その本の名前をわすれて

 一学期末の定期試験、現代国語と世界史の二科目で赤点を取った。それぞれ、十二点と四十六点だった。
 皐ケ丘高校は、レッドラインを五十五点と定めている。向こう赤色一面の境界に、みごとつまずいたのだ。
 それだけなばら、怠惰やまぐれと言うこともできたかもしれない。問題は、その年の春以来、勉強の仕方をすっかりわからなくしていたことだ。
 そういうと、まるで以前は秀才で、勉強熱心な十七歳の青年であったと誤解されかねないだろうか。そんなことはなく、むしろ、部活に人生を捧げてきた――いや、支えられてきたと言うべきだろう――実にわかりやすい、スポーツ青年だった。
 わたしがまず失ったのは部活で、部活を失うことはすべてを失うということだった。わたしは指針を失い、居場所を失い、おのれの輪郭を失った。あとに残ったのは、わたしを見つけられない、役立たずな、珊瑚という名前だけだった。
 いろいろなことをわからなくしていたわたしの、高校二年の夏の話をしよう。わたしはその夏ひまで、本を病むように読み、ある青年と出会った。
 名前は、薊野だった。

 池は、大昔に忘れ去られた、直径五メートル、深さ三・五メートルの土管でできていた。横浜の新興住宅街が終る、無名の山のきわに在る。
 埋められた土管に土が流れ込み、苔と水草が根づいた。楕円の側面も、コンクリートの水底も、いまでは見えない。自然の浸食が平等に隆起し、縁にはリュウグウノヒゲがぐるり囲んでいる。陽は気まぐれにしかあたらない。
 どぼん。
 頭から飛び込む。冷たさはすぐにわからなくなる。
 前後左右を見失い、顔面にやんわりとぶつかる層がひとつ、またひとつ、とすぎていく。身体は自然と折れていた。空気は吐き出している。だから、まだ沈んでいける。
 水の中には音がない。
 聞こえているのは発生ではなく連続で、ごおう、ごおう、と心臓が鳴り、永遠じゃない一定が永遠のふりをしてつづく。ごおう、ごおう。
 瞼をあきらめる。光の記憶は遠い。
 黒色と間違う絵の具を二本、濃紺と濃緑を混ぜて、パレットの隅にわすれる。数時間、数日経ったあと思いだして、水をたっぷり含んだ筆で移動させようと努力した跡に、よく似ている。
 こころもとない水中の暗闇は、光の射さない時間、他人行儀な陰をもつ。
 溶け残った顔料の粒子と、くすんだ色水は、暗闇にある世界をあてずっぽうに作り上げる。そのくせ世界を閉じこめて、水面を隔てて満足をしている。瞼の中の瞳さえ、ノオサンキュー、と拒絶する。
 暗号を解読せよ。宝物を見つけ出すのだ。
 手のひら大の水草の陰に、黄色い取手がある。唐突に。ただひとつ残る、土管の記憶だ。触れると、滑り止めだろうか、点々と違和感がつづく。
 指先は盲人になり暗号を辿るが、辿るかたはし、辿ったせいだと言わんばかりに、暗号を解くキーがすり替えられていく。
 暗号は妊婦のビーズかもしれない。半円は美しく均等だ。あるいは銀河。半円に内包された銀河が点々と並んでいて、いま、水面から光が射した理由も、だれかがこの銀河の頭を撫でていったからかもしれない。
 いずれにせよ、キーは替えられた。暗号は解けない。
 宝物は今日も、見つけられない。
 髪の毛の先からあぶくが生まれ、水面に向かって飛んでいく。もう息がない。
 両腕が光を求め、指先を揺らした。
 水面の向こう側に水面があったら、この指はどうするつもりだろう。
 
 だれかが放した屋台の金魚が巨大化したのだ。人参サイズの影を見せる。
 震える身体は、地上に戻ってもなお、池の中を求めていた。ぎらりと光る鱗が、視線を嘲る。
 水中で金魚を見つけることはできない。
 金魚はもう、人間には会いたくないらしい。

   ◇

「――うわあっ」
 一律に、足の先から頭のてっぺんまで、びくりと震わせた。叫び声は、現実か、それとも夢であったのか、判然としない。咽喉に記憶らしきものはなかった。生々しい震えの感覚が、わけもなく怖い。
 よだれは垂れてなかった。口腔はからから。
 両腕は痺れ、捻じれた胃には空気が溜まっている。腰が軋んで、嫌な音を立てた。てき。そんな音。てぇき、かな。腰に棲む妖精がひとり、死んだもよう。
 身体を起こす。視界が、見慣れたものと、すこしちがうことに気がついた。檸檬色の波が、ない。
「おれ、叫んだ?」
 図書室で居眠りをするぼくを、そして目覚めたぼくを、深海魚でも見るみたいに、向かいの席から彼女は見ていた。
「いいえ」
「ねごと、言ってた?」
「いいえ」
 まだ眠かった。午前中に池に行くのは、よしたほうがいいかもしれない。体力の加減ができず、水に浸かりすぎてしまうのだ。
「でも、机は揺らしたろう」
「ええ」
 海が割られている。あんまり気分がよくない。
「ごめん」
「え?」
「机、ゆら――」
 ぼくは、大事によけていた本を引き寄せて、席を立った。
「ゆらしてごめん」

   ◇

 一方通行の下り坂で、左指示器を出している。原付は、ぼくらをゆっくり、追い越していく。
「やま」
 壮太が言う。
 ちらちら、と、不透明のビニール袋に目をやりながら。
「かわ」
 ぼくが言う。
「三十センチ、夜用」
「うえ」
 なぜ男子というやつは、生理を怖がるのだろう。たぶんにもれず、壮太も気まずげだ。ためしに突き出してみる。羽根のように軽い、十二個入り。うひゃあ、てきめん、逃げ出す。
 生理なんてなんでもない。蛇口がひねられるだけ、およそ毎月。
 便秘のほうがずっとやっかいだ。あれはやっかいだ。
「川じゃなくてもいいってこと、おまえ、いつ知った?」
「なにが?」
「山と川。あれって、山と川じゃなくてもよくて、むしろ、普通は自由なんだろう。オルガンと月でもいいし、七十二と亀でもいい。そのこと、おまえ、いつ知った?」
「おれは――」
 ずうずうしく、レジの川邑から割り箸だけをもらって、できたてのカップ麺をほおばる。あんまりうまそうに食べるから、取り返す気にもならない。
 そもそも、ぼくは空腹ではなかった。食べなければ、法律違反、ひいては人間失格だ、と琥珀が言うから、食べているだけだ。
 でも、よく考えてみれば、違反も失格も、だからどうした。
「おれは、五年ぐらい前かな」
 唇ぜんぶソースにして、ところどころに七味までつけて、壮太が言う。そろそろ取り返さないと、こいつ、ぜんぶ食べるな。
「おれはこの春」
「おまえを呼ぼうとしてさ、『やまあ』って叫んでたら、だれだっけ、小塚か、ハヤテか、まあ、そのへんのだれかがきて、『かわ』って答えて行ったんだ。はじめは、おまえが秘密をばらしちまったのかと思った」
「川はさ」
 ぼくは言う。
「川は、おれだけのものだと思ってた」
「どうしたんだよ」
 川『その一』が違反を犯しても、川は、『その九百九十九』までいる。千の川に、区別はつかない。『その一』にだけに、特別な名札はつけられない。
 違反切符を提げてみても、川千のうち違反切符が一枚、というだけで、川その一のうち違反切符が一枚、とはならない。
 違反も失格も、つける名前がないとつけられない。
「わけてやろうか」
 壮太が言う。
「それとも、特別な川になりたいのか」
 ぼくは言う。
「いらない」
 もう、いらないんだ。

   ◇

 段階がない。
 恋ってやつは唐突で、容赦がない。さっきまで、並んで歩いても平気で、ごめんと言い合っても気まずくなくて、造作も動作も区別して見たりしなかった。
 突然、雲が割れる。光がおそろしく大量に降り出す。大気のまぶしさだ。
 彼女が照らされる。隅から隅まで。照らされて、見えているぜんぶが愛おしくなる。のべつまくなし、とはこのことだろう。
 雲はまたやってくる。光は薄れ、ぼくはくすんだ水面下に戻る。
 それだけが救いだ。
 もしも、朝から晩まで、あんなに張り裂けそうな、叫び出しそうな、地球を爆発だって、銀河を吸収だってしてやれる、そんな気分になるのならば、もうぼくなんてもの、いないも同然ではないか。ぼくという唯一がなくなって、彼女そして僕、という『根と茎』状態になる。『山と川』状態に。
 つまりそれが愛なのだろうか。
 ひとりぼっちの原子が、おなじく原子と出会って、等号じゃない手を結んで、そうして、新しい宇宙を創る。それが、愛?
 だけど、ぼくはあきらめられない。ぼくは、ぼくがほしい。
 濁る視界、金魚はどこだろう。ぼくはいったい、どこにいるのだろう。ずうっとさがしているのに、ぼくにはぼくが見つけられない。

   ◇

「それ――そのストラップ、シルヴァニアファミリー?」
「いいえ、モーゴです」
「モーゴ?」
「はい」
「モーゴ」
「あなたの名前は?」

   ◇

 たぶん普通の子だ。要素はみんな、控えめ。
 ときどき彼女は笑った。身体中にある、まだなにも詰まっていない珠をぶつけあうみたいに。からん、からん、って笑った。
 それ以外のときは、真剣な顔をしていた。どこを向いても、なんの話をしていても、あいまいさを知らない表情をした。
 ちょっと、魚みたいだ、と思った。可愛いと思っていた金魚が、ある日とつぜん笑いかけてきたら、どう思う? ぼくなら恋に落ちる。だから、魚は褒め言葉である。
 彼女は十七歳で、ぼくもそうだった。お互いの高校の名前は、聞いてもぴんとこなかった。
 図書室に来たのは、昨日がはじめてだったと話した。赤点を取った教科について、再試験の勉強をしている。勉強はとくべつ好きではない。どちらかと言えば、身体を動かすほうが好きだが、部活には入っていない。だから夏休みはひまで、図書室に来たもの、気分転換のひとつ。
 すてきな図書室ですね、と彼女は言った。
「すこし変わった造りです」
「まえは、ここ、教会だったんだ」
「教会? だから、オルガンがあるんですね、受付のところ」
「うん。でもずいぶんまえのことだって、聞いてる。戦争のすぐあとか、それくらいには、もう図書室に変わったって」
「どんな気分でしょうね」
「気分?」
「お腹の中をそっくり入れ替えて、『さあ、今日からあなたは、教会ではなくて図書室です』、そう言われる気分。想像できますか?」
「そうだなあ。朝めしを、ごはんからパンに替える気分ならわかるけれど、内蔵からそっくりとなると」
「名前も、ですよ」
「名前?」
「今日からあなたは」
 世界のはじまりを指揮するみたいだ。彼女の指は、ぴん、と立って、ぼくの左頬を指した。
「今日からあなたは、マロンデニッシュくん」
「なるほど」
 ほんとうに、なるほど、と思った。

   ◇

「いるか?」
「いるか」
「どう?」
「おれ、もう行きたくねえ」
 壮太が言った。
「なんでだよ」
「身体にわるいぜ、すげえ、わるい」
「気持ちわるい声だすな」
 しょげている。
 夕暮れがぼくらを追い立てて、ぼくらはすごすご逃げていく。
「じいさんになったら毎日でも行くからさ、いまは勘弁してくれないかなあ。このままじゃ、おれの思春期が枯れちまう」
「枯れないだろう」
「枯れないな」
 壮太のいいところ、素直なところ。けたけた笑うところ、じっと、ぼくを見つめるところ。
「やま」
「また?」
「やあま!」
「かわ」
「よし、おまえだな」
 そう言う、ところ。
「おれさあ、ソロ活動好きだぜ」
「なに?」
「語感だよ、いいよな」
「まあな」
「秀悦だぜ」
「そんなに褒めてやるなよ。ソロ活動が泣いて喜ぶ」
「まどかちゃん、そういう子じゃないんだ」
「言いたいことはわかる」
 黄色い地に、黒と灰色とこげ茶と、鯖色、つまり、めちゃくちゃな柄の猫がいっぴき、ぼくらに並走した。壮太がさっき、焼き鳥を食べたからだ。もうないのだが。
「ヴァージンロード歩いて、カンカン、ぶら下げた、オープンカーでさあ」
「映画、観すぎだ」
「あるいは、パティオでさあ」
「とくにエスエフ、観すぎ」
「おまえも好きだろ?」
「まあな」
「パティオ――だから、おれ、我慢するのさ。おれたちまだ十七で、おれは来年高校卒業、まどかちゃんは来年高二、やっと、十七」
「そうな」
「まどかちゃんとおれ、たぶん、結婚とかしない。温泉旅行も、行かない」
「温泉旅行?」
「そんなこと、わかってるのさ。わかってるのに、いま、こんなに好きなんだ」
「うん」
「好きだから、我慢してる。まどかちゃんのパティオを、大事にしたいんだ」
「おまえかもしれない」
「なにが?」
「パティオ。おまえとまどかちゃん、かもしれないだろう」
「ありがと」
「どういたしまして」
 首をかしげると、猫と目が合った。おまえじゃないよ、と言って、猫は壮太を見上げた。
 壮太が言う。
「でも、パティオの相手とは別れるぜ」
「そうだっけ?」
「そうだよ、あほ!」

   ◇

 横浜第二図書室、いちばん奥にある机は、六人家族の食卓より小さい。
 ぼくはいつも窓に向いて座る。
 ステンドグラスがつくる檸檬色の光は、陰から見るとまぶしすぎる。いっそ光に向かっていれば、明暗に眩まない。だいいち好きなのだ。だれもいない、だれもしらない机上に、檸檬色の波がゆれる光景が、好きだ。古い頁に波は寄せる。ぼくは星の砂を拾う。ひと粒ずつ、好きなだけ拾う。
 この春以来、ぼくは毎日ここにいる。
 頭の中は雲でいっぱいだ。ぼんやりしていて、目がよく見えない。耳もよく聞こえない。いろんなことがわからなくなっている。ぼくのことも、それ以外のこともぜんぶ、わからない。
 雲の向こうには宇宙がある。宇宙は銀河だ。
 そこは混沌、星は縦横無尽に流れるし、衛星はごみになるし、彗星は軌道を外れるし、太陽は去年よりちょっと黒くなった。銀河ってやつは完成している。
 だけど、ごちゃごちゃしている。
 ぼくの頭を覆う雲の向こうには、銀河のこころがあって、それはぼくを完成させる。ふりをして、混乱させる。
 こころは、身体とは無関係に、あっちへこっちへ、さまよう。いろんなことをわからなくする。ときどき、ぼくをはっとさせる。でもまた、すぐに混沌。
 ぼくは彼女と話しながら、池に沈む。勉強の仕方をわすれて、風を見ている。
 破たんは、とてもしずかだ。ぼく自身にもわからないほど、しずかに、ぼくは軋みをあげる。
 ときどき、とても苦しくなる。
 とても。
「薊野くん」
 彼女が言う。
「薊野くん」
 頁から顔を上げる。水面の向こうに、水面がある。
「うん」
 きれいだ、とても。
 まばたきをするあいだに、眼球が、瞼の奥で一周する。だから、あんなに澄んだ目をしているのだろうか。
 しんとぼくを射抜く目が、瞼に隠れて、また現れる。速度はゆっくり。
 彼女のしぐさのひとつひとつが、奇跡みたいにまぶしい。

   ◇

「部活、こいよ」
「もうやめた」
「まさか」
「退部届もとっくに出したじゃないか」
「初耳だぞ、うそつくなよ」
「うそじゃないし、おまえにも、六百万回は言った」
「おまえの六百万回なんて知らん。はやく、こいよ」
「足の豆がさあ」
「豆?」
「うん、親指の、節のところにあっただろう?」
「あほう、あれはタコだ」
「その豆がなくなったんだよ」
 壮太が眉根をあげた。うまいなあ。おれはそんなふうに、上手に神経を使いこなせない。
「おれ、子どもんときに、左利きになる練習をしばらくしてたんだ。しばらく、って言っても、せいぜい、ふたつき、とか、そのくらいだけど」
「なんとなく、憶えてる」
「そのふたつきにできた豆はまだあるんだ、左手に。ここんところ、中指の横。だけど、十五年間つづけてきた練習の豆は、もうないんだ」
「おまえ、なんかあった?」
「なにが?」
「いや、聞きもしないのに、おまえが自分のこと話すの、珍しいと思って」
「黙れってことか?」
「あほ」
 恍惚、という表情を浮かべて、壮太が空を見上げる。
「コンビニの車止めって、なんでこんなに座りやすいんだ。部屋にほしいぜ。なあ、パンダ」
「パンダ?」
「こいつ、首から上だけ、モノクロなんだ」
「おまえ、勝手に名前つけたのか」
「なあ、パンダ。おまえがもうちょっと、太ってたらなあ。そしたら、携帯のシーエム、出られたぞ。おまえ、へんな柄だから、女の子、きゃあきゃあ! もう、大人気だぜ。そしたら、車止めなんてさ、まさに六百万個、買えたのにな。残念だな」
 いつのまに懐かせたのか。ついてはきても触らせない猫だったはずが、ちゃっかり、壮太の腹の上にいる。貧相な身体を丸めて、ごろごろ、うるさいくらいに咽喉を鳴らす。
「おれも、触れる?」
「なに?」
「パンダ」
「パンダさん」
「おまえ、いま、パンダって言った」
「あれなし。いまから、パンダ老師」
「じゃあ、おれ、オビ――」
「おれ、オビ・ワン!」
「おいっ」
 けたけた笑う。こいつ。
 車止めは、ぼくらを想定していない。ひとつの尻もあまる。それなのに壮太は、半分よりちょっと広く、空間をつくった。無理矢理座ってみる。無理だった。
「おれ、身重なんだぞ。落とすなよ」
「こっちにかしてみろ。おいで、パンダ老師」
 男子高校生のじゃれあいにも、パンダは動じていない。憤慨ならしているかもしれない。ちょっと、爪が出ている。
「うわ、かる――」
 パンダは軽かった。パンダなんて名前が重すぎるくらい。
 見よう見まねで腹に押込める。猫に触るのは、何年ぶりだろう。
 たぶん居心地はよくない。たいそう難儀に、毛づくろいをしている。あったかい。
「――やっぱ、かえす」
「おまえな、猫の命をなんだと思ってる?」
「いいから、壮太、受け取ってくれよ。はやく」
「放してやれば、どっか行くよ」
「そうた、はや――っくしょん――あ、へ――くしゅん」
「あ、わすれてた」
「おれも」
 鼻がかゆい。
 ぼくの情けない声に、パンダのほうからさっさと離れていく。薄っぺらい身体をして、しっぽだけを、ぼわぼわにふくらませて。

   ◇

 午後五時のベルが聞こえてくる。夏休みをベルは知らない。
「来週、合宿」
「気をつけてな」
 あぶくになるのだ。
 昼間という時間があぶくになって、空高く、上へ上へ、とのぼっていく。しゃぼん玉が屋根で割れるのは、それが理由。空はあぶくのもの、時間の領域だ。
 ぼくらはただの十七歳で、自転車に乗って、時間から逃げまわる。空なんかしらない。そんな顔をして、ほんとうは注意深く観察している。いつあの空が、ぼくらを連れ去ろうと、あぶくの集団をよこすかわからない。こわくて逃げている。どちらかと言えば、死にたくはないから。
 むずかしいことを考えてはいない。たぶん考えられない。
 思考回路がひとつしかなくて、それはしょっちゅう下半身に奪われる。だって、世界に生きてる人間の半分は、女の子なのだ。
 すげえ、と思う。それはバージニア州の女の子かもしれないし、ヨハネスブルクの女の子かも、プサンの女の子かもしれない。学校かもしれないし、モールかもしれないし、図書室かもしれない。それって、すげえ可能性だ。
 だけど、回路はひとつしかない。大人になったら増えるのか。増える、ってひともいる。増えない、ってひともいる。ぼくはどちらを信じられるだろう。
 たったひとつの思考回路が、指針になるべく号令を失って、順路もわからなければ、状況もわからない。いくつもの考えが輪っかの中をぐるぐるまわって、ぼくは中心にいる。走馬燈よろしく、目を回している。いったい、どれから手をつけて、どうやって考えればいいんだ?
 必要なことがあるんだと思う。そう、思うようになってきた。すこしずつ。
 『要素』なのだ。ぼくにいま欠けていて、あるいは、見失ってしまったものは。
 一個の要素がとり戻せたら、もちろん、万事解決なんてことにはならない。だけど、走馬燈のひとつを見つけて、それをゆっくり瞼の裏で確認する、そういうことができるようになると思う。
 ぼくはいま混乱していて、人生は混乱なのだけれど、もうすこしだけ、らくになれてもいい。
 ぶわぶわのしっぽを追いかけたりして、ぼくはひっしに探している。
 ぼくを。

「ほんとうに、こないのか? おまえがこなかったら、おれのげろ袋、だれがもってくれるんだ」
「だれも持ってはくれない、自分でもて」
「おまえはもってくれる」
「もってないと、おまえ、吐くのに夢中になって、袋、すぐに落とすだろうが。おれの靴まで汚れる」
「夢中にはなってない」
「そうか? かなり夢中に見えたが」
「おまえも」
「なに?」
 壮太が、そっと、パンダの残したうぶげの飛来よりも、そっと言った。
「おまえも、部活に夢中になってた」
 言い返せなかった。

   ◇

 ぐぼぐぼ。ぐぼ、ぐぼぐぼ。
 ばちゃん、なんて音は、水の外にしか聞こえない。水中はぐぼぐぼ、身体についてきてしまった可哀想な空気が、悲鳴をあげる。
 夢だとわかっている。だから夢だとはわかっていない。
 ぼくは両膝を抱えた。
 
 ぼくは四分二十秒、最長で、水の中にいられる。計ったのは去年の夏だった。今年はもっとのびたと思う。毎日のように沈んでいるから。
 こんどははんたい、背中側に脚をたたむ。背骨を曲反って、水底に向かう。心臓の音はなぜか聞こえない。こわいくらいの無音が、ぼくと水中のあいだにある。夢なのだ。
 つないだらいいたすきになりそうだ。立派な水草をよけて、ようやく池の底が見えてくる。
 土管はここにも見つからない。
 水底にあるのは砂利と、へんな表現だけど、乾燥した土と、その下にヘドロだ。乾燥した土から生える植物はすくない。去年までここは、飲料缶の墓場だった。
 池は、裏山にうまく隠れていて、通りからは見えない。直接つながる畦道は、いったん山に入っている。やぶ蚊に通行スタンプをもらわなければならない。大人はまずこない。
 大人はこの池を潰さない。子どもたちに、「入ってはいけません」と厳しくは言わない。言う必要がないのだ。
 子どもたち、とくに少年は、池にいちどはきたことがあるだろう。子どもの足では遠い、ぼくらカエデの子どもも、みんな、この池にきたことがある。
 ぼくはもちろん壮太ときた。なにをするでもない。池があるからきて、それだけだ。
 運よく年長者がいれば、彼らがふざけて泳ぐ姿を見ることができるが、たいていは、おばけ金魚を見て、ジュースを飲んで、その缶を池に沈める。それだけだ。
 通過儀礼として、街の子どもはみんな池にくるが、水難事故はいちどもない。
 池はぼくらを惹きつけない。どうでもいい存在として、そこに在る。
 無風の基準値よりもちいさく吹く風を、だれが気に留めるだろう。銀河がぼくらのこころの中にあることを、だれが真剣に考えるだろう。
 だれも気に留めない、考えない。
 それとおなじ、池はありふれている。溶け込んでいる。世界に。
 世界はありふれたものの集まりだということを、みんなわすれている。
 瞳はひとに、ふたつずつしかない。ちいさな瞳で見ているもの、見えているものが、世界ぜんぶのはずはない。耳もふたつ、手もふたつ、足もふたつ。
 さあ、ここで問題。
 だれも気に留めない、だれも考えない。それを気に留め、考える人間は、はたしているだろうか。
 もちろんぼくは、「いる!」と答えるだろう。なぜなら、ぼくがそうであるから。
 だけど、おちついて。
 この池は、ほんとうに、風かい?
 この池は、ほんとうに、銀河かい?
 もしかしてこの池は、ぼくの目に見えるこの池は、聞こえる水草のささやきは、ほんとうは世界なんかじゃなくて、だれからもとりこぼされる欠片、宝物の欠片なんかじゃなくて、ただの、ぼくなんじゃないのか?
 水底、砂利から白い手がのびて、すっと、ぼくの手を掴む。ぼくはささえられて、水底に座り込んだ。ああ、ようやく、ここへきたんだ。
 ぼくらはけっきょくなにかといえば、世界であって、ぼくと無関係で、ぼくが知らなくて、ぼくがわからない世界、なんてものはどこにもない。それはちょっと寂しいことだ。宝物の欠片がないのだから。
 でも、宝物ってなんだろう。
 すてきなもの。
 すてきなもの、ぼくがしらない、だれもしらない、すてきなもの、たとえば、命。
 そういうものがどこかにあって、ひっそりあって、そういうことが、ぼくには救いだった。悲しみじゃなくて、希望だったんだ。見えないものが、ない、とは言い切れないということが。

 おばけ金魚がやってきた。真正面から。
「こうして見ると、顔に見えるな」
「そうだろう」
「おまえ、なまえはあるのか?」
「ないよ」
「ほしくないか?」
「ないよ」
「なぜ」
「あるから」
「ないんじゃなかったのか」
「あるからいらない」
「そうか」
 ぼくはしっかりと頷いた。
「あれやめてくれ」
 啓示を終えたおばけ金魚が、ながいながいフンをしながら、水草の奥に向かう。泳ぎもしないで前進している。
「なにをやめてほしいんだ?」
 ぼくは訊く。
「あれだよ、あれ」
 おばけ金魚はそれだけ言って、消えてしまった。
「わからんなあ」
 ぼくはつぶやいた。

   ◇

 檸檬色の波が、寄せては消えていく。窓の向こうで、夏が揺れているのだ。
 彼女は、ぼくの隣に座っている。そうしたら、とぼくが言ったから。
 モーゴは、ぼくらのあいだに立っている。驚くことに、昨日とちがう服を着ている。そのことに気がついた、ぼく自身にも驚く。
 彼女は再試験の勉強をしている。ぼくは本を読んでいる。
「うう」
 ときどき、うめく。頁をめくれなくなる。彼女のことだ。
 ときどき、うめいて、肩を落とす。
 うまく、教科書の頁がめくれなくて、うまく、ノートの罫線にならえなくて、うまく、消しゴムをかけられなくて。
 彼女の消しゴムはちいさい。すごくよく消すからだ。まちがったからじゃない。うまく書くために、消して、書き直す。角はすっかり、消えてしまっている。
 檸檬色の波の上で、消しゴムを拾い上げる。
 捨てられなくなるぞ、と思った。
 きみ、そんなに何度も拾うと、捨てられなくなってしまうよ。
 ぼくは頬杖をついて、彼女を見ていた。とてもおだやかな気分だった。
「うまく、できなくて」
 まるい額にうっすら、額に汗が見える。
 ぼくは言う。
「すこし、休憩する?」
 ぼくらにある現実は、ぼくらなりに苦しくて、大きくて、頭をいっぱいにする。ご飯を食べられなくしたり、あるいは、食べすぎたりさせる。眠れなくなったり、気になったりする。苦しい、って言えなくする。
 だけど、どうしてだろう。ぼくはいま、すごくおだやかな気分だ。疲れ果てた女の子とふたり、世界に見つからないように息をひそめて。

   ◇

 ぼくの名前を知っている人がいたら教えてほしい。知っている、って教えてほしい。ようはそれだけ。ぼくにある混乱はそれだけで解決する。
 ほんとうにそうだろうか。
 ぼくがほしいのは、名前、だったっけ?
   ◇
 ぼくの下手な読み聞かせに、彼女はぽろぽろ泣いた。
「これ」
 わけのわからない数字の刺繍がある。母だろう。知らぬまにバックパックに入っていたハンカチだけれど、これしかない。そう言うと、彼女は吹き出して笑った。
「ノルマンディ上陸作戦」
「え?」
「一九四四年前というと、ノルマンディ上陸作戦の年です」
「おれ、世界史赤点だったんだ」
「わたしも去年、赤点を取りました。気にしないで、歴史もゆるしてくれますよ」
「それはよかった」
「いいと思うことをしたんです、きっと。みんな」
 涙は珠だった。流れじゃなくて。目の隅っこでゆっくりふくらんだ涙は、生まれて、彼女の頬を伝った。優しく、珠のままで頬をなでた。
「薊野くん」
 彼女が言う。
「その本の名前を教えて」

   ◇

 ぼくらは、図書室から出て行こうとしていた。広いのだ。おまけに迷路だ。まだ出口は見えない。
 男の子はつまさき立ちをして、書棚の上を見ようとしていた。かごがある。あと十センチ、背が足りない。
「これ?」
 お行儀よくうなずく。声はない。勝手に動いてしまわないように、両手をきつく握り合わせて、胸に押し当てている。祈りをささげる姿に似ている。
「おじゃみですね。きっと、遊んでもかまわないものですよ」
 なにげない動作だ。彼女が、同意を求めて振り向く。胸がぎゅっとした。
 もちろん、かまわない。
「おかあさんは?」
 いる、という形に、男の子の口が動いた。
「では、よっつ、持てますか?」
 はい、と動く。本人は声を出しているつもりなのだろう。
 赤い地のおじゃみと、青い地のおじゃみをふたつずつ。
「だっこにして」
 ぼくには言葉の意味がわからなかったが、男の子にはすぐに通じた。腕を交差させて、わき腹を両側からおさえる。ちいさなゆりかごができた。
「ゆっくり歩いてください」
 男の子には、もう、ぼくらの姿は見えなくなっていた。

 現実は静かだった。とても。
「ふふ」
 彼女の視線のさきにいるのは、さきほどの男の子だ。オルガンの椅子に上げてもらって、壊れた頷きをしている。こくこく、こくこく。
「いちれつ」
 男の子の母親だろうか。女性がおじゃみをしている。
 彼女もまた、こくこく、と頷いた。
「いちれつらんぱ――ああ、むずかしいですね」
 自分が失敗したように、彼女はひどく照れていた。ほっぺが林檎になる。
「いちれ――」
「え?」
「いちれつらんぱん」
「え?」
「え?」
 ぼくらは同時に瞬きをわすれた。
「いまの、数え歌?」
「はい。いちれつらんぱん」
「そうしゅつれびみん」
「え?」
「なに? いちれつらん、なんだって?」
「薊野くんこそ、なんですか?」
 数えられないおじゃみぬきに、彼女が口ずさむ。
「いちれつらんぱんはれつして――」
 木洩れ日の声だ、と思った。目的なんてもたずに、ただ優しく寄り添う歌声だ。
 ぼくも口ずさむ。自分の音程のきたなさに、顔をしかめる。
「そうしゅつれびみんしんめいき、よしゅあししれつさむれつおう、れきだいえずねへえすてるしょ、よぶししんげんでんどがか」
 彼女の歌は言葉に聞こえた。何度も頭の中で繰り返していくうちに、漢字にも、ひらがなにもなる。
 しかし、ぼくの歌はなんだ。なんの暗号だよ。
「わたしは、祖母から教わりました。薊野くんの歌は、ちょっと聞いたことがないですね」
「おれも、どこで知ったか、思いだせない。なんだろうな、そうしゅつれびみん?」
「祖母に訊ければいいんですが、今年の二月、春を待たずに――」
「春」
「そのときだったのでしょう」

――一列談判破裂して
  日露戦争始まった
  さっさと逃げるはロシアの兵
  死んでも尽くすは日本の兵
  五万の兵を引き連れて
  六人残して皆殺し
  七月八日の戦いに
  ハルピンまでも攻め込んで
  クロポトキンの首を取り
  東郷元帥万々歳

   ◇

「ごめん、じゃまして」
 消え入る声である。ぼくの声だ。
「ごめんな」
「夢を見るんですか?」
「わからない」
「わからない?」
「よく憶えていないんだ」
 額からだけじゃない。全身から汗が噴き出している。まぎれて涙も、ぽたぽた落ちる。
 毎晩のことだ。目覚めた直後のわけのわからない混乱や、恐怖の残渣にはもう慣れていた。だけど、いまはひとりじゃない。目の前に彼女がいることが、むしろぼくを動揺させた。きっと、それに気づいたのだろう。
「わたしも夢を見ます」
 彼女は机上に突っ伏した。人間の骨格を無視して、できるだけ平たく、静かに。表面積を減らせば、それだけ苦痛が減るはずだ、と信じて。
「夢を見ますよ」
 ぼくはしばらく泣いた。顔を上げて、檸檬色の波を見ながら。
 彼女は眠るふりをしていた。やわらかそうな髪の毛だ。なんぼんもなんぼんもの光の筋が、だんだんと引いていった。もうすぐ、太陽は窓を越す。ここは世界の間接照明で保たれる。

   ◇

 物語がぼくを誘う。誘われて、のめりこむ。ぼくはいまだけ薊野になって、だから、ぼくがいなくてもなんにもおかしくないんだ、と思う。
「ぼくは二号だ。子どものころは、よく、そう呼ばれた」
 ぼくは言う。
「六歳のとき、新入生の歯科検診でひっかかった。虫歯があるって言われて、たいした虫歯じゃないけれど、はやいうちに治療しておいたほうがいい、そう言われた」
 たしかあれは、左下のちっこい歯。生まれたての歯。
「近所の小児歯科だからさ、おれ、ひとりで行ったんだ、検診を受けた、学校帰りに。『はやいうちに』っていうのは、そういう意味だと思った。歯科検診の結果だけもって、保険証とか、治療費とか、いま考えれば、どうしたんだろう。まあ、近所だから、みんな顔見知りだ。おれ、こう言ったのを憶えてる。『歯をください』、虫歯をぬいたらそれをもらって、妖精をつかまえるエサにしよう、って思ったんだ。知ってる? 小さい箱に歯を入れておくと、妖精がつかまえられる。おとぎ話だよ。
 気がついたら、おれ、眠ってて、目、覚ましたら、口のなか、血だらけ。飛んで家に逃げ帰ったら、琥珀にめちゃくちゃ怒られた。『もう、珊瑚! それ、わたしの矯正器具よ!』って」
 理由はわからない。はじめからそうだから。
 琥珀は一号で、姉で、ぼくは二号で、珊瑚。その区別がだれにもつかなかった。
 五歳の差があっても、性別がちがっていても、声も、背格好も、着ている服もちがっても、ぼくらはだれにも見分けられない。医者にも、親友にも、両親にさえ見分けられない。
 現実は単純で、ただ、それだけだ。
 ぼくは珊瑚で、ぼくが珊瑚だと、だれもわからない。
「ほんとうの名前は、珊瑚」
「珊瑚?」
「うそついて、ごめん」
 彼女はたぶんこの街の子じゃない。琥珀のことをしらない彼女は、ぼくをただ、ぼくとしか見ていない。だけど琥珀に出会ったら、彼女も例外にはなれない。つぎの瞬間から、ぼくはもう、彼女に見つけてもらえなくなる。
「ごめんな」

   ◇

「硝子のあれがほしいのです。まるい、硝子の、透きとおった、まるい」
 彼女が言う。たどたどしく、両手を動かして。まるく。
「まるい」
 世界のもとをかき混ぜて、彼女なら、まんまる優しい世界を創るだろう。
「なんていう名前なのか、わかりません。海辺にある、そんな気がします。金魚鉢に近いでしょうか。わかりますか?」
「しっかりとはわからない。なんとなく、わかる気もする。青緑色、とか?」
「そうです。青緑色とか、お月さまの色とか、でもだいたいは、そう、海に似た色」
「浮きか、なにかだろうな。おれ、海、見たことないんだ。きみの街には、海がある?」
「いいえ、わたしも海は見たことがありません。だから、よくはわからないのです」
 ほんとうはわかっている。そんなふうに思う瞬間が、ときどきある。
 たとえば、いま。
 世界を創っているのは、ぼくだ、ということ。
 彼女が優しい世界を創れるように、ぼくにも優しい世界は創れる。檸檬色いっぱいの世界を創れる。ぼくらはみんな、この手をちょっと動かすだけで、それだけで、世界を創れるんだ。
 ほんとうは、そう、わかっている。
 みんな。
「あれがほしいです」 

   ◇

「やま」
 壮太が言う。うたぐりぶかい顔をして。
「かわ」
 ぼくは言う。なんでもないような顔をして。
「おれ、おまえのこと、ときどき、幽霊かと思う」
「それ、おれのセリフだろう」
 はっと目を見開く。むごんで指差すさきに、妖精がいる。
「いるぞ」
「ぬかりない」
「さすが」
 隣の雑誌をとるとき、壮太の腹が鳴る。
「おれも、ねむきゅんにごはん、作ってもらいたい」
「おまえ、たんぺだろう」
「おれ――」
 本気の懊悩を見せる。
「おれ、いま、まどかちゃん、いるからさ」
「それとこれとは、べつだろう」
「だと思う?」
「おれに訊くな」
「まどかちゃんに訊けばいいのか?」
「まさか、それはやめとけ」
 壮太のお気に入りの車止めが、車を止めている。
「いっそ、いじけてればなあ」
「なにが?」
「おまえがいじけてれば、おれも付き合えるのにさ」
 壮太が言う。
「おれも、部活なんかやめて――」
 自分の言葉に傷つくようすが見えた。壮太は遅れて息をのむ。目の端が、車輪の影をとらえて、青白く光る。
 新しい自転車は、まだ、壮太になじんでいない。
 自転車と壮太はよそよそしく、気遣い合って距離をとる。影だけが、ふたりの思いを無視して、執拗に追いかけてくる。壮太はとても慎重に、車輪の影をよけて進む。
 ぼくは言う。
「おれ、どんなに見える?」
 壮太がようやく顔を上げる。そうだ、まえ見て、歩けよ。
「どんなにって?」
「いじけてなきゃ、どうして見える?」
「えび」
「えび?」
「輪っかになった、プラスチックの水槽に、粉、入れたら、えびになる。っておもちゃ、あっただろう? 憶えてるか?」
「憶えてる、おまえの家にあった」
「あのえび」
「あのえび?」
「あのえびに見える。あいつら、普段は好き勝手、ただよってるんだ。あの水槽の中は流れなんかないから、輪っかのいろんなとこを、病気みたいに、うろうろする。だいたいは、ばらばら。もしかしたら、お互いの存在に、気がついてなかったのかもしれない。あいつら、ちいさいし、水槽でかいし」
 かんかん、かんかん。鍵についたキーホルダーが自転車に当たる。
 キーホルダーは天丼だった。天丼のフィギア。まどかちゃん、いいやつだな。壮太は、天丼が宇宙一好きだ。
「だけど、ある日、とつぜんだ。えびが、ぜんいん集合してた。水槽の右下――観覧車でいえば、乗り込んですぐ、座るの手伝う、って都合で、まどかちゃんの腰んとこ、ちょこんと支えた手を、離さなきゃならんあたり」
「おまえ、観覧車、乗ったのか?」
「乗った」
「何周?」
 ぼくが訊く。
「三周」
 壮太が答える。
「ふられるぞ」
「一周、二十分だから、一時間」
 天丼のキーホルダーをくれる女の子を、なにふりまわしてんだ。
「ほかのアトラクション、ぜんぶ乗って、もうネタつきて、観覧車。まどかちゃんが喜ぶと思って、アトラクション、ほんとに隅から隅まで乗った。あれ、楽しかったのかなあ。どう思う?」
「まどかちゃん、いやなこと、いやって言いそう」
「だよな。じゃあ、楽しかったんだ。おれも、楽しかったもん」
「よかったな」
「おう」
「観覧車、どうした?」
「そう、観覧車な。観覧車は、楽しくてじゃないんだ。もうネタつきて、観覧車。乗ったら、みょうに気が抜けちゃってさ。ゴンドラん中で、もう話すこともなくて、だけど、気まずくかんじるほどの緊張も、もうすっからかんで。おれ、勃起もしなかった」
「おまえ、観覧車をなんだと思ってるんだ」
「一周乗って、降りて。そう、降りたんだ。降りたのに、また乗った。それを繰り返して、三周目、ようやくてっぺんでキスした」
 あっけらかんとして、ロックバンドのヴォーカルがふざけ半分でする投げキッスを真似る。こいつ、観覧車でもこんなふざけたキスをしたんじゃないだろうな。
 壮太ならやりかねない。まどかちゃんならゆるしかねない。
「そこにいるえび」
「なに?」
「おれとまどかちゃんが、キスしたとこ。輪っかのてっぺんに、いっぴきだけ、とり残されたえびがいたんだ。あのえび」
 話の起点をわすれて、ぼくはわけもわからず頷いた。
「集合してるほうのえび、どうやったと思う? どうやって、集合させた、と」
「わからん」
 わからなかった。呼んで来るえびではない。
「かあちゃんが、掃除機で吸ったんだ」
 もちろん外側から、と壮太が言う。
「えびの横が、タイガのトロフィ置き場だったからな、ほこり、とろうと思ったらしい」
 それらしい仕草をして、壮太が振り返った。
「あのえび」
 車輪の影はいつのまにか角度を変え、壮太の右足に柵を映していた。地面には、右足に分断された車輪が影になって、それでも回転している。
「たまたま、吸われなかったえび」
 座れなかった、と聞こえた気がした。

   ◇

「おかえり」
「ただいま」
「珊瑚かしら? 琥珀はもう食べたから」
「うん」
「今日はお好み焼きにしたの。液、作るから――換気扇、回してるのよ」
「換気扇?」
「ええ」
「ふうん。おれ、珊瑚だよ」
「足音が聞こえないとだめね」
「足音?」
「ええ、琥珀はぺたぺた歩くけれど、珊瑚はもっと、きもちよく歩くから。ぱらん、ぱらん、って」
「見分けられるのか?」
「だいたいわね」
 初耳だった。十七年間生きてきて。
 たまに、珊瑚、と言われることはあったが、あてずっぽうかと思っていた。どっちでもたいして変わらない、五分五分の確率で言っているのかと。
「ほんと?」
「あら。ええ、だめよ。さっきの話なら、だめ。お父さんも、反対しているもの」
 キャベツの新しい玉をわざわざ出してきて、色が濃い表面でも、白い芯の根元でもない、まんなかのやわらかいところを切ってくれている。
 だから、もう、ぼくがわからない。
「まずは社員寮でがまんしなさい。慣れたら、好きな部屋にこせばいいんだから」
 琥珀はつぎの春がきたら、この家を出て行く。
「かあさん」
「だめなものはだめ」
 春が、ぜんぶ、壊す。
 みんな、ぼくを琥珀と言う。ぼくのアイデンティティは、琥珀、と呼ばれ間違えわれることだ。
 春がきたら、ぼくはどうなってしまうのだろう。
 琥珀がいなくなったら、珊瑚はどこで名前を呼ばれるのだろう。
 ぼくはどこに消えてしまうのだろう。

 穴のあいた身体だ。埋めるように食べた。目を開けているのも億劫で、椅子にもたれて首を逸らす。みょうな物が目についた。
「こんなの、いつからつけてたんだ?」
「六百万年前よ」
 食卓には椅子がよっつ。ぼくと琥珀は位置を決めている。すり替わってもばれないが、傷つくのはぼくらのほうだ。
 台所に立つ母は、この椅子に座るぼくを珊瑚とする。
「グルヌイユっていうの」
 よく見ると、照明は年季が入っている。かさは不透明にぼやけ、掃除の跡が白く筋になっている。電球がよだれを垂らす。先端にぶらさがる、なに? グルヌイユ?
「なんで、名前なんかつけるんだよ」
「なんでって、名前をつけなきゃ、売り場に並んでるほかのアヒルたちと、区別がつかないじゃない」
「売り場のアヒルと、このアヒルは、もう二度と会わないだろう」
「まさか」
 母が言う。
「二度と会わないことこそ、関係ないじゃない」

   ◇

 春がきて、琥珀がいなくなったら、ぼくはとうぜん珊瑚になる。母も父も、ぼくをまず、珊瑚、と呼ぶだろう。学校でも、コンビニでも、友だちも、近所のひとも、琥珀の不在を知ってしまえば、残りを珊瑚と呼ぶだろう。つまり、ぼくを。
 でもそれは、ほんとうのぼくとはかぎらない。
 ぼくじゃないかもしれないのに、ぼくであろう存在を珊瑚と呼ぶ。とうぜんだ、という顔で、たしかめもしないで。
 すごく頭がごちゃごちゃする。
 それは、世界がぼくのもの、ぼくだけのものになる、ということじゃないのか。ぼくと琥珀が、生まれてこの方望んできた、『自分』をついに手に入れるのだ。
 部活がそうであった。部活では、ぼくはたしかめられなくてもよかった。実際的には聞かれることはある。だが基本として、ぼくがぼくであることが、部活でだけは確立できていた。部活をしているのはぼくだけだから。琥珀は境界を超えない。それが嬉しくて部活をしていたんじゃないか。
 部活をやめて、ぼくは居場所を失くした。
 からっぽになった気がした。もうどこも安心できない気がして、こわかった。
 部活の世界が、春になったらくるのではないか。この世界すべてがぼくだけのものになるのではないか。それならばなぜ、ぼくはこんなにくるしくなるのか。
 ほんとうのぼく。
 山に対して、川であるぼく。
 そうだ。
 ぼくは見つけてほしいのだ。
 名前じゃない。
 ここにいる、ほんとうのぼくを見つけてほしい。
 いっそ名前なんてどうでもいいから。
 ただ、ぼくを見て。

   ◇

「べたついてる」
「いま、ホットプレートを使ったからよ。ほら、これで拭いて」
「うん」
 くせだ。手を拭くとき、左手の豆をまず拭く。
「珊瑚じゃなくて、グルヌイユを拭いてあげて」
 母が笑う。
 アヒルは小さい。くちばしと目玉の、赤と黒の塗装は、吹けば飛びそうだ。羽根はおざなりな隆起だけで毛並みもなく、頭頂部に突き刺さるネジはすこしゆるんでいる。右に回すと、さらにゆるんだ。驚いて、そのままにする。
 アルコールの匂いが目にしみる。おれの眼玉、除菌されたのかな。
 豆の上にグルヌイユをのせて、角にした除菌シートでそろそろ拭く。身体には弾力がある。どうしてだ。穴はあいていないのに、なぜ、べこべことへこむのだ。へこんだ空気はどこに消えるのだろう、一瞬だとしても。
 グルヌイユが泣いている。ごめんな。
 目玉のくぼみにアルコールが溜まる。あふれた分は、頬と首を伝った。
 揮発性の観察は愉しくない。それでも、最後の一滴が消えるまでぼくは見ていた。あとに残った目玉が消えてしまっていないか、たしかめるために。

   ◇

 彼女は五分、十分、茫然としていた。風が見えます、と言って。
「あれは?」
「いるか」
「いるか?」
「聖瑠可病院。いるか、ってみんな言う」
 かっこいい名前をつけて、かわいい名前で呼んで、きれいに白く塗って。中ではひとが、血を流している。
 なにに使うの、と琥珀に六百万回聞かれたが、持ってきてよかった。レジャーシートの上で、彼女は足を投げ出している。筆箱は隣に置いている。モーゴがいるからだ。
 モーゴが空を見上げている。瞼のない瞳で。
「ときどきだけど、ここ、野兎が出るんだ」
「野兎?」
「おれ、この春、一か月くらい、ここに通ってたんだけど、そのあいだに、七回くらいかな、見た」
 摘んだばかりの綿花が、芝のあいだに挟まっていた。仔兎は、人間に見向きもせず、夢中で転げ回った。モーゴの家族だったのかもしれない。白かったから。
「通っていたんですか?」
 彼女が訊く。いるかを指差して。
「いや、お見舞い」
 やんわり首をかしげる。優しい子なのだと思う。
「友だちがバスに轢かれてさ。轢かれて、って言っても、壮太は自転車にまたがってて、バックしたバスが当たったんだ」
 でっかいお尻に突き飛ばされたかと思った、と壮太はあとで言った。そのときは打ち所が悪くて、壮太は一瞬で気を失った。
 ぼくらは部活の帰りで、しんだ、と思った。壮太がしんだ、しんじまった、って。
「足を折って、入院してた。足はたいしたことなかったんだけど、胸に、なんか、センが――センが、なんとかで――とにかく、一か月入院」
「いまは?」
「よくなったらしい。足も、センも。たぶん」
 春、壮太はバスに轢かれて足を折った。入院して、まどかちゃんが彼女になった。検査がセンを見つけた。偶然。
 ぼくは見ていた。ぜんぶ。
 目に焼きついて、離れない。
 数十センチの距離だった。ぼくの目の前で、壮太は倒れた。
 壮太の自転車は、ちょっとバスが当たっただけなのに、めちゃくちゃに歪んだ。
 自転車が壮太だったら? 壮太がぼくだったら?
 ぼくは臆病なのだろうか。春以来、壮太とぼくは交互に、夢の中で、バスに轢かれている。
「ここ、まぶしいな」
「そうですね」
「水の中には、光がいっぱいだ」
「いっぱい?」
「うん。こうまぶしいと、光の境界がないだろう。ぜんぶ、まぶしい、ぜんぶ、光。だけど水の中では、光は輪郭をもっている。筋だったり、珠だったりするけれど、そこにある、あれは光だ、って、わかる輪郭があるんだ。
 光は遅いよ。光の速さなんていうけれど、あれ、きっとうそだ。光はすごく、のろい。のろのろ、しみでるみたいに生まれる」
「生まれる?」
「世界にある、光の量は決まってて、ときどき、どっかでしんでいるんだ。歳をとった光がさ。代りに、赤ちゃん光が生まれてる。ぼくらの見えないところで」
「見えないところで?」
「あるいは、ぼくらの目の前で」
「見たことがあるのですね」
「水の中だよ。暗い水底。こっそり生まれるんだ。光は、そういうところで」

 ただっ広い場所にこそ、時間のあぶくは吹き溜まる。いま丘は、空に還りたくないあぶくで満ちている。
 雲に穴があいた。魚みたいな穴だった。
 あいつからはぼくらが見えない。目玉の雲を生んだって、むだだ。ぼくらはいま、あぶくの中にいる。
「手は、憶えているものですね」
 彼女が言った。
「花かんむりを、あなたに」

   ◇

 現実はぼくらの目をまわす。他人事みたいに、容赦なく。それが救いだと気づくには、ぼくらはまだ若すぎる。だからぼくらは暗闇の中、名前を呼びあって、互いを見つけたい。
 おばけ金魚が首をかしげる。
 うん、わかっている。名前なんかなくても、ぼくらは出会えた。見つけあえた。
 だけど、ああ、どうしよう。見つけたはずのきみが見えない。
「どうしましょう」
 夢の縮尺に合わせて拡大された左手がある。猫として腹を抱かれた彼女が、くたりと両手足を垂らす。向日葵の花弁が角度を鋭くして、見せパンが見えた。紺色だった。
「どうしましょう」
「だめだ」
 ぼくは叫ぶ。
「よく見てくれ。ぼくらはまだバターじゃない、それはかのじ――」
 べん。
 生命の尊厳を無視する音がして、ぐわん、ぐわん、とボウルが揺れる。放つ銀色の光が、ぼくを明転させつづけた。影のときにだけ、白い手が見える。実にしなやかに開かれている。まだ豆もない。近くにいるはずの壮太を待つ、幼いぼくの手だった。
「おまえ、こんなところで、なにしてるんだ?」
 バターの匂いに誘われたのだろう。ぼわぼわのしっぽが見えた。頬に影を感じる。うん、わかっている。振り向く。
 バスは、もう目の前だ。

   ◇

 天井が目の前まで垂れさがってくる。気分がわるい。
「おねがい」
 ぼくが言う。
「琥珀、たのむよ」
 おねがい。
「待ってる、きっと」
「ばかね、毎日毎日、池で泳ぐなんて」
「びっくりする」
「え?」
「おれなら、びっくりする――どうしたらいいか、わからなくなって――たのむよ」
「子どもじゃないんだから。まあ、べつにいいけど」
「車で行けば、すぐだろう?」
「わかった、行ってあげる」
「夜用、また買ってくるから」
「行ってあげるってば」
「おれ、薊野って言った」
「なにが?」
 涙が出る。
 でも、ああ、わからない。でも。
「名前、薊野って言ったんだ。うそついた、とも言った」
「なにやってんのよ」
「わからん」
「彼女の名前は?」
「聞いてない」
「聞いてない?」
「ない」
「なんでまた」
 なんでだろう。
 いらなかったから。
「じゃあ、どんな子か教えて。背とか、髪とか」
 熱は高かった。ひどく。
 だが、そうでなくとも、彼女の外見的特徴を、ひとつとして記憶していなかった。ふしぎなことに、ただのひとつも。思いだせるのは、彼女の仔細ばかりだ。
 めくれない頁を、なんどもめくろうとする人差し指。
 モーゴのワンピースの裾を直すときの、リズム。
 消しゴムを握る手のひら、その震え。見えないくらい、ちいさな震え。ため息、眼差し。
 彼女の断片が星になって、波打つ天井に浮かんでいる。手をのばせば触れられそうだ。
「ちょっと、珊瑚。わたしたちがこんなに見た目に困難しているっていうのに、肝心のあんたまで、ひとを見ていないなんて」
 ひとってなんだろう、琥珀。
 ぼくらってなんなのかな。
 見た目かな、名前かな。
 こころだけで、ぼくらはひとを見つけられるのだろうか。
「なあ、琥珀」
「なに?」
「おれのこと、ゆるして」
「なにしでかしたの」
「生まれてきてごめん」
 ぼくは二号なのだ。ぼくさえいなければ、琥珀は琥珀だっただろう。
 ぼくが、はじめから終りまで珊瑚でいられたら、そう願う何百万、何千万倍も、琥珀は願ってきたはずだ。はじめから終りまで琥珀でいられたら、って。その願いは、ぼくさえいなければ叶えられた。
 頭の中で崩れていく。思考が加速する。輪っかの回路が、ぱき、割れる。
 生まれてきて、ごめん。
 言葉は生きていて、声に出したとたん、ぼくを切り裂く。ぼくをうらぎって、あるいは、こたえて。
 ああ、どうしよう。
 彼女がひとりぼっちだ。
 どうしよう。
 琥珀を見たら、ぼくだと思うかな。
 思うだろう。
 彼女のせいじゃない、琥珀のせいでもない。
 これはちょっとした神さまの手違い。
 神さまのヴェールが、まちがえて、ぼくと琥珀に落ちてきたんだ。
 それだけなんだ、たったそれだけ。
 大切なのは、いまこの瞬間、ここにいるぼくら。
 それだけなんだ、たったそれだけ。
 あした、ぼくらが出会うとき、彼女にはもう、ぼくが見えない。
「ばかね」
 それでもいい。今日の、いまのきみが、世界にひとりぼっちで震えていませんように。

   ◇

「本日のステージは、このひと夢となっております」
 妖精が言う。
 夢がはじまる。
「珊瑚!」
 校庭だ。コーチがいる。
「遅れた理由を言え」
 それは、コーチは知っているはずだ。
「ぜんいんを、待たしていたんだぞ」
 並んでいる。
 人間を見限った金魚。
 輪っかのえび。
 モーゴ。
 天丼。
 車止め。
 硝子のあれ。
 ぐちゃぐちゃの自転車。
「珊瑚!」
 三年の先輩と監督は、隣の街に練習試合に行っている。残ったぼくと一年は、コーチのもとで、体力強化の予定だった。
「言え!」
 コーチは、ぼくのなにを知っているというのだろう。ぼくが珊瑚だと確信もないのに、そう呼んでいる。
「理由を言うんだ!」
 それは知っているはずだ。
 今日は壮太の手術の日だ。そうしたほうがいいって、そうしたらまた走れるようになるからって。はやいほうがいい、って。
 手術は長引いた。胸がへんな動きをして。それは予想外だって。
 いるかの中はひとでいっぱいだった。こんなにもたくさんのひとが苦しんでいるなんて、ぼくはそれまでしらなかった。
 ひとがしぬ、ってことをしらなかった。
 壮太を、わけのわからないセンがあって、利き足を手術する壮太を置いて、体力強化? 
「理由!」
 理由なんてない。やまほどあるけど、ない。
 言葉で、声に出して言えるような、やさしい理由なんてないんだ。
「やめます」
 ぼくが言う。
 金魚が鱗をひとつ、落とした。
「おれ、やめます」
 ぼくは部活をやめた。
 十五年間守り続けてきた居場所を去った。

   ◇

 横浜第二図書室のみんなはもう二度と、ぼくと琥珀を見分けられない。不自由はたぶんないだろう。ぼくらはこれから、どんどん大人になっていく。同じ世界にはとどまれない。
 ぼくらはもともと、みんなばらばらで、見分けなんかつかないのだ。見分けられている気分になっているだけだ。
 もしかすると彼女はいるのかもしれない。見つけられないのは、ぼくのほうかもしれない。
「オルガン、なつかしいな」
「なつかしい?」
「憶えてないか? おれのひいばあちゃん、五歳のとき、しんだ」
「うっすらとしか思いだせない」
「ひいばあちゃん家に、このオルガンがあった。おんなじやつ。鍵盤のよこ、引っぱれるボタンがいっぱいあって、足のとこにも、踏むやつ、いっぱいあるオルガン」
 そうだった。
 あの、足の鍵盤を、壮太は大好きで、全身使って押しまくって、だけど、ひいばあちゃんは、いっかいも怒らなかった。すげえ、うるさかったのに。
「ああ」
「なんだ?」
「あそこで聞いたんだ」
「なに?」
「そうしゅつれびみんしんめいき」
「ああ、それな」
「おれ、おまえのひいばあちゃん、子守歌を歌ってくれてんのかと思ってた」
「だから、おまえ、いっつも寝てたのか」
「そうしゅつれびみん、あれ、どういう意味?」
「聖書の目次だ」
「聖書?」
「創世記、出エジプト記、レビ記――順番を覚えるための数え歌だ」
「そうだったのか」
「おまえ、歌、憶えてたのか」
「ああ、へんな暗号だと思って」
「なつかしいな。ふふ」
「なに?」
「ひいばあちゃん、おまえのことな、おまえと琥珀のこと、天使だって言ったんだ」
「天使?」
「ああ。天使だから、ふたりは見分けがつかないんだ。天使はみんなでひとつだから、天使は神さまだからって」
「初めて聞いた」
「おれ、信じてたぞ。おまえのこと、天使だって思ってた」
「いつまで?」
「いまも信じてる」
 壮太が言う。
「おまえは天使。おれも、まどかちゃんも、みんな天使だ」

   ◇

 三日後だった。
「おはようございます」
 彼女が言った。
「ここ、座っていいですか?」
 ぼくは言う。
「もちろん」
 雨だった。ぼくらが出会ってはじめてのあめふりの日だ。
「ちょうどお盆の時期だったので、もしかして、と思いました」
 檸檬色のステンドグラスは光のなさに驚いて、ぼくらの話に聞き入っている。
「もしかして、あなたは図書室の幽霊で、だからあんなふうに、一冊の本ばかり、心を削って読んでいたのかもしれない。ここはわたしの知らない街。出会ったあなたが急にいなくなって、わたしのほうが幽霊を見たのだと思いました」
「おれも、おんなじこと、思ったよ」
「みんな、幽霊でしょうか?」
「幽霊でもおかしくない。おれがきみでもおかしくないように」
 彼女は言う。
「あの日、あの陽だまりにいるあなたに出会えてよかった」
「おれ、檸檬色の波、って呼んでるんだ。こころのなかで」
「すてきです」
 彼女は帰る。ぼくの知らない街に。そこにも海はない。海ってどこにあるんだろうな?
「ちょっと変わった男の子。でもね、ほんとうは、みんなちょっと変わっているんです。変わっていないように見せることが、うまい人が多いだけ。わたしたちはそれが、すこし、下手なだけ」
 読み聞かせをせがむ子どもの声が聞こえる。みんな、物語がほしい。

 ぼくらは図書室を出る。
「すてき」
 彼女のほっぺが赤い。
「すてきなひとですね」
 想像していたものと、だいぶ、ちがった。
「さよなら、言った?」
「はい」
 おれも、こんな顔してたのかな?
「言いました」
 二時間くらい経ったあと、ぼくは泣くかもしれない。わあ、わあ、って、なんなら、声上げて、転げまわって泣くかもしれない。涙、枯れちまうかもしれない。
 ぼくがうまれてはじめて恋した女の子。ちょっと変わった女の子。
 同じ夏、彼女は司書の女性に恋をしていた。
 ふしぎだな。すごく。いろんなこと、ぜんぶ。わからないことばっかりだ。ぼくはいま、なんておだやかな気分なんだろう。

「名前、聞きそびれたな」
「よかったら」
「なに?」
「あなたの名前をください。『薊野』、気に入ったのです」
「夏だけだよ」
「夏?」
「つかうのは、夏のあいだだけ」
「はい」
「薊野さん」
「はい」
「その本の名前をわすれて」
「どうしてですか?」
「出会えば、見つけあえるから。きっと」
「はい。珊瑚くんも」
「うん」
「これ、お礼にもらってください」
「大事なものだろう?」
「そのときでしょう」
「捨てられなくなるな」
「はい」
「なあ、薊野さん」
「はい」
「モーゴに伝えてほしいんだ」
「はい」
「きみが見守ってあげて、って」
「はい」
「たぶん、それでいい、って」
「あめ、あがりましたね」
 いま、あの雲を追いかけたら、海へと辿り着くだろう。そこには彼女がほしい、硝子のまるいあれがあって、雨粒をくっつけたまま光っているだろう。
「さようなら、珊瑚くん」
「さようなら、薊野さん」

 自分が世界の中心だと考えている。あながち間違いではない。世界は独立した存在ではなく、わたしという心と手をとりあう、つまり、原子と原子なのだ。
 すこしだけ、視点を変えられるといい。世界という目の中心にわたしたちがいるのではなくて、わたしたちが目をもって、世界の中心に立っている、そう考えてごらん。
 見つけられないことを苦しく思うとき、ちいさなことでいい、ありふれていていい、なにかひとつ、わたしたちのほうから見つけるんだ。見つけたものが目になって、目はつぎの目を見つけだす。そうして世界はひろがる。世界はあなただ。
 見つけだすキーをひとつだけ教えよう。影だよ。
 影はものの影ではない。影は、光の影なんだ。影の形の実体があるのではない、光の影が実体なんだ。
 どうしてもなにも見つけられないとき、だれにも見つけてもらえないとき、そんなときには影を見つけて。
 気づいてごらん。
 影を見つけたということは、光を見つけたということだと。もう見つけてあるんだ。見つけられているんだよ。
 いろんなことを考えていい。たくさん考えるといい。
 思考の加速は苦しいが、やがて落ちつく。 完

その本の名前をわすれて

その本の名前をわすれて

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-11

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