墓標
初めは、ただ静かとしか感じなかった。
バスを乗り間違え、一日一本しかない路線で終点まで眠りこけてしまい、叩き起こされて降りた停留所。降りる人は他にはいないうえ、乗ってきたバスは回送に変わる。次のバスは、平日の朝六時五十二分。休日にはバスは一本も無い。不幸にして今日は金曜日。しかも時間は朝の十時十二分だ。しかもここまでの料金は千六百四十円、お財布の中身はさっきのバス代のせいで九百十二円しかない。
誰もいない街。
私の立つ場所。
昔は賑やかな商店街だったらしい道を歩く。誰もいない。虚しく響き渡る靴音。普段履きの運動靴なのに良く響く。ここに在るべき、沢山の靴音、生活のノイズ、井戸端会議の声。その全てを失った街。
生活は止まっている。
私の口からは溜め息。
ほとんどの建物を匿うシャッター。試しに辛うじて雑貨屋と分かる看板を掲げたお店のシャッターを軽く動かしてみる。動かない。次に隣の店も試してみる。どうやら元洋品店。こちらも動かない。
中身のない殻。
意味の見えない行軍。
商店街の終わりが見える。何も見つからない。住む街ではどこでも当たり前のように見つかるコンビニ、自販機、車、そして人間。疲れた私は道端に残る、錆びた富士フィルムのベンチに腰掛ける。
動きを止めた街。
動きを止めた私。
ここには何もない。ここには希望すらない。ただ沢山のがらくたと、これから私を看取るベンチ。
ゆっくりと、思考を止める。
ゆっくりと、時間は流れる。
その時。
短いクラクション。
街が震える。
私を目覚めさせる。
目線を上げると、視界には緑色のミゼット。私を連れてきたバスが去ってから、初めて出会った生き物。その扉が開き、中からまた生命。私を認め、語りかける優しい声。
「どうしたの、こんな所で。」
私から見ればお姉さんくらいの年であろう若い女性だった。白のワンピースに黒く長い髪。美しい顔立ち、しゅっとした身体。セーラー服に焦げ茶色じみた髪の私とは違う。私が人間だとすれば、彼女は神様。
「バスを…間違えてしまって……」
「あら。月曜まで帰れないじゃない。この辺りには宿、無いし。うん、じゃあ家においで。」
初対面ながら躊躇いなく手を差し伸べてくれる彼女。神の施しに跪くように、私は彼女の親切に甘える。
「えっ、いいんですか。」
「いいのよ。荷台にお乗り。生憎この車、一人乗りだから。」
そう言われて乗り込んだ荷台。私の他にはカゴが二つ。泥のついた野菜。小さな命たち。
ゆっくりとミゼットが動き出す。軽いエンジン音が街を揺らす。例えば子守唄みたいに。緩やかな音と緩やかな空気、それから緩やかなリズム。静かな街の、心地よい揺らぎ。
やがてゆっくりと動きを止めるミゼット。ゆっくりと荷台から降りる。小さな時計を掲げる小さな時計屋。その時計は動いていない。
「ちょっと待っててね。車、先に置いてきちゃうから。」
ミゼットが時計屋の裏に隠れ、束の間の静寂。眠ったままの時計と眠ったままの街並みに挟まれ、私はまた独り宙ぶらりん。ただすぐに会える人がいるだけで、放置すらも心地よい。
小さな鍵ががちゃりと回り、彼女は古びたシャッターを上げる。自動ドアを手で開け、私を招き入れる。
店の中、ショーケースには真っ白な布が被さっていて、その布には埃一つ無い。時計屋が時計屋であることを止めてからも、彼女はしっかりと手を入れているのだろう。
店の奥、暖簾で区切られた先に畳敷きの部屋。そう広くはない部屋は居間兼寝室として使われているようで、部屋の真ん中にはちゃぶ台、部屋の隅には蒲団。
「狭くて汚い部屋でごめんね。」
「泊めてくれるだけでも十分有難いです。」
部屋の隅にちょこんと座る。彼女は台所から急須とポットを持ってきてお茶を淹れる。
「どうぞ。」
折角淹れてくれたので有難く頂くことにする。美味しい、けれど緑茶とは違う味。
「ほうじ茶よ。」
初めて飲む癖の無い味、不思議な感じとどこか安心する気持ち、両方が入り混じる。初めての土地で初めてのお茶を飲んでこんな気持ちになるとは。
「ところで、お昼ご飯はどうする? 冷や麦とお蕎麦があるけれど。」
「冷や麦をお願いします。」
「わかった。もう少ししたら茹で始めるね。その前に、上の部屋を片付けてきちゃうから。そこでゆっくりしてて。缶のクッキー、食べていいよ。」
そう言って彼女は二階に上がってしまう。居間に独り。けれど淋しさは全くない。初めての場所なのに、どこか懐かしい場所に来たような。数時間振りに肌で感じた、生活感のせいなのか。
ぐつぐつと大鍋が音を立てる。それだけ最近になって壊れたのか、やけに新しいガスコンロの上。小麦粉の匂いが混ざった湯気がひっきりなしに立ち上る。その隣からは醤油の香り。味醂で少し甘めの風味。ダイニングテーブルからはリズミカルな包丁の音。葱、茗荷、柚子のみじん切り。
そうしてお昼の時間になる。冷や麦は一口ずつざるの上でこじんまりと丸まっている。つゆは市販のものでなく、昆布から丁寧に出汁がとってある。薬味も三種類。
彼女と二人で手を合わせ、冷や麦を食べる。普段私が一人で茹でるのとは大違い。何から何まで格が違う。
「おいしい?」
「はい。」
それをきっかけにお喋りが始まる。私のこと、生活、学校、部活、友達、ご飯。夜遅くまで共働きの親のこと、やたらと課題の多い学校のこと、バスケットボール部を辞めて弓道部に転部したこと、いろいろな話題が口から溢れ出す。
「ふふ、大変そうね。」
そう言われて、私の話がネガティブなことばかりと気が付いた。多分、こんなだから寝過ごした。
「まあ、しばらくは帰れないし、ゆっくりしていきなさい。ここには何もないけれど、その分じっくりと休めるから。」
私の半ば愚痴に近いような話を嫌な顔ひとつ見せずに聞いてくれた彼女の言うとおり、少しのんびりするのも良いのかもしれない。
彼女に案内された部屋は、二階の隅にある四畳半の部屋だった。黄色い畳の上に、見るからに重たそうな机と本棚、それに扇風機。あまり使われていないようで、本棚には布が被せてある。
押入れの中の物は自由に使ってもいいというので試しに開けてみる。中には布団一式と衣装ケースがいくつか。さらに衣装ケースを開けてみると、色とりどりの和服が出てきた。ハレの日に着るような華やかな柄の着物ばかりでなく、普段着につかっていたであろう地味目の浴衣まで。
一番地味な紺色の浴衣を試しに広げてみる。管理がしっかりしているみたいで、虫食いやシミは全くない。生地が少し厚めで透けることもなさそうだ。
子供の頃の夏祭りの記憶を頼りに、浴衣に袖を通してみる。少し寸足らずな気もするが着れないことは無さそうだ。それに着ていて気持ち良い。制服のスカートとは違う開放感。適度に締め付けてくれる帯。今日はもう、このままでもいいかもしれない。
畳の上に寝転がっているうちに午後三時。階下に降りてみる。彼女は勝手口の扉を開けて、野菜の泥を落としていた。彼女は浴衣姿の私に少し驚いたみたいだったけれど、私のことを可愛いと頭を撫でてくれた。
私も少しお手伝い。キュウリ、ナス、トマト、それからスイカ。いくつもの野菜を洗っていく。今日は少し早い夏が来たようで、ホースから吹き出す水が心地よい。
また少しお喋り。野菜の好き嫌いとか、トマトで普段何を作るかとかそういうたわいもない話。セロリの苦みが嫌いと言ったら、彼女もくすくすと笑って私もと応えた。心なしか食事のときよりも明るい話ができるようになった気がする。
夕飯を一緒に作ることになった。まず彼女に借りたエプロンを着ける。ご飯を炊き、彼女がサラダを作る間に、私はトマトと挽き肉とタマネギでミートソースを作る。それから一緒に味噌汁を作り肉を焼く。最後に肉の上にミートソースをかけ冷蔵庫から漬物を出したら、質素ながら美味しそうな食卓。
二人揃って手を合わせて、食事が始まる。私の作ったミートソースを、彼女はとても嬉しそうに食べてくれた。私の一番の得意料理だけに、喜んで食べてくれる人がいると私まで幸せな気分。ご飯の炊き加減や味噌汁の味も絶妙だった。
洗い物をし、お風呂に入ったら彼女はすぐ寝てしまうようで、ちゃぶ台をどけて布団を敷く。普段は十二時くらいまで起きている私もそれに倣い、彼女におやすみを言って二階に上がる。
押し入れから布団を引っ張り出して敷く。たった四畳半の狭い部屋なので一人分の布団しか敷けないけれど、却って淋しくないので構わない。電気を消す。初めて他人の家で寝る。しかも部屋に一人。淋しくはない。淋しく…は。
ご飯の炊ける匂いで目を覚ます。昨日の夜はずっと考え事をしていて、そのせいで普段より寝つけなかった。眠い目をこすりながら階下へ降りる。
エプロン姿の彼女はラジオを聞きながら朝食の支度をしていた。どうやら魚を焼いているようだ。振り向いた彼女に朝の挨拶。
「おはよう…ございます。」
「おはよう。もうすぐご飯出来るから向こうで待ってて。」
手伝おうとした私に大丈夫だよと一つ微笑み、魚をグリルから取り上げる。申し訳ないと感じた私は布巾で箸を拭く。
食事の途中、彼女が不意に外出に誘ってきた。
「ねえ、今日はちょっと出掛けない? お弁当作って、一日のんびり。」
特にすることのない私に反対する理由はない。
昨日とは違う柄の浴衣を着て、手にはお昼ご飯のバスケット。今日はミゼットには乗らず、歩いて出掛けるようだ。彼女に目的地を聞くと、家の裏にある山に登るとのこと。そう遠くまでは行かないようで、持ち物はそう多くはない。
山登りと聞いて険しい道を進むのかと大袈裟に想像していたが、道中はそれほど歩きにくくなく、普段履きのスニーカーでもそう辛くはなかった。途中何度か休憩しつつ、一時間半くらい歩いたところで景色が一変した。
そこには滝があった、彼女曰く、彼女が此処で一番好きな場所らしい。さらに彼女に促されるまま滝の裏手に回ると、滝の正面からは水で見えなかった洞が現れた。奥行きは数メートルくらい、小さな小さな洞窟。
バスケットを広げお昼ご飯。中身はおにぎりと漬物、玉子焼き。涼しい洞の中、ささやかな風と時々飛び込む飛沫が気持ち良い。静かな洞内、彼女も私もどこかのんびりした気分。
「ここでお昼寝するのが好きなの。時間を忘れられるから。」
バスケットを片付けながら彼女はそう言う。確かにここで寝るのも気持ちよさそう。洞窟にしては珍しく下は土なので痛くならなそうなのもあって。
「あら、眠そうね。おいで、膝枕してあげる。」
膝枕してもらうのは迷惑をかけそうだけれど、今は睡魔に勝てない。つい彼女に寄りかかる。彼女が私を撫でる手がとても心地よい。
随分寝てしまった。目の前には彼女の顔。優しく微笑みかけている。一つ謝って彼女から離れると、いいのよという返事とともに名残惜しそうな顔をしていた。
帰り道、すっかり元気になった私と彼女とでお喋りしながら山を下りる。今度は彼女のこと。野菜を育てていること、買い物のこと、愛車のミゼットのこと。そんなたわいもない暮らしの仕方が、普段の私と全く違う。
そんな話で盛り上がっているうちに、あっという間に一時間半が過ぎ去ってしまった。ここ二日ですっかり見慣れた街に帰ってくる。家の扉の前、私は此処に来てから気になっていたことを聞いてみることにした。
「この街にはどうして…貴方しかいないのでしょうか。」
その質問に彼女は一瞬顔を曇らせた。が、すぐに笑顔。その笑顔は、彼女が今までに向けた笑顔と同じではなかった。
夕食はご飯と味噌汁、ほうれん草のお浸しと煮物だった。気まずい雰囲気の食卓。二人無言で箸を進める。私が最後のニンジンを食べ終わったとき、彼女が口を開く。
「明日も出掛けるよ。朝早くなるから、今日は早いとこ寝るのよ。」
何か覚悟を決めたかのような、そんな彼女の口調と表情。軽率に尋ねてしまったことの後悔が今更湧き上がる。
お風呂に入っている時も、歯を磨いている時も、何度も考える。彼女が何を抱えているのか、私の考えがどれほど浅はかだったか。でもそれはきっと彼女自身しか知らないはずだ。いくら私が考えたところで何も分からない。ただ、このまま気まずいままではいけない。それだけははっきりと分かった。
「あの…一緒に寝ても……いいですか?」
思い切って尋ねてみると、思いの外あっさりと布団に入れてくれた。昼間みたいに彼女の体温を感じながら眠る。初夏の暑い夜だったがそれほど寝苦しくなかった。
ふと目が覚める。まだ辺りは真っ暗だった。水でも飲んでからまた眠ろうと起き上がろうとする。とお腹の辺りが引っ掛かる。彼女の腕だった。台所に向かいコップを手に取る時、何だか襟がすうっとする。手を後ろに回す。どうやら襟の下が濡れているようだ。布団に戻って気付く。彼女の顔の下、布団に水が染みついている。きっと彼女は私を抱きながら泣いていたのだ。
翌朝、朝食もそこそこに出発する。少し距離があるらしく、私はミゼットの荷台。二十分ほど隘路を走り、広場のような所で止まった。ここからは歩きのようだ。
一時間ほど歩き、一休み。持ってきた水筒に口を付ける。それからまた歩く。
かなりの距離を歩いた。少し視界の開けた場所に出ると、朝までいた街が遠くに見える。すると、ミゼットを降りてからすっと無言であった彼女がぽつり、ぽつりと話し始めた。
「私は多分、あの街の生まれじゃないの。小さい頃に捨てられて、時計屋の主人に拾われたの。その頃はまだ街に沢山の人がいて、沢山のお店とか沢山の食堂があったの。町役場もあって、今みたいにバスで四十分かけて山を越えなくてもよかった。
あるとき、村の大地主の人が、西の山――今登ってる山の洞窟で、大きな光る宝石を見つけたの。その人はそれを家の中に置いて、訪れる人みんなに自慢した。けれどその人はまたお金にも汚くて、恨まれることも一杯だった。
とうとうある日、一人の男がその宝石を盗み出した。その男は大地主に土地を巻き上げられて、養蚕工場でひどい働かされ方をしていたの。日頃の恨みつらみが重なって、そんなことをしたと思う。
それで盗み出したはいいのだけれど、その男は盗むだけで疲れ果てて、宝石を隠すことが出来なかった。たまたますれ違った大工がその宝石を奪い、その男に大怪我を負わせてしまった。
それからは街中の人が宝石を奪い合った。何人もの手を経て、何人もの血を重ねて。
そんなことが続いたある日の帰り道、私はその時一番仲が良かった友達のお母さんが道端で倒れているのを見たの。急いで駐在所のお巡りさんを呼んだけれど、長期入院ってことになった。お巡りさんやお医者さんに根掘り葉掘り訊かれた後、家に帰ると義理のお父さんが誇らしげに宝石を自慢してた。」
やがて山道から洞窟に入る。私は何も言えずに、ただ聞いていることしか出来なかった。
「私はその宝石を元に戻すことにした。その石がどこから来たかは皆の噂を聞いていたからすぐに分かった。夜中、こっそり部屋を出て服で宝石をくるんで、そのまま歩いて山に向かった。
でも、誰かに見つかったみたいで、三、四十分くらい歩いたところで追手が来た。私はその時はただの女の子、手を出されると簡単に負けてしまう。そのせいか、街の大半の人が追いかけてきてた。
私は必死に走って、何度も転んで、息も絶え絶えで目的地の洞窟に着いた。けれど洞窟の中で完全に見つかった。
奥へ奥へ、死にもの狂いで進んで、行き止まりに突き当たった。大人の中から一人、私の義父が歩み出て、宝石を返しなさい、と言った。もちろん私は拒んだ。そのまま押し問答になった。そのうち大人たちが痺れを切らして、私に襲い掛かってきた。
私は石を離すまいとしながら必死に耐えた。けれど大人の男には敵う訳がない。体当たりを食らってしまって、私は石を放り出してしまった。
この洞窟の隅っこにいくつか穴が見えるの、分かる? その穴は一度落ちるとどこまでも落ちていって、もう二度と上がってこれない。私がそのとき放り出した石が、その穴に落ちてしまったの。皆、もちろん私も固まった。それから皆が私を責めた。皆がお互いを罵った。殴り合った。
次の日の夕方に病院で目が覚めた。義父も義母も一度もお見舞いには来なかった。
退院の日、私は気付いた。街から人が少し減っているのに。いつもの肉屋にはシャッターが下りていて、いつも店の前で掃除してる駄菓子屋のおじちゃんもいなかった。そうして家に帰り着くと、義父も義母も病気で寝込んでた。
それからすぐ義父母は死んだ。街の人もどんどん少なくなっていった。友達は遠くへ引っ越してしまった。ただ私はこの街を出る術を持っていなかった。
そうして最後に、私は独りぼっちになった。
不思議なことに、二十歳を過ぎてから身体が老けなくなった。もう何年経ったのかはわからないけれど、この身体は変わらない。
ずっと私は独りで、細々と野菜を育てて生活しているの。」
洞窟の行き止まり、うっすらと輝く結晶の欠片が散っている。その灯に彼女の寂しげな顔が映る。
彼女は神様だ、けれど石を壊した罰として、望まない神様になってしまったのだ。全てを奪われ、独りぼっちで永遠の命を全うしなければならない残酷な定めの。
私は彼女を抱き締める。慰めたいとか励ましたいとかそういったことではなくて、ただそうしたかったから。彼女は最初戸惑ったような顔をしていたけれど、少し経った後それに応え、私をきゅっと抱き締める。
そのまま彼女はまた、涙を流していた。まるで昨日の私のような、緊張の糸が切れた時の微笑みを浮かべながら。昨日とは違う、温かい涙だった。
山を下りる。少しだけ肩の荷が下りたような彼女の表情。また昨日と同じようにお喋りしながらのんびり歩く。ミゼットの荷台に乗っている間も彼女は窓を開け、少し大きな声で私に話し掛けた。
少し帰りが遅くなった。夕飯は私がオムライスを作り、その間に彼女は残していた家事をした。私のオムライスは思ったより上手く出来て、彼女も喜んでくれた。今日は一緒にお風呂に入り、身体を流し合ったり、お湯を掛け合ったり。
夜、私は二階の部屋に戻らずにまた彼女と一緒に寝た。寝床でもお喋りはなかなか終わらず、私のあくびが止まらなくなるまで続いた。彼女はずっと私の髪を撫でていた。
私が帰路につく朝、朝食を終え荷物をまとめた私に彼女がプレゼントをくれた。
「ありがとう。ここに来てくれて。」
彼女に促され開けてみると、中身は簪だった。青とも緑ともつかない大きな花があしらわれた、ちょうど浴衣に似合いそうな。
彼女とバス停まで向かう。今日はミゼットではなく歩いて。名残惜しそうな口ぶりの彼女に、私もちょっと寂しくなってきた。
バスが見える。彼女が私をそっと抱き寄せた。そして、うなじに軽くキス。
「またいつか、時間があったらおいで。」
やってきたバスに乗り込む。
「三日間、ありがとうございました。」
重たいエンジン音が鳴り響く。ブザーを一つ鳴らしドアが閉まる。窓越しに彼女に手を振る。彼女も見えなくなるまで手を振っていた。
こうして、彼女と私の少し不思議な三日間が終わった。
*
季節は夏。部活から帰ってきた私はポストを開ける。中には水道料金の通知、いくつかのダイレクトメール。それに挟まって、一枚の絵葉書。
洗濯機を回し、お湯を沸かしてから、ソファーに腰掛けて絵葉書を眺める。差出人を見ると彼女の名前。綺麗な水彩画で滝の絵が描かれている。そして簡潔な暑中見舞いの挨拶の言葉。
きっと彼女は今頃独り、キュウリやナスに足を付けたり、小豆を煮込んでいたり、そんなことをしているだろう。私といえば、親がますます家に居なくなった他には何も変わらない毎日を淋しく過ごしている。
また、遊びに行こう。
彼女のため、私のために。
墓標