率直に言って、わたしは困っていた。まだ抱えている仕事が何件も残っていたし、男爵令嬢の肖像などはほとんど描き上がってもう仕上げの段階だ。それを急に窓辺の隙間から押し掛けてきたかと思えば、寝耳のすぐそばで騒ぎ立てて、何かと思って飛び起きたが運の尽き、もうかれこれ半刻も居座られている。

「お話はわかりました、ですからもう少しお時間の方を……」

「いいや、てんでわかっとらん、わたしにはその時間がないのだとさっきから申しておろうに」

さっきからずっとこの調子だ。悪い話ではないだけに、よけい扱いに困る。外はもう真夜中、月も夢見るような時間だ。わたしだって疲れているし、さっさと寝たいのだが、先方に帰る様子はまったくない。それどころかますます強硬になってくる態度から考えて、いずれにせよわたしが折れることになるのは目に見えていた。だが、それにしても。

「3ヶ月以内に、というのは急すぎます。せめて半年頂ければ、なんとか……」

「ならん。それはならんぞ。どうしても3ヶ月が期限だ。すぐに取りかかってくれ。早ければ早いほど、その分の支払いははずむとこれだけ言っておるだろう」

眠たい頭に怒鳴り声がびゅうびゅうと響く。涙で目がかすむし、欠伸を押し殺すのも限界になってきた。そろそろ潮時かも知れない。

「ええ、では、わかりました。3ヶ月以内にお渡しすることをここにお約束します」

「はっは、そうか。引き受けてくれるか。いやあ、よかった。ではさっそく明日から頼むぞ。なんなら今から描き始めてくれてもいいくらいだ」

「明けて朝から取りかかろうと思います。あの、そろそろ……」

「ああ、ずいぶんと長居してしまったな。すまん。では、これにて失敬する」

そう言い残すと、偏西風は入ってきた時と同じく、少し開いた窓の隙間から勢いよく飛び出していった。やれやれと頭を掻いて灯りを吹き消そうとすると、ランプ照らすテーブルの上になにやら紙切れが見える。手に取ってみるとそれは、見たこともないような桁の0が並んだ、一枚の小切手だった。これが前金だとすると……そう考えると、さっきまであれほどの睡魔に絡み付かれていたにも関わらず、ベッドに入ってからしばらく寝付けなかった。その晩は、深い砂金の河で溺れる夢を見た。

翌朝、目覚めるとわたしはまず引き出しの小切手を確認し、もういちど1から桁を数え直した。間違いない。これだけ積まれたら、引き受けることはもちろんのこと、中途半端な仕事はできない。そう思い至って、わたしの胸を一抹の不安が捉えた。昨夜は眠気と金額に絆されて冷静を欠いていたが、これは果たしてわたしに相応しい仕事なのだろうか。もちろん、引き受けたからには最大限の情熱を注ぐつもりだが、それにしても、絶えて風の肖像など描いたことがない。わたしはそこそこ名の知れた肖像画家だ。だから昨夜、偏西風から最初に依頼の内容を聞いたとき、わたしは知り合いの風景画家を紹介すると言った。しかし、偏西風はあくまでも肖像画にこだわった。

「わたしはわたしの吹く風景を描いて欲しいわけではないのだ。他でもない、このわたしそのものを、偏西風の肖像を描いて欲しくて、だからこうして君を訪ねている」

その時はそう聞いてなんとなく得心したつもりになっていたが、今になって考えれば考えるほど、風の肖像がいかなるものか、またはいかなるものであるべきか、まったく印象を掴めていない自分に愕然とする。こんなことで、果たしてこの報酬にじゅうぶん見合う結果を出せるのだろうか。どうにも先行きが思いやられて、わたしはもう一度ベッドに戻り、頭までふとんを被って、誰にともなく寝たふりをした。

そうしているうちにどうやら本当に眠ってしまったようで、窓から差し込む陽の光はすっかり昼下がりの形を成して床板を四角く照らしていた。そうだ、この間にも時は老いてゆく。考えがまとまらないといって、いつまでも先延ばしにしてはいられない。わたしは意を決して、画布を張り、絵筆をとった。既にして時間は限られている。とにかく何か描きはじめなければ。そう思ったわたしはひとまず外へとくり出した。

こうして、風の肖像を求めるわたしの旅が始まった。そもそも偏西風といえば、季節を問わず吹きすさぶ風の王。その品位と権威はモンスーンや貿易風はもちろん、台風と比べてもはるかに際立っていて、他に並び立つものはひとつとない。その偏西風閣下が人間の王侯貴族に倣って、風の王たる己が肖像を描かせようと思い立ったのがつい先日のこと。それから画家の目星をつけるやいなや、大慌てで屋敷にまで飛び込んで来たのには当然相応の理由がある。というのは、これから約3ヶ月後、偏西風は近年類を見ない大蛇行を予定しているのだ。ともあれ予定は未定、一旦蛇行が始まってしまえば、風同士の調停やら異常気象の始末やらで、肖像画のことなどすっかり頭から消え去ってしまうだろう。しかしこの妙案、忘却するにはあまりにも惜しい。という次第で、今回わたしに仕事の依頼が舞い込んだというわけだ。当者がそう信じるほどの妙案とも思えないが、こちらもその事情は了解した上で受諾したのだから、きちんと期限内に納める責任はある。

それからの日々は矢のように過ぎ去り、わたしは世界中のあらゆる地点から、上空をつぶさに観察した。たった3ヶ月で恒常風の有り様をすべて目にするなど常識外で、当初は不可能と思われたが、幸い、ちょうど季節の変わり目だったので、赤道を何度も跨ぐことになったとはいえ、充分に四季と呼べるだけ、風の資料を集めることが出来た。わたしは自らの記憶や経験を折々の資料(行く先々でのメモやデッサン)と結びつけて、2ヶ月強の間になんとか4枚の絵を完成させた。まず、花々がそよ風に揺れる春の野を描き、青空に入道雲とカモメを浮かべる真夏の海風を描き、実り豊かに穂をわたる黄金の秋風を描き、そして、すべてを白く凍りつかせる真冬の吹雪を描いた。丁寧にそれぞれの絵をを仕上げると、わたしは偏西風を自分のアトリエに呼び出した。

「永らくお待たせいたしました。我ながらいい出来です。きっと閣下もお気に召されると思います。それでは、ごらんください」

春夏秋冬の順で壁に掛けた絵画から、わたしは勢い良くヴェールを剥ぎ取った。

「いかがでしょう、こちらが『風の肖像』四部作になります。単なる風景画とは一線を画する、偏西風の肖像画であります」

偏西風、しばしこれを眺めてひとこと。

「いかん、これはいかん、これではいかん」

「と、申されますと……」

「なるほどこれは、一風変わった絵画であるには違いない。しかし、これは季節の肖像とでもいうべきものであって、わたしの肖像ではない。わたしが依頼したのは、わたしの、偏西風の肖像画なのだよ」

そう言われると、ぐうの音も出なかった。告白すれば、わたしとて決してこの連作の出来に満足しているわけではなかったのだ。これでは季節の肖像ではないかという偏西風の言は正鵠を射ており、当のわたしですらなるほどと膝を打ったのだから、もはや言い訳の余地などどこにもない。これではゆめゆめ、注文通りに仕事をしたとは言えまい。

「大変申し訳ございません。ご満足頂けないようでしたら、これ以上お代は頂きません。頂戴していた前金は今度の旅費でほとんど使い果たしてしまいましたので、お返しすることが出来ない件も、加えてお詫びいたします」

そうして神妙に項垂れたわたしの周りを、風が撫でるように取り巻いた。

「これこれ、まだひと月近く時間が残っているではないか。先に渡した金はきっちり3ヶ月分あったんだ。つまり、まだ君にこの仕事を降りる権利はないはずだぞ。へこたれず、最後まで全力を尽くしたまえ」

この激励に感化されて、わたしはそれからのひと月をほとんど一睡もせず、ただ画布だけと向き合って過ごした。あの時、優しい風がそっとわたしの身体を包み込んで励ました、あの時、ひとつの映像がくっきりとした色彩と輪郭で、腹の奥から湧き上がって来て、そのまま脳裡に貼り付いたのだ。わたしはそれを画布の上へ、忠実に描きおこそうと死力を尽くした。最中ずっと、自分はこの絵を描くために生まれてきたのだ、そうに違いないと信じて疑わないほど、わたしは肖像の製作に没頭した。そしてようやく絵が描きあがった時、わたしは着の身着のまま床に倒れ、そのまま何日間も眠り続けた。夢すら見ずに、眠り続けた。

そんなわたしを見つけて呼び起こしたのは、通りがかりに様子を見に来た依頼主、偏西風だった。彼はわたしを抱いたまま、アトリエの中を高らかに吹き抜けてこう言った。

「やあ君、よくやってくれた。すばらしい肖像画だ。これこそわたしが望んだ、わたしの肖像画、まさしく『風の肖像』だ!」

「それは……お喜び頂けて……なによりです……」

数日の惰性を引きずって寝惚け眼のわたしをベッドに寝かしつけると、偏西風はまだ額装もしていない絵画を小脇に持って、気圧の谷へと引き返していった。大蛇行がはじまったのは、じつにその翌日のことだ。

後で確認した報酬は、目の玉が飛び出て蒸発しそうなほどの大金で、わたしはそれっきり、画家を廃業した。ひとまず一生分の衣食住に困らないだけの金を手にしたら、途端に画業がどうでもよくなってしまったのだ。わたしにとっての藝術は、しょせん単なる生業に過ぎなかったというわけだ。しかし、それだけが理由というわけでもない。わたしは画家としての自分の才能を、『風の肖像』という一枚に使い果たした。そして、そのことを心からよろこび、心から満足している。たしかに、画家としてのわたしの人生は短かった。しかしそれは、本当に美しく、幸福で、素晴らしいものだった。有終の美を飾るのにこの上なく相応しい、一枚の傑作を、わたしはこの手で仕上げたのだから。

そこは青みがかった灰色の空の下に広がる、真っ白な沙漠。壊れた黒いコウモリ傘を振り回しながら駆けてゆく、少年のような、少女のような、瘦せた子供の後ろ姿。真っ黒な長い髪の毛が風を受けてはふわりと広がり、流れてたなびく。空ではカルシウムの尾を引いて、幾筋も星が流れる。砂山が崩れる。細くやわらかい髪が揺れる。それでも子供は、決して振り返らない。ただ走ってゆく。何も目指さず、裸足のまま走ってゆく。
わたしが最後に描いたのは、たしか、そんな絵だった。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-18

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