感想「夏目漱石の『明暗』を読んで~数人の登場人物の我と虚飾について」
1)
夏目漱石の小説「明暗」を岩波文庫の本で読む。
この小説は全体が188から成るが、作者の死により未完に終わる。
主人公の津田とその妻お延の生き方の我執を中心として、様々な人
間の様々な心情(真情)の発露が描かれている。
お延との結婚後半年が過ぎても清子への未練が残る津田の微かな不
安、夫である津田の愛情を充分に感じ取れないお延の苦しみ、立身
のためにお延を必要以上に経済的に大切にする兄の津田への妹お秀
の不満、津田に清子への未練の清算を勧める(もしくは策略?)吉
川夫人の傲慢な心、経済的社会的境遇の差異から生じる津田の軽蔑
に対する小林の復讐心、これらのエゴイズムが作者の詳細な心理分
析をもって描かれている。
尚、主人公の津田が去られた清子への未練を明瞭に自覚し、積極的
に自分の心の解決に向かって動き始めるのは、小説全188のうち、
171以降からである。それまでは、津田は様々な人間との一種の
精神的緊張や対立を経験せねばならず、仮にお延を必要以上に大切
にすることに非があるとしても、津田には一種の受難の影がある。
2)
津田はお延と結婚して半年が過ぎるのだが(5)、彼女との生活は
心から満たされたものではない。そのような津田を彼の叔母は、「
色々と選り好みをした挙句、結婚をした後でも、まだ選り好みをし
て落ち着けずにいる人」と評する(30)。そのような津田をお延
の叔母は、「あの男は日本中の女がみんな自分に惚れなくっちゃな
らないような顔付をしている」と批評する(62)。津田の妹のお
秀は津田とお延を、「自分たちさえよければ、いくら他が困ろうが
迷惑しようが、まるでよそを向いて取り合わずにいられる方」と言
う(109)。そして「明暗」の作者は津田を、「極端に言えば、
黄金の光から愛そのものが生まれるとまで信ずる事の出来る彼」と
説明している(113)。
お延は精一杯尽くす津田からの充分な愛情を感じていない(47)。
愛する人が自分から離れていこうとする僅かな変化、もしくは前か
ら離れていたのだという悲しい事実を、今になってそろそろ認め始
めたという心持がある(83)。津田は立身のため、表向きは、そ
して経済的にはお延を大切にしている(134)。また津田は、去
られた清子との過去と未練をお延に知られたくなくて、表向きは妻
を大切にしている(102)。お延は、津田と清子の過去を全く何
も知らない(137)。津田は吉川夫人の計らいで、清子への未練
の清算のため、温泉地で独りで療養する清子に会いに行く決心をす
る(140、141、142)。彼女の療養する温泉の町の夕暮れ
の中で、津田は清子への未練を鮮明に自覚する(171、172)。
財力に最も信を置く津田は、吉川夫人の計らいがなければ、明治・
大正の実業、家族、親戚の因襲の中で、安泰の内に生きることにな
っていたのではないだろうか?
3)
清子との未練を清算するために、彼女に会いに行くことを計画した
吉川夫人は、人間関係において、極めて支配欲の強い人間である。
上流階級に属し時間に制限の無い吉川夫人は、頼まれるまでも無く
人の内輪に首を突っ込み、殊に自分の気に入った眼下の者の世話を
焼きたがり、また、至る所で道楽本位の本性を顕して平気な女であ
る。鼠を弄ぶ猫のような彼女の態度は、閑散とした時間に波乱を与
えるための優者の特権だと解釈しているらしい。そのような吉川夫
人に捕まった時は、何よりも辛抱が大切であり、辛抱をした者には
お礼と奨励を与え、そうすることを彼女は倫理上の誇りとしている
(以上、132)。
津田が未練を残す清子を、彼が愛すように仕向けたのは、実は吉川
夫人であり、夫人は津田と清子をくっ付けるような引き離すような
手段を縦に弄して楽しんだ。そして2人の結婚を企てた。しかし突
然、ふいに清子は津田の前から離れ去ってしまった。津田は夫人を
責め、五里霧中に彷徨した。そのような時に、お延との結婚問題が
起こり、吉川夫人は津田の第二の恋愛事件に関わるべく立ち上がり、
表向きの媒酌人として綺麗な段落をつけた(以上、134)。
現在、吉川夫人は、未練の清算という目的(大義名分?)のもとに、
再び津田と清子の接近を試みている。津田の清子に対する未練を、
吉川夫人はまるで追い詰めるような勢いの会話をもって津田に認め
させ(138、139)、旅費は夫人が負担するという話で、温泉
地で療養する清子に会いに行くよう話しをまとめるのである(14
0、141)。
しかし、吉川夫人の提案は、夫人の他者を焦らしからかうことの好
きな性格や(13)、お延を単に好いていないという事実から考慮
すると、津田とお延を夫人好みの二人に仕立て上げるための策略と
もとれるものである(142)。
先にも書いたが、津田に清子の世話をしたのは吉川夫人であり、そ
の件ではしくじっている。普通の人間ならば、罪の意識と恐れを感
じ、再び津田の男女関係については、関わることは出来ないであろ
う。しかし、極めて短期間の内に、第二第三の恋愛事件に関わり築
き上げようとする吉川夫人のエゴイズムには、何か底知れない不気
味さが伴うものではないだろうか?
4)
津田の学生時代からの友人に小林という男がいる。小林は長い間、
津田の叔父の書く雑誌編集の仕事をしているのだが、東京に居た
たまれなくなった結果、近々、朝鮮へ渡ってそこの新聞社に雇わ
れることに、ほぼ決まっている(36)。
そのような小林は、極めて強い社会からの疎外感と、虐げられ軽蔑
された意識を持っている。近況等を話した津田との食事の席で、小
林は、「自分は下等社会の同情者である(34)、ドストエフスキ
ーの小説には、貧しい人間の至純至情の感情が現れている(35)、
などの話をして、ぽたぽたとテーブルクロスに涙を落とす。
また、小林は、悪が自分の天命であり自分の本望であるというよう
な観念を持っている。津田の外套を受け取るためにお延の元へ行っ
た小林は、お延に向かって、「僕には妻も親も友もいない、世の中
が、つまり人間が無い」と話す(82)。そして更に、「いくらで
も人を嫌がらせるがその責任は決して負わない、何故なら、それが
天の命ずる天の目的であり、その目的に動かされるのが僕の本望か
もしれない」と奇怪な言葉を吐く(86)。そして津田の未来が全
て潰れてしまうことの可能性を予見して(118、134)、お延
の知らない津田の過去を暴くような素振りを見せる(83、84)。
このような経歴と精神を持つ小林は、絶え間なく自分を馬鹿にし続
けていると信じている津田に対して、ある復讐を計画している。
小林が津田に向かって、自分の心情を思い切り言う主な場面は二回
ある。二回とも食事のシーンであり二回とも小林は涙を流す。小林
の卑屈な観念は生理的変化を与えるほど根深く心に巣食っているも
のであり、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に登場する
スメルジャコフの性格と共通するものではないだろうか?小林とス
メルジャコフの二人に共通する心の苦しみは、周囲の人間には(
つまり、小林にとっては津田とその親族関係、スメルジャコフにと
ってはイワンとその親族関係。)経済的にも社会的にも恵まれてい
るのに、自分達にはそれらが何も無い、という意識である。
5)
小林の津田への復讐とその手口の一つについて。
津田が開いた小林の朝鮮行きの送別会の食事の席で、小林は自分の
津田に対する復讐の内容を話す。それは、豊かな余裕のある状態か
らそうでない状態へ追い詰められた時、津田は小林の助言を思い出
すのだが、少しも助言の通りに実行できずに苦境に陥る、というも
のである(158)。小林は、「貧賤が富貴に向かって復讐をやっ
てる因果応報の理だね(160)」とも言う。ただ、「明暗」は作
者の死により中断してしまったため、小林の復讐の全貌の詳細は分
からない。
復讐の準備、あるいは手口の一つとして、小林は津田の意識を、社
会的に経済的に余裕の無い人間に向ける必要がある。それは、送別
会の食事の席で、次のように展開される。
食事の席に、津田の面識の無い、津田の知らない原という姓の貧し
い画家が現れ、小林は津田に原の画を買ってやれと言う(162)。
また小林は、津田の面識の無い、津田の知らないある人間の、悲惨
な悪魔の重囲の境遇の手紙を津田に読ませる(164)。そうする
ことで津田にいくらかの同情心を生じさせ、つまり金を遣りたいと
いう心を生じさせ、良心の闘いからくる不安を与える。そして、津
田の餞別の金のいくらかを、津田の眼前で、小林は原に譲る(16
5)。一時、津田は、体を通過した憎悪の電流とともに、この出来
事を小林と原があらかじめ企んだ狂言だと判断するが、金が原に及
ぼした影響を見たとき、つまり金への飢渇や欲望と手を出せないと
いう葛藤の苦悩を原に認めた時、馴れ合いの狂言だとは受け取れな
い(166)。
「明暗」に描かれた小林の一連の言動の中には、例えば津田の心に、
「こいつはピストルを取り出して俺の鼻先に突きつけるつもりでは
?」という芝居じみた予感を与えるところもあるが(163)、「
明暗」全体の記述からそのような小林を反社会的組織に属する人間
だと判断することは不可能である。しかし津田とお延が破滅する可
能性を予見して、二人に対して失礼極まりない言動をとる小林は、
あまりに不道徳的な人間であると言えるかも知れない。小林の津田
に対する「貧賤が富貴に向かってやる復讐」の手口の一つは、津田
の全く知らない外部の人間を、津田の眼前で、徹底して利用すると
いう狂言じみたものであった。
(了)
感想「夏目漱石の『明暗』を読んで~数人の登場人物の我と虚飾について」