表情


動物を模したパンを前にして,泣きそうになっていた子だった。可愛いのと,美味しそうなのとが互いに譲らずぶつかり合って,幼い心を悩まし,豊かな表情を曇らせて,どちらもそのままにしておきたいという望みを叶える術を探して,頭を必死に動かし,周りの大人に尋ねて回り,そして最後には,それを美味しく頂く決意をした。目を瞑って頬っぺたをかじり,教えられた通りの回数の分だけ咀嚼する動きで,目に浮かべた涙をこぼす。
「美味いか?」
という,からかい混じりの大人の問いに,歯向かう余裕のない一所懸命さに唯一,答える力を与えてくれる頷きは大きく一回。飲み込み終えてから,またすぐに口を開ける。傍から差し出されるコップには,従姉妹の子が持って来てくれた牛乳の一杯。あれだけ「キライだ,キライだ」と言っていたのに,大きくなってものだな,とその場にいた誰もが思う。パンを片手に,その子は縁に一口つけ,段々と傾けて,半分まで減らす。口の周りに白いお髭,と描写する間もなく,ティッシュでさっと拭ったその子の目が少し赤いと思うのは,そういう風にあって欲しいと願う大人の憧れだろう。顔の部分と違って,クリームは詰まっていないんだろう,その子の手の中で残る耳の形には食パンにまつわる連想が生まれる。砂糖をまぶして美味しい。お皿に乗せて,運んで食べた。有名な児童書の主人公のように,オレンジの野菜を齧っていた。絵柄に付けた名前たちは短く,さいの目のように細かい。サリー,ケリー,ミリー。覚えている限り,同じ名前の子は居なかった。
二つの耳も残さずに食べた,その子はコップの中身も空にした。ごちそうさま,も言わずにその場を後にして,自分の部屋に走っていた,行儀の悪さを指摘されても,その子は謝ることなく,用紙にクレヨンを手に帰って来て,すぐに支度に取り掛かった。 その意図を察する大人もいれば,その態度を反抗的と捉えて叱り続ける大人もいる。まあまあ,と宥める若い者に対して,しつけの大事さを改めて教える声も続く。段々と賑やかになっていく周囲を他所に,その子が選んだ色と,その組み合わせから描こうとしているものを予想した一人ひとりが,その子に向けたアドバイスや手元にあった参考資料を贈る。大きさや,個数は?服や食べ物もあげる?
「名前は?」
気になることは山ほどあった。しかし,始まりはそれからだった。その子が掴んだクレヨンと用紙の接触面から,残されていく形が表れる。顔の下から描かれていって,長い耳の持ち主になることが予想された。尻尾も丸くてふかふかだろう。蝶ネクタイは個人的な趣味になる。虫を捕まえるのが得意なことは関係がないだろうが,それでも考慮に入れていい。遊び半分は役に立つ。最後になるのは表情だろうか。
「泣き顔なんて見たくない?」
それもきっと,喜んでいるように動いている,その子の気持ち次第になるんだろう。

表情

表情

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted