湖畔の家

静かな湖のほとりに、ちいさな館がありました。お屋根は晴れた日のイタリアの空みたいに真っ青で、壁は雲のように真っ白な漆喰で塗られていました。この館、人が住んでいる様子でもないのに、いつも窓はピカピカ、床板もツルツル、痛んだところはどこにもありません。もともとは高名な画家が別荘を兼ねるアトリエとして建てたという話ですが、ほんとうのところは誰も知りません。つまりそのくらい昔からずっと、湖のほとりにぽつんと建っているのです。

そんな得体の知れないお屋敷ですから、とうぜん、妙な噂が流れたりもします。絶滅した白鹿の隠れ家になっているだとか、国のお偉方が秘密の寄り合いをしているのだとか。中には無理心中した幽霊一家が暮らしているだなんて物騒なものまで、まことしやかに語られることも。いかんせん、館について知る人がいないものですから、人々はみんな好き勝手なことを言いふらします。妙な噂はさらに妙な噂を呼び、それを聞いた人は気味悪がって、ついには誰も館に近寄らなくなってしまったのです。

それでも時々、たゆたう湖面がいびつな人影を映すことがあります。ほとんどは遠巻きの肝試しとか、単なるひやかしなのですが、なかには本当に偶然、森で道を失い彷徨ったすえ、この館にたどり着く人間もいるのです。こういう人はおもに旅人で、とうぜん館の噂もろくに知りませんから、瀟洒な外観を見て小綺麗な未亡人でも住んでいるのだろうと思い込み、一宿一飯の助けを求めてコツコツとノッカーを叩いたりします。返事はありませんが、ここで小首をかしげつつも取っ手を回すような不届き者は、おや、と扉に鍵が掛かっていないことに気がつくのです。不届き者は、なんといっても不届きものですから、鍵が開いていれば招かれたも同然とばかりに中へと上がり込みます。忍び込むとも言えますが、不届き者によこしまな心つもりはありません。堂々としたものです。

さて、こうして館の中に入った者は誰でも、まず目をぱちぱちさせて辺りをきょろきょろ見わたします。というのも、この館には部屋と呼べそうなものはひとつもなく、仕切り壁もなく、階段もなく、家具や調度品もいっさい置いていないのですから。外光を取り込む窓のほか、あるのはただ、たくさんの絵画です。それが天井の高さまで、まるでパズルのように、壁の全面を埋め尽くしてところせましと掛けられているのですから、驚くのも無理はありません。絵はすべて油絵の具で描かれた肖像画ですが、奇妙なのは、貧相な顔つきの男の絵ばかりがやけに目立つこと。

礼装の貴婦人や鬚をたくわえた高級官僚の肖像ならまだしも、よりによってこんな、不届きものを絵に描いたような男たちが、好んで誰かに肖像画を頼む理由がいっこうに思い当たりません。そしてそんなものばかりを、もちろん他に立派な絵もあるにはあるのですが、わざわざ蒐集する意味も、よくわかりません。ではそもそもなんのためにこんな館が建てられたのでしょう。本当に、わからないことだらけです。

食べ物の当てが外れたとはいえ、見たところ壁も屋根もしっかりと造られていますし、ここにいるうちはどうやら、雨や風の心配は必要なさそうです。不届き者は爪の先までふてぶてしいので、自分がひとまず安全とわかると、絵画の素養など一切なくてもとりあえず、精一杯難しい顔をつくって飾ってある絵を観てまわります。美女の肖像の前ではわざとらしく唸ってみたりして、時折腕を組み替えることも忘れません。

そうしていると、また妙な景色に出くわします。自分にそっくりな顔の男が、額縁の中で腕組みをしているのです。これが絵画同様の額装をほどこした鏡であることにやっと気がつくのは、細部に目を凝らそうと鏡面に顔を近づける時です。結局最後まで気がつかない者も、時々います。しかし、それにしても、なぜこんな紛らわしい場所に鏡など。そういぶかしんでしげしげと、矯めつ眇めつ鏡面を眺めていると、中からぬっと二本の手が伸びてきます。そして首の後ろをがっちり抱え込むと、そのまま鏡の中へと引きずり込んでしまうのです。

引きずり込まれた不届き者がどうなるかと言えば簡単で、これはもう身動きも取れぬまま絵になってしまうというわけです。すると似たような、いかにも不届き者顔をした不届き者が、あらぬ方で額縁の中から吐き出されるように飛び出してきます。この不届き者が自分を鎖していた絵の方を振り返ると、それはすっかりピカピカの鏡に戻っていて、それを見て怖じ気付いた不届きものは、思い思いの叫び声をあげながら大慌てで館を飛び出してゆくのです。つまりこの青い屋根の不思議な館は、生き物のように人を取り込んだり排泄したりする、絵画と鏡の魔物だったのですね。

ではどうしてわたくしが、あの館についてここまで詳しく存じ上げているのかと言えば、これは作り話でもなんでもなく、事実、わたくしがつい先程身代わりを鏡に引きずり込んで、ようやっと絵の中から抜け出してきた、間抜けな不届き者のひとりだったから、というだけのお話です。ええ、肖像画になった気分ですか? それはもう、絵にも描けないほど情けないものでしたよ。

湖畔の家

湖畔の家

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-09

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