恵比須丸遭難

恵比須丸遭難

昭和22年10月29日、北朝鮮からの引揚途中鎮南浦沖で大惨事を起こした遭難船恵比須丸の生存者、松岡信男から同僚の岩崎氏へ宛てた手紙で始まる。

恵比須丸遭難

前略
 一別以来久仰です。その後益々ご健闘されているとの事、大慶に存じます。
貴名宛の手紙を私はもっと早く出すべきでありましたが、今まで延引した理由として、以下記する状況等、これによって生じた事務の整理多忙のため、また私個人の環境の変化によって到底筆を取る気持ちに至らなかったこと等を挙げたいと思います。
 安東出発より日本到着迄の私達遭難者の行動については既に二月十一日(注・昭和22年)附の各新聞紙上の報道によって大略判明したことと思います。
私は今更惨状眼を覆わしむる過去を追想し、これを語ることを好まないのであります。が、しかし私と貴兄とは過去において、在安邦人の日本送還事務の一部を担当し、就中第五街に対しては最も責任を有しており、特に私は十月二十五日以後、即ち民主聠盟員の安東撤退を契機として邦人送還に対しての責任を第五街的なものから安東全市的なものにまで拡大されてしまいました。
 以上の理由によって、この貴兄宛の手紙において私は語るに好まざることを語り、貴兄も亦、その理由によっていたずらに過去を語る私の態度を寛容して戴きたいと思います。
 とりわけ私は帰還の途次に偶発的な遭難によって、自らもその渦中に於いて惨状を体験し、遂に家族全員と永遠に別れ去ったことは私の生活史中の最大の打撃であり、帰還前に構想していた帰還後の生活プランは全面的に破綻してしまったものであります。
 その故に私は只今田舎に跼蹐して、将来の生活について新しい角度から再び構想を練っているのであります。
此度の心理的打撃の深刻さは只単なる一片の慰安婦的な言辞によって癒されるものではなく、私の将来の生活過程において、漸次解決されるべきものでありましょう。
 ところで新聞紙上に於いて大略を報道された遭難について補足的に語りたいと思います。
貴兄も鴨緑江上の引揚船内であの事件を目撃し知った事と思いますが、十月二十四日夜半より行われた中共軍の撤退に伴う安東市中枢機関の爆破工作は、市政府、省政府、公安局、発電所、水道その他各種工場等、重要建造物等に重要施設を爆破し、翌朝未明頃までには市内において中共軍の兵士を一兵も見ることは出来ませんでした。勿論この場合民主聠盟員も彼等中共軍と行動を共にし、海路大連方面、陸路北鮮方面へ撤退したのであります。貴兄も知っておられる邦人引揚のため船賃として民主聠盟へ前納した約壱千万円の行方については遂に不明であります。
 撤退に際して民主聠盟員のとった一連の行動は、二十五日の邦人の引揚行動を困難ならしめ、且、民主聠盟員に対する引揚邦人の憤激を空前のものにならしめた事は事実であります。この民主聠盟員のとった行動等に之に対する引揚邦人の怨念の是非については、只単に隔絶された満州の一隅にあって祖国帰還のみを念願とし、その念願の実現を一時的にせよ阻害され、困難にされた邦人の気持ちからのみ説明し、批判すべきでありましょうか?勿論私ばかりではなく貴兄も亦祖国への帰還ということが敗戦後海外に取り残された邦人の感情の集中的な表現であったという事は否定しないでしょう。然し乍ら私は引揚という事の中共軍の対邦人政策中に占めるべき地位、もっと大きく中共軍の全般的な政策に関連させて之を取り扱い説明すべきではなかろうかと思います。このことについてはまた別の機会に語りたいと思います。故只今は省略します。
 二十五日未明頃より市内各所に暴民が聚合徘徊して非常に危険な状態でありました。埠頭到着後人々の報告によって判明した事ですが、埠頭へ集合の途中に於いて暴民のために荷物を剥奪されたものも多数おりました。当日は勿論埠頭には民主連盟員の姿も見えず、また一隻の引揚船も見当たらず邦人の総ては絶望的な引揚条件に暗然としました。前夜の状況急変によって当日の引揚予定者以外のもの、即ち重病人、残留を希望していたもの及び労工、看護婦、技術者要員として残留を強制させられていたもの等が集合して、その数は予想を突破して約三千名前後となってしまいました。埠頭集合場は全くの混乱状態でありましたが、就中悲惨であったのは邦人の避難的な引揚に伴って不可避的に搬出させられて来た重病人の人々でありまして、埠頭集合の途中又は、乗船前に死亡した者もありました。勿論これら重病人の人々にとって死は所詮時間の問題ではありましたが、故山を一葦帯水に望んで空しく異郷に眠った事に対しては一縷の涙を禁じ得ないのであります。
 私は集合場の混乱を収拾するために積極的に全般の指揮を取り、各県の代表団の集合を求め、夫々必要な処置について努力するよう要請しました。各県代表団中遭難船に乗った福岡県代表団には貴兄も存知の米山源作君(家族共全員死亡)小田部繁実氏(鹿毛正則君の家族も含めて十三名全員死亡)金崎達雄君(家族共全員死亡)及び海路引揚の手段について私と貴兄とに対立していた神崎丙午氏(死亡)等がおりました。
 私以下代表団は船舶の呼集に努力した結果、帆船十隻、機械船一隻計十一隻を呼集し得ました。次に船賃の交渉を開始しましたが、船主は八路票は無効であり、鮮銀券のみを収受すると主張し、私達は八路票の無効は止むを得ないとしても日銀券と満州国幣の有効を主張しましたが当時の条件下では状況は私達に不利でありました。
 前記の如く全市に拡大の兆しある暴民の襲来も予想され、一刻も早く危険な状態にある埠頭集合場から避難しようとする焦燥感もあり約二時間に亘る接渉の結果、船賃は北鮮三十八度線潮浦まで一人当たり九百六十円と決定し、もし船賃に不足を生じた場合には携行荷物を分与するという条件で契約しました。
 正午頃より乗船を開始し、各船共船倉内、甲板上を問わず文字通り立錐の余地なき程詰め込みましたが如何なる方法を以てしても約二百五十名の積載不能者を出すの止む無きに至りました。之は帰還先宮崎県の人々の一部でありましたが、第五街の金子秀雄氏が宮崎県代表でしたので金子氏にこの人達の指揮を依頼し、私が新義州到着後直ちに責任ある手配をするということで承諾を得、十一艘の僚船を直ちに対岸新義州に向けて出航しました。新義州到着後、昨夜から新義州に撤退していた聠盟調査部の川瀬君と連絡がつきました。即時新義州保安隊より武装警備員を安東埠頭に派遣、積載不能者約二百五十名は保安隊員の警備によって当夜は埠頭倉庫に宿泊、翌朝配船の手配をするということに決定して私も一安心しました。
この積載不能者約二百五十名については後に、と云っても翌々日の二十七日、私たちが龍岩浦に到着後、龍岩浦保安隊並びに税関の検査の際にこれらの人々は帆船二艘に相乗りして二十六日に安東を出航し、私達十一艘の本隊の後を追って鴨線江を下りつつあるという連絡に接して無事出発したことを確認しました。又この二百五十名を乗せた帆船二艘の内一艘は後に、と云ってもこれはずっと後の話で、私が日本到着後、私達の遭難の事実を新聞紙上に発表したのを見て、当時その一艘に乗っていた諸岡悠紀子という一女性から手紙が来て、その一艘は激浪のため約二週間海上を漂流した後漁船に救助されて瀕死に一生を得たという事実を知りました。
 ここでまた次の事を記しておきたいと思います。それは二十五日早朝埠頭に集合した約三千名のものが混乱状態にあった時、中央区分会にいた岡崎周治君がひょっこり現れた事です。彼の出現は、全く私の意表に出たものでした。私が「どうした?」と聞いたら彼は声をつまらせて「いや、僕もあなた達と同様取り残されたのです。私は皆さんに何と云ってお詫びしてよいか」と言って泣いていました。私は常々から彼の純情さと素直さ知っていたので、当時、四面楚歌とも云うべき彼の心情を思いやって同情の念を禁じ得ませんでした。ところが彼の顔を見知っているものが段々と集まってきて「おや、聠盟の奴だ」「殺してしまえ!」と云うような事が、民衆裁判と云った具合に発展しようとしました。当時埠頭に集合していた人々の誰しもが失望と憤激の交錯した気持ちを持っていて、一種凄愴な雰囲気が集合場を支配していたので忽ち彼を取り巻いて殺気立ってしまいました。勿論そのままで推移しても殺人と云う行為は到底実現化されなかったでしょうが、私はこれはいかんと思ってその場の険悪な局面を転換させるべく、今はその言葉は忘れましたが「内地帰還というのは岡崎君一人を殺すことによって促進されるものではない、我々は船舶の呼集に、船賃の調達に全力を傾倒すべきである」と云った意味の事を叫んで人々の注意を彼からそらしてしまいました。口では強く言っていたものの、岡崎君に対して暴行を加える事に躊躇していた人々は私の叫びに応じて、又もや帰還の具体的手段如何という論議の渦に捲き込まれて行きました。かくて彼は助かる事を得ました。そして私の乗り込んだ船に乗り込ませ、機関部の荷物倉庫内に隠れるようにしてもぐり込ませ、私の家にいた須藤清一君(死亡)に頼んで食事を運んで貰っておりましたが、遂に彼も遭難により死亡してしまいました。
 また本題に戻って二十五日新義州着、二十六日未明新義州発、二十七日龍岩浦着。龍岩浦で、二十三日、二十四日、二十五日発の各僚船が碇泊しているのを見て心強く感じました。一日中龍岩浦水上保安隊並びに税関の検査がありました。その時これら保安隊員と税関吏を乗せた警備船が私たちの船に接近して来た際、誤って私達の船の船尾を衝打して小破してしまいました。幸い乗込みの引揚者の中に船大工の経験者がおりましたので之に応急修理を依頼し、且念のため乗込み引揚者中の船員経験者の人々に立会を求め点検の結果、船行に支障なしと云う意見でありましたので私も安堵しました。ところが之が後に直接ではないにせよ遭難の原因の一つになろうとは、その時は夢にも思わなかったのであります。
二十七日午後から各僚船は相次いで一路目的地に向かって出港して行きました。私にはあの印象的な場面が今でも眼前に彷彿します。特に出航して行く船の舷側に立ち上がって手を振りながら「松岡サーン、松岡サーン」と私を呼びもとめながら出て行った貴兄の姿は今でも忘れる事が出来ません。私が貴兄の呼声に応じて「岩崎サーン、岩崎サーン」と呼んだのを貴兄は気づかれなかった様でした。
 私達の船は帆船のように底の浅い船ではなかったので、干潮のために動きがとれず二十八日の朝龍岩浦を出港しました。此処で私の乗った遭難船恵比寿丸について一言しておきましょう。船は機械船で百噸、定員約三百五十名でありましたが前記のような状況によって、主として帰還先福岡県のもの五百六十九名と荷物約千箇を満載しておりました。安東出発の翌二十六日に降った雷雨の寒冷に懲りて私達代表団は協議の結果、病人のすべてと老幼婦女子の大部分を船艙に収容し、甲板上には主として青壮年の男女を乗せました。この船内人員収容状態は遭難時に老幼婦女子の殆どを失う結果となりました。また福岡県代表は小田部繁実氏で代表、団中には金崎達雄君、鹿毛正則君、朱山蓮作君、神崎丙午氏、辻庄一君(夫婦共死亡)等がおりました。私は帰還先が福岡県になっており、小田部氏や金崎君の奨めもあり、又早い船で他の僚船よりも早く到着して諸種の準備をしなければならない関係上この船に乗込むことになり終着港までは実際上のこの船の指揮者となっておりました。私以下の代表団は仕事の都合で船長室で執務をしておりました。それで私は乗船以来二十七日に龍岩浦で船艙に下りて家族と夕食を共にしたのが最後の別れでありました。
 龍岩浦出港後多獅島沖で折からの無風のために海上を漂流中の一帆船から発砲して来て私達の船に停船の合図をして来ました。その船に近づいて見ると、それは二十四日の夜半安東を出港した船で、海路大連方面へ撤退すべく中共軍の保安司令部のものが乗込んでおり、全司令部に関係していた婦女子を含む邦人の多数が乗っておりました。全船を多獅島港まで曳航することを要求され、ロープによって彼我の船を連結して曳航しました。ロープの長さは僅か二十米で、彼等司令部附の邦人は船首に、私達引揚者は船尾に、共に無言で向かい会い、過去一年間彼等と私達の関係は今を最後に分かれようとする時、今は希望の帰還途上にある人々の胸には過去の反目も憎悪も消え失ってまことに感慨無量の様子でありました。
 正午過ぎに多獅島港までの曳航を終わりました。私は船の終着港を北鮮三十八度の潮浦に契約した事を是非南鮮三十八度の白鴿島若しくは仁川に変更する事、到着後の諸準備、船内衛生状態の改善(船内の衛生面は悪く、且多数の重病人がおりましたが辻庄一君の夫人・八重子医師を始め二十四日の事件で中共軍から逃亡して来た医師も多数おり、医療薬品も豊富にありましたので見当がついておりました。)、五百六十九名分の運賃約五十七万円を集める事等多忙でありましたので、代表団の人々と共に船長室に入りました。その後午後二時頃から私達の船は各僚船を順次追い越して航行している事が判り、又、船長の話によれば到着迄には各僚船の全部を追い越して私達の船が一番早く到着するとの事で私達代表団は益々多忙を感じておりました。
 二十八日夕刻から私達の船は沿岸を離れコースを一路白鴿島に取り沖に出ました。その頃から海上は漸次強風となり、浪が立ち始め夜半に至って強風と激浪のため船の動揺は激しく、遂に龍岩浦で応急修理を施した船尾の箇所から浸水し始めました。浸水は船内の最底の機関部に流れ込んで機関は時々停止する、船足は段々と重くなる、強風と激浪のため船の動揺は増す、全く憂慮すべき状態になってしまいました。私は浸水の報告を受け取ると直ちに青荘年の人々に排水作業のための協力を求めました。   之等青壮年の人々約五十名の排水作業は徹宵行われ船は浸水と動揺に喘ぎながらも航行を続け二十九日を迎えました。
 二十九日。昨夜来の強風と激浪は続いていて、その為に引揚者の殆どは船酔で半病人のようになっておりました。代表団の殆ども船酔で参ってしまい、私も胃中のものをすべて吐き出してしまって全く頭もあがりませんでした。何時もながら元気な金崎君と鹿毛君の二人が病人の手当やその時々に必要な指示を伝える為、船長室から人々の間を元気よく走り廻っておりました。とにかく船を一時島影に入れて風浪を避け浸水箇所の修理をしようという事に私達代表団と船長の間で意見が一致して、その時の海上から最も近い島ー鎮南浦沖椒島ーに向けて進路を取ったのは間もなくの事でありました。
 午前九時半頃椒島を去る五哩の地点に徳島という直径約二百米位の小さな島、島というよりも岩礁と云った感じの無人島の近くまで来てやれやれと思った瞬間、突然船底の方で「ドーン」と鈍い音響がしました。続いて「ズズズー」と砂の上をすべる音と「ボキッ」と何か折れる音ーこれは後で判った事でありますがスクリューの折れた音でしたーがして船は急に止まってしまいました。妙にシーンとした瞬間でありました。私達は起き上がってお互いに顔をジーっと見ました。金崎君が急いで船長室のドアを開けて外を見ました。私達は金崎君に続いて金崎君の肩越しに船長室から外を覗いて見ました。人々は無言のまま総立ちになって絶望と恐怖のために顔は蒼白になってしまい、特に舷側の人々は打ち寄せる激浪の泡沫を浴びて震える手でシッカと舷側につかまっているのが見えました。勿論人々は事態の容易ならざる事を知っておりましたが誰しもが声を発することを恐れたように押し黙っていました。船は浪の頂上に乗せられてスーっと空間に持ち上げられ、次の瞬間はスーっと地の底に引き込まれるように下がったと思うと「ドシン」と船底を浅瀬にぶつけてしまいました。「ボッキッ」という音と共に船は真中から前後二つに折れてしまいました。誰かが「心配するな、落ち着け」と、トンキョウな声で叫びました。その声に弾かれたように人々は「ワーッ」という喚声と共に無茶苦茶に動き廻って収拾すべかざる混乱が捲き起ってしまいました。素早く元気な青年の四五人が裸になってマストに登りました。マストの下にいたものが女の腰巻を無理矢理はずさせてマストに登った青年達に渡しました。青年たちはそれをマストの頂上にシッカと結びつけたので赤い襦袢は折からの強風にポンポンと翻りました。この行為には理由がありました。と云うのは遥か彼方に漁業中と思われる漁船が一艘見えました。青年達の叫びにつられて人々は「オーイ、オーイ」と叫びました。しかしその声は広い海面では反響もなく、強風に打ち消されてしまって実際は五百米かせいぜい千米位は届いたと思いますが、到底漁船まで届く事はありません。それでも人々は必死になって叫んでおりました。
 真中から折れてしまった船は急に安定を失ってしまって、押し寄せた激浪のために大きく傾いてしまいました。浪は掃くように甲板をザーッと洗って、訳のわからぬ叫びを上げて無茶苦茶に動き廻っていた人々を軽く水の表面に乗せたまま一挙に五十米程の彼方へ運び去ってしまいました。船が浪間から浮かび上がると船倉内になだれ込んだ海水は数百の死体を船倉内から丁度火山の噴火口から火を噴くように噴き上げて来ました。私は高い船長室からこの凄惨な光景を見たとき耐えられなくなって顔をそむけてしまいました。
 突然的な現実に処して直観的に事態の性質を把握し、理性の命ずる所に従って行動する事は困難であります。従ってこの場合事態の性質を認識し得ても、それはせいぜい推移して行く現実の次の事態を想定し得るだけで、この自然の猛威に対抗する現実的な手段としては何もなく、只自然の力に対する人の力のあまりにも無力なことを感じたのであります。実際次の瞬間には押し寄せた激浪の圧力と打撃のために、船首附近の一部に約百五十名の人々を残した他は、船はすべてバラバラに解体されてしまって今まで甲板やブリッジに残っていたものは一人残らず激浪の中に投げ込まれてしまいました。
 このように書けば、如何にも長い時間の推移があったように思われますが、実際は座礁から船体の解体まで時間にすれば僅か三分間の出来事で、アッと云う間にすべては終わってしまいました。
 私は海中に投げ出される前に既に船長室からブリッジに出ていて人々の混乱にもまれておりました。叫喚と喧騒の中にあって「ナミアミダブツ」とその時の凄惨な光景に意外な声を聞いたので、ヒョイとそちらを見ると、それは米山栄作君のお父さん、有名な書家朴堂老人で、傾いた舷側につかまって丁度井戸を上から覗き込むような拾姿で震えているのが見えました。又私が海中に投げ出される直前に、何時の間にか私の傍に金子一二君の夫人と姉の坂本キクヨさんが来ていて、金子君の夫人が姉のキクヨさんの胸にとりすがって「姉さん、汽車で帰ればよかった」と云うのを聞いて私はシマッタと思いました。貴兄も知っている事と思いますが、金子君一家は昨年六月中旬に非合法(?)の陸路奉天突破を民主聠盟員に押さえられて以来、経済的な窮乏に耐えて生活しておりました。邦人の帰還が開始されてから後に私が頼んで隣組長になって貰ったものです。私は彼に対して経済的な援助を約束し、そして海路帰還を奨めたものであります。彼と彼の家族は私の経済的援助には心から感謝し、彼は隣組長として全く献身的に活動しておりました。今回の遭難によって有為な多くの人々を失いましたが、とりわけ私はこの金子君一家と私の家にいた須藤清一君の死に対しては色々な意味で責任を感じております。
 漁業中の漁船が私達の遭難に気づいて、烈風に帆を張って近づいて来るのが見えました。漁船の速度は追風に乗って相当早かったものと思われますが、遭難現場に到達するまでに約三時間ー長い時間に感じましたーを要しました。
 解体された船体の破片と共に海中に投げ出された人々の多くはその瞬間既に生死の帰趨を決せられました。それは海中に投げ出された瞬間に浮流物をつかみ得たか否かと云う偶然的なことに依存したのであります。事実不幸な多くの人々は僅かの時間自己の体力を挙げて激浪に対抗しましたが、やがては疲れ果てて激浪に呑まれてしまいました。
 私はブリッジから海中に投げ込まれた瞬間、長さ約五米幅約二米の助骨のついた舷側の破片につかまっておりました。その破片には約三四十名の人々が取りすがっていて、人々はたえず自分を安全な状態に置くため、破片上に上ろう上ろうとする為、破片は均衡を失って海中で間断なく回転しました。人々は破片の回転につれて海中をくぐり、破片が一回転すれば又浮き上がるといった動作を繰り返しました。後で考えればこの行為は徒に体力を消耗する馬鹿馬鹿しいことでありましたが、その時は海中に投げ出された瞬間で人々は理性を失っており、この無駄な行為に警告を発するものもなく、必死になって取りすがり、又這い上がろうとしました。五回転する間に体力の弱い人々は激浪の為にその破片から手を離されてしまって遂に浪に呑まれてしまいました。又残り得た人々の中で泳ぎに自信のある人々はこの不利な状態にある破片から有利な状態にある浮流物へと移動して行きました。私は破片の回転につれて海中をくぐる苦痛に耐えかねてその人達と一緒に他の浮流物へ移動しようかと何度も思いましたが、泳ぎを知らないものが移動する事の不可を自覚し断念してしまいました。之等移動した人々は激浪中を泳いだ体力の消耗に疲れ果ててしまい、救助船の来るまでに一人残らず海に沈んでしまいました。私は海水にむせながら回転する破片に必死となってしがみついておりましたが、破片の回転が上がって私が破片上にやっと這い上がった時はそこには私以外五名のものしかおりませんでした。
 激浪中に投げ出された数百人の人々は既に大部分海中に没し去って今は数十人へとその数を減じており、広い海面のあちらに一人、こちらに二人と浮流物に取りすがっているのが見えました。近づいてきた漁船の救助目標が、先ず約百四五十人の人々を載せたまま残存していた船首に向けられたのは当然でありました。然しこの船首に残存し得た人々を救助することは容易なことではなく、漁船が船首に近接する距離を誤れば激浪に衝されて船首に衝突して破壊されてしまう危険がありました。その為只遠くの方から船首に向けてロープを投げましたが人の力でのロープの投擲には限度があり、ロープの到達圏内に近づけば衝突して漁船が危険となります。暫くの間漁船はこの無駄な方法を反復しておりました。
 私の乗った舷側の破片は船首の残った遭難位置から既に千米以上も流されており、且又干潮の流れに乗って間断なく流されておりました。五名の中二名は疲労のために眠気を催し、私の注意も空しく遂に激浪に捲き込まれてしまいました。私も刻々と増大していく疲労と失われていく体温に歯をガタガタ云わせ乍ら、「このまま推移すれば当然二人の人と同じく私も助からないだろう。私の家族もこの自然の猛威に抗して生存していると想像することは出来ない。可哀想なことをした。苦しんだだろう。いや、私の死ももうすぐかも知れない。この瞬間に至って如何に私が生存をなまじしたとして、今の私の体力がどれ程よく自然に抗し得るか。助かるかも知れないが或は死ぬかも知れない。家族も居ないのに生きていて何になる。」私は破片上で押し寄せる激浪に全身を流され乍ら次々に聠想し乍ら漁船から船首にロープを投げる動作をまるで人ごとのように眺めておりました。
 船首に残存した人々を救助しようとした努力は失敗して、漁船は遂に之を断念してしまいました。漁船は漂流している人々を救助すべく私達の方向へ向かって段々と近づいて来ました。漁船から数本のロープが人々に投げられ、人々は浮流物の上にあった体を躍らせて、之に飛びつき、そして漁船に引き上げられるのが見えました。ロープをつかみ損じた人々は徒らに激浪中に身を躍らせただけで、極度の疲労のため元の浮流物まで泳ぎ帰る気力もなく、遂に激浪に呑まれてしまったのであります。
 私の傍を漁船が通過する瞬間漁船から投げ出された一本のロープを目がけて私は夢中で身を躍らせました。漁船に引き上げられた時、私は「助かった」と云う意識に興奮して立ち上がろうとしましたが、それっきり意識を失ってしまいました。
 陽が全く沈んでしまった頃、私達を助けた漁船は鎮南浦に着きました。既に意識を恢洟していた私達や漁船の人々によって遭難の模様が伝えられ、水上保安隊の命令によって警備船以下漁船数隻が救助のために出動したのは夜の八時頃でありました。私達は救助船の出動を見送って、出迎えた鎮南浦日本人会の人々に助けられながら日本人会の事務所に向かいました。
 船首に残存した約百四五十名の人々は漁船が救助を放棄して私達を運び去った後は全く絶望してしまったそうであります。これらの人々の言を総合しますと、その後、よく自然の猛威に抗して叫ぶ一部の人々は激浪に渫われましたが、大部分の人々は間断なく船首を超える丈余の激浪にこらえて生存しました。午後四時頃干潮のために激浪は去って、船首から前記の徳島まで約一里半の間は干上がって陸続きとなりました。陸続きといってもその間三ヶ所の急潮流の瀬があり、どうしてもその瀬を渡らなければ徳島に上陸することが出来ませんでした。潮が引いた時、徳島まで渡るか否かについて意見が二つに分かれ、渡ると云う人々は、漁船にによって吾々の遭難が発見されていても次の満潮時までに救助船が果たして来るかどうか。もし満潮時までに来なければ、この疲労した体であの激浪に再び耐えることは出来ない。たとえ三ヶ所の瀬があっても徳島まで避難上陸すべきであると主張し、渡るべきでないと云う人々は漁船によって吾々の遭難が発見されている以上、必ず然も早急に救助船の来ることを期待出来る。この極度に披露した体で三ヶ所の急潮流を渡ることは徒らに死を急ぐものだと主張して譲りませんでした。結局各々の主張するところに従い、約三十名の残留主張者を残して百二三十名の徒渉主張の人々が徳島までの避難上陸を開始したのは既に満潮時になる頃でありました。第一、第二の瀬はやっと足の届く深さで、幅約五十米のこの二つの急潮流を渡った時には人々は約三十名の人を失ってしまいました。第三の徳島直前の瀬は最も潮流が激しく、足は全然届かない深さで、第一、第二の瀬で体力を消耗してしまった人々の殆どは急潮に押し流されてしまい、必死の努力でこの瀬を渡り得た人々の中でも、浪打際で足を揉まれて岩で頭を打ち割ったり、押し流されたりして徳島に揚がったものは結局五十六名でありました。上陸後疲労、寒冷、負傷のために死亡したものは三名で、五十三名が後に救助されました。人々は徳島で洞穴を発見し、文字通り折り重なって体温の喪失を防ぎ乍ら夜を明かしました。
 船首に残留した約三十名の人々は、徳島に避難上陸した人々の言によりますと、夕刻頃から船首上で焚火をしておりましたが、午後八時頃の満潮で船首諸共浪に流されたらしく、翌朝には跡形もなくなっておりました。
 夜間出動した救助船は暗夜のために捜査は意の如くならず、何等得るところなく引き返して来ました。翌三十日早朝更に船数を増加して出動しましたが、夕刻その中の一艘から遭難現場の砂の上で遭難船の機関が残っているのを発見したと云う報告を聞いただけで、他の船からは何の手がかりも得られませんでした。海上捜査は三十一日を以って打ち切り、その後は沿海の各水上並びに陸上保安隊に連絡して生存者及び死体の収容に努力しましたが遂に一人の生存者、一箇の死体をも発見するには至らなかった事は洵に残念であります。
 徳島に避難上陸して洞穴内で夜を明かした五十三名の人々は、三十日、新義州から沿岸伝いに漁労して鎮南浦に入港すべく徳島附近を航行中の漁船に発見、之に救助され三十一日鎮南浦に入港して来ました。
 それから次の事を記しておきたいと思います。それは私達七十二名が北鮮の邦人の人々と共に帰還のために元山に集合し、十二月十八日、日本の引揚船栄豊丸に乗込んだ際、二十九日の遭難当日午後六時頃、解体された船の破片に乗って潮流のために沿海伝いに流されていた三名のものが、新安州(新義州と鎮南浦の中間)に向かって航行中の一帆船に救助された事が判明しました。内一名は婦人で、遭難により三人の子供を失い、その為北鮮に残留を決意しました。他の一名の青年が今回の北鮮邦人の内地帰還に会し元山から私達と同じ船に乗り込んで来たことによってそれが明らかにされました。
 私は全く二十九日の遭難の模様を長々と書いてしまいました。この貴兄宛の手紙で私達の行動の経過を報告すると云っても、細大漏らさず書くことは、不必要でもあり、亦不可能でもあります。必要な断面を選択して、之を順序よく連結し、その全貌を明らかにすべきでありますが、そのようなことは私の能くするところではなく書いているうちについ興奮して冗長になってしまったのであります。遭難当時の生々しい記憶が私をして如くも長々しい遭難記事を書かせたのであります。この首尾も生彩もない手紙を貴兄に読ませてしまった事については深くお詫びします。私は当時の惨状を平然と眺め、平然と語ることは出来ないのであります。私は「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言って平然と死についた快川和尚を尊敬はしても、やはりその子古日の死に手をすり足をすりして泣き叫んだ憶良に人間としての愛情を感じるのであります。
 周知のように植民地にあって軍閥の銃剣に財閥の搾取と官僚の独善によって他民族を抑圧し、誤った政治的、経済的、文化的な優位を誇っていた帝国主義日本はその当然の帰着として一敗地に塗れ、その結果、罪なき多くの海外法人の生命を奪い、又窮乏のドン底に追い込んだのであります。帝国主義日本によって行われた他民族の抑圧は壁に投げつけられたゴムまりのように、民族的な反威となって私達海外法人に跳ね返って来るであろう、然し乍ら一時的には暴風の如き混乱期があっても私達海外法人は謙虚な心を持って中国人民大衆との融和の上に生活の再建に出発するならば、それは嘗て帝国主義日本によって蹂躙された中国人民大衆に対する罪の償いのみならず、引いては民主再建の途を歩む祖国日本に対しても、その貢献するところは少なかろうとも以て私達は冥しよう、苦難の途上にある祖国日本への引揚を焦踵し、徒に無為と浪費に終始して益々自己を窮乏の深淵に追い込むことのないように、私達は団結と友好によって祖国帰還の日までは一人の落後者も出すまいーこれが私達のわけても第五街で指導的立場にあった人々の意見であり、又念願でもありました。
 今や四百九十五名の人々を失ったのであります。この四百九十五名の人々は祖国再建の希望に燃えておりました。人々は船中に於いて祖国再建についての抱負と熱意を語り合った事と思うのであります。然し乍ら故山を指呼の間に望んで、萬斛の涙を呑んで海底深く眠り去った事は啻に安東市引揚史中最大の悲惨事ではなく、祖国日本のためにも惜しんで余りある事ではないでしょうか。

新たな決意

 以上は私が亡妻の郷里鹿児島の田舎へ報告と葬儀を兼ねて帰っていた時に書いたものであります。そしてそれ以上書くことが嫌になり書きかけのまま放っておいたのであります。
 今、私はまた残務整理のために小倉に帰って来て寸暇を見てこの手紙を書いております。今、私は数百通の遭難問い合わせの手紙に埋まり、多くの人々の訪問を受け、手紙の返事と遭難の模様を語ることに終日追われております。それで以下は概略を書くことにします。しかしそれは決して鎮南浦に救助されて以来何事もなかった事を意味しません。家族を失った私が北鮮に残留しようと思いながらもとうとう帰って来た、いや帰らざるおえなかった事情や、生存者七十二名の団体行動についても書きたいと思いますがすべて省略します。
 その一例は、佐世保に上陸した時の姿は、一月末の寒中というのにボロボロのシャツとズボンでしかも裸足で、缶詰の空缶と叺(かますーこれは布団に使っておりました)を大事そうに抱えている有様で如何に悲惨な引揚者の姿を見ても動じない援護局員をして感嘆これ久しうせしめたという事をお伝えすれば充分だと思います。
 とにかく十月二十九日鎮南浦に救助されて上陸。十一月十五日帰還のため北鮮の人々と共に鎮南浦を出発。十一月二十二日元山着。同日元山郊外の日本人収容所に入る。十二月十八日元山港より引揚船栄豊丸に乗船。十二月二十二日佐世保着。一月二十二日まで天然痘患者発生により隔離。一月二十二日各々帰還先に向かう。
 そして私は小倉に到着するとすぐに佐世保並びに博多の引揚援護局と連絡を取り遭難の事実の大要を発表しました。二月中旬鹿児島の田舎へ出発しました。そこで貴兄からの葉書を見ました。そしてこの手紙を書いた次第です。
 以上で私の手紙を終わろうと思っておりましたところ、貴兄からの葉書を受け取りました。四月七日附の葉書であります。私は貴兄からの葉書を読みました時、この手紙では書くまい、何時か語り合う時があるのだからその折りにと思っておった事を書く事に決めました。
 貴兄の葉書を読みました時、生活ーその目的と手段の分離ーに苦慮される貴兄の姿が私にはよくわかります。真剣な問題であります。私も過去に於いて幾度か自己の不甲斐なさに苦慮し恥辱を感じた事でありましょう。今、私は貴兄に対して、坊主や教訓師のようにその苦悩を喋笑し、そのあいまいさを叱責し、そして将来の進路を勇敢に指示する能力もなければ権利もありません。私もまた索めつつあるものであります。この手紙の冒頭に書いている通り、鹿児島の田舎で私は将来の生活について考えました。そして何を考えたか、以下私の将来の生活プランを一言しておく事は徒爾ではないと思います。
 既に在安時代に於いて私について貴兄は知っていた事と思います。元来私は共産主義を奉ずるものであります。共産主義者にとって過去十数年の非合法時代は全く苦しいものでありましたが、私は今次戦争の日本の敗戦、そして敗戦を契機として現在の如き情勢が到来することの必然性については固く信じて疑わなかったのであります。
 然し乍ら過去十数年の非合法時代にあって、その時々の客観的な情勢を分析し認識し得たとしても果たして実践に於いて如何と問われるならば、或時期にあっては全く曖昧であり胡麻化しであったという事は事実であります。その故に私は過去の曖昧と誤りを清算しなければならない、客観的情勢を云々して徒に文献の研究に終始しようとした態度を放棄しなければならない、そして実践に於いて提起し、実践に於いて解放する事を学ばなければならないーこれが田舎で到達した結論であります。
 日本共産党が公然と大衆の前に姿を現し得たのは何に因るのでありましょうか?それは世界を揺り動かす民主の流れ以外の何ものでもありません。民主とは口で唱えるだけのものではないと思います。 
 レーニンは既に1931年のプラウダ新聞紙上で世界の諸事情の進行を①1848年の革命から1871年のパリ・コミューンまで ②パリ・コミューンから1905年のロシヤ革命まで ③ロシヤ革命以後に分けて確證したことを述べ、之に注意を怠り之に眼を蔽うものは檻に入れてオーストラリア産のカンガルーと並べて見世物に出す値打ちがあると論断しました。
 私は過去の余りにも多くの交雑物を含んだ私の生活を清算するため、再び激浪の中で自己を鍛えなおす事を決意しました。いやもう私は私自身のことなどは考えていられない気持ちであります。
 私は佐世保から小倉に到着した時、神氏とこの事について語りたいと思っておりました。がしかし、お互いに多忙のため行き違いになって遂にその機会を得なかったのであります。神氏は今、東京都杉並区荻窪2-129前島様方にいる筈です。私は神氏宛再びこのことについて手紙を書く余裕がありません。是非この手紙をお伝え下さい。又、松川氏にも遭難の模様だけでも知らせたいのですが、再び書く元気がありません故この事をお伝え願えれば幸甚であります。私は四月一杯で残務整理を終了する見込みであります。或は五月の上旬迄かかるかも知れませんが、この仕事が終わり次第長崎県に赴きます。そして私は長崎県で仕事をする事に決定しました。私の過去の貧弱な経験と知識に比してあまりにも責任あるポジションを与えられました。私は喜んでこの身体を投げ出したいと思います。
 この手紙は支離滅裂となりましたが、私の新しい生活への出発のシルシとして貴兄宛にこの手紙を書き記します。
 追而私宛の手紙は下記宛お願いします。
    長崎県佐世保市相浦吉永免二○○相浦イン 松岡光男(弟)方 松岡信男

*本人は既に死亡(昭和34年)。安東で大正2年に出生、満州鉄道調査部にいたらしく、後に安東保線区に移された。

昭和34年(1959年)12月14日 胃癌のため満46歳没

恵比須丸遭難

恵比須丸遭難

1946年10月29日、北朝鮮からの引揚者569名を乗せた恵比須丸は鎮南浦沖で沈没。死者495名を出す大惨事となった。これはその史実を書いた生存者、松岡信男の手記である。

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 恵比須丸遭難
  2. 新たな決意