友達なんかいらない
「友達なんか、いりません」
同僚の花子さんがある日、そう言った。
彼女は二十代後半で、特に人づきあいが悪そうでもないタイプ。私はまあそんな人がいても別におかしくはないと思い、耳を傾けていた。
「年賀状なんかもらうと、なんで送ってくるわけ?って、イラっときちゃうんですよね。大学で同じクラスだった子とか、いまだに食事に誘ってきたりするんですけど、もう面倒だから声かけないでって感じで、本当にウザいです」
それを聞いてみんな「だったらもうはっきり、連絡無用!とかって返信すれば?」などと、半ば冗談あつかいで大笑いしていた。こういった無駄話であれば、彼女はむしろ嬉々としてつきあうところがある。しかしその事と「友達なんかいらない」は矛盾しない。我々はただの「同僚」なのだから。
花子さんの話題でひとしきり盛り上がっていたら、別の部署にいる月子さんが「私もです。友達はいりません」とカミングアウトした。彼女は花子さんより少し年上の三十代だ。
「どこに行くのも一人です。大学の同級生なんかもう全員、顔、忘れてますよね」
月子さんのこの言葉を聞いても、私はただ「なるほど」としか思わなかった。ふだんの行いと言動から、彼女が「自分意外はみんな馬鹿」と考えていることはよく判っていたからだ。彼女は有能かつ聡明な人で、どうして我が社のような零細企業に在籍しているのか、そちらの方が謎だった。
ともあれ、この二人の発言により私は、なぜ「友達」を持つのか、ということを少し考えてみた。小さい頃から何の疑問もなく「友達」と遊びたわむれてきたせいか、いるのが当たり前のような感覚があって、「いらない」という発想に至らなかった気がする。
しかし何がどうなっても私は、友達を「いらない」とは断言できない。それは単純に、ちょっとした会話をするだけで何だか楽しい、といった程度の事ではあるけれど、あるいは錯覚かもしれない「わかり合える」という感覚がもたらす喜びは、何物にも代えがたいからだ。人によってはその相手が友達だけではなく、家族だったり恋人だったりするのだろうし、その数も人により当然違ってくるはずだ。
そして友達よりも少し親密さの薄い存在が「知人」である。私は「知人」とわかり合う事を期待しない。もちろん話の流れで「そうそう、わかるよ」という展開になることはままあるが、それは単なる偶然というか、軌道の違う小惑星がたまたま近くを通った、程度の事だと考えるし、その方が気楽でよい。
そしてあらためて、友達なんかいらないというのは、ある意味とても合理的な考えかもしれないと思う。いちいち相手に期待していたら、その通りでなかった時に受けるダメージも大きくなるから、最初から友達というものは作らずにおくのだ。
さて、花子さんは小さい頃から「友達なんていらない」を貫いてきたから、中学や高校でもそのように過ごしてきたという。だからといっていじめに遭うわけでもなく、平穏な学校生活だったらしいが、中学時代の担任は本気で心配したらしい。
「花子さん、お友達がいないのは、やっぱり困ると思うのよ」
先生はそう言って、何とか彼女に友達を作らせようと働きかけたが、花子さんにしてみればいい迷惑なので「別に私、困ってません」と受け流した。すると先生は尚も「でもね、例えば風邪をひいてお休みしたりすると、授業がどこまで進んだか判らなかったりして、困るわよ」と食い下がる。花子さんは「私、風邪ひきませんから」と突っぱねた。
「実際に、皆勤賞だったんですよね」と屈託のない花子さんだが、さすがに先生の負けというか、大きなお世話である。
このように友人を必要としない花子さんと月子さんだが、二人はとても仲が良かった。仕事中でも花子さんは何かにつけ持ち場を離れ、月子さんの向かいの席に座って延々と長話に興じ、声を上げて笑っていた。
傍から見るとその姿は「友達」そのものだったけれど、本人たちはお互いの事をどう思っていたのだろう。そんな無粋な質問はすべきではないが、実際のところ不思議ではあった。
その後、花子さんは後輩とうまくいかずに退職し、月子さんは上司の命令に反論したのがきっかけで、仕事を干されて去った。
退職してひと月ほどたった頃、花子さんが昼休みの職場にふらりと現れたことがある。彼女は声もかけずに事務所の中まで入ってくると、以前よくそうしていたように、仲の良かった営業マンのパソコンを開いて、ネットを見ようとした。
余りにも自然なふるまいだったので、彼女と同年代の社員は遠巻きに眺めるだけ。仕方ないので私は彼女に、その行いが非常識である旨を注意し、社員に個人的な用があるなら社外で会うようにと告げた。
気分を害した様子もなく、彼女は「はぁい」と答えて去っていった。その後ろ姿を見るうち、退職して寂しかったのだろうかという気がしてきた。いやしかし、そんなはずはない。彼女は友達のいらない人なのだ。
友達なんかいらない