エレウテリア

小さな庭に、トケイソウが咲いた。白い花弁には放射状の紫が閃光のように差して、嘘っぽくて、造花みたいで、綺麗だった。
中心から3つに分裂した雄蕊は機械時計の長針、短針、秒針にそれぞれ対応して、僕の視線に呼応しながら左巻きに回転を始める。
時間が巻き戻されてゆく。
呼吸が逆転し、待宵の空が西から東へ流れだす。
ティーカップから立ち上る蒸気は重たく下降して、琥珀色の水滴に戻り、読みさしの本に挟んだ押し花の栞は、物語の冒頭に向かって繰り返し頁を遡ってゆく。
僕の意識は記憶の庭でおもちゃのメリーゴーランドを覗き込んでいるのだけれど、その床面にはさっき見た、庭のトケイソウにそっくりな、白と紫の幾何学模様が描かれている。やがて,馬や、熊や、ユニコーンや、ペガサスの口から、過去がふわふわと、煙のように溢れ出して、あっという間に、庭を、家を、靄の中に包み込んだ。

 というのは、飽くまでも仮の話だ。
たとえばそんなことがあったとして、とにかく僕は、忘れていたことを思い出した。
君のことだ。そして、君と過ごした日々のことも。
ここに君が居た季節、あの忘却と解放の日々を、きみと過ごしたあの時間をいま、僕はエレウテリアと呼んでみたい。

面影のエレウテリア。
小惑星エレウテリアがどんなふうに生じたのか、いまも僕には分からない。
気がついた時にはもう、僕と君はエレウテリアの中にいた。
僕が、あるいは君が、もしかしたら他の誰かかもしれないけれど、ともあれ、漂う数百万の星屑のなかから、僕たちふたりが選んだのが何故エレウテリアだったのか、それも僕には分からない。

 そう、いつだって、僕は何も分からないままで、そして君は、どんな時でも謎めいていた。光を含んだ靄のように君を包むガス質の謎がとても綺麗で、だから僕は、エレウテリアが好きだった。小惑星のあまりに薄弱な引力に戸惑って、自分の力学に振り回されて、地表にしがみつくばかりの僕は、重力からの解放を高らかに謳う君の、その浮遊感にずっと憧れていた。

 時折気まぐれに、君が僕の手を取ってそのまま地表を蹴ると、僕たちふたりはふわりと宇宙にまで舞い上がって、僕はそこで、やっと君を抱きしめることが出来た。エレウテリアの低い上空で触れた君の髪からは、孤独な惑星の匂いがした。握った細い君の手は、柔らかくて冷たかった。指先で撫でた君の唇も、透き通った氷みたいに冷えきっていて、僕にはその凍てつくような緊迫がとても綺麗に思えた。

 だけど、昂って火照った僕の熱が、君の身体をいたずらに温めてしまうのが怖くて……繊細でなめらかな君は簡単に溶融とけてしまう気がして、臆病な抱擁はいつも一瞬だった。怖じ気付いた僕が絡めた腕をそっと放すと、君はひとり、意地悪な顔で、ゆっくりとエレウテリアに降り戻ってゆく。僕はそのまましばらく宇宙に残って、漂って、冷たい君に奪われた体温に君の輪郭を重ねては、その残像にそっと口付けする。しばらくして、待ちくたびれた君が僕を再び迎えに来るまで、僕は君の冷たい幻と少しく戯れる。

 エレウテリアでは、そんな幼気いたいけな往復が幾度となく繰り返されて、その度にいつも君は何かを言いかけて、やめる。僕は何も知らないくせに、ぜんぶ知ったような顔で曖昧に頷く。そんな不可解で冷たいエレウテリアを、僕は愛していた。

 そう。そうだ、僕はエレウテリアを愛していた。君の足指の爪を真っ赤に塗ることも、水を注いだ君のグラスに切った檸檬レモンを搾ることも、君の脱いだブラウスをたたむことも、君の読んでいた本をあとから読んでみることも、君の隣に座ることも、君の後ろを歩くことも、君の横や、君の上や、君の下で眠ることも、僕は好きだった。君の書く詩が好きだったし、小さくて癖のある君の字が好きだった。詩作に悩む君の深刻な表情が、出涸でがらした紅茶葉の残滓ざんしを棄てる不機嫌な仕草が、堪らなく好きだった。

 僕がそんな気持ちを伝えようとすると、いつも君は決まって、あの優しくて冷たい笑顔で、その言葉を遮った。続くはずだった言葉たちは行き場を失って、僕の生温なまぬるくて嘘くさい笑顔に変わった。それでもよかった。僕は君の、その凛として凍こごえる輝きに、ずっと見蕩みとれていたかった。睡ねむる君は、まるで氷点下の天使みたいだった。

 そんな君の綺麗な顔に、少しく体温の気配が滲むのは、泣いているときだけだった。例えばあの夏、ふたりで大切に育てていたトケイソウが病んで、腐るように枯れてゆくのを見て、君はずっと泣いていた。熱っぽい声で絶え絶えに息を吐き出しながら、君は泣いていた。冷たい頬を伝う涙を手の甲で拭うと、血液のように温かかった。死にゆく花の前で静かに泣く君はただ、もうどうにもならない……、とだけ漏らして、それだけだった。

 僕は温かな君が大嫌いだったから、もう二度と君に泣いて欲しくなかった。花が枯れると君が泣くなら、決して枯れない花を咲かせればいい。もし時が花を枯らすなら、花の時を止めればいい。僕はその時、むかし君に教わった、ギリシア詞華の一編を思い出していた。

 世にある花と、また
  美ウルわしき容貌カタチとに許されし
   盛サカりの時は同じにて
 はかなきものと悟るべし。

 かの「時クロノス」の妬ネタみゆえ
  ともに無残に色褪せて
   ふたつながらに朽ち果てる。
                 (Straton XII-234)

 その夜、君が睡っている間、青い月の光を頼りに僕は、枯れずに残っていた数輪の花を蔦から剪って、その根元を麻紐で括くくった。それからひとり、朝を待って、君が起きてくるまでに、陽当りのいい天窓の真下で逆さ吊りにした。寝ぼけた君はそれを見て、欠伸あくびみたいに微笑んだ。

 夏の間そうしておくと、やがて色褪せたトケイソウの針は、すっかり乾いて停止した。こうして花の時は止まり、かわりに、決して枯れない花が咲いた。僕は嫉妬に狂ったクロノスを安らかに眠らせて、時計めいた乾燥花かんそうかの中に封印したんだ。吊った紐をほどいて束ねたトケイソウを、罅割ひびわれた花瓶に移す君の笑顔は、残酷なほど優しい冷たさに溢れていた。どうやら時の神クロノスは、君の温かな涙までをも道連れにしたらしく、あの日以来、僕は二度と君の泣き顔を見ていない。

 それからの君はずっと、凍えるほど美しいままだった。冬を目指して生命いのちごと枯れてゆく君は、どうしようもなく麗しかった。疫病えやみ切って、滾たぎる灼熱に焼かれるような苦痛と絶望の最中さなかでも、君は最期まで冷たく謎めいたまま、ほんとうに綺麗だった。そんな君が嬉しくて、哀しくて、僕はぜんぶ知っているのに、何も知らないような顔で笑っていた。君の横で、泣きながら笑っていた。

 そしていつしか僕と繋いだ手はほどけて、いつものように気まぐれに、軽やかにエレウテリアを跳んだ君は、小惑星の重力圏を遙かに超えて、氷の尾を引く彗星すいせいとなり、木星ユピテルの彼方へと流れていってしまった。当然、解放者である君を欠いて、僕たちのエレウテリアは消滅した。僕はかつての宇宙にひとり残されて、出涸らした抱擁の幻を、冷たい君の残滓を弄もてあそぶ。さあ、もうずっとここで待っているんだ。はやく迎えに来て欲しい。分かっている。僕の愛したエレウテリアはもう無い。それは分かっているんだ。だけど、もういちど君を抱きたい。

 そんな話さ。飽くまでも仮の話だ。それでも夏の庭に、トケイソウはまた咲いてしまった。また時は動き出す。東から西へ空が流れ、冷めた紅茶は変色し、栞も佳境で居住まいを正して、ゾーアトロープは夏の庭を廻って回転を取り戻す。クロノスの封印は解かれて、つまり、美しいままのこの花もいつか、少しずつ乾いてゆくことになる。いつまでもこうして眺めているさ。そうすればきっとそのまま、僕もここで乾いてゆくだろう。瀆神とくしんの咎とがを受けて、乾燥の花を見守るひとりの木乃伊ミイラになるのだろう。

 たったいま僕は、あの日から君の部屋に飾ったままの、決して枯れない花をそのまま、そっと記憶の庭に埋めた。叶うなら、いつまでもこうして眺めていたい。だけど、さようなら。僕の情熱<passion>と、君の受難<Passion>の花。エレウテリア、ゆるせ。

エレウテリア

エレウテリア

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-18

Copyrighted
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