『闇のレゾナンツ』

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 集団自殺事件の文字が舜一の眼に飛び込んできた。アナウンサーが事件の概要を伝えている。今朝六時過ぎに埼玉県K市の市街地から五キロほどの距離にある自然公園の駐車場で、犬を連れて散歩していた老人が不審なワゴン車を見かけ、警察に通報した。車内を調べたところ、男女二人ずつの遺体が発見されたというものである。
 舜一はいつも昼過ぎにベッドから抜け出す。夜中から朝方までチャットで明け暮れすることが多いのだ。今日も眼が覚めたのは午後一時五十分だった。足を引きずるように階段をおり、洗面台の前に立った。二年前の自分とは別人である。張りのない肌、ぼさぼさの髪、生気のない表情。舜一は水で顔を洗い、歯を磨いた。それからキッチンに向かった。冷蔵庫からスポーツドリンクを取りだし、ソファに腰をおろし一息に飲んだ。
 リモコンでテレビをつけ、漫然とテレビ画面に眼をさらしていた。かって情報収集は新聞が中心だった。いまではテレビとインターネットが媒体であり、新聞はほとんど見ない。ワイドショーでキャスターが愚にもつかない情報を垂れ流している。コマーシャルを挟み、画面がニュースに切り替わった。そして、集団自殺事件が報道されたのである。
 舜一は直感した。ユリエたちだ。死亡者の身元情報は明らかにされていないが、場所といい、人数といい、舜一が参加するはずだった集団自殺計画と一致する。
 またしても実行できなかった。舜一はネットの掲示板で心中相手を募集したり、あるいは募集の呼びかけに応じる形で、計画を具体化して、いよいよ決行という段階にまでこぎつけて、最後の最後で断念することを繰り返している。今回で三度目である。一人で自殺するのが怖く、そして寂しいという思いから、集団自殺という手段をとろうとしてきた。しかし、それすら自分には許されていない。
 その日の夜、母親が部屋に運んでくれた夕食を食べながら、ニュース番組を見た。政治経済ニュースのあと、集団自殺事件の続報が報じられた。車内には四個の練炭火鉢が置かれていた。検死の結果、死因は練炭による一酸化炭素中毒、死亡推定時刻は六月十一日午後十時から十二日午前四時とされた。四人の身元も判明し、男は東京に住む二十八歳の会社員と埼玉県内の高校二年生、女はいずれも女子大生で、一人は東北地方の中都市、もう一人は千葉県在住だった。千葉県の女子大生とはユリエのことであり、今回の集団自殺計画を呼びかけ、その後も連絡調整役をしていた。いわばリーダーである。
 舜一は耳を疑った。女性二人と男子高校生サファリはいいとして、死亡者のなかに二十代後半のサラリーマンがいるはずがない。計画では、五十代の男性が参加することになっていた。ネット心中ではメンバーが途中で脱落し、代わりに別のメンバーが新たに加わることは珍しくない。舜一自身がそうであり、今回の計画からおりることを決めたのは決行二日前だった。その時点でこの会社員の情報はなかった。ユリエは参加人数を多くしたいと考えていたようだが、タイミングからして、それ以降に新規メンバーを参加させるとは考えにくい。
 事件内容を確かめるために、舜一はヤフーを開いた。身元については、同じ情報だった。それでも信じられずに階下におりた。父親の顔を見るのは一か月ぶりである。舜一はテーブルの上に置いてある新聞を手にとった。事件は社会面に掲載されていた。大きな扱いはされていない。ネット心中は頻発していて、ニュースバリューがなくなっているせいなのだろう。やはり死亡者の身元は同じものである。
 集団自殺の試みのあと、舜一はいつも精神が高揚し、カタルシスを感じる。リストカット常習の女子高生とチャットしたとき、その女の子はリストカットすると、解放感を感じると告白していた。それと一脈通じるものがあるのかもしれない。その高揚感のなかで、舜一は警察に通報しようかと考えた。しかし、いざ警察に電話するとなると、なかなか踏ん切りがつかない。幾度となく逡巡した末にK警察署に電話したのは八日後のことだった。用件を告げると、電話が転送され、回線の向こうで呼出音が鳴っている。
「はい、刑事課です。ご用件をもう一度おっしゃっていただけますか」
「六月十一日に起きた集団自殺事件を担当した刑事さんをお願いします」
「自然公園で四人の方が亡くなった事件のことですね。わたしが担当でした。榊原といいます」
 声から判断すると、電話の主は自分と同じくらいの年代らしい。ややトーンが高く、早口だった。
「亡くなった方のうち男性は男子高校生と二十八歳の会社員と報道されておりましたが、間違いないんでしょうか」
「事実です。何か不審な点でもありますか」
 榊原刑事の言葉には、自殺で決着している事件にいまさら余計なものを持ち込まれるのは迷惑だといったニュアンスが龍められていた。事実を確認できたら電話を切ろうと舜一は思っていたが、切り口上な口調になぜか反発したくなった。
「ぼくも参加する予定だったんです」
「集団自殺にということですか」
「そうです。でもあの日集合場所に行きませんでした」
「つまり自殺を思いとどまったということだ。よかったじゃないですか。命は大切にしなければならないからね」
「猶予時間が延びただけです。ぼくのことはどうでもいいことです。今日電話したのは二十八歳のサラリーマンのことです。この人も一緒に亡くなっていますが、彼は参加することにはなっていませんでした。ぼくが計画からおりた六月九日の時点では五十代の男性がメンバーでした。それ以降に新しいメンバーが参加することは考えにくいことなんです」
「あなたの代わりに、そのサラリーマンの方が加わっただけじゃないんですか」
「タイミング的には、新しいメンバーをいれるといろいろと面倒なことが生まれてきます。ぼくが脱落して面倒をかけてしまいましたが、ぼくの代わりに誰かをいれる必要があったわけじゃありません。役割分担からしてもそうだったはずです」
「役割分担?」
「ぼくは練炭を用意する係でした。練炭なんかはホームセンターで調達できますから、四人のうちの誰かがぼくの代行をすればいいことなんです。きっとユリエさんが役割分担の変更を調整したと思います」
 舜一はあえてユリエの名前を出した。報道では、死亡者の実名はもとよりハンドルネームも明かされていない。榊原刑事の受け答えから通報がいたずらだと疑っている気配も窺えたので、ユリエという名前を出すことによって自分の情報の信憑性が増すと考えたのだ。
「あなたのおっしゃることはもっともかもしれない。しかし、やはり事実として明らかなのは、二十八歳の会社員が新たに加わって、あなたの他に五十代の男性が何らかの理由で離脱したということですね。その結果、その人の役割も誰かが代行しなければならなかったはずだ。五十代の男性の役割は何だったんですか」
「車の運転です。ユリエさんと二人で分担することになっていました」
「車はユリエさんという女性が総武線のH駅の近くでレンタルしていますね」
「そうだったんですか。ユリエさんがレンタカーを調達することになっていましたが、どこで借りるかはユリエさんに任されていました。彼女は地元で車を借りたんですね」
「どこで集合することにしていたんですか」
「東北本線のU駅待合室です。時間は午後七時」
「そうすると、H駅からU駅を経由して、事件が発生した自然公園までといったら、五、六十キロですか。一人で運転するとしても、たいした負担ではなかったな。新たにメンバーを募らなければならないわけじゃなかったのか。なるほど……」
 榊原刑事は最後の方を独り言のように呟いた。舜一は聞き返した。
「あっ、済みません。いろいろと伺いましたが、電話ではなかなか状況が掴めません。一度会ってくれませんか。詳しく話を聞かせてもらいたんですよ」
「刑事さんと会うんですか?あまり気が進まないな。その代わりメールとか調べてみて何か分かったら、また電話しますよ」
 電話を切り、舜一はマヤの携帯にメールを送った。携帯の電話番号も知っているが、電話することにためらいを感じたのである。
 マヤとは二人で自殺を計画した仲である。今年の一月に舜一はインターネットの掲示板で心中相手を募集した。四人がそれに応じてきた。何度かメールのやりとりをしているうちに、そのうちの三人は結局連絡が途絶えた。最後まで残ったのがマヤである。
 二人は計画の具体化のために喫茶店で会ったことがある。マヤは細面の、いかにもかわいいといった感じの顔立ちで、二十代半ばの女性だった。ライトブラウンのロングヘアーが顔の輪郭を柔らかく縁取っている。舜一が何かを話すたびに、大きな眼が物問いたげな眼差しを向けてくる。なぜこんな娘が自殺念慮に囚われるのかと不思議な思いがした。マヤは書店のロゴマークが印刷された紙袋を持っていた。大判の本がはいっていた。
 『ギリシアの墓碑』というタイトルが見える。舜一の視線を感じとったのか、マヤは紙袋から本をとりだした。写真集だった。浅浮き彫りの写真が表紙を飾っている。二本の柱で支えられた破風の下で、若い女性が椅子に腰かけている。女性は半袖の寛衣をまとって、涼しげな横顔を見せている。寛衣の衣紋が柔らかな曲線を描いている。この女性が死者なのだろう。左側には少女が立っていて、女性に小箱を差し出している。女性は小箱に視線を注いでいる。静謐さのなかに、若くして逝った娘への哀惜と鎮魂の情調が画面を浸している。舜一は写真集を開いた。中学校の美術教師だった舜一は墓碑という形で展開される古代の世界に関心を惹かれたが、内心をさらけ出すことを怖れて一言も言葉を発せずに見つめているだけだった。
「あたしが死んだら、お墓にこんなレリーフを彫ってもらいたい。叶えられるはずはないけれども、それがあたしの夢なの」
 写真集をめくっている舜一に、マヤはそう語りかけた。
 二人はその後もメールで打ち合わせを重ねた。二人とも死への意志は強かったが、マヤは二人だけで決行するのを躊躇した。場所の選定でも意見が合わなかった。男女二人のペアでは余計な憶測を呼ぶ虞があると心配しているのだろうと舜一は推測していた。
 そんなときに、舜一はユリエの呼びかけを掲示板で見つけた。そこには自殺方法が具体的に書かれていた。二人は相談して、ユリエの計画に参加することにした。計画がかなり練りあがった五月の連休に、メンバー六人は最終的な役割分担をするために渋谷のカラオケルームで一同に会した。東北新幹線でユーディットも上京してきた。ここでもユリエがリーダーシップをとった。メンバーの意見が割れそうになると、五十代のミツヨシがうまく取りまとめてくれた。高校生のサファリは黙って聞いているだけだった。打ち合わせは小一時間で終わり、その後カラオケタイムに移った。カラオケ店員もまさかその部屋で集団自殺計画が打ち合わされているとは思いも寄らなかっただろう。舜一も含め、メンバーは思い思いに持ち歌を披露した。ユリエは席を移しながら、それぞれのメンバーと言葉を交わしていて、最後に舜一の隣に来た。ユリエは決行意志に揺るぎがないことを念押ししてきた。
 五月二十日過ぎにマヤからメールが来た。ユリエから計画に関する連絡がないことを不安に思って、状況確認のために送ってきたのである。舜一には三度ユリエからメール連絡があった。内容はメンバー全員にかかわるものであり、マヤにも当然送られていなければならない。舜一はマヤに、ユリエが最後にメンバーに確認していた決行意志についてどう返事したのかを訊ねた。マヤは「迷っている」と正直に心境を打ち明けたそうである。おそらくユリエはその返事に不安を覚えたのだろう。その結果、マヤはメンバーから外されたわけだ。
 翌日、舜一のパソコンにマヤからの返信メールがはいっていた。それを見て、まずマヤが生きていたことにほっとしたが、その文面から意外な感を受けた。メールは、舜一から必ず連絡が来るはずだと思っていたという文章ではじまっていて、その理由として、舜一が集団自殺を決行していないことを確信していたと書き添えてあった。しかも、まるで舜一が計画から離脱したことを知っていたかのような書きぶりだった。
実は舜一が心中計画から離脱した理由は六月八日の深夜にマヤから送られてきたメールにある。そこには、「一人で先に逝かないで。あたしと一緒に死んで」と記されていた。その言葉に揺さぶられた。この娘はぼくと一緒でなければ、本望を遂げることができないのかもしれない。しかし、舜一はマヤに返信しなかった。自分の翻心をマヤに告げることをなぜか恥じた。舜一の心の奥底には、マヤのメッセージをユリエの計画から離脱する理由に利用しているだけかもしれないという思いが蟠っていたからである。
 舜一は夜の七時過ぎにマヤの携帯に電話をかけた。マヤは建設会社で事務員をしている。仕事が終わっている時間を見計らったつもりだ。番号表示で舜一からだと分かったのだろう、舜一が話しかける前に、「シュンさん、お久しぶり」という声が響いてきた。いままで聞いたことのない弾んだ声である。舜一が会いたいと言うと、マヤも是非知らせたいことがあると応じてきた。



 二日後の日曜日に、二人は新宿アルタの前で待ち合わせた。梅雨の合間の晴天に恵まれた一日だった。マヤのファッションはタンクトップに薄いピンクのロングスカートというものだった。スカートには細かい襞がついていて、裾にはバラのデザインがあしらわれている。二人はエレベーターで五階に上がり、イタリアンレストランにはいった。
 昼食時間帯は過ぎているが、店内は混んでいた。空席待ちの客が一組いた。舜一たちも椅子に腰かけ、順番を経つことにした。テーブルにつくことができたのは十五分以上経ってからである。
 テーブルにつき舜一の顔を正面から見ると、マヤは笑みを浮かべた。回りに坐っている女性客と比較しても、マヤの顔立ちはかわいらしいものである。舜一は誇らしい気持になった。ただ顔色はさえない感じがする。舜一はコーヒー、マヤはオレンジジュースを注文した。マヤは頬杖をついて、世間話みたいに切り出した。
「シュンさん、死にたいという気持がなくなったわけじゃないのよね」
「今回もチャンスを逃してしまったけど、今度こそと思っている」
「でも、あたしにとっては嬉しい。シュンさんと一緒に逝くチャンスが残ったということだもの」
 そのときウエイトレスがオーダーを運んできた。舜一はブラックで飲みはじめた。マヤはストローに口をつけたまま、舜一の顔に視線をじっと注いでいる。しかし、瞳の光がちらちらと揺れているように見える。マヤのメールの文面や自分を見つめる眼差しに、自殺同行者という思いとは別の感情が籠められているのではと、変に勘ぐってしまうことがある。いまもマヤの表情から何を読みとるべきか分からなくなり、舜一はカップにミルクをたっぷり入れて、スプーンで掻き回した。茶と白の渦巻き模様が崩れるまで、カップを見ていた。
「今回の計画についてニュースとか見た?」
 マヤは首を振った。
「ミツヨシという五十代の男の人の代わりに、二十八歳のサラリーマンが亡くなっているんだ。何か心当たりのことはないかい」
「そうだったの。そんなことになっていたとは知らなかったけれども、あたしがシュンさんに伝えたいと思っていた情報も偶然ミツヨシさんに関することなの。実はね、あたし、あのおじさんを見かけたの」
「どこで?」
「今月の初め、仕事が終わって家に帰る途中、乗り換えバスの時間待ちでH駅近くの喫茶店にはいったら、そこにいたのよ、あのおじさんが。カラオケボックスでは深刻な顔をしていたのに、元気な様子だった。相手の人と楽しそうにしゃべっていた」
 マヤは東京西郊に住んでいる。JR中央線で通勤していて、最寄り駅のH駅までバスを使っている。
「ミツヨシさんはその周辺に住んでいるのかな。どんな話をしていた?」
「おじさんに気づかれたら嫌だったので、離れたテーブルについたの。だから、何を話していたのか分からない。でも、思い詰めた表情ではなかった」
「正確には何日のこと?」
「今月の第一木曜日だったから……」
 と言って、マヤは携帯電話でカレンダーを表示させようとした。
「第一木曜日といったら、三日だね。その時点では決行日がすでに決定されていた。それで、精神的にふっきれていたのかな。喫茶店はどこ?」
「JR駅と甲州街道に挟まれた辺り。昔風の建物だったわ」
 舜一は学生時代にその街で一年間アパート暮らしをしていた。H駅界隈の様子が眼に浮かんだ。
「名前は覚えている?行ってみようと思うんだ」
「リューベックという名前だった。でも、あの店におじさんが来ているとはかぎらないわよ」
「とりあえず一度行ってみないと、場所が分からないからね」
「行くんだったら、あたしもー緒についていくよ」
「いや、ぼく一人の方がいいと思う。とりあえずH駅までは一緒に行こう」
 二人はそそくさと支払いを済ませると、レストランを出てJR新宿駅に向かった。発車寸前の特急電車に乗り込んだ。車中、マヤはなぜミツヨシさんにそんなに拘るのかと訊ねてきた。その問いは舜一自身が自らに何度か突き立てたものである。さまざまな答えが心に浮かんだ。そのなかで一番心に引っかかっているのは集団自殺の結末の不可解さである。それが舜一をミツヨシさんへと導いているのだ。
  H駅に着いたのは三時過ぎだった。二人はJR駅前から斜めに甲州街道に向かう通りを歩きはじめた。スーパーを過ぎたところで、マヤは左の仲小路にはいった。二つ目のブロックに喫茶店はあった。「リューベック」という看板が出ている。ドイツのハンザ都市の名前である。かつて街道筋にあった商家の一部を喫茶店に改造したような店構えだった。用件が終わったら携帯に電話をいれることにして、マヤと別れた。
 ドアを開けてはいった舜一の耳に、「いらっしゃい」という張りのある声が聞こえてきた。カウンターにいた声の主を見て、舜一は驚いた。相手も茫然として舜一を見つめている。ミツヨシさんだった。まさかいきなりミツヨシさんに対面することになるとは予想していなかった。
 ウエイターが奥のテーブルに案内しようとするのを断って、カウンターに坐った。舜一はオリジナルブレンドコーヒーを注文した。ミツヨシさんがサイフォンでコーヒーを落としている。舜一は店内を見回した。太い梁が天井で交差している。梁は煤で黒光りしている。壁にはいかにもヨーロッパらしい風景写真が飾られている。赤い煉瓦の大きな建物や教会、運河が写っている。リューベックの街並みなのだろう。
「こんな再会を何と表現すればいいんでしょうね」
 そう言いながら、ミツヨシさんはコーヒーカップをカウンターに置いた。舜一は一口啜った。深煎りの濃厚な味が舌を刺激した。
「いつ計画から抜けたんですか」
「決行日の前夜です。恥ずかしいことに、ぎっくり腰で身動きできなくなってしまったんです。ユリエさんにメールして、お詫びしました。私はユリエさんと分担して車を運転することになっていましたから、申し訳なくて。それにしても、私の店がどうして分かったんですか」
「本当に偶然です。たまたまこちらに来る用事があって、ふらっとはいったんです」
 ミツヨシさんは微笑を返してきた。舜一の言葉を素直に信じているふうにも見えるし、そんな説明になんか騙されないよと言っているようにも見える。
「ぼくは今回は脱落してしまいましたが、またチャンスを探しているんです。ミツヨシさんはこれからも機会があったら、参加するつもりですか」
「そうですね。自分から仲間を集める意志はないので、誰かの計画に参加するしか手はありません。気持的には切迫しているんですが、巡り合わせというものもありますしね。いまも毎日掲示板を漁っでいます」
「巡り合わせといえば、二十八歳のサラリーマンがユリエさんたちと一緒に亡くなっていますね。その人がメンバーとして参加する話は聞いていました?」
「ユリエさんから電話が来ていましたね」
「電話ですか」
 意外だった。たしかに緊急連絡用として、メンバーはユリエに携帯の電話番号を教えていた。しかし、ユリエからの連絡方法は基本的にメールだった。新規メンバーの連絡だから、緊急と言えなくもないけれども、舜一にはユリエらしくないように思えた。
「いつのことです?」
「六月十日の午前です。その日は店を臨時休業にしてまして、自分で淹れた最後のコーヒーを飲んでいたときに、電話が来ました」
「でもユリエさんはメンバーの増員をしないと言っていましたけどね」
「打ち合わせのときのこと?」
「いえ、だいぶ前にです。メールにそう書いていました」
「その時点では増員をしないと考えていたとしても、考え方が変わったということもあり得る。カラオケルームに来ていたマヤという娘さんがその後抜けたらしいですね。その娘やあなたの欠員補充といった意味で、ユリエさんはサラリーマンの参加を認めたのかもしれない」
「サラリーマンのハンドルネームはご存知ですか」
「私はユリエさんからサラリーマンが参加することになったと連絡を受けただけです。私自身は彼と直接メール交換していたわけではないから、彼のハンドルネームは知りようがありませんし、知る必要もない。あなた、まるで警察みたいですね。今回の事件に何か不審な点でもあるんですか」
「そういうわけではありません。偶然この店に立ち寄り、あなたにお会いしたので、つい話がこんな方面に展開してしまっただけです」
そのとき新しい客がはいってきた。ミツヨシさんはそれを潮にサイフォンの方に移動した。ミツヨシさんは注文も聞かないで、コーヒーを落としはじめた。常連らしいその客とカウンター越しに言葉を交わしている。時折笑い声があがった。息継ぎと一緒に吐きだすような笑い声だった。
舜一はコーヒーカップを口に運びながら、経過を振り返った。舜一がユリエに離脱の意志を伝えたのは九日の午後四時頃だった。ベッドから這い出てメールをチェックすると、マヤからのメールがはいっていた。発信は前日の深夜だった。「一人で先に逝かないで。あたしと一緒に死んで」という内容だった。それから二時間くらい思い悩んだ末に、ユリエにメールを送ったのだ。もっとも、二十八歳男が参加の申し込みをしたのはそのあとだとはかぎらない。それ以前からユリエはその男と連絡をとりあっていて、舜一がメールを送った頃には、参加者として決まっていた。けれども、脱落者である舜一にはそんな情報を伝える必要がないとユリエは考えたのかもしれない。増員の件についても、ミツヨシが言うように、二名も脱落者が出てしまい、その埋め合わせのようにサラリーマンが参加を志願してきていたとしたら、ユリエがメンバー補充を考えたとしても必ずしも不自然ではない。
客が次々とはいってきて、カウンター席もほとんど埋まってきた。舜一は立ち上がり、レジに向かった。ウエイターがレジに立っていた。ドアを開けるときにカウンターの方を振り返ると、ミツヨシさんはまだ常連客と話し続けていた。
舜一は通りに出た。店の奥に自宅部分があるようだ。玄関は建物の横についている。舜 一はそちらに回った。表札には大橋達司という名前が墨書されていた。ミツヨシというハンドルネームの由来は何なのだろう。引き返して由来を訊いてみたい誘惑に駆られた。それを断ち切って、舜一は何とはなしに甲州街道へと向かった。歩きながらマヤの携帯に電話をかけた。地下にでもはいっているのか、つながらなかった。甲州街道に出た。車が激しく行き交っている。舜一はどちらに行くか迷った。
久しぶりに訪れたこの街をゆっくり散策してみようと決めた。舜一は左手の方に歩きはじめた。このニ、三日何かを決断し、行動している。この一年間はそういう経験から遠ざかっていた。その間で意志決定したといったら、自殺計画くらいである。それとても、他人の計画に参加し、しかも最終的には決行できないということを繰り返している。そんな自分がある意図を持ってここまで遠出してきた。新鮮な感覚だった。
舜一は交差点を右に折れた。左右の家並みを眺めながら歩いた。前方に橋が見える。流れているのは浅川である。舜一が住んでいたアパートは橋の向こう側にあった。人づてに聞いた話では、アパートは数年前に取り壊されてしまったそうだ。舜一はもう一度マヤに電話した。つながらない。舜一は橋を渡らないで手前の川岸を歩きはじめた。川岸には遊歩道が整備されていて、両側は桜並木になっている。舜一はべンチに腰かけた。まだ陽は高い。
見上げた空に雲が浮かんでいる。舜一は榊原刑事の顔を思い出した。K警察署刑事課に電話すると、応対した女子職員はすぐ榊原刑事に取り次いでくれた。挨拶抜きに本題にはいった。ミツヨシというハンドルネームの男は大橋達司が本名であり、都下H市で喫茶店のオーナーをしていること、二十八歳男についてミツヨシはユリエから情報を得ていたことを伝えた。榊原刑事は相槌を打ちながら聞いていた。その件が榊原刑事の関心を惹くとは期待していなかったが、榊原刑事は関係者について調べると請け合ってくれた。最後に互いの連絡先を交換した。榊原刑事は携帯の電話番号とメールアドレスを教えてくれた。舜一はメルアドを教えるにとどめた。電話番号まで相手に知らせることに躊躇を覚えたのである。
電話を終え、舜一は川面を眺めた。流れは学生時代より澄んでいるように見える。遠くに山並みが霞んで見える。山並みの奥には滝山城址があるはずだ。ミカがチャットで語っていたのはこの風景だったのだろう。オフ会で自分が住んでいる街に話題が及んだときにも、ミカは川、山並み、城祉、大学について話した。それまでのチャットの会話で、ミカが住んでいるのは舜一が大学時代にアパート生活をした街と同じであると舜一は確信していた。しかし、個人的な部分に共通項ができることに怖れを覚えて、舜一はそのことを告白しなかったので、それ以上この街について話題が広がることはなかった。
ミカとの接点はミカが開設していたホームページである。ホームページのなかで、ミカはボランティアでカウンセラーをしていると自己紹介していて、自分と同世代の若者の自殺を少しでも防止することをホームページ開設の目的として掲げていた。
舜一は中学校の美術教師をしていた。大学時代は彫刻を専攻していて、美術展で何度か受賞したこともある。教師になってからも創作活動は続けていたが、創作意欲が先行するばかりで、思うような作品を生み出すことはできなかった。そんなとき舜一が担任していたクラスでいじめに端を発した高額の恐喝事件が起きた。マスコミの取材に対して、被害生徒の両親はクラスメートから執拗ないじめに遭っていたことと担任が頼りにならなかったことを訴え、学校側の責任を糾弾した。舜一は教育委員会から厳しく事情聴取を受けたり、興味本位のマスコミ報道にさらされるなかで精神の均衡を失い、抑鬱穆状態に陥った。自殺念慮が芽生え、その反面、何とかそこから脱出したいという気持からインターネットで情報を漁っていた。そんなときにミカのホームページに出会ったのである。舜一はホームページに設けられたチャットルームに参加した。二か月ほど経って、ミカから登録制のチャットルームへの参加を誘われた。一昨年の秋のことである。そのチャットルームのメンバーは六人だった。六人のうち四人が自殺願望を持っていた。四人が打ち明ける悩みに対して、ミカともう一人のメンバーがアドバイスするという形でチャットが進むことが多かった。
メンバーでオフ会を開いたことがある。時期は去年の正月とゴールデンウィーク明けだった。素顔のミカを初めて見た。ミカは長身で、人目を引くほど見事なスタイルだったが、顔立ちは十人並みだった。舜一の記憶に強く残っているメンバーはプロデューサーというハンドルネームの男である。
オフ会ではハンドルネームで呼び合うことにしていた。ところが,プロデューサーだけはメンバーに名刺を配り、自分の仕事を自慢げに話していた。営業でもあるまいしと、舜一はその様子を鼻白む思いで見ていた。ところが、舜一には鈴木だと名乗り、金融関係に勤めていると言っただけだった。名刺が切れてしまったと言い訳をしていたが、その言い方もきわめて素っ気ないものだった。
チャットでもプロデューサーとは意見が対立することが多かったので、それが影響しているのかと考えた。特にオフ会では、プロデューサーは自分の心を支配している自殺念慮をエキセントリックにミカにぶつけていた。傍で聞いていても辟易するほどだった。舜一はあまり自分語りをしないタイプなので、プロデューサーに反感を抱いた。しかし、ミカはプロデューサーの話に耳を傾け、冷静にアドバイスしていた。プロデューサーのことを除けば、オフ会は楽しいとまでは言えないにしても、気持を多少でも奮い立たせてくれる効果はあった。最後にミカは携帯で記念写真を撮った。後日、ミカはメールに添付して写真を送ってくれたはずである。
プロデューサーは二回目のオフ会に出席しなかった。そのときプロデューサーのことが話題になった。ある女性メンバーが一回目のオフ会でプロデューサーからメールアドレスを強引に聞き出され、その後集団自殺に誘われていると打ち明けた。すると、もう一人の女性メンバーが自分もだと告白した。たまたまミカと隣り合ったとき、ミカは舜一に愚痴をこぼした。プロデューサーはミカに対してまでも同じ行動をとっていたのだ。そして、ミカはプロデューサーの自殺願望が嘘っぽいとまで言った。チャットでもそれとなく感じていたのだが、前回のオフ会で直接耳にしたプロデューサーの言葉には気持がこもっていなくて、その感をさらに強くしたというのだ。舜一は驚いた。自殺防止の活動をしでいるミカが自殺志願者に疑いの眼を向けるということがまず第一に意外であるし、それを自殺志願者である舜一に打ち明けるというのもミカらしくない。根拠を尋ねようとしたが、別のメンバーに相談を持ちかけられ、ミカは舜一から離れていった。
その頃、舜一の抑諺状態は悪化しつつあった。教師の仕事はすでに辞めていた。ミカからアドバイスを受けることすら苦痛を覚えるようになって、舜一は去年の夏にはチャットルームから抜けた。自殺念慮がますます強くなり、集団自殺へと気持が傾斜していたのである。ミカのホームページを開くこともなくなった。ミカ自身のこともすっかり忘れていて、今日この街に来なければ、思い出すこともなかったかもしれない。
舜一は七時近くの電車で新宿に戻った。自宅に着いたのは八時半を回っていた。母親が心配そうな顔で迎えてくれた。こんなに長時間外出するなんて絶えて久しいことなので、万が一のことが不安だったのだろう。
部屋で簡単な夕食を済ませた。それから机に向かいパソコンを立ち上げ、ミカのホームページを開こうとした。すでに閉鎖されているようだ。自殺防止のホームベージといっても、冷やかしで参加したり、チャット荒らしをする連中も多いので、運営は難しい面がある。ミカもそんな困難に直面したのだろうか。
マヤに電話した。ミツヨシさんと会った経過などを説明した。マヤーはふんふんと聞いているだけで、関心が薄れてしまったみたいだ。マヤは感情の起伏が大きいタイプなので、ミツヨシさんの店への同行を断られたことで気分を害したのもしれない。



榊原刑事からメールがはいったのは三日後だった。それによると、榊原刑事は高校生とユリエの実家を訪ねたそうである。会って詳しく説明したいと書き添えていた。刑事と対面することを考えると、気が重くなる。しかし、舜一は会うことにした。ただし、榊原刑事が一人で来ることを条件にした。
待ち合わせ場所に使ったのは自宅近くのファミリーレストランである。約束時間は午後二時にしていたが、舜一は十五分ほど遅れてしまった。店内は家族連れやカップルで賑わっていた。案内係のウェイトレスが近づいてきた。待ち合わせだと言うと、榊原があらかじめ頼んでいたらしく、「待ち合わせのお客様がいらっしゃってます」と言い、喫煙席の方に案内してくれた。
榊原刑事は立って舜一を迎えた。舜一よりも頭半分高い。年の頃は舜一と同じ三十代前半に見える。刑事らしからぬしゃれたスーツ姿だった。初対面の挨拶を交わし、舜一は腰をおろした。テーブルの上の灰皿には吸い殻が何本も並べられている。
榊原はすぐ用件にはいった。声を潜めているせいか、電話とは違った声音である。そもそも今回の調査は自分の一存で行っているものだと前置きしてから、二人の実家とミツヨシこと大橋達司の喫茶店を訪ねた様子を説明しはじめた。榊原は二人の本名を明かさずにハンドルネームを使った。
サファリは県内でも有数の進学校に通っていた。母親が会ってくれたが、取り付く島もなく、焼香さえ断られたほどだった。
ユリエの自宅は東京にほど近い千葉県H市にある。応対したのは母親と妹だった。ここでは室内に招じいれられ、焼香することができた。母親は、ユリエの行為が家庭内暴力からリストカット、自殺企図へとエスカレートし、ついに命を絶ってしまったことを問わず語りに打ち明けた。榊原はユリエのパノコンや携帯電話に保存されている情報の提供について頼んだ。それに対して、妹がユリエはすべての情報を消去していたと間髪いれずに答えた。母親は俯いていた顔を上げ、娘の顔を見つめた。それから榊原の方に顔を向け、娘の説明に同意するように頷いた。
「私は妹さんの説明に疑問を持っています」
 説明を終え、榊原刑事はユリエの妹の応対に疑問を呈した。
「パソコンの情報などを消去したという説明のことですね。なぜですか」
「確たる根拠はないんです。あえて言えば、妹さんがそれを言った口調とそのときのお母さんの表情ですね」
「そうですね。ユリエさんの性格を考えてみると、彼女は自分の生の形を残そうとするタイプの女性のような気がします。妹さんがそう答えたのは刑事さんの訪問にびっくりした
からではないですか」
榊原は返事をしなかった。タバコを深く吸い込み、唇をすぼめて細く吐き出している。ユリエの母親と妹の言動を反芻しているようだった。
「大橋達司さんには会えましたか」
「彼を見ることはできました。彼の店、なんて言いましたっけ。えーと」
「リューベックです」
「そうそう、リューベックでした。ドイツの都市の名前をとっているそうですね。客としてはいりました。ちょっと違和感を感じましたね。ドアを開けた途端、カウンターのなかから笑い声が響いてきました。私は奥のテーブル席に坐って、彼の様子を観察しましたが、その後もカウンター席の客と談笑しながら、笑い声をたてていました。屈託がないというか、心底笑っているという感じでした。商売だから、辛気くさい顔はできないのかもしれないのでしょうが」
舜一はリューベックを訪れたときの様子を思い出した。あの日大橋達司は常連客と話をしながら時折笑い声をあげていたが、どこか虚ろな響きがあった。大橋はあのときとは異なる表情を浮かべ、異なる笑い声をたてていたのだろうか。
「彼が自殺を考えている人間だとはどうしても思えませんでした」
「それでは、何の先入観も持たずにぼくを見た場合、自殺願望を持っでいる人間に見えるんでしょうか」
榊原刑事は殺人事件を扱うこともあるだろうから、人の死というものに対して素人とは違う感覚を持っているだろう。だからといって、そう簡単に人間を決めつけないでほしい。そんな気持から舜一は言葉を荒らげてしまった。
「軽率な言い方をして申し訳ない。ただ私は、勘としか言いようがありませんが、刑事として彼に関心を惹かれました。それともうひとつ。回りの店、花屋さんとか酒屋きんに訪いてみましたが、大橋蓮司さんのぎっくり腰については初耳だとびっくりしてました。集団自殺が起きた日の前後にも、彼のそんな姿を見ていないし、ぎっくり腰が話題になったこともなかった。そんなことを言ってました。ただ事件の前後三日間は喫茶店を閉めていたようです。いずれにしても、この集団自殺はもう少し調べてみる価値があると思っています」
「あと二人調べなければならない関係者がいますね。M県の女子大生はともかくとして、二十八歳のサラリーマンについて、ぼくが遺族の方を伺うわけにはいかないでしょうか。刑事さんが行くよりも、ほくの方が遺族も心を開いてくれるような気がするんです」
「どんな立場で行くつもりですか」
「同窓生だとでも言います。あるいは正直に打ち明けてもいい」
「しかし、あなたに個人情報を教えることになるからなあ」
「同窓生だったら、住所くらい当然知っているわけです。また、正直に打ち明けたとしても、計画の参加者だったのですから、彼の住所とかを知っていたとしても、必ずしも不自然ではないですよね。遺族が情報の出所に疑問を抱くことはないでしょう。是非この役をほくにやらせてもらえませんか。実はぼくはこれまで三回集団自殺計画に参加し、すべて途中で脱落するという経験を持っているんです。このサラリーマンの方は、ぼくや大橋さんがおりなければ、参加しなかった可能性が大きい。いまも生きていたかもしれない。ぼくはこの方に何というか責任のようなものを感じるんです。そして、身勝手な考え方だと思われるかもしれませんが、ひょんな形で生き残ったぼくが彼らの死を辿ることによって、ぽく自身のべクトルの向きが変わるような気がするんです」
榊原はまだ長いタバコを灰皿で押しつぶし、新しいのを取りだし火をつけた。眼を瞑ったまま、時折煙を吐きだしている。考えを巡らせているのだろう。
榊原刑事は眼を開くと、ナプキンに何かを書きつけた。その上にコーヒー代を置いて、榊原は立ち上がった。
「今日のところはこれで失礼します。初めて電話してきたときとは、あなたの印象は随分変わりましたね。少し安心しました」
そう言い残して、榊原刑事は立ち去っていった。舜一はナプキンを取りあげた。そこには、鈴木茂樹という名前と都下M市の住所が記されていた。M市は小田急小田原線の沿線にある。
翌日午前中に舜一は家を出た。地下鉄を乗り継いで新宿に行き、地下街でラーメンを食べた。一時過ぎの電車で小田急線新宿駅を出発した。鈴木茂樹の自宅がある最寄り駅までは各駅停車で二十五分。駅から小さな商店街を抜けて、幹線道路を渡った。道路に面して学校があり、鈴木家はその裏手にあった。二階建ての一戸建てである。
 チャイムを押すと、五十代の女性が.ドアを開けた。舜一はどのように自己紹介するかいろいろと考えを巡らせてきた。その結果、まずは高校時代の同級生と名乗り、話の展開にあわせて焼香後に集団自殺のことを切り出すという作戦を立ててきた。
「渡会舜一といいます。高校二年のときの同級生です。鈴木君が亡くなったと友人から聞いて、焼香させていただきたいと思ってお伺いしました」
「M高校の同窓生の方ですか。わざわざご丁重にありがとうございますロどうぞおはいりください」
母親は疑うふうもなく舜一を招きいれた。母親に案内されて、舜一は廊下を奥に進んだ。四畳半の和室に仏壇が据えられていた。舜一はその前に坐り、遺影を見上げた。驚いた。そこに写っていたのはプロデューサーだったのである。動揺を押し隠して、舜一は香典を霊前に供え、香を手向けた。
 舜一は悔やみを母親に述べた。母親は深々と頭を下げた。
「お気遣いいただきまして、本当に申し訳ありません。いまコーヒーを淹れますから、どうぞこちらにお坐りください」
母親は部屋の中央に置かれた和テーブルを指し示し、立ち上がった。舜一は座布団に躯を移動させた。
 母親の姿が襖の向こう側に消えてから、舜一はもう一度眼を凝らして遺影を見た。間違いなくプロデューサーである。プロデューサーは屈託のない笑顔を浮かべている。その顔を眺めていると、ミカがプロデューサーについて語っていたことが思い出された。そんな物思いに耽っていると、襖が開いた。母親はテーブルの上にコーヒーカップとお茶うけを置き、舜一に勧めた。
「わたくしどもにとって、茂樹が亡くなるなんて予想だにしていないことでしたので、いまだに現実のことと受けとめることができないでいます。茂樹が自らの意志で命を絶つなんて考えられない。何らかの事故で集団自殺に巻き込まれたのでないかと思っています。そんなことを話しても、警察は聞く耳を持ってくれませんでしたけれども。よく逆縁ということを聞いていましたが、まさかそれが自分たちに降りかかるなんて考えてもおりませんでした。茂樹はあなたと親しくさせていただいたのですか」
「一年半ほど前に偶然会いまして、それから何度か飲みに行ったり、携帯で近況を伝えあったりしていました」
 用意していた嘘である。鈴木茂樹の人となりに近づくためには、自分と鈴木との間に近すぎずかつ遠すぎずといった程度の接点が必要だと考えたのである。母親は餌に食いついてきた。
「わたくしどもには、茂樹が自殺するような素振りも動機も思い当たらないんですの。職場の方々に伺っても、仕事上でトラブルを抱えていたわけでもなく、思い詰めた様子もなかったということでした。お友達も茂樹が自殺するなんて信じられないと異口同音におっしゃっています。渡会さん、会ったときに何か気づいたことなどはございませんでしたか」
母親の話しぶりは上品でゆったりとしたものである。時折ハンカチで涙を拭っている。鈴木茂樹は身近な人に自殺願望の本心を気取られないようにしていたわけだ。ただそれは鈴木にかぎったことではない。しかし、それでは肉親、特に親は納得することができない。自殺という結果が生じたからには、何か原因があるはずだ。親はそれを求める。
舜一は賭に出ることにした。事実の断片を織り交ぜながら、適当に脚色した物語を用意していたが、鈴木茂樹がプロデューサーだったことから、考えていた物語にヴァリエーションを加えて語った。
「お母さんに打ち明けなければならないことがあります。鈴木君と会ったというのは集団自殺のミーティングのときなんです。実はぼくはずっと自殺したいと考え続けていて、インターネットの掲示板に載る集団自殺の呼びかけに何度か応じたことがあります。そんななかで、ぼくと鈴木君は偶然同じ計画に参加していたんです。学校を卒業して十年ぶりの再会がこんな形になるなんてと、ぼくたちは二人ともびっくりしました。もちろん今回とは別の計画ですが」
母親は大きく眼を見開いて舜一の話を聞いていた。何かに縋るようにコーヒーカップを両の掌でしっかりと押し包んでいる。舜一の告白が終わると、母親は呻くような声を出した。
「茂樹は.何を悩んでいたのかしら。渡会さん、聞いていますか」
「先ほど言いましたように、ぼく自身まだ自殺への思いを断ち切れずにおります。鈴木君が亡くなったことについても、気持が混乱しでいます。何をどうお話ししていいのか、自分でもよく整理がついていません」
「信じられないわ。自殺の相談をしていながら、その一方で、普段と変わりなくわたしたち家族と快活に会話を交わしていたなんて。どう考えても、茂樹と自殺は結びつかない。ミーティングのときに茂樹はどんなことを言っていましたか」
 母親はそんな繰り言を繰り返していた。集団自殺から二通商経った。母親は息子の死を                       受けとめられないと言いながらも、否定しようのない現実とどこかで折り合いをつけていかなければならないと思いはじめているのだろう。その気持が痛いほど伝わってきた。それゆえに、舜一はいい加減なことを言えなくなった。
「日を改めて、またお伺いしますので、そのときにでもお話ししたいと思います。ところで、鈴木君のパソコンは確認されましたか。ぼくたちはメールで意思を伝達することが多いんです。そのなかに手がかりになるようなものがあるかもしれません」
「茂樹の遺品には、まだ手をつけていません。心の整理ができていなくて、とてもそんな気になれないんですの。ただ、いずれ茂樹の死を受け容れなければならないという覚悟はしております。そのためにも、なぜ茂樹が死を選んだのか、その心の動きを知りたいと思っています。あなたはそれを知っている唯一の方です。ぜひもう一度いらっしゃって、ミーティングの際の様子をお聞かせくださない。それと、余計なお節介かもしれませんけれど、ご両親にはわたくしどものような辛い思いをさせないように頑張ってくださいね」



 舜一は鈴木家を出て、駅に向かった。その途中にしゃれた感じの喫茶店があった。漆喰 塗りの外壁に蔦を這わせている。漆喰の白と蔦の緑のコントラストが眼に鮮やかである。舜一はその店にはいった。舜一にとって、他人と接するのは精神的なエネルギーを要することであり、混雑した電車に乗る前に休憩をとりたいと思ったのだ。
 外見の印象よりも広い店である。クラシック音楽が流れている。舜一は窓際のテーブルについた。榊原刑事の携帯の電話番号を押した。マナーモードになっている。舜一は店内を眺めた。そこここに鉢植えの観葉植物が葉を伸ばしている、壁には棚が設置されていて手工芸品が並べられている。出品者名と価格を書いたプレートがついている。展示販売をしているのだろう。二階がロフト風になっていて、ドラムセットが見える。
 マイルドな味わいのコーヒーを飲みながら、舜一はプロデューサーの母親との会話を思い起こしていた。鈴木茂樹がプロデューサーだったという偶然が引き起こした動揺がまだ続いている。ミカが主催したオフ会で、プロデューサーは自殺念慮を訴え、集団自殺するんだと決意表明めいたことまで口走っていた。そこまで死にたいと熱望しているのなら、一人で死ねばいいんだと舜一は内心毒づいていた。同じ自殺志願者にさえ鼻白む思いをさせるプロデューサーの言動だった。ところが、自宅では、プロデューサーは別の顔を見せていたらしい。少なくとも母親は息子が自殺するなんて微塵も懸念していなかった。会社関係者や友人も、母親が聞いているかぎり、そんな兆候を感じた人物はいなかった。プロデューサーは自分の本心を周囲に隠し通していたということか。そこまで演技できるものだろうか。
 もう一度電話した。今度もつながらなかった。舜一は再びプロデューサーや母親のこと を考えはじめた。舜一の思考の流れは子供の甲高い声で断ち切られた。母親が子供を叱っている。二組の子供連れの若い母親が店にはいっていたのだ。棚の手工芸品を眺めて、かしましく品評している。ひととおり見終わってから、ひとつ離れたテーブルに坐った。それからは共通の知り合いの噂話をはじめた。舜一は店を出た。
  自宅に帰ったのは夕食時間だった。ビールを飲んでいた父親が驚いた顔をして舜一を見上げた。母親が「ここで食べる」と訊いてきた。舜一は返事をしないで二階に上がった。ベッドに寝転がり、DVDで映画を見た。いつの聞にか寝入ってしまった。眼が覚めたのは十一時過ぎである。
 マヤにはメールをいれることにした。いきなり電話をかけて、精神状態のよくないときにぶつかると、用件にはいれないからだ。この前電話をしてから、局面は大きく展開したので、報告することがたくさんある。榊原刑事の調査結果や鈴木茂樹の実家を訪ねた経過、そして鈴木茂樹とはチャット仲間だったことを書き綴った。
 返信メールが来たのはそれから三時間後だった。舜一が送ったものよりも長文のメールである。
最近の心境の吐露からメールははじまっている。書きぶりからすると、マヤは精神的に安定しているらしい。と言って、自殺願望がなくなっているわけではなく、舜一と一緒に死にたいというメッセージを書き添えることを忘れていない。
「さて、本題です。シュンさん、超ビックリだね。そんな偶然ってあり。でも、プロデューサーというハンドルネームについては、あたしにも思い当たることがあるの。同じハンドルネームの男性が掲示板に心中相手募集の書き込みをしていた。内容は忘れてしまったけれども、表現がすごく刺激的でつい誘い込まれてしまいそうになった。でも、あまりにも上手すぎて、ちょっとウソっぽいかなと思って、舜一さんには送らなかった」
 マヤは不眠に悩んでいると打ち明けたことがある。どうしているのかと訊ねたら、集団自殺の呼びかけをネット掲示板で渡り歩いて眠れない夜をやり過ごしているという返事だった。そのなかでこれはというのがあると、舜一にメールを送ってきて、参加を誘ってきた。マヤの連択の基準は概して情緒的である。マヤが転送してきた呼びかけ文のなかには、いたずらではないかと疑わざるを得ないものがかなりあった。
「そのハンドルネームの人はいくつもの掲示板で集団自殺を呼びかけていたわ。場所や決行日は違うし、表現もヴァリエーションがあったけど、同一人物が書いたものにほぼ間違いないとあたしは思っています。
 それから何か月も経ってから、掲示板にプロデューサーを非難するカキコがありました。そのカキコは保存しているので、今日改めて見直してみたの。その人はプロデューサーがごく親しい仲間内ではネット心中プロデューサーを自称していると書いていた。さらに、彼は集団自殺を呼びかけ、参加者が集まると、中心的に計画を進め、いざ実行という直前にまことしやかな理由で計画から抜ける。彼の老獪なところは、計画を実行させるために、自分が抜けたあとを代行できる人物をちゃんと割り当てていることである。もちろんいつも成功するわけではない。でもいままで二回成功している。一回は去年十一月上旬に群馬県の山中で起きたもの、もう一回は今年二月中旬に静岡県H市のアパートで発生したものである。
ここまで具体的に書き込んでプロデューサーを非難していたの。もちろん事実かどうかは定かでない。プロデューサーに近い立場にいた人物が正義感に駆られてカキコしたかもしれないし、もしかするとこの書き込み自体がいたずらかもしれないわ」
 もしマヤが指摘しているプロデューサーなるハンドルネームの人物が鈴木茂樹と同一人物だったとしたら、貴重な情報であり、興味を掻きたてられる内容である。
 その夜はマヤに付き合う形でメールを交換し続けた。マヤは徐々に気持が高揚してきたらしく、ハイテンションの言葉を書き連ねてきた。空が白々と明けはじめる頃、舜一はやっとベッドにはいった。
 眠りは浅かった。起きたのは九時である。断続的に夢を見ていたような記憶がある。ベッドから榊原刑卓の携帯に電話をかけた。二回目のコールで榊原は電話にでた。舜一はまず鈴木茂樹とのかつての関わり、母親とのやりとり、そしてマヤのメールの内容を伝えた。「そんなに落差があるものなのですか」
舜一の説明が終わってから、榊原はプロデューサーが見せていた自殺志願者という顔と健全な社会人という顔との二面性についで質問してきた。
「彼の場合にはちょつと極端だと思います。オフ会のときの彼の言動から考えますと、あれだけ強い自殺願望を持っていれば、何らかの形で周囲にSOSを出すんじゃないかと思います。具体的な形としては、抑鬱症状だったりリストカットだったりとさまざまでしょうけど」
「少なくとも家族は自殺の兆候を受信することはできなかった。メールやチャットを調べれば、彼の心の動きが明らかになるかもしれない。あるいは日記や手帳類に書いていることも考えられる」
「気持の整理がついていなくて、母親自身もパソコンをまだ見ていないようです」
「鈴木茂樹さんについてはもう少し調べる必要があるかもしれません。実は、彼の自家用車が六月十二日に多摩地方のスーパーの駐車場で発見されています。彼は十一日の昼過ぎに自宅を出ていることが判明しています。彼の自宅のあるM市、待ち合わせ場所だった東北本線U駅、他のメンバーの住所との関係をどう考えてみても、この駐車場の位置は合理的に結びつかないんです」
「そもそもこれから集団自殺の待ち合わせ場所に向かおうという人間が車を使うとは考えにくいことです」
「おっしゃるとおりです。私の方でも近いうちに鈴木茂樹さんの実家を訪ねてみるつもりです」
 舜一は母親の反応を想像していた。母親は息子の自殺を信じられずに、事故に巻を込まれたのではと言っていた。しかし、それを刑事の口から、しかも他殺の線もあり得るなどとほのめかされたら、母親はどんな表情を浮かべるだろうか。激しく否定するに違いない。そんな.舜一の物思いをよそに、榊原刑事はマヤのメールに登場するプロデューサーの話題に移っていた。榊原はプロデューサーにかなり関心を惹かれたようである。
榊原刑事との電話は三十分以上かかった。集団自殺の仲間以外の人とこんなに長時間電話するのは久しぶりである。さすがに疲れた。CDを聞きながらベッドのなかでうだうだと過ごしているうちに、寝てしまった。午後三時過ぎに眼が覚め、階下におりた。誰もい なかった。食卓テーブルには食事の用意がしてあった。舜一はそそくさと食事を済ませ、庭に出た。バードテーブルで名前も知らない野鳥が餌をついばんでいる。灌木がピンクの花をつけている。舜一は折り畳み椅子に坐った。花の香りが舜一の喚覚を刺激してきた。
 庭に面した道路を近所の人が時折歩いていく。二軒奥の主婦がゴールデンレトルリバーに引きずられるように小走りで立ち去っていった。舜一はその後ろ姿を見送りながら、榊原刑事とのやりとりを思い返していた。
 その後しばらく舜一は精神的に失調して、ほとんど部屋に閉じこもる日々が続いた。インターネットでネットサーフィンをしたり、チャットをしたりして時間を過ごした。しかし、それすら辛くて、ベッドに横になり天井を眺めることしかできないときもあった。やや気持が上向き加減になりはじめたとき、榊原刑事からメールがはいった。翌週の木曜日 だった。こちらから電話をかけた。榊原はいつもよりもさらにハイトーンで話しはじめ、大橋達司について新しい事実が判明したと伝えてきた。二人は会うことにした。遠出するのは嫌なので、前回と同じく自宅近くのファミリーレストランを待ち合わせ場所にした。時間は午後九時である。
 舜一は夕食を済ませ、八時前に家を出た。地下鉄駅、駅前のスーパー、本屋という迂回コースをとってファミレスに向かった。それでも待ち合わせ時間まで三十分以上あった。舜一は窓際のテーブルに坐った。少し離れたテーブルで、高校生のグループが声高に話している。それ以外のテーブルはほとんど空いている。舜一は時折歩道を歩いていく通行人を眺めたり、高校生の話をぼんやりと聞いて、時間を潰していた。榊原刑事がセカンドバッグを小脇に抱えて歩道を歩いてきた。榊原は窓から外を見ていた舜一に気づき、軽く会釈をしてドアの方に回り込んでいった。
 榊原刑事は挨拶をしてソファに膜をおろし、タバコに手をつけた。一息いれるように二、三服してから、用件を切り出した。
「大橋達司には三佳という一人娘がいたんですが、去年の十一月上旬に集団自殺しています。場所は群馬県の奥にM温泉がありますが、その近くの山道でした」
「その事件はマヤというぼくの知り合いからのメールで指摘されていた集団自殺事件のひとつと一致しますね。だからといって、プロデューサーなる人物を非難した書き込みの内容が信憑性のあるものかどうかは疑問ですけれども。それよりも、大橋達司さんの娘さんの名前に関心が惹かれます。偶然の一致だと思いますが、ぼくがかってチャットに参加していた自殺防止のホームページを主宰していたのがミカという女性でした」
「その女性の名前はどのような字を書くのですか」
「ミカさんはホームページのプロフィールでもチャットでも名前をカタカナで表記していました」
「だとすると、確認のしようがないわけですか。大橋達司さんの娘さんは数字の三に、人偏に土二つの佳という字を書きます。三佳という幸はミツヨシとも読めます。大橋さんのハンドルネームは自殺した娘さんに由来しているのではないかと私は考えています」
「そうですね。ぼくもミツヨシというハンドルネームの由来に疑問を持っていました。彼の名前と全然関連性のないハンドルネームですから。彼が集団自殺へと気持を傾斜させていった理由のひとつは娘さんの死にあるのかもしれません」
「大橋さんは不幸な人でしてね、奥さんも十年ほど前に癌で亡くなっているんです。そのうえ一人娘が自殺し、いまでは独りぼっちです」
 榊原刑事はセカンドバッグから書類をとりだし、テーブルに置いた。榊原の視線に促されて、舜一は書類を手にとった。最初の書類には集団自殺事件の概要が記されていた。自殺者の名前もあり、そのなかで大橋三佳の名前が舜一の眼を惹いた。次の書類には自殺者三人の顔写真が並んでいて、その下に名前が書かれている。それによると、中央の女性が大橋三佳である。舜一はその顔を見つめた。白黒コピーの写真は黒っぽくなりすぎていて、ミカかどうか判断がつかなかった。
 その下に、三枚のペーパーがホッチキスでとめられていた。女性メンバー二人がやりとりしたメールを記録したものである。したがって、片方は大橋三佳ということになる。
 メールは集団自殺の打ち合わせとは関係なく、一人が悩みを打ち明け、もう一人がその相談に乗るといった内容になっている。後者のメールには、「あなたがおっしゃることは もっともだと思います。ただ。わたしが思うに、……」とか、「あなたにとって最善の結論が導き出せるように、もう一度一緒によく考えてみましょう。わたしもできるだけお手伝いします」というくだりが何か所かあった。懐かしい言い回しである。この言葉遣いはミカがホームページの悩み事相談コーナーやチャットルームでよく使っていた。
「大橋三佳さんの経歴は分かりますか」
「彼女は障害児施設に勤めていて、ボランティアでカウンセリングをしていたそうです。ですから、このメール交換でアドバイスしているのが彼女だと思われます」
「ぼくが知っているミカさんもカウンセリングのボランティア活動をしていると言ってました。その点は一致します」
「彼女の職業は?」
「たしかOLというような言い方をしていたと記憶しています。それよりも、ミカさんもホームページやチャットルームで同じ表現を使っていました」
 そう言って、舜一はメールの該当部分にアンダーラインを引いた。
「つまり、あなたはミカさんの本名は大橋三佳だと考えているんですね。しかし、この表現にはそんなに特徴があるとは思えません。カウンセラーって、このような言い方をすることが多いんじゃないですか」
「ぼくは限定されたメンバーで構成されたチャットルームに参加していました。このメール交換を見ていると、チャットルームでのミカさんの発言を思い出してしまいます。この言葉遣いだけというのでなく、文章全体の呼吸といったものが似ているんです」
 榊原刑事は短くなったタバコを灰皿で消して、ペーパーを手にとった。じっと見つめている。
「あなたの推測が正しいかどうかは、大橋三佳さんの写真を入手すれば明らかになることです。ただ、それが証明されたとしても、あまり意味がないと思います。あなたは大橋達司さんが鈴木茂樹さんの死に関与していると考えているんでしょうが、それを証明するのは難しそうです。今晩のところはこれで失礼します。署に戻らなければならないんです。そうそう、忘れるところだった。電話番号を教えていただけませんか」
 舜一は携帯の番号を伝えた。榊原はそれを手帳にメモすると、レシートを手にレジに向かっていった。灰皿のなかでタバコがくすぶっている。さっき榊原は長いままのタバコを灰皿の縁に押し当てていたが、消えきっていなかったのだろう。舜一は灰皿にコップの水を注いだ。タバコはじゅっと音を立てて消えた。
 榊原刑事に指摘されるまでもなく、舜一の推理はいくつもの薄弱な仮説の上に成り立っている。その骨格はプロデューサーが何らかの形でミカを集団自殺へと誘導していったというものである。そして、大橋達司が娘の自殺にプロデューサーが影を落としていることを知り、彼に対して殺意を抱いた。さらに、大橋はプロデューサーを特定することができたということを前提にしている。ただその手がかりになるものはあったと言える。プロデューサーこと鈴木茂樹が渡していた名刺である。大橋はプロデューサーが勤めていた会社にアプローチし、同僚などに探りをいれるとともに、鈴木茂樹の住所を知った。そして、大橋は自宅周辺で何らかの形で接近を試みた。これが舜一の仮説である。
 やはり鈴木家を訪ねるしかない。鈴木茂樹が自分の意志でユリエたちと死をともにしたのでなく、他人の強制的な意志により死へと赴かざるを得なかったのでないかという疑いはいまだに消えない。



 その後の数日を舜一は悶々として過ごした。携帯電話を手にとり、鈴木家の電話番号を押そうとして、押せずに携帯を閉じる、そんなことを何度か繰り返した。この一か月間、いままでの舜一からは想像できないほど行動的に過ごしてきた。しかし、事態を決定的なものにする行動を自ら起こすには、まだ精神状態が安定していない。
 そんな舜一の逡巡を見透かしたかのように、鈴木茂樹の母親から電話がかかってきた。見てほしいものがあるので、来てもらえないかという依頼だった。
 翌日昼過ぎに、舜一は小田急線で新宿駅を発った。特急電車に乗ってしまったので、ひとつ手前の特急停車駅で各駅停車の電車に乗り換えた。駅の近くの店で供物を買い、鈴木家に着いたのは午後二時半近かった。
 まず仏壇に向かい、焼香し、供物を供えた。それから居間に案内された。十畳ほどの広さであり、応接セットと大型の液晶テレビがスペースの大部分を占領している。
 母親はコーヒーを出して、舜一に対面して坐ると、その後の心境を語りはじめた。母親も徐々に気持が落ち着いてきているらしい。これまでは息子の部屋にはいっても泣くばかりで、部屋のものにはまったく手をつけずにいた。しかし、いつまでも乱雑なままにしておけないので、ここ数日、部屋の掃除や整理にとりかかっている。そんな話をしてから、母親は改まった表情で本題に移った。
「わたくしもやっと、茂樹がなぜ死を選んだのかを自分なりに見つめようという気持になってきました。いまどきの人ですから、日記をつけているわけでなし、手帳にも仕事のことしか書いておりません。それでパソコンなどを調べました。CDが保管されてまして、その大半は音楽CDでしたが、写真やデータを納めたものもありました。そのなかに横文字のタイトルのCDがありました。中身はメールの送受信記録になっておりまして、それをプリントしたのがこれですの。わたくしはこのようなメール交換をした茂樹の気持を汲み取ってもらえる方に読んでいただきたいと思いました。職場の方やお友達はどなたも茂樹の自殺願望に気づいていなかったわけですから、分かってもらえそうにない。それで、ご迷惑かとも思いましたが、あなたにご足労をお願いしましたの」
 母親はセンターテーブルの引き出しからA4サイズの用紙をとりだした。それはクリップでとめられていて、二十数枚に及びそうである。一枚目にタイトルが飾り文字で掲げられている。
「このタイトルはどんな意味か分かりますか」
 母親はGeheimhnisというタイトルを指さして訊ねてきた。
「ドイツ語で秘密という意味です」
 こんなところで学生時代の第二外国語の記憶が役に立つとは息っていなかった。
「つまり茂樹がこのCDのなかに自分の心の秘密を隠していたということなのね」
「ぼくもそうですが、たとえ家族にだって、死にたいと考えている本心をさらけ出すことはなかなかできないことなんです。ましてや自殺計画となると、なおさらです」
 そんな受け答えせしながら、舜一は全体を走り読みした。内容は二件の集団自殺に関するメールである。いずれも鈴木茂樹がプロデューサーというハンドルネームで掲示板に心中相手募集を呼びかけるところからはじまっていて、決行間近までのやりとりが記録されている。決行の日時、場所から判断して、マヤが指摘していた二件の集団自殺事件と一致する。そして、一件目の自殺募集においてミカというハンドルネームが登場している。
 呼びかけに応じてきた男女のなかには、計画が具体化していくとともに逡巡する者も出てくる。プロデューサーはそんなメンバーを計画から離れないように誘導している。といって、むやみにメンバーの数を増やすつもりもないらしく、両計画とも最終的にはプロデューサーを含めて四人に絞られていた。男女二人ずつの構成である。
 舜一は一件目をじっくり読み返し、プロデューサーとミカとのやりとりを中心に見た。ミカが勤めていた障害児施設で深夜に入所児童が怪我をする事故が起きた。ちょうどミカは夜勤に当たっていた。原因は夜勤職員間の連携のまずさにあったのだが、内部調査はミヵの責任が浮き彫りになる形で決着した。その事故は経営者まで巻き込む事態に発展し、ミカは退職を余儀なくされた。生き甲斐を持って取り組んでいた障害者福祉の道を閉ざされ、また、怪我をさせた障害児本人への負い目もあり、ミカは精神的なバランスを失っていった。そのアンバランスからミカは自殺願望へと傾斜していった。
 ミカはこうした経過や心理の動きをまとまった形で語っているわけでないが、舜一は十数回にわたる二人のやりとりのなかからミカの心情を読みとることができた。そのプロセスのなかで、プロデューサーはミカを言葉巧みに自分の計画へと引き寄せていったのだ。
 その一方で、プロデューサーは男性メンバーをおだてて共同リーダーといった役回りを割り振り、自分が最終段階で離脱しても計画が遂行される手筈を整えていた。マヤからの事前情報がなければ、プロデューサーのそうした秘められた意図を見破ることはできなかっただろう。
二件目も最後まで読み通した。二件ともプロデューサーが離脱する部分は記録されていない。しかし、プロデューサーがネット心中を企画し、実現に向けてそれを押し進め、決行寸前に自分だけするりと抜けて、残りのメンバーを死に赴かせたことは間違いないと言える。
 読み終えでも、舜一にはなお疑問が残った。オフ会のときにミカはプロデューサーの自殺念慮がウソっぽいと言っていた。つまりプロデューサーの本質を見抜いていたのである。それなのになぜミカはプロデューサーの術中にはまってしまったのだろうか。その疑問を解く鍵はミカが自殺防止のホームページを開設していて、カウンセリングをしていたことにあるように思えた。ミカはかって自殺願望者にアドバイスをする立場にいたが、そうであるがゆえに自殺には親和性が高かったのだ。ミカは自らの悩みに直面して、偶然、プロデューサーが書き込んだ自殺募集を見つけ、返信した。メールのやりとりのなかで、ミカは悩みを打ち明け、プロデューサーはそれに応じるふりをしながら、ミカを集団自殺へと誘導していったのだ。
 鈴木茂樹がネット心中をプロデュースしたのはこの二件に限らないはずだ。おそらく成功したケースの記録をCD-Rに保存して、コレクションにでもするつもりだったのだろう。
 母親はこれを読んで、どんな思いを抱いたのか。その心中を考えると、舜一は口を開くことができなかった。舜一はコーヒーカップに手を伸ばし、コーヒーを啜った。
「これを読んでも、茂樹が何に悩んでいたのかは分かりませんでした。相手の方の悩みには相談に乗っていたようですけれども、茂樹自身が自分の気持を吐露しておりませんので。でも、茂樹が集団自殺を呼びかけたことは疑いようがありません。わたくしは新聞を調べてみました。時期や場所から、ちょうどこの自殺計画に該当する事件が報道されていました。茂樹を除く三人の方が亡くなったと思われます。茂樹は他の方を誘っておきながら最後にやめてしまったんでしょうか」
母親の言葉は舜一の耳を通り抜けていった。あなたの息子さんは何も悩んでなんかいませんでした。鈴木茂樹という人間の正体は悩みに沈んでいる他人を集団自殺に引きずり込んで、自分はとんずらを決め込む卑劣漢、ある意味で犯罪者とも言える存在だったのです。舜一は母親の耳元でそう囁きたい誘惑に駆られた。
 しかし、舜一は自分の推測を母親に突きつけることができなかった。母親にしてみれば、息子が自殺願望を持っていたという事実を受けとめるだけで精一杯だったはずである。息子の本当の姿を知ったら、母親はとても平静ではいられないだろう。そもそも母親は息子の心の裡を探るよすがを求めて舜一に電話をかけてきたにちがいない。舜一には隠された意図があって母親の依頼に応じたのだが、母親の心を踏みにじるつもりはない。舜一は母親の気持を鎮めるような言葉を口にしていた。
「たしかにこのCD-Rに記録されているものだけでは、鈴木君が自殺を思い詰めたきっかけや動機は分かりません。でも、必ずしも最初からはっきりした自殺願望があって、心  中相手を募集したり、掲示板に書き込むとはかぎりません。何となく生きているのが辛い、生きていたくない、そんな気持から掲示板を覗き、軽い気持で書き込む。何度かやりとりしているうちに、メンバーの間に漂っている雰囲気に同調してしまう。そんな人って結構多いんです。その一方で、集団自殺計画ではメンバーは結構入れ替わりますし、自殺を思いとどまる人もおります。死にたいという気持と何とか生きていこうという気持が交錯した状態で、メールをやりとりすることもあります。ぼく自身がそうでした。ぼくは決行が近くなった段階で計画から離脱しています。それも三回も」
「茂樹もそうしてくれたらよかったのに」
 母親はハンカチを目頭に当てた。その姿は見て、退散しようかと舜一は思った。しかし、もうひとつ確かめたいことがあった。
「ここに記録されているのはいずれも古いもので、鈴木君が亡くなるきっかけとなった今回の計画とは直接関連がありません。今回の計画に関するメールはパソコンに保存されていたんでしょうか」
「アウトルックエクスプレスを見ましたが、それらしきメールはありませんでした」
「拝見させていただくわけにはいかないでしょうか」
 拒絶覚悟で頼んでみたところ、母親は承諾してくれた。母親に案内されて、舜一は鈴木茂樹の部屋にはいった。壁の白さが眼に飛び込んできた。殺風景な部屋である。壁にポスターの類が貼ってあるわけでなければ、本棚が壁を隠しているわけでもない。窓側にパソコンデスク、その反対側の壁際にベッドがあるだけだ。この部屋の設えは鈴木茂樹の心象風景を反映したものなのだろうか。オフ会での鈴木の言動が思い起こされた。
 母親はデスクに向かいパソコンを立ち上げた。受信メールの画面が出ている。母親は椅子を舜一に譲ってくれた。各月を十日ごとに分けてフォルダーが作成されているが、各フォルダーのなかはメールが時系列的に並んでいるだけである。六月九日に最後のメールを受信している。舜一は次々と開いていった。六月分と五月分を念入りに見た。ユリエからのメールは見当たらなかった。送信メールのフォルダーに移ったが、結果は同じだった。
ただ、鈴木茂樹は五月中に何回か心中計画に関するメールをやりとりしている。相変わらずネット心中のプロデュースを続けていたようだ。五月下旬には二人の女性らしきハンドルネームに対して送信していた。女性が自殺募集に応じてきたので、自殺計画の時期と場所を提案するためのものだった。ところが、二人の女性に対して別々の計画内容が示されている。その前後を見直したが、その自殺募集に関連するメールはそれ以外にはなかった。そのとき開け放しのドアから母親がはいってきた。舜一がメールを見ている最中に階下におりていたのである。母親はコーヒーカップをデスクの脇に置いた。
「ストレートに言えば、すごく不自然な印象を受けました。ぼくたちは打ち合わせをメールで行っていました。鈴木君が自殺計画へ参加するときも、ユリエさんへの意思表示の手段はメールしかありませんから、少なくともその送受信の記録が残っていなければならないと思います。その後の打ち合わせも電話を使うことは考えられません。ところが、亡くなる一か月間を見ましたが、いろいろな人とメール交換していて、それらのなかには心中相手募集関連のメールも残っています。それなのに、今回の自殺計画のメールだけ削除するというのはあり得ないように思えます」
 勢いで、鈴木茂樹の死には別の人間の意志が働いているかもしれないと口走りそうになったが、かろうじて飲み込んだ。
「携帯のメールは調べてみましたか」
「あなたがおっしゃったことはわたくしも疑問に思いまして、携帯電話もチェックしてみました。でも、パソコンと同じようにメール履歴自体は消されていないのに、今回の件に関するものはありませんでした。それと話は飛びますけれども、五月の下旬に五、六十代の男性が茂樹のことを近所のおばあちゃんに訊ねていたそうですの。おばあちゃんは先日お線香をあげにきてくださいました。子供の頃から茂樹を知っているので、四方山話になりまして、いまの話をしていました。おばあちゃんは茂樹に結婚話も出ていて、探偵が調査に来たんだろうと気にとめていなかったそうです」
 舜一は思わず大橋達司の姿を思い浮かべた。鈴木茂樹がネット心中プロデューサーだったことは間違いないだろう。そして、今回の集団自殺において、鈴木がユリエとメール交換した形跡は認められなかった。母親には言わなかったが、やはり鈴木は自らの意志でユリエたちと死をともにしたのではない。まさか鈴木家周辺にまで姿を現しているとは予想していなかったが、睨んでいたとおり、大橋達司がその死に大きな影を落としているようだ。オフ会での光景が舜一の脳裏に甦った。鈴木は舜一を除くメンバーに名刺を渡していた。その名刺にミカは会った日時やハンドルネームをメモしていたかもしれない。ミカは携帯でメンバーの写真を撮っていた。そして、大橋達司は娘が集団自殺という形で自ら死を選んだメール交換の内容を知った。名刺や写真を手がかりにたぐっていけば、大橋達司は鈴木茂樹の自宅へと辿ることができたはずである。その結末が今回の事件である。依然として謎として残るのは、大橋がいかにして鈴木を殺害し、集団自殺者の一人に仕立てあげたかかである。
 舜一には次に起こすべき行動が明確になった。舜一は母親に改めて慰めの言葉をかけてそそくさと鈴木家を出た。
 翌朝、父親が出勤してまもなく、舜一は駅に向かった。こんなに朝早く電車に乗るのは久しぶりである。行き先はH市である。新宿駅でJRに尭り換えて、九時二十五分にH駅に着いた。大橋達司に気取られないために、今日はラフな服装にサングラスといういでたちをしてきた。
 リューベックの前に人影はなかった。看板で確かめると、開店は午前十時である。窓から店内の様子が見える。ウエイターがカウンターのなかで準備している。舜一は急いで通り過ぎた。チェーン展開している安売りコーヒー店が斜向かいにあった。この前来たときには気がつかなかった。二階席があり、カウンターになっているみたいだ。客の姿はあまり見えない。舜一は店にはいった。エスプレッソコーヒーを手にして階段を上がった。カウンター席には十ほどの椅子が並んでいる。右端に若い女が坐っている。舜一は中央寄りの席をとった。ここだと喫茶店と奥の自宅の両方が見える。
 舜一は革ジャンからデジカメをとりだした。一発勝負になりそうなので、携帯の写真機能では心許ない。それで光学十倍ズーム機能を持っているこの薄型デジカメを持参してきたのである。舜一は連写機能をセットした。カウンター席の客には背中を向ける角度で坐り、できるだけ撮影している姿を見られないような姿勢をとった。コーヒーはあっという間に飲んでしまった。あとは大橋達司が現れるのを待つだけである。といってもその保証はない。腕時計の針は九時四十三分を指している。
 リューベックの前ではウエイターが入り口周辺を掃除している。そのとき奥の自宅の玄関が開いた。大橋達司だ。やや腑き加減に歩いている。アングルが悪い。舜一は舌打ちをした。
 ウエイターが大橋の方を向いた。挨拶をしているようだ。大橋も顔を上げた。舜一はその瞬間を逃さなかった。連写機能のシャッターを二回切った。大橋は喫茶店のなかに姿を消した。
 舜一は画像を再生した。ほぼ正面からのアングルで顔がとらえられている。距離があるので、やや小さいけれども、画像編集して印刷すれば、本人確認に十分たえられるものになるだろう。
 二日後に舜一は鈴木家に電話をかけた。母親は驚いたふうで舜一の来意を承諾した。舜一は午後の強い陽射しに照らされて馴染みになったコースを歩いた。
 玄関先で用を済ませようとしたが、母親が執拗に勧めるので、中にはいった。儀式のように線香を手向けてから、居間に戻った。コーヒーが用意されていた。コーヒーを一口啜ってから、舜一はセカンドバッグから写真を出して、無言でテーブルの上に置いた。母親は写真を手にとり、まじまじと見ている。
「先日、わたくしが言った五、六十代の男性がこの方だとおっしゃるんですか」
「おそらくそうだと思います。男性に鈴木君のことを訊ねられたと言っているおばあちゃんに確かめていただけますか」
「ちょっと待ってくださる」
 そう言って、母親は部屋を出ていった。十分ほどして戻ってきた母親は上気した顔をしていた。
「おばあちゃんの記憶では、この方に間違いないみたい。渡会さん、この方はどういう方なんですか」
「この人はぼくと鈴木君が出会った集団自殺のミーティングに出席していた人なんです。そのときに鈴木君とトラブルになりました。先日、街で偶然この人に会い、自殺しそこなったという話題になりました。彼の話から、彼が参加しようとしていたのは今回の集団自殺だったのではないかと思えたものですから」
「この方が茂樹の死に何か関係があるんですか」
「いいえ、そういうわけではないんですが」
 母親は奥歯に物が挟まったような舜一の物言いに戸惑った表情を浮かべている。舜一もそれ以上嘘に嘘を重ねることはできなかった。気まずい雰囲気が漂ってきた。二人ともテーブルの上に置きっぱなしになっている写真に視線を注いでいた。舜一ははっきりした別れの挨拶もできずに、鈴木家を退出した。



 帰宅し自室に落ち着いたとき、テレビがニュース番組を流していた。階下で両親が言い争っている声が聞こえる。仲のいい夫婦の部類にはいるだろうけれども、一月に一回くらい父親は癇癪を起こすことがある。舜一はテレビを消して、プレーヤーにCDをセットした。最近、舜一は女性ジャズバイオリニストのCDを聴くことが多い。バイオリンとピアノ、ドラムのトリオが奏でるスタンダードジャズの音色が部屋を浸した。
 舜一は鈴木茂樹の部屋の雰囲気を思い出した。そして、メールの送受信記録の内容をそれに重ね合わせた。あの殺風景な場所でネット心中をプロデュースするために、鈴木は掲示板に心中相手募集の書きき込みをして、その餌に食いついてきた自殺志願者とメールをやりとりしていたのだ。そのプロセスはCD-Rに記録されているとおりである。
 自分はさらに何か行動を起こすべきなのか、舜一は考えを巡らせた。大橋達司を告発することは鈴木茂樹の無念を晴らすことになる。しかし、鈴木はそれに値する人間だとは言えない。鈴木自身は自殺とは無縁の生活を送っていたらしい。気晴らしなのか悪意なのかは分からないけれども、鈴木はプロデューサーというハンドルネームを使い、自殺志願者の辛い気持を弄んできた。そして、マヤの情報によると、鈴木は友人にネット心中プロデューサーを自称していたようだ。許せない存在である。一方、大橋はその鈴木茂樹を集団自殺に見せかけて殺害した。しかし、その行為に至った理由には同情の余地がある。鈴木茂樹によって愛娘が死へと誘導されたのだ。妻も癌で失っていた大橋にとって、娘の死は決定的な喪失だったはずだ。そんな父親にとって、娘の仇をとることが妄執となっていたのかもしれない。大榛達司を非難すべきであるとすれば、大橋自身もまた自分の復讐心を満足させるために自殺志願者を利用したという点である。今回の集団自殺計画には舜一自身が参加する予定であっただけに、舜一は大橋の行為によって自分自身が侮辱されたと感じた。さまざまな事実が明らかになってくるにつれて、その思いはますます強くなってきた。これまでの経過から、母親は集団自殺による息子の死が不自然だという思いを抱いているはずである。そこで、舜一はフィクションを交えながら、鈴木茂樹の死に第三者が関与していた可能性があるということを母親の意識に擦り込もうとした。そのために、舜一は大橋達司の写真を見せるという冒険まで犯して、母親の疑念を強くする工作をした。しかし、翻って考えてみると、集団自殺は互いの存在を自分自身の死への道具と見なす共同行為である。舜一はこれまで何度も集団自殺計画に関与してきた。そんな自分が大橋達司を非難できるのだろうか。
 思案していると、大橋達司と鈴木茂樹の母親の顔が交互に浮かんできた。考えれば考えるほど、舜一は身動きができなくなってきた。そんな自縄自縛の状態が何日も続いた。一週間ほど経ったある日、榊原刑事から携帯に電話がはいった。榊原の説明によると、舜一が最後に訪れた日の三日後に鈴木茂樹の母親は息子の死について疑念があると、警察署に相談に行った。それを受けて、任意捜査に着手することになり、ユリエたちの遺族に対する事情聴取や大橋達司に関する周辺捜査を行う予定だと榊原は息せき切った口調で一気に捲したてると、念のために舜一からも事情を聞きたいと言った。
翌日、榊原刑事は二人連れで来訪し、舜一の当日の行動を訊ねてきた。六月十一日、舜一は神経科で診察を受け、夕食後は四、五時間にチャットを続けた。それを証明するために、舜一は病院の領収書を提示し、パソコンの交信記録を見せた。
 その後しばらく榊原からの連絡が途絶えた。捜査の進展につれて、大橋達司に対する疑いが濃厚になっていくだろう。もしかすると、いまごろは逮捕されているかもしれない。そんなことを思いながら、榊原からの電話を待っていた。その間に何度かマヤにメールを送った。しかし、マヤから返事が返ってくることはなかった。
 八月にはいった。やっと榊原刑事から電話が来た。沈んだ声である。
「われわれはユリエさんたちのパソコンや携帯など関係物件の捜査から着手しました。サファリさんとユーディットさんはそういった類の記録を一切消去していましたが、ユリエさんのパソコンにはメンバーとの送受信記録が保存されていました。やはりプロデューサーとのメールのやりとりはありませんでした。状況的にはきわめて不自然だと言わざるを得ません。われわれはいよいよ本丸の当日の行動などを周辺捜査で固めるんだと意気込んでいました。しかし、結末はあっけないものでした。大橋達司さんのアリバイが証明されたのです。六月十一日の夜、彼は四国の温泉にいました」
「しかし、大橋達司さんはぎっくり腰のために計画から離脱せざるを得なくなったとぼくに説明していたのに」
「あなたから離脱した理由を問われて、咄嗟に嘘をついたと言っていました。奥さんや娘さんに先立たれた厭世観から集団自殺のメンバーに加わりましたが、いざとなったら怖じ気づいたそうです。鈴木茂樹さんはユリエさんたちと集団自殺したというのがわれわれの結論です」
 それから榊原刑事は舜一の気持が沈み込まないようにと配慮してか、いろいろな話題で話をつないだ。舜一はその話に適当に相槌を打ちながら、パソコンを立ち上げ、メールをチェックした。三通受信していた。さらにもう一過、受信をはじめた。最初の一文が舜一の不安を掻きたてた。舜一はすぐさま電話を切った。

「シュンさん、さようなら。シュンさんと一緒に逝きたいとずっと願ってきましたが、あたしはこれから一人で死へと旅立ちます。あたしはいま草原に横たわり、空を見上げています。東京では見ることのできない満天の星です。
 死を前にして、あたしはシュンさんに告白しなければならないことがあります。プロデューサーこと鈴木茂樹はあたしが殺しました、集団自殺を装って。あたしはプロデューサーをどうしても許せなかったのです。
 シュンさんと出会う前に、あたしはプロデューサーの自殺相手募集の書き込みを掲示板で見つけました。心に染みる呼びかけでしたので、あたしは返信しました。何度かやりとりをして、打ち合わせのために会うことになりました。帰りはプロデューサーが車で送ってくれることになりました。ところが、プロデューサーは交通量の少ない間道へとコースをとり、あたしに襲いかかってきたのです。あたしは必死に抵抗しましたが、狭い車内で逃れることができませんでした。
『俺にとって、おまえたちみたいな死にたがってる女は格好の獲物だ。まったくおまえたち自殺志願者というのはどういう神経をしているんだろうね。何も疑わずにのこのこ会いに来るから、レイプされちゃうんだよ。おまえは俺のコレクションのなかではー一番いい女だったぜ。残り少ない人生だろうけど、掲示板の書き込みには気をつけるんだな。もっともレイプは俺にとってはサイドビジネスみたいなもんだがな。俺の本業はネット心中プロデューサーなんだ。おまえは俺のハンドルネームの由来を聞きたがっていたが、そういう意味だったんだよ』
 さらにプロデューサーはネット心中企画の手口や成功したケースを自慢げに話して、あたしをその場所に置き去りにしていきました。プロデューサーはあたしだけでなく、自殺志願者そのものを侮蔑したんです。悩み苦しんでいる自殺志願者を自分の身勝手な欲望の道具にする。許せないと思いました。それからは掲示板を見るのが怖くなりました。死にたいけれども、死ぬこともできない。そんなときにシュンさんと出会ったのです。でも、結局あたしはユリエさんの集団自殺計画からも外されてしまいました。
 それからまもなくして掲示板でプロデューサー名の書き込みを見つけました。返信フォームのメルアドは同じものでした。あたしはプロデューサーに復讐することを誓いました。まず、掲示板にプロデューサーを非難する書き込みをしました。(以前のメールで第三者がプロデューサー非難をしているような言い方をしましたが、あたし自身が脚色を交えて書き込んでいたのです。)さらに、メルアドを変更して、プロデューサーの呼びかけに応じました。そして、会うことにしました。その日は六月十一日です。偶然ではありません。あたしがその日を設定したのです。あたしはユーディットさんとメール交換を続けていたので、シュンさんが計画から抜けたことも、決行日や場所もすべて知っていました。メールだと記録が残りますので、プロデューサーとは電話で打ち合わせしました。でも、あたしは不安でした。その不安感から、あたしは六月八日にシュンさんにメールを送ってしまいました。
 六月十一日、あたしたちはレストランで会いました。あたしはゴシックコスプレ風のファッションでプロデューサーの眼を欺きました。プロデューサーの隙を盗んで、あたしはコーヒーに睡眠薬を混ぜました。プロデューサーが眠気を催してきたと言うので、あたしが代わりに運転することにしてレストランを出ました。助手席でプロデューサーは熟睡していました。あたしはあらかじめレンタカーをとめておいた駐車場に向かい、そこでプロデューサーをレンタカーに移し、時間を見計らってK市の自然公園へと車を走らせました。
 あたしの計画が成功するかどうかはある意味で賭でした。ワゴン車の目張りが万全な状態だったら、偽装は諦めなければならなかったのですから。そのときはあたしとプロデューサーで心中した形をとろうと思っていました。幸いに後部ドアがロックされていませんでした。運転席にユリエさん、二列目のシートにユーディットさん、三列目にサファリさんが横たわっていました。三人はすでに息絶えていました。あたしはレンタカーをワゴン車に横づけし、プロデューサーにもう一度睡眠薬を飲ませ、車内で練炭を燃やしました。最悪の場合にはあたしも死ぬ覚悟でしたので、心中アイテムはあらかじめ用意していたのです。プロデューサーが死んだのを確かめて、死体をワゴン車に移しました。
シュンさん、あたしは人を殺してしまいました。あたしはシュンさんと一緒に逝くことをずっと願っていましたが、改めて自分を振り返ってみると、あたしにはそんな資格がないことが分かりました。ですから、ここ十日間ほど何度かシュンさんからメールをもらいましたが、返信しなかったのです。
 こんなあたしに最後のお願いを許してくれますか。シュンさん、どうか生きることを選択してください。そして、喜多川摩耶という人間がいたことを忘れないでいてほしいのです。そうすれば、シュンさんの記憶のなかであたしも生き続けることができるのですから。
 さようなら、シュンさん」
 舜一は多摩地方の一角にある寺院の墓地に立っていた。薄雲が空一面を覆っている。夕暮れが近くなり、冷たい秋風が吹いている。時折木の葉が舞い落ちてきた。喜多川家累代の墓石の側面に喜多川摩耶の文字が真新しく刻まれている。
 集団自殺事件から四か月が経とうとしている。あれから榊原刑事から連絡が来ることはなかった。舜一からも電話していない。大橋達司のアリバイが立証されてしまうと、警察は捜査を打ち切らざるを得なかったはずだ。鈴木茂樹の母親も息子の死を受け容れていることだろう。
 舜一はバッグから紙包みをとりだし、丁寧にほどいた。舜一自身が彫り上げた浅浮き彫りの墓碑である。鑿を手にして石に生命を吹き込む作業は一年半ぶりだった。モティーフは初めて会ったときにマヤが持っていた写真集の表紙を飾っていたギリシアの墓碑である。模刻という形をとったが、椅子に坐った若い女性の横顔にマヤの面影を重ねた。作品を仕上げるまで二か月の時間を要した。舜一はレリーフの唇に軽く自分の唇を触れさせると、礎石の前に墓碑を立てかけた。
 舜一は脆いたまま墓碑を見つめ続けていた。マヤのイメージが鮮明に甦ってきた。マヤの全身像を彫りたいという強烈な欲求が舜一を捉えた。舜一は立ち上がった。山の端に沈んだ夕陽の反照で西空が茜色に染まりはじめた。

『闇のレゾナンツ』

『闇のレゾナンツ』

自分が参加する予定だった集団自殺事件のニュースが報道され、そのなかで二十八歳の会社員が死んだことを知り、舜一は不審を抱いた。決行二日前に舜一が離脱した時点では、この会社員はメンバーでなかったのだ。彼は、早い段階で計画から外されたマヤの情報に基づき五十代のメンバー、ミツヨシ(大橋達司)に再会した。大橋は決行日の前夜に計画からおりたと打ち明けたが、舜一はその受け答えに疑念を感じた。 その後、舜一は所轄署の担当である榊原刑事と会い、榊原から情報を得て、二十八歳の会社員、鈴木茂樹の家を訪ねた。驚いたことに鈴木はミカが自殺防止活動の一環として主宰していたチャットルームのメンバーだった男であり、プロデューサーと名乗っていた。 舜一が調べていくなかで、鈴木の闇の姿、鈴木の死の真相が明らかになっていく。

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更新日
登録日
2012-08-07

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