Requiem
あなたと過ごした数十年
俺は筋金入りのクズだ。そりゃもう、とんでもないクズでさ、まず親がそうなんだ。母はロクでもない父と出会い、体で金を稼がされ、その金は全てパチンコに擦られた。そんな生活を続けてる最中俺を身籠った。誰が本当の父親かわからないらしい。
3歳になったころ、俺は父から暴力を受けるようになった。悪いことをしてしまったことに対して、小突きながらお説教。これならまだ許せる。でも次第にそれはいちゃもんと殴打に変わった。体に見たことのないような痣ができて、保育園にも行けなくなった。当時の俺はただただ父に怯えるしかなかった。母はその頃朝から晩まで体を売っていたからな。新しい子をお腹に宿しながら。
変化があったのは、俺が7歳のころ。俺は酔いつぶれて寝ている父の頭に包丁を突き刺した。確実に死ぬように何回も何回も突き刺した。気がついたら頭は頭ではなくなっていた。辺りには脳みそが散らかっていて、すごく臭かったのを覚えている。そんな光景を母は笑いながら見ていて、4歳の妹はただ呆然と見ていた。すでに俺たちは狂っていたんだ。
そのまま逃亡を続けながら俺は立派なクズに育った。俺の生い立ちなんてこんなもんでいいだろ。
今では妹も母もどこで何をしているのかわからない。どっかで体でも売っているんだろう。女はそういう生き物だと俺は思っている。
自分の力で生きていこうと決めてからは、とにかくなんでも頑張った。とりあえず努力だけはできる人間だったんだ。生きていくためには金がいる。金は時間を売らないと貰えない。だからなるべく高く時間を買い取ってもらう。そのためには命に関わるちょっと危ない仕事をすればいい。時給がすこし高い。
3年間ひたすらバイトに打ち込んで、計算上では520万ぐらいの貯金があるはずだった。でも、なかった。俺はそこで確信した。俺の父は、やっぱりあの父だったんだと。気がつけば仕事終わりにパチンコを打つのが日課だった。煙草だって1日に4箱も吸う。夜と昼はいつの間にか逆転している。こんなのでは金が溜まっているはずがない。もう何が何だか分からなくなった24の夏。満天の星空に雲をかけるように空に向かって煙草の煙を吐いた。
あてもなくフラフラ歩く生活が始まった。ホームレスのおっさんどもと戯れ、助け合い、その日1日を乗り切るためのギリギリの生活に身を置いた。何も食べない日もあった。死にそうなほどの高熱が出た時もあった。煙草が吸いたくて発狂する夜もあった。どこぞの輩にリンチに会うこともあった。それなのに俺は生きていた。なかなか死なない。人間って意外と丈夫なもんだ。
「人間っつうのは突然来る災難には対応できないが、前フリのある災難にはそれなりに対応できちまう」
これはホームレス仲間のおっさんの言葉だ。
ホームレス生活も一年が経過したころ、俺に転機が訪れた。ある一人の女性との出会いである。
それは公園のベンチで死にかけているときのこと。
「すいません。隣…いいですか?」
声をかけてきたのは長い黒髪に赤い眼鏡の女だった。俺はそれに頭だけで返事をした。
「ずっとこの辺にいますよね。あなたは住むとこないんですか?」
女は急にこんなことを聞いてきた。どんな魂胆だろうか。
「勘違いすんな。ここが俺の家なんだよ」
なんて馴れ馴れしい女なんだと思ったが、答えてやった。俺は美人に弱いんだ。
「素敵な家ですね。でも、屋根がないです」
そう言って、女は皮肉そうに笑った。
「あろうがなかろうが関係ねぇよ。ここは俺の家だ」
俺の言葉に女はさらにくすくすと笑った。めんどくせぇと俺はそっぽを向いて、胸ポケットからタバコの箱を取り出す。街に落ちていた長めの吸い殻を拾い集めたもんだ。火種は夜の街に落ちていたマッチ。残りの本数は14本。またどっかで拾ってこないといけないな。
「タバコを買うお金があるなら、もっと別なことに使えばいいのに」
そう言う女に一番汚れた一本を見せてやった。しばらく考えて、女は「ごめんなさい」と謝った。
「金があるならこんなとこにはいねぇし、拾ったたばこなんて吸ってねぇよ。そろそろからかうのも飽きただろ?帰りな」
そう言って、たばこに火をつける。しかし女はいつまでたってもその場から動かなかった。
ほんの数回吸っただけでなくなった苦い吸い殻をポケット灰皿に入れて、公園から立ち去ろうとしたとき、女が口を開いた。
「…お金がないからこういう生活をしているんですよね?」
立ち止まってゆっくりと振り返る。女は相変わらず俯いたままだ。
「ではこういうのはどうでしょう。あなたは私の執事として働く。お給料も払います。住むとこも与えます」そこまで言って顔を上げる。
「私と一緒に来ませんか?」
とびきりの笑顔で女はそう言った。それから俺は女の執事になった。
最初は、そんなうまい話があるかと思ったが、女は言った通りの待遇を俺に与えた。俺はこの女の考えてることがますます分からなかった。
女の家に来て数ヶ月が流れた。
「どう?もうそろそろうちの仕事にも慣れてきたんじゃない?和澄君は飲み込み早いし」
和澄とは俺の名前だ。ちなみに女の名前はあきなという。
「慣れたもなにも、大した内容ないじゃないですか。言われたことをすれば金がもらえるんですから簡単なものですよ」
「その簡単だと思えることが、ほかの執事やメイドにはないんだよ。いい感性を持ってるね」
「一回人間やめてるんで。一般的なものさしでは俺は測れませんよ」
そう言ってコーヒーをテーブルの前に置いた。
「お熱くなっておりますので気をつけてください」
ふぅ、ふぅ、と二息吹いて啜った。
「…美味しい」
「もう100回くらいは入れたんでね。そろそろ怒られるのも飽きましたし」
あきな嬢は窓の外の庭を眺めながら、しばらくコーヒーを味わっていた。朝陽が注ぐ池庭は、綺麗に剪定された松の木が並び、池には数匹の鯉と鹿おどしがあり、一定間隔でカコーンと心地のいい音を鳴らしていた。
その様子を眺めながらぼーっとしていると、和澄君と声をかけたら。
「私、もうすぐ結婚しなきゃいけないの」
唐突すぎるその言葉に、一瞬反応できなかった。
「どう思う…?」
「うーん。結婚ですか…」慎重に言葉を選ばないといけないとこの時思った。
「俺は…してほしくないです。これからもずっと、あきな嬢に仕えていたいです」
「え…?」
あきな嬢は戸惑った顔を見せた。それが本当に戸惑っている顔なのか分からないが、今まで見たことのない顔をしていた。そして意味不明なことを言い出した。
「それってつまり…プロポーズ?」
そんなはずがない。確かに恩はあるが、こんな金持ちに身寄り無しが好意を抱くはずがない。
「違いますよ。これからも執事として、です」
「そうだよね…」
あきな嬢はそう言って少し笑って見せたが、どうしてそんなに寂しい顔をして笑ったのか、俺には分からなかった。
結局そのまま時間は流れて、あきな嬢は結婚した。どこぞの御曹司らしく、式に来た数百人も喜んでいた。お似合いだお似合いだとみんなに言われていた。御曹司もあきな嬢も幸せそうに笑っていた。俺も良かったと心から思った。
それから3日ほど経って、あきな嬢が隠れて煙草を吸い始めたのを知った。
「何してるんですか?」
普段利用しない離れで、あきな嬢は煙草を吹かしていた。肺までは入れていない。吹かしていたんだ。
「…何してるんだろうね。私にも分からない」
煙草を地面に放って、足でふみ消しながら言った。かなり咳き込んだのか、目にはうっすらと涙が滲んでいた。
「らしくないですよ」
「分かってるよ。言われなくても」
そう言ってあきな嬢は出て行った。特に俺は気にせず、止めることはなかった。
それからもちょくちょく煙草を吸っている姿を見かけた。幸いにも…幸いなのかは分からないが、家の誰にもばれていないようだった。
「最近どうしたんですか」
「一回もやったことがなかったから、やってみたかっただけ」
「このタイミングでですか?」
「そう。このタイミングで」
月日は流れて、数十年。振り返れば、ここに来た当初に考えていたことがあったが、すっかりそれも忘れ、俺もいい歳になった。元からいい歳だったのかもしれないけど。
あきな嬢と御曹司の間には子供が産まれた。名前は萌生。あきな嬢が名付けた。
萌生ちゃんはかなり元気な子で、それでいて頭が良かった。小さいからずる賢いと言ったほうがいいんだろうか。彼女は悪さをしてはそれを俺のせいにした。仕方がないので俺のが代わりに怒られてやった。あきな嬢も御曹司も、萌生ちゃんがやったと分かっていたから、俺を怒った後、悪怯れるように笑っていた。
萌生ちゃんが小学生3年生になる頃、萌生ちゃんはもうすでに垢抜けていた。善悪の判断もしっかりしていて、悪いことはあまりしない優等生になった。特に算数が好きな彼女は、俺によく問題を出した。
「じゃあこの問題は?」
「8ですね」
「これは?」
「…6」
「これは??」
「65」
簡単な問題ばかりだったが、これからもっと歳をとって、中学、高校になってしまったら、俺にも分からないのだろう。日々、そう思いながら宿題に付き合った。
ここで、俺がなぜ執事なんかをやっているかの話をしようと思う。もう俺の話も終盤と言っていい。
俺は最初から利用するつもりだったんだ。この家の莫大な資産。金持ち特有の振る舞い。俺はそれが大嫌いだ。だから全てを持ち逃げする。何としてもそれを実行してやる。そう思って、ずっと、やってきた。
それがなんだ。俺は今何歳なんだ。気がつけば世話をされる側。なぜか隣にはあんたがいた。なぜだかはわからねぇけど、あんたがいた。
「ねぇ、どうだった?この数十年間」
狭い8畳間にベッドが二つ。チューブに繋がれていないと生きていけないあきな嬢が、チューブに繋がれてないと生きていけない俺に言った。
「そうですねぇ…すごく、充実した数十年でした」
「それはよかった…」
「……」
心から出た言葉であろうその言葉に、俺は胸を傷める。
「なぁ、あきな嬢」
「なんですか?」
「…あんたにな、言わなきゃいけないことがあるんだ」
「あらら…。ここにきて愛の告白ですか」
「そんなんじゃないですよ…」
あまり酸素を取り入れなくなった苦しい肺で笑った。
「覚えてますか?初めて声をかけてくれた日のこと」
「えぇ…覚えてますよ」
「最初はなんだこの女はって思ってたんですよ。金をチラつかせて、俺みたいなホームレスを働かせるなんてキチガイかと思いましたよ」
「あはは…」
笑いと咳を同時にしながらあきな嬢は笑った。
「だからですね、せっかくならこいつの世話をして、ゆくゆくは金を盗んで逃げようと思ってたんですよ」
「あらま。そんなことを考えているとは思いもしませんでした」
「そりゃそうですよ。クソみたいな環境で育ったせいで、それを隠すための外面だけはうまくできたんです。あっ、そうだ。今更ですが、父は病死ではなく、俺が殺しました。
「……なんとなくそんな気はしてました」
「嘘だ」
「ほんとですよ。それでもあなたを雇ったんです」
「どうして」
「……好きだったからですよ」
発せられた言葉に、俺は何を返していいのか分からなかった。
「驚いたでしょ?私はあなたが好きだった」
うふふと、酸素をあまり取り入れてくれない肺でも、あきな嬢は明るく笑った。
「…一目惚れだったんですよ。私ね、恋だの愛だのと言われても、何も分からなくて、でも、あの日、晴れ晴れとした天気の下、公園のベンチで死にかかっているあなたを見た時、ドキッとしてしまったんです」
なんとなく、それはなんとなくだが分かっていた。結婚の話をした時、俺と一緒の時を過ごしている時、1人でいる時、あきな嬢がなんとなく俺を意識しているのは分かっていた。
「…なんで、こんなに時間が経ってから言うんですか」
「こんなに時間が経ってからじゃないと言えないことだったんです。私はこの家に縛られていましたから」
「……」
「生まれた時から大体の人生は決まってるんですよ。金持ちっていうのは楽なようで楽じゃないんです」
「…ははは。無力ですよ。もう俺にはあんたを抱きしめられる足もなければ力もない」
「いいんですよ。お互い、なんとなく一緒に入れたじゃないですか。形は違えど、私は幸せでした」
「…そうだな。俺もそう思う」
そう言った瞬間、12時を知らせる鐘が屋敷に鳴り響き、近くのオルゴールから《恋のレクイエム》が流れ始めた。
その音に導かれるまま、俺もあきな嬢もゆっくりと深い眠りの中へ溶けていった。
Requiem