春,花屋の火災

 昨夜,近所で,花屋が燃えたのだそうです。全焼だったのだそうです。寝枕に読んだ新聞に、そう書いてありました。生花店,全焼……それは小さな、ほんの小さな記事でした。しかしそれを読んだ僕の頭の中は,鮮やかなイメージでいっぱいになりました.色とりどりの花びらが,炎にまかれながら,夜空に舞い上がり,星に触れそうな距離で燃え尽きる.紫色の夜空に焦げ付いた生々しい色素が描く,原色の点描.そんな,少女の落書きみたいにカラフルな夜が,頭の中に広がったのです.そしてそんなイメージに抱かれたまま,僕は土曜の夜を眠ったのです.

 あくる日は,少し風のある、春の日曜日でした。目覚めてすぐ、窓辺に差し込む透明な日差しを見て、今日がいいお天気だと知った僕は、カラフルな朝食を簡単にたべ終えると、新しい靴をはいて近所の西洋庭園にまでやってきました。埃っぽい春には珍しい、雲の向こうまで清潔に晴れた日ですから、なんの目的もない、シンプルな散歩をしようと思ったのです。つい先週までさくら花を散らしていた風はいま、すっかり落ち着いて、色づき始めた新緑をすみれ色の空に吹き上げています。庭園の中央にある、蓮の葉を浮かべた泉の下では、鯉でしょう、オレンジの魚影が水面を切って、楕円の波紋をひろげます。薄い雲はオーロラのように形を変え、青い鳥が白い小鳥を追いかけ、世紀末に建てられたという洋館のまわりには、枢密卿の帽子のように赤い薔薇が、にこやかに、誇らしげに咲いています。

 僕は藤棚の下のベンチに座って、ゆっくりとブルー・ノオトを吸いながら、そんな昼下がりのやわらかな光景を、ぼんやりと眺めていたのです。そうして僕がワイセンベルクの厳密なピアニズムや、自動人形を使った計算機についてあれこれと考えているあいだ、野鴨の親子が泉を横切っただけで、あとは淡々と日陰がその形を変えてゆく、じつに穏やかな時間が流れたのでした。こんなにも無為に充実した一日が、こんなにも早く過ぎる。雪はとけるし、さくらもすぐに散るわけだ。きっと、空蝉の夏も近い。

 ふと、口の中に苦味を感じて、パイプの火がすっかり消えていることに気がつきました。すこし、長いこと同じ姿勢で居すぎたようです。両手を組んで伸びをすると、背骨がぱちぱちと鳴りました。ベンチに置いていた持ち物をスモーキングジャケットのポケットにしまって、立ち上がったとき、泉の向こうの草影で、何かが動くのを僕は見ました。なんだろう、水鳥だろうか、猫にしては少し大きいな。では、人……。しばらく見ていると、幽かな植物のざわめきの中からすっとあらわれたのは、真っ白な、ひとりの女性でした。おおきな白い帽子が目元を隠して、この遠くからは顔がよく見えません。そのとき僕にわかったことは、彼女の唇が鮮やかな枢密卿の赤であることと、彼女の首すじが昼の新月のように白いということだけでした。あの人はあそこで、なにをしているのだろう。あそこには、なにがあるのだろう。すこし考えてから、僕はもういちどポケットからパイプを取り出して、乾燥した葉を詰めました。火をつけて、バニラの煙を吸いながら、僕はこのすこぶる絵画的な映像の顛末を見届けることにしました。

 しばらく観察しているうちに、その所作の規則的なことから、どうやら彼女がなにか探し物をしているらしいことが分かりました。彼女は泉のある一画をいったりきたりしながら、時折かがみこんで、細い腕でしきりに野草をかき分けているようです。結局そのまま、こんどの火種が消えるまでずっと、優雅とも緩慢ともつかない独特の叮嚀さで、葉陰の彼女はそういった動きを繰り返したのでした。しかし、こうして見ていても、その単調さに飽きることがないばかりか、妙に好奇心をくすぐられているのを、僕は不思議に感じていました。彼女がなにをしているのか、あるいは何がしたいのか、知りたい。けれどこのまま、ただ黙って観察しているだけでは、きっと埒があかないだろう。なら、僕から動くべきだ。しかし、動いて、どうする。これだけ注意深く時間をかけても分からないことが、ただ距離をつめるだけで、果たして諒解されるだろうか。いや、そんなはずがない。……だとしたら。

「なにか、お探し物ですか?」

 あれからもうすこしだけ逡巡して、僕はついに、もっとも直接な方法で謎を解き明かすことに決めたのでした。彼女の姿を見失わぬよう、泉のまわりを大きく迂回して近くまで回りこみ、僕はその白い背中に声を掛けたのです。はっとしたように振り返った彼女からは、青い水仙の香りがしました。

「あ、ええ、すこし……そうですね、探し物を」

 そう云った彼女は、すぐに僕から視線を外して、困ったような顔で微笑みます。ふっと細くなった爽やかなその目元がとても綺麗で、僕はかねて用意しておいた次に云うべき言葉を、いちど飲み込んでしまいました。その間に彼女の視線はふたたび草むらへと戻っています。

「でしたら、僕もお手伝いします。何をお探しで?」

「それは……大切なものです、ええ、すごく大切なもの」

「と、おっしゃいますと」

 そう訊くと、なぜか彼女は言葉に詰まります。どうしてだろう。人には言えないようなものを、失くしたのだろうか。それともこれは、僕からの申し出に対する、彼女なりの拒絶なのだろうか。いくつかの可能性を考えて、これからどうすべきか考えていた時、ふと思いついたような口調で、彼女が言いました。

「手紙です」

「手紙」

「そう、大切なお手紙を、このあたりで落としてしまって。それでいま、こうして探しているんです」

「なるほど。そうとわかれば、僕もお手伝いしますよ。一緒に探します。ご迷惑でなければ」

「ありがとうございます。うれしいわ」

 それから僕と彼女はふたり並んで、春の水辺をうろうろと、手紙を探してさまよいました。それにしても、しかし、手紙を落とすというのは、いったいどういうことだろう。手紙を持ち歩くということも、また、それをこんな場所に落としてしまうということも、いずれの状況もうまく像を結びませんでしたが、僕はそれらについて詳しく尋ねようとは思いませんでした。彼女の眼差しは真剣で、手紙を探すその姿には、やるせないほどの切実さがこもっていたからです。春の庭園をただようのどかな陽気の中にあって、僕たちを包み込む雰囲気はどこか厳粛で、神聖なものにも感じられました。そしてこの、ふたりの沈黙が、自然なものなのか、それとも不自然なのか、僕にはいまひとつ分からないのでした。

「ありませんねえ」

 沈黙を破った彼女のその声は、素朴でいて、しかもじつに音楽的でした。

「ありませんね」

 そう応える僕の声は、ただ素朴なだけで、つまりまったく平凡なものでした。

「どうしましょう、こまりました。すごく大切なものですのに……」

「それは、いつころ落とされたのでしょう」

「さあ、はっきりとは。でも、ずいぶん前だった気がしますわ」

「といいますと?」

「今朝だったか、昨日の朝だったか、もしかしてまだ冬だったかもしれません。とにかく、すごく気持ちのいい朝でしたの。よく晴れていて。それでわたし、浮かれてしまって、つい……」

「はあ」

 いつ落としたとも知れぬ手紙。それを真剣に探す彼女と、名も知らぬ彼女を手伝う僕。なんて抽象的な、あいまいな関係。頭の中に透明な正三角形が浮かんで、すぐに消えました。そして、指先を頬に添えて「どうしましょう」と繰り返す彼女の表情には、なぜか、嬉しそうな微笑がにじんでいて、僕はまたいっそう不可思議な気分になるのでした。

 結局その日、手紙は見つかりませんでした。夕暮れがせまって、探し物をするには世界があまりにも群青になってしまったので、捜索は途中で切り上げになったのです。それからしばらくの間、僕たちはまた無言のまま、暮れなずむ空を映す泉の水面越しに、それとなくお互いの気配を確かめていました。餌を求めて寄ってきた鯉が数匹、藍色の水を飲み込んだり吐き出したりしながら、ふたりの様子を伺っています。

「どうしましょうか」

 そう云った声が、ふたつ、夕日に重なりました。僕と彼女はその時やっと、互いの顔を見合わせて笑いました。そしてその笑顔は、僕をほんのすこし勇敢にしたのです。

「これから、お茶などいかがでしょう?」

水面に小さな石を投げるように、そう云ってみました。

「ええ、ご一緒しますわ」

そう云うとこの女性は、帽子を取って、またふっと笑います。あらわな額と、後ろに結いあげた髪。ずっと気がついていたけれど、やはり彼女は、とても綺麗な人なのでした。



 庭園内の薔薇の洋館は、夜の深くまで喫茶店として開いていて、ですから僕たちは自然、入店したその《喫茶・カーディナル》で、様々なことを話し合ったのです。

「じつを言うと、ああして声を掛けるすこし前から、遠くであなたのことを見ていたのです」

「あら、そうでしたの」

「ええ、なんというかとても……」

 こんなふうに僕が言葉に詰まるたび、彼女はゆっくりとコーヒーに口をつけます。すると真紅の口紅が、陶器の白い肌にうつって、カップのふちに赤い三日月をデザインするのです。

「とても?」

「とても、絵になっていたので、遠くから鑑賞していたのです。睡蓮の泉と、白でまとめたあなたの服装と、あなたのその佇まいとが調和して、まるで印象派の絵画のようでした」

「あら、うれしい。そんなふうにおっしゃってくださるのなら、ひとあし先に日傘でも差してくればよかったかしら」

「その帽子もとてもお似合いですよ、ルノワールの描くマドモワゼルですね」

 僕がそう云うと彼女は片方の肘を椅子の背もたれに置いて、「こんな感じでしょう?」と澄ました顔で云います。僕が半ば本気で頷くと、彼女は手の甲で口元を押さえて、ふふふと静かに笑いました。

「あなたも、パイプがよくお似合いで。最初、驚いたわ。だって、パイプを吸っている男性なんて、ふるい映画でしか見たことがなかったんだもの」

「ああ、あれはつい最近呑みはじめたのです。少々めんどうですが、味わいは格別で、なかなか良いものですよ」

 僕は照れくさいのをはぐらかすために、一口コーヒーを飲みました。するとどういうわけか、ガテマラの苦味はどこにもなく、それはまるでココアのように甘く感じられました。

 それから、いつの間にか、僕と彼女の間では、ひとつ話題が転換するごとに一口ずつコーヒーを口にしてゆくのが、暗黙の規則になっていました。少なくとも僕は、その規則に自覚的でした。彼女がどうだったのかは、今になってもわかりません。しかし確かに、堀口大學の詩釈について、プロコフィエフの交響曲について、またはプレタポルテの表現哲学について、といった具合に、互いの話す内容が切り替わる時に限って、そのスイッチとして一杯のコーヒーが作用していたことは、観察的な事実なのです。

「ところで、じつはわたしも、詩を書きますの。ローデンバックがお好みのあなたにこんなことを云うのは、ちょっと恥ずかしいのだけれど」

「そうでしたか、驚きです」

「あら、意外? そんなふうには見えないかしら?」

「いえ、そういうわけでなく。ただ、ランバンを冠った美しい女性詩人など、ふるい小説の中でしかお目にかかれないものとばかり」

「あら、そんな婦人のあらわれる作品があるの?」

「あるかもしれません。しかし今のは、僕の空想です。比喩です。しかしもし、あるとしたら、やはり南仏蘭西の海沿いにでしょう」

「そうですね、きっとそう。だけど、残念、わたしは詩を書くけれど、詩人ではないの」

「ほう、では、お医者さまですか?」

「どうかしら。どうしてそう思われるの?」

「これも単なる空想です。ただ、手がとても綺麗だったので……」

 そう云って僕は、すっかり冷めたコーヒーを飲み干しました。そして案の定、双方のコーヒーカップが空になった時、僕たちは目を見合わせると席を立ち、そのまま会計を済ませてしまったのです。ケーキも、アイスクリームも注文しませんでした。だって僕たちのテーブルは、結露したレモン水のグラスと、空のコーヒカップとで、ちょうど完結していたのですから。

 《喫茶・カーディナル》を出ると、世界は夜でした。星があり、月があり、風もある、とても夜らしい夜でした。石畳のプロムナードを並んで歩き、庭園の門を抜けたところで、お互いの帰り道が反対方向であることがわかりました。そういえば、僕は彼女の名前も、年齢も、住むところも知らないままでした。また、彼女は彼女で、僕のプロフィールを何も知らないのです。しかし、僕はそれを残念だとも、惜しいとも思っていませんでした。むしろ、互いを知らないという事実、何も知らず、何も知らせずに済んだという事実に、不思議な安心感を抱いてすらいました。

「今日は一日、どうもありがとう。楽しかったです」

「ええ、わたしこそ。とても幸せな時間でした」

「では、おやすみなさい」

 僕は彼女に背を向けて、家路を一歩踏み出しました。

「あ、待って」

 突然そう呼び止められて、振り返ろうとする僕に、彼女は「そのまま聞いて」と云います。仕方なく、僕は彼女の声を背中で受け止めたまま、街灯の下に立ち尽くしました。

「なんでしょう?」

「わたし、あなたに謝らなくてはいけないことが、ひとつあるんです」

「はい」

「庭園の泉のほとりで、わたし、手紙を落としたと言いました。あれは、うそです。でたらめなんです。ほんとうは、手紙なんてないの」

「そうですか、それは……」

「聞いて。でも、確かにあの場所で、わたしは大切なものを落としてしまったんです。それが、自分でもわからないの。いつかあそこで失ったものが何なのか、わたしはそれを知らないのです……」

「そうでしたか」

 僕は驚きませんでした。ただ、いつもよりゆっくり、パイプに煙草を詰めました。

「ごめんなさい。振り回してしまって、ほんとうに」

「いいんです、ただ」

「ただ?」

「ひとつ教えてください。どうして失くし物は、手紙でなくてはいけなかったのでしょう?」

 彼女がその理由を言葉にするまで、すこし間がありました。僕は背中を向けたまま、摩天楼が突き刺さる星空を見上げて、その答えを待ちました。

「……はっきりとは、わかりません。だけどあの時……声の方に振り向いて、逆光にあなたを見た時、思ったの。この人はきっと、とても字の綺麗な人だろうって」

 そんなふうに言われるのは初めてでした。僕は自分の筆跡をあれこれ頭に思い浮かべて、少なくともそれがきたない字ではなかったことに、すこしほっとしました。

「だから、手紙だったのですか」

「そう。手紙を探していると云ったら、なぜかしら、あなたの懐からそれが出てくるような気がして。『お探しものというのは、これのことでしょう』と云って、あなたの手から素敵なお手紙が差し出されるような、そんな気がしたのです」

 あいにくその日の僕の上着には、喫煙具と、袋をこぼれた煙草の屑と、一冊の詩集より他、何も入っていませんでした。もちろん手紙など、どこにも。しかしもし、僕が持ち歩くとしたら、それは誰に宛てられた、どんな手紙だろう。そんな空想をしてみましたが、何も浮かんではきませんでした。

「それは、どうも、期待はずれで申し訳ない」

「いいえ、期待した以上でしたわ」

 そう云う彼女が微笑んでいるのが、顔を見なくても、僕には分かりました。僕が返事をしなかったので、結局、それが別れの挨拶になりました。振り返ることはしませんでした。背中の方へ遠ざかってゆく、軽やかでリズミカルな踵の音を聞きながら、僕はマッチを擦ります。なんとも贅沢な時間でした。それは一瞬で、そして二度と再現されないからこそ美しい、一夜限りの花屋の火災に似た贅沢なのでした。夜風が運ぶイングリッシュ・ブルーベルの、水色の残り香を、僕は煙と一緒に吸い込みました。高貴で清潔な、外科医の香り。その時ふと、《喫茶・カーディナル》で彼女と取り交わしたフレーズの一節が、脳裡に思い出されました。

「あなたも、パイプがよくお似合いで」

 そういえば。どうして彼女は、僕がパイプを吸うのを知っていたのだろう。泉で彼女に声を掛けてから今まで、僕は一度もパイプを吸っていない。取り出してもいない。だから喫茶店に入った時点で、あの人がパイプの件を知っているはずがない。それなのに、似合っているだなんて。まるで見ていたかのような口ぶりだった。……見ていた?彼女が僕を?…… だとしたら、あの時。僕が藤棚の下、パイプをふかしながら、彼女の様子を見ていた、あの時。彼女もまた、僕の姿を。モネの泉の草の陰から。

 はっとして振り向くと、遠く、街灯に照らされた真っ白なシルエットが、次第にちいさくなってゆくのが見えます。確かめたい。何をかはわからないけれど、何かを。そのためには、やはり、直接訊くしかありません。走れば、まだ追いつくだろうか。しかしこんな時に限って、新しい靴を履いているのです。

 そして僕はいま、彼女の方へと駆け出したくなるこの巨大な衝動に抗うべきか、身を委ねるべきか、ほんのすこしだけ考えて、グレエの靴紐を結び直しているところなのです。

春,花屋の火災

春,花屋の火災

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-18

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