた。
皆神頼が五九悪の後ろのシートで伸び上がって、頭越しに玉野がまずいことを言わぬよう監視していた。しかし気配を感じて五九悪が振り返るとモグラ叩きのモグラよろしくかき消すように引っ込んだ。
玉野は言葉を捜すようにしばらく間を取っていたが、やがて少しずつ話し始めた。
「私は、お恥ずかしい話だが、ミスターXと名乗るあの男に命を救われたことがあるんですわ。そのミスターXが今度は拉致されて、今まさに命の危機を迎えて居るのです。今度は私が助ける順番なのです」
「命の危機ですって!そんな大げさな」
「決して大げさではない。師匠は事件の本質を知らないからそう思うんでしょうがね」玉野はむっとした口調で答え、先を続けた。
「師匠とは初対面だが、テレビで拝見する通り、信用できる方だと信頼してお話申し上げよう。師匠はこの件の黒幕が誰なのかご存知かな?」
「具体的には知りませんよ。でも結局はミスターXの編み出した競馬必勝法を横取りしようとする輩でしょう」
誰でも推測できる事だと言わんばかりに五九悪が答えると、玉野はにやりと笑った。
「いずれはその理由でミスターXを狙う輩も出てくるでしょう。だが現在の状況について言えば残念ながらブブーです。いいですか。良く考えてくださいよ。私が誰かと言うことをです」玉野は穏やかにそういって五九悪の目を見つめた。
確かに玉野の言うとおりだと五九悪も感じた。犯行の根がそんな単純な所にあるなら、警察を動かせばいいだけの話であろう。現役の大物政治家が、頼みごとがあるといって、素性も良く知らない落語家に頭を下げているのだ。よほどの理由があるのだろう。
「先生は犯人をご存知だと?」
五九悪は好奇心たっぷりの瞳を玉野に向けた。玉野は頷いた。
「犯人は国家、目的は社会秩序の回復なのです」
玉野は五九悪の相当大きなリアクションを予測していたが五九悪はそれほど驚いた風もなく、「ああ、やっぱり」とつぶやいただけだった。
「ほう。予測されていたとは」
「で?私に頼みたいこととは?」
「ミスターXの必勝法をテレビで全国に暴露して欲しいのです」玉野幸次郎はきっぱりと言った。
「何ですって」三風亭五九悪は今度は仰天した。
「詳しくは今ゲストが来ますので、彼に説明させましょう。ほら、やってきましたよ」
玉野幸次郎が目で示すほうを見ると、一人の少年が玉野を見つけて走り寄ってきた。
「タマコー先生。こんにちは。この間は本当にありがとうございました」
少年ははきはきと挨拶すると、玉野の横に腰掛けた。
「ミスターXのご子息。穂刈陽介君」五九悪にそう紹介して。「陽介君、こちらは」と逆に陽介に五九悪を紹介しようとすると、「知っています。三風亭五九悪師匠ですよね。いつもテレビで見ていますから」と笑顔を見せた。
「ど、どうぞヨロシク」
物怖じしない陽介の言葉に、五九悪のほうがどぎまぎした。
「さあ、陽介君。お父さんを救うために五九悪師匠の助けが必要なんだろ。お願いしてごらん」
玉野が水を向けると、陽介は大きく頷いて話し始めた。
「パパは競馬必勝法なんて持っていないんです。だから誰が犯人でも、パパから必勝法をゲットすることなんてできないんです。ミスターXの予言は、本当はパパの予想じゃないんです。他の人の予想を使わせてもらっているだけなんです。だから、五九悪師匠がテレビでそのことを発表してくれたら、パパは助かるわけですよね」
「本当の話かい、それは」
「昨日その人から連絡がありました。今週中にパパを助けに来るって」
「誰なんだい。その人は?」
「良く知らないけれど、名前はノビー・オーダって言うらしいです」
「連絡は電話で?」
五九悪のこの質問に、陽介はちょっと困った顔をして、首を横に振った。
「テレパシーです」陽介は小さな声でそう言った。
「テレパシーだって?」
三風亭五九悪はつい大声を出した。五九悪の後ろのボックスで、コーヒーカップの壊れる音が聞こえた。
「信じるか信じないかは……」玉野が言いかけるのを五九悪は制した。
「そうか。そうだったのか。あの一日だけ自分の勘が冴えわたったのはそのせいだったのか」
五九悪は長い間の胸のつかえが取れたような気がした。思わず笑いがこみ上げてくるのを覚えた。
「分かりましたその人が来たら、すぐ連絡をください」
三風亭五九悪はそういって笑顔を見せた。
3
出雲敏房は悩んでいた何とか言う新聞関係の男が、ウィークリーマンションに陣取って穂刈の動向を執拗に見張っていた。この事実を知っているのは自分だけなのである。警察署に出向いてそれを知らせる必要があるのではないだろうか。出雲の悩みとはこのことだった。しかしどこまで知っているかといえば、男が向かいのマンションからミスターXの様子を四六時中窺っていたということだけなのだ。だからあの男が穂刈誘拐の真犯人かと問われればそうだと言い切るだけの確証は無い。ならば、犯人ではないと証言できるかと逆の問われ方をされても、理論付けて話すだけの材料だって何ひとつありはしないのである。申し出ようか出まいかうじうじ悩んでいるうちに明日はもう週末。クリスマスイブを迎える。今更どうしようもないだろう。出雲は自分に言い聞かせた。だいいち、ミスターXの失踪事件があの新聞関係の男と何らかの繋がりがあるのかどうかさえ今のところはっきりしないじゃないか。もしあの男が犯人または共犯者だと自信を持っていえるのなら、善良なる一市民として警察に届け出なければならないだろうが。……
いや無関係だとはいえまい。出雲の心の声は自分で無理矢理作り上げた逃げ道を消し去った。あの男がミスターXの監視を始めたのは、不覚にも自分が競馬場でミスターXの正体を知っていると叫んだ直後からなのである。
ならば申し出る事にするか?
「嫌だ。係わり合いになりたくない」と心の声が叫ぶ。
出雲敏房が何よりも強く言えるのは自分は誘拐犯ではないということである。そしてある日不審な人物が接触してきた。以来その男はミスターXの監視を続けていた。ただそれだけのことなのだ。別に隠していたわけではないが、自分の胸の内に留めているという罪悪感が出雲の気持ちを混乱させていた。出雲敏房は知らぬ存ぜぬを貫き通すことに決めた。
考えてみれば監視人の存在を正直に通報したところで、自分に対するメリットは何一つ無いのである。それどころか、自分や家族にとばっちりが返ってくることだって十分考えられるだろう。監視人の風体からして、決してまともな社会人とは思われない。
別段ミスターXとはそう付き合いが深かったわけでもないし、自分さえ黙っていれば何も起こらないわけだ。それなのにわざわざ警察に通報するというのか?正義の味方か。俺は。
出雲敏房は、自分の考えをまとめることができず、思い悩みながら、今朝青果市場から仕入れてきた野菜を店頭に並べ始めた。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
やがて店頭は、大根の白一色に埋め尽くされた。
4
競馬評論家の矢部宗太郎と江崎大五郎は、二日後に迫ったこの一年を締めくくるグランプリ、有馬記念に、万全のコンディションで臨もうと、強化合宿に入っていた。お互い、会社は秘密特訓に入ると言う理由で納得させ、場所についても明かさないことにした。後日、熱海の某温泉旅館から送りつけられる請求書には緊急会議費・事後承諾書の書類が添付されることになる。
「やったあ。」
テレビ画面を占領するようにあぐらをかいた矢部宗太郎が、飲んでいたビールにむせ返りながら、爆弾が炸裂したような大声で叫んだ。
「おい大ちゃん。大変だ。見てみろよ。ミスターXが誘拐されたって、ニュースで言ってるぞ」
矢部はテレビのヴォリュームを上げた。
「本当かよ。ありゃりゃりゃ。本当だ」
江崎は缶ビールのプルトップを引いた。
「どんな予想方法でやってるのか判らないけど調子に乗りすぎるから痛い目に遭うんだよ。最近の競馬予想家は無責任だなんて抜かしやがって。結局当たりすぎるのも考え物だってことに気付かねえときた。頭ん中ぷよぷよの子供じゃあるまいし、もっと先々を読めっていうんだよ。バーカ」
江崎大五郎は画面に向かって悪態をついた。
「おっ。快調だね。今日の大ちゃん」矢部が合いの手を入れる。
「快調も副快調もねぇんだよ。Xのバカたれは優等生だから何にも知りゃあしねえんだろ。ああそうさ。多分俺たちの仕事はレースを的中させることだなんて思い込んでるんじゃないの」
「違うのかい?」
「俺達みたいなのが沢山いるからこそ、ああでもない、こうでもないってことになって、競馬が盛り上がるんだよ。」
「そうだよ。そうだね」
「そうさ。つまり俺たちの仕事は、的中させることじゃない。楽しい競馬を作ることなんだ。それがもし悪いことだとすれば、それは必要悪だよ、必要悪。誰が百円戻しと決まっちまった競馬なんてするもんかい」
江崎がまくし立てるようにいうのを聞いて矢部も大きく頷いた。
「そ、必要悪、必要悪。貴方も私も必要悪」
江崎大五郎と矢部宗太郎は腕を組んで踊り始めた。
「必要悪だよ、必要悪。貴方も私も必要悪。勝ってナンボ当ててナンボ、エッサッサ」
喜びに満ち溢れたふたりの宴は、ホテルの一室から熱海市全域へと広がる気配を見せ始めた。
第14章 大団円
1
幸円仁の運転するベンツはやがて国道を逸れ林道に入った。程なく照明灯に照らされたサニーファームの看板が近付いてきた。普段ならば、すでに照明は落とされている時間なのだが、遅い旅人たちへの捨文王の気配りなのだろう。
「伊達さん。到着ですよ」
後部座席を振り返って幸円仁が声をかけると、ふたりは殆ど同時に目を開けた。
「何時になった?」
「ちょうど午前一時です」
幸円仁は計器パネルに付いたデジタル時計を見て伊達に答え、サニーファームの看板に示された矢印の方向にベンツを進めた。やがて車は丸太作りの門柱をくぐった。さほど特徴もない農家が、三人を待ち構えるように明かりを灯している。さらに進むと車の行く手を遮って細長い池が広がっており、農家はその池の向こう側に建っているのが判る。池に架けられたコンクリートの橋を渡り、車は農家の正面に出た。
農家の右手に大型乗用車が五台は入いりそうな広い間口のガレージがあった。車が近付くとガレージのシャッターが自動的に巻き上げられていく。北海道の農場だから、トラクターなどの大型車両が収納されているのだろうと穂刈は想像したが、明るく照明されたガレージの中には何も入っていなかった。
幸円仁の運転する車は、三人を乗せたまま何のためらいもなくガレージの中に入って停車した。車の後ろで機械音がした。穂刈が振り向くとリアウィンドウ越しに、今入ってきたガレージのシャッターが閉まっていくのが見えた。
シャッターが降りると、今度はガクンという衝撃があって、車の周囲の床が急激にせり上がった。穂刈はすぐ車ごと地下に向かって降りていることに気付いた。車は、三人を乗せたまま、エレベーターで地下へと向かっているのである。いったいこの大掛かりな設備は何なのだろう。穂刈末人は不安に取り付かれた。
やがてエレベーターは停止した。伊達針之介に促されドアを開けて外に出る。上を見上げるとガレージの明かりがはるか上方に小さく見えている。二十メートル以上はありそうだ。
「ここはいったい?」
穂刈が言いかけた時、車の正面のドアが音もなく開いた。
ドアの向うには赤いカーペットを敷き詰めた、ホテルのロビーを思わせる広い部屋だった。何組かの応接用テーブルをはさんでソファー、肘掛け椅子がセットされている。穂刈末人は伊達針之介と幸円仁に両脇を抱えられるように、そのひとつに誘導された。
穂刈が座り心地のよいソファに腰を下ろすと、ほどなくエレベーターの反対側にあるドアが開いて、黒のスーツに蝶ネクタイ着けた、がっしりした体躯の老人が現れた。これがフェリーの中で伊達針之介がいっていたヤクザの親分なのか。穂刈はおどおどしながら老人を見つめた。
老人は穂刈の向かいに腰を下ろすと、にこやかに笑った。
「驚いたべ。無理矢理でよ。悪かったなぁ。お前達もご苦労だったなぁ」
老人は穂刈ばかりではなく、部下達にもねぎらいの言葉をかけた。
「ポカリスエット君。いやミスターXと呼んだほうがいいべか」
「ほかりすえひと。普通に呼んでください」
穂刈は少しむっとした。
「あれま。何年住んでおっても日本語は難しいなぁ。さて、今日はあんたも疲れたべぇ。話しは明日にするかい。部屋は用意してあっからな、ゆっくりと休んでくれや」
「あなたは?」
「おお。忘れてたっけや。モウロクしたもんだなあ」
老人は胸ポケットから名刺入れを出し、一枚抜いて穂刈に差し出した。
株式会社サニーファーム代表取締役・捨文王と印刷されている。
「ステーブン・キング・・」
「普通そんな読み方しないっしょ。シャ・ブンオウ。普通に読んだらいいんでないかい」
老人は少し気に障ったらしかった。
2
『転生沼森林公園グランドフィナーレ』が開催される芝生広場にノビー・オーダが到着したのは、式典の開始一時間前だった。もともと転生者役に選出されていた若者は警視局捜査本部長が話をつけ、ノビー・オーダが交代することになった。国営劇団に籍を置くその青年自身この役どころにも式典で行われる寸劇の内容にも反対で、劇団の命令でしぶしぶ了承しただけだった。国営劇団はヨミランドが運営する組織だから、表向きは政治局の意思には逆らえない。ただ俳優たちの中には自由化運動で大きな力を発揮しているものも多く、反体制側という色彩を帯びていることも事実だった。だから歴史劇の上演ということ以外は劇団にも何も知らされてはいないのである。
このままでは政治局とひと悶着ありそうなところまで行っていた。どれだけ秘密裡にことを進めたところで、ことが迫るにつれだその雰囲気は伝わるものである。生前転生のテストを兼ねているいうことは隠しおおせたとしても、何かしらの企みがあることは気取られるに違いない。事実国営劇団では協力をを拒み始めた。だからタクラ・マクラが交代要員としてノビー・オーダの話を持ちかけると、タカマ・ガハラ治安部長は渡りに船とばかりに飛びついたのである。もちろん土産にしたVTSの魅力も大きかった。もしこの調整ができなかったならば、ノビーはまだ誰も来ぬうちに公園に入り、森の中にでも隠れて出番まで待たなければならないところだった。しかも時間になったらその若者を出し抜いて、先に転生の行動に移るという実力行使をしなくてはならなかっただろう。
アキュが上手く立ち回ってくれたことで、ノビーもこうしてパーティーの関係者として自由に行動できるようになったたのである。
会場に到着してどうしたらよいのかうろうろしているとアキュの方から急ぎ足でやってきた。アキュは駐車場の奥に見えるひと張りのテントを指差してまずイベントの受付に顔を出しその指示に従うようにいった。
「警視局警備隊の一員として俺も単独行動は許されない。あとはおまえさんが向こうから戻ったときに酒でも飲みながら話を聞くよ」
アキュは警備マニュアルのコピーをノビーに手渡した。
「局で小隊長クラスに配られたマニュアルのコピーだ。参考にしてくれ」
アキュは子供のような笑顔を見せると「また会おう」とノビー・オーダに敬礼し、背中を向けた。
ノビーはアキュから示されたテントへ向かった。
テントには長机が二卓横に並べておかれていた。十名ほどの職員がひっきりなしに訪れるゲストやイベント関係者の対応に追われていた。受付の前に立ってイベント関係者様と書かれた芳名帳に名前を記入していると、イベント担当らしい女性職員が声をかけた。
「ノビー・オーダ様ですね。ご説明いたしますのでこちらへどうぞ」とノビーを誘導した。
「こちらです、ノビーさん」
女性職員は先に立って芝生広場を下りほとんど波も見せない転生沼の水面が再び森の中に消えようとする境界点に到着した。
「生前転生のデモンストレーションは予定では午後11時50分から開始となります。それまではフリータイムですからお集まりの方々と同様にパーティーをお楽しみいただいて結構です。でも式次第で多少の前後は考えられますので、まあ30分ほど余裕を見てこの場所へ戻ってください。後は放送で誘導いたしますのでそれに従ってください」
はきはきとした口調でいって、係員は持っていた紙袋をノビーに手渡した。
「これは?」
「衣裳です。ここに戻られるときにはこの衣裳を着用して来てください。更衣室は先ほどのテントの後ろに準備しています」
ノビー・オーダは女性係員が立ち去ったあとミッチ・アキュとの打ち合わせを頭の中で整理してみた。アキュはここ数日巧妙に立ち回り、後々問題になりそうな事項があればそうならぬように事前に根回しをした。その結果計画は見事なまでに贅肉が落とされ単純なものに形を変えている。しかしノビーは何か気にかかるものがあった。あまりに何事も無さ過ぎるのだ。自分がまいた種といわれればそれまでだが、タカマ・ガハラやタクラ・マクラそしてジー・ワンといういわばこの世界のトップクラスによる陰謀ではないか。そのはずなのに自分やアキュのような下っ端がこうも簡単に入り込めるのが不思議だった。だが今ここまで来てしまった以上もう後戻りはできない。運を天に任せるほか無いのだとノビー・オーダは自分に言い聞かせた。
3
捨文王はソファに腰掛けた穂刈に背を向けた格好で、ガラス張りのベランダの前に立ち、作り物の風景を見た。
「穂刈君。あんたなぁ、しちゃならねえことばやっちまったなぁ」
穂刈に背を向けたままの捨文王の声はなぜか悲しげだった。
「あんたがあの素晴らしい競馬必勝法ばどうやってあみ出したのか、それは知らん。確かにわしも競馬ファンだからよ、羨ましい限りだよ。だけどな、それはあんたの頭ん中だけに留めておけば良かったんでないかい。何で後先考えねぇで、あったらことやっちまったのよ?」
捨文王は穂刈の方を振り向いて悲しそうな目を向けた。
「どういうことです?」
「わからねえってか?」
捨文王は穂刈を睨みつけた。穂刈は何のことか解からず、首をかしげた。捨文王は自分の気持ちが昂ぶってくるのを抑えようと、デスクの上に置いた煙草入れから葉巻を取り出し火を点けた。
「なら、教えてやるべ」
話のきっかけを探して、捨文王は一瞬目を閉じて沈黙したが、やがて決心したように穂刈を見据えた。
「競馬っちゅうギャンブルが何でうまくいってるか、お前これまで考えたことなんかねえべ」穂刈が答えを探している様子を見てじれったくなった捨文王は一方的に続けた。
「一発儲けてやりてえっていう人間の気持ちば煽るからだとか、皆色々な理屈ばつけて説明しようとする。中には血統に裏付けられたロマンだなんてたわけたことをぬかす輩もいる。そったらことじゃねえ」捨文王は一度言葉を区切ると、少し自嘲的に笑った。「なあに、答えは簡単よ。主催者が儲かるからだべや。そうでねえか?穂刈君」
穂刈末人に、反論の余地はなかった。
「主催者は絶対に損をしないようになってるんだわ。あるケースを除いてはな。ところがお前はやっちまった。お前の軽はずみな暴挙が主催者を見事に叩き潰しかけたんだぞ」
「私はただいつも負けてばかりいる競馬ファンを」
捨文王は言いかけた穂刈を手で制した。
「お前の言いてぇことはちゃんと解かってるって。だけど、お前もミスターXの予言が何を引き起こしたのか、その目ではっきり見たべや。どんどん、どんどん、配当が下がってよ……。あとひと月ふた月続いたら、この国の競馬は跡形もなくなってたんでないべかナァ」
「しかし……」
「しかしもヘッタクレもあるか!」
捨文王はデスクをどんと叩いた。
「主催者は国家よ。競馬は国家が胴元を努める博打だべや。国は懐さ入ったテラ銭の中から職員の給料ば払い、賞金ば出し、浮いた金を国の予算に組み込んでるのよ。しかしレースが全部元金戻しになったらいったいどうなると思う?馬券を買って当たった外れたと騒いでいる奴等はまだ良いって。損しねえからな。だが国はどうなる。従業員に払う給料まで自腹を切らなけりゃならんべや。こったらことが続くようならよ主催などできる訳ねえべさ」
捨文王はたたみこむように言うと、葉巻を灰皿の中にねじ込んだ。温厚なはずの瞳が一瞬怒りに燃えた。しかし穂刈は捨文王の瞳に宿った怒りの炎が、すぐに悲しみの色に替わるのを見て取った。そして同時に、捨文王が言わんとすることを穂刈末人ははっきりと理解した。捨文王が言うように、穂刈は心の底から愛していた競馬というギャンブルを、自ら崩壊させかけたのである。
「ようやく解かったみてえだな」
捨文王は、悲しい目をしたまま穂刈を見つめた。
「わしのこれからの仕事は、ありがてぇことにお前が考え直してくれて、ほとんどなくなった。ただ、問題はお前のことよ」
「貴方のおっしゃることはよく解かります。私も競馬ファンの一人ですから。少し見境いなくはしゃぎすぎました。ホームページも予想活動も、すべて止めますよ」
穂刈はきっぱりと答えた。だが、捨文王は首を横に振った。
「遅いのよ。今となってはもう」
「え?」
「本当に気の毒だけどな、あんたには消えてもらうしかねえ。国のためにな」
穏やかな言い回しではあったが、穂刈にとってそれは冷酷な宣告のはずだった。だが穂刈は捨文王の言うことがなかなか理解できないのか、首をかしげた。
「なんで?」
穂刈末人は明るい声で尋ねた。
捨文王はずっこけた。
「なんで、って。あんた」
かえって捨文王の方がしどろもどろになった。大きく深呼吸して、かろうじて体勢を立て直した。
「あの素晴らしい競馬必勝法をあみ出したお前を、他のファンが放っておく筈がないっしょ。たとえお前が予想の発表を止めたって、お前が買う馬券を覗き込む人間が必ずいるはずだべ。他人に発表せんだけで、お前自身は的中を重ねるわけだから、お前に取り入ってさえいれば確実に儲かることになるべ。そしてお前の予想はどこからか漏洩してたちまち日本中に広がっていく。そうなれば元の木阿弥だべや」
「ああ、それなら大丈夫だぁ」
穂刈は一瞬捨文王が何を言っているのか判断が付かないというような、ぽかんとした表情を見せたが、すぐに愉快そうに笑いながら言い放った。捨文王は虚を突かれたように二三歩あとずさり、穂刈を見詰めた。死刑の宣告を受けてもなお、あっけらかんとしているのはどういうわけなのだ。まさか、本当のばか?
「何が大丈夫だってよ。大丈夫でねえべさ」
「大丈夫に決まってるじゃないですか。だってそれって私が的中し続けることが絶対条件になっているわけでしょ。そんなことできっこないじゃないですか」
「だけど今までお前は確かに当たり続けたっしょ」
「じれったいからもう正直にいっちゃいますとね」
穂刈末人は悪戯小僧のような目つきで、混乱しておろおろし始めた捨文王を見詰め、声を潜めた。
「あの完全予想はですね、実を言えば私の立てたものじゃあないんですよ」
「なんだって?」
それはまさしく爆弾発言であった。穂刈のひとことに捨文王は絶句した。
「私はその人から勝ち馬情報を教えてもらっているだけ。いわば受け売りなんですよ。私とその人との間には、ある約束がありましてね。その約束ってのは、このことを誰かに口外した途端、その人は私の傍から消えてしまう。つまり金輪際教えてくれなくなる、とまあ簡単に言えばそんな約束なんですよ」
「たまげた。なんだか『雪女』みてえな話しだなぁ。だけど今はもうけっこう親交が深くなってるんでないの?」
「まあね。だからその人と別れるのは辛いですけど、競馬が無くなるよりはましですからね」
「そんなこといったってよ、今度はその男の存在自体が問題になってくるだけだべや。お前がなんぼ隠したって、そったらことすぐばれるんだわぁ。そうすれば……」
「無理、無理。絶対無理」
穂刈は自信たっぷりな笑顔を見せながら、手を顔の前で横に振った。
「なに云ってんのよお前は。いったい誰なのよ、その男は?」
捨文王は混乱を静めようと、ことさら穏やかに尋ねたつもりだったが、苛立ちは隠しきれなかった。
「ノビー・オーダという、変な名前の奴ですよ」
「ほら、もうその男の名前と、外国人だっていうことが漏洩しただろう。こんなもんなのよ。人間てのは」
捨文王は優位に立ったように感じた。
「外国人じゃあないですよ。きっと」
しかし穂刈はなおも悪びれずに笑顔を見せている。
「そうか。ならばペンネームかハンドルネームだな」
「残念。外人でも、ペンネームやハンドルネームでもありません。ブ、ブー」
穂刈の返事に捨文王は逆上した。
大股で穂刈の前に立ちはだかり、親指と人差し指で穂刈の鼻をつまみ、力任せにひねり上げた。
「ああそうかい。そうかい。それだば、いったい何者なんだべなぁ。その何とかっていう変てこりんな名前の奴はヨォ」
「いでででで」
かろうじて捨文王の鼻ネジ攻撃から逃れた穂刈は、真っ赤になった鼻を押さえて屈みこんだ。
「言いますよ。乱暴はしないでください」
穂刈末人は涙を浮かべた。
「おお。早くしゃべれや。このぉ」
捨文王は肩で大きく息をしながら穂刈に命令した。
穂刈はやれやれと言う顔つきで大きなため息をひとつついて、囁くように云った。
「あの世にいる、競馬の神様ですよ」
この言葉を聞いて、捨文王の神経系統は完全に切れた。
怒りに震えながら執務デスクに戻ると、捨文王はインターホンのスィッチを入れた。
「伊達針之介はいるかぁ?」
「伊達です。なにか?」
即座にスピーカーを通して、針之介の声が返ってきた。
「お客様がな、コーン畑の向こう側にある天正沼で水遊びしてえとよ。案内してやったらいいんでないかい」
捨文王がインターホンを切るのとほぼ同時にドアが開いて、黒スーツの胸に真紅のバラを飾った伊達針之介が姿を現した。
針之介は無言で頷き、穂刈に向き直って「来い」と指示した。
「どうも、お邪魔しましたぁ」
穂刈は捨文王にぺコリと一度頭を下げ、針之介に従った。
部屋の片隅に備え付けられたエレベーターにふたりは乗り込んだ。それを目で追っていた捨文王はエレベーターのドアが閉まる瞬間、穂刈がもう一度自分に向かってにっこりと微笑むのを目にした。捨文王は首をかしげて、大きくため息をついた。
「あの男の頭の構造は、いったいどうなっているのだろう?」
これまでの決して短いとはいえない捨文王の人生においても、まだめぐり合ったことのないタイプらしい。よほどの善人か、それとも総てを悟っているのか? はたまた……いや、もうよそう。捨文王は自分に言い聞かせ、エレベーターのドアが閉まるのを見送った。
エレベーターが地上階に停まり、乗り込んだ側と反対側のドアが開く。
距離にして10メートルほど直線状に続く廊下の先に明るい光が差し込む小窓のついたドアが見えた。外への出口らしい。伊達針之介は先に立って歩き始めた。逃げたいなら好きにしろと言っているのか、逃げようとしたらこの場で撃ち殺すぞと脅しているのか読めなかったので、穂刈末人は言われるまま針之介に従った。
小窓のついた扉は思ったとおり外への出口だった。何の変哲もない普通の自動ドアで、ふたりが近づくと左右に開いた。伊達針之介は先に立って外に出た。穂刈も針之介に続いた。扉を背にして見渡すと終わりがないのではと思われるほど広大な牧草地が広がっている。どうやら穂刈たちが入った農家の裏手にあたるところと思われた。
「ちょっと待っていてくれ」
針之介はそういって右手に置かれた納屋のような小屋の観音開きの扉を開け中に入っていった。時をおかず中からエンジン音が聞こえ、針之介がゴルフ場でよく見かける乗用カートのような乗り物に乗って戻ってきた。
「さあ、乗れ」
針之介は叫ぶように言って手招きをした。
いまさら抵抗しても始まらないと覚悟を決め穂刈はカートに乗りこんだ。
針之介はカートをスタートさせた。
カートは池に沿って造られたアスファルトの簡易舗装路をゆっくりと進んだ。池が途切れたところで農園内に入り今度はスイートコーンの畑に沿った散策路に乗り入れる。数ヶ月前まで勢いよく成長したスイートコーンが甘い実を豊かに実らせて見事な緑の隊列を見せていたのだが、さすがに師走の北海道に緑は無縁だった。
乗用カートはひたすら走り続け、コーン畑の終わりにある雑木林がどんどん迫ってきた。伊達針之介は雑木林の前にカートを置けるくらいの小さなスペースを見つけ乗用カートを止めた。
「心配するな。殺したりしない」
針之介は思いがけないことを口にした。
「俺は基本的にはミスターX、お前の考えは正義だと思っている。競馬の予想を生業としているなら的中させるのが仕事だ。あんたはそういった。あんたはただやり方を間違えただけだと俺は思う。だからこれからもファンのために働いてほしいんだ」
そういって針之介穏やかな目で穂刈を見つめた。
穂刈は胸を打たれ、目頭が熱くなるのを覚えた。
伊達針之介は雑木林に踏み込んだ。後を追うと林の中には人ひとりが歩けるほどの細い道があった。二人は2~3分で雑木林を抜けた。視界が開けると、日高の山塊を背景にして直径30メートルほどのほぼ円形に近い姿を見せる小さな沼が横たわっていた。
「これが天生沼だよ。観光地じゃないから手摺も何もない。水際に近付くな」
前に出ようとする穂刈にひと言注意して、どろりと澱んだ水面を見せる小さな沼を伊達針之介は指差した。
「こんなに小さな沼なのにな。底なし沼と恐れられているんだ。足をとられたら最期どんどん沈んで誰も引き上げることはできない。死体も上がったためしがない。噂だけれどな」
「何とも恐ろしい沼ですね」
「ああ。心霊スポット級だ」
針之介はわけのわからない比較をした。
ふたりはしばらくの間沼を見つめて物思いに耽っているように押し黙った。ふたりの胸の中に同じ気持ちが膨らんでいた。寂しさだった。
もともとは拉致した側と拉致された側、つまり敵と味方の関係だった。ここまでの旅がふたりの間に友情のようなものを育ませいたのだろうか。
「ところでお前バイクの免許は持っているのか?」
沈黙を破ったのは針之介だった。
穂刈は頷いてジャケットの内ポケットからパス入れを取り出して針之介に見せた。
針之介は一瞥しただけで「沼の向こうに掘っ立て小屋があるだろう」
穂刈は伊達針之介が指差す方向に目をやった。確かに粗末な木造の小屋が沼から立ち昇る靄の中に揺らめいている。
「あの小屋の裏手にバイクが置いてある。それを使え」針之介は言ってキーを穂刈に放った。
「ありがとう。それじゃもう行くよ」
穂刈末人は針之介に背を向けて歩き出した。
「当分の間は目立つことはするなよ。お前を狙う輩はいくらでもいるってことを忘れるな。縁があったら、また会おうぜ」
背中に聞こえる伊達針之介の声に穂刈は歩きながら片手を上げて見せた。
4
ミッチ・アキュは部下十名を率いて中央麻酔株式会社の正面口から社内に入った。前回来たときは暗視スコープまで準備しての潜入だった。胡散臭い会社という先入観念が、今実際に見る社のイメージに悪影響をもたらしていたのかもしれない。正面から見た会社の内部は広々としていて清潔感を感じさせた。
アキュは事務所のドアをノックした。
「はい」と返事が聞こえドアが開いた。
女性職員が「こちらへどうぞ」と愛想の良い笑顔を見せてアキュを社長室へ案内した。
部下に正面ロビーで待機するよう命じアキュは社長室のドアを開けて中へ入った。セッシュ・ナオカは仕事の手を止めて「どうもご苦労様です」とアキュに握手を求めた。
「先日はいろいろとありがとうございました。別段問題になるようなこともないと思いますが、念の為一通り巡回させます。一時間ばかりで終了するものと考えております。」
アキュは社長の目を見てきびきびと告げた。
「よろしくお願いいたします。職員にも警視局の指示に従うよう徹底しておりますので……」
「感謝します。ところでナオカ社長。ひとつお願いしたいのですが」ミッチ・アキュは少し声をひそめていった。
「なんなりと」
「はい。私達が見回りを終えて戻るまでこれを預かっていただきたいのですが。よろしいでしょうか」
アキュは黒のアタッシュケースを差し出した。
「お安い御用です。それでは確かに」と受け取って自分のロッカーに入れて鍵をかけた。
アキュはロビーへ戻り待機させていた部下達に巡回手順を確認させ先に立ってエレベーターへと向かった。
エレベーターが下降するにつれて隊員達の口から感嘆の声が流れ出た。幻想の海とでも呼ぶべき美しい霊魂の流れを始めて目の当たりにした心の声だった。だが隊員達のざわめきはすぐに消えた。地下五階にエレベーターが停止しドアが開くと、予め決められていた二人一組の最初のパーティが、アキュに敬礼してエレベーターを降りた。その後も4~5階に一度エレベーターは停止と下降を繰り返しそのたびに一パーティがエレベーターを降り任務に向かった。やがて最深部の階層でエレベーターが止まったときエレベーターから降りたのは、アキュと若い部下の二名だけになっていた。
転生装置のコントロールルームは、エレベーターから壁際にぐるりと取付けられ金属製の通路を進み、ちょうどエレベーターの向かい側に位置していた。ミッチ・アキュは腕時計に目を移した。やがて午後11時になろうとしている。
ミッチ。アキュがドアの前に立つとその上部に組み込まれたランプが小さく点滅した。おそらく来訪者の確認をしているのだろう。ドアはすぐに音も無く開いた。
コントロールルームに入ると、2メートル四方はあろうかと思われる大きなパネルの前で十数名の白衣姿の職員が作業をしていた。
職員の中からもっとも年長に見える男がアキュを出迎えた。白衣の胸に着けたネームプレートにチーフ・オペレーターと役職が明記されている。
「ご苦労様ですこちらには別段異常はありません」職員は直立不動の体制をとった。
「わかりました。何よりです」アキュは笑顔を見せると、胸ポケットから政治局長印の押された封筒を取り出した。
「局のほうから直接あなたに渡すよう指示されました」
アキュは声を潜めるようにして、封筒ごと職員に手渡した。
コントロールルームの担当職員は直立不動のままアキュから封書を受け取って、ペーパーナイフを使って開封した。中から取り出した書類を一瞥した職員はますます緊張したようだった。
「了解いたしました。変更があるかもしれぬことは、上司より聞いておりました。この通り変更いたします。再変更はできませんので、数値の確認をお願いしたいのですが」
職員は封筒から取り出した書類に一度目を通したあと、そう云ってアキュに確認を頼んだ。
書類には『生前転生に係る転生地および時間の変更・命令書』と題されている。ウェスノビー・オーダから渡された転生地点及び到着現地時間の数値を記入した紙片を、上sとバッグから取り出し、アキュは注意深く目を通した。ほんの一文字異なっているだけでもノビーの身は危険にさらされるわけだから、アキュと言えども緊張した。どうやら上司タクラ・マクラ本部長を介して、正確に伝達されたようだった。
「確認しました」
アキュは変更命令書を職員に戻した。
職員は頷いてパネルのほうへ戻りデータの再入力を開始した。程なく設定の変更を終えた職員は入力した変更情報が間違っていないか幾度も念入りに命令書と付け合せ、他の作業セクションから任意に二名の主任級職員を呼ぶと、同じ確認を繰り返させた。
セッティングは完了した。転送システムにさえ問題がなければ、ノビー・オーダは間違いなくミスターⅩの世界へと時空を渡るだろう。あとはノビーが上手くやれるかどうかにかかっている。だが今その事を心配しても始まらないのだ。
ノビーのことだ。いずれ仕事をやり遂げて、何事もなかったように戻ってくるだろう。それまでに自分にはもう少ししておかなければならないことがある。アキュはそんな気持に取り付かれていた。だが事件の全貌が十分に窺えるところまで来ているにも拘らず、それがなんであるのか気がつかない。そんなもどかしく苛立たしい気持に取り囲まれているようだった。
ミッチ・アキュは調査を終えて会社ロビーに部下全員が戻ったことを確認し、調査班の解散を宣言した。社長室のドアを開くとナオカ社長はアキュに笑顔を見せた。調査の結果何も異常なしと報告し、預けたVTSの入ったアタッシュケースを受け取るとアキュは社長室を出た。腕時計を覗くと今まさに日付が変わろうとする時間だった。
「間に合わないか」
アキュは急ぎ足で正面口のドアを開けた。冷たい雪交じりの風がミッチ・アキュの頬を撫でて過った。
式典の会場へ急ごうと一歩足を踏み出したとき、突然まばゆいほどの明かりをアキュは浴びた。照明灯が点されたのである。やがて目が慣れるにつれて光の中にアキュは自分を待ち受ける3名の影を認識した。アキュはシルエットのひとりにアタッシュケースをためらい無く渡すと式典会場へと走った。
本部テントのところまで来ると会場が見渡せた。場内は闇が支配し、ただ沼の左側から斜めにせり出したブリッジと多分ブリッジの先端から出発したと思われるノビー・オーダを乗せた一艘の小船がスポットライトを浴びて幻想のように浮かんで見えた。やがて小船は沼のほぼ中央まで進むと停止した。ノビー・オーダは薄紫色の法衣姿でゆっくりと立ち上がり観衆に向かって大きく両手を広げて見せた。
転生沼の周辺から霧が湧き出してやがてノビーを乗せた小船を取り巻いた。
やがて風が吹き霧が晴れたとき、そこには箱舟もノビー・オーダの姿もなかった。
式典に出席したゲスト達から割れんばかりの拍手が沸き起こり転生沼森林公園はその長い歴史にピリオドを打ったのである。
エピローグ
町はずれ。その先には荒涼とした岩砂漠が、あたかも生きとし生けるもの総てに足を踏み入れることを拒絶するようにどこまでも広がっている。天幕は人家もまばらになったそんな町はずれに張られていた。何日も泊まり込みで天体観測ができるよう、暮らしに支障がない程度の機能と広さを持ち合わせた大きな天幕である。なめした毛皮でできた分厚い生地は焼け付く昼間の暑さからも、凍てつく夜の寒さからも、完璧に内部を守っていた。
天幕に寝泊まりして天体観測を続けているのは、遠く東の国から来た三人の学者達であった。人間の生き方を左右する星占学はすべての学問の中で最も重要とされており、星占研究の第一人者である博士達は民衆からも尊敬されていた。まだまだ人間の知恵や科学によって解明することのできる範囲が限られていた時代のことである。星占学によって示される道が民衆の吉凶を大きく左右した。それはやがて哲学というものに形を変えて行くのだが、博士達も、もちろん民衆も、そんなことは知らない。ただ各々の生活の中で難関にぶつかった時、人々はみな神を頼り敬った。そして星占学者は神の声を民衆に伝えるメッセンジャーという位置づけであった。
そんなある日、日が沈んだので天幕から外に出てきた三人の天文学者たちは神の声を聞いた。
「ああテス、ああテス。これがマイクか? ただいまマイクのテス。スイッチは ?もう入ってるぞ。え。はい、キュー。そこにいる三人の者たちよ」
メルヒオール、ガスパール、そしてバルタザールの博士達は思わず天を仰いだ。満天の星が明るく天幕を照らしている。
「私は神である。今、おまえ達に告げる」
声は続いた。
三人の博士達は大地にひれ伏した。
「今お前たちがいる所から西の方角、ベツレヘムの街に住むマリアが、今夜赤子を産み落とす。この赤ん坊こそ神の王となるべき、おまえ達の救世主である。すぐに祝いの品々を持ち、馳せ参ぜよ」
「あのぉ、神様……?」
大地に額をくっつけたままバルタザールがおずおずと口を開いた。
「何じゃね、バルタザール」
神の口調はこよなく優しかった。
「祝いの品々とは?」
「黄金と没薬、そして乳香だよ。バルタザール」
「神様。マリア様ってのは?」
メルヒオールが尋ねた。
「行けば判る。ヨセフという大工のカミサンだよ、メルヒオール」
「判りました、これからすぐ準備を整え、出発します」
ガスパールが恭しく答えゆっくりと頭を上げた。
「おまえたちを、星が導くであろう」
声はそこで途切れ静寂が再び周囲に満ち溢れた。
「ねえねえ、いまの、聞いた?」
バルタザールは二人を見つめた。
メルヒオールとガスパールは黙って頷いた。
「しかし最初の、ああテス。ああテス。はい、キューって言うのはなんだろう」
「判らんが、あまり関係なさそうだよね」
ガスパールが意見を言った。
なんだかよく判らないので、ほかの二人も無視することにした。
「とにかく神様から言われたんだから、急ごうじゃないか。今天幕に神から言われた品々は揃っているかな? 無ければ一度街に戻って揃えなければなるまい」
ガスパールが尋ねると、調度品担当のメルヒオールが即座にすべて揃っていると答えた。
「あれを見ろ」
メルヒオールが空を指差した。
星空の中に一際大きく眩いばかりに輝く巨大な星が現れ地上を照らし出している。三人の博士たちはそれが神の言う「彼らを導く星」であることをすぐに悟った。
「ところで、ものは相談だが」
バルタザールがふと思い付いたように云った。
「ただ馳せ参じるだけでは芸がなかろうというもの。どうじゃろうか、諸君。三人の内最初に救世主の御前に歩み出て、そのご尊顔をはじめて目にする光栄を得ることができるのは誰か。これを競おうじゃないか」
「おお。それは楽しそうだ」
「それは面白い。もちろん金を賭けてな」
相談はすぐまとまった。
貢ぎ物の荷造りや馬具の整備など、三人の博士達が出発の準備を整えるまでおよそ三時間の時が流れた。どこから聞きつけたのか、天幕から程近い町に住む住民たちが押掛け、真夜中というのに天幕周辺は準備が整う頃には押すな押すなの賑わいを呈していた。
天幕は仮設の馬券売り場と化し、白い顎鬚を貯えた長老が胴元を努めている。
三人の博士達は、それぞれの愛馬をスタート地点に導くと、貢ぎ物と馬具を再点検した。
愛馬達はいずれ劣らぬ黒光りするアラブ種の名馬だった。
博士達が背にまたがって、積み荷の重さに更に彼らの体重が加わってもびくともしない。
博士達はお互い顔を見合わせると、大きく頷きあった。
「目指すはあの星の下。われらの救世主。王の中の王に栄えあれ」
バルタザールが誇らしげに叫ぶのを合図に、博士達は栄光に向かって高く掲げた鞭を愛馬に大きく振りおろした。
(了)
ノビーとアキュとミスターX