「たいへんです、領主さま!」
●「おねーちゃんにとって天使は食べものなんだね」
囲郭都市(いかくとし)パルモート。ノドスの地を治める領主の邸は、この街の北西区に置かれている。狭間(さま)と回廊を備えた厚い壁。四層と地階からなる石造りの邸宅。槍のような尖端を頂く野太い塔に、吊られているのは大きな鉄鐘。外敵の襲来に際しては民を収める中庭で、今は兵士たちが汗を流している。
なだらかな丘陵を均(なら)した場にそびえる砦邸(さいてい)は、確かな守りの象徴として賑やかな街を見下ろしていた。飾ることのない無骨さは古兵(ふるつわもの)の赴きで、見る者に自然と姿勢を正させるほど厳めしい。
「領主(ロード)さまっ。たいへんです、ロード・パルモート!」
当然、邸内に響く情けない声など漏らしも感じさせもしなかった。邸四階の長い廊下、肩口で揃えた濃紫の髪を駆けきた勢いで乱したまま、少年は執政室の扉を開ける。
「イコラさまっ。なにをなさってるんですかっ。会見にこられたアイギナさまがお待ち、べっ!?」
そして、飛んできたクッションに殴られ、倒れた。
眼を吊り上げた投擲者は気にもしない。
「ニコラぁ! よけるんじゃ、なぁい!」
蜜色の瞳を部屋の左方に走らせた少女は、長机に向かう妹をすばやく捉えた。頭の後ろで丸くまとめた髪を膨らませ、新たなクッションを投げ放つ。上等な仕立ての乗馬服(キュロット)は黙っていれば凛々しくも見えるのだが、目を血走らせて騒いでいる様は下町のガキ大将といった風情だ。成人(一五)を経て二年の淑女だとわかる初見の者は少ないだろう。
彼女の名はイコラ・パルモート・リミエレム。この街の領主である。
「うひゃあ」
狙われたニコラは長机を盾にしてクッションをやりすごした。頭ほどもある丸ネズミを背負っているとは思えない身軽さだ。一拍もあけずに顔を出し、五年前の姉によく似た笑みで二つの丸束髪(シニヨン)を揺らしながら、自分の代わりに撃たれた書架を見やる。
「あーあ。聖典(サークル)がバラバラ。ガルデンさんに怒られるよー」
被害は書物だけではない。二匹のネズミが彫られた木像や縁を飾られた銅皿は飾棚ごと散らかっているし、壁を彩っていたタペストリも床で無残に伸びている。綿のはみでたクッションにいたっては数えるのも面倒なほどだ。
イコラの頬がわずかに引きつる。
「あ、あんたが避けるからでしょうが!」
「だいたい大袈裟なんだよ、おねーちゃんは。オヤツとったぐらいでこんなに怒らなくてもいいじゃない」
「オヤツぐらい、ですって?」
妹の呆れた調子に、イコラはピタリと動きを止めた。声が少しだけ低くなる。
「そうよね……。一日中遊び回ってるだけのあなたにはわからないでしょうね……。終わることない激務に、わたしがどれほど疲れ果てているか」
「激務? 楽しそうにおじさんたちイジめてるだけじゃない」
「一つに目を通してる間で三つに増える仕事を文句もつけずに片づけて、外の空気を吸う暇もなく執政室にこもりきりの毎日――」
「そうだっけ? ときどきお邸脱け出してるよね? 昨日もトールたちに仕事おしつけて――」
「そんな世知がらい生活の中で!」
大きく手を振ることで妹の言葉を遮り、拳を握って天を仰ぐ。
「たった一つのプリンだけがっ、わたしの乾ききった心を癒してくれているのよっ。ああ、目を閉じれば思い出せる……。鼻をくすぐるほのかな甘み。つついただけで健気に震える、女性の膨らみを思わせる柔らかさ。乙女のような白い肌を、黒髪のようなカラメルが恥らいながら流れていくの。そのコントラストを見ただけでわたしの心は幸せに包まれるわ」
「おねーちゃん。なんだか酒場のおぢさんみたいだよ。言ってることがレオンそっくり」
「完璧な美を壊す背徳感を味わいながらスプーンで一すくい。怯えて揺れる欠片を優しく口に導いて、舌の上で溶かしていくの。広がる甘み、ほのかな苦み、卵とミルクのハーモニー。覚える至上の幸福感は、さながら天使と戯れる一時のよう……」
舞台のセリフめいた美辞を並べ終えるまで、イコラは妹の言葉を流しきった。再び視線を向けたのは、たっぷり余韻を味わった後。浮かべた不敵な笑みには支配者らしい力強さがある。
「わかったかしら? わたしにとってプリンがどれほど大切なものか」
「うん。おねーちゃんにとって天使は食べものなんだね」
「ちがうでしょ!」
一言の間も保ちはしなかったが。目を吊り上げる姉の様に、ニコラはますます調子づく。
「あれ、ちがった? でも、おねーちゃんが天使を食べるって言っても、みんな納得してくれると思うよ」
「みんなってのはどこのどいつよ。トールやノル?」
「うん。あと、お邸のみんなと兵士(ビット)のみんなと街のみんなと旅の人たちも」
「……ええい! どいつもこいつも!」
叫び、イコラは落ちていたクッションを蹴り上げ、抱えた。伸ばした腕を支柱に変え、投石器(カタパルト)めいた勢いで投げ放つ。
「領主(ロード)さまを、なんだと思ってん、のっ!」
「わう」
それでもニコラには届かない。長机に引っこんだ二つの団子は再び扉側に跳びだした。
イコラはさらに追撃する。クッションが逸れようと気にもしない。壁に当たろうが、タンスを倒そうが、開いたままの入り口から飛び出そうが。
「ちょっとイコラっ。いつまで待たせ、ぶっ!?」
「「あ」」
ただ、直撃した金色の髪が丸く広がった様には、さすがに姉妹も動きを止めた。力なく落ちたクッションの下から赤く色づいた顔が現れる。
切れ長の目に宝石のような青い瞳。形のよい鼻は品よく高く、薄い唇はほころびかけた薔薇のつぼみを思わせる。一〇人の男に対面させれば九人が見惚れ、一人はその場で求婚してもおかしくはない美貌であろう。
こめかみに、脈打つ血管が浮き出ててさえいなければ。
「……イーコーラー」
彼女の名はアイギナ・シュリミラ。パルモートの鉄鉱交易を担う、シュリミラ商会の第一令嬢である。
「あ、あら。アイギナ。なあに、失礼ね。執政室にノックもしないで飛びこんでくるなんて」
尊大を気取って胸を張るも、イコラは自然と一歩下がっていた。
引きつった笑みをアイギナが追う。
「ふうん。いきなり人の顔に枕を投げつけるのは失礼じゃないの?」
「やあねえ。枕じゃなくてクッションよ」
「どっちでもいいわっ」
イコラの軽さに同じ調子で応じかけたアイギナだが、寸前でかろうじて踏み止まった。相手の軽薄さから距離をとり、金色の髪を優雅にかき上げる。
「会見の約束をしてたはずだけど。なにを楽しそうに遊んでいるのかしら?」
「あ、遊んでたわけじゃないわよ。その、ニコラがイタズラしたから、姉として躾(しつけ)をね、ちゃんとしないといけないじゃない?」
「なにが躾よ。どうせオヤツを食べられたとか、そういう子どもみたいな理由でしょ」
「な、なによう」
唇をとがらせるイコラに対し、アイギナは大きく胸を逸らした。豊かな膨らみが柔らかくはずむ。
「まったく、領主(ロード)の自覚はないの? こんな子どもに任せてたんじゃ街の財政が破綻するのも時間の問題ね」
「なんですって?」
ここまで言われて黙っていられるほどイコラ・リミエレムは大人でない。そうでなくとも領主の皮は剥がれやすいのだ。細んだまなざしが揺れる胸と赤い顔を見やる。
「守銭奴のあんたよかマシよ。なにさ、仰々しく会見なんてカッコつけちゃって。どうせ例の像を建てるのにもっと人よこせって話でしょ。まったく、しょうこりもなく」
「しょうこりもなく? あなたも分からない人ね」
アイギナは窓へと手を向け、街の中央に高くそびえる大剣めいた像を指さした。先にはシュリミラ商会が主導となって建造を進めている超剣像(オブジェ)が見える。
「あの像はパルモートを象徴する建築物になるわ。心の拠り所というだけじゃない。天をも貫く高き刃は遥か彼方にまで威光を示す偉大な目印となり、希望に燃える人々をこの街へと呼びよせるでしょう。
人の流れは物の流れ、そして知識と才能の源泉よ。あなたが望んでいる優れた人材も見つけやすくなるというのに、その利がまだわからないの?」
「なにを取りつくろってんだか。素直に儲かるからって言えばいいじゃない」
ますます平むイコラの視線にも、アイギナの機嫌は上がるばかり。返された小さな皮肉を気に留めることもない。
「それはそうよ。動くお金やモノだって当然大きくなるもの。商人(マチェット)として市場の開拓は重要だわ。あなただって望むところでしょう? 街に出入りする人が増えればそれだけで税収も大きくなる。わたしに任せれば収入を倍以上に増やしてあげるわよ」
「そんなんでダマされるか。あんたは自分とこに甘い汁を吸わせたいだけじゃない。収入が倍になったって支出を三倍にされちゃたまんないわ」
「ある程度は覚悟しなさい。街が発展するっていうのはそういうことなんだから」
「ふん。そんな発展で増える人材なんてあんたみたいなガメつい連中だけよ。目先の利益が増えたって中身が伴わなければ意味ないの。
ま、見てくればっかり気にしてる人にはわからないでしょうけど」
「だれがっ……あんた、人のことなんだと思ってんの?」
慣れた悪態を吐くことでイコラの口はなめらかさを取り戻していた。笑みをひくつかせるアイギナにさらなる追い討ちをかける。
「だから守銭奴。あるいは拝金主義者。金の亡者ってのもいいわね。巷(ちまた)じゃ「宝石喰いの鬼女」なんて素敵な二つ名、ぼっ!?」
その口を塞ぐようにクッションが叩きつけられた。先の一投にも引けをとらない威力に、言葉の奔流が一瞬止まる。
「~~~っ、なにすんのよっ」
「なにって、失礼な領主(ロード)さまに経済の基本を躾けてあげたんだけど?」
アイギナは取り戻したわずかな余裕を笑みに変え、自らの赤い顔に指を向けた。
「この一発の借りも返しておきたかった、びっ!?」
即座に返された一投であえなく消されてしまったが。
「あ、あんた――」
「どうもご丁寧に。それならこっちも、強欲な商人(マチェット)に治世の心得を叩きこんであげないとね」
いつの間に拾い上げたのか、イコラは両手に一つずつクッションを握りしめていた。二つ、三つと抱えこむアイギナを途中で襲う無粋もしない。
「……面白いじゃない」
「でしょう?」
ニヤリと笑みが交わされる。そこには街を想う若き領主も、商売熱心な商人もいない。
ただ、二人の強情な小娘がいるだけだ。
「うらー!」
「てえい!」
乙女らしからぬ奇声の重なりが勝負の始まりを告げた。
飛びかうクッション。舞い散る紙束。ぶち撒けられる黒インク。姿勢を変え、位置を変え、互角の攻防が繰り広げられていく。見る間に惨状と化していく部屋を、ニコラはしゃがみこんだ入り口から眺めていた。
「もお。二人とも仲いいんだから」
「ニコラさまぁ」
そこに転がるノルデオとともに。
「どしたの、ノル? そんなところで昼寝?」
「そんなわけないじゃないですか……。なごんでないで止めてくださいよ」
「えー?」
桑実色の瞳を潤ませながらの訴えに、少女は改めて部屋を見た。クッションを投げあい、受けあい、当てあう二人は、さながら無邪気な子どものようだ。ニコラの体も自然とうずく。
「いいじゃない。楽しそうだし」
「よくありませんっ。執政室でこんなバカ騒ぎして、父上になんて言われるか」
「あー。それは……」
少年の悲鳴が神官長(ガルデン)の髭面でも思いださせたのか、ニコラの気勢がわずかに沈んだ。領主の後見人は息子と違って厳格な神職者そのものであり、説法や説教にえらく長けているのだ。簡単にいえば小言が長い。手練の暗殺者にたった一日で赤子の無垢を取り戻させたとすら言われる説教の鬼。捕まれば精神的な疲労で半日は動けなくなるだろう。
ゆえに答えはただ一言。
「うん。まかせた」
「まかせたって――」
ニコラは晴れやかな笑みを浮かべて威勢よく立ち上がった。扉を閉める動きも実に軽やか。
「じゃ。ちょっと遊び行ってくる。後始末がんばってねー」
「ちょ、ニ、ニコラさまっ? こんなところに置いていかな――」
ガチャン、と鍵の落ちる音を最後に、場は無音に包まれた。閉ざされた部屋の騒ぎはもはや遠く、大きなネズミを背負った少女に咎めを向ける者もいない。
「さーて。なにを試そうかなー」
姉の机からくすねた結晶(アンプ)を手に、ニコラの歩みはどこまでも軽やかだった。
●世界には異形が蔓延っている。
世界(エス)には異形(ベルグ)が蔓延っている。
薄闇の漂う暗き森(ヴェムス)に棲まうは、醜い巨躯と性根のままにあらゆる命を喰らう鬼人(オーガ)。人や獣の胎を苗床に膿み堕とされる数多の獣鬼(グィル)に、つぎはぎの骸が起源と云われる多頭多脚を有する奇獣(キメラ)。異形(ベルグ)たちは無慈悲な破壊を振り撒きながら、親も子もなく喰らいあう地獄の光景を広げている。
終わることなき戦場の端で、人間(ユージス)は懸命に戦い続けた。
ある者は真理を導く魔導(マグナ)を学び、抗う術を見いだした。ある民は神の教えたる神法(ゴーズ)を深く信じ、伝え、神秘なる力の護りを得た。ある地では英雄の御技が模され、磨かれ、武術(アーツ)となり、ある域では天の理・地の利を巧みに用する技が生まれた。
鍛え、重ねられた叡智は、時として異形(ベルグ)すら凌駕した。世界の端に生まれた平穏、恐れからわずかに離れた地を、人々は自らの領土と誇った。
新たに、人同士の争いを覚えながら。
長き人(ユージス)の歴史の中で、多くの国が興り、滅びた。異形(ベルグ)の揮う猛威によって、荒ぶる自然の脅威によって、互いに譲れぬ誇りによって、自らの力に溺れ、堕ちて――
それでも諦めることなく、あるいは懲りることもなく、人は集まり、また生きていく。
これより語られる物語、パルモートで綴られる日々の唄も、斯様な歴史の一篇である。
●「このわたしに改めなきゃいけないことなんて一つもないわっ」
執務室での騒ぎから数刻後、イコラは市街を歩いていた。
「まあったく。なんだってのよ、アイギナのヤツっ。いきなりやってきて人の部屋メチャクチャにしていってっ」
肩を怒らせ重い足音を響かせる歩みは、さながら起きぬけの熊といった風情だ。踏みしめられた土の道に古びた平屋が建ち並ぶ路地を往く中、ほのかに香る小麦の甘さや焼き上がったパンの匂い、コトコトと煮込まれているスープの誘惑に鼻をひくつかせることもない。
いつもならにこやかに声をかけてくるおばさんや、気軽に挨拶を交わす荷車引きの労夫、からかいに来る子どもたちが、今はさして広くもない道を開けて何事かと様子をうかがっている。
ついていくのは剣を帯びた若者が一人だけ。
「おまえが約束スっぽかすからだろ。部屋は元からメチャクチャだったって話だし」
トール・ベルコ・イルメインは露骨に鳶色(とびいろ)の目を平めた。乱れた短い焦茶色の髪に着古した服装と同じく、声には敬意も緊張もない。相手の態度が態度なだけに仕方ないというのがトールの言い分だ。恨めしげに睨んでくるイコラの表情は、子どもの頃からまるで変わっていなかった。
「なによう。アイギナの肩ばっかりもって」
「純然たる事実を言ってるまでだ。毎度まいど自分の都合だけで動くな。せめて他人を巻きこまずにやれ。特に俺を」
トール自身は護衛のつもりなのだが、イコラが彼に押しつける役目は、もっぱら日常の雑用だった。それも、しでかした悪行の後始末であることが圧倒的に多い。敬意を払えというほうが無理だ。自然とグチも多くなる。
もっとも、聞き入れられることはまったくない。ぶちぶちと続くトールの批難を、イコラはいつもと同じように頭を振って払い除けた。
「あーもー、うっさいわね。せっかくガルデンの小言から逃げてきたのに」
「それだってノルに押しつけてきたんだろ」
生真面目な神官長の息子は、今ごろせっせと執政室を片づけているのだろう。涙を流しながらも手は抜かず、祈りと怨みをつぶやきながら。似た境遇の少年を偲び、トールは深い息を吐く。
同じものを思い浮かべているだろうに、振り返ったイコラはなぜか得意げだった。
「主の苦難を代わりに引き受けるのが従者(サイド)の務めよ。むしろ喜ぶところだわ」
「絶対に違うぞ、それ」
「違わないわよ。もう、少しは自覚をもちなさい」
「……なんで俺に言う?」
「え?」
首を小さく傾げられ、トールはそれ以上問うのを止めた。腰に帯びた剣の重さ、戦士としてのささやかな誇りを確かめてから、話の筋を元に戻す。
「そもそも、正式に申しこまれた会見をスっぽかすなよ」
「なにが正式よ。人の休憩に無理やりねじこんでおいて。それも、唯一の楽しみであるプリンの時間に」
「それでも、だ。領主(ロード)が規則を守らなきゃ示しがつかないだろうが。……まぁ」
トールの重い溜息に、イコラは唇をとがらせた。
「なに? なにか言いたそうじゃない」
「言ったらなにか改めるのか?」
「なにをよ。このわたしに改めなきゃいけないことなんて一つもないわっ」
本心であることは堂々と胸を張る態度で知れた。頬をひくつかせるトールを一瞥すらせず、イコラはゆるやかな坂道を下り歩く。
「だいたい、アイギナの言ってくることなんてわかりきってるじゃない。タダでさえ余計な出費させられてるってのに、収入まで好きにされてたまるかっての。まったく、商業都連(コードネル)の商人(マチェット)ってのは皆あんなに強欲なのかしらね。
ほら。この倉庫だって」
坂の終わる丁字路に突き当たり、イコラは足と言葉を止めた。伸ばした手で示しているのは左右に連なる倉庫の一つ。押せば軋む扉には拳大の穴がいくつも開いている。
「もうボロボロよ。向こうの壁から日が射しこんでるのが見えるわ」
「たしかに、だいぶガタがきてるな」
「この一角は旧都(ロスロクス)時代から建物だからね。わたしたちより年上なんじゃないかしら。よく今まで使ってたもんよ。ホント、商人(マチェット)ってやつは見えないトコには金かけないんだから」
イコラの父が領主の座につき、街がパルモートの名を冠してから、まだ一〇年しか経っていない。だが、この街が有する歴史は一〇〇の年月を遥かに超えている。絶えることなき異形(ベルグ)の侵攻に、半壊や全壊の憂き目に瀕したことも数え切れない。すべての建物は壊されることが前提であり、長期の使用などあまり考えられてはいないのだ。自然に朽ちるほど長い平穏を保てたことは、むしろ誇るべきなのかもしれない。
「ムダ使いしないのはいいことだろ。おまえだって同じじゃないか」
「ぜんぜん違うわよ。わたしは必要なトコにはキチンと使ってるじゃない。倉庫の整備なんて自分たちでやらせたっていいんだからね、ホントは。それを、街の整理計画が進むまでほったらかしにして。人も金もないのはわかってるでしょうに、自分の腹が痛まないようにすることだけは頭が回るんだから――」
「あいかわらず騒がしいな。ウチの領主(ロード)さまは」
延々と続くイコラの不満を、パイプを燻らせ近づいてきた中年男が遮った。
「プルカおじさん」
「よ」
剃り上げた頭を輝かせ、プルカ・リシエ・シアネモルはにこやかに応じた。ならず者たちの面倒をみる斡旋所(ポート)を運営する彼は、この一帯の街区をまとめる長でもある。
かつてはイコラの父と共に起ち、戦の先陣を駆った戦士であったという。顎と腹の肉をふるふると揺らし、美味そうに煙を吐いている今の姿からは、まるで想像もできないが。
「なにやっとるんだ、こんなところで。デート中に痴話ゲンカか?」
「コイツからそんな色気のある話がでてくるもんか」
トールは眉根に皺をよせた。イコラも素のまま平然と答える。
「そうよ。財布が一緒なんだから市場で買い食いしに来たに決まってるじゃない」
「だれが財布だ、だれが。おまえ、また俺にタカるつもりだったのか」
「なによ。領主(ロード)にお金払わせる気? 主人がわずらわしい思いをしないように動くのが従者(サイド)の務めでしょ」
「俺はおまえの従者(サイド)になった覚えなんざねぇ」
額を突きあわせて言い争う二人を見ながら、プルカはカラカラと笑う。
「はっはっは。あいかわらず仲がいいな。いや、けっこうけっこう」
口からあふれる煙と一緒に陽気な気配も広がっていく。「なんだなんだ?」「またやってんのか」「ウチの領主(ロード)さまも暇ねぇ」などなど、周囲で様子を窺っていた人々の囁きも聞こえてきた。
さすがに気にしたのだろう。
「ま、そんなことはどうでもいいわ。プルカおじさん。いえ、シアネモル区長」
イコラは仰々しく腕を振って表情を引き締めると、プルカに向き直った。
「ん、なんだ?」
「この辺の整備、ちゃんと進んでるんでしょうね? 前の会議で予算だしたでしょ」
「ああ、それか。任せとけって」
プルカは手のパイプを口によせ、一息大きく吸いこみ、吐いた。
「倉庫の中はもう空だ。周りへの通達も済んでるから、人さえ集めりゃ解体はじめられるぞ」
「持ち主との交渉は? 後から難癖つけられるのはイヤよ。メンドくさいんだから」
細められた目と煩わしげな手に広がる煙を払われ、区長の笑みがわずかに曇る。
「そいつは、まあ、アレだ。ちとガンコなのが何人か残ってるけど、なに、すぐに説得するって」
「ちゃんと予算内でまとめてよ。ウチの財政には振る袖どころか羽織る上着もないんだから」
「なあに。これから暑くなるんだ。スっ裸でも死にゃせんよ」
その言い回しがよほど気に入ったのか、プルカは盛大に笑いだした。くわえたパイプから飛んだ灰が赤い放物線を描いて地に落ちる。
イコラの細んだ目はその軌跡をじっと追っていた。
「そんなことになったときは地下牢でたっぷり涼ませてあげるわ。それから」
足を持ち上げ、小さな火に落とし、グリグリと執拗に踏む、踏む、踏む。
潰し尽くされた白い欠片は砂にまみれて完全に消えた。
「灰は道に捨てないでって言ってるでしょ。火事にでもなったらまた出費がかさむじゃないっ」
「なんだ、機嫌悪いな。ケンカにでも負けたのか?」
「負けてないわよ!」
真面目な態度も不機嫌も、プルカはささやかなやりとりでいなしてしまう。パイプに新しい葉を詰めるおっとりとした仕草には、確かな余裕が見受けられた。
「なに、心配いらんて。火なんぞ上がってもパパっと消してみせるさ。このへんの若い連中は優秀だからな。いざとなれば小便ひっかけてでも――」
「それ、ホントにやったら地下牢じゃなくて地下墓所(カタコンペ)に落とすからね」
イコラは忌々しげに唸るばかりだ。プルカの手腕に、トールは密かな憧れを抱いている。やはり経験が必要なのだろう。剣にも領主にも振り回されてばかりではいけないのだ。
しかし――
「……この街の連中、騒動には慣れてるもんな。誰かさんたちのおかげでよ」
周囲の楽しげな声が向けられている先、北の空を見上げると、彼女たちを制することなどできないだろうと思ってしまう。
「だれのことよ、それ」
「教えてやろうか。アレの下にいるやつと、その姉貴だよ」
「アレ?」
鋭い視線を逸らした先には、いくつものきらめきが天に向かって伸びていた。三階ほどある倉庫の屋根ごしにもはっきりとわかる高さの柱は、宙(ちゅう)を泳ぐ銀の魚が群れを成しているものだ。
警鐘は鳴っていないから危険はないのだろう。周囲に広がる雰囲気も、驚きより面白がる気配が強い。似たような事はしょっちゅう起こっているので街の皆も慣れたものだ。
ただ一人、領主だけが毎度憤(いきどお)る。
「あ、あの子は、またっ!」
叫び、イコラは全力で駆けだした。声をかける暇もない。かける言葉も思いつかなかったが。
「あいかわらず楽しそうだな、あの姉妹は」
「……そう思える境地に俺も達したいですよ」
「はっはっは。そのうちなれるさ」
プルカは変わらぬ余裕のまま、パイプの葉に針を押しつけていた。先端の火衝石(フレア・パック)が火を発し、すみやかに新たな煙を立てる。よどみない動きは重ねてきた経験によるもの。平和な世でも、戦の後でも、喜びの中でも、悲しみの果てにも、彼は同じことをくり返してきたのだろう。
その仕草の、なんと堂に入ったことか。
「だといいんですけど、ねぇ……」
同じ風格がいつかは得られると、トールにはまるで思えなかった。自分にできることといえば、せいぜい後始末ぐらいだ。
「……んじゃ、行ってきます」
「おう。せいぜい振り回されてきな」
能天気な声を背に浴びながら、トールはイコラを追いかけた。
●「ニコラなら首の一つや二つ、落としたって生えてくるわよ!」
北門を有するパタル街区、商いに活気づく北の市は、空を見上げる人々の感嘆にざわめいていた。トールも思わず足を止める。
「おお。スゲぇな、こりゃ」
そこでは、一〇〇〇にもおよぶ銀の魚が柱を成して回遊していた。
一つ一つの動きは単純なもの。輪を描く動きのままゆるやかに上へと昇り、遥かな高みで小さく跳ね、再び下へ降りゆくだけ。ただそれだけの挙動が、数えきれぬ群れとなるだけで幻想的な光景を創(う)みだしている。
円を描く銀の鱗は光を砕いて七色に散らし、ガラスをまぶした薄布(ベール)のように柔らかな輝きを映していた。虹とも異なる色合いは一〇〇〇〇の宝石にも勝る美しさだ。光の加減、風のゆらめき、規則正しい動きに含まれたわずかな無秩序によって、光の柱が見せる表情は果てしなく変わっていく。
それはさながら流れゆく水面(みなも)。終わることのない刹那の美は、見る者を惹きつけて離さない不可思議な魅力にあふれている。
ただ、その根元に駆けよっていくイコラにだけは、まったく通じていないようだった。
「ニーコーラー!」
叫びながら、どこから持ちだしたのかも知れぬ刺又(フォーク)を大上段から振り下ろす。狙いは柱の中心に居る丸ネズミを背負った妹だ。
「げっ、おねーちゃん?」
「あんたって子はぁ!」
鬼気迫る一撃を、ニコラは慌てて跳び退きよけた。懸命な判断だ。硬い地面に刻まれた精緻な呪陣は、導かれた魔力ごと叩き潰されていた。
同時に、空を舞う魚の群れも薄れはじめた。光の柱が散り消えるに従い、周囲の興奮も収まっていく。逆に膨らむのは不満の声と、邪魔をされたニコラの頬。
「なにすんだよぅ。今の術式(コード)、まだ書き留めてなかったのに、い……」
「あーら、そう。いっそのこと、一生なんにも書けなくしてあげましょうか?」
向けられる反感を、イコラは気迫で封殺した。こめかみに青筋を浮かべてにこやかに語る表情に、周囲のざわめきすら消え失せる。決して軽くはないフォークを楽々と構える背中の迫力に、トールもわずかに尻ごみした。
「お、おいおい。殺す気か?」
「ニコラなら首の一つや二つ、落としたって生えてくるわよ!」
「さ、さすがに首は生えてこないよぉう!?」
イコラの怒りは妹に発言すら許さなかった。言葉もろとも砕いてやると言わんばかりにフォークを振り回す。
「ホントにもう! 街中で、魔術(マギ)を使うなと、何度も、何度もっ、言ってるでしょうが!」
「ひええ!?」
言葉の合間にくり出される振り下ろしに薙ぎ払い。刺突、打突に絡めとりを、ニコラは必死によけ逃げた。右左に走り、上下に跳び、騒ぎを周囲に広げていく。
「動くんじゃない!」
「そんなムチャな!」
「おー。いいぞー、領主(ロード)さまー」「もっとやれー」
「うわ、バカっ。こっちくんな!」「うごっ? 誰だ、今殴ったヤツぁ!」
「あー、すみません、みなさん。どうか落ちついてご観覧ください」
聞こえてくるのは囃(はや)す声に、驚きと笑いと怒号と罵声。後を追うトールはひたすら低頭して回る他なかった。
――人間が異形(ベルグ)に抗う術として研鑽を積まれてきた魔導(マグナ)の技は、人の営みが集う都市ではあまりにも大きな力だ。光を灯す。火を点ける。重さを操り楽に運ぶ。それら人の役に立つ力でも、呪を組み力を通すという発現の手順に破壊の術との違いはない。
ゆえに、人の領域である街中では、許可なき魔術の行使が禁じられている。それは、武装の規制と同列に語られる街の信用の指標であり、イコラが徹底に力をこめている分野でもある。
そんな事情を、ニコラはまるで理解していないらしい。
「そんなに怒らなくてもいいじゃない。みんな喜んでくれてるし」
足を止めた露店の前、貧弱な柱を背にしての言葉は、言い訳にもなっていなかった。
「それが魔導(マグナ)の正当性を伝えるべき魔術師(ウィザード)の言うこと?」
「わたしまだ見習い(ウェルト)だもん」
「なお悪いわ! それに、さっきの幻術っ」
「な、なに?」
丸ネズミの顔を横に並べて頬をひくつかせる妹を前に、イコラはわずかながら冷静を戻していた。フォークを突きつけたまま低い声で問いかける。
「あんたの呪換石(グレイル)と魔力(マナ)だけでできるモノじゃないでしょ。増魔石(アンプ)はどうしたのかしら?」
「あ、あはは」
魔術師は呪換石に刻んだ術を自らの魔力により導くことで、あらゆるイメージを発現することができる。一撃でドラゴンを屠ることも、一夜で底なき迷宮を創ることも、一大陸を大空に浮かべてそのまま止めることすら可能だ。
だが、それほどの偉業は無限の力を仮定した夢物語にすぎない。研鑽を積んだ魔術師でも、家屋の一つも破壊すれば精神(こころ)の力を使い果たしてしまうのが現実である。
その欠点を補うために創(う)みだされたのが増魔石(アンプ)だ。種々の触媒を錬金術的に精錬・生成した結晶は、使用者の魔力を一時的に拡大することができる。
効果は純度と相性により異なるが、一般的に大きな増幅率を誇るものほど高価だ。天を突くほどの巨大な幻影を現せるものともなれば、パルモートでは目にすることも稀。
あるとすれば、領主が防衛のために秘蔵しているものがいくつか……。
ニコラの表情はいつの間にか乾いた笑みに変わっていた。丸ネズミが小さな背に隠れる。
「どこから、かなぁ? おねーちゃんの部屋から出たらポケットに入ってたんだよね。いやぁ、不思議なこともあるもん――」
「貴重な戦力をくだらないことで浪費するんじゃなあい!」
「だひぃ!」
一直線に迫りきたフォークから、ニコラは右へと跳び逃げた。加減のない横薙ぎが、少女の首があった位置を、背にしていた店の柱もろとも一閃する。
「あ」
果実の置かれていた露店には布の天井が張られていた。支えを失えば当然落ちる。
「「のわぁぁぁ!?」」
古びた布もまとまれば重さは大の大人を超え、落下の衝撃は両隣の店にまで及んだ。似たような構造の小さな店は脆さにしてもそう変わらず、押されるがままに倒れていく。
「うおわ!?」「な、なんだ?」
「だああ、ウチの商品が!?」
倒壊の被害は軒を連ねた左右へも連鎖的に広がっていった。遠巻きに見物していた野次馬まで巻きこみ、騒ぎはさらに大きくなる。
ただ一人、事態の張本人だけが崩れた露店の前で固まっていた。
「……えーっと」
ゆっくりと右を向き、同じ早さで左を見る。早くも混乱から脱した人々はが、元凶を正確に見据えていた。視線を逸らそうにも騒ぎの中心では逃げ場がない。
結局、イコラはゆるやかに一転し、拳を固めて天を仰いだ。
「おのれニコラっ。なんてヒドイことをっ」
「「「おまえのせいだ、おまえの!」」」
「にゃはははは」
「むっ?」
いつの間に脱け出したのか。喜劇の一幕めいたやりとりを、ニコラは左方の道でのうのうと見物していた。頭の上で丸ネズミをくつろがせ、右手に石を、左手に赤い果実を持ち、胸元の光を揺らし笑っていた。なんとも苛立ちを誘う笑みだ。
「あ、あんたって子は!」
「へっへーん。おねーちゃんなんかに捕まるもんかー」
身を翻(ひるがえ)した姉に、ニコラは握っていた石を悠然と投げ放った。地面に落ちてもまだ転がり、迫りくるイコラへ向かっていく。
動きの中で、拳大の石は急速に大きさを増した。さながら雪山を転がる雪玉のように、回り進むほど膨らんだ。その高さと幅と厚みは、今や道を塞ぐほど。突如現れた巨大な岩塊に、周囲から小さな悲鳴が上がる。
だが、見慣れたトールはその正体を即座に見抜いていた。あれは幻術だ。転がる石に拡大した形をかぶせたのだろう。よく見れば、岩自体の回転に比べて進む速度があまりに遅い。本当に巨大化したのならもうイコラを轢いているはずだ。
そもそも、魔術は発動の際に独特の違和感を伴う。精神(こころ)を騒がせる不快感で、力の強い術ほど大きく、弱ければささやかに感じるもの。ニコラが石を投げた時に霊(し)れた意識、風が頬を撫でる程度の霊覚からも、物質を変化させるほど大掛かりな術でないことは明らかだ。
至る結論は長年に渡って小競り合いを続けている姉も同じ。イコラは眼前に迫った岩塊へ躊躇なく突っこみ、
「そんな、幻だとわかってるもので止まるわけぎゃっ!?」
体の半分を岩に埋めた次の瞬間、べちゃりと水っぽい音を立てて盛大に倒れた。顔面を赤く染めた領主の姿に、周囲から甲高い悲鳴が上がる。
ただ、その正体は血でなく果汁と果肉。幻影の後ろから熟れた果実を投げつけたらしい。
「あ、あんたって子は――」
「ぬふふ。真実はいつだって偽りの後ろにあるものだよ。おねーちゃん」
「こんの……」
「にゃははー。さらばだー」
赤い汁をしたたらせて立ち上がる姉を待つことなく、ニコラは颯爽と駆けていった。跳ねる足取りは軽やかで、後に埃も残さない。
あまりに見事な去り様に、周囲から意味もなく拍手が起こる。乾いた響きはそれまでの騒ぎを拭いさる爽やかさをもたらしたが、取り残された当事者にとっては逆の効果しかないだろう。
もっともすべては自業自得。くだらない騒ぎを起こした結果はしっかり反省するべきだ。
肩を震わせ立ち尽くすイコラに、トールはしかたなく声をかけた。
「なにやってんだ、おまえは。いい加減にしないとまたうるさいのが――」
「なんだこの騒ぎは! またニコラがバカをやっとるのか!?」
わずかな躊躇の間にさらなる面倒ごとが近づいてきた。平時から市内を鎧姿で歩き回っている暑苦しい中年など、パルモートには一人しかいない。
「バロウズおじさん……」
「ほれみろ、来ちまったじゃねぇか。姉妹ゲンカもほどほどにしろってんだ。苦情を聞いたり謝って回ったりするのは俺なんだからな」
「イコラ、またおまえたちか」
囁きあう二人に、バロウズ・リシエ・キルゼリノは溜息を吐きつけた。頭二つ高い位置から落ちてくる呆れの重さは、身にまとう革鎖鎧(チェイン・レザー)にも負けていない。本来なら制服でよいのだが、昔気質の中年兵は重武装を好み着こんでいた。
朱染めの装いは街を守る兵士のもの。市内では巡回や警戒を担う衛兵を務め、外地においては種々の調査や異形(ベルグ)の退治まで行う彼らは、市民にとって最も身近な戦士でもある。
バロウズはそのすべてを統括する将官(ジェネラル)だ。プルカと同じく、パルモートを興す戦にも参加した古兵(ふるつわもの)であり、今は議会で辣腕を揮う立場にある。
もっとも、当人は現場の務めを好んでいて、指揮官の仕事を副官たちに押しつけては街の巡警に精を出していた。イコラをはじめ、リシエ村の出身者は一つところにじっとしていられない性質(たち)らしい。後から現れた三人の若い衛兵――全員が鎧姿だ――に、トールは心から同情した。
「まったく、おまえたち姉妹は。いつになったら自分たちの立場というものが理解できるんだ。少しは落ちつきを覚えんか」
「いや。すいません、ホント。よく言い聞かせておきますんで」
街をさまよう将官の言葉に説得力はまるでなかったが、しがない護衛の身であるトールは大人しく頭を下げた。逆らっても良いことなど一つもないと長い経験で思い知らされている。
「領主(ロード)がこれでは法が軽んじられてしまうではないか。近ごろでは若い連中ばかりか古株たちまで騒ぎを楽しんでいる始末だ。怪しげな術に喝采を上げ、市での破壊行為をおもしろがるなど、言語道断もはなはだしい。ワシらの若いころに――」
「バロウズ・リシエ・キルゼリノ!」
「はっ!?」
始まりかけた昔語りを、突然の爆発が遮った。いや、爆発したのは昂ぶりきった感情か。イコラの顔は果実ではなく、上りすぎた血のせいで赤に染まっていた。見開かれた目は血走り、噛みしめられた歯からは耳障りな軋みが聞こえてくる。
鬼人めいた迫力にバロウズまでが背を伸ばしていた。反射的にとらされた敬礼の姿勢、右拳を左胸の上においたまま、少し恥ずかしげに問い返す。
「な、なんだ、イコラ。突然人の名を叫びおっ――」
「市内での無断魔術行使、および破壊行為の現行犯です。犯人をすみやかに捕縛なさいっ」
それを、イコラは一喝で吹き飛ばした。胸を張った堂々たる態度は人を従え慣れた領主のもので、汚れつくした情けなさなど微塵も感じさせない。
「は? いや、しかし――」
「対象は見境のない凶悪な魔術師(ウィザード)です。全力をもって追跡なさいっ。長棒(シャフト)やフォークじゃ生ぬるいわ……。ボーラなりネットなり弓矢なり、使えるものぜんぶ使って追いこむのよ!」
「い、いや。そこまでするようなことでは……」
「キルゼリノ将軍!」
困惑しきりのバロウズを、イコラは鋭いまなざしで見据える。
「はっ!?」
「ロード・パルモートが命じます! いいからさっさと行きなさい!」
「は、はい!」
勢いと迫力に押されたのか、あるいは実直な義務感からか。バロウズは折り目正しい敬礼を返し、ニコラの消えた道を駆けていった。後に三人の衛兵も続いたが、足取りはいかにも重い。
「お、おまえなぁ。いくらなんでも――」
「なにボサっとしてんのっ。あんたも行くのよ!」
「のわっ?」
言葉とともに投げつけられたものを、トールはかろうじて受けとめた。青く塗られた球体は、緊急の連絡に用いる狼煙玉(のろしだま)だ。
「ばっ、なんてもの投げつけやがる! 火薬も詰まってんだぞ、これ――」
「いいことトール?」
怒鳴ろうとした声も飲みこまされる。眼前に迫りきた蜜色の瞳は小刻みに揺れていた。
「絶~~~~っ対に逃がすんじゃないわよ。この怒りに眉間を貫かれたくなければねっ」
「お、おう」
まったく冗談に聞こえない言葉と、突きつけられたフォークの威圧感に、トールはうなずくほかなかった。刃のない武器で貫かれる痛みは想像を絶するだろう。
「明日の朝日が拝みたければ死ぬ気で追いなさい。悪魔に魂を売ってでもね」
堕落に誘う存在を低くつぶやいたイコラの表情は、いきすぎた怒りのせいか笑みの形に変わっていた。赤い果肉に濡れたその姿こそ悪魔的だ。
「場所はさっきの倉庫前よ。追いつめたら合図して。わたしの手で確実にしとめるわ」
「しとめ……わかってるか? おまえの妹だぞ、アレ」
「フ、そんな時代(とき)もあったわね」
「いや、過去にすんな」
もはや声も届いていない。イコラは振り上げたフォークを、妹であった者が消えた先に向けた。
「ああ、ニコラ。せめて最期は姉だったわたしの手で葬ってあげるわ。ふふ、うふふ、ふあははははは!」
錯乱したかと思える姿はとても他人に見せられたものではないのだが、あいにくとここは北の市。観衆には事欠かず、今さら隠すこともできない。
むしろ、問題なのは見物している人々のほうではないだろうか。大半は街に住む者で、イコラの素性も正しく知っている。咎める声が出てこないのは彼女の地位を畏れてのこと。
……ならば、むしろ健全なのだが。
多くは騒動を楽しんでいた。幻術を駆使してイタズラをくり返す妹と、その制裁に暴れる姉。娯楽の少ない日々の中で、二人のやりとりは刺激的な見世物となっている。
それも楽しめる土台があればこそ。生活が満たされているから多少の騒ぎも許せるのだ。領主の務めがもたらしている平穏の産物ともいえる。
しかし、その当人が笑われているという状況は……
観衆の喝采を浴びるイコラは変わらぬ高笑いを続けていた。焦点の定まらない目はどこを見ているのかすら判然としないものの、楽しそうではある。それはもう、気を揉んでいるのがバカバカしくなるほどに。
「……んじゃ、行ってくらぁ」
つぶやきに返される言葉もない。誰にも気にされぬまま、トールは兵の詰め所へ向かっていった。
●「まったく。なにをしでかすつもりやら」
トールが現場に辿りついたとき、往来の両脇には人だかりができていた。道の真ん中では、ちょこまかと蛇行し進むニコラを、バロウズが直線的に追いかけている。
「こんのっ、またんかニコラ!」
「にゃはははは」
大柄な将軍(ジェネラル)が怒声を上げて跳びかかるも、小さな幻術士(カレイド)の動きはそれを遥かに上回っていた。振り回される太い腕、掴みくる大きな手を、少女は寸前でかわし、よける。
真なる魔術師を目指す者は、心とともに体も鍛え上げなければならない。異形(ベルグ)を相手にする以上戦士の心得は必須だ。見習い格の修術士(ウェルト)もそれは同じ。奔放に過ごす日々の中でも少女は成長を続けている。いまだ未熟ではあるものの、重い鎧に包まれた兵士を翻弄する程度は容易い。ニコラは背に負っている丸ネズミさながらの素早さで、バロウズの足下を這い回っていた。
「ええい、ちょこまかちょこまかと!」
「ムリしないほうがいいよー。もうお爺ちゃんなんだから」
「やかましい! まだまだ若いモンには負けんぬわぁ!?」
腰ほどしかない少女を相手に腕を振り回す動きのまま、バロウズは頭から地面につっこんだ。駆けていた勢いを減ずることなく二度、三度と転がり進む。
幸か不幸か、三人の衛兵が追いつく頃にはスクと立ち直っていた。
「おのれいニコラ! 年長者をコケにしおってえ!」
「将官(ジェネラル)。あまりムキにならないでください」
「俺らじゃ追いつけませんよ」
「被害があるわけでなし、ここは後の始末を優先したほうが――」
「なにを情けないことを! 貴様らには衛兵(ガード)の誇りがないのかっ。これだから最近の若いモンは――!」
赤い鎧の一団が醸す気怠げな雰囲気から目を背け、トールは一人でニコラを追った。いまや姿は見えないが、追跡するのに苦労はない。耳を澄ませば、道の両端に居並ぶ人垣と交わす会話が聞こえてくるのだから。
「どいたどいたー!」
「あら、ニコラちゃん。今日も元気ねー」
「もっちろん。なにしろ完勝だからね、今日はー」
「おわ!? アブねぇだろうが、妹! 前から突っ走ってくんな!」
「あはは。ゴメンよー」
「あー。ニコラだー」「また逃げてるぞー」「追えおえー」
「なんだー? 捕まえる気かー? できるもんならやってみなー」
買い物帰りのおばさんや荷を引く歩みを邪魔された男。面白がってついてくる子ども達をいなしながら、ニコラの逃走はなおも続く。左右に連なる家並みからも浴びせられる賑やかしを、丸ネズミを背負った小さな術士は明らかに楽しんでいた。
まったく、迷惑この上ない。
トールは追う足を止めぬまま、紐で結ばれた木の球を振り回し、地面すれすれに投げ放った。
「へっへーん。追いかけっこでわたしを捕まえようなんてムリな話なのさ。人々は後に語るであろう。パルモートに道はない。それはすべてニコラ・リミエレムの足跡なのだ、とっ?」
足に向けられた一投を、ニコラは危なげなく跳びよける。木球は先に建つ家屋に当たり、カコンカコンと音立てて紐を支柱に巻きつけた。足に絡んでいれば動きを止めていただろう。
「捕縛球(ボーラ)?」
駆け抜けながらの一瞥で、ニコラはその正体を正確に言い当てていた。本来のボーラは複数の鉄球をワイヤーでつないだシロモノで、主に異形(ベルグ)との戦いに用い、投げつけて脚や羽を絡めて封じる武器だ。トールの放った木製のボーラは、人を捕らえる目的で改良されたもの。
「これ以上ハタ迷惑な伝聞を広めるな」
「なんだ、トールも来てたんだ。おねーちゃんは?」
「さあ、なっ」
続けて背負っていた筒を投げる。これまた対人用に威力を抑えた投網(ネット)。宙で四つに分かれた欠片は収められていた網を広げ、標的が進む先へと落ちる。
ニコラは右に跳んでよけ、そのまま右方に進路を変えた。古倉庫の立ち並ぶその道を進めば、打ち合わせた坂の下に出る。
後を追いつつ、トールは青塗りの球を上に投げた。倉庫の屋根を遥かに越えた玉は、空へ向かう途中で破裂し、天に青煙の花を咲かせた。本来の用途は兵士たちを集める狼煙(のろし)だ。当然この合図でも集まってくるだろう。まったく余計な労力だ。小さな罪悪感を覚えたものの、悪魔(イコラ)の笑みを思いだすと逆らう気力は湧かなかった。遠くから聞こえくる重い響きのせいか、雷雲を背負ったイメージがよぎる。
誘導の意図はある程度察しているのだろう。ニコラは駆けながら問いかけてきた。
「こっちでいいの?」
「ああ。次の丁字路に誘いこめってさ」
「ふーん。なにをやってくるつもりなのかなー」
古倉庫の建ち並ぶ人気のない道を、ニコラは楽しげに進んでいく。弾むような足取りは浮かべている表情を容易に想像させた。きっと、姉によく似た笑みだろう。
「まったく。なにをしでかすつもりやら」
トールの口から重い息が漏れる。だが、ほとんど音にはならなかった。先ほどかすかに聞こえた響き、雷鳴を思わせるゴロゴロという音が、だんだんと大きくなっていたからだ。
どうやら向かう丁字路の左側、坂の上から近づいているらしい。
「なんだ?」
「なんだろ、ね――」
もはや追跡の体もなく、二人は並んで坂に差しかかり、
直後、眼前を砲弾めいた勢いの「なにか」に通り過ぎられた。
「「!?」」
影はそのまま古倉庫に激突した。木の砕ける音が響き、白い粉塵が爆ぜ広がる。
「だわば!?」
衝撃というより驚きに押されて尻をつく。トールは咄嗟にニコラを抱えこんだ。パラパラと降りかかる木片と流れるように広がる白さから、後ろに転がり距離をとる。
変化は一瞬で収まったが、白煙は場に止まったまま。音を聞きつけた人々が集まりくるも、霧より深い白色の塊を遠巻きに眺めているばかり。
「おい。なにが起きたんだ、いったい」
「離れろとか騒いでたけど、こんなことするためだったのかい?」
困惑の声で問われてもトールに答えられるはずがない。説明してほしいのは彼も同じだ。
もっとも、多少の予想はできていた。あるいは覚悟かもしれない。
「あーっはっはっは!」
案の定、白煙の中からは覚えのある笑い声が聞こえてきた。うっすらと浮かび上がった影が少しずつ濃さを増していく。
「はははははぶっ。ぶへっ? ぼへ、ぐへ、げほっ……」
むせながら現れたのは、やはりよく知る領主であった。
「イコラ……」
「おねー、ちゃん?」
「……うー。思ってたより小麦粉の煙幕効果は高いわね」
朦々(もうもう)たる白塵を煙たげに払いのけ、転げた二人の前に立つ。
「わたしの勝ちよ」
「うぐぅ」
塵と埃と木端にまみれた薄汚い姿であるにも関わらず、胸を反らして妹を見下ろすイコラの振る舞いは支配者の威厳に満ちていた。 だからこそタチが悪い。
「な、なにしやがった?」
「たいしたことじゃないわ。小麦粉を積んだ手車(カート)を坂の上からつっこませただけよ。どうせ下は壊す予定の倉庫だったしね」
「な……」
平然と放った言葉は誇らしげですらあった。事を思いついたが最後、後のことなど何も考えなかったに違いない。
「なにが……十分たいしたことだ! メチャクチャしやがってっ。道から外れたらどうするつもりだったんだよ!」
「だから乗りこんでバランスとったんじゃない。完璧に狙い通りよ。どう、驚いたでしょっ」
「そりゃ、驚いたけど」
「こ、ここまでやるか?」
ようやく白色の薄れだした場、小麦粉の漂う倉庫の前は、ちょっとした惨状と化していた。転がしたという手車(カート)は原型もわからないほどに砕け散り、激突された倉庫の方も扉が見事にへしゃげていた。元から限界を迎えていた建物は少し傾きはじめている。朦々(もうもう)たる白塵は、確かに破壊の痕跡をより派手に演出していた。異形(ベルグ)の暴れた跡だと言われれば誰も疑わないだろう。
「……なんでおまえは無事なんだ?」
「直前で飛び降りたもの。小麦粉の袋が上手いことクッションになったわ」
常人であれば自殺行為にしか思えない発想を、イコラは平然と実行する。坂を下るカートに乗りこんでバランスをとるなど、軽業師でも簡単ではないはずだ。まったく、領主にしておくには惜しい身体能力である。一対一の追いかけっこでもニコラに対抗できるだろう。大人しくそれで満足していればいいものを。
「姉妹ゲンカに命かけるなよ……」
「ハンパなことじゃニコラには通じないからね。どうせやるなら一撃必殺。一発で腰抜かすようなインパクトを与えなきゃ」
「殺してどうする!? ホントに逝きかけたぞっ」
「そのへんは抜かりないわよ。一応は人払いもしたし」
「一応って、みんな驚いてるじゃねぇか」
「うるさいわね。いいのよ、そんな些細なことは」
もはや呆れ疲れたトールに、イコラは満足げな笑みを向けた。正確には、その腕に抱かれている妹に。
「こうやって完璧に捕まえたんだからね」
「うー……」
確かに、勝敗の結果だけは明らかだ。捕まったことよりも驚かされたことが悔しいようで、ニコラは脱力したままでいる。
しかし、
「おまえなぁ……。どう始末つけんだ、この騒ぎ」
「え?」
成果の割りに影響が大きすぎる。人的な被害こそ出ていないようだが、白塵の周囲には何事かと困惑する人々が集まり続けていた。狼煙玉(のろしだま)を見て集まってきたのであろう衛兵たちは、怪しげな現場に近づけないよう野次馬の整理を始めている。自分たちこそ状況も理解できていないだろうに、慣れた手際は見事なものだ。
慣れさせた当人としては思うところがあるようで。
「えーっと……」
イコラのまとった威厳は急速に萎んでいた。粉まみれの姿で頬を掻く様は近所の子どもとあまり変わらない。
「いったいどうした? なんだ、この騒ぎは」
ゆるやかな足取りで近づいてきたプルカは、煙とともに呆れを吐いた。
「あら。おじさん」
「なんだ、イコラか。てことは、また姉妹ゲンカの成果か、これは?」
「うぐ……」
昔馴染みに叱られてますます小さくなる。さすがにバツが悪くなったらしい。
「ケンカとか、そういう小さい話じゃないのよ? その、領主(ロード)の威厳をかけた戦いというか、法の意味をわかってない妹の躾というか」
「なにをエラそうに」
「おねーちゃん。おとなげなーい」
「な、なによっ。そもそもの原因はニコラでしょうがっ。街中で術を使うわ、秘蔵の増魔石(アンプ)を盗みだすわ、わたしのプリンを勝手に食べるわっ」
「完全にタダの姉妹ゲンカじゃねぇか」
「うっさい!」
茶々を交えた弁明は意味をなすこともなく、すぐにいつものじゃれあいへ変わる。
それ以上の事件性はないと判断したのだろう。プルカは張っていた肩を丸め、大きく息を吸いこんだ。
「家族の団欒は家に帰ってからゆっくりやれ。とにかくこの――」
パイプをくわえ、いまだ濃い白塵の山を見る。
「――粉の煙が収まってからの段取りを考えんとな」
そのまま勢いよく灰を吹き飛ばした。まだ残っている火種の赤がきれいな放物線を描き、示された先に消えていく。
つまり、広がった小麦粉の只中に。
「あっ!?」
ニコラが奇声を上げたのは、小さな炎が点るのと同時。
それ以上の何もできはしない。
「みんなっ、伏せ――」
「? どうし――」
「「「!?」」」
疑問の声も、警告の叫びも、すべて衝撃に飲まれて消える。
白塵の中に生まれた赤は、瞬く間もなく一気に膨らみ、
場に火柱を打ち立て、爆ぜた。
●「だまらっしゃい。横暴は権力者の義務よっ」
「――これが、パタルの二番地区を灰燼と化した経緯ですか」
報告の書簡を丸めて握り、ガルデン・フォニオ・ミチネカスは低い声を震わせた。生え際の後退した額には太い血管が浮かんでいる。神官長にして領主の後見人たる彼としては当然の反応だ。
会議室の壁際に立つイコラは、乾いた笑みを浮かべて頬を引きつらせていた。湯を浴び汚れを落とした身なりはさっぱりとしているのだが、焦げた前髪は直っていない。
「か、灰燼は言いすぎじゃない? 古い倉庫が一つ折れただけよ。範囲だってごく一部だし。あは、あはははは――」
「笑っている場合ですか!」
「はひっ」
一喝され、イコラはわかりやすく身を縮めた。並んで立つトールたちも一斉に背筋を伸ばす。長年くり返されてきたやりとりに対する、ほとんど反射的な動きだった。
「まったく! ケンカのたびに騒ぎを起こさんと気がすまんのですか、あなたは! 仮にも領主(ロード)なのですぞ、領主(ロード)! この街の最高責任者です!」
「わ、わかってるわよぅ」
「毎度まいど尻拭いをさせられる者たちの苦労を考えなさい! 今回など爆発騒ぎですぞ? 火まで広がりかけたというではありませんかっ」
「やー、みんなの手際がよくて助かるわ。日頃から高い危機意識をもって臨んでる成果よね」
「あなたの起こす騒ぎに巻きこまれているからです!」
ガルデンの言葉はまったく正しい。兵士たちや住人らの迅速な対処がなければ、被害はもっと広がっていただろう。早い現場整理の成果もあり、爆発の影響を直に受けた者はいなかった。
今、この場に立たされている当事者たちを除いては。
中でも主犯であるイコラに、ガルデンの叱責はどこまでも厳しい。
「少しは自覚し反省なさい!」
「し、してるってばぁ」
「やーい、怒られたー」
ニコラは変わらぬ調子で姉を茶化していたが、ガルデンに睨まれると少しだけ大人しくなった。
「それで、爆発の原因はなんだったのですかな」
「小麦粉だよ」
本当にほんの少しだけだ。問いに答える表情は得意げですらある。
「小麦粉?」
「うん。ぶわーって広がった細かい粉は、空気をいっぱい含んだ綿みたいなものなんだって。一粒が燃えるとその熱がまわりの粉を焼いて、あっという間に広がっちゃうの」
魔導において粉塵爆発と呼ばれている現象だ。一般に広く知られている知識ではないが、仮にも魔術師の端くれであるニコラには断片的な知識があったらしい。
十分な酸素が含まれる空間に飛散した微粒子は、時に急速な燃焼を引き起こす。その燃え方は単純に火をつけたときとはまるで異なり、瞬きの間で連鎖的に周囲の粒子へと伝わっていく。大規模なものは文字通り爆発と呼ぶに相応しく、条件次第では粗悪な火薬など比べ物にならない威力となる。
「それが倉庫を吹き飛ばすほどの衝撃を生みだした、と?」
「たぶん。いやー、開けた場所でよかったね。倉庫の中だったらもっとすごいことになってたかもしれないよ?」
ガルデンに教えるという普段ではありえない状況が楽しいのだろう。説明を終えたニコラは調子にのって姉に話しかける。
「粒が小さいほど爆発もおっきくなるらしいから、今度はもっと細かく挽いたのでやろうね」
「あのねぇ。反省してるの? 元はといえばあんたが悪いんだからね」
対し、イコラは唇をとがらせていた。この姉妹の機嫌と面倒は見えない天秤にかけられているらしく、妹が得意になっているときには、たいてい姉が迷惑をこうむるのだ。
言い争いになるのもいつものこと。
「えー、なんでー? 小麦粉まいたのおねーちゃんじゃない」
「あれは、まさか爆発するなんて思わなかったのよ。こう、ぶわーっと煙が上がったほうが驚かせられるじゃない?」
「うん。びっくりした」
頭の上に両手を広げて示した大きさに頷きを得て、イコラは得意げに胸を張った。
「でしょ? まさに狙い通りよ。人だろうが獣だろうがでっかいものに威圧されるのは同じ。異形(ベルグ)だって例外じゃないわ。工夫すれば街の守りにも使えるんじゃないかしら」
「でもツメがあまいよね。わたしならもっとカッコよくやれたのに。少し生き物みたいな動きをもたせるとか、時間差つけて広げるとかさ」
「あのねぇ。入念に準備できるあんたと違ってこっちは即断即決即実行なの。あんな短い時間で細かい細工なんかできるわけないじゃない。わたしだって段取りさえ踏めれば――」
「反省――」
弾む会話を、ガルデンが顔を突きだし遮った。見開かれた目はわかりやすく血走っている。
「――しているんでしょうな、お二人とも」
額に浮き出ている青筋が怒りに脈打つ様を見て、姉妹はひきつった笑みを浮かべた。乾いた表情は今にも割れてしまいそうだ。
「そ、そりゃもちろん」
「してるしてる。もう、反省の塊だよ。ねえ、おねーちゃん?」
「そ、そうよ。わたしたちは反省の絆で結ばれた姉妹といっても過言ではないわ」
「なんたって反省し慣れてるもんね」
「ええ。もう、お祈りよりも反省する回数のほうが多いんだから。もはや生活の一部。習慣というより習性、いえ、本能と化してるわ」
「息と同じだもんね。今までの反省暦を論文にまとめたら魔導書(グリモア)として認めてもらえるかも」
「ふ、まだまだね。わたしなんか寝てる間に反省してるから起きてるときは気にもしないわ」
「おおー。さすがはおねーちゃん」
「ふふ。ニコラもはやくこの域に達しなさい」
早口で錯乱気味の言葉を交わし、時おり意味もなく笑いあう。姉妹の寸劇じみたやりとりに、ガルデンは一歩を引いて息を吐いた。飛びださんばかりだった目も普通に戻っている。
「……まったく」
「あの……」
トールは声をかけようとして、やめた。なぜ自分たちまで叱責を受けているのか問いたかったのだが、隣のノルデオと視線を交わし、どうせ無駄だと思い直した。下手に意見すれば余計な面倒まで背負わされるのは長年の経験からも明らかだ。
それを、もっとも付きあいの長い者だけが気にしていない。
「いいですか、イコラさま。そもそも今回の騒ぎは――」
「まあまあ。そう目くじら立てるなって」
なおも言い募ろうとするガルデンの背に、プルカは笑いながら平手を叩きつけた。爆発の際にイコラを庇って熱波を浴びたはずなのだが、荒くれ者の親分は軽い火傷しか負っていない。挨拶代わりの一発もいつも通り。トールならば張り飛ばされているであろう勢いに、さすがのガルデンも声を詰まらせる。
「プルカ、おまえは――」
敵意に似たまなざしも、禿頭(とくとう)の楽天家には通じなかった。なにしろ二人の付きあいはパルモートの歴史よりも長い。少しは耐性もできているのだろう。プルカは楽しげにパイプを燻らせるばかりだ。
「大体おまえは昔から話がクドすぎんだよ。説教まじりの小言なんぞ今どきの若い連中がまじめに聞くわきゃないだろが」
「「そうだそうだー」」
声を揃えて囃(はや)す姉妹はガルデンの一睨みで沈黙した。
同じまなざしがプルカにも向けられる。
「なぜ私の隣にいる。おまえも向こうに立たんか」
「へ? なんで」
「なぜ、だと? 着火の原因がなんであるか、それが誰の不始末か、私に伝わっていないとでも思っているのか!」
火災は密集を強いられる都市において、もっとも身近でなによりも恐ろしい災害だ。放火ともなれば断首もありうる。事故や不注意であっても罰はまぬがれない。重い労役や地位の剥奪、財産の没収から国外への追放と、いずれにせよロクなことにはならない。
だというのに、当のプルカは変わらぬ調子でゆるやかにパイプを吹かしていた。
「ああ、それか。なに、心配するな」
「心配するな? なにをだっ」
「あの一件は区画整理作業の事故だからな。工程のズレに関しては連絡の不備だ」
「なに?」
激昂から一転、ガルデンは間の抜けた声を上げた。
よどみない報告は続く。
「ブチ撒けられた小麦粉は倉庫に残っていたものってことになるか。火元は不明で、監督不行き届きってことで大目にみてくれや。これからはパイプの灰もちゃんと始末するからよ」
「……なんの話だ。そんな予定も工程も認めた覚えはないぞ?」
「だが書類はあるんだな。不思議なことに」
「なに?」
煙を吐き笑うプルカの手には、たしかに一枚の書状があった。巻皮樹(ロール・ツリー)を剥がした粗悪品ではない。きちんと漉(す)いて作られたそれは、正式な文書に使われる上質な紙だ。
紙面には語られた通り、工事の詳細が書かれていた。工期に区域、費用に資材。作業に関わる人員から要する道具の調達経路まで、事細かに記されていた。まっとうな状況で審査を求められれば、手にして震えているガルデンも素直に認めていただろう。
元より、こうして見せられている時点で疑う余地など一つもない。
「なんだこれは。こんなものは聞いておらんぞ。承認したのは――」
書状の左上には、二匹のネズミが茨で結ばれた冠枠の国証が捺されているのだから。
『証(グリフ)』自体は珍しいものではない。ミディル大陸で生きている人間ならば誰もが一つは有している、身分を示す掌大の徽章だ。裏面には表の紋が鏡写しで刻まれていて、街の出入りや宿の署名、武器や魔導具を購入する際の印判として用いられている。
環茨双鼠(かんしそうそ)はパルモートの紋。街の住人なら誰もが自分の名を刻んだ方形の民証を持つことが許されている。
しかし、冠の枠をもつ国証を所有しているのはただ一人、パルモートの領主のみ。当然、捺すことができるのも一人だけ。
ガルデンが目を向けると、唯一の該当者はゆっくりと視線を逸らした。
「……仕事が早いですな。イコラさま。こんな時ばかり」
「や、やーねー。いつだって一所懸命で猪突猛進よ、わたし」
「その努力を日頃から心がけていただければ、私も説教をせずに済むのですが?」
「あ、あはは。またまたあ。息の変わりにお説教する人がなに言ってんの。やめたら死んじゃうんじゃない?」
「ふむ。そうかも知れません」
「ねえ」
「「あはははははは」」
笑い声が重なったのは一瞬だけ。
「公文書を偽造するなと、何度も何度も言っておるでしょうがあ!」
後に響いた一喝は、今日一番の大きさだった。
声の圧力にイコラが縮む。
「ぎ、偽造じゃないわよ。領主(ロード)が認めたんだから正式なものでしょ」
「なお悪い! こんな下らないことで信頼を失くしてどうする!」
「くだらないことでしかやってないからいいじゃないー。イチイチ会議でツっこまれるの面倒なんだもん」
「自業自得、因果応報っ。自らが犯した罪はきちんと贖(あがな)わんか!」
「わ、わかってるわよ。別にトンズラきめこもうなんて思ってないわ。ちゃんと罰は受けるわよ。
……でも、商人組合や衛兵隊や名士連中につけこむ理由を与える必要はないでしょ?」
パルモートでは領主の裁定を支援する目的で、街の有識者による評議会が行われている。
……というのは建前だ。実情は質の低い利権争いといってよい。商人、職人、兵士に神官と、それぞれの立場の代表が自らの領分にこそ多くを得ようと領主を惑わしにかかってくる。時に甘言を弄し、あるいは辛辣に論(あげつら)いくる場の中で、イコラは有益な情報を巧みに引き出さなければならないのだ。柵(しがらみ)は少ないに越したことはない。
――ない、のだが。
「そこまで考えておられるのなら、こんなバカ騒ぎは起こさんでほしいものですな」
「それはホラ。その場の勢いっていうか、ノリを裏切れないっていうか」
言葉を濁して「あはは」と笑うイコラに、ガルデンは重い息を吐きかけた。
「……いいでしょう。腹立たしいが、これ以上無駄な労力を割く時間も予算もありませんからな。ここにいる全員で罪を償い終わりとしましょう」
「うええ?」
「ぼくたちも、ですか?」
従者二人の文句はそのまま、ガルデンは罰を並べていった。
「まずは二巡りの奉仕活動。破壊した倉庫および周辺区画の整理作業に従事すること。北の市からも被害が報告されていたな。早朝および夜間の巡警にもあたってもらおう。
ちなみに賃金はでんぞ。手車(カート)やら露店やらの賠償に回すからな」
「そんなっ」
「や、休みないじゃないですか」
「整理作業と巡警の合間があるではないか。鐘の間一つは寝れる」
「さ、三時間、だけ……?」
「それを、二巡りですか?」
「若さとは素晴らしいものだ。この機会にしっかり実感しておくといい」
「そんなもん、とっくに思い知らされてますよ……」
肩を落としながらもトールたちは頷いた。正確には項垂(うなだ)れたのだが。ニコラはこの手の作業に積極的なので大人しいし、プルカも責任を感じているのか文句をつける様子はない。
問題は最後の一人。
「あ、あのさー、ガルデン?」
乾いた笑みのまま語りかけてきた領主に、後見人は忠実な態度で応じた。
「なんですかな」
「それだとさ、朝、昼、夜と働きづめじゃない? みんなはともかく、わたしには領主(ロード)としての公務ってものがあるわけで、そのノルマこなすのはムリじゃないかなー、なんて」
「ふむ。それで?」
「だからさ。わたしの分はトールとノルに代わってもらうってのはどう? ニコラとプルカおじさんにも分けてあげましょう」
「「な!?」」
当然、反発の声が上がる。
「フ、フザけんなよ、おまっ。もともと無関係なんだぞ、俺はっ」
「そうですよっ。ぼくなんか枕ぶつけられて気絶させられただけなんですからね、今回っ」
「おねーちゃん、ずるいー」
「だまらっしゃい。横暴は権力者の義務よっ」
下々の反抗に対して堂々と言い放ったイコラは、確かに支配者の風格を具えて見えた。絶句する従者たちを満足げに眺め、改めて提案を仔細に語る。
「ね、どう? みんなが不眠不休でやれば一人分ぐらい浮くでしょ? その代わり、領主(ロード)の仕事はバリっバリやるわ。会議だって予定通りにやるし、つまんない会食や会談にもでるし」
「当たり前のことじゃねぇか」
「当たり前のことが一番大変なのよ」
「そういうセリフは当たり前のことを真面目にやってから言いやがれっ」
「なによ。トールのクセにうるさいわね。こういうことでしか役に立たないんだから、しっかりお勤めしなさいよ」
「な、なんだとっ?」
「なによっ」
額を合わせて言い争うイコラとトールを眺めながら、ガルデンは顎に手を当てた。
黙考すること、しばし。
「なるほど。イコラさまが真面目に務めるというのであれば、これに勝る成果はありませんな」
「ちょ、ガルデンさん?」
「父上?」
「そ、そうでしょ? さっすがガルデン、話がわかるっ」
イコラは我が意を得たりとばかりに表情を輝かせた。驚く従者たちの機先を制してガルデンの横に並び立ち、命じる立場を確かにして晴れやかな笑みで言い渡す。
「そういうことだから、タダ働きはあんたらでやってきなさい。しっかりお勤めしてくるのよ。わたしはわたしで自分の仕事をまっとうするから」
「そうしていただきましょう。私もご一緒させていただきます」
「…………へ?」
それも、次の言葉を聞くまでのこと。
「な、に?」
「ですから、領主(ロード)さまの務めに同伴させていただきます。朝から晩まで、片時も離れずに」
「……はい?」
「よい機会ですからな。共に領主(ロード)の務めというものを見直しましょう。人の上に立つ者の作法、態度、心得、性根。しっかりと叩きこんで差し上げます」
「い、いや、あの、ね? 大丈夫よ? わたし、それぐらいちゃんとできるから……」
「無論、私とて人の子。共にいる間、息を止めることはできかねます。生きるためには説教も吐かねばなりますまい。それはもう、早朝から深夜までみっちりと」
語られた至極真面目な声に、その状況を明確に想像したのだろう。イコラの顔からは見る間に血の気が失せていった。なにしろ相手は手練の暗殺者すら一日で改心させてしまう説教の鬼だ。二巡りも続けられたら、記憶どころか人格まで書き換えられてもおかしくない。
「ちょ、ちょっとまった! やっぱりわたしも外回りするわっ。こっちの仕事はトールにでも押しつけ――って、あれ?」
イコラは慌てて生贄を探したが、伸ばした手は宙を掴むばかり。さっきまで壁際に立っていたトールたちは、すでに部屋の入り口へ移っていた。
「ちょっとぉ!?」
悲鳴じみた呼び声に、四人が一斉に振り返る。ある者は平たい目で、ある者はにこやかに。
「んじゃ、行ってくるわ」
「おねーちゃんもがんばってねー」
「ははは。ま、タマには仕事もちゃんとやっとけ」
「ご愁傷さまです」
かける言葉は様々ながらも四者の足取りに迷いはない。
「う、裏切り者ー!」
空しい叫びが響く部屋に残されたのは二人だけ。
「それでは」
「ひっ!?」
顔を青くしたイコラに、ガルデンはどこまでも真面目に告げる。
「二巡りの間、たっぷりとお付きあいいただきますぞ、領主(ロード)さま」
「ひやあああああ!!」
それからの一四日間、パルモートはそれなりに平和であった。
●幕間―「壊れたら新しいのを充てがえばよかろうよ」
日の変わりを告げる一つ鐘が静かに空へと沁みゆく夜更け。塒(ねぐら)としている廃屋の扉を、ザラス・リグベスタは豪快に蹴り開けた。
「うおう! 戻ったぜ、チクショウめっ」
鋭角な眼の赤瞳と乱れた赤髪がわずかに揺れる。口端の広い顔まで赤いのは浴びるように飲んだ酒のせいだ。臭い息を撒きながらテーブルに荷を叩きつける。
「ひっ?」
布で巻かれた六本の剣がガシャリガシャリと雑に軋むと、後についてきた若い女が潰れた悲鳴を上げた。部屋にいた五人の男も一斉に息を飲む。汚れたベッドに倒れこむザラスへ恨みがましい視線を送るも、空腹の狼を思わせる振る舞いに文句をつける者はいない。 いや、部屋の隅で乾物を削っている気配の薄い黒衣だけが、一瞥もせずに声だけ向けた。
「あまり乱暴に扱うな。折れては元も子もなくなる」
「うっせぇ! 人をガキの使いみてぇにコキ使いやがって!」
抑揚の少ないベルゼンの声を、ザラスは怒鳴りでかき消した。身をひそめる日々にうんざりし自ら役を買ってでたことなどすっかり忘れている。
「テメェの方はキッチリやったんだろうな、ああ?」
「予定通り二本を送り出した。二日後には着くだろう」
「二本? 二本だ? まだそんなまだるっこしいことやってんのか!」
乾物を削る作業を止めず冷静に答える術士(ワード)の態度に、ザラスの声はますます高まる。
「そんなんだからいつまでも計画が進まねぇんだろうがっ。もっと一気に運べってんだっ」
「パルモートは隣町(ここ)と違って入街の審査が厳しい。一度に多くを持ちこむのは危険だ。二本にしたのが最大の譲歩だと思え。回数も可能な限り増やしている」
「バレるってのか? はっ、テメェの術ってのはその程度かよ」
「質ではなく量の問題だ。どれほど巧みに隠蔽しても品自体が特殊なことには――」
「あー、うるせぇうるせぇ! グダグダ言ってんじゃねぇよっ」
ザラスが床を強く踏むと、家屋全体がギシリと揺れた。パラパラと頭に落ちくる木屑を殴るように払いのけ、唸りの声をさらに高める。
「あんなヘボい街の連中が気づくわけねぇだろっ。"隠蔽(コンシール)"だけでも十分すぎるぜ」
「……かもしれんがな。父君の指示だ。従わないというのなら止めはしないが」
「っ――」
噛みつかんばかりの勢いを、ザラスは唐突に失った。赤い瞳がかすかに揺れる。酔いや怒りによるものではない。精神(こころ)を震わせるものは、もっと深い、別のなにか――
動揺が収まった時、声音は先より落ち着いていた。
「……けっ。オヤジもなにビビってんだか。さっさとブッ潰しちまえばいいんだ、あんな街」
「焦るな。まだその時ではない」
「うっせぇな。わぁってるよ。待ってりゃいいんだろ、待ってりゃ。
おい、ニクス」
「は、はい?」
話の終わりを告げる代わりに、ザラスは女を呼びつけた。町の娘よりもやや上等な身なりの、ほっそりとした面立ちの女性は、眉をひそめ肩を震わせていた。
それが気にされるはずもない。
「寝るぞ。来い」
「は、はい」
床を大きく軋ませる歩みに、女は足音を立てずついていった。表情はすでに血の気がない。本物の狼を前にしてもこれほど蒼白にはならないだろう。
無言で見送る男たちの中、ベルゼンが一言だけ送る。
「大人しくやれよ」
「大人しいだろ、俺は。うるせぇのはコイツだぜ」
ザラスは扉の前で振り返り、親指を身を縮める女に向けた。自然と口の端が吊り上がる。
「遊びもケンカも、殺しまでガマンさせられてんだ。女ぐらい好きにヤらせろ」
獲物の腹に鼻をつっこむ獣のような笑みだった。息をひそめていた男たちが完全に硬直する。動けば自分に被害がおよぶと本能で悟ったのだろう。
ただ一人、ベルゼンだけが変わらない。
「程々にな」
「へっ」
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。部屋を満たしていた獣の威圧も薄らいでいった。
廊下からの音が完全に消えたことで、男たちがようやく動きをとり戻す。
「あ、あの、ベルゼンさま」
「いいんですか、あれ……」
震える声の問いかけは扉の向こうを意識したもの。これから始まるであろう男女の営みを、彼らは明らかに恐れている。
それはそうだ。聞こえてくるのが艶(なまめ)かしい嬌声ならいざ知らず、獣に貪(むさぼ)られているような悲鳴では、まっとうな感覚では耐えられまい。
ベルゼンの調子は変わらなかった。乾物を削る作業のまま、顔を上げようともしない。
「かまわんだろう。退屈しのぎがアレの役目だ」
生まれた変化はただ一つ。漆黒のローブが一度膨らみ、縮んだだけ。
「壊れたら新しいのを充てがえばよかろうよ」
一瞬、空気が張りつめる。それだけで口を開く者はいなくなった。
結局なにも変わらない。
人に捨てられた廃屋の中、粗暴と悲鳴の響く夜はつつがなく更けていった。
●「そんなんだからいつまでたってもハナタレ小僧なのよ」
「"起(ラン)"」
弾かれた"遠隔の呪"の起弦(トリガ)に応じ、硬い大地に置き設えられた四枚の呪符(アーク)が輝きを帯びた。各々の中央に嵌まる魔石から強い白光が四方に伸び、一つの辺が一〇メトルはある方形の呪陣を描いていく。
内に広がり満ちゆく呪字は巨大な魔力を導く道。力が形を成してゆくほど、精神領域(アストラル・サイド)の震えも大きさを増す。広がりきった四つの陣は、二辺と一角を重ね合わせ、場のすべてを覆いつくす巨大な正方形の域を創(う)んた。心を直に震わせる、耳には聞こえない不快な音も、重さと低さを増していく。
同時に、多脚の蟲が肌を這うようなおぞましさが周囲を襲った。魔術の発動に伴う不快感だ。成りゆきを見守る人々は怯えのままに退いたが、濃くなる力は止まらない。いよいよ強くなる威圧、ますます輝く魔の光に、世界そのものが軋むような錯覚が広がっていく。
だが、それも束の間だけ。
場を覆い尽くした白光は地に飲まれるように色をなくし、大気の震えを要さぬ音も一瞬にして凍りついた。宙を歪めていた魔の力すら一陣の風に吹かれて消える。
代わり、地面が大きく鳴いた。圧し固められた硬い大地は轟音とともに内から爆ぜ、大きく走った亀裂からは間欠泉のように水が噴き、土の破片も雪の如くゆるやかに形を崩していく。
音が鳴りをひそめた時、広き正方形の内側は、そこだけが大きく砕けていた。
「……お、終わった、か?」
震える声でトールがつぶやく。恐る恐るといった調子は彼だけでない。作業を待っていたはずの労夫たちも、彼らを守るべき兵士たちも、大人しくなった現場を前に呆然としていた。無理もない。街に生きている者がこれほど大規模な術を目の当たりにする機会は滅多にないのだから。
「成功みたいね。ちょっと後がぎこちないけど」
腕組み平静を装うイコラも、内心では大いに興奮していた。
領主の務めは領地を守ることだ。その内容は多岐にわたる。
パルモートにおいては街壁の補修に改築・拡張。出入りする人々や品々の審査に関する方針の決定。魔術の暴発やならず者のケンカといった日々巻き起こる騒動の予防に、巻きこまれて家や道具を壊された者たちに対する補償。限りある土地の使い方や展望までみこした思案・実行に、都市の維持・発展に必要な税の算定・徴収と、上げていけばキリがない。
多くは計画と予算を定めて担当者に任せるのだが、イコラはなにかと理由をつけては監督の名目で現場を訪れた。領主に就任した当初の、すべてを自分で仕切ろうとしていた頃ほどではないが、その腰はいまだに呆れるほど軽い。時に労夫と共に汗を流し、時に下町のおばちゃんたちと井戸端会議に花を咲かせているのだから、トールが頭を抱えるのも当然だろう。
領主の行動力は壁の外においても変わらず、むしろ積極性を増した。異形(ベルグ)の脅威にさらされた村があれば討伐隊を率いて出陣するし、新たな田畑を作る時には自ら検分し鍬(くわ)も振るう。大きな道を拓く時。古い橋を直す時。潰えた村を弔う時に、町の再建を祝う時。重ねられていく日々の光景を、イコラは自らの目で、耳で、心で感じようとしている。
今日はこの丘陵地に立ち、新造される放水路の見物――もとい、監督に訪れているのであった。
工兵たちの指揮で動きだした労夫を見下ろし、監督役の老人はボサボサの髭を撫ですいた。
「パルモートの連中ははじめて使うシロモノだからな。まぁそのうち慣れるだろう」
ゼオバルク・ゴールトンはノドス地方の大規模工事を指導する建造士(ビルド)だ。ミディル大陸最大のエンブロクス運河を拓いたことで名を馳せた人物なのだが、今はパルモートの客分として手腕と毒舌を揮っている。
「慣れるだろう、じゃねぇよ! 人が話してる最中にいきなり始めんなっ」
怯えを誤魔化し噛みつくトールを、ゼオバルクは一瞥もしない。
「作業は定刻通りに進めとるだけだ。呪符(アーク)の効果を確認したいと、お前らの方が割りこんできたんだろうが。なにをエラそうに吠えとる」
「う……。や、やるならやるで一言いえってんだっ。なんでも勝手に進めやがって。お前らのそういうところ、がっ!?」
「もう、やかましいわね」
トールの脳天に手刀を落としてから、イコラも改めて下を見た。
呪符(アーク)とは、一度限りの意思を具現する小さな呪換石だ。術士ではない者でも発動させることができるため、対|異形(ベルグ)用の切り札として用いられることが多いのだが、近年では日常に関わる特殊な使用法も思案されている。
水路工事の地盤造りもその一つ。新しい工法の実施に際し、イコラは嬉々として現場に乗りこんできたのである。
「理屈はどんなんだっけ? 地面を泥にするとか聞いたけど」
「土の中の空気を水に変える術だ。本来なら泥状になるんだが、こういった重い地盤では大まかな塊に止められる」
問いへの答えはなめらかだった。魔導国家(ロディティルム)で生まれた建造士にとっては慣れた質問なのだろう。
「ふーん。余計に重くなるんじゃない?」
「効果は数刻で切れる。魔術(マギ)による変化は永続するものではないが、砕けた地盤まで元に戻るわけではないからな。掘り割る手間を省けるわけだ」
「なるほど」
地盤に走る小さな裂け目に水の楔(くさび)を打ちこんだようなものか。音も、変化も、噴き出した水も、隙間を得た土が動いた結果だ。収まりさえすれば通常と同じ作業ができるようになるだろう。
「痛……。イコラっ。テメェ、人を意味もなく殴るんじゃ――」
「トール。あなたもちゃんと見ておきなさいよ。これから使うことも多くなるんだから」
復活してきたトールを真面目な口調であしらう。それ以上の追求がムダであることは長年の経験で心得ているのだろう。護衛兼従者の若者はしぶしぶといった様子で下に目を向けた。のそのそと広がりはじめた労夫たちを見て、ぽつりと疑問の声を漏らす。
「……なあ。あのフダで街の壁とか壊せるんじゃねぇか?」
「無理よ」
「なんでだよ。壁そのものは難しいだろうけど、土台の地面とかなら崩せんだろ?」
「無理なの。もう。そんなんだからいつまでたってもハナタレ小僧なのよ」
「だ、誰がハナタレだ、誰がっ」
長い時を共に過ごしてきても、覚えることが同じとは限らない。従者の無知を嘆きながら、イコラは簡単な講釈をはじめた。
「戦士(マイト)の遺骨に霊的な力が宿ることは知ってるわね?」
「それぐらいは、まあ。戦士に限らないだろ? 異形(ベルグ)の骨だって魔術師連中は重宝してるし」
「そう。道具の材料や増魔石(アンプ)の素材、呪符(アーク)のインクとかにも含まれてるわね。魔導の見地からすると、骨には魂の要素が多く含まれてるらしいわ。精神の領域(アストラル・サイド)においては他からの干渉を妨げる効果があるんだって」
この世界に存在するあらゆるモノは、イーディアと呼ばれる「自らを形造る精神の領域」を有している。命の有無に関わらず、ただの石にも心の強度があるのだ。
魔術が及ぼす影響とは、いわば自我意識(イーディア)を侵す波。他の干渉を妨げる作用は、心を守る防衛機能だとも云われている。その力は意思の大きさに比例し、生きている者、生きていた存在(もの)、想いを残す物ほど強い。魂の核でもある骨は、特に強い遺志を残すのだと。
「魔術や神法、戦士の技に異形(ベルグ)の力も、多くは心の干渉を利用するもの。逆にいえば、この干渉さえ緩和すれば、どんな種類の力でも軽減することができる。
つまり、骨を素材に使うことで"抵抗(レジスト)"できるのよ」
「……つまり、街の壁にも?」
「そ。街壁や土台には遺骨の一部が埋めこまれたり、遺灰が混ぜこまれたりしてるわけ。"爆裂呪(バング)"とかを叩きつけられてもある程度は耐えられるし、直接影響を与える呪符でも発動自体を阻害できるわ」
「はー」
「だから壁の石やその周囲の土は棺や骨壷を使って運ぶの。死してなお街を守り続けてくれてる戦士(マイト)たちに敬意を払ってね。建てるときも神官(プリースト)が祈りを捧げるし、定期的に鎮魂と感謝の儀式を行ってるわ。お祭にだってそういう意味があるんだから」
「それで魔術(マギ)にも耐えられるのか?」
「そうよ」
「ま、「ある程度」以上の効果は期待できんがな」
得意げなイコラの講釈に、ゼオバルクが割りこんできた。乱れた髭を整える仕草はどことなく楽しげだ。
「骨以外にも色々と利用されとる。異形(ベルグ)の骸もその一つだし、けったいな花を植えてるとこもあるな。
それでも強力な術や力には対抗しきれん。デカい街では呪紋や儀式による強化と併せるのが普通だ」
「らしいわね。余裕があれば手をつけたいところなんだけど」
「はあ。色々とメンドくせぇこと考えてんだな」
本当に理解しているのだろうか? 口を半分あけた、いかにも間抜けなトールの顔を見て、イコラは小さく息を吐いた。
「もっと教育しないとダメね。魔導院(アカデミー)の誘致も考えるべきかしら」
「手をつけるだけで満足しているようでは大差ないがな」
ゼオバルグのつぶやきにも同じような意図が感じられた。ただ、向けられているのはトールだけではない。
「なによ。わたしがトールと同レベルだっていうの?」
「どれほど優れた道具も、機構も、ただ使うだけならサルでもできる。自分で考え活用できなければ意味がないのだ。わかっとるか?」
「わ、わかってるわよ、それぐらい」
「ふん。どうだか」
「なによ、う……?」
たじろいだイコラの眼前に、ゼオバルクは懐から取りだした筒状の紙束を突きつけきた。
思わず受けとり、広げ見る。
「なによ、これ……入街の記録?」
正確にはその写しだ。またぞろ手近な兵にでも命じたのだろう。粗悪な紙にはやけに丁寧な字で審査の内容が記されていた。
名はサレイン・クード・キサエシス。出自は隣国ブマールの都市クバルト。木の下で眠る虎と山羊の絵は、捺された証(グリフ)の代わりか。なかなか上手い。丸い縁で戦士と知れ、図柄(シンボル)で属する斡旋所がわかる。問題が発生すれば身元を洗う手がかりとなるが、今のところ疑う点はない。
目的は『宿泊』といたって普通。逗留先は『踊る小鹿亭(ホプ・フォーン)』。それほど大きくはないが、治安も値段も悪くない宿だ。滞在日数の予定は七日。税の払いも、荷の重さも、これまた目を引くところはない。
所持品の数が多いのもごく自然。通常の剣が一振りに、魔力を帯びたものが二振り。硬革鎧(ハード・レザー)と古びたマント。手斧、ナイフ、ロープ、水袋、と旅の品々が続き、衣服、装飾、調理道具など雑多な諸々まで細かく記載されている。手間がすぎると商人組合(ギルド)から不評を買っている内容は、イコラが見てもうんざりするものだったが、これも街を守るためだ。しかたがない。
他にも、宿泊の証明印、武器を手入れした店の印、同じく売買の確認印、などなど。こまごまとした項目を含め、入りと出の記録が揃いで、合計三つ。すべてに目を通したが、記載に漏れがある様子はなかった。
思わず首を捻る。
「これがどうかした? なにか不備でもある?」
「仕事に不備はない。あるとすればその後だ」
「あと?」
中身に問題がないのであれば、外か? あるいは――
改めて記録を見直してみる。日付はここ二巡り以内。出入りは一人ずつ順になっている。間隔はほぼ五日おき。滞在予定の日数に足りていないものもあるが、さほど珍しいことでもない。
個人を証明する証(グリフ)も、共通しているのは戦士に類するという部分だけ。国も、属する斡旋所も違う。偽造されている可能性はあるが、ゼオバルクも紋章官(ヘラルド)ではないから、その点を察することはできないだろう。
となると持ちこんだ、あるいは持ち出したものか? しかし、街を出る際に増えた品は食料などの消耗品だけだ。気になるものには魔力を帯びた剣があるが、審査の"魔力感知"は義務化されている。特に注意がない以上、通常の武器と同じように巻布と蜜蝋の簡略な封で持ちこめる程度のものなのだろう。強力にすぎる品は警戒され、場合によっては街で預かることになるが、三つとも、そのような処置がなされたとは記されていない。
……三つとも?
それが共通しているとようやく気づいた。同時にもう一つ、すべてに付随している印がある。個別に見れば問題はないが、まとめてみると確かに不自然だ。
武器売買の確認印。普通、魔力剣(マグナム)の取引とは、これほど頻繁に行われるものではない。
「……ゼン爺。これって、この三つだけ?」
「さてな。ワシも暇ではないのだ。どれぐらいあるかなど知らん」
真剣さを戻したイコラの問いに、ゼオバルクは変わらぬ調子で答えた。ボサボサの髭を手でしごき、作業場の動きを気にするばかり。
「自分で調べるこったな。領主(ロード)さまよ」
ただ、一瞬だけ見せた小さな目は、明らかに笑みをにじませていた。どこか見下したような、挑発的なまなざしだ。
基本、売られたケンカは買うことにしている。
「トールっ」
「ん? なんだよおぉ!?」
のん気に構えていたトールの顔を、イコラは強引に引きよせた。掴んだ首根を締め上げ、のしかかりながら命(めい)を下す。
「帰るわよ。馬、連れてきて」
「帰るって、さっき来たばっかりじゃねぇか」
「見るべきものは見たでしょ。のんびり見物に来たわけじゃないのよ」
「メチャクチャ言うな。おまえが来たいって言ったんだろうが。俺は反対したんだ――」
「だったらいいじゃない。さっさとしなさい、よっ」
「でぇ!?」
決めたからには有無を言わせない。イコラはトールの尻を蹴り、一転して笑顔を浮かべた。
「ありがとう、ゼオバルク老。とても楽しい一時だったわ」
「おや。教えろとは言わんのか?」
「ええ。わたしはちゃんと自分で考えますから」
皮肉を利かせた返事も優雅なもの。今ならば後見人(ガルデン)も説教できないだろう。イコラは見下し返すように髪をかき上げた。後ろでまとめた蜜色に触れることはなかったが。
「それじゃ、ごきげんよう。――ちょっと、トール。いつまで待たせるの。そんなんだからいつまでもハナタレ呼ばわりなのよ――」
遠ざかるじゃじゃ馬の後ろ姿を見送り、ゼオバルクはぽつりとこぼす。
「貫禄だけは大物じゃな」
髭しごく仕草はどことなく楽しげだった。
●「人を使うときは生かさず殺さず、厳しいムチとわずかなアメが重要だって」
「――で、これが街の出入り記録を調査した成果よ」
放水路でのやりとりから三日、イコラは『かぐわしき煙亭(フラグフォルグ)』の地下にいた。店の主であるプルカに紙束をつきつける表情は、薄暗い地階の冷たさを忘れさせるほど晴れやかだ。
「ふぅむ」
受けとった資料に目を走らせながら、プルカはパイプを燻らせた。煙はゆるやかにたゆたい昇り、天井をわずかに霞ませた。骨灰を含んだレンガの壁には虫の入りこむ隙間もない。内外の干渉を封じる部屋は牢代わりにもなる頑丈なもので、日頃は密談の場として使われている。
まとめられた三ヶ月分の情報を手に、プルカは感嘆の息を吐いた。
「けっこうな量だったろう。よくまとめたもんだ」
「まあね。領主(ロード)が本気だせばこんなもんなのよ」
「なにを、エラそうに、ほざきやがるかな、このアマは……」
腰に手を当て胸張るイコラに、トールは地下に相応しい陰鬱な声を向けた。半眼、蒼白でテーブルにつっぷした姿は、さながらゾンビか新手のグールだ。
「なによ? 変なイチャモンつけないで」
「なにがイチャモンだ。調べたのは俺だろうが」
まぎれもない事実だ。トールは丘陵地から戻るなり、南門の記録保管庫に叩きこまれ、山のような審査書類と今の今まで格闘していたのである。
日々増え続ける粗悪な紙は、倉の中に詰めこまれて腐るがまま堆肥となり、最後には近隣の畑に撒かれるシロモノ。入出のチェックを終えた後は整理も管理もされていない。
ほのかな腐臭が漂う薄暗い倉の中、積み上げられた紙くずを掻きわけ、疑わしいものを選別し、調べ、写し、まとめたのだ。その苦労たるや、いまだ目にするすべてのものが文字と数字に見えるほど。
それを、
「なに自分だけ苦労したみたいに語ってやがる。人をあんなとこに三日も閉じこめやがって。おまえがなにしたってんだよ」
「やる事と調べかた教えたでしょ。なあに? ぜんぶ自分で考えたつもり?」
「……いや。ま、そうだけど……」
それも事実には違いない。イコラの指示がなければ記録を調べることもなかったし、どこに問題があるのか理解することもできなかったのだから。
「でも、だなあ……。実際に苦労したのは俺だぞ? ちったぁねぎらえってんだ」
「的確な仕事は的確な指示によって成される。優れた人物ならやるべきことは自分で見いだすものよ。文句を言う前に己の行いを省みなさい。人に言われて動いてるうちはお褒めの言葉なんて上げられないわね」
「む、ぐぅ……」
年上ぶった言い草に反論できず、頬をぐにぐにと突つかれる。
相変わらずの光景に、プルカが苦笑を漏らしていた。
「話を進めていいか?」
「ええ。ごめんなさいね、ウチの従者(サイド)が」
「俺のせいか?」
抗議が黙殺されるのはいつも通りだが、それ以上の追求はできない。
「問題は剣か」
「そう。それも魔力(マナ)もちの、ね」
イコラが姿勢を正すとともに、空気がわずかに張りつめたからだ。
「トール」
「お、おう」
トールは促されるまま身を起こし、調べた結果の表をテーブルに広げた。
「禁制品の持ちこみや税の誤魔化しなど、疑わしい件は他にも見つかったんですが、今回まとめたのは魔力剣(マグナム)の売買に関する事案です」
魔力剣(マグナム)とは文字通り、魔力を付与された剣である。刃の鋭さを増したり、刀身の強度を上げたり、復元能力を帯びさせたりと、効果のほどは様々だ。
通常の刀剣や呪符に比べて遥かに高い価値があり、簡易的な封だけで街に持ちこめる弱い魔力剣でも、一本あれば一個分隊五人分の武装は揃えることができる。金銭的な意味だけでなく、単純な戦力に換えてもだ。
優れた戦士ほど手放そうとはしないのが普通――なのだが。
「入出の記録を照合した結果、大量の魔力剣(マグナム)が街に流入していることがわかりました」
「この資料が全部か?」
「はい。五人の戦士(マイト)が個別か組で、ほとんど入れ替わりに持ちこんでいます。ここ三ヶ月で一六件。剣の総数は二三振り。おまけに買い手は武器商ではなく個人です」
この数は明らかにおかしい。プルカも眉間に皺を寄せた。
「戦争はじめる予定でもあったか?」
「あるわけないでしょ。そんな余裕も逼迫(ひっぱく)した理由もないわよ」
「周辺でもそれらしい話は聞かんしな。食うに困った連中が売りにきた、わけでもないか」
「明らかに人為的なものです。日を追うほど急激に増えていますから」
テーブルの上に視線が集まる。日を横の、数を縦の軸で示した図表(グラフ)は、魔力剣の累積数を×印で記したもの。
一つ一つを結んだ線は、急激に右へ上がっていた。
イコラに言われるがまま漠然と記録を追っていたトールだが、この図表(グラフ)を作り終えたときには肌の粟立ちを覚えた。彼女の懸念も今なら理解できる。日に日に街へ持ちこまれ、増え続けている謎の魔力剣。確かに不気味だ。煤けて見える作為に奇妙な興奮すら覚える。
だが、斡旋所の主はいつもの通り、静かにパイプを燻らせていた。
「なるほどな。しかしこれは、危険を伴うものなのか?」
「え?」
加熱していたトールの思考に、その問いは氷水のようによく沁みた。
「確かに普通ではないが、審査で通る程度の魔力(マナ)なんだろう? 別に"爆裂呪(バング)"をバラ撒くようなシロモノではあるまい」
「それは、まあ……」
確かにその通りだ。パルモートの入街審査は他の都市に比べても厳しい。街に持ちこむ品には必ず"魔力感知の術"が掛けられる。精度は低くとも強力な魔導具(マグナル)ならば確実に判別できる術だ。大規模な破壊が可能な品なら厳重な封印が施され、場合によっては街で預かることになる。売買に関しても詳細な報告が必要なため、そう簡単には行えない。
だが、記録を見る限り、問題の魔力剣はそこまでの品ではないのだ。通常の武器と同じように巻布と蜜蝋の封だけで何事もなく入街を認められている。
「つまり、個人の力量を補助する程度だ。耐久性や伝心率の関係で戦力的な価値は高いが、それも使い手の技量次第。金さえあれば手に入らんシロモノでもないだろう」
「ええと……」
「魔力剣(マグナム)はある種のステータスでもあるしな。ウチの若い連中にも欲しがってるヤツは多い。入ってきた数は確かに目を引くが、商品としての扱いに規制はないしな。鼻の利く商人(マチェット)が儲け話でも考えてるのかもしれんし、好事家(コレクト)が蒐集してるだけかもしれん」
「はい……」
そういった理由なら他者が口を出すことではない。イチイチもっともな意見の数々に、トールは自然と目を平めていた。忘れていた疲労がずしりと肩に圧しかかる。三日分の苦労だけではない。それが無駄だったのかと思うと、テーブルにつっぷして同化したくなった。
誰のせいか? 考えるまでもない。
せめて痛みを分けてやろうと暗い思いで見たイコラは、しかし表情を変えていなかった。
「否定はしないわ。そこのところを確認するために来たのよ」
平然とうなずく態度は反論も予定通りといわんばかりだ。いや、事実そうなのだろう。堂々たるイコラの姿に、トールは思わず疑念を吐く。
「……ちょっとまて。おまえ、確証もないのにあんなことさせたのか?」
「当たり前じゃない。あれだけでなにか分かるもんですか」
あっさりした返答は、むしろ意外そうだった。
「な、なんもなかったらどうすんだよっ?」
「問題がないならそれに越したことはないでしょ?」
「あ、あのなぁ……」
脱力しきった従者に、イコラは呆れの笑みを向けた。
「英雄譚や伝承歌じゃあるまいし、やること全部に意味がついてくるわけないでしょ。防衛ってのはね、一〇〇の苦労をして一の実りを得る地道な作業なのよ」
姉が弟に言い聞かせるような口調、否定しようもない堅実な言い分に、トールは唇をとがらせることしかできなかった。出てくるのは恨みをこめたグチぐらいだ。
「じゃあ、なんで今までやらなかかったんだよ」
「言ったでしょ。九九は無駄になる。先にやらなきゃいけないことがいっぱいあったのよ。
でもま、これが悪事に関係してるなら見直す必要があるわね。衛兵(ガード)に調査部とか作らなきゃいけないし、調べる手順もまとめなきゃならない。やれやれ、また予算がかさむなぁ」
疲れた様子で息を吐くも、イコラはどこか楽しげだった。基本的には新しいもの好きなのだ。伴う苦労も楽しめる度量だけは実に大物然としているが、そのほとんどを肩代わりさせられるトールとしては不安しか覚えない。
見守るプルカは静かにパイプを燻らせていた。
「なるほど。この街もそういう段階に入ったか。しかし、よく気がついたな、こんなネタに」
「え? あー。それは、ほら……」
問われ、イコラは蜜色の瞳を泳がせた。右へ、左へと往復し、少しだけ早口に語る。
「そう。せっかく厳しい審査してるんだから、有効活用しないとね。日頃から考えてはいたのよ、うん。その懸念がこの不自然な記録を目にしたことにより一気に花開いたというか――」
「ケっ。なに調子いいことヌかしてやがる」
声に含まれた動揺を察し、トールは反射的に悪態を挟み、
「ぜんぶゼン爺の受け売りじゃねぇ、ぐあっ!?」
直後、側頭に手刀を落とされた。流れる動きはもはや予定調和。
「バラすな。カッコつかないじゃない」
「くはははは。なるほど。爺さんの入れ知恵なら聞いといたほうがよさそうだな」
十分に楽しんだのだろう。プルカは豪快に煙を吐き出し、満足げに顎を引いた。
「で、具体的にはなにをする?」
「そうね。まずは魔力剣(マグナム)を持ちこんでる五人の身元を洗うでしょ。宿と売買の相手も確認してちょうだい。他は――」
「て、てっとり早く尋問すりゃいいじゃねぇか。定期的に街に来てんだろ? 叩けば埃ぐらい出てくるぜ。なけりゃなんか付けりゃいい。直接聞くのが一番ラクだ」
トールは頭をさすりながら提言した。
外部からの来訪者とは、極論すれば未知の侵入者だ。戦時ともなればの都市の門は完全に閉ざされるし、警戒の強い僻地では旅人を拒む街も多い。パルモートが門戸を開いているのは、他とのつながりに重きをおく信仰と、交易による実利を求めているからだが、それも疑わしき者を受け入れる理由にはならない。
領主の務めは街を守ること。安全のためならば多少は強引な方法も許される。人間は時として異形(ベルグ)よりも恐ろしい脅威となるのだから。
そんな言い分を代弁したつもりだったのだが、イコラは表情を渋めていた。
「余計な波風は立てたくないのよ。まともな取引なら邪魔したら商人組合(ギルド)がつついてくるだろうし、まともでなくてもしょせん運び屋(カート)だろうし」
「なんだよ。ずいぶん弱気じゃねぇか」
「あのねぇ。なにか企んでても言い逃れられたら終わりでしょ。警戒されたら逆効果よ」
「はぁん」
イコラも内心では何かあると踏んでいるらしい。いや、まなざしの輝きを見るに、期待というほうが正しそうだ。日ごろ関わっている政治がらみとは赴きの異なる策謀の予感に好奇心を刺激されているのだろう。トールにとってはハタ迷惑な話である。
パイプをもてあそぶプルカは楽しげだった。
「なら泳がせて尾行する手だな。衛兵(ガード)に任せたんじゃネタが漏れかねんだろう。門兵(ゲート)の外注枠を増やしてくれるなら店の連中にやらせるぞ」
「まずは調査からでしょ。余計な出費はお断りよ」
「しっかりしてきたな」
「何度タカられたかわからないもの。もうウチの財政に削る余地はないのよ。最近じゃ食費どころかオヤツ代まで底をつきかけてるんだから」
グチめいたイコラの反論もどことなく弾んでいた。
「でも、そうね。準備はしておいて。一応、配備予定(シフト)の話はバロウズさんに伝えておくわ。名目は街の警備の強化ってことで、門から兵士(ビット)を街に回して空いたところを外注(ラウンド)で補いましょ」
尾行を行うのはよいが、単純に門兵を増やしては警戒の意図を悟られかねない。街の警備という理由を主とすることで、門側の配備から目を背けさせようということか。
「そこまでするか? 門兵(ゲート)が少しぐらい増えたって大抵の連中は気づかねぇぞ?」
「わたしなら気にするわ。他の人が同じように考えないと思うのは楽観的すぎない?」
姉気取りで諭していた先の態度はなんだったのだろう? イコラはトール以上に裏があると踏んでいるらしい。立場や状況の問題をかいくぐるようなやり方は、彼女こそが何事か企んでいるのではないかと勘ぐってしまう。
「いい機会だから徹底的にテコ入れしましょ。いつまでもゼン爺にバカにされてらんないわ」
「燃えとるな。若いヤツはそうでなくちゃいかん」
「タダの負けず嫌いだろ。まったく、幼稚というか無軌道というか残念という、がっ?」
悦に入ったイコラの手刀は、トールとテーブルを軋ませるほど鋭かった。
「んじゃ、そういう方向でおねがい」
「お、おう。報告は次の時ってことで」
「よろしくー。ほら、いつまで寝てんの。行くわよ」
「ぐががががぁ?」
話を終え、イコラは颯爽と部屋を出た。いまだ立てずにいるトールの首を後ろからひっつかみ、引きずって石の階段を上っていった。後に続くプルカの笑みが少しばかり苦みを含む。
「おまえらは、なんというか……。仲がいいな、あいかわらず」
「これの、どこが――」
「まーねー」
投げ槍なイコラの相槌には裏も含みも気遣いもない。
「ほどほどにしておけよ? 最近の若いヤツは軟弱だからな」
「そうね。これだけ使い勝手のいい従者(サイド)もなかなか見つからないだろうし」
「死なない程度にコキ使うこったな」
「わかってるって。母さんもよく言ってたもの。人を使うときは生かさず殺さず、厳しいムチとわずかなアメが重要だって」
「うむ。それがわかってれば言うことはない」
「「あはははははは」」
「おまえらなぁ……」
二人のバカな話と笑いは上階まで続いた。同郷ゆえか、性格のせいか、プルカとイコラのやりとりには気兼ねというものがない。わがままな姪に甘やかす叔父といった風情だ。公の場では実に上手く立場を演じているが、従者として彼女の振るまいに責任をもたされているトールとしては、いつ化けの皮が剥がれるかと気が気ではない。
なにしろ、街で会う者の大半がイコラの正体を知った上で気さくに話しかけてくるのだから。
●「壁と土、最期はどっちになりたい?」
「おう。領主(ロード)さまじゃんか」
酒場兼食堂をにぎやかしている数人の一人、レオン・シュトレノはそんな連中の筆頭であった。こざっぱりとした服装に整えられた長めの金髪。なごやかさを備えた下がりがちの目には、涼風を思わせる翡翠色の瞳が宿っている。笑顔だけなら爽やかな好青年に見えるだろう。
即座に抜ける長剣がかたわらに置かれていなければ、だが。
「あらレオン。あなたたち、スクレの村へ異形(ベルグ)討伐に行ってたんじゃなかった?」
レオンは『かぐわしき煙亭(フラグフォルグ)』に所属する巡行士(ラウンド)の一人だ。街を守る兵士と同じく、平時から市内での武器携帯を認められている彼らは、異形(ベルグ)に抵抗しうる貴重な戦力でもある。
倉庫・商店の警護・警備に、日々巻き起こる事件の調査。商人や旅人の護衛から周辺町村の防衛まで、報酬次第でありとあらゆる荒事をこなす「何でも屋」は、未知の危険に脅かされている辺境では欠かせない存在として扱われている。
「ああ、サクっと片つけて戻ってきたぜ。街で俺を待っているご婦人がたや、胸を痛めているご令嬢のため。なにより、麗しき君のためにな」
歯の浮くようなセリフを吐き、意味もなく笑みを輝かせているような者でも、だ。
芝居じみたワザとらしい仕草に、イコラは両手を組んで歓声を上げた。
「まぁっ。うれしいわ、レオン。わたしのために戦ってくれたの?」
「そうですとも、ミス・パルモート。この命は貴女のためにあるのですから」
「お金のためじゃなくて、わたしのために。街と村を脅かす異形(ベルグ)と戦ってくれたのね。
タダで」
「もちろ――ん?」
弾むようだったレオンの言葉が、その一言で凍りついた。
にこやかな会話の中、冗談めいた口調であっても、損得にからむ言動に関しては常に真剣なのがイコラの長所だ。酒場で飲み比べた際の払い、子どもから請け負った仔ネズミの捜索、巧みな話術に騙されて認めさせられた権利の委託と、どれほど小さな口約束も、自分が不利益をこうむる契約も、イコラはすべて果たしてきた。それが彼女の信条であり、相手に対する武器でもあるからだ。どれほど頑なな者でも、一度言質をとってしまえば精神的な優位に立てると、濃密な日々の中で会得したらしい。
「そしてこれからも戦ってくれるんだわ。ああ、なんてすばらしいの。無償の愛に勝るものなんてこの世にないわね」
レオンがパルモートに来てからもう二年。天を仰いでクルクルと回っているイコラの恐ろしさは十分すぎるほど思い知らされているだろう。
「え、えーっと、ロード・パルモート?」
呼びかけに応え、イコラはレオンの手をとった。ぬくもりを分けるように優しく握り、ほほえみを浮かべて見つめあう。
「安心して。あなたの働きは、働いた対価は、わたしがしっかり管理・運用して街の役に立ててあげるから。さしあたっては今回の報酬とか」
「い、いや、それは!」
「だいじょうぶ。最低限の衣食住と装備は保証するわ。どんな重傷を負っても可能な限り動けるようにしてあげる。
ううん、動けなくなっても見捨てたりするもんですか。あなたはわたしたちの英雄だもの」
相手の動揺を無視して語り続けた結末は、天使のような至高の笑顔。
「壁と土、最期はどっちになりたい?」
「ままままマスター!?」
それがどのように見えたのか。レオンは爽やさをかなぐり捨ててカウンターに救いを求めた。
「ん?」
「ん、じゃねえっ。店の貴重な人材が食い潰されようとしてんだぞっ。助けろ!」
「ああ……」
書き物に没頭していたプルカが、一瞥だけしてパイプを吹かす。
「この報告書、お前が書いたな? 汚すぎて読めんぞ。後金が欲しけりゃキチンと書き直せ」
「のおっ?」
テーブルに頭を打ちつけたレオンの様に、少ない客たちがどっと沸いた。一番大きな笑い声はきっかけであるイコラのものである。
トールは少しだけ同情した。本当にごく少しだけだ。思い返す日頃の恨みに、指さし笑うことは忘れなかった。
「それじゃ行きましょ。トール」
「お? おう」
促され、トールはイコラを追って店を出た。軽快な足取りは見ていて心地よいが、だからとすべてを受け入れるわけにはいかない。護衛として、あるいは従者として、一応は注意を投げておく。
「おまえなぁ。あんまりならず者連中とじゃれあうなよ? ガルデンさんに知られたらまた怒られるぞ」
「一緒になって楽しんでるヤツに言われたくないわね。あんたなんて弟子入りしてんじゃない。知ってるわよー。夜な夜な二人してイヤらしいお店に入り浸ってるって」
「なっ? バ、あれは、剣の指南の代価ってことで無理やり金払わされてるだけで……夜な夜ななんて行ってねぇ!」
「ふーん。行ってるのは否定しないんだー」
「あ……いや……」
固めた使命感も二言三言しか続かない。ニヤついた笑みを返されると沈黙せざるを得なかった。我が道をゆくイコラの斜め後ろにつき、歩む速さを合わせて進む。
そろそろ夕暮れにさしかかろうという時刻。街の中央へ向かう北央の通りには、仕事を終えかけた気怠げな空気と、逆に追いこみをかけようとする忙しげな気配が混ざりあっていた。
道の端を、鍬(くわ)や鋤(すき)を担いだ農夫たちが早めの晩酌を求めて笑いゆく。中央を走っているのは、木材を積んだ荷車を引く若い男だ。前から来るおばちゃんは抱えた食材に苦戦しながら、元気よく周りを駆ける三人の子どもを怒鳴りつけていた。活気に満ちた雰囲気に、まばらであるはずの人波も数より多く感じられる。
別の端では難しい顔をした老人が二人、小さなテーブルを挟んで向かいあっていた。行われているのは駒と札を用いて王を取りあう六陣(ヘクス)と呼ばれる盤上遊戯だ。中央の貴族から辺境の庶民まで広く伝えられている柔軟な娯楽は、ここパルモートでも老若男女を問わず盛んに楽しまれている。対戦する当事者は当然として、囲む観客まで熱くなっているのは、小さからぬ賭けが成立しているためだろう。
似たような熱気は歩みを進めるほどに深まっていった。
パルモートの中心には一区画ほどの瓦礫の山、一〇年前の政変時に崩された神殿跡がいまだに残されていて、封鎖されたその周囲を囲むように道と広場が置かれている。昼までは多くの露店が並ぶ、街で最も大きな市なのだが、日暮れを待つこの時刻には、賭けと酒と食い物の屋台が軒を連ねはじめる。夜ともなれば焼けた脂や酒気の臭いが漂い、賞金懸賞のかかった六陣(ヘクス)や、ネズミを走らせる賭け競技が熱を撒くのだ。
集まる人々はお世辞にも上品とは言えない。酔った客同士が口ゲンカや掴みあいをはじめるのはいつものことだし、チンピラもどきや新参者が起こすイザコザももはや日常。為政者としては規制を進めるべきところなのだが、イコラは混然とした雰囲気を嫌っていないようで、なるべく干渉しないまま、時に夜遊びを満喫していたりする。
今もまた、四方に忙しなく首を巡らせていた。
「やー、今日もにぎやかねー。楽しそうだわー」
「ああ」
「なにかしら、アレ。丸兎と蛇肉の団子焼き? 珍妙なモノ考えだしたわね。魔導国家(ロディティルム)で大流行とは、またやっすい煽り文句を。本当かしら? これは食べて確かめてみるしかないわね」
「そうかい」
「むこうは旅芸人(アート)の一団か。ずいぶん広い場所使ってるなぁ。ちゃんと許可とってんのかしら? 最近は演出とかいって術まで持ちだすのもいるし。もしかしてニコラの影響? やっぱりもっと厳しくしなきゃいけないわね。ダメなことはダメと毅然たる態度で臨まなきゃ。
それはそれとして、あの人たちの芸はいつ始まるのかな?」
「あのなぁ……」
「なによ。ノリ悪いわね」
唇をとがらせ振り返ったイコラの様は、まるきり町の小娘のよう。いや、一七という歳よりずいぶんと幼く見える。どれほど逆襲されようと、やはり意見しないわけにはいかない。
「なによ、じゃない。まだ仕事残ってんだろうが。早く戻らないとノルが泣くぞ」
ただでさえ邸を脱け出してきているのだ。バレる前に戻らなければノルデオが泣くだけでは済まないだろう。
だというのに、イコラは頬を膨らませるばかり。
「広場の管理だって領主(ロード)の仕事じゃない」
「それは監理官(ディレクト)の仕事だろ。人の領分にまで首つっこむな。そもそも注意もしねぇじゃねぇか」
「いいのよ。わたしが目を光らせているぞと思わせることが重要なんだから。心理的抑止ってやつね。いつ見られるかわからないからこそ、常に気をつけるようになるのよ」
「単なる気まぐれじゃねぇか。まったく、テメェのワガママにイチイチ妙な理屈つけんな。昔みたいに、とまでは言わねぇけど、もう少し真面目にやれ」
「うっさいわねぇ。そりゃトールはいいわよ。夜になればお楽しみが待ってるんだから」
「おた……? だからアレは、レオンのバカにつき合わされただけで――」
「どうだか。剣の修行なんて口実で、本当は夜の寝技でも習ってるんじゃないの?」
そう言って鼻で笑う表情の、なんとイヤらしいことか。
「お、おまえなぁ。仮にもレディーの言うことか、それが?」
「どうせわたしは田舎者よ。いいじゃない。世間ではそういうのも役に立つんだから。なんだったらそっち方面でがんばってくれても――」
「なにを下品にわめいているのかしら、ロード・パルモート?」
やりとりは冷たい注意に遮られた。横手からアイギナ・シュリミラが近づいてくる。場に合わせたらしい白い服はいつもより大人しく、それゆえの上品さを感じさせた。後ろに従えた黒衣の二人は護衛だろう。ゆっくりと歩み来る一行の姿には、相応しい気品と風格が備わって見えた。
頬を膨らませた領主とはえらい違いだ。
「なんの用よ?」
不機嫌な声に、アイギナは溜息で答えた。
「まったく。無許可の芸人(コント)が騒いでると聞いて来てみれば」
「誰のことよ、それ」
「いっそそちらに職替えしたら? あなたと妹さんなら笑いのネタにはこと欠かないでしょ」
鼻で笑われ、イコラは一歩前に出た。
「その場合、領主(ロード)の役目はあなたが引き継いでくれるのかしら? こんなところをふらついてるんだから時間はたくさんあるんでしょうし」
「じゃじゃ馬領主と一緒にしないでほしいわね。わたしはあなたと違って忙しいの」
眼を鋭くするイコラとは逆に、アイギナは口の端を上げた。右手で小さな拳を作り、振り薙ぐ動きで横手を指さす。
「ここにいるのはアレの監督のためよ」
「アレ? ……ああ。アレ、ね」
先には、見上げる首が痛くなるほどの巨大な剣が切先を天に向け聳(そび)えていた。正確には、刀身を模した白い石の構造物だ。
根元は半区画を占めるほど広く、先端までの高さは軽く四〇メトルはある。ならした丘の上に建つ領主邸からでも見下ろせない白剣は、今やパルモートでもっとも高い建造物だ。
中央広場の北側に置かれた街の新たな名物と、その周囲に群がっている露店と屋台と人々のなす雑多に、イコラは疲れたまなざしを向けた。
「まったく、ムダなもの建ててくれちゃって」
「ムダですって? ふう。まだ理解できないの? この――」
「説明ならけっこうよ。何十回と聞かされたから。パルモートの象徴となる建造物で、異形(ベルグ)の脅威を祓う剣でしょ? 人々の集まる目標にもなって、物と金の行き交う基点になる、と」
ここ数ヶ月聞かされてきた話だ。イコラとて内容も意味も理解しているだろう。
「……そんな簡単にいくものかしらねぇ」
だからこそ、国政を司る者として懐疑的な見方を変えられないらしい。七割がたの作業が終わった現時点で、あまり効果が現れていないという事実もある。
ただ、提案者の威勢は当初からまったく変わっていなかった。
「簡単だなんて思っていないわ。むしろ、障害は多く道は遠いでしょう。でも、いいえ、だからこそ! 目標に掲げて目指す価値があるのよ!」
やたらと熱いアイギナの言葉に、イコラは息を吐くばかり。
「わたしとしては街の防衛を先に片づけたかったんだけどねぇ」
「そんなもの、いつまで経っても終わらないじゃない」
アイギナの意見にも一理ある。補修と拡張をくり返し続ける街壁の工事に、期限はあってもキリはないからだ。現状を維持するだけでも費用はかさみ、不慮の事態でも起きようものならなけなしの貯えも吹き飛んでしまう。新しいなにかを始めるなら、どこかで発起することも必要だ。
だからこそ、イコラもアイギナの提案に反対はしていなかった。無い袖が振れないだけだ。
「ま、建設費の七割はシュリミラ商会がもってんだからうるさくは言わないけどさ。放水路の本工事までには人を返してよね」
「そう思うなら街からもう少し出資しなさいよ」
「そんな余裕ないって何度も言ってるでしょ」
「人と物が流れるようになれば、すぐに利益を出して返せるんだってばっ」
「そんなアテのない話にノれるわけないじゃないっ」
「十分に勝算のある話よ! わたしの読みが信じられないのっ?」
「信じられるわけないでしょ、そんなもの」
「なんですって!?」
けっきょく議論は同じところで空回るのである。口ゲンカの行き着く先が不毛な実力行使なのは、『剣』の建造を巡る話に限ったことではない。
「よーし。そこまでにしとけ」
騒ぎが大きくなる前に、トールは二人の間に割り入った。両者が同時に目を向ける。
「なによ」
「トールさん……」
一人は三角の好戦的な、もう一人は揺れるまなざしを。
トールはどちらに肩入れするでもなく、努めて儀礼的にとりなした。
「街の名士(ノート)が二人揃って往来で掴みあいでもはじめるつもりですか。自重してください」
「しょうがないじゃない。ケンカを売られて黙ってちゃ領主(ロード)の沽券にかかわるわ」
「かかわらん。ガキかおまえは。少しは大人の対応を覚えろってんだ」
「なによう」
頬を膨らませる領主を置いてアイギナに向き直る。仮にも主の不始末だと、たどたどしくも頭を下げた。
「ミス・シュリミラ。我が主が失礼いたしました」
「い、いえ。私のほうこそ、はしたないところをお見せしてしまって……」
先刻までの勢いはどこへ消えたのか。しおらしく肩を丸めたアイギナは、口元を手で隠しながら頬に朱を散らしていた。わずかに潤んだ青い瞳は柔らかな熱を孕んでいる。妙に心乱されるまなざしだ。
「ええっと。剣の建造物、ですよね」
「はいっ」
居心地の悪さから発した一言にまで、やけに熱い返事が返ってきた。続く言葉を期待されているのかと、思いつくまま口を開く。
「俺、いや、私は、素晴らしいと思いますよ。ええ。街を守る剣。カッコいいじゃないですか」
「そ、そうでしょう?」
ようやく得られた賛同がよほど嬉しかったのか、あるいは別の意図からか、アイギナは雄弁に語りだした。
「デザインにもこだわりがありますのよ。幅広の刀身に重い刃。南方で用いられている超剣(スペリオル・ソード)を模していますの。全身の力をもって打ちこまれるその威力は、大いなるドラゴンすらただの一撃で両断するとか。まさにパルモートを象徴するに相応しい剣でしょう? もっと優美な剣も考えたのですけど、領主(ロード)のことを考えると近いイメージの方がよいと思いまして」
「ああ。それは確かに」
「ちょっと?」
小さな文句も気にしない。
「刀身の表面はなめらかになっていますけど、いずれは街が誇るに足る方々を讃え、その功績を刻む碑にしたいと考えておりますの。もちろん、最初の一人は私になると思いますけど」
「あんた、そんなこと考えてたのね……」
「いずれはトールさんのお名前も入れさせていただきたいものですわ」
「そ、そうですね……護衛(コート)の務めをまっとうしてか、従者(サイド)として使い潰されるか……」
いずれにせよ生きてはいないだろうなと顔が引きつる。
逆に、イコラは口端を吊り上げていた。
「ねえ、アイギナ」
「なによ」
「ちょっと頼みたいことがあるんだけど。いま街にある武器刀剣の在庫と製造状況、それと緊急時の運搬経路を調べてもらえない?」「はい?」
戦いが日常の辺境において、武器はすべてが消耗品だ。暗き森(ヴェムス)の近隣では異形(ベルグ)討伐が常に行われているし、大小の街においても日々の警戒に費やされる。備蓄されている数のみならず、月単位で生産される武具数の把握、および緊急時の運搬手順を定めておくことは、防衛の観点からも重要だ。
「シュリミラ商会には武器の利権も任せてる。定期的な数量確認と報告は刀剣商の義務なんだから、それぐらいなんてことないでしょ」
「それはそうだけど、なんだってまた急に……。いえ、そういうことはきちんと手順を踏んで、商会のほうに話を通して――」
「手が必要ならトールを貸すから」
「え?」
迷いのない提案に、反発しかけていたアイギナの態度は一転して柔らかくなった。忙しなく瞬きをくり返し、息を飲んで立ち尽くす。
イコラはすかさず畳みかけた。
「どう? 使い倒してくれてかまわないわよ。連絡や調べものに走らせるなり、護衛(コート)の端っこに置いておくなり、荷の上げ下ろしに使うなり」
「え? いえ、あの……」
「もっと個人的なことでもいいわよ。服の見立てに連れていくとか、、晩酌の相手をさせるとか、ベッドを温めさせるとかでも」
「そんなこと! ……で、でも、そうね。調べるほうは別に構わないわ。それぐらい、少し商人組合(ギルド)に手を回せば済むことだし。
ただ、ええ、人手は、あると助かるわ、ね……」
頬に手をあてつぶやくアイギナに、もはや反対の意思はみられなかった。イコラのニヤつきに気づいている様子もない。
「決まりね。それじゃお願いするわ。不慣れで面倒かけるかもしれないけど、そのときは好きにしてかまわないから」
「お、おいっ」
勝手に進んでいく話に、トールは思わず割りこんでいた。ひそめた声をイコラにぶつける。
「おま、勝手になに言ってん――」
「武具店の保有する魔力剣(マグナム)の数を調べておきたいのよ。これなら自然に数えられるでしょ?」
答えも囁きで返ってきた。音は低くも力は強い。
「正規の手順を踏んだんじゃ領主(わたし)が知りたがってることが情報として流れちゃうからね。アイギナについてって、上手いこと探ってきてちょうだい」
一応、仕事のことも考えてはいたらしい。いや、妙な徹底ぶりは思いつきを試しているようで、
「……楽しんでるだろ?」
「否定はしないわ」
笑いを含んだ気配は変わることがなかった。
「いいじゃない、気に入られてるみたいだし。なんだったら今日は帰ってこなくていいわよ?」
「は?」
そう促したイコラの表情が、一瞬おそろしく黒くなる。
「ついでに弱みの一つも探ってきなさい。なんなら寝屋での奇行とかでもかまわないわ」
「なっ?」
「得意なんでしょ? そういうの」
「ばっ、ンなわけあるか!」
クツクツと喉を鳴らす姿はあからさまに怪しく、どこまで本気なのか見当がつかなかった。密かに拳を握りこみ、ビシリと親指を立てる表情の、なんと晴れ晴れとしたことか。
「アイギナのおもしろ情報、期待してるわ」
「知るかっ」
それでも主の命である以上、逆らうことなどできるはずもなく――
次の一日が終わるまで、トールはいつもと赴きの異なる緊張と疲労にさいなまれたのだった。
●まったく、男というヤツは。
「――では、今日は魔導(マグナ)の根幹、魔術(マギ)の源である魔力(マナ)と、その初歩的な用途についてご説明しましょう」
静寂を広げ、注目を集め、壇上の女性は語り出した。切れ長な眼に宿る水色の瞳、細く整った面立ちは理知的でありながら、丁寧な口調に相応しい温和な雰囲気を湛えて見せる。流れる水を思わせる長い薄青の髪は、場が薄闇を祓いきれぬ廃屋じみた小屋であることを忘れさせるほど清らかだった。女神官(プリースト)かと見紛う清廉だが、まとっている衣の色は紫でない。
女魔術師(ウィザード)は職に相応しい、白色地縁の硬質な装束に身を包んでいた。
「――まず、魔力(マナ)とはなにか。実はこれ、とても難しい問いなんです。心とはなにか、存在の本質や真理を求める行いにも似た、魔導(マグナ)が追い続けている最大の謎かもしれません。
ただ、力自体を利用する方法は多く見い出されてきました。その見地から魔力(マナ)を端的に表すなら、目的を与えられた心の力、と表現するのが最もわかりやすいでしょう。
そうですね、具体的に現すなら……」
息を継ぎ、クリス・ウォーケンは右手を上げた。握る杖の頭から石突までが、淡い蒼の歪みに包まれる。
青光の残滓を浴び、聞き入っていた人々はわずかな緊張と感嘆を見せた。小神殿で教える読み書きならば聴衆は多くが子どもであるが、これは曲がりなりにも魔術の講義。受けているのは、兵士に、徒士に、情報屋くずれに、名のある家の子息たちだ。窓には板が打ちつけられている廃屋めいた小屋の中、なるべく近く、やや離れ、好みの位置に小椅子を運んでクリスを囲んだ生徒たちは、机代わりの木板を支えて粗紙に黒炭を走らせている。
もっとも、そこまで真面目に聞いているのは最前に陣取ったごく一部だ。多くは薄闇に浮かび上がった青髪水瞳(みずいろ)の美貌に、目尻を下げ鼻下を伸ばしている。魔導院(アカデミー)を誘致したところで、果たしてどれほどの意味があるか。
「――蒼い歪みが霊(み)えますか? これは精神力(オド)の残滓、私たちの見ている世界である物質界(マテリアル・プレーン)に落とされる『影』のようなモノです。
精神力(オド)の本質は心で霊(し)れる現実と重なった世界、精神界(アストラル・プレーン)に影響を及ぼす力ですが、これを物質界(マテリアル・プレーン)でも利用できる形にすることが、もっとも初歩的な魔術(マギ)と呼べるでしょう。
……“幻水(アクラ・イマシュ)”」
集中のこめられた起弦に応じ、クリスの握る杖が動いた。頭頂の魔石がほのかに輝き、蒼い歪みを集め、消した。
直後、杖頭が小さな水の渦をまとう。
「「おお……」」
「いやー。さすが、クリスさんの説明はわかりやすいなぁ」
広がる小さな驚きと共に、トールもしきりに感心していた。立つ場は聴衆の最後列にあたる壁際。肩を並べているイコラは、そんな従士に平めた眼を向けている。納得し頷きを繰り返してはいるが、頬のゆるみきった表情を見るに、本当に理解しているかは怪しいものだ。
月に一度か多ければ二度、領主邸では街の魔術師を招き、兵士や有志に魔術の知識を伝えさせている。魔導との関わりが薄いパルモートで、異形(ベルグ)に対する呪符の扱いや入街における“魔力感知”の意味を正しく認識させること等が主な目的だ。
戦力的な増強まで到達すれば最良であるが、この頻度でそこまで望むのは無理があるか。クリスはイコラが知る中で最も良識のある魔術師であり、几帳面な性格は講師としても申し分はないのだが、環境と子弟の質が低すぎる。
「くあぅ……」
ニコラですら頭上の丸ネズミと共に欠伸(あくび)を噛み殺している有様だ。すでに聞き飽きているのだろう。正式でないとはいえ師匠格の人物に対し、相変わらず敬いの想いは欠片もない。ニコラの才を大いに利用し、しかしそれ以上に迷惑をこうむっているイコラとしては、彼女たちの関係をどうしたものか、判断に困る。
そしてもう一人、共に立つレオンに至っては、
「ったく、モテない野郎どもが下衆な眼を向けやがって……まぁしかたないな。アレだけのイイ女、目に焼きつけておきたくなる気持ちはわからんでもない」
弁説を揮う相棒に誰よりも熱いまなざしを送っていた。日ごろから間近で見ているだろうに、「この距離感がいいんだよ」と惚気(のろけ)は止まることを知らない。杖に宿した『水』を渦巻かせて宙に道を引くクリスを見るべく、最後列の利を存分に行使し右へ左へと位置を変えては、一端の芸術家を気取って好みの構図を求め動いている。そのうち視線を求めて声をかけかねない勢いだ。
付きあってはいられないと、イコラはレオンの足を踏んだ。
「ズぁっ? ぁにすんだっ」
「目的忘れてるわね。人の話を聞きなさいよ」
「だからって踏むか?」
「遠慮して小指を狙ったじゃない」
「一番痛ぇよ!」
声はひそめていたとはいえさすがに騒ぎすぎたらしい。振り返った聴衆の視線が一斉にレオンを捉えた。檀上に立つ水色の視線も同様にだ。求めていたように感じられたのだが、平たく冷たいまなざしは望む構図でなかったらしく、レオンは頬に冷や汗を流して半身を引いていた。
イコラは半歩だけ距離をとる。
「それで、どうだったの?」
「あ? なんだっけ? ……あぁ、俺らン中で出回ってる魔力剣(マグナム)か」
魔術の講習は興味深いが、逐一見学に来れるほど領主は暇でない。わざわざイコラが見に来たのは、巡行士であるレオンと接触するため、魔力剣に関する情報収集の進捗を確かめるためだ。自分たちでは大っぴらには動けない分、自由の利く連中にそれとなく調べを促していたのだが、
「別にコレといった話は聞かないな。どっかの斡旋所(ポート)が回してるとか、誰かが集めてるって噂もないぜ」
「……ちゃんと調べたんでしょうね?」
「あんまりマジメに聞いて回ると勘繰られるだろ?」
鼻を鳴らして肩すくめる様はあからさまにやる気を感じさせなかった。言い分に多少の筋を通しているところがますます癪だ。形だけは品よく頭を下げる態度など慇懃無礼にもほどがある。
「ミス・パルモートに捧げられる最大限の奉仕でございますよ。金にならないどころか報酬とられかねないんじゃな」
「……ったく。壁に埋めこむわよ」
「なんだ、相変わらず子守りか? レオンよぅ」
「あぁン?」
見下す響きの呼びかけに、レオンが目を細めて振り返った。視線の先、赤銅色の短髪男が声に相応しいニヤけ面(づら)で近づいてくる。見上げるほどの身丈と岩のような体躯にはイコラも見覚えがあった。確か二月ほど前からパルモートに居つき、レオンとくっだらない騒ぎを巻き起こしてくれた――、
「ギレン・ダルフォード、だっけ」
「おぅ、物覚えがいいな、お嬢ちゃん」
「お嬢ちゃん?」
そう、領主すら小馬鹿にするような礼儀知らずだった。そもそも巡行士などという人種に遠慮や配慮などといった機微を求める方が愚かなのかもしれない。その奔放な心こそが彼らの技を支えているのだから。
「……どうも」
「あぁ、エリンも一緒だったのね」
「うぇ」
ギレンの後ろから小さな会釈を送ってきた彼の妹の方が稀少と云える。ただ、肩口で整えられた赤髪は左前のまとまり以外に洒落っ気がなく、兄に似た灰色の革服は無骨そのもの。女好きを公言してはばらないレオンが距離を開け、それにも気づかず真剣なまなざしで講義に聞き入りだすあたり、別の意味で変わり者であることは間違いない。
比較すれば、檀上で丁寧な解説をしている魔術師は実に珍しい存在なのだ。
「――……このように、呪換石(グレイル)にあらかじめ呪式(スペル)を刻んでおけば、起弦(トリガ)を弾くだけで魔力(マナ)を具現させることができます。いえ、構築の仕方次第では起弦(トリガ)も必要としません。指で組む印や独自の動作だけでもイメージを自在に操ることができます。もちろん、心が支えられる範囲に限られますけれど。
例えばこの『水』、実はまだ実体がありません」
自らの周囲に輪を描き流れる『水』に、クリスは手をつけ、掬うように上げた。だが、確かにその流れは変わらず、掌も指も濡れてはいない。
「――見た目だけを投影している虚像、いわゆる幻術です。この街のみなさんは見慣れているかもしれませんね」
語り浮かべられたほほえみに釣られて聴衆たちが軽く沸いた。師からの悪戯っぽいまなざしに気づき、ニコラも欠伸(あくび)を噛み殺して頭を掻く。丸ネズミの腹をくすぐるような動きとはにかんだ笑みは照れているようにも見えた。
「……褒められてないからね」
「え? そなの?」
お気楽な妹の様に、イコラは思わず息を吐いた。クリスのまなざしも心なしか平んでいる。
ただそれは弟子ではなく、その後ろに向けられたものかもしれない。
「……なぁんでこんなトコに居やがんだ。帰れ帰れ。お前なんぞに見られたらクリスが穢れる」
「なにヌかしてやがる。剣一本のテメェよりよっぽどまっとうな理由があるだろうよ」
嫌味を隠そうともしないレオンに、ギレンは余裕の表情で応じた。左手が腰に吊るされた剣をこれ見よがしに鳴らす。布封も巻かれていない鍔元から伸びる鞘は並より長い。中庸剣(バスタード・ソード)と呼ばれる、両手と片手のいずれでも扱える剣だ。
が、見せつけた理由はもう一つの意味を示すため。彼は魔術と剣技を共に行使する魔戦士(バスタード)なのだ。確かに、剣のみを振るうレオンよりは講義を聞く目的があるだろう。
ただ、ニヤけた表情は明らかに女魔術師の美貌へ向けられていた。レオンの不機嫌も語りの内容も気にしている様子はない。
「――魔術(マギ)により具現されたものは、基本的に持続性がありません。魔力(マナ)の水を飲んで渇きを癒しても体の水分は補われませんし、魔術(マギ)によって創(う)んだ火もすぐに消えてしまいます。もっとも、他を燃やすことで生じた熱まで消えてしまうわけではありませんが。
永続的な存在を創(う)む――これを探究する学問は錬金学(アルケミー)としてまとめられています。より複雑な理論を必要とする高度な知識ですので、またいずれ別の機会にご説明しましょう。
具現した形に具体的な効果を与える。これが魔術(マギ)の二歩目となります。
……“水よ。流れる水よ。我が望む重さを、深さを、力を備えよ。地を潤し、花を濡らし、虹をかける、汝のあるべき姿を示せ”」
紡がれる呪に従い、クリスの握る杖の頭に『水』たちが集まりゆく。流れていた宙をより速く、勢いよく回ることで、風を起こして渦を巻く。
そう、大気を動かす「質量」を得ていた。圧縮されていく『水』の塊、拳大の魔力球が広げる不快感に、周囲から困惑の声が上がる。
ただ、壁際で険悪を撒いている者たちが気づくほどの強さではない。
「ケっ。なにが魔戦士(バスタード)だ。お前はやたらめったら撃ちまくるだけだろうが。魔術(マギ)に必要な繊細も機微もありゃしない」
「男の嫉妬ほどみっともないものはねぇな。いや、テメェは焼けた方か」
「ンだとぉ?」
睨み上げる視線と見下すまなざしが交わり、火花を散らす緊張が走る。手を柄にこそかけてはいないものの、鞘ごしに武器の重さを確かめているのは双方同じ。いつ抜いてもおかしくない剣呑を一言ごとに高めていく。
「お、おい、レオン。やめとけよ」
「ギレン兄も、こんなところで騒ぎを起こすのは――」
「うるせぇっ」「黙ってろ」
察したトールとエリンが両者に自制を促すが、殺気の混じった一声だけであっさり一歩を退かされていた。巡行士の気性は火薬のようなもの。一度火が点けば爆ぜ終わるまで距離をとるより他にない。
ギレンの赤い瞳にはすでに熱がこもっていた。
「ハン、もう忘れたのか? 俺の一撃に巻きこまれて燃え転がった無様な自分を」
「それが考えなしだってんだよっ。味方ごと吹っ飛ばしやがって」
むろん、応じるレオンの碧眼にも。交わす視線の鋭さは、すでに雷を走らせて見える。
「あれぐらい避けられて当然だろう。まっとうな巡行士(ラウンド)ならな。ま、女の尻ばかり見てるヤツには無理な話か」
「お前には言われたくねぇぞっ。見境なく襲いかかりやがって。異形(ベルグ)じゃあるまいし、ちったぁ女心ってモンを気にしやがれ」
「なにぃ?」
「なんでもかんでも力押しでどうにかなると思うなよ? ンなやり方だから妹まで戦闘バカになってんじゃねぇか。モノはイイものもってんのに、二言目には手合せだ訓練だと。もっと女の魅力を自覚させてだな――」
「テメェ、俺の妹まで手ぇ出すつもりか、ああ?」
「出すかっ。……あー、いや、そうだとして、なんか問題あるか? 男と女の話だ。バカ兄貴が出てくる筋合いじゃねぇだろ」
「ほぉぅ、まだ焦げ足りないらしいな……」
子供じみた罵りあいは、いまや挑発の応酬になっていた。どちらが先に手を出したかなど巡行士同士では意味がない。考えることはただ一つ、いかにして相手を叩きのめすかのみ。
衆目の半分を集めだした騒ぎの中、魔術師の論説はなお続く。
「――……今、この水球に「水の性質」を与えました。触れれば濡れ、動けば流れ、火を消し砂をまとめて固める、そんなイメージを。具現する対象を深く識れば、より精密な「性質」を小さな負担で現せるようになります。
この世にあらざる存在をも。
魔術師(ウィザード)の修行で瞑想に重きが置かれる理由の一つが、この自己認識力を高める目的にあります。この程度の量の水、本来ならどれほどの速さで投げたところで、さほど大きな力にはならないでしょう。
ですが――」
そして、杖を突き出した。ゆるやかな、優雅とも呼べる動きで前に伸ばした。
同時に、杖頭の『水』が放たれた。最初はゆっくり、次の瞬間には大気を裂き、音を越す速さで飛び出した。
拳大の魔力塊は鬩(せめ)ぎあっていた視線を貫き、
後ろの壁に体積と同じ大きさの窪(くぼ)みを穿ち、散った。
「う……」「おぉ?」
鼻先を掠めて抜けた力の出所に、レオンとギレンはゆっくりと顔を向けた。注目していた衆目の半分と、虚を突かれた残りの半分も。
つまりは場にいるすべての視線を集め、クリスは結びの言葉を告げる。
「――重さを望み、力を望み、破壊を望めば、こんな風に授業の邪魔をする人たちを撃つこともできるわけです。
とても便利ですね」
杖を抱えて見せたほほえみは今日一番のほがらかさで、
受講者たちは皆一斉に背筋をピンと伸ばしていた。
「さ、さすがクリスだぜ……」
「おぅ、イイ女だ……」
「壁の修繕費はアンタらの店に請求しとくわ」
巡行士の気性は火薬のようなもの。一度火が点けば爆ぜるに任せるよりないが、魔力の水弾がもたらした威圧は二人の熱を上回ったらしい。
(いっそ叩きつけてやればよかったものを)
イコラは心の中でだけつぶやいた。
「――今日はここまでにしておきましょう。次はイメージを具現する源、己が心の形とされる自我領域(イーディア)について、魔導(マグナ)の唱える代表的な理論を元に解説していきたいと思います。では――」
クリスが檀上で丁寧に頭を下げると、硬直していた聴衆たちも慎ましやかな拍手を送った。軽い緊張の後、実直そうな兵士の一人が、続いて数人の男女が、退がろうとしていた講師に感謝と問いを浴びせはじめた。彼らのように熱心な者たちばかりなら魔導院(アカデミー)の誘致を迷うこともないのだが。
多くの者はそれぞれに輪を作り、演目は終わったと言わんばかりに雑談歓談をはじめていた。非番の兵士たちが次の務めを融通しあっている程度ならまだよいだのが、徒士や情報屋まがいが裏話を交わしている様や、金持ち子息連中のイヤらしい笑みを見ていると、こんな場を新たに作るだけなのではないかと懸念も募る。クリスに意見を求めると、「そんなものよ」と笑っていたけれど……。
そういえば、とイコラは本来の目的を思い出した。
「あなたの剣も魔力もちよね?」
「あぁん?」
ついでと横のギレンに問いかける。魔戦士(バスタード)の戦い方は大別して二種、武器に魔力を帯びさせるか、戦いの中で魔術を撃つかだ。いずれにせよ、用いる武具が魔導の品であることに違いはない。
専門職ならば関する情報もより深く知っているのではないか。と話を引きだすきっかけを求めたのだが、
「なんだ? 今度は魔力剣(マグナム)のニセモンでも掴まされたのか?」
「ぅぐ……」
薄ら笑いで語る言葉の妙な強弱は、明らかにこちらの不快を誘っていた。まったく、小さな失敗をネチネチと。
確かに、彼と共に偽りの商隊を壊滅させたのは、偽物の増魔石(アンプ)を取引させられたことが原因だ。だが、理由は理由、結果は結果。きちんと悪を潰せたのだからよいではないか。堰(せ)き止めていた河川の水でアジトごと、文字通りに洗い流してやったのは、多少やりすぎだったかもしれないが。まさかその後の説教と侮蔑の言まで聞き知っているわけではあるまい。
唇をとがらせるイコラに対し、ギレンはますます調子づく。
「コイツはお嬢ちゃんが振り回すようなオモチャじゃないんだぜ。ハクつけなら俺みたいに一流の戦士(マイト)を置いたほうが堅実ってもんだ。
それとも、兵隊に持たせて戦力の補強でもするつもりか? そっちの方がまだマシかもな。事のたびに河を氾濫させんのは面倒だろう。
問題は金か。貧乏領主に賄(まかな)えるかね? あぁ、テメェらが日々壊してる街の修理費が浮けば十分イケそうだけどよ」
ガハハと笑う声に応じ、周りの連中までが肩を震わせていた。先まで反目していたレオンはおろかトールまで、ニコラに至っては抱えた丸ネズミの腹を盛大に叩いて盛り上がっている。領主への尊敬も畏怖もありはしない。
引きつる頬を自覚しながら、それでもイコラは冷静を保った。
「……言ってくれるわね。不敬罪って知ってる? ウチは大らかな気風だけど、限度ってものがあるわよ?」
「ほぅ、そんなモンがココにあったのか。事実を語っただけで罪になるとはやっかいな街だな。捕まるのか? 大変なこった。牢がいくつあっても足りんだろ?」
ますます広がる笑いの輪。叶うならコイツら全員地下に叩きこんでやりたいところだが、確かに押しこめても収まりそうにない。
かといって、このまま捨ておけば沽券に関わる。なにより、イコラの我慢が限界だった。
「……トール。剣よこしなさい。不届き者を成敗するわ」
領主のつぶやきに、小さな緊張が広がった。震えが消えた中心で、薄く笑い続けているのは元凶であるギレンだけ。トールも今は気を落ち着け、逆に不安の面持ちを見せている。
「い、いや、成敗って、そこまで――」
「抜きはしないわよ。叩きのめすだけ」
「だけって、お、こらっ」
動じていないのはもう一人、トールの剣を鞘ごと奪って姉に手渡したニコラぐらいか。キラキラした眼に笑みを返し、丸ネズミが妹の頭から逃れたことを確認すると、イコラは剣を肩に担いだ。
そのままギレンへと向き直る。
「さあ、覚悟はいい?」
「本気か? お嬢ちゃん。ま、やるってんならこっちは構わんぜ。さ、どっからでもかかって――」
「あなたたち、また騒いでいるの?」
その場を、近づききたクリスが呆れ声で割った。平んだ水色の眼に、唇を引き結んだ美貌に、男どもが先を争って態度を改める。
「クリスさん……いえ、その俺は止めたんですけど、コイツらが」
「そう、そうなんだ。まったく、くだらないことでケンカすんなとキツく言ってやったんだけどさ」
「あアン? テメェがいつンなこと言いやがった? 調子のいいことヌかしてんじゃねぇ」
「チ……。だからお前は協調性がないってんだよ。少しは状況ってもんを考えろ」
「なんでわざわざ弱い方に合わせにゃならん。そんなことは役立たず同士でやってろ」
「ンだとぉ?」
「おお? やるか?」
「おほん」
言葉を交わせば再燃しかける諍いの火も、小さな咳払い一つで鎮めてしまう。
「まだ続けるのかしら?」
「い、いや……」「へへ、冗談だよ、冗談」
日ごろは大人しく控え目だが、必要な時には正しく応じる。女性としての魅力もさることながら、人として信念をもったクリスの在り方には、イコラも大いに惹かれていた。自然と人に支えさせる資質は領主として羨ましくすらある。
だからというわけではないが、少し甘えることもあった。役に立つと思えれば、特に。
「まったく。どうしてあなたたちはそうなの? 仲良くしろとは言わないけど、せめて周りの迷惑にならないよう、にゃ!?」
唐突に上がった可愛らしい悲鳴に、囲む周囲が色めきたった。
慌てた声は止まらない。
「きゃ? ちょ、足に、なに? ぺたぺたの、もふもふで、これって……ミッコ?」
白い呪衣を飾る土色の裾、スカートに潜りこみ、膨らませ、クリスの足にまとわりついているのは、なるほど、ニコラのペットである丸ネズミだ。服を盛り上げ這い回る拳二つほどの大きさは、慌ててはたく手をよけながら、上へ、上へと登りゆく。
顔を赤らめたクリスから艶やかな声を引きだすように。
「や、やんっ。こら、ミッコっ。やめなさ、ひゃ! ちょ、ダメ、や、そんな、トコ……」
白衣の膨らみは膝を越え、今は太腿を這っていた。擦りあわされる足に構わず前へ後ろへと動くたび、クリスの体が小さく跳ねる。
「ンン……も、もう、ダメだってば……ニ、ニコラっ、あなたがやらせてるんでしょっ。イタズラもいい加減に、ひゃあん!」
「にゃは」
魔術によるつながりはまだ得ていないが、それでもミッコはニコラの家族。生まれ持っての素養ゆえか、意思を交わすこともできるという。この程度のイタズラに付きあわせることなど造作もない。
満面の笑みを浮かべたニコラ以外、クリスを囲んだ男たちは唾を飲んで見守っていた。ただくすぐっているだけなのだが、恥じらう表情と漏れる吐息がどうにも好奇を誘うらしい。その集中たるや、先までの講義とは比べ物にならない真剣さだ。
まったく、男というヤツは。
イコラは革鞘ごと剣を振り上げ、重さに任せてギレンの脳天に落した。
「ぬご!?」
「うぎっ?」
「づで?」
ついでにレオンとトールにも。兜や鎧をも凌ぐ精神(こころ)の護りを具えた戦士でも、集中を欠けばこんなものだ。案の定、三人は揃って頭を抱え膝から崩れ落ちた。
リミエレムの姉妹が視線を重ねる。
「やったね」
「まあまあってとこかしら」
そして打ち合わせる右手と右手。言葉にせずとも交わせる思惑は今回もまた見事に決まった。どれほどの手練れであろうと油断さえ突ければどうということはない。
「領主(ロード)を軽んじるからこういう目に合うのよ。しっかり反省なさい。
クリス、お疲れさま。だいじょう、ぶ……?」
ミッコはすでに戻している。だが、床に座りこんだクリスは、落とした杖を拾い、抱え、震えていた。
顔を赤くしたまま水色の眼に涙を溜め、小声で呪を唱えていた。 杖頭に、渦巻く『水』を膨らませて。
「え、えーっと、ね?」
語りかければ視線を寄こし、キッと睨みつけてきた。杖頭の『水』がさらに一回り膨らむ。
これは、マズい。下手なことを言ったら途端に爆発してしまいそうだ。
視線を交わしたニコラも同じ結論に達したらしい。
「た、大変だったわね、ニコラ。まったく、男どもの欲にはキリがないわ」
「……そう、そうなんだよ、おねーちゃんっ。わたしはイヤだったんだけど、レオンにやれって脅されてしかたなく」
交わす言葉は即興ながら、それなりにありえそうなもの。とりあえず、クリスの視線が自分たちから離れてくれさえすればいい。
思惑通り、水色のまなざしは顔を上げたレオンに向かった。
「あ、にぉ、うぐっ?」
吐き出されかけた抗議を二度目の打撃で潰し、イコラはなに食わぬ調子で言葉を継ぐ。
「さ、そろそろ戻りましょうか」
「そ、そうだね。戻ろう戻ろう」
ニコラと共にゆっくりと一歩を動かし、クリスの意識が外れていることを確かめ、悟られない程度に足を早めた。背中で感じる魔力の気配は一歩ごとに大きくなっていく。
幸い、小さな家屋からはすぐに出れた。振り返り改めた壁際で、クリスの掲げた『水』の球は、人を封じられるほどに膨れていた。逃げだしはじめた周囲の中で、倒れた三人が懸命に言い訳を並べている。
「ち、違うぞ、クリス。全部あいつらのデッチあげだっ」
「そ、そうですよっ。いつものことじゃないですかっ。機会があればクリスさんに迷惑かけて、ホントにあの姉妹は」
「なに、いつもこんなイイ目みてんのか、テメェら」
「「お前はバカか!」」
『水球』は逆に縮まり始めた。いよいよ広がる悪寒と予感に、屋内に残された者たちが出口を求めて殺到する。
「う、うわあああ?」「いて、バカ、押すなっ」
「早く行け、クソ、邪魔だ!」「ひいぃ、た、助けて――」
ひしめめき迫る人々の姿に、イコラは知らず、目を閉じていた。押さえていた扉を仰々しく閉め、閂(かんぬき)を通し、封じる。
ガン、と叩かれる音は重かったが、しかたがない。
「……苦渋の決断ね」
つぶやき、扉に背を向け、歩く。正確には、家屋から遠ざかるため、走る。クリスの放つ術がいかなる効果を現すか知れないのだから。
「あのさ、おねーちゃん」
「ん?」
駆けながら、並んだニコラが問いかけてきた。
「扉閉める意味あった? 開けとけばみんな出れたんじゃない?」
しごくもっともな意見だ。確かにあのまま駆け逃げていても、他の多くが続いても、こうむる害は変わらなかっただろう。
ただ、交わされていた雑談歓談にクリスを囲んでいた連中を思うと、素直に場所を開いてやる気にはなれなかったのだ。
それに、
「……一度言ってみたかったのよね」
「あー、あるよね、そういうの」
パァン
同意の声は、後ろから聞こえきた破裂音に遮られ、
振り返り見た古い家屋は、扉から、窓から、屋根の隙間から、勢いよく水と人を噴き出していた。
●「それじゃおじさん。また後で」
領主邸では二巡りに一度、定例の報告会が行われる。市道の整備状況や短期・長期の収穫予想、宅地の廃棄・新造など、定められた公務の進捗を領主に報せる場であり、今後の予定を確認する会だ。
会議室に設えられた大きなテーブルには、それぞれの務めを任された監督官と、評議会を運営する街の名士たちが揃っていた。老いも若きも真剣そのもの。上座に座るイコラもまた、真面目な面持ちでリクセスタ副兵将の報告に耳を傾けている。
「――以上が、先日指示された巡警強化に対する現場の見解です」
「わかりました。市場や大路での盗難防止、夜間の暴行抑止には効果が期待できそうですね。あと三巡り、同じ配置で続けてください。一ヶ月の成果を見て今後の体制を検討しましょう」
「ハっ」
「本日の報告は以上です」
進行役であるトールが促すと、イコラは軽く息を吐いた。室内の空気もわずかに緩む。
「では閉会しましょう。みなさん、お疲れさまでし――」
「お待ちください、領主(ロード)。話はまだ終わっておりません」
その間を狙ったように――その可能性は非常に高い――、一際身なりのよい男が威勢よく立ち上がった。艶の消えた短い金髪、老練な獅子を思わせる強面の壮年は、アイギナ・シュリミラの実父。
「街中の警備を固めるのは結構ですが、代わりに街壁や門の人員を減らされては困りますな。入街の審査がさらに時間を要するものとなります。ただでさえ手間がかかっているというのに。見直すのであれば警備の体制よりもそちらを優先していただきたい」
レオナルドはシュリミラ商会の長であり、商人組合(マチェット・ギルド)の幹部でもある。その提案は経済に関わるものが多く、追求と要求は実に手厳しい。
イコラは一度目を閉ざし、開け、改めて彼の視線を受け止めた。
「壁や門から動かした人員は防衛担当の門兵(ゲート)。足りない分は巡行士(ラウンド)で補うように指示しています。入街審査にかかる時間は変わっていないはずですが?」
「その増員分の費用がさらにかさむのではありませんか? 内外の防衛が重要なのは理解できますが、他の分野にも目を向けていただきたい」
「十分に吟味しているつもりですけれど?」
「そうでしょうか? 我が領主(ロード)は外部との交流に関する重要性をあまり認めておられぬように見受けられますが」
商業都連(コードネル)の出身であるレオナルドは才気あふれる商人だ。行商人から身を起こし、いまや街一番の商会を構える彼の話には、イコラも聞き入ることが多かった。経済の基本的な概念も、もたらされる恩恵も、多くは彼から学んだもの。
だからこそ、交わす言葉も熱くなるのだろう。
「商人組合(あなた)の立場からはそう感じられるのかもしれませんね。領主(わたし)の見解とは相違があるということでしょう。わたしは流れる貨幣の量ですべてを計ってはいませんから」
頑なな少女に対し、歳経た商人は小さく二度、首を横に振った。
「大いなる誤解があるようですな、領主(ロード)さま。その認識はぜひとも改めていただきたい。商人組合(われわれ)は街の発展を願っているのであり、決して自らの利益だけを考えているのでは――」
「そのお話は、報告会で伺うものではありませんね?」
放っておけば延々と続きそうな演説に、イコラが正論を投げかけ、止めた。浮かべられた柔らかな笑みがそれ以上の無意味を告げる。
意はきちんと伝わったのだろう。
「では、場を改めて、ゆっくりと」
「ええ。会見の約束はいつでも受けつけておりますわ。追ってご連絡いたします」
「……やれやれ」
小さく肩をすくめてから、レオナルドは悠然と部屋を去っていった。他の面々も脱力の息と挨拶を交わし、後に続いて退出していく。イコラは向けられる軽口や小言に短く一言二言を返し、にこやかな笑みのまま彼らを送り出した。
ここまではいつもの通り。
そして、最後の一人を見送ったトールが静かに扉を閉ざした途端、
「……あー、しんどかった」
頭を打ちつけんばかりの勢いでテーブルにつっぷすのも、まあ、いつも通りだった。胡乱な半眼をさらし、鉛のような息を吐く姿に、先刻までの凛とした気配は微塵もない。
トールは目が平むのを自覚したが、特に戻しはしなかった。
「終わったとたんにダラけるなよ」
「いいじゃない。領主(ロード)の皮をかぶるのは疲れるのよ」
そう言ってイコラはカップを引きよせた。上体をテーブルに倒したままチビチビと茶をすする様は、新手の珍妙なキメラのようでもある。
「ホントにもう、みんな好き勝手なことばっかり言ってくれちゃって。人を増やせ、金を増やせ、物を増やせ、知恵を出せと。ないものはないって言ってるでしょうに。報告会なんだから報告だけすればいいのよ。意見は個別に聞いてるじゃない」
グチの内容とも相まって他者には見せられない姿だが、これでも領主には違いない。トールは苦笑と相槌を返した。
「せっかく顔会わせる機会なんだ。話したいこともあるんだろ」
「それなら先になり後でなり別個にやればいいのよ。なんでわたしが仲裁やら説得やらに駆り出されなきゃいけないわけ?」
「やってるとは思うけどな。苦労して意見あわせたって、領主(おまえ)か決めなきゃ進まないわけだし」
「当然じゃない」
「なら機会さえあれば訴えてくるだろうよ。なにしろ我らが領主(ロード)さまときたら、暇でなくとも街中ほっつき歩いてマトモに会見しようとしないんだからな」
小さな皮肉に、テーブル上の生物は恨めしげな睨みを返してきた。一瞬だけ動きを止め、なにごともなかったかのように茶をすする。
「……必要な分はちゃんとやってるわよ。ほとんどが説得ですらない押しつけなんだもん。イチイチ真面目に聞いてられないわ。それに――」
ゴン、ゴン
突如響いたノックの音に、イコラは上体を跳ね上げた。身なりを整える手つきは慣れたもので、呼吸三つも待たせない。なんとか領主に見える姿が出来上がったことを確認してから、トールはおもむろに応答した。
「はい。どちら様でしょう」
「おう、俺だ」
「なんだ。おじさんかぁ」
声の主がプルカと分かった途端、イコラは再び身を崩していた。入りきた姿を平たい目で睨む。
「脅かさないでよ。思わず身構えちゃったじゃない」
「いつでも少しは構えておけ。なんだその締まりのない顔は。ガルデンのヤツが見たら半日説教じゃ済まんぞ」
「だいじょうぶ。今日はいないの確認してあるから」
溶けそうな状態でもそんなところだけは抜け目がない。トールがプルカと顔を見合わせると、イコラは少しだけ身を起こした。
「で、どうしたの? まさか斡旋所長(ポート・マスター)として文句が言いたりない、とかじゃないでしょうね?」
「要求ならいくらでもあるが、聞く気はないんだろ?」
「タダでもいいから仕事をくれ、とかならいくらでも聞くけど?」
「意に沿えず申しわけないが、真っ当な契約を交わした仕事の話だ」
「真っ当な? なんだっけ」
「おいおい。今さっきの話の本筋だろうが」
「今さっき……ああ、魔力剣(マグナム)の話ね」
「忘れてんなよな。人をさんざコキ使ったネタを」
文字漬けにされた三日間の疲労はいまだに癒えきっていない。ここしばらくは数字に押し潰される悪夢で起こされているのだ。トールの恨みがましい非難に、イコラは軽く反発した。
「忘れてなんかないわよ。ちょっと記憶の片隅に埋没してただけで」
「一般的にはそういうのを忘れてるってんだ」
「領主(ロード)的には懸念材料の一つっていうの。考えることいっぱいあるんだから、イチイチ覚えてらんないわ」
「やっぱり忘れてたんじゃねぇか」
「う……。目を惹くようなネタが集まらなかったんだもん。しょうがないじゃない」
ダラダラと文句を並べながら、イコラはズズズと茶をすすった。
余所者の身元は確認が難しい。紋章官ならばいざ知らず、証(グリフ)の真偽を判別するには、記された街と所属元の有無から確かめなければならないからだ。パルモートの斡旋所を統括するプルカでも、魔力剣を持ちこんだ五人の素性を即座に明かすことは出来なかった。売買の相手に関しても同じ。こちらも外から来た者で、足跡を掴むには時間がかかる。
しかたがないので、イコラたちは別の手段を講じた。独自の伝手(つて)から関係がありそうな情報を集めようとはしたのだ。だが、アイギナに確認させた武器商の在庫に該当するものは認められなかった。街で集めた噂にも関連していそうなネタはなく、名士の夫人たちが催す茶会でそれとなく探りを入れても、魔力剣を蒐集しているような者は浮かばず終い。他にも色々と手は尽くしてはみたのだが、二人の集めた情報はいずれも実を結ばなかった。
わかったことはただ一つ。二〇にもおよぶ魔力剣が行方知れずという事実だけ。
状況が動いたのは二日前のことだ。
「また魔力剣(マグナム)もったヤツが街に入ったってトコまでは聞いたけど、その後の話?」
「ああ」
新たに現れた疑惑の運び手(カート)を、イコラは街に受け入れた。不審を抱かせないよう審査に特別な注意は与えず、魔力剣も持たせたままで。
一つだけ違うのは、後を巡行士に追わせていること。その足跡が口や目よりも雄弁に事実を語ると睨んでの処置だ。
狙い通りに覿面(てきめん)な効果を上げたらしい。プルカはパイプをくわえたまま、少しだけ笑みを深くした。
「追跡させたヤツの報告によれば、怪しげな連中と合流して怪しげな廃屋に入ってったそうだ。出てきた時には魔力剣(マグナム)はなかったってことだから、取引相手なんだろう」
「廃屋? 住人はいないの?」
「登記上はな。似たような手合いは住みついてるようだが。糸紡ぎ通りの奥側だ」
「東側の、サフォロ地区だっけ。トール」
「ほいよ」
呼びかけに応え、トールは手にした書類の山に目を落とした。つい先刻の会で提出された整備経過をまとめたものだ。十数におよぶ簡略な地図から該当する一つを抜き出し、渡す。
イコラはざっと目を通し、答えた。
「たしかに、登記上は廃棄対象の建物だわ。あの辺りは軒並みそうね。工事は、まあ、色々と足りなくて進んでないけど……」
「その怪しげな連中って、正確には何人なんです?」
「五人だな。こっちも見張らせちゃいるが、特に目立った動きはない」
「どっかの組織?」
「ふーむ。タダのチンピラとも言いがたいが、判断は難しいな。時おり何人か酒場で飲んだくれてるそうだ。運んできたヤツもだが、けっこう楽しげにやっとるらしい」
「なんですか、それ? 緊張感がないというか」
「そのへんからなにか割れなかったの?」
「調べりゃなにかわかるだろうが、相手にも知れると覚悟せにゃならんぞ」
情報とは一方的に得られるものではない。誰かが何かを知ろうとすれば、その動きも同様の経路で他者へと伝わっていく。せっかく密かに調べている中で危険を冒すのか? プルカはそう訊ねているのだ。
もっとも、多少の心付けがあればほとんど気にする必要のない問題ではある。金額次第では逆に探りを入れることも可能だ。斡旋所の主ともなれば人や口を巧みに使って痕跡すら残さず知ることもできるだろう。
要するに、調査費の増額を求めているのである。イコラは煙に霞む笑みを無視して問いを重ねた。
「楽しげにやってるのは、いつから?」
「一月ほど前かららしいな」
「三ヶ月かそれ以上の長期に渡って動いてるわけだし、気も抜けるころなのかしらね。兵士(ビット)だとしても錬度は高くない、と」
黙考の間はしばし。
「なにを企んでるか、よね。趣味とか商売目的ってんなら口出すことじゃないんだけど」
「そんな気配はないんだろ?」
「わたしたちの調べた限りでは、ね。用心深い商人(マチェット)が儲け話のネタを極力隠そうとしてるだけかもしれないわ」
イコラは結論を急がなかった。日頃の行き当たりばったりとは裏腹な慎重さだ。促しているつもりのトールとしてはどうにもまだるっこしく、同時に自分の未熟を意識させられてしまう。気怠げな幼馴染が妙に大人っぽく見えた。
「しょうがない。その連中をもう少し調べてもらうか。察せられるにしてもなにかわかる方が早いでしょ。その間に――」
その横顔に浮かんだ疑念はプルカの視線に気づいたためか。
「なに?」
「いやなに。ちったぁしっかりしてきたと思ってな」
煙の向こうの細い目に、イコラは平たいまなざしを向けた。
「わかったことは全部話すのが巡行士(ラウンド)のルールじゃなかった?」
「今から話そうと思ってたトコだ。ちったぁかわいい娘分の成長を愛でさせろ」
「そういうのは依頼料の値引きって形でお願いするわ」
つれない態度であしらわれながらも、プルカはどこか楽しげだった。語る口調にも笑いがこもる。
「運び手(カート)だが、引き渡すまでモノを手放すことは一度もなかったそうだ。宿にいる間はもちろん、メシを食うときや酒場にくりだしたときもな」
「ずいぶん慎重ね。大胆なのかしら?」
「よくわからんな。慣れているというよりは惰性って感じだったらしいが。
ともあれ、そいつを尾行しててメシ屋で真後ろの席についたんだと。その時――」
一拍、プルカは言葉を切った。続く響きは自然と重くなる。
「霊(み)え方が妙だったんだってよ。その魔力剣(マグナム)の」
「え?」
イコラがわずかに目を見開いた。が、トールには意味がよくわからない。
「どういうことです?」
「ありていにいえば、入街審査をすんなり通れるようなシロモノじゃなかったそうだ」
魔力剣だけでなく、呪換石や呪符などの魔導具(マグナル)は、魔力の痕跡である「歪み(ログ)」を常に発し続けている。霊覚で霊(し)れる悪寒にも似た不快感で、秘めた力が強いほど大きくなるのが一般的だ。
しかし、街で生活している分には気にされることなど滅多にない。普通は意識しなければ感じることもないし、強すぎる魔導具は持ちこみの際に魔術的な封印が施されるからだ。
そう。普通なら街中で霊(み)るようなものではない。
「……隠蔽して持ちこんだ?」
「だろうな。旅の巡行士(ラウンド)や魔術師(ウィザード)ならよくやることだ」
プルカは悪びれもせず言った。
街の防衛のためとはいえ、自身の武器を他者の手に進んで委ねる戦士はいない。封印すれば手元に置けるが、付随する警戒を疎む者も多かった。旅慣れた者になると街へ入る前に"魔力隠蔽の術(コンシール)"を施して"魔力感知"を免れようとすることもある。パルモートでも精神負担的な理由から完全には防げていない。所詮は一過性のものだと見逃しているのが現状だ。
しかし、
「……そいつに限っては意味が違ってくる。今まで持ちこまれた魔力剣(マグナム)が、すべて"魔力隠蔽(コンシール)"されたものだとしたら……」
イコラのつぶやきは震えていた。その理由ならトールにもわかる。隠蔽しなければ持ちこめない魔力となれば、最低でも家屋一つを吹き飛ばす"爆裂呪(バング)"に匹敵する。二〇もあれば街の数区画は瓦礫に変えられるだろう。
「でも確かなの? その情報、信用できる?」
静かな問いかけに、プルカもまなざしの鋭さを増す。
「問題はそこだ。直接触れたわけでもなく背中ごしに霊(み)ただけ。"解析(アナライズ)"はおろか"感知(サーチ)"も使えない。報告してきた当人もそのあたりに不安を抱いとるようでな」
街中では基本的にあらゆる術の使用が禁じられている。とはいえ、他に害を及ぼすものでなければ隠れて使うことはできるのだが、発動の際に生じる違和感は隠しようがないため、相手に気づかれる恐れがある。
結局、用いられるのは個人の霊覚だけ。精度は資質により異なるが、魔術に頼らない感覚は網を使わず手で魚を獲るようなもので、普通はあまり当てにされない。
「もっとも、ワシは確信しとるがね」
だというのに、プルカは悠然とパイプを吹かしていた。よほど自信があるらしい。
「誰なの? その報告あげた人」
「クリスだよ。クリス・ウォーケンだ」
「なんだ。クリスさんか」
レオンの相棒である青髪水瞳(みずいろ)の女魔術師を思い浮かべ、トールはプルカの心持ちを理解した。迷いなく首を縦に振る。
「それなら間違いないだろ」
「ふーん。ずいぶんあっさり信じるのね」
「そりゃそうだろ。これがレオンなら裏とるけど、クリスさんの報告なら疑う理由がねぇよ」
先日の光景を思い出し、トールの頬は自然とゆるんでいた。華奢な長身と包みこむような雰囲気をもつクリスは、彼が知る中で唯一良識をもっている魔術師であり、最も優秀な巡行士だ。
「本当に自信がないなら報告もしないさ。この街じゃ数少ない、控えめで淑やかな女性(ひと)だしな。
どっかの暴走|領主(ロード)と違ってよ」
イコラも、目を平めつつ頷いていた。
「ま、クリスの人物評に関しては同意見だわ。今回の剣は"隠蔽(コンシール)"されてるんでしょう。おそらく、今まで持ちこまれた二〇本以上も。
これは早々に手を打ったほうがいいわね。斡旋所長プルカ・シアネモル」
「おう?」
「正式に捕縛を依頼するわ。対応に要する人手を集めてちょうだい。相手に関する情報も可能な限り。場所が場所だから多少騒いでも構わないわ」
一度決すれば行動は早い。唐突にも感じる決定に、プルカはわずかに目を細める。
「いいのか? 万が一ってこともあるぞ?」
「いいのよ。今回はトールの主張を通してあげたんだから」
「なに?」
トールの方は見開いた。
「まてまてっ。俺がいつそんなこと――」
「女を見る目には自信があるんでしょ? わたしのことも正確に把握してくれてるようだし」
声高な文句を、イコラは先から変わっていない平たいまなざしで遮った。口は笑みを作っているが、本心でないことは明らかだ。
「い、いや。そんなつもりで言ったわけじゃ……」
「というわけで、間違ってたときはトールが全責任をとるから、思いっきりやりましょう」
「おい!?」
告げた言葉が本気なのも間違いない。
「だはははは。それなら安心だな」
「なにがだ!?」
「ええ。安心して準備しておいて。そうね、今日の終日の鐘までに」
それは今後の行動も。当たり前のように向けられた指示に、プルカが少しだけ首を傾ける。
「なんでまた、そんな遅くにせにゃならん? 今から戻れば夕刻には動けるぞ?」
「だって、そのあたりにならないと仕事が終わんないんだもん」
「「……は?」」
トールも目を点にした。突然乾いた喉のせいで上手く喋れない。
「……えーっと、誰の仕事が終わらないって?」
「さ、やることがたくさんあるわ。トール、報告の資料、まとめておいてよ」
「おい、ちょ、コラっ」
「それじゃおじさん。また後で」
「待てっつってんだろが! 人の話を――」
叫び声を後に引きながら部屋を出て行くイコラの足取りの、なんと軽やかなことか。
「……しっかりしてきた、かねぇ?」
パイプから上る白い煙は、頼りなげにふらふらと揺れていた。
●「人を芸人扱いするんじゃなあい!!」
……ン、カー……ン、カー……ン、カー……ン、カー……ン……
街を覆った夜の色に間延びした鐘の音が響く。回数は正確に八度。就寝を促す穏やかなリズムは、夕刻から広まった酒気混じりのにぎわいを微風(そよかぜ)の柔らかさで拭っていく。
天から注ぐ光もまた、静けさをもたらす小夜の帳(とばり)。夜空には三つの月が浮いていた。金色と新緑の輝きをまとった大小二つの三日月が、白く霞む真円とともに淡い月光を撒いている。
太陽神(フェンバルク)の娘たる月の三姉妹(ルーミス)は、主の末子(パルモート)が守るあらゆるものを分けへだてなく照らしていた。賭けや芸による饗宴からゆっくり醒めてゆく広場も、夜の営みはこれからだと艶を増しゆく裏の通りも、三つの月(ルーミス)の寵愛によってわずかに闇を祓われていた。
それはここ、サフォロ地区でも変わらない。
月明かりによって浮かび上がる廃屋の連なりからは、薄い光がぽつぽつと滲むように漏れていた。取り壊しが決まっている建物でも雨露は凌げると貧しい者たちが利用するのは、ここパルモートでも変わらない。
当然、身を隠す目的で用いる者もいる。
二階建ての共同住宅を占有している五人の男も、そんな一団の一つだった。薄く汚れた質素な身形(みなり)は街の民と変わりなく、市場を歩きでもすれば簡単に紛れてしまうだろう。蓄えた光を吐き尽くしかけた夜光草(ナイト・グラス)が照らす中、カードに興じている二人の姿は酒場の酔客そのものだ。
「ようし、勝負だっ。七のスリーカード!」
手札をテーブルへ叩きつけた禿頭の男に声を抑える様子はない。対戦している小柄な男も緊張の欠落は似たようなもので、笑みのまま投げるようにカードを開く。
「ワリいな。クラブのフラッシュだ」
「なんだとっ?」
禿頭は驚きに目を見開き、次いでテーブルに拳を落とした。積まれた銀貨と手元の酒瓶が一瞬フワリと浮き上がり、ジャリンジャリンと小さく鳴く。
「フザけんな! テメエ、さっきも同じ役だったじゃねえか!」
「あん? 数が違うだろ」
「同じことだっ。三回連続だぞ? ありえねえ!」
「実力だよ、実力」
「ンなわけあるかっ。このイカサマ野郎!」
「はっ。ヤだねぇ。自分のツキと腕のなさを認めようとしないバカは」
「テっメエ!」
「やかましいぞ、おまえら。静かにしやがれ」
再び殴られたテーブルの軋みに、壁際で横になっていた長身の男が身を起こした。大口を開けて欠伸(あくび)を放ち、不愉快もあらわに目をこする。
「ったく任務中に。少しは自覚しろってんだ」
「お前だって酒飲んでダラけてんじゃねえか」
「俺はちゃんとやってんだよ。こうやって」
長身は寝ている台、ベッドの代わりにしている大きな木箱を足で叩いた。
「大事なブツを体張って守ってんだからな」
上面は蓋になっていて中に物を収納できる。収められているものは、四ヶ月にわたり受け取り続けている幾本もの魔力剣だ。重ね方が悪いのか、蓋は内からわずかに押され、縁からは柄が覗いていた。
「もう満杯だな。昨日届いた二本はどうすっかね」
「あー? いいだろ、そのままで。新しい箱を運びこむのも面倒だ」
部屋の隅で飲み交わしていた残り二人の片方が、本物のベッドに立てかけてある二本の魔力剣を見ながら答えた。
「それで何本目だ?」
「二七。やっと半分てとこだな」
「まだ半分かよ。いつまで続くんだ、このお勤めは」
飲んだくれの片割れがボヤいて酒を煽る。くたびれた表情は箱の上の長身も似たようなもの。
「ボンもイラついてるみたいだからな。多少は早まるんじゃねぇか」
「まとめて運びこんじまえばいいんだよ。入街の審査なんて簡単に通れるっての」
「しかたねぇさ。上からのご命令だからな」
苛立ちかけた部屋の空気がその一言で鎮まった。こんなところでゴロツキに身をやつしているのも理由は同じ。戦士としての知識も技も、生きていく手段も目的も、すべては与えられたもの。逆らうことなどできないと場にいる全員が理解している。
それでも、知られることのないグチは止まらなかった。
「ったく、上の連中は現場の苦労ってモンがわかってねぇんだ。チマチマセコセコと働かせやがって。待つばっかりの身にもなってみろってんだ」
「指示するヤツなんてのはそんなもんさ。どこも変わりゃしねぇよ」
「この塒(ねぐら)でダラダラできるのも、この街のお上のおかげだしな」
「おかげ? このボロ屋に押しこめられてるのが? ハンっ。単に仕事が遅ぇだけじゃねぇか。もっといい空き家がでるようにさっさと街広げやがれってんだ。クソ領主(ロード)が」
酒によって勢いづいた言葉が飛びかう只中で、天井の板が小さく鳴いた。木屑と白い塵がハラリと落ちる。
「? なんだ?」
禿頭の男が見上げた先には、ボロボロの張り板しかなかったが。
「んだよ、ネズミか? 薄汚ぇとこだぜ。ったく」
「腐るなって。少しは状況を楽しもうぜ。金はあんだしよ」
「使えなきゃ意味ねぇだろ。仮にも極秘って任務の最中じゃロクに羽も伸ばせねぇ」
「伸ばしゃいいじゃねぇか。酒なり賭けなり女なりよ。イイ店あんだぜ。教えてやろうか?」
「いい店って……おま、行ったのか?」
「へへ」
小柄な男のニヤつきに、禿頭はまたもやテーブルを殴りつけた。
「ズリぃぞっ」
「おまえも行きゃいいだろ。ビビるなって。ここの連中なんぞに俺らのことがバレるもんか」
倒れかけた酒瓶を掴んで煽り、小男はさらに笑みを深める。
「この街の兵士(ビット)ども、異形(ベルグ)相手にどれほど使えるのかは知らんが、街ン中じゃ犬ほどの役にも立っちゃいねぇ。このところ少し目立っちゃいたが、やってることはお決まりの巡回と酔っ払いの相手だけだしな。大人しくしてりゃ目もつけられねぇよ」「俺たちみたいなのにとっちゃありがたいこったな」
「おうよ。メシも酒も悪くねぇから骨休めるにゃいいとこだぜ」
赤ら顔で語る小柄な男はひどく自慢げだった。箱の上の長身が同意する。
「そう考えると、ちと惜しいな」
「かもな。ま、俺らの知ったこっちゃねーよ」
カラカラと響く陽気な声に部屋の雰囲気も明るさを戻した。眠たげだった長身も、酒瓶を傾けて薄く笑う。
「まあ少しは遊んでもいいだろ。拾えるネタみても大したことやっちゃいねぇ。ここのお上はよほど下の使い方が下手くそなんだろうな。人も物も金も足りてねぇから結局なんにも変わりゃしない」
「ウチみたいにコキ使うよかいいじゃねぇか」
「まあな。なにしろガキだぜ、ここの領主(ロード)は」
「ああ、あれだろ。例の爆発娘」
張り上げられた一言に、場がどっと沸き立った。下品な笑いが入り乱れる中、天井の軋みには誰も気づかない。
「ありゃいい領主(ロード)じゃねえか。なにしろ笑かしてくれる」
「まったくだ。テメエの街ブっ壊してまで笑いをとるたぁ、なかなか芸ってもんがわかってら」
「ほっときゃ勝手に潰れるかもな」
飲むには恰好の肴を得て、一同はさらに声を高めた。ノリのまま我もと言葉を盛る。
「知ってるか? 北の市での大食い勝負」
「豚一頭まるごと食いつくしたってヤツだろ? 骨も残らなかったらしいじゃねぇか」
「おいおい。あんまりそれを言いふらすなよ? 吹聴してたヤツは飲んでた酒場もろとも粉砕されたって話だぜ」
「マジかよ? こえー!」
ますます大きくなる笑い、叩かれるテーブルや壁や床、弾けるような陽気さに、天井の軋みもより増した。
「ん?」
――ミシリ、メキ、バキン、ゴバッ――
音は一拍ごとに強くなり、笑い声を上回ったかと思うと、
「むぎー!」
遂には珍妙な奇声となって、古びた天井を砕き、落ちた。
「「うおわ!?」」
濛々(もうもう)たる白塵が広がる中、テーブルの上に落下した何かがもがく。
「な、なんだあ!?」
「いったたたた……」
退き広がった五人の目が一斉に捉えたそれは、どうやら子どものようだった。煤と白い粉――小麦粉にまみれた姿は、どうにも判然としない。
「な、なんだ、おまえ?」
「浮浪者のガキかなにか――」
「あんたらぁ……」
卓からノソリと降りた少女は沸々(ふつふつ)たる声でつぶやいた。蜜色の瞳が小刻みに揺れる。
「よくもまあ言ってくれたもんね! 人の苦労も知らないで、勝手なことをのうのうとっ」
よほどの想いがあるのだろう。咆哮じみた叫び声は室内のすべてを震わせるほどだった。空気や空き瓶、人の身ばかりか、心までをも動かし、揺らす。
「仕事が遅いのはわたしだけのせいじゃないでしょ! こっちは予算も計画もちゃんと認めてるのに、監督官(ディレクト)連中が動こうとしないんじゃないっ。人手がないだの資材が足りないだのと……少しは自分たちで集めなさいよ!」
「な、なんだ?」
「警備が甘い? 悪かったわねっ。お望みとあらば特訓でもしてやろうじゃない。このわたし自らの手でっ。ええ。ご要望どおり、地の果てまでも追いつめる凶悪な狩人(ハント)に育てあげてやるわ。たとえ首をもがれても喉元に喰らいつく、怨念めいた根性を備えさせてね!」
「いや、誰もそんなこと望んじゃいな――」
「下の使い方が下手? 人も物も金もない? 好きで貧乏してるわけないでしょうが! 少しでも街の負担を減らすためにどれだけ苦労してることか……。毎日のプリンまでグッとこらえて三日に一度にしてるのに!」
「なんの話だ、なんのっ」
「そんで――」
奔流のような言葉が一瞬止んだ。吸いこむ息は一際深く、
「だれが笑えるってのよ、誰が! 人を芸人(コント)扱いするんじゃなあい!!」
吐き出された一喝は今までで一番大きかった。それは、戦士の経験を積んだ五人が思わず怯み退くほど。
「な、なんなんだ、テメエは!」
「まさか、おまえ――」
「わたしはねえ……」
少女は勢いのまま、懐から一枚の呪符を取り出した。
「この街の領主(ロード)よっ!」
流れるようなその動きに、囲む五人も立ち尽くすばかりで、
「"起(ラン)"!」
弾かれた起弦(トリガ)から一拍後、廃屋の天井は盛大に爆ぜ飛んだ。
●「そのテのモノは俺の領分だろ」
闇を震わせる乾いた爆音、一瞬広がった赤い光に、廃屋の周りで焦れていたトールは息を飲んで上を見た。
「な、なんだ!?」
「屋根が飛んだわよ?」
驚きは隣のクリスや他の連中も同じ。天に昇りゆく青い煙は、身元の怪しげな人々がひそむ周囲の棟にまで赤い灯を点していく。
ざわめきを増した場の中で、レオンだけが妙に感心していた。
「さすがはイコラ。ずいぶん派手な突入の合図だこと」
「あんな合図あるかよ! どうせまたなにかしでかしたんだろっ」
トールは苛立ちを吐き捨て、屋根をなくした家屋に駆けこんだ。
プルカに任せた捕縛の段取り。魔力剣を保持する一団のアジトを囲み、押し入り、捕らえる計画に、トールも戦士の一人として参加していた。自らの意思ではない。イコラに付きあって仕方なく、だ。いつものワガママだとわかってはいたが、「領主(ロード)として陣頭指揮をとることも重要なのよ」と押しきられたのである。
まさか斥候(スカウト)として忍びこむとは思わなかった。ましてや、敵アジトの屋根を吹き飛ばすなどとは……
駆け上がった二階の一室、吹き飛んだ扉の残骸に塵を吐きかけている入り口を覗きこむ。
「うわ……」
粉塵の舞う部屋の内は惨澹(さんたん)たる有様。天井は木板どころか梁まで砕け落ちていた。屋根の残骸も含んでいるのだろう。瓦礫は床一面を隙間なく覆いつくしている。砕けたベッドや壁際の木箱、いくつかの椅子が木片に埋もれている中、かろうじて形を留めているテーブルにも、木の屑が山のように積もっていた。
その下で身を縮めている領主の姿に、思わず安堵の息が漏れる。
「……イコラ。無事だったか」
「あら、トール。なによ、面白い顔して」
返ってきた声と上げられた顔はいかにも憮然としていた。なにか後ろめたいことでもあるのだろう。いつも通りの反応を前に、落ちつきを戻したトールもまた、いつもの通りに不審を抱く。
「なにしやがった。"爆裂呪(バング)"でも撃ったんじゃねぇだろうな?」
「そんなわけないでしょ。"遠隔(リモート)"と"発火(イグネイト)"しか使ってないわよ」
「へぇ。それでこんな有様になるってのか?」
トールが顔を寄せると蜜色の瞳は横へ逃げた。口調も少しだけ軽くなる。
「……ちょっと実験してみたのよ。小麦粉をもっと細かくして、狼煙玉(のろしだま)の火薬と混ぜ合わせれば、少しの量でも効率よく燃焼するんじゃないかなー、と」
「燃焼?」
「ほら。この前ニコラを捕まえた時に小麦粉が燃えたじゃない。アレを利用できないかなって」
「アレって……」
つぶやき、直前の爆発を思い出す。広がった赤い炎が一瞬で掻き消える様には確かに見覚えがあった。その記憶が曖昧でも、壊れた倉庫の片付けに関する二巡りの苦労は忘れようがない。
「……爆破したのか!?」
「天井だけ落として意表をつこうと思ったのよ。まさか屋根まで飛ぶとは思わなかったわ」
トールの呆れと驚きを、イコラは爽やかに受け流した。見上げる夜空には三つの月(ルーミス)が美しく輝いている。
「メインは火薬だったけど、粉塵爆発は調整が難しいわね。設置した方が勝手はいいわ」
相変わらず、思いついたことはやってみなければ気がすまないらしい。背負った見えない荷の重さが突然増したような錯覚に、トールは深い息を吐いた。
「おまえなぁ、いいかげんそのやり方には懲りろよ。上手くいったためしねぇだろうが」
「う、うるさいわね。狙い通りの効果は上げられたじゃない」
テーブル下から這い出たイコラは立ち上がって腕をぐるりと振った。床に広がった瓦礫の下には、捕らえるつもりだった男たちが埋まっている。全部で五人。皆かすかに呻いているから生きてはいるようだ。
「ほら。一網打尽よ」
「一撃必殺の間違いだろ」
「似たようなもんじゃない」
「……そう言えるおまえが時々本気でおっかねぇよ」
まるで悪びれないイコラの様に、トールは力なく項垂(うなだ)れた。後から入ってきたレオンも似たような脱力の気配をみせる。
「あいかわらずやることが大胆だね、我らが領主(ロード)さまは」
感心するようなつぶやきは少し楽しげで、トールの疲れをますます重くした。
「大雑把ってんだ、こういうのは」
「失礼ね。少し加減を間違えただけじゃない。次は上手くやるわ」
「だから懲りろっての」
「まぁ反省は後にしろよ。今はコイツらの始末が先だ、ろっ」
「ごっ!?」
ボヤきあう二人を背に、レオンは瓦礫に埋まっている一人の頭を蹴りつけた。手荒な気つけが薄っすらと目を開かせる。
「う、ぐぅ……?」
「おう。目ぇ覚ましたぜ。よかったな。我らが領主(ロード)さまがお優しくてよ」
「感謝なさい」
ニヤけ混じりの賛辞を浴びて小さく胸を張ったイコラを見て、上体を反らした男が呻く。
「お、おまえが領主(ロード)だと? バカな。なんだってこんなところに」
「聡明な領主(ロード)さまはおまえら程度の小悪党が考えてることなんざお見通しなのさ」
「その通りよ。で、問題の魔力剣(マグナム)はどこ?」
「魔力剣(マグナム)……。おまえら、アレに気づいて――」
「あの箱ね」
大きく開いた男の目、不安げに揺れる視線は、なかば反射的に瓦礫に埋もれた木箱へと向けられていた。有無もなく近づいたイコラが積もったもろもろを蹴り除け、力任せに蓋を開ける。立ち昇ったアルコールの臭い、胞子の広げる独特な臭気は、神官が用いる神酒(ソーマ)のものか。
中には無数の剣が乱雑に重ねられていた。縦に斜めにと無造作に組まれた様は、ちらと見ただけでは何本あるのかもわからない。
「これが全部? よくもまぁ持ちこんだもん――!?」
イコラはその一本に手を伸ばし、触れた途端慌てて引いた。眉間に皺よせた表情は異形(ベルグ)の骸を焼く時のよう。
「イコラ?」
「……大丈夫。なるほどね。確かにコレは、審査に引っかからない方がおかしいわ」
イコラはすぐ冷静に戻り、改めて剣を掴み取った。鞘から抜いて鈍色(にびいろ)の刃を見る。頬を強張らせたのは一瞬だけ。柄根の赤石に一瞥を向けると振り払うように横へと投げた。トールは慌ててその剣を受け止め――
同時に、氷水を浴びたような錯覚に襲われた。
背に広がる、毛虫の群れに這われるような悪寒。先のイコラの反応が否応もなく理解できた。霊覚で霊(し)れる魔力の強さは、並の異形(ベルグ)ならば一撃で屠る"光の槍(スクオード)"にも匹敵するだろう。取り落とさなかったのは悲鳴を堪えようと体が硬直したからにすぎない。
手にした剣を恐る恐る木箱へ戻すトールを余所に、イコラは呻(うめ)く男へ冷たい笑みを投げていた。外の騒ぎも、部屋の暑さも、気にしている様子はない。
「さあ、白状してもらうわよ。こんなもの持ちこんで何をしようとしてたのかしら?」
「グぅ……」
「素直に吐きなさい。ネタは上がってるんだから。運んできたヤツはもう捕らえてあるわ。黙ってても刑が重くなるだけよ」
確かに、魔力剣を持ちこんだ運び手(カート)はすでに捕縛していた。正確には、街を出ようとしていたところを、尾行していた巡行士が勝手に叩きのめしたのだ。本来ならば背後関係を知るために泳がせておく予定だったのだが、やってしまったものは仕方がない。
イコラは不手際などおくびにも出さず、ただ事実だけを突きつけた。
「わたしだって鬼じゃない。協力的な人には誠意ある態度で臨むわ。もちろん、非協力的な相手には相応の対処も辞さないけど」
語り口は優しげだが目はまったく笑っていない。瓦礫に埋もれた長身の男は押し黙ったまま小さく喉を鳴らした。横で見ているトールですら背筋が冷たくなる笑みではあるが、浮き足立っている今はそれを評している余裕もない。
遠かった鐘の音、ざわめきでしかなかった人の声も、すでに十分忙しないのだから。
「さあ、あなたはどちらがお望みかしら。
……って、うるさいわね、さっきから。外はなにを騒いでるのよっ」
「おまえはなにを呑気に脅しかけてんだっ」
「脅し? 尋問と言ってちょうだい。領主(ロード)たるもの、行動の説明にも格式を求められ――」
「なんでもいいから少しは慌てろ! 火が広がるだろうが!」
「火?」
悲鳴じみたトールの声に、イコラはようやく首を動かした。瓦礫の積み上がった床は方々から煙を噴き、重なった木々の下からは小人の拍手じみた乾いた音が聞こえてくる。
燃え広がっているのは明白だった。
「げ」
「外でも小火(ぼや)になってるみたいだぜ。爆発で吹っ飛んだ屋根の残骸があるんだろうな」
窓を塞いでいた鎧戸を殴り砕いたレオンが告げる。向かいの廃屋でも小さな火と、それを取り巻くいくつもの影が躍っていた。
「周りで待たせてた巡行士(ラウンド)の半分は消火に回したぞ。鐘を聞いて衛兵(ガード)も集まってきてる。ま、それほど広がりゃしないだろうけど」
「お、大事ね」
「そりゃ間違いないな」
「どうすんだよ。こんな騒ぎにしちまって」
ようやく事態を理解したのか、イコラはわずかに言葉を詰まらせた。煙を踏み消し続けるトールに一言も返すことなく、少しだけ沈黙する。
そして、おもむろに振り返ると、埋もれた男に指を突きつけた。
「……なんてヤツらなの!」
「あ?」
「わたしたちの包囲に感づいたからって、アジトを爆破して逃げようとするなんて!」
「なに?」
唐突な言いがかりに、当然反発が返される。
「な、に言ってんだ? 屋根フっ飛ばしたのはテメェじゃねぇ――」
「証拠はないわ」
それを、イコラはばっさり切り捨てた。口の両端を吊り上げ、笑う。
「小悪党を捕縛した領主(ロード)の証言を疑う人はいないでしょ。少なくとも街の人たちは安心できるってもんよ」
「な?」
「幸い事実を知ってるのは身内だけ。外から来た悪人の言うことなんて誰も信じないわ」
絶句する男を前に、蜜色の瞳は爛々(らんらん)と輝いていた。闇の中に放りだせば怪しく光りだしそうで、傍目にはどちらが悪人だかわからない。
一人にこやかなレオンと交わす会話も似たようなもの。
「俺も身内なんだ。いやぁ、光栄だな」
「もちろん。レオンは秘密を守れる人よね?」
「当たり前じゃないか、ミス・パルモート。俺の剣は君に捧げてるんだぜ」
「よかった。そうでなきゃ罪人(ギルト)が一人増えるところだったわ」
「「あはははははは」」
「いいのか、それで……?」
ボヤくトールはそのまま、真面目な表情に戻ったイコラは無駄に威厳を振り撒いた。
「この家屋はともかく外まで延焼させられないわ。早いとこコイツらふんじばって消火の手伝いに行かない、とっ!?」
その言葉を、跳ね上がった瓦礫が遮る。倒れていた長身がバネじみた動きで立ち上がっていた。勢いのまま折れ砕けたベッドまで跳び退(すさ)り、立てかけてあった剣の一つを掴む。
「あんた、まだ動けたの?」
「うるせぇ! テメェみてぇなクソガキにいいようにされてたまるか!」
鈍色(にびいろ)の刃が引き抜かれる。切先を向けられたイコラは慎重に一歩を引き、笑みを消して緊張を走らせた。
「言ってくれるじゃない」
「気持ちはわかるけどな……」
代わり、トールは一歩を進んだ。同情の念など刹那で捨て、少しずつ間合いを詰めくる男に対し、剣の柄に手をかけ、応じる。首筋から抜けていく熱、明るさを増す代わりに狭まる視界。抜けば始まる殺し合いの予感。一度刃を交えれば確実にいずれかの命が消える……
そんな張りつめた空気の中、
「おっと、イキがるのもそこまでだ」
レオンは肩と水平に自らの剣を伸ばしていた。飄々(ひょうひょう)とした声とは裏腹に、切先は真っ直ぐ長身の首を捉えている。距離はすでに間合いの内だ。
「っ……」
「そこから一歩でも近づいてみな。痛みなく〈月(ルナ)〉に送ってやる。姫君に捧げたこの剣は遠慮ってものを知らんぜ」
軽口を叩きながらも力に満ちた自然体は、さながら引き絞られた鋼の弓。硬直した長身の男も、眼前に鏃(やじり)を突きつけられているような圧力を覚えていることだろう。
少しだけ羨ましく、少しだけ妬ましい。
「……捧げたヤツも捧げられたヤツもそんな言葉知らないからな」
悪態を吐きつつ、トールは柄から手を離した。
同時に男も脱力していた。レオンの気配を横目で伺い、剣を振り上げたまま、つぶやく。
「……へっ。近づきゃしねぇよ。近づかなきゃいいんだろ?」
声は小刻みに震えていた。握った鈍色(にびいろ)の剣も、身丈の割りに細い肩も、血走った目に浮く濃緑の瞳もだ。汗に濡れた頬が引きつり、歪んだ笑みを形作る。
それに気づいた瞬間、トールの背を悪寒が走り抜けた。
「テメェらみてぇな狂った連中の相手なんざしてられるかよっ」
「なんですってぇ?」
「待て、イコラっ。近づくな!」
同じものを感じたのか、前に出ようとしたイコラをレオンが一喝した。声に先までの余裕はない。
「なによっ。邪魔しない――」
「ソイツの剣を見ろ!」
注意の先がその理由。鉄とも石とも知れぬ灰色の刀身と、柄根に嵌められた艶のない赤石は、ごく寸前に見知ったもの。
なにより、心に霊(かん)じる歪みの質が、直感に脅威を訴えてくる。
「魔力剣(マグナム)っ? それじゃあ……!」
「へっ」
息を飲んだイコラの様に、男は今度こそ笑みを浮かべた。血走った目に燃えているのは汚泥を思わせる狂気。自身の立場も忘れているのだろう。剣を上げ直す動きは無造作そのもので、あらゆる制止を寄せつけない。
「ちょっ――」「やめ――」「チッ」
声も、悲鳴も、剣の威も。
「頭のおかしいモン同士、勝手に潰しあいやがべっ!?」
レオンの突き伸ばした剣に敢えなく喉を貫かれながらも、男は鈍色(にびいろ)を振り下ろしきった。
折れて砕けたベッドの縁へ、刃ではなく腹の側を。
刀身は枯れた枝木のようにたやすく折れ砕けたが、二つに分かれはしなかった。
本来現れるはずの断面を、漆黒の歪みが結んでいたからだ。
「ク!?」
それは跳び退くレオンを追い、持ち主を飲みこんで丸く広がり、見上げるほどの球と化した。
『――ヴウウウウウ……』
霞む闇の内に二つの赤い光が浮かぶ。
『ゴアアアアアアアアア!』
同時に響いた野太い咆哮が、黒い靄を吹き飛ばした。
現れたのは巨熊(きょゆう)の影。全身を覆う暗蒼(あんそう)の鱗。高く盛り上がった歪(いびつ)な肩に、丸太のごとき太い腕。膨らみ蠢く体躯と四肢からは見た目以上の威力が霊(し)れた。
一際の異彩を放っているのは黒い眼に宿る穢れた血色。敵に餓えた獣の瞳には絶対の敵意が燃えている。
――おぞましき異形(ベルグ)がそこにいた。
「なっ!?」
「"封印(シール)"? こんなものを――」
『ヴアアアアアア!』
トールの驚きも、イコラの理解も、異形(ベルグ)は気に留めなかった。咆哮で大気を震わせながら、倒れこむように二人へ圧しかかる。
「グっ!」「きゃ?」
落ちくる巨大な影から、トールはかろうじて跳び退いた。立ち竦んだイコラを肩で押し、もつれるように床を転がる。
後退って見た元の場は、ベッドもろとも瓦礫の窪みに変わっていた。
「な、なんて力だよ……。大丈夫か?」
「う、うん。ありが――」
『ヴオオオオ!』
『熊』は息つくこともなく左腕を持ち上げていた。間を置かず振り下ろされるだろう。
迎え撃つしかない。トールは迷いなく剣を抜いた。
「トール!? ムリよっ」
そんなことはわかっている。だが、退くわけにはいかなかった。床に膝をついている今、逃れる道は左右に転がる他ないが、それではイコラを残してしまう。
――ありえない選択だ。
覚悟を決し力を溜める。精神(こころ)を研ぎ、落ちくる爪の軌道を霊(み)る。想い描くのは剣の軌跡。自らの支配する意識を広げ、力の密度を増すイメージ。迫りくる戦斧じみた威力を、凌ぐ意思で斬り飛ばす……!
高めに高めた集中のまま、刃を振り上げようとした刹那、
『ギオア!?』
『熊』は横から飛んできた梁の残骸に殴られ、倒れた。
「っ? なん――」
「おいおい。勝手に盛り上がってんなよ」
思わず漏らした疑問に横からの声が答える。金髪の巡行士が右手に剣を握ったまま、左手を振り伸ばしていた。
「レオン……」
「そのテのモノは俺の領分だろ」
声の軽さは相変わらず、両手で構え直す動きも自然。身を起こした『熊』に怒りの咆哮を浴びせられても、レオンの姿はまるで揺るがない。
それは、落石の勢いで迫られても同じ。
『グルア!!』
「レオン!」「危な――」
「下がってな」
床板を爆ぜ散らした異形(ベルグ)の右腕を、レオンは右方に踏みこみ避けた。大量の破片を浴びながらも『熊』の首根に剣を疾(はし)らせる。
蒼い歪みを帯びた斬撃は、鋼同士を殴り合わせたような高い音を立て、弾かれた。
「っ、硬ぇな」
『ヴオウ!』
邪魔だと薙がれた左の腕を、レオンは腰を落として頭上に通した。続く右腕は下がって避け、さらなる追撃から距離をとる。足の運びはごくなめらか。一歩を引く先に石片があれば勢いをつけて蹴り掃い、梁の一部が邪魔ならば階段のように確(しか)と踏み、積み重なった瓦礫でも崩れを読んで足を置き、決して上体をブレさせない。
くり返される大斧にも似た連撃を、踏みこまれた距離だけ退いてやりすごし、一撃を返してまた動く。一時も止まらないレオンの挙動は氷上の踊り子さながらで、破壊を撒き広げる異形(ベルグ)をも翻弄しているように見える。
「……さすが、大したもんね」
「いや、でも……」
思わず息をつく動きだが、トールの不安は消えなかった。一見余裕を感じさせる広い間合いも、裏を返せば攻めあぐねているということだ。実際、散発的なレオンの斬撃はまるで通じていなかった。それがわかっているのか、『熊』は警戒する素振りも見せずに攻めをいよいよ激しくしていく。
反撃の糸口を見出せないまま策もなく回避を続けていても、いつか必ず追いつめられる。一度でも捌(さば)きを誤れば、両者の距離は一瞬にしてなくなるだろう。
トールの予測は懸念した直後、現実に追いつかれていた。『熊』の広げる破壊に迫られ部屋の隅へと追われたレオンが、ついに壁へ背をつき、止まる。
「ダメだっ、そこは――!」
もはや逃げ場はない。動きを止めた獲物を前に、『熊』は立ち止まり右腕を上げた。自重のすべてを乗せた一撃が容赦なくレオンの頭に落とされる――
寸前、大気が渦を巻いた。
鋼がぶつかりあうような鈍い音が響き、重い風が爆ぜ広がった。
同時に『熊』の動きが止まる。宙で停止した右腕の下、わずかに押された異形(ベルグ)の懐に、レオンは音もなく滑りこんだ。
まるで涼風のように。
振り上げられる蒼い剣。敵を討つ強い意思。深い歪みをまとった刃は『熊』の左脇腹を撃ち、覆う鱗をたやすく裂いた。
勢いは減じることもなく、そのまま胸から肩を断つ。
深々と抉られた傷口が現れたのは一瞬だけ。
露出した脈打つ臓腑はすぐに赤で埋めつくされ、
『ガ……フゥ……』
巨大な異形(ベルグ)は鮮血を噴きながら、ゆっくりと後ろに倒れていった。
「うお……?」
薄闇の世界が赤く塗り変えられていく。
戦いの果て、立っていたのは金髪の巡行士。
「レ、オン?」
「お呼びですかい、ミス・パルモート」
誇るでもなく、殺伐ともせず、レオンは変わらぬ口調でイコラの呼びかけに応えた。斬った直後には退いていたのだろう。派手に爆ぜた返り血も手足をわずかに汚しただけで、表情はいつも通りに締まりがない。周囲に広がる血の匂いを感じさせないほど爽やかだ。
その笑みにイコラも平静を取りもどしたのか、吐く息は安堵を含んでいた。
「……もう。驚かさないでよ」
「ちょいとピンチを演出したのさ。カッコよかったろ?」
「はいはい」
軽いやりとりを交わすレオンはいつもと同じように見える。だが、端くれとはいえ戦士のトールにはそれが虚勢だと知れた。
剣から消えゆく蒼い歪みは精神(こころ)の力が残した影。レオンは自我意識(イーディア)から斬撃の意思を放ち、精神領域(アストラル・サイド)の干渉によって『熊』の本質を断ち、結果として肉体を斬り裂いたのだ。異形(ベルグ)に対する戦士の技、肉体的に劣る人間が拠り所とする精神武術(アストラシュ)である。
道理だけはトールも心得ている。領主の護衛として鍛えている分、並の兵士よりも多少は深い。それでも、精神(こころ)を用いる技には大量の血を失うような消耗を強いられた。労して発した一撃もせいぜいが石を斬る程度で、似たような性質を備えている異形(ベルグ)に対しては、少しの間足を止めるぐらいの役にしか立たない。
一刀で屠る力を撃てばどれほどの対価を必要とするか。想像はできても実感はできなかった。
トールは自分の未熟を理解している。
だからこそ、純粋な称賛を送っていた。
「お疲れさん。助かったよ。後は休んでてくれ」
「そうさせてもらうわ。次はおまえがやれよ」
「……ああ」
素直な返事に強く応え、わずかな悔しさを心に刻んだ。そう、イコラを守るためには、自分こそがあの一撃を具現できなければならない――
トールが密かな決意を固めていると、下からあわただしい足音が飛びこんできた。
「どうしたの? 今の音はなに?」
派手な立ち回りは相応の騒ぎを廃屋の周囲にも撒いたようで、クリスは部屋を一瞥するなり迷いなくレオンに詰めよっていた。
「なにこれ? 異形(ベルグ)? どこから湧いてきたの? あなたがやったわけ?」
「お、落ちつけクリス。そんな畳みかけられても……」
「あなたにそう言われて落ちつけたことが今まであった? 今度はなにをしたのっ。またお咎めの代わりにタダ働きなんてゴメンなんだからねっ?」
「な、ないって、そんなこと。大丈夫だっての……多分」
「多分ってなに!」
矢継ぎ早なクリスの追求を、レオンが両手を盾にしてかわす。見慣れた光景を目にして、トールの緊張もようやくほぐれた。誰かが慌てていると周囲は落ちつきを得るものらしい。一歩を踏みだしたイコラもまた、堂々たる態度に戻っていた。
「これの説明は後でするわ。とりあえず落ち着いたから安心して。それより先に片づけなきゃいけない問題があるでしょ。外の様子はどうなってる? 広がった火は?」
「え?」
唐突で真面目な問いかけに、クリスはレオンから身を離した。頬をかすかに色づかせたまま、ことさら丁寧に言葉を返す。
「え、えっと……。大丈夫、大したことないわ。燃えてる破片は少ないし、勢いも小さなものばかりだから」
「延焼の危険はないわけね。よし。容疑者と不審物を確保したらすぐに消火活動よ。燃えてる場所は特定できてるんでしょ?」
「そう、ね。ええ。もう他の人たちは衛兵(ガード)と一緒に動いてる」
「それじゃ、さっさと終わらせましょ」
イコラは無駄に威勢がよかった。窓の外を指さす仕草は威厳すらまとって見える。
「ガルデンにバレないように、ササっとね!」
続けられた言葉のせいで、あっさりと夜の闇に散っていたが。
「それはムリだろ……」
トールのつぶやきは夜空から見下ろす三女神(ルーミス)にしか届かなかった。
●幕間―「そうさ、全部ブッ壊しちまえばいい。全部な……」
「ああっ? パルモートに送った連中がとっ捕まっただと!?」
もたらされた報告に、ザラスはテーブルを殴りつけた。卓板と脚が悲鳴を上げる。
「ひ、ひゃいっ」
それは告げた者も同じ。みすぼらしい身なりの小男はパルモートに潜伏していた情報屋の一人だった。魔力剣の保管組が捕縛されたことを報せに来たのだが、当然ながらザラスの怒りを買ったのである。
それでも、夜通し馬を走らせた疲労のまま、どもりながら務めを果たす。
「ど、どこから嗅ぎつけたのか、巡行士(ラウンド)どもにアジトを囲まれて有無もなく……。逃げ出す暇もなかったようで」
「それでオメオメやられたってのか? バカみたいに時間かけて、チマチマ運びこんだ魔力剣(マグナム)も、ぜんぶ持ってかれたってのか?」
「て、抵抗はしたようですっ。異形(ベルグ)を現して家屋を破壊し、現場に火まで撒いたようで――」
「だからなんだ? それで剣の一本でも運び出せたってのか?」
「い、いえ、それは、その……すべて……」
「っザけんな!」
ザラスは激昂のまま腰の剣を抜いた。柄根の赤石を気にもせず、鈍色(にびいろ)の刃を振り下ろす。
「ひ!?」
小男はかろうじて避けたが、テーブルは無残にも両断された。蒼い歪みを引く剣は止まることなく、続けて周囲を斬り刻む。
壁を、床を、柱を、人を。
「どんだけ手間かけたと思ってやがる! 四ヶ月だぞ、四ヶ月! オヤジの策だからと大人しく聞いて、クソこまかい指示にまでイチイチ従って、グダグダと続けた苦労と成果が……ぜんぶ無駄になったってのか!」
「お、おちついてください、若!」
「その剣は、うわぁ!?」
周りの者たちが向ける制止もまるで届かない。ザラスの振る剣は棚や椅子を触れる端から断ち砕き、止めようと伸ばされた腕にまで鮮やかな朱を走らせていく。
「ひぃ!?」
「お、お願いですから、お気を鎮めて――」
「やかましい! ぜんぶテメエらが無能なせいじゃねえか! 死ね! 死んで詫びろ!」
悲鳴は狂気の抑止にはならず、むしろ大きく膨らませた。長剣が躊躇なく小男へと落ちる。
「ひぎぃ!?」
蛙を潰したような声が響き――しかし、血は飛沫(しぶ)かない。振り下ろされた鈍色(にびいろ)の刃は、横から伸びきた五本の触手に絡め止められていた。
その根にいる黒衣の術士を、ザラスは血走った眼で見据える。
「邪魔すんな!」
「落ちつけ」
ベルゼンは冷静に諌めた。凶行を見かねて、ではない。彼が見ているのは触手と鬩いでいる鈍色(にびいろ)の剣だけだ。
「斬るのは構わないが他の剣にしろ。それが折れては元も子もない」
「ケっ。そんな下手うつかよっ」
悪態を返しながらもザラスは力を抜いた。彼とて理解はしている。他より長大な一振りは今回の計画の要だ。万が一にも封が解ければ、苦労が水泡に帰すだけでは済まない。
……だが、そうとわかっていても、湧き上がる怒りは抑えきれなかった。
ザラスが剣を引く動きに合わせ、触手たちもゆっくりと離れる。五本の蠢きは音もなく縮み、黒衣の一部へと戻っていった。主と同じで恐ろしく静かだ。
「問題はこれからどうするかだな。奪い返すという手もあるが、もはや街中には隠しておけん」
「ま、まだやるんですか?」
驚きは殺されかけた男から。眼前に死を突きつけられたせいで反論する危険も忘れているのか、涙目のまま訴える。
「もうムリですよっ。奪い返すったって、どこに置かれてるのかもわからないんですぜ?」
「そうだな。調べられんことはないが多少の時間はかかる。捕らえられた連中からこちらの情報が伝わるほうが早いだろう」
「おまえたち同様の役立たずだ。確実に口を割るだろうからな」
ザラスに鼻で笑われても、小男は言葉を止めなかった。退いては狂気に飲まれるとばかりに必死で中止の道を説く。
「そう言われましてもどうしようもありませんぜ。ここはダンナに指示を仰いだほうが……」
「作戦潰されて泣きつけってのか? ハっ。どっちにしろ斬られて終いだよ、テメエらは」
「そ、そんな! 計画を早めたのは若じゃないですか!」
「ああ!? 俺のせいだってのか!」
「い、いえっ。そういう意味では……」
「ケっ」
まっとうな考えも、正しい言い分も、ザラスはすべてを吐き捨てた。怒りに猛る赤瞳には報復の想いしか宿っていない。
「まだるっこしく考えすぎなんだ。おまえらも、オヤジもよ。やるこた始めから決まってんだ。速攻で片付けりゃいいじゃねぇか。
おい」
「は、はい?」
「あの街の牢はどこだ。それぐらい調べてあんだろ?」
「え、ええ。領主(ロード)の邸の地下に。あまり使用されている形跡はありませんが、重罪人であれば他に置いておく場所はないかと――」
「そんだけわかってりゃ十分だ。秘密がバレないようにするにゃあ、先にバラしちまうのが一番てっとり早い。上手くいきゃ奪られた剣もまとめて処分できるってモンよ」
顔に浮かぶのは獣の笑み。異形(ベルグ)と比べても遜色ない、敵を求める深い狂気。
「ぜんぶ潰しちまえばいいんだ。元々そういう計画じゃねぇか」
「どうする気だ?」
「へっ。コイツを叩きこんでやるのさ。当初の予定通りにな」
ベルゼンの変わらぬ冷静に、ザラスは長剣を掲げて応えた。鈍色(にびいろ)は輝くこともなく、触れた血の黒を主張するばかり。
「そうさ、全部ブッ壊しちまえばいい。領主(ロード)の邸も、役立たずどもも、あのクソ忌々しい街も、全部な……」
かくて、ザラス・ロスロクス・リグベスタの計画は、一気に終局へと進められた。
●「そりゃ尋問じゃなくて拷問だ」
水の張った浅底の鍋から半球型の銅碗が取り出される。手にしたノルデオの指は赤く色づいていた。地下から汲み上げた水の冷たさは碗の中身にまでしっかり沁みていることだろう。
「―― 一昨日の被害はこんなとこだ。爆破の残骸で壊れたところも、小火(ぼや)で焦げたとこも、人払いは済んでる場所だったから人的な被害はない。不法な連中からは訴え自体ないしな。片づけるついでに工事も始めるってよ」
「そう。計算通りね。よきにはからって」
時刻は六つ鐘(一五時)の少し後。用意されるプリンの様を、イコラはだらしない笑みで眺めていた。隣のニコラも同じような表情を並べている。執政室独特の緊張感も今はまるで意味がない。
「捕まえたヤツらは地下牢に放りこんである。尋問は連中の意識が戻ってからだな。誰かさんがムダに痛めつけたせいでまともな話ができないってよ」
「あの程度で、ヤワねぇ」
トールの報告に相槌を打つ間も、イコラの視線はノルデオの手元から離れなかった。銅碗を伝う水滴が白いタオルで拭われる。几帳面な少年の慎重な手つきは、さながら宝石を磨く職人のよう。焦らされているようなむず痒さに、期待はどうしようもなく高まっていく。
「魔力剣(マグナム)を運びこんだヤツも捕まえてある。こっちは会話するのに問題はないんだけど、なにか喋る気はまだなさそうだ」
「あんまり強情ならそいつも牢に送ってあげなさい。仲間の惨状でも見れば考えも変わるでしょ。なんなら同じ境遇にしてやるぞって諭してあげれば改心も早いわよ」
「そりゃ尋問じゃなくて拷問だ」
「なにか違うの?」
「……いいけどよ、別に」
やりとりの間にも用意は進んでいく。ノルデオはスプーンを器用に使い、銅碗とプリンが接している縁に小さな隙間を与えると、逆さに返して皿へ置いた。両の手のひらで器を包み、少しだけ熱を伝えて、揺らす。回す動きは正確に五回。手を止めた少年のわずかな緊張に、イコラの胸もまた高鳴る。
器が静かに持ち上げられ、現れた乳黄色の膨らみは、美しく誇らしげに揺れていた。
「「おおー」」
思わず感嘆が漏れる。トールが露骨に目を平めていたが気にもならない。
「回収した魔力剣(マグナム)は、やっぱり"隠蔽(コンシール)"されて持ちこまれたみたいだ。全部が異形(ベルグ)を封じたシロモノだってよ。……街ン中でアレがまとめて暴れてたらと思うとゾっとするな」
「そうねー」
「……クリスさんが言うには、あの程度の"隠蔽"は難しい術じゃないらしい。とはいえ、術者(ワード)でもないヤツに使えるはずはない。アジトにいた五人も、魔力剣(マグナム)を運んできたヤツも、呪換石や聖証の類は持ってなかった。"隠蔽"を使えるような協力者が他にもいるってことだ」
「街の外にでもいるのかしらー。運び屋(カート)はもう少し泳がせておきたかったわねー。でも、口割らせればそれもわかるんじゃないー?」
視線の先ではもう一つのプリンが別の皿に用意されていた。半球の型から解放され、自らの重みで少しだけたわむ。二つ並んだ柔らかな膨らみは女性の乳房を連想させた。ほのかに広がる優しい甘み、恥らうように震える様には、思わず見て、触れて、味わいたくなる色気がある。男どもが魅了されるのも仕方ないのかもしれない。
イコラは意識しないまま自分の胸に手を当てていた。頼りない手ごたえに少しだけむなしさを覚えるも、期待で膨らんでいる今はどうでもよいことだ。
「五人のほうは街中でちょいちょい気晴らししてたみたいだな。いくつかネタが上がってきてる。他には一人、かなり頻繁に接触してた情報屋(スロート)がいるらしい」
「ふーん」
「そいつが調査役らしいんだけど、まだ特定はできてない。こいつを捕まえるのは骨が折れるぞ」
「たいへんねー」
ノルデオは新たな小鍋からレードルを引き抜いていた。湯気を立てるカラメルソースから濃密な甘さとほのかな苦味が香る。蜜は適度な高さからしたたり落ち、プリンの白いなめらかな肌をゆっくりと覆っていった。薄膜となって広がる半透明の輝き、流れる幾筋もの雫を見ていると、どうしようもなく唾が湧いてくる。
トールの溜息などまったくもってどうでもよい。
「おまえ、話聞いてるか?」
「もちろんー」
「……聞いてないだろ」
「そんなことないわよー」
「…………この「荒喰い蟲の親玉(グル・ヴェド)」め」
ずびし!
悪意ある言葉に対しては反射的に手刀を飛ばしていたが。
「おおお……!」
「聞いてるって言ってるじゃない。報告は終わり? もうオヤツの時間なんだけど?」
頭を押さえて悶絶するトールに、イコラは冷徹な口調で告げた。引き締まった表情は領主らしい威厳を具えているが、いかんせん口の端からは涎(よだれ)が垂れ落ちかけている。
「……あの、トールさん?」
「……いい。残りは後だ。さっさと食わせちまってくれ。イコラがこれじゃ仕事にならねぇ」
「さっすがトール。話がわかるわー」
「わかるわぁ」
姉妹とトールに促され、ノルデオは領主の机にプリンを置いた。その可憐な身じろぎに、たっぷりとかけられたソースがトロリと垂れる。
「おおぅ……」
誘われるように乗りだしかけた身を、イコラはかろうじて押し止めた。手を組み、忙しなく眼を閉じる。
「天空の城(エルフェル)に鎮座せし至高の神たるフェンバルクよ。貴方の恵みに感謝します。おいしいプリンをありがとうっ」
いい加減な祈りもそこそこに、スプーンをプリンへ近づけた。いきなり崩すような野暮はしない。まずは少しだけつついて様子を見る。ぷるん、と震える様を目で楽しみ、わずかに押し戻される弾力を指先で味わう。柔らかでありながら張りのある感触は、口の中で広がる芳醇を予感させた。
だが、慌ててはいけない。領主たるもの如何なるときでも優雅さを心がけなければ。隣で作法もなにもなく食い散らかしている妹の姿に、イコラは少しだけ尊厳を思い出した。
気持ちを落ちつけてスプーンの先端をプリンに沈める。わずかな抵抗を割って進む感触の、なんと心地よいことか。慎重に掬い上げた一片の、カラメルに濡れた様を見た途端、優雅も尊厳も消えていた。
いざ、と口を大きく開く。
「でわっ♪ いっただっきま――」
――ガァン、ガァン、ガァン、ガァン、ガァン、ガァン――
同時に、くぐもった音が飛びこんできた。忙しない金属の響きに窓のガラスが激しく震える。
「もが?」「な、なんだっ?」
「鐘の音、ですよ? それも外から」
「このリズムは……まさか?」
室内がにわかに混乱する。イコラはスプーンを叩き置き、窓に駆けより開け放った。遮るもののなくなった鐘の音を全身で浴びながら、邸下の街を一望する。
邸を囲む壁の向こう、まず目につくのは天を突く超大な剣の像。他には高さのバラバラな赤屋根白壁の連なりと、それらの合間に点在する緑の茂り。見慣れているはずの光景が、震える大気に覆われているだけでまったく違ったものに映る。
原因そのものは見てとれない。だが、南門から昇る黄煙が、すべてを物語っていた。
――異形(ベルグ)が街に現れたのだ。
●「いきなり街中に現れるのはどういうこと?」
響きわたる鉄の鐘。立ち昇る濃黄の煙。異形(ベルグ)の襲来を告げるそれは南門だけでなく、隣りあう左右の地区からも一つずつ上がっていた。赤屋根白壁の店舗・工房が軒を連ねる南央の通りにも、市民たちの混乱が広がりつつある。
「おいおい、なんだこりゃ」
「なに? なにが起きてるの?」
「慌てるな! 避難する者は誘導に従い領主邸へ向かえ!」
「だって、あの鐘は敵襲を報せるものじゃないっ。黄色い狼煙(のろし)だって……。まさか、街の中に異形(ベルグ)が!?」
「危険が分かるなら行動しろっ。わめいても事態はよくならん。自分にできることを考えろ。市民(ミル)の務めは身を守ることだっ。さっさと動け!」
赤い制服の兵士たちは突然の事態を収拾しようと声を張り上げていた。空を見上げるばかりの人々に進むべき道を示し、歩かせ、慄いている者をも進ませていく。
「戦える者は詰め所に向かえ! 装備を整えた後は衛兵(ガード)の指示に従い行動しろっ。まずは状況の把握だっ。急げ!」
場を仕切る隊長の腰に挿さっている短筒からは、細い白煙が天に向かって伸びている。兵士分隊の所在を報せる旗代わりの狼煙(のろし)は、今や街のいたる所から上がっていた。おのおの対応に奔走しているのだろう。見上げれば知れるその位置は、刻一刻と変わり続けている。
「隊長(ヘッド)っ。新たな黄煙を確認しました。あの位置は……セルガ地区です! すでに対応しているのは二隊。さらに一隊が向かっていますっ」
「遠いな……。本隊は目標を変えず南門へ向かうっ。ドレン、ブルック!」
「は!」「はいっ」
「後続に伝令っ。我が隊の進路を伝え、他の配備状況を確認してこいっ」
「「了解!」」
緊迫したやりとりを横目に、レオンとクリスは場を駆け抜けた。
「だいぶ浮き足だってるな」
「しかたないわよ。いきなりだもの」
兵士が街を守る盾ならば、巡行士は脅威を祓う剣だ。異形(ベルグ)の討伐は彼らの義務。与えられた務めを果たすべく、二人はまっすぐ南を目指していた。歩幅は大きく、歩調は忙しく、しかし口調はまだ軽い。
「なんの予兆もなく、いきなり異形(ベルグ)が襲ってきたと言われてもな。信じろってほうが無理だぜ。見張り(サイト)の連中はなにやってたんだと思うわな」
「なにかの間違いってことは、ないわよね」
「みたいだな」
差しかかった十字路で空を改めてみれば、黄色い煙の柱はさらに数を増していた。異形(ベルグ)発見を報せる狼煙(のろし)は隊長格の兵士しか所持しておらず、使用も目視してからと定められている。盗みだされたり持ちこまれたりという話も聞いていないから、彼らがまとまって造反したと考えるよりは、本当に異形(ベルグ)が現れたと考える方が自然だ。
しかし、
「壁や門を突破された様子はないのに、いきなり街中に現れるのはどういうこと?」
「もしかすると……お?」
「石弓(クロスボウ)準備っ。姿勢定めい!」
駆けている間に、最も近い黄煙の下へ辿りついていた。人気のなくなった往来の左方、砕けた店舗の一つを囲み、兵士が膝立ちと直立の二列になってクロスボウを構えていた。
指揮しているのは、大仰な鎧を完全に着こんだ壮年の男。
「狙いは足につけろっ。動きを止められさえすればいい。交戦中の巡行士(ラウンド)が離れた瞬間に叩きこみ、隙を――」
「あれ、バロウズのおっさんじゃんか」
「んむ?」
振り返ったのは紛うことなき将官だった。重武装はいつものことだが、やたらと立派な鉄槍を振り回す姿は妙に活き活きとして見える。
「兵士(ビット)の大将がこんなとこでなにしてんだ? イコラんとこ行って総指揮とれよ」
「戦の場を前にして逃げられるか! 若造どもになど任せておれんわっ」
「おお。さすがは歴戦の勇士。たっのもしい」
緊迫した周囲を気にもかけないレオンの口調に、バロウズの堪忍袋はあっさり尾を切る。
「貴様のように浮ついた輩(やから)がおるから安心して前線を任せられんのだ! 少しは己が勤めの意味と重要性を理解して――」
「あれが敵ですね」
「ぬ? お、おう」
すかさずクリスが割って入った。長々と説教をさせている場合ではないということだろう。クロスボウの鏃(やじり)が向けられているモノを見て、レオンも少しだけ集中を高める。
視線の先では異形(ベルグ)と戦士の戦いがくり広げられていた。鋭い爪を振り下ろす太い腕、叩きつけられた斧すら撥ね返す頑丈さには覚えがある。
「熊の体躯に鱗の肌。あれは……」
「一昨日のヤツだな」
まさしく、先日レオンが斬った『熊』と同型の異形(ベルグ)だった。経緯を聞いて報告をまとめたクリスから納得の声が漏れる。
「なるほど。街中に突然現れるわけね」
「残党がいたってことか。面倒起してくれやがる」
剣に封じていたモノを喚び召したということだろう。あの場にあった魔力剣はすべてイコラが回収していったが、調べきれていない仲間がいたのかもしれない。レオンの不手際ではないのだが、つぶやきには自然と苛立ちがこもった。
それをバロウズは聞き逃さない。
「なんだ? また貴様の不始末か!?」
「またってなんだよ。俺がいつ不始末なんぞしでかした」
「忘れてるのなら思い出させてあげるけど」
クリスのボヤきにはあえて触れなかった。ただ、彼女の存在だけを盾に使う。
「だいたい、なんで俺にだけ言うんだよっ。相方は無視か、ああ?」
「クリスはよくできた娘だからの。貴様と違ってしくじることなどありえん」
「テメェ! イイ女ばっか贔屓すんなっ、エロジジイ!」
「ふん。盛りのついた小僧に言われる筋合いないわっ」
「ンだとっ、この――」
「バカやってないで、いくわよ」
いつもの調子で熱くなる言い争いは冷静な声に止められた。確かにこんなことをしている場合ではない。
「チっ……。ジジイ、後ろから撃つんじゃねぇぞっ」
「やるときは正面から撃つわい。安心して尊い犠牲になってこい」
レオンは舌を打ちながらも腰の剣を抜き、クロスボウを構える兵士たちの横を抜けた。目指すはくり広げられている戦いの只中、同業者の盾と押しあっている『熊』の脇だ。
踏み出す直前、相棒と短い言葉を交わす。
「足止めお願いね」
「ああ。かなり硬いぞ。気合いれろよ」
「了解」
クリスはその場で立ち止まり、左の手にもつ六角の結晶に熱のない炎を上げさせた。増魔石(アンプ)により高められた魔力が、杖頭に嵌められた呪換石(グレイル)に喰われ、周囲に呪陣を展開していく。
現れゆくは意思の槍。柱のような光の杭。魔導の杖(バレル)は歪みを撒きながら討つべき標的(ベルグ)へ狙いを定めていく。
その道を誘(いざな)うのがレオンの役だ。
昂ぶりゆく魔力に『熊』が目を向けた瞬間、その左脇腹に渾身の一刀を叩きこんだ。
『ゴアア!?』
『熊』は一歩を退いた。が、それだけだ。やはり硬い。一昨日の一撃はまさに僥倖だった。自らの一刀で仕留めるには相応の消耗を覚悟しなければならない。
今まで異形(ベルグ)と対峙していた筋骨隆々たる巡行士は、膝をつき滝のような汗を流していた。とりあえず目的の一つを果たす。
「代わるぜっ」
「お、おう。頼む」
息を荒げた男が退く時を稼ぐため、兵士たちは構えていたクロスボウを一斉に放った。プレートメイルをも貫く鏃(やじり)、十数の太矢が宙を裂き、巨躯を支える脚を撃つ。
刺し砕かれる黒い鱗、噴き上がる細い血の飛沫(しぶき)。
だが、肉穿ち骨砕くには至らなかった。
異形(ベルグ)は自らを守るために、強い肉体だけでなく自我意識(イーディア)をも利用する。『熊』が我が身の無傷を想えば、精神(こころ)は自らの『形』を保つために力を創(う)むのだ。それが攻撃の意志に勝るなら、物質の領域(マテリアル・サイド)の『形』である肉体が傷を負うこともない。
無数の太矢が異形(ベルグ)の脚を貫けなかったのもそれが理由。強い精神(こころ)が支える護りを、意思宿すことの難しい射撃投擲で崩すのは難しい。
だが、異形(ベルグ)の用いている道理は、人間が鍛え上げてきた精神武術(アストラシュ)の基礎でもある。
『ヴオオ!』
「この鈍感野郎が!」
振り下ろされた『熊』の腕を、レオンは剣で迎え撃った。意思の力をまとった刃は蒼い歪みを撒きながら、加えられる重圧と真正面から鬩ぎあう。
半身分は異なる身丈。十倍はあろうかという重量の違い。それを埋められる精神(こころ)の技こそ、彼が巡行士たりうる理由の一つ。
「グ、ぉぉ……!」
それでも、圧倒的な体格の差を覆すのは難しい。単純な力で勝る『熊』に圧しかかられ続ければ、強き精神(こころ)もいずれは疲弊し、抗う意思も削られ、失せる。
それを知らぬ戦士はいない。
「調子に――」
両手で掲げた剣ごしに敵の姿を見据えたまま、レオンは意識を集中した。霊覚を己が内に向け、霊(ふ)れたイメージに力を満たす。
それは渦巻く大気の壁。鉄塊にも勝る不可視の衝撃。
精神(こころ)に想い描いた型を、肉体を導(しるべ)に結実し、
「――のんな!」
『ヴォガ!?』
怒りをこめた一声とともに『熊』へと叩きつけた。
重い風は剣と鬩いでいた太い腕を撥ね除け、鱗のぬらめく胴を傾がせた。つきでた鼻先をも無残に潰す。響いた叫びには明らかな苦痛が混ざっていた。
クロスボウで射られても意に介さなかった異形(ベルグ)だが、魂源の域から創(う)まれた力は十二分に堪えたらしい。想定通りの威力と効果にレオンは内心でほくそ笑む。
放ったのは人が精神(こころ)に秘めたる牙。『真牙(ファンク)』と呼ばれる魔導の礎(いしずえ)たる力だ。卓越した戦士にのみ発現しうる型は、個人の資質により異なる。
レオンの真牙(ファンク)は『風の壁』。鉄よりも重い不可視の障壁で、敵の攻撃を防ぐ盾にも、叩きつける槌にもなる。一昨日『熊』を両断した僥倖も、この力を目眩ましに意識を殺いで成したものだ。
今もまた目論見通りに標的の動きを殴り止めた。これでレオンの役目は終わり。後はトドメの一撃を待てばよい。
想い、大きく距離をとった。互いに呼吸を熟知しているクリスとの連携に隙はない。これまで同じ手順を踏んで放たれてきた魔力の槍は、数えきれない異形(ベルグ)たちを肉の欠片に変えてきた。今回もまた一拍と待たず輝く力が敵を討つ――
そう考えたレオンは、すでに三度の呼吸を終えていた。
「クリス!?」
体勢を戻しつつある『熊』に警戒を向けたまま振り返る。
クリスはしっかりと杖を構え、"光の槍(スクオード)"を具現していた。霊(かん)じる威圧は限界まで引き絞られた破砦弩砲(バリスタ)を想わせるほど。
標的はすでに捉えている。撃てば確実に『熊』を屠れるだろうに、クリスはピクリとも動かない。
「おい、どうした! 早くトドメを――」
急かそうとして視線に気づく。クリスはレオンをまったく見ていなかった。標的であるはずの『熊』も、戦いの場そのものも。
見ているのはもっと先。南門へ通じる南央の通り、三階の建物が軒を連ねた左へゆるやかに曲がる道の、先が隠れた棟の陰。
そうと理解した瞬間、レオンは首筋を喰い千切られるような衝撃に襲われた。あわてて触れたがもちろん無事だ。痛みも錯覚にすぎない。
だが、恐怖をもたらした存在だけは確かなもの。道を遮っていた三階建てが敢えなく倒壊し、激しい警鐘よりも大きな音を通りの只中に響かせる。
その残骸を、長い首が撥ね飛ばした。現れた貌は野犬か、狼か。体も四肢も四足獣のものだが、首だけが蛇じみて異様に長い。全身は『熊』と同じように闇蒼(あんそう)の鱗で隙間なく覆われているが、大きさは圧しかかった三階建てを苦もなく倒すほど巨大だった。唾液を垂らした顎(あぎと)もまた大きい。人間など生きたまま丸呑みにできるだろう。
実際にそのつもりであることは、黒眼に揺れる血色の瞳で知れた。いや、仮に盲(めしい)た者であっても、敵喰らう性(さが)は心で霊(し)れる。
「な、なんだ、ありゃ――」
『ゴアアアアアアア!!』
咆哮を放つ巨獣の圧は、クリスの構えた魔力の槍が儚く霊(み)えるほど強大だった。
●「なによっ。もう大丈夫なんじゃないの?」
耳を劈(つんざ)く警鐘が大気を震わせ続ける中、パルモートの民は領主邸に集まりつつあった。
「落ちつけ! ここまで来れば危険はない!」
「焦らず、速やかに中庭へ移動しろっ。知人の安否を確かめ、同じ地区の者たちで集まれ」
「各区の長は点呼を急げ! 避難の状況と被害の程度を報告しろっ」
「動ける者は班を作り指示を仰げ。整ったところから怪我人の運搬と治療の補佐に回すぞっ。本邸広間を開けておけ」
指示する兵士たちの言葉は強かった。指揮官から伝令兵まで、不測の事態に対しても個々の動きに乱れはない。自らを守る戦士たちの毅然たる態度に、集まった人々は恐慌をかろうじて抑えているようだ。
同じことがイコラにも云える。
「あっちはガルデンに任せておけば大丈夫ね。問題は――」
「領主(ロード)!」
息を切らせて飛びこみきた身形(みなり)のよい痩身の呼びかけに、イコラは中庭から目を離した。
領主邸で最も高所にある鐘楼の中階は、緊急に際して指揮所に変わる。半ば吹き抜けの円い部屋では五人の|見張り(サイト)が市街に目を向け、壁際に設えられた階段を伝令兵(センド)が行き交っていた。イコラは彼らがもたらす情報をまとめ、次の方針を定めなければならない。
それを、テーブルを囲む名士たちは理解できていないらしい。
「一体なにが起きているのですか! 街の中に異形(ベルグ)が現れたと聞きましたぞ!?」
「ええ、そうらしいわ。いま状況を把握している真っ最中よ」
これまでに五回は返した答えを、イコラは苛立ちを顔に出さぬよう投げ渡した。彼女とてこのような事態に慣れているわけではない。森境や街壁で異形(ベルグ)と対じたことは数えきれないが、市街地での戦闘となると片手で数えられる程度だ。数ヶ月前の事件では、たった一匹を討ち倒すのに街中を巻きこむ騒動となった。今回の騒ぎはすでにそれ以上だ。どうしても焦りが募る。
それでも、みっともなくわめくわけにはいかない。自分はロード・パルモートであり、この戦の総指揮官なのだ。下で、この場で、街の中で、命を掛けて務めを果たしている兵士たちの長として、情けない姿などさらせるものか。
イコラがテーブルへ戻ると同時に、新たな伝令兵が駆けこんできた。
「報告しますっ。エメイン地区の避難完了しました。ラルバ、スーラルもじきに確認がとれます。発生点と目(もく)される南門周辺の正確な人数は不明。火災も発生しているようです。避難の遅れ、あるいは、犠牲になった者もいるかと」
「っ……。いま邸にいる分隊の数は?」
動揺を飲みこみ隣に問う。トールは粗紙に記した刻みを数え、新たな情報を足し、答えた。
「避難誘導に五。待機と準備中がそれぞれ三。こっちに向かってる隊は四が確認できてる」
「……いいわ。領主邸から二隊、南門に向かわせなさい。敵の動向を警戒しながら消火・救出活動に回して。危険がないと判断できるなら民兵(ドラフト)でもいいわ」
「了解。伝令兵(センド)、下に通達を――」
新たな指示を出す間にも状況は刻々と変化していく。階段を降りていった兵と入れ替わりに、新たな者が飛びこんできた。仕立てのよいローブを引きずった小太りの男は、先の痩身と同じく街の名士の一人だ。慌てる気持ちはわからなくもないが、涎(よだれ)ともつかぬ汗を拭くぐらいの礼節は備えてほしい。
「領主(ロード)さま! 異形(ベルグ)が侵入したと聞きましたぞっ? なぜそのような事態が起きるのですっ。見張り(サイト)はなにをしてしていたのですかっ。責任問題ですぞ、これはっ」
「原因はまだわからない。見張りの話は後で聞くわ。今確認しても意味がないでしょう」
「ですが領主(ロード)――」
「少しお待ちを。なにか新しい動きが?」
唾散らす顔を横に除け、新たに飛びこんできた兵を迎える。伝令は絶え間なく増え続けていた。
「ハッ。新たな黄煙が昇りました。現在敵の総数は八。南門を中心に点々と増えつつあります。」
「現場の分隊はそれぞれが近接の対象に向かっています。エメイン地区に三、スーラル地区に四。ラルバ、レリレッドにそれぞれ二」
「スーラル地区の対象、レイエルに移動しました。さらに二隊が接触します。他にも――」
「ああ、もう。ちょっとまって」
矢継ぎ早の報告に理解が追いつかない。イコラは一つ息を吐くと、姿勢を正して隣を見た。
「トールっ。拡張計画の報告に地図があったでしょ? 一昨日のやつ」
「お、おう?」
「ぜんぶ合わせて全体図をテーブルに広げて。六陣(ヘクス)の駒で兵と敵の位置を示すわ。報告に合わせて動かしてちょうだい」
「……なるほど。了解っ」
トールが地図の用意に部屋を駆けずり回っている間、状況の推移はイコラが記した。空を見て知れる兵士の動きに、斡旋所長からの情報を足していく。
「巡行士(ラウンド)は一二人が確認できた。もう少し居ると思うが、詳しい位置は把握しきれんな。それぞれ近い相手に向かってるだろう」
「身軽な人に伝令役(センド)を頼んで。正確な割り当てをできるだけ早く知りたいの。武器や術の使用に制限はかけないから、なるべく――」
「イコラさま。各地区の神殿はどうしましょう? 神官(プリースト)たちが避難してきた民を守っていると思うんですけど」
「ああっと、北側はそのままでいいわ。危険だと伝わればこっちに来るわよね? 太鼓とラッパは準備できてるでしょ? それで判断してもらいましょう。伝令兵(センド)も回して、移動する際は速やかに――」
神官長の息子への指示も、また別の名士が遮ってくる。
「だだだだいじょうぶなのですか、領主(ロード)さま! 異形(ベルグ)は刻々と数を増しているのですぞ? それも街の全域に広がるように!」
日頃の嫌味ったらしい態度は自宅にでも忘れてきたのか、唾を吐き散らす小柄な中年は顔を歪めわめいていた。立て続けに見せられる見苦しい有様に、イコラの忍耐も限界が近い。
「……落ちつきなさい、キルメロス卿。敵の動向は把握しています。広がりは街のすべてとは言えません。南門を中心にして放射状にです。
……外から入りこんでるならもう少しまとまっていてもよさそうなものね。まるでバラ撒かれてるみたいじゃない……」
「なにをブツブツと! このままではいずれココにもやってきますぞ! なぜ邸の門を閉ざさないのですっ。早く兵力を集めて守りを固めなければ! 我らの安全は確かなのでしょうな!?」
「領主邸は民の砦です。彼らの避難を優先させるのは当然でしょう。安全を得たいのならあなたの保有する戦団もわたしの指揮下に加えなさい。手はいくらあっても足りないのよっ。
ええい、敵の詳細はまだわからないのっ?」
「おねーちゃん。ミッコが南門に着いたよ。離れすぎてて他のことはわからないけど」
「使い魔(ベイル)でなくても目なり耳なりはつなげられるんでしょ? 安い増魔石(アンプ)なら使っていいから、わかることはぜんぶ教えてちょうだい。できれば敵の姿形を幻影にでも投影して――」
「領主(ロード)! 我らの守りを下々より後にするというのですか!?」
ニコラまでもが働いているのに、名と金のある者たちだけがいつまでも無駄に騒いでいた。一人が声を上げ始めると残りも調子を合わせてくる。こんなところだけはいつも通りだ。
「なにを考えておられるのですっ。我々の果たしてきた貢献をお忘れか?」
「これだから小娘の二代目はっ。だから私は言っているのですよ。もっと見識ある人物がしかるべき地位につくべきだと! だいたい今の在り方は――」
「ああ、もうっ。アンタたち――」
「ちょっと、イコラ!」
金髪を振り乱して飛びこんできたアイギナも態度は同じ。場の空気を気にもせず、イコラに詰めより文句を放つ。
「なにがどうなってるの? 異形(ベルグ)が街に現れたですって? 見張り(サイト)はなにをしていたのよ。いえ、それよりも、街中に広がっているんでしょう? 大丈夫なんでしょうね? ここにまで押しよせられたら私たちだってどうなるかわからないのよ? はやく守りを固め――」
「だーっ、やかましいっ!」
「べっ!?」
その顔に、イコラは握っていた紙束を叩きつけた。空気の破裂するような音に、アイギナがふらふらと後ずさる。
「ったいわねっ。なにすんのよ!」
「うっさい! 口にでも詰めこんでおきなさい! アンタも、アンタもっ、アンタもよ!」
「どっ?」「がっ?」「ぶわ!?」
続けて握り潰した紙球を三人の名士に一つずつ投げる。重さはほとんどなかったが、すべてを口に命中させた。仰け反ったのは痛みというより驚きのためだろう。
「な、なにを――?」
「いい? アンタたちにわからないことはわたしにもわからないのっ。当たり前で答えの得られない質問はやめてちょうだい!」
目を白黒させる名士たちに、イコラは爆発する感情を叩きつけた。響き続ける警鐘や絶え間ない報告をかき消す勢いで、溜めに溜めていた不満をブチ撒けた。覚悟した威厳はすでになく、保とうとした尊厳ももはやない。
「いま要るのは情報よ! 疑問や不安を持ちこむだけの人に用はないわ。出て行きなさい!
あなたたちだってそれぞれの場を統率する長でしょう? わめく以外にもできることはいくらでもあるはずよ。従う者たちの恐れを拭うなり、使える物を調べるなり、人を動かして情報を集めるなりっ」
内容よりも勢いに圧されたのだろう。名士たちはおろか兵士たちまで次の動きを止めていた。
「わ、わかってるわよ、そんなことぐらい」
「だったらさっさとやんなさい! 自分とこの手勢だけでも、さっさと!」
アイギナのささやかな抵抗も一喝で消し飛ばす。束の間、鳴り続いている警鐘とイコラの荒い息だけが響いた。
そのままでいられる余裕はなかったが。
「あー、領主(ロード)さまよ。報告、いいかね」
新たな声は階段から。妙に冷ややかなゼオバルグの口調は、瞬間的なイコラの怒りを実に効率よく冷ました。あわてて身なりを繕い、迎える。
「な、なにかしら。ゼオバルク老」
「エメイン地区から避難してきたヤツらの話をまとめてきたぞ。敵は鱗で覆われた熊の体をもつ異形(ベルグ)だそうだ。見た目通りに大した力らしい。並の剣や槍では歯が立たんとよ」
「鱗の熊? それって……」
説明は簡潔だったが、イコラの脳裏にはその姿がはっきりと浮かび上がっていた。つい先日見せつけられた力のほどは、トールの記憶にも深く刻まれていたらしい。
「一昨日のヤツか? 残党がなにかしでかしやがったな」
「かしらね。それならいきなり出てきたのも納得できるわ」
封印剣から解放されたのなら、外を監視する見張りたちが気づかないのも当然だ。群れが分かれるのではなく各所に点々と現れるのも、解放者が移動しているからだろう。それも、動きからして複数か。
そんな推測ができるのも一昨日の捕り物を経験しているからこそ。街へ戻ってきたばかりのゼオバルグは眉をひそめていた
「なんだ、おまえらが原因か?」
「なんですって!? イコラ、あなたって人は!」
「ち、ちがうわよっ。取りこぼしというか、不可抗力というか――」
「領主(ロード)さま! ラルバ地区の黄煙が消えました。敵の一つを討ち果たしたようです!」
噛みつきくるアイギナに返す言葉を選んでいると、監視兵の一人が高揚した調子で報告を上げた。「おお」と広がるわずかな安堵に、イコラもトールと視線を交わす。予想は同じものらしい。
「なんとかなりそうだな」
「ええ。相手があの程度なら態勢さえ整えばどうにでもなるわよ」
体験した『熊』の力は確かに恐るべきものであったが、日頃から想定している脅威を大きく逸脱するほどではない。特異な能力(ファンク)を有する巡行士たちは元より、森境に派遣される兵士の小隊も日常的に対じている。状況が把握できさえすれば、いつもの通りに対処できるはずだ。
少しばかり数が多くとも、戦場である市街は人間の本拠。武器の質と量に制限はない。対|異形(ベルグ)用に備えてある呪符はレオンの一撃よりも威力が高く、敵を包囲する兵たちもその扱いは熟知している。これ以上の侵攻を許すことはないだろう。
続く報告が予想を裏付けていく。
「ラルバ、およびスーラル地区、避難完了しました。負傷者はいません。三〇の民兵(ドラフト)が動員可能です」
「了解。半分は兵と一緒に、安全を確認できた道から南門に向かわせて。もう半分は治療の補佐ね。ホールの方を手伝わせましょう」
「ハっ」
「黄煙の数は現在七つ。すべて動きは止まりました。各々に六、七の分隊が当たっています」
「いいわね。対応はそのまま。数で押し潰してやりなさい」
異形(ベルグ)は守りに精神(こころ)を使うが、それも永遠には続かない。攻撃を防げば防ぐだけ消耗していくのは巡行士と同じだ。数に勝る兵士たちが距離をとりクロスボウを射かけ続ければ、いずれは『熊』の抵抗も挫ける。そうなれば野の獣と変わりはしない。
「こりゃ巡行士(ラウンド)連中は必要ないか?」
少し気を抜いた調子のトールに、イコラはしっかりと言い含めた。
「なに言ってるの。せっかく動かしたんだから働かせるわ。どうせ報酬は変わらないんだから」
軽い口調で言う間にも黄煙の一つが薄れて消えた。室内の空気も軽くなり、人々の表情も明るさを取り戻しつつある。息を荒げていたアイギナも、乱れた髪に気づいたようだ。
「なんだか、大騒ぎするほどのことでもなかったわね」
「現場の兵士(ビット)たちは森境の討伐業もやってるもの。その場での判断ならわたしより的確よ」
「それ、自慢できること?」
「う、うるさいわね。今後の課題をきちんと把握してるんじゃない」
交わす悪態の聞きにくさに今さら気づく。危険を告げる警鐘も、もう役目は終えたと云えるだろう。
「このやかましい鐘もそろそろ抑えても――」
ガン! ガン! ガン! ガン! ガン! ガン! ガン!
制止を告げようとした声は、それまでの倍はあろうかという衝撃に妨げられた。耳を劈(つんざ)く鉄鐘の音が、たった今安堵を覚えた市街から飛びこんでくる。
室内はこれまで以上の混乱と恐怖に襲われた。名士たちはおろか、少し気を抜いていた兵士たちまでが右へ左へと忙しなく動き回る。イコラも動揺を隠せない。
「な、なに?」
「なによっ。もう大丈夫なんじゃないの?」
「おねーちゃんっ。あれ!!」
ニコラが窓から身を乗りだす。一際甲高い声はけたたましい音の中でもよく響き、原因を速やかに伝えてくれた。街を見下ろす位置に立ち、妹の指さす先を見る。
南門にほど近い南央の通りの一角に、多くの狼煙(のろし)が集まっていた。いくつかの白に囲まれた黄色の一つが薄れていく。
代わり、別の色が昇った。
「あれ、は――」「そんな……」「うそ、だろ……」
それは血のような赤。異形(ベルグ)を上回る脅威を報せる、禍々しき恐怖の象徴。万が一を考えて用意だけはしていたものの、見たくはなかった色の意味は、
「……魔獣(ゾア)が、街に……?」
イコラのつぶやきは広がることなく、激しい響きに飲まれて消えた。
●「時間は必要なだけ稼ぐ。用意してくれ」
『ガアアアアアアアア!!』
暴風じみた咆哮が轟く。けたたましい鉄鐘を一瞬だけかき消した『狼』は、二階を肩で削りながら広い道を進みだした。
長い首をもたげる様は密林に潜む大蛇のようで、なめらかな鱗に覆われた貌は苛立たしげに歪んでいる。造詣は確かに犬狼のものだが、獣毛を持たないその姿は皮を剥がされた死肉さながら。
黒眼に浮かぶ血の瞳だけが異常な生気を宿して霊(み)える。
「っ……」
心を埋めたおぞましさに、レオンは思わず足を止めた。後ろに控えるクリスや兵士たちも同じ感情に苛まれているのか、近づきくる『狼』に対して動こうとする気配はない。彼らを守らなければと思うのだが、意思は手足まで届かなかった。
――かつての恐怖が思考を塗り潰している……
『狼』が四肢を縮めても、そこから跳躍し迫りきても、レオンは動けずにいた。裂けよとばかりに開かれた顎(あぎと)、唾液にまみれた乱杭歯は、瞬きのうちに大きくなり、視界を埋め、そして――
「――なにを」「ボサっとしてやがる!」
左右から飛びこんできた大戦斧(グレート・アクス)と中庸剣(バスタード・ソード)に、轟音を立てて遮られた。
『ギッ!』「おわっ?」
三つの蒼い歪みが重なり、雷光が放射状に散り広がる。レオンが勢いに押されて下がるも、戦いの流れに支障はない。
生まれる一瞬の停止。
広がる一刻の無音。
直後、二人の巡行士は爆ぜるように弾かれた。
「ぬあ?」「がっ!?」
兵士の集団に叩きつけられ悶絶する二人を、『狼』は悠然と見下ろしていた。長い首をもたげる動きは獲物を見据える蛇そのもので、先の割れた細い舌を嬉しそうに伸ばしてみせる。
その浅ましさに、レオンは沸々(ふつふつ)たる怒りを思い出した。もはや心の重さはない。よろめく足に力をこめ、握る剣を構え直す。
「調子に――」
踏みこみ向かうは兵列の前。
狙うは獲物に迫る『狼』の貌。
「――のんな!」
『ギバッ!?』
渾身で放った『風の壁』は獣の進路を確(しか)と塞ぎ、伸びる首と激突し、止めた。
続けて、全力こめた精神(こころ)の刃を揺れた首根へ叩きこむ。
刹那で想うは攻勢の軌跡。黒くぬらめく蛇の鱗をガラスのように断ち砕き、下に走る血と肉を無残に斬り散らすイメージ。
高めた意識を剣に乗せ、加速。
集中で砥いだ一刀が、一昨日『熊』を屠ったとき以上の歪みをまとい、疾る。
「っ……!?」
それを、『狼』の肌は苦もなく弾いた。蒼い歪みが音も立てずに散り消える。斬撃の跡には砕けた鱗が残っていたが、生じた変化はそれだけだ。レオンの覚悟は『狼』に傷を与えるどころか、皮を削ることすらできずに終わった。
ただ精神(こころ)に軽く霊(ふ)れ、殺意を自分に向け直させただけ。
『ギッ!』
「くっ!?」
苛立たしげに振り回された顎の、牙の一つをかろうじて避ける。まとっていた鎧が引き裂かれ、革の残骸と化し道に撒かれた。
「レオン!?」
「心配すんなっ。引っ掛けられただけだ」
「だけって……」
クリスの声は震えていた。
精神武術(アストラシュ)は防御の技でもある。駆けだしでは痛みを忘却する程度だが、熟練者ともなれば異形(ベルグ)と同等かそれ以上の効果を現すことも可能だ。巡行士と認められる戦士なら、戦いの中では無意識の内に展開できなければならない。
当然レオンも修得している。その錬度はまとった皮鎧に板金鎧(フル・プレート)以上の強度を与え、横から射かけられたクロスボウすら弾くほど。例え異形(ベルグ)に喰いつかれても一撃で砕かれることはない。
それが易々と裂かれた意味に、クリスは気づいたのだろう。困惑しているのは確信が持てないからか。
だが、レオンには断言できる。アレは『魔獣(ゾア)』だ。かつて遭遇したモノと姿形はまるで違うが、触れて霊(し)れた存在の重さは否定のしようがなかった。
ギシギシと疼く古傷の痛みにどうしようもなく一歩を下がる。
「ク……」
『ヴウウウウウウウ、ウヴォ!?』
直後、唸りを上げていた『狼』が突然の炎に包まれた。地に創(う)まれた光の呪陣から勢いよく紅蓮が噴き上がり、三階分はある巨躯を余すことなく覆いつくす。
「っ、なんだ?」
新たに駆けつけた術士(ワード)か? レオンは慌てて退いた。
広がる熱波に大気が焼かれ、衝撃に周囲の棟が軋む。中心は赤ではなく白熱の色を宿していた。かすかに映る『狼』の影が狂ったように悶えるも、空気を無くした呪陣の内からはいかなる音も伝わってこない。
二拍の後、火柱が消えると同時に絶叫が迸(ほとばし)ったが、周囲の動きはそれよりも速い。
「ウおおらああっ!」
先に撥ね飛ばされた大戦斧(グレート・アクス)の持ち主が、矢のような速度で『狼』へと迫り、勢いのまま力を落とした。歪みの尾を引いた一撃が、鱗で覆われた大木じみた右脚から盛大に血潮を飛沫(しぶ)かせる。
『ギイイイイイイ!?』
明らかな痛みの咆哮に、周囲が「おお」と小さく沸いた。
「ハっ! どうだ、バケモンがっ。人間さまを舐めンじゃ――?」
気勢とともに振り上げられた大戦斧(グレート・アクス)は、しかし再び下ろされない。重い刃は持ち主の上半もろとも、『狼』の顎に咬み捕らわれていた。
「があああああ!? こんの――」
口腔に蒼い歪みが膨らみ、爆ぜる。
『ヴオオオオオオ!』
巡行士を咥えたまま、『狼』は無造作に頭を上げた。もがく両脚も、流れ散る歪みも、意に介している様子はない。周囲の兵士たちが太矢を撃ち放ち、術士が魔弾を叩きこむも、『狼』は天を見上げたまま悠然と座しているばかり。
そして、少しだけ首を震わせて、顎の獲物を噛み砕いた。
「……っ!」
赤色が爆ぜ、もがいていた二本の足が止まった。抗いの歪みも消え失せる。
魔獣(ゾア)は長い首をしゃくり、勝ち得た獲物を音もなく飲みこんだ。喉に小さな膨らみが生まれ、もがく。だが、わずかな蠢きも束の間だけ。首が一度細り、膨らみ、また縮むと、儚い抵抗も呆気なく消えた。そのままゆるやかに、ゆるやかに下へ落ちていく。
……人であったものの末路だ。
見せつけられた凄惨に、場に居るすべての者が言葉を失くした。響いているのはけたたましい鐘の音だけ。近づきつつある増援の気配も、今この時には意味がない。
だが、ここは危機を告げる律動の中心だ。呆然としている余裕などない。
『グラゥ!』
一食を終えた『狼』は、休む間もなく首を伸ばした。標的にされた兵士の隊列がクロスボウの掃射で迎え撃つも、闇蒼(あんそう)の鱗に対してはまるで意味をなさない。『狼』の頭は向けられた太矢と同じ速さで一団につっこみ、新たに三つの血華を咲かせた。
『ヴオオオオオオオオ!』
散り散りに吹き飛んだ兵士を追って咆哮が轟く。吠える魔獣(ゾア)を中心にフワリと浮き上がった家屋の残骸が、見境なく周囲に撃ち広げられた。
『狼』の有する“力”であろう。
転がったままの兵士たちも、庇おうと立った中庸剣(バスタード・ソード)の主も、奔流じみた無数の瓦礫に敢えなく殴り飛ばされていく。
血の色が広がる間にも、前から、横から、後ろから、新たな守り手たちが集まりきていた。兵士たちは絶え間なく『狼』へと矢を射かけ続ける。
だが、効果は一向に上がらない。顎に砕かれ、首に薙がれ、咆哮に飛ばされていくばかり。
「…………っ」
レオンは奥歯を噛みしめた。ただ、噛みしめただけだ。
鮮血を広げる『狼』の暴挙、倒れ散りゆく仲間を見ても、彼の足は動かなかった。嗅ぎ慣れた血の匂い、聞き慣れた怒号と悲鳴、見慣れたはずの無残な骸が、まるで初めて知るもののよう。戦士として重ねてきた経験が色を失くしていくのがわかる。
心は再び闇に飲まれつつあった。
蘇るのは古い傷。まだ駆けだしだった頃、師である友を失った痛み。一〇〇の歳月に磨かれた砦を、二〇以上の仲間たちもろとも焼き払われた記憶……。
それを刻んだ存在こそ魔獣(ゾア)だ。
焼きつけられた色濃い恐怖、刻まれた深い無力感を、レオンは今だ拭えていない。霊(ふ)れた『狼』の重圧は、その感情を無理やり引きずりだしていた。どうしようもなく膝が折れ、心が自然と崩れかける。
……それでも。いや、だからこそ――
噛みしめすぎた歯が砕けた。その痛みで抗いの感情を奮い立たせる。脚を地に叩きつけ、強引に姿勢を整える。
見据える先は長い首、血の瞳が揺れる黒き眼。アレを討てる力を得るため、今日まで心と技を磨いてきたのだ。
今度こそ守ってみせる。街も、国も、大切な人も……!
「クリス!」
決意のまま後ろに呼びかける。"光槍(スクオード)"を放った相棒の表情に小さな緊張が加わった。
「なに?」
「アレを殺(や)れるか?」
簡潔で明瞭な問いに、クリスは小さく息を飲み、答える。
「……わからない。使える増魔石(アンプ)をかき集めて、街中の術士(ワード)と力を合わせて、最高に上手くいけば……止めるぐらいはできるかも」
「十分だ」
クリスの仮定は断言と同じ。そう信じられる戦友も手に入れた力の一つ。
「どれぐらいかかる? ……いや」
自分の役割は彼女を支えること。必要とされる距離を、時間を、すべてに代えても備えてみせる。
踏みだす一歩は強かった。充実する気力に応じ、手にした長剣(ロング・ソード)が歪みをまとう。
「時間は必要なだけ稼ぐ。用意してくれ」
「レオン、あなた――」
「絶対にブチこんでくれよ」
もはや言葉は必要ない。不安も、嘆きも、焦りも、恐怖も。
後は、成すべきことを成すだけだ。
レオンは相棒の声を振りきるように『狼』へと向かっていった。
●「アレ、使わせてもらうわね」
砂嵐のような光柱の内に色のない街の姿が浮かぶ。映っているのは広い道に連なる棟と、整列した、あるいは散らばった人々。
そして、鱗に覆われた巨大な『狼』だ。
振り上げられた長い首が弧を描いて宙を斬った。途中で触れた三階の家屋が木端を散らして斜に断たれる。上階は形を保ったままゆっくりと滑り落ち、そのまま道に触れ、爆ぜた。
下にいた兵士たちは慌てて散り広がったが、半ばは倒壊に飲まれて消えた。難を逃れた半数も、『狼』の咆哮が浮かせて放つ瓦礫の弾に撃ち飛ばされた。
膨らみかけた粉塵が黒い血の雨に濡れ、落ちる。破壊の音は聞こえない。怒号も、罵声も、祈りも、悲鳴も、予想はできるが、響かない。
わかるのは凄惨な場の様子だけ。千切れる腕。もげる脚。ありえぬ向きへ折れる背に、上下が逆になった顔。
『狼』は四方から叩きつけられる武器や魔弾も意に介さず、まとわりつく者たちを蹴散らしながらゆっくりと進んでいく。
跳躍した巨躯が地に落ちた衝撃で、足下にいた術士が吹き飛んだ。野太い前脚が男の背に落ち、地面をヒビ割り窪ませた。
圧迫された肩や腰が歪に膨らみ、限界まで開かれた目と口から色のない血潮が迸(ほとばし)る。上下で捩れた表情は見ているだけで痛みを覚え、聞こえぬはずの悲鳴まで心に響かせるほどで――
イコラに確かめられたのは、そこまで。
「いやあああああああ!!」
ニコラの叫びとともに、像は渦巻く塵と化した。光のは音もなく砕け、テーブルの上に散り広がり、溶けるように消えていった。
残っているのは地図と駒だけ。心を締めつけていた圧力も、今は遠く離れている。見せつけられていた恐怖から解放され、部屋にいる者は大半が無言のまま放心していた。
ただ一人、幼い幻術士(カレイド)を除いて。
テーブルから離れたニコラは力なくしゃがみこんでいた。細い体を自ら抱き、小さな肩を震わせ、青い顔を強張らせていた。
無理もない。今まで映されていた像は、彼女が幻術により現わしたもの。現場に向かわせた丸ネズミの視覚に意識を重ね、見知った光景を光の柱に想い描いていたものだ。
云わばその場に居たのと同じ。イコラが砂嵐ごしに見た凄惨を、ニコラは目の当たりにしたことになる。
それが、どれほどの痛みであるか。
「……ニコラ」
「おねーちゃん……っ」
腕を開いて呼びかけると、妹は慌てて飛びこんできた。大粒の涙を隠しもせず、怯えのまましがみついてきた。抱きしめて思い知る小ささに胸がつまる。彼女に苦しみを与えたのは間違いなく自分だ。
「……ごめんね」
思わず謝罪の言葉が漏れる。だが、悔い改めている暇はない。
警告の鐘は変わることなく喧しさを撒いているのだから。
「なによ、今のは……」
アイギナのつぶやきは恐ろしくはっきりと聞こえた。震えた声が周囲を掻き乱していく。
「魔獣(ゾア)では、ないのか? 一〇〇〇〇の異形(ベルグ)をただ一つで屠り、その骸を喰らった獣……」
「あの、ベルメドの街を一夜にして灰燼へ帰したという……?」
「西の大国ですら、七つの騎士団をすべて動かさねば討ち果たせなかったと聞くぞ……」
囁きが広がるほど恐怖は膨らんでいった。日頃ならば言いすぎだと笑いたしなめられる戯言が、異常な重さをもって澱む。
「……みんな、落ちつきなさい。根拠のない噂を無闇に恐れては――」
「根拠がない? たった今、目の前で見たじゃない!」
装った冷静では諌めることも叶わない。イコラの力ない言葉はアイギナに一蹴された。
「どうするの! あんなバケモノどうするの? どうやって倒すっていうのっ?
……いえ、方法なんて決まってるわね。ゼオバルグ老っ」
「なにかね」
「辺境を渡ってきた貴方ならわかるでしょう。この街にある戦力であのバケモノを倒せる?」
「ふむ……」
もっさりとした髭に指を絡め、ゼオバルグはしばし沈黙した。やかましい鐘の響きを緊張によって遠ざけ、語る。
「増魔石(アンプ)も呪符(アーク)も十分な備えがある。地の利を活かすことも可能だろう。街にいるすべての術士(ワード)を集めれば、相手が魔獣(ゾア)だとしても打倒は可能かもしれん。
……もっとも、相応の犠牲は覚悟せねばならんがな」
「当然でしょうね」
応じるアイギナは冷静だった。声の調子を一つ下げ、抑揚なく二の句を継ぐ。
「はじめから結論はでてるのよ。今すぐ突撃の準備をなさい。ありったけの魔力(マナ)を叩きこむために、動かせる兵のすべてを盾にしてでも時間を――」
「やめて!」
突きつけられた現実を、イコラは大声で打ち消した。妹を抱く腕に力をこめ、アイギナに鋭い視線を向ける。
「勝手なこと言わないでっ。わたしの兵よ!」
「なら、あなたが命令なさいっ」
「そんな命令できるわけないでしょっ。わかってるの? アレの盾になれってことは、死ねと言っているのと同じなのよ!?」
「……それが彼らの仕事でしょう」
アイギナは調子を変えなかった。わずかに表情を強張らせながらも、強い口調を保ち続ける。
「巡行士(ラウンド)が武器を持てるのも、魔術師(ウィザード)が呪換石(グレイル)を没収されないのも、すべては異形(ベルグ)に備えるため。多少の狼藉が許されるのだって、こういうときに命を張るからじゃない。兵士(ビット)たちにしても同じことよ」
それは法よりも古い辺境の不文律だ。イコラも子どもの頃から叩きこまれてきた。
巡行士や魔術師は強い力を持っている。時に家屋を粉砕し、時に瘴気を呼びこむ術は、多くの民が集まる街では恐れ遠ざけられるべきものだ。実際、人の領域として安定を得た大都市などでは、巡行士の入街を認めていない場所もある。
だが、辺境では事情が違う。形も力も判然としない人外(ベルグ)の脅威に抗うためには、それに匹敵する彼らの力がどうしても必要なのだ。武装の許可や軽罪の免責はその代償。守りに力を尽くす限り、街は彼らを温かく迎える。
ただし、その尽力は義務だ。
街が異形(ベルグ)に襲われた際、巡行士は力なき者たちを守る盾となる。拒むことは許されない。理由なき逃走は重罪であり、時には首に賞金すら懸けられる。たとえ敵が山砕くドラゴンであろうと、異形(ベルグ)を膿み撒く魔王(ゾーン)であろうと、守るべき者がいる限りは盾の務めを果たさなければならないのだ。
たとえ、結末が死であろうと。
巡行士の身分はその覚悟と引き換えにのみ与えられる。彼らも、街に属する兵士たちも、突撃を指示されれば臆することなく力を尽くすだろう。
「あなたも同じよ、ロード・パルモート。自分の役割を忘れているの?」
そう。それはイコラも同じ。
「あなたの役割は責任を負うことよ。日々失われている命に、今から失われる命に対して」
冷徹なアイギナの言葉は容赦なくイコラの胸を貫いた。
戦いに臨むのが初めてなわけではない。周辺町村を守るため、街を襲う群れを掃うため、時に指揮を執り、時に剣を振るってきた。危険に晒されたこともあるし、力及ばず犠牲を出したこともある。
いや、犠牲は常に払い続けているのだ。|暗き森(ヴェムス)からあふれる異形(ベルグ)は決して尽きることがなく、退治に遣わす兵士たちのすべてが無事に帰れるわけもない。村や集落が襲われれば被害者の数は二桁にも、時には三桁にも至る。
犠牲となった者たちの名を、イコラは可能な限り報告させている。神の伝える鎮魂の儀を倣い、一つ一つを自らの手で書き写し、覚えている。
就寝前の祈りの中、黒いインクで記す文字は、なぜか濡らつく血の色に見えた。もはや亡き者たちの名を心臓に刻むような痛みは、自らの未熟を思い知る苦行でもある。
……だがそれは、責任の代償ではない。
「それができないのなら領主(ロード)なんて辞めてしまいなさい! あなたより相応しい人なんていくらでもいるわ!」
「それは、兵に死ねと命令できる人?」
「っ……。……そ、そうよ。それができなきゃ――」
「ふざけるな!」
立ち上がり、イコラはアイギナを一喝した。
「領主(わたし)の仕事は責任を負うこと。でもそれは、失われる命に対してじゃない。預けられている命に対してよ!
死ねなんて言わないっ。絶対に言うもんですか!」
牙剥く形相で発した声は警鐘よりも強く響き、ざわついていた場の動きを止めた。アイギナですら一歩を引いたが、言葉を収めさせるには至らない。
「まだわからないの? そんなキレイごとじゃ――」
「民を守るのが兵の役目。なら、兵を守るのは指揮する者の務めよ。はじめから生き残れる可能性のない、無謀なだけの命令なんて出せない。そんな指揮官(コマンド)に、領主(ロード)に、誰が従うっていうの? そんな街に、もう人は集まらないわっ」
「……だけど、今は先のことを考えてる場合じゃ……」
「わたしは今、この時のことを言っているのっ。領地に住む民、彼らを守る兵、流れていく者……。この街に関わる人たちを、わたしは家族だと思ってる」
――そんな考えは止めろ――
――自分が苦しむだけだ――
――報われることなど一つもない――
政(まつりごと)に関わる者たちは皆そう言った。ある者は嘲り交じりに、ある者は心配から、ある者は悲観して、ある者は後悔とともに。
そんなことはわかっている。困難は百も承知だ。だからこそ多くを学び、多くを試しているのではないか。嘲笑の理由も、心配の原因も、きちんと把握し対処している。悲観も後悔も避けられないことはわかっている。だから、だからっ、だから……!
……だから、本当はわかっていないのかもしれない。
確かに自分は未熟な領主だ。経験と呼べるものはほとんどなく、歴史を正しく知れているのかも怪しい。数々の助言も、忠告も、発する者の真意まですべて汲めているとは云えないだろう。自分なら上手くやれる。そんな驕りが、心のどこかにはあるかもしれない。他者に反発することで増長しているだけかもしれないと、省みない夜はない……
それでも、心からの想いを偽ることはできなかった。この意思を、意地を捨てては、自分が領主である意味がない。父と母が目指したものは、「古き街(ロスロクス)」と同じような強者の支配ではないはずだ。
思わずこめていた腕の力、抱き返してくるニコラのぬくもりに、そんな想いを確かめる。
「――家族を守るためならなんだってするわ。誰の命も軽んじたりしない。それがわたしの責任の取り方よ」
今度こそはアイギナも沈黙した。彼女にも父や母がいる。そんな当たり前を少しは思い出したのだろう。誰だって好んで親兄弟を死地に送りたくはない。
だが、止むを得ないこともある。
「で、実際のところどうするつもりだ? 現実的な力の差は心意気では埋まらんぞ」
ゼオバルグの冷静な声が場を現実に引き戻した。
耳を劈(つんざ)く警鐘は鳴り続けている。戦場では今なお兵士たちが魔獣(ゾア)に向かっているはずだ。状況はなにもよくなっていないし、劇的に変える術もない。
「それは……」
今から考え、実行するのだ。
イコラはニコラを後ろに下げ、テーブルの上を覗きこんだ。広げられた地図上の駒を凝視する。市街で起きている騒ぎのすべてはこの簡略な絵の中に収まっているのだ。個々の報告からでは知りえない事柄も、なにか浮かんでくるかもしれない。
点在する黒い駒は敵。集まり囲む白駒が兵だ。目標を打倒した隊は最寄の戦場へと向かっている。相手が『熊』程度ならそのくり返しで対処できるが、魔獣(ゾア)を擁する南央の通りに対し、同様の行動は死を招くだけだ。
赤煙からそれが予期できても、兵士たちは戦場へ向かうだろう。軍としての訓練を徹底されているパルモート兵の士気は、他の領や都市に比べても高い。街を守るためならばと覚悟を決めているはずで、中央広場に集まりつつある白駒(ビット)たちが南央の通りに流れこむのは時間の問題だ。誇るべき気概であり頼もしい限りだが、だからこそ散らせるわけにはいかない。
――なにか、なにか方法があるはずだ。領主(ロード)として自分はなにを成してきた?
焦る思考をさらに速める。思い浮かぶのは日々の務め。退屈な会議、意味のない報告、山のような批判、重なる死者の名。騒がしい通り、にぎやかな市、具現される幻、走り回った街の中。新たな道を祝う祭、河を分ける工事の様、村を囲う壁の建造、町を襲いきた異形(ベルグ)の討伐――
いくつもの記憶が交錯するが、今一つのところで繋がらない。別の刺激が必要だ。もっと具体的な、なにか……
「あなたねぇ。さんざん大見得きっておいて、なんの計画もないんじゃ――?」
アイギナを押しのけ窓から外を見る。見慣れた街並みで目につくのは、白煙を帯びた赤い狼煙(のろし)だ。出所に破壊の粉塵が舞い、時おり鱗のぬめりが覗く。
少し視野を広げれば黄色い煙もいくつか知れたが、こちらはすでに絶えつつあった。囲っていた多くの白煙は南央の通りに向かっている。数のまま、色のまま、敵の力を殺(そ)げるのなら問題はないのだが……
あるいは同士討ちを狙うか? 先日没収した封印剣から『熊』を解き放つことはできる。同族ですら喰らいあうのが敵食(ベルグ)の性だ。魔獣(ゾア)の前で解放すれば勝手に潰しあうかもしれない。
……いや、駄目だ。周囲に人がいては先に狙われるのは目に見えている。御する術が知れないのでは無駄に被害が拡がるだけ。
(もっと効果的に、魔獣(ゾア)だけを確実に討つためには――)
思考の端、視界の端になにかが触れた。中央広場に集まりつつある白煙の群れ、太さを増すその後ろに見えるのは、天を突く巨大な建造物。
模した元となったものは、ドラゴンをも断つ|超大な剣(スペリオル・ソード)――
瞬間、イコラの脳髄を二つの閃きが走り抜けた。
「ちょっと、聞きなさいよ。少しは協力してあげようと――」
「ゼン爺!」
アイギナを無視して振り返る。幸い、必要な人員は揃っていた。
「なんだ?」
「治水の工事に使った呪符(アーク)、まだ残ってるわよね? いくつある?」
「さて。五回分は仕入れたからな。十数は残っとるはずだが」
「十分ね。ぜんぶ持ってきて。工兵(パイル)たちも集めてちょうだい」
「それは、かまわんが」
「おいイコラ。なにするつもり――」
「トールは兵士(ビット)と一緒に荷車動かして。待機中の全隊を連れて行くから、その準備も」
「は? 行くって、どこに? それに荷車は、おまえ、一昨日のままで――」
「封印剣(アレ)も持っていって。他には、そうね。貯蔵庫の豚肉を二頭分ばかり積んでちょうだい。塊のままでいいわ。
ノルは音令部に通達。合図したら太鼓を鳴らして集合かけるように連絡して。
それから……ニコラ」
呼びかけに、小さな妹は肩を震わせた。蜜色の瞳は潤み、掴む先を失った手は弱々しく宙をさまよっていた。近づき手を伸ばしてやると、すがるように握り返してくる。
「怖い?」
「……うん」
指はすっかり冷たくなっていた。無理もない。
「そうよね。お姉ちゃんも怖い……。森境でもあんなのに遭ったことはなかったもの」
あれほど凄惨な光景にもだ。ニコラに至っては人の死を目にしたことすらなかったはず。丸ネズミの視覚を通してとはいえ、初めて見た修羅場があの光景では、心に負った傷の深さはどれほどのものか……
どうしようもなく胸が痛む。だが、今は慰めてやることもできない。
覚悟を決め、懐の増魔石(アンプ)を握りしめた。
「でもね。お姉ちゃんにはもっと怖いことがあるの」
「もっと?」
「うん。街のみんなと、仲良しの人たちと、ニコラとお別れさせられること……」
泣きだしそうな眼を覗きこむ。告げた言葉に偽りはない。こうしている間にも魔獣(ゾア)は暴れ続けている。イコラがなにもしなければ、兵たちは自らの犠牲も厭わず敵を討たんと奮起するだろう。
それとて確実なものではない。魔獣(ゾア)の威力は時としてドラゴンにも匹敵する。術士たちの力を結集しても倒せるとは限らないのだ。
最悪、街は壊滅する。
「そんなの、やだ。わたし、おねーちゃんと一緒にいたいっ。みんなとずっと一緒にいたい!」
「うん。わたしも一緒にいたい」
まなざしにこめた悲しみを、ニコラはきちんと汲んでくれた。目の端から雫をこぼしながらも、しっかりと同意を返してくれた。
それが嬉しく、心強い。
「お姉ちゃん、そのためにがんばりたいの。だから、ニコラの力を貸してちょうだい」
「わたし、の?」
「そう。ニコラにしかできないの。お願い」
驚き瞬いた妹の手を、イコラは両手で包みこんだ。自らの熱を分け、握っていた石を渡し、心からの想いを伝えた。
ニコラの助力が得られなければこの策は成立しない。彼女が臆し挫けてしまえば別の手段を考えねばならず、それだけ時間が無駄になるのだ。犠牲もさらに増えるだろう。
緊張を秘めながら、しかしイコラに不安はなかった。
当然ではないか。たった一人の妹を、イコラは誰よりも信じている。
蜜色の瞳に光が戻った。手から伝わりくる温もりは、今やイコラより熱い。
「……うん。わたし、やる。おねーちゃんと一緒に、がんばるっ」
「ありがとう。大好きよ、ニコラ」
決意で強張ったニコラの頬に、イコラは唇で優しく触れた。涙はもう流れていない。
準備は整った。後は実行するだけだ。
「リクセスタ副兵将っ」
「は、はいっ?」
「わたしは今から隊を動かします。後の指揮は任せるわ。みんな、自分の持ち場に戻って最善を尽くしてちょうだい。それじゃ――」
「ちょ、ちょっと」
いざ動けと命じようとした声を、アイギナが慌てて遮ってきた。
「なに?」
「なに、って……わたしは?」
その割りに問いは要領を得ない。偉そうに腕を組んでいるくせに目はあらぬ方を向いているし、頬はわずかに赤らんでいる。
「わたしだって、この街、嫌いじゃないのよ? 兵士(ビット)にだって死んで欲しいわけじゃないし。だから、その……できることがあるなら、手伝ってあげてもいいわ」
どうやら照れているようだ。なにが恥ずかしいのかイコラにはよくわからなかったが、今この時には都合がよい。
なにしろ、向こうから言質(げんち)を提供してくれるのだから。
「もちろん、あなたにも手伝ってもらうわ。いえ、あなたにしか頼めないことよ」
イコラはアイギナの前に立ち、謹んでにこやかな笑みを浮かべた。不審を覚えられる前に、視線を外へと投げ飛ばす
。
「アレ、使わせてもらうわね」
街の中心に聳(そび)える超大な剣は、震える大気を斬るように白い切先を輝かせていた。
●「違うわ。イコラはそんな弱い子じゃない」
『ヴォォォァッ!!』
「っ――」
『狼』の爪が迫りくる。その動きを霊極(みきわ)めるため、レオンはさらに集中を増した。
攻撃の基点はしなやかな肩。二階に達する高さから、丸太じみた右の前脚が鋭い角度で振り薙がれる。
ほとんど水平に飛んでくる五つの黒爪。描かれる弧の軌道を予測し軽やかに数歩を退いたが、『狼』はその動きを追って前腕をさらに伸ばしきた。魔獣(ゾア)の有する捕食の意思は決して獲物を逃さない。
レオンは反射的に回避の捌きを想見した。握る剣を斜めに構えて腰を落とし、力を滑らせるイメージを刹那で想う。
体は思考と『まったく同時に』動いた。想いと寸分違わぬ姿が体躯と四肢により具現され、魔獣(ゾア)の攻撃を受け流す。
交錯、衝撃、轟音。
「っクぅ!」
剣がまとった蒼い歪みは派手に砕き散されながらも、かろうじてレオンを守り抜いた。
――精神武術(アストラシュ)の熟達者や真牙(ファンク)を自在に操る者、すなわち、精神と肉体を同調しうる戦士は、事象を認識した瞬間に動作を行うことができる。操り人形を糸ではなく、手によって直接動かすようなものだ。
純粋な意思による挙動は、神経や筋肉を介する動きより遥かに速い。レオンは剣の間合いから弓で射られても、矢が弦から離れる前に鏃(やじり)を斬り落とすことすらできた。異形(ベルグ)を相手に立ち回る以上それぐらいの芸はこなせねばならない。程度の差こそあるものの、巡行士ならば誰もが修めている技だ。
レオンが呼吸を整えようと退いた後も、他に集った三人の戦士が『狼』を翻弄した。突き伸ばされたぬらめく顎を寸前まで寄せて躱す者。振り下ろされた腕の一撃を力任せに弾く者。咆哮によって放たれた瓦礫を重ねられた荷車に飛びこみ凌ぐ者。守りに徹しさえすれば、相手がたとえ魔獣(ゾア)であっても少しの間は耐えられる。
いや、耐えなければならないのだ。
敵食(ベルグ)にとっては戦いこそが最良の餌となる。魔獣(ゾア)もその性(さが)は変わらない。巡行士たちが迂闊に退けば、『狼』は後方でバリケードを築いている兵士たちへ向かう。その後は道を越えた市街と市民だ。
巡行士には戦う義務がある。敵を討つだけでなく、餌となり囮となる義務が。
『ヴゥゥゥゥ、ルォォォォォ!』
咆哮と共に『狼』周囲の瓦礫がフワリと浮き上がった。
次いで視線の先へ飛ぶ。
つまり、駆けるレオンへと。
「――っソがぁ!」
折れた梁、レンガの欠片、砕けた看板、壊れた車輪。
砲弾の勢いで迫りくる諸々を、レオンは剣で叩き落とした。蒼い歪みをまとった閃きで弾を斬り砕くも、雨のように降りかかるすべてを同様には捌けない。
バリケードに飛びこむことでかろうじて難を逃れたが、積み上げられた家屋の残骸も少しずつ削り落とされていく。あまり長くはもたないだろう。
それは巡行士たちの護りも同じだ。精神と肉体を同調させて即座の反応を得る術は、息を止めての全力疾走を絶えず行っているようなもので、当然ながら消耗が激しい。
いや、極度の集中は体力以上に、呼吸を、鼓動を、精神(こころ)を削る。鋼を溶かす超高熱にも例えられる力は、人間の限界など簡単に超えてしまうのだ。敵が並の異形(ベルグ)なら余力をもって対処できるが、『狼』が相手では分が悪い。
なにしろ、魔獣(てき)も同じ道理を具えているのだから。
レオンの脳裏をよぎった不安はすぐさま現実のものとなった。『狼』の気を引こうとしたのだろう。風の刃を放った赤髪の女剣士(エリン)が、直後その場で膝を折った。
「おい!?」
呼びかけに返ってきたのは荒い息だけ。エリンの肩は上下するばかりで剣を上げる気配もなく、顔は滝のような汗に覆われていた。頭上に迫る『狼』の腕に気づいている様子もない。
「クっ……」
慌てて駆けよるが、間に合わない。振るう刃は届かないし、勢いのついた『狼』の脚は『風の壁』を叩きつけても逸らせないだろう。
ならば――
「でぇいっ!!」
「ぎぅ!?」
瞬間で創(う)んだ大気の塊を、レオンは女剣士(エリン)へと撃ちこんだ。吹き飛んだ女の身は向かいの壁に穴を開け、悲鳴はその奥へと消えた。砕けた瓦礫が降り注いでいたが、死んではいないだろう。少なくとも、眼前で地面を窪ませた脚に踏まれていたよりはマシなはずだ。
そも、他人の身を案じている余裕はない。
『ギアア!』
持ち上げられた魔獣(ゾア)の爪が、今度はレオンに迫っていた。地面から真っ直ぐ伸びくる鏃(やじり)は、腹を抉り胴を貫き上体を切り飛ばすだろう。予見した軌跡から逃れようにも、硬直した身では遅すぎる。
判断し、レオンは護りを想った。描くのは、剣を盾にし衝撃を相殺するイメージ。
直後に交差し、歪みが爆ぜる。
「ぐぅ!?」
鋭さは打ち消したものの、勢いは殺しきれなかった。全身大の鉄槌で殴られたような重さに飛ばされ、反対側のバリケードに叩きつけられた。幾本もの折れた柱が上から横から圧しかかる。
「痛ぅ……」
『ギシャアアア!!』
追撃の牙が迫る。が、木片の重みで動けない。除けている間に喰われるだろう。呑まれた仲間の姿が脳裏をよぎる。閉ざされる顎の力にどこまで抵抗できるか――
「なにをボサっと、してやがる!」
『ギヴォア!?』
「な……?」
迫っていた狼頭を、飛びこんできた赤髪の男(ギレン)が一閃し、彼の身が分け入る分だけ押し除けた。そのまま両手で中庸剣(バスタード・ソード)を構え、再び咬みきた牙を止める。
生じたのは猛る炎と蒼い歪み。『狼』の威力と拮抗するも、空間の軋(きし)みは実に危うい。
「お、おい」
「邪魔だ、どけ!」
一喝され、レオンは柱の連なりを蹴り除けた。場を脱し、振り返って意思の刃を研ぐ。
が、遅い。
レオンが剣を振りかぶった直後、『狼』は苦もなく顎(あぎと)を閉ざし、鮮血と火の粉を散らしていた。
「ぎ……!?」
ギレンの断末魔は一瞬だけ。後は革と肉と腱の、ブチブチと千切れる音が響くばかり。
もう、悪態も礼も届かない。
「っ、テメぇ!」
レオンは怒りのまま剣を走らせた。爆発的に膨らんだ意志が、刃に鉄塊の重さを宿す。
一撃は『狼』の眉間を打ち、そのまま地面にメリこませ、蒼い歪みと黒い鱗と赤い血を飛沫(しぶ)かせた。
『ギアア!?』
生木を引き裂くような悲鳴に向け、周囲からも槍と魔弾と太矢(クォレル)の掃射が浴びせられる。攻勢は大気を歪ませるほどの怒気に満ちていた。重ねられた攻撃の一角が『狼』の鱗をも貫き砕く。
だが、所詮は一角にすぎない。魔獣(ゾア)の勢いを挫(くじ)くには至らず、むしろその暴性を増した。振り回された首が二人の投擲者を薙ぎ、連接棍(フレイル)のように返された顎(あぎと)が射手たちを襲う。
「が……!」「うゴっ」「ずああ!?」
悲鳴とともに血肉が爆ぜた。広く散らばった瓦礫もろとも、路上が鮮やかな赤に染まる。吹き飛ばされた兵の半ば二度と動くことはなく、残る半数も蠢くばかり。
重い鎧の兵将(バロウズ)も身を起こせずもがいていた。
「おっさん! 大丈夫かっ」
駆けよったレオンが背を支えると、兜から血が滴(したた)り落ちてきた。かなりの出血だが本人は気にしていないようで、血走った目を見開き敵を見据える。
「いらん世話よ! 気遣う暇があるなら戦わんか!」
「そりゃ、わかってるけどよ……」
言い分はもっともだ。しかし、どうしても躊躇ってしまう。
視線の先では『狼』がいよいよ暴れ尽くしていた。首が振り回されるたび三階の家屋が砕け飛び、落ちる瓦礫が咆哮によって四方八方へ撃ち放たれる。
集まりくる巡行士や兵士たちも奮闘してはいるが、圧倒的な力の差は埋まらない。歩みを遅らせることはできても被害を止めることはできず、いまや南央の通りの半ばは瓦礫と骸に埋まっていた。このまま守勢を続けても惨状が拡大するだけだろう。
――それでも、やるしかない。
荒れた息を飲みこんで剣を握り直す。勝機はあるのだ。術士(ワード)たちが力を結し、ありったけの魔力(マナ)を叩きこめば、あるいは……
「レオンっ」
想いをこめて踏みだした足は、しかし呼びかけに止められた。
耳慣れた声は最後の手段の要(かなめ)である相棒のもの。
「クリス? おまえ、なんで……」
思わず脱力してしまう。青を刻んだ白い術衣に青髪水瞳(みずいろ)と細面(ほそおもて)。
確かにクリスだが、ここに居るわけがない。今、彼女は人を募り、街中の増魔石(アンプ)をかき集めているはずだ。それが終わったのだとしても、術式の構築に呪陣の打刻とやるべきことは山のように残っている。こんなところで伝令をしている余裕などあるわけがない。
「なに、やってんだ? 他の術士(ワード)たちはどうした。魔力(マナ)を合わせるのだって準備が要(い)るだろ。おまえがこんなところに来てちゃ――」
「それは後よ。いいから退いて」
「は?」
息せき切っての言い草に、レオンは今度こそ絶句した。そんなこと、できるわけがない。
「なに、言ってんだ? 逃げてどうするっ。俺たちが戦わなかったらこの街は――」
「違うの。イコラの指示なのよ」
「……イコラの?」
「バカなっ。臆病風にでも吹かれたか!」
守るべき最たる者の名に、支えていたバロウズが勢いよく立ち上がった。珍しくレオンも同意見だ。
「我らの勤めは盾となり剣となることっ。子どもの感傷的なワガママになど付きあえるか!」
「そうだぜ。いま退いたからどうなるってんだ。ここでやるんだ。この場所で。
命に代えてもヤツを潰す。逃げたところでなにも良くは――」
「違うわ。イコラはそんな弱い子じゃない」
クリスの声は静かだった。荒い息を無理に抑え、語る。
「そうでしょう? あなたたちだって、街のみんなだって、それがわかっているからあの子に領主(ロード)を任せているんでしょう?」
相棒(パートナー)のまっすぐなまなざしは、レオンに蜜色の少女を思いださせた。常日頃から街を駆け回り、務めにかこつけて森境にまで足を伸ばし、異形(ベルグ)にも臆することなく対じ、自ら悪党退治に乗りだすお転婆だ。
彼の知るかぎり、やられっぱなしで泣き寝入りしたことなど一度もない。自爆してでも思い知らせるのが彼女の流儀だ。文字通りの爆発に巻きこまれたことは両手でも数えきれない。
「……ただ逃げろってんじゃないんだな?」
思わず頬が引くついたが、問いには強い頷(うなず)きが返ってきた。日頃は慎重な相棒(パートナー)がここまで主張しているのだ。信じない理由はない。
「……わかった。どこに退けって?」
「あそこよ」
力のこもった一言が通りの先、街の中央に向けられる。集合を告げる青い狼煙(のろし)がまっすぐ昇る隣には、銀に輝く魚の群れが高い柱をなしていた。
●「ケジメはつけておかねぇとな」
けたたましい警鐘に追い立てられ、人々が往来を忙しげに進んでゆく。かろうじてパニックに陥っていないのは、誘導する衛兵の声が鐘に負けていないからか。辺境の兵士は日頃から異形(ベルグ)と接する機会が多い。不測の事態にもそれなりに慣れているということだろう。
「チっ。田舎モンどもが調子づきやがって」
身を潜めた路地の陰で、ザラスは舌打ちを吐き捨てた。後ろで喘ぎ崩れている部下の姿にますます苛立ちが募る。たかだか二、三本の封印剣を街中にバラ撒いて来ただけでこのザマだ。使えないとは思っていたがここまでとは。
「心底役に立たねぇな、テメぇらはよぉっ」
「ガふっ?」
握った拳を手近な一人の横面に叩きこむ。
直後、路地奥の薄闇から見慣れた黒衣が滲みだすように現れた。
「遅ぇっ。なにタラタラやってやがる」
「そう急かすな。兵士(ビット)連中に気取られぬよう移動してきたんだ。時間もかかる」
小さく息を吐くベルゼンは冷静だった。どうしようもなく憎たらしいが、苛立ちの原因はそれとは別。ザラスは怒りの矛先と視線をいつまでもやかましい鐘に向けた。最寄の鐘楼は領主邸の塔だ。
「クソっ。あそこに直接叩きこめりゃ面倒もなかったってのによっ」
「おまえが門で暴れたからだ。まったく、いきなり番兵(ゲート)を斬り殺すやつがあるか」
「うるせぇな。止むを得ずだろうが。術を掛けたのはどこのどいつだ。なにが"隠蔽(コンシール)"だよ。一発でバレたじゃねぇか」
「審査が強化されていることは予想していただろう。様子を窺い対策を施すと言ったはずだ。それをおまえは、人が集中している間に勝手に――」
「あー、うるせぇうるせぇ! 細けぇことをグダグダぬかすなっ」
どう言い繕っても帰結してくる責任を、ザラスはわめくことで散らした。
封印剣を奪取されたとの報告を受けてから一日半。隣町(ランドック)から馬を走らせてパルモートへ駆けつけたザラスは、秘蔵していた魔獣(ゾア)を用いて報復しようと意を決した。本来ならば五〇の『熊』も同時に解放する一挙壊滅を画策したものだったが、途中で知られたからには仕方がない。撤退するにしても証拠は潰しておかねばならぬと、衝動に無理やり理屈をつけた。
だがそれも、門前で頓挫し今に至っている。魔獣(ゾア)の封印は強行突破したその場で解かざるを得なかった。予定通り領主邸で解放できていれば、騒ぎはこんなものでは済まなかっただろうに。部下たちに撒かせた異形(ベルグ)どもも、もう少し破壊をもたらせたはずだ。
自分が番兵を斬らなければ? いや、策を弄してもあの門を通れたとは思えない。審査の場を突破した後、取り囲んできたのは巡行士だった。封印剣の一件から警戒を強めていたのか。あるいはそれより以前からか……
いずれにせよ苛立ちは深まるばかり。逃げ惑う人々もまだ余裕を残しており、ザラスの嗜虐は満たされないままでいる。
「どのみち手持ちのネタは使いきった。我らにはこれ以上打つ手がない。騒ぎはいずれ制圧されるだろう」
抑揚の少ない声がイチイチ煩わしい。そんなことはわかっている。自分たちは失敗した。血の祭は終わったのだ。
だが、それでは滾りが収まらない。
「奪われた魔力剣(マグナム)も今からでは所在を調べることすらできん。混乱しているうちに街を出るのが得策だ」
「……しょうがねぇな、トンズラするか。けどよ、その前に」
やらなければならないことがある。自身の狂気を満たすため、ザラスは冷静に理由をつけた。せめて証拠は、証拠となる者は、きちんと潰しておかねばならない。
そのために武器を捨て、貧乏ったらしい外套をまとい、市民の姿を装ったのだ。偽造した民証(グリフ)も備えている。この混乱の中、密やかに地下牢へ降りるまでの役には立つだろう。
「ケジメはつけておかねぇとな。コイツらよりも使えねぇ部下どもの始末ぐらいはよ」
細んだ赤瞳が路地を睨(ねめ)ると、忙しなかった呼吸の音が一瞬すべてかき消えた。短くも確かな恐怖の感情に、少しだけ穏やかな心地が戻る。
ザラスは懐に忍ばせたナイフの重さを確かめ、ゆるやかな足取りで路地から踏み出すと、背を丸めたまま市民の列へ滑りこんだ。そのまま流れる人の波に紛れ、領主邸へと姿を消した。
●「へっ、まだまだイケるぜ。……しかし、こっからどうすんだ?」
南央の通りでは戦いが続いている。
「"雷蛇縛渦(プラズヴァイト)"!」
緑髪の術士が起弦(トリガ)を弾いた。杖の先端に展開された呪陣から、雷蛇が群れなし宙を疾る。
向かう先はもたげられた長い首、顎を開いた『狼』の貌。
『グルォォォォォ!?』
鼻先に、頬に、額にと雷の牙を突き立てられ、『狼』は悶絶し首をよじった。一〇を超える蛇たちは敢えなく振り払われながらも、稲妻の動きで宙を這い、再び首へと絡みゆく。仮初(かりそめ)の命は力尽きるか敵を屠るまで止まらない。
構わず『狼』は跳躍した。巨躯は三階の倍にまで達し、痛みの源へと落ちてゆく。緑髪の術士は全力でその場から後退した。
迫りくる唸りから、あるいは、左方で弾かれた起弦(トリガ)から。
「"岩槍針林(ガングローブ)"!」
路上に新たな呪陣が輝き、地面が割れて隆起した。踏み固められた土の道が石の杭を乱立させ、剣の山じみた鋭さを敷きつめる。直撃すればオーガですら一撃で貫く魔力の槍が、『狼』の着地点を隙間なく覆う。
直後、巨躯は地に落ちた。轟音が爆ぜ、石の欠片が散り広がる。だが、『狼』の身に変化はない。岩の槍はことごとくが蒼い歪みに踏み砕かれていた。
『ヴアアアアアア!!』
舞い広がる粉塵を咆哮が裂く。砕けた岩塊が浮き上がり、四方八方へと飛んでいく。緑髪の男に、左方の術士に、そして、次を画していたレオンとクリスに。
「チっ」
先の二人はバリケードを盾に岩弾をやりすごしたが、レオンは場から動かなかった。いや、動けなかった。後ろに相棒がいる以上、彼女の熱を背に感じている以上、自分だけが逃げるわけにはいかない。
力を結ぶことに集中する。縦に構えた剣の前で渦を巻く『風の壁』の、重さを増すことだけ考える。迫る脅威などどうでもよい。風に触れて弾ける飛礫(つぶて)、左右を流れゆく石の雨、頬や肌を切る欠片の鋭さ、何一つ意味はない。
今はただ、やるべきことをやるだけだ。
覚悟は即座に力を成した。
「"旋風弩砲(アディルクライ)"!」
クリスの術が発動し、背に置かれた手のひらから巨大な魔力が叩きこまれる。鉄球を押しこまれたような違和感は、しかし不快なものではない。
力はレオンの心身を通ることで勢いを増し、『風の壁』を膨らませた。渦巻く大気を螺旋に伸ばして歪みを散らす砲弾と化し、『狼』の頭へと撃ち放つ。
魔弾は飛びくる石塊(いしくれ)を飲み、砕き、標的の眉間へと突き刺さった。蒼い歪みが派手に散り、巨大な頭が大きく仰け反り、長い首がグラリとたゆむ。
『ヴルゥゥゥゥゥッ』
叫びにもわずかな苦痛が滲んだが、崩れるには至らない。黒眼血瞳を宿した狼頭はまっすぐレオンたちに襲いかかってきた。その勢いたるや、撃ちこんだ風の弾より速い。
「っなろう!」「っ……」
レオンは右に、クリスは左に跳び逃げる。二人の居た場を『狼』の顎は正確に撃ち貫いた。土砂が弾け、抉られた地面に放射状の亀裂が走る。
膨らみ広がる土煙の中、もたげられる首の動きに澱みは感じられなかった。風の砲弾を受けた額も鱗の一部が剥がれただけで、なんら痛打を受けた様子はない。
レオンの背に改めて冷たいものが走る。こんなバケモノ、本当に倒せるのか?
先の術士たちが新たな術を放ったが、腹に刺さった雷条も、四肢を拘束した土の枷も、『狼』は身震いだけで散らしてしまった。爪を向けられる彼らをフォローしなければならないのだが、なにをすればよいのか、一瞬迷う。
多くの巡行士たちが代わる代わる囮を務め、気を惹くべく力を叩きつけている。目的は果たせているのだが、こちらは明らかに限界を越えているというのに、『狼』が消耗している気配はまるで見受けられなかった。
どうしても黒い想いが募る。当初の通りに魔力を結したところで、止めることすらできなかったのではないか? まして、今の状況からでは……
「大丈夫?」
「……クリス」
問われ、レオンは近づいていた相棒にようやく気がついた。自分の呼吸の荒さに愕然とする。
――俺は、戦場でなにをしているんだ? 恐れに飲まれている場合かっ。疲れは言い訳にならない。苦しいのは他の連中も同じだ。
かつての恐怖がいまだ心を蝕んでいる? なにを甘えたことを。なんのために今日まで鍛え上げてきた。守りたいものを守るためだろうっ――
苦い息を無理やり飲みこみ、水色の瞳に笑みを返す。
「へっ、まだまだイケるぜ。……しかし、こっからどうすんだ?」
反省は後に回し、向かうべき後ろを見た。指示された場所はすぐそこだ。
過去に崩壊した神殿跡をそのまま囲む広場からは、すっかり人気がなくなっていた。多くの露店や屋台はそのまま、営みだけが失われていた。日頃の喧騒に慣れているだけに今の異常が改めて知れる。
代わり、周囲に連なる商店の陰、通りと路地の一歩奥には、多くの兵士が息を潜めていた。構えているのは弓か、槍か。呪符(アーク)も備えているらしく魔力の気配も感じられる。
兵たちは一様に唇を引き結んでいた。眼は警鐘の響きに合わせて激しく揺れているが、近づく脅威を前に覚悟は決しているようだ。一度(ひとたび)号令が下れば特攻も辞さないだろう。
だが、魔獣(ゾア)はそれでどうにかなる存在ではない。ただの待ち伏せでは蹴散らされて終わりだ。
この誘導に意味があるのか? 拭いきれない想いが、レオンの視線を目的地の先に聳(そび)える『塔』へと向けさせる。
遥かな天上へと向けて蠢き伸びる銀色の柱は、数えきれない魚の群れだ。見たくなくても惹かれてしまう奇妙な感覚は魔術によるもののようだが、それ以上の威力が秘められているようには霊(み)えない。確かに『狼』の気も惹くだろうが、それだけだ。そこから先は……?
「レオンっ」
呼ばれ、慌てて振り返る。悠長に考えている暇などない。思惑の通り『塔』に惹かれたのか、あるいは別の餌を追っただけなのか。
いずれにせよ、『狼』はレオンたち目がけ跳んでいた。
「おあっ?」
かろうじて後ろへ跳び退る。着地の直撃は避けたものの、余波だけで逃れた数歩の倍以上も撥ね飛ばされた。レオンはなんとか両脚をついたが、右方に跳んだクリスは背から落ち、そのまま横へ転がり滑っていた。
彼女が身を起こすまでを『狼』が待つはずもない。黒眼は早くも獲物を捉えている。
「っ、させるかっ!」
『ヴギゥ!?』
口を開いた『狼』の横面に『風の壁』を叩きこむ。敢えなく砕き散らされたが気に障りはしたらしく、血の瞳がギロリと睨みきた。 十分だ。
「なに選り好みしてやがる。テメェごときがクリスにコナかけるなんざ一〇〇年早ぇんだよ、このバケモンが!」
『ギアアア!!』
言葉はわからずとも意図は伝わる。『狼』は黒眼を血走らせて顎を突き伸ばしてきた。元より気を惹くのが目的。レオンは内心でほくそ笑んだが、実の顔は引きつっていた。
この後をどう防ぐ?
迫りくる牙から逃れるため、反射的に後ろへ跳んだ。地を蹴る力はごく強く、剣を盾にし護りを想う。あえて上顎の先端に触れ、衝撃を利用して距離をとれば――
刹那で思考を実行し、交錯する。
「っ……!!」
『狼』の鼻先に殴られ、地面と水平に撥ね飛ばされた。魔獣(ゾア)の姿が急速に遠ざかる。かなりの速さだ。このまま『塔』の間際まで運ばれるだろう。
思惑はおおむね上手くいった。予想と一つだけ違ったのは、全力疾走の馬車に撥ねられたような威力だけ。
勢いはほとんど減じることなく、レオンを地面に叩きつけた。
「ガっ?」
暗くなりかけた意識が、背から肺を貫いた衝撃で蘇る。
無様に転げた目の前には、再び迫る『狼』の姿。
「うおぁ!?」
魔獣(ゾア)の疾駆は、撥ね飛ばしたレオンを直後には間合いに捉えていた。前脚を地につけ、背を丸め、後脚を揃えていた。振り上げられた腕は次の踏みこみで容赦なく落ちてくるだろう。
黒爪が描くことになる直線の軌跡が霊(み)える。が、地に尻をついた今の状態では逃れる道を見いだせなかった。直前で左右に転がっても、追いくる魔獣(ゾア)の意思からは逃げきれない。前に跳んでも、後ろに倒れても同じこと。護りを併せるか、壁を創(う)むか、あるいは――
爪は迷う間もなく落ちてきた。レオンの選択は決死の迎撃。握る剣を引き、上体を傾げ、片膝で構えて意思を研ぐ。
いざ、と見据えた巨大な掌、敵を逃さぬ重い殺意は、
しかし、眼前の地に落ちた。
「な、なんだ?」
『グルオァ?』
困惑は『狼』も同じ。咆(こえ)が振り返った先を見れば、踏みこみに力んだ巨獣の後脚が、輝く地面に埋まっていた。
いや、後脚だけではない。白光に覆われ泡を噴く大地は、『狼』の下半身をズブズブと飲みこもうとしている。
「あれ、は……」
「レオン!」
推測は呼び声に遮られた。視線を戻した先、『塔』の根元にいるのは、いじりがいのある領主の従者。
「トール、か? おい、あの光は――」
「なにボサっとしてんだバカっ。走れ、さっさと!」
腕など振りたくられなくても体はすでに起こしている。同時に、『狼』の半身を埋めた地の光、魔力に感じる違和感が、他の場にも点在していることに気づいた。
なにかしでかそうとしている。自分がここにいては邪魔ということか。
ならばさっさと離れなければ。もがく『狼』を確かめながら場を脱する途(みち)を踏む。
途端、足場が崩れ落ちた。
「ぐ、おあっ?」
いや、足が体を支えていないのだ。吐く声すら音にならなかった。体中から汗が噴き出す。息を整えるどころか呼吸そのものができず、早鐘のように脈打つ心臓から身を裂くような痛みが広がった。
喰われた仲間たちの姿が脳裏をよぎる。限界の訪れはいつも唐突だ。
(っ、こんな、ところでか……!)
だからと倒れるわけにはいかない。すぐ後ろでは『狼』がぬかるむ地から脱しようとしている上、魔術の違和感は刻一刻と強くなっているのだから。
「ぐ……おぉ……っ」
剣を杖に、気を振り絞って前へと進む。体は錆びついたようにギシギシと軋み、足は鉛に変じたのかと思うほど重く、持ち上げることすらままならなかった。魔力の及ぼす不快感、皮膚の下で蟲が蠢いているようなおぞましさが、ますます気力を萎えさせる。
『ギアアアアアアア!!』
浴びせられる咆哮が、今は背を押す力となっていた。下半身を地に沈めた『狼』は、無様にもがきながらも少しずつ大地を這い進み、今にもレオンの首筋を捉えようとしている。力の限り走っても逃れることの叶わない状況は、終わることのない悪夢のよう。
だが、これは現実だ。
『グアウ……』
息を吐く咆(こえ)とともに、レオンの頭上に陰が射した。全身の汗が一瞬にして凍りついたような悪寒に、どうしようもなく振り返る。
見えたのは高く持ち上げられた腕。ゆるやかにもたげられた首と、重々しく上下する犬狼の貌。そして、黒眼に揺れる血の瞳だった。三日月のように細んだまなざしは明らかに嗤(わら)っている。
「っ、テメェ、なんぞに……!」
その嘲りが、レオンの踏んだ最後の一歩を跳躍に変えた。落ちくる腕からは逃れきれないものの、強い違和感の境界を越える。
見計らっていたのだろう。
(――"起(ラン)")
同時に魔力が解放された。
後にした地面に白光が立ち昇り、広い方形の呪陣が刻まれた。
大地が泥と化し割れ崩れる。
変化は、『狼』の立つ場にも同様に。
『ヴガア!?』
巨大な泡が爆ぜ、魔獣(ゾア)の巨躯が一気に沈んだ。振り下ろされた腕がレオンを追うが、その場もすでに泥の海。跳躍しようにも踏むべき地はなく、咆哮で散らそうにも泥の量は多すぎた。四肢はおろか尾や首までが狂ったように暴れるが、『狼』は少しずつ沈みゆくばかり。
これが狙いか? ――いや、まだだ。
先に聳(そび)える『塔』の根元も、同じようにぬかるみと化していた。変化はそれだけに止まらず『塔』そのものにまで及んでいる。
銀の魚が渦巻く柱から、その蠢きを断つように、白い刃が現れた。
天を突くほどの「超大な剣(スペリオル・ソード)」だ。
「……そうか、広場に建ててたバカでかいアレか」
見上げれば目についていたパルモートの新しい名物を、レオンは今さら思い出した。酒の席での冗談が現実のものになりつつある。
超剣(スペリオル・ソード)を模した構造物は、足場である台座のゆるみに従い、少しずつ傾いていった。
はじめはゆっくりと、次第に躊躇いをなくし、徐々に速度を上げていった。
薄れゆく銀魚を尾のように引き、天を割くような一撃となって、まっすぐ地へと落ちていく。
先に居るのは巨大な『狼』。だが、超大な刃に比べれば、凶悪な魔獣(ゾア)も生まれたての仔犬のようにしか見えない。
加速のついた超重量は、果たして精神(こころ)の護りを破りうるか――
『ヴグア――!?』
響く警鐘も、レオンの予想も、『狼』の悲鳴も叩き斬り、
超剣(スペリオル・ソード)は広場を両断した。
●「我らの勝利だ。パルモートの民よ!」
突風じみた衝撃が疾り抜け、土砂が天高く舞い上がった。
音が消えたのは一瞬だけ。
鐘と太鼓が震わせる大気、泥の雨が降りそそぐ中に、人々のざわめきが加わりはじめる。
「ハぁ、ハぁ、ハぁ……」
「どうだっ?」
疲労に頽(くずお)れたレオンだけでなく、声高に身を乗りだしたトールも、周囲を固めた兵士たちも、固唾を飲んで目を凝らしていた。誰一人微動だにせず、浴びる土砂を気にもしない。
宙に舞った泥の塊は、べしゃり、べしゃりと落ち続け、次第に勢いを失くしていった。土色の雨が薄れゆき、少しずつ場が露わになっていく。
まず見えたのは白い刃。超大な剣は広場を斬り、自重によって割れてはいたが、横になっても周囲の家屋よりなお高い直線は、半ばを泥に汚されながらも純粋な色を誇っていた。
その刀身に、赤黒い穢れは特に目立つ。
剣の根元にほど近い、最も太い刃の下は、爆ぜた血により濡れていた。泥に塗(まみ)れても薄まらないドロリと粘つく暗い赤は、斬り潰された鱗の奥から噴き上がったものに違いない。
下半を地に埋め、前脚を投げだし、長い首を横たえた『狼』は、剣の下で力なく沈んでいた。
トールの声が弾む。
「やった、やったぜ! あのバケモンを倒したんだ!」
「……なん、だ? なにがどうなった?」
「へへっ。イコラのヤツがやったんだよっ」
はしゃいだ言葉は明瞭すぎてさっぱり意味がわからなかったが、困惑しきりの兵士たちには十分な答えであったらしい。
「……やったの、か? 本当に?」
「そう、なんだろうな……。ヤロウ、動かねぇし」
「本当に? 本当に、あのデカブツを?」
「おうさ。やったのさっ」
路地から顔を覗かせる気配は少しずつ緊張を解き、じわじわと安堵を広げ、次いで喜びを膨らませた。ざわめきは次第に高まりゆく。
それは、高台で鳴る太鼓の音や鐘楼から響く鐘よりも強い、確かな勝鬨となって広場全体を満たしていった。
「やったんだな。俺たちは、街を守ったんだよなっ?」
「ああ! やったんだっ。俺たちの勝ちだ!」
背後の若い兵たちもが笑いはじめたことで、ようやくレオンも実感した。
――そう、倒したんだ。ドラゴンにも並ぶあの魔獣(ゾア)を……!
英雄として謳われるに足る偉業を成した興奮が沸々(ふつふつ)と湧いてくる。傍らに歩みきた老人、日頃は小煩(こうるさ)いゼオバルグも、今だけは素直に感心していた。
「まったく、ロクでもないことばかりしでかすヤツだ。 "泥化(マッディ)"をこんな風に使うとはな。街中の基礎にも灰土を使うべきか」
吐きだす言葉は相変わらず面倒くさそうなものだったが。
「ゼン爺……"泥化(マッディ)"だぁ?」
「ああ。放水路の工事で使っとるやつを、イコラがな」
髭をしごきながら目を向けているのは、ぬかるみ崩れた無残な広場。地面は早くも水気を失い、ヒビ割れた荒地に変わりつつある。
「魔獣(ゾア)の足場を崩して動きを止め、超剣像(オブジェ)の土台をそっち側にゆるめて――」
「あのバカでかい剣を叩きつけたのか。なんともまあ、よくそんなこと実際にやりやがったな」
「まったく。悪知恵の働く嬢ちゃんだ」
「悪知恵ならイコラに敵うヤツはいないさっ。毎日そんなことばっかりやってんだからな」
それが褒め言葉でないことにトール自身は気づいていないのだろう。普段なら怒りわめいていてもおかしくないのだが、彼も魔獣(ゾア)打倒の興奮に熱が上がっているらしい。
「それにしたって、なぁ……」
レオンは代わりに呆れてやった。軋む足に力をこめて回復を確かめがてら、立った場から周囲を改める。
超剣像(オブジェ)を失った街の空はやたらと広く感じられた。代わり、広場は異様に狭苦しい。なにしろ街壁なみの刃に両断されているのだ。これをすべて除けるのは骨が折れることだろう。
『狼』を誘導してきた南央の通りも、道幅いっぱいの岩玉を転がしたような有様になっている。止むを得なかったとはいえ、昨日まで当たり前に暮らしていた場が、今はただの瓦礫の山とは。
「やれやれ、被害甚大だぜ。直すのにどんだけかかることやら。あの着たきり領主(ロード)がよくもまぁ盛大に散財したもんだな」
「おまえさんらのためだとよ」
髭をしごきながらゼオバルグがつぶやく。
「俺らが、なんだって?」
「いや……イコラのやつが、さ」
なぜか、眉間に皺をよせたトールが後を継いだ。
「兵士(ビット)たちを死なせるぐらいなら街の半分ぐらい壊しても構わないなんて言いだしてさ。あんまりにも威勢がよくて、それ聞いた連中の作業が早いこと早いこと」
「へえ。あのイコラが、ねぇ……」
さすがに驚いた。
彼女も伊達や酔狂で領主を務めているわけではない。街はいわば財産そのもの。その価値は時として人の命よりも重くみられる。本当に都市の機能が半分も失われれば、市民を養っていくことすらできなくなるのは明らかなのだから。
イコラとてそれは理解しているはず。口上も多くは建前だろう。短時間で作業を終わらせるための方便だったに違いない。
違いない、のだが、
この土壇場で聞かされると胸を熱くさせられた。
「さっすが我が麗しのミス・パルモート。日頃はつれなくてもイザってときには秘めた愛があふれちまうんだな。いやぁ、カワイイとこあるぜ」
「なに浮かれてんだ? イコラは兵士(ビット)連中みんなのことを思って言ったんだぞ? 勝手に盛り上がってんなよ」
「やれやれ、これだからお子様は。乙女心ってものがわからんのかね。ぬわっはっはっ」
髪をかきあげ高笑うレオンの様に、トールの眉はますます寄る。
「……直すのも当事者だからいいのよ、とも言ってたけどな」
つぶやきはレオンの耳に届かなかった。白い歯を輝かせる爽やかな笑みを浮かべ、芝居がかった仕草で振り返る。
「で、我が愛しの領主(ロード)さまはどこだ? この手の仕掛けを他人に投げっぱなしにする淑やかなお嬢さまじゃないだろ?」
「ああ。イコラなら――」
『ヴガアアアアアア!!』
その笑みが、会話が、勝利の気配が、咆哮によって凍りついた。
正確には、咆(こえ)が撒いた飛礫(つぶて)によって。
横殴りの暴雨は標的も定めぬまま四方八方へと降りそそぎ、触れたすべてを撃ち薙いだ。
人も、物も、建物も、見る間に穿たれていく。
「がぁ!?」「ぐ、おっ」「なん――」
悲鳴とともに鮮血が飛沫(しぶ)く。兵たちは慌てて地に伏せたが、騒ぎはまるで収まらなかった。
突然の惨状に、しかし問う声は上がらない。
『グゥゥルァァアアアア!!』
『狼』はすでにその上体を持ち上げていたからだ。苦痛のこもった咆哮でヒビ割れた地面を揺らし、浮かせ、飛礫(つぶて)に変えてバラ撒くことで下体の自由をとり戻そうとしている。
ゆるんでいた雰囲気は一転し、再びの緊張に張りつめた。
「うああ?」「い、生きてるじゃねぇか……!」
「冗談だろ? アレに、耐えたってのか?」
「うっ、うろたえるなっ。己が本分を果たせっ」
「弓を構え矢を番(つが)えろっ。槍隊、投擲急げ!」
広がりかけた怯えと混乱、乱れかけた隊列を、率いる者たちが押し止めた。自ら武器や呪符(アーク)を掲げ、先陣をきって撃ち放つ。
隊長の勇猛に血気を猛らせたのか、あるいは自棄か、揺らいでいた兵たちも後に続いた。数多の矢が、無数の槍が、魔力の創(う)んだ光の弾が、まだ動けない『狼』へ殺到する。多くは飛礫(つぶて)に撃たれて落ちたが、すべてというわけではない。
肩口に降りそそいだ矢の雨は半ばが鱗に散されたものの、残りは深く突き刺さった。腹に向かった槍の束も、閃光の尾を引いた魔弾も同じ。兵たちの攻勢は歪みに弾かれることもなく、闇蒼(あんそう)の身に血の華を咲かせては散らしていく。
『狼』の広げる精神(こころ)の護りが薄れているのだ。
「……イケるんじゃないか? 相当効いてるぜ」
打ち砕かれた屋台の陰でトールがつぶやく。
確かに、傾き倒れた超剣像(オブジェ)の一撃は『狼』の左肩に深く喰いこみ、黒い血潮を止め処なく流させ続けていた。傷は肺にまで達しているらしく、咆哮が響くたびに血の泡が噴き上がっている。首や右腕は狂ったように暴れているが、千切れかけた左腕は微動だにしていない。もはや浴びせられる攻撃を認識もできていないようだ。魔獣(ゾア)の命は遠からず潰えるだろう。
問題は、それまでにどれほどの破壊が撒かれるか、だ。
「バカ野郎っ。獣は手負いの方が厄介なんだよっ」
『ヴルゥゥゥヲアアァァァァ!!』
レオンの言葉に呼応するように『狼』が絶叫を上げた。動きの鈍った体に代わり、破壊の意思が力を奮う。ヒビ割れた地面が塊のまま引き抜かれ、盾となり光の砲弾とぶつかり、欠片となってさらに撒かれた。バリケードも新たな石塊(いしくれ)の威には耐えきれず、触れる端から粉砕されていく。
環をなして広がる無尽の飛礫(つぶて)は上下にも隙間なく及び、伏して逃れる道をも断った。密度を増しゆく暴雨を前に、兵たちの反攻もあえなく途切れる。
力がバラ撒かれるほど、『狼』を捉えている地の戒めも少しずつ細っていった。肩に落ちた壁じみた超剣像(オブジェ)も弾に変えかねない勢いだ。跳べるようになったが最後、命果てるまでどれほど暴れ回ることか……
殺(や)るならば、動きを止めている今しかない。
「トールっ、クリス探して術の用意させろっ。あと一歩ってことにゃ変わりねぇ。死ぬ気で止めてやる。今度こそトドメぶちこむぞっ」
「い、いや、ちょっと待てっ。いま――」
『そこまでだ!』
瞬間、爆発じみた制止の声が砕けた広場を響き抜けた。
一時すべてが停止した。踏みだそうとしたレオンに、それを止めようとしたトール、反撃の機をうかがっていた兵たちはおろか『狼』までもが咆(こえ)を静め、音の元へと目を向けた。
そこにあったのは一台の荷車。馬車よりは小さく手車よりは大きい、実用的な四つ輪の台車だった。引く人や馬もないのに、荒れつくした広場を這うように進み『狼』へと近づいていく。
上には、鎧姿の領主(ロード)がいた。
「イコラ!? あのバカっ、なに考えてやがる!!」
レオンの驚きも、周囲のざわめきも、進む荷車には意味がない。もちろんその上にもだ。
純白の鎧をまとったイコラは、黒鞘の長剣を杖代わりに立て、不動の姿勢を保っていた。白いマントが風ではためき、ときおり赤い裏地が覗く。硬く結い上げられた丸束髪(シニヨン)、強く引き結ばれた唇、鋭く細められたまなざしの威風は、領主と呼ぶに相応しい。
だが、今それがなんになろう。
『憎悪と混沌を撒く異形(ベルグ)、破壊の権化たる忌まわしき魔獣(ゾア)よ。その穢らわしき力を止めよ』
「ンなこと言ってどうすんだっ。カッコつけてる場合か!」
"拡声(ラウド)"の術でも使っているのか、凛とした声はレオンの叫びと、けたたましい鐘をかき消すほどの大きさで響いた。魔術がともなう違和感も重なり、異常な注目を集めて止まない。
当然、『狼』の視線をも。
『我が名はイコラ・パルモート・リミエレム。ノドスの地に住まう人々を守り、輝ける未来へと誘(いざな)う者なり』
首を伸ばせば牙が届く。そんな位置で止まった荷車と、騒がしい新たな獲物を前に、魔獣(ゾア)はゆっくり頭を上げた。舌のちらつく口からは低い唸りの咆(こえ)が漏れ、血走った黒い眼は刃のように細んでいる。血色の瞳が揺れているのは苦痛と憎悪と怒りのせいか。視線に宿る殺意の深さは、傍らで見ているだけでも心臓を抉られるかと思うほど。
『我が民を、我らが街を、よくも打ち砕いてくれた。これが神(フェンバルク)の定めた世の理、逃れえぬ運命だとしても、同胞を奪われた我らが悲しみは永久に癒えぬ傷となろう』
それでもイコラは口上を止めなかった。高みで揺れる魔獣(ゾア)の視線を真っ向から睨み返し、なお朗々と声を張る。
『民を導く長として、我は貴様を討ち果たす。ただ屠るだけでは生ぬるい。八つ裂きにしてもまだ足りぬ。肉の一片、血の一滴、骨の一欠まで滅ぼしつくしてくれよう。
我らが魂の結束は、卑しき異形(ベルグ)になど決して屈さぬことを知れ』
叩きつける言葉はどこまでも強い。弓のように力を溜める『狼』の首も、張りを増しゆく周囲の緊張も、「やめろ!」と上がる悲鳴じみた声も、まるで気にしている様子はない。
レオンの焦りは限界を超えた。
「ええいっ」
「おわっ? て、おい!」
立ち上がり剣を構えるも、跳びだす前からトールに羽交い絞めにされる。
「なにしてんだっ」
「なにもクソも、イコラを助けるに決まってんだろうがっ。あのバカ、あのままじゃ――」
「どうする気だよ? つっこんだって潰されるだけだろっ」
「それじゃ見殺しにしろってのか? このまま黙って突っ立ってろって? フザけんなっ。テメェはそれでもあいつの護衛(コート)か!」
「ああ、いや、そうじゃなくて……」
イコラと『狼』の距離は少しずつ縮み続けていた。もはや首を伸ばす必要もあるまい。クロスボウの矢も、魔力の槍も、今からでは魔獣(ゾア)の気を逸らすことすらできないだろう。
いや、荷車が止まった時から余人の介入する隙などなかった。はじめから結果はわかっていたのだ。困惑も、口上も、その時をわずかに伸ばしたにすぎない。
宙を斜に落ちる血瞳の軌跡が、レオンには克明に霊(み)えていた。
『覚悟を決めるがよい。悔いる心があるのなら、許しを乞うて潔く滅びよ』
イコラが黒鞘の剣を持ち上げる。
切先を向けられると、『狼』は大きく顎を開いた。
そして予見は現実に移る。『狼』が頭を震わせた次の瞬間、
『いざ――』
勇ましく響いた領主(ロード)の声は、巨大な顎に呑まれ、消えた。
交錯の場に土色が爆ぜる。
「イコ――」
レオンの声は一拍遅れた破壊の音に掻き消された。
ざわついていた兵たちも水を打ったように静まり返る。
後に広がったのは深い沈黙。誰一人、何一つ動かない。鳴り続けている警鐘ですら遥か遠くにしか聞こえず、泥の重さを宿した大気に身じろぐことすら躊躇われる。
その中でただ一つ、『狼』だけが変わらない。
ゆっくりと晴れた土煙の真ん中に、魔獣(ゾア)は頭を埋めていた。穿たれた地面の周囲にあるのは、砕けた木材と車輪の残骸。残りは口の中なのだろう。載っていた者と同じように。
沈黙の中で『狼』の頭が上がる。悠然たる動きに地を突いた痛みは感じられない。直前からの変化といえば、閉ざされた顎と、膨らんだ頬と、丸みを増した太い喉。
そして、口の端から突き出た腕と剣だ。
「――っ」
人々が息を飲むより速く、『狼』は天を仰いでいた。
一度だけ口を開き、閉じ、餌を口腔に収め直した。
黒鞘の剣が飲みこまれ、金属の砕ける音が響く。
――ベキン、バキン、ボキン、ガギン――
鈍い音は頬の膨らみが歪むたびに増えていった。咀嚼物は喉に押しこまれ、長い首を降りていった。動きはゆるやかながらも澱みなく、どう足掻いても止めることはできないのだと思い知らされる。
いや、今さら止めても意味はない。食まれた獲物は牙だけでなく、喉と首にも押し潰されているはずだ。もはや原型も止めてはいないだろう。
――それでも。そうだとわかっていても。
「……あんのっ、クソ野郎! イコラを、よくも!」
「バ、バカっ。なにする気だ!」
身を焼くような激情に駆られ、レオンは足に力をこめた。が、一度限界を超えた体は錆びついたように動かない。トールを引き剥がすことすらできず、舌伸ばす『狼』を睨み、もがく。
「離せ! あの野郎、ブッ殺してやる!」
「できるわけないだろっ。落ちつけって!」
「落ちつけだぁ? フザけんな! テメエは落ちついてられるのかっ? イコラが、あのクソに、喰われ……っ」
「いや、だから」
「……お、おのれえっ、バケモノが! 我らが愛娘を、よくも!」
「俺たちの領主(ロード)を、喰いやがったなぁぁ!!」
「だあ、こっちもかよっ。ちょっ、待てって……!」
明確な怒りは呆けていた心にわかりやすく伝わっていった。伏せ竦んでいた兵士たちが一人、また一人と立ち上がり、感情のまま『狼』との距離を一歩ずつ狭めていく。
『狼』はふてぶてしくも先割れた舌で口を舐め上げ、ぬらつく牙を見せつけた。一食を腹に収めたことで少しは平静を戻したのか、近づきくる人々を観察するように首を巡らせる。
あるいは、次に喰らう獲物を吟味しているのか。
血の瞳が放つ殺意はいまだ一〇〇〇の針にも勝り、向けられた者の四肢と心を見えない鋭さで貫いた。その威力は飛礫(つぶて)の雨に劣らない。怒りを燃やす兵たちにすら恐怖を思い出させたのか、囲む隊列は距離を縮めただけでそれ以上の動きを見せずにいる。
「っ、ソがぁ……」
脚の震えはレオンも同じ。踏みだす力に換えるべき激情も、血瞳の視線に殺(そ)がれてしまう。怒りはいまだ衰えていないが、一度疲弊した精神(こころ)を補うには至らなかった。剣の切先すら定まらぬ構えでは威嚇の役にすら立たない。
『狼』の動きは止まらなかった。右腕で上体を支え、左の腕をも強引に動かし、傷口から血を撒きながらも下体を引きずり出そうともがく。
『グゥゥゥゥゥ、ルゥゥゥゥゥ……』
苦痛らしき唸りにも喜悦が混じって聞こえた。餌の群れでも前にしているつもりなのだろう。右から左、奥から手前と舐めるように首を巡らせては、ダラダラと涎(よだれ)を垂らしている。
短くさまよっていた血色の視線は、レオンを捉えることで止まった。長い首が丸くたわんで力を漲らせていく。
最前地面に大穴を穿ち、領主を喰らったのと同じように。
「お、おい、こっちを……」「あ、ぅぁ……」
「っ……」
動揺する兵士たちを背に、レオンは剣を握り直した。『狼』の視線はやはり自分を、自分たちを捉えている。魔獣(ゾア)の意思からは逃れられない。自分一人なら道もあるが、それでは後ろの兵たちを見殺しにすることになる。攻撃は逸らすか止めねばならない。
今の自分に防ぎきれるか? いや、できなくてもやるしかない。異形(ベルグ)に対する剣となり、盾となるのが巡行士の本分なのだから。
同じ想いに散っていった同胞たちの最期が脳裏をよぎる。戦斧もろとも喰われた戦士、踏み砕かれた若き術士、果敢に挑んだ兵士たちに、自分を庇って潰えた戦友(とも)。彼らが務めに殉じたからこそ魔獣(ゾア)に痛打を与えられたのだ。犠牲を無駄にするわけにはいかない。
――勇猛を示した領主(ロード)のためにも。
砕けた奥歯を噛みしめて確かめた血の味に、もう一度精神(こころ)を奮わせる。握った剣に歪みをまとわせ、きたる威力に覚悟を決める。大きく開かれた『狼』の顎が疾る軌跡は霊(み)えていた。自身が描くべき刃の軌道も。
後は、刹那の交錯に重ねるだけ。
『ヴヴヴヴヴ、ゥ…………?』
「…………?」
想い定めた心構えは、しかし実現しなかった。わずかに震えた狼頭が、いつまでたっても動かなかったからだ。
呻きは小さく戸惑うようで咆(こえ)にすらなっていない。首は力を溜めようと、上へ、後ろへとたわむのだが、小刻みに揺れて定まらない。
「な……」「なん、だ?」
人々が困惑しても『狼』の挙動は不明なまま、むしろ揺らぎを増していった。頭の震えは喉に伝わり、太い首を痙攣させ、肩、背、胴にまで広がりゆく。
『狼』は息を飲むように身を縮め、体を緊張させることで動きを止めようとしたが、震えはさらに増すばかりで一向に収まる気配がない。
『グ、ルゥゥゥゥオオオ!!』
咆哮により筋肉が張りつめ、傷口から血が噴き出し、束の間すべての動きが止まる。
だが、所詮は束の間だけ。押さえつけられた身の震えは、逃げ場を求めるように下へと集まり――
鱗に覆われた下腹部を、孕んだように膨らませた。
『ヴオアア!?』
「お、おい?」「一体、なにが……」
肉体を軋ませる異様な丸みはその一つに止まらず、咆哮とともに全身へ広がった。背に一つ、腹にもう一つ、右肩と胸にも一つずつ。
大小の瘤は沸き立つ溶岩(マグマ)のように位置を変えて数を増し、『狼』の原型を忘れさせるほどに膨らんでいく。
『ヴッ……グボォ……ヴォアオオオオオ!!』
魔獣(ゾア)は苦悶を吐きながら、長い首を自らに巻きつけた。さながら血を塗って焼き焦がした燻製肉(ハム)だ。引き絞るように縮めることで変異を抑えようとしているのだろうが、膨らみ続ける鱗と肉はその隙間から溢れていく。
精神(こころ)で霊(し)れる彼の内側、増え続ける新たな力は、そんなことでは止まらない。
『ヴガアアアアアアアアアア――――!!』
それは文字と言葉の通り、爆発的な勢いで膨らみ尽くし、
魔獣(ゾア)の身を、瞬きのうちに爆ぜ砕いた。
『ァギィッッ――――…………』
断末魔の叫びは途切れて消えた。
赤く染まった空からは、赤い雫が降り落ちてきた。
びちゃびちゃ、びちゃびちゃ、びちゃびちゃ、と。
それは、爆ぜた『狼』の肉片。砕けて舞った骨の欠片。鱗の張りついた肌の一部に、千切れて飛んだ腸(はらわた)の残骸。
唐突に破裂した巨大な魔獣(ゾア)は、大穴のあいた姿に変わり果て、周囲に赤黒い体液と生ぬるい臭いを振り撒いていた。
大元である『狼』は、もはやピクリとも動かない。
代わりに、その周りで蠢いているものがあった。肉片とともに地に落ちてくる、鱗に覆われたもう一種の異形(ベルグ)は、最初に相手をしていた『熊』だ。
数は、一つ、二つ、三つ……まだまだいる。赤く染まった地面の上で正しい数は知れないが、いずれも身を縮めたまま立ち上がろうとすらしない。
いや、動けないようだ。『熊』たちの四肢はいずれも折れ、背や腰までが異様な方向に曲がっていた。顎や頭も潰れているのか、呻いているものすらほとんどいない。
ただ、衰えることのない殺意だけが黒眼の中で揺れていた。動かぬ四肢をそれでも持ち上げ、苦痛と憎悪を広げようとしていた。血に濡れた地面を爪でかき、敵を求めて這い進む。
「ぅ……」「ぉぁ……」
血の雨を浴びている兵たちからは驚きも聞こえてこなかった。地獄のような惨状に理解が追いつかないのだろう。皆一様に動きを止め、むしろジリジリと退がっていく。
放心はレオンも同じ。瞬きすら忘れたまま、ただ疑問だけが口から漏れる。
「な……なん、なんだ? いったい、なにがどうなって――」
「うひゃあ。覚悟はしてたけど、すごいことになっちゃったわね、コレ」
「だぉわ!?」
後ろから聞こえた呆れの言葉に、思わず奇声を上げていた。
――そんな、バカな――
思いながらも振り返る。
「なによ。おもしろい悲鳴あげちゃって」
「イ、イコラっ? おま、えっ? うえぇ!?」
そこには小さな領主がいた。白い鎧姿のまま、腕組み唇をとがらせていた。蜜色の髪も、瞳も、憮然とした半眼も、確かによく知る少女のもの。なのだが……
「領主(ロード)さまを前にして失礼ね。バケモノでも見たような反応とはどういうこと?」
「だ、だっておまえ……喰われたじゃんか! あの魔獣(ゾア)に、バキバキって、丸呑みにされて……」
驚きのあまり『狼』を見直す。首と前脚を放りだした姿は、腹と背に大穴が開いていた。
あそこから脱してきたというのか? いや、それこそありえない。異形(ベルグ)ですら鉄の武具程度なら干し肉のように噛み千切るのだ。仮に咀嚼から逃れたのだとしても、喉の圧搾と腸(はらわた)の胃液で砕き溶かされているはず。
それが、平然と首を傾げているとはどういうことだ?
「はあ? なに言って……。トール、説明してないの?」
片眉を上げたイコラの問いに、隣の従者が恨めしげな上目を返す。
「できるわけないだろ、あんな短い間で。誰も聞こうしやがらねぇし」
「日頃の行いが悪いからよ。もっと頼りがいがあれば、みんな一目おいてくれてるわ」
「うっせぇ。誰のせいだ、誰の」
少しずつ上がりゆくくトールの語気を、イコラは溜息一つでかわした。やれやれと首を振り「しかたないわね」と雰囲気で語る。レオンに向けた次の言葉は従者を庇っているようにも聞こえた。
「荷車に乗ってたのは幻影よ」
「幻、影?」
「そ。ニコラに頼んでね、荷台に積んだ肉の塊に、わたしの姿を重ねてもらったの」
幻術士(いもうと)の名を口にするイコラは誇らしげだった。得意げな笑みのまま蜜色の瞳に力をこめる。
「異形(ベルグ)の封じられた剣を、しこたま突き刺した肉塊に、ね」
それが話の要で締めか。簡潔な説明に、レオンは事の顛末を思い返した。
唖然とした領主の暴挙。
憤慨した魔獣(ゾア)の捕食。
恐怖した不気味な変異。
すべての意味が一つずつ裏返っていく。
つまり、
「……自分の幻影を囮にして、異形(ベルグ)を封じた剣を喰わせて、腹ン中で解放した、のか?」
レオンのたどたどしい答えを、イコラはにこやかに肯定した。
「封印の効力は折れただけでもなくなるみたいだったからね。食べさせちゃえば、あれぐらいの武器なら魔獣(ゾア)は消化しちゃうでしょ。
後は、解放された異形(ベルグ)が内側から魔獣(ゾア)を突き破ってくれる。並の五倍はある巨体でも、二〇を超える異形(ベルグ)を詰めこまれちゃ無事じゃ済まないわ。
詰めこまれた方も、ね」
「そりゃ、そうだろうな」
いかに大きな瓶であっても、小さな瓶を容量以上に無理やり詰めこまれれば割れる。もちろん、詰めこまれた小瓶もだ。肉の器に換えた結果が目の前に広がっている惨状か。
事の実態がわかってくると、安堵よりも呆れと恐ろしさがこみ上げてきた。
「上手いこと喰いついてくれてよかったわ。潰されたり撥ね飛ばされたりしてたら困ったことになってたけど」
あっけらかんとした語りのなんと不吉なことか。囮である幻影をかぶせた肉塊、ひいては封印剣が呑まれていなければ、それが広場で砕かれていれば、魔獣(ゾア)だけでなく『熊』の群れまで相手にするハメになっていたかもしれない。『狼』だけでも持て余していたのに、さらに厄介が増えていたら……
「……最悪だな。よくやりやがったよ、まったく」
「勝算はあったもの。超剣像(オブジェ)の崩落で十分に痛めつけてたから『狼』はあの場所から動けなかったでしょ。荷車は、首は届いても脚は届かない位置に誘導させたんだから。食いついてくるのが道理ってもんよ」
「なんか大雑把だな。瓦礫で撃たれたらどうするつもりだったんだ」
「なに言ってんの。秘蔵の豚を奮発したのよ? 強火で炙ってこんがり焼いて。アレに食いつかないなんて生き物として失格だわ」
「おいおい……」
「おまえじゃあるまいし。誰もが食い気優先だと思うなよな」
「うっさい」
「みぎっ?」
鋭い手刀にトールが沈む。いつもと変わらないイコラの姿に、レオンはようやく笑みをとり戻した。本当に無事だったのだなと胸を撫でおろす。まったく、大したものだ。
茶化していたが、喰いつかせる自信はあったに違いない。魔術の違和感を誤魔化すのはもちろん、わざわざ口上の発生源まで幻影に重ねたのもそのためか。
言葉は解さずとも意思は察するのが異形(ベルグ)の性(さが)。露骨に強調された敵意・悪意は、食欲以上に魔獣(ゾア)の本能を刺激しただろう。
トールを見下ろし胸張るイコラがこれ以上増長しても困るので、あえて褒めはしなかった。
「まったく、役立たずのクセに。すこしはご主人さまを敬って――」
「イーコーラー!!」
なにしろ、文句を叩きつける役ならば十分に足りている。いまだ呆然としている兵たちを気迫で割って駆けつけ来たのは、その筆頭であるシュリミラ家の令嬢だった。眼を吊り上げ、髪を炎のように揺らめかせた姿は、一見誰だかわからなかったが。
「あ、あら、アイギナ。どうしたの、血相変えて。きれいな化粧にヒビが入ってるわよ?」
「誤魔化すんじゃない! 人ン家の像を、なに勝手に倒してんのよ!」
鼻息を荒げて長い爪を突きつける様はさながら鬼女(オージェ)だ。イコラは顔を引きつらせて一歩を下がるも、かろうじて理屈で応じていた。
「ちゃ、ちゃんと断ったじゃない。それに、非常時における都市施設の全権は領主(わたし)にあるのよ。作戦で必要な物資をどう運用しようと文句言われる筋合いないわ」
「本当に必要だったわけ? 超剣像(オブジェ)の崩落は魔獣(ゾア)を怒らせただけだし、トドメはあなたの用意した術だったじゃない」
「あ、アレがあったから封印剣(マグナム)なんてものに喰いついてきたのよ? まともな状態じゃ悟られてたわ。動きを止めることができなきゃ囮を出すことすらできなかったわけだし。
内から破るのはあくまで第二案。超剣像(オブジェ)だけでカタがつけば余計な危険もなくて済むなと、考えてはいたんだから。むしろ最初の一撃こそ本命だったのよ。
そう、魔獣(ゾア)を倒せたのもあなたのおかげっ。いやー、さすがだわ。こういう事態で貢献できるからこそ、街一番の商家になれるんでしょうねー」
はじめこそわずかに緊張していたが、口調は言葉を並べるほど砕け、終いにはいつもと同じ気軽さを取り戻していた。伝える内容も真面目さが薄れ、妙に持ち上げるものへと変わる。
傍で聞いていても胡散臭い態度に、わずかに冷静を戻したアイギナも冷ややかな眼を向けていた。
「……本当に考えてたんでしょうね?」
「え?」
「結果から言い訳を並べてるんじゃなくて、本当に?」
「えーっと……」
驚きは一瞬。沈黙はしばし。
「……もちろんよ」
「その間はなによ! なんで目を逸らすの!」
「気の迷い、じゃなくて、気のせいよ。ああ、もう、うっさいわねっ。いいでしょ、なんとかなったんだからっ」
「出たわね本音がっ。この行き当たりばったり!」
「なによっ。はじめに説明したでしょっ。言った通りになったじゃない。そりゃ多少は――」
開き直って交わされる言葉はいつも通りのやりとりで、放心していた周囲の兵たちにも二人の存在を気づかせた。白い鎧をまとった少女の姿が、驚きを、喜びを、命の熱を伝えていく。
「お、おい。ありゃ、領主(ロード)さまじゃねぇのか?」
「なに? いや、だって……ほ、本当に、本物か?」
「間違いねぇってっ。あの小憎たっらしいツラ、他の誰だってんだよ!」
「マジかよっ。さっき魔獣(ゾア)に喰われたじゃ……だ、だからいきなり爆発したのか!?」
「おお。アレも領主(ロード)の仕業らしいぞ」
「さすがはウチの総大将っ。まさか魔獣(ゾア)の腹ブチ破るとはな!」
「へっ。バケモンが調子に乗るからだ。ロード・パルモートを喰ってタダで済むわけねぇだろうがっ」
ざわめきの内容は少々歪んでいたが。
「……なんだかえらい言われような気がするわ。領主(ロード)をなんだと思ってるのかしらね、ウチの兵士(ビット)どもは」
「だいたい合ってるじゃない。よかったわね。また立派な二つ名をつけてもらえるわよ」
アイギナのからかいに目を平めたイコラへ、レオンは一同の本音を囁いてやった。
「慕われてるってことにしとけよ。領主(ロード)さまがご健在でみんな嬉しいのさ」
「そう? 面白がってるようにしか見えないけど」
「そうだって。かく言う俺も胸いっぱい。お許しいただけるなら熱い口づけで喜びを表現させてくれてもいいんだぜ?」
「そういうセリフはクリスがいるときに聞かせてもらいたいものね。後始末のドタバタも含めて」
素気ない言葉と態度はすっかりいつものロード・パルモートだった。わずかにたじろいだレオンを笑い、颯爽とマントを翻(ひるがえ)す様も、支配する者に相応しい。
「さて、決着つけないとね。トール」
「お、おう」
蹲(うずくま)っていたトールを立たせ、引きつれ、イコラは場から歩みだした。目指す先は血色の中心、大穴を穿たれた魔獣(ゾア)の下。
開けた場所に進み出れば周囲の視線も自然と集う。聞こえてきた囁き、ざわめきは、元いた場で広がった声と同じようなものだ。イコラはわずかに頬をひくつかせ、それでも調子を変えずに歩き続けた。蠢く多くの『熊』を避け、動かぬ『狼』の頭へと至る。
首は半ば千切れ落ち、喉はほとんど裂けているにもかかわらず、魔獣(ゾア)の顎は唸りを上げようと牙を打ち合わせていた。黒い眼に揺れる血の瞳は変わらぬ殺意を宿していた。怨念じみた意志さえあれば、砕けた肉体をも動かしうる。無造作に転がっている『狼』の頭も、いつ飛びかかってくるかわからない。
それでもイコラは歩みを変えず、赤く濡れた地を踏み進んだ。
血の瞳を前に止まっても堂々たる態度のまま、黒鞘から銀色の剣を引き抜いた。
逆手に握り、高く振り上げ、周囲に見せつけるよう一時止める。
赤と黒に染まった場で、沈黙を広げた白き少女の、なんと神々しいことか。
「魔獣(ゾア)よ。報いを、受けよ!」
朗々たる声とともに、刃は勢いよく突き下ろされた。
黒い眼の赤い瞳に、渾身をもって突き立てられた。
『――ッ、ァ――――!!』
水の潰れるような音が響き、声にならない絶叫が迸(ほとばし)る。
「っ…………!」
ビチビチとのたうつ肉の欠片、外れた顎の悶える動きを、イコラは踏みしめ、押さえつけた。『狼』の喉に深々と剣を刺したトールとともに、暴れようとする首を地に縫いつけ、もがく精神(こころ)を削っていった。
噴き上がる赤黒い血と蒼い歪み。力の残滓を浴びるがまま、二人はただただ耐え続けた。
そう、無音の叫びが消えるまで。
『――――…………』
長く、イコラは動かなかった。
逆手に握り固めた剣を根元まで魔獣(ゾア)の眼に埋めたまま、微動だにしなかった。
鋼を通じて彼の意思を確かめているのだろう。
そして、確かめられたのだろう。
動かなくなった『狼』の身から、イコラは刃を引き抜いた。
赤い飛沫(しぶき)を顔と鎧に浴びながら、表情も変えず剣を振り上げた。
沈黙する周囲を見据え、強く、強く宣言する。
「異形(ベルグ)の群れも、魔獣(ゾア)の脅威も、ノドスの地を穢すことは叶わない。
我らの勝利だ。パルモートの民よ!」
「お……?」
「おお……」
それは、水面(みなも)に投じられた一石のように波を広げ、
「「「おおおおおおおおおおおおおおお!!」」」
大きく拳を突き上げる勝鬨の津波を引き起こした。
警告の鐘もかき消すほどの爆発的な興奮の中、小さな領主の発する声はなおも朗々と響き渡る。
「後はこの場に蠢く残骸、わずかな異形(ベルグ)を残すのみ。
力を結してこれを祓い、我らが街を取り戻せ!」
「「「おう!!」」」
号令一下、戦士たちが動きだす。力強い言葉と動きに、もはや怯えの色はない。
警鐘の音が消えるまで、長い時間はかからなかった。
●「たいへんです、領主さま!」
体から血の臭いがした。
昼間浴びた魔獣(ゾア)のものか? いや、湯浴みはしたし、服も代えた。臭いが残るはずはない。
だが、腕を持ち上げ納得した。
両手は赤黒い血によってドロドロに濡れていた。
(ひっ……!?)
悲鳴は響かなかった。声が出ない。
血も祓えなかった。手が動かない。
足も、体も、口も、目も、なに一つ自由にならなかった。
残されたのは心だけ。抗うことも叶わぬまま、ただただすべてを霊(み)るしかできない。
掌から湧き、指の間から落ち続ける血は、足下に溜まり、池となり、さらに広がり河となった。
黒い赤は、左右に連なる砕けた家屋や、途上に置かれた壊れた荷馬車、抉れた地面や折れた材木、打ち捨てられた看板まで呑みこみ、血に濡れた道へと変わった。
それは見慣れた光景でありながら、見覚えのない惨状で、
すでに見尽くした大路から、見届けた死者たちが近づいてくる……
――ナゼ、オレガ、死ナネバナラナイ――
背を踏み折られた術士が問う。
――喰ワレタクナイ、死ニタクナイ――
頭と肩口を失くした戦士が乞う。
――痛イ、苦シイ、助ケテクレ――
瓦礫に潰された巡行士がもがく。
――嫌ダ、嫌ダ、嫌ダ、嫌ダ――
爪に裂かれた兵士たちが叫ぶ。
――オマエノセイダ、オマエノ、オマエノ、オマエノ……!――
前から、後ろから、左右から。骸たちは呻き、地を這い、血まみれの手を伸ばしてきた。
尽きることのない恨みの念を、冷たい掌から浴びせてきた。
氷のような指が、足を掴み昇ってくる。太股を這い上がりくるヌラつきはさながら蛇だ。一〇〇〇〇の蟲にも似た不快が、肌を喰い破り血管を貪りはじめた。力が奪われ、熱を吸われ、精神(こころ)までもが蝕まれる……
ついには心臓を鷲掴みにされたとき、声も出ないまま叫んでいた。
(ごめんなさい、ごめんなさいっ、許してっ)
(しかたがなかったのっ。あなたたちがいてくれたから、街は救われたのよっ)
(どうすればよかったのっ? わたしは、わたしはっ――)
言い訳だ。
苦痛から逃れたいがための、みっともない命乞いだ。
望まぬ死を与えられた者が、恨みを抱いて逝った者が、こんな言葉で報われるわけがない。
……のうのうと生き残った自分が許されるわけがない――
悟り、もがくのを止めた。
痛みを、苦しみを、与えられるがまま受け入れた。
冷たい骸に精神(こころ)と肉体(からだ)を貪られながら考える。
どうすればよいのだろう。もう存ない彼らに、どうすれば報えるのだろう。
謝罪? 祈り? 贖罪? 退位? それとも……
わからない。
ワカラナイ。わからない。
わからない。ワカラ――……ん――い。
ワカラ――お……ちゃ――ワカラナイ。わからない。
わからない。ワカラナイ。わから――ねー……ゃん――からない。
ワカラナイ。わからな――おねー……ん――らない。ワカラナイ。
わからな――
「おねーちゃん!」
永遠とも思える苦境から、大きな声に引き上げられた。
心臓に立てられた爪を焼き解かれ、柔らかな温もりを分け与えられた。
体を揺らされ、腕をつかまれ、頬をぺちぺちと叩かれた。
黒い赤が遠ざかり、白い光が膨らんでいき――
……目を開けると、涙を浮かべた妹の顔があった。
「おねーちゃんっ」
「ニコラ……」
骸はいない。街もない。血の色も臭いもありはしない。
領主邸私室にいるのはイコラ自身と、泣きだしそうなニコラと、その背に張りついた丸ネズミだけだった。
「……ええと」
記憶の糸を手繰る。
魔獣(ゾア)を討ち果たした後は、そう、事の始末に奔走した。避難した民をまとめ、被害の程度を調べ、周辺の町村に報せを走らせた。
ひとまずの混乱を治めた時にはすっかり夜も更け、それでも明日からの問題を考えなければと奮起したところで、ガルデンの命(めい)を受けたトールに私室へ叩きこまれたのだ。
確かに疲れていたのだろう。抵抗する気力もなく、先に忍んでいたニコラを抱き、そのまま寝入ってしまったらしい。
……鎮魂の名簿を記すこともできなかった。夢で追われるのも無理のないことか。
「だいじょうぶ? 苦しそうだったよ? 怖い夢みたの?」
イコラが身を起こしても、ニコラの表情は変わらなかった。乱れた寝巻き姿のまま、潤んだ瞳で見つめていた。気遣う想いがありありとわかる。同じ縋りついてくるものでも、悪夢の骸とは雲泥の差だ。
そう。心配は生きているからできる。
そんな当たり前のことに気づき、イコラはようやく目を覚ました。妹の優しさに感謝する。彼女がいてくれて、本当に嬉しい。
そしてもう一つ。姉として、妹の泣き顔など見たくなかった。なにしろまったく似合っていない。
「だいじょうぶ、よっ」
思ったときには手を伸ばしていた。
「ふにゃ?」
血の気をなくした頬をつまみ、左右にグニリと持ちあげる。への字口の両端が無理に曲げられ、歪んだwの形に変わった。少しおもしろい。
「ニコラに心配されるほど落ちぶれてないわ」
「うにゃー。ひにゃひー」
「おー、伸びる伸びる。いい揉みごこちー」
「にゅー」
「こりゃ落ちつくわ、ひゃ!?」
調子にのってもてあそんでいると、モサモサしたものが背中に潜りこんできた。脇腹をペタペタと冷たい足が這い、フワフワの毛が肌を撫でてくる。
心地よいというよりこそばゆい。それも、かなり。
「ちょ、これ、ミッコ? こら、やめ、みゃはははは!?」
体を揺らしても動きは止まらず、むしろ勢いを増した。服の中を縦横に這い、腹や胸にまで上り、暴れくる。
イコラが笑いを堪える様に、丸ネズミの主は目を細めていた。
「ニ、ニコラ! ひゃは? ひ、ひゃめさせなしゃ、ふひ!?」
「ひぇひぇーん。いひゃひゅひゃひゃら、負ひぇにゃひみょん」
さらに頬を引き伸ばしても堪える様子はまるでない。ニコラは手足をバタつかせ、ミッコをさらに這い回らせてきた。こちらの悶えを見て強弱を操っているらしい。
明らかに楽しんでいる。なら、負けるわけにはいかない。
「こ、こんのぉ!」
「わ? は、にゃわははははは!」
イコラはニコラの頬から手を離すと、間髪いれず押し倒した。両腕をまとめて後ろに回し、馬乗りになって封じこめ、自らの手を脇に這わせた。
髪を洗うようになめらかに、優しく、しかし入念に、執拗に。
トールに拷問と評されたくすぐりの技は、ニコラの目に先とは異なる涙を滲ませた。
「にひー、にひー」
「ほ、ほらほらっ。ミッコを止めないと、ひふ、く、くすぐり続けるわよっ?」
「お、おねーちゃんこそ止めないと、ミッコをずっと暴れさせちゃうんだからっ」
「わたしに勝てると、をふっ? お、思ってるの?」
「へん。おねーちゃんなんか、ら、楽勝だもんねっ」
「よく言ったわ。泣いても知らないわよっ」
「返り討ちだね。笑い転がしてやる!」
「「にゃははははははっはは!!」」
――十数分後。
イコラは汗まみれの半裸姿でベッドにつっぷしていた。
のそろのそろと上体を上げ、乱れた髪をかき上げる。
「はぁ……はぁ……朝から、バカなことしたわ……」
「ホントだよぉ……おねーちゃんの、おバカぁ……」
隣ではニコラが仰向けに転がっていた。絶え絶えの息は疲れきっていたが、頬を上気させた顔は実に晴れ晴れとしている。
彼女にふさわしい表情だ。忘れていた言葉をようやく言える。
「ニコラ」
「なぁに?」
「おはよう」
目を見開いたのは一瞬だけ。ニコラはすぐさま飛び起きると、満面の笑みを返してきた。
「うんっ。おはよっ、おねーちゃん!」
ああ、とイコラは息を吐く。
そう。この笑顔が見たかったのだ。
生の象徴たる笑みが。
死者の遺志はもう知れない。故人の知識を得られる魔術でも、刹那の想いまで霊(し)ることはできない。苦痛の声も、怨嗟の念も、忘れられればそれで終わり。いっそ呪いとなって身に降りくれば、真意のほどが知れるのに……
死者の遺志は決して知れない。なら、生きている者のために尽くそう。語りあい、笑いあい、悲しみを分かち、怒りを知ろう。死者への償いにはならずとも、残された者たちと心を交わすことはできる。
いや、それしかできないのだから。
やるべきことは変わらない。成すべきことを成すだけだ。自らの生き様を示すことこそ、領主(ロード)である自分の務め。
せいぜい楽しくやってやろう。
「さあっ。今日もはりきっていくわよ!」
「おー!」
振り上げられた小さな拳が、弱気になる背中を押してくれる。幼馴染の頼りない護衛が、いつも一緒にいてくれる。邸に集う人々が、街に住まう人々が、領地に生きる人々が、少しずつ自分を支えてくれる。
彼ら(かぞく)とのつながりが領国(いえ)の要。日々こそ絆を深める財産(たから)だ。
今日もまた、はじまりの声が飛びこんでくる。
「たいへんです、領主さま!」
かくてイコラ・パルモート・リミエレムは、いつもの一日を踏み出すのであった。
―― 了 ――
「たいへんです、領主さま!」