レントンの夜
第一章
何故だか分からないが、ともかく引越し先に向かわないといけなかった。仕事中の石川裕也の携帯電話に妻の玲子から電話があったのは、ちょうど昼休みに入り昼食に出ようとしているときだった。玲子が言うには、もうすでに転居届けは出してあり、引越し先の住まいは平屋の一戸建てで、部屋数はリビングキッチンとは別に三部屋あると言うことだった。
今日引越しの手続きをして来て、もう荷物もすべて運び終わったから、帰りは新居の方へ間違えずにね。住所はメールで送っておくから、という電話の内容だった。
引越しという普通の家庭であれば一大事なのに、まるで近くの郵便局へ宅配便を出しに行って来たかのような言い方だった。玲子がそろそろ引越したいねと言うのは、常日頃よく口にすることなのだが、それが何の相談もなく、それもいきなり今日とはどういうことだと裕也は思った。実際ここ三年間で毎年、玲子の言うがままに引越しを繰り返していた。三年間で三回、一年毎にこれといった理由もなく引越しをするというのは、かなり常道を逸している。これまでは、いざ引っ越すとなると引越し当日はもちろんだが、二人一緒に準備を整え行動していた。が、一方的に決められたのは今回が初めてだった。
「えっ? 家財とか荷物とか全部運んだのか?」裕也としては、精一杯抗議するような口調で言ったつもりだった。
そうよ、全部よ。だから何も心配することないわ、ともかくそういうこと。ちょっとまだいろいろと忙しいから、じゃあね、切るわよ。
玲子は、裕也の問いなど意に介せず、一方的に言うだけ言い電話を切ってしまった。
今回もそうだが、そもそもが引越ししないといけない理由なんて何処にもなかった。いま住んでいるところは鉄筋コンクリートマンションの十四階にあり、特に住み心地が悪いとか、近隣の住民など周辺環境に問題あるわけではない。しいて言えば十四階という高さなので、ベランダに出て下を見たときに、足が竦むような恐怖感はある。でもそれも必要な高さのフェンスがあるので、さほど神経質になるほどのことではない。ようするに裕也は、家のことも含めて、今までずっと玲子のいいなりになってしまっていた。
裕也は午後のあいだ中、ずっと玲子の言った――もう引越ししてしまった――ことが気がかりで、あまり仕事に集中出来なかった。言いたいことが言えずに、いいなりになってしまう自分の弱さが腹立たしくもあった。仕事であれば、パズルを組み直すように理路整然と反論して見せるのに、自己主張を勢いだけで言ってくる相手に対しては、どうしても一歩下がってしまう。裕也は次第に気が滅入っていくのがわかった。そうして中途半端な気持ちのまま仕事も一段落して、十九時を過ぎたのを確認し、机の上に散らばっているオフィス用具や書類を片付け帰宅することにした。
「じゃあ、お先に」
裕也は立ち上がると、まだ残って仕事をしている三人の部下に向かって、ぶっきらぼうだが聞こえるように言って席を立った。
「あれ? 石川部長、まっすぐお帰りですか?」
いつも裕也が帰りに誘いを声掛ける常連のひとり、奥山雅史が意外とでも言わんばかりに答えた。裕也が先に帰る場合は裕也の方から、ちょっと一杯行くか? と声を掛けるのが常だったからである。
「うん、いや実は今日、家を引越ししてね。それでいろいろとあるから、今日は先に帰らせてもらうよ」
裕也とすれば、そうは言ってみたものの、実際いろいろとは何かと訊かれれば、何と答えていいのか分からなかった。ただ、あまりにもいきなりに引越ししたと言われ、ちゃんと家具や家財が全部揃っているか最低限確認しないといけないだろうし、隣近所への挨拶もしないといけない。壁に貼っていたマイルスデイビスのポスター――たたみ二畳ほどもある大型のモノクロポスターで、東京神保町にあるというのを聞きつけ、わざわざ買いに行き手に入れたものだった。そしてそのポスターを貼るためだけに、部屋内部の仕切り壁を取り払い、ワンフロアーに改築したのだが、玲子はそれにあまり興味を示していなかった――それもちゃんときれいに剥がして持って行ったのかほとんど期待できないな、と思った。
それにしても、今日の朝いつもどおりに玲子と会話をし、朝食を食べ会社へ出かけたのだが、その時玲子は引越しのことは何も言ってなかった。ましてや引越しの荷造りをしているとか、そういった気配は全くなかったのである。それがいきなりの引越しなのだ。
「ええ? 石川部長、引越しって、いまのマンション買われてからまだ一年でしょう? また引越しですか?」
奥山にそう言われ、裕也は無理もないことだと思った。あまりに頻繁に引っ越すから、みんなには、女房は引越しが趣味だから、と自虐的に笑いながら答える始末だった。
「うん、まあともかくいろいろとあるわけだ」裕也としてもそう言うしかなかった。
帰りのバスの中で、裕也は吊り革を持ったまま、突然の引越しのことが気掛かりでそのことで頭の中が一杯になっていた。裕也が立っている向かいの座席には、女子学生が読んでいる本が目に入ったが、裕也の網膜から脳へ伝わってはいない。それはそうと、その新居のお金はどうしたんだろう? いまのマンションを売ってしまって、その金で購入したというのか? 購入して所有権の移転登記も済ませたんだろうか? そして引越し業者に頼んで全てを一日で終えたというのか? 仮にそうだとしても、なぜそこまでして引越しを急ぐ理由があるというのだ。改めて考えて見ると、まったくもって理解に苦しむことだ。しかしまあ、いつもの引越し病とでもいうのか、それがまたぞろ起きて困ったもんだ、と思い努めて平静を装った。
狐につままれたような気持ちのまま、会社からバスで三十分の距離にある、玲子がメールをよこした住所近くのバス停で降りることにした。そこらはずいぶんと山間部にあり、バス停から山手に向かって大きな上り坂になっていた。周辺一帯が住宅地として新たに開発し宅地造成され、完成間もない新築の家が数棟立っていた。その坂の両側には、等間隔に植樹が施され道路もきれいに舗装されていた。あたりをぐるりと見回した後、ふうっ、と大きくため息をつくと、携帯ナビを開き歩行者モードにして歩き始めた。登り坂を上がって行くと公園が見えた。ナビの案内は、その公園を横手に見て、今度は急な坂道を下っていくようになっていた。ずっと突き当りまで下っていく。その突き当たりを左に曲がると、今度はまた上り坂になっていた。こんなにもアップダウンの激しいところとは思わなかった。よりによって、こんな入り組んだところに引っ越さなくてもいいのにと思った。しばらく登り坂をふたたび上がって行くと、ナビの案内は突き当りを左に曲がるようになっていた。突き当りを左に曲がった。曲がった瞬間、裕也はその場に立ち尽くしてしまった。まてよ、と思った。この通りはさっき通った道と同じ景色のような気がした。ナビを見ると、この左へ折れたところを突き当りまで行くようになっている。そして今度はその突き当りを更に左へ曲がって、三件目のどん詰まりになっているところが目的の家だった。そこが同じような景色になっているのを疑問に思ったが、ナビのとおりに行くことにした。突き当りまで行き、左へ曲がった。が、左側には一件の家もなく、鬱蒼と茂った雑木林が現れた。千メートル級の山がそびえる中腹にあり、裏手はすぐ山の中へ入り込んでいくようになっている。夜中などにじっと耳を凝らすと、得体の知れない生き物が蠢くのが聞こえてくるかのようである。足元を見ると、しばらく長い年月のあいだ人が入った様子はなく、雑草が生い茂り、転がっている小石にはビロードのような苔がびっしりと生えている。確かにナビの案内は、この雑木林を示している。裕也は、玲子から送られたメールの住所に間違いがあったに違いないと思い、すぐに玲子に電話を掛けた。
「はい、まだ帰り着かないの?」玲子が呑気に電話に出た。
「帰り着くもなにも、この住所間違っているだろ? ナビのとおりに来たら雑木林になってるし」
「そう? ちょっと待ってよ、今確認するから」
玲子はそう言うと電話を切ってしまった。保留にして調べればいいのに…… まあいいや、待つしかないなと思った。と同時に、俺はこの”まあいいや”が多すぎるな、と思った。しばらく待ったが、なかなか折り返し掛かってこないので、痺れを切らしてこっちから掛け直すことにした。
「…………」コールは鳴るが電話に出ない。全く電話に出る気配がなかった。
彼女の携帯電話は留守電設定をしていないから、いつまで経っても鳴りっぱなしのままである。どうしようもないな、と思った。裕也は”まあいいや”と思うわりには、約束の時間五分前には、必ずその場に到着しているぐらいで、自分自身も待たされるのが嫌だった。しかし待つしかない。待つ間しばらくその場に立ち尽くし、目の前にある雑木林を、ぼうっとしながらただ視界の前に捉えていた。さらに待つこと二十分が経過した。待ってる間に次第にイライラした気分になりつつあるのが分かった。待つ間も念のため何度か電話するが、状況に変わりはなく、虚しくコール音が鳴るだけである。その場にじっと立ち尽くしていてもしょうがないので、もと来た道に戻ることにした。
しかし、戻るにしてもその後にどうすればいいか皆目検討がつかない。よくよく考えて見れば、帰る家が見つからないということは、八方塞じゃないかと思った。しかも、肝心の玲子との連絡がつかないときている。裕也は次第に不安な気持ちが押し寄せてきて、落ち着かなくなっていた。もと来た道に出てきて、今住んでいるマンションへ行くしかないと思い始めていた。
――そうだ、これは玲子のいたずらかもしれない。実は引越しなんかしていなくて、マンションへ戻ったらいつものように玲子が出てくるんじゃないか。きっとそうだ。電話でいきなり言われ、落ち着いて考えることが出来なかった。実際、突然の引越しなんて冷静に考えればおかしいじゃないか。そうだ、きっとそうに違いない。しかし玲子も冗談が過ぎる。なにか気に入らないことを俺が言ったのだろうか? それで仕返しをしてやろうといたずらを仕掛けた。だから電話も出ないんだ。なるほど、そういうことだな。俺としたことが冷静に考えれば分かることなのにどうにかしていた。しかしまいったな、一体何が気に入らなかったのかよくわからない――
裕也はそう思うことで、徐々に落ち着きを取り戻し始めていた。そしてゆっくりと深呼吸を整え、今朝のやりとりを思い起こしてみることにした。
――今朝、目が覚めてみると、玲子はすでに台所に立って朝食の用意をしていた。朝食の準備も整って、裕也は、玲子と向かい合わせで食卓に座り、まずはコーヒーをひと口すすった。玲子は、レタスと玉葱とカイワレ大根が混ざったサラダに、ドレッシングをキャンバスに絵の具を描くように振り掛けていた。
「ねえねえ、そういえばね、昨日の夜にエレベーターで出くわしたんだけど、あれは確か南米系の人達じゃないかしら、三人組の女性で、話し言葉がスペイン語かポルトガル語みたいだったから」玲子がおもむろに言った。
「ここは繁華街に近いから、飲食店で働いている人達じゃないかな」裕也は、テレビ画面を眺めたまま言った。テレビは朝のニュースで今日の天気予報を伝えている。
「それはどうかわからないわよ。あたしが言いたいのはそういうことじゃなくて、南米系の人達だったら、地球の裏側からやって来てるわけでしょう。すごいと思わない?」
玲子はそう言いながら、レタスと玉葱とカイワレ大根をいっぺんに食べようとしてるのか、フォークを刺し続けている。
「いや、別に今の時代すごいことじゃないだろ。飛行機に乗れば、あっという間に何処へでも行けるんだから」
ロールパンを千切って口へ入れながらしゃべっている裕也の返事は、もはやただ会話を成立させているだけである。そしてテレビの画面は、コマーシャルに切り替わり気忙しく場面展開の早い内容を垂れ流していた。
「それもそうね、あっという間に行けるわね」
話はそれっきりになってしまい、あとは取り立ててどうということはない、出かけるまでの規則的な会話のやりとりをしただけである――
どうもよくわからなかった。確かに玲子の何気ない話に全く興味を示すことはなかったのは事実だ。しかし十年連れ添った夫婦の朝の会話なんてこんなもんだろう。どちらかが一方的な話をしても、片方は興味を抱かないまま噛み合わない答えをする。だからといって決定的ないたずらを仕掛けようという気にさせるほどの会話ではない。つまり今朝の会話の中には、玲子が突然の引越しを思い立った理由は見つからなかった。何だというんだ? 裕也は次第に腹立たしくさえ思えてきた。そうこう思っているうちに、マンションの入り口に辿り着いた。
裕也はエレベーターに乗り十四階のボタンを押した。いつもと変わらないマンションだし、いつもと変わらないエレベーターだった。十四階へ着くと、渡り廊下を歩いて自宅のあるところまで来た。チャイムを押した。が、返事がない。玲子が中にいる様子がなかったので、合鍵を使って入ることにした。鍵を差し込んでドアを開いた。
そこには一切合財がなかった。見事に空き家になっていた。愕然とする裕也は、再び玲子に連絡を取った。今度はコールさえ鳴らなかった。
裕也はどうすることも出来ず、玲子からの連絡を待つしかなかった。しかもすでに三時間が経過しようとしていた。いま一度、落ち着いて考え直すことにした。マンションはもぬけの殻だった。そして玲子から受け取った住所の場所には、家はなく雑木林があるだけである。それと玲子とは一度繋がっただけで、住所を調べなおすと言って、それっきり連絡がないし繋がらない。それが事実である。しかし、事実をどう整理しようと打開策は見つからない。不安に加えてあせりが生じてきた。
これは、まずい。非常にまずい。
そうだ、玲子の知り合いに当たってみたらどうだろう。もはや、闇雲といった状況に陥りそうになっており、一種のパニック状態になっていた。そういえば玲子の高校時代からのごく親しい友人で、近くで喫茶店を営業している祐美のことを思い出した。彼女は玲子の友人繋がりで裕也も親しくしていた。彼女なら何か知っているかもしれない。さっそく行って見ることにした。そうでもしないと落ち着かない。マンションから近くの飲食街へ歩いて十五分ほどのところにある。夜の十時になろうとしていた。喫茶店のところに着くと、ちょうど祐美が店の看板を片付けようとしているところだった。
「あら、裕也さん、お久しぶり。お仕事の帰り?」祐美が振り返って言った。
「いや、ちょっと相談があって来たんだが、いいかな?」裕也は努めて冷静さを装って言った。
「ええ、どうぞどうぞ、あんまり暇だからもう閉めようとしてたのよ…… あら、玲子は一緒じゃなかったの?」
「うん、その玲子のことで、ちょっとね」
「あら、夫婦喧嘩なら、玲子の味方になるかも知れないわよ」祐美はにこやかに笑って言った。
いや、そういうのと全然違うんだけどと思いつつ、裕也は苦笑いをしながら、祐美の後ろについて店に入っていった。そして玲子と一緒に来る時にいつも座る席についた。
「何か入れましょうか?」カウンター奥から祐美が声を掛けた。
「ああ、じゃあコーヒーを」
そう言って祐美が厨房の奥へ消えるのを目で追いながら、さてどう話したものかと思案にくれた。事実経過を追って説明しても、中々理解し辛いかもしれないな、と思ったからである。その前に玲子の行方を知らないかどうかも聞いてみないといけなかった。でも実際、まだ玲子は何処かへ消えたというわけではない。ただ連絡がつかないだけである。
「どうしたと言うの?」祐美がコーヒーを運んできて訊いた。
裕也の相談というのは、やはりちょっとした夫婦喧嘩のようなもので、そんなに深刻な相談ではないだろうと思っているのか、祐美はにこやかに微笑みを浮かべている。裕也は、落ち着いて時系列にことの経緯を伝えた。時系列とはいえ、話し終えるまでに、たっぷりと三十分以上はかかってしまっていた。そして、裕也の説明を聞いた祐美は、予想外の話に困惑の表情を浮かべていた。
「それで連絡つかないままなんだ…… 心当たりと言ってもねえ…… 玲子のあの性格でしょ、奇想天外なところがあるから」
「玲子は昔からあういう予測不可能な行動を取るところがあったのかなあ」
それを知ったところでどうなるものではないが、裕也は自問するように祐美に訊いた。
「そうね、確かに予測不可能なところがあったのは確かだわ。でもその予測不可能な行動に出たあとでも、周りを巻き込んでいくと言うか、その気にさせていくというか、そんなところがあるんと思うけど、あなたもそう感じていない?」
「確かにね、その気にさせると言うよりも、有無を言わせないといった方が正解かもね」
裕也はそう答えたが、簡単に言えば自己主張が強いだけで、特別カリスマ的な要素があるという大袈裟なものではない。そんな悠長な話をしている場合ではないと思った。
「でも、困ったわね。玲子から連絡あるまでここで待っていたら?」祐美は何気にそう言った。
「いや、それは迷惑かけるから……」
確かに、祐美は結婚していなくて一人であるのは知っていたが、だからといって女性の家に上がりこむのは気が引けた。しかも、玲子の友人である。
「大丈夫よ、何言ってんの。そんな、見ず知らずじゃないんだから、そうしたらいいわ。そのうち連絡あるわよ」
祐美は、ほとんど深刻に考えてなさげで、裕也がここに滞在するのを少し喜んでいる様子だった。そして、祐美は席を立つと、厨房の奥にある部屋の方へ消えていった。
――それにしても玲子はどうして連絡してこないのだろうか? もし連絡できない何らかの状況、それは誰かに拘束されていて不可抗力の状態に陥っているようなことだとすれば、早く警察に連絡した方がいいのだろうか? いや、最後の電話の話し方からすると、とてもそういった逼迫した雰囲気ではなかったし、誰かに脅されてそう言っているという感じではなかった。その線はまずないと言っていい。そうすれば、何が考えられるだろうか? もう一度、整理して考えるに、まず電話出来ない状況なのか、出来るけどしないのかに分けて考える必要がある。出来ない場合は、さっきの誰かに拘束されてということもあるが、これはいま消去した。他に出来ない状況と言えば…… 突然の身体の不調がある。心筋梗塞か何かで倒れたか、あるいは外を歩いていて車に撥ねられた。まあ、この二つは絶対にないとは言い切れない。しかしそれであれば、誰かから連絡があってもいいはずだ。一応保留にしておこう。次に連絡出来るけどしない場合である。俺に何か不満があって、ちょっと困らせてやろうという悪戯が度を過ぎているという状況、うん、これはある。この線は、一番理解しやすい。他に考えられないだろうか?他には…… ないな。それ以外に出来るけどしないケースを考えた場合、そう考えるのが一番妥当なことだろう――
裕也は、一人合点してそういう結論に達した。
祐美が両手に沢山の飲み物や食べ物を抱えて奥の部屋から出てきた。
「ごめんなさい、ほら、普段店の中に食べ物とか置いてないから、こんなものしかないけど」
祐美は、そういいながら、テーブルの上にワインのボトルとチーズやビーフの燻製などを並べた。冷静に考えれば、のっぴきならない状況なのだが、裕也は、何となくこの店の雰囲気にリラックスし始めていた。
「あたしね、思ったんだけど、玲子は突然、思い立って何処かへ行ってしまったんじゃないかと思うのよ」祐美がとんでもないことを言い出した。
「何処かへ行っただって? どうして?」
「そこがあの人の理解し辛いところだし、常人の理解を超えているところじゃないかしら。つまり、そこには理由なんてないのよ」
「でも、それだとわざわざ引越ししたなんて言わずに、行くんじゃないかな」
「だから、彼女はそういう理詰めで考えてわかる行動をする人じゃないってことよ。実は本当に引越ししてたんだけど、それが気に入らなくて突然に出かけたということじゃないかしら」
そんなことがありえるだろうか? 何処かへ行こうとする人間の九分九厘は行動する理由がある。それは目的の定められた行動であり、あるいは現状の不満だったり、抜き差しならない状況に追い込まれていたりとかいったこともある。理由のない行動なんてあるんだろうか?
「本当にその可能性があると思って言ってるのかな?」
「いや、そうね可能性がないとは言い切れないということかな……」
「なんだい、それは。ややこしい言い方だな」
ふと腕時計に目をやると、この店に来てすでに一時間が経過していた。
「それはそうと、今朝は何も話さなかったの?」
「うん、取り立ててこれと言った話はしてないなあ…… ただ玲子の方から、その前の夜にマンションのエレベーターで南米あたりの女性三人組と出くわしたとかいう話を聞いたぐらいで……」
しばし沈黙の後、祐美が突然言い出した。
「あっ、それだわ。ひょっとしたらそれかも知れないわ」祐美が悪戯っぽい顔をして言った。
「ええ? なに? それとは?」
「南米よ、南米」
「南米がどうしたって?」
「だからその南米が引き金かも知れないってことよ」
祐美は、大きな瞳をキラキラとさせて面白がって話している様子すらする。
「ええ? どういうこと?」
「だ、か、ら、その南米の魅力に取り憑かれてそのまま南米へ行ったのかもってことよ」
「何だって? そんな馬鹿な話あるもんか」
そう言えば、そんな馬鹿な話が以前あったのを裕也は思い出した。
裕也は仕事として得意先の社員懇親旅行――得意先の引率に近いもので、旅行代理店の仕事のひとつである世話係といったものだ――に同伴して、ハワイまで行ったことがあったのだが、ワイキキ通りのホテルに到着し、自分の部屋へチェックインしてすぐに部屋のチャイムが鳴った。ドアを開けてみると、なんとそこに日本にいるはずの玲子が立っていた。
「ハロー! びっくりした?」
「ええ? なんで? なんでここに?」裕也は理解不可能といった顔をして言った。
「あなたが乗った次の便で来たの。祐美も一緒よ」玲子は屈託のない笑顔で言った。
裕也は呆れてそれ以上の言葉を失ってしまった。祐美はその時の片棒だった。
「確かにね、ハワイの一件もあるからな」裕也は、その時のことを思い出してそう言った。
「あれは、ただ彼女があなたを驚かそうとしただけで、今回の件とは違うわ」
それはそうだった。実際、マンションの荷物がすべて取り払われているのである。それを考えると、ただ単純に驚かそうというのとはちょっと違う。それにしても普通の主婦が、旦那を驚かそうとわざわざハワイくんだりまで来ること自体尋常ではない。
「だからね、念のために今日の南米行きの搭乗者名簿を調べて見たら?」
「いやあ、どうだろう…… そこまでするかなあ……」
裕也はそうは言ってみたものの、玲子の場合はそうするかも知れないとも思った。
「念のためよ、調べて見ていなければ、その時はまた他を当たればいいし」
そう祐美に言われるがまま、翌日南米行きの搭乗者名簿を調べて見ようという話になった。
朝から空港を発着する航空会社へ順に問い合わせをすることにした。訊き始めて二件目のアメリカン航空で該当者にあたった。イシカワレイコ――ロサンゼルス経由のサンパウロ行きとなっていた。しかも搭乗時間を調べたら、まさに最後の連絡がついたすぐその後だった。つまりは、連絡がつかないのは飛行機に乗ってしまったからだった。
祐美が言ったとおりだった。まさかとは思ったが、本当にブラジルサンパウロ行きの便にその名前があったのだ。裕也はどうしたものか呆然となってしまった。
「やっぱり、本当に行ってたのね」
「そのとおり、呆れたのを通り越してるよ」
「これからどうするつもり?」
「どうもこうもないだろう、まさか追いかけて行くわけにも行かないし、行ったところで行き先の当てなんかないから、どうしようもないさ」
「そうね、サンパウロの何処を探せばいいかなんて無理よね…… ねえ、あなた家がないんでしょう? しばらくわたしのところに居てもいいわよ。その間に、引越し先の家を見つければいいわ、その方がサンパウロよりも簡単でしょ?」
家がないわけではない。引越し先の住所がわからないのだ。裕也はこの状況は何なんだと思った。テレビドラマじゃあるまいし、奇想天外な展開に陥ろうとしていることにどうしたんだと思った。あるいは、ひょっとしてまさか、玲子と祐美がつるんで何かを企んでいるということはあるまいか?しかし、裕也は次第にもうどうでもいいや、成るようになれと思い始めていた。
幸い今日は会社が休みだった。さらに都合のいいことに祐美の店も休業日になっていた。そして二人で相談して、一緒に昨日間違った住所の近くから調べることにしたのである。
祐美の車に乗って出かけた。ハンドルを持ったまま祐美が訊いてきた。
「ねえ、こんなこと訊いて失礼だけど、あなた達、実際のところ旨く行ってたの? どう?」
「いや、別にどうって、何もないよ。全く何もないってぐらい問題なしだな」裕也は助手席の十センチほど開いたドア窓の隙間から煙草の灰をトントンと捨てながら言った。
「全く? なにもない?」
「そう、全く何も」裕也は、そのドアの外側にへばり付いた、少しばかりの煙草の灰を眺めながら言った。
「うーん、全く何も問題ないってのが、問題かも知れないわよ」
「どういう意味?」裕也は、思わず祐美の方へ向き直って言った。
「あなたに対してどうこう思っているということじゃなくて、彼女はああいう性格でしょ、だから変化を求めただけじゃないかしら…… つまり彼女にとっては、そんなに深刻に考えてのことじゃなくて、ちょっとした思いつきだけのことじゃないかと思うの」
祐美が言ってることは理解出来なくもない。玲子はそれほど普通とは違った理解しがたい部分があるのは事実だった。
例えばこうだ――
裕也が仕事で連日遅い帰りが続いていたころ――それは、毎晩夜の街へ出かけ飲み歩くことも含めてだが、裕也の言い分としてはそれも仕事のうちだ――玲子が、突然と自分も働きに出ようかしら、と言い出したのだ。自分としては、じっと家で待っているのは時間が勿体ない、と言うのだ。まあ、ここまでは何処の家庭でもよくある話なのだが、その働き先が玲子が言うにはこうだ。
「クラブを始めようかな、と思うんだけど」
「ええ? クラブって、つまりは夜のクラブのこと?」
「そうよ、それ以外にクラブって、あなたが言うのはダンス系のクラブじゃないの? あたしが言ってるのは、ホステスがいる夜の社交場のことよ」
普通の主婦が言うようなことではないし、仮にやるにしても資金集めからして、あまりにも無謀なことだと言えた。しかしそう言って、店を始めるにあたって、その開業資金を言葉巧みに知り合いの男性陣から集め――投資してくれたら半年間は店への出入りは無料にするという約束で(ここがみそだが、半年間無料で毎日来店されたら大変だが、実際には大方そうそう暇ではないから、そんなには来ることが出来ないのだ)――さらには従業員は、たまたま我が家に郵便配達に来た郵便配達員をチーフにし、家に手伝いに来ていた家政婦さんをホステスにし、ともかく素人の集まりなのだが、その素人さが受けて店は大繁盛となった。つまり、開業資金ゼロの状態からオープンに漕ぎ着け、しかも店を軌道に乗せて大金を手にしたのである。その実行力と人身把握の能力には、裕也も舌を巻くしかなかった。しかしせっかく店が繁盛しだしたにもかかわらず、手にした大金で高級外車を買うと、さっさと店を閉めてしまった。裕也とすれば、玲子の目的がいまいち理解出来なかったのだが、今にして思えば、大金を手にすることが目的ではなく、何かをすることが目的ではなかったかと思った。
車は国道を左に折れ、昨日通ったバス停を通り過ぎて、目的である間違っている住所に辿り着いた。車から降りると、昼間というのに辺りは雑木林に覆われて薄暗い。
「ええ? ここは絶対に間違いでしょ」祐美が声を張り上げて言った。
「うん、それは分かりきったことなんだけどね」
「何だか薄気味悪いわ、近くの家を探してみましょう」祐美はそう言うと、先に立ってもと来た道を歩き出した。
「ああ、そうだ、玲子が言っていたことが本当なら、家は平屋の一階建てだそうだ」
裕也は、先に歩いて行ってる祐美に後ろから声をかけた。
「じゃあ、随分と探しやすくなるわね」
「この近くであればね」裕也はこの近くであることは何の保証もないと分かっていた。
祐美もそれは分かっているだろうが、随分と楽観的な様子がした。しょせん他人のことだからそう思えるのも無理はない。でもこうして一緒に探してくれているだけでも有難いと思わねばなるまい。
「ちょっと、この辺りの家に平屋の家がないか聞いてみようかしら」
「ああ、その方が早いかもね」
坂道を下の国道の方へ下っていくと、数件の二階建ての家が並んでいた。この辺りは建物の作りからして、築後十年以内の新しく宅地造成して出来た住宅地のようだった。その内の一番近い家にまずは訊いてみることにした。門扉についたチャイムを押すと、しばらくして年配の男性の声がした。
「すみません、ちょっとお尋ねします。家を探しているんですが、この辺りに平屋の家があるのをご存知ないでしょうか?」裕也が訊いた。
「平屋の家? ……」しばらく沈黙があった。「平屋は…… 記憶にないですねえ…… あっ、確か…… この上の山の中腹辺りに行くと、確かありましたよ」
「山の中腹ですか?」裕也は中腹と言われてもピンとこずに答えた。
「ええ、この上を山の方に向かって散歩がてらずっと歩いていたんですが、途中でけもの道になり、迷ってしまったんですよ。そしたら雑木林が続く中に家が見えたんです」
結局、男性はインターホン越しに話すだけで、姿を現すことはなかった。
その辺りは、丁度メールで送られた住所の裏側になっていた。手前から見ると雑木林があるだけにしか見えない。その鬱蒼と茂った雑木林の脇道を通り抜けていくと、広々とした敷地が現れ、そこに平屋建ての一軒家があったのである。
「そうか、ここも住所の地番だったんだ。と、いうことは住所は間違ってなかった」
「そうね、じゃあ玲子はどうしてサンパウロなんかに……」
「ともかく、中に入って見よう」裕也はそう言うと先に立って玄関のドアに向かった。
もちろん、家の鍵はもってないから鍵が掛かってないことを祈るだけである。ドアノブに手を掛けて回すと、鍵は掛かっておらずドアが開いた。玄関口には、靴が並べてあった。見覚えのある靴だ。ゆっくりと観察することなく靴を脱いで上がり、廊下を奥へ進んだ。キッチンのある居間が現れた。キッチンテーブル、冷蔵庫、オーブントースター、電子レンジ、どれもいつも使っている家電や家具に間違いなかった。
「どうやらここが引越し先で間違いなさそうだ」
「ふうん、そうなんだ」
冷蔵庫を開くと、中にオレンジジュースの紙パック一本とミネラルウォーターのボトルが三本入れてあった。裕也と祐美は、ミネラルウォーターを一本ずつ出して、居間横に置いてあるキッチンテーブルにひとまず座った。
「表の雑木林を見たときは、薄気味悪いとこだと思ったけど、ここらは陽の光が差して明るいわね」祐美が居間から見える外の景色を眺めながら言った。
「でも、ここの周りを見ると、何でまたこんな鬱蒼としたところを選ぶのか理解出来ないけどね」
「それで、これからどうするの?」祐美が訊いた。
「ひとまず、落ち着いて考えるに、玲子が勝手に引越しを進めた。そして自分はちょっと旅行に出掛けた。それだけのことで何ら問題はない」裕也は自分自身を落ち着かせるために考えを述べる。「玲子もいつまでもサンパウロにいるわけではないし、そのうち帰ってくると思うよ」
――冷静にことの事象を述べるならば、そういうことである。そこには、一切の感情だったり、社会通念上の考えだったり、一般常識だったり、いろんな人の価値基準だったり、そういったことを一切排除してみた場合はそうであろう。でも一切を排除した事象というピースを、社会通念という枠にはめ込むことが出来るかどうかというと、それはまた別問題である。言ってることは、事実であるがそれが今後旨く機能していくかどうかというのは、甚だ疑わしい――といったことを裕也は考えている。
「だから、あなたはこれからどうするつもり?」祐美がまた訊いた。
「どうって、別に何も。家はここにあったわけだし、玲子の行き先もわかったことだし、今までどおり、朝になれば会社へ出て行きパソコンとシステム手帳を開いて一日のスケジュール管理を始めているよ」
「それじゃ答えになってないわよ」
「だってそれ以上何をすればいいと言うのかい?」
「例えば、サンパウロに玲子を探しに行くとか……」
「それは現実問題無理だね。俺は毎日の仕事があるし、しかも部下がいてそれを管理する立場にいるし、それをほっぽり出して行くわけにはいかないよ」
「あなたは、何のために仕事をしているの?」
「自分自身のためでもあるし、家族を養って行くためでもある。家族は俺自信仕事をしていくための支えでもあり、将来の希望でもある」
「でしょ? 玲子はあなたの仕事と家族の両輪の支えになっているわけでしょ? その支えがいまどうなっているか、それをまず確かめないと、もしそれが失われたらあなたはどうなるの?」
「そこまでは想定外だな」裕也は言った。
「でも起こりうることとして、対処方法を考えておかないといけないのじゃない?」
「仕事をほっぽり出してでもサンパウロまで行けってこと?」
「いや、日本に居ても彼女の行方を調べる方法はいくらでもあるんじゃないの? あなたが直接行くんじゃなくて、誰かに頼むとか」
「例えば、君に頼むとかいうこと?」
結局、祐美に頼んで、というよりも祐美が名乗りを上げて、サンパウロまで玲子を探しに行くことなった。つまりは、こういうことだ。ウェブカメラとアイパッドを使って祐美の行動を動画ストリーミングで裕也の元へ送る。裕也はそれを見ながら祐美へ指示を送る。好都合に、時差が間逆なために、祐美が動く昼間の時間は裕也が比較的ゆっくりとした時間が取れる夜中の時間なわけである。ただ実際には、その動画はあまり意味がない。直接、段取りを図るのは祐美であって、それに対して指示を出すとはいえ、そこにタイムラグが生じるから非常に効率が悪いことになる。それでも細かなことに神経質な裕也は、出発前に捜索の手順と段取りを綿密に打ち合わせることにした。まず、ホテルに滞在している可能性が高いのでサンパウロ市内のホテルをすべて連絡先を含め調べた。さらに日本語が出来る現地通訳の会社、レンタカー会社、など玲子がサンパウロで動きそうなところを徹底的に調べることにした。 しかし、ここで裕也は先日思った疑念が引っ掛かっていた。それは祐美が玲子とつるんでいるんじゃないかということである。もし、そうだとした場合を考えてみた。目的は何なんだ、と。それは、とあるホテルの喫茶での玲子と祐美の会話で始まる。
ホテル日航一階フロントの後方にある玄関ロビーの上を見ると、吹き抜け回廊をぐるりと囲む廊下に沿って、いくつかのレストランや服飾・装飾品などの店がある。そのうちの陽光露というレストランに玲子と祐美がいた。二人は駅前の路上でばったりと会い、ちょっとお茶でもしようということになり、ここまで来たのだった。
めずらしいわね、いつも車でしか外出しない人が駅前を歩いているなんて、と祐美は玲子が駅前を歩いている理由を尋ねた。
車はもちろん近くのパーキングに停めてるわよ。ちょっと近くで人と会う約束があったから、と玲子はもうその用件は終わったというニュアンスで答えた。
実はね、その人は南米から来た人で、うちのマンションに住んでいるんだけど、日本に来て何をしているのって訊いたら、もともとブラジルのサンパウロで飲食店をやっている人なんだけど、こっちで同じようなお店を始めようとしているらしいのよ。いきなり、南米の話だった。
へえ、そうなの、と祐美は感心して答えた。
うん、そうなのよ。それでね、あたしがそのお手伝いをしてあげてもいいわよって答えたら、何をどう手伝ってくれるのかって訊くから、日本で成功するためには、日本人が好む南米の食べ物を日本人用にアレンジしないとだめよって言ったのよ。例えば、ほら、カレーがそうでしょ? 日本人が食べているカレーって、あれは日本でしか食べれないカレーだし、ギョーザでもそう、焼きギョーザは中国では食べないというし、だからそういう風にアレンジしないとだめよって言ったのよ。
うん、うん、それで?
うん、それでね、それじゃあ、あなたがそれをサンパウロに行ってどうすればいいか教えてくれ、ということになったのよ。
うん、うん、で?
で、急遽サンパウロまで行くことになったのよ。
ええ? サンパウロ? サンパウロって、ブラジルの……
そう、サンパウロ。それでね、あなたに相談があって……ちょっと話は横道にそれるけど、実は、郊外に手頃な物件があってそこに引越しするつもりなんだけど……
ちょ、ちょっと待って、何でいきなり引越しに話が飛ぶわけ? そこは横道それずに元に戻そうよ。
いや、いや最後まで聞いて。あのね、それでその引越ししようとする日とサンパウロに行く日が重なって、で、そんなこんなでそれを裕也に説明しようと思ったんだけど、あの人、ほら、こういう突発のアドリブに弱い人だから、理解してもらえないと思うのよ。
そりゃあそうでしょう、あたしだってすでに驚いているし。
うん、それでね、あたしがサンパウロに行ってる間、あなたが裕也にそれとなく匂わせといて、なし崩しに納得させるっていうのはどう?
うん、全然わかんないよ。どうすればいいっていうの?
だから、祐美があたしを見つけにサンパウロに行くことにして、そうやって大変な状況に持っていって、どうしようもない、ということにしてしまうわけ。
うーん、どうだろう、正直に話したら。
ええ? だめよ、絶対だめ。あの人の許容範囲超えてると思うもん。
いや、誰だってそうだと思うよ。
でしょ? だから正直に話したら駄目なのよ。
いや、どっちにしても玲子が言ってることは理解不可能だから。
と、いう風な会話があって、結局、押しの強い玲子のいいなりになってしまう。細部は異なるにせよ、おそらくはそういうことに違いない。レイコと会話をすると、ともかく口を挟む余地がなく、というよりも話があっちこっちに飛びつつ、意味不明な装飾語で押してくるから会話にならない。わけが分からないうちに自分のペースに巻き込んでいくのは、玲子の憎めないキャラクターのなせる業でもあるからな、と裕也は、玲子と祐美が結託している場合を想定してみたのだった。
グアルーリョス国際空港へ降り立った祐美は、タクシーでサンパウロ中心地に隣接する日系人が多く住むリベルダージ地区のホテルへ向かった。ホテルへ着いてまず、部屋から日本にいる裕也に連絡を取った。
「あたし、今ホテルに着いたわ」
「ああ、お疲れ様。ゆっくり落ち着いてからまた連絡してもらえればいいよ」
「うん、大丈夫よ。さっそくだから案内人に連絡取って動くことにする」
そういって早々に案内人のホセ・ナカオカという日系三世と連絡を取り、玲子の行方を調べることにした。裕也の手元には、動画ストリームの映像がリアルタイムで入ってくる。裕也は動画のライブ配信をつけっ放しにしたまま、インカムをヘッドに着け祐美と逐一連絡を取り合う。祐美は、ホセにまず通訳会社をあたりたいと伝えた。
「何処までの範囲で探すのかそれをまず教えてくれ」ホセが訊いた。
”まずはリベルダージ全域だな”裕也がインカムで祐美に伝える。
「リベルダージ全域の通訳会社のリストをお願い」祐美がホセに伝える。
「わかった。それはすぐに可能だ。その後にどうする?」
”次は、ホテルだな。ランクの低いところも含めてホテルと名のつくところ全て”裕也が祐美に伝える。
「その後は、ホテルすべてね」
”ランクの低いところも含めて”裕也が注意を促す。
「ランクが低いところも含めてね」祐美がホセへ伝える。
「オーケー、取り敢えずその二つを調べたらいいな」ホセはそう言うと、祐美が差し出すチップを受け取り軽く手を振って出て行った。
「この二つの件を調べて何もなかったら次はどうするの?」祐美がインカムで裕也に言った。
「そうだなあ、あとレンタカーはあるかも知れない」裕也が答えた。
「うん、それは分かる。でもいずれもこの広いサンパウロ市内だけでも相当数あるし、かなりの時間が掛かると思うよ」
「そうだね、申し訳ないがよろしく頼む」裕也はあまり期待することなく言った。
と、ここまでは裕也が頭の中で考えたことだが、しだいにその形が崩れていく。実際、玲子と祐美の会話が考えていた内容だったかどうか、確かめようもない。気持ちを落ち着けて祐美の連絡を待つことにした。
ホセから祐美の元に、連絡があり通訳会社とホテル名のリストが届けられた。その一件一件に確認の連絡作業をしていく。どこかに玲子の名前があるはずだ。そう、裕也は確信していた。しかし、待てども待てども一向に進展しない。サンパウロに入っているのは確実だが、そこから先の痕跡が一切消えてしまっている。再び祐美に連絡を取った。
「その後、どうかな? 何か痕跡が見つかった?」
「そうね、ここは日系人が多く住んでいる地区だから、逆に日本人がいても全然目立たないのよ。だから打ち合わせしたとおり、名前の痕跡を見つけるしかないでしょうね」
実際、通訳会社とホテルに一軒ずつ問い合わせするのも、それはそれでかなり骨が折れる作業だった。まず人探しをしていることの経緯を説明することから始めないといけないし、少しでも不審がられると、まともに取り合ってくれるまでかなりの時間と労力を必要とした。
祐美がサンパウロに到着してから、三日が経った。捜索は以前難航し、玲子の行方はわからないままだった。裕也も初めは、祐美がリベルタージの街中を問い合わせをしている動画を見ていたが、次第にその無益さを感じ始めていた。リベルタージを歩く人々は、顔こそ日本人だが、話す言葉はブラジルの公用語であるポルトガル語である。それを通訳を介して会話している様子を見ていると、徐々にもどかしくなっていく。仮に玲子の居場所が分かったところで、彼女がすぐに日本へ戻る意思を示すかどうか甚だ疑わしい。分かることといえば、引越し先が先日見つけた山間部にある平屋の家で間違いないかどうか、というぐらいで、それが分かったところで、どうということはない。つまりは、いま祐美に頼んでやっている玲子探しが、果たして意味のあることなのかどうか、そうすること自体、前向きに事態を収束させることになり得るのかどうか、極めて疑わしいということなのだ。
裕也は、ひとつ気掛かりなことがあった。玲子の出生のことである。父方の実家は九州の熊本県八代市にあるが、母方の実家を聞いたことがなかった。母親の話を聞くことはあったのだが、どうもそれがはっきりとしたものではなく、ひょっとしたら育ての母であって、実際の生みの母親は別にいるのでは、と思わせることがあった。裕也も過去の話にあまり深く訊くこともなくやり過ごしていた。ただ、彼女が話す母親の話は、どうもあったことのない彼女の生みの母親のことを話しているんじゃないかと思えることがあった。それが、記憶の中ではどうも日本ではなく、海外の話のような印象を受けた。
そのことをはっきりさせようと区役所へ出向き、彼女の戸籍謄本を調べることにした。本人との関係を尋ねられただけで、すぐに謄本は取ることが出来た。戸籍の欄を見てみた。彼女は養女だった。つまり、父親も母親も共に育ての両親だったのである。その左の欄に彼女の実の両親の名前が書いてあった。そして更に驚くべき事実を知ることになる。裕也はひとまず家に戻ることにした。玲子の持ち物を調べて見ようと思ったのである。家の中にしまってある玲子の持ち物を入れた段ボール箱を探して見た。そしてその中から、ブラジル移民団の記録が出てきたのである。
玲子の両親、堀内一雄と堀内由紀子は、当時の日本が、国内の不景気の打開策として募集していたブラジル移民として、神戸港を出るサンパウロ号に乗り四十九日間の航路の後、ブラジル北部アマゾン川下流にあるベレナという港町に寄港した。日本からの移民団は、そこから小型船に乗り換えそれぞれ目指す開拓地へと向かっていく。二人には、玲子という女の子が生まれたばかりだったが、日本での暮らしが立ち行かなくなり、養女に出し再起をかけブラジルの地を選んだのだった。目指す地は、アマゾン奥地のレントンという町で、そこで胡椒の栽培をするのが目的だった。その時の所持金は日本円にしてわずか三十万円であった。そのお金で、用地を譲り受け苗木と耕作器具などを買い開拓を始めていった。入植して一年目は胡椒の木が金のなる木になった。儲かったお金で更に農地を拡げ、胡椒だけでなくコーヒーの実の栽培などに手を染めていく。しかし、事業が軌道に乗り始めたころアマゾン地区一帯を襲った豪雨による長雨で、辺りは水没するほどの壊滅的被害を受けてしまう。堀内家の農場も例外にもれず、胡椒畑は修復不可能なまでに水没してしまった。せっかく築いた金のなる農地が水害と共に消滅してしまったのである。玲子の両親は、全てを失ってしまった。やがてどうすることも出来ず、農地を捨て日本へ戻ることを決意する。そうして日本へ戻った二人は、それぞれ日々の生活費を確保するため日夜働き続ける。そして行方が知れなくなった。
裕也はなるほどと思った。おぼろげながら玲子がやろうとしていたことがわかるような気がした。それは、急遽、引越しを決めたことも含めて、と同時にサンパウロまで出掛けていったことも含めて、すべてが繋がってくるのだった。
裕也は夢の中でアマゾン川奥地のレントンという町に降り立っていた。そこは鬱蒼とした雑木林が生い茂るところだった。気温は蒸し返るような暑さで、吸い込む空気もむせ返るような熱気がこもっていて、少し歩くだけで体中の毛穴から汗が吹き出てくる。裕也は額からこぼれ落ちる汗を拭いながら、どんどんと奥地へ進んでいく。熱帯雨林が生い茂る中にその家はあった。見るとそれは見覚えのある家だった。そうだと思った。この光景は、新しく引越しした場所にある家と同じ家だった。玲子は、実の両親がアマゾンの奥地で胡椒栽培をしていた家を日本のあの場所に見つけたんだ。そしてその地を訪れようとしたんだ。ふと目が覚めた。そして祐美と連絡を取った。
「わかった。玲子が居る場所はそこじゃない。そこから北へ行ったアマゾン奥地のレントンという町にいるはずだ」
「ええ? どうしてそこだとわかるの?」
「うん、彼女の過去の足跡を調べてみてわかったことだが、彼女はブラジル移民の子供なんだ。つまり、彼女は両親がブラジル移民として過ごした場所を調べに行ったんだと思う」
玲子は実際、レントンの町へ行ってどうしようというのだろうか? そこへ行って両親が過ごした場所を見て、ただ感慨に耽ることをしようということなのか。それともそこで両親が果たせなかった夢を再び実現しようというのだろうか? 裕也は何となくわかるような気もするし、しかしながら玲子の気持ちの奥深くには到底入って行けそうもなかった。それにしてもなぜ玲子は、自分にそれを打ち明けようとはしなかったのか、それが裕也にはもどかしかった。
祐美はホセと一緒に、さっそくリベルダージを出てレントンへ向かった。レントンの町はアマゾン奥地にあり、舗装されていない道路や湿地帯を進んでいく。脇道の熱帯雨林が茂る泥だらけの道路は抜かるんでいて、車内はジェットコースターに乗っているかのように前後左右に激しく揺れる。しばらくすると、熱帯雨林地帯を抜けて、低い牧草が生い茂る湿地帯が現れ始めた。
「ここらは、油断すると見たこともない色んな生き物が現れるからな」ホセが独り言のように言った。
「それはどんな生き物なの?」祐美が訊いた。
「どいつもこいつもやくざな生き物さ。隙を見せたら憎たらしい顔をして、俺達を小馬鹿にするのさ。赤茶けた長い舌を顔の周りにぐるぐると回し始めてね」ホセは、苦虫を潰したような表情で言った。
祐美の手には、泡だったペットボトルが赤ん坊のように抱えられていた。
車は砂埃を立てながら突き進み、やがて一軒の立屋があるところへ出た。ホセによると、ここの住人はかなり以前からこの地に住み、レントンの町のことを熟知しているとのことだった。車から降りると、二人は立屋の入口のある粗末な木製ドアのあるところに向かった。すでにドアは、閉められることなく半開きの状態になっている。その半開きの空間にホセが声をかけた。
「いるかい?」ホセが声をかけた。
中から人の気配がかすかに聞こえた。入口へ誰かが歩いて来るのがわかった。
「誰だ?」しわがれてぶっきらぼうな声が奥の方から聞こえた。
「リベルタージのホセだ」ホセが答えた。
ゆっくりとした足取りで、短く胡麻塩頭をした上半身裸の男が現れた。その裸の身体は、やせ細ってはいるがしっかりとした筋肉がついている。恐らく力仕事をしているのであろう、細い腕には体脂肪ゼロパーセントの筋肉がしっかりと付いていた。何の理由があって此処まで来たんだと言いたそうな顔をしている。
「ちょっと訊きたいことがあって来たんだが」ホセがぶっきらぼうに訊いた。
「何の用だ。事と次第によっちゃわからんこともあるぜ」
男は、ホセの後ろにいる祐美の方をギロリとした目でチラっと見ながら言った。
「最近ここらに日本人の女性が来なかったかい?」ホセが訊いた。
「日本人? 女性? 日本人がどういう輩か知らんが、ここにはワシらだけさ」
「そうかい。それは邪魔したな」そう言うと、ホセは踵を返すように祐美を方を向き直って首をすくめる仕草をした。熱帯雨林の湿地帯から地面を立ち昇る熱気がそこかしこに拡がっていた。
ホセの話では、レントンのことは先程の男に訊けば大凡分かるし、特に他所から来た者がいれば必ずわかるはずだ、と。だから日本人であれば目立つはずだから必ず耳に入っている、と。
レントンの町には宿泊施設もないので、二人は一旦リベルタージに戻ることにした。リベルタージのホテルへ戻った祐美は、裕也に連絡を取った。
「まあ、その原住民がどの程度の情報屋か疑わしいけど、もし玲子がレントンの町にすでに入っているとしたら、彼女のことだから口止めをしているのかも」
祐美からの報告を受けた裕也は、一人合点して言った。
「レントンの町自体は、そんなに広いところじゃないから、いるとすればすぐに見つかると思うわ」祐美は自分が言ってることが矛盾していると思いつつそう言った。
裕也は、それ以上話しても進展はないと思い、電話を切った。
玲子がサンパウロへ飛行機で入ったのは間違いない。そして、玲子の過去にはブラジル移民の子だったという事実があった。さらに、玲子の両親がレントンという町で胡椒栽培をやっていたという事実、さらには、いきなり引越しをした先がおそらくはレントンの町を彷彿とさせるところだったという事実。これらのパズルピースを組み立てて行くと、玲子がレントンの町にいるのは九分九厘間違いない。だが玲子の心の中がまったくわからない。なぜそこまでしてレントンへ行かないといけないのか、そこに何があるというのか、裕也には、玲子の心の内が闇の中奥深くに入り込んでいて決して覗き見できないような気がしていた。
裕也は仕事を終えて自宅へ戻っていた。一人でぼんやりと部屋にいることに違和感はない。一人でいることが特別好きという訳ではない。しかしだからと言って寂しくもない。このままずっと時が経っても多分大丈夫だろうと思った。この先何年もこの状態が続いたとしてもおそらく大丈夫だろうと思った。ひょっとしたら、もう玲子は帰ってこないのじゃないだろうか?とも思った。いつかは、人と人の出会いがあるように、人と人との別れもある。遅かれ早かれいつかは訪れることなのだ。
ようやく休みが取れることになった裕也は、仕事先へ二週間の有給休暇を申し入れ、早々にロサンゼルス経由サンパウロ行きのアメリカン航空を使ってリベルタージへ行くことにした。仕事で海外に行くことは多々あり、長時間のフライトには慣れていたはずなのに、個人的用件で乗ることは、考えてみたら初めてで何となく違和感を感じる。退屈しのぎにキャビンアテンダントに頼んで雑誌を持って来てもらった。彼女は満面の笑みで五冊の雑誌を両手に抱え差し出した。PREJIDENT、NEWSWEEK、等どれもお決まりの雑誌だ。旅行の特集が目に留まったのでそれを選ぶことにした。パラパラとページをめくっていると訊きなれない作家の小説が目に留まった。「闇の足音」というタイトルが書かれていた。裕也は、これを読むことで眠りを誘うであろうと期待して読み始めることにした。
ジャスティンは、三日三晩オフィスでの徹夜仕事を終え、ようやく自宅へ帰り着き床へ入り貪るように眠りに入ろうとしていた。と、その時玄関のチャイムの鳴る音がした。
誰だ? こんな夜中に、何時だと思っているんだ! 眠りに入ろうとしていたのを妨げられ時計の針を見て、不機嫌に玄関に向かった。時計は午前二時を示していた。
「はい、どなた?」夜中の午前二時という非常識な時間の訪問を厳しく非難する言い方でドア越しに訊いた。
「こんな時間にすみません。実は、向かいの部屋に住むリビエラというものを訪ねてきたものですが、さっき電話で確認して来てみたら全く応答がないもので、彼女のことをご存知ないかと思いまして……」若い女性の声だった。ドア越しに聞こえるようにと思ったのか、幾分ハイテンション気味の甲高い早口だった。
ジャスティンは、迷惑千万といった様子でチェーンロックを掛けたまま、ドアを数センチ開いて答えた。
「まず言っておきますが、向かいの住民とは親しくしているわけではなく、実際の話何処の何と言う人物が住んでいるのかも知りません。そして今何時かご存知でしょうが、午前二時という時間は、大凡の家庭が睡眠に入っている時間です。そういう時間に訪問のチャイムを鳴らすというのは、あまりにも非常識と言わざる負えませんが」ジャスティンは厳しく突き放すように言った。
「それはもう重々承知の上です。非常識とは思いつつお尋ねしたのです」
ドア越しに見えたその若い女性は、遠方から来たのであろうか、手提げ鞄を手に持ち黒いコートを身にまとっていて、表情は深々と被った帽子に隠れて赤いルージュ色の口元だけが見えた。
「まあ、ともかくそういうことですので、それでは」ジャスティンはさらに冷たく言い放ちドアを閉めようとした。その時だった。
「ちょっと待ってください。リビエラが言っていたのは、もしいなかったら向かいのジャスティンに伝えていると、そう言っていたんです」突然、予想だにしないことを若い女性は言い出した。
「何ですって! どうして私の名前を?」ジャスティンは思わず叫んだ。
冒頭そこまでを一気に読み進んだ裕也は、眠気をもよおすどころか次第に話しに引き摺り込まれているのにすら気づいていなかった。
「ちょっと待って下さい。なぜ付き合いもない名前も知らない向かいの住人が私の名前を口にするんですか」ジャスティンは、それを目の前の若い女性に尋ねたところで明確な回答は得られないであろうことは重々承知の上で訊いた。
「それが分からないからあなたにお尋ねしているのです」至極最もな返事だった。
ジャスティンは、しばしドアの内側にいてドアノブを右手に持ったまま考えあぐねていた。待てよ、彼女は何が目的なんだ? 向かいの家を訪ねてきたというのは本当の話だろうか? もし嘘だとしたらどういうことだろうか? 最初からここへ来るのが目的だとしたら、名前は下の郵便ポストで分かる。じゃあ私に何の用事なんだ? こんな夜中の時間に見知らぬ――実は、私のことは調べがついていて知っているかもしれない――男の家を訪ねることにどんな理由、目的があると言うんだ? そうか、例えばこうだ。彼女はいま経済的に非常に困った状態にいる。私がたまたま街の銀行に出掛けた際に、受付で自分の名前と住所を告げたのをすぐ後ろの席でじっと聞き耳を立てて聞いていた。そこで、銀行でのお金の出し入れを見て経済的に余裕があるであろうと踏んだ。そして彼女なりに考えて、普通に昼間に行くことよりも、夜中の方が重大なことと思ってもらえると考えた。そして見知らぬ女性の不意の訪問理由をつくるために向かいのものをだしに使った。そして運良く家の中へ招き入れてもらえると、取ってつけたような理由を告げ、涙ながらに、あるいはこんな夜中だから、若い女性の特権である色気を振り撒いてその気にさせる。かくして間抜けな私は、彼女の境遇に同情し、あるいはうら若き女性の色気に参ってしまい、あっさりと一万ドルを渡してしまう。ここまでをジャスティンは瞬時に考えた。が、しかしそれと同時に、答えを知りたいという欲求を抑えることが出来ず、どういう風に展開するのか期待半分、不安半分といった面持ちで彼女を家の中へ招き入れることにした。
裕也自身がジャスティンという主人公に成りきって、この若い女性の正体と真の目的を暴くために物語奥深く入り込んでいた。読みながらふとこれから見つけようとする玲子の行方のことを思った。話の展開や筋は全く異なるが、もやもやとした闇の中を彷徨う様子がジャスティンの立場とあまりにもよく似ていたからである。もはや眠気はすでに吹き飛んでいた。
ジャスティンは、女性を居間にある横長のソファに座らせると、すぐに訪ねることにした。
「一体、どういうことなのか詳しく聞かせてもらいましょうか」ジャスティンはそう言ったものの、彼女を家の中へ招き入れたことを少し後悔していた。なぜなら興味本位で中へ入れたものの、理由がわかったところで、何処の誰かも知らない彼女と自分は全く関わりのないことは事前に分かりきったことだったからである。
「色々と親切にしていただいてすみません。それとこんな夜中に不意の訪問をさせていただくなんて……」彼女は遠慮がちに俯いたままで言った。
「かまいませんよ。それよりなぜ私の名前が出たのかそれを知りたいのです」ジャスティンは、少しせっつくように言った。
彼女は、俯いてた顔を上げて訥々と語り始めた。
彼女の名前は、メアリー・ウィンウィッドといった。訪ねてきたリビエラとは、幼馴染でブラジル・サンパウロの出身だった。そのリビエラが、ある日突然とサンパウロを居なくなる。居なくなる兆候なんて全くなかった。なかったどころか、リビエラの人生において現実の日常から逃れる理由なんて何処にもなかった。リビエラには夫と二人の子供がいた。夫は連邦航空局に勤める勤勉な公務員、二人の子供は4歳と6歳でこれからの成長が楽しみだった。そしてリビエラは、買い物に出掛けた帰りに突然と居なくなった。夫のサントスからメアリーに電話があったのは、夜遅くのことだった。
裕也は、サンパウロの文字が出てきて愕然とした。話の展開が自分のことと全く同じで、こんなことがあるなんて信じ難いことだと思った。裕也の目は雑誌に釘付けになった。
「メアリー、こんな夜遅くすまない。リビエラが買い物に行ったきり帰ってこないんだ。君のところに居ないかと思って」サントスの声は、上擦って震えていた。
「ええ? どういうこと? リビエラが居なくなったって…… 他に心当たりといったら……」メアリーは困惑して答えた。
「それが…… 実は、リビエラからは電話があったんだけども」
「ええ? どういうこと?」
「リビエラから僕に連絡があって、突然引越しをしたからそっちへ来てくれと言うんだ」
そこまでを読んでいた裕也は、あまりの偶然の一致に目眩がしてきた。あり得ない!こんなことってある訳がない。そう思いつつも、もはや裕也の目は雑誌から離れることは出来なかった。
「電話があったってことね、でも引越しって、その予定があったわけ?」
「予定なんてあるもんか、で、リビエラが言う引越し先の住所を訊いたら、そこがリベルタージから奥深く入ったレントンという町で、そんなところに引っ越す理由なんて全く考えられないし、そう言ってるうちに電話が切れて、それっきり掛かってこないし、こっちから掛けても電話は繋がらない」サントスの話は、脈絡なく続く。
「じゃあ、リビエラは自分の意思で居なくなったってことなの?」メアリーはサントスの不安を和らげようというつもりで言った。
「それは、どうだか分からない。自らの意思なのか、不可抗力なのか」
そうしたことがあって、数日が経ったある日、メアリーのもとへリビエラから突然の連絡があった。リビエラは、アメリカのモンタナ州ボーズマンという町にいた。話を聞いたメアリーは、サントスが仕事を休むことが出来ない代わりに、リビエラに会いに行くことにした。
「もし私が居なかったら、向かいの家にいるジャスティンという人に伝えているから訪ねて」とリビエラは言った。
そこまで訊いていたジャスティンは、不思議に思った。なぜそこで自分の名前が出るんだ? リビエラという女性は全く知らないし、彼女も自分のことは知らないはずだ。同じ棟に住んでいれば、郵便受けを見れば名前は分かる。でも、そうだからといって、自分の名前を出すことに何の意味があるというのか。
「それで、そのリビエラという人は家の中にはいないということ?」
「ええ、何度呼び鈴を押しても誰もいない様子なんです」メアリーは申し訳なさそうに言った。「彼女がいないとなれば、どうしたらいいのか……」頭を抱え込むようにして塞ぎ込んだ。
そうやって、ここにこのまま居残りされてもジャスティンとすれば、迷惑な話だった。
そこまでを読み進んだ裕也は、一向に進展しない話に次第にイラついてきた。よくよく考えれば、単にかかわりのない家を訪問しただけの話で、だからどうだということである。肝心のリビエラという女性は、いつまで経っても話の筋に現れる様子すらない。何かが起こりそうで、実際の話、何も起こらない。ジャスティンとメアリーの進展しない話が延々続くだけである。しだいに思考能力が低下していくのを感じた裕也は、ゆっくりと目を閉じた。そして深い眠りに入って行った。
グアルーリョス国際空港へ到着すると、祐美が出迎えに来ていた。あれから全く玲子の行方の進展はなく、祐美の様子を見れば、サンパウロでの滞在を満喫している風にすら思えた。
「はあい、長旅お疲れさま、やっと長期休暇が取れたみたいね」祐美は、いつもの明るい調子で開口一番屈託のない笑顔で言った。
「いやあ、長旅で疲れたよ。仕事している方が楽でいい」裕也も笑顔で答えた。
到着口から出ると、すぐにタクシーに荷物を詰め込み、滞在先のホテルへ向かった。
「あれから、色々と玲子の情報がないか聞き込みを続けているんだけど、これといった進展がなくて……」取りも直さずの関心事である玲子の情報について、まずは概要を伝えておこうということなのか、祐美の方から言ってきた。
「うん、まあ連絡がないということはそういうことだと思ってるけどね」
「でも搭乗員名簿に玲子の名前があったのは間違いないから、きっと見つかるわよ」祐美は、裕也を気遣ってそう言った。そういう言葉を発すること自体、半分あきらめムードが漂っているのも確かだった。
明日からの捜索の打ち合わせを祐美としてホテルへ戻った裕也は、部屋に入り荷物を片付けると、ソファに座りビールをグラスに注ぎながらテレビのスイッチを入れた。地元のテレビ局がローカルニュースを流していた。何処かの子供施設のようだが、子供達と何やら遊戯みたいなことをしている映像だった。ブラジルの公用語であるポルトガル語で話しているので何と言ってるのか分からない。そのテレビの画面をしばらくぼんやりと眺めながらビールを飲んでいた裕也は、突如その画面に現れた玲子の姿に思わずグラスを落としそうになった。玲子の姿はほんの数秒のことで、すぐに他の子供達と遊ぶ別の大人達の画面になった。裕也の目はテレビの画面に釘付けになり、グラスを持ったまま固まってしまった。ふと我に返った裕也は、テレビの続きが気になってそのまま見続けた。が、しかし玲子の姿は二度と現れなかった。番組の最後にエンドロールが流れ、目を凝らしながら何らかの情報が得られないか懸命に文字を追った。しかし、ポルトガル語で書かれた文字が分かるはずもなく、下から上に流れていく文字をじっと見つめていた。そして最後に出てきたおそらく制作会社かテレビ局のロゴマークらしきものが目に止まった。それには、Renton TV Ergency と書かれてあった。すぐに祐美に連絡を取った。
「すぐに通訳を手配してくれ、すぐにだ」裕也は、のんびりとした声で電話に出た祐美に大声で言った。
「どうしたと言うの? 何か手掛かりがあったの?」
「そうだ、テレビを見ていたら玲子が出てきた。詳しくは後で話す」手短に用件を伝え、すぐに着替えて、祐美の滞在するホテルへ向かうため夜の街へ飛び出した。
リベルタージの町はホテル街がある辺りを過ぎるとすぐに暗闇の続く道に変わった。裕也を乗せたタクシーは暗闇の中をひた走り続けた。ホテルが手配したタクシーとはいえ、小さな田舎町のタクシーである。言葉の通じない運転手と二人だけの世界というのはかなり不安な面持ちである。チラッとフロントガラスを見ると、大きく上下にひび割れた線が入っている。舗装されていないデコボコ道を時速六十キロで飛ばしていて、年式の古い車はギアチェンジのたびに大きなうねりを上げていた。
一時間ほどでようやく祐美が滞在しているリベルタージのホテルに到着した。裕也がホテルへ入っていくと、祐美がフロントで通訳のホセと一緒に待っていた。
「遅くに申しわけない。玲子の姿をテレビに見つけて、いても経っても居られなくなって」裕也は、早々に通訳のホセを手配して待っていてくれたことに対して詫びる気持ちで言った。
「そんなことより何処のテレビ局? 何という番組?」祐美はせっつくように言った。
「番組は分からない。テレビ局も分からないが、チャンネルは213だった。ただ番組最後のエンドロールのところでRenton TV Ergencyというロゴマークが出たからおそらく制作局か制作会社だと思う」裕也はエンドロールという業界用語を使って答えた。
「Renton TV Ergencyというのは、多分地元のテレビ番組の制作会社だろうからすぐに分かるはずだ」横からホセが言った。
「じゃあすぐに調べて欲しい。住所と連絡先だ」裕也は一縷の光明が現れてきたかのような気持ちになっていた。やはり玲子はいた。この地にいたんだ。それにしても玲子は一体何を考えてここに留まっているのか、そしてなぜ連絡してくれないのか。
その会社はすぐにわかった。リベルタージの繁華街の中心にオフィスを構えていた。レントンTVが出資する会社でレントンTVの番組制作を行っていた。裕也と祐美とホセが受付で用件を言うと待合室のような部屋に通された。しばらくするとひとりの男が現れた。
男は名刺を差し出しながら挨拶をした。
「はじめまして、レントンTV制作の番組プロデューサーをやっているカルロス・ナカタといいます」男は日系人のようだった。顔を見ると全くの日本人に見えた。
裕也も簡単に挨拶をし、二人を紹介すると早々に質問した。
「実は、昨日の夜八時ぐらいにおたくのテレビ局で放送している番組を見ていたら、その番組の中に私の妻が出ていたんですが、あの番組はいつどこで撮影されたものでしょうか」裕也はできるだけ丁寧に質問したつもりだったが、ホセの通訳はかなりの早口で聞いているかぎりではそっけなく聞こえた。
「昨日の夜八時というと、ローカルニュースの時間だね。どのニュースのことを言ってるのかよくわからないが……」カルロスはにこやかな顔で答えた。
「大人と子供達が何やら踊っているようだった」裕也は説明した。
「ああ、あれね。あれは確か二週間前のVTRで、地元のボランティアが孤児院を訪問した時の様子を撮影したものだ」カルロスはわかってよかったと言わんばかりに得意顔で言った。
「そのボランティアはどこの何というボランティアグループだろうか」裕也は懸命に質問する。
「それは、私達ではわからない。私達はその孤児院からの情報でボランティアの慰問があると聞いて撮影しただけで、どこの何というボランティアかまではわからない」
裕也は無理もないと思った。南米特有の大らかさも手伝って、そんな細かいところまで事前に調べて編集することなど考えにくいと思った。まして地方局の制作会社である。
「その孤児院はわかりますよね」裕也は訊いた。
「もちろんです。すぐ調べてきましょう」カルロスはそういうと、すぐに部屋から出て行った。
孤児院の場所はすぐにわかった。リベルタージの街のはずれにある古ぼけた建物の一角にその孤児院はあった。裕也達三人が入っていくと、数人の孤児が怪訝そうな目で裕也達を見つめていた。崩れ落ちそうなドアノブを廻すと、ギギイと音を軋ませ内側へ開いた。中へ入り、ホセが声を掛けると、奥から狡猾そうなにやけ顔の背の低い男が現れた。
「これは、これはどうも。ようこそいらっしゃいました」
狡猾そうな男は、裕也達のきちんとした身なりを見て、それ相応の社会的地位のものだと瞬時に判断しそう挨拶をした。
「ちょっと尋ねたいことがあって来たんだが」ホセが言った。
「はあ、どういったことでしょう」狡猾そうな男は、何か咎められることでもあるのか、ちょっと不安の色を浮かべ答えた。
「実は、先日この孤児院にボランティアグループの訪問があったと思うんだが、どこのボランティアか知っていたら教えて欲しい」ホセはてきぱきと質問した。
狡猾そうな男は、一瞬考える素振りを見せたが、こちらの意図を探るかのようにもったいぶった様子で唸ったまま天井を見上げた。
「いやあ、突然の訪問で子供達と触れ合ったあとは、挨拶もそこそこに帰って行ったからねえ……」狡猾そうな男はしらばっくれた様子で答えた。
突然の訪問としても、全くの連絡もなくボランティアグループがやってくるものだろうか? そしてやって来たならば、挨拶のひとつもしようというものだ。どこのボランティアだったか分からないというのは、どう考えてもおかしい。そう思った裕也は、ホセに日本語で耳打ちした。
「思い出せそうにないと言ってるのか?」裕也はそう訊いた。
「いや、多分お金を出せば思い出すと思う」ホセが答えた。
「まあ、ふざけてるわ」祐美がホセに向かって憤慨して言った。時に喜怒哀楽をそのまま通訳にぶつけられるのはよくあることだが、ホセとしては自分が怒られたような気持ちになる。
「しょうがないな、まあいいよ。幾らか渡してくれ」裕也はそう伝えた。
ホセは、財布からお金を出すと1ペニーを狡猾そうな男に差し出した。
「やああ、これはこれはどうも」頭をぺこぺこと下げながら遠慮することもなくさっさと受け取った。
「ああ、そうだ。思い出した。確かあのボランティアグループは、レントンの街から来ていたな」男は白々しく言った。
「グループの名前は?」ホセが訊いた。
「ええっと、何と言ったか? よく思い出せないが…… 何だったかなあ」と狡猾そうな男は再び考え込むように空を見上げる。裕也はすぐにホセへ目配せをした。ホセが再び財布から1ペニーを出して、これでどうだと言わんばかりに胸倉のシャツの間にねじ込んだ。
「そうそう、思い出した。確かレントンズナイトと言っていた」男は答えた。
「レントンズナイト? レントンの夜……」裕也は独り言のようにつぶやいた。玲子がもし考えたとしたらありがちな名前だと思った。思い起こせば最初の出会いがそうだった。裕也が用事があって近道である公園の中を通り過ぎていたら、ふと声を掛けられた。
あなた、なぜ背広のままジョギングしてるの? 急に横から声がした。
えっ? いやジョギングしてるわけじゃなくて、急いでいるもんでね。裕也は声がした方向を振り向いた。声の主は、同じ年ぐらいの女性だった。そういう彼女も小走りで走ってはいるが、見た格好はジーパンに赤いセーターで普通着だった。
そういう君こそ、普通着でジョギングしてるんじゃないか? 裕也は、返す言葉で言った。
何かね、散歩していたら背広姿の人が走っているのが面白くって。彼女はニコニコ笑いながら答えた。それが玲子だった。
背広姿で走るのがそんなに面白い?
そう、何となくトーキー映画のバスターキートンのようじゃない?
バスターキートン? 随分と古い映画を知ってるんだな。
もうすでに二入とも走ってはいなかった。お互いゆっくりとした速度で歩いていた。公園の中は秋の紅葉が咲いてイエローブラウンに染まっていた。落ち葉の感触を踏みしめながらお互いの吐く白い吐息を眺めていた。
ねえ、この景色を言葉にすればあなたならどういう風に表現する?
変わった質問をするねえ。見たことを言葉にするのはあまり得意じゃないけど……そう、例えば、紅葉に染まる落ち葉の何とか、とか……
わたしはね、イエローブラウンの夜。
夜? 何で夜? 今は朝だろ?
何でもね、夜なのよ。わたしの場合は。
そう言って、彼女はまた走り出した。裕也もすぐに後を追うように走り出した。
リベルタージの街を出て再びレントンの街へ向かった。夜中ということもあり、ホテルに着いて目的の所へは明日行くことにした。一旦チェックインして三人で食事をすることにした。レントンのホテルは、随分と築年数が経過している風であちこちの壁に黒ずんだ染みが入っていた。ホテルのレストランは質素なもので、木製のテーブルが4つ置いてあり裸電球がぶら下がっている。スープとパンにワインという簡単な食事しかなかった。
「それにしてもあの孤児院の男、頭に来るわねえ」テーブルに就いてすぐに祐美が言った。
「ここはお金さえ出せば大抵のことは解決する」ホセが答えた。
「そんなにひどいのか?」裕也が訊いた。
「空港なんかひどいもんさ。パスポートの間に1ペニーを挟んでおくだけで、入国審査通過のときに随分と時間短縮になる」ホセが説明を加える。
「それでか…… 入国審査に随分と待たされた」裕也が答えた。
「そんなことより、明日、玲子は見つかるかしら……」
「少なくとも何らかの情報はあるはずだ」裕也は、そう確信めいた返事をしたもののいささか不安だった。よくよく考えてみると、玲子は引越しの連絡を最後に全くの音信不通になっているのだ。そして気まぐれな彼女の性格を考えると、そうそう簡単に見つからないような気がするのも事実だった。
目的のボランティアグループの事務所があるビルまでは、歩いて行ける距離だった。事前に電話をしてみたが、受付の女性は、中のことはよくわからないという。お昼ぐらいに責任者が出てくるのでその頃来てみたらいいということだった。お昼という時間もはっきりとしているわけではなく、日本みたいに正確な時間を期待することは、地球を一周することと同様なぐらい難しいことだと分かってはいたが、はやる気持ちもあってきっちりお昼十二時に訪問した。南米の空はどこまでも晴れ渡り、太陽の陽が手に届きそうなぐらいじりじりと容赦なく照りつけていた。案の定、事務所には受付の女性が一人しかおらず、孤児院の訪問の件だとかいろいろと尋ねるが全く要領を得ない。しょうがないので責任者が出てくるまで待たせてもらうことにした。部屋の中は冷房が効いてなく、太陽の陽に照らされた熱風がこんもりと溜まっていて、身体中の毛穴から汗が滲み出てくるのが分かる。三人ともさっきからじっと押し黙ったままだ。
どれぐらい待ったのか時間の感覚がなくなった頃に、ようやく責任者が現れた。責任者はドタバタとした雰囲気で、忙しなく落ち着きがない様子だった。その男は、デスクの上の書類を見ながら、面倒そうに裕也達に問いかけるでもなく、受付女性に問うている風でもなく言った。
「何の用事だ?」
先程まで、受付女性に説明をしていたのと全く同じことを二度繰り返さなければないないことが、熱風のこもった部屋の暑さのせいもあり、億劫にさえ感じられた。部屋の熱気が説明を遮っているかのようにも感じられる。
「リベルタージの孤児院をお宅のグループが訪れた時に、その中に一人の日本人がいたと思うが、名前はイシカワレイコという女性だ。彼女を探している」ホセが説明した。
「日本人? 我々のグループには日本人はいないが? イシカワレイコ? 聞いたことないな」その責任者が期待に反する答えをしたことが、最初裕也の耳に入ってこなかった。それは、その責任者の答えをあらかじめ想定していたために入ってこなかったのである。その答えはこうだ―― ああ、知ってるさ。イシカワレイコだろ? 彼女なら先週からうちに来てもらっている―― 裕也はその責任者の言葉に偽りがないか疑問に感ずることもなかった。そのとおりだとしたら、なぜ彼女はテレビに映っていたのか。たまたま通りがかりに立ち寄っただけで、ボランティアグループとは何の関わりもないということなのか。
そんなことがあるだろうか。裕也の記憶では、彼女は何人かの大人達に混じって子供達と一緒に踊っていた。
「間違いないか? 彼女が子供達と一緒に踊っているのがたまたま地元のテレビ局のニュースに映っていたんだ。だから一緒にいたのは間違いないはずだ」ホセは裕也の説明を通訳して伝えた。
「いや、知らないものは知らない。何なら他の者に訊いてみたらいい」責任者はウンザリした様な顔で言った。
この男の頭の中には、おそらくそんなことより税務署に申告しないといけない税金の支払いの件がぐるぐると回っているに違いない。あるいは、役所に申告する今年度の補助金申請の件で、減額を言い渡されていることが気掛かりでしょうがないに違いなかった。裕也はそんなことを考えながら、いまこの件が手繰り寄せられる唯一の望みでもあるとも思っていた。ここで何とか手掛かりが欲しかった。そうじゃなければ、玲子は永遠に現れてはこないかもしれないような気がしていた。
他の者がいつ出て来るのか検討もつかないので、何かわかったら連絡してもらうようお願いして施設を後にした。
裕也は、いささか疲れてきていた。南米特有の湿気が立ち込める暑さのせいもあったが、テレビで玲子を見つけたときはもう見つかったのも同然と思ったが、一向にその手掛かりが見えず暗中模索の状態に陥ってるからでもあった。裕也と祐美は、ホセと別れホテルへ戻って来ていた。
リベルタージのホテルは、建築されてから何十年か経っているようで、受付ロビーの後ろの壁面には幾筋かの濃い茶色のシミがこびり付いていた。二人は、ロビーすぐ横のレストランへ入り、裕也もここで食事をすることにした。一向に口を開かない裕也を見て、祐美が話しかけた。
「これからどうするの?」
「うん、とりあえずさっきのところへは、また行くことになると思うが、孤児院も場合によっては行かないといけないかもしれない」裕也は、それで見通しがついているわけではないが、今出来る最善の策として考えられることとして言った。それ以上は、今のところどうしていいのか分からないというのが事実だ。
食事を終え、裕也は宿泊先のホテルへ戻った。部屋へ戻り、パソコンの電源を入れメールを開いた。日本からのメールが何通か届いていた。どれも会社の部下からの報告だった。すぐにどうこうという内容ではなかったが一応返事だけは送ることにした。メールを送信し、応接の椅子に座った。身体中が重く感じそのまま椅子に沈んでいくように感じられた。ともかく疲れていることに今始めて気づいた。この感覚は何なんだ、と思った。思えば、会社に玲子から電話があり、その時に話をしてそれ以来ずっと音信普通になっている。あれから数日しか経っていないが、もう数年も経過しているような気がした。もう何年も玲子とは会っていないような、そんな感覚に捉われていた。ずっしりと重い体を椅子に沈め深くのめりこんで行き、底なし沼に捉われているような、そこから中々這い出ることが出来ないような感覚に捉われ、やがて眠ってしまった。
深い眠りの中で、裕也は再び夢を見た。そこは、日本でもない、ブラジルでもない、最果ての地、サハリンだった。その昔、樺太として日本が統治していた島である。裕也は、コルサコフという町にいた。そこは、王子製紙の工場の中だった。その工場の敷地は海岸に沿っていて、外へ出ると海からの風が容赦なく吹きつけてきて、吐く息も凍ってしまいそうな寒さだった。裕也が工場の外へ出ると、一人の男が寄って来た。名前をウラジミル・ハンといい韓国系ロシア人だった。工場の近くで韓国料理の食堂を経営していた。
「もうすぐこの辺りは閉鎖になるから早くここを出て行った方がいい」ハンはそう言った。
「どうしてだ?」裕也は訊き返した。
「もうすぐ戦争が終わる。日本は負けたんだ」ハンは断定するように言った。
「戦争? どことどこが戦争をしていると言うんだ?」
「日本とアメリカだ。日本はアメリカに負けたんだ」ハンは言った。
「でもここは、サハリンじゃないか。それとアメリカとの戦争が関係するというのか?」裕也は、なぜかサハリンの王子製紙工場で働いていた。
「そうだ。アメリカに負けた日本は、列強国によって南北が分断された。だからここは明日からロシアの管轄になる。日本人は、もうこの国には住めないようになっている」
「そんな馬鹿な、南北に分断されたのなら北日本と南日本に分かれて住めるはずだ」
「いや、そういう訳には行かない。ここはもうロシアの領土なんだ。だから速やかに出国することだ。悪いことは言わない」ハンは、見たところ兵士のようだった。肩から機銃用の銃弾の弾をぶら下げていた。
「君はロシアの兵士なのか?」裕也が訊いた。
「そうだ。だから明日になれば、ここに住む日本人を一人残らず一掃しないといけない」
「でもここを出たからといって何処へ行けばいいと言うんだ?」裕也はハンへ訊き返した。
「今日の夜八時に港を出る船がある。それに乗ったら小樽に行くことになっている。工場の人達は全員それに乗るはずだ。行ってみたらいい」ハンがそう答えた。
吹きすさぶ風は、凍てつく寒さで身体中が氷柱になってしまいそうだ。裕也は胸ポケットに入れていた懐中時計を出して見た。午後六時だった。あと二時間しかなかった。ここから港まで歩いてどれくらいかかるか検討もつかない。間に合うのだろうかと思った。
「港まで歩いてどれくらいかかるんだ?」
「たいした距離じゃないさ、三十分ぐらいじゃないかな」ハンは事もなげに言った。
時速五キロで歩いたとして三十分歩くとすれば、約二キロ半の距離だ。あるいは二キロかもしれない。確かにたいした距離ではないが、ここは極寒の地サハリンだ。二キロ半の間に、どんな困難が待ち受けているかも知れない。
「わかった。素直に忠告を受けることにしよう」裕也はそう答えた。
その場でハンに別れを告げ、すぐに港がある方向へ向って歩き出した。はっきりとした距離がわからないが、ハンが言うにはともかく夜八時には日本へ帰る船が出るという。乗船時間を考えると実際には七時半には着いてないとまずいだろう。時計の針はすでに六時半を示していた。あと残り一時間と考えた方がいいだろう。裕也はそう思い、歩く速度を早めた。しかし真横に吹き付けるブリザードのように突き刺してくる雪で先の視界もよく見えない。足元もぬかるんで思うように前に足を進めることができない。しかしここで歩くことを止めるわけにはいかなかった。今ここで止まったら、そのまま倒れてしまい二度と立ち上がることは出来ないだろう。二キロちょっとの距離がこんなにも長い距離に感じるとは思わなかった。吹き付ける降雪のせいで五キロ以上以上にも感じられた。とにかく数メートル先しか視界が開けていない。しばらく進むと廃墟になった建物の陰にうずくまっている一人の女性がいた。建物の柱にもたれかかり座り込んでいる。両手で膝を抱え込んだまま顔を両膝の間に埋め込んでいた。裕也が近づいてみると、その女性は人の気配を感じたのかゆっくりと顔を上げた。そして一言、言葉を発した。
「一緒に連れて行ってください」消え入るような声だった。
「日本へ帰るけれど、それでいいのか?」裕也が訊いた。
「ええ、お願します。私も日本人ですから」女性はそう答えた。
「歩けるようだったら私の後ろをついて来て」
「はい、わかりました」
そう答えた女性は、裕也の後ろについて歩き出した。
裕也はそう答えたものの、なかなか思うように前に進むことができない。とにかく吹きすさぶ雪と強風に身体が後へ倒れそうになる。それでも何とか一歩ずつ前へ進んだ。後の女性がちゃんとついて来ているのか見る余裕などありはしない。自分が前へ進むだけで精一杯だ。そう思いながら、ふと後ろをついて来ている女性は何者なんだろうと思った。日本語をきちんと話しているところを見るともちろん日本人だろう。彼女もあの韓国系ロシア人にこの地を離れるように言われたのだろうか。そう思いながら、ふと後ろが気になり振り返った。が、そこにいるはずの先ほどの女性の姿はなかった。裕也は、しばらく吹雪で視界の悪くなった先の方まで眼を凝らして捜してみたが、それらしき人影は見当たらない。
ひょっとしたら地面にうずくまっているかもしれないと思ったが、まださほど進んでなかったから視界が通る範囲に見えるはずだ。それが全然見当たらない。どうしたことだ、と思った。そう思いながらあまりの寒さのせいで意識が遠のいて来た。そして目が覚めた。
裕也はしばらく天井を眺めていた。夢の記憶が鮮明に頭に残っていた。そしてなぜ今まで行ったことのない場所が出てきたのか不思議な気持ちだった。サハリンなんて実際にどういうところかも知らないし、かつて日本領だったが、今はロシアの領土になっているということぐらいしか知らない。それがなぜリアルに街の情景まで夢の中に出てきたのか分からなかった。この真夏の気候のアマゾン河流にいるのになぜ極寒の地のサハリンが出てきたのか。
翌朝、外から差し込む日差しのせいで目が覚めた。時計の針を見ると八時半だった。いつもであれば、もうすでに会社に着いている時間である。会社は九時半が始業時間だったが、大抵裕也が一番に会社に出てきていた。それは、家に居るのが嫌だからということではなくて、誰もいない時間が一番好きだったからである。八時半から少しの間、誰も居ないオフィスで一日の予定を整理して準備を整える、それが毎日の日課だった。それが、今はどうだ。目が覚めて整理をするといっても何をどう整理すればいいのか、次に何をすればいいのか、皆目検討がつかなかった。しばらくベッドの中でぼんやりとしたまま、何も考えずにいた。そうして考えてもしようがないな、と思った。とりあえず、事実関係をもう一度列挙してみることにした。そこから何らかの手掛かりが掴めるかも知れない、そう思った。まずは、玲子が電話をしてきたところからだ。電話がかかってきて、突然引越しをしたと言った。だから帰りはそっちへ来るようにと言った。そして実際そこに家があった。しかし、その電話を最後にそれっきり玲子は音信不通になっている。そして自宅を整理していて出てきたのが、玲子の過去の秘密だった。玲子の両親はブラジル移民としてレントンという町へ渡りそこで胡椒の栽培を始め、ある程度は成功するが大雨被害に遭い日本へ帰って来た。そこまでは間違いないことだった。だが待てよ、玲子は、どこで生まれて育ったんだろうか。出会って今までブラジルの話は一回も聞いたことがなかったことから推測すると、まず日本で生まれたかブラジルで生まれたか知らないが、育ったのは日本だろう。
突然、部屋中に切り裂くような電話の音が鳴った。慌てて電話を取った。
「あたし、ちょっと思ったんだけど、テレビ局にニュースの件を訊いてみたらどうかな」電話の主は、祐美だった。
「ええ? どういうこと?」
「うん、あれからずっと考えてたんだけど、あのニュース映像の情報が事実かどうかってこと」電話の向こうから響く祐美の声は金属音のように聞こえた。
「事実じゃなければどういうことだ?」
「事実じゃなければ、意図的にそうしたということ」
「意図的? なぜ意図的にする必要がある? 誰がどういう理由で意図的にニュースを創作するというんだ?」裕也はそういながら意図的に作為する理由を考えてみた。
テレビ局制作プロデューサーであるカルロス・ナカタが言っていた孤児院の名前が違うとすれば、彼はなぜそういう必要があったのか。カルロスがそういう必要は全くないはずだ。なぜなら彼と我々は全く接点がないし、彼がそういう理由は全く見当たらない。とすれば、もし意図的にそうするならば、誰かに頼まれたとしか考えられない。誰かとは、誰だ? 玲子なのか? 彼女がそうする理由を考えてみた。ということは、彼女はもっと別のところにいるということなのか。敢えてもっともらしく孤児院を訪れたかのようにニュースで取り上げられる。ところが実際は全然別のところにいるとしたらどうだろうか。それが彼女の意思だとすれば、彼女は俺に見つけて欲しくないということなのか。話を最初に戻せば、確かに黙って一人で勝手にブラジルくんだりまで行くこと自体接触を持ちたくないことの証しでもあるのだが、もしここまで追いかけて来た時のことを想定してまで予防線を張っておこうということなのか。
「そうか、じゃあ意図的にそうしたとすれば、その真意を図るにはお金で解決させることも出来るということかな」裕也は言った。
「そうね、試してみる価値はあると思うわ」祐美も賛同した。
そうして再びホセを伴ってテレビ局制作会社のカルロス・タナカを訪ねることにした。会社に到着して一階のロビーで待っているとカルロス・タナカがにこやかな表情で現れた。
「やあ、これはこれは、先日お越しいただいた日本の方ですね.今日はまたどういったご用件で?」カルロスが、こちらの用件は全く予想だにしていないといった様子で訊ねた。
「ええ、今日は実は、この前のニュースの件で今一度確認したいことがあったので」ホセの通訳を介して話をするので、なかなかもどかしい感じがする。
「はい、どういったことでしょう」カルロスは終始にこやかに話している。
「この前の撮影場所についてですが、あの孤児院は間違いないですか?」裕也はずばり訊いた。
「ええ、勿論。撮影クルーの記録を見ましたから間違いないですよ。場所の件で何か問題でもありましたか?」カルロスはそう答えた。
裕也はどうしたものか、と思った。というのもカルロスがもし嘘をついているとしたら、正直に言うはずがないし、最後までとぼけるだろうからだ。とすれば、ずばり交渉した方がいいのかもしれない。
「どうだろうか、もしあなたが間違っていたとしたら、その撮影クルーにもう一度確認すればいいことでしょうが、もしそうじゃなくって、何かの圧力にあなたが屈しているとするならば、その圧力に対してお金で解決できるだろうか?」
随分とまわりくどい言い方をしたかな、とは思ったが、そうでも言わないと結局のところひとつも前に進まないのだ。何日もここに留まるわけにはいかないし、早く事態を解決しないといけないのだ。あとはカルロスがどう反応するのか、それが問題だ。
「なるほど、あなたは私が誰かの意志によって事実をねじ曲げていると思ってらっしゃるわけだ」裕也の質問に対して意外やすんなりと反応してきたので、一瞬驚いてしまった。その辺が、日本人と違って割り切った考えなのだろう。ストレートに質問したらストレートに返ってくる。日本人のようにまわりくどいことは言わない。こっちとしてはその方が有り難い。
「そう、そう思っていると言うより、その可能性に賭けていると言った方がいい」と裕也は答えた。
「つまり私の情報を元に孤児院へ行ったけどもあなたが探している日本人はみつからなかった。だから元々の情報が間違っていたということですかな?」カルロスはそう言った。
「間違っていたとは言ってない。違う情報を流したということだ」と裕也は言った。
「よろしい。じゃああなたの理想は、正しい情報を手に入れてあなたが探している人を見つけたいということですかな」カルロスは他人事のように言った。
「その通りだ。どうか正しい情報を伝えて欲しい」裕也はそう言いながら、次第に疲れてきていることに気づいた。中々真実に近づいて行かないことに苛立ちを感じ始めていた。
「正直に言おう。残念ながらあなたの希望する情報は与えることができないようだ。私が聞いたのは撮影クルーの記録をディレクターに確認しただけで、その真実のほどまでは確認していない。つまりそれを信用するしかないということだ」カルロスはそう言った。
「もっと言えば、ディレクターよりもカメラマンの証言の方が確実だと思う。なぜならカメラマンであれば、直接レンズを通して見ているから、ひょっとしたら覚えているかもしれない」カルロスは続けてそう言った。
ディレクターかカメラマンだと言う。だから自分は知らないと言う。いよいよもって何を信じていいか分からなくなってきた。
「今は二人とも撮影で外出しているから戻ってきたら再度訊いておきましょう。それで何か分かったら連絡しますよ」カルロスはそう答えた。
裕也はこれは駄目だ、と思った。再度訊いたところで答えは決まっている。ディレクターは、カルロスの質問に対して、間違っていませんよ。あそこへ行ったのは確実だし、記録に書いたとおりです。と言うに決まっていた。
半端諦め気味で事務所を後にした。祐美は裕也が意気消沈していると思い、声を掛けるのもためらわれた。歩道のない道の横を車が砂埃を上げながら通り過ぎていく。ギラギラと照りつける太陽の日差しと巻き上がる砂埃が立ち込めて話をするのも鬱陶しい。車に乗るまで三人とも終始無言だった。裕也はどうしたものか、このどんよりと沈滞した気持ちは何なんだ、と思った。もう諦めて日本へ帰ろうかとも思った。こっちが見つけようとしても玲子自体が帰ることを拒否しているのであれば、見つかったところで彼女のことだから帰るとは言わないだろう。であれば、いま裕也がしていることは、全くの無駄な行為である。でもそうだからといって、何もしないのもそれもどうか。頭の中でいろんな思いが揺れ動いていた。
ホテルへ戻った裕也がカウンターへ行くと、日本からFAXが届いているという。誰だろうと思いながら、FAXを受け取ると会社からだった。部下の奥山からだった。FAXの内容は、会社の中で一悶着あってその件で至急連絡が欲しいとのことだった。変なFAXだなとおもった。至急の用件であれば、直接電話すればいいのに何でわざわざFAXを使って連絡してきているのか、意味が分からないと思った。ともかくまあいいけど電話して見るか、と思った。どうせ大した問題じゃないのであろう。奥山にしてみれば、一悶着といってるのは、社内のどうでもいい問題に決まっているがそれにいちいち過剰に反応するところがある。裕也は一旦部屋へ上がってシャワーを浴びることにした。蛇口をひねってシャワーを浴びながら今日のカルロスとの会話を思い起こした。玲子が果たしてそこまで作為的にカルロスを買収するようなことをするだろうか、と思った。彼女の性格から言って、そこまで面倒なことをするようには思えなかった。彼女はもっと大胆だ。もっといえば、彼女は見つかったところで、帰りたくなければ帰らないだろうし、どのみち裕也の進言に素直に従うことなどないのだ。いま冷静に考えればすぐに分かりそうなことなのに、あの時は、暑さのせいもあってそこに考えが及ばなかった。とすれば、なぜ彼女はあらわれないのだろうか。裕也の中で徐々にある仮説が生じてきた。ひょっとしたら彼女はもうこの世にいないのではないか、ということだ。とすれば、あの電話は一体何なんだろうか。
裕也にわざわざ掛けて来た電話は、確かに玲子の声だった。長年連れ添ってきた彼女の声を聞き間違うはずはない。紛れもない彼女の声だった。じゃああの後、玲子は何かの目的を持ってこの地にやって来たが、その後に何らかの理由で亡くなってしまったということなのか。裕也の妄想は、シャワーのしぶきと共に迷走し始めていた。
いろんな輻輳する考えのまま階下に下りてカウンター横の電話ボックスに入り、日本へ電話を入れることにした。電話をすると受付の女性が出てしばらくして奥山が電話に出てきた。
「お疲れ様です。どうですか、ブラジルの方は」と奥山は、月並みな科白を言った。
「まあ、別にこれと言って何もないさ。それはいいけど、会社の一悶着って何なんだ?」裕也は、至急と言っておきながら連距離電話で月並みな挨拶をする奴だなと思いつつ催促の返事をした。
「いやそれが、会社の件じゃないんです。会社のFAXを使ってることもあって、万が一と思ったんでそう書いたまでで……」奥山はもったいぶって中々本題に入らない。
「どうしたというんだ?」裕也はしびれを切らして言った。
「実は、石川部長の奥さんから電話があったんですよ」奥山はとんでもないことをいいだした。
「何だって!」裕也は思わず叫んだ。「それで? どうした」早く用件を言えとばかりに怒鳴り声になっていた。
「ええ、それで実は今、ブラジルにいるんだけども、これから日本へ帰るのでちょっと空港まで来てもらえないか、と」まだ本題に入っていかない。
「ええ? 何だって、じゃあ空港へはいつ到着するというんだ?」裕也は問い詰めた。
「それが実は今から2時間後なんですよ」
奥山という男は、仕事での報告の際にもいつもこんな調子だ。まとめて一気にしゃべることができない。小出しに喋るのだ。
「それで君は何と答えたんだ?」裕也は矢継ぎ早に質問をする。
「ええ、それでその時間に空港へ行くと返事しました。部長、奥さんへ何か伝えておくことはありますか?」奥山は淡々と返事した。
「いや、今はちょっと思いつかない。君は会って彼女が何を伝えるのか聞いておいてくれ」裕也は直接話したいことは沢山あるが、奥山にそれを伝言するのが憚られた。
「えっ? それでいいんですか?」
「ああ、それでいい。それで結果を連絡してくれ」裕也はそう言って電話を切った。
一体どうしたというんだろう。突然ブラジルへ行ったとしたら今度はいきなり日本へ帰るだと? あいかわらず奇想天外で予測不可能な行動をするもんだと思った。しかし何をどうしようというのかさっぱり分からなくなってきた。裕也は一旦部屋へ戻ることにした。部屋へ入ると、取り敢えず祐美にはすぐに伝えておこうと思い部屋から電話をかけた。
「ええ? 本当に? 相変わらず予測不可能な行動をする人だわねえ」裕也からひととおり説明を聞いた祐美も驚きを隠せない様子だった。
「……うーん、でもねえ、いくら何でも……」電話の向こうで祐美は考え込んでしまっていた。
「まあ、いつものことだから。でも結局彼女に振り回されてしまった形になったけど」
「ううん、そうじゃないのよ。ひょっとしたら……と思って」祐美は思いがけないことをいい出した。
「どういうこと?」
「彼女実はブラジルに行ったんじゃなくて日本にいたのかも」
「日本に? そんな馬鹿な、彼女は搭乗者名簿に確実に載っていたし、実際レントンのテレビに映っていたじゃないか」裕也は少しむきになって言った。
「そう、確かにその通りだわ。でも何となくそんな気がして……」
ありえない話じゃない。裕也は仕事柄CMの撮影でそうしたことを何度もやってきていた。
飲料水のコマーシャル撮影は、夏場の放送に合わせて実際には素材の納品を6月の終わりにはテレビ局へ納品しないといけない。当然ながらその納期に間に合わせようとすれば、実際にその撮影は編集作業も含めると、5月中に終わらせないと間に合わないことになって来る。日本で撮影すると夏場の爽快感やギラギラした太陽は撮れない。かといって予算が限られている場合は、海外まで撮影行くことが許されない場合が多々ある。そんな時は、スタジオで撮影して、バックの背景と合成して編集作業であたかも夏場の海で撮影している風に仕上げてしまう。昔は違和感があったが、今は編集機材の技術もかなり進歩して、一見見ても全く違和感を感じない仕上げが可能になってくる。そうしたことは裕也にして見れば至極簡単なことだった。だからといって玲子がそんな手の込んだことをするだろうか。まずもって、何の理由があってそこまでしないといけないのか意味不明じゃないか、と思った。それとテレビに映っていた件が仮にそういう作為を持って作られたものであったとしても、飛行機の搭乗者名簿はいじりようがない。パスポートの偽造もやろうと思えば、裏稼業でやってくれるところがないともいえない。いや、まてよ。パスポートが偽造できれば、搭乗者名簿の方が簡単に出来るのではないだろうか。誰かが成りすましすることも可能なはずだ。そうすると彼女はどうしたというんだ。不可抗力でどこかに拉致されているのか、それとも自らの意思で出てこようとしないのだろうか。裕也の頭の中で相反する考えがぐるぐると回り始めていた。
「ともかく二時間後に部下が彼女に会う予定だ。結果を連絡してくるはずだから待つしかない」
「そうね、待つしかないわね」
実際そうだ。待つしかないのだ。ずっとそうだ、待つしかないのだ。
奥山はなかなか電話をかけて来なかった。まあ普段から仕事で忙しいから、上司である自分の身内のプライベートな件でこちらから電話するのも気が引けた。裕也は二時間経過する間、じっくりと考えることが出来た。出来たのだがだからと言ってどうしようもない。しばらくはぼんやりとテレビに映るニュースを眺めていた。中東辺りの紛争の様子を伝えていた。世界中の紛争はいつの時代でも常にどこかで起きている。それに比べたら日本は何と平和な国なんだと思った。本当は玲子の行方が気掛かりなのだが、頭がそこへ行かない。落ち着きなく、だからと言ってニュースを見ているわけでもない。ただぼんやりと眺めているだけだった。すでにあれから四時間が経過しようとしていた。奥山からの連絡は一向にかかって来ない。もう一時間待ってかかって来なければ、こちらから直接かけてみようと思った。そして一時間が経過した。
裕也は奥山へ電話をかけた。発信音は鳴るのだが一向に電話に出る気配がない。留守電機能にしてないらしく鳴りっ放しになっている。玲子の電話と一緒だな、と思った。営業のくせに留守電機能にしていないとはどういうつもりだ、とも思った。頼りの奥山からの電話もかからないとなれば、どうしようもない。動くに動けない。八方塞の状態にも似たこの閉塞感に裕也は今にも押しつぶされそうな気持ちになりつつあった。南米特有の突き刺すような日差しが差し込む部屋で茫然自失の状態になりつつあった。
その頃奥山は成田空港の到着ロビーにいた。さっきから約束の時間になるのだが、三十分経過してもなかなか玲子が現れる様子はなかった。まあ普通に荷物のチェックで引っ掛かったりするとそれ以上に掛かることは多々あることである。奥山はそう思ってじっと到着出口に待機していた。しかしさらに三十分が経過した。玲子は全く現れる様子はなかった。
突然、奥山雅史の名前を呼ぶ場内アナウンスが流れた。ぼうっとしていた奥山は、最初全然気付かなかった。繰り返し流れる自分の名前にようやく気付いたのは、アナウンスが繰り返されて五回目の時だった。奥山は慌てて受付に行き申し出た。すぐに案内され、事務所へ通された。そこで係りの者から意外なことを告げられた。
「あなたを被疑者として拘束します。このままここに待機してください」税関官吏員らしき制服を着たその男は、切れ長の目をして薄い唇をして青白い顔をしていた。
そう言われた奥山は、一瞬何のことか意味が分からなかった。ぽかんとした顔をしたままその官吏員の顔を見つめていた。
「いいですか? そのままここに待機しておいてください」男は奥山が反応しないのを見て念を押した。
「ちょ、ちょっと待ってください。何が何だか……、もう一度いいですか」ようやく奥山は、口を開いた。
「あなたは共謀者として拘束されました。容疑内容は今ここで申し上げるわけにはいきません。警察がここに来るまでは待機しておいてください」男は冷たく言い放った。
「きょ、共謀者って、何の共謀者ですか! 私は只のサラリーマンで、ここに会社の家族を迎えに来ただけで、何のことか全く分かりません」奥山は必死に言い放った。
「ともかくここでは詳細は申し上げるわけにはいきません。このまま待機してください」男は待機という言葉を繰り返し言った。
「それと今は外部との連絡は一切できません。携帯電話をお持ちでしたらこちらで預かりますから今すぐ出してください」
裕也は、このままじっと待っていても拉致が明かないと思い、フロントへ奥山から電話があったら折り返し連絡するから移動先と連絡先を明確にしておいてくれるよう伝言して出掛けることにした。少しでも手掛かりが欲しかったから、例の制作会社のディレクターから連絡がないかもう一度行って訊いてみようと思った。早速、祐美に連絡を取りホセに同行してもらうようにした。電話で訊けば分かる話だが、こういう時は行って実際に表情を見ながら話をするのがいいと思った。何か隠していることがあれば、それとなく表情に表れるものだ。もし隠していることがあれば、なぜ隠す必要があるのか、それを見極めないといけなかった。今のところ突破口になるのは、そこしかない。
レントンの夜