色彩

吉川央 (よしかわあきら) 左右対称
相川翠 (あいかわみどり) 色彩感覚
田辺風月(たなべふづき)  酒屋の娘 
本田龍一(ほんだりゅういち)天文部
武藤銀華(むとうぎんが)  天文部
吉川美雪(よしかわみゆき) 姉
石浦慧 (いしうらけい)  天文部部長

第一話 傘がない

 ひたすら同じアーティストの楽曲を聴き続けてしまう。この一週間も、ずっとキンモクセイの曲ばかり繰り返し聴いていた。レコード盤が擦りきれてしまうまで聴くということは実際にあるのだろうか。もちろん僕たちの世代はデジタルで音楽を聴くので、ターンテーブルを見たこともなければ、針の落とし方も知らないし、本物のレコードの音を耳にしたこともない。
 特に雨の日曜日は音楽と戯れるに限る。雨の音も僕の生活にとっては音楽の一つだ。
 しかし、日曜日の夜は宿題をしないといけない。音楽を聴きながら勉強できる人間もいれば、静かでないと勉強などできないという人間もいる。僕は前者、というより静かだと集中できない。音楽を聴いて外界をシャットアウトすることで、目の前のことだけに集中できる。余計な雑音に耳の意識を奪われないで済む。

     *

 三限目の英語の授業は英語教師が出張のため自習になった。学年の副主任が授業の初めに教室へやってきてプリントを配った。静かに自習するよう言い残して副主任は職員室へと帰っていった。僕たちは適当に自習プリントをこなしながら、やがて教室の中は騒がしくなった。
 やはり静かより騒がしい方が集中できると改めて思いつつも、提出もしないプリントなのでいい加減にしか問題を解かない。なので、ひとつ前の席の相川翠とそんな話をしていた。
「私はラジオ聴きながら勉強する」
「そうなんや。集中できる?」
「あんまり」
「あんまりって」
「でも楽しいで」
「俺は知ってる曲聴きながらじゃないと安心できんっていうか」
「私逆やわ。知っとー曲やったら曲に集中してまうから、手が動かんようなってまう」
「なるほど」
「それに、知らん曲いろいろ聴けて面白いし」
「相川は普段どんな曲聴くん?」
 同級生の女の子がどんな音楽を聴くのか僕にはさっぱりわからなかった。
「スピッツの三日月ロックっていうアルバムがめっちゃ好き」相川の素晴らしい笑顔。
「ふうん」
「スピッツとか聴く?」
「あんまり知らん」
「じゃあ、ぜひ聴いて」
「わかった。三日月ロックね」
 僕は自習のプリントにメモをする。
 そんな話をしていると、隣のクラスで授業中だった僕たちのクラス担任がもうちょっと静かにしろと注意をしにきた。自分たちが思っている以上にクラスは騒がしかったらしい。
 静かになった教室では、ペンを動かす音が存外大きく耳に届く。
 しかしなぜ最近はキンモクセイをよく聴いているという話をしないのだろう僕は。相川はキンモクセイを知らないと心の中で勝手に決めつけているのかもしれない。たしかにメジャーじゃないかもしれない。でも、こんな音楽も聴くんだよって知ってほしい思いも少しはあるから伝えたらいい。そこまでメジャーではない音楽を知っているんだという優越感や悦に浸る気持ちは中学生までだと思っていたけれど未だに僕の中にはそういう感情があるのかもしれない。
 ふと窓の外を見ると、雲ひとつない空と目があった。少しずつ、夏が忍び寄る気配を感じた。今日の空の青はなんと表現すればいいのだろう。一口に青と言っても様々な色がある。人はそれぞれ今日の空の青を見るだろうし、人の数だけ言葉がある。相川はこの空にどんな青を見るだろう。彼女の名前の翠はどんな色だろう。「ミドリ」という言葉の響きだけで様々な色を連想する。エメラルドのきれいなグリーンもあれば、校門の花弁の散った桜の葉の色もある。濃い抹茶の色やジュドー・アーシタの瞳の色かもしれない。艶のある黒髪をミドリと表現することもある。
 会話の中では一つの言葉を同じように認識していないと伝わらない。細かい理解が違うことはあるだろうが、意味を理解しないと会話にならない。固有名詞、例えばキンモクセイというバンド名を僕はバンド名として話しているのに、相手は植物のことだと認識していたら話が食い違ってくる。言葉をアイデンティファイすることが、他人の世界を理解することに繋がる。自分の認識している世界と他人の認識している世界が全く同じなわけはなく、違う世界を生きているから面白いのであってわかり合おうとするものだが、違う世界の中で共通の世界を見つけることは喜びであることが多い。
 それはコミュニケーションだけでなく、学問についても同じだ。1+1=2となるにはあらゆる前提条件があって、その上で1+1=2となるから1+1=2なのだ。同じ文章を読んで、あるいは同じ音楽を聴いてどう感じるかは人それぞれだが、科学は客観的な認識を定義するものだ。
 時々それを疑問に思う。
 一年生の化学の授業では、リアカー無きK村~などとわけのわからないゴロで炎色反応を覚えさせられたが、それは疑うべき対象だと感じてしまった。リチウムを燃やしたら炎が赤くなるといわれても、自分で確かめたわけじゃない。その実験をしたとして、その試料にリチウムが本当に含まれているのかは僕には証明のしようがない。
 そんなことを言っても、今までの先人の積み重ねてきた努力の結晶が科学なのであって、僕が疑おうがおそらく事実なんだろう。炭酸リチウムは躁病の治療に使うとその時の授業で言っていたが、その方がまだ信じられる。人間に投与してそういう結果が出たんなら、そうなんだろう。指を針で刺したら痛いというのを知っているのは、痛覚の神経が云々と考えなくても痛みを感じるからだ。なら、空を青いと感じたなら、空は青いのだ。言葉の認識の問題ではなく。
 自習が終わった後の休み時間に、相川と先ほどの話の続きをした。相川とは二年生になって初めて知りあった。僕は出席番号では、男子の最後だった。そして相川は女子の最初だった。そんなわけで、始業式から軽く会話をした。その時から予感はあった。相川は別段美人だとか超かわいいと評されるような女の子ではなかった。おしゃべりというわけでもなくおとなしいというわけでもない。成績はどうかは知らないが、毎日宿題はちゃんとやってくるし、遅刻もしない。連休明けに席替えをして僕は相川の後ろの席になった。
 その日の帰り。僕はスピッツの三日月ロックとベストを借りた。その週はスピッツばかり聴いていた。水色の街という曲がシングルなことに驚いた。海を見に行こうという曲が気に入った。海を見に行くなんてそんな行為、高校生の僕にはよくわからなかった。そんなデートもありか。

     *

 週が明けて月曜日。六月にある文化祭のための準備が今週から本格的に始まる。
 先週のホームルームで僕のクラスは作品展示をすることに決まった。写真を集めてモザイク画をつくることになった。ギャザリングアートというらしい。モチーフにする作品はなかなか決まらなかった。「あしたのジョーがいい」「ジョジョやろ」「ゴッホ」「モナリザ」「ギュス様」「小さな恋のメロディ」「MP4-20」等々、様々な意見が出たが、結局投票することになった。
 そして投票の結果、雪月花というウイスキーのパッケージの絵に決まった。その絵を挙げたのは田辺だった。彼女の家は酒屋だ。高校生の文化祭の作品にお酒のパッケージを使うのはどうなんだと思ったが、きれいな絵だったので多くの票を得られクラスの誰もが納得した。
 クラスメイトは各々写真を持ち寄り、足りない色はグループごとに手分けして写真を撮っていった。
 僕のグループが担当したのは黄色だった。
「黄色って何があるやろ……」同じグループの秋山が言う。
「たんぽぽ」永田が応える。
「たんぽぽね。花やったらいろいろありそうやな。吉川は? なんかある?」秋山は自然とまとめ役をやっているような男だ。
「うーん。茶封筒とか? あんぐらいの薄い色もええんちゃん? あとは標識とか」
 そんな話をしながら学内で黄色いものを探して撮って歩いた。教室の中にも黄色いものはあった。教科書や誰かのかばんについているぬいぐるみ。
 木曜日には大体の写真が揃った。写真担当でなかったグループは、どこにどれだけの写真を配置するのかということを考え、模造紙に下書きをしていた。絵を六つのパーツに分け、それぞれで写真を貼る作業を行い、最終的に一つにする予定だ。その準備も終わり金曜日から写真を貼る作業に入った。
 その作業の合間に相川と話した。スピッツを借りて聴いたよと。ほんまに聴いてくれたんや、と嬉しそうな顔をしてくれる。
「夜中から明け方に聴きたいって思わへん?」
「夜を駆けるから?」
「うん。それで、夜が明けたら海を見に行こうって」
「なるほど。でも俺は歌詞の意味が全然わからん」
「そんなもんだと思う。誰にもわからへんかも」
「メロディーはすごく好き」
「いいよね」
 相川は、一曲目の夜を駆けるのイントロがすごく好きで、水色の街のサビのギターが好きで、という話を熱く語る。こんなやつだったのかと意外な気もしたが、素敵だった。自分の好きなものを他人に熱く語れるということはかっこいいことだと思った。
 作業を続けながら、自然と会話が生まれる。
 僕と田辺と永田は小学校が同じだ。という話。
「吉川とはずっとおんなじクラスやな」と田辺。
「ずっとではないやろ」
「うん。小五と中一と中二は違うかった」
「よぉ覚えとんな」
 もちろん僕も覚えていた。

     *

 五月の最終週に僕は姉貴とくだらない喧嘩をした。二つ年上の姉は浪人生で、第一志望の大学に行くために必死に勉強している。まだ五月で、もう少し落ち着いてもいいのではないかと思うが、三月に現役で合格できなかったのが相当悔しかったのか、ヒステリックになっている。大学が落ちたというだけではなく、他の理由があると僕は勝手に想像しているが本人は何も語らない。
 そんな姉は隣の僕の部屋のスピーカーの音がうるさいと文句を言う。音量は以前と同じはずだ。今までそんなことで注文をされたことはない。去年の夏以降は勉強の邪魔をしてはいけないと思ってむしろそれ以前より音量は落としているはずだ。それが迷惑で落ちたなどと言いがかりをつける。
「関係ないやろ。それやったらもっと前から言えばええやろ」というようなことを僕は言った気がする。
 気になるなら自分でイヤホンなり耳栓なり使って周りの音を遮断すればいい。それに、その程度で勉強が手につかないようだから落ちるんだというようなひどいことも言った。僕は反省はしているし申し訳ないとは思ってはいる。焦ったってどうしようもないし、来年また頑張ればいいと励ましてあげたらいいのかもしれないけれど、ピリピリしている姉に少しうんざりしていたので、その時の僕は冷たい言葉を言わずにいられなかった。
 そんなわけで、僕はその日、不機嫌で少しばかり元気がなかった。他にもいろいろなくだらないこと(目覚ましをセットし忘れて朝バタバタしてしまったなど)が積み重なって何もかもがうまくいかない気がする日、誰にだってそういう日はあるのかもしれない。けれど相川はそんなふうには見えなかった。もしかしたら、悲しいことがあっても彼女は明るく振る舞うかもしれない。周りに迷惑をかけないようにと思ってそういうふうに振る舞うなら、それはとても悲しいことで、でも、美しいことだと思う。僕にそんなことはできない。僕が誰かを笑顔にできているとは思わないし、僕のせいで誰かを悲しませてしまうとも思えない。もちろん、相川だってつらい日はつらい顔をするかもしれない。それはわからないけれど、少なくとも僕は彼女の笑顔に救われる。
「今日元気ないね」
 とそれだけだった。それだけで充分だった。「今元気出た」とは応えないけれど、そんな些細な事がとても嬉しい。
「うーん。そういう日も、あるよ」と返してしまう。
 僕は相川の顔をチラと見ただけだ。彼女は今日も元気そうだ。かばんを漁って相川は何やら取り出す。そして僕にそれを差し出し、
「チョコあげる」
 とチョコレートをくれた。
「ありがとう」
 と素直に僕はそれを受け取る。
 相川は深く追求しなかったけれど、「元気出して」と言ってくれた。
 予感は確信に変わった。

     *

 文化祭だからといって、僕はいろいろな展示や模擬店などを回ったりは特にしない。そういう行事にそこまでのめり込めない。そういう人種は一定数いて、教室でくだらない話に興じたり、将棋部のところへ行きクラスメイトと将棋をしたりするだけだ。高校生というのは存外退屈なのだ。
 そして気づけば文化祭も終わって、連日の雨で気が滅入る。
 その日はなんでもない木曜日だった。休み時間、というより授業中もだが一日中、本を読んでいた。世界の終わりとハードボイルドワンダーランド。好きな作家がこの小説がとても好きだと話していたのを聞いて読んでいる。どう考えても面白すぎた。一日中、熱中して本を読んでいるのだから。夜中までかかって上巻を読み終えた。とんでもないものを手にしてしまったという感覚だった。魔法だと思った。こうまで引き込む力が小説にはある。小説だけじゃない。音楽も映画も絵画も、そういった力を持っているはずだ。しかし、そういった作品に人生の中で何度で会えるだろうか。相川にとってはそれが三日月ロックというアルバムだった。僕にとってそう言える作品はいくつあるだろうか。そういうものを探すために、人は本を読み音楽を聴き映画を観るのだと思った。あるいはそれは確信だった。ひとことで自分の言葉では言い表せないそんな感覚を求めるのは、日常が退屈だからだと思った。
 次の日はもちろん下巻を一日中読んでいた。隣の席の本田が「一日中、本読んどんな」と笑う。
「そういう日もある」と返す。
「天文学的な小説知らん?」と訊く本田は天文部に所属している。部活動などやる気のない僕とは大違いだ。
「どういうのよ。SF的なやつ? それとも天文学がモチーフになってる話? 天体観測しに行く話?」
「なんでもいいよ」
「適当やな」僕は笑う。
「なんかあったら教えて」
「わかった」
 天文学的な小説など知らなかった。そんなに読書家でもない僕にはわからなかった。天文部がどんな活動をしているのかも知らなかったし、宇宙の形もわからなかった。本田はポアンカレ予想っていうのがあって……と話してくれたことがあるが、あまりよく覚えていなかった。さほど僕は宇宙に興味がないのだろう。自分が住んでいる街程度の事しか知らないのだ。県の端っこにどんな街があるのかなど知らないし、海の向こうで起こっていることはディスプレイ越しにしか知らない。宇宙など手が届くはずもない。相川に触れることすらできない僕なのだから。
 帰り際、秋山が明日ボーリング行かないかと誘ってきた。そこまで乗り気ではなかったけれど、僕は了解した。休みの日に引きこもっているよりたまには体を動かす方がいい。それに断ることで心証が悪くなるかもしれない。べつにそのときそこまで考えたわけではない。単に断る理由がなかったからだ。よほど事情があったり嫌なやつだったら断るだろうが、秋山はいいやつだし、断ったことで邪険にされたりはしないし、ボーリングは嫌いではない。
「本田も来る?」と秋山は誘う。
「ごめん、明日は銀華とデート」
「そうなんや」
 本人はデートなどと言っているが、実際のところはどうなんだろうと僕は思わずにいられなかった。というのも、本田龍一は、「ぎんが」という響きだけで、武藤銀華を天文部に誘い、半ば無理やり入部させたのだ(と言われている)。その武藤銀華は誰が観ても美人だったが、近寄りがたい雰囲気をいつもまとっていた。そんな彼女に本田は一方的につきまとっているという感じだった。実際にはどういう関係なのかは知らないが。武藤本人は自分の名前が嫌いでもっとまともな名前がよかったそうだが、本人の思いとは裏腹に、いい名前だ綺麗な名前だと言われ続けてうんざりしていたそうだ。名前のことを話題にされると不機嫌になると同じ中学だった僕は知っているが、中学の違う本田はそんなことは知らない。本田は「俺が出会うべき名前だった」などと言うが、武藤がそれに対しどう思っているのかはわからない。本田がそれで幸せなら構わないのだろうし、少なくとも本田は武藤に嫌われてはいない。僕は少しだけ本田が羨ましかった。
 六月もなかばになって、クラスは期末試験を意識し始める。担任などは「高校の試験なんて授業でやったことしか基本的に出んから簡単やろ」と言う。確かにそうかもしれない。それに、「世の中にはもっと難しい試験がいっぱいある」とも言う。「高校の期末試験程度でびびってどうすんねん」と笑う。
「先生は高校の時、成績はどうでしたか」と誰かが訊いた。
「学年で一番ぐらい」と答える。
「すげー」「やべー」という声。
「先生は勉強ができるから簡単って言えるんですよ。私、数学全然わからないです」
「私も数学だけは苦手やった」
「そうなんですか?」完璧な先生にも苦手なものがあるんだとわかって嬉しそう。
「うん。数学だけは二番やった」
「それ苦手って言いませんよ」と別の声。
 そんな会話を聞きながら僕は自分の席につっぷしていた。
 僕はなにが苦手だろう。なにが得意だろう。勉強で言うなら数学と世界史は得意な方だと思う。苦手なのは現国。勉強以外では? 何か一つのことに集中することが得意か。同じ音楽をずっと聴いていたり、読書に熱中したり。
 今はホームルームの時間で、自由にしろと担任は言うのでクラスメイトたちは自由に過ごしている。勉強しているやつ、寝ているやつ、喋っているやつ、本を読んでいるやつ。
 隣の席の本田は前の席の小橋に夕焼けがなぜ赤いのかという話をしている。レイリー散乱が云々と。物理のテキストを引っ張り出してきてまだ授業では習っていない波の話を始める。
 世の中にはいろんな人がいるなと思わずにはいられない。僕はどういうやつだと思われているのだろう。ときどきそういうことが気になってしかたがない。自分で自分がどういう人間かを認識するのは僕の脳では無理らしい。
 昼過ぎから曇りだした空は、放課後の掃除中に雨を降らせ始めた。午前中はあんなに晴れていたのに……。僕は傘を持ってきていなかった。
「傘持ってきてないし」と言うと、
「私も」と相川も同じらしい。
「すぐやめばええけど」
「どうやろ」
 僕は借りていた本を図書室に返してから帰る予定だった。帰る頃にはやむだろうか。
「じゃあね」と手を振り相川は教室を出て行く。濡れて帰るつもりだろうか。
 図書室へ行くと、数人の生徒が勉強していた。その中に田辺がいた。彼女も勉強しているようだ。僕はとりあえずカウンターに一九八四年を返す。田辺は僕に気づいたようで、こちらを見ている。そちらへ近づくと「やっほ」と小さく声をかけてくれる。
「勉強してんの?」
 周りの迷惑にならないように音量を落として喋る。僕たちの他にも喋っている人もいた。もちろん小声でだが。
「うん。数学」
「えらいな」
「バカだから勉強しとんねんで」そういう意見もある。
「なに言ってん」
「吉川は余裕なんやな。試験」
「余裕ではないよ」
「ていうか宿題多ない?」
「まだそこなん?」田辺が広げている数学の問題集のページを見て僕は言う。
「普段全然せんから」
 はははと乾いた笑い。
「毎日ちょっとずつすればいい感じに終わるで」
「毎日やってんの?」
「だいたいは」
「吉川ってわりと真面目」ちょっと感心される。
「そんなことないやろ」本当に。
「教えて」と田辺は僕に頼む。
「えー」と答えるが僕は隣の席に座る。「高いで」と冗談を言う僕。
「ちゃんと払うから。お酒で」
「酒かよ」
「体がいい?」
「なに言ってんの」
「セクハラや」
「自分で言い出したんやん」
 田辺と冗談を言い合うのは存外楽しい。
「いっつもここで勉強してんの?」
「たまに。家じゃできん」
「そうなんや」
「うん……」
 そう言って田辺はペンをもてあそぶ。どこでもない地点を見つめるでもなく視線は机の上。なにか言いにくいことでもあるのだろうか。僕はその沈黙に深く追求しない。
「どこがわからへんの」
 何も気づいていないふりをして訊く。
 それから一時間半ほど、勉強を教えたり、自分も横で宿題をしたりして過ごした。たまには静かな空間で勉強するのも悪くないと思った。雨はすっかりあがっていた。図書室に残っている生徒は僕たちだけになっていた。
「雨上がったな」
「私と一緒に勉強してよかったやろ?」
「そうやな」
 六時のチャイムが鳴った。そろそろ帰らないと。
「帰る?」
「帰る」
「本借りに来たんじゃないん?」
「返しに来ただけ。試験終わるまで本は読まんと思う」
「なるほど」
 僕たちは図書室を出て並んで歩く。
 田辺は小柄で身長は一五〇あるのかないのかという感じだ。小学生の頃から小さかった。田辺は僕や永田とは昔からの知り合いだからそれなりに喋るけれど、高校からの知り合いとはあまり喋らない。人見知り、というより元来おとなしい性格なのだ。いつからだろうか、こうやって僕ともよく喋ってくれるようになったのは。僕もどちらかというとおとなしい方だと思う。僕が田辺と話せるようになったのもいつからだろう。
「一緒に帰るん久しぶりやな」と田辺は言う。
「一緒に帰ったことあったっけ」僕の記憶にはない。
「ないと思う」ふふっと田辺は笑う。
 下駄箱を見る限りほとんどの生徒は帰ったあとのようだ。残っているのは僕たちのように勉強している一部の生徒だけだろう。ほとんどの部活は試験前ということで活動をしていない。一部活動している運動部でも、今日の雨で中止になったりしたのではないだろうか。野球部や陸上部の練習する声も聞こえない。武道場の方から剣道部らしい奇声は聞こえるが。
 まだまだ空は明るい。靴を履き替え、外に出ると雨上がりの湿っぽい空気が肌にまとわりつく。お手洗いに行った田辺を、昇降口を出たところで僕は待つ。
 校門脇にはいつの間にか紫陽花の花が咲いている。紫陽花は花(厳密には萼(がく)らしいが)もきれいだけれど、花だけじゃなくて葉との鮮やかなコントラストがきれいなのだと思う。そしてそれらに雨のしずくがアクセントをつけているのはとても良い。
 こんなに鮮やかな色で生きられたら素晴らしいと思う。
 僕は自分の色がやはりわからない。
「ごめん、おまたせ」
 田辺が現れる。この小さな女の子の色は、クリーム色とでも言うのだろうか。柔らかく淡い黄色のイメージだ。ただの僕の感覚が持つイメージカラー。それは風月(ふづき)という名だからだけではないだろう。おそらく。派手な色ではないことは確かだ。そういえば、なぜ風月という名前なのだろう。花鳥もいるのだろうか。
「なぁ」
「ん?」
「なんで風月って名前なん?」
「なんでやと思う?」
 どこか嬉しそうな田辺。
 僕たちは歩き出す。
「そういう名前のお酒がある」知らないけれど。
「違うよ」
「花鳥風月ってつけようとしたけどあまりにもあれやからやめたとか?」そんな名前はつけられたくない。
「うん。違う」
「なんなん?」
「父親がね、風って名前につけたかったんやって」
「なんで?」
「知らん。昔聞いたことあった気がするけど忘れた」
「ふうん」
「それに七月生まれやから文月(ふづき)と音合わせたらしい」
 なるほど。
「実は双子で花鳥もいるとかじゃないんやな」
「私一人っ子」
「知ってる」
 本当は知らなかった。
「吉川はなんで央(あきら)なん?」
「左右対称やから」
「ええ? そんな理由で?」
「冗談だよ」僕は笑う。「央っていう字は真ん中って意味やろ?」
「うん。吉川が世界の中心ってこと?」
「そんな大げさな名前じゃない。中央に立つとかそういう意味。リーダー的な仕事は俺には向いてないと思うけど」
 学校から駅までは徒歩で十分かかる。そこから僕たちは二駅分電車に揺られて帰る。駅までの十分間は長いようで短かった。
 僕も田辺もそこまでおしゃべりな人間ではない。気心が知れてると言っても、ふたりきりでは何を話せばいいのか、わからなかった。時折訪れる沈黙が全く気にならないというほど僕たちの距離は近くない。そんなにお互いが相手の顔を見れない。
「ありがとう」と不意に田辺の声。
「うん……なにが」
「一緒に勉強してくれて」
 そんなに丁寧にお礼を言われるとは思わなかった。
「はい」
「……」
 少し照れくさいのか、僕の方を向いてくれない。
「いつも一人で勉強しとん?」
「そうやで」
 僕はどう言葉を返せばいいのかわからなかった。「明日も一緒にする?」とでも言えばいいのかもしれない。でも僕は田辺と親密な仲になりたいのだろうか……? これがわからない。例えばこれから毎日一緒にいてこうやって一緒に帰ったりして、同級生にからかわれたりするのが嫌なのか。僕は相川のことを意識してしまっているし、相川に勘違いされるのが怖いのか。勘違いも何も一緒にいたらそれは事実だし、勘違いされるという思考が見当違いも甚だしいのかもしれない。田辺はかわいいか、かわいくないかというとかわいいと思うし、冗談を言い合える。でもそれだけなんだろうと思ってしまう。もっと惹かれる要素がないとただの友達にしか見れない。
 隣を歩く小さな同級生がどう思っているかは知らないが、ただの友達として一緒に勉強したいだけかもしれない。特になんの打算もなく純粋な感情かもしれない。田辺にそういう意図があると考えるのは考えすぎで僕の自意識過剰だという意見もあるだろろうが、僕たちはそういうことを意識してしまう年頃なのである。僕たちは。
 駅のホームはいつもとは違う人たちでいっぱいだった。
 電車の中も仕事帰りの大人が大勢いた。普段は学生ばかりの時間に帰るから乗る電車を間違えたのかと思ったほどだ。
 電車の中では会話らしい会話はしなかった。冷房効きすぎて寒いねという様なことしか話さなかった。
 電車を降りてから少し歩いて、意外な言葉をもらう。
「明日も一緒に勉強、してくれる?」どこか言葉を発音しにくそうに田辺は言う。自分が青だと認識している色が本当に青なのかを確かめるかのように。
「ごめんなんでもない」
 僕が応えるより先に田辺は言葉を取り消す。
「……」
 沈黙が二人の間に割って入る。
 向こうからそういうことを言われるとは思わなかった。
「別に予定もないし。ええで」
 存外冷静に応えている自分に僕は驚いている。相川に勘違いされるのが怖いはずなのに……?
「ええん?」
「あたりまえやん。なんであかんのよ」と僕はおどけてみせる。
「ありがとう」
 そうして僕たちは別れた。
 僕がなにか惹かれる要素がないと田辺を異性として見れないと考えてしまうのは、知ろうとしないからではないか。小学生からの同級生といっても、お互いのことをそんなに知っているわけではない。すでにある程度の距離感が作られてしまっているから、お互いに知ろうともしない。今さら聞けないという恥ずかしさもある。作られたある程度の距離感を壊すのが怖いという思いもあるだろう。
 こういう思考をしてしまう自分が嫌だ。おそらく、標準的な男子高校生はこういうものだろうと思うが、どうなんだろう。自分が標準的かどうかは知らない。
 男女の間に恋愛感情しか見い出せないというわけではない。男女の友情は成立しないなどという意見には賛同できない。でも、全く意識しないというのも簡単ではない。単にそういう年頃だからで済ませるものなのか、僕にはわからない。
 田辺は僕に色を見いだせるだろうか。相川はそれができると僕は確信……もとい期待している。心のどこかでそう思えるから彼女に惹かれているわけで、たとえそれが僕の一方的な思い込みであったとしても、その感情は実際に存在する。
 本当にこれでいいのだろうか。
 そんなつもりはなかったとしても、女の子と一緒に過ごせる時間を得られるというのはやはり僕たちの世代に……それは言い逃れにしかすぎないのでより正確に言うと僕にとって、それは特別なことだった。そういう男女関係に全く縁のない同級生だって大勢いるし、クラスメイトでも異性と会話さえできない人だっている。そういう環境の中で自分は違うんだぞという優越感を抱かないといえば嘘になる。その感情のために田辺を利用しているような気がして、僕はそこにほんの少しだけ罪悪感を抱くのであった。
 翌日の昼休み、相川と一緒に昼食をとっているメンバーたちの声が喧騒の中で少しだけ耳に届く。なにやら相川が昨日誰か男と一緒に下校していたのを見た、というような内容だった。相合い傘しとったやろ、とからかう声。違うよそんなんじゃないたまたまだよと相川は言うが否定はしない。
 そうなのか。彼氏がいたのか? と僕は思うが、内心はもちろん穏やかではない。でも、そんなんじゃないと相川は言った。たまたま傘を持っている誰かと一緒に帰っただけ。だけ、のはずなのに……。相川が誰と帰ろうと相川の自由だし、なにか用事で急いでいてそうせざるを得なかった可能性もある。なぜ相川の言い訳を僕が考えないといけないのだ。僕だって田辺と帰ったではないか。
 午後の授業中も僕は相川のことを考えてしまっている。なんでもないできごとかもしれないのに。
 僕は掃除が終わった後、一人図書室へ向かった。田辺の班は掃除がなかったので、田辺は先に図書室にいるということだ。今日学校で田辺と話したのは、「先図書室おるから」「うん」と、それだけだった。
 田辺は昨日と同じ場所にいた。今日も他にも生徒が数人。三年生が多そうだ。といってもほんとうにちらほらといるだけで、この学校の生徒は図書室で勉強派は少ないのか。と思うが、よく考えたら自習室が各棟に数部屋あるので、そちらにいるのかもしれない。図書室は飲食禁止だから人が少ないのかもしれない。
 昨日と同じように時折わからないところを訊きあったりして、六時まで勉強していた。田辺は存外英語が得意だった。昨日と違うのは、僕の心の中身だけ。
 その週と次の週は毎日、田辺と一緒に勉強をして帰った。そのさらに翌週が期末試験だった。
 僕たちは帰りながらいろいろと話した。それまで知らなかったお互いのことを少しわかった気がした。以前より距離が近づいたのは確かだが、やはり僕が向いている方向は違った。
 一度だけ、帰りの電車の中で、僕たちは手を繋いだ。大勢の会社帰りの大人たちのなかではぐれないように。隣りにいることを確かめるように。それは自然な流れだったように思う。田辺の手は小さく折れてしまいそうだった。しかし、そこには確かに温もりがあって、その温もりを守りたい思いと壊したい思いが同時に存在していることに気がついてしまう。
 君は隣りにいるけれど僕の目に映っているのは違う人なんだよ、ってそんな残酷なことを伝えるわけにはいかない。それが残酷なことなのかも僕にはわからない。おそらく残酷な行為だと考えてしまうだけだ。僕は何をしているのだろう。十六歳の夏は一度しかないのに。
 最初はほんの小さな予感だった。僕はそれを知っている言葉ではうまく言い表せなかった。人と人が惹かれあうのは、本人は感じない匂いが原因だという説を聞いたことがある。ほとんど感知できない程度の体臭を人はそれぞれ持っていて、それを無意識下に感じ取って、一緒にいて心地良いと思える匂いも人それぞれで、その波長が合えば、人は人に惹かれてしまうらしい。それを運命の人だと勘違いする人や大親友になれるという思い込みから実際に大親友になる人もいるだろう。その説が本当か嘘かは知らないけれど、僕の感じた予感はそういったレベルのものだった。あるいはそう思いたいだけかもしれないが。
 ともかく、僕は出会ったその日から相川に惹かれ始めていた。それが、この人とは仲良くなれそうというぐらいの漠然とした感覚であっても。
 相川は僕とよく喋ってくれる。クラスの男子の中で彼女が一番よく喋るのは僕かもしれない。趣味の話もできるし、くだらない話もする。優しくて頭もいい。ここでいう頭がいいというのは、頭の回転が速いという意味だ。何かを伝えるのに一から十まで説明しなくとも、一か二伝えただけでだいたい察してくれる人もいる。相川はそんな人だ。七か八伝えないと話の輪郭がつかめない人というのもどうしてもいるが、そういう人に僕は少しいらだちを覚えるし、やはり苦手だ。
 男なんて単純だから、元気の無い日に「元気?」と訊いてくれることがとても嬉しくて、それだけで惚れそうと思ってしまうものだ。僕に元気が無いと見抜いてしまうのだから、そして、それを気にかけてくれたのだから、そんな些細な言葉がどれだけ元気をくれるか、おそらく当人にしかわからないだろう。男なんて単純だから、そんな思い込みだけで突っ走ってしまうのだ。
 僕が確信したその感情は事実だ。リチウムが何色に燃えようが。僕と相川が同じ色を同じ色だと認識できなくても。

     *

 夏休みに予定などなかった。
 僕はいつの間にか穏やかになった姉と出かけた。その日は両親が知り合いの葬式に行くとかで、僕と姉に一万円ずつ渡して適当に晩ごはん食べてねということと、家のことよろしくということを伝えて出て行った。
 姉が僕をデートに誘った。プランは姉が全部考えた。それで少しでも姉の気が紛れるのであればかまわないと思い、僕はそれに応じた。
 まず映画のチケットを買った。映画まで少し時間があるので買い物をして歩いた。そこで偶然、相川と出会う。となりには武藤。
 相川は向こうからこちらを見ている。姉を見ているようだ。
「友だち?」と姉は訊く。
「うん」と僕が答えると、姉は僕の腕に自分の腕を絡ませて「挨拶せな」とそちらへ歩き出す。
「べたべたすんなよ」と僕は抗議するも、「見せつけたろ」とより僕に密着する。なにを言っているんだ。
「相川さん」
「こんにちは」と姉。
「こんにちは」と相川も軽くお辞儀をする。
「央の同級生?」
「はい。クラスメイトです」と応える相川。相川の目は姉を見ている。不思議なものでも見るみたいに。なんだろうこの人彼女かなと思っているかもしれない。
「央と仲良くしたってね」と姉が言う。
「はい」
 少し離れたところにいる武藤は手持ち無沙汰だ。
 僕が武藤を気にしていると、「銀ちゃ……武藤さん。二組の」と相川が紹介してくれる。
「知ってる」
「そうなん」
「二人でお出かけ?」
「うん」
「央、そろそろ行かな」と時計を気にする姉。「ごめんねデートの邪魔して」などと姉は言う。
「え? はい。こちらこそ」相川は苦笑い。
「じゃあね」と姉。
「ごめん」僕も苦笑。「じゃあね」と手を振って別れる。
 姉は僕を引っ張っていく。映画館のある階へのエスカレーターで僕は言う。
「急がんでもまだ時間あるやん」
「わかってる」
 映画館の待合室のソファに腰掛ける。
「私のことお姉ちゃんやって紹介してほしくなかったから」
「そうなん?」
「今日は一日恋人やと思ってデートしてください」
 そんなことをそんな言葉で言われたら、「はい」と答えざるを得ない。僕はなにも詮索しない。
「ひどいふられ方をしてん」
 僕が詮索しなくても自分で言うらしい。
「そっか」
 僕を一日振り回してそれで気が済むなら好きにすればいい。姉は白いワンピースにネイビーのカーデガンを着ていた。こんなかわいくて素敵な姉をふるなんてひどい男もいたもんだ。女かもしれないけれど。ひどいふられ方というのがどのレベルの話なのかは僕にはわからない。彼氏にふられたのか、好きだと伝えたけれど断られたのか、親友に裏切られたのか、それもわからない。気まぐれな姉の事だから、大袈裟に言っているだけかもしれないが、五月はひどく荒れていたので、存外ひどいふられ方をしたのかもしれないけれど。
 映画を観た後、僕たちは海に面した喫茶店に入った。モザイク(神戸の商業施設)のウッドデッキのお店だ。
 海に入るのは好きではないが、見るのは嫌いじゃない。人でごった返す海水浴場より、港町の鮮やかな海の景色が好きだ。テラスでアイスコーヒーを飲みながら、海を眺める。穏やかな時間。時折やってくるそよ風が心地いい。
「どっちなん?」
 姉は唐突にそんなことを言う。
「なにが」
「あの子ら。どっちがタイプなん?」
 相川と武藤のことらしい。
「なに言ってんの」
「話しとった方? 後ろのきれいな子?」
 楽しそうな姉。
「どっちでもええやん」
「よく喋るん?」
「話しとった子とは。おんなじクラスやし」
「もう一人は?」
「話したことはない。あの子の彼氏が俺の隣の席のやつ」
「そうなんや。央にあんなかわいい友だちがおるとは思わんかったわ」
「あっそう」
 僕は思う。どっちなんだろう。相川はタイプなのか? よくわからない。海を見ても空を見ても答えは書いていない。空には雲一つない。青だ。
 横目で姉を見る。この人は白だ。いくらでも描き足せる。その時その時によっていろいろな色に染まる可能性を持っている。自由に生きているように見える。少なくとも僕には。
「美雪さん」
「なにそれ。どしたん」
「尊敬してるから」だから、さん付けで呼んでみた。
「なに? 口説いてんの?」姉はけらけら笑う。かわいい。
「なんで?」
「今日は恋人でおってくれるんやろ?」
「なるほど」
「ちょっとその辺歩こ」と姉が言う。
 モザイクの店を物色して(もちろん手を繋いで)、海辺へ出た。風が心地よい海が見渡せる地点で、海を眺めながら、姉は僕に寄り添ってきた。僕にどうしろというのだと思いながらも、抱き寄せた。少しずつ日が落ちかけて、気温も少しだけ下がった。端から見たらただのカップルにしか見えないだろう。僕たちは明らかに相思相愛で、姉弟じゃなければ、最強のカップルになり得るかもしれない。相川にシスコンだと思われるのは気が引けるなと思った。
 ここになってようやく気づく。僕は姉と海を見ている。海を見に行こうと誘いたかったのは相川翠なのに。僕は吉川美雪と海を見ている。
 姉はたくさんの写真を撮った。姉のOM-Dに閉じ込められた写真たち。海の写真。空の写真。船の写真。僕の写真。アイスコーヒーのコップ。コップの表面を流れる水滴。夏の匂い。夕日。
 それからベンチに座って、フジファブリックの若者のすべてを姉は口ずさむ。泣きながら。
「央、夏が終わってまう」
「夏好きなん?」
「うん。美雪って名前やけど」
 僕の身体に腕を回す姉はどこか弱々しい。もっと強い人だと思っていたけれど、僕の思い込みだったらしい。姉が、素直に自分の弱い部分を見せられる相手と幸せに暮らしてほしいと僕は思った。
「夏が終わるんはなんで悲しいんやろ」
「夏が終わるからやろ」と答えにならない答えを返す。「ていうかまだまだ夏やけど」まだ八月だ。
「夏の終わりを感じさせる曲は泣けるよねっていう話」
「わかる」
 僕たちはその後、ポートタワーへ行き、夕暮れから夜景へと変わる神戸の街を眺めた。
「こんなにきれいやのに、なんでとなりにおるんは央なんやろ」
「ごめん」
「ううん。今日一日一緒におってくれて嬉しかった」
 姉は夜景を見ながら言う。
「ありがとう」
 なにを照れているのやら。こちらを見ようとしない。
 僕は内心でごめんともう一度つぶやく。今日は姉の恋人としているなら、姉の事だけ考えてあげたかった。他の女の子のことなど考えずに。
「央は優しいな」
 そうなのか。
「もてるん?」
「べつに」
「もてたくはないん?」
「もててどうするん? 振り向いてほしい人が振り向いてくれへんかったら意味ない」
「ふうん。私が思ってるより大人なんや」
「なにそれ」
 姉にはそう見えるのか。
 夕食はポートタワーの近くの店でとった。
「お酒飲めるようになったらまた来たいな」と言う姉。
「そんときは彼氏とくればええやん」
「そうかもしれん」
 夜が僕たちを包む。海も空も色を変えた。
「花火が上がったら最高やのに」
 テーブルの上の僕の右手に左手を重ねる姉。
「来週は誰か誘って花火行くん?」
「べつに」僕はそんなに積極的じゃない。
「誘えばええやん。仲いい子を」
「……」
「言えへんの?」うふふふと姉は笑う。「央のそういうところが私は好きやな」姉の顔を見つめる僕。「自分から女の子を引っ張っていくっていう感じじゃないもんな」
 その通りだった。僕は姉に振り回されるのは嫌いじゃないのだ。姉のせいでこんな人間になってしまったのかもしれない。
 家に帰ってから、携帯に相川からのメッセージ。
『あれお姉ちゃん? 笑』
 やはりわかるものなのか。
『そうやで。変な人でごめん 笑』と返す。
『らぶらぶやん』
『はい』
 姉がデートに誘えと言っていたことが頭をよぎる。
 相川を誘うべきなのか? メッセージをやり取りしている今なら千載一遇のチャンスかもしれない。それに気づいて僕の鼓動は早くなる。相川と一緒ならどんなに素敵なことだろうか。イエスにしろノーにしろ、誘ってもいないのに僕は恐れている。答えを聴くのが怖いのだ。僕が葛藤している間に時間は過ぎていく。三分。イエスならもちろん嬉しいけれど、僕なんかでいいのだろうかと考えてしまう。それに、教室で話すのとは違って、外で二人で何を話せばいいのだろう。ノーならもちろん悲しいけれど、少しだけ安心してしまうかもしれない。相川は僕に対してそこまで思っていないんだということと、傷口が浅くて済むということを考える。五分。彼女はまぶしすぎて僕なんかとはつり合わないと思い上がっているのだ僕は。どんな言い訳をしようと、本当は今の関係がなくなるのが怖いんだと気づいているが僕はそんなに簡単に決意できない。
 結局、十四分経ってから、『八日ヒマやったりする?』と送る。手が震えていた。たったこれだけのことなのにこんなに緊張するとは思わなかった。
 僕だってやるときはやるんだと姉に伝えたかった。でも、姉のせいでこのような事態になったような気がするから、全て姉の手のひらの上ということかもしれない。
 返事が来るまで落ち着かなかった。家の前の道路を走る車の音が妙に大きく聞こえる。目の前にあったペンを意味もなく回す。別の何かをして気を紛らそうと考えるが何をすればいいのかわからない。何度も時刻を確認するが、その度に三〇秒ほどしか経っていないことに気づく。
 そして、五分ほど経ったころに返事が返ってきた、と思ったが、相手は田辺だった。それはデートの誘いだった。
『来週花火見に行きませんか』
 僕は、なんて応えればいいのかわからなかった。
 田辺はこんなにもストレートに大胆に僕を誘った。僕の感情も知らないで。でもそれはお互い様だろう。田辺の感情も相川の感情も知るわけがない。だから人は駆け引きをするのだ。
 田辺が誘ってくれたことは素直に嬉しかった。でも、僕の心はどうしようもなく相川に向かっている。
 そして、相川から返事が返ってきた。
『ごめん
 その日は用事があるから』
 暗にふられたと思った。もちろん、その日が用事でヒマじゃないだけの可能性もある。その用事が、誰と何の用事かなんて僕に訊く権利などない。
 相川がダメだったから田辺と花火に行けるなどと少しだけ考えてしまって嫌気がした。そんなに都合のいい男だなんて誰にも思われたくなかったし、僕がその選択をしても誰も責めないかもしれないけれど、僕は僕の相川に対する思いを裏切りたくなかった。
『あら
 ごめんねいきなり』
 と穏やかなふりをした返事を返した。しかたのないことだし、ノーならノーでいいんだし、少し落ち着いた。自惚れていた自分を知った。ここであきらめないで、もっとアタックしたらいい結果に繋がるかもしれない。でも、今の僕にはこれ以上はできない。これ以上は迷惑だと考えてしまうけれど、姉の言ったように僕がそんなに積極的な人間じゃないというのが一番正しい。
 田辺は存外積極的で、でも、僕を振り回してほしいのは田辺じゃないんだと考えてしまう。それは僕のわがままだ。付き合ってみたら意外とうまくいくかもしれない。そのとおりかもしれない。始まりもせずにわかるはずもない。のに、僕が一緒にいたい女の子は田辺じゃないのだ。そんな気持ちで一緒にいたら田辺に失礼だし、誰も救われない。違う。それでもいいと田辺は言うかもしれない。そして一緒にいたらいつしか僕も田辺とちゃんと向き合えるかもしれない。それが、怖い。相川のことが好きだというのが今の僕を定義しているのであって、その感情が消えたら僕は僕でなくなってしまう。
『八日? 八日はダメかも』と田辺に返す。
 田辺の返信は早かった。
『試験の時に一緒に勉強してくれたお礼がしたいんやけど……』
 そんなことを言われたら断れない。お礼などいいと断っても、なんだかんだ理由をつけてお礼がしたいと食い下がるだろう。田辺の積極性を見習うべきだと思った。僕が相川を誘うのに要した勇気を田辺も要したかもしれないのだ。でも、八日はダメだと思った。その日に田辺といるところを誰かに見つかると、相川にも伝わるかもしれない。誘うのは女の子なら誰でも良かったのかと思われるのが怖い。
『わかった。十日以降やったら』
 そう返した時の手の震えは、緊張からか喜びからか後ろめたさからか。
 結局、十一日に小学校の近くの神社で夏祭りがあるのでそれに行こうということになった。小学校の知り合いに会ったらなんと言い訳すればいいのかなどと考えるが、その時はその時だ、なるようになれ。そういうふうに思えるのは、姉以外の女の子とデートするのが実は初めてで気分が高揚していたからだろう。そんな自分の感情に動揺してしまっていた。
 八月十一日は快晴だった。夕方に神社の入口で待ち合わせた。神社は田辺の家からは歩いて十分ほど、僕の家からは自転車で七分ほどのところにある。田辺は浴衣を着てきた。かわいい、と素直に思ってしまった。
 この神社の祭りには小学生のころに何度か来たことがある。今でも小学生がやはり多い。小学校の知り合いにはほとんど会わなかった。誰も地元の祭りになど顔を出さないのだろうか。顔見知り程度の人たちにしか会わなかった。
 屋台を見て回って唐揚げを食べたり、かき氷を食べたりした。祭りは存外賑わっていた。昔はこんなに人であふれていた記憶がないけれど、それは僕が小さかったから自分がカステラを食べるのに夢中で周りに気が向かなかっただけかもしれない。僕たちは意外と人多いねとか昔来たことあるけどなつかしいねとかそういった話をした。どうでもいい話だ。「明日か明後日あたりに流星群がきれいらしい」「そうなん?」「本田が言っとった」という会話も僕はどうでもいい会話にした。デートに誘う口実にはしなかった。
 神社の境内の方は人が少なく、薄暗く静かだった。僕たちは石段に座って一息ついた。
「そういえば」と思い出したことを僕は言う。「誕生日おめでとう。七月二十八やっけ」
「うん。ありがとう」
 となりに座る田辺を見て、僕は一体何をしているんだろう、と、そんなことを思ってしまった。
「これ」と言って彼女は手に提げたかばんから何やら取り出す。
「なに」
「クッキー焼いてん。こないだの、お礼」
 少し照れて言う彼女をかわいいと思ってしまった。
「ありがとう」
 僕の方も彼女の目を見ない。二人の視線はねじれの位置にある。心もそうなのだろうか。そうあってほしいと願う僕に、さようならと心のどこかでささやく僕もいる。階段の下から自分自身を見上げている自分を錯覚し、無色の僕の心の色が少しだけ変わっているのを知った。
 田辺から受け取った袋は存外大きく、五百円玉サイズのクッキーがいっぱいだった。
「食べてみて」と田辺。
 僕は袋から一つ取り出してそれを口に放り込む。
「どう? けっこう上手に焼けたと思うけど」
「おいしいよ」
 彼女の目を見て僕は微笑む。いつから僕はそんな行為ができる人間になったのだろう。
「よかった」……。
「よくつくったりするん?」
「ときどき」
「お酒は入ってんの?」
「入ってへんわ」
 風が吹いた。少し生暖かい夜風なのに不快に感じなかった。

     *

 九月になって学校に行ったら、相川が怪我をしていた。指に包帯を巻いていた。僕はそれが気になったけれど、何も訊かなかった。訊いてほしくないこともあるかもしれないと思う僕の感情は優しさか……?
 僕は一体誰に何を遠慮しているのかわからなかった。姉に、相川に、田辺に、自分に。あるいは他の誰かに。
 姉と一緒にいるところを見られてから、どこか後ろめたさを感じている。相川は、あれが姉だってわかっているのに、相川の前で他の女の子といちゃいちゃしているのを見られて何か誤解されているかもしれない。吉川にはそういう相手がいるんだ、と思い、姉のような人が好きなら、私は対象外なのか、とそういうことを考えているかもしれない。というのは僕のなんの根拠もない妄想か。
 僕がデートに誘ったことで相川は何も感じないわけもないと思うし、どういうふうに接すればいいのかわからないということもある。そこまで深く考える必要もないはずなのに。
 田辺は相変わらず教室ではあまり話しかけてはこない。僕も話しかけないが。世間には内緒の秘密の関係でいたいのだろうか? 田辺はそういうのを公にするのをおそらく嫌がるだろうし、僕もそれを汲んで、なにもないふりをしている。というより別に付き合っているわけではない。なにもないふりもなにも、初めからなにもない。でもそれは言い訳だ。
 普通に生活しているだけなのに心が落ち着かない。それは普通に生活しているだけとは言わないかもしれないが。心がざわついて見ている映像が白黒に見えて、誰かの声が頭で言葉にならない。何かを喋っているのはわかるけれど、集中しないと意味を理解できない。
「つかれてる?」と訊く相川はやはり優しい。
 上の空の僕はそれに気のない返事を返したような気がするが、気がするだけかもしれない。
 家に帰ってベッドに寝転んで天井を見ていても何かの答えがあるわけではない。
 僕の頭に浮かぶのは「よかった」と言った時の田辺の笑顔。相川の声じゃなくて田辺の笑顔だった。
 自分でも何を考えているのかわからなくなっている。どうすればいいんだろう。
「あきら」と姉が僕の部屋に入ってくる。
「どしたん」
「べつに」
 そして僕のとなりに来て、一緒に天井を見上げる。
 姉は身体をこちらへ向け、僕の胸に自分の手をのせる。
「ねえ」
「なに」
「なんでもない」
「そう」
 こういうなんでもない時を一緒に過ごしたいだけなのに。
 この人の言うように僕は誰かに引っ張っていってほしい。でもそれは僕の甘えで、自分から動かないといけないこともわかる。
 僕も姉の方へ身体を向け、向き合う形になる。姉は僕の首を締めるように腕を伸ばす。
「お姉ちゃんが遠くに行っちゃったら悲しい?」
「生きとったら会える」
 姉の手首を僕はつかむ。
 姉は僕の頭に手を回し自分の胸に抱き寄せる。すごく窮屈な僕を想い姉は身体を少しずらして、僕が腕を姉の身体に回せるようにする。僕が少し身体をずらし、姉の身体に腕を回すと、僕はされるがままに姉の胸に顔を埋める。
「元気出して」
 姉は僕に元気が無いのを見て取れる才能を持っている。
 姉のやわらかな胸。下着をしていない。姉の体温。姉の匂い。僕はいつの間にか眠りに落ちていた。
 目が覚めたら姉はいなかった。初めから夢だったのかもしれない。

     *

 二学期はあっという間にすぎた。特筆すべきことはなにもない。僕は相変わらず同じ所をぐるぐる回っているだけで、なんの結論も出せなかった。
 金木犀の香りがいつの間にか消え去った。終業式の日は、雪が降ってもおかしくないような空の色になった。
 帰ろうとしたら僕を呼び止める声。
「一緒に帰ろう」
 田辺だった。十二月になっても彼女の背は低かった。
 初めて一緒に帰ったときはぎこちなかったのに、いつの間にか二人でいても僕たちは迷わずに話ができるようになっていた。
 二人でいる時間が終わるのが惜しいとさえ思った。でも、電車を降りて分かれ道が近づく。
「そこの公園行こ」と田辺が言う。
 なるほど。
 そして大方の予想通りのことを田辺は言う。
「私、吉川のこと好き」
「うん」
「つきあってほしい」
「……」
 田辺は僕の目を見ている。僕はどこを見ている。
 僕がなにか言う前に田辺が口を開く。
「好きな人、おるん?」
「……うん」
「相川さんは秋山くんと付き合ってるよ」
「知ってる」
 そうだ。
 特筆すべきはずのことだ。僕は認めたくないものから目を背けているだけだ。
「すぐ返事せなあかん?」
 僕は傘がなかったんだ。
「ううん。待ってる」
「わかった」
「そういう優しいところが好きやねんで」
「?」
 田辺はなにか優しさを勘違いしているのではないか。
「俺は優しくなんかないよ」
「自分ではわからんだけで吉川はめっちゃ優しいと思う。自分では何気なく自然にやってることやから気づかんのやと思う」
「そうなんや」
「少なくとも私はそう思う」
 僕はそうは思わなかった。目の前の田辺風月を正面から見てあげられないのだから。真剣に向き合ってあげられないという傲慢な思いが、真剣に向き合おうという行為すらもさせなかった。
 もし、傘があったら。
 あの日図書室へ行かなかったら。
 そう考えてもどうしようもないことはわかっているのに考えてしまう。
 あの日、傘を持っていた秋山が相川と一緒に帰った。それが全てとは言えないだろうけれど、きっかけの一つだったはずだ。それは僕と田辺にしても同じかもしれないけれど、僕は違うことを考えてしまう。
 田辺はずっと待っていたのではないか。僕が図書室に現れるのを。僕が図書室に本を返しに行くことはおそらく知っていたはずだ。それがいつかはわからないから毎日僕が現れるのを待っていたのではないか。試験前なら図書室で勉強していても不自然ではないのでその方法をとった。それこそ考えすぎだろうか。僕に近づくために、回りくどくても面倒くさくても、そう行動するしかできない女の子なのではないか。積極的にアプローチするのは苦手だろうことは想像ができる。教室で話しかけるなり、連絡を取るにしてももっと頻繁に行うこともできたはずなのだから。
 でも、意外と、言うべき時にははっきりと言う。それが彼女にとってたやすい行為ではないだろうと思う。「明日も一緒に勉強してくれる?」と言った田辺にはどれほどの勇気がいっただろう。僕はそれを考えてあげられなかった。僕は田辺の小さな体にある勇気すら持ち合わせていない。
 あのとき、僕は少し戸惑いながらもどこかで嬉しくて、かまわないと応えたはずだ。僕なんかを必要としてくれているんだという感情が少しはあったはずだ。惹かれるとか惹かれないとかそういうことではなく。
 僕には相川翠しか見えない。集中力が高いという自覚は、周りが見えないという言い訳でしかない。周りが見えていないのではなく、見えていないふりをしているだけだ。田辺の感情を全く意識しなかったというわけにはいかず、真剣に向き合うことから目を背けていただけだ。僕は相川が好きだという思い込みと、田辺の僕に対する恋愛感情が大したことはないという思い込みが僕をこんな人間にする。スピッツもそういう歌をうたう。妄想だけでここまでこれる。それはそれでかまわないという人はいるかもしれないけれど、それだけではダメなのだ。
 田辺の僕に対する感情と僕の田辺に対する感情に僕は薄々気づいていたはずで、傘があろうがなかろうが、相川が僕を選んでくれるかは別の話で、夏は過ぎてしまった。
 同じ音楽ばかり聴くのは安心したいから。
 新しい刺激に、穏やかな海に波立たせてほしくないから。同じ状態なら、安定していたら、楽だから。人間関係が崩れるのが怖いから一歩も踏み出せずにいた。そしてこのような同じ思考を繰り返すのも安心したいからだ。それが自分だから。そのアイデンティティが壊れるのが怖い。
 そんな僕を変えられるかもしれないと思ったのが相川で、実際に僕を変えたのは田辺だった。あわれな僕は単純な感情を単純に捉えられない。
 今の僕は何色だろう。

第二話 革命

 空はどこからが空なんだろうと考えたことがある。地面の上には空気の層がうず高く積もっていて、そこに境界線はない。人は、対流圏とか成層圏とか中間圏とか勝手に名付けるけれど、全て空気の層だ。地球の引力の及ぶ範囲を超えると、空気は留まること知らず、宇宙へ溶けていく。
 地を這う生き物からすれば、地上一メートルはすでに空かもしれない。地面に立つ人間には自分の頭上は全て空かもしれない。少なくとも、自分の目線より低い位置を空とは一般的には呼ばない。しかし、人間は空へ手を伸ばす。地上八〇〇メートルのビルの頂に立てば、空はまた高くなる。あるいは自分がいるのが空だと認識するかもしれない。
 空は遠く、広く、孤独だった。いつも頭上に存在している。どこにも行かない代わりに、どこにも行けなかった。私と同じだった。
 空は地球の重力に縛られて、重力から開放されると宇宙になってしまう。重力に縛られていることが空を定義しているなら、私を定義しているのは名前に縛られていることだ。

     *

 きれいな名前だ、珍しい名前だという言葉は散々聞いた。厭味にしか聴こえなかった。高校生になってもそうだった。新しいクラスで、同級生が同じ言葉を口にする。それ対し不機嫌な態度で対応すると、やがて誰も私に近寄ろうとしなくなる。初対面の相手にする態度ではないことはわかっているが、向こうが、こっちが他人と馴れ合うつもりなどないのだと思ってくれたら幸いだ。うんざりしてしまう。どいつもこいつも皆同じような価値観でしか生きられないのか。
 きれいな名前だからなんだというのだろうか。お前の名前は汚いのかとでも言い返せばいいのかもしれない。もしかしたら、私に対して同じ言葉を言うのが彼らの義務にでもなっているのかもしれない。きっと彼らは全員同じ顔をして同じ名前なんだろう。
 最初に私に違う言葉を吐いたのは、本田龍一という面白味もない名前の男だった。もちろん、面白味のない名前に私は嫉妬する。
「天文部に入ろう」
 といきなり言った。こいつはいきなり何を言っているのだと思った。
「いや、入るべき」
 その男は勝手に私の前の座席に腰掛け、正面から見つめてきた。
「は?」
 私は睨み返した。
「武藤さんは、自分の名前が嫌いなん? 誰かがそんなこと言っとった」
「そんなこと」こいつも同じだ。「どうでもええやろ」
「うん。俺もどうでもいい。俺も自分の名前なんかどうでもいい。でも、俺は武藤さんの名前は好き」
 そんなことを言って微笑む。
「あっそう」
 正直に言うと驚いた。私の名前を好きだとは誰も言ってくれなかったんだとその時に気づいた。いや、好きだと言われたことは確かにあったかもしれない。でも、それは物珍しさから、その好奇の心がいつも含まれていた。
 私は普通の名前だから嫌だという言葉を言う輩には、私の感情などわかるまい。そういうものに限って、(私は平凡な名前でよかった、珍しがられて面白がられて可哀想だけど)私はその名前好きだと言う。いつも悪意を感じた。でも、目の前のこいつは自分の名前なんかどうでもいいと言った。
「とにかく天文部に入ろう」
「なんで?」
 私は自分が驚いていることに驚いていたが、それを表面には出さずに無愛想に応える。
「俺が出会うべき名前やったんや」
「……」
「放課後、一緒に見学に行くからな」
 と勝手に決めつけて自分の座席へ帰っていく。昼休みの終わりを告げる鐘がなる。
 部活動をするつもりなどなかった。だからといって家に帰りたくもなかった。
 天文部……。私の名前が銀華(ぎんが)だからか。私は銀の華であって、銀の河ではない。特異な名前をつけられた子どもは苦悩すると、わからないのか。もちろん、そうじゃない人間もいるだろう。少なくとも私は平穏を望む。もし、もっとありふれた名前だったら……、そんなことを考えたのは十回や二十回ではない。兄も姉もありふれた名前なのに……、自分だけ特別扱いされるのが嫌だった。
 銀は金のなりそこない。二番目の色。金は輝きを失わないが、銀はすぐに黒くなる。
 銀木犀という花がある。金木犀になれなかった花。金木犀の方が色も鮮やかで香りも強い。銀の華は地味な花。
 そんな銀に、そんな華に、私は縛られている。
 ぎんが……銀河。銀河のことなど何も知らなかった。重力に縛られた空の向こうにある世界。でも、私は銀華であって銀河じゃないので、縛られている。
 放課後になると宣言通り本田龍一は私を連れて行こうとする。しかも、手をつかんで引っ張っていこうとした。
「ちょっと」
 とつかまれた手を離そうとしたら、「ごめん」と本田は素直に手を離した。存外素直だったので拍子抜けした。
「行こう」と手を差し伸べる本田。
 私はその手をパシッとはじいて、「行くからそれはやめて」と言う。
「了解」
 この高校は、北館、中館、南館があり、それらをつなぐ渡り廊下が東と西に存在する。東は文字通りの渡り廊下だが、西の渡り廊下には教室も存在し、学校全体が、ローマ字のEのような形になるような構造をしている。あるいは日の字の右の線だけが細い状態とでも言えばいいのか。
 そして、天文部の部室は北館と中館をつなぐ西の渡り廊下の三階に存在した。部屋の半分には様々な機材や資料が置いてあった。もう半分は大きめのテーブルと椅子がおいてあり、談話スペースといった趣だった。
 天文部の部長は女性だった。あまりにも元気で天真爛漫少女だった。苦手なタイプだと思った。
 私が本田と部室へ入るなり、「女の子や!」と私の許へ駆け寄ってきた。どうやら部長以外に女子はいないらしい。私の手をつかむなり、「天文部入ってくれるん?」と最大級の笑顔で訊かれる。
「見学に、来ただけです」
 圧倒されながらも応える私。
「どっか入りたい部活とかあるん? もう決まっとるん?」そして小声で「この子、彼氏?」と訊かれる。
「違います」と言う私の声に「そうです」と本田は声をかぶせる。いつの間に彼氏になったんだお前は。
「なるほど。とにかく部屋入り。どうぞ」と入口で話していた私たちを招き入れる。
 私たちは椅子に座らされ部長は自己紹介を始める。
「私は三-三の石浦慧(いしうらけい)。私が部長であの人が副部長」部長は本棚の整理をしているらしき男を指差す。「副部長の名前は覚えんでもええけど本名は藤城真男(ふじしろまさお)」「どういうことやねん」と副部長。「なんでもない」と軽く部長は流す。「ショパンぽいからみんなショパンって呼んでる」
 なにがショパンぽいのか全然わからなかった。
「三年生はもう一人おって、二年生は男が五人。女子部員は私一人」そこで私の方を見つめて「だから女の子が入ってくれたらめっちゃ嬉しいな」
 私は返答に困る。
「で? 君たちは?」
「一-五の本田龍一です。坂本龍一の龍一です。こっちは同じクラスの武藤銀華さん」
「……」とりあえず頭を下げておく。
「本田くんと武藤さんね」
「はい」
「ショパンの後継者か」
「なに言ってんの」副部長の声。
「だって坂本龍一やで。おんなじ系統のキャラが来てんで。三年が引退したら後継いでもらわな」
「なんの後やねん」
「それと、……ギンガってどんな字書くん?」
 やはりどこに行っても名前が話題にのぼる。うんざりする。
「銀の華です」少し不機嫌に答えるが、部長はそんなこと気にしない模様。
「かっこいいな。宇宙には銀の華がいっぱい咲いてるから天文部にうってつけやな」
「そうなんですか?」
「うん。もともと銀の華って書いとったんがいつの間にか銀の河になってんで」
「適当なこと言うなよ」と副部長。部長とはそういうコンビらしい。
「でも花みたいやろ? 見たことある?」
「ないです」
「今度見せたろ。て言っても学校の望遠鏡じゃ見えるわけないけど。その本の山の中に銀河の写真がある」部長が指差す先には大量に積まれた本や紙。「ちなみに私の慧は彗星の彗の下に心がついた字」
「下心まる出しってことやな」と副部長。
「はいはい」
 この人は自分の名前をばかにされても何も思わないのか。よくあることなのか、何でもないふうを装っているだけなのか。
「二人は入ってくれるん?」
「はい。宇宙が好きなんです」と本田。
「武藤さんは?」
「私は……」
「僕が無理やり連れてきたんです」
「そうなんや。昔からの友達?」
「いえ、出会って一週間です」
「一目惚れなんや」ニヤニヤと部長。
「そんな感じです」
 横目で本田を見る。ばかみたいだと思いながら。
「普段はどんな活動してるんですか?」本田が尋ねる。
「本読んで勉強したり」先ほどの本の山に部長は目をやる。「文化祭の準備したり、月見バーガー食べたり」
 空は見ないのかよと思わずにはいられなかった。
「あとはいろいろ、したいことあったらなんでもするで」
「文化祭の準備ってなにするんです?」
「それこそいろいろ。文化祭ぐらいしか活動の発表の場がないからそれに一年間かけとった時代もあったらしいけど、もちろんそういうことしたかったらしたらええねんけど、毎日黒点チェックするとか、でかいプラネタリウム作るとか、望遠鏡作るとか。最近は部員が撮った写真を展示して、あそこの天文台を見学できるようにするぐらいやけど」
 天文台は北館の屋上にある。天文台に入るには顧問の許可がいるらしい。その、顧問は北館の地学準備室にいる。
「天文台は普段は見れないんですか?」
「先生に言ったら見れるけど、今日は先生おらん。ていうか一応活動日は毎週木曜日ってことになってるから木曜以外はあんま先生が準備室におらんねん。私らはここ毎日おるけど」
「だからいつでも来てええで」と副部長。「ここで宿題とかしてもええし」
「本見ていいですか?」と本田。
「うん」副部長が案内する。
 そして部長と二人になる。正面から私を見つめる部長。眼鏡の奥の瞳がとてもきれいだった。部長はぺろりと舌なめずりをする。
「武藤さんは美人やな」
「そうですか」
「うん。もうちょっと笑った方がいい」
「そんなこと」
「余計なお世話やんな」私の言葉を遮るようにしゃべる部長は終始笑顔だ。「あんまり自分の名前好きじゃないんや?」
「……」
「無理に入らんでもええで」
「入ります」自分の口ははっきりそう言っているのに、意識は自分を斜め上から見下ろしているような感覚だった。
「ええん?」
「……はい」首を縦に振る。
「ありがとう!」部長は私の手を握る。力強い。
 その後、連絡先を交換したりどうでもいい話をしたりして、四時半頃に私たちは部屋を出た。
 本田と並んで歩く。
「ほんまに入ってくれるん?」
「うん」
「なんで?」
「自分で誘っといてなんでってどういうこと」
「確かに」
「家に帰りたくないから」
「……ふうん」
「……」
 しばらく二人とも無言で歩いた。なぜ、かは訊かれなかった。

     *

 高校に入学して半年が経っても、友だちと呼べるものはほとんどなかった。べつにいらないと思っていたから、それでかまわないが、そんなに近寄りがたいのだろうか。
 中学の知り合いと廊下ですれ違うと声をかけられたりするときもあるが、それだけだ。薄っぺらい関係。
 毎日部室で会う部長と、本田龍一と、相川翠とはよく話す。
 翠も初めはあまりクラスに馴染めないでいたようで、というのも、彼女は中学までは私立の学校へ通っていたが、家庭の事情で高校からは公立のこの高校へ通うことになったそうだ。似た者同士というのか、余っていたもの同士で気が合ったのかもしれない。体育の授業で体力測定があり、その時にペアを組んだのが翠だった。
 名前に色があったのも気が合った理由かもしれない。
 翠はみどり色が好きだと言う。
 自分の名前だからそれからは離れられない。私はだからこそ呪ったのに、翠は一生付き合うんだから好きな方が楽だと言う。でも、無理に好きになる必要もないとも言う。
 名前にこだわりそれに縛られてしまっている私は、名前に自分を当てはめてしまい、そうならないといけないと思い込んでしまっている。銀は二番目で金にはなれない。私が何かで一番を獲ろうものなら、それに罪悪感を感じ、さらには非難されると思ってしまい、仮に何かで一番を獲れる状況でも無意識のうちに手を抜いて一番を取らないようにしていたような気がする。だから、何かに全力で挑んだことはないように思う。それは、全力で何かに打ち込むことのできない自分への言い訳か。
 その言い訳は、無意識のうちの葛藤は、きっと長い間私を縛りつけるだろうし、抗うこともあるかもしれない。この高校も、この地域では学力では上から二番目の学校と認識されている。自分の成績に見合った高校を受験したはずだが、本当は私の中の見えない意思が、この高校を受験させた。そうなるような成績になるようになったのも努力したもしくは努力しなかったからなどではなく、そうなるように無意識によって努力させられていたもしくは努力しなくさせられていたのかもしれない。
 全部私の妄想だ。わかっている。わかっているけど逃れられないから呪縛なのだ。
 だから天文部に入って毎日顔を出すという行為は私にとって、ささやかな抵抗だった。今まで自分から進んで何かをしようとはしなかった自分を変える事ができるかもしれなかった。全力で打ち込んでいるとはいえないかもしれないが、私にとっては少しだけ革命だった。
 本田が私に天文部に入るべきだみたいなことを言っていたか言っていなかったかは定かではないが、私に居場所を作ってくれるかもしれなかったその言葉は嬉しかった。その反面、名前の響きだけで私を縛りつけようとする本田の中の無意識の存在を感じ身構えてしまった。
 本田龍一との関係はよくわからなかった。部活仲間でクラスメイトで、おそらく友だち。教室で私が一人でいるとよくからんでくるが、私は適当にあしらっている。クラスメイトにはどう映っているのだろうか。別に変な噂を立てられてもかまわないが、それはそれで煩わしくもある。そもそも、本田自身が変なやつだと認識されているようなので、私はそれに気に入られている気の毒なやつとでも思われているかもしれない。
 本当は、彼と仲良くしているのを世間に見られるのが恥ずかしいので、ぶっきらぼうな態度をとっているだけだ。部室では普通に会話をする。私と親しく会話してくれる同級生の男はこいつぐらいのものだ。天文部に入った新入生は私たち二人だけだったからだというのもある。もちろん先輩たちとも会話をするが、そこには先輩と後輩という関係性が存在し、対等な立場で会話を交わすという感覚はない。
 ……。
 きっかけはいつだっただろう。初めて会話したあの瞬間からだったかもしれない。
 でも、本当は小さなことの積み重ねだって、わかっている。革命は一日で起こるわけではない。国民の不満が募って行動に移そうという気運が高まるのだし、革命のための綿密な準備も必要となる。明確なきっかけもあるだろうし、計画にはなかったその場の感情で動くこともあるだろう。私が今まで生きてきたことと、自らがなした行動の結果だ。つまり、武藤銀華は本田龍一に惚れてしまっている。
 夏休みのことだ。部活で流星群を見た。ペルセウス座流星群。夜だったので来れる人だけで見た。三年生は引退したはずなのに、(元)部長は来てくれた。今もほぼ毎日部室で受験勉強をしている。その、流星群を見た夜にした話はよく覚えている。
 星座の名前は人間が勝手に名付けただけだという話をしていた。もし星の配置が少し違ったら、その星座は違う名前になったかもしれない。その星は違う星座に属していたかもしれない。夏の大三角ももう一つ同じような等級の星があれば、四角になったかもしれない。北極星もたまたまそこにあったから北極星と呼ばれるだけで、しかも、北極星は代替わりするらしい(有名な話らしい。本田に言わせれば常識だとか)。今はポラリスという星が北極星として座しているらしい。ポラリスという名は聞いたことがあった。ピロウズの曲のタイトルだ。そんなことはともかく、名前は観測者が勝手に決めたことで、星たちはそんなことに何も関与できないし、星たちにとっては知ったことではない、という感覚をもった。私もそうなりたかった。
 たまたま私と出会って、本田龍一は武藤銀華を見つけて、結果として一緒に星を見た。誰にも見つけられない星もあったかもしれないし、星座に属せなかった星もあるだろう。でも、彼は私を見つけた。
 その時に、なぜ宇宙のことが好きなのか尋ねたら、「わからん。理由なんかないと思う。きっかけはあったかもしれんけど、好きなもんは好きやねんからどうしようもないよ」と答えた。
 それは私の求めていた答えだった。
 きっかけや理由にとらわれて、私はいつも逃げていた。無理に感情を理屈で強制する必要はないんだと気づいた。本田が好きだという感情を私はなかなか認められなかった。私を天文部に誘ったのは私がこんな名前だからだ、と認識しているから、私の名前が好きだという言葉は裏を返せばこんな名前じゃなかったら声もかけなかったかもしれないということかもしれないと私は思っている。彼に対してそういう認識があるから、嬉しかった感情は騙されているだけの偽物の感情だと思ってしまっていた。本当は、そうじゃなくて、素直に嬉しい感情は嬉しいでかまわないのに。たとえ名前が理由だとしても、出会ったのがたまたまだっただけだったとしても、一緒に星を見たその時間を大切にする感情が、一番、重要なのだ。感情に理屈なんていらないと教えてくれた。
 それからかもしれない。彼を少しずつ意識するようになったのは。
 本田は少し変なやつだが、それだけだ。明るいし、存外優しい。流星群を見たときも、真夏とはいえその夜は少し冷えたが、寒くない? と訊いてくれた。女なんて単純だからそんなことが嬉しかったりして胸がときめいたりするものだ。もちろん顔には出さないが。本田は頭もいいし、どこで仕入れたんだという知識が多くあり、いろいろな話を訊いてもいないのにしてくれる。そういうところが変人だと思われているゆえんなんだろう。天文部だが運動も得意だ。欠点があるとするなら、おしゃべりなところと少し強引で大雑把な性格だろうか。時々、あまりにもしゃべりすぎるきらいがあるので、もう少し控えめにした方がいいのではないかと思う。短めの清潔感のある髪もよく似合っていて、しゃべらなければわりと女子人気は高かったかもしれない顔立ちをしている。
 教室で私にからんできて、私が鬱陶しそうな反応をしていたら、他のクラスメイトは放っといたれよと本田に視線を向けている気がするが、彼が空気を読めないわけではない。私が教室でそういう態度なのはとっくの昔に承知しているはずで、それをわかった上で話しかけている。本当に鬱陶しい時もあるし、女だから虫の居所が悪い日もある。でも、つらい時に、大丈夫? と気遣ってくれるのはやはり嬉しい。
 そうやって理由を探すけど、それだけではないんだと思う。理由なんてなくても好きになってもいいと教えてくれた本田を好きだという感情のすべてを説明するのはやはり理由じゃない。理由はあるのかもしれないけれど、それを言葉では表現することができない。そして、表現する必要などなく、その感情はその感情で完結すればいい。
 例えば、真っ黒な絵の具に一滴だけ違う色を落とす。その色は確かに元の黒とは違うかもしれないが、感覚的には元の色とは少し違うと感じても、どう違うのか表現できず、何かが違う気がするだけだ。でも、その色はその色なんだ。説明はできなくとも。
 それが私の感情。

     *

 金木犀の季節がやってきて、やはり気分は沈む。明るい赤黄色の花は強い芳香を放ちその存在を誇示している。世間の注目を集めてしまう存在になれない自分はそういうものに嫉妬して、バカバカしくなってうんざりする。
 十一月一日に本田はこんなことを言う。
「誕生日おめでとう」
 わけがわからなかった。
 まず、なぜこいつは私の誕生日を知っているのかということ。話した覚えはない。覚えていないだけで話したのかもしれないし、誰かに訊いたのかもしれない。
 その日は部室に二人きりだった。火曜日で本来活動日ではないため、他には誰もいなかった。その日は先輩も来ていなかった。
 私たちは英語の予習を済ませ(部室には英和辞典がある)、どうでもいい話をした。私は毎日部室にある雑誌を読んでいるが、その日も予習を済ませたあと、雑誌を読んでいた。本田はなにやら、部室にある過去の遺産を漁っている。やがて、昔の先輩がつくったであろう手作りのプラネタリウムをもって私のいる机の方へ帰ってきた。
「これつけてみよ」と本田は提案する。
「使えるん?」
「うん。ちゃんと見えるかな。カーテン閉めて」
 私は立ち上がり、窓側の黒いカーテンを閉める。本田は廊下側のカーテンを閉める。こちらも真っ黒だった。しかし、それでも、昼間の学校の教室では太陽の光の侵入を許す。机の上にプラネタリウムを置いてみて電源を入れたがやはりきれいには映らなかった。カーテンは黒くても波打つし、天井は白いし。
「全然あかんやん」と本田は言うが楽しそうだった。「じゃああのダンボールかな」
 そう言って本田はコの字型の少し大きいダンボールを引っ張ってくる。そのダンボールでプラネタリウムの三方を囲んで、上にもう一枚ダンボールでフタをした。その状態でつけてみたら、存外きれいに星空は描かれた。狭い空間を二人で見ているので、自然と身体がくっつく形になってしまった。お互いの肩が触れ合うが、お互いに何も言及しない。
「これが秋の空」と今の季節の空を映す。「あれが夏の大三角、こっちのが秋の四辺」
「しへん?」
「四角形ってこと。秋の四辺、知らんかった?」
「うん」本当は知っていた。この間読んだ雑誌に書いてあった。
 あれはペガスス座で云々と本田は楽しそうに話す。
 そしてしばらく沈黙が訪れた。二人とも黙って空を眺める。
 私たちがいるのは部室の中だけど、秋口の夕方は冷える。外で夜空を見上げると、きっともっと寒い。校舎の向こうのグラウンドから運動部の声が聞こえるけれど、夜空は音を吸い込むようだった。静かな冷たい夜空に、世界は闇に飲まれた錯覚を知る。肩越しに伝わる体温がそんな錯覚を打ち破り、二人の存在を教えてくれる。
「誕生日おめでとう」と不意に言われ、なんでそんなこと知っているんだとかいろいろ混乱している間に、キスをされた。
 わけがわからなかった。
 唇が離れ、しばらく見つめ合う。突然のことに何をどう反応したらいいかわからなかった。
 そして彼は微笑んだ。
「銀木犀は十一月一日の誕生花やねんて」
「……そうなんや」知らなかった。
 ちゃんと発音できたか私にはわからなかった。
「銀木犀は……」彼は私の目を正面から見ながら話す。「銀木犀はオリジナルで、それが金木犀になったらしい。もともと銀木犀やったやつの変種みたいなんが金木犀。自己主張の激しいはみ出し者が金木犀やねんで。金メダルもそうやん。あれはほとんど銀でできとって、表面だけ金でメッキしてるだけで、純金じゃない。だからって価値が無いわけじゃなくて一位は一位やけど。銀メダルはもちろんほとんど銀でできとるらしい。表面だけの金より銀メダルは誇りを持って銀やって言える」
「……」
「まあ、何が言いたいかって言うと、俺はお前の事好きやでっていうこと」
「……はい」
 黙って、手を繋いで、彼の肩に、私は頭をのせる。
 グラウンドの声は幻かもしれないけれど、となりの体温は確かだった。再び訪れた静寂の中で、確かなのは繋いだ手から伝わる体温だけで、世界に二人だけ取り残されてもきっとこの人は見つけてくれるんだと思った。真っ暗な宇宙で銀の華を見つけてくれる。
 私を初めて見つけてくれたのは他でもないこの本田龍一だって、ようやくわかった。一人の人間として、対等に私と向き合ってくれ、道を示してくれた。それが少し強引だとしても、そうやって誰かに導かれないといけなかったのだ。私は。

     *

 私が生まれたのは平凡な家庭だったと思う。親は二人とも公務員で、金持ちではなかったけど貧乏でもなかった。平凡でない点があるとするなら、それは、十五歳離れた兄と十四歳離れた姉がいることだ。同級生で、兄や姉がいてもせいぜい四、五歳しか離れていなかった。離れていても八歳ぐらいが限度だった。十四、五歳も離れた兄姉がいるのは特殊だった。
 私は幼いころ、兄と姉によく面倒を見てもらった。私は保育所に預けられ、親は働きに出て行った。夕方、姉がよく迎えに来て、兄がつくった料理を食べた。私が小学校に上がると、兄は一人暮らしを始めた。姉はその頃帰るのが毎日遅かった。家に帰っても、親が帰ってくるまで一人だった。
 小学校の高学年になる頃には姉も家を出た。その頃、私は一人で料理を作ることを覚えた。
 そのうち、私は親に必要とされていないんじゃないかと思うようになった。親はいつも仕事で休日しか家にいない。幼いころから面倒を見てもらったのが兄と姉だったのもあり、あまり親と過ごした時間というものがないように思う。そのせいか、私は親とほとんど会話をしない。休日に親が家にいるのが気まずくも感じる。私がもう少し大人になるまで、親が解放されることはない。親だってうんざりしていると私は思っている。
 私が幼い頃は、兄や姉の進路や成績のことで親はよく大声をあげていた。そういうものはどこの家庭でもあるのかもしれないが、それは兄と姉にだけ当てはまった。私に対してはそこまで何も言わない。それには理由があって、私が親に逆らわないように生きてきたからだ。それにも理由はある。親は兄と姉にはよく干渉していたが、私はそんな二人を傍で見ているだけだった。親の意識は二人に向けられていた。親の気を引きたいと思った私はいい子になるしかなかった。親に逆らわず、親の言うとおりにすれば褒めてくれると思った。認めてくれると思った。親に逆らって機嫌を損ねたら嫌われると思った。自分から進んで何かをしようとしなかったのは、親に逆らいたくなかったから、親の言うとおりのいい子になったから、名前に執着するのも、親の期待通りに生きるしか生き方を知らなかったから。親の意志とは反する行為に罪悪感を覚えていたからかもしれない。
 でも、私がいい子であろうとなかろうと親は私に感心を向けなかった。少なくとも私はそう感じている。あるいは、いい子であろうとしたためだろうか。自分の意志をほとんど持たない(少なくとも表面的には)子どもは気味悪がられていたのかもしれない。
 いつしか私は名前を呪うようになったし、親が振り向いてくれなかったから、他人が自分をきちんと見てくれるという感覚もなくしてしまった。対等に私と向き合ってくれる、そう信じられる人間なんていないと思っていた。私にとって他人とはそういう生き物だった。
 おそらく、他人に相手にされないのが怖かったから、他人を避けていたのだと思う。それと同時に、相手にされるのも怖かった。相手に、つまらないやつ、と見捨てられるのが怖かったのだと思う。それならはじめから相手にされない方がいい。私は誰も私を相手にしないと思っていたし、私だって歩み寄らなかった。誰かと一緒にいてもいつも虚しかった。たまたま一緒にいるだけだった。そういう関係にうんざりしてしまった私に本当の友だちなどいないと思った。
 そんな人間に価値を見出してくれたのが本田龍一だった。名前を好きだと言った、けど、本当はそれだけじゃない。私の目を正面から見て、私を逃さなかった。親も兄も姉も私を煩わしく感じていたはずだ。私がいなかったら兄や姉はもう少し早く家を出て行く事もできたはずだ。私の存在が迷惑をかけていたと思ったから、その人たちに従わないといけないと思っていたのかもしれない。彼らに私を疎ましく思っていた心が全く無いとはいえないと思う。もしかしたら人間関係というのはどこかしらそういうものもあるのかもしれないとも思う。でも、本田は私を必要として、私も安心して過ごせる場所を彼のとなりに見つけた。
 一度、本田に私のどこが好きなのか尋ねたことがある。そうしたら山ほど答えが帰ってきた。
 声が好き。手が好き。顔が好き。笑い方が好き。喋るときにあまり目を合わせてくれないところ。字。字の書き方。名前。冬が好きなところ。計算が早いところ。髪の長さ。使っている消しゴム。赤系の色がすきなところ。でも派手な服は来ないところ。慎重に言葉を選んで話すところ。……。
 他にもいろいろ好きなところを挙げてくれた。
「でも」と彼は言う。
「でも、そういうことじゃないんだよね。どうしようもなく好きやから好きやねんな」
 感動してしまった。
 彼が並べ立ててくれたところも本当に好きなんだってわかるし、彼の理屈じゃなく好きだって感情もわかるし、私がわかってくれるってわかって話しているのもわかる。そんなに信頼されていいのか、少しだけ怖かった。でも、私も彼に対してそこまで信頼をしている。
 私は、その日、自分からキスをした。初めてだった。私から歩み寄った。

     *

 翠は一見普通の女の子のようでなんだか変だった。具体的に何がどう変なのかは説明できなかったけれど、他のクラスメイトとはなにか違う雰囲気をもっていた。確かに彼女は境遇が他のクラスメイトとは違う。そういうバイアスが私の思考にかかっていたのも事実だ。
 翠は写真を撮られるのを嫌がった。私は撮ったりしないけれど、文化祭や体育祭などでクラスで記念の写真を撮られるのを避けているように見えた。クラス全体で仕方なく集合写真を撮るときは、本当に、仕方なく写っていたという感じだった。
 私はべつに写真を撮られるのは好きでも嫌いでもない。積極的に撮られたいとは思わないが、撮られても行事ならそういうものだとどこかで割り切ってしまえる。
 翠は必要以上に嫌っているように見えた。そのわけを尋ねたことがある。写真は本当のことを写していない、鏡と同じ。というわけのわかるようなわからないような答えを返してきた。翠には翠なりの論理があるのだろう。
 私と彼はとても相性が良いと翠は話す。黒い宇宙に銀の華。彼の何が黒いのかはよくわからなかった。肌が黒いわけでもなければ、心が黒いわけでもなかった。宇宙ほど広い心を持っているという意味だろうか。ときどき翠はやはり変だ。
 そんな彼女でも私は少しだけ尊敬している。
 詳細は知らないが、翠は家庭が経済的に苦しいらしく、アルバイトをしている。私たちの通う高校は、校則でアルバイトは禁止されているが、特別な事情が考慮されれば許可されることもある。しかし翠は学校に無許可でアルバイトをしている。余程、学校には伝えられないのっぴきならない事情があるのか、不健全なアルバイトをしているのか、あるいは、学校が許可を下すほどの経済的な苦しさではないのか。
 私がそういうことをしようものなら、親はどういう反応をするだろう。子どもは学校にだけ行っていればいいというようなことを言うかもしれない。小遣いが欲しければ言えばいい。しかし、そのような申し出をそう簡単に私にはできない。親に屈服しているようで耐えられない。しかし、子どもは親の呪縛からは逃れられないし、それは呪縛ではなく保護で、親とのその関係性がうんざりで早く大人になりたいと思うぐらいには私はまだまだ子ども。親は子どもには最低限のものは与えているし、与えているから逆らうなというようなことは言わなくても伝わる。しかし、最低限のものを与えることが子育てではないだろう。食事を与えて、学校に通わせて、ほぼそれで完結。それ以外は無関心。もし私がバイトをしても無関心かもしれない。
 止められようと、無関心であろうと、どちらにしろ、親に何かを提案することは私には難しかった。親に従って、少しでも関心を引こうと生きてきた私には、それに逆らい、完全に拒絶されることを恐れる心がある。もともとそれほど関心がないと思っているし、親のことなんかどうでもいいなどと思ってはいても。
 どんな事情があろうと、私にできないことをやってのけてしまう翠を少し嫉妬していたが、それは尊敬の裏返しだと気づいた。翠が無許可でアルバイトをしているのも、親に内緒でしているからかもしれない。内緒でできる度胸も私にはない。
 私は学校は好きではないけれど家に帰りたくないという理由から、放課後も部室に残っているが、翠は違う。部活はしていない翠は存外すぐに帰る。人がいっぱいいるところは目が疲れるなどと言うが、実際のところは、もちろんアルバイトの日もあるだろうけれど、そこも家庭の事情で早く帰りたいのだろうと私は推測する。夕食をつくらないといけないとか弟の世話をしないといけないとか引きこもって勉強ばかりしているとかそういうことだろうか。弟がいるのかどうかは知らないけれど。
 いずれにせよ、翠は私とは違う人間で、どこかで私は彼女に憧れている。
 逆に、翠は私を羨ましいと言う。素敵な彼氏がいて、そんな彼氏と同じ事柄を二人で語り合えて、何か夢中になれることを持っていて、美人できれいな銀色、と。それはおだてすぎだと思いながらもそういう点では私は恵まれているのかもしれない。本田が素敵な彼氏かはともかく。でも、彼のおかげで空や星に興味を持てて、今まで知らなかった世界を知ることができたということにはとても感謝している。

     *

 一年生が終わって、高校二年生になる前の春休み、北館の天文台が修復されるらしい。そのため三月の頭から天文台の付近は立入禁止となった。今学期の授業も終わったので、北館のそんな端っこが立入禁止になったところで、ほとんどの生徒には関係がなかった。しかし天文部の部室は近くにある。部室は使用することができたが、天文部も一時的に活動休止にするそうだ。顧問が春休みを満喫したいために休止にしたものと思われる。十六歳の春休みは一度しかないというのに……。でも、先生の気持ちもわかる。そこまで力を入れて活動している部活でもなければ、たまたま地学の教師というだけで顧問にさせられただけかもしれないのだから。ひと月ほど活動を休止しても困るものはあまりいない。私を除いて。
 家にいても憂鬱なだけで、何をしていいのかがわからない。自分には趣味というものがないことに気づく。中学までの自分がどうやって休日を過ごしていたのか、わからない。彼が私に居場所を作ってくれたおかげで、世界が色鮮やかになった。一時的であれ、その喪失が、こんなに虚しいことだとは思わなかった。
「俺んちに来ればいい」
 と彼は家に誘ってくれるが、毎日お邪魔するわけにもいかない。彼には彼の生活があるはずで、その邪魔はしたくない。彼女としては邪魔をする権利は少しはあると思うけれど、限度はある。借りてきた映画を観たいのに、読みたい本を読みたいのに、私とメッセージのやりとりをしないといけないと、プライベートな時間を奪いたくはない。もちろん、たまには一緒に映画を観たり、相対性理論が云々と話したりもする。毎日はできない。
 授業が終わって部室にいても、彼が友だちと遊びに行くなどする日は、私が一人でいるときもある。いつも二人でいるのはきっとお互い疲れてしまうだろうし、干渉しすぎない距離感が好き。そのくせ彼に依存しようとしてしまう自分が嫌。
「じゃあ、勉強しに行こう」
「勉強?」
「いや、デート」
「?」
「明石のプラネタリウム。行ったことある?」
「ない」
「行こう」
「え……。うん」
 天文科学館。電車の窓から見たことがある程度。宇宙が私たちをつなぐ。彼との間に子どもができたら星の名前をつけよう。彼もそんなことを考えたりするのかな。
 昴(すばる)――それがプレアデス星団のことだとは、最近まで知らなかった。天文部に入らなければ、谷村新司の曲あるいは車のメーカーという認識しかないまま一生を終えたかもしれない。それを子供の名前になどと妄想を膨らませ、彼は「プロキオンがいい」などと冗談を言うところまで考えて、一人でにやけている私が存在する世界。地球人でよかった。
 そういえば、星の名前が出てくるという理由で彼の部屋の本棚には『ふしぎ遊戯』が並んでいた。少女漫画を読むような人とは思わなかった。姉でもいるのと訊いたら、「一人っ子やで。孤独やねん」アルファルドっていう孤独な星が云々と彼は言う。アルファルドは孤独なものという意味のアラビア語から来ている名前らしい、うみへび座の心臓に位置する星。周りに明るい星がなく、見つけるのは容易い、と先日読んだ本にも書いてあった。共通の知識を持って理解を深めあえることは、うれしい。
 もしかしたら私たちは似ているのかもしれない。孤独だった私を彼は見つけてくれた。彼にとって私がアルファルド。私にとっては暗い宇宙で彼が周りより輝くアルファルド。他の人は見えない――見えないようにさせてくれた。彼が私だけ見ているかはわからない。それが怖い。違う。本当はわかっている。もし、彼がいなくなったら、誰も私を見つけられない――と、そんなことはないと。以前の私から変質した今の私を見つけてくれる誰かがいるかもしれないことと、私が誰かを見つけることもあるだろうと、自分がそれを頭の片隅でわかってしまっていることが怖い。しかし、彼が起こしたのは革命なのだから、未知の未来に不安があるのは当然のことで、もっと大きな革命が起こらなければいいと願う。その願いのために私たちは努力する。
 私のような暗くつまらない女といつまでもいてくれる保証はなく、そう思うなら自らを変えて、つまらなくない女になれば良くて、でも、つまらなくなんかないと言うだろう彼に甘えて、変われない自分が嫌で、それを続けていくと、お互いに窮屈さを感じてしまう気がしてならない。心の底では、お互い、こうなって欲しいと願う姿があって、簡単にそうはなれないとわかっていながら、どこかで期待している。そうなれない自分、相手にそうさせない自分、そうさせてくれない相手……。やがて、相手が持つことの叶わなかったものを初めから持ち合わせている誰かと出会うこともある。その可能性がわかっているから、変わりたいのに。気持ちが冷めたときに、自分なんかは相手にふさわしくない、と自分が悪いふりをする裏で、変えようとしなかった、変わろうとしなかった相手の責任を感じる。思い出を綺麗なままで残しておけばいい、と感じてしまう、感じさせてしまう、そんな窮屈さが訪れてしまいそうな気がしてしまう。
 本当のことを言うと、そういう不安は、私なんかは彼にはもったいなさすぎると常々感じている私の逃げの思想。
 なかなか素直になれない。自分に対して素直に自分の感情を認めることもできない。……彼が好き。
 電話の向こうで彼が言う。
「銀華は、どっか行きたいとこある?」
「あなたが好きです」
 何を言っているんだろう。ガラにもなく赤くなってしまう。
「知ってるよ」
 本当に?
「アラスカに行きたい」
 冗談は照れ隠し。
「うん。わかった。五年後ぐらいでよかったら行こう」
 なんて優しいんだろう。わけのわからない冗談に付き合ってくれる。それとも本気なのか。
「なんでそんなに優しいん?」
 間。
 ずるい。
「どうしたん?」
「きかんとって」
「わかった。聴いてないから勝手に話して。どうぞ」
 そのきくじゃない。
「ありがとう。オーロラが見たい。オーロラが川か花かは知らんけど。オーロラが見れんかっても、大自然を堪能したい。ううん、そんな話じゃなくて……」
 やはりうまく言葉が出てこない。
「俺はアイスランドに行きたい」
 私は思わず笑みがこぼれる。
「わかった。私が連れて行ってあげる」
「じゃあ俺が銀華をアラスカに連れて行ったる」
「はい」
 実現したらいいな……違う、実現させる。

     *

 明石市立天文科学館の、三月のプラネタリウム投影はオーロラについての話をしてくれるそうだ。
 本物のプラネタリウムなんて見たことがないので、こう見えて私の気分は高揚している。こう見えて、というのは、私は人前ではクールな女を演じているからだ。
 明石駅で、山陽電車に乗り換えて、一駅。人丸前駅のホームに、一三五度の子午線が表示してあった。日本に生まれても、一度もこの標準時をまたいだことがない人も大勢いると思うと、自分が特殊な場所にいるんだと感じる。人間が人工的に決めた線なのに、そこに意味を持たせてしまうのが、星と星を結んで星座を作ってしまう、いかにも人間らしい行為だと思う。
 科学館は、駅から歩いて五分だった。坂を登ってすぐのところにあった。
 坂の上にあるのはより宇宙に近いほうが、観測しやすいから。と彼は言う。「ハワイのすばる望遠鏡とか、そういうんは山の上やろ? 標高四〇〇〇メートルとか」
「なんでその方が観測しやすいん?」単に距離が近いほうがよく見えるとかそういうのではないように思う。天文学的数字の世界の話なのに、たかが四キロ近づいただけじゃ大した違いじゃないと思うが。
「空気が薄いから。空気の層が厚いほうが光の屈折とか吸収とか起きやすいやろ? あと、街とかの人工的な光が邪魔せんように」
「なるほど」
「あとはロマン」
「ロマン」
「旧約聖書の時代から人類は高いところに登りたがるからな」
「しかたないね」
 科学館の入口前には、漏刻が置いてある。水時計なんて初めて見た。そしてここにも、日本標準時子午線と書いてある。
「めっちゃ子午線推すやん」と思わず言ってしまった。
「そういう街やしな」と冷静に返されてしまう。
 まだ開館したばかりで、老人が一人いたぐらいで後は誰もまだ訪れていなかった。中に入って、受付で、入館料を払おうとしたら、高校生は無料だと言われた。すごい。
 初回のプラネタリウムは九時五〇分からだった。少しだけ時間がある。プラネタリウムの入口前の部屋にいくつか展示がしてあった。恒星投影機、月投影機、補助投影機など、以前実際に使われていたものらしい。部屋の反対側には、年周運動や歳差運動の説明と再現装置、プラネタリウムの構造図などがあり、どれも興味深かった。恥ずかしながら、歳差運動なんて言う言葉を聞いたのは初めてだ。二万六千年ほどかけて地球が歳差運動をしているから、北極星が入れ替わるらしい。
「原子核もラーモア歳差運動ていうんをするねんで」らしい。
「そうなんや」
「うん。そんなレベルのものから惑星レベルのものまで回転する」
「宇宙の神秘」
「そうかもしれない」
 地球は回るし、そして太陽の周りも回る。太陽も銀河の中を動いて銀河も宇宙を回る。
 私たちはプラネタリウムの投影室内に入った。部屋の中央にプラネタリウムがあり、それを囲むように座席が円形に並んでいる。スクリーンの下方には、方角を示す表示と明石の街のシルエットが描かれている。西に明石城、南東に明石海峡大橋。解説者台の付近が一番見やすいと案内されたので、その近くに座る。一番後ろの列が空いていた。いつの間にか入観客は増えていた。春休みの朝一番の回で四割ぐらい座席は埋まっていた。これが多いのか少ないのかはわからない。休みならもっと入るものなのか、もとからあまり人気がないのか。朝だからなのか。
 このプラネタリウムはいま日本で稼働している中で一番古いらしい。予想していたよりも小型だった。もっと大きいものがあるのかと思っていた。装置を観察している私を彼が観察している。私がそれに気づくと微笑みが返ってくる。少し恥ずかしかった。新しいものに触れて目を輝かせている、そんな自分が存在することが自分でも驚きだった。この人のとなりではこんなふうに振る舞うことができるようになってしまった。
 やがてアナウンスが流れ投影が開始される。解説のおじさんの優しい声で説明が始まる。どこがどの方角か、何があるか簡単に説明してくれ、座席のリクライニングを倒して夜空を見上げましょう、と。今夜月が出ていなくて晴れていたらこんな星空が見えるはず、とその日の星の位置を示してくれるそうだ。もうすぐ新月なので、星空を観察するにはちょうど良いけれど、街の明かりがあるところでは少ししか見えないことも多い。
 天井のスクリーンが夕暮れから段々夜へと変わっていく。
 先週までは金星が宵の明星として日没後にきれいに見えたそうだ。そういえば、金星の自転方向が地球と反対方向だとは最近まで知らなかった。
 その後、夜が深まるにつれ多くの星が夜空に描かれる。
 一番わかりやすいのはやはりオリオン座だと説明され、そこからとなりのおおいぬ座、こいぬ座を示す。そして全天で一番明るいおおいぬ座のシリウスとオリオン座のベテルギウス、こいぬ座のプロキオンを結んで冬の大三角。冬は特にわかりやすい星座が多くていいですね、そしてアルデバラン、リゲル、ポルックス、カペラ、とそれぞれの説明とともに冬のダイヤモンドを示す。プロジェクターやポインタを使ってわかりやすく丁寧な解説だった。本で一つ一つの星座を見るより、全体の位置や大きさを確認しながら見れたのが一番感動した。
 その後は北斗七星、そして北極星の見つけ方。そこから春の大曲線、乙女座のスピカへと。
 こんなに長く、宇宙を見上げることは日常生活にはない。でも、昔の人は空を見上げて、暦を作って、星座に物語を作ってきたんだ。空がきれいに見えたからできたことで、プラネタリウムで再現されている量の星を私が実際に見ることは叶うのだろうか。街の明かりのないところで、今みたいに手を繋いで。星座みたいに。
 遠くの星から見たら、太陽はどの星とどんな星座を作っているだろうか。どこかの星と二重星になったりするのだろうか。その時近くに見える星はどこだろう。遠くの星から見ると地球は過去の光で、その時私のとなりにいるのが、いつもこの人だったらいい。
 やがて夜は開ける。宇宙に手を伸ばす時間は終わり。
 星空の投影が終わると、オーロラの話に移るようだ。オーロラは北海道などでも、観測できることがあるらしい。もちろんもっと南でも報告はあるようだが、しかしそれは稀で、観測しやすい地域というのはやはりある。オーロラが起こる原理から説明してくれて、大変勉強になった。原理から極地方で見やすいという説明に説得力があり、理解しやすかった。あれはたぶんヴァン・アレン帯のことを言っているのかなと推測したりもした。だんだん自分に以前にはなかった知識が身についていることに気づく。地球も太陽も銀河も動いていく、変わらないものはない。
 彼の手のぬくもりはこれからも変わらず私の居場所を示してくれる。
 そしてオーロラの映像が映される。実際には写真などで見るようにきれいには見えないが、それでも十分神秘的だという解説。
 とても優しい、そう感じた。自然現象として、上空で起こる、遠い存在だけれど、そのゆらめきの中にある優しさはなんだろう。寒冷地で観測しやすい現象なのに、あたたかみがある。風に揺れるカーテンとは違う、この有機的なゆらめきはなんだ。有機的? そう思うのは、風と戯れるカーテンより、桜が舞い散る様子に似ているから。世界にはこんなにも美しいものが存在することに私は気づかなかった。人間の冷たさに怯えて。自然のあたたかさを、知らなかった。
 私はいつの間にか泣いてしまっていて、彼の手を強く握ってしまっている。悲しくないのに人が泣くなんて、フィクションの話だと思っていた。
 やがてすべてのプログラムが終わって、室内にあかりが戻る。
 心配そうに見つめてくれるが、私が少し微笑むと、人目もはばからず抱き寄せてくれた。後ろの席でよかった。
 銀華でよかった。そう思えてまた涙がこぼれる。華がきれいに咲ける場所がある。私の声をしっかりと聞いてくれる。
「ほんまにアラスカ行こ」
「あたりまえやろ」
 オーロラよりあたたかい腕の中。

臨時ニュース

 吉川美雪が死んだのは夏の終わりだったそうだ。

第三話 ノンフィクション

 自分がみどりを好きなのは翠という名前だからで、その名前にずっと触れ続けてきたから好きになっただけで、それは、名前に自分が規定されてしまっているような気がして、名付けたものの、ある意味では洗脳かもしれない。でも、それは名付けたものの願いでもある。違う名前だったら違う色を好きになったかもしれなくて、そうなったらそれは今の自分と違う人間で、相川翠だから私なのだ。
 そう、思いたい。
 もちろんみどり色は好きだ……けど、それは名前のせいもあるかもしれない。
 人にはそれぞれ自分の色がある。私にはそれが見える。文字通り。
 霊感とはちょっと違うのかもしれないけれど、魂や精神あるいは霊魂の色とでもいうようなものを感じる。ぼんやりと、身体にまとわりつくオーラとでもいうようなものが。
 そして私はみどりの色をしている。もしかしたら他にも同じように見える人がいて、その人が私を翠と名付けたのかもしれない。でもそんな話は聞いたことがない。全部私の幻覚で私が統合失調症かなにかの病気で、魂に色なんてないのかもしれない。
 命の灯火とか、生命を光に喩える言葉があるけれど、その言葉が腑に落ちたのは一年生の時に化学の授業で炎色反応を習った時だった。含まれている物質によって炎の色が変わる。人によって色が違うのは、だから当たり前なのだ。
 私は昔からそういうふうに色が見えた。それがいつごろからかはわからない。他の人はそういうふうには見えないんだということもいつの間にか気づいていた。しかし、もしかしたら、はっきりとは見えないだけでとても曖昧な感覚として色を感じている人間というのはいるのかもしれないと、ときどき思う。
 私のように、なんとなく感じた感覚をそのまま名前につけられてしまう例もあるだろう。私の命名にそういう感覚が手を貸していたのかどうかは定かではないが。今まで生きてきて、名前と色が合致する人というのは何度か出会ったことがある。あるいは、名前によってその人の色が変化するのかもしれない。みどり色の魂だから翠と命名したのではなくて、翠と命名したからみどり色の魂をもつことになったのかもしれない。それとも、名前を聞いた私の脳が視覚に色を付け加えているのだろうか。
 ともかく、そういう人というのは一定数いて、今まで私が出会った中で一番きれいな色をしていたのは武藤銀華だった。
 銀色をまとう人とは初めて出会った。近寄りがたい雰囲気だったけれど、彼女には気高い銀色がとても似合っていた。私も初めは一人でいたから、共感できたというのもあるのかもしれないし、孤高に振る舞える彼女がかっこよかった。戸惑っていた私とは違って。
 私は、中学は私立の女子校に通っていた。しかし、主に経済的な問題で高校からは公立のこの高校へ通うことになった。小学校は共学だったはずなのに、三年間女子校に通っていただけで、教室の同じ空間に同い年の男の子がいるのがすごく変だった。
 同じ小学校の人たちはこの高校へ入る人は少ないようで、何人か見たことがある人と出会っただけだった。だからとても孤独で不安だった。自分だけが違う世界から来た人間のように思えて、うまく馴染めなかった。
 そんな私は同じように孤立していた少女と、体育の授業で余りもの同士必然的にペアになった。
 銀ちゃん(いつの間にかそう呼んでいた)と初めて会話した時は少し緊張した。一匹狼な彼女が無愛想な態度をとるかもという不安があった。それだけじゃなく、美人でかっこいい彼女と会話するという事自体が緊張した。
 でも意外と普通に会話してくれた。世間が(あるいは私が勝手に)抱いているイメージとは違った。彼女のそういう態度は私にだけ? それは自惚れ?
 自分の名前が嫌いだという彼女は、なんだか寂しそうに見えた。でも、そんな自分を隠す銀の鎧をまとった彼女は強くもあった。私にはないものだった。
 銀ちゃんは天文部に入って、素敵な彼氏を見つけて、毎日つまらなさそうな顔で学校生活を送っているけど、本当は彼女は楽しく過ごしているのを知っている。
 それは彼女のまとう銀色が微妙に変化するから。プラスの感情とマイナスの感情ではその色合いが異なり、私にはそれが見えてしまう。
 本田くんは彼氏じゃないと否定はしていたけれど、彼の黒い色に、銀色の彼女はとてもお似合いだった。夏休み明けぐらいから、二人は急接近したように思えた。それまで、本田くんに話しかけられると少し戸惑いの色になった銀ちゃんがそんな色を見せなくなった。何があったのかは知らないし、訊かないし、訊いても答えてくれそうにないけれど、銀ちゃんが安らげる場所を見つけることができて、私は嬉しかった。
 私が安らげる場所はどんな色だろう……?

     *

 二年生になって銀ちゃんとは違うクラスになってしまった。少し寂しいけれどとなりのクラスだし、いつでも会える。そして、新しいクラスには知らない色をもった人たちがいるはずで、それを探す行為を私は忘れかけてしまった。というのも、始業式で、クラスごとに一列に並ぶわけだけれど、目の前の男の子が無色だったからだ。
 何度見ても色がなかった。気になってしかたがなく話しかけた。男の子に自分から話しかけるなんて勇気のいることだと思っていたけれど、存外、そんなことはなかった。吉川という苗字を知る。私は相川だから二人とも川だねという話をして、彼は返答に困っていた。だからなんだという話で、そんなことを言われてもなんて反応していいのか私にもわからないと思う。
 そんな形で出会った吉川くんとは何度か話し、初めて出来た男友だちかもしれなかった。
 五月の連休明けに席替えをして、吉川くんの後ろの席になった。嬉しかった。休み時間にヒマそうにしていると話しかけた。彼はそんなにおしゃべりじゃないし、人見知りなところもあるように思う。けれど、それは私も同じだ、と思っている。彼は徐々に打ち解けてくれて、少しぎこちなかった二人の会話もだんだんやわらかくなった。私が積極的に話しかけることができたのは、彼に色がなかったことが私の興味をとても引いたからなのは言うまでもない。
 吉川くんと趣味の話をしたりするようにもなった。私が好きな音楽の話をすると、彼は聴いてみると言ってくれて実際に聴いてくれて感動した。良い人だと思えた。
 文化祭の準備をしていたとき、吉川くんと、田辺さんと永田くんが、昔からの知り合いでそれなりに仲がいいことがわかった。私にはそういう人はいないなって、羨ましく思ってしまった。それはきっと嫉妬ではない。
 田辺さんは酒屋の娘で、私よりお酒の知識がきっとある。というか私にお酒の知識なんてほとんどない。本田くんみたいに宇宙のこともよくわからない。でもそれはその人たちがそういうふうに育ったからであって、違うふうに育った私には私にしかないものがある。色が見えるという奇妙な感覚を別にしても。人はそれぞれ自分の色を持っているのだから、その色で生きればいい。みどり色の私が、赤色になる必要はないし、なろうとすることは不可能ではないかもしれないけれど、私がみどり色であることから逃れることはそう容易ではない。私はこの色で生きていたいし、他の色に少し惹かれても、それは独立した別の色で、私は自分に誇りを持てる。だから、羨ましいという感情には少しの尊敬が含まれていて、自分とは違う色だと認識することが、自分の色を認めることに繋がり、やはり嫉妬にはならない。もちろん私が屁理屈で嫉妬という感情を認めようとしていないだけで、これこそが嫉妬なのかもしれないけれど。
 田辺さんの穏やかな淡い黄色は琥珀色。ウイスキーの色ってああいうのかなと思う。少し違うか。でも、柔らかく繊細で、明るく輝くのは難しいけれど、その色は心に残る。
 田辺さんが吉川くんに気があることはすぐにわかってしまった。魂の色で他人の感情を勝手に推測するのは卑怯だと思うけれど、わかってしまうものはしかたがない(もちろんそれは万能ではなく確実性はない)。そして私は「吉川くんのこと好きなん?」と尋ねた。彼女は警戒していた。私がそういう感情を察したことが不気味だったのかもしれない。私は純粋に応援したかっただけだった。恋心をそう簡単に他人には見抜かれないように振る舞ってしまうタイプの人間に田辺さんは思えたから。私は、吉川くんが図書室で本を借りているから、それを返すタイミングでなら、教室外で二人で会うことができるかもしれないと教えた。私はおせっかいかな。
 本当は、私だって、吉川くんに惹かれていた。不器用だけど、優しくて、楽しく話せる。初めてできた男の友だちという私の中の彼の立ち位置を失いたくなかったというのは言い訳かな。

     *

 雨が、降っていた。

     *

 吉川くんと出会って、私は少しだけ変わったような気がする。
 色彩を持たない吉川くんはその色から感情を読み取ることができない。そうやって他人の感情を読み取るからときどき奇妙な目で見られてしまうのかもしれないけれど、私にとってはそれが当たり前だった。でも彼は違った。色がないから、読み取れない。ゆえに、彼の顔をよく見るようになった。じっと顔を見るのは少し気恥ずかしく、吉川くんはそんなに私の顔を見ないし、それは、照れくさいからなのかもしれないけれど、私の行為は、あまりにもじろじろ見ているものだから少し失礼かもしれなかった。
 吉川くんが元気ないときに、今日元気ないね、と声をかけた。もしかしたら迷惑な気もしたけれど、そっとしておくより声をかけたほうが良いような気がした。でもなんて声をかけたらいいのかわからなかった。そして、彼の返答からは、感情は読み取れなかった。空元気で笑っているようにも見えた。余計に疲れさせたかもしれない。色がないとこんなに苦労するんだと思う反面、それが普通で、他の人々は、わずかな表情や声のトーンの変化で、私が色を読み取っているのと同じように他人の感情をはかることができるのだと、悔しかった。それが苦手な私は下手な小説みたいだ。彼の力になってあげたくても、そうなれているかはわからない。そんな自分をごまかすように、チョコレートをあげた。お詫びのつもりかもしれなかった。ちょっとでも元気が出てくれたらいいと思った。
 そうやって、色がわからないから、私はあれこれ思い巡らせてから行動を起こすように心がけた。少なくとも彼に対しては。でも、それが決して不自然にならないようにも気をつけなければならなかった。
 吉川くんがいつしか、こんなことを言った。
「相川さんは自分の名前、好き?」
 好きだと答えようと思ったけれど、本当のことを彼には言った。こちらが歩み寄れば、彼の本質を引き出せるかもしれないと思ったからだ。
「好きでも嫌いでもないよ。そりゃ、もっと違う名前が良かったとかって思うこともあるけど、こういう名前なんだからしかたないって思っちゃう。べつに親がつけてくれた名前に感謝してるとかそういうことは言えないし、ていうか親が名付けたんかもわからんし、うん、でも、相川翠じゃなかったら私は相川翠じゃなくて、それはたぶん別の私になってまうから、好きやっても嫌いやってもそれを受け入れなあかんって思う。少なくとも嫌いじゃないよ」
「……ふーん。そうなんや」
「自分の名前は、もう自分の名前になっちゃってるから、それからは、離れられへんと思うな」
 名前に縛られてしまうのは、私も銀ちゃんも同じ。
「吉川くんは、自分の名前好きなん?」
「好きでも嫌いでもない」
 特に考えるまでもなく、といった感じで彼は答えた。背もたれを横にして後ろの席の私に声をかけるクールな彼は余り表情を変化させないから、彼の心が余計に読めなかった。こっちを正面から向いてくれるわけでもない。
「あんまり考えたことがない。ただ、なんでこんな名前なんやろって思ったりはたまにする」
 こんなこと言わないほうがいいこともあるってわかっているけど、思ったことを彼には伝えたいと思った。
「でも、珍しい名前やんな。その字」
 珍しい名前にコンプレックスを抱く人もいると思うのに。
「やろ? 吉川央で、ちょうど左右対称やねん」
 彼は自虐的に言うとでも表現すれば良いのか、そういうふうに言った。私にはそれが自虐なのかわからない。
「中央とか真ん中とか、そういう意味やと思うけど」と吉川くん。
「ミドルオブノーウェア」
「ミドルオブノーウェア?」
 どういうこと? と興味をひいたのか、こちらを振り向いて顔を見てくれる。
「どこでもないどこか」
「そうなん」
「そう思っとったけど、ど田舎、みたいな意味らしい」
「なにそれ」
「ノーウェア、なんにもないとこやって。アメリカのめっちゃでかい農場みたいな」
 私たちは笑っていたけれど、どこでもないどこかじゃないんだよ、吉川くんはそこにいていいんだよって、私は、吉川くんが目の前にいるということが、それだけで、感動してしまうことなんだよって、伝えたかった。恥ずかしくて、そんなことは言えないと思ったし、それを言うのは私の役目ではないと思った。どうしてだろう。そう思うのは、そういう言葉を言うのを自ら回避する言い訳でしかないのかな。どこでもないどこかにいるのは私のほうじゃないのかな。人とは違う色彩が見えてしまう私は。
 少し沈黙が気まずかった。教室内は騒がしいのに。彼との沈黙が気まずかったのはこれが初めてだった。
「どこでもないんやったら、自分でどこか、決められる」
 独り言を言うように吉川くんはつぶやく。
 彼が、自分の居場所を決められたら良いな、と思った。

     *

 銀ちゃんは天文学の本をよく読んで勉強している。天文部に入ってかららしい。そして、本田くんに誘われて天文部に入らなければそんな彼女は存在しないわけで、それはとても素敵なことのように思える。初めはちょっとした興味本位だったかもしれないけれど、いつしか勉強することが楽しく、のめり込んでしまっている。
 私はそうやって夢中になれることがあるだろうか……。何かきっかけがあれば、私も銀ちゃんのようになれるのに、と思っているから変われないのかもしれない。きっかけを待つのではなく、自分から探しに行かなければならないと思う。
 今までの人生で自分から何かを選んだことがあっただろうか。中学は私立の女子校に行ったけれど、それは、半分以上は親の意向で、とりあえず受けてみたら? という親の言葉にどれほどの真剣味があったのかはわからないけれど、自ら望んであの学校に行ったとは言えないことは確か。
 考えた挙句に、真剣に打ち込める趣味もなければ部活もしていない私は、アルバイトをすることにした。それすらも、家庭が経済的に苦しいからという理由のせいなのが心のどこかにあったかもしれない。
 本当は、学校の許可を得ないといけないけれど、私の家庭の状況では許可は下りなさそうだ。経済的に苦しいといっても、めちゃくちゃ貧乏な生活を送っているわけではない。私立の高校に通わせるのは少し厳しいかもしれないけれど、私がアルバイトをしなくても、公立の高校へ通わせ子どもを大学へやるお金ぐらいはあると思う。でも、銀ちゃんにも吉川くんにも出会えたということは、やはり(結果論になるかもしれないけれど、世界は往々にしてそういう風にできていると考えてしまうけれど)この高校へ入学して良かったと思える。
 ともかく、私はアルバイトを始めた。
 学校に黙ってアルバイトをするからには、知り合いとか、ましてや教師に鉢合わせしてしまうなどということのないところで働くのが無難だと思った。同世代や教師に出くわさないマニアックな職場か裏方の仕事がいいと思った。そして高校生を雇ってくれるところ。そういう条件ではなかなか仕事は見つからなかった。でも、アルバイト情報誌やらネットで調べていると、世の中には色んな仕事があるんだなと面白かった。印刷会社で、カレンダーを作る仕事が短期で募集していて、なにそれ面白そうと思ったけど、高校に通いながらでは厳しそうだった。
 結局、花火を作るお手伝いをする仕事を見つけた。世の中にはそんなものまで募集しているのかと驚きだった。でも、これだ、と思った。女子高生が、少し危険な感じのする仕事をしているとは思うまい。たぶん、そういう火薬など危険なものは資格がないと扱えないと思うので、本当にちょっとした手伝いになるかもしれない。
 背中に入れ墨を入れているスキンヘッドのおっちゃんがやってそうで恐かったけれど、電話をして、指定された場所へ行くと、存外まともな人が待っていた。若い夫婦だった。向こうも最初は渋っていたが、べつに女子高生でもいいか、そのほうが新鮮みもあるしと簡単に採用された。給料は一日一万円。毎週土曜日。
 正直、高校生の私からしてみたら、一日一万円ももらっていいのかと思ってしまった。高校生にとってはそんなものは大金だし、そんなに大した仕事などできそうにないのに。
 基本は、事務的なことというか雑用に近いことをしてもらうつもりだけど、いてもらったら助かる。と丹羽さん(雇い主)は言う。
 丹羽さんたちは、もともとは違う会社の職人のもとで修行していたけれど、最近独立したらしい。数人の小規模でやっていくのはとても厳しく、まだまだ完全に独立したとは言い切れない状態らしい。以前の会社の手を借りながら今は切り盛りしているようだ。というのも、お世話になった会社が独立を後押しするようなシステムを採っているらしい。職人の世界は伝統の技術を受け継いでいく、という縦のイメージが強いけれど、最近は、それをビジネス化して、一人でも多くの職人を育てていく方向にあるらしい。あえてこの時代に、いやこの時代だからこそ、職人の手による文化を絶やさないためにも、職人のなり手を増やそうという動きがある。もちろん反発する声もあるみたいだけれど。
 掃除をしたり、品数を数えたり、新作のアイデアを出したり。退屈な作業かもしれないと初めは思っていたけれど、知らない世界を見れて意外と楽しかった。単に花火を作って提供するだけじゃなく、どれをどの順で打ち上げるか等の一つの作品のテーマを決めてその手順を作成しプレゼンしたりもするので、その手伝いも面白かった。もっと泥まみれな仕事だと思っていたら全然違ってスマートな側面もあるのが興味深かった。

     *

 夏の初めに、秋山すばるくんに告白された。
 あの雨の日に一緒に帰ったことがきっかけだったのかと思ったけれど、それ以前から、気にかけていたらしい。彼は水色で、鮮やかだった。私が感じるのはあくまで魂の色で、その人のイメージカラーなどというものとは違う。クールな色をしていても、情熱的な人もいる。
 一年生のときも同じクラスだった。彼が男子の出席番号一番で、私が女子の一番だった。明るくしっかりしている人、という印象だった。
 なんで私なんか好きなんだろう……?
 彼は言う。
「相川さんは、ときどきぼーっとしているというか、ちょっと危なっかしいところがある。心配しとぉとか、例えば、ぼんやりしとって車にひかれそうになったら守ってあげたいとか、そういうことじゃなくて。そういう男が上から目線で言ってるみたいな言葉は嫌いやし」
「ひかれてもいいん?」
「それは困る」
「うん。そうじゃなくて?」
「俺は一緒にぼんやりしたい」
 真面目にそんなことを言うので笑ってしまった。
「いいよ」
 ぼんやりしているように見えても、たぶん私は色の流れを見ているから、車にはひかれないと思う。危ない、と心配する周りの人たちの色の変化に気づいてしまう。そういうときの色は暗色系が多いんだけれど、「暗い」という言葉が負のイメージを含んでいるのは、不思議だった。私と同じような感覚をもった人はやはりいたんじゃないかと思わされる。負の感情がそういう色をもつから、例えば「暗い」という言葉に、そういう慣用表現が用いられるようになったと私は考える(ユングの集合的無意識という概念があるらしいということを知ったのはもっと後のこと)。
 私は彼を明るい人と表現したけれど、もちろん発光しているわけではなく、性格や雰囲気が元気とか朗らかという意味で、「明るい」という言葉、「明」という字が持つ本来の字義から派生して、陰りがないものを指すようになったんだと思う。私の想像が正しいとして推論を進めていく。「明」という字を漢字源で引くと、あかり取りの窓から月光が差し込んでものが見えることを示す、という漢字の成り立ちがわかる。国語辞典には、隠されたところや陰りがないというくくりで、性格や雰囲気のことに言及している。日本語の語源としては、「明かし」と「赤し」が同じだったらしい。古語辞典の「明かし」の項には、光が明るい、心が清いと二つの意味が載っている。古くからそういう意味があることがわかる。英語では、cheerful、sunny、merryが明朗なという意味で使われるらしい。sunnyが唯一光の明るさと両方を表せそうな語だった。
 そういうことを深く知りたければ大学で研究すればいい。何学部に行けばいいのはわからないけれど。文学部のそういう学科があるところを探せばいいのかもしれない。「明かし」と「赤し」が同じ語源なら、血の巡りがよく赤みのある顔の人は元気で、血の巡りが悪く蒼白な顔の人は元気がない、というところから来ているのかもしれない。人の顔色を伺うのが苦手な私には難しい。魂色しか伺えない。
 私のことを好きなら、きっとわかったはずで、私はそれに気づかなかった。二年生になってからは、吉川くんの無色に見とれてしまった(?)から、周りに目を向けることが減った。そのせいで気づかなかった。というのは建前で、恐らく気づかないふりをしていただけだろうけれど。
 彼の好意が嬉しかったのは本当のことだけれど、吉川くんと田辺さんが上手く行けばいいと思う私は、手を引く口実になると自分に言い訳をする。それに、田辺さんが私をライバル視しないで済む(そういう目で見られているのかは本当はわからないけれど)。
 イヤな女だって自覚する。
 吉川くんが好きなら、そう伝えるべきで、秋山くんにはごめんなさいとかすぐには返事できないとか返せばよかったのかもしれない。たぶん、吉川くんが好きって認めるのが怖いんだと思う。その好きがどういう種類の感情なのか私にはよくわからない。
 秋山くんは素敵な人で、きっと私を大事にしてくれる。そういう月並みな表現の意味を正確には私にはまだわからないけれど……。頭のなかでは、とても混乱していて、男の子に好意を向けられるという意味はわかっても、私のことが好きだって言葉を正面から受け入れられなくて、戸惑いがある。
 人から受け取る印象と、その人が実際に抱いている感情が必ずしも一致するわけではないということはわかる。嫌われていると思っていても、その人はなんとも思っていなくて、こっちが勝手に勘違いしているだけだったということもある。私の色彩感覚は万能ではなくて、相手が単に警戒しているだけだったり、違うものに向けられた感情を私が勘違いしたり。
 秋山くんの好意が本当のことで、純粋に私のことが好きなんだと思う。全く下心がないかというと、たぶん人間はそんなことはなく、私だって女子高生なので、多少はそういう覚悟もある。やめてと言ったら彼は何もしないだろうこともわかる。わかってしまうことが、悲しい。思い通りに行かないほうが面白い。だからなにも読めない吉川くんに惹かれていると勘違いしている。そういう勘違いのことを好きと表現するのかもしれないけれど。
 私は秋山くんのことを好きになれると思った。クラスの誰かが、「好き」って言われたら好きになっちゃう、て言っていたけれど、ちょっとだけわかる気がした。暑い季節に涼しげな色の秋山くんのそばは居心地がいいかもしれないという不純な(?)理由もあった。と思うことにした。この先どうなるのかなんて誰もわからない。
 そういうことは銀ちゃんに訊けばいいのかもしれないけれど、たぶん答えはくれないんだろうなと思う。
 始まったばかりの夏の予感が、晴れやかなままで続いていくことを願った。

     *

 書店の閉店作業のアルバイトがあったので、銀ちゃんを誘ってみた。たまには私とデートしてほしいと思って。
 それが出会いだった。
 仕事まで少し時間があったので、アルバイト先の書店のあるショッピングモールで二人で暇を持て余していた。
 そこに、吉川くんが女性と一緒に現れた。ロングヘアがよく似合う人だった。とても親しげにしていて、吉川くんは振り回されているように見えた。その人はとても危なっかしく見えた。
 無理をしている、あるいは何かが来るのを待っている。私にはそう見えた。白く濁った魂の色は、何かを取り繕っているようで、不安だった。ただの乳白色、ではなくて、煙みたいだった。
 遠目にそれを眺めていて、おそらくお姉ちゃんなんだろうって、勝手に想像する。吉川くんとあんな距離感でいる人は、そうとしか考えられない。それは私の自惚れだろうか。私の知らないところで、吉川くんに彼女がいてもおかしくないのに、そんなわけはないって思うのはなぜだろう……? 吉川くんの私に対する好意を感じてしまって、となりにいる人に対する好意は違う種類のもので、でも、色がないのに。どんな意味であれ、私のことを好きだとそれなりに思ってくれているというのは、私が勝手にそう思い込みたいだけで、私の思い上がりなの……?
 私がそうやって、二人を観察していると(秋山くんに言わせればこれがぼんやりしているということなのだろう)、向こうのほうから気づいて、こちらにやってきた。腕を絡ませて。吉川くんはいやいやというか照れている。
「相川さん」と言う吉川くんは普段とあまり変わらない。以外とクールだった。となりの人を何か言い訳するでもなく。私に言い訳する理由なんてないけれど。
「こんにちは」となりの声は元気だった。
 私も普段どおりを取り繕う。
「央の同級生?」と訊かれる。名前で呼ぶあたりやはりお姉ちゃんなんだと思う。
「央と仲良くしたってね」と言われて、そんなことは当たり前の言葉のはずなのに、どうしてか、恐かった。彼女の煙のような魂は近づけば薄く、本当に煙に見えた。
 そこで止めればよかったのに、なにをどう言えばいいのかがわからなかった。儚げな魂の色が、不吉な予感をさせても、それは予感でしかなく漠然としていた。
 二人が去った後も、一日中、不安がつきまとった。
 その夜、あれが吉川くんのお姉ちゃんだと聞いて、少し安心した。血が繋がっているなら、魂の色が薄いのも色のない吉川くんと同じタイプなのだと。
 その思い上がりがいけなかった。
 儚げな魂の色が、死の前兆だなんて、私は知らなかった。

     *

 八月八日の花火は、アルバイト先のスタッフと一緒だった。仕事ではないけれど、作品がちゃんとできているかの確認をするのと、純粋にみんな花火が好きだからだった。
 吉川くんが花火に誘ってくれて、嬉しかった。でも、秋山くんと付き合っているなんて言えなかった。その秋山くんとも来ずに。吉川くんはお姉ちゃんと行くだろうか。そう、期待していた。
 花火の色は複雑で、夜空の黒にきれいに咲いた。スタッフがいて、他にも大勢人がいるのに、私の横には誰もいない。
 そんな私の前に吉川美雪さんは現れた。
「こんばんは」と、その笑顔は改めて見ると吉川くんと目元が似ていた。
 どうやって私を見つけたんだろう、と訊く前に答えが返ってくる。
「かわいいからすぐ見つけれた」
「そんなことないです」
「そうかな」
 変な人だった。正面から私を見つめてくる。
「相川さんって、目見えへんの?」
「え? 見えますよ」
 見えすぎるぐらいに。
「片方だけ?」
 どきりとした。そんな言葉は予想もしなかった。
「右目ですか?」
「たぶん。右と左で焦点の合い方が違うなと思って。こんなこといきなり訊いて失礼やったらごめんなさい。でも気になって」
「大丈夫ですよ。全然、訊いてくれて。そんなこと訊かれたの初めてですけど」
「うん、央はちゃんと人の顔見ないから」
 そう。だから、好きになれる。
「義眼? 移植?」
「どっちでもないです」
「そんな気はした」
「自分の目の、傷ついた部分だけ、人工のものに置き換えてます」
「なるほど」
 なるほど、の言い方が吉川くんと同じだった。
「私は、目は大丈夫やけど、耳がおかしくて、聞こえすぎてまうねん」
「そうなんですか」
「だからすぐに人を見つけられる」
 この人は一体何が言いたいんだろう……?
 どんなふうに世界が見えている、というか聞こえているのだろう……?
「ひとと違うものがあると大変だよね」
 美雪さんは私の横に立って、一緒に花火を見上げる。
「そうですね」
「でも、みんな自分にしかないものを持ってて、央にも央にしかないものがあると思う」
「そうかもしれないですね」
「仲良くしたってな。私のことは気にせんでもええから」と笑う。「それから、央は強がっとぉけどほんまは弱い人間やから、と思うから、なんとかしてあげてほしい。べつに彼女になってあげてっていうわけじゃないけど」
「……」
 どう答えればいいんだろう……。あなたが、抱きしめてあげたら、吉川くんは喜ぶんじゃないかな。そういう意味でもないんだろうけれど。そしてこの人は、煙のように薄い魂は、よく見るとわずかに桜色だった。
「私そろそろ行くから、じゃあね」
「あの」
「ん?」
 去ろうとする美雪さんを呼び止めてみたものの、なにをどう言えばいいのか。先週と同じように感じた得体の知れない不安。
「いえ……」
「央をよろしく、元気でね」
 彼女は笑顔を残して去っていった。
 最後の花火が上がる。あざやかな花。人工の色。この元素はこの色、と結びつけることができる色。魂の色は、同じような人間でも全然違う。中に含まれているものと色が結びつく花火は、安心がある。人の心は読めない。
 たった一回会っただけの私に、なにを感じたんだろう。遺言みたいな言葉を遺して彼女は死んでしまった。

     *

 夏休みが終わる頃に、怪我をしてしまった。そんなにぼんやりしていたのか。たまにしか飲まない紅茶を淹れようとして、やかんの湯を手にこぼしてしまった。すぐ冷やそうとして冷水を出したその時、調理場に置いたままだった包丁に触れ、流しの中の手の上にきれいに落ちて切り傷までできてしまった。
 血の色は赤い。命の色だ。
 自分がそんなにぼんやりしているつもりはなかった。そもそもなんで紅茶を飲もうと思ったのかもわからない。包丁も出したままにしておくなんていつもは考えられない。
 九月に学校に行って、吉川くんは以前と変わらず過ごしていた。無理に元気を取り繕っているのかもしれないけれど、そういうわけでもなさそうだった。彼の声は以前と変わらない。
 指に巻いた包帯のことは訊かれなかった。気づいていないはずはないのに。どこかで優しい言葉を期待していたのかもしれない。でも、吉川くんらしいとは思った。そういう意味では期待通りだったのだろう。寂しいけれど。
 秋山くんは訊いてくれた。優しい人。私を心配してくれても、私の心に渦巻く何かを取り除けるわけではない。でも、嬉しかった。
 吉川くんは不思議なくらい穏やかに見えた。いや、見えないんだけれど、そういうふうに感じ取れるように私はなった。
 私が支えてなんてやらなくても、問題なさそうに見えた、それが強がっているということなのか。
 それがわかっていてなんで美雪さんは死んでしまったのだろう。なんで自分の死をわかったんだろう。なにが聞こえていたのだろう。
 私にあんなことを言わなければ、私がこんなふうに感じることもなく、出会わなければ知ることもなく、少しずつ物語が違っていたら死は訪れなかったかもしれない。消えてしまいそうな魂の色を見てしまった私が止められたかもしれない。なにも変わらなかったかもしれないけれど。私にはかもしれないことしかわからない。
 魂の色と彼女の死に因果関係があるのかはわからない。関係があると認めれば、何かを感じていたにも関わらず止められなかった自分を責めてしまえる。関係がないと認めれば、自分のせいではないと自分にはどうしようもなかったと気が楽になれる。でも、気が楽になってしまう自分を認めてしまうことに罪悪感がある。
 死ぬ人に弟をよろしくと頼まれても、それは、呪いの言葉になってしまう。私に押し付けられても、なにもできない。そう悩ませるだけで、それが目的なら、……そんなわけはないと信じたい。
 私だって強い人間じゃないから、守ってほしい。強い人間なんて存在しないのかもしれないけれど。彼女だって彼女の弱さが、私にこんな思いをさせているのだ。
 美雪さんを憎めないのは、私の孤独をわかってくれるかもしれないと思ってしまったから。目の異常に気づいた人は初めてで、自分の音の異常を話してくれた。彼女の存在、行為の肯定したい部分と否定したい部分が私を苛む。
 秋が来て、冬が来てもなにも変わらなかった。人間と木々の装いが変わっただけで。数ヶ月、毎日吉川くんを見ているのに、彼は自分の姉の死をなんとも思っていないように見えた。魂に色がなくても、それぐらいわかったつもりでいたかった。
 私は、どうしたら……。
 なにが、どうなって……。
 毎日見ているからか、秋山くんに、「吉川のこと好きなん?」なんて言われてしまう。
 そんなこと訊かないで。
「わからない」と答えてしまって、彼を困らせてしまう。困ってしまえばいい。私にわからないことは誰にもわからない。私が見ている世界なんて、わかるわけがない。

     *

 年が明けて、わからないものの正体が少しだけわかった気がした。
 正月に、親が金箔の入った日本酒を飲んでいて、私もお猪口一杯だけもらった。もちろん高校生だから普段お酒なんて飲まない(飲めない)から、正月だけちょっと舐める程度に嗜んだことがある程度だった。まだ日本酒のおいしさはわからない。透き通っているのに、不思議な味だった。見えなくともいろんな風味が詰まっている。そういえば、最近は透明だけど味のついた水が売られている。外見だけじゃわからない。
 吉川は川で、相川も川で、川の水は、私の言葉ではなかなか表現できない色をしている。
 そんなことを思い、水色というのは何色なんだろうと考え始めてしまった。
 海が青いのは、光の波長が散乱とか関係があるらしい。物理の授業で少し習って、銀ちゃんの彼氏に教えてもらった。清流の淡いブルーを水色と呼ぶけれど、水の色は実際は透明だ。川の水は黒っぽく見えることもある。濁流で茶色っぽいときもある。水そのものは手にとっても透明だ。
 吉川くんの魂も同じ。透明なんだと思う。色がない、見えないのは、そういう色だから。ほとんど透明でもしかしたらわずかに色はあるのかもしれない。村上龍の小説みたいに。わずかなその色を無意識のうちに私は感じ取って、色がなくても相手の心をわかるようになったと錯覚していた。
 ようやく心の中の靄が取り除かれた。透明だという感じ方が間違っていたとしても。
 吉川くんは不思議じゃない。他の人とは違うなんてことはない。私にとっては特別な存在かもしれないけれど、もっと純粋に、向き合うことができる。怖がらなくてもいい。
 ちゃんと話そうと思った。
 全部。隠しごとは、なしで。

     *

 冬休みが終わる前に、話そうと思った。休みの日に二人で会うのは、初めてで、緊張した。たぶん吉川くんもドキドキしていて、私は浮気をしているみたいで、でも、高揚している感情は嘘じゃない。本当はあなたのことが好きだよって話をするわけじゃないけれど、たぶんそれ以上に緊張する。自分のことを他人に聞いてほしいって、話したいって、思えた初めての人。
 舞台は、カフェ・ド・クリエ。
 一月五日、快晴。
 吉川くんの私服は、シンプルだけれど、おしゃれだった。グレーのマフラーがよく似合っていた。
「ごめんいきなり呼び出して」
「いいよ、全然」
 クールなふりをしている彼はいつもどおりだった。
「吉川くんに話したいことがいっぱいあると思って。話さなあかんって思って」
「うん」
 いきなり呼び出されて、なにを言われるんだろうかと、期待と不安が彼の中にあると勝手に私は思う。そういう思い込みがよくない。
 コーヒーが来るまで、なにを言えばいいのかわからなかった。自分から誘っておいて。でも、世間話をしたい気分でもない。意味もなく、自分の手を眺めて、吉川くんの袖のあたりを眺めて。
 その、かつては心地よかった沈黙は、今は、今まで知らなかった沈黙だった。その中にやすらぎと緊張がある。大切な場所だった。このまま時が止まってしまえばいい。いつまでもふたりだけで、何者にも邪魔されない空間。お店の外の音が普段よりはっきりと聴こえるのは気のせいではない。風の音、店内に漂うコーヒーの匂い、いつもは賑やかなはずの通りの一月の静けさ。
 そしてコーヒーがきてしまう。
「ねぇ」
 そう言ったもののなにから話し始めたらいいのか、わからなかった。そのくせに、暖かいコーヒーを一くち、口に含んだら、言葉は出てくる。
「私は、まともじゃない」
「そうなん?」
「うん。私の右目、本物じゃないねん」
 本当は勇気のいるはずのことを、言えてしまう。
「見えへんの?」
「ううん。昔怪我して、傷ついて、それで、気持ち悪いって。だから、私立の学校辞めてこっち来てん」
 たどたどしい言葉を紡ぐ冷静じゃない私がいて、冷静にそれを俯瞰で観ている自分がいる錯覚を感じて、冷静であろうとする自分が空回りして私は……。
「……そうなんや」
「こんなこと話したん吉川くんが初めて」
 私は何を言っているんだろう……。本当はそんな話をするつもりなんてなかったのに。本当に言いたい言葉はすんなり出てこない。
「傷ついたとこを、人工的なあれで、なんていうか知らんけど、臓器? 器官? そういうんで置き換えてる。義眼じゃないから、たぶんちゃんと見なわからへんと思う。でもちゃんと見たら、なんか変やってわかる」
 吉川くんは私の目を見てくれない。かわいい人。そう気づいて少し落ち着ける。
「見てよ」
 私を正面から見る、どこか恥ずかしそうな彼の目も素敵だった。
「右目だけ焦点合ってないっていうか、変やろ」
 私を見つめる吉川くんの目、そんなことは初めてだった。
「うん。言われてみれば」
「それで、」
 そんな接続詞を使っておいて言葉に詰まる。読点が句点になってしまう。うつむいて、カップの中のコーヒーに映る照明の光を見て、飲むわけでもないのにカップに触れて、言葉を探す。でもたぶん探していたのは言葉ではなくて、覚悟とか決心とかそういった類のものだった。宙を探しても時間が経っても現れるものではない。吉川くんだって手持ち無沙汰で、私の言葉を待っている。言うことなんてほとんど決まっているのに、少し使う表現が違うかもしれないだけで、考えても、的確な言葉を見つけられるわけではない。それに、上手く考えることなどできない。自分のことを誰かに話すことがこんなに難しいなんて知らなかった。覚悟を決めたはずなのに、戸惑いが道を塞いで、言葉をまとめようとしても、上手く思考することすらできない。
 そのくせに、言葉が口を出ると、すらすらと出てくる。本当に想定していた言葉かはわからないそれが。
「私は、ひとに見えへんもんが見えるみたいで、たぶん他の人にはそんなんは見えへんのやと思う」コーヒーを一口、ようやく飲む。初めて目の前のカップに気がついたみたいに。さっきも飲んだ気がするのに。「人それぞれに、魂の色があって、魂っていうかオーラっていうか、その人がまとってる色があって。意味わからへんかもしれんけど、私にはそれが見える」
「……そうなんや」
「うん。病気やと思うやろ。幻覚やって」
「わからない」
 私にもわからない。
「目を怪我して、治したばっかりの頃は、今よりもっと変で、馴染んでなかったっていうか、とにかく変やった。それで気持ち悪いって、いじめられた。たぶん。いじめられたっていう感覚はあんまりないけど、呪われてるって誰かに言われたと思う、それが、私の中にずっとある」
「そうなんや」
 吉川くんの相槌の語彙は少ないけれど、そういう言葉を私は期待しているし、期待できる。
「呪われてるっていう言葉が、私の中で呪いになって、幻覚が見えるようになった。自分が怪我して、失った分を、魂の色が見えるって能力があるって思うことで失った分を取り戻したかったんやと思う」
 吉川くんをじっと見る。やはり色はない。
「統合失調症の場合は、幻覚はほとんど幻聴らしいねん。幻視がないとは言えへんと思うけど。だからって私が統合失調症じゃないって言い切れるわけじゃないけど」
「……」なにか言いたそうに口を少し開く吉川くんはしかしなにも言わない。
「なんの病気でもええけど、とにかく、私にはそういうんが見える」
 吉川くんはしばらく言葉を探す。意味もなく手を開いたり閉じたりして。
「……相川さんはそれで、……それが、嫌なん?」
 ううん。
「嫌じゃない。でもときどき自分が病気なんやって思う」
「他に症状とかあるん?」
「わからへん」
「自分で病気なんやって思えてることは、感覚として大事なんじゃないかなって思うけど。自分は正常やって言い張る人のほうが正常じゃないかもしれん」
「ありがとう」
 ふたりで、向き合えば、こうして吉川くんもきちんと話してくれる。学校でまわりに知り合いがいると、無意識の内に取り繕って、吉川くんはちょっとひとこと足りなかったり、言いたいことを上手く言えないでいるように思える。それは自惚れではなく、彼の思考の流れをなんとなくわかってしまって、こういうことを思っているんだろうなということを、想像できてしまう。一か二話せば十わかってしまうといえば大袈裟だけれど、思考回路が似ているのか、価値観や感性が似ているのかは知らないけれど。そういうのが自惚れだって思えない信頼が私たちにはある。
「例えば、銀ちゃん――武藤さん。あの娘は名前のとおりの銀色をまとってる。不思議やと思うけどとりあえず聞いて」
「うん。病気でもそうじゃなかっても、相川さんにそう見えるんやったらそれは仕方ない。俺だっておんなじ色見てもほんまに相川さんとおんなじように感じとるかわからへんやん。そういうんとおんなじ」
「そういうこともあるかもね。それで、私が言いたいのは、……あの」
「……」なに? と訊かないあたりが吉川くん。
「吉川くんには、色がないねん」
「そうなんや」
 また同じ言葉だ。
「うん。そんな人初めて出会ったから、びっくりして、それで、気になって声かけてん。なんかごめんね。不思議な人がいるなって、最初は、それで……。でも、でもきっかけはそんなんやけど、吉川くんと、仲良くなれてよかったと思ってる。いろんな話ができて、最初はたぶんおたがい緊張しとったけど、段々、話せるようになってきて、たぶん、私女子校行っとったから、始めて男の子の友だちができたんやって思った」
 自分が何を口走っているのか、上手く話せているのかわからなくなってくる。
「なるほど」
「それで、こないだ気づいてんけど、たぶん吉川くんは色がないんじゃなくて、めちゃくちゃ薄いんやと思う。透明っていう色っていう可能性もあるけど」
「そんなにきれいな心持ってないと思うけど」
「そんなことない。きれいやと思う。まあ、それと私が見える色はたぶん関係はないけど」
「ふうん」
「うん。そんなこと言われても困るやんな」
 そんな荒唐無稽な話をされているのに、まともに取り合ってくれるのが嬉しい。
 本題はここから。
「ひとつ、謝りたいことがあるねん」
「謝りたいこと?」
「うん」
 わざとらしく頷いて、その首は下げたまま手元を見て、つばを一つ飲み込む。
 顔をあげて言う。
「吉川くんのお姉ちゃん、美雪さん」
「それがどうしたん?」
「美雪さんの、魂の色は、煙みたいで、白っぽいけどわずかに桜色やった。でもそれがすごく薄くて消えてまいそうやったのに、私には止められへんかった。そんな色やったから、なんか不安やったけど、でも、なんも言えんかって、それで、」
「……うん」
 つらくても、吉川くんに話すために、今日呼び出したんだ。
「……それで、止められへんかった。ごめん。私はこんなんが見えるのに、なにもできへんかった」
 吉川くんは困った顔をしている。
 でもそれは私の予想とは違ったものだった。
「なにが?」
「なにがって」
「なにを止めたかったん?」
「美雪さんが、美雪さんの魂は消えてまいそうやったのに、私には止められたかもしれへんのに」
「そうなん? お姉ちゃんはちゃんとおるで、心配せんでも、消えてないよ」
「え?」
 わけがわからなかった。

     *

「ちょっと待って」
 吉川美雪さんは死んだ。八月の二十六日。花火の日におそらく私と別れてから、行方がわからなくなった。家の人間にはちょっと勉強の息抜きに旅行に行くと言っていたそうだ。旅先がそんなに遠いところになるとは告げずに。お盆が明けても全然連絡が取れず、両親は捜索願を出した。そして、結局二十六日に、岡山県で遺体が見つかった。死因はよくわからない。あるいは公表したくない事情でもあるのか。少なくとも私には死因は伝わっていない。自殺なのか事故なのか他殺なのか病気なのか、どんな状況だったのかも、なにもわからない。
 私は、彼女は自分の死期を悟って、私に遺言を残したのだと思った。あるいは自殺する前に誰かに何かを伝えたかったのか。
 それが私に対する呪いのように私には思えた。弟のことが好きだけれど、そういうわけにはいかず、弟が親しく接している相手を見つけ、嫉妬しつつも叶わぬ願いならその人に託せばいいと私に吉川くんをよろしくって、(しっかりとお願いしたら私が疑ってしまうから)さりげない言葉で伝えるから余計に見逃してしまった責任を私に感じさせる。
 私はたしかにお葬式には顔を出した。本当に彼女はいなくなった。吉川くんはうつむいて強がっているように見えた。親族の手前、私にはなにもできなかった。
 私が見たその光景は嘘ではない。
 それなのに夏休み明けの吉川くんはそんな素振りを全く見せなかった。いつも以上にクールだった。そのくせにいつもより笑い、元気そうで、強がりなんかじゃなかった。異常だと、感じた違和感を私はまた、尋ね損ねてしまった。
 だからこれは私の責任でもある。魂の色が透明だからとかそんな言い訳が許されるわけもない。
「家におるん?」
「あたりまえやん」なんでそんなこと訊くんだというふうだった。
「私がおかしいんかな」よく考えたら私は異常という話をしていたんだった。でも、「吉川美雪さんは亡くなったはずやろ」
「なんで?」
「なんでって」そんなことこっちが訊きたい。
「なんでそんなこと言うん? 相川さん、そんな人やったっけ」
 吉川くんの怒気をはらんだ声なんて初めて聞いた。
「そんなわけ、ない。私はお葬式に行った」私の声は震えている。
「……」吉川くんは私を疑い始めている。
 正気じゃないのは私なのか……。
「私に魂の色が見えるみたいに、吉川くんには違うもんが見えたりするん」かなぁ。そんなことを考える言葉はひとりごとのようで。「美雪さんは、ひとより音がいっぱい聴こえるって、耳が良すぎるって言っとった。そういう家系なん?」
 涙が出てきた。
「相川さん、大丈夫?」
 心配してくれる彼の声はいつもどおりで、でも心配してくれるなんていつもの彼じゃない。
「私は大丈夫じゃないかもしれんけど、吉川くんだって大丈夫? なんで、なにが……」
 涙があふれる理由がよくわからなかった。
 もっと取り乱したり、なんて声をかけたらいいか迷えば私の知っている吉川くんになるのに。
「相川さん、俺の名前」
 私の目をちゃんと見ている。
「名前? よしあかわあきらくん」
 そんな彼の顔を見れない私。
「そう。中央の央って字やから、向こうの世界とこっちの世界の真ん中に立ってるから、そういうんが見えてまうって」
「なに言ってるん」
 顔を上げて吉川くんを見る、彼がわからない。
「そう思ったりするかも知れへんけど、そんなんじゃないで」
「なにが言いたいん?」
「俺は、わかってるけど、秋山みたいな人間じゃないから、相川さんを支えられる人間じゃない。そうなれたらいいけど、そんなに簡単じゃない」
 優しい声で、吉川くんじゃないみたいなことをしゃべるのはやめて。
「ごめん、だから、俺にはなにもしてやれない」
「あなたは、だれなの」
 恐かった。私の声は誰にも届かない。
「憑かれてるの? 色がないなら、いろんなものが入り込める器になれる。だれ」自分がなにを言おうとしたのかわからなくなっているはずなのに、はっきりと、言葉が出てくる。「私は……、私はたぶん吉川くんのことが好きやった。初めてできた男の子の友だちっていう意味でも、特別な人やった。それやのに、」どこに行ってしまったんだろう。悪いのは私なのかな。「ほんまは、秋山くんが好きなんじゃない。もちろん嫌いじゃないけど」けど、……でも、一緒にいてくれるのは秋山くんで、一緒にいたいのは吉川くんで、目の前で冷静にコーヒーなんか飲んでいる吉川くんは違う人で、戸惑いもしない。
 それ以上、もう言葉が出てこなくなった。
 少しだけ困った顔の吉川くん(?)は本田くんに連絡して、銀ちゃんをこちらに寄こすように伝えた。そんな行為ができるほど器用じゃないはずの吉川くんの中に、秋山くんを呼ばなかったところに少し吉川くんを感じる。
 大丈夫? と訊かないのは吉川くんらしいけれど、泣いてなにも言えなくなった女の子の前でそんなことを訊かないのはもはや吉川くんではない。矛盾しているかもしれないけれど、私は吉川くんをよく知っている。ちゃんと顔を見て過ごしてきた。
 十分ほど経って、銀ちゃんが来た。銀ちゃんはどこかで見たことのある知らない女の人を連れてきていた。
「石浦です」と名乗る小柄な女性は、吉川くんのとなりに座る。「美雪の弟やんな?」
「……はい」吉川くんも初めて見る人らしい。
「あの娘は、聞こえたらあかん音まで聞こえてまうから、こんなことになってまう。損な性格やと思う。でもそういうふうにしか生きられへんかった」
「何の話ですか」
「黙って聞いて」吉川くんを見据える。「例えば、……例えが浮かばんけど。バタフライエフェクトみたいなことで、ちょっとしたことからその先にあるおっきいことを感じ取ってまう。未来予知なんて大層なもんじゃないけど、漠然とした予感、みたいなもんらしい。そういうんを感じて、ちょっと離れて、旅に出たのに、もしかしたら本来感じとった予感は全然別の形やったかもしれへんけど、あの娘は自分が犠牲になることが最小限の被害やって考えたんかもしれへんけど、……やっぱり損な生き方やった。本人がそれでええんやったらええんかもしれんけど」
 銀ちゃんはカップを二つ手に、私のとなりに座る。ブレンドコーヒーとカフェオレ。美雪さんの知り合いらしいお姉さんはカフェオレをその手から受け取る。この人も銀色だ。
 銀色のお姉さんは、吉川くんを自分のほうに向き直らせ、その目を見つめる。
「そらさない」
 吉川くんはそらしかけた目を彼女に向ける。
「名前は?」
「吉川央です」
「あきらくん。私は石浦慧。美雪の同級生で、天文部の部長をやっとった」
 なるほど。
「あきらくんは知らんかもしれんけど、美雪は昔、大怪我をした。……私をかばって。その時の記憶は本人はないらしいけど、それから、異常なことを言い出すようになった。いろんなもんが聞こえすぎてまうようになった。身体はちょっと傷跡が残ったぐらいで、あとは何も問題なかった。でも、記憶を失った。それまで持っとった分のほとんど。基本的なことは覚えとったし、親の顔もわかったし私のこともわかった。でもエピソードはなにも覚えてなかった。一つ一つのものは知ってるけど、それが動き出すとわからへんらしい。時間の流れがあってそこにストーリーがあったら。私のことは覚えとったけど、私となにをしたかは全然覚えてなかった」
 一気にいろいろ喋って、石浦先輩はようやく自分のカップに口をつける。
「過去を失った代わりに、未来がわかるようになったって言ったら都合の良い解釈やけど、少なくとも、何かを失うことで何かを手に入れてはいる。私だって、こうやって他人の目を見つめることで、相手の本心を引き出すことができる」
 先輩はいたずらな笑みを浮かべる。
 ?
 どういうこと? と私は銀ちゃんに顔を向けるが、
「意味不明な冗談を言ってる場合じゃないと思います」らしい。
「ごめん。でも人は失ったら何かを手に入れる。人が死んだら悲しみを手に入れてしまう」
 私にそんな考え方はなかった。右目を一部失った代わりに違う色が見えるようになった……?
「そういうふうに人は思うことができる。そうじゃないとバランスが取れへんから。武藤さんだって、本田くんを手に入れたけど、自分の自由を失った」
 銀ちゃんは少し恥ずかしそう。
 この人は一体なにを知っていて、なにがわかって、なにを言いに来たんだろうと思ってしまう私。
「あきらくんはお姉ちゃんを失った代わりに自分の生を手に入れた。そうやろ?」
 とても穏やかな声。声……?
「あきらくんをかばって死んだんやから、自分を責めたい気持ちはわかる。私だって、昔自分を責めた。でも美雪の記憶が無いのをいいことに深く謝ったりしなかったし、わざとその話題を避けて、あの娘の記憶が戻らへんかったらええのにって思ったりもした。それでちょっと仲悪くなったっていうか私が一方的に避けとった。人間ってそういう生きもんやで」
 吉川くんの言葉はない。
「そっちのあなたも、正気じゃない」そう言って私を見て、先輩は私の目を捉える。「たぶん」吉川くんに目配せして「この子を救えるのはみどりさんだけだよ」
 なんで私の名前知っているの。
「とても寂しい人」
 私にはなにが現実かわからなかった。この人は本当に私の心が見えるのかもしれない。
「私に言えるのは本当のことだけ。美雪はあきらくんをかばって死んだ。あの娘がなにを考えとったんかなんて知らんし、ほんまは記憶だって戻っとったかもしれん。あきらくんは美雪が行きそうなところぐらい見当がついたんやろうし、こんなこと言いたくないけど、しかたないよ。何もかもうまくいくわけじゃない。何もかもうまくいく人も世の中にはたぶんおるけど」
 いまだに私を見つめていて、私はそれをそらせることができない。視界をその部分だけに固定されてしまって、視覚を奪って、聴覚に意識を集中させられる。声だ。
「世の中っていうんは理不尽やけどそれを受け入れなあかん。お葬式のときに、あきらくんを見て、ちょっと心配やった。同じ学年やと思って本田くんに訊いたら同じクラスやって言うから、様子見といてってお願いした。そしたらみどりさんもちょっと様子がおかしいって聞いた。本田くんはちょっと大雑把なように見えて、意外ときちっとしとって、今やから言うけど、武藤さんとうまくいくように取り計らったのは私」
 先輩は銀ちゃんに目をやる。
「そうなんですか」
「うん。どうやったら二人きりになれるかとか相談してきて、私はお膳立てしてあげて、他にもこんなとこ連れて行ってあげたらええんちゃうんって教えてあげたり」
 先輩はうふふと微笑みカップに口をつける。
「私はもう帰る。あとは二人の問題。忘れたいことを忘れるのがダメとは思わへんけど、忘れたらあかんこともある。ちゃんと向き合ったほうがいい、いろんなことに」
「先輩は、なにを知っているんですか」不思議だった。本田くんから多少何かを聞いていたとしても、私の(そして吉川くんの)核心を突くようなことを言ってしまえるのはなぜだろう。
「なにが? なにも知らないよ。ただ、あきらくんは美雪が亡くなったことになにも感じてないように見えるって本田くんから聞いて、みどりさんはずっとあきらくんを見てて上の空やって。夏休み前と明らかに違ったって。私はちゃんと事実を伝えに来たのと、美雪の昔の話を聴いてほしかった。それで、あの娘に対する罪滅ぼしになると思ってるわけじゃないけど……」
「ありがとうございます」
 吉川くんはそれだけ言った。
 先輩はカフェオレを一気に飲み干して立ち上がる。
 いつの間にかコーヒーを飲んでいる銀ちゃんも立ち上がる。
「じゃあね、力になれたかわからへんけど。ふたりとも落ち着けてるみたいやし。邪魔者は消えます」
「じゃあね」と銀ちゃんも言う。
 うん、と私は頷く。
「ありがとうございます」

     *

 目の前にいるのは吉川くんだった。
「なんで忘れとったんやろ」とつぶやく。
「それだけお姉ちゃんのことが好きやったからじゃない? それに、かばってくれて、自分のせいやって思っちゃった」
「うん。俺は逃げとった」それに気づくことは難しい。私も逃げないで、吉川くんと向き合いたい。もっとちゃんと。
「……」
 そんなに口数の多くないふたりの間に、穏やかな沈黙が戻ってきた。
「ごめん」と私が改めて謝る。
「なにが」
「私だって逃げとった。なにもできへんかった」
「相川さんが謝ることじゃない。しかたないことやから」
「名前」
 私は微笑んで、彼の目を見る。吉川くんも今では私の目を見てくれる。
「名前?」
「翠って呼んで」
「……みどり、さん」
「違う」
「……翠」とても言いにくそうに言う。
「ありがとう。央くん」私もとても恥ずかしかった。「これからはそう呼んで」
「でも」
「うん。ひどいこと言うね。央くんとはこれからも友だちでいたい。たぶん一番仲のいい男の子やと思う。私にとって。わがままやんな、このままの関係でおりたいなんて」
 ひどい女だと思う。
「相川さん……翠が、そう思うんならそれが一番いいと思う」
 本当にそう思ってくれているのか、わからないけれど、人間ってそういうものだ。ふたりだけでこうして外で会うのだってはじめてなんだから。私たちは不器用すぎる。

     *

 結局美雪さんの死は、ある意味では自殺でもあり事故死でもあり他殺でもあり、病気のせいでもあった。
 美雪さんはどんなふうに世界が聞こえているんだろうと私が思った、その感覚は、大事な感じ方だったかもしれない。音が聴こえすぎてしまうというのは、世界が音に埋め尽くされてしまうということなのだろうか……。声から感情を読み取ったりすることも人間は日常的に行っているはずで、私はそういうのがわからない代わりに魂の色を見ていた。
 声色、などという言葉があるけれど、声はひとりひとり違う。
 そんなことを考えて導き出されるのは、つまり、私は声を見ていたのかもしれない、ということ。
「共感覚っていうやつ?」と後に央くんに教えてもらった。
 音が見える。音を聴くと同時にその音に色がついて見える。それがそれぞれまとっているオーラのように見える。でも、喋っていないときにもそう見えるのはどうしてだろう……。もっと違う何かを見ているのか、その人の色を記憶していて脳が補完して勝手に色を見せているのか。そんなことを考えて調べてみたら、人を見たら色が見えるという事例は存在するらしいことがわかった。私がそのタイプなのかはわからないけれど。なんにせよ、少しだけ楽になった。自分が異常じゃないとは言い切れないけれど、他人と違う感覚を持っているのは私だけじゃないんだって、世界にはそういう人も少なからずいるんだって知って、安心した。
 そしてよく考えたら、昔から見えたのであって、怪我をしてからではない。央くんには怪我のせいみたいに聞こえてしまったかもしれないけれど。昔から見えたから、そこから感情を読み取ってしまえるようになって、他人とは感情の読み方がずれてしまった。
 私はこの自分の感覚と生きていく。けれど、全面的にそれに信頼を置くのをやめたいと思った。でもやっぱり見えてしまうものは見えてしまう。――田辺さんの思いはどうやら央くんには届かなかったみたいだって。
 私は自分の感覚にとらわれて、銀ちゃんは名前にとらわれて、央くんは姉にとらわれていた。まだ十七歳の私たちは、様々なことが煩わしくて、乗り越えなければならないことも、受け入れなければならないこともありすぎる。
 いつまでも続くわけじゃなくて、あらゆるものには終わりがある。でも、まだ私は生きていて、生きていく。
 秋山くんとは別れることにした。今はまだ央くんのとなりにはいれない。そういう未来があるかないかはわからない。自分がそれを望んでいるのかもわからない。もし次があるなら、そのときは、傘がなくても央くんと一緒に濡れて帰ることにしようと、思った。

 了

色彩

第一話 70枚 この物語は井上陽水の楽曲とは一切関係ありません
第二話 57枚 本田→彼→この人→(なし)
臨時  1枚  Mr.Childrenの楽曲とは(以下略)
第三話 73枚 フィクションです。

201枚。2話目に伏線とか何か入れて最後に全部つながる、みたいにすればいいんだろうけれど、連作短編みたいなのってあまり好きじゃないんだよねと思う。みんなそれぞれ自分の人生があるんだって話。無理に結びつけたりしたくはない。

色彩

dNoVeLs閉鎖により途中まで書いてたやつのお引っ越し。当時はスピッツの三日月ロックというアルバムが好きという話だと思ってました。俗っぽい。高校生ってこんなもんだよねって思っていたけどわからないや。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一話 傘がない
  2. 第二話 革命
  3. 臨時ニュース
  4. 第三話 ノンフィクション