その夜はもう、なみなみと、
ㅤあかつき、きょうのばんを、てらす。
ㅤ路地裏の喫茶テラリウム、本日は2ヶ月ぶりの営業日。そこにひかり、新しい恋人を連れてあらわる。ある星のある夜の出来事だ。
ㅤひかりは化粧をした女をつれて、喫茶テラリウムの木製扉を押した。
ㅤ店内は落ち着いた雰囲気で、小さく話し声が聞こえる。奥で本を読んでいたマスターが「やぁ」と顔をあげて言った。ひかりもそれに合わせて、ピカリと光ってみせた。
ㅤこのひかり、全く人の言葉を喋れないわけではないけれど、あえてそうする変わり者なのである。女はそういうところがお洒落で素敵だと思っている。
ㅤ女とひかりは、マスターの前を通りすぎ、カウンターについた。
ㅤそして、アルバイトのマキが注文をとりにいった。
ㅤこの店ではマスターの仕事はほぼない。アルバイトのマキが全てこなしている。その理由は、マキと夜の秘密だ。だけれど実はマスターも知っている。マスターは悪い男だ。女の恋心につけこむ、世紀の詐欺師なのだ。
ㅤひかり、チカチカと光らせるだけでなく、大きくなったり小さくなったり、色々できる。一方で女は何もできない。変身はともかく、料理だってできない。米もたけやしない。だけれどひかりはそういうところが愛おしいと思っている。ひかりの前の恋人は完璧超人で、オムライスの卵はトロトロだった。
ㅤひかりはブドウジュースをぐいっと一気に飲み干した。それから立ち上がり、くるくると両腕をふりまわし、ほんのりあたたかいエネルギーを発しながら、その姿をかえた。女の顔に二滴三滴の汗がかかったが、女は気付かないフリをした。
ㅤひかりはキラキラと光る粉が飛び広がるのと同時に、少年の姿をあらわした。なかなかの美形で、女はうっとりした。こんな顔、他にはないわ、将来が楽しみだわ、と思った。間違いなくそうだ、と二人を盗み見していたマスターは、女の心音を感じとったようでマキにウインクした。マキは、この人は色男ね、それにプレイボーイの匂いがするわ、と思いながら視線を手元の布巾へ下ろした。
ㅤまた、ある星の、ある夜で、ぼくはビニールプールをひっぱりながら、ぼくの友人はラジオのつまみを親指と人差し指でひねりながら、砂漠のように静かで、それでもやはり煌びやかな繁華街を、ただひたすらにあるいていた。
ㅤこのように何の変哲もない今晩のナイトラジオでは、ぼくの知らない洋楽が高速道路のトンネルみたいなイントロから始まった。
「君はどこに向かっているの」
ㅤぼくは彼にきいた。彼はラジオのつまみに目をむけたまま答えた。
「君というのはぼくたちを指しているのか、そうでないのかにもよるし、ぼくたちは既にあるいてる。今のこの時点では同じ方向に。でも反対に進んでるのかも知れん。答えようがない」
ㅤそう言いながらも薬指に宝石を輝かせる彼は、挙式前に少しの不幸を装う花嫁、みたいだ。口に出すと叱られるから黙っておくけれど、ぼくは確かにそう思った。お幸せに、とも。あと、君は一緒に進む人がいていいねぇ、とも。最後は明らかに醜い嫉妬心だった。
ㅤ目が少し疲れていて、今晩はあくびも出た。折角早寝早起きするようにしていたのに、今日はうんと遅くなりそうだ。
「ぼくも君も、哲学的なものが好きなのかな」
ㅤぼくがぼんやりと言うと、彼はカチリとラジオを切り、顔を上げて言った。
「人間は哲学がすきと決まってるのさ」
ㅤ照れ隠しのようにすぐに顔をさげ、ラジオをくるくると回して色んな角度から観察しはじめた。
ㅤまだ不思議な洋楽が流れていた。セクシーな男の人の歌の、サビの、一番いいところの、真っ只中だった。ぼくにはどこの国の言葉なのかすら分からなかったけれど、きっと彼は博識だから分かっているのだろうなぁ、と心の内で尊敬した。
「君ってほんとかっこつけ屋だね。そもそも人間でもないくせに、よく言うよ」
ㅤぼくはそう言ってから少し後悔した。そう、本当は心の奥底から君を尊敬しているのに、ぼくは素直でないから、よく君の気を悪くさせてしまっているような気がするんだ。
(本当に、人間でもないくせに)
ㅤ彼はまた手をヒラリヒラリと動かして宝石に光を反射させては、満足気にほほえんだ。ぼくに見せつけているのか。
「冗談はよしにして、どこに向かってるか教えてあげるよ。ぼくが結婚する前に、スクランブル交差点に行ってみたくて」
ㅤ彼は歩道橋の上を歩きながら言った。そして彼はすぐに、ぼくが足を止めたことに気づいて振り返った。
「人間になってみたくない?」
ㅤ彼は彼らしからぬ顔で笑った。純真な小学生のようだ。
ㅤぼくは、ほなあほな、と彼の真似をして言ってやりたかった。だけれど、真面目に彼の誤解を解いてあげないと、と思った。
「ぼくは東京まで歩いていける自信はないよ。やめておこう。それに夜中だし、やけに静かだよ。こうも静かな夜は、心が不安定になってしまうし、第一人間になる必要はないじゃないか、君は」
ㅤぼくは独り身だけれど、君には結婚を約束したヒトがいる。その人は君がなにであるか、を気にしないんだろう。多くを求めすぎじゃないの。と、ぼくは内心毒づいた。だけれど彼はとてつもなく純粋で、繊細で、強情で、面倒な生き物だから、ぼくは黙って首を振った。
「ねぇ、それ浮かせられるよね」
ㅤ彼はぼくの後ろにあるビニールプールを指差ししながら言った。
「無理だよ」
ㅤぼくは否定したけれど、彼は「大丈夫大丈夫」と言いながらビニールプールを持ち上げた。それから彼はほら、とぼくに無理やり持たせた。
ㅤ本当に浮かせたりできないのに、どうしろって言うんだ。ぼくはそれらしく浮かせるフリをした。唸り声をあげてみたり、念力使いのように手をかざした。勿論ピクリともしなかった。
「ぼくたちって人間でもないのに、魔法も使えないんだね」
ㅤぼくがそう言うと、彼はそうだねぇとあくびをしながらホニャホニャした。ホニャホニャというのは、そうだねぇ、のような話し言葉を構成する文字が、少しの原型を残してほぐれてしまうことを言う。
「でも、ぼくは浮かせられるんだよね。たぶん」
ㅤ彼はそう言いながら、実際にビニールプールを浮かせた。ラジオのアンテナをプールにむけて操った。
「君、本当に人間じゃないよね」
ㅤ彼は少し悔しそうに、でも照れくさそうに笑った。
「乗る?」
ㅤ彼が言うから
「乗れるの?」と聞くと、彼は
「わかんない。たぶんぼく達くらいならいけるよ」
と言った。二人でビニールプールに快適に乗り込む方法を模索している間も、自販機のあかりが下の方で光っていた。
ㅤしばらくしてからぼくたちは空っぽのビニールプールに乗りながら、歩道橋をはなれ宙に浮かんだ。
ㅤ彼はラジオでプールを操作しながら、ぼくは夜空を見上げながら、取り留めのない話をいくつかした。彼はたまに、ぼくの話に相槌をうちつつ、ラジオから流れてくる様々な音楽に耳を傾けていた。
「ねぇ、ぼく最近早寝早起きをルールにしてたんだよ。知ってた?」
ㅤ彼はあくびをしながら恐らく「知らなかった、寝なくていいの?」と言った。ホニャホニャしていたので、きちんと聞き取れなかったけれど、ぼくは寝ぼけた声でこたえた。
「うん。どうせ人間でもないし、ねない」
ㅤぼくは暗い街をみつめていた。ぽつりぽつりとあかりがついていて、その中でタワーは寂しそうで、ぼくは衝突するのするのではとぼんやりとした頭で不安になった。もう1度彼にどこへ向かっているのか聞こうと思い立ったが、スクランブル交差点ではなさそうだ、と思い、その夜は最後、あくびをしたっきりだった。
その夜はもう、なみなみと、