流転

アメリカ人新入社員スティーブ・ルイスの世話係を押し付けられた高木義夫。彼と接しているうちに「既視感」ならぬ「既聴感」を覚えてくる。どこかで彼の声を聴いたことがある気がしてならない。そのうち高木は自分の前世についての夢をたびたび見る。その情景や登場人物は夢にしてはあまりにも鮮明である。ある日その話をスティーブにしたところ、二人の見ている夢が完全に一致していることに二人は驚く。

20世紀中ごろパキスタンの村落、ここで繰り広げられた恐ろしい風習、光景、そして二人が同時に体験したこととは…

米国ヴァージニア大学スティーブンソン博士やタッカー博士らによって前世についての科学的な研究がなされ、実例は2,500件を越える。宗教で唱えられていた前世や輪廻転生が量子力学で説明されつつある。前世を同時に体験した日米のサラリーマンの不思議な物語である。

第一話 不思議な出会い

第一話 不思議な出会い

2016年8月中旬のある日、朝からうだるような暑さの中を高木義夫は都心にある会社に出勤するために、両親と住む自宅の最寄り駅へと向かった。何しろ暑い、朝からグングンと気温は上がりまだ8時前だというのに気温は30℃近い。
会社でのポジションは総務部総務課員ということになっているが、小さい貿易会社なので経理やIT関係の仕事もどしどし押し付けられる。要するに何でも屋である。しかしまだ28歳の彼、貿易の実務はともかくとしてその若さとバイタリティは一番のウリである。どんな雑用でもサッサと手際よく片付けるフットワークの良さと、明るい性格から会社で重宝がられている。「おい、ヨッチャン、たびたび悪いけどこれ片付けてくれねえか」と課長の三浦から書類を廻されれば居酒屋風に「はい、喜んで!」とニコニコ受け答えする高木への上役からの好感度は抜群である。もちろん仕事も要領よくこなす。こんな若手社員は父親のような上役たちのアフターファイブの良いシモベともなる。「今週もヨッチャンのおかげで役所申請も万事滞りなく終了したよ。今夜はオレが飲ませてやるからついてこいよ」と言われれば、いまどきの若い社員ならイヤな顔をしそうだが、ヨッチャンは違う。「はい、待っていました、喜んでお供します。でも課長は麗子さんを忘れていますね。彼女も裏方でずいぶん助けてくれましたよ」と言うと三浦も慌てて「あ、そうだったな。じゃあレイちゃんも一緒にどう?あ、こういうのってセクハラだっけ」と麗子に向かって一応声をかける。三浦の本音は仕事話を肴に男同士サシで飲みたかった。それに今夜は折り入って高木にも相談したいこともあったのだが、高木にそうまぜっかえされれば麗子も誘わざるを得ない。しかし麗子はそこらの空気は読める方で「すみません、せっかくですけど今夜は先約があるので」とやんわりと断ってきた。三浦はホッとした様子だが、高木はガッカリ。ホンネは課長とではなく麗子と飲みたかったから。実はこの高木と麗子は社内恋愛中で今夜も映画の約束をしていたところだったのだ。麗子も突然のキャンセルは面白くないけれど、終業後まで会社の話はしたくないなあと思う。そもそもヨッチャンだって最初から課長の誘い(命令?)を断ってくれれば今夜は私と一緒に観たかった映画に行けたのに、と思うと恨みたくもなる。でもそこがまたヨッチャンの良さだから仕方ない、またの機会に償ってもらうわ、と軽く高木の方へ片手で笑って手を振った。席に戻ると、高木からラインで「すみませーん!」のスタンプが飛び込んで来たので麗子も思わず吹き出した。相変わらずの早業だわ、ヨッチャンたら。

三浦と高木は残務を片付けてから7時に会社を出た。二人の行きつけの焼鳥屋はサラリーマンの聖地と言われる新橋のガード下の屋台。天井で電車がガタンゴトンと走る音をBGMにして、壁の扇風機だけ回る店での生ビールは格別である。サラリーマンという種族は高級料亭や三ツ星レストランよりも、こういったお世辞にもキレイとは言えない店が大好きなのである(もちろん接待でもない限り高級料亭の敷居をまたぐ機会もないのだが)。モウモウと炭火焼きの煙が立ち上り、ハンで押したような白いワイシャツ姿の男たちが炉端をぐるりと囲み、これまたハンで押したような上役や同僚たちのウワサ話に花が咲く。また、こういう店で往々にして会社の重要事項が内々に決定されるのである。しらふでは面と向かっては相談できないことや、人事異動はこういう小汚い屋台焼鳥屋で大まかなところは決められてしまう現実がある。屋台とはそういう魔堂でもあるのだ。男社会の土俵、女の入れる隙間などないという封建的で排他的な雰囲気も男たちの連帯感を高める。したがって部下の若い女性など連れてくるなどもってのほか、周りのお客をシラケさせるだけである(女性だってこんな小汚い場所など来たくはないのだが)。

屋台の角席を陣取り、生ビールを二人で1杯ずつ飲み干したところで三浦が低い声で話し始めた。
「ヨッチャン、話すのが遅くなってしまって申し訳ないがね。実は来月の9月からウチの課にアメリカ人の若い兄ちゃんが来ることになったんだ。最初は契約社員として1年更新でね」。ここまで話して2杯目の生ビールを注文した。
「ウチでも、もっと英語に堪能なヤツがいないとダメなことはずっと前からわかっていた。だからヨッチャンみたいに若くて英語もできる社員が会社にとっちゃあ大きな戦力なわけよ。でもまだまだ英語力が弱いんだよな。そこで派遣会社を通して適当な人材を人事部経由で探していたんだけど、今回その人物がウチの面接をパスしたってわけ。あ、オレも勿論面接には出たけど、若くてハキハキしたカンジのイケメンだわ。サンフランシスコの貿易会社で5年ほど勤務した後、京都大学で仏教を学んでいたというちょっと変わりダネなんだけどな。面接の印象では日本語のほうはあまり期待できないな。「ネハン」とか「ハッショウドウ」とかオレたちも知らない言葉はよく知っているけれど、まあ日常会話がやっとできる程度だろうか。」
高木は三浦の話を聞きながら何となくイヤな予感がしてきた。課長はきっとそのイケメン兄ちゃんの世話係を高木に押し付けようとしているに違いない。もうオレは手一杯、これ以上の世話係までやらされたらパンクするよ。
高木の浮かない横顔を見ながら三浦は拝み倒すように言った。
「オレとヨッチャンの仲だ、回りくどい言い方はやめるよ。彼の名前はスティーブ・ルイス。年齢はヨッチャンと同じ28歳で独身だわ。とりあえず最初の半年はウチの総務で会社に慣れてもらおうと思っている。その後はウチの最前線の事業統括部に進んでもらおうと専務は言っているんだ。それでな、ヨッチャン、その半年間はヨッチャンが中心となって彼を指導してやって欲しいんだよ。ウチってさ、貿易会社のクセに英語できるやつが少ないんだよね。TOEIC700点以上の社員は200名中まだ20名しかいないんだよな。ヨッチャンなんかはウチではトップ5に入るって人事が言っていたよ。スティーブだってまだ若いし、そのうち日本語に慣れてくるはずだ。現に京大にまで行っているし、日本に対する思い入れや理解が強いことは明白だ。そんなんでな、スティーブがウチに慣れるまでのちょっとの間、面倒見てくれないかな。もちろんヨッチャンが多忙なことは分かった上でのお願いだ。総務部挙げてサポートすることは約束するよ」

あー、やっぱりそういうことだったのか。だいたいこの屋台に課長のゴチになっていい話なんか聞かされたことなんかなかった。今夜もそういうことだったんだな、何が「オレとヨッチャンの仲」だ、なにが「英語でトップ5」だ。オッサン上司はいつもこうやって息子みたいな部下をおだてれば忠臣蔵のように働くと思っている。オレだって残業や休日出勤も厭わず身を粉にして働いてきたつもりだ。その挙句に白々しいお世辞を言われると無性に腹が立ってくる。
「英語だったら高橋君のほうが僕よりはるかに上ですよ。僕なんかTOEICでたかだか800点だけど彼は960点、ほとんど満点ですから。高橋君の方が適任だと思いますね。それに彼は事業統括部の人間じゃないですか。スティーブがいずれ進むところなのだから、なおさら好都合だと思いますね」
三浦は渋い顔をした。「高橋はダメだ、アイツは融通も利かないし、物事を杓子定規にしか捉えない硬直した考え方をしよる。それに人当たりも悪い。アイツとじゃスティーブも音を上げるに違いない。そこ行くとヨッチャンは正反対で、新人の指南役にはもってこいだ。きっとスティーブとうまくやれると思うんだがな。専務も部長も同じ意見だよ」
「専務も部長も同じ意見」というところに語気を強めた。それで引導を渡したつもりなんだろうな。それにしても昭和生まれの上役の皆さんたちは頭が古いなぁ。アメリカ人と聞いただけで「黒船ペリー」を思い浮かべる。自分で採用しておきながら恐怖に慄いてどうやって対処したらいいのか、皆で寄り合ってコソコソ相談する。世話係として高橋が良いのか高木がいいのか、そんなことはやってみなければわからない。そもそも入社する前からそんなことで専務まで巻き込んで相談すること自体、「黒船」思想だよ。まぁ、グローバルとは縁の薄かった昭和のオッサンたちはそういうものなんだろうけどね。

そうは言っても専務や部長まで巻き込んで、外堀から埋められたこの世話係人事、高木ごときのペーペーが拒否できるはずもなかった。しかし一方で高木はこうも思った。そのスティーブという男、ちょっと面白そうだ。アメリカ人が日本で仏教を学ぶというのは確かに変わっている。自分はそういう変わりダネは嫌いではない。それにアメリカ人と仲良くしておけば、少なくとも英会話のスキルアップにはなりそうだ。そうだ、彼との間は日本語禁止にして彼の英語をうまく吸収してやるのもテかもしれない。オレだって余計な仕事を押し付けられるのだから、これくらいの見返りはあってもいいはずだ。会社にも迷惑のかからない話だし。
「わかりました。いつもお世話になっている課長の指示とあらば喜んでお受けします」と、さっきとは違うニコニコ顔で答えた。
「おー!さすがヨッチャン、そう言ってくれると思っていたよ。専務や部長が見込んだ我が社のエースだ。平成生まれの若手社員は気に入らないことを言われるとすぐにヘソを曲げるが、ヨッチャンは違うな。見上げたもんだよ屋根屋のフンドシ~♪」
三浦は肩の荷を下ろすことができて上機嫌。彼も専務や部長からの「高木を説得せよ」との無言のプレッシャーがあったに違いない。考えてみれば立場は違ってもそれぞれに重い荷物を背負っているわけだ。
「さあてと、話が終わったところで酎ハイで乾杯すっか?それにしてもさ、オレ入社20年だけどヨッチャンみたいな優秀な社員は滅多にいなかったよ。うむ、そりゃあ能力的に上のヤツはいたかもしれないけど、協調性がなかったり自己主張が強すぎたりして、結局辞めていったな。やっぱさぁ、会社ってのは結局お互いの信頼関係が軸だよな、それに会社のために打算なく汗を流す根性が大事だと思うよ。そんなこと言うと若いやつに笑われるけど、オレはそう思うな。ヨッチャンはどちらかというとオレたちと同じ昭和タイプ、将来この会社を背負って立つ男になるはずだよ。これはお世辞じゃない、ホンネだぜ」

三浦は酔いも手伝って何百回となく聞かされた昭和サラリーマン論をぶちまけている。一方の高木はスティーブを踏み台にしてTOEIC900点突破したら、大手の貿易会社か外資系会社にでも転職してやろうか、と薄笑いを浮かべながら三浦とレモン酎ハイを酌み交わしていた。内緒にはしているが最近になって転職斡旋会社にレジュメを送って会員登録したところだ。いつまでもこの会社にいるつもりなど入社した時から無い。そうだ、退職する時に自分の平成サラリーマン論を課長にこれまで屋台でゴチになったお礼として送りつけてやろうと思った。きっとこんな調子だろう。「三浦さん、あなたは一生懸命に社務に取り組んできました。時には自腹を切ってまで部下を飲みに連れて行きました。その滅私奉公の精神には敬服します。しかし平成の今その精神は大いなる時代錯誤なのです。なぜならば…」。

2016年9月1日の月曜日、契約社員スティーブ・ルイスの初出社の日が来た。そういえばウチには外国人社員がゼロだったことに今さらのように気が付く。中規模の会社だからとはいえ、派遣社員から警備員のオジサンや掃除のオバサンまで全員日本人というのもむしろ奇異な感じがする。街を歩けば様々な場所で外国人が働いている。コンビニやファミリーレストランは言うに及ばず、ランチタイムになると肌の色の違うホワイトカラーの社員もサブウェイやマックの前に行列している。そういう世の中で日本人社員だけで固められた我が社は言うなれば「尊王攘夷」の最後の牙城である。アメリカ、しかもサンフランシスコという国際都市からやって来たスティーブはこんな幕末みたいな会社に馴染めるのか、世話係を仰せつかった高木はそれなりに心配した。

午前9時、始業のチャイムが鳴った。するとチャイムを待っていたかのように課長の三浦がスティーブを連れて総務部長席に連れて来た。総務部長の元木は立ち上がり鷹揚な笑みを浮かべ何やらスティーブに二言三言話しかけた。スティーブも如才なく日本風の直立のお辞儀を深々としている。やがて三浦は総務部員に向かってスティーブを紹介し始めた。
「皆さん、おはようございます。ご承知のとおり今日ここにいるスティーブ・ルイス君が我が社に入りました。配属は総務部総務課です。スティーブ君はサンフランシスコの貿易会社で数年勤務した後、京都大学で仏教を修めましたので日本語もできます。もちろん専門は英語ですけどね。ご覧のとおり彼は身長185センチの金髪の白人、イケメンです。それにまだ28歳の独身ですので、われこそはと思うヤマトナデシコは果敢にアタックしてみてはいかがでしょう、あはは」
課長のスピーチ、「専門は英語」というオヤジギャグはまだ許せるが、後半部分はサイテーだ。年齢はもとより白人であるとか、イケメンだとか、独身であるとか、女性はアタックせよとか、聞いていて高木は凍り付いた。隣の麗子も同じく俯いている。日本、いや自分の会社しか知らない典型的な昭和サラリーマン。人種とか個人情報とかセクハラということに鈍感なことこの上ない。しかも自分のスピーチがその場を和ませていると勘違いしている。オレがスティーブだったら課長を思いっきり睨みつけてやりたいところだ。

課長のスピーチが終わるとスティーブが日本語で挨拶をした。
「ワタシの名前はスティーブ・ルイスです。アメリカからやって来ました。皆さんのお手伝いが少しでもできればマイ・プレジャーです。どうぞよろしくお願いします」
ここでも大仰なくらいに全員に向かってお辞儀をした。かなり日本流の作法を仕込まれていると見た。言葉はまだ訛っているし英語も飛び出てくるが、そんなことはどうでもいい。「郷に入れば郷に従え」の精神を備えているところは好感が持てる。
総務部員への挨拶が終わると三浦は総務課の島へスティーブを連れてきた。そして真っ先に高木を紹介した。
「スティーブ君、こちらがミスター高木だ。今日から君の指南役、って言っても難しいだろうけど、要するに相談に乗ってくれる社員だ。年齢も一緒だし何かと頼りになる男だと思う。ミスター高木、よろしく頼みますよ」
あー、言葉尻を捉えたくはないが、スティーブ君と言っておきながらミスター高木はねぇだろうよ。一応オレを先輩格にしてくれたつもりだろうけど、聞いているオレはすごいチグハグ感を感じる。それに年齢が一緒だから、というのも耳障りだな。そんな儒教みたいな発想、昭和はおろか江戸時代に終わっていると思うね。
「高木サン、どうぞよろしくお願いします」と今度は軽く頭を下げて自分の席に座った。そこでは麗子がパソコンの設定やら人事書類の申請などの手伝いをマメマメしく世話をやいている。麗子はもうすぐ30歳になるが、やっぱりイケメンの白人には弱いと見える。課長の発言もあながちバカにできないかもしれない。まあいいや、オレはスティーブから英語スキルやアメリカの貿易実務を盗んでやれば目的は達成できる。いや、もしかしたら転職先はサンフランシスコ、そこで麗子とゴールデンゲートブリッジを見下ろせるヴィクトリアンハウスで新婚生活を送れるかもしれない、などと妄想してみた。

改めてスティーブの様子を窺ってみると、学問上とはいえ仏教を修めた男だけの事はあって、何か芯の強そうなところがある。無愛想というわけではないが、ヘラヘラせず無駄口を叩かない。麗子に対しても媚びを売ることもなく、礼儀正しくその指示に従っている。それともう一つ大事なことだが、とかくアメリカ人は世界の中心はアメリカで英語は共通言語だと信じている。相手が理解しようとしまいと英語で話す輩が非常に多い。スティーブはその逆で出来る範囲で日本語で対応しようとする姿勢がにじみ出ている。でもそれは高木にとっては誤算だった。日本語禁止にして彼の英語を盗もうとしていたのに、それができなくなってしまう。しかしスティーブの姿勢が正論なのだから、敢えて「英語でやろうぜ」とは言いにくくなってきた。
昼休みになった。高木は隣のビル地下の行きつけの立ち食い蕎麦屋にスティーブを連れて行った。高木は無類の蕎麦好きで昼はいつもこの店に来る。もり蕎麦を注文して二人は角のカウンター席に座った。スティーブも日本蕎麦が大好物と見えて、豪快な音をたてながらズズッと蕎麦を喉に流し込んでいた。
「高木サン、この店はいいですね。蕎麦屋なのにチケットを自動販売機で事前に購入するシステムも素晴らしいと思います。それに値段も手ごろだし」
彼は立ち食い蕎麦屋は初めてだったらしく珍しそうにキョロキョロしていた。
「なあ、スティーブ。どうも高木サンと呼ばれるのもよそよそしいカンジだなぁ、どうだろう、オレも頑張るからこれからは英語でコミュニケーションしないか?そうだな、トシも一緒なんだしスティーブとヨシと呼びあおうよ」
高木としては相手は日本語がまだ怪しいアメリカ人、高木の英語は彼の日本語よりは上なんだし、スティーブは快諾すると思った。しかしその直後に高木は彼から横っツラをはたかれるようなことを言われた。
「高木サン、ここは日本ですよ、どうして日本語で話さないのですか。それに“スティーブ”とファーストネーム呼ばれるのはアメリカ流です。日本流に“ルイスさん”、と呼んでほしいですね」
たどたどしい日本語で言い終わるとスティーブは黙ってしまった。高木は棍棒で背後から殴られたような気分だった。さっきあれほど三浦の立ち振る舞いを心の中で昭和バカだの尊皇攘夷の時代錯誤だの罵っていた自分だが、実はその自分こそアメリカ馬鹿だったことを痛いほどスティーブに指摘された。あぁ、返す言葉が無い、しかも英語を盗んでやれなどと利己的な事ばかり考えていた。そんな自分をスティーブに見透かされているようで恥ずかしくて、自己嫌悪の塊になった。しかし今日は彼の出勤初日、ここは態勢を立て直さなければならない。蕎麦を食いながらスティーブに素直に謝った。
「いや、ルイスさん。あなたの言う通りだ。あなたがアメリカ人だからと思ってついついアメリカ流に考えてしまった。気を悪くしたなら許してください」
スティーブはニコニコしながら
「日本は素晴らしい国です。できればレイコさんみたいなキレイな女性と結婚して永住したいですね。あはは」
やっと二人の緊張が解けたものの「麗子はオレの女だ、イケメンだからって手を出すんじゃねえぞ」という言葉をグッと飲み込んだ。まぁ今日はオアイコだな。

ところで高木はさっきからスティーブと会話していて言いようのない不思議な感覚に捕らわれていたのだった。どこかで彼の声を聴いたことがあるような気がしてならないのである。それがいつ、どこでというのが思い出せない。しかし確かに聞いたことのある声。遠い昔、どこか遠い外国で聴いた親しい人の声の響きがする。既視感(デジャヴュー)という現象を経験は多くの人がするが、これは視覚ではなく聴覚に訴えてくる既聴感とでも言うべきものである。もちろんスティーブと会ったのは今日が初めてだし、以前に彼の声を聴いたことがあるはずはない。彼に確かめるまでもなく何かの勘違いなんだろうとその時は軽く受け流した。しかし会社への帰り道、今度は高木の不思議な既聴感に呼応するように突然スティーブが呟くように言った。
「高木サン、ワタシは最近になって奇妙な夢を繰り返し見るのです。牛やヤギが放牧されているだけの寂しい土地で、自分がその牛追いをやっているのです。でもそこがどこなのかは分からないんです。何だか不思議な気持ちになる夢です」。高木はそんなこともあるのだろうな、と軽く相槌を打った。二人はエレベーターに乗り一緒に執務室に入ると麗子がスティーブをニコニコしながら待ち伏せしていて、高木はいきなり現実に引き戻された。しかし今日の高木とスティーブにとの出会いが彼らの前世への旅の第一歩であったことに二人ともまだ気が付いていなかった。(続く)

第二話 量子力学

第二話 量子力学

先週の映画をドタキャンした償いとして、翌週は麗子が前から行きたがっていた池袋サンシャインシティのプラネタリウムに連れて行くことになった。ここは他のプラネタリウムとは一味違っている。普通は映画館のような固い椅子に行儀よく座り、星座の観察を理科の授業のようなナレーションを聞きながら眺めるだけのお勉強スタイル。しかしサンシャインのプラネタリウムは二人掛けのソファを別料金で利用できる。こんなソファに恋人たちが深々とうずまり、開演ブザーを合図に館内が徐々に暗くなり、やがてリチャード・クレーダーマンのピアノが響く中、地平線の星座が輝き始めればソファの二人のアツイ動きは説明不要となる。今日は開演時間を30分早く間違えて来てしまったので館内に人は少ない。高木と麗子はドッカリとソファに腰かけながらパンフレットを眺めていた。

ラブホ通いもさすがに毎度だと飽きてくるわね。たまにはこういうロマンチックな場所で健全に星を眺めながら愛を確かめ合うのも新鮮だわ、と麗子もしゃあしゃあとぬかしやがる。よく言うよ、会社じゃ新人スティーブにだいぶご執心の様子に見受けられましたがね、と高木も喉まで出かけたが男の嫉妬ほどみっともないものもないので、そこは呑み込んだ。うん、先週はドタギャンして悪かったな、オレも残念だったよ、と強く麗子の手を握り締めたら麗子のやつ、まだ館内は明るいのにオレの肩に長い髪を乗せてきた。麗子は2歳オレより上だけど甘えん坊だわ。前カレと別れた傷をまだどこかで負っていて、オレはその癒しなんだそうな。まだ開演まで時間があるので高木はスティーブと会って不思議な感覚に捕らわれたあの話を麗子にし始めた。
「不思議なんだよな、アイツと話していると以前どこかで会ったような気がしてくる。確かに彼の声をどこかで聞いたことがある。気のせいとか勘違いではない、確信に近い気持ちなんだ。でも、それが“いつどこで”ということになると皆目わからないのがもどかしい。それともう一つ不思議なのは、アイツと対面していると自分が女のような気分になるんだな。実に奇妙な話だ。」
麗子は高木の突飛な話にあまり関心は示さなかった。
「ふーん、そうなんだ。よくデジャヴューとか聞くけど、あれは誰でも経験する一種の錯覚だってテレビ番組で言ってたわよ。私もデジャヴューは時々経験するけどヨッチャンと対面しても自分が男だという感覚にはならないわねえ、あはは」
麗子は話を続けた。
「そのスティーブ君、大学院で仏教を勉強していたんですってね。彼の世話をこの一週間したけど、謙虚で礼儀正しい人だわ。それに達観したような物静かな人。この前も“レイコさん、リンネテンショウ”って知っていますか?なんてきくわけよ。え~何ですかそれ?と返したら“最近ワタシは前世の夢を見ている気がします”なんて言うのよね。何を言っているんだか私にはサッパリ分からないけどちょっと不思議な人だわ」
なるほどね、イケメンでミステリアスなアメリカ人のお世話となれば、会社でもランチの帰りを石川ひとみみたいに待ち伏せするでしょうよ、ここでもまたヤキモチのセリフを高木は呑み込んだ。でも麗子の話から一つヒントは得たような気がする。「輪廻転生」「前世」というキーワードがオレとスティーブを繋げているのかもしれない。もちろん単なる妄想だとは思うが、スティ―ブの存在は会った時から気になって仕方がない。
あ、それはそうと麗子もちょっとスティーブが気になり始めているようだから、館内が暗くなったら輝く星座に照らされながらオレの得意技ディープキス攻めでグイグイとこっちにたぐり寄せるかと思ったその直後、ブザーが鳴り場内がパッと真っ暗になった。すぐに、麗子はオレの唇を求めてきた。最近この逆キスパターンも多いのだが、返礼にオレは彼女のウィークポイントの背中をそっと撫でてやる。麗子は喘ぎ声で「これじゃラブホと変わんないじゃん」と耳元で囁いた。オレは「さて、せっかくプラネタリウムに来たんだからしっかり星座の勉強もしておこうよ」と麗子の体を離した。オレのプチ・リベンジだったんだけどね(笑)。

翌日、高木は退社後に日比谷図書館でまず「前世」について調べ始めた。これまでオカルト上の超自然現象に過ぎないものだと漠然と思っていたのだが、スティーブの話や自分の不思議な感覚から身近なものとして高木は関心を持ち始めたのである。「前世」は仏教、ヒンドゥー教などの東洋宗教の根幹をなす思想であり、それ自体は立派な教義であることは否定しえないが、少なくとも科学的に証明できるものではないだろう、と高木も最初は思っていた。ところが調べてゆくうちに前世の存在を示唆する科学者たちによる研究が報告されていることがわかってきた。
その一つの例として米国ヴァージニア大学医学部精神科のジム・タッカー博士の研究があった。タッカー博士は、前世の記憶を持つ子どもたちに15年にわたりインタビューを続けてきた。その成果は、経験したはずもない出来事の記憶や、前世の傷や痣などを持つ、輪廻転生したと思しき2500人もの子どもたちの記録を収録した著書『Life Before Life: A Scientific Investigation of Children’s Memories of Previous Lives』にまとめられている。 タッカー博士によると、意識は量子レベルのエネルギーであるため、輪廻転生の説明は科学的に可能であるといい、意識の謎を解く鍵は量子力学が握っているとしている。意識は肉体的な死とは別物である上、意識は肉体の死後も生き残り、次の宿主の意識として活動すると語っている。つまり、意識は脳が生み出したのではなく、脳や肉体の死後も意識は生き残り続けるので、意識は前世の記憶を保ったまま、次の人の脳に張り付くと博士は主張しているのだ。博士の調査した前世を語る子供たちの実例は2,500件を越えるが、そのうちの一つにこういう例がある。
「ジェームズ・レイニンガーくん(当時2歳)は、おもちゃの飛行機に異常なまでの執着を持ち、飛行機事故の悪夢を見るという不思議な経験を繰り返していた。そこで、タッカー博士はジェームズくんに悪夢について尋ねたところ、”“自身はパイロットで、とある船から飛び立った“と語ったという。さらに尋ねると、Natomaと呼ばれる船から出撃したこと、硫黄島で日本軍に撃墜されたこと、ジャック・ラーセンという友人がいたことまで克明に記憶していたという。その後、第二次世界大戦当時の記録を調査すると、当時たしかにUSS Natoma Bayと呼ばれる航空母艦が配置されており、硫黄島の戦闘にかかわっていたことが判明。また、ジャック・ラーセンというパイロットも実在し、彼の戦闘機がちょうどジェームズくんが描写した通りに撃墜されていたことまで記録されていた」この他にも古代に消滅したはずの少数民族の言語を突然話し出す人や、古代王朝の奴隷だったと主張する人間の記憶が、後の調査で彼が知りようもない当時のある奴隷の記録と完全に一致するケースもあった。2,500件を越えるこれらの実例はもはや偶然だとか迷信だとかいうことで片つけられない。論より証拠である。さらに科学者は意識を量子力学という分野を用いて説明できるとしているのである。

調べが進んでゆくうちに、前世の存在が単なる宗教上の教義にとどまるだけでなく、この宇宙を司る厳然たる科学的真理なのではないかと高木は思い始めた。そして今自分が感じている不思議な既聴感も自分の前世と何か関係があるのではないか、とも思ってみた。こうして人間は生まれ変わりを繰り返す、あのスティーブの言っていた「輪廻転生(リンネテンショウ)」なのか…。オレが聴いているスティーブの声はもしかしたらオレが前世で聴いたスティーブの声ではないか。もちろん根拠などはない。しかしあの強い既聴感は尋常ではない。何かスティーブとオレとの間で尋常でないことがあり、スティーブも不思議な夢を見ているのかもしれない。それは彼の言う前世ではないだろうか。そのわれわれの前世の意識が量子となり現世の二人に移植されたのではないだろうか。

もっとも少しタッカー博士の研究報告をカジッただけで早急に前世と結びつけるのは荒唐無稽な話だ。でもせっかく調べたのだから、スティーブに話してみるかな。それにアイツは仏教に詳しいはずだから何かヒントをくれるかもしれない。麗子じゃないけどあの仏僧のような風貌、一切無駄のない語り口、微笑みかけるような優しさ、確かにアイツは女だけじゃなくて男も魅了する何かを持っている。よし、入社してちょうど一月経ったし、近いうちスティーブを飲みに連れて行くか。そこでお互いの超常現象について語り合おうじゃないの。こんなオモシロイ飲み会は初めてだな、相手はアメリカ出身の仏教オタクと来ればオレの心も弾む。どんな前世バトルが展開するのか楽しみで待てないくらいだよ、もちろん麗子には声をかけたくない、オレたちだけの世界だ。

翌日の金曜日の終業後、思い切ってスティーブに声をかけてみた。
「ルイスさんは蕎麦が好きなんだよね。神田にウマイ蕎麦屋があるんだけど一緒にこれからどうかな?もちろん日本酒も置いてあるよ。ルイスさんは日本酒は好きかい?」
「高木サン、ありがとうございます。蕎麦は好物ですがアルコールは数年前にやめました。でも蕎麦は好きです。ぜひ連れて行ってください」
あ~、酒を飲まないヤツと蕎麦屋へ行ってもしょうがねぇだろ。しかも今夜はちょっと折り入ってゲテモノ話がしたいと思っていたのに。なんだか出鼻をくじかれたカンジだな。まぁいいや、今夜はオレもそば茶でも片手にジックリ真面目に語り合うか。
「あら、その店ってヨッチャンご用達の老舗の“まつや”でしょ?私もね、今夜は誰も構ってくれなくてすご~くヒマなのよね。私も一緒に行きたいなあ」
麗子のやつ、どこで聞き耳立てていたんだか、いつの間にかオレたちの背後に割り込みやがったな。しかも「誰も構ってくれないから」と恨み節までからませてくる。三十路女の貫録がにじみ出てきた証拠だ。麗子、オマエちょっと図々しいぞ、と心の中で叫んだがコト既に時遅しであった。スティーブははちきれんばかりの笑顔を見せながら「ブラボー!レイコさんもぜひ一緒に行きましょう」とはしゃいでいる。いつもは冷静沈着なスティーブが子供のようにはしゃぐのを見て、このヤロー、ゼッタイに麗子に一目ぼれしてやがる、と見抜いた。もちろんオレと麗子の関係は知るはずもないけど。こうなると多勢に無勢、スティーブ・麗子組が勝利に終わる、結局オレも
「うん、そうだな、折角だから3人で行くか。でもオレはルイスさんとちょっと話があるんで、麗子さんもそのつもりでいてくれよな」と一応けん制してみた。
「ゼンゼン大丈夫よ、お二人の内緒話タイムになったら教えて。私は席はずしてスマホ片手にカウンターで飲んでいるから。私ルイスさんと飲むのは初めてだし、チョー楽しいハナキンになりそうだわ」。
「ハナキン?ハナキンって何ですか?レイコさん」
「うーん、英語で何て言うのかしらね、ヨッチャン知っている?」
「TGIF,(Thanks God It`s Friday) ってとこかな」
「あー、TGIFですか、そういうことですね。今日はハナキン、TGIF~♪」
スティーブのやつ、遠足前夜の小学生状態になっている。麗子も割り込みしてきたくせに目を輝かしている。なんだか二人のデートのお膳立てをしてやったような気持ちに高木はなっている。しかしそれはそれとして輪廻転生の話をスティーブとする機会が今夜できたことに期待が膨らんでいた。もしかしたらオレにまとわりついて離れない不思議でモヤモヤした気持ちにケリをつけることができるかもしれない。
それにしても今夜の麗子はお邪魔ムシだな~、と思ってハッとした。そういえば先月三浦課長がオレを焼鳥屋に誘った時、課長も麗子に対して「お邪魔ムシ」と思ったのかもしれない。なんだ、結局オレも男同士が好きな昭和サラリーマンじゃないか、と高木は思わず苦笑した。
(続く)

第三話 まつや

第三話 まつや

高木が二人を連れて行った店は神田の蕎麦屋“まつや”であった。明治13年創業、「鬼平犯科帳」の生みの親である作家で美食家の池波正太郎が愛したこの店は神田でも風格を放つ。高木はまだ若いものの、蕎麦については一家言を持つ。この“まつや”には入社当初から通い詰め、今では店主ともツーカーの仲である。もちろん池波正太郎の小説はすべて読破している。麗子も何度か連れて来たが、反応はイマイチ。彼女のホンネはオシャレな銀座あたりのイタリアかフランス料理屋がお好みのようであった。
手動の格子戸をガラガラっと開けると、何組かのサラリーマンたちがテーブル席を陣取っていた。面白いもので、常連客たちの座るテーブルは不文律でほぼ決まっている。若い高木の席は一人ならカウンター、二人以上なら一番奥右のテーブル席である。今夜も高木テーブルを三人で囲んだ。高木は生ビール、スティーブはそば茶、そして麗子はいきなり熱燗をそれぞれ注文した。つまみは定番の豆冷奴とわさびかまぼこ、それにカツオ酒盗にした。スティーブも京都では蕎麦屋には通っていたようで、かまぼこを注文したのはスティーブであった。

「遅くなったけれどルイスさんの入社を祝してカンパーイ!」
麗子の隣席にピッタリと座れてご満悦のスティーブもニコニコ顔で応えた。
「ありがとうございます。なんとかこの一ヵ月無事に過ごせたのも高木さんとレイコさんが暖かく見守りながらご指導いただいた賜物です。特にレイコさんには私事に至るまでお世話になり…」
なんだかイヤに日本人っぽい慇懃な答礼だな。もう少しアメリカン・ジョークでも入れてくれれば気が利いているのに。それになんだよ、麗子が私事に至るまで世話したなんて話は聞いてないぞ。もしかしてこの二人…。いや、そこまで疑ったら麗子に失礼だ、受け流そう。そう思った矢先だった。
「そうなのよ、ヨッチャン。ルイスさんはまだ東京のことがよくわからないから、先週の日曜日に買い物の手伝いをしてあげたの」と麗子は先制した。コソコソしてはかえってマズイと思ったらしい。
「その節はありがとう、レイコさん。コンビニエンス・ストアって本当にコンビニエントですねえ。それとコインランドリーにスイカ定期、日本は本当にコンパクトで整然としています。私の気性にマッチします」
そんなことはどうでもいいが、オレの知らないところで麗子のやつ、甲斐甲斐しくスティーブの日常生活にまで潜入していたのか。釈然としないまま、まぜっかえしてやった。
「へぇ~、知らなかったなぁ、ルイスさんと麗子さんっていつの間にかそういう仲良しになっていたんですね。いや、なおさら目出度いことだ」
「いやだぁ、ヨッチャン。親切心からやったことです。別にルイスさんと他に特別なことはしていませんからご安心ください」と切り返してきやがった。
スティーブは二人のやりとりを聞きながらボソっと言った。
「もしかしてお二人は恋仲なんでは?」
うっ、つまらないところに勘が働くヤツだ。オレも「いやいや、そんなんじゃないよ」とシラッっと言い放つ場面だが、スティーブと麗子の急接近を目の当たりにして腹を括った。
「ルイスさん、その通りだよ。もう付き合い始めて2年になるかな。そういうワケでよろしく」と釘を刺した。
スティーブと麗子の間にちょっとシラケた空気が流れたように見えた。いきなり高木がKY話を投げつけたので、どうしようもないから二人は黙っていた。

この空気を打開するかのようにスティーブは話題を変えた。
「京都大学で仏教を学んだ一つの理由に“輪廻転生”について知りたいということがありました。カリフォルニア大学での専攻は宇宙物理学だったのですが、宇宙の成り立ちや進化を学ぶうちに、どうしても数式や計算式だけでは説明しきれない壁にぶち当たるのです。教授や学生たちはその「壁」に科学をもって挑戦するのですが跳ね返される。そこで私は科学だけではなく宗教も宇宙の謎を解き明かすための重要なヒントになるのではないか、と考え始めました。宇宙については東洋の宗教が得意とするところなので、アメリカで東洋哲学に関する本を読み漁りました。読めば読むほど、学べば学ぶほど自分の誤りに気付きました。宇宙は物理学だけで解明できない、いやむしろ物理学などは東洋哲学の深さに比べれば、宇宙をほんの一部語っているに過ぎない。
仏教やヒンドゥー教などの教義が宇宙の謎の解明の主役であることに気づきました。ただ、宗教と聞くと、科学盲信の21世紀人には受け入れられないので、そこに科学、とりわけ物理学を取り入れれば現代人も納得するような論理的な説明もできるのではないか、と考えたわけです」
このスティーブの演説には高木も大いに頷いた。つい先週、高木も前世について調べたところ、量子力学が生まれ変わりのキーワードとなることを知ったからである。さっきまでの麗子とスティーブのイチャイチャ話がアホらしく思えてきた。麗子は何が何だかわからないようなボケっとした顔をしているが、ずっと黙っていたのでここで何か言わなければと思ったらしい。
「そう言えばこの前ルイスさん、輪廻転生とか言っていたわよね。それってその宗教の話かしら?私って大学も行っていないし、よくわからないけれど」
「レイコさん、輪廻とは生死を繰り返すことです。霊魂が転々と他の生を受けて、迷いの世界をめぐることなのです。だから人それぞれに前世というものが必ずあるのです」
スティーブはさっきまでのデレっとした顔から仏僧のような尊顔に変貌していた。
「え~?だって人間の一生って一度きり、死んだらオシマイだと思うんだけど、違うのかしら?やっぱり迷信なんでしょう」
麗子、もっともな言い分だよ。多くの人はそう漠然と思っている。だから「人生はたった一度きりなんだから、悔いのないように生きよう」などと言う。でもそれは「人生は一度きり」という前提での話である。
スティーブの話に勇気づけられて高木も話始めた。
「ルイスさん、入社した日に立ち食い蕎麦に行った帰りに確か“どこかで見た夢”について話をしていましたよね。私もルイスさんの声を遠い昔に聞いたことがあるような気がするんです。どうもルイスさんと生まれる前にどこかで会っているような気がします。しかも奇妙なことに当時は私は女でルイスさんは男だったような気持になる。さっきのあなたの話を聞いていると前世についての興味を共有しているようです。私も自分なりに前世の科学的分析について調べてみました。確かにルイスさんの言っていた量子力学の話も出てきましたよ。そうそう、ヴァージニア大学のタッカー博士の研究などは実に興味深かったです。」
アメリカの大学の話になって、スティーブもさすがに誇らしげな様子で、高木の話を継いだ。
「はい、前世の科学的研究は1960年代からヴァージニア大学のスティーブンソン博士によって行われていました。その後同じく大学のタッカー博士に引き継がれ実証例が2,000を越えていたと思います。量子力学というコンセプトが入ることによってこれまで宗教だとかオカルトだとか言われていた前世が科学的に、ほぼ実証されたと私は思って負います」
やっぱりスティーブはオレの一夜漬けで勉強したタッカー博士の実証や量子力学の話くらいは知っていたのだ。まるで今夜の高木の意図をあらかじめ察知していたかのようにスティーブは語るのであった。
「私の場合はルイスさんの声、そしてルイスさんは夢で前世を見ているのかもしれない。いや、もしかしたら僕たち二人は前世で会っているかもしれない。少なくとも私はルイスさんを見たこと、いや声を前世で聞いたらしい。実に不思議な気持ちですよ」

そうこう話が進んでいるうちにそば味噌 とニシン甘露煮 が運ばれてきた。酒飲みのつまみとしては絶品である。特にそば味噌はあの池波正太郎のエッセーにも出てくる“まつや”の定番で、焼き味噌を少しずつ嘗めながら食べる。テーブル内の話題に今一つ入れない麗子はさっきから熱燗を手酌でやっていたが、料理が運ばれてくると嬉しそうに
「来た来たぁ!アタシいつもこれがこの店では楽しみなのよね」とそば味噌に箸を伸ばした。
「ねぇねぇ、さっきからお二人さんったらムズカシイ話しているけどさ、私はやっぱり人間は死ねばオシマイだと思うわ。だから悔いのないように思う通りに生きたいの。それにね、ヨッチャンは運命の人。私はヨッチャンと結婚したいな」
おいマジかよ、なんでこんな場所で、しかもスティーブの前で逆プロポーズするんだよ?まぁいいか、麗子のこの一言で日米レイコ島略奪戦は決着したんだと余裕の目でスティーブを見ると彼はヘンな笑みを浮かべてオレを見返している。なんかちょっとムカツクな。勝負はこれからだぞ、と言わんがばかりの自信の表情だ。ひがむわけではないがこれだからイケメンはイヤなんだよな。しかしスティーブはこれからも大事にしなけりゃいけないヤツだから気持ちを切り替えた。
「ルイスさん、前世の話はまた時々しましょう。あなたの話には随分と触発されるところがある。さて、前世の話はここまでにして、これから私と麗子の恋愛物語でもお聞かせしましょうか。ナレーターはもちろん麗子です」。いつのまにか麗子のことをいつものように呼び捨てにしている。

二人の恋仲は社内ではまだ知られていない。社内恋愛はうまくいっているうちはまだ良いが、別れた時にはお互い非常に気まずい思いをする。だから絶対に社内外では内緒ということにしていたのだが、今夜はスティーブという禅僧のようなアメリカ人を前にして、ついつい口を滑らしてしまった。麗子も調子に乗って“結婚”などと口走っていたが、お互いに誰かに二人の事を聞いてほしいという欲望を秘かに持っていたことは否めない。ナレーター役の麗子は堰を切ったように二人の出会いから初めてエッチ、そして喧嘩と和解の繰り返しの2年間を饒舌にスティーブに聞かせるのだった。もともとシモネタ好きな麗子だが、今夜は相当にアルコールが廻っていると見える。微に入り細に入りラブホ話まで手振り身振りも混ぜて説明していやがる。スティーブも面白がって興奮しながら英語で突っ込みを入れながら爆笑している。ざまあみろ、スティーブ、これで麗子に対する戦意を喪失しただろう。

高木は一人で麗子の熱燗を手酌でやりながら、さっきのスティーブとの対話を反芻していた。いやはや今夜は期待以上の成果を得られた。彼が入社する前は打算で彼の英語しか期待していなかった自分であるが、フタを開けてみたらそんなみみっちい話ではなかった。彼を通して前世や輪廻転生のメカニズムを習得できれば、彼は大魚となり得る。塞翁が馬、スティーブの世話役を引き受けてよかった。これからは仏教や輪廻転生を彼から学びたいと真剣に高木は願ったが、それからのち高木の期待を遥かに上回る体験をしようとは高木自身も、そしてスティーブも思いも寄らなかった。

“まつや”を出た後も三人は勢いでそのまま2ブロック先の神田の洋風バーへ繰り出した。スティーブは酒も飲まないのに嬉々として麗子との時間を楽しんでいるようだ。あれ?さっきもうポツダム宣言したはずなんだけどな、と高木は訝しがったが、まぁ今夜は二人の好きなようにさせてやれ、と鷹揚に構えていた。
午前零時を回ったところでご機嫌のスティーブに「今夜はありがとう。麗子さんはオレが送っていくから。じゃあまた来週」と麗子の手を握った。
「あ、もしかしてこれからラブホですか?」
このヤロー、余計なこと言わんでもよろしいわ。それに何でラブホなんて言葉知っているんだろう、アメリカ人のくせに気味悪いな。スティーブは続けて
「ワタシも今夜は近くのカプセルに泊まります。あの棺桶みたいな空間、いいですねぇ。それに大きな風呂まであって、至れり尽くせりです。日本万歳!高木レイコ万歳!」
このヤロー、オレ達の前で玉砕しているつもりらしい。なんかちょっと可哀想だけれど麗子が先に駅の方へ歩き出したので、そこでスティーブとは別れた。
「おい麗子、どうもアイツはオマエに気があるみたいだったぞ。“まつや”では随分と詳しくオレたちの話を面白おかしくしていたみたいじゃないか。ラブホ話までしなくていいのに、やり過ぎだぜ」
「ヨッチャンのバカ!」
麗子は人目もはばからず高木の胸に飛び込んできた。泣いているらしい。あー、甘えん坊麗子のお出ましだ、ここではみっともない、電灯の薄暗い横っちょの小道に滑り込み
「おいおい何だい、やぶからぼうに。ちょっと今夜の麗子はヘンだな。まだ電車は間に合うから今夜は家に帰るかい?」
麗子は涙を浮かべながら高木を睨んでいたが、
「そうですか、帰れと言うなら帰ります。それじゃおやすみなさい!」
実は麗子のふてくされパターンはこれまで何度かあった。しかし今夜の麗子がふてくされる理由は高木には分からない。さっきまでスティーブと大はしゃぎして、シモネタ連発して楽しそうだった麗子がなんで怒ってんだろ?オンナ心はわからない。もう面倒くさいから今夜はこのままオレも帰るか。高木は反対方向の地下鉄の方へ歩いて行った。

スティーブは行きつけのカプセルに到着した。神田周辺にもカプセルホテルは何軒かあるのだが、彼はカプセルが大好きで、アパートには帰らずにわざわざカプセルに泊まることもしばしばである。このカプセル、低料金で24時間利用可能ということもあり最近では外国人観光客も多く利用している。最初は戸惑うが慣れるとこの上なく便利なところがエキゾチックジャパン、好評を博しているらしい。
サウナと大風呂で汗を流した後、いつもの下段のカプセルに潜り込んだ。スティーブのカバンにはいつも下着類や薄いパジャマ、洗面道具が入っているのだ。高木のヤツ、さっきはオレにポツダム宣言をしたつもりだろうが、どっこいそう簡単に白旗は上げられねぇ。必ずレイコは奪還するぜ。アイ シャル リターンを誓うスティーブであった。(続く)

第四話 荒野の風景

第四話 荒野の風景

午前1時を過ぎ、カプセルの客もおおかた寝入ってしまい、廊下の小さなランプがところどころに灯るだけとなった。スティーブも棺桶ベッドの天井ランプを消し眠りの霧に包まれていた。そして同じあの荒野の夢を見ることになる。1950年のパキスタン北部カラコルム山脈の麓に広がる渓谷で、スティーブはイジャズという名の15歳の少年となって現れるのだった。
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「アドゥラ、アッラ~、空と大地は神の恵み。雨よ風よ、称えよ我らが唯一の神アラ~」
独特の節回しで羊飼いの少年が羊の大群を追っている。イジャズは6人兄弟姉妹の長男である。先祖代々この貧しいカシミール村で牧畜を営んでいるが、牧畜だけでは食べてゆけないので35歳の父アドラは雪が降り始めると地方都市へ建設労働者として出稼ぎに行く。女たちは家で観光業者から注文のあった縫い物や細工品などの内職にいそしんでいる。この地方では小学校へ行ければまだ良い方で、多くの子どもたちは学校も行かず稼業を手伝うのが当たり前となっている。さらに上の学校へ進学する子供は一部の金持ちの子弟に限られている。イジャズは小学校にも行けず家計を助けるため羊飼いを手伝っていた。15歳となった今では羊追いはもちろん、羊毛刈り、それに乳搾りやチーズの製造までアドラの片腕として働いている。イジャズのすぐ下には13歳の長女のヤスミンがいる。ヤスミンは内職が苦手だが、兄と一緒に羊飼いをしているほうが向いている活発な子なので、父アドラはイジャズとヤスミンの兄妹をペアにして働かせていた。もう今では羊飼いは二人に完全に任せるまでになり、アドラは村の畑作りに出るようになった。渓谷であり、もともと農業には適さない土地柄ではあったが、最近になってアメリカから品種改良技術も輸入されている。州の指導者の下、さとうきびや小麦などが栽培され始め、ものになるかどうかはこれからが正念場というところであった。敬虔なイスラム教徒で仕事ぶりも真面目なアドラは、作業員募集時に即採用となった。黙々と仕事に取組み、今では栽培作業のリーダー的存在となって村民の尊敬を集めている。特にカシミール村長からの信頼は絶大で、村で大きな問題が起きると村長はまずアドラに相談するのが常であった。

ある日の午後、アドラはいつもの持ち場で数人の作業者と石灰で固まった土を鍬で掘り返していた。耕運機などまだ普及していない時代、それに州の補助金で運営されていることもあり、耕作などの農作業はすべて人力である。屈強な男たちは皆黙々と灰色の大地に鍬を振り下ろすのであった。アドラも35歳という働き盛り、他の若い連中には負けられないという意気込みで鍬を振るった。ともすると監督者の目の行き届かないところで手抜きをする作業者だが、アドラは陰ひなたのある男ではなかった。もっともこういうアドラの真面目すぎるところが煙たがれる理由でもあったのだが。

午後3時、作業者は持参した小型カーペットを敷き、一斉に北西のメッカに向かって立ったり跪いたりしてイスラムの祈りをアラーに捧げる。この村では全員がイスラム教徒であった。アドラも祈りを捧げたのち、鍬を手に持ちさきほどの続きを行うため戻ろうとすると彼を呼び止める者があった。驚いたことに村長であった。村長がこんな作業現場に来ることなど滅多にないが、村長は微笑みながら言った。
「やあアドラ、いつも御苦労さんだな。すまんがちょっとこれからワシの家に来てくれんか。さっき場長のアブダクには話をしておいたから大丈夫だ。」
村長の家はこの作業場から馬で半時間ほどだが、アドラのために馬も用意してくれたらしい。
「村長、今日の作業が終わるまで待ってもらえますか。若い連中にしわ寄せさせたくありませんから」
アドラらしい生真面目な答えをした。
「アドラよ、それがお前の唯一の欠点じゃ。そうやって融通の利かぬようでは若い連中も息が詰まる。たまにはお前がいないところで適当にサボリたいんじゃよ。それが全体としてはプラスに働くこともある。まあいい、今日はそんな話をしに来たんじゃない。とにかくこの馬に乗ってくれんか」
アドラもそれ以上は言わず馬にまたがり歩をゆっくりと進めた。
「村長、話ってなんです?何か作業のことで問題でもありましたか?」
「いや、そうではない。話はワシの家でゆっくりするから待ってくれんかの」
村長は何やら神妙な顔つきになりながら手綱をさばく。村長の家には妻が3人、それに子供が8人、孫が2人いたはずだ。

狭い渓谷道を前後して2頭の馬は歩を進めたが、しばらくすると村落に入り、間もなく村長の家が見えてきた。白い漆喰で壁を固めた大きな家屋であったが、家畜小屋や納屋が併設されている。別妻やその子供たちの住む家屋は別棟となっている。アドラは村長の住む母屋の客室に通された。アドラも村長の家に何度か相談事で呼び出されたが、客室に通されたことは一度もなかったので彼も緊張した。いったい何の話なのか訝しがった。
神妙に座るアドラの前に少年がチャイを運んできた。間もなく村長が一人の男性を連れて入ってきた。
「待たせてしまったな、アドラ。紹介しよう、この男がワシの第二婦人の息子アルシャッドだ。」
紹介されたアルシャッドはアドラと同じ35歳、今は父親の仕事の窯業を引き継ぎ、イスラマバードやカラチなどで手広く商売をしているらしい。会うのは初めてであったが、何やら抜け目のない商売人の笑みを常に浮かべているアルシャッドに、アドラは何となく反感を持った。自分のように田舎育ちで真面目だけが取り柄の人間とは住む世界が最初から異なることは本能的に感じたのだ。
「アルシャッドと申します。いきなりお越しいただいて恐縮です。なにせ父がこういうせっかちな性格なものですから。お詫びに私の竈で作った瀬戸物をお持ちしました。お気に召して頂ければ幸いです」
アドラは不快の表情を露わにして村長とアルシャッドに向かって言った。
「初対面の方に理由もなくこんな高価な品物は頂戴できません。私は仕事を途中で投げ出してわざわざ連れてこられたのです。他に用がないのなら作業場にこれから戻ります」
言い終わるとサッと立ち上がりドアの方へ歩き始めた。
村長は慌ててアドラを引き留め長椅子に再び座らせた。
「いや、悪かったアドラ。アルシャッドも気忙しい性分でな。説明もしないでいきなり品物を贈るというのはいかにも無礼だ。おい、アルシャッド、謝れ!」
アルシャッドは卑屈なくらい頭を下げて無礼を詫びたが品物は引っ込めなかった。
「実はな、アルシャッドの妻が半年前にイスラマバードで不幸なことに交通事故で亡くなってしまった。お前も村の葬式では参列してくれたから覚えてくれているだろう。8歳の双子の女の子がいたんだが、今では父子家庭となりアルシャッドも娘たちも不便なことこの上ないのだ。ワシも息子の後妻探しに奔走したのだが、良い候補がなかなか見つからんでなあ。そんな時、ひょんなところからアドラ、お前の娘のヤスミンの話を聞いたんじゃよ。隠していてすまなかったがヤスミンについて人からいろいろと聞いてみた。ワシもそれとなくそっと近寄ってみたこともある。ヤスミンはワシの探していた息子の候補にピッタリなんじゃよ。そこでな、そのヤスミンにウチに来てくれないか、というのがワシとアルシャッドの願いなんじゃ」
アドラにとって寝耳に水、驚きで言葉も出なかった。しかも相手が自分と同じ年のアルシャッドという商売人でイヤミな男だ。ここは父として何としても娘を守らなければならない。
「ウチのような貧しい家の娘が畏れ多くも村長の家に嫁ぐなどというのは身分不相応、前代未聞です。ヤスミンは小さいころから羊飼いとして育ててきました。女らしい細やかな配慮や御商売の手伝いなどできるはずもありません。アルシャッドさんのように都会で商売をなさっている方の伴侶となるなど、土台無理な話です。それに彼女はまだ13歳、この村では15歳で嫁入りするのが習わしです。一方のアルシャッドさんは私と同じ35歳ですし、あまりにも年齢が離れすぎています。そういう意味からもこの縁談には無理があります。お話しは有難いのですが、はっきりお断りします」
アドラの答えを予想していたかのように村長は喋り始めた。
「いや、アドラの言うことはもっともだ。13歳の娘をいきなり父親ほど年齢の離れた男の後妻に差し出せと言われれば腹も立とう。それに嫁ぎ先がイスラマバードという都会、不安でもあろうのう。しかしな、このアルシャッドがヤスミンにゾッコンなんじゃよ。親の欲目かもしれないが、この男は女遊びなどしたことのない商売一筋の男じゃ。そりゃあ村育ちのお前から見れば抜け目のないイヤミなヤツに見えるかもしれないが、もちろん敬虔なイスラム教徒でもありアッラーの教えを忘れるような男ではない。それにこういう話は憚れるが、アルシャッドはワシから商売を引き継いで後、ずいぶん成功してそれなりの財産は持ち合わせておる。ヤスミンにそういう面での苦労はさせまいて。もちろんこの話、今すぐ返事をくれと言うつもりは毛頭ない。半年、いや一年後でもかまわん。考えてくれんか」
村長は哀願するような目でアドラを見つめている。息子のアルシャッドも先ほどの勇み足から神妙な表情で父親の話を頷きながら聞いている。しかし彼がどういう男であれ、今稼ぎ手のヤスミンを嫁がせてしまえばウチのような貧しい家のやりくりにも響いてくる。いくら村長の頼みごとであっても受け入れられない。すると黙っていたアルシャッドが話し始めた。
「いきなり図々しいお願いをして申し訳ありません。しかし私の気持ちはさきほど父が申した通りなのです。もしアドラさんがこの申し出を受け入れて頂けるのなら、このアルシャッド、命に代えてヤスミンを守ります。また他の女を決して妻として迎え入れないことを固く誓います。そして僭越ではありますがアドラさんのご家庭もお助けすると約束します」
彼の話を聞いていてますます断る決心を固めた。「アドラさんのご家庭もお助けする」とは何だ?貧乏人をバカにするのもいい加減にしろ。
アドラは低い声で質問した。
「“ウチをお助けする”、とはどういう意味でしょうか?アルシャッドさん」
アルシャッドは当たり前のような冷静な表情で言い放った。
「言葉足らずで申し訳ありませんでした。もしヤスミンを頂けるのならアドラさんに年間50万パキスタン・ルピ―(約50万円)を差し出すつもりです。」
アドラは怒りでものが言えなかった。人の娘をカネで買えると思っているヤツがなぜ敬虔なイスラム教徒なのか、村長の人格までも疑い始めていた、とにかく今日は話にならない。さっさと引き揚げよう。
「今日のお話はたとえ1年後であっても答えは変わりません、それでは失礼します」とアドラは腰を上げて二人に一礼して広い客間の後方のドアに向かった。
「アドラ、息子の言い方が悪かったなら謝る。もちろん断ってくれてもいいんじゃよ。しかしお前のお母さんの病気の容態が良くないと聞いておるんじゃ。イスラマバードにワシの知っている名医がおるで、この話とは別に紹介してもええんじゃが」
これまで村長のことをそれなりに敬意をもって接してきたつもりだったが、霧消した。振り向きざまに村長に言い放った。
「村長、息子さんが可愛いのは分かりますが、あなたがカネや人の弱みに付け込む人だとは思いもよりませんでした。これで私とあなたの関係は終わりました」
そのままドアに進みノブに手をかけたところでアドラの背中越しに、しわがれた声が聞こえた。
「ワシはのう、お前みたいな息子が欲しいんじゃ。そのためなら骨身を惜しまないぞ。いつまでも返事を待っておるからの」
アドラのノブを握る手が鈍った。村長が彼に信頼を置き、父親のような慈しみを持って接してくれていることはここ何年も感じていた。それは嘘ではなかろう。

村長の家を辞してから、さすがに職場に戻る気も起らず牛馬が行き来する市場の通りをトボトボと当てもなく歩いた。50万パキスタン・ルピ―と言えばアドラ一家の年間所得と同額に近い。そんな大金があればどれだけ一家の暮らしが楽になるか、考えるまでもない。そして最後に村長の言った「イスラマバードの名医を紹介する」という言葉がアドラの胸を突き刺す。今年50歳の母は原因不明の病で伏せている。多くの村民がそうであるように、このままではロクに医者にも診てもらえず最期の時を迎えることになろう。数年前に亡くなった父が死の床で残した「アドラ、母さんを頼んだぞ」という遺言が今頃になって彼の脳裏に浮かび上がるのであった(続)

第五話 13歳の決心

第五話 13歳の決心

高木が自宅に最終の私鉄で戻った時は午前1時を回っていた。鍵でドアを開け、就寝している両親を起こさないように、スーッと居間に忍び込んだとたん、台所から母親の声が飛んできた。
「コラッ、義夫、今いったい何時や思ってんの!またどうせ麗子さんと一緒やったんやろけど、アンタたちこれからどうするつもりやの?結婚する約束はしたの?」
やれやれ、また大阪出身オカンの攻撃が始まった。結婚しようとしまいとオカンには迷惑はかけねえよ、と言いたいところだが、そもそも母親とはそういうDDE的な心配を息子にすることを生き甲斐にするものである。無視してまた親子喧嘩になるのも面倒くさいのでテキトーに誤魔化しておこう。
「いや、まだそんな深い付き合いはしてないよ。婚約となればもちろん母さんには相談するから心配しないでくれな」とやんわりと逃げた。母親はまだ何か言いたそうだったが、高木はそのまま2階の自室へ逃げ込んだ。
今夜はまだ興奮状態から抜け切れない。アイツは常人じゃない、カリフォルニア大学で宇宙物理学を専攻していたというだけでも凄いのに、そこから急展開して京大の大学院で仏教を学ぶという発想はとてつもないヤツだ。スティーブとは前世で繋がっていた気がしてならない。アイツと話せば話すほど、なにか懐かしい親しみ深い気持ちになるのが不思議だ。しかし証拠がない限りそれは妄想にしか過ぎない。そんな思いを巡らせながら高木も床に入るとすぐに深い眠りについた。ここで高木は夢というには鮮明過ぎる光景を初めて見る。彼は1950年のパキスタンの荒野でヤスミンという羊飼いの少女になっていたのだ。そして父と兄の名前はそれぞれアドラ、イジャズ、そう、驚くべきことにスティーブが同じ晩カプセルホテルで見ていたものと全く同じ夢を見ていたのだ。

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街の市場を当てもなくうろつき回った父アドラであったが、蒼い三日月がモスクのドームに上る頃、ようやく家路についた。古い木戸を開けると妻のジャミーラが出迎えた。ジャミーラは家事、内職だけではなく病身の義母であるアーイシャの面倒も献身的にしてくれている。アドラ親子はジャミーラの愛情にいつも感謝している。病が重くなるにつれ気が弱くなり「いつもすまないねぇ、ジャミーラ。アタシなんか早く神様の元へ行かなきゃならないんだけれど、オマエに面倒掛けっぱなしだよ」などと呟くと、ジャミーラは「何を言うの、母さん。母さんの病気は私が絶対に治してみせます」と涙ながら訴え、汚れた下着類を洗濯場に運ぶのであった。そんな光景を見るたびにアドラはジャミーラを妻として迎えられた幸運をアッラーに感謝するのであった。

「おかえりなさい、アドラ。なんだか浮かない顔だわね。何かあったの?」
ジャミーラは15歳で嫁いでから16年たつ。ジャミーラに隠し事などは一切しないで来たアドラだが、今日の村長からの話をするのはさすがにためらわれた。村長には「縁談ははっきり断る」と申し渡したものの、やはりジャミーラにだけは事前に相談すべきだとも思っている。もちろん断るという結論に変わりはないが、ジャミーラに相談もせずにその場で断ったのはマズかったかもしれない。
「ジャミーラ、実は今日の畑作業中に村長が突然現れて、そのまま村長宅に来てくれと言われたんだよ」
アドラは今日の村長宅での出来事を詳しく妻に語った。人をバカにしたような縁談話をその場で蹴ってやったことも話した。カネと名誉とどちらが重いか、言うまでもなく名誉だ。ジャミーラだって自分と同じ思いのはずだ。ジャミーラはしばらく黙っていたが、やがて重い口を開いた。
「この話、あなたは断ったらしいけど返事はまだ待ってくれるのかしら。」
「うむ、村長はたとえ1年後であっても待っているとは言っていたな。」
ジャミーラはじっとアドラの目を見ながら言った。
「少し考えてみましょうよ、今すぐ断ることはないわ」
家計のやりくり、義母の面倒を一手に引き受けているジャミーラにとってみれば、50万パキスタン・ルピ―やイスラマバードの病院は喉から手が出るほど欲しいに違いない。いや、それはアドラにとっても同じだ。しかし一家の長として名誉にかけても承諾できない。娘や母親をカネで売るような恥ずべき行為はイスラム教徒の良心が許さない。家に帰るまでは確かにアドラの心も揺れていたが、今はハッキリと断るべきだと再び心を決めた。
「ジャミーラ、正直なところオレの心も揺れていた。村長が最後に“お前のような息子が欲しい”と言われたことがいつまでも心から離れなかった。しかしなあ、経済的な見返りと後妻のクチとを交換するのは一家の恥辱だ。それに何より幼いヤスミンが憐れだよ。オレと同じ年の男に嫁ぐなど可哀想だ。」
ジャミーラはジッと聞いていたが、やがて
「あなたはキレイ事ばかり言っている。私がこの家に嫁いでからどれだけ苦労しているか、あなたは分かって言っているの?」
ジャミーラはこの家に嫁いで以来、どんな苦しいことがあってもグチの一つもこぼさなかった女だ。今初めて聞かされるジャミーラの怨念のこもった言葉にアドラはたじろいだ。
「ジャミーラ、お前の苦労をオレがこれまで毎日見ていることくらいわかるだろう。口にこそ出さないが、祈りの時にはアラーに向かってお前を妻に迎えたことを感謝しているんだ。ここはオレの言う通りにしてくれないか、頼むよ」
すると今まで夫の前で涙など見せなかったジャミーラが声を上げて泣き始めた。
「それならお母さんをあなたが治してあげてよ!お母さんの下着をあなたが毎日洗濯してよ!イジャズを学校に入れてあげてよ!」
魂の奥底から響くような声で叫び続けるジャミーラの前で、アドラは茫然とした。妻の叫びにアドラの心は引き裂かれる思いだ。
オレはキレイ事を言っているだけで、本当にツライ部分は全部ジャミーラに押し付けていただけではないか。今更ながら反省の念がアドラを襲った。
「すまん、ジャミーラ。このことは二人でゆっくり考えようじゃないか」
しかし彼女は泣きやまなかった。一家の名誉を重んじるのは女であっても同じ、ましてや愛する娘をカネと引き換えに手渡すなど、ジャミーラにしてもはらわたが煮えくり返る思いなのだ。それでも義母を助けたい、一家の暮らしを少しでもマシなものにしたいという渇望は止められない。この葛藤に彼女は今悶え苦しんでいるのだ。嫁いでからこれまでずっと抑えていた嗚咽を夫の前で吐き出しているのがよくわかっているだけに、アドラも自分の決心が吹っ飛ぶ思いであった。

父母のやりとりを木柱の陰で聞いていた少女がいた。二人がヤスミンに気が付くと、彼女は父と母に近づいて言った。「私、村長さんのお家に行ってもいいよ。だってあの村長さんって立派な人なんでしょ?父さんがいつもそう言っていた。その息子さんなら悪い人じゃないと思うわ。まだ私は13歳だけど、去年だったかしら隣村のアーイシャ姉さんが私と同じ年でこの村に嫁いできたじゃない。そんなに珍しくないことよ。」
これまで子供だとばかり思っていたヤスミンが思いがけないことを言うのでアドラもジャミーラも驚いた。ジャミーラは自分の言葉で無理やり娘に心にもないことを言わせていると思って、慌てて娘に向かって言った。
「ごめんなさい、聞いていたのね、母さんの話を。でもね、ヤスミンは私たちの可愛い娘だもの、いくら良い条件でも父さんと同じ年の男の後妻なんかにさせやしない。本当にごめんなさいね、ヤスミン。この話は父さんからもう一度断ってもらいます。」
ジャミーラもひとしきり泣いて心の冷静さを取り戻したようだった。今は娘を宥めるような口ぶりに変わっていた。
「ううん、母さん、私ね、羊飼いは止めて都会に出たいと前から思っていたのよ。一生こんな貧しい村で羊を追っているのもウンザリなの。お願い、父さん、母さん、この話は受けてください」
思いもよらぬ娘の言葉に夫婦は目を見合わせた。果たして本心で言っていることなのかどうか、二人は測りかねる様な表情で娘を見たが、ヤスミンの表情に曇りはない。
「ヤスミン、お父さんたちに気を遣う必要はない。貧乏だけれど家族で力を合せていけば何とか暮らしてゆける。お前のおばあさんもきっとアッラーのご慈悲で回復するにちがいない。お前はこのままこのウチにいればいいんだよ」
アドラもジャミーラと口調を揃えた。いずれ嫁がせるにしても13歳では可哀想だ。よし、もう既に断った話なんだから、そのまま放っておけばよかろう。ただ村長には家族会議の結果、やはり謝絶だということだけ儀礼上申し伝えておこう、そうアドラは思った。
「父さん、もう一度言うけど私はこのお話しは私にとって有難いと思っているの。そこをよく考えてね」
ヤスミンはそう言い終わると、家畜小屋へ掃除をしに行ってしまった。
土間で残された二人は沈黙したままだった。もちろんヤスミンは一家のことを慮ってくれているのは明らかだ。しかし一方で彼女が単調でキツイ寒村の労働に疲れ果てていることも事実だ。このまま村に残れば一生牛馬のように働かされ死んでゆく。そんな生活から脱出できるチャンスが来た、と子供ながら感じているにちがいない。そう考えるとヤスミンを父親と同じ年の後妻とはいえ、都会の裕福な家庭に嫁がせることが絶対に娘のためにならないのか、確かに迷うところだ。それに相手は曲りなりにもカシミール村の村長の息子だ。商人だから多少は計算高いところはあっても、そうそう無茶なことはできまい。アドラとジャミーラはそんな話をしながら、しばらく考えてみようということにした。

その晩、納屋の隣室でアドラ夫婦は眠れない夜を過ごした。もちろん二人とも考えていることは同じであったが、どちらも口が重く暗い天井を見つめている。三日月の光が木枠の西窓から差し込むころ、ようやくジャミーラが隣に横たわる夫に向かって口を開いた。
「ねぇ、あなた。ヤスミンはまだ子供だと思っていたのに、いつのまにあんな大胆なことを言うようになったのね。本当に驚いたわ。私ね、ずっと考えていたけれどヤスミンの決心に従ってあげたいの。あの娘の言う通り、この話であの娘が幸せになることだってあるかもしれない。だってこの村にいたってあの娘が幸せになれるなんて思えないもの。この話、受けてあげましょうよ。ウチみたいな家にはもったいないくらいな話だわ」
アドラも妻と同じ思いであった。しかし家長の面目やらプライドで、簡単に承諾できないところが苦しい。ましてや今日の昼にはっきり断っているので今さら撤回するのは、とても男としてできるものではない。返事のない夫に対してジャミーラは言った。
「あなたが村長さんに返事ができないなら、代わりに私が第二夫人のヌールさんのところへ承諾の返事をしてきてもいいことよ。あの奥さんは不思議と私と話が合うから、返事がしやすいし、それよりなにより承諾の返事をしてあげたら先方は飛び上がって喜ぶはずだしね」
アドラはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「すまん。ジャミーラ、そうしてくれ」

婚礼はカシミール村で三日三晩にわたって盛大に行われた。主賓は州知事夫妻、そしてあちこちの近隣村からも村長夫妻がやってきて祝意を述べた。カシミール村長も息子のアルシャッドも踊り歌い歓びを振りまいた。
「アドラよ、よう決心してくれた。今だから話すが、ワシはこの話は成就しないものと半分諦めておったのじゃよ。アドラ、お前の胸の内は言わんでもよう分かっておるぞ。しかし約束したことは守らんでは村長は務まらんからの。早速お前のお母さんをイスラマバードの病院で診てもらうよう手配したところじゃ。医師が言うにはそのまま入院となるらしいが、費用のことは一切心配せんでよい。それと息子が言っていた50万ルピーの話、あれも前払いで来年分を来月には渡せるそうじゃ。もし息子が約束を違えるようなことがあったら勘当するからの、こちらも心配無用じゃて。」
村長は有頂天になりながら喋り続けた。息子のアルシャッドもアドラの手を取り、涙ながら感謝の言葉を述べるのだった。
「アドラさん、今日からあなたは私の父です。息子の名に恥じぬようヤスミンを幸せにすることをアラーの名にかけて誓います」
これほど盛大な祝福を受けて嫁ぐことのできるヤスミンを見て、さすがにアドラ夫妻の表情もほころんだ。一家の名誉などよりも実質的な経済力のほうが大切なのかもしれない、と思い始めていた。しかし後になってその「名誉」を巡るイスラムの因習がアドラ一家を嵐のように襲うとは、アドラはもちろん婚礼に出席した誰ひとり思わなかったのだ(続)。

第六話 イスラマバード

第六話 イスラマバード

イスラマバードにあるアルシャッドの屋敷では、ヤスミンにとっておとぎ話のような生活が待っていた。夫となったアルシャッドはヤスミンを妻として、また娘のように溺愛してくれた。邸宅には召使が5人もいるのでヤスミンがしなければならない仕事などなかった。屋敷内はいつもピカピカに磨かれ、清潔な衣類がいつも用意され、またカシミール村では見たこともないような豪華な料理が大きなテーブルに並べられる。今年9歳になる双子の娘たちも姉くらいの歳の新しい母を慕った。三人はよく街の公園へ行き、そこでヤスミンはカシミール村の伝統的な子供たちの遊びや歌を教えるのだったが、都会育ちの双子はその珍しい遊び方をすぐに覚えた。すると公園にいた小さな子供たちも寄ってきて、みなで輪をつくりながら遊び始める。ヤスミンはこの上ない幸せを感じている。今頃父さんや兄さんは村で羊を追っているはずだわ、家では母さんがおばあちゃんの介護をしながら家事やら内職に励んでいる。でも私の住むイスラマバードは別世界、こんな贅沢な生活をさせてもらえるなんて思っても見なかった。結婚する前は不安でしかたがなかった。会ったこともない人のところへ、しかも行ったこともない都会へ嫁ぐなんて怖かった。でもイチかバチかの勝負に出て良かった。それにアルシャッドさんは父さんのところへ50万パキスタン・ルピ―を先週渡したって、母さんからの手紙に書いてあった。それにおばあちゃんもこの街の大きな病院に入院することができた。この前アルシャッドさんとお見舞いに行ったら、おばあちゃんは涙を流してアルシャッドさんにお礼を言っていたわ。あぁ、こんな幸運が突然めぐってくるなんて、一家そろってアッラーの教えを守って真面目に暮らしてきたご褒美なのね。

嫁いでから2年の月日が経った。おばあちゃんの病気はパキスタンでいちばんのお医者様に最新設備の施設で診てもらったおかげで日ごとに良くなって、もう全快だとの太鼓判を押してもらったのよ。退院の日、父さんがはるばるイスラマバードまでやって来て、アルシャッドさんに厚くお礼を言っていたわ。
「2年前、あなたから娘の求婚をされ私は随分と失礼なことを申し上げてしまったが、どうぞ許してほしい。アルシャッドさん、あなたには感謝しても感謝しきれない」
アルシャッドさんは
「いえいえ、アドラさんが承諾していただけなければヤスミンを迎え入れることはできなかったのですから、感謝するのは私のほうです」
こう言って父さんの手を握った。二人の間にあったわだかまりはこれですっかり解けたのよ。おばあちゃんは父さんに連れられてそのまま元気にカシミール村へ帰って行ったわ。

その年の秋、ヤスミンは妊娠した。15歳で妊娠することはこの国では珍しいことではない。
妊娠を知りアルシャッドは、「男の子を産んでくれ。オヤシが生みオレが育てたこの商売、ぜひとも男の子に継がせたい」と言うのであった。ヤスミンは
「そんなこと言ったって、どちらが産まれてくるかイッシャアラー(神の意のままに)だわ。元気な子が生まれてくればどちらでもいいわ」と微笑みながら言い返した。するとアルシャッドはやや顔を引きつらせて、つぶやくのだった。
「いや、何がなんでも男の子だ。そうでなければお前にイスラマバードまで来てもらった意味がない」
ヤスミンは夫の言う意味が分からなったが特に気にも留めずにいた。
数か月後に元気な女の子が生まれた。夫のアルシャッドは苦虫を噛み潰すような顔つきで「なんだ、また女か」と吐き捨てるようなセリフを吐いたきり産室から出て行った。確かに男の子を望んでいたことは知っていたが、初産の妻をねぎらうこともなく、しかめっ面で出て行ってしまった夫を見て初めてヤスミンは彼を憎んだ。神様から授かったこの子は何があっても私が守る、夫だってそのうちに分かってくれる。それにまだ私も15歳、これからまだ子供も産めるわ。そんなことを考えながら赤ん坊の柔らかな頭を撫でるのだった。
ヤスミンが女の子を産んでからというもの、アルシャッドの態度が激変した。それまで慈しむように若妻に接してきた夫が次第にヤスミンに対して暴力を振るうようになったのだ。最初は言葉で「お前を家の嫁にしたのは男の子を産んでもらうだめだった。それなのに女を産むとは何事だ!」と怒鳴り散らすだけだったが、やがて手を挙げてヤスミンを平手打ちするようになった。ヤスミンにしてみれば理不尽な夫の理屈だし、それで暴力を振るわれるなどということは思いも寄らなかった。それでもヤスミンは「あの人は男の子を熱望していたショックからまだ立ち直っていないんだわ。これまであの人はカシミール村の父さんや母さんに良くして来てくれたんだから、ここでは私がジッと我慢するしかない」と自分に言い聞かせていた。

しかしアルシャッドの暴力は日に日に増してゆくばかりであった。おまけにイスラム教徒であるはずなのに、いつのまに酒まで飲んだくれる始末である。パキスタンはイスラム国ではあるが酒は手に入り、酒場もある。しかし貧しい育ちながらも信心深いヤスミンにとって飲酒は恐ろしい光景であった。さらにひどいことに、家の中に妖しげな女たちまで連れ込むザマである。どこか売春宿か地下酒場でうろついている夫は、毎晩のように酔っ払って帰ってくる。しかしヤスミンはひたすら故郷の家族のことを思って耐え抜いた。
そんな辛い日々が続いたある日、ヤスミンは幼子のムニラを寝かしつけてようやく自分も眠りにつこうという頃であった。夫のアルシャッドはまだ帰宅していない。ムニラはスヤスヤとヤスミンの腕の中で眠っている。夫からひどい仕打ちをされてもこの子を授かったことだけは感謝している。穢れを知らぬ天使のような可愛さに、ヤスミンは心を洗われる思いであった。
廊下でドタドタと大きな足音がしたかと思ったら、部屋の思い扉が突然バタッと開いた。薄暗い寝室から扉の方を見ると、夫が扉を中から施錠してこちらに近づいてくる。両手に何か持って入っているようだ。吐く息は酒臭く、今夜は泥酔していることは明らかだ。目だけは薄暗い寝室で炎のように燃え盛っている。ヤスミンは恐怖のあまりムニラをギュッと抱きしめてベッドの上で縮こまった。
いきなり夫は握っていたムチを振り上げて叫んだ。
「お前のような女を嫁に迎えるのではなかった。なぜ女を産んだ!なぜ男の子を
産まないんだ!そんな女はただの穀潰しの役立たずだ。このアルシャッドがアラーに代わって成敗してくれようぞ」
ムチはヤスミンを目がけて飛んできた。背中に激痛が走る。それでもヤスミンは耐えた、この人もきっと苦しんでいる、今はただ耐えるだけ。でもムニラだけは私が絶対に守る。しかしムチの先はそのうちムニラの柔らかい肌にも命中した。ムニラは火が付いたように泣き叫んだ。
「あなた、お願いだからムニラだけには手を出さないで。この子に何の罪があるというの。後生だからやめてください!」
アルシャッドは手を緩めなかった。
「こんな赤子など今夜こそお前と一緒に地獄に墜ちるがいい。これぞ神の思し召しだ」
夫は完全に狂っていた。アルシャッドのムチはビュンギュン飛び、ヤスミンとムニラの絶叫が響く地獄絵図。ヤスミンは次第に気が遠くなってきた。
その時、扉をドンドンと大きな音で叩く者があった。使用人のアクバルで、今夜は警備で宿直していたのだ。夫妻の寝室から異様な女の叫びが聞こえたので驚いて駆けつけたのであった。
「奥様!どうかされましたか?鍵を開けてください。どうしたのですか?」
アクバルは大きな扉を全力で叩き続けたが、依然としてヤスミンの絶叫とアルシャッドの低い罵り声が聞こえるだけで反応が無い。アクバルは建物の外側に素早く廻って寝室内を窓から覗き見た。アクバルは躊躇なく窓ガラスを手に取った石で叩き割って寝室に飛び降りた。

アルシャッドは驚いて振り返りながら窓ガラスを破って侵入していきた使用人に一喝した。
「おい、アクバル!夫婦の寝室に窓ガラスを破って入り込むとは、気でも狂ったのか!」
アクバルがベッドの上のヤスミンを見ると、ぐったりとして動いていない。もしかしたら気を失っているのかもしれない。ただ娘のムニラだけはしっかりと腕の中で抱きしめている。ムニラは泣き叫んでいる。
「ご主人様。これはいったい何の真似ですか?ムチで奥様とお嬢さんを打つなど、どうにも尋常ではありませぬ。いくら使用人の私でも見過ごすわけにいきません」
アクバルも必死の形相でアルシャッドを睨んだ。
「ワシの持ち物に何をしようとワシの勝手だ。お前は今日限りクビだ。さっさと出てゆくがいい」
アクバルは正邪の区別はもうついていない。邪魔をする者は皆自分の敵だと思っている。
「私をクビにするのは構いませんが、そのムチを私に渡してくれるまでここを動きません」
「何を!生意気なヤツだ。ようし、お前もムチで制裁してくれる!」
アルシャッドが右手のムチを振り上げた瞬間、後ろ回転したアクバルの左足がアルシャッドの胸を蹴りあげた。アクバルはクシュティーというパキスタン武道の最上有段者であったのだ。アルシャッドは声も上げずそのまま地面に崩れ落ちた。
アクバルは即座にヤスミンに近寄った。やはりあちこちに擦り傷がある。しかしアルシャッドが泥酔していたことも幸いして、それほど深く切り込まれてはいなかった。アクバルは水を入れたコップを持ち、ヤスミンに飲ませたところ彼女も目を覚ました。まださっきからの恐怖に慄いていたが、床に倒れているアルシャッドを見てようやく事態を理解した。
「奥様、とにかく早くこの屋敷を離れましょう。とりあえず今夜は私のアパートへお嬢様と一緒に隠れるのが良いかと思います。そこで傷の手当もしましょう。さあ、急いでここを出ましょう」
ヤスミンは救世主でも拝むような目でアクバルを見つめた。しかしアルシャッドは死んでしまったのだろうか?恐る恐るきいてみた。
「大丈夫です、死にはしません。ちょっとお休み頂いているだけです」
三人は寝静まった屋敷を忍び足で脱出し、夜陰の中裏通りを選んで歩き、ようやくアクバルのアパートへと逃げ込んだのであった。

恐怖から解放されたヤスミンは、アクバルのアパートの居間で娘のムニラと正午過ぎまで眠った。目が覚め狭い居間を見渡すと、掃除も行き届き清潔に保たれている。ヤスミン親子も洗い立てのシーツにくるまってソファで眠ることができた。ムニラはまだスヤスヤと眠っていたが、ヤスミンはそっと居間から廊下の方を覗き見た。すると角からアブダクが突然現れたのでヤスミンは思わず居間に逃げ隠れた。夫からひどい仕打ちを受けて、まだ小動物のようにビクビクしている。するとまたアクバルが居間に入ってきてヤスミンを手招きするのであった。そうだった、ここは私の命の恩人のアクバルのアパートだったわ、手招きする方へ進むと、台所に小さなテーブルがあり、そこで二人は座った。

「もう二度とあの男のところへ行ってはいけません。私もクビだそうですから行きません。あのアルシャッドという男は、二重人格なところがあって、普段は慈しみ深い夫であり父でもあるのですが、何かの拍子に突然変異して暴力を振るったりするのです。彼の前妻のときもそうでした。前妻は交通事故死ということになっていますが、どうも事故に見せかけた殺人だったような気がしてならない。アルシャッドは地元警察だけではなく暴力団ともつながっているからここにいたのでは危ない。私も窓ガラスを破って侵入したうえ、アルシャッドの胸元へ足蹴りを入れて気絶させたのだからタダでは済まないでしょう。一刻も早くこのイスラマバードを出ましょう。幸い隣国のアフガニスタンの首都カブールにクシュティー武道場があり、前から手伝ってくれないかという誘いを受けています。アフガンまではさすがに追手は来ないでしょう。国境も金次第で越えられると聞いていますので、今すぐにここを出ましょう。ボロ車ですがお嬢さんも乗せられると思います。」
ヤスミンは事態の急転直下に戸惑いながらも、アブダクに母子の運命を預けるしかなかった。
「私たち親子を連れて行ってください。私も夫のところには二度と帰りません。でも着の身着のままで逃げられるんですか?お金はあるのですか?私は1ルピーだって持ってませんのよ」
寝室の金庫に大金が隠してあったのに、それを持ち出さなかったことを今更のようにヤスミンは悔やんだ。するとアブダクは不適な笑みを浮かべてこう言った。
「なあに、ヤスミンの手切れ金とオレの退職金を合せて30万ルピーを寝室の金庫から失敬してきた。もはや背水の陣だよ、ヤスミン」

三人は最低限の身支度だけするとすぐにクルマに飛び乗り、イスラマバードからカブールまでの約500キロの道を埃を巻き上げながらひたすら走った。幼いムニラは蒸し暑いクルマの中で泣き続けた。ヤスミンはあやしたり乳をやったりするが、替えのオシメも持ってこなかったので座席シートのタオルを使った。とにかく全速力でカブールまで走り飛ばすしかない。ここで追手に捕まればすべては終わりだ。アクバルの決死の形相を見ているとヤスミンも必死になってムニラを抱きかかえるのであった。(続く)

第七話 オキテ

第七話 オキテ

ヤスミンが幼子を連れて使用人と真夜中に逃亡したとの知らせは、カシミール村にもその翌週には届いていた。当のアルシャッドがカシミール村の父を訪ね、使用人と内通していた妻が就寝中の夫を暴力でアブダクを使って倒し、二人で金品を奪って逃げたという話にすり替えていたのである。それを聞いた村長は激怒し、アドラを呼びつけて叫んだ。
「恩を仇で返すとはよく言ったものだ。息子の話では二人はアフガニスタンに逃亡したらしい。国境でそれらしき二人を見たという目撃証人がおる。首都カブールでも二人らしき姿を見たという男もおるわい。パキスタン警察から地元の警察に捜査してもらっているところじゃ。いずれにせよ、どんなことがあっても二人は捕まえてみせる。パキスタンに戻ったらどんな制裁が待っているか知ってるの、アドラよ」
ヤスミンに限って使用人と通じて金品を盗み逃亡するなど到底考えられない。アドラは必死に抗弁した。
「ヤスミンはそんな大それたことができる娘ではありません。何かの間違いに決まっています。誤解です!」
もし捕まれば娘の命が危ない、アドラは顔を蒼くして叫んだ。
「誤解も何もアルシャッドの胸の傷が何よりの証拠じゃ。一撃で大の男の肋骨にヒビを入れることができる男はアブダクしかおるまい。」
ヤスミンを信じきっていたアドラだが、ヤスミンが使用人と逃亡したことが事実だとすれば、どんな言い訳をしようとも逃れられない。カシミール村では夫に反逆する女は殺されても仕方がないのだから。不条理とは思いつつ、アブダクは暗澹たる気持ちでジャスミンが捕まらないことだけを祈る毎日であった。

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イスラマバードからの決死の脱出から1年が経った。アフガニスタンの首都カブールで、ヤスミン、ムニラ、そして今では夫となったアブダクの3人は慎ましいながらも平穏な生活を送っている。アブダクはカブール市内のクシュティー武道場の師範として雇われている。年齢はまだ25歳だが、かつてパキスタンではクシュティー大会で必ず上位に入る実力者のアクバルである。また技術だけでなく武勇精神に富んでいて礼儀正しく、また弱きを助け強きを挫くという任侠な心も持っており、ここアフガニスタンでは青少年たちへの実直な教育者として先輩師範からも一目置かれている。
そんなアクバルに17歳のヤスミンは初めて恋心というものを抱いた。これまでヤスミンにとって男とはカネと暴力を振りかざす凶暴な存在でしかなかった。特に前夫アルシャッドは思い出すだけでも汚らわしい野獣であった。あの晩、もしアクバルが助けてくれなかったら、私とムニラは本当に殺されていたかもしれない、それをアクバルがすべてを投げ打って裁いてくれたんだと思うと感謝で涙が溢れてくる。これが愛というものなのね、この人のためなら命を捨てても惜しくないと心底思っている。それにアクバルはムニラに愛情を注いでくれている。血のつながらない娘をこれほど愛してくれるアクバルは私にとって神様と同じ。イスラマバードのような薄っぺらな贅沢なんかいらないわ、ここで一家3人で暮らせれば十分に幸せなの。
そんな日々が続いたある日、アクバルが道場から帰るなり浮かない顔で言った。
「今日も道場の周りを見知らぬ男がウロウロしていたよ。オレの方をジッと見つめながらメモに何か書いているんだ。近寄ったら、いつのまにかスッと消えやがった。ヤスミン、お前の周りにそんなヤツはいないか?」
そう言われてヤスミンも一つ思い当たることがあった。街の市場で買い物をして、家に帰るまでずっとヤスミンを尾行しているような女がいたような気がする。家に入るとその女はスッと消えたけど、道中ちょっとだけ目が合ったときの眼光の鋭さが異様だった。
「そうか、やっぱりお前も尾行されているのか。国境を越えたアフガンにまではパキスタンの警察権は及ばないはずだから大丈夫だとは思うけど、一応用心しておこうな」
二人は知っていた。パキスタンでの窃盗・逃亡事件で万が一パキスタンに身柄を引き渡されれば、夫のアクバルは懲役、そしてヤスミンはカシミール村に引き渡され恐ろしい処罰が待っていることを。
その翌日であった。アクバルが道場での指導を終え、武具を倉庫に片付けていたところへ、数人の男たちが入ってきてアクバルを取り囲んだ。
「アクバル・イズラミルだな。われわれはカブール警察の者だ。お前が2年前にイスラマバードで犯した窃盗及び暴行につきパキスタン政府及びICPO(国際刑事警察機構)から捜索及び逮捕の依頼が来ている。それにわが国に密入国した証拠も取ってある。この場で逮捕する」。
さすがの有段者アクバルも警察の屈強な男たちに突然囲まれてはどうしようもない。力なく手錠をはめられ、そのまま護送車で警察署まで連行された。

警察署の取調室には予想通りヤスミンが机に向かって娘のムニラを抱きかかえて座っている。顔色は蝋人形のように青白く、無表情であった。幸いなことにはムニラは熟睡している。おそらく授乳直後なのだろう。待ち構えていた取調官がアブダクに向かって言った。
「アブダクよ。お前がパキスタンでもこのアフガンでもクシュティーを通じて青少年の育成に貢献していることは皆が称賛しているところだ。お前のような有能な男を監獄にはブチ込みたくない。まずは正直にわれわれの質問に答えることだ。
パキスタン警察からの罪状によるとお前はここにいるヤスミンとともに30万パキスタンルピ―を盗んだうえに国境を越えて逃亡したと書かれている。またお前はその際、アルシャッドと名乗る商人の胸に足蹴りをくらわせ、肋骨を折るケガをさせたというのだが、これをお前は認めるか?」
アクバルは抗弁した
「私の行った行為の罪状を認めます。しかしこれには大きな理由があるのです。あの晩、ヤスミンの夫であるアルシャッドは泥酔状態でここにいるヤスミン親子にムチで暴行を加えていたところを目撃し、私がやむを得ず窓から侵入してアルシャッドの暴行を止めさせたのです。あの場合、言葉で彼の暴力を止めさせることは到底不能と考えたのでやむを得ず彼の胸を蹴りました。ヤスミンには全く罪はなく、むしろ彼女は被害者だったのです。」
取締官はしばらく隣の若い警察官と何やら小声で話していたが、やがてこう言った。
「事情は理解した。お前の話はパキスタン警察の捜査理由とほぼ一致する。しかし我々はこの話はもともとヤスミンがお前をたぶらかしてやらせた事だと認定する。日頃から夫に不満を持っていたヤスミンがアブダクを夜中に手引きして暴力をふるわせたものと認定する。これより二人は拘置所へ護送されるが、アクバルは簡易裁判所でおそらく一ヵ月の強制労働の判決を経て釈放になる見込みだ。ヤスミンはパキスタン警察の申し出通り、明日彼女のカシミール村へ護送することになろう。アクバルも同じくイスラマバードへ護送することもできるが、アクバルはアフガンにこのまま残り、罪の償いとしてなお一層クシュティーを通じてわが国に貢献してもらう」
アクバルが叫んだ。
「そんなバカな話はないだろう!それならヤスミンもこの国に残してくれ!彼女がカシミール村に戻れば間違いなく殺される。そんな理不尽なことは許さないぞ!」
「いや、これはすでにわが国政府とパキスタン政府と折衝して決定されたことなので覆ることはない。ヤスミンが国境を再び越えてその身に何が起きようとも、それはわが国の関知するところではない。そもそもお前たちもこちらへ不法入国してきたはずだから、文句は言えないと思うがね」
それだけ言い放つと、若い警察官は手錠をつけたアクバルを立たせ歩かせた。ヤスミンを見ると悲しげな目に一杯の涙を浮かべている。そして一言だけ言い残した。
「ごめんなさい、アクバル。これでさようならだわ」
アクバルは何か言おうとしたが、もうドアの外へ追い出されていた。絶望だ、ヤスミンは夫への裏切りというでっちあげられた理由で「名誉殺人」の名のもとにカシミール村で死刑になるにちがいない。あの晩、オレと逃亡したばかりにこんなことになった。アクバルは懺悔の念で嗚咽しながら拘置所まで歩いた。

アフガンを強制退去となったヤスミン親子は護送車で2年前と同じ道をたどりイスラマバードへ連行された。ここで形ばかりの尋問が行われた後、そのままカシミール村へ引き渡されることになった。この村では弁明も裁判すら行われない世界である。カシミール村は村長にすべての権限が与えられており、中央政府の影響力は事実上及ばないのが現実である。したがってヤスミンに対する生殺与奪権は村長にある。
パキスタンでは21世紀の今日でも親族の女が夫以外の男と性交渉を行ったり、親の決めた結婚以外の男と逃亡した場合は、一族の名誉を毀損したとして男たち、多くは父親や兄たちに殺されることになる。実際にこの村でも過去においてそういった事例が何件かあった。カシミール村では村長の形式上の許可を得てから娘たちを手にかけるのであった。親族たちは悲しむわけでもなく「一族の名誉を守るため」としてむしろ誇らしげな態度で臨むことすらある。
ヤスミンは村の牢獄に繋がれた。さすがにムニラだけは村長の孫ということもあり、そのまま村長宅の第一夫人に預けられることになった。牢獄に繋がれたヤスミンのところに村長がやって来た。
「ヤスミンよ。今回の事件、つじつまが合わないので息子に問い詰めたところ、せがれは真相を白状しよったわ。とんでもないことをしでかしたわい、あのバカ息子は。あんな息子と結婚させたワシにも責任がある。息子は反省してお前の命乞いを今更ながらしとるわ。しかしのう、ヤスミン、あの晩にイスラマバードの屋敷を使用人と逃げ出した、しかもカネまで盗んだあげくアフガンで結婚していたという事実は消せないんじゃよ。イスラムの女が忌むべき非道なことじゃ。お前の処分についてはお前の父アドラに一任したがの、彼もやはり一族の名誉を重んじる男であるがゆえに苦しんでおる。もちろん今回の事件の真相を知ったうえでのことじゃが。どうしたものかワシもホトホト困っておるんじゃ」
ヤスミンは無表情な顔で答えた。
「ムニラさえ育ててくれさえすれば、私はもうこの世に未練はありません。イスラマバードでぜいたくな生活を望んだバチが当たったのです。ただ一つだけ希望を言わせてもらうならば、私は父さんではなく兄さんの手にかかって死にたい。小さいころから一緒に羊を追いかけたり、野山で一緒に遊んできた兄さんなんだもの。それくらいの我がままは許してください。お願いです」
村長は突然突っ伏して泣き出した。
「すまん、ヤスミン。悪いのはアルシャッドとワシじゃ!本来ならアルシャッドが殺されるべきなんじゃ。しかし村には村のオキテがある。お前のような罪もない少女までがそのオキテの餌食になるなど、ワシも初めて自分が村長であることを憎むぞ」

「名誉殺人」の執行は翌日と決まった。今回の事件の真相が明らかになり、村の長老たちからも助命の声が上がった。こんなことで17歳という若さのヤスミンが殺されるのはあまりにも理不尽だ、もともとはアルシャッドの家庭内暴力が原因だ、せめて特例として今回は村のオキテではなくイスラマバードで裁判にかけることはできないのか…いろいろな意見が出た。またヤスミンの母のジャミーラは、自分も一緒に殺してくれと狂ったように叫び続けている。
もちろんアドラも全く同じ思いである。しかしここでカシミールの伝統を破れば、子子孫孫まで一族の名誉に傷がつく。たとえ村民が許してくれても一家の長として娘の犯した逃亡罪を見逃すわけにはいかない。それは理屈ではなくオキテだから。
刑執行の前日の晩、特別にヤスミンは釈放され懐かしいアドラの家に戻った。既に逃亡の意思などなく、見張りも付かなかった。4年ぶりに里帰りしたような懐かしい思いでヤスミンは家に入った。
「あぁ、ヤスミン!何てことになってしまったんでしょう。私はね、お前が死んだあと、すぐに後を追おうと思ったのだけれど、村長がムニラを私に預けたいと言うのよ。だから可愛い孫娘をお前だと思って育てることにしたわ」
「母さんにムニラを育ててもらえるなら、これほど安心なことはないわ。ありがとう」
母と娘は涙でもう言葉が続かない。
「ヤスミン、お父さんを恨んでいるだろうな。お前の命を助けることもあるいはできたかもしれない。しかしイスラマバードへ嫁にやったときも名誉よりとカネを重んじてしまった。今回までも名誉を軽んじてお前を助ければ、この一族は未来永劫に恥を晒すことになる。事情は村長からもアルシャッドからも聞いてはいるが、村のオキテに従ってくれ」
アドラの苦渋の決断は、狂人のようにも映る。しかしこの時代のパキスタンの寒村、すべては因習が支配する世界で誰がアドラを責められるだろうか。

その晩、ヤスミンは兄のイジャズと並んで寝床についた。
「兄さん、私ね、死んでもまたどこかで兄さんと会えるような気がするのよ。いつ、どこなのかはわからないわ。でも小さいころから私は兄さんのことが大好きだった。そりゃあ兄妹だから時にはケンカもしたけど、すぐに仲直りしたものね。そんな兄さんが死んだ後も私のことを追いかけて来てくれる、そうそう、羊を追うように走って来てくれそうね」
「ヤスミン、オレも同じことを考えていた。いずれオレもお前を追ってあの世へ行くだろう。でもしばらくしたらまた魂はこの世の中に戻ってくるらしい。コーランの教えでもそういう一節があるんだよ。オレはなぁ、ヤスミンと来世でもう一度羊飼いをやりたい。今度はカネに目が眩んでイスラマバードなんかに行くんじゃないぞ」
イジャズも微笑みながらも天井を見ながらつぶやくように言った。
夜も更けてきた。久しぶりの実家で安心したのか、ヤスミンはいつのまにか窓から入る月光に顔を照らされながら寝息を立てている。執行は明朝だが、兄イジャズは既に一つの決心をしている。ヤスミンに死の苦しみと恐怖だけは味わせたくない。安らかに寝入っているたった今、彼女に安らかに永眠させてやるのがせめてもの思いやりだ。イジャズはそっとヤスミンの顔を覗き込むと、大きな骨ばった両手をヤスミンの首にかけ力の限り締め付けた。ヤスミンは一瞬目を開けたが、そのまま優しい表情で息絶えた。まるで夜露が消えて行くようなはかなさであった。妹の死を確認すると、イジャズは枕元に用意してあった小刀を取り出した。そしてそれを自分の心臓を目がけておもむろに突き刺した。間もなくイジャズも絶命した。

翌朝、兄妹の遺体が発見され、手厚く麓にある共同墓地に葬られた。イジャズは短い遺書を残していた。
「イジャズ・アブラハム及びヤスミン・アブラハム兄妹は来世再びめぐり会うことを固く誓う」
この兄妹の壮絶な自害に村民たちは皆号泣した。間もなくアルシャッドが自害したとのニュースがイスラマバードの地元新聞の片隅に掲載されることになる。(続く)

最終話 邂逅(かいこう)

最終話 邂逅(かいこう)

2017年8月15日 終戦記念日
62年前のあの日と同じように朝からうだるような朝。高木もスティーブも午前8時には出社している。高木は日本の蒸し暑さに慣れているが、スティーブはカリフォルニアの爽やかな気候に生まれ育っているのでさすがにグロッキー気味である。しかもオフィスは省エネで28℃設定なので、暑がりのスティーブには過酷な環境である。
高木は昨夜見たパキスタンの羊飼い娘のストーリーを反芻していた。最期は「名誉殺人」の名の下で兄イジャズに絞殺されるのだが、あのイジャズの声は間違いなく高木の目の前で麗子に「おでこ冷却シート」で手当てしてもらいながらヤニ下がっているスティーブの声だ。たった一晩であれだけ長い物語を夢で見られたのは奇妙、あたかも自分の頭の中に埋め込まれた小型爆弾が一気に炸裂したかのようである。
今日はいつもより仕事がヒマだった。そもそも終戦記念日に日米サラリーマンが机を並べて働くのもイヤな感じ。正午の黙とう時、さすがにスティーブはどこかに消えていた。どこの国でもそうらしいが、宗教や人種が異なる混成の職場はいろいろと難しいらしい。そうしているうちに突然停電になった。エアコンも停止したが窓は開けられないビル設計になっている。南向きの職場の室内温度はグングン上昇し、温度計は35℃近くまで上がってしまった。もちろん扇風機もなくまさにサウナ状態。東電ホームページの臨時ニュースによれば電力使用量がこの暑さでピーク想定を越えてしまったために停電となり、復旧の見込みが立たないらしい。職員は一様にウンザリ顔になったその時、汗だくになりながら社長が階段を降りてきて入ってきた。「今日はもう店じまいだ。みんな帰っていいぞ、ご苦労さん!」と各階を廻って指示していた。そりゃそうだ、こんな暑くちゃ仕事にならない。第一パソコンが使えない。
思いも寄らぬハプニングであったが、早く退社できるのは皆ハッピーには違いない。オレは麗子に「折角だから久々にビアホールでも行くか?」とラインしたら「OKよ、でもスティーブも誘ってあげてね」ときやがった。
しまった!誘う順番を間違えた。今日のオレのお相手は麗子じゃなくてスティーブだった。オレが昨日見た夢についてアイツを問いただすチャンスだったんだ。でもこの前も3人で楽しく飲めたしスティーブとも輪廻転生について話せたから今回もそういう調子でよければ、と麗子にラインを返したら「私も少し勉強したから大丈夫よ」との速攻リプライ。うむ、この前は駅前でグズグズ泣いていた麗子だがそれにもめげずに勉強していたとはたいしたもんだ。いや、それはオレの誤解で実は麗子のやつ、あの仏僧スティーブに惚れちまったんじゃねぇか?よもや終戦記念日に麗子を奪回されることはないとは思うが、油断はならないな。
昼飲みできる場所となればやはり神田の蕎麦屋「まつや」であった。まだ時間が早いので客の入りもまばらである。いつものテーブル席に3人は陣取った。今日は珍しくスティーブもビールを飲むと言うのでキリンラガーを2本、焼鳥、板わさ、そばがき、それに酒盗と定番を注文した。
「いやぁ、日本の夏はものすごく暑いですね、いや蒸し暑いんですね。これはもうビールでも飲まなきゃやってられませんよ。ワタシはこれから酒飲みになります」とスティーブは言い放った。なんだ、コイツの禁酒も随分とユルかったんだな、まぁいいや、楽しく飲めればそれでいい、などと思っていた矢先にスティーブの爆弾発言が飛び出た。
「高木さん、お願いです、麗子さんをワタシに譲っていただけませんか?」
はぁ~!意味わかんねぇよ。スティーブ、お前この暑さで気でも狂ったのか?
すぐにスティーブの言葉を否定するはずだと思って麗子のほう見たら、なぜか俯いている。
「おい麗子、そういうことだったのかよ。ハッキリ言えよ」
さすがにオレも声を荒げた。
「ごめん、ヨッちゃん」
それだけ言ってまた俯いた。あぁ~、怒るよりもうバカバカしくて話す気にもならねぇな。もちろん別の男が好きになるのは仕方ない、でもそれならそれで自分から直接オレに仁義を切るべきだ。それをなんでスティーブの口から言わせるんだ?お前は卑怯で臆病、サイテーの女だわ。侮蔑の目で麗子を睨んだ。
今日は終戦記念日だ。この前はスティーブにポツダム宣言してやったつもりだが、今日はスティーブから玉音放送を聞かされるハメになったわけだ。これも何かの巡りあわせかもしれない、と思うと麗子を罵る気力が失せた。
「そうかい、そりゃまぁ目出度いな。オレから言うのはそれだけだよ、ルイスさん」
アイ シャル リターンを果たしたスティーブは得意絶頂になる場面だが、そこは抑えて神妙な顔つきで「レイコさんを幸せにしてみせます」と頭を下げた。このヤロー、ウチを辞めたら麗子をサンフランシスコに連れて行くつもりなのがミエミエだわ。麗子もオレの方を潤んだ目で見つめながら「ありがとう」だってさ。この瞬間に円満に大和撫子の米軍への引き渡しが終わった。そういえばスティーブの入社した日に、課長が「われこそはと思う撫子は手を挙げて」というオヤジギャグを飛ばしていたそれが、まさか麗子になるとは思っても見なかったよ。でも今日はそれよりもスティーブに確かめなければならない話がある。

「麗子はお前にくれてやったんだから今日はスティーブと呼ばせてもらうぜ。昨夜のこと、実に奇妙な夢をオレは見た。場所はパキスタンの山村、年代は多分1950年代だと思うんだ、そこでオレはなぜか羊飼いの少女になっているんだよ」
それから13歳でイスラマバードへ嫁いだこと、夫から暴力を受けて使用人とアフガニスタンへ脱出したこと、警察に捕まってパキスタンに連れ戻され兄に絞殺されたことなどを詳しく話した。高木が話始めるとスティーブの顔色が変わった。酒肴には手も付けず、ひたすら高木の話はメモした。二人にとってあまりにも大事な話なので、お互いに話が不鮮明な部分は電子辞書を使いながら確認した。これはもう対話ではなく立派な作業である。およそ「まつや」に相応しくないテーブル席となってしまったが、高木の話が一通り終わるとスティーブはメモを見ながら言った。
「オレの見た夢とそっくりそのままだな。恐ろしいほどよく似ているよ。その村の名前はカシミールではないか?そしてオレの名前はイジャズ、父の名はアドラ、クシュテぃの名人はアブダクだろ」
今度は高木が驚く番だった。二人は全く同じ夢を見ていたことがわかった。高木とスティーブは60年前のパキスタンで兄妹あったことがわかったのだ。しかしそんなことがあり得るだろうか?それなりに輪廻転生や前世を図書館で調べてみたものの、自分の目の前にいるスティーブが60年前に兄であったとは俄かには信じがたい。しかし二人の見た夢の完全一致は紛れもない事実なのである。

麗子は冷酒をチビチビやりながらボソっと言った。
「それを確かめたいなら、二人でパキスタンのカシミールとかいう村に行ってみたら?」
女ならではの大胆な発想である。高木とスティーブは思わず目を見合わせた。二人の見た夢は確かに一致しているが、それだけでは二人の前世だと言い切れない。単なる偶然だということで終わってしまう。ここまで来てそれで終わるにはあまりにも惜しい。やはり何か決定的な証拠を掴みにパキスタンを訪ねてみたい。たとえ空振りに終わってもいいから、すべての力を出し切りたい。高木はパキスタン訪問を熱望した。

「ヨシ、どうだい、年内に一度パキスタンに行こうじゃないか?もしかしたら何か証拠がつかめるかもしれないぞ」
いつのまにやらスティーブも高木のことをヨシと呼んでいる。久しぶりに入った酒も手伝って、そして麗子を手に入れた悦びも大いに手伝っていつになく大胆になっている。もちろんパキスタン行は高木の望むところだった。麗子は一言だけニコニコ顔で最後に言った。
「私もヨッチャンとスティーブは兄妹だった予感がする。だってホントに仲がいいんだもの」おい麗子、お前はいつでも一言多いんだよな、すでにオレたち兄弟だろう?と言い返えしてやりたかったが、グッと下品な発言は慎んだ

その年の年末年始の休暇にあわせて高木とスティーブはパキスタンに飛んだ。首都イスラマバードまでの直行便はなく、一度ドバイでトランジットを余儀なくされるので、到着まで30時間もかかる大変な旅ではあるが、二人はひたすら目的地に向かった。イスラマバード空港に到着すると事前に手配しておいた通訳兼ガイドがゲートで待っていてくれた。30歳くらいの男性で名前をラッシャと言った。パキスタンのことは右も左も分からない二人にとってラッシャだけが頼りであったが、ラッシャは英語も流暢だし、気も利きそうな男であった。空港からまずは市内の三ツ星ホテルへ向かい、そこで二人はやっと落ち着くことができた。予算の関係上、部屋はシングルではなくダブルであったが、もはや二人はツーカーの仲だ。お互いに気兼ねなど全くない関係に慣れたことはスティーブが入社した時の思いとは雲泥の差があった。
その晩は旅の疲れから、ぐっすりと眠った二人であったが翌日から早速行動開始となった。まずは目的地のカシミール村がどこにあるのかを確かめなければならない。もちろん来る前に日本でも調べたが、どうやらその村もどこかの街に合併されたらしく、名前としては残っていない。カラコルム山脈の麓、1950年代にはカシミールと呼ばれていたというキーワードだけで検索するしかない。二人はガイドのラッシャに調査を依頼した。ラッシャは観光案内には慣れているものの、こういう調査はしたことがなくあちこちの観光協やら図書館などを一緒に廻った。しかし60年も前のウラ覚えの村は簡単には浮かび上がって来ない。夕方になって日本の「国土地理院」のような役所をラッシャが見つけてくれて、そこを訪ねてみた。幸いなことに訪れる人が少ない受付では、ヒマそうな小役人がラッシャの話を聞きながら親切に昔のカラコルム地方の地図を出してきてくれた。
「あぁ、その村なら1980年までカシミールという名前で残っていたよ。今は合併されてミンゴラという街になっているよ。そうだな、イスラマバードから約300キロの道のりだ、5年前にM-1というハイウェイが開通したから4時間くらいで行けると思うよ」
この役人の情報に二人は歓声を上げた。まずは第一関門を突破できた。カシミールがどこにあるのかわからなければ初戦敗退になるところだった。しっかり古地図も予備を含めて2枚購入してホテルへ戻った。二人は夕食を共にしながら地図を肴にビールで乾杯した。地図を眺めているだけでワクワクしてくる。もちろんまだ何も分かってはいないが、カシミール村に行けることだけでもはるばるパキスタンまで来た甲斐があったというものだ。二人は到着後に待ち受けていることを想像し、それはどんどん膨らんでゆく。まるで冒険少年になったかのような興奮ぶりであった。

興奮した夜を過ごし、二人の団結力は一層高まった。翌朝二人はホテルのベランダからカシミールの方角を臨み、故郷に帰還するかのような不思議な感覚を同時におぼえた。あの朝陽の方角に二人の故郷があるかと思うと、なにか時空を超えた敬虔な気分になってくる。朝食後、二人はラッシャの用意したランドクルーザーに乗り込んだ。ラッシャはニコニコ挨拶しながら後部座席の二人に言った。
「皆さん、グッドニュースですよ。ワタシの知り合いにカラコルム出身のガイドがいるのですが、彼は60年前の兄妹による名誉殺人事件について聞いたことがある、と言うのです。もしかしたら今はミンゴラとなった街の役場か史料館で何か分かるかもしれません。はるばる日本からいらしたのですからこのラッシャも全力でお手伝いさせてもらいます」
良いガイドに巡り合えたのもラッキーだった。何もかも順調だ。普通の人間では体験できないようなことがでる。特にスティーブは日米両国で学んだ科学と宗教の融合という大きなテーマを実経験できる喜びと期待とで武者震いする思いであった。一方の高木は少し複雑な感情を持っている。麗子を奪われたこと、これは顔色には出さないがものすごく悔しいことだ。しかも相手はアメリカ人と来れば穏やかではいられない。同じ大国であってもロシアなら負けてやってもいいかなとは思う。一度は日露戦争で日本は勝ったから。しかしアメリカには先の大戦で完膚なきまでに打ちのめされた。最後は原爆まで落とされた。こんな国の人間に恋人を奪われるとは、日本男児の料簡が許さない。最近になって高木も自覚し始めている。結局オレも昭和、いや、もっと古い男なのかもしれない。明治維新以来、日本が辿ってきた歴史を無意識のうちにDNAのように受け継いでいる。それに自分は抗ってきただけではないかと。隣に座るスティーブの横顔を見ながら、自分のフトコロの浅さを思い知るのであった。

ランドクルーザーは荒野のハイウェイを北西に向かってひたすら走り続けた。60年前、ヤスミンとアブダクは幼子を連れてこの道を走ったに違いない。当時はまだろくに舗装されていない中、ボロクルマでの逃避行はいかに過酷なものであったか想像に難くはない。そのヤスミンが来世に高木となって生き続けているとは今でも信じられないが、その証拠をカシミールで掴むことができる予感がする。いや、むしろヤスミンが自分を今カシミールへ導いてくれているような気さえするのである。
正午前に目的地のミンゴラに到着した。カラコルム山脈の麓に位置するこの街は、12月は朝晩は氷点下に下がるが、昼は東京と同じ10℃くらいだという。街に一軒だけあるホテルにまず二人はチェックインし、昼食もそこそこに早速まずは町役場の本部へ地図を携えて訪ねてみた。合併される1980年まで存続したというカシミールについて詳しい情報が欲しかった。
役場の受付でラッシャがカシミールについて熱心にパキスタン語で質問している。しかし受付の若い男は怪訝な顔で受け答えしている。どうも感触が良くなさそうだ。しばらく押し問答が続いていたがやがてラッシャが戻って来た。
「受付の男が言うには、1980年の合併前の村の情報など、この役所のどこに保管されているのか誰も知らないし、保存期間満了で処分されているかもしれない。それに調査目的が単なる観光、或いは個人の趣味ということならば、たとえ保存していたにせよ正式な手続きを踏まなければ公開できない、と言うのです」
いかにも役所らしい紋切り型の答えだ。真正面から踏み込んだ高木とスティーブは、ここは仕切り直しをして、ラッシャと対策を練ることにした。
「役所などは頼りになりません。ここは思い切って直接このままカシミールまで行ってみましょう。幸いなことに、イスラマバードで手に入れて古地図があるのでだいたいの場所はわかります。ガイドの友人の話では今では廃村同様の状況で住民もほとんどいないということでしたけど」
ラッシャのアドバイスに従って、二人は再びランドクルーザーに乗り、山脈麓の村を目指した。山脈が青い空を突き抜ける中、時々羊の群れがゆっくりと道路脇を歩んでゆく。あぁ、今日でもイジャズ、ヤスミン兄妹が追った羊たちがこうして何も変わることなく山麓の狭い草地を歩んでいるのかと思うと、二人はあの同じ夢の続きをそのまま見ているようだった。

次第に道幅も狭くなり、すれ違うのは馬か荷台を引く牛だけとなった。間もなく人家らしきものも見えてきたが人の姿はほとんど目にすることはない。やがて村の中心の広場に到着した。中心地と言っても煉瓦造りの粗末な建物と、それに連なる漆喰壁の民家が数棟続くだけの情景が目に映るばかりである。ラッシャは煉瓦の建物の中に入っていったが、間もなく二人に手招きして中に入るように促した。この建物はどうやらミンゴラ役場の主張所でカシミールが合併される前は村役場だったらしい。ということはさっき本部の役場で食らった冷たい扱いをされるのか、と思って二人は暗い顔を見合わせた。
中に入ると意外と広い部屋で、片隅には一応の応接セットが置いてある。なにより有難いのは大型の石炭ストーブが部屋全体を暖めてくれていたことだ。ラッシャが一人でこの支部を切り盛りしている老人に向かって、この二人が日本からわざわざ1950年頃のカシミール村で起きた名誉殺人について知りたくてやって来たことを、ちょっと大袈裟に説明しているらしい。パキスタン語はサッパリわからないがラッシャの役者ぶりに二人は心の中で大いに声援を送った。するとその老人はソファへと三人を招いてくれた。
「この老人、お名前はジナーとおっしゃいますが、お二人の言う名誉殺人事件について知っていると言うのです。ご本人曰く自分はイジャズ・ヤスミン兄妹の従兄弟だというのです。事件は1958年の秋に起きたと言っています。当時このご老人は12歳の少年で、カシミール村でヤスミンの父が指揮する農業活動に従事していたとのことでした。兄妹が自害したその日の事は特に鮮明に覚えているようで、村長はじめ村民が全員葬儀に参列し、女たちは三日三晩泣き続けたと言っています、もちろんこのジナーさんも遺体に取りすがって泣きはらしたそうです。名誉の名のもとに行われたあまりにも理不尽な殺人は、この事件を機に厳禁ということになり、村内で起きた犯罪はすべてイスラマバード管轄の裁判所に委ねています」
何という偶然だろう。ここカシミールに来るまでは五里霧中の心境であった二人だが、いきなり核心となる人物に接することができた。兄妹の従兄弟が今日まで生きており、そしてここカシミールで出会えるというその幸運が信じられなかった。二人は怒涛の如くラッシャを通じて自分たちの見た夢をジナーに確かめるべく質問を浴びせた。ジナーはひとつひとつ結び目をひも解くようにゆっくりと答えた。ジナー自身にとっても何十年も封印してきた過去の記憶がはからずも日本からやってきた二人の若者の手でよみがえってくるのがとても嬉しそうであった。
「さてさて、お若いお二人さん。なぜそんなにイジャズとヤスミンのことを詳しくご存じなのか、この老人にはとんと解せぬのだがのう」
ラッシャは肝心のことはまだジナーに説明していないようだった。確かに最初から生まれ変わりなどという怪しげなことを口走ればジナーも口をつぐんでしまった可能性がある。ラッシャはなかなか賢い男だ。チップはたんまりはずんでやらねばなるまい。質問に答えたのはスティーブだった。
「ジナーさん、あなたにここでめぐり会えたのもある意味必然だったのかもしれません。信じてはいただけないかもしれませんが、私はイジャズの生まれ変わり、そしてここにいるタカギはヤスミンの生まれ変わりなのです。仏教では輪廻転生という言葉がありますが、人は生と死を繰り返し生まれ変わるという思想があります。イスラムの教えにも一部そういう考え方があると聞いています。私とタカギは同じ夢を何度も繰り返し見てきました。そして場所がここカシミールだということもわかっていました。偶然の一致だとはとても思えずこうして二人ではるばる東京からここまでやってきたのです」
ジナーはラシャーを介してスティーブの言葉をジッと聞いていたが、聞き終わると何か思い出したかのように三人に言った。
「死んだ二人の墓がまだ山麓にあるはずだ。葬られた後、特別に村で霊廟を建立した記憶がある。そこに何か収めたはずだったと思う。こんな辺鄙な場所まで来てくださったのだから、ぜひお参りしてもらいたいもんじゃ。今日はもう役場は店じまいだて、日の暮れる前に行こう」
もちろん二人にとってそれは願ってもいない申し出であった。厳かな気分になりつつも、異様に興奮してくる。

ジナーの案内で廃墟となった共同墓地に四人は立っている。夕陽がカラコルム山脈の頂に沈みかけてくる時刻である。古びて崩れた石灰岩の白い墓碑が朱色に染まっている。
墓地の横に広がる草原が揺らいでいる。風の音だけが聞こえる静かな廃墟である。ジナーは朧げな記憶を頼りに一つ一つ石碑を見て回ったが、なにせ墓碑も風化しているので兄妹の墓を見つけるのは容易でなかった。ラッシャも一緒に探してくれたが作業ははかどらない。間もなく太陽が山麓に隠れようかよいうその直前にラッシャが叫んだ・
「あ、これじゃないか!イジャズ・アブラハム、ヤスミン・アブラハム!」
三人は猛然とラッシャの方へ走った。ジナーも60年も前のことゆえ、見当違いの方向で探していたようだ。
「これじゃ、この墓じゃよ。よく見つけてくれた、ラッシャ!」
ジナーもマインド的には完全に高木・スティーブ応援団になって我がことのように喜んでくれた。高木とスティーブもパキスタン文字はわからないが、感慨深く兄妹の墓碑を食い入るように見つめた。この下にあの悲壮な死を遂げた二人が眠っている。そしてその魂はわれわれに乗り移っている。
「ワシの記憶では南東の場所に霊廟を建立したはずなんじゃ。クルマで5分くらいのところだったと思うが行ってみるかな?」
ジンナーの申し出にもちろん飛びついた。もうここまで来れば兄妹が二人の生まれ変わりであることは間違いない。霊廟は発見できなくてもいい、ダメ元でいいから是非訪ねたい。
クルマに乗った4人は、今度はすぐに霊廟を見つけることができた。霊廟とは言っても高さ50センチくらいの石の箱にイスラムのアラベスク様式の模様が施されているだけなのだが、扉が付いていた。だがその扉は固く閉ざされていて容易には開かない。仕方なく近くに落ちていた岩をガンガンと叩きつけたところ、パカっと開いた。中からは思った通り二人の写真が出てきたが、高木とスティーブが夢の中で見た兄妹の顔そのままであった。しかしもはや二人はそれほど驚きはしなかった。高木が霊廟の中をさらにまさぐってみると中にボロボロになった紙が入っていた。あぁ、これはもしかして兄イジャズが死の直前にしたためた遺書なのかもしれない。しかしパキスタン語なのでわからないのでラッシャに渡した。
「そうですね、遺書だと思います。こう書いてありますよ。“我ら兄妹イジャズ・アブラハムとヤスミン・アブラハムは来世に必ず出会うことを誓う。え、なんだ、その後の文字は….なに!スティーブ・ルイス及びタカギ・ヨシオとして、だって!」
ラッシャは驚いて何度も繰り返して読み返していた。あり得ない言葉が最後に書かれている。そしてその高木とスティーブはまさに霊廟の前に立っているのだ。もちろん二人も遺書を見つめた。
「それはのう、イジャッドが小刀を左胸に突き刺し、意識が肉体を離れる直前にそこの若い二人に会ったのかもしれん。その刹那にお二方の名前を必死に書き留めたのではないかのう。ほら、最後の文字はやっと読めるくらいに乱れておろう。最初の文字と全然違っておろう」
そう言われてみればそうだ。最後の文字はやっと判読できるくらいの乱れ方である。イジャズの来世への強い思いが伝わってくる。魂が時空を超えたのだ。

夕陽は完全に山の陰に隠れ、東の空に三日月と金星が上ってきた。高木とスティーブは並んで東の空を見つめている。
「スティーブ、こうやってパキスタンの山麓から夕暮を静かに眺めていると、永遠という言葉を思わずにいられないよ。あれから60年、この場所で死んだはずの兄妹がこうやってオレたちに乗り移って生きているのだからな」
「ヨシ、オレも同じことを思っていたよ。しかし人の死とは何だろうか?もちろん肉体は滅びるけれど魂は転生するとすれば、死ぬことは生まれることと同じではないだろうか?そう思うと死を忌むべきものなのかどうか考えてしまうよ」

このカラコルムでも明日になればあの東の空から太陽が昇り、また山の方へ沈んでゆく。+永遠の宇宙の営みの中でわれわれの魂もまた永遠に生き続けることを知った二人の旅であった。
(終わり)

流転

流転

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-18

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自由に複製、改変・翻案、配布することが出来ます。

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  1. 第一話 不思議な出会い
  2. 第二話 量子力学
  3. 第三話 まつや
  4. 第四話 荒野の風景
  5. 第五話 13歳の決心
  6. 第六話 イスラマバード
  7. 第七話 オキテ
  8. 最終話 邂逅(かいこう)