トランスフォーム
プロローグ
ギャランティン渓谷を流れる川辺に座っていると、時折、虹鱒がゆったりと泳いで行くのが見える。川の水はどこまでも透き通っていて、太陽の光がキラキラと反射し水面を照らす。そして心地よい涼風が山頂から流れる川へ吹き抜けていた。傍らにあるロッキングチェアの穏やかな揺れに寛いでいるジェシー・オブライエンは、老眼鏡を掛けて僕が書いた本を読んでいる。そして静かに、僕の方へ顔を向けにっこりと微笑む。
日本を離れて、モンタナ州のボーズマンという田舎町へ移り住んで十五年になる。ジェシー・オブライエンと一緒に過ごし、ゆっくりとした時の流れの中にいた。考古学者だった彼女の父親、エドガー・オブライエンが亡くなってから、ジェシーはエドガーの仕事を受け継ぎ、ロッキー博物館で恐竜の化石を研究している。ここには太古の時代、地上を悠然と闊歩していた恐竜の化石が、地平線に跨る砂漠の中にあちらこちらと数多く眠っている。地球上に人類が現れる何千万年も昔のことだ。だが恐竜はある年を境に、突然とこの地球上から居なくなる。巨大隕石の衝突が原因なのか、火山の大噴火が原因なのか定かではないが、予測不可能な不条理な出来事が起こり、彼らの時代は終わりを遂げる。盛者必衰の理、それは全ての”生きとし生けるもの”に繰り返し訪れることであって、決して避けて通ることは出来ない。僕らの運命もこの予測不可能な不条理な出来事に翻弄され、それによって大きく変わり定められる。であるならば、あまねく、その不条理な出来事に対して身を委ねて行かねばならないのかも知れない。僕とジェシーとの出会いも、過去の因果とも言える運命の悪戯によって生まれたものなのだから。
第一章
駅前繁華街のハンバーガー店でホットコーヒーを頼み、煙草が吸える席に座っていた。頭の天辺に持ってきた茶髪をヘアクリップで止めてある、奇妙なヘアスタイルをした子連れの主婦二人組、ノース・フェイスのロゴが入った濃紺色のキャップを被り、口髭を蓄えた六十代前半と思しき男性一人、時折笑い声を交え大声になる二十代の男性三人組、ほぼ無言でクリームパフェを食べ続ける十代の女性二人組、それらが喫煙席にいる。
そして、厨房の食器を片づける音、かすかに聞こえるジョージ・ハリスンの”ガットマイマインドセットオンユー”、外を走り過ぎる車の音、”デー”とか”バー”とかいう脈絡の無い奇声を発する子どもの声、それらも喫煙席にいる。
僕は、英語教師のジェシー・オブライエンと一緒に、周りの雑音を掻き分けるように会話をしていた。そう、それは日本が昭和から平成に変わり、まさに新しい時代が始まろうとしている時だった。
チェックのダウンジャケットを着て栗色の髪をしたジェシー・オブライエンは、四十七歳になるキュートなアメリカ人で、俳優のゲイリー・クーパーやピーター・フォンダがいたモンタナ州ボーズマンの出身だ。エメラルドブルーの瞳をしていて、若かりし頃はチュニックドレスが似合っていたに違いない。彼女の父親であるエドガー・オブライエンは、モンタナ州立大学ロッキー博物館の考古学者で、平地と荒地が連なる起伏の緩やかな丘陵で、長年トリケラトプスやティラノザウルスといった恐竜の化石を発掘研究している。彼女からそのボーズマンでの話を聞くのは、子供の頃よく見た五十年代のアメリカのテレビドラマを見ているようで、とてもリラックスして寛いだ気分になる。ジェシーの子どもの頃の話はファンタジーそのもので実に素晴らしい。
彼女が雪解けが落ち着く七月上旬にエドガーに連れられ、ギャランティン渓谷へ銀白色のトラウト釣りに行き、くるぶしほどの深さの早瀬を進んで行くと、急に胸までの深さになり、天地がひっくり返りそうな顔をして溺れそうになった、という話や、彼女が学生の頃、近くのモリーズ・バーでビリヤード仲間とキャロムゲームをし朝まで騒いでいた時、偶然カウンターにいたエドガーに出くわして大目玉をくらった、という話など、それぞれの情景を頭の中に再現しながら、僕はせっかくのコーヒーが冷めてしまっているのも気づかない。
「さっきから私のことばかり話してるわ。あなたの話も聞かせてよ」
ジェシーはクリッとした大きな目をキラキラと輝かせ、コーラのストローを口に含んでいる。ブラインドの隙間からはストライプの陽光がテーブルの上を照らして、ステージを浮かび上がらせるスポットライトのように光り輝いていた。いつの間にか、店内のBGMがビョークの”イッツオーソークワイエット”に変わっていた。そう言えば、ジェシーはちょっとだけビョーク――アイスランド・レイキャヴィク出身の女性歌手――に似ていると言えなくもない。
「僕の話なんて、多分君がコーラを飲んでしまう前に終わってしまうさ」
「そんなことないわよ、コーラを飲み終わるのに十五分以上はかかるわ。それだけあれば十分でしょ?」
「じゃあ、そのコーラが砂時計と思って話をすればいいかな」
そう言って僕は、ジェシーのリクエストに応えるために、すっかり冷めてしまったコーヒーをひと口飲んで、海抜千メートル以上もあるモンゴル高原に行った時の星空の話をした。そこは中央に乾燥地帯のある草原で、降水量が少なく寒暖差の激しいところだが、夜になると塵ひとつない澄みきったダークブルーの幻視画の世界が広がっている。百万ドルの夜景のような、煌びやかな星空の絨毯が覆い尽くす夜空に身体を投げ出し、人の一生はこの数えきれない星のひとつなのだと思った。現実に光輝いて見えている星は、何千年も何万年も昔の世界からタイムマシーンに乗ってやって来る。そんな話をジェシーがコーラをストローで飲む口元を見ながらしゃべった。
「星空が絹の絨毯のように広がってるなんて想像もつかないわ。でもどうしてモンゴル高原はそんな風に見えるの?」
ジェシーは英語教師なのに、まるで小学生が先生に訊ねるような感じで質問をする。
「都会はどこもそうだけど、人々の暮らす塵で星空が霞んでいるんだと思うよ。だから本当は見えてない沢山の星があるってことじゃないかな」
「でも人の一生が、その星のひとつというのはどういうことかしら」更にジェシーが質問をする。
「うん、人の一生は、バイオリズムを描いて上がったり下がったりするけど、誰しも光り輝く瞬間があって、それが周りの人達の記憶に残っていくのさ。夜空の星も、一瞬光輝くけど現実にはもうない。でも見た人の記憶には残って行く。人の一生のようにね。モンタナの夜空はどうなんだろう」と、ジェシーへ訊いた。
「そうね…… 冬は夜が長くて、星空も綺麗だわ。でもあなたの言うモンゴル高原の絹の絨毯には及ばないわよ」
「そうか、そうすると逆にモンタナは、夏は昼間が長いってことか」
「そうね、夜の九時なのに、川釣りへ行く車はどれもまだスモールランプすら点けてないし、夕食も太陽の日差しが降り注ぐお庭で食べたりしてるわ」
「じゃあ、カフェで思いっきり遅くまでピンボールで遊んでも、エドガーには怒られないってわけだ」と言うと、ジェシーは、そうそうと頷きながらはしゃぐように笑った。
ジェシー・オブライエンは、モンタナ州立大学で日本語を学び、英語教師として日本に来てから二十年程になる。初めてジェシーに出会ったのは僕が学生生活を送っていた最終学年の初秋の頃だった。僕はその頃本気で就職活動など全くする気にもなれず、残り少なくなったゼミの講義にたまに出るぐらいで、あとは喫茶店に籠り、ちょっと気取って哲学書を読みふけったりして、ただぶらぶらと過ごしていた。九月も終わりになろうかというのに、残暑の地熱が路面を覆い尽くし、不快な湿気がそこかしこに立ち込めていた。その時僕は学生レストランの奥の席に座り、僕が二歳の時に亡くなった父親の書いた手記を読んでいた。たまたま実家に帰った時に母親から渡されたもので、家の中を整理していたら、昔しまっていた箱の中から当時母宛に送られた書簡と一緒に出てきたものだった。その手記には、父親が満州の安東市というところで終戦を迎え、帰還船恵比須丸に乗って朝鮮海峡を渡り、日本へ帰って来るまでのことが書かれていた。満州国安東市の鴨緑江(オウリョクコウ)を出た帰還船が、北朝鮮北西部の沖合、龍岩浦(リュウガンポ)海域で悲運な事故を起こし沈没して、四百九十五名の尊い命が亡くなったという話で、ちょうどその船が沈没するところを没頭して読んでいるところだった。その時、テーブルの上に飲みかけの缶コーヒーを置いていたのだが、近くを通ろうとした女性がテーブル横をすり抜けようとした際に、テーブルの角に彼女の身体があたり、そのはずみで缶コーヒーが倒れ、読んでいた手記の上にこぼれた。一心不乱に読んでいたその手記の上に焦茶色の液体が勢いよくぶちまけられた。
「Oh! I’m sorry! ごめんなさい」彼女は、英語と日本語の両方の言葉でとっさに言った。
僕は、集中して読んでいた何十年も昔の凄惨な物語りが中断されたことよりも、この突然の二ヶ国語に耳を奪われた。彼女は、すぐに慌てて傍にあったナプキンを手に取ると、手記の上にこぼれたコーヒーを拭き出した。僕はといえば、その茶黒色い液体と対比する、彼女の真っ白で透き通った手と横顔に意識がいっていた。
「わたし、とんでもないことをしてしまったわ。どうしたらいいの」
彼女は、まるで自分が大事にしていた宝物を壊してしまったような表情を浮かべ、こぼれたコーヒーを拭きながら独り言のように言った。
「大丈夫ですよ。僕が濡れたわけじゃないし、拭けば読めるから」
「そうはいかないわ。きっとこれはあなたにとってすごく大事なものでしょう?」彼女は拭き続けながら答える。
「これはただの紙切れだから大したものじゃないですよ」
「でもここに書いてあるものは大事なものなんでしょう?」彼女は僕の方へ顔を向けながら言った。
彼女にそう言われ、僕はコーヒーに滲んだ手記の文面に目を落とした。そこには、語り合うことのなかった父の筆跡とその父が抱えて来た過去の因果が横たわっていた。それがどういう内容のものか、と彼女に聞かれ、亡くなった父親の残した手記だと説明をすると、彼女はそれを黙って聞き考え込むようにしていた。僕も、それ以上語ることを思いつかなくて黙ってしまった。そしてしばらく黙り込んでいた僕に彼女が語りかけてきた。
「わたし、ここで英語を教えているジェシー・オブライエンよ。よかったら私のオフィスに来てもらえないかしら。何かお詫びをしないと」彼女はそう言いながら、一枚の名刺を差し出した。
English Instructor Jesse O’Brien――英語講師 ジェシー・オブライエン――と書いてあった。それが、彼女との初めての出会いだった。
その数日後、久しぶりに専攻しているアメリカ文学のゼミに出た。サリンジャーの『フラニーとズーイ』の中に出てくるズーイが語るハイパーで難解な部分について、その言い回しの解読という無意味な講義を受けたあと、たっぷりと空いた午後の時間をどう埋め合わせようかと考え、先日学生レストランで出会った英語講師のことを思い出した。O’Brienという一風変わった名前に興味もあり行ってみようと思った。お詫びを期待して来たと思われるのも嫌だったが、彼女のことにちょっと興味があることの方が優った。彼女のオフィスは、大学内A棟の二階にあった。白壁をした殺風景な建物の階段をゆっくりと上がり、Jesse O’Brienと書かれた表札があるドアをノックした。
「Yes, who is it?」奥から映画のワンシーンのような返事が聞こえた。
「この前、学生レストランであなたにコーヒーをいただいたものです」
僕は、ドアの外からそう答えたが、ちょと皮肉に聞こえたかなと思った。気の利いたセリフのひとつでも言っておこうと事前に考えていたため妙にぎこちなかった。すると静かにドアが開き中からにっこり笑った彼女が出て来た。
「もう来ないのかと思ったわ。あれから私のお尻がずっと恨めしくって」そう言った彼女のセリフは、実に気が利いていた。
彼女は、僕をオフィス奥の部屋へ招き入れると、真っ白なテーブルと対になった椅子に案内した。部屋の隅の壁際に彼女のデスクがあって、ボードには、彼女の家族と思われる写真と一緒に、自然豊かな山々や渓谷のようなところを撮った写真などが貼ってあった。あらためて彼女の顔をよく見ると、欧米人特有の洗練された彫りの深い顔ではなくて、どこか日本的アニメチックでコケティッシュな愛らしい幼顔をしているなと思った。
「よく来てくれたわ。あれからどうしたらあなたに対するお詫びが出来るかずっと考えていたのよ」
「そんな、全然気にしていませんから。どうかもう気にしないで下さい」
気にしてないから、気にしないで、と変にぎこちない答えになってしまった。せっかく正しい日本語を理解しているはずの彼女に対して、混乱させたかなと思った。
「ううん、そうはいかないわ。それで、考えたんだけど…… もし、お気に召さなかったらどうしようかと思うんだけど……」彼女は、そう言いながら一冊のノートブックを僕の目の前に差し出した。それはベージュ色の表紙をした誰かの手記のようだった。
「これは…… ?」僕は戸惑いながら訊いた。
「実は、あなたが読んでいたものが、あなたのお父さんの手記だったというのを聞いて、それで…… そのお詫びというわけではないんだけど、どうしたらいいのか考えたの。それがこれよ。わたしの名前は、O’Brienだけど、O’はアイルランド語で、何々の子孫という意味なの。つまりアイルランド系の子孫。これはわたしの叔母にあたるアンナが、彼女の父親からもらった手記なの」
それを受け取った僕は、何て素晴らしいプレゼントなんだろうと思った。僕の読んでいた手記をきっかけに、お詫び出来る何かを彼女は彼女なりに探していたと思うと、僕は彼女のその純粋なプレゼントを喜んで受け取る気持ちになっていた。
「これはどういう物語りなんだろうか……」僕は受け取った手記を前に逸る気持ちを抑えつつ、独り言をつぶやくように訊ねた。
「そのアンナの父、サミュエル・オブライエンとその家族がアメリカへ移住した時にある悲劇が起きたの。でも彼が、その悲劇を抱きながらもアメリカで自分を取り戻していく話なのよ」
僕は、自分の父の手記とあまりにも符合するその物語りの酷似性に言葉が見当たらなかった。
ジェシーの叔母であるアンナの父(つまりジェシーの祖父にあたる)、サミュエル・オブライエンは、アイルランドのメイヨー州にあるウエストポートという町で生まれ育ち、農夫として生活していた。ある夏の日、イングランドは長雨と冷害に祟られ、しかも南部では奇妙な病害が発生し、農家に深刻な影響を及ぼしていた。それは遡ること三年前に、北アメリカの東岸一帯を荒らしたウィルスによる立ち枯れ病の一種であった。ヨーロッパにはなかったこのジャガイモに取りつく菌は、九月にアイルランドに上陸するや、またたく間に全土に拡がり、その被害は三年間にも及んだ。このジャガイモ飢饉はアイルランドに百万人以上の餓死者を出し、人々は生き延びるために、先を争ってアメリカ、カナダ、オーストラリアなどに移民として移住していった。そしてサミュエルもその一人として、愛する妻エマとジョンとコナーの子供達二人を連れてアメリカへ移住したのである。
オブライエン一家は、移民船で大西洋を渡り、東海岸ニューハンプシャー州ポーツマスの町に一ヶ月をかけて着いた。多くの移民でごった返す港近くの市場で当面の食糧を買い込み、車へ積んで目的地であるミネソタ州のセントポールへ移動することにした。サミュエル一家がアメリカへ渡った千八百年代後半頃のセントポールは、グレート・ノーザン鉄道やノーザン・パシフィック鉄道が開通し、ミネソタと南北ダコタを分かつレッド川流域へと通じる道路網が整備され、百年以上続いていた辺境の町から商業都市として変貌を遂げようとしていた。
ポーツマスを出て三日目、ミネソタ州セントポールの町へ着く頃、地理に不慣れな地平線へ続く一本道を、オブライエン一家の車は先を急ぐように走っていた。時刻は夕方五時過ぎ、朝から激しく降り続く生憎の雨模様で、ようやく認識できる範囲でクロスロードの右側から一筋の光が射し、一台の車が本線へ合流しようとしているのがわかった。あたりは薄暗く夕暮れの中に車のヘッドライトの光が見えた。どうやらこちらが通過するのを待っていると思われた。サミュエルの車が時速六十キロでその交差点を通過しようとしたその瞬間、待っていた車が急発進し飛び出してきた。咄嗟の事だった。そこを通過しようとしていたサミュエルは、ブレーキを踏むのが一瞬遅れ、左へ急ハンドルを切ったが間に合わず、右の道路から飛び出した車に衝突し、その反動で対向車線に逆向きになり横転して止まった。助手席に乗っていたエマと後部座席にいた二人の子供達は、衝撃で頭部を強く打ち、外へ投げ出された。ハンドルと座席の間に挟まれたサミュエルは、頭部から血を流したまま意識を失っていた。
サミュエルは、運ばれた病院のベッドで眼が覚めた。ぼんやりとした記憶の中、妻と子供の顔が浮かびベッドから起き上がろうとするが、激しい頭痛がし体中が鉛のように重く動くことが出来ない。そしてそのベッドの中で緊急対応をした医者から、無慈悲な宣告である妻と子供の死を知らされる。一瞬にしてサミュエルの瞳孔は視界を捉えることが出来ず、暗黒の闇へと引きずり込まれてしまう。かつて経験したことのない血液の逆流が起き、そして止めどもなく涙が溢れ、体中の水分が抜けるように流れ出た。愛するものがこの世からいなくなる。そんな不条理なことがあっていいのだろうか。昨日まで一緒に過ごしてきた家族が、突然とこの世から居なくなる。理解不能な現実に、サミュエルの頭の中は、脳味噌がすっからかんになってしまった。エマがいまにもこの病院のドアを開けて、サミュエルの元へ現れ、笑顔で語りかけてくる気がした。その後ろからジョンとコナーが現れ、思いっきりベッドの上へ飛び跳ねて来る気がした。悲しい、たまらなく悲しい。そして月日だけが流れていく。サミュエルは抜け殻のような日々を過ごし、何も手をつけることが出来なかった。そして何事も起こらない日々が続き一年を経過した。
そこまでを読み終えた僕は、最初からのあまりに衝撃的な話の展開に喉がカラカラに乾いているのに気づき、ミネラルウォーターを取りに台所へ行った。五百ミリリットルのボトル半分近くの水を一気に飲み、サミュエルの悲しみがどれくらいのものだったか、その悲しみの程度を考えてみた。何十年もの間に作り上げて来たものが、一瞬の予期せぬ出来事で寸断される。そこには、抗うことの出来ない摂理が働く。それっきり終わってしまうことの不条理。人の一生がランダムに選ばれ、そして終わって行くことに誰も抗うことなど出来はしないという現実。昨日までの永年培ってきた蓄積など木端微塵に吹き飛んでしまい、全てが変わってしまう現実をどう捉えたらいいのだろうか。でも僕には、それが如何ほどのものか、唯一無二の存在が消失してしまうなんて、経験していないから心の中に共有する悲しみが湧き上がってこない。それほど僕には、人を愛することが欠落しているのかもしれないとさえ思えてしまう。自分の生い立ちを考えた時に、家族に愛されることを素通りしたためなのかもしれない。
失意のままだったサミュエルは何かに気づいたように突然、モンタナ州ボーズマンの町へ行くことを決意する。タンスの中の衣裳はそのままだった。テーブルの上には毎朝食べるパンが一週間分おいてある。そのまわりには瓶に入ったジャムやサラダにつけるケチャップもそのままにある。読みかけのペーパーバックは椅子の上に無造作におかれていた。サミュエルは、肩から下げるナップサックに必要なものだけ詰めて、鍵も掛けずに家を飛び出した。そして三キロ離れた牛小屋のある黒人のボブ・ヘンリーのところへ行き、頼みこんでボーズマンの町へ鉱石を売りに行くボブの馬車に乗り込んだ。サミュエルが乗り込んだ馬車は、途中ノース・ダコタの平原地帯を進み三百五十キロも離れたボーズマンの町を目指した。やがて三日間かけてボーズマンの町へ着いたサミュエルは、事故の後遺症で不自由になった左足を引き摺りながら通りを歩いていた。しばらく行くと市場があった。多くのカウボーイが目的もなくその場にたむろし、ある者は安いバーボンのボトルを手にちびちびと飲んでいる。またある者は長椅子に座り、通り過ぎる淑女達に下卑た声を掛けている。通りの真ん中付近に目をやると、ドラッグストアの前で軒先に座り、器用にトランプを使った手品をしている女性を目にした。カウガールの衣装を着たその女性は、取り囲んだ数名の男達の嬌声と喝采を浴びながら、帽子に入ったコインをジャラジャラいわせていた。サミュエルは、その女性と眼が合い、彼女の前に置いてある帽子に反射的にコインを入れていた。返事はなかったが、見慣れない顔を前にして異星人を見てるかのような表情を浮かべていた。
やあ、何をしているんだい?
サミュエルは、ほとんど彼女のことを特段知りたいわけでもないのに、その場の雰囲気をさり気なく繕うことの出来る大人だと誇示するのに妥当なセリフを吐いた。
見ればわかるでしょ、トランプを使った手品よ。みんなに驚きを与えているわ。
サミュエルは、格別、驚くようなことなどではないと思いつつも、彼女の自信ありげに答えるセリフそのものに驚いた。
成程ね。驚くことはある種快感でもあるからね。実に素晴らしい。と、サミュエルは鷹揚に言った。
見慣れない顔だけど、あなた何処から来たの?
ああ、セントポールから来た。
何処へ行こうとしているのかしら? 彼女は矢継ぎ早に訊いてくる。
落ち着ければ何処でもいい。訊きたかったのは、その帽子に入っているコインの帰りを待っている人がいるかどうかだけど。
ううん、このコインはまた次の道具を買うためのもので、あたしのものよ。どうして?
とりあえず寝泊まりできるところを知っていたら教えて欲しいと思ってね。何しろここの土地は初めてだから、何処に何があるか見当もつかないのさ、それだけだよ。
いいわよ、案内してあげるからついてきて。彼女は初対面の男に対して予想外の無防備さで答えた。
そして道具を片付けると、さっさと先に立って歩き出した。サミュエルは、彼女と一緒に市場を通り抜け、町はずれにある六部屋しかない小さな安宿に着き受付で記帳を終えた。泊まりの部屋は半分以上をベッドが支配する狭さで薄暗く、ベッドに座ったサミュエルは、部屋の入り口に所在なげに立ったままの彼女に訊いた。
そういえば、まだ名前を訊いてなかったな。
彼女から見ると、ベッドに座ったままのサミュエルの表情は、窓から入る逆行の光の中にあってよく見えない。
メアリー、メアリー・ウィンステッドよ、よろしくね。あなたは?
それを聞いたサミュエルは、僥倖を得たような驚きと共に瞬間的に表情が固まった。それはまるで、遠い昔からよく知る知人に突如数年ぶりに出会ったかのような仕草だった。が、すぐに頭を振って考え込むように首をうなだれ、そしてさっと顔を上げた。それらサミュエルの一連の動作は数秒の出来事であって、メアリーはサミュエルの表情に注視してはいない。
サミュエル・オブライエン、アイルランドの出身だ。ありがとう、助かったよ。何しろ泊まるところがわからなくて、どうしようか決めていなかったからね。お礼に夕食を御馳走するっていうのはどうだい?
食事だけじゃつまらないわ。あたしの話を聞いてくれるという条件なら喜んで受けるわ。
オーケイ! じゃあ六時にこの宿の前で会おう。
サミュエルは、すっかり生気を取り戻していた。妻と子供を事故で亡くすという悪夢が残るセントポールの町を離れて、暗く忌まわしい記憶から離れることが出来たこともあったが、ボーズマンでのリセットされた空気とメアリーとの出会いがもたらしたものだった。サミュエルとメアリーは、宿の通りに面したディッケンズ・カフェにいた。二人の前には、バッファローステーキとライ麦のパンとビールが並んでいた。
君が何処の出身かというのをまだ訊いてなかったね。サミュエルが訊いた。
その前に、まずこのバッファローステーキを口に入れさせてもらっていいかしら? 朝から何も口にしてなくて腹ペコなのよ。メアリーはそう言いながら、すでにステーキにナイフを入れていた。
そりゃ失礼した! じゃあその話は、このステーキを食べてからということにしよう。
サミュエルは思った。朝から何も食べてないということは、あの大道芸のようなことだけで彼女は生計を立てているのだろうか? カウガールの衣裳をまとっているとはいえ、日々の生活に窮しているように思えた。
それから二人は、バッファローがどういう風に飼育されているか、バッファローのどの部分がどういう風に美味しいか語り合った。
さあ、そろそろ約束の話を聞かせてもらう時間かな。それと、その前にさっきの僕の質問に答えてもらってないけどね。
わたし? わたしは、あなたと同じアイルランドの出身よ。
何だって、アイルランド! アイルランドのどこ?
クレア州のリスドゥーンバーナ、ご存じ?
ああ、知ってるとも。俺はメイヨー州のウエストポートだ。隣りの州じゃないか、温泉のある街だろ? こりゃあ、ビールじゃなくてアイリッシュコーヒーを注文しないといけなかったな。
温泉だけじゃないわよ。音楽と祭りで有名な街でもあるのよ。毎年九月になると、ヨーロッパ一の大きな見合いイベントが開かれて、多くの夢見る農家の独身者が参加して祝宴が開かれるわ。
もちろん知っているさ、マッチメーカーバーという場所があるだろ? そうすると、君もそのお見合いイベントに参加したってわけかな?
そうよ、今までで一番のおめかしをして、フリルのついた花柄模様のワンピースという出で立ちよ。女の子の友達二人と一緒に広場へ行くと、大勢の人々でごった返していたわ。あたりを見ると、手持ちぶささでどうしていいかわからない、といった様子の数人の男の子達がいたから声をかけたの。
――あら、男の子ばかりでいても何も始まらなくってよ――ってね。
そりゃあ、いい問いかけだ。でも女の子が話しかけて来るのは、いま何時かしら? とかモハーの断崖へはどう行ったらいいの? とかに決まっているし、一緒にパーティーを始めようなんて言うはずがないからね。
そう、そしたらその中の一番背の高い子、名前はパトリック・オーサーっていって、その男の子がこう言ったの、――君達は、お見合いパーティーの関係者かい? ――
なるほど、やっぱりね。誰だってそう言うに決まっているさ。で、何と答えたんだい?
――ええ、そうよ。お見合いパーティーの仕方を教えてあげるから一緒についてらっしゃいな――そう言ったわ。
それを聞いたサミュエルは、こりゃあいいやと言って、大きく両手を広げ声高らかに笑いだした。お腹の筋肉が引きつって痛みを感じるぐらいに笑った。笑いが治まらなくて、クックッと我慢しながら、で、どうなった? まさか騙されたまんまって言うんじゃないだろうね、と訊いた。
そのまさかよ。メアリーは当然と言わんばかりに答えた。
サミュエルは、今度は両手を顔の前で叩きながら、後ろへひっくり返らんばかりに反り返り大声で笑い出した。そしてもうこれ以上声が出ないぐらいに笑ったあと、さらに我慢した口元を引きつらせていた。
それで、そのあとその子達と一緒にマッチメーカーバーに入り、近くのテーブルに行って話を始めたの。
メアリーは、爆笑する観客に当然と言わんばかりの振る舞いをするベテラン喜劇俳優のように、落ち着いた口調で話し始めた。やがてサミュエルの顔は、笑いが治まってしんみりとした表情に変わっていた。
突然、キッチン横のサイドボードに置いてある電話が鳴った。
メアリーが話す物語り開始の合図かと思ったが、部屋中に響くシグナルによって一気に現実へと引き戻された。電話の主は、ジェシーからだった。
「やあ、ジェシー。いまちょうど手記を読みかけてたところなんだ」
「そうなの、それはよかったわ。実は、あなたにお願いがあって電話したの」
「何だい? 僕はあまり出歩かないから、おいしいコーヒーが飲めるところの紹介は出来ないけど」
「私の方が今度、シアトルコーヒーよりもおいしい喫茶店を紹介してあげるわよ。それよりも、この前ちょと聞かせてもらったあなたのお父さんの手記、あれ、全部読ませてもらえないかしら」
言われてみれば、至極当然のように思った。僕はいま、ジェシーの祖父の物語りを呼んでいる。彼女が僕の父親の手記を読めない理由は何処にもなかった。
「あなたがわたしの祖父の手記を読んでいるから、わたしもあなたのお父さんの手記を読んでみたいなと思ったの」
「もちろん、ぜひ読んでもらえれば」僕は喜んでそう答えた。
「そうなの? よかったわ。駄目だと言われたらこのままモンタナへ帰ろうかと思ったわ」
「それには及ばない。今からでもすぐに届けるよ」
そう言って、読みかけの手記にシオリを入れ、ジェシーのオフィスへ向かった。オフィスのドアをノックすると、ジェシーが待ち焦がれていたように勢いよく現れた。
「あれからあなたを帰してしまったことをとっても後悔したわ」
「本当は僕の方から言うべきだと思ったから、後悔しているのは僕の方さ」
「わざわざ持ってきてもらってありがとう」ジェシーがにっこり微笑んで答えた。
「ちょと難しい漢字が沢山あって、読み辛いかもしれないけど」
そう言いながら、父の手記を彼女の手元に差し出した。ジェシーは、まるで白雪姫の絵本をもらった子供のように喜び、その手記を両腕でしっかりと抱え込んだ。ジェシーへ手記を渡し、晴れ晴れとした気持ちになり、早くメアリーが語る物語りを読もうと思った。キャンパス内の敷石で連なる道路の両端には、銀杏の木々が溢れんばかりの陽の光を浴びて黄金色に輝いている。道端に降り積もった銀杏の葉っぱの心地良い踏み具合を靴底で感じながら家路を急いだ。
パトリック・オーサーとは、お見合いパーティーで知り合ってすぐに仲良くなったの。お互い他の子達が話しかけるのも上の空で、二人の話に夢中になったわ、とメアリーは、両手を組んで夢見る乙女のように語り続ける。
パトリックは手品が得意だったのよ! 掌に乗せたコインがあっという間に消えてなくなるの。私はすっかり夢中になって、今度こそコインの行方を見逃すまいとパトリックの掌をじっと見つめていたわ。そしたらパトリックが、――おいおい、そんなに見つめられたらこの手が君にくっついてしまうよ! ――と言ったの。もうその時からわたしはパトリックに何かを感じていたのね。
メアリーは、パトリックから色んな手品を教えてもらう。コインだけでなく、トランプやタロットカード、コップに入った水、パトリックはメアリーにとってファンタジーを届けるディズニーの登場人物そのものだった。パトリックの家の庭先にある木陰にメアリーが座ると、その前でパトリックは丁寧にお辞儀をし、手に持った六個もあるボールを頭の上でぐるぐると廻し始める。メアリーはあらん限りの拍手を浴びせる。そこは、誰からも邪魔されない二人だけの世界だった。
――両親は、僕の名前を聖パトリックにちなんでつけたんだ――
――そうね、聖パトリックだなんて素敵だわ。セイント・パトリック・オーサー! ――
――聖パトリックが、クロー・パトリックの山頂で蛇よけのお祓いをして、アイルランドに蛇がいなくなっただろ? だから僕もアイルランドの聖になるんだ――
やがて二人は恋に落ちる。互いを見つめ合い、触れ合い、語り合った。二人にとっての最高に幸せな時。どこまでも広がる牧草地、いくつもの湖、豊かな木々に囲まれ二人だけの時間が過ぎていった。二人とも、その幸せな時がいつまでも続いていくと思っていた。
しかし、時の経過と共に二人の愛は形を変えていく。リスドゥーンバーナの街も例外ではなく、立ち枯れ病のウイルス被害にあいパトリックとメアリーの家もしだいにその影響を受け、深刻な生活苦に追い込まれていく。二人の家族も生き延びるために街を離れざる負えなくなった。この世に不変のものはなく、時は確実にあらゆるものを変えていく。そしてパトリックとその家族は、ある日突然いなくなってしまう。メアリーへ何も告げずに、何の連絡もなしにメアリーの前からいなくなった。メアリーは途方に暮れる。一ヶ月が経ち、半年が経ち、一年が過ぎた。タナ―崖に吹きつける風はあの日と同じだった。
突然いなくなるなんてどうしたんだろうか? 自らの意志なのか、抗うことの出来ない出来ごとなのか? サミュエルは、淡々と語るメアリーに聞いた。
わからないわ、何があったのか。
そうして、メアリーは家族と共にリスドゥーンバーナの街を離れアメリカへ渡った。パトリック・オーサーという人物がまるで存在しなかったかのように、そういう人物はもともといなかったのだ。そう思うことで、現実は今までと何ら変わることはない。でもメアリーの記憶の中には、確実にパトリックが見せてくれた手品やジャグリングが残っていた。二人で過ごした牧草地の風に揺れる草花の香りが残っていた。時は人の運命を変えていくが、人の記憶までも変えることはできない。記憶だけは不変のものである。パトリックとメアリーの物語りは、メアリーの記憶の中に不変のものとして刻み込まれていた。
サミュエルは泣いていた。メアリーの話を聞いていたサミュエルの心の中に、変わることのない記憶が蘇ったのだ。
家族でウエストポート・キーの波止場にいた。岸壁にある石で出来た椅子に座るエマ、そして傍らにいるジョンとコナーにカメラを向けて、サミュエルはシャッターを切る。エマはカメラのレンズを意識してか、ちょっとはにかんだ笑みを浮かべる。ジョンとコナーは母親のほっぺをつねったり、笑わせようとおかしな顔を向けている。そしてサミュエルは家族の傍へ行き座る。何も考えず、ただ目の前にあるものを眺める。エマが喋り出す。マット・モローのパブでサミュエルとスリップ・ジグを踊った話や、クロー・パトリックに二人で登った時の話を楽しそうに子供達に聞かせる。語り続けることが、家族を繋いでおく最良の手段と思えるように喋り続ける。岸壁にいくつもの波が打ち寄せる。空に広がる雲が、次から次へとちぎれたりつながったりしながら山へ向かって流れていく。
サミュエルの眼から涙がこぼれ落ちた。その涙をメアリーはそっと拭いてあげた。悲しみに暮れる子供をやさしく包むように、どこまでもやさしく。サミュエルは、その手に触れながらしだいに悲しみが癒されていく。しずかに眼を閉じると、エマの記憶とメアリーの手が重なり合っていた。
その後月日が経ち、メアリーはサミュエルへ献身的に尽くし、それに応えるようにサミュエルも次第に自分を取り戻して行く。しかし、サミュエルはメアリーに接していればいるほど、エマの記憶を感じずにはいられなかった。メアリーの髪に触れているあいだ、メアリーのことを愛おしく思うと同時に、エマのことを思い出している。あたかも、神が届けてくれたエマの生まれ変わりとでも言うように、メアリーの眼を見て、手に触れるたびに思いだすのだ。サミュエルは、メアリーの献身的な思いに対し、感謝の気持ちで答えようと思った。ふと、それが愛なのかとも思った。しかし、愛し合ったエマとの世界を突然と遮断され未完のまま、新たな愛が生まれるものだろうか? メアリーと出会えば出会うほど、繰り返し揺れ動く思いが湧き出てくる。サミュエルは思い切ってメアリーへ打ち明けることにした。
正直言って、君を見るたびに愛しさが募ってくる。しかしその愛しさがエマの記憶を寄り戻させるんだ。ずっと打ち明けようかどうか迷っていた。
そうなの、そうだったんだ。実は、わたしもそうなの…… あなたに接するたびに、パトリックとの楽しかった日々が思い出されて…… とても辛い気持ちで過ごしていたの。でも、あなたに対してもっと真剣に向き合おうと努力してみたんだけれども、そうすればするほどパトリックとの記憶が蘇ってきて…… だから、ずっと悩んでいたの。
君もそうだったとは…… ありがとう、メアリー、僕もずっと悩んでいた。
ううん、サミュエル、正直に打ち明けてくれてよかったわ。
僕らが座った席は、通り沿いの窓際にあって、外から中を覗くことも出来るし、もちろんこちら側から外の景色が見通せた。時折、若い二人連れが仲良く手を繋いで歩いて行く。その後ろから女子学生の三人組がおしゃべりに夢中になって歩いて行く。反対側からは、買い物袋を持った初老の男と妻らしき女性が寄り添いながら歩いている。僕は、ジェシーが化粧直しに席を外したあいだ、しばらく外を歩く人の流れを眺め、そして静かに眼を閉じた。閉じた瞼の裏側に、二十年前にジェシーから貰った手記の、メアリーとサミュエルの姿が浮かんでくる。メアリーとパトリックが草原の中で戯れている。サミュエルとエマ、そしてその子供達が波止場に座っている。それらが、重なり合うようにフェードインしてはフェードアウトしていく。僕は、パトリックが消えた原因を探ろうとしていた。パトリック・オーサーは、夜空に煌めく星のように淡く消えていった。夜空には何千何万の星が点在し、新しい星が生まれると同時に、古い星が消えていく。それぞれが個々の世界として存在し、それぞれの物語りがある。そしてその物語りはどこで終わるのか、それは誰にもわからない。
ジェシーが、席に戻ってきたので聞いてみた。
「ところで、サミュエル・オブライエンの手記のことだけど」
「あら、奇遇だわ。わたしもたったいま、あなたと同じことを考えていたの」
本当に、奇遇にもお互い二十年前に読んだ手記のことを考えていた。
「最初に読んだ時はそのままやり過ごしてしまって、何で今、そう思うのか不思議なんだけど、パトリック・オーサーはどうしていなくなったんだろう?」
「メアリーがわからないように、わたしにもわからないわ」
「どうしても連絡できない状況にあって、それが永遠に続いたとなれば何かの事故で亡くなったのかな」
「どうなんでしょう、パトリックとメアリーが結ばれていたらわたしは存在しなかったし、そう考えると不思議な気持ちだわ」
「それは、僕もそうさ。船長室にいた父は助かり、船底にいた家族は全員助からなかった。だからもし父の最初の家族が助かっていれば、父の後妻の子として生まれた僕は存在しなかった」
「そうね、その通り。わたしもあなたも偶発的な存在なのかもしれないわ」
「誰だってそうさ、偶発的に存在して偶発的に消滅する」
サミュエルとメアリー、そして僕の父にとって、悲しむべき不幸な出来事が起きたことに起因して、今の僕とジェシーは存在している。その事実をどう考えたらいいのだろうか。それっきり、二人共会話が続かなくなった。ジェシーも窓の外に眼をやっているが、視点は外の景色を捉えてはいなかった。そして、お互いのドリンクもなくなり会計を済ませ店を出た。
第二章
雑誌社からの原稿依頼や広告代理店からの企画書作成の依頼等がたまっていたので、その仕事に忙殺されていた僕は、昼夜を問わずパソコンにかじりついていた。灰皿の中の吸い殻が一面を覆い尽くしている。勿論、食事も取るし睡眠も取る。しかしそれ以外は、それぞれの専門分野のネットワークチームと連絡を取り合い、企画書作成のための時間が延々と続く。もうこれでいいという限界がないし、締め切りギリギリまで止めないのだ。とことん正解を追究していくといった膠着状態が続いていく。世の中の出来事は、ネットのニュースで確認していたし、友人とのやりとりもSNSで事足りる。決して外の世界と隔絶した生活を送っているわけではない。外へ出ない代わりに外部との連絡を繋ぎとめておくため、日々のメールチェックは習慣的に怠らなかった。そしていつものように自分のアカウントメールを開いてみると、いくつかのSNSとは別にしているパーソナルタブの欄に、ジェシーから、先日駅前のハンバーガー店で会って以来、半月ぶりのメールが入っていた。
《Hi、Takashi、how are you? あなたに相談があるの。会って話したいことがあるので連絡もらえないかしら?》
ジェシーは、実に手短にしかメールを書かない。英語と日本語をごちゃ混ぜにするのが得意だが、大学生相手の英語教師なのに、決まって最初の一文を小学生でも分かる英語で書いてくる。随分と簡単なメールだ。先にメールで連絡を取るというのは、相手の都合を考慮したやり方で、ジェシーの心遣いが感じられる。やりかけていた企画書の原稿データをUSBに保存し、すぐにジェシーへ電話をかけると、僕からの返事を待ちかねていた様子だった。簡単に約束の場所と時間を交わし、数日ぶりに外へ出かけることにした。
久しぶりの外は、六月下旬の梅雨時期にもかかわらず晴れ渡った陽気で、気温も真夏の暑さに近くて驚いてしまう。しかし暑さのわりには湿気のない風がそよぎ心地いい。ハワイのワイキキ通りを歩いているようだ。高速度撮影のスロー映像のようなゆっくりとした速度で、公園すぐ傍の小さな湖畔にあるレストロシーナ――イタリア語で楽屋――という名のレストランまで歩いた。そこは十二名席に着くと満席になる店で、五十代前半の旦那がシェフをし奥さんがウエイトレスをしている。ここのハーブグリル焼きの鳥肉が絶品の味だ、と地元の雑誌に紹介してあった。店へ入ると、ジェシーが一番奥の湖が見える窓際の席にいた。大きな花柄模様のアプリケットがついた赤いTシャツとベージュのパンツという軽装で出迎えてくれた。店内には、常連客に受けのいいイタリアのクラブジャズ”ニコラ・コンテ”のイカした音楽が流れている。
「やあ、ジェシー、あいかわらずキュートな出で立ちだ」
僕は、ジェシーのつま先から、パンツ、シャツ、そして顔へと順に下から上へ流し見ながら言った。
「そんなことないわよ。お気に入りのシャツをクリーニングに出してたら、まだ出来てなかったの。だからこれはちょっと派手かなと思ったんだけど」
ジェシーはちょっと遠慮がちな様子で、中年女性に対して”キュート”という、ほぼ発せられることのない言葉に恥じらいを感じているようだった。そう言われてみると、渋谷駅前のスクランブル交差点でも一目でわかる、ちょっとどころではない派手な色ではあるが、ジェシーのような眼鼻立ちがはっきりとした女性には丁度似合っている。席に着いて、トマト、モッツァレラチーズ、バジリコでイタリア国旗を表した前菜と、ヨーグルト、ハーブグリル焼きの鳥肉、全粒粉入りフォカチャ、それにカベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワイン、と色鮮やかにテーブル一杯に並んだ料理を口にしながら、ジェシーの話を聞くことにした。彼女はフォークを使って前菜であるカプレーゼにペーストをつけている。
「相談があるって言ってたけど……」僕の方から先に切り出した。
「ええ、実は、あなたにパトリック・オーサーのことを聞かれたでしょ」
「うん、彼がその後どうなったかってこと? 彼の音信不通のことだよね」
「そう、あれからずっとそのことを考えていて。それで本当にパトリックの行方がどうなったか気になってしょうがないのよ」
何故だかはわからないが、二十年近くも封印していたことに対して、ジェシーは今また向き合おうとしていた。
「分かるよ。自らの意志でいなくなったのか、不可抗力でいなくなったのか大きな違いだからね」
「そうなのよ。もし不可抗力であったとしたら、彼のメアリーへの想いはどうしたらいいのか……」
「そのとおりだ。想いを伝えることが出来ないとしたら非常に悲しいことだと思う」
「そう、だからね、わたし、アイルランドへ行ってパトリックの行方を調べてみたいのよ」ジェシーは、突然驚くべきことを言った。
「アイルランドへ? でもどうやって調べるんだい?」
「わからないわ、でも行けば何かわかるかもしれない。メアリーが住んでいた住所は手記を頼りに調べればすぐにわかると思うし」
ジェシーは、前菜にフォークを刺したまま哀願するような表情をしていた。
「うん、それはそうだが……」僕はどう答えていいか分からずにそう言った。
「でね、あなたにも一緒に行ってもらえないかと思って……」
「僕も一緒に? 僕なんか行っても何の役にも立たないよ」
「そんなことないわ。唐突で、変なお願いだと思うけど…… あなたならこの事を一番理解してくれるんじゃないかと思ったの」
「…………」一瞬、僕は戸惑ってしまった。
そして様々なことが同時に頭の中に浮かんだ。百年ほど昔に行方不明になったままの人物の行方を、右も左もわからない異国の地で見つけ出すことは大凡無謀なことだと思われた。仕事に関しては調整すればいいし、送稿や校正もネットでやれば済むことではある。それともちろん、ジェシーとすれば、僕を純粋に理解ある友人として見てるだけで、二人っきりでアイルランドまで出掛けることに、何ら違和感を感じてはいない。そう考えている時点で、すでに僕の方がジェシーを意識してしまっている。ただそうは言っても、女性一人で遠路はるばる出掛けることに不安な気持ちであることも事実だろうと思った。
「あなたもわたしと同じような家族の因果を抱えている。だからこそ分かってもらえるんじゃないかと」
ジェシーは、僕が彼女と同じ境遇に出会っているからこそ、パトリックの行方を調べることの意味を理解できるのではないかと言う。そう言ったジェシーの言葉に対し、僕はどういう役割を果たせるのか、不安な気持ちで一杯だった。確かに父の最初の家族も、父への想いを断ち切れぬまま海底の奥深く沈んでいった。父の書いた手記の一部が頭をよぎる。
――この四百九十五名の人々は祖国再建の希望に燃えておりました。人々は船中において祖国再建についての抱負と熱意を語り合った事と思うのであります。然し乍ら、故山を指呼の間に望んで、萬斛の涙を呑んで海底深く眠り去ったことは、啻に安東市引揚史中最大の悲惨事ではなく、祖国日本のためにも惜しんで余りあることではないでしょうか――
パトリック・オーサーがもし不可抗力でいなくなったとしたら、同じ想いだったのではないか。メアリーとのアメリカでの新しい船出に夢を描いていたものが突然と断ち切られてしまった。その満願の想いは今も生き続けているんじゃないだろうか。だとしたら彼がいなくなった足跡を確認して見なければという気がしてならなかった。そう思うと、やはり日常の細かな煩雑さに捉われるよりは、思いきって決断すべきだと思った。
「わかったよ。ジェシー、一緒に行こう。行ってパトリック・オーサーの行方を調べよう」
僕は、ジェシーの強い思いに引き摺られるように受けることにした。ジェシーは、にっこり微笑むと同時に、ちょっと強引でごめんなさいね、という意味なのか、少しはにかみながら赤ワインのグラスを片手で上げた。サミュエル・オブライエンの妻と二人の子供、パトリック・オーサー、そして僕の父の最初の家族だった妻とその子供達、それらの人々の無念の思いの上に僕とジェシーは今を生きている。そのことをどうこうしようとしたところでどうなるものでもない。何かが変わるわけでもない。亡くなって行った人々に対して何かをしたところで何も変わるわけではない。でも、僕とジェシーはそうせざる負えない思いに憑かれていた。
七月に入り三週間後、ニューヨーク経由でアイルランド西部の玄関口であるシャノン空港へ夕方の六時に到着した。ジェシーと僕は、空港でレンタカーを借りて国道を走り、約一時間の距離にあるリスドゥーンバーナの街へ向かい、ナビを頼りにメアリーが住んでいた場所を目指した。あいにくの空模様で、重くどっしりとした雲が覆いかぶさりパラパラと小雨が降り始めていた。パトリックの行方もこの天気のように暗雲立ち込めるのか、いささか不安なままだった。もし、パトリックが何らかの不可抗力でいなくなっていたとしたら、それがどういう結果を招くのか、パンドラの箱に手を掛けてしまったのかも知れなかったが、いまさら後戻りは出来ないと思った。箱の中からは、悲観、不安、嫉妬、争い、苦悩、欠乏、後悔、その他ありとあらゆる災いが溢れ出すかもしれない。でも、ギリシャ神話では、その箱の底に、希望が残っていた。ジェシーと僕は、その希望を見つけようとしているのだと信じていた。
街へ着くと、綺麗なレンガ色とベージュ色をした二階建ての建物が続く。途中には灰色の空模様と対照的な、赤や黄色、ピンク色などをした極彩色の建物もあり、一層のメルヘン調の世界が広がっていた。アイルランドの夏は夜の十一時頃まで明るくて、まだ夕暮れにもなっていない。
僕らは手記に書かれてあった住所を入力したナビを頼りに進んでいった。そしてメインストリートを抜けたはずれの、雑草が生い茂るほとりに、それらしき家が間違いなく存在していた。薄いクリーム色をした平屋建ての家だが、百年以上も前のことなので、おそらく昔メアリーが住んでいた建物を、改築したか建て替えてしまったものと思われた。それでも随分と築年数が経っているのであろう、正面の雨樋がはずれ、雨水が家壁を伝った軌跡が、墨汁のようにあちらこちらにこびり付いている。
夕方から降り続いていた小雨が強くなってきた。茶色の木製ドアに付けられた古い錆ついた真鍮ノッカーを鳴らすと、夕食時ということもあったのか、すぐにこの家の主と思われる六十代と思しき白髪頭をした男性が現れた。最初は、何の用事だと言わんばかりに猜疑心に満ちた顔をして、窪んだ眼を上目遣いにしながら僕らの様子を伺っていた。が、訪問した理由を告げると、日々変化のない生活をしていた彼の、ちょっとした日々の変化という欲求を満たしたのか、中へ入れてもらい話を聞くことができた。彼は、ミシミシと音がする不安定な木製の床に置いたテーブルに僕らを招きいれると、まるで未開の地に閉じ込められていた探検家のように、数本の歯が欠けた滑舌の悪い発音で話し始めた。
「ああ、以前ここに住んでいたメアリー・ウィンステッドのことはよく知っているさ。それと彼女と親しい間柄だったというパトリック・オーサーのこともね」
何と二人とも知っているという。おそらくは捜し当てることの困難さを予想していただけに、まるで推理小説の語り手が、満を期して真相を解き明かすような、そして僕らの訪問を予期していたかのような答えに、いきなり面食らってしまった。チャールズ・ブラウンと名乗るその人物は、いかにも田舎の町にふさわしい朴訥とした口調で語り出した。
わしがこの土地に来たのは、今から五十年以上も前のことだ。その頃、わしはまだ学校でサンタのミュージカルが開かれるのを楽しみにしていた子供だった。でもサンタの衣装など着てなくても、ここらには年がら年中サンタのような白い顎鬚を蓄えた人が沢山いてな。で、ある日のこと、町外れの教会に行くと、そこにサンタの親分のような恰幅のいい男が、教会外の一番上の階段に座り、集まった子供たちに話を聞かせていたんだが、その話というのが実に不思議な話だったのさ。
――リスドゥーンバーナの町にひとりの若い手品師がおった。名前はパトリック・オーサーと言ってな、彼はどこでどう覚えたのか謎じゃったが、とにかくありとあらゆる手品が得意じゃった。パトリックがマッチメイカーズ・カフェに現れると、店は彼の手品を一目見ようとする多くの人達で一杯になった。初めに簡単な、手にコインを持つ手品をやったり、それから器用にジャグリングをやってみたり、トランプを使って一枚抜いたカードを当てるとかいう古典的な手品まで次々に披露して、多くの人から喝采を浴びておった。そのパトリックがお見合いイベントの日に、カフェで素敵な女の子と出会ったんじゃ。名前はメアリー・ウィンステッドといってな。やがて二人は恋に落ちた。メアリーの家の庭先でパトリックは色んな手品を披露する。そこでメアリーは、ディズニーの御伽の世界にでもいるかのような気持ちに浸っていた。やがてパトリックの手品は、より大掛かりで幻想的な手品に変わって行った。パトリック自身が木箱の中に入り、その木箱から消えてしまうと、みんなあっけに取られてしまい、すぐに後ろの席からパトリックが現れると、やんやの拍手喝采を浴びせた。そうしてパトリックは自分自身が消えてしまうマジックに打ち込み出した。いろんな所から彼自身の姿を消していくのさ。ところがそうしたある日、パトリックは家族と共に忽然と姿を消してしまった。一週間経って、隣のスティーブン家が訪ねた時も、玄関に鍵は掛っておらず、キッチンの食器は洗い物がおいたままだったし、テーブルの上には、毎朝食べるパンと野菜がそのままになっていた。どうしてだかわかるかな? ――
サンタの親分は、話にかじりついていた子供達の顔を一人一人順番に流し見ながら訊いた。
――またすぐに、どこかから現れたんでしょう?
いいや、それっきりパトリックは現れなかった。永久に消えてしまった。彼は自分のマジックで、自分自身を永久にこの世から消してしまったのさ――
ジェシーと僕は、チャールズが語るサンタの物語りが、サミュエルがメアリー本人から聞いたという話と一致することに驚いた。メアリーがサミュエルへ伝えた話をそのサンタの親分がどうして知っていたのか。サンタの親分が生きていない今となっては、この話はアイルランドのリスドゥーンバーナでの小さな語り話でしかないのだが、そのパトリック・オーサーのマジックにかけられたかのような話に、ジェシーと僕は引きずられてしまっていた。
「そのパトリック・オーサーが住んでいた場所を知っていますか?」ジェシーは先を急ぐように訊いた。
「ああ、確かここから西へ七キロぐらいの海辺のところにあるドゥーリンという小さな集落にいたというのは聞いたことがある。でも今は建物もすっかり建て替わっていて、どれがパトリックが住んでいたところだったかはわからんがね。ドゥーリンの町は、車で行っても十分ぐらいの隣町だからすぐにわかるはずだ」
僕らはチャールズ・ブラウンに礼を言い、すぐにドゥーリンの町へ行くことにした。
国道を西へ進み、エイル川に架かる石積みの橋を渡ると、二車線道路の並びに十軒余りの白壁のショップやパブが建っていた。その裏手周りには、積み上げられた石垣が見え隠れするだだっ広い牧草地帯が広がっている。夜も九時になりお腹も空いてきたので、駐車スペースのある一軒のパブに車を止めた。天然のモザイクストーンをした外壁とそれを引き締めるような真っ黒い玄関周りのモニュメントをあしらえ、千八百三十二年開業と書いてあるに相応しい重厚な店構えをしていた。アイルランド伝統音楽発祥の地というだけあって、店内にステージがあって演奏が聴ける造りになっているが、あいにくの雨でお客もまばらのせいもあり演奏はやってなかった。ウェイターに窓際の席へ案内してもらい、サーモン、生野菜とスープという簡単な料理を注文した。
「さっきのチャールズの話はどう思う?」僕は、ジェシーに率直な考えを訊いてみた。
「不思議ね。突然と消えてしまうというパトリックのマジックが、サミュエルにまで及んでいるような、そんな気がしたわ」
サミュエルもセントポールの町をそのままに、突然と姿を消してしまっていた。そして引きずられるようにメアリーと運命の出会いを果たしていた。
「ひょっとしたら……」
「ひょっとしたらなに?」
「サミュエルはパトリックの生まれ変わりのような気がして……」
僕は、あまり意味のない現実離れしたことを言ってしまった。
「それはあり得ないわ。だって二人とも同じ時代に生きていたはずよ」
「うん、でもパトリックが姿を消した時と、サミュエルがウエストポートの町を後にした時期が重なっているんじゃないだろうか」
強硬スケジュールを押して、ニューヨーク経由でアイルランドの田舎町までやって来て疲れがたまっていることもあり、冷静な思考能力が失われていたこともあるが、大凡現実離れした妄想を抱かせるのに十分な素地が出来ていたのかも知れなかった。お店の中にいる人達は、日本人である僕を興味深そうにちらちらと見ながら、ひそひそ話をしているように思えた。ケルト民族である白人ばかりの中に黒髪のアジア人がいると、どうしても目立ってしまう。それが何とはなしに違和感を感じさせる。
「そうだわ、この店の年配者にパトリック・オーサーのことを知らないか聞いてみようかしら。隣町のチャールズが知っていたぐらいだから、何かがわかるかもしれないわ」
僕の妄想を打ち消すように突然ジェシーが言った。
よく女性は感情的な生き物と言われるが、ジェシーの場合は物事を論理的に考える潔さがある。
「そうだね、それがいいかもしれない」
ジェシーは、僕の同意に頷くとウェイターを呼んで、年配者がいないかそしてパトリック・オーサーに心当たりのある者がいないか訊いた。ウェイターが奥の厨房へ消えてしばらくすると、この店のマネージャーらしき白髪をきちんと撫で付けてスタイリッシュな格好をした男が現れて答えた。
「ドゥーリンの町に昔からいる占星術師に訊いて見たらいいと思いますよ。彼女なら何かわかるはずです」
マネージャーの話によると、その老婆は星の周期的な動きによって人の運命などを予想する占星術師ということだった。惑星が人の心の中の根本的な動きや衝動を表し、天の徴が地上の出来事の前兆を示すという。
「本当ですか、ぜひ、お願いしますわ。近くにいらっしゃるんでしょうか?」ジェシーが言った。
「ええ、ここから百メートル先に住んでいます。すぐに連絡して見ましょう」
マネジャーは、にこやかな笑顔で軽く会釈をし奥の方へ消えていった。
「ねえ、占星術ってそもそもどういうもの? よく知らないんだけど」ジェシーは、僕の方へ振り返って言った。
「簡単に言うと、天体の位置や動きを予測するのが天文学で、占星術、占星学ともいうけど、それは天体の動きを用いて人の運命を予測するものさ。実はケプラーの法則で有名なヨハネス・ケプラーは、天文学者・数学者でもあり占星術師でもあったらしいけどね。時の権力者は、星の観察・観測をする天文学よりも自分の運命や選択の良し悪しに興味があったから、それについて答えてくれる占星術にお金を出したというわけさ。ケプラーもルドルフ二世の宮廷付占星術師として従え、そのおかげで天文学の研究が出来たんだろうね」
二人で会話を続けていたら、マネージャーに連れられた魔法使いのような格好をしたひとりの老婆が現れた。黒づくめの衣装に頭巾を被り、手には杖をついていた。老婆はゆっくりと僕らのテーブルへ近づき席について口を開いた。
「パトリック・オーサーの話を聞きに来たのはあんた達かい」
「ええ、そうですけど……」ジェシーは恐る恐る答えた。
「彼の何を知りたいのかい?」
「彼が突然居なくなった理由を知りたいんです。何処かへ行ってしまったのか、それとも亡くなったのか」ジェシーが老婆へ訴えかけるように言った。
「わたしには彼が消えてしまった姿が見えた。あれは避けられない運命だった」老婆は、表情ひとつ変えずに言った。
その占星術師の老婆は、まるで僕らのために仕掛けられたストーリーテラーそのものだった。そう言って老婆はパトリック・オーサーのことを、テーブルの上に揺らめくランプの灯りを前に、彼方を眺めるような表情で語り出した。
――あの日、私は夜空に煌めく星を眺めておった。その時、その中の星がひとつ流れ星になって消えて行ったのを見たのさ。
パトリックは母親と共にモハーの断崖へ出かけた。でこぼこになった田舎道は石ころだらけで、車は砂埃を上げながら進んでいた。一旦下りになり、そしてゆるやかな登りカーブにさしかかった。左側は深い谷底になっていた。カーブの先は数メートル先が死角になって見えない。道路の真ん中には白線が無くて、通り抜けるのにぎりぎりの道幅だった。母親が運転するパトリックを乗せた車がカーブを曲がり始めたその時、対向車がかなりのスピードで下ってきた。対向車はそのままカーブにさしかかると、道路の真ん中付近を越えて道路の右側まで出て来た。パトリックを乗せた車は、急な対向車の出現に驚き急ハンドルを取ったが、タイヤが左の崖からはずれ、そのままバランスを失い谷底の深淵の樹海へ落ちて行った。誰にも知られることなくパトリック・オーサーは、モハーの断崖へ消えてセイント・パトリック・オーサーになったのさ――
老婆の鷲鼻に曲がった鼻を携えた顔が、下から照らすランプの灯りに浮かび上がっていた。僕とジェシーはお互い顔を見合わせ、その老婆が語る話に戸惑いを隠せなかった。占星術師は心理学者でもあるという。ジェシーと僕の心の奥底にあるパトリックに対する思いを、ただ単に浮かび上がらせただけなのかも知れない。あんたたちは、ひょっとしたらこういう風に思っているんだろう、と。その心の奥底を炙り出されているのかも知れなかった。
僕らは、翌日モハーの断崖へ行き、海へ向かって花束を投げた。そうすることでパトリック・オーサーに対してのひとつの区切りをつけたかった。それで真実がどうあれ、ジェシーにとっては、自身に対する因果を抱えながらも、前に向かって生きていくために必要なことだ、という思いでそうせずにはいられなかった。
結局、それ以上のパトリック・オーサーの足跡をたどる成果は得られなかった。ひょっとしたら、メアリーが語る話も、チャールズ・ブラウンの語る話も、そして老婆が語る占星術による話も、すべてアイルランドに伝わるセイント・パトリック・オーサーという伝説の話だったのかもしれない。もともとパトリック・オーサーという人物など存在しなかったのかもしれない。僕は帰りの飛行機の中で、今まで見聞きしたことが、すべて夢の中の出来事のように思え、ジェシーがいる座席の横で深い眠りに落ちた。
アイルランドを出発し、ニューヨークからアラスカ航空に乗り換えて、ジェシーの故郷があるモンタナ州ボーズマンへ、せっかくだからということで寄ることにした。
切妻屋根をした木目調の建物であるイエローストーン国際空港へ降り立つと、ジェシーの両親であるエドガー・オブライエンと妻のリサが迎えに来ていた。二人はジーンズにポロシャツを着て、自然豊かなボーズマンという町に相応しいラフな服装をしている。久しぶりのジェシーとの対面に、三人とも飛び跳ねるように抱き合い、体中で溢れんばかりの喜びをあらわしていた。エドガーは、考古学者らしく、髭を蓄えて年輪の刻まれた凛々しい顔をしていた。妻のリサは、ジェシーによく似た、大きな眼と亜麻色の髪をした愛らしい表情の小柄な女性である。エドガーの運転する四輪駆動に乗って市内へ移動した。真夏というのに湿度ゼロの清廉された空気を、車の窓を開けて両肺に思いっきり吸い込む。何処までも青く澄みきった空と降り注ぐ太陽の光の中、視界三百六十度のなだらかな山々を遠目に眺めながら、窓から出した腕に心地良い風を感じた。
「やあ、よく来てくれたね。しばらく滞在するんだろう?」
エドガーは、ハンドルを握りながら後部座席に座っていた僕に、首を右後方へ傾け陽気に問いかけた。
「ええ、帰らないといけない日が決まっているわけじゃないですけど、三日ぐらいはと思ってます」
「そうか、あまり引き止めても都合もあるだろうしね。何か必要なことがあればジェシーに言うなり、私に直接言ってもらっていいから」
エドガーの声は、抑揚のある低く重厚なトーンをしていた。僕は、ダンスホールでの司会者が話す紹介部分が、まさにこういう話し方だなと思った。
「実は、あなたの両親のサミュエルとメアリーの件で訊きたいことがあるんですが……」
僕は、サミュエルの子供にあたるエドガーに思いきって訊ねた。エドガーは自分の両親のことを口に出され、ちょっと驚いた様子だったが、すぐにこやかな笑顔に戻り気さくに答えた。
「ああ、何でも聞いてもらっていいよ。車の中じゃ何だから場所を改めて夕食の時にでも聞こうか」
「そうね、わたしも色々と聞きたいわ」ジェシーが相槌を打つように横から声をかけた。
エドガーとリサ、そしてジェシーからもぜひ家に泊まるように言われたが、丁重に断りを入れて、市内から少し外れた郊外にあるコテージ風のホテルにチェックインすることにした。訊きたいことや話したいことはあるが、何となく一人になりたかった。とりあえずホテルの部屋に荷物を入れ、ベッドの上に座った。窓際へ行きカーテンの隙間から中庭の様子を覗いた。しばらく見てたら何となく落ち着きがなくなり、外に出て煙草を吸おうと思った。燦々と降り注ぐ陽の光が中庭にある樹木の葉を照らしている。灰皿が置いてある脇の椅子に座って煙草に火をつけ、真っ青に澄み切ったボーズマンの空に向かって大きく煙を吐いた。
ジェシーは、女性には似合わない旧式の四輪駆動シボレー・ブレイザーに乗ってホテルへ迎えに来た。僕はジェシーが、ふとイギリスの女性探検家メアリー・キングスレーのように思えた。単身一人で日本へやってきたぐらいだから好奇心旺盛な探検家である。その昔、千八百年代のヨーロッパによるアフリカ植民地時代に、ベルギーのレオポルド二世がアフリカで最も資源豊かなコンゴを”コンゴ自由国”として私物化する。ジョセフ・コンラッドの著書『闇の奥』の中で、――国名としてこれほど人を馬鹿にしたものは他にないだろう。この国の富を自由にむしり取ってよろしいというのが、その本当の意味であったのだから――と書いている。ヒトラーのナチスドイツによるホロコーストに匹敵する大殺戮が行われた西アフリカのコンゴで、アフリカ人を人間として認め世界に訴えた人がメアリー・キングスレーだった。ジェシーには、そういった男性とはまた違った逞しさを感じる。
オブライエン家は、緑豊かな牧草地帯の蜿々とした道の先にある小高い丘の上にあった。西部劇に出てきそうな雰囲気の大きな丸太木造りの家である。木造のブラウンを基調にし随分と年季が入っており、玄関横の木目の市松模様をしたウッドデッキには長椅子が置いてあった。エドガーとリサが満面の笑みで出迎えてくれた。一階フロアの奥にあるキッチンへ行くと、リサの手作り料理がテーブルの上に所狭しと並んでいた。バッファローのオーブン焼き、大きく切って揚げたポテトとアスパラガス、ニンジン、トマト、カリフラワーにパン、アメリカ人の食生活にありがちなボリュームたっぷりのメニューだが、わりと野菜中心ではある。しばらくは僕自身のことや日本のことなど、エドガーからの矢継ぎ早やの質問に答えるのに一苦労だった。サミュエルとメアリーの件をエドガーに訊くのは、この場の和やかな雰囲気に水を差すような気がして、中々言い出せなくていると、エドガーの方から訊いてきた。
「そう言えば、私の両親の件で訊きたいことがあったんじゃないかな?」
「ええ、以前ジェシーから預かった手記のことなんですけど……」
「サミュエル・オブライエンの手記のことだね」エドガーは、ちょっと神妙な顔をして言った。
「ええ、そうです。あの手記に書かれてあったことは、メアリーには以前愛し合ったパトリック・オーサーという人がいたということ。そしてサミュエル・オブライエンにもエマという妻と二人の子供がいたということ。そしてそのサミュエルの家族が交通事故で亡くなったということですよね」
「うん、それなんだがね、事実は実際そうなんだが、実は、私はその手記を目にするまで、エマと二入の子供がいたことは、サミュエル本人から全く聞いていなかったから知らなかったんだ」エドガーは驚くべき事実を口にした。
それにはジェシーも初耳だったらしく、スプーンを口に入れた状態で、シャッターを押されたように固まってしまった。
「そうすると、サミュエルは過去のことを一切口にしなかったということですか?」
「そのとおりだ。セントポールにいたことすら口にしたことはなかった」
サミュエル・オブライエンはボーズマンの町へ来て、それまでの過去の出来事を一切口にすることはなかったのだろうか。エドガーの隣に座るリサも、そうなのよ、とでもいうように頷いていた。
「メアリーもそのことについて何も話さなかったんですか?」
「そのとおり、彼女もパトリック・オーサーのことは一切口にしなかった」
「パトリック・オーサーの件も手記を手にして始めて知ったということですか?」
「そう、だから手記の内容を知って非常に驚いてしまったというわけだ」
エドガーは、アメリカ人がよくやる両手を広げ肩を竦める仕草をした。
「二人ともどうして何も話さなかったんでしょうか」僕は自問自答するように言った。
「おそらく二人だけの苦悩に押し留めて、永遠に封印しようと思ったんじゃないだろうかと思うんだがね」
「でもサミュエルは手記を書いていたわけですよね」僕は念押しするように言った。
「そう、おそらく書かずにはいられなかった何かがあったんだろうと思う。書くことによってせめてもの供養になると考えたのか、どうなのか……」
「そう言えば、この手記を見つけたのはあなたの妹にあたるアンナですよね、彼女も聞かされてなかったんでしょうか」
「手記の発見に驚いたぐらいだからそういうことだね」
アンナは、サミュエルの晩年を一緒に過ごしていた。メアリーが癌という病魔に襲われ先に亡くなった後、独りになったサミュエルの身の回りの世話をやっていた。そしてサミュエルが自宅のベッドで静かに息を引き取り、数ヶ月後に遺品を整理していた時にその手記を発見したのである。僕の場合も同様に、父親は僕が二歳の時に亡くなっているので、当然ながら以前の家族の件は知らないことである。そして母もその以前の家族のことは全く語ることはない。というよりは知らされてないのである。おそらく父が母に対して気遣うあまり口にすることはなかったのだろう。サミュエルとメアリーの場合は、二人とも納得の上でお互いの苦悩を封印してしまったのであろうか。そして誰にも語られることはなかった。しかしサミュエルは密かに手記にして置いておいたのである。
翌日、ジェシーと一緒にボーズマンの町へ出て、メインストリートにあるカフェに向かった。ジェシーの叔母のアンナに会うためだった。エドガーが、ジェシーが帰ってきたことをアンナへ伝えると、会ってどうしても伝えたいことがあると言うことだった。メインストリートといってもボーズマン自体が、古き良きアメリカの牧歌的町である。生活雑貨の店やブックストアー、レストラン、銀行などが平屋の建物になっていて、それぞれが余裕を持って通りに面し並んでいる。時折、車が数台通り過ぎるぐらいで、信号のない道路を横切ってカフェの店内に入った。アンナは先に来て、店内の左端にあるテーブルの椅子に座り静かに本を読んでいた。上品そうなグレーのニットプルオーバーとパンツを着こなし、細身の体と両腕を高級そうな装飾品で固めていた。
「アンナ叔母さん、紹介するわ、日本から来たタカシよ」
「ああ、あなたがタカシね。アンナよ、よろしく。あなたのことは、ジェシーからよく聞いているわ。ジェシーの探究心に付きあわされたみたいね」
アンナは、利発そうで年相応の深みのある笑顔で握手を求めながら答えた。
「いいえ、そんなことはないです。海外旅行は好きですから」
「彼の海外旅行は何だと思う?」
ジェシーがいたずらっぽい眼をアンナへ向けて言った。
「えっ、彼の海外旅行ってどういうこと?」
「あのね、彼は暇さえあればパソコンでストリートビューを開いて世界中を旅してるのよ」
「それは凄いわね。じゃあボーズマンの町もすでに下調べは出来てるんでしょう」
「そうよ、ここのセブンスアベニュー通りをまっすぐ行くと、その向こうの右手にウォルマートがあるというのも知ってるのよ」
しばらくは僕の話題を俎上にして話が弾み、三人ともよく笑った。僕の仕事の話になり、色んな原稿を書くライターの仕事をしているという話題から、サミュエルの手記の話になった。
「アンナ叔母さんは、サミュエルがどうして昔の話をしなかったのかと思う?」
ジェシーが出題者のような話し方で訊いた。
「実は、そのことなんだけど、彼には昔の話が出来なかったもうひとつの過去の秘密があったのよ。今日はそのことを伝えるために来たの」
アンナは改めてジェシーに向き合い、突然と驚くべきことを口にした。アンナの表情は、深みのある慈愛の顔から厳しさを前面に打ち出す聖職者のような凛々しさに変わっていた。
「あの手記の中に、どうしてもひとつ引っ掛かることがあったのがわかる? サミュエルがセントポールの町を出て、ボーズマンでメアリーと初めて出会った下りがあるけど、そこでサミュエルは、メアリーが自己紹介をすると、昔からよく知る知人にでも会ったかのように驚きの表情を浮かべているのよ。それがどういう意味だかわかる? つまり、サミュエルはメアリー・ウィンステッドの存在を事前に知っていたのよ」
そう話したアンナの口元はわずかに震えながら、それでいて厳しく堅く真一文字に結ばれていた。それ相当の覚悟を持って、苦難に立ち向かうべく意を決した表情を浮かべていた。アンナの言ったことは、理解出来た。しかしそれがどういうことなのか、ジェシーも僕も皆目見当がつかなかった。そしてアンナは、もうひとつのサミュエルの驚くべき過去を静かに語り出した。
――メイヨー州のウエストポートにいたサミュエルは、久しぶりの休日にエマと二人の子供達と一緒に、モハーの断崖へ出掛けることにした。オブライエン一家は、太陽が降り注ぐ牧草地をくねりながら頂上へ着いた。四人は車から降り、サミュエルが大きく背伸びをし牧草の中に身を投げ出そうとしたその時、エマが突然、思い出したように言い出した。
ああ、いやだわ、わたしったら。肝心の飲み物を持って来るのを忘れたわ。わたしとしたことが何てことでしょう。
この晴れ渡った空の下、燦々と日差しが降り注ぐ中で飲み物がない状態では、せっかくの休日も台無しになることは明白だった。サミュエルはそれを維持するのが一家の長としての当然の役目だと思った。
大丈夫だよ、下に降りて行くとストアがあるからそこで僕が買って来よう。
サミュエルは三人をその場に置き、車に乗って急遽飲み物を買いに行くことにした。登って来た時と違って、下りはほとんどアクセルを踏むこともなく、くねくねと曲がったカーブのハンドル捌きに注意さえすれば大丈夫だった。サミュエルの車は、順調に下り始めしばらく走っていると、下りに加えてかなりの加速が増してきているのがわかった。サミュエルは、慎重にカーブ手前でブレーキを踏み大きくカーブを曲がる。その後にかなりの角度のついた下りカーブに差し掛かった。そのカーブ手前でブレーキを踏んだが、思った以上に利きが甘く大きくカーブ中央まで出てしまった。その時、急に対向車が現れた。サミュエルはハッとして急ブレーキを踏んだが間に合わず、横滑りを起こし後輪部分が対向車線にはみ出てしまった。対向車はとっさのことで、それを避けようと左へハンドルを切ったため崖にタイヤを取られてしまい、そのまま断崖の下へ飛び出し落ちて行った。サミュエルは何が起きたのか理解できてはいたが、そのことを現実のものとして捉えることが出来なかった。心臓は高鳴り、頭に体中の血液が登ってくるのがわかった。こめかみがずきずきと唸りを上げ、心拍数はセントポール教会の鐘が打ち続けられるように激しく揺れ動いた。落ちて行った車は、左へ大きくハンドルを切ってしまっていた。その原因を作ったのは、自分の運転する車が道路中央迄はみ出したことに他ならない、とサミュエル自身がよく分かっていた。ただ、モハーの断崖の下には深い海が横たわり、そこから浮かび上がってこない限り永久に知られることはなかった。その後に、サミュエルはそのまま降りて行き、まるで夢遊病者のようにストアで飲み物を買い、エマと二人の子供達が待つモハーの断崖へ戻った。まるで何事も無かったかのように、現実は今までと何ら変わることはない、そう思うことにした。実際に起こったことは、突然のアクシデントであって、それは誰の上にも降りかかることだ。車の事故なんて日常茶飯事であって、突然と後ろの車が突っ込んで来ることだってあり得る。ぶつかられた方は迷惑な話だが、それは誰の身にも降り掛かることだ。それからしばらく何事もない日々が過ぎて行く。
やがて、サミュエルはエマと二人の子供達と共にアメリカへ渡ることになる。そうして今度はサミュエルにとって一番大事な家族を失うことになる。失意の日々を過ごしていたサミュエルは、モハーの断崖で起こった事故のことを思い出していた。因果応報ともいうべき自分が犯した事故が、今度は自らの身に降りかかったのだ。愛する家族を失ってしまった今となっては、どう抗おうと成すすべもなかった。しかし時の経過と共にサミュエルの心の中に自ら犯した罪に対する懺悔の思いが浮かんでくる。このまま抜け殻のような日々を過ごし朽ちて行くわけにはいかないと思ったが、かと言ってどうすればいいのか思い悩んだ。
そして月日が経ち、ふいに何かに突き動かされるままに、わざわざアイルランドまで戻り、行方不明者の捜索がないか、隣町のリスドゥーンバーナへ行き調べた。そしてパトリック・オーサーという手品の得意な青年が行方不明になっていて、彼のガールフレンドだったメアリーという女性が彼を探していることを知った。そしてそのメアリーもアメリカへ渡ったと聞いた。サミュエルはメアリーの足跡を探ることにした。アイルランドのメアリーの叔母に訊いて、メアリーはモンタナ州のボーズマンにいることがわかった。そうしてサミュエルはセントポールを出てボーズマンへ向かった。自分が犯した罪の償いを、メアリーという女性に対して懺悔を乞う思いだった。
彼女は、パトリックが突然いなくなったことをどう思っているのか、生きているのか亡くなったのか、それすらも分からずにいるというのはどんなに辛いことだろう。何かをする度にパトリックのことが頭の中に浮かんでくる。家に居る時も外を歩く時も、特に何もしていない時、ふとパトリックのことが頭を過ぎり、その度に彼女は心を掻き乱されることになる。きっとそうに違いないとサミュエルは考えるようになった。やがてサミュエルは、そうした思いとは裏腹にメアリーを見つけ出し、彼女に会って真実を伝えようかと悩んだ。
パトリック・オーサーは、モハーの断崖から落ちて亡くなったんだよ。たまたま私が車で通りかかった時に、彼の乗った車が落ちて行くのを見た。だから彼はもうこの世にはいないんだよ。
そう告げることで、彼女がこれ以上苦しみ続けることから解放されるに違いないと思った。たとえ彼女から蔑み罵倒されようとも、それが自分に課せられた運命であり、一生背負って行かなくてはならない十字架なのだと――
「何てこと…… どう言えばいいのかしら……」
ジェシーは、思いもよらない事実を突き付けられ、それ以上の言葉を失っていた。そして瞳には大きな涙の粒がいまにもこぼれんばかりに溢れようとしていた。
「あたしは、このことを知ってしばらく知らなかったことにしようと思ったの。だから最初の手記だけを渡してそのままにしておいた。でも結局、事実を変えることは出来ないし、知ってしまった以上そのことを隠し続けることが果たしてどうなのか。事実はそのままに受け入れなくてはいけないと思った。だから今回伝えることにしたのよ」
アンナにとっても、そう言うのが精一杯だった。
確かに、知らなければそれにこしたことはない。しかし、事実を隠したまま果たして本当にそれでいいのだろうか。そういった気持がアンナの中で葛藤していたに違いなかった。それでも彼女は、厳しい現実を突きつけることにした。真実を真実のまま受け入れることを選んだ。
「じゃあ、サミュエルのしたことをメアリーは知らなかったということ?」
ジェシーの声は、冷静さを失いヒステリックな叫びのようだった。
「それはどうだかわからないわ。ひょっとしたらメアリーは知っていて、サミュエルの犯した罪を神様のような大きな慈愛で受け止めてくれたのかも知れない」アンナは、ジェシーを慰めるように言った。
アンナもジェシーも、自分達の存在そのものを否定するごとき事実と向き合っていくには、メアリーがサミュエルに対して免罪符を渡したと思う外ないのかも知れなかった。
「でも、サミュエルはとんでもない偽善者だったのね。どうして彼は、メアリーと最初に食事をした時に平気な顔をして、メアリーが話すパトリックの話を聞くことができたのか…… 考えられない…… ひどい、ひどい話だわ」
ジェシーもアンナも、大粒の涙を瞳に貯めたままそれ以上口を開かなかった。
翌日僕は、しばらくボーズマンへ残るというジェシーに別れを告げ、日本へ帰るためシアトル経由の飛行機に乗った。ジェシーは何も考えられなくなっていた。悲劇と単純にいうよりは、罪を犯した免罪符の結果としての彼女自身の存在を理解するには、あまりにも悲しい不条理な出来事だった。お互い避けることの出来ない事故だったと言い切ってしまうには、あまりにも不幸な出来事だった。今後、彼女が過去の忌まわしい事実と向き合って生きて行かなくてはならないことを考えると、僕は何も言葉が見つからなかった。
西海岸のシアトルへ向かう飛行機の窓からは、ロッキー山脈の彼方に横たわる広大な砂漠が広がり、地平線の彼方まで繋がっているのが見えた。そしてそのロッキー山脈の頂きに、灰色の雲が絡みつくようにまとわり付いていた。
第三章
日本へ戻ってからの僕は、しばらく仕事上のルーティンワークを淡々とこなし、日々生活するために必要不可欠なことだけに終始して過ごしていた。料理をして食事を摂る、風呂に入って身体と髪を洗い髭を剃る、手洗いで洗濯をする、箒と雑巾を使って部屋の中を掃除する、そうしたことにひとつひとつ丁寧なぐらい集中していた。サミュエルの手記のことを忘れたわけではなかったが、帰国後数日間経過して、その衝撃的な内容をどう理解していいのか判らないまま、しばらく頭の奥のデータフォルダーに保存しっぱなしだった。
それから一週間後、雑誌掲載の打合せのため、出版社のあるオフィスビルへ行き、体育館半分程もあるだだっ広いロビーに置いてあるソファに座り、新しく創刊される雑誌の編集長、テッド・ジェファーソンを待っていた。テッドは、ニューヨークでの雑誌編集の実績を買われ、日本の雑誌社からスカウトされていた。そして家族と一緒に一年程前に来日していた。エレベーター入口の傍には、訓練された無表情の警備員が、ブルーの制服を着て微動だにせず彫刻のように突っ立っている。ロビー内は美術館のような静寂が漂い、咳払いひとつするだけで建物内の天井まで残響音が響き、そこにいる人の注視を集める。その静寂さを無視するような、コッコッという靴音が徐々に響いて来た。まだ四十代前半だが、すでに薄くなった頭髪をしロイド眼鏡を掛けたテッドは、やや脂肪のたまったお腹を持ち上げるサスペンダーをいじりながら、にこやかな笑顔でロビーへ現れた。
「やあ、お待たせ。この連日の猛暑は殺人的だよな。ワイフに今日のお昼は生卵を付けてくれと言えば良かったよ。割ったらすぐにフライドエッグが食べれたからね」
僕は、ニューヨーカーのユーモアを交えた話が何を言わんとしているかを理解しても、何ら面白いと思えないのと、テッドの声がロビー中に響き渡るのが、周りに対して何となく気不味い思いがして、ああ、そうだね、と小声で相槌をした。警備員も勿論、彫刻のように無表情のままだった。テッドと僕は、エレベーターでオフィスのある七階に上がり、案内嬢――テッドは陽気にウインクを投げるが彼女は軽く会釈をするだけである――のいる受付を通ると、打合せのためのミーティングルームに入った。そして雑誌社らしからぬ殺風景で無機質な部屋にある、真っ白で広々としたテーブルに向かい合わせで座った。アメリカ人と向かい合った場合、大抵はジョークを交えた世間話から始まるのが常だが、僕は相談内容にあまり期待することもなく、しきりにハンカチを出して額の汗を拭っているテッドに向かって、すぐに本題を切り出すことにした。
「新しい企画の相談があるということだったけど?」
テッドは、受付横に設置してある自動販売機で買ってきたジンジャーエール缶のプルトップを勢いよく開けている。
「うん、早速だけどタカシにお願いしたいのは、今度新しく創刊する雑誌に載せる連載小説を書いてもらいたいんだが」テッドは、ジンジャーエールを一口飲んで答えた。
「新刊雑誌での連載? その雑誌はそもそもどういったジャンルを目指しているんだ?」
「まあ、特段ジャンルを絞ってはいない。ただ毎回こちらで取りあげるテーマを設定するんだが、そのテーマに則したターゲットを意識して書いてもらえればいいんだがね」
「うーん、どうだろう。そのテーマがどういったものか判らないけど、白紙にとにかく何か絵を描いてくれと言われても……」
どんなテーマにするのか知らないが、そのターゲットを意識してと言っても、千差万別でそれぞれに違いがあって、共通するテーマに即した内容にするのもどうかと思えた。
「そうだな、あえて言えば対人関係かなあ。親子関係とか夫婦、恋人、友人…… その対人関係を通して社会にどう向き合っていくか、あるいはどう変革していくか…… ともかく何でもいいんだ。君が得意とするテーマでもいいし、読者に何らかの興味を抱いてもらえればいいのさ」
テッドはジンジャーエールを時折忙しげに飲みながら、ニューヨーカーらしく大きな身振り手振りで説明をする。
「ちょっと待ってくれ。あまりにも漠然としすぎているし、僕は読者に対する押しつけがましい意見なんて持っていないけど……」
そう答えた僕は、ビル全体の禁煙に対する禁断症状を感じているのか、少しイラついた返事になっているかなと思った。
「いやいや、別にオピニオン雑誌じゃない。どう言えばいいのかな…… もう少し簡単に考えてもらっていい。例えば、いろんな人の営みの中で起こる様々な出来事に対して、どういう風に思ったかといったことさ」
テッドの額の汗は、留まることを知らず次から次へと噴き出て来ている。
「おいおい、テッド、他人が起こす出来事なんて、誰が興味が沸くというんだ? 例えて言うなら、その雑誌は病院の待合いソファに置かれ、呼び出される迄のほんの数分だけパラパラと捲られ、そのまま角の折れ曲がった雑誌として、毎日の新聞の下になってしまうんじゃないか?」
随分と都合のいい仕事もあったもんだ。何をどう書いてもいいなんて、僕を過大評価しすぎるし、ひいき目過ぎるんじゃないかと思った。
「じゃあ例えば、この絵だ。有名なモネの『ラ・ジャポネーズ』についてだが……」
テッドが指差した先には、白いテーブルと同化してしまう純白の壁に、くっきりと対比する唯一の装飾品であるクロード・モネの極彩色をした『ラ・ジャポネーズ』のコピー絵画が掛けられていた。金髪の外国人が着物をまとい、畳の上で扇子片手に振り返るというインパクトある作品である。テッドは、その絵を背景に僕に向かってプレゼンテーションを始めた。
「この『ラ・ジャポネーズ』のモデルとなったのは、クロード・モネの最愛の妻であったカミーユだが、次男を出産直後三十二歳という若さで結核のため亡くなっている。その後、モネが最愛の妻を亡くし失意の数ヶ月をどう過ごしたのか、そこを知りたいと思わないか? 実は、このカミーユが亡くなる前に、モネは彼のいわばスポンサーとも言える印象派の作品コレクター・オシュデ家のサロンの装飾をするようになり、そこでそのオシュデ氏の夫人であるアリスと不倫関係にあったと言われている。そしてカミーユが病気で寝込んでいた時には、そのアリスが看病していたと言うから驚きだ。そしてモネは、カミーユの死後にアリスと再婚をしている。しかしながらその後もモネは、カミーユを描いた作品を残しているんだ。やはりモネの心にカミーユが残っていたんだろうね。でもカミーユの死後にモネが描くカミーユの表情はぼんやりとしている」
テッドは、まるでハムレットを演じる舞台俳優のように大袈裟な抑揚を掲げ一気に捲し立てた。
「それで何を解明しようと言うんだ? カミーユに対する愛情とアリスに対する愛情の違いについて考察しようと言うのか? モネの描く作品には興味があるが、モネがどう過ごしたかなんて興味がない」僕は、いささかむきになって反論した。
そしてしばらく二人とも押し黙ったままになった。近未来的な純白の空間に、チッチッチッという腕時計の秒針の音がかすかに聞こえる。テッドが落ち着きなく左手の人差し指で机の上を苛立たしげに叩き続ける音も聞こえる。ただ、やり出せばそれなりにやる気も起きて来るような気もしていた。ともかくどうなるかは分からないが、これまでのテッドとの関係もあり無碍に断るわけにもいかない。進めるだけはしてみようと思い返事をすることにした。
「わかったよ、テッド。とりあえずやってみるよ」
しばし沈黙後の僕の返事に、テッドは予想外の光明を見い出したのか満面の笑みになった。
「オーケイ、そうこなくっちゃ! この前アイルランドとアメリカに行ってたんだろう? その時に感じた話でもいいんじゃないか。ともかく君の書く文章は、予想もつかない面白さがあるし、何より魅力的だからね」
楽観主義者の落とし所にはかなわない。ずいぶんと軽い調子で言うもんだとは思ったが、頭の中の大事な金庫にしまっておいた話題――サミュエルの手記にまつわる話――にテッドが触れたのがわかった。二重三重の厳重な鍵を掛け、アーカイブとして保存していたジップファイルのデータを、僕は椅子に座ったまま頭の中でゆっくりと解凍し始めていた。
テッドと別れた僕は、出版社のオフィスビルを出て通りを歩いた。静かな場所へ行き気分転換をしたかった。カクッと元気な直線と、丸みを帯びた曲線が共存した個性的な文字で”名店食堂街”と書かれた看板のある地下街へ通じる階段を下りた。飲食店が数多く入った迷路のように入り組んだ通路を歩き、昭和五十年代から十五年近く営業している”時代屋”という名の喫茶店に入った。偶然タクシーの中で知り合ったユージという僕と同世代の友人が、親の代から引き継いで営業していた。定食屋の店員が着るような、白の前掛けに三角頭巾という格好をした女性店員にコーヒーを頼むと、作りつけで再沸騰させた煮っ転がしコーヒーがすぐに運ばれてきた。コーヒー皿に据えられた鉄製スプーンには水アカがこびり付いている。ほとんど香りがしない焦げた味のコーヒーをひと口すすり煙草に火を点けた。換気扇の利いていない店内に、透明の炎がゆらゆらと揺れて紫煙がたち込めるのを眼で追った。店内には、小学生の頃に聞いたような昭和歌謡がかすかな音量で流れている。
――雨でスリップするときも フルでとばせぬときもある 俺はゆくのさマイペース ひとり唄って ひとりでほめて――
最初この店へ、ユージに連れられて来た時は、閑散とした店内と愛想のない女性店員の対応に接して、あまりのやる気のなさに驚いたものだが、不思議なことに、最近はここの雰囲気に居心地の良さを感じるようになっていた。
テッドには、連載を書く仕事を請けることを返事したものの、サミュエルの手記に関する話を素材としてそのまま取り上げることにはならない。もちろん、ジェシーの了解も必要だったし、アンナやエドガー、リサの了解も必要だった。そしてそれ以上にサミュエルとしてそれは望んでないだろうし、メアリーも同様に望んでないような気がした。そういう思いとは裏腹に、パトリック・オーサーやエマと二人の子供達は何かを伝えたい一心なのではないか、そういう思いもしていた。
何気にテーブル横のマガジンラックに置いてある雑誌を取り上げてパラパラとめくった。取り立ててどうということはない雑誌で、色んな作家が書評を書いたり、随筆のような世の中の出来事に対してあれやこれや意見を述べたりしているもので、思考を一旦白紙にするには丁度いい。今度の新刊雑誌もおそらくはこれに似たところだろうなと思った。その中にグレン・ミラーの話が書いてあった。今でも世界各国で永遠に聴かれ続けている不朽の名曲の数々が有名だが、色んなところで流され、いつの間にか口ずさんでいる曲を調べたら、グレン・ミラーの曲だったという経験に何度も遭遇したのを覚えている。ムーンライト・セレナーデ、イン・ザ・ムード、茶色の小瓶、真珠の首飾り等々、数え上げればキリがない。その雑誌には、有名な映画『グレン・ミラー物語』の概要が書いてあった。
――映画のラストシーンである。ミラーは、絶頂期にあった第二次世界大戦末期、陸軍航空隊に入隊し慰問楽団を率いていた。パリが開放されて、グレンミラー楽団も、音楽番組の定期ラジオ放送をパリで行うために、ロンドンから飛行機で移動をすることになった。このとき一人だけ別便で移動をするが、その専用機はイギリス海峡で消息を絶つ。ミラーはそれっきり二度と発見されることはなかった。ミラーはクリスマスのこの日、妻であるヘレンと昔町のレコード店で聞いた古い曲をアレンジして発表する予定だった。ヘレンとその子供達は、自宅でクリスマスツリーの飾り付けも終わり、ミラーの親友であるピアニストのチャミーやスポンサーであるシュリブマンと一緒に番組の開始を待つ。オープニングナンバーであるムーンライト・セレナーデの演奏で放送が始まり、司会者のナレーションが入る。
”こんばんわ。今夜はパリからの放送です。しかしグレンミラーはここにはいません。今からお送りする曲はクリスマスの今夜ご遺族に捧げるために作られた曲です”
ラジオから『茶色の小瓶(リトルブラウンジャグ)』が流れてくると、ヘレンの目からみるみる涙があふれ出す。寄り添うようにチャミーが言う。
グレンミラーは居なくなったけど、グレンミラーの音楽はずっと後世まで受け継がれて行く――
そう言えば、高校生の時に、街中にある古い映画館でこの『グレン・ミラー物語』を見たのを覚えている。その時の印象はぼんやりとしか記憶にないが、ミラーがヘレンの家に強引に押し掛けて結婚を申し込むシーンや、サッチモ、ジーンクルーパーなどが登場するシーンなど、おぼろげながら覚えていたのだと記憶の断片が甦って来る。その記事を読み終えラックへ雑誌を戻したとき、厨房の奥の方からユージが現れ、僕が座っている席に近づいて来た。
「ようタカシ、久しぶりだな。どうだいここは、物思いに耽るには持ってこいの場所だろ? 日本中探したって一人の世界を維持出来るところはそうそうないぜ。ところで海外に行ってたんだって?」
ユージは、僕が座っているテーブルの向かいの席が空いているにもかかわらず、わざわざ僕の隣の席に横並びで座った。
「うん、アイルランドとアメリカのモンタナに行っていた」
「ほう、一人で行ったのか?」
「いや、ジェシーと一緒だった。正確には彼女に同行して行ったと言うべきかな」
「なるほどね、そういうことか。それはそれは」
ユージは指先に挟んだ短くなった煙草を灰皿にもみ消しながら、一人勝手に納得したように、うんうんと頷いていた。ユージは一方的に勘違いしているみたいで、僕は思わず苦笑した。僕とジェシーは恋人同士でも何でもなかった。彼女が大学の英語講師であったのと、僕は彼女と同じ大学の学生であったという関係から、お互いの手記がきっかけで知り合い、そして友人に発展しただけで、それ以上でも何でもないことだと宣言しておかねばならない。
「いや、そういうのとは全然違うんだけどね」
「そうなのか? でも男と女が一緒に海外まで行くと言ったら、恋人同士か夫婦に決まってるだろう」
ユージは僕がその説明を加えようとする暇を与えず、決めつけるように畳み掛けて来る。
「いや、ユージは勘違いしてる。僕とジェシーは友人であって、それ以上でも以下でもない。またお互いそういう歳でもないしな。ユージには珍しく通俗的なことを言うなあ」
「じゃあ一体何の目的でジェシーと一緒に、二人っきりで海外へ出かけたんだ?」
ユージはことさら”二人っきり”という言葉に力を込めて言った。
「うん、実はジェシーの祖父の手記に書かれていた件で調べないといけないことがあって、それでジェシーに同行を頼まれたとでも言うのか……」
僕は手っ取り早く説明するために、手記のことだけは言っておかないといけないと思ったが、あまり説明になっていなかった。
「何だかよくわからないが、でもそれは気にかかる手記だな」
ユージは、二人っきりの話よりも、手記に書かれた内容の方に興味が湧いたらしく、背もたれにふんぞり返っていた身体を起こして言った。
「ところで実は今、出版社からの帰りだけど、今度創刊される新刊雑誌の連載小説を依頼されていて、それに今回の海外でのことを素材に使って書こうかどうか迷っている」
ユージの質問に対する矛先をちょっと横にずらした。
「迷っているということは何か問題でもあるのか?」
「非常にデリケートな話でもあるし、ジェシーとその家族にとってもプライバシーに関わることだからね」
「何から何まで事実を書くわけじゃないだろうし、個人名を出すわけじゃないだろ?」
「それはそうさ。当然ながら登場人物は創作で書こうと思っているし、設定自体違ったものになるけどね」
「じゃあ問題ないじゃないか。それでも何か引っ掛かるのか?」
「そうだな、関係者は全員亡くなっているが、問題は彼らの思いをどう感じ取るかなんだけれど……」
「あいかわらずタカシの頭の中はどうなってるか理解不可能だよな」
「そうでもないさ。考えることよりも感じる取ることの方が実際のところ数倍難しい」
ユージとの出会いは、五年前のタクシーの中だった。僕が駅前通りからタクシーに乗ろうとしたら、その場に現れた男が、突然、僕に向かって必死の形相をしながら言い出した。
すまんが、一緒に乗せてくれ。時間がない。
随分と自分勝手で、相手の都合など聞こうともしない荒っぽい言い方だった。
何処へ行こうとしてるんだ?
答えないと駄目か?
そりゃあそうだろう、行き先が逆方向だったら駄目じゃないか?
いや、多分一緒じゃないかと思う。
なんで分かるんだ?
なんとなくね。ともかくゴチャゴチャ言ってる暇はないんだ。
そう言いながら強引にタクシーに乗り込んで来て、運転手にすぐに出すよう一方的に言った。僕は、彼の強引さに蹴落とされたこともあったが、何となく僕にとって敵対する相手ではないことだけは感じていた。しばらく駅前通りを南へ下り国道を左へ曲がると、僕が行こうとしていたブックセンターの駐車場が現れた。わずか十分ぐらいの移動だったのですぐに到着した。
何だ、もう着いたのか。
行き先が一緒だと思うと言ったじゃないか。
わかったよ、一緒に降りよう。彼はそう言いながら僕と一緒にタクシーを降りた。
勝手に乗って来たから、そろそろどういう理由か言ってもらえるかい。
理由? 理由なんてないさ。急いで何処かへ移動したかっただけだ。
それで赤の他人のタクシーに乗り込んできたというわけ?
そう、この世の中に理由のあることなんてあるのかい。
それはあるだろう。お腹が空けばご飯を食べるし、疲れたら家に帰って寝る。自然の摂理だ。
ああそうか。そういう意味じゃ、何処かへ移動したい欲望に駆られたからというのが理由かな。僕は、彼が真面目に答えているのがおかしくなって笑い出した。
何だ? 何がおかしいんだ?
いや、変わった奴だと思ったのと、あまりに真面目に答えるからね。急いで何処かへ移動したかったから、と答えになってないのがおかしかったのさ。
真面目に答えちゃ悪いのか? 彼は、真剣に真面目な顔をしてちょっと憤慨していた。
その後にお互いを名乗り、ユージがやっているという喫茶店まで一緒に行った。びっくりするほどやる気を感じられない店で、僕はどうしてここまでやる気がないのか訊いた。すると、ユージは自慢気な答えを返してきた。
タカシは、ここの良さがよくわかってないな。何度か通ってもらえれば良さがわかると思うがね。
そうかなあ、今のところは何も感じないけどね。しばらく時間がかかるかも知れないな。
実際、その通りだった。その時は何も感じられなかった。ユージは、ちょっとはにかんだような表情を浮かべ、両手で髪の毛を搔き上げていた。それが、ユージとの奇妙な出会いだった。
そして今また、サミュエルの手記のこともそうだった。ジェシーは、過去に起きた忌まわしい事実という不条理な出来事にどう向き合っていくのか。彼女の気持ちを考えるが、今は何も感じ取ることが出来なかった。それが正直な気持ちだった。
「もし、不条理な出来事が起きたとする。それにも理由があると思うかい?」
僕は、手元のコーヒーを一口飲んで唐突にユージに訊ねた。
「不条理な出来事って例えばどういうこと?」
「それは、身近な人の予測できない突然の死とか……」
「不条理そのものが、理屈や筋道に当てはまらないから理由なんてないさ。考えても見ろよ、ビルの上から物が落下してきたとする。それが道端を歩いている者の上に落ちる確率は限りなく低い。でも頭に当たる可能性もあるわけだ。それを喰らった奴は相当に運に見放されている。延々と築き上げてきた人生が突然と木端微塵にされるのさ。理不尽だと思わないか? だからと言って、その人の過去にそういう運命に出会う因果があったかどうかなんて、考えること自体ナンセンスだろう」
ユージと僕の間には、お互いに吸う煙草の紫煙が立ち込め空間を埋め尽くし、限りなく曖昧なベールを拡げている。
「じゃあ、その身近な人の不条理な出来事に対峙して生きて行くにはどうしたらいいと思う?」さらに僕は訊いた。
「何も考えないことじゃないかな。どうしてなんだ! なんて考えること自体無意味だろう。だってそこには理由なんてないんだからどうしようもないだろう」ユージは何も考えるなという。
「何も考えるなと言っても、それは現実的に無理じゃないか? 身近な人が亡くなったら、あまりにも悲しいことだから、どうしてなんだと考えずにいられないと思うが」
「でも考えてどうにかなるのか? 何か変わるのか? 考えることによって身近な人の死という状況が何か変わるとでも言うのか? 身近でない人なら尚更そうだ。例えばジョンレノンが亡くなったからといって、俺達の何かが変わったかい?」
確かに何も変わることはない。その不条理な出来事に対してどう立ち向かおうとも何も変わることはない。十引く一が九になって、決して十になることはなく九のままなのだ。その突然の不条理な出来事に対して、人はあまりにも無力なのだ。そのことに対してどう対峙していったらいいのかと思い悩むことは、何かを生み出すことにはならないということなのか…… ユージの言う現実的な考え方に対して、それ以上どう答えていいのか分からなかった。そして僕は、今またサミュエルの手記のことで何を感じることが出来るのか、今一度考え直してみることにした。ユージの店を出て家路までを何処をどう通って帰ったのかよく覚えていなかった。そしてしきりに考えながら自宅へ戻った。戻ってからの僕は、パソコンを前に何かを書こうとするが、何ら思いつく文章は浮かび上がって来ない。しばらく部屋の窓を開けて、通りに見えるわずかの人々が行き交うのを眺めていた。通り雨が過ぎ去って、レンガ敷きのブロックが雨に濡れ外灯の灯りを照らしていた。目的のない猫がさも行き先があるかのように、気取った足取りでその濡れたブロックを避けながら歩いて行く。そして、ひっそりと静まり返った闇夜に、遠くで賑やかに笑い声を上げる複数の奇声がこだましていた。すぐに書けそうにもなかったので、ビールをグラス一杯飲んでそのまま寝てしまった。翌朝強い日差しが、ソファに横になった顔にまともに降り注ぎ眼が覚めた。顔を洗って、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して飲み、そして机に向かい憑かれたように書き始めた。
学校を卒業し、ありふれたサラリーマンになり、仕事だけでなく夜の世界の遊びも覚え、ちょっとだけときめくような恋をして結婚し、やがてマンネリ化した生活に厭き離婚をするが、理想の相手を求めて再度結婚をする。そして再びマンネリ化した生活に嫌気をさすが時すでに遅しで、今後の事を考えると一人で生きて行くには歳を重ね過ぎている。そして現状に甘んじて生きて行く。そうした生き方をする人は多々いる。
ケンジもその一人だった。妻のハルとはお互い再婚同士で一緒になって十年になる。お互いの欠点が目立つようになり、それがお互い許し難いことではあるのだが、そのことが原因で結婚生活に重大な支障をきたすことにはならない。経済的、社会的にも離婚することのデメリットの方が高いことがお互いよく分かっている。だから不満だらけではあるが現状に甘んじていた。ただ不満もあるが、それ以上にハルに対する愛情もそれなりに持っていた。彼女は、非常にデリケートな神経の持ち主で、ちょっとしたことで精神的に不安定な状態になる。だから必要以上の愛情でもって彼女に接していた。一月の誕生日には、必ず誕生祝を用意し、レストランへ出かけ盛大にお祝いをする。三月の桜が咲く頃になると開花予想を調べて満開に合せて出かける。六月のホタル、夏の花火、秋の紅葉、冬のイルミネーション、そしてクリスマス。どれも欠かさずお決まりの記念行事のように彼女を連れて行って、一緒に喜びを分かち合った。しかしそれと同時に、たまにレストランへ一緒に食事に行っても、実に取るに足らないつまらないことで口論になることが多々あった。
ケンジの仕事の専門分野は、コンテンツマーケティングという、消費者心理を分析しスポンサーの販売促進に活用していくというもので、それを日々の会話の中で、なるほど話として披露しようという考えが頭をもたげてくることがあった。
「ハイエンド商品というのがあってさ」
「何? ハイエンド? なにそれ?」
「例えば、このメニューだけど、この最初の方には、比較的高い金額のメニューが載っている。ところが、このレストランが本当に売り出したいメニューはと言うと、実はその次の二番目に価格の高いメニューなのさ。消費者は一番高いものには、ちょっとためらう傾向があって、それを避けて二番目に手が行く。つまり、ここのレストランが積極的に注文を増やしたいのは、実は二番目のメニューであって、ハイエンドである一番高いメニューは、二番目を増やすためのカモフラージュなわけさ。そうやって本当に売りたい商品よりも高い商品をあえて設定する。それがハイエンド商品なのさ」
「ふうん、そうなんだ。知らなかった」
だから何だという話である。それで終わってしまい、後が続かなかった。そんなのは一般の客からするとどうでもいい話であって、知ってしまうとむしろ騙されているような気持ちになってしまい不愉快なだけである。さらに、ケンジは調子に乗ってしゃべり続ける。ケンジが目の前のステーキにフォークを差し、そのステーキをハルに向けながら仕事の不満を語る。別にさほど不満ではないのだが、自分の考えに対してハルの賛同を得ようという魂胆である。
「住宅メーカーの社長が言うには、自社のコマーシャルを月額三百万円分テレビに出したい、と。でもたかだか三百万円分のテレビコマーシャルを出したところで、ある程度認知されるには程遠い金額なので、お金を溝に捨てるようなものですよ、と言ってあげたら、俺が自分の会社のお金をどう使おうと勝手だろうが、と言って逆に怒鳴られたよ」
そうケンジが話題づくりのためにぼやくように言うと、ハルは、「それはそう言ってあげて正解だったかもね」と言う。
そこで止めておけば良かったのだが、ハルの賛同を得たケンジはすっかり調子に乗り、「そうやっぱり一代で会社を築いた社長には頑固な人がいて困ったもんさ」と報道番組で訳知り顔で答える解説員のように答えた。
「あら、でも一代で会社を築くだけでも偉いと思うわ。あなたに出来ないことじゃないの?」
ハルから挑戦的にそう言われて、二人の間に突如気まずい空気が流れる。そしてそのままギクシャクとした気持ちのまま食事を終えることになる。そんなことが多々あった。夫婦なのに、お互いの意見について張り合うのである。お互い助け合ってとはよく言うけれど、対等な力が拮抗すると、お互いに相手を自分の考えに従属させようという力が働くのである。それが決していい結果を招かない、ということが判っていながらお互い一歩も引かないという事態に陥ってしまう。さらには、何気ない愛情表現も時の経過とともに少しずつ形を変えていく。初めに出会った頃は、お互いの欠点が自分にない利点のように思え、何を言われても素直にそれを聞いていられた。カウンターの席に一緒に座る時に、ケンジは左利きのために必ず同席者の左側に座る習慣がついていた。もちろんお互いの肘が当たらないようにするためである。ところがハルはケンジが右側になるように、ケンジの左側に座って来た。当然、ハルの右肘とケンジの左肘がぶつかることになる。
「おいおい右に座ってくれよ」ケンジがそう言うと、「あら、逆にあたしの肘があなたの肘とあたった方がいいと思ったからこっちに座ったのよ」とハルが答える。
そういうことがさらに互いの愛情を確認しあうことに繋がっていた。今もし同じことになったら言い合いになっているかもしれないな、ケンジはレストランを出る際に、ふとそう思った。
まあそんな言い争いをしながらも、そういう日々がこの先もずっと単調に過ぎて行くし、夫婦というものはそういうものだ、とケンジは思っていた。しかしその時代には、その単調さを紛らわす狂騒がそこかしこに吹き荒れていた。ケンジとハルは、その狂騒の波にどっぷりと浸かり、先の見えない闇をロープを伝いながら二人で渡っていた。怒涛の勢いで高騰していく経済の波に乗り遅れまいと、誰もが常道を逸していることに気づくことはなかった。日々地価が高騰していくという巨額なお金が動く渦の中にいることで、二人で支え合う堅実な生活もちっぽけで無意味なことでしかなく、青天井が続く会社の給与と賞与が出ると、毎週末毎に旅行へ出掛けたり、次から次へと融資を実行する銀行と一緒になって不動産物件をいくつも買い漁り、借入残高が一億円を超そうというのに、普通に、さあ今日は何処へ外食に行こうか、などと二人で呑気に構えていた。本当は、二人でお互いのことをもっと理解しあう時間が必要だったし、もっと他の大事なことを話さなくてはならなかったはずだった。それなのにその大事な時間を、バブル狂騒の渦に身を任せてお互いを見失っていた。そしてそれと同時にケンジは、もうこれ以上ロープの先には進めないし、ましてや後戻りすることも出来ないと思っていた。そしてケンジの運命はある日を境に大きく方向転換する。
ある日、ケンジは仕事に必要な書籍を買おうと、徒歩で十分のところにあるブックストアーに向かって歩いていた。そこは大きな通りの向こう側にあり、そこまで行くには横断歩道橋を渡らないと行けない。ケンジは歩道橋の階段を一段ずつ上がり、デッキプレートの真ん中付近まで歩いて来た。まさにその時だった。その付近一帯を襲った地震が原因だった。大きく歩道橋が揺れケンジは脚を取られた。バランスを失い倒れそうになり、橋梁の高欄防護柵に手をつこうとしよろけてしまった。よろめきながら手をついた先に工事用のイントレが置いてあり、その勢いでイントレは橋の防護柵を越えて落ちて行った。歩道橋の下を通過しようとしていた一台の車が落ちて来るイントレに気付き、それを避けるために大きく右へ急旋回した。その時対向車が走って来ており、対向車は慌ててハンドルを左へ切ったが、大きく左へ曲がり過ぎたために、道路左端にある路肩を乗り越え、電柱に正面からぶつかった。ぶつかった車を運転していたのは医学生の高澤教生二十五歳だった。高澤には、結婚を前提に付き合っている沙耶という女性がいた。今日は彼女の誕生日で、一緒に食事をする約束をしてて、彼女の自宅へ行く途中の事故だった。高澤の事故死の記事は社会面の小さな欄に出ただけだった。警察の交通事故処理班の検査でも、直接の原因は対向車の急な右旋回にあるとし、その対向車に対して自動車運転過失致死傷罪で起訴できるかどうかということであった。
翌日の朝刊を見て、ケンジは愕然となった。地震が起きた際に、自分がよろめいてその先に置いてあったイントレに手が触れ、いきおいでそのイントレを落としたのが事故の原因を作ったに違いなかった。何てことだ、こんな悲劇があるんだろうか。警察の調べでは、地震が原因で橋の高欄からイントレが落ち、それを避けようとした車の急旋回によるハンドル操作に起因する事故として処理された。偶発的な事故だった。巧妙に仕組まれたゼンマイ仕掛けの時計のように、いくつもの偶発的出来事が重なり起きた事故だった。ケンジはそう思うことにした。しかし、自分の身に降りかかった悲劇の演出家としての烙印は、拭おうとすればするほど、いたたまれない気持ちに苛まれた。
そのことがあってからというもの、ケンジはこの世の中に対して臆病なくらい消極的な性格になっていく。何かをしようとすると何処かで誰かに見張られているようで、いつも眼に見えない何かに脅えていた。あの事故の後すぐに、地震の揺れが原因でイントレを橋の高欄から落としてしまったのは、実は自分です、と警察へ届けていたらどうだっただろうか。ケンジは、その時の様子を弁護士との会話という設定で、何度も空想しシュミレーションしてみた。
――あの日わたしは横断歩道橋の上を歩いていました。デッキプレートの中ほどに来た時、突然地震が起きました。橋の防護柵までよろめいて倒れそうになり、慌てて手を高欄についたんです。そうしたらその防護柵に工事用のイントレが置いてあって、その手をついた勢いでイントレが防護柵を越えて落ちて行きました。
つまりあなたは、地震による不可抗力によって脚を取られ倒れそうになるのを避けるために高欄に手をついた。
そのとおりです。
そのためにその防護柵に立てかけてあったイントレに勢い余ってぶつかった、と。
ええ、そうです。
わかりました。おそらく裁判では、不可抗力による過失致死罪を問われるかどうかですけど、工事用のイントレを橋の防護柵に立てかけたままにしていた工事業者の過失の方が重要視されると思います。
そうやって裁判が進み、結果工事業者の過失が問われケンジは無罪放免となった――
と、ケンジは自分なりのシナリオを描き、悪夢を取り払う作業を何度もおこなった。実際には、イントレが落ちたのは地震の揺れによるもので、そこにはケンジの存在はないものとされていた。だが、悪夢はまだ終わってなかった。
ケンジは、再び日々の仕事に忙殺され、彼の心は何事もなく平常心に戻って行く。そしていつものように職場でデスクに座り電話を掛けようとしたその時、彼の携帯電話が鳴った。電話の主は、妻の妹からだった。ハルが突然倒れたという。急いで伝え聞いた救急病院へ駆けつけるが、ハルは急性心不全で帰らぬ人となっていた。突然とは言え、あまりにもあっけなかった。倒れる予兆なんて全くなく、それは突然やって来た。十年以上一緒に連れ添っていて、お互いの欠点も目立ち始めたころではあったが、世間一般の夫婦としては上手くやっていた。それなのにその平穏な日常は抗うことの出来ない不条理によって遮断されてしまった。もっとお互いのことを、理解し合えるまで話し合う大事な時間をやり過ごしてしまっていたことを後悔した。ハルの存在は、彼の日々のルーティンのひとつでもあり、彼女の存在そのものが彼の日々の暮らしそのものでもあった。そこがポッカリと空いてしまったのである。彼女が、公園のブランコに座って、子供みたいに遊んでいた時の笑顔、彼女が、冷めてしまった食事を前に、彼の遅い帰宅に対して怒っている姿、彼女が、ベランダに座って日光浴をしながら、ぼんやりとした時の顔、それらが走馬灯のように頭の中に浮かんでは消えて行く。勝手に先にいなくなるなんて、残された俺はどうなるんだ、と思うと同時に、こめかみ辺りの血管がパンパンに膨れ上がり、心臓の鼓動が喉の奥に伝わってくるのがわかった。
しかし、彼のまわりの日常は今までと何ら変わることなく過ぎて行く。テレビのニュースでは、今日の株式市場を伝えていたし、駅前の通りは、いつもの朝の通勤ラッシュを迎え、多くのサラリーマンが黙々と横断歩道を急ぎ足で渡って行く。彼の生活も、いつもどおりにトーストとコーヒーの簡単な朝食を済ませる。満員電車の中で携帯電話を開き、今日のニュースと一日のスケジュールのチェックをする。会社へ行きデスクに座りパソコンを開き、今日のスケジュール管理とスポンサーとの連絡に取り掛かる。部下と一緒にスポンサーのところへ行き、プレゼンテーションをする。会社へ戻ると問題点を抽出して、スタッフとのブレストを始める。仕事が終わると、仲間と一緒に近くの居酒屋で酒を飲み、電車に乗って自宅へ帰る。そしてケンジは、ハルがいた時とあまり変化のない生活が続いていることに、少しずつ違和感を感じ始める。これはおかしい、と。ハルがいた時と何ら変わりがないじゃないか、と。
そして時の経過とともに、ハルの思い出がひとつずつ記憶の中から消えて行く。いくつかの断片的記憶だけを頭の中にマーキングしているが、それ以外は見事に消えていく。ひとつ、またひとつと消えていく。もはや、断片的にしか思い出せなくなっていた。それはまるでUSBに保存している写真データと一緒で、いつも一緒の映像であり、決してそれ以上に変化するものではなかった。そしてやがて、一人でいることの寂しさが、徐々に頭の中を支配していく。ポッカリと空いたこの空虚な気持ちが出来ているのはハルがいないからだろうか。一人でいるからであって、誰かと一緒にいれば少しは気も紛れるし、変化も生じるというものだ。地震によるショックとハルを失ったことで、壊れかけたケンジの頭脳に、バグによる誤作動が生じ始めてた。
ケンジは、事故で亡くなった高澤教生の恋人であった沙耶のことを考えてみることにした。彼女はいまどうしているだろうか。事故の後、恋人が突然亡くなり悲しみに明け暮れたことだと思う。でも彼女はまだ若い。若いということは、時間の経過とともにその悲しみも癒され、やがて彼女の中で新しい生活へ向かって生きて行こうという気持ちが芽生えて来るはずだ。ケンジはまったくもって自分に都合の良い考えに至る。そしてケンジは、ちょっと大胆過ぎるかな、とは思ったが彼女に接触してみようと考える。その時、高澤を死に至らしめた張本人であるということは、そうした考えに対して全く障害とはなっていない。彼女に対して真実を打ち明け、懺悔をして許しを乞うというわけではない。とにもかくにも会ってみたいと思っただけで、深い考えがあるわけではない。ケンジはそうした考えに至ったことで、何か生活に張りすら感じるような気がした。しかしいざ彼女に接触を図ろうとするも彼女のことについて、名前以外、顔や姿形はおろか住所すら知らないことに気付き、陰惨な気持ちになる。どうやって調べたらいいのか見当もつかなかった。
――どうした、落ち着いて考えてみろ。何か手掛かりがあるはずだ――ケンジはもう一人の自分がそう語りかけているのが分かった。そして、まず亡くなった高澤教生がいた医大へ行ってみることを思いつく。調べるにあたって、事前に彼は高澤教生とのきっかけをつくるために、彼の古くからの友人という設定を考える。ただ中学や高校の同級生ということでは、彼のネットワークを全く知らないために無理がある。同じ友人でも私的に偶然知り合った友人であって、高澤の過去の人生に見え隠れのしない友人である。そういった彼の生活に全く関わりのない友人という存在である。そう、それならば彼の交友関係などに詳しくなくて当然だ。ケンジは、その設定の仕方に我ながら上手いもんだと満足した。
そこまで書き進めた僕は、稚拙なところや言い廻しのおかしいところは無視し、ともかくストーリー先行で進めようと先を急ごうとしていた。その時、横に置いたもう一台のノートパソコンにジェシーからメールが届いたのが分かった。モンタナで別れて二週間ぶりの連絡だった。
《Hi、Takashi.How are you? 週末には日本へ行くわ。着いたら連絡します》
相変わらずの短い内容のメールだった。あれから二週間が経ち、彼女の気持ちの中に変化があったのか、あるいはエドガーやリサとも、サミュエルのもうひとつの手記のことで当然ながら話し合ったことだろうし、それについて彼女の中に何か別の思いが起きたのか、いずれにしても早く彼女に会ってその心の動向を知りたいと思った。
八月も下旬に入り、あの這いつくような地熱から立ち込める陽炎に覆われた長く暑かった季節も終わりに近づき、ようやく南西からの風を肌で感じるようになっていた。
ジェシーは、日本へ帰って来て三日後に僕の自宅を訪ねて来た。
「しばらくぶりだけど元気そうな様子だね」
言外に、心配していたという意味を込めた僕の問いかけに、ジェシーはにっこりと微笑んだ。
「あなたも元気そうでなによりだわ」
ジェシーは、日本語特有の云い回しもすっかり会得している。でもにこやかで根っから明るい彼女の表情の奥には、褪めた空気が漂っていた。ジェシーの好きな薄めのコーヒーを入れ、金属製のカップの手元が取れるように彼女に渡した。
「あれから、エドガーもサミュエルのもうひとつの手記のことを知って、わたし以上にショックだったみたい。それ以来、彼はすっかり自分の部屋に籠りっきりなの」
「そうだろうね。直接の自分の父親のことだからね」
そう答えた僕は、ボーズマンのカフェで、アンナからの打ち明け話を聞いた時の重く沈痛な空気が立ち込める雰囲気がしていることを感じていた。エドガーもジェシーもサミュエルを許せない気持ちでいることが、すなわち自分自身の否定に繋がるということは二人とも百も承知だった。でも現実には、彼らの生活が過去の忌まわしい出来事によって何らかの支障をきたしているわけではなかった。たとえサミュエルがそうであったとしても、エドガーはリサを愛して結婚したのであり、その二人の間にジェシーは生まれたのである。僕も同様に、父が日本へ帰還し辿り着いた先で母と出会い、そして僕が生まれた。そこに何らかの障害があったわけではない。だから現実には何も変わらないのだ。そう思う以外にこれ以上前へ進むことは出来ないことだった。ジェシーとすれば、僕のところで何らかの答えを見つけようと思って来たのかも知れなかった。けれども僕は、その答えを見つけることが出来ずにただ立ちつくしているだけだった。
「ところで、ちょっと相談があるんだけれど……」
話題を変えるために、今書き進めている小説のことで思いきって聞いてみようと思った。
「何かしら、あなたから相談って」
ジェシーは、顔を上げ明るく答えた。
「今度、仕事で新刊雑誌の連載小説の話が合って、それに書く文章を出す前に一度君に読んでもらって、その考えを聞かせてもらいたいんだけど……」
「あら、あなたの文章に考えを述べるなんて、陪審員に判断を求められることよりも難しいわ」
「いや、君にも関係するテーマなんだ。だから君の素直な考えを聞きたい」
しばらく考えあぐねるような表情をしていたが、すぐにいつもの笑顔でにっこり笑って承諾してくれた。ジェシーが帰ってから、先を進めるため再び机に向かい書き始めた。
ケンジは、高澤が通っていたという医大の構内をぶらぶらと歩きながら、自分の学生時代を思い出していた。ケンジがいた大学は公立の文系で、彼の学生時代はというと、彼自身あまり大学の授業に出た記憶が残ってないぐらいほぼ無為に過ごした四年間だった。英語のスピーチの授業では、小柄でずんぐりとしたアメリカ人の教授から名指しされると、前に座っていた女子学生の影に隠れたり、アメリカ文学のゼミの時などは、校舎の窓からたまたま見える競馬場のレースを懸命に目で追っていた。唯一、没頭したのは俳句研究会に入って、あちこちの山々に登り俳句を作っていたことで、”英彦山や 樹海を渡る 雲の影”なんて句を詠んで満足していた程度だった。全くひどい四年間だったな、と思った。気づけばもう四十代後半になっていた。要するに何てことはない人生を半分近く過ごして来たわけである。今は一応、管理職という地位についてはいるが、ケンジのいる会社での管理職は役員を除けば形だけの管理職で、もちろん管理職だから残業手当も付かないし、酷い時は社員の手取り額が多かったりする。それなのに連日、コンペの企画書作りで徹夜続きの日々である。かと言って仕事に生き甲斐を見出しているわけでもない。どこでどう自分の人生を誤ったんだろうかと思った。元々、外国語学部に在籍していながら、語学を活かせる職につくならわかるが、その語学の経験が全く活かされることのないマスコミの世界へ入ることになるとは予想だにしていなかった。三月も下旬という卒業式も終わりぎりぎりのところで、とりあえず働かないといけないと思って、その時学生事務所の掲示板に貼り出してあった求人募集を見て応募したのである。その応募先が生命保険会社であれ、旅行会社であれ、一緒のことだった。要は、そこに貼り出してあった応募先が、たまたまマスコミ関連の会社だっただけのことである。
しばらく歩いて構内敷地の中央付近にある受付事務所に行くと、五十代後半らしき男性事務員が疑念の表情を浮かべながら応対に出た。
ここでケンジは、男性事務員のことを一筋縄ではいかないなと思い、得意のコンテンツマーケティングのことを応用しようと思った。それは、一貫性をもって一貫性を制す、ということで、相手の価値観、信条、習慣と合致する説得前の一言を放つことにより、上手く説得するということだった。一番上手な馬の乗り方は、馬の進む方向に進むことだ。まずは馬に合せておき、その後でゆっくり慎重に自分の行きたい方向へ手綱を向けるのだ。
自分のことを名乗った上で、高澤との友人であったということに加えて、言葉の端々に、男性事務員の仕事の煩雑さ、日頃の苦労――それは、例えば書類の整理の仕方がパンチで穴を開けて一枚ずつファイルに閉じたり、契約書を作る際に袋綴じにするのだが、その背表紙を巧みに折りたたんで作ることだとか、そういったことに仕事のほとんどの時間を費やしている――を一般的な話として理解を示し、褒め称えるような話しをした。
「彼の友人の方ですか、それはそれはお悔やみ申し上げます」
「ええ、わたしとしても線香だけは上げておかないといけないかと思いまして」
「そうでしたか、それはどうもわざわざ」
男性事務員は、少し疑念が解けたかのように愛想を崩し作り笑いをした。そうしてケンジは、高澤教生の住所を聞き出したのである。私鉄の駅から徒歩で二十分ぐらいの高台の住宅街の中に高澤の住んでいた家はあった。築後三十年以上はするであろうと思われる風情をした家の錆ついた門扉横にある呼び鈴を鳴らし敷地へ入って行く。対応に出て来た高澤教生の母親に対して、ケンジは彼の友人だったという理由を述べ家へ上げてもらった。遺影の写真を見ると直近の写真であろう、リアルな鮮度を保っている。もちろんケンジにとっては初めて見る顔である。丁重に手を合せ線香をあげた後、静かに振り返りながら高澤教生の母親に向かってさりげなく訪ねた。
「ところで、彼の婚約者だった沙耶さんはどうされてますか?」
愛する婚約者を亡くした人の悲しみを想う、善意の友人という立場での問い掛けである。
「ええ、あれから随分と塞ぎこんでしまってた様子でしたけど、最近は少しお元気になられ、レストランでウエイトレスのお仕事をされているみたいですよ」
「そうですか、それは良かったですね。ちなみにどちらのレストランですか?」
ケンジは会話の勢いの間に、核心となる質問を畳み掛けるように入れる。
「ええ、確かすぐそこの駅前にある”キーノート”とかいう名前のレストランだと聞きましたけど」
母親は勢い余って答えてしまう。それを聞いたケンジは、お悔やみの言葉を述べて早々に切り上げることにした。そして駅前にあるというその店へ向かった。そのレストランの入口は、南欧風の白壁をして色んな花が飾ってある。中へ入ると店主とウエイトレスの二人だけでやっているらしく、十人も入れば一杯になる広さだった。おそらくそのウエイトレスが沙耶であろう。ケンジは、席についてひと通りメニューを見ながら、ウエイトレスの様子を覗き見していたが、驚くべきことに沙耶と思われるそのウエイトレスは、ハルの若い頃にそっくりであった。こんなことがあるのだろうか。まるでハルが生き返ったようで、しかも出会った頃の年齢に近く、ケンジは三十代の時に戻ったかのような錯覚を覚えた。ケンジは、そのあまりの偶然性に対して、やはり沙耶に会うことは避けて通ることの出来ないことであって、予め定められた運命だったのだ、と自己中心的に確信する。そうでなければ、こんなにも似ていることは考えられない、と。そしてひとしきり観察し、メニューを開いて簡単なやりとりをし注文をした。ケンジは食事をする間、店長と沙耶の会話にそば耳を立てた。店長は沙耶に向かって、近所の野菜屋の品揃えの件を話していた。洋風野菜も最近は色んな品種が入って来るようになって、実際まだ食べてない野菜も沢山あるという話をしていた。それに対して沙耶は、小物のトマトは甘みがあっておいしいのでよく買って食べるということを話していた。それからケンジは、閉店時間近くまでゆっくりと食事をした。そして食事を終え店を出ると、あたかも偶然出会ったかのように装うため、あたりを探すふりをし、沙耶が帰る時刻に合わせ通りを歩いた。一旦、奥の通りから隣りの路地へ廻り、反対方向からレストランがある方向へ向かい、そして周辺を探している素振りをしながら、沙耶が歩いて来る方向へと進み、偶然を装い計算通りに沙耶に出くわす。
「あら、先程はどうも、ありがとうございました。何処か探していらっしゃるんですか?」
沙耶は、先ほど店にいた客であるケンジを見つけ声を掛けた。
「ええ、そうなんですよ。実はわたしの友人が最近亡くなりまして、いや昔からの知り合いというわけではないんですが、一応線香だけはと思いまして。それでこの辺りとは聞いていたんですが、どうもよくわからなくて困ってた次第です」
その探している先が高澤の家だと知って沙耶はその偶然性に驚く。そうしてケンジは、沙耶に案内してもらい高澤の家の前まで行く。本当は、再び高澤の家まで行く必要はないのだが、そこまでしないと不自然である、とケンジは予定通りことを進める。自分の思ったとおりにことが進んでいくことに対し、ケンジは気持ちが高揚していた。沙耶とすれば、高澤の友人というケンジの存在は、とにもかくにも興味をそそることである。沙耶は、ケンジに高澤のことを色々と尋ねてみたい気もあり、ケンジが高澤家で線香を上げる間、外で待つことにした。もちろんケンジは、すでに高澤家を一度訪れているわけで、彼へ残す予定だった手紙を置くのを忘れました、という予め用意したセリフを述べて再び上がり込む。そして高澤家を後にしたケンジは、待っていた沙耶と一緒に、駅前のキーノートと同じ並びにある五軒先の”ゆずりは”という名の喫茶店の窓際の席についた。沙耶は、ケンジに対する興味と警戒する気持ちが半々の様子で、ケンジを前に俯き加減だった。
「ところで高澤さんとはどういった知り合いでしょうか?」
頼んだコーヒーが出てきてフレッシュを注ぎ終わるとすぐに沙耶が訊いてきた。
「いや、ふとした出会いがきっかけでたまたま知り合っただけです。本当にそのふとしたきっかけがなければ、永遠に出会うこともなかったのです」
「じゃあ、医学関係や親族関係ではないのですね」
「そうですね、彼のプライバシーに関わることは何も知らないんですよ。家族構成がどうなっているのかとか、大学でどういう勉強をしているのかとか、そういったことは彼からは何も聞いてなかったので」
とケンジはあらかじめ用意しておいた台詞をベースに、高澤と知り合ったきっかけを話し始める。たまたま失くした財布を拾ってくれたのが彼で、それをきっかけに自分の家に彼を招待してからの付き合いだ、と尤もらしいきっかけを披露した。その話を沙耶が信用したかどうかは問題ではなく、要は沙耶と知り合う動機が必要だった。沙耶と親しくなりたいというよりも、知り合うことによって彼の中に鬱積している、高澤に対する懺悔の気持ちを早いとこ消滅させたい思いだった。沙耶は、ケンジの話しにしだいに引きこまれていく。そうして話し始めて一時間もした頃、沙耶はすっかりケンジに対する警戒心がなくなっていた。
店内は外明りに比べると幾分薄暗い照明を使っていて、静かで落ち着いた雰囲気を携えていた。ショパンの”別れの曲”が流れる店内で、二人の年配者らしき男性客が静かに語らっているのが、深夜番組の落ち着きあるディスクジョッキーの声のように聞こえて来る。
沙耶としては、そうなると今度はケンジ自身のことを訊いてみたくなった。沙耶は、ケンジの家族のことを聞いて、亡くなったハルの存在を知った。身近な人が突然居なくなることをケンジも経験していることを知って、より一層ケンジに対する興味を増して行く。ケンジがどこで生まれ子供の頃はどういう遊びをしていたか、どういった本を読んでいたのか、映画は何を見たか、音楽は何を聞いているか、海外のどんな国に行ったのか、どういう仕事をして来たのか、SNSは何を使ってどういうネットワークを構築しているのか…… ありとあらゆることをケンジに対して聞き、ケンジもそれに対してデジタル的に答えていく。と、ここまでは、ケンジの予定通りに事が進む。首尾の首の部分だけは万全といったところだ。そこで沙耶はケンジを丸裸にした上で、突如確信めいた質問を浴びせる。
「ところで、あなたの奥さんの思い出は、今のあなたの生活の中に何パーセントを占めているのかしら?」
ケンジのデジタルコンピューターの思考回路がピタリと止まった。ケンジは、ハルが亡くなってからのことを思い起こした。突然と居なくなるという不条理な出来事と向き合い、彼女が占めていた生活が破綻した当初は何も考えられなくなっていたが、それはやがて時間の経過とともに日々の生活の中で徐々に薄められていき、煩悩の日々に流されてしまう。気づけばそれまでと何ら変わらない生活が再び始まっている。そういうことなのかとケンジは思い直した。一日を百パーセントとすると、その百パーセントの中にハルが登場することが、今現在あるだろうか、と考えてみた。そうすると、一日という単位ではない。一週間でもない。一ヶ月ではどうだろうか? それならば若干あるな、と思った。
「数パーセントじゃないかと思う。それも一ヶ月単位でね」
「その数パーセントの記憶の中で何を思うの?」
「それは、ふとしたことで呼び起される。彼女が座っていた部屋の位置に突然現れたり、六月の時期に蛍を見に行った場所を通る時に現れたりする。そういえばハルはこうしていたな、と。それっきりになってしまうこともあるし、心が掻き毟られる思いになることもある」
「その掻き毟られるような気持ちはずっと持続していくの? それともそういうトラウマを引きずって生きているの?」
ケンジは、いまの正直な気持ちを言葉で飾らずに、感じたままを答えることにした。
「いや、正直な気持ち持続はしないし、トラウマになってもいない」
「じゃあ、いまも彼女の遺影に手を合せる時はどういう気持ちなの?」
「彼女に対して、いまも忘れはしないしずっと思い続けている…… いや、ずっと思い続けてはいないかな、そうでなくてはいけない、というもう一人の自分がいて、そういう風に自分自身を思わせようとしている、というのが正解のような気がする」
「なぜ、そうでなくてはいけない、と思うの?」
「それは…… 人としての倫理観や道徳観みたいな…… ことじゃないかと思う」
「じゃあそれは、愛情とは違うのかしら?」
ケンジは、沙耶に対して答えて行くうちに心だけでなくて、頭脳の真髄まで丸裸にされていく感じがした。ハルの若い頃にそっくりな風貌をした沙耶に質問されて、あたかもハルに尋問を受けているように金縛り状態になった。あなたの愛とは倫理観や道徳観といったものと同列なわけ? 純粋に人を愛することというのは、自然に心の奥底から湧き上がってくるものじゃないの? どうしてそこにモラルというフィルターを掛けなければならないのかしら? 沙耶の黒い瞳の奥には果てしない空間が広がっていた。これ以上、沙耶と面と向かって話を続けるのは不可能なくらい感情がコントロール出来なくなっていた。やがてケンジは、心のざわつきを掻き消すように沙耶に別れを告げ店を出た。
人通りの途絶えた駅前通りの歩道を、膝に痛みを抱えた老人のようによろめきながら歩いて行く。通りのショップはどこも照明を落として、路地の外灯だけがウィンドーにケンジの姿を映していた。
こんなはずじゃなかった。どこでどう間違ったのか、俺は愛情の欠片もないなんて人間ではなかったはずだ。子供の頃、母が仕事から帰ってくるのを路地の縁石に座って、母の姿が見えた途端に、幸せ一杯の気持ちに満たされたはずだ。凍てつくような寒さの繁華街通りにきらびやかに飾られたネオンを見て、満面の笑みではしゃぐハルを、愛おしく思ったはずだ。あれは、愛情じゃなかったのか? しかしながら現存するからこそ愛情を感じるのであって、現存しないものに対して愛情を抱き続けることにどれだけの意味があるというのか。ケンジの足取りは目的のない蛇行運転を続けていた。とてもじゃないが、高澤の件を話しするどころではなかった。もし本当に高澤の件を話していたらどうなっていただろうか。それは、本当にケンジが故意にやったことではないにせよ、やはり沙耶としては許し難いことであるし、何のために自分に会おうとしたのか問い正すに違いない。その時、自分はどう答えるのが妥当なのか……
草稿のつもりで思いつくままに書き進めていたが、今一度考え直そうと思い手を休めた。ふと窓の外に眼をやると、さっきから降り続いていた小雨がしだいに強くなり、大粒の雨となって窓ガラスに打ちつけている。ブラインドを下げていたので羽根に人差し指をかけ外の様子を見た。通り過ぎる車が路肩の水溜りを勢いよく扇状に跳ね上げて行く。サミュエル・オブライエンはセントポールの町で何を思ったのか、やはり月日が流れエマと子供達への思いが希薄になって行き、そしてメアリーのことを思いついたのか。でも結局彼は、パトリック・オーサーを死に追いやった張本人にもかかわらず、そのことをメアリーに対して打ち明けてはいない。パトリック・オーサーに対する懺悔の意味でメアリーに接触を図っていったのか。そして生涯メアリーの面倒を見て行こうと決心したのか。でも真実を知った時にメアリーはそれを望んだだろうか。蔑み罵倒し気も狂わんばかりに罵詈雑言を浴びせたかも知れない。あるいは慈愛を持った神のごとく、至上の愛で大きくサミュエルを包み込んだのか。打ちつける雨のように対極的な思いが浮かんでは消えて行った。
しばらく歩いて地下鉄駅へ通じる入口付近に来たケンジは、そこで意を決して再び沙耶へ連絡を取ろうと携帯電話を取り出して掛けた。しかし、沙耶の電話は留守電のコールを鳴らしただけである。ケンジは伝言を吹き込んだ。
”ケンジです。今度お礼にと思いまして、一緒に食事でもどうですか、それじゃ”
そうしてケンジは沙耶からの返事を待った。その日はとうとう沙耶からの折り返しの連絡はなかった。時間も遅かったから、多分携帯電話をバッグにいれたまま気づかずに寝てしまったのだろう。翌日、沙耶は朝起きてすぐに、ケンジからの連絡が入っているのに気づく。そして留守電を聴く。昨日は時間も遅かったからあまり長居が出来なかったこともあって長時間話すことが出来なかった。しかもよくよく考え直してみると肝心の高澤の件についてはケンジから何ひとつ聞かされてないことに改めて気づく。ケンジに対して興味を抱いたことは事実だし、やはり高澤の件をもう少し聞いてみたい気もした。幸い今日は勤め先のレストランも休みだった。沙耶は思い切って電話を掛けてみることにした。すぐにケンジは出た。
「はい、もしもし。ケンジですけど……」
「わたし、沙耶です、昨日はどうも」
「やあ、電話してもらってありがとう。いや、彼の家を教えてもらったお礼に一緒に食事でもどうかと思って」
ケンジは、出来るだけ控えめな声で、しかしながら明るい雰囲気で答えた。
「ええ、今日はレストランも休みなので時間は空いてます」
「よかった。じゃあ夕方六時にこの前の喫茶店で待ち合わせというのはどうです?」
「はい、夕方六時ですね。わかりました」
ケンジは、この前沙耶からハルのことを問い詰められ丸裸にされたはずなのに、再び会って話したい気持ちになっている自分を不思議に思った。どちらかと言えば、掴みどころのない浮遊感が漂っている雰囲気を携えている沙耶に対して、呪縛に囚われた被告のごとき気持ちがする。決して沙耶と会うことに対して、心が踊るという気持ちではないのだ。会いたいというよりも会わねば、ということの方が正解のような気がする。その約束の時間に沙耶は先に来てコーヒーを注文し座っていた。
「やあ、どうもお待たせ」
ケンジは、このセリフに決定するのに随分と時間を要した。最初から堅苦しい挨拶だと、ずっとその雰囲気のままになる場合が往々にしてある。そうかといって軽すぎるのも、大の大人のセリフとして似つかわしくない。親しみを込めての〔やあ〕であって、〔お待たせ〕に〔しました〕はいらない。しかるに〔やあ、どうもお待たせ〕が相応しいという結論に到った。
「この前は、どうも。随分とあなたのプライベートなことに質問し過ぎたみたいで……」沙耶が遠慮がちに言った。
「いいえ、構いませんよ。でも自分自身を改めて考え直すいいきっかけになったかも知れません。今日は、あなたのことを色々と聞かせてもらわないといけないかな」
「その前に、高澤さんのことに関してもう少し聞かせて欲しいんです」
ケンジの答えに対して、またしても沙耶の先制的問いが浴びせられた。
「どういったことでしょう?」
「あなたは、高澤さんとはどのようなことを話されていたんでしょうか?」
実際に、高澤とは何ら話どころか接触すらしていない。ましてや高澤本人はケンジのことなど知る由もない。袋小路に追い込まれた逃亡者の心境だった。ケンジは、一瞬その場を乗り切るために時間稼ぎが必要だと思った。
「予約してあるからまず、食事に行きましょう。話はそれからということで」
ここの喫茶店を出て、予約しているレストランまで歩いて十分程の距離にある。ここの会計を済ませ、移動して席に着いて注文し話を始めるまで含めると、有に三十分はかかるであろう。残された猶予は三十分間である。その間に、沙耶の質問に対する答えを見つけないといけない。ケンジは高澤との会話を頭の中で空想し始めた。
――それは高澤の自宅を訪ねたところから始まる。ケンジは、財布を拾ってくれた高澤を訪ねて行き、何かお礼をしなくてはと高澤へ申し入れたのだが、たまたま見つけたので届けただけで、どうかもうお礼なんておっしゃらないで下さい、と高澤は丁重に断りを入れていた。
それじゃ申し訳ないので、と云って、ケンジは自宅の連絡先と”何かあったら連絡してほしい”と書いたメモを渡す。そうしておいたら、ある日突然、高澤がケンジの自宅を訪ねて来た。そこから二人の会話が始まる。
実は、あれからあなたのことがちょっと気になって、それでお伺いしました。
ほう、どういったことが気になったのかな?
あなたの財布…… ちょっと中身を見たんです。勿論変な気持ちはありません。一応中身を確認しておいた方がいいだろうと思いまして。そうしたら女性の写真が入っていて、それが…… 実は、わたしの知り合いの女性にそっくりだったもんで。
ああ、ハルのことか、私の妻ですよ。それが、あなたの知り合いに似てる?
ええ、知り合いは名前が沙耶といいますが、ともかく瓜二つと言っていいぐらいなんです。最初は、何でここに沙耶の写真が入っているのかと思ったぐらいなんです。
高澤がそう言ったことに対して、ケンジは最初疑いを持った。瓜二つの人間なんて、そうそういるはずもない。ましてや偶然拾った財布の中に入っていた女性の写真が、自分の知り合い(おそらく恋人であろう)とそっくりだなんてことは確率からいっても、広大な宇宙の中のちっぽけな存在である地球へ巨大隕石が衝突するぐらいの低い確率であろう。そんなことが偶然でもあるはずもない。だとすれば、高澤がそう言ってケンジの元へ現れたのは何なのか? 考えられるとすれば、最初は報酬など期待してなかったが、何かのきっかけでお金が必要になったのかもしれない。そこで高澤は、どうしたものかと考えケンジの存在を思い出す。一旦、断りを入れた手前、ケンジの元を訪れるそれ相応の理由が必要である。それが、写真の女性と自分の知り合いとの酷似性ということだ。もし、本当のことだとした場合はどうだろうか? 高澤は、自分の知り合い(恋人)にそっくりな女性の写真をケンジが持っていたことをどう理解したであろうか。自分の知り合いとつきあっているのか、そういう邪心が起きたとも限らない。そうした理由でケンジの元を訪れたとも考えられる。その女性と写真の女性が同一人物かどうか確かめようとしたのかもしれない。しかし、まずもって年齢が違った。妻のハルは三十五歳で、財布に入っていた写真は彼女が三十歳前の時のものだ。高澤の知り合いが何歳かは知らないが、彼の年齢から推測するにおそらく二十代前半であろう。そして、ハルは再婚をしていたが、彼女の軌跡は充分知り尽くしている。彼女の傍に高澤のことなど一切見え隠れなどしてはいない。ハルとはいろいろと不平不満も多々あったが、それなりに夫婦としての最低のルールは守ってきた。それはハルも同様で、決して道を踏み外すような愚かなことをするとは考えにくい。ハルと沙耶は酷似してはいるが、全くの別人なのだ。
ケンジの妄想は、喫茶店を出てレストランへ歩いて行く途中どんどんと膨らんでいく。
まあ、世の中には瓜二つの人間の存在というのは有り得ることだろうね。ともかく写真の女性は、私の妻のハルという女性だ。君の知り合いとは別人だ。
そうでしょうね。でも私の知り合いに会ってみたいとは思いませんか?
どうして? 姿形が似ていようとも実際は全くの別人だから、単に似てるということだけで言えば、世界中の奇跡的な写真を一瞬見るときの驚きを覚えるのと同じことなのは確かだけどね。でもそれで終わりさ。それ以上は何も発展しない。
いや、わたしが言ってるのは将来のためのことなんです。と、高澤が思いがけないことを言い出した。
将来? どういうことだ? 君の云ってることが理解出来ないんだが。とケンジは答える。
もし仮に、わたしとあなたの奥さんが突然亡くなったとしましょう。確率的にあり得ないことではない。その時あなたは沙耶の存在を無視出来ますか? わたしは、逆のケースを考えてみました。つまり、あなたと沙耶が突然亡くなった場合です。これも同様に確率的にあり得ないことではない。その時にわたしは、あなたの奥さんの存在を無視出来ないことに気づいたんです。
そこまで空想の中にいたケンジの頭に突如、電撃が走った。待てよ、この話は俺の空想なんかじゃない。これは実際に交わした会話じゃないか。高澤教生とは事前に知り合っていたんだ。なんてこった、俺は事実をなぞらえていたんだ! と、ケンジの空想は最大限に膨張しきった。ケンジの頭の中で現実のものとして確固たる準備が整った――
ケンジと沙耶は予約しておいたレストランへ着いた。レストランといってもテーブルが五席しかないオーナーシェフと助手の二名だけでやってる店である。少しでも大きめの声でしゃべるとあたりに筒抜けになる。幸い店内は他にお客はいなかった。テーブル脇の白壁には一枚の田舎の花畑を描いた風景画が掛っている。そして牧歌的で物悲しいエリック・サティのピアノ曲が流れていた。これからケンジは、沙耶に向かってその審判の判決を仰ぐのだ。狂おしい程の不条理に苛まれもがき苦しみ、そして結果がどうあれ、その審判を真摯に受け止めねばならなかった。
ジェシーの答えはこうだった。
「思ったのは、サミュエルに対してどういう風に向き合うべきかということだわ。サミュエルとすれば、偶然とはいえ自ら招いた不条理な出来事に対して一旦は何事もなかったかのように振舞ってはいたけれども、犯した罪に対して真摯に向き合うためには、メアリーを見つけ出し彼女に出会うことは避けて通ることの出来ないことだと思ったんじゃないかと。真実を伝えその審判を仰ぐことだと。不慮の事故とはいえ、自分が招いたことでメアリーがずっとその不幸を背負って生きて行かねばならないとしたら、自分はメアリーに対して生涯その責任を負って行かねばならない、それは義務だ、と。そうする過程の中で、メアリーに対する愛が芽生えていったんじゃないかと思ったの。それはこれまでずっと考えて来たことだわ。でも結局答えは見つからなかった。そしてこの中にも見つからない。だからもう答え見つけの旅は終わりにしようと思うの。タカシの書くこの話は多分終わりのない話ではないの?」
「それは書き進めないとわからない。でも限りなく終わりがない話だと思う」
ジェシーは答えを見つけることを終わりにするという。サミュエルが犯した罪の償いをどうするかなんて、その義務をどうしてジェシーが負わないといけないかなんて、それはまずもって無意味なことだった。
僕は小雨の降る中、ユージの店に行こうと思い、通りへ出てレンガ敷石の歩道を北へ向かって歩いた。夜の八時だというのに人っ子一人歩いておらず、商店街のシャッターはどこも固く閉ざされていた。軒先に並べられた花壇の脇に陣取った黒猫が、異様な眼を光らせじっと僕を見つめている。そしてその黒猫が僕に語りかける。お前は何を見つけようとしているのだ。不条理な出来事に理由なんてない。どこにもないのだ。聖人君子みたいに振舞うふりをしているが、所詮は欲望の赴くままに生きようとする煩悩の塊であろう。黒猫はそう言うと、するりと身体を翻し建物の隙間へ消えて行った。
店へ着くと、いつもの中年女性の店員が奥の椅子に座って壁際に置いてあるテレビに釘付けになっていた。バラエティ番組にどっぷりと浸かっているのであろう、だらしなく口を開いてにやけた顔をしている。僕が入って来たのが分かったのか、不機嫌そうにチラっと見てこっちへ近づいて来た。
「ユージはいるかい?」僕の方から声をかけた。
「さあね、昼から出っぱなしでいないよ。いつものコーヒーでいいの?」
この女は客商売とは無縁の世界であり、相想が無いのとタメ口は今に始まったことではない。
「ああ、とびっきりの不味いコーヒーを頼む」
中年女性が返事もせずに奥の厨房へ消え、ガスのスイッチをカチリと押し炎がボワッと点く音がした。芳醇な香りのする焙煎コーヒーを入れるためのお湯を沸騰させてるかのようだが、単なる作りつけのコーヒーを沸かしているだけだ。ものの数分で沸騰した煮っ転がしコーヒーが運ばれてきた。コーヒーの香りなど全く抜けてしまって二度沸騰させているから焦げた味がする不味い代物に奇妙なことに癖になっている。上手いものに反応するのと逆の不味いものに反応するという五感の刺激を体験させてくれる。それは何も起こることのない日々の中のギクシャクとした出来事なのだ。喫茶店でありながら、大衆食堂といった雰囲気のおよそサービスとは無縁のこの店自体がギクシャクとした気持ちになってしまう。そして煩悩の世界にどっぷりと浸かったこの中年女性もギクシャクとした対象なのだ。そう言えば最初にここに連れられて来た時に、ユージから――タカシは、ここの良さがよくわかってないな。何度か通ってもらえれば良さがわかると思うがね――と言われた。決して良さとは言えないが、僕にとっては時に必要不可欠な要素のひとつという風に思える。ぼんやりと煙草をくゆらせ、いろんな事をメモに書き止めながら二時間程待ったがユージは帰って来なかった。電話をすれば済む話だが、特段用事があるわけでもないのでそのままやり過ごし店を出た。すっかり人通りが途絶えた歩道を駅の方へ向かって歩いていると、見覚えのある人影が近づいて来るのがわかった。ユージが両手をポケットに突っ込んで颯爽とした足取りで歩いて来た。
「よう、タカシ何してる、こんなところで」
「今まで店にいたのさ。二時間程いたからぼちぼち帰るよ」
「まあそう言うなよ、せっかく来たんだから。何か話すことでもあったんじゃないか?」
「いや、特段あったわけじゃない。ただ何となく来ただけさ」
「なるほどね、わざわざ来たからとっておきの話でもあるかと思ったけど」
「とっておきの話なんてそうそうないさ。ユージはどうなんだい?」
「俺か? そう言われりゃあそうだな。何もないさ」
せっかく来たんだから、ということでまた店に戻ることにした。駅前通りはひっそりとして、暗闇の中をさっき居た黒猫が僕らを伺うようにじっと見ていた。
ふたたび店に入ると、相変わらず中年女性がテレビの画面に見入っていた。閉店まで一緒の状態を持続していることに全く違和感を感じさせない。まるで、この店の置物のひとつのようにじっと同じ状態を保っているのだ。中年女性はユージが手を挙げてこっちへ呼ぶまで動こうともしない。しょうがないとでも言いたげな足取りで僕らの方へ歩み寄ると、ユージのコーヒーのリクエストを確認し再び厨房へ消えて行った。
「ユージは、何だってあの女性を雇っているんだ?」
「彼女は別に害はない。もし彼女がサービス満点の愛想の良さを振りまいていたとしたら、ちょとこの店には不釣り合いだったかも知れない」
「この店にぴったりの存在ということか」
「意図したわけではないが、結果そうなったということかな。客は予測しないサービスを期待してはいない。ここへやって来る客は、静かな一人だけの空間を求めにやって来るのさ」
ユージ自体が奇特な存在であり、またこの店しかり、とてもじゃないがいつも閑散とした店内を見ていると、どう考えても商売として成立する理由が見つからない。それでも熱心にここへやって来る常連客らしきものがいる。それぞれ風体や職業は千差万別だが、皆一様に一人でやって来て、中年女性に注文を告げる以外誰とも何も語らずにここで過ごし、そして帰って行く。そう、ここでは完全にプライバシーが守られていて、それぞれにそれぞれの世界が広がっている。そこには余計なサービスなど必要ないのだ。お客としては、自分の空間を求めにやって来る。それ以外は過剰サービスとなって、お客に対して必要以上の負荷を与えてしまうのだ。注文通りのものが運ばれてきたら、あとは皆個々の世界に浸っている。誰にも邪魔されない一人だけの空間だ。まるでお寺で禅修行を積むかのような世界が広がっている。最初ここに入った時、あまりの静寂さにひょっとしたら張り紙がしてあるんじゃないかと思った。それにはこう書いてある。”おしゃべりお断りします”と。この狭い日本に今、一人になれる空間がどれだけあるというのだろう? 家に居たって携帯電話やパソコンでたちどころに知り合いの餌食になってしまう。そうじゃなければメディアの洪水が押し寄せてきて頭の中を支配してしまう。そして皆一様にメディアに洗脳されてしまっていることにすら気づいていない。メディアが流す偏った考えのニュース、昨今の流行はかくあるべきと言わんばかりのドラマ、有識者という仮面を被った先導者がそそのかす報道番組という名のバラエティ番組、そのメディアの奴隷と化してしまった中年女性がこの清廉な空間の番人として君臨しているというおかしな構図がここではまかり通っているのである。
「その後、ジェシーとは何か話が出来たかい?」
ユージは、くしゃくしゃになったパッケージから煙草を一本取り出すと、マッチで火を点けて紫煙を避けるように眼をしばたせながら訊いてきた。
「うん、先日、草稿中の文章を読んでもらって考えを聞かせてもらったよ」
「ほう、どうだった、何と言ってた?」
「不条理なことに対して答えなんて見つからない。だからもう答え探しの旅は終わりにすると言ってた」
「なるほどね。俺自身タカシが書いた文章を読んでないから何とも言えないが、彼女の気持ちは分かる気がする」
僕は、ユージの返事に対して軽く頷いただけで、彼の火の点いた煙草の先を見つめながらじっと黙っていた。僕らには、彼女の答えに対して採決を下す意見など持ち合わせてはいなかった。夜中の三時を過ぎたところで店を出た。通りへ出ると、深々とした静寂があたりを包み込んでいた。レンガ石を踏みしめて行く自分の靴音だけが通りの彼方まで響き渡って行く。突如、足音もなくくだんの黒猫が通りを脇目も振らず横切って行った。
ケンジの前には、沙耶が一言も聞き洩らすまいと微動だにせずじっと佇んでいた。ケンジは、事の詳細を身振り手振りを交え裁判における証言者のように懇切丁寧に説明をしていった。最初は、自分で空想したストーリーをもっともらしく説明するつもりだったが、いざ沙耶に対峙して見ると、もはや正直に全てを語る時がきたのだと悟った。そこには悔悛の情など微塵もなく、ただ淡々と事の経過を時間を追って述べていく。沙耶は心乱れる様子もなく、耳を傾ける。表情は限りなく無表情に近く、彼女の視点はケンジの方向を向いてはいるが、その網膜にはケンジの姿は捉えられてはいない。そうしてケンジによる事の全貌の説明が終わった。説明を聞き終えた沙耶は、ちょっとだけ溜息を洩らし、手元にあるグラスの氷をストローでぐるりと廻すと、小さな氷を一個だけ口に含んだ。そして静かに口を開いた。
「どうして正直にすべてを話そうと思ったの?」
意外な言葉が彼女の口から発せられて、ケンジは一瞬戸惑った。ケンジは、その質問に対する答えを用意していなかった。どうしてだろうか? 最初は、ハルが亡くなってからその寂しさにポッカリと心に穴が開いたような日々を過ごしていたが、やがて時が経つにつれて今までと何ら変わりのない生活に戻っていることに違和感を覚えなくなっていた。そして一人でいることの寂しさが募り、ふと会ってみたいと思ったのだ。そのことと高澤の事故に起因する自分の過失とは直接的な関連性はない。そう、沙耶に会ってみたいと思ったのは、悔悛の情でもなければ、懺悔の気持ちでもない、ふとそう思っただけである。だから全てを話そうと思ったのである。
「ただ、君に会ってみたいと思ったから」ケンジは、そう答えた。
「どうして、わたしに会ってみたいと思ったの?」
「ハルが亡くなり、一人の日々が続いて寂しかったこともあるけど、自分と同じように愛する人を突然と失った人がいる。その君にふと会ってみたいと思った。それ以上の理由はない」
「あなたの話を聞いて、高澤の事故の原因を作ったのがあなただと知って正直驚いたわ。でもそれはあなたにとっても事故であったし、偶然が重なった出来事なんだし、それは誰も逆らうことの出来ないことだったと思うの。あなたはわたしに対して許しを請うつもりでそのことを正直に打ち明けたのかしら?」
「いや、そうじゃない。君に許しを請うことであの忌まわしい事故を振り払いたいということじゃない。そのことと君に会ってみたいと思ったことは全く別のことだ」
「わたしが、そのことであなたを許さないんじゃないかとは思わなかった?」
「そういうことは全然考えてもみなかったし、仮にそうだとしてもそれは仕方のないことだと思っている」
「わたしに会ってどうしようと思ったの?」
「それは、わからない。ただ会って話をしないといけないと思っただけだ」
レストランの中は、透き通った空気に支配され、塵ひとつない空間に二人の言葉が朗読のように響き渡った。沙耶はケンジの言葉を受けて微かに微笑んだ。そして片手をケンジの方へ差し出した。ケンジはその手を両手でやさしく包み込んだ。
第四章
僕はこれ以上書き進めることにためらいを覚え、とりあえずペンを置いた。もう一度ジェシーに会って話を聞いてみようと思った。そういえば、ずっと何年も前に父親の手記を預けたままで、読後の感想も訊いてなかったなと思った。日本へ戻ってからのジェシーは、以前の屈託のない明るさがなくなった様子だった。無理からぬことなのかも知れない。ジェシーを訪ねようと外へ出ると、秋の日差しが銀杏並木を照らし、サンディブラウンのフォトグラフの世界が通りを支配していた。大通りから大学の正門を抜け、ジェシーのオフィスへと向かった。オフィスへ着いて呼び鈴を鳴らした。しばらく待ったが返事がない。ドアノブを左へ回すとカチリと音がして動いた。鍵が掛ってないらしく、そのままドアを外側へ開き中へ進んだ。不用心に開けたままにしているところを見ると、ちょっと近くまでの用事で外出したのであろう。帰って来るまで待っていようと奥のテーブルにある椅子に座った。彼女のデスクには、書籍やメモ用紙が乱雑に置いてあった。椅子に座ったまま、ちょっと腰を浮かし気味にしてデスクの上を覗きこむと、そこに彼女の日記帳が置いてあった。プライベートな内容に目を向けてはいけないという思いと、彼女の心の内を書いてあるかも知れないファイルに対する興味とが同時に湧き起こった。そしてその興味の方が優った。そしてあの日、アンナの口から衝撃的な話を聞いた日のページを開いた。
八月九日 水曜日 晴れ
パトリック・オーサーの行方を探す旅がこういう結末を迎えるとは誰が予想したでしょう。サミュエル・オブライエンが犯した罪を私達子孫はどう受け止めて行けばいいのか。サミュエルはそのことを生涯メアリーへ伝えることはなかったのか、だからこうして手記に納めたのか。出来ればこの手記は残さないで欲しかった。そうすれば思い悩むことはなかったのに。今日は、ずっとテレビをつけっぱなしで三人とも黙って画面を眺めていた。
八月十二日 土曜日 晴れ
エドガーは、サミュエル・オブライエンの秘密を知って以来、すっかり塞ぎ込んでしまって自分の部屋へこもりっきりになっている。時折、リビングへ出て来るが二言三言話しただけでまたすぐに自分の部屋へ帰って行く。母も遠慮がちになり、積極的に話しかけることもない。我が家から笑顔がなくなってしまった。
八月十四日 月曜日 曇り
何もしない日々が続いている。そして家族の中であまり会話もしなくなった。皆、あえてその話題に触れようとしないのがわかる。父も母もそのことに関してとことん話し合いたいのに、だからと言って何をどうすればいいというのでしょう。話したところでどうなるというのでしょう。
八月二十五日 金曜日 晴れ
久しぶりにアンナがやって来た。みんなで一緒に食事をして、今度通りに新しく出来たピザのお店が大盛況だった話をアンナから聞いたりして、ちょっとだけ和やかな雰囲気だった。でもアンナもあのことに関しては、決して話題にしようとしなかった。本当は、誰よりもそのことが気掛かりだったのに。
思ったことをそのまま口にするジェシーからは、想像も出来ないくらい内にこもった内容だった。サミュエルが犯した罪に対してどう立ち向かっていけばいいのか、答えを見つけられないまま思いあぐねているとしか言いようがない、堂々巡りの殻から一歩も踏み出せないつぶやきだった。そこまで読んでいた時に、ドアが開く気配がしたので慌てて日記を元に戻した。ジェシーが戻って来た。
「あら、ごめんなさい。ちょっと近くまで用事があったもんだから」
「いや、僕の方こそドアが開いていたから、待たせてもらおうと思い勝手に入ってしまって……」
ジェシーは両手に沢山の荷物を抱え、いつもの屈託のない笑顔で入って来た。僕はジェシーに対して、彼女の日記を見てしまったことを素直に打ち明けることにした。変ないいわけをするよりも、その方がいいだろうと思った。
「ごめん、それと机の上に置いてあった日記が目に入ったからつい読んでしまった。君の考えを知りたいという衝動を抑えられなくて、最初の四日分ぐらいだけど」僕は、悪戯が見つかった子供のように、跋が悪そうな感じで恐縮して言った。
「あら、大したことは書いてないわよ。あの時の素直な気持ちをただ羅列しただけ。それを正直に言うなんてあなたらしいわね」
ジェシーは、全く気にしてない様子で、笑いながらさばさばとした返事をした。
「でもあれを読んだらどんなに辛かったかよくわかるよ」
「そうね、しばらくは息が詰まるような生活だったわ。特にエドガーの落ち込みようは酷くって。でもそれからしばらくして、あなたのお父さんの手記をもう一度読み直してみて少しずつ気持ちが落ち着いてきたの」
昭和二十二年十月二十九日、中国安東市(現在の中国遼寧省丹東市)引揚げの帰還船恵比須丸の遭難により四百九十五名の遭難者という海難事故が起き、船倉にいた父の家族も海底深く沈んでいった。その時の心情を父はこう書いている。
――とりわけ私は、帰還の途次の偶発的な遭難に因って、自らもその渦中に於いて惨状を体験し、遂に家族全員と永遠に別れ去ったことは、私の生活史中の最大の打撃であり、帰還前に構想していた帰還後の生活プランは全面的に破綻してしまったものであります――
そして九死に一生を得た父は、最愛の家族を失い独りで長崎県佐世保港へ着く。
――佐世保に上陸した時の姿は、一月末の寒中というのにボロボロのシャツとズボンでしかも裸足で、缶詰の空缶と叺〔かます――これは布団に使っておりました〕を大事そうに抱えている有様で、如何に悲惨な引揚者の姿を見ても動じない援護局員をして感嘆これ久しうせしめたという事をお伝えすれば充分だと思います――
父は、この時の文章を亡妻の郷里鹿児島の田舎へ報告と葬儀を兼ねて帰っていた時に書いている。その後、長崎県佐世保市にいた彼の弟を訪ね、そこで仕事を始めることになる。そしてそこで僕の母と出会う。母はその時のことを、ただ単に、勤め先の事務所で出会ったとだけ言ってそれ以上詳しく語ることはない。父は、最愛の家族と死別し、その後に亡妻の郷里鹿児島で何を思ったのか、そしてその後に母と出会い新たな生活に何を求めたのか、今となっては何一つ窺い知ることは出来ない。
父は、大正二年、鴨緑江を隔てて朝鮮民主主義人民共和国と接する中国国境の街、安東市(現丹東市)で、当時の大日本帝国政府の国策によって推進された満蒙開拓移民の子として生まれ育った。そこで満州鉄道調査部の管理技師として勤務する。そこで与えられた仕事は、満州開拓の地へ鉄道の敷設をしていくための設計図と工事の管理であった。真冬には零下二十度という極寒の地、満州平野の大連からハルビンへ繋がる荒野に鉄道を敷設していくという果てしなく根気のいる仕事だ。その満州鉄道部に勤務する傍ら、誤った政治的、経済的、文化的な優位を誇っていた帝国主義日本に対する疑問を抱き、当時世界を揺り動かし民主化の核になりつつあった共産主義に傾倒していく。共産主義者にとっては当時日本は非合法時代にあり、非常に苦しい活動を強いられつつも、その後日本が敗戦を迎え、満州国各地の開拓民が引き上げる中、父を中心とする代表団が率先してこの引揚げのリーダー的役割を果たすことになる。そして父は、在安邦人の日本送還事務の一部を担当し、安東市第五街引揚者のリーダーとして、悲劇の遭難船恵比須丸に五百六十九名の引揚者と共に乗り込むことになる。その後、船倉にいた家族と共に夕食をしたのが最後の別れとなった。
「どうして君の気持ちが落ち着いて行ったんだろうか」僕は、ジェシーの気持ちの変化が知りたくてそう訊いた。
「サミュエルの家族とあなたのお父さんの家族が亡くなった経緯とその原因はちょっと違うけれども、でも結果的には同じだと思ったわ。そして新たな出会いもそれぞれ違ったにせよ、人を愛することについて言えば、それは同じじゃないかと思ったの」ジェシーは、落ち着いた声でそう答えた。
「それはつまり、亡くなった家族に対する愛情と新たな愛情とは、また別のものだということ?」
「そうね、新たな愛情が生まれたから、亡くなった家族に対する愛情や思い出が消えるわけではないと思うの」
佐世保へ降り立った父は、同じ共産党員であった母と出会い、貧しいながらも祖国再建を目指し満ち足りた暮らしを過ごした。しかし党の活動を継続していくためには経済的な担保が必要であり、やがて少しでも条件のいいところを求めて、福岡県八幡市(現北九州市)にある石炭加工業の会社で肉体労働に従事することになる。彼は日々の重労働に耐えながら毎日手紙を書き続けた。それは愛する家族の元へ生活必需品である食料や衣類と一緒に届ける書簡だった。やがて彼の身体は癌という病に冒されていく。それは、当時としては予告のない突然の死の宣告だった。癌に蝕まれていく身体を病院のベッドに横たえながら、彼は何を考えたのだろうか? 黄海の海に沈んでいった家族への想い、長崎で生まれた新しい家族への想い、そして満州国で夢見た果たすことの出来なかった民主化の理想郷、それらが走馬灯のように彼の脳裏に浮かんでは消えて行った。そして僕が二歳の時に帰らぬ人となった。
「サミュエルはもちろんエマのことを忘れてはいないし、同時にメアリーのことを愛したということを、君としては素直な気持ちで受け入れるようになったということ?」
「そう、もちろんサミュエルにとっては、パトリック・オーサーに対する罪の意識はあったけれど、そのこととメアリーに向き合うことは別のことだと思ったわ。だからあなたのお父さんの手記を読んでいて、そういう生き方もあるということがわかったの」
家族が船倉にいて亡くなったことは、もちろん父のせいではないが、船長室にいて助かった父とすれば、船倉に家族を残してきたことを後悔していたと思う。そういう思いを抱えながらも、新たに出会った母との愛情はまた別のことなのだろうと思った。
その母は、今は八十九歳になり老人介護施設に入っている。八月初旬のむせるような暑さの中、その母の様子を窺いに小高い丘の中腹にある老人介護施設へ出向いた。僕が来るという連絡を受けて市の担当職員二人がやって来た。角刈り頭の生真面目に生きて来た様子の四十代と思しき男と、ガリ勉一筋に自由な生き方が出来そうもない様子の黒縁メガネの二十代前半の男の二人だった。角刈りの男が僕に唐突に訊いてきた。
ここへはどういう理由で来られたんですか?
自分の母親を訪ねて来るのに理由がいることに驚いた。その男は怪訝そうな顔をして訊いて来た。半年近く来てなかったので、どうしているか気になり来たのだと答えた。角刈りの男は一層不可解な顔をして、そうですか、とだけ言った。つまりはこの老人介護施設に入所する費用は市が負担している。僕にその費用を負担する経済的余裕があるかどうかを見極めようということなのかなと思った。館内は適温の冷房がいれてあったが必要最小限の冷房にしてあるため、ちょっと動いただけで汗が滲み出て来るのがわかった。
いま、お仕事はどうされてますか?
個人事業主として文筆業をやってますが、全く安定はしていません。むしろ生活は厳しいぐらいです。
じりじりと首筋のあたりが汗ばんでくる。それと、市の職員が二人とも公務員然とした半袖シャツを着ているのが気になってしょうがない。自分が半袖シャツというものを着ないから違和感を感じるのだ。
お母様の面倒を見る経済的余裕はどうでしょうか? 市職員が言った。
その前に、前提として申し上げますが、彼女は生みの母親ですが戸籍上は叔母になります。先日亡くなった母が戸籍上の母です。実の兄が横浜にいますが、戸籍上は従兄になり、彼が唯一の彼女の戸籍上の家族です。
生みの母にとっては酷な言い方だとは思ったが、室内の蒸し暑さの方が気になったせいもあり、市職員の問い掛けに対して攻撃的な返事をした。
角刈りの男は一瞬、えっ? という顔をしてその後に、そうでしたか、それは知りませんでと言った。そして、その事実を確認したからには、もうこれ以上僕に訊くことは何もないといった様子で、会話を終わらせたがっているのがわかった。市職員は、戸籍上の家族であれば扶養義務が存在するが、戸籍上の親戚であればその義務はない、という点を忠実に守らねばならないという職務に徹しようとしていた。全く無駄骨だったという顔をしていた。
じゃあ、実際は東京にいらっしゃるお兄さん、失礼、従兄の方が唯一の家族になるということですね。もうひとりの黒縁メガネの男が言った。
その通りです。ただそうは言いましても実の母ですから、こうして様子を見に伺っているわけです。
そうですか、わかりました、わかりました。角刈りの男が同調するように言った。
その間、母はじっと黙っていて時折二人に、しきりにお茶を飲むように勧めている。市職員の二人が帰った後、個室に母と二人きりになり彼女にいろいろと父の事を聞いてみた。満州でのことはおそらく何も聞かされてなかったのか知らない様子だった。同じく恵比須丸の遭難に遭った家族のことも郷里が鹿児島ということ以外、全くと言っていいほど何も知らない。そして佐世保で同じ党員として活動するうちに、父と親しくなり一緒になったことを聞いたが、それ以降の二人の生活のことについては僕自身ほとんど興味を示さなかったから聞かなかった。そして母は知り合ってわずか十年で父と死別することになる。母が四十一歳の時だった。彼女は、その後の四十八年間を父との思い出と共に生きてきた。父は酒が弱く、奈良漬けを口にしただけで顔が真っ赤になった、という話しや西鉄ライオンズが負けるとその日一日機嫌が悪かった、という話しを僕の記憶の限りでは幾度となく繰り返し聞かされている。そうやって話す時には、一瞬、彼女の顔に、遠い記憶を辿りその場に居合わせているかのような表情が浮かぶ。その時の映像が、彼女の頭の中に決して消えることのない記憶として刻み込まれているのだ。
僕とすれば、当時のことは当然ながら全く記憶にない。最初の記憶は、養子として出された家から始まっている。それは、ある夏の蒸し暑い日に、家の中で、風邪をひいて熱を出し布団に寝ていた姿であり、その時の僕にとっては、極上の食べ物であったアイスクリームをもらって、布団の中でおいしそうに食べている姿である。育ての父と母が本当の両親ではないと知ったのは、それから十五年後の高校生になってからのことだった。それより以前に、育ての父と母は僕が三歳の頃に離婚していた。それでも僕は養子だったと知ってから、かなり驚くということはなかったし、あまり僕自身のことからすると重要なことではないと思えた。実の父親の存在自体が欠落していたために、最初に知った頃は全くと言っていいほど興味を示すこともなかったし、またどういう人物だったかということを知りたいとも思わなかった。そして父のことを手記を通じて詳しく知ることとなったが、正直に言って父親の存在というものが僕にどういう影響を及ぼしたかと言うと、それは全くと言っていいほど何もない。当然ながらわずか二年間あまりで共に過ごした記憶は全くなく、彼の存在は赤の他人と何ら変わりはない。父の手記を読むという行為は、まるで小説を読んでいることと代わりはなかった。彼の足跡を辿るだけであって、父親という思いが湧き起こるはずもない。もし父が生きていたとしたら、自分はどう接していただろうかと想像するに、全く想像することが出来ない自分がいることに気づく。母親は育ての母と生みの母が姉妹という関係で、実の母とは叔母としてちょくちょく会って話もしていたし、事実を知ってからは割とスムーズに接することが出来た。実の母と思っていた人が叔母であり、叔母と思っていた人が実の母ということを知り、その対応を今さら変えることなど出来はしない。生みの母とは、当然ながら実際にはひとつ同じ屋根の下で過ごしたことはなく、形而上的な生みの母という事実だけが残った。亡くなった育ての母は、僕が戸籍上のことを知った、ということをそれとなくわかった頃から、何となく余所余所しくなっていったのを覚えている。僕が生みの母とたまに会ったりするとピリピリとした空気が育ての母と一緒にいる部屋の中に流れるのを感じた。そして僕は、二人に対して”母さん”とも”叔母さん”とも、全く呼びかけ出来なくなってしまっていた。よく他人から、二人も母親がいて幸せじゃないか、と言われる。しかし僕にとっては、同時に二人の母親と距離を置くことに他ならないのだ。家族の団欒というものに実感として理解が出来ない、それが正直な僕の気持ちだということをジェシーに伝えた。それを聞いたジェシーは、大粒の涙を目に溜めたまま僕にやさしく微笑むだけで、何も語ろうとはしなかった。
ジェシーのオフィスを出た僕は、大学通りをまっすぐに歩き地下鉄の入口のあるところまで来た。辺りはすでに薄暗くなり漆黒の闇がやって来ようとしていた。地下鉄へ通じる階段を降りて行くと、まばらに行き交う人が通り過ぎて行く。階段を降りて行く足音が地下鉄の方へ響いて行き、反響して返って来るのがわかった。
秋が深まり夜の時間が長くなってくると、どうしても机に向かうのが長くなり睡眠時間が短くなっていた。書き進めることが出来なくなると、アーカイブの動画を開いたり音楽を聴いたりして興味の対象を他へ求めることが習慣化していた。学生生活の頃、レコードだけでしか聴けなかった色んなミュージシャンが今は動画で見れることに新鮮な驚きを覚え、気がつくと夜明けを迎えうとうとと眠ってしまった。そして夢を見た。その夢は、澄みきった早朝の静けさを切り裂くように一本の電話が鳴ることから始まる。
やあ、タカシ。朝早くに申し訳ない。多分起きてるかなと思って電話したんだが。
電話の主は編集長のテッド・ジェファーソンだった。
僕の方こそテッドがこんな早くに起きてることに驚いてるよ。
いや、急な会社からの電話に起こされてまいったよ。実は、緊急なんだが予定してた原稿に穴が空いてしまってね。
原稿に穴が、どうした?
うん、平山女史が事故に遭って原稿を紛失してしまった。悪いことにバックアップを取ってなかったらしい。
事故? どうしてまた。
詳しくはわからないが、命に別状はなかったらしい。しかし大量のコピーを取りに行く途中の車の事故で、助手席に置いてあった原稿がフロントガラスから飛び散ってしまい、そのほとんどを紛失してしまったようだ。
何とも気の毒としかいいようがないな…… それをわざわざ早朝に電話することじゃあるまいと思いながらそう答えた。
平山女史は旅ものを中心とした紀行文を得意としていて、昨今の小説家がほとんどパソコンで原稿を書いている中、希代の存在で原稿用紙を使い直筆で書いていた。
それで、急遽タカシの原稿が欲しいんだが。テッドが言った。
僕の? …… 書いてはいるが、まだ終わりをどうするか考えがまとまってないなあ…… それと僕の文章は平山女史の紀行文の代役にはそぐわないと思うけど……
そうか、書いているならそれを読ませてくれないか。テッドは僕が言ってる言葉を無視し、藁をもすがるように懇願してきた。
もちろん一度読んでもらうつもりではいるけど、本当に終わりをどうするか、まだまとまってないんだ。
それはわかったが、ともかく一度読ませてくれ。あとどうするかは、私に任せてくれ。 テッドは、半ば強引とも言える必死の思いに近い口調で言った。
テッドの強引ともいえる頼みに対して断ることも出来たが、一度読んでもらって感想を聞くことによって、それが書き進める上でのヒントになるかもしれないと思い、原稿を渡すことを承諾した。こちらへ取りに来るというテッドの言葉を断り、眠れないこともあって気分転換をしようとこちらから出向くことにした。
家の外へ出ると早朝の冷気が体中を包み込みこんだ。編集社のあるビルまでは二キロメートル、歩いて三十分程の距離にある。若干のアップダウンのある二車線道路脇の歩道を数を数えながら歩いた。最初は普通に十進法で数え、百まで数えると次に二進法、五進法と変えながら進んでいく。切り替えの時の一瞬の戸惑いによって刺激を受けるのだ。ビルの見える五十メートル前まで来た時に、前方に一人の軽装の服装をした小柄な女性が立っているのが見えた。ショートカットのヘアをしたその女性は、僕の方を見てかすかに微笑んでいるのが見て取れた。近づいて行くと彼女の方から声を掛けて来た。
こんにちは、あなたタカシでしょ。わたしはテッドのスタッフをしている結衣、あなたの原稿を受け取るために待っていたわ。
年の頃は、二十代後半ぐらいに見て取れた。
ああ、テッドのスタッフの人、わざわざ外で待っていたんだ。
ええ、オフィスはまだ開いてないし中へ入る必要もなかったから。そう彼女は言った。
でもどうして君が?
テッドは編集者としては優秀だけど、作品の読解力についてはほとんど自信がなくて、それでわたしに、あなたの作品を読むよう頼まれたの。実は、わたしもちょっとした小説を書いてるのよ。彼女はそう答えた。
結衣というその女性に対して、僕は以前どこかで会ったような印象を受けた。初めて会うという感覚がしなかった。
書いているってどういうものを?
ちょっとした物語り。でもそのストーリーは終わりがないの。
僕は、彼女の”終わりがない”という言葉に引っ掛かりを覚え、どういうストーリーか知りたくなった。
出来れば君の書いたそのストーリーを読ませてもらえないだろうか。
まずタカシの原稿を頂戴、そしたらオーケーよ。
僕は二つ返事で自分の原稿データが入ったUSBを渡し、代わりに彼女の原稿が入ったデータを受け取った。何とも不思議な感覚だった。走り出したら止まらない坂道を下る車のようにことは進んだ。夢の中で僕は、結衣が書いた原稿が入ったデータをコンピューターに入力し開いていた。あまり期待はしていなかったが、彼女に対するどこかで以前会ったような印象がずっと引っ掛かっていた。そしてその話には何と僕が登場し、都会の雑踏を徘徊するところから話が始まる。
タカシは昨夜から馴染みの店で三杯のジントニックを飲んで、さらにスナックが立ち並ぶ通りを歩いて行き『トランスフォーム』と書かれた変わった名前の一軒のバーに入った。時計の針は二時を過ぎており、店にはカウンター奥に一人の男が座っていた。男はタカシを確認するとカウンターへ来るように手招きした。
やあ、タカシさん、お待ちしてましたよ。と、男が言った。
男は半身で片足をカウンターの椅子から下ろしタカシに握手を求めて来た。
あなたは? 私はあなたのことを知らないのですが、初めてお会いしますよね?
ええ、初めてですよ。でも私はあなたの事を知っています。私はケリーと言いまして、ずっとあなたの事を観察していました。
何とその男はタカシのことをずっと何処かで観察していたのだと言う。何だってこの男に観察されなきゃいけないんだとタカシは思った。
どうしてまた私の事を観察する理由があるんですか?
実は、あなたのことを観察するように、とある人物から依頼がありまして、それで観察している次第です。
いや、そんなことよりも、どうして私が赤の他人に観察されなきゃいけないのか、と訊いているんです。
それはあなたが問題を抱えているからですよ。男は突拍子もないことを言い出した。
私が問題を抱えている? はて、面白いことをおっしゃる。どうしてそれが私を観察することになるんですか?
つまりあなたの問題がこの世に影響を及ぼすからですよ。
タカシはこの男が酷い酩酊状態にあり、要するにこの店に最初に入って来た人物に話しかけただけの話しだと思った。しかし同時に、いや、ちょっと待てよ、どうして僕の名前を知っているんだ? 説明がつかないじゃないか? とも思った。
私が抱えている問題というのが自分では検討もつかないんですがね。ひとつその問題とやらを説明してもらええませんか。
タカシが冷静さを装いそう訊くと、男はさらに驚くべきことを言った。
実は、あなたが書いている小説がありますよね。その中に登場する人物がこの世に影響を及ぼすんですよ。
私が書いている小説の登場人物だって?
タカシはいよいよこの男の妄想が膨らんで、とんでもないことを言いだしたと思った。小説の中の人物なんて空想の世界でしか存在しないのだから、それが現実に影響を及ぼすだなんて全く持って意味不明じゃないかと思った。
あなたが書いている小説の中の主人公であるケンジというのはあなた自身ですよね。ケンジは、精神的な疾患を抱え妄想と現実が入り混じっている。そしてあなたも現実にいまこうして私と話をしているようだが、これもあなたの妄想の世界なのでは? そう男は言った。
タカシはこれ以上この男の妄想に付き合うのが馬鹿らしくなり店を出ることにした。やれやれとんだ酔っ払いがいたもんだ。そもそもが深夜のこの時間にはとんでもないことを言いだす輩がいる。それにいちいち真面目に付き合う方がどうかしてる。店を出て通りをまっすぐ進み交差点のあるところに来た。信号は点滅に変わっており、左右に車の通過がないことを確認して横断歩道を渡り始めた。と、その時不意に右から猛スピードの車が突っ込んで来た。ヘッドライトの灯りが眼前に迫り、突然のことで足が竦んだ。
その時、眼が覚めた。
そこはいつもの自分の部屋の中だった。そうか、書き進めることにためらいを覚えジェシーに会いに行き、そして帰ってから眠ってしまったんだと理解した。時計の針を見ると午前十一時を過ぎていた。午前七時ぐらいに寝たから四時間程寝ていたことになる。そう思いながらも、ややぼんやりとした頭を覚醒させるために、コーヒーを入れて煙草に火を点けた。夢の中に出て来た男は誰だろうか? どこかで見たような…… そしてその前に出会った結衣という女性もどこかで会ったような気がする。夢は潜在意識の表れというけれど、それと同時に無意識の心像であるとユングは言っている。過去や現実の出来事とは別の自然現象であり、未知の世界であると。あまり気にすることではないなと思った。そうして頭の中にカフェインとニコチンが染み入るのを待って、机に座りペンを持ち書き始めた。
ケンジは沙耶とどう向き合って行くのか、今のところ何も考えてはいなかった。どう向き合うかよりも、どう過ごして行くかが大事な事だと思った。現実に今自分の傍にいるのは沙耶であって、ハルではない。今のケンジにとっては、過去を振り返ることなど微塵も感じてはいない。もちろん記憶は残っている。ハルと過ごした日々をきちんと覚えているし、彼女の性格がどうであったかを思い出すことは出来る。だからと言って、それを繰り返し思い起こすことはない。何と言っても沙耶は若い頃のハルにそっくりであったが、その面影を見るたびにハルのことを思い起こすことはない。亡くなったハルにしてみれば、何て男なんだと思うことであろう。過去を振り返り思い起こすことなど微塵も感じていないだなんて、冷酷無比な人間だと思うに違いない。しかし、ケンジにして見れば事実そうだからどうしようもないことである。他人からどう罵られようと、そこに装飾の美辞麗句を並べたて過去を振り返り、ハルのことを思い続けるとしても、それがいかに虚構の世界であるか、それはケンジ自身が一番良く分かっている。ハルが亡くなった当初は、そのポッカリ空いた埋め合わせが出来ないことに、たまらなく辛い日々が続いた。しかしいくらハルに戻って来て欲しいと思い続けても、ハルは永久にケンジの元へ現れることはない。何度思い起こしても絶対に現れることはないのである。そうした時に、ハルの墓前に手を合せることを何度繰り返しても永久にハルは答えてはくれない。亡霊にいくら向き合ったところで、一歩も前へ進むことが出来ない、ということにケンジは気づいていた。
俯いたままだった顔を上げるとそこに沙耶の顔があった。店内の空気を静寂の世界が支配し、たまに表の通りを過ぎて行く車の音が、遠くの残響音のように聞こえていた。店を出た二人は駅前通りを歩いて行き駅の改札口まで来た。
「また店に行けば君に会えるかな?」
「ええ、そうね。でも会いたくなったらいつでも電話していいわよ」
「そうかい、ありがとう。それじゃあ」
そうしてケンジは改札を抜けて行く沙耶を見送った。沙耶の姿が見えなくなった駅の構内を眺めながら、やがて駅前通りを反対方向に歩いて行った。
どうも話が錯綜し過ぎている感じがしていた。どこまでが僕が書いているストーリーなのか、あるいは現実に起きた出来事なのか、ぼんやりとした頭の中で、その境界線が見えなくなっていた。最初に設定していたケンジとは、いささか様相が違ってきていた。それは、もともと設定していたケンジの中にあるハルに対する愛情の深さである。人を愛するということが、どれほどのものか考えて見るに、大凡現実の世界でのことに関して言えば、世間一般の人が思い描く妻や恋人あるいは親兄弟に対する愛情の度合いであるが、テレビドラマや映画、小説の世界で表現される崇高な愛の形というのが、実際のところどれぐらいのものだろうかということである。一時的には、たまらなく愛していると思ってはいるが、日々の生活を営んでいくという時の経過とともに、それは徐々に日常の中に組み込まれ、今度は社会道徳や社会との共生の中でどう振舞うのが理想なのか、という別の要素が加味されていく。ましてや、そこに愛する人の不条理な出来事が重なり合うと、それはもう、想い続けることが言わば義務のような別のものに形を変えていく。そして、さらに新しい出会いという更なる偶発的な出来事によって、また新しい愛の形が生まれるという矛盾。でもそれは誰の身にも起こりうることであって、決してある一定の基準からズレている人間ではなくて、ごくごく普通の一般の人の当たり前の行動なのである。そこに理想と現実のズレが生じることになる。僕は、ケンジという人物を設定し、答え探しの旅を思いつくままに書き進めていたのだが、迷路に入り込んでしまい、抜け出せなくなっていた。
第五章
未だボーズマンでの話を引きずっているのではないかと思い、ジェシーを誘って久しぶりに街へ出かけた。いや、むしろ僕のほうが、ジェシーと会って話をしたかったし彼女の笑顔を見てみたいと思っていた。そう思う気持ちが起こる理由を突き止めたかったし、あえてそうすることで、自分の中に沸き起こる錯綜する考えを軌道修正出来れば、という思いだったのかも知れない。
抜けるような青さの秋晴れの下、駅前通りをまっすぐに百メートル程北へ歩いていき、スクランブル交差点のケロッグ・モニュメントがあるところまで来た。そこにジェシーが遊ぶ気満々な、スタジアムジャンパーにジーンズというラフな格好をして待っていた。フォーエバートォウェンティワン、ビルケンシュトック、ザラなど人気ファッション関係のショップが数多く入った大型ショッピングセンターへ一緒に入って行くと、多くの家族連れや恋人同士で溢れかえっている。近代国家の代表格であるアメリカ国民とは言え、牧歌的田舎町育ちのお嬢さんは、ショッピングモール入口のロビーに据えられたナムジュンパイク創作の見上げんばかりの高さをした”近未来的モニターオブジェ群”に目を奪われ、大きな瞳をいっそう大きくし「ワァオ!」と驚愕の声を上げていた。人混みで混雑するエスカレーターを擦り抜けて、ショッピングゾーンに併設されたシネマコンプレックスへ来た。その場に来て何の映画を見るか、その場で決めるのは初めてだったので、かなりの時間を要した。入場口に掲げてある本日上映のラインナップを見ながら、ジェシーにどういうのを見たいのか訊ねた。
「アクションものが見たいなんて言わないでくれよ」
アクションものはジェシーには似合わない。念押しの意味も含め冗談っぽく言った。
「そうね、幻想的なアドベンチャーものなんてどうかしら」
さすがは好奇心旺盛な女性探検家の面目躍如だ。探して行くとそれらしき映画がひとつだけあった。『ザ・ビーストマスター』という題名がついていて、動物を意のままに操つることのできる主人公が、悪逆非道な司祭を倒すまでを描いたファンタジー・アドベンチャー作品と書いてある。出演者の名前を見るとよく知らない俳優ばかりである。いわゆるB級映画に近いものであろう。
「うーん、本当に時間潰しかも知れないわね」
ジェシーも同じことを考えていたらしい。逆にジェシーから、僕はどういうのを見たいのかと訊かれた。
「そうだね、映画だから出来るだけ頭が空っぽになるようなのがいいかな」
あまり答えになってなかった。
「ええ? 頭を空っぽにしたら仕事が出来なくなるわよ」
「とりあえず空っぽにしてからまた満タンにすればいいさ」
意味不明なことを言って二人で笑い転げた。実際何でも良かった。ただ彼女と一緒に過ごす時間を持てればそれで良かった。色々と迷ったあげく結局、二人とも年嵩の行った大人のくせに、子供が喜びそうな動物の世界を描いたCGアニメを観ることにした。映像表現が格段に進化し、より現実的でリアルになったCGアニメの世界に浸かりながら、二人でコーラとポップコーンを肘掛横に置き、ファンタジーな御伽の世界を堪能した。そういえば、メアリーもパットリック・オーサーの手品を見ながら同じような気持ちに浸っていたんじゃないだろうか、とふと思った。映画が始まると、ジェシーは大はしゃぎで手を叩き、驚き、笑い転げ、そして最後のシーンでは感動し涙を浮かべた。シアターから出ると、二人とも夢心地のような世界にどっぷりと浸かり気持ちが高揚していた。
「ああ、喜怒哀楽の十年分を使い果たしたかも知れないわ」
ジェシーは上気した顔で頬を赤らめ両手を拡げると、彼方を見続ける少女のように今の気持ちを表現した。
「君の場合は、それが栄養分となって頭の中に増えていくから大丈夫だよ。さあ、お次はお腹を満たしに行こうかな?」
ジェシーを気分転換させるつもりで誘ったのだが、いつのまにかジェシーの一挙一動に接することで、僕自身が彼女の助けを貰っていた。ユージには、ジェシーとは友人であって恋人なんかじゃないさと言ったけれど、実際のところ、傍から見たら年齢から言っても国際結婚をした夫婦そのものだった。映画館を出て下の階に降りて行くと、数多くの日用雑貨の店や服飾関連の専門店、飲食店がインナーストリートを色鮮やかに形作っていた。ジェシーはハットショップに入ると、そこにあるブリムの広い黒の帽子を取って鏡に向かい、おどけた様子で『ティファニーで朝食を』の主人公ホリー・ゴライトリーを演じる。ホリー・ゴライトリー役のオードリー・ヘップバーンとは対極的に、コケティッシュな顔立ちのジェシーが鏡に向かって言った。
「あそこにいる女性店員が”まあ、とってもお似合いですこと”なんて言ったら、”あら、あなたは電話オペレーターが適役かもね”と言わないといけないわ」
ジェシーは、ちょっと照れくさいのか、わざと頬を膨らませている。
「ちょっと遠目に見たら、子供がいたずらしていると思われるかも」
僕は、小柄なジェシーが映っている鏡の奥から笑いながら言った。二人で色々とおしゃべりをしながら数件のショップを見てまわり、食事はシネコンの反対側にある、二人が好きなイタリアレストランに行くことにした。店内は大勢のお客で賑わっている。ウェイターの案内で、窓際の下に噴水が見える席にしてもらった。映画の余韻をそのままに、メニュー選びも二人で大はしゃぎの作業に取り組んだ。食前酒、オードブルとスープ、サラダ、ピザにスパゲッティ、ドルチェにカフェと、それらが一辺にテーブルの上に所狭しと並べられていく。何だかわからないが食前酒で乾杯をし、あれやこれやと食べながら、取りとめのない話に花を咲かせた。
「ねえねえ、タカシって左利きでしょ、それで今までで一番困ったことってなに?」
まるでバラエティトーク番組に出て来る芸能人への質問のようだ。
「一番困ったこと? そうだね、日本の急須があるじゃない、あれでお茶を注ぐ時に左手で持つと、お茶の注ぎ具合が自分ではよく見えないことかな」
「ええ? それって単に右手に持ちかえれば済むことじゃない」
ジェシーは口元を手で抑えたままで可笑しくてたまらないといった様子だ。
「いや、でも習性的に左手で持ってしまう。だから左利きなのさ」
「でもそれが一番じゃないでしょ、他には?」
「この世のドアというドアは、引き戸も開き戸も右利き用だね。これは断言出来る」
「ええ? どういうこと?」
「試しに左手でやってみたら分かるよ、不便だから。作った人は、絶対に他の惑星からは入れさせないぞと思っているのさ」
僕がそう言いながら、両手をマイケルジャクソンの”スリラー”のように鍵形に構えると、ジェシーはこらえていた笑いを抑えきれなくなって、テーブルに突っ伏してしまった。そして顔を上げ目尻の笑い涙を指でこすりながら言った。
「あなたは、左利き同盟の党首になれるわ」
ジェシーは両手を顔の両側に大きく拡げ、口元を笑いで引きつらせていた。
「そうだね、党の公約に急須とドアの改善を掲げようと思っている」
僕があまりに真面目な顔をして言ったものだから、ジェシーは、もう止めてよ、と言って再び笑い転げた。
ふと窓の下を覗くと、回廊前の広場に作られた噴水が勢いよく噴出しているのが見えた。噴水の周りに大勢の人が集まり、突然始まった噴水ショーに大きな歓声を上げている。親子、夫婦、恋人同士、友達それぞれが噴水を媒介にして、同じ時間と空間をガラス細工を扱うように大事に共有している。そこにいる誰もがそれが永久に続くことを望んでいるが、同時に永久に続かないことも知っている。だからこそ誰もが記憶に留めようとしている。あるいは、幸せは平凡な生活の中にこそあるが、それに気づくのはずっと先の記憶の中にしかない、ということを思っているからなのかも知れない。
ジェシーはフォークを使ってサラダを食べるのか食べないのか、はっきりしない動きをさせていた。そしてそのジェシーの顔に、ゆっくりと夕暮れの陽射しが注いで来た。
「もう少ししたら、ボーズマンへ帰ろうかと思っているの」
ジェシーがボーズマンへ帰るというのは、ひとつには両親が共に八十歳を過ぎて、誰かが傍に居てあげないといけないという理由もあるのだと思う。だとするとひょっとしたらジェシーは、自らの意志でそのままボーズマンに居続けるのかも知れなかった。
「そうか、もうすぐクリスマスがやって来るんだ」
あれから秋を迎えて一気に冬に入ろうとしていた。ショッピングセンターに来ている人々も、長居は無用とばかりに冬支度に備えて忙しく動き回っている。三ヶ月程前迄は蒸し返るような暑さだったはずなのに、気づいたらいつの間にか誰もが上着の襟を立てている。ジェシーと一緒にモンタナへ行ったことが、ついこないだのことのように感じられた。それは澄みきった青空の下、ジェシーが幼い少女のように底なしの笑顔で、太陽の日差しを浴びながら緑の芝生を飛び跳ねている姿だった。
「タカシはこの冬の予定はどうするの?」
クリスマスを一人で過ごすのは、アメリカ人であるジェシーから見ると、とても奇異に映るかもしれない。
「雑誌の仕事も残っているし、多分、そのまま家にいると思うけど……」
とってつけたようなことを言ったが、正直言って雑誌の仕事はいいわけにしかすぎない。おそらくそれはジェシーも分かっているんじゃないだろうかと思った。
「そうね、やっぱりあのストーリーを完成させないといけないわね」
夕暮れの陽射しは厚い雲に隠れ、ジェシーの姿をやがてやって来る夕闇が包み込もうとしている予感がした。ジェシーの言葉の中には、僕を自由に見守ってくれている彼女の慈愛を感じたが、それに対して僕は黙っていた。ストーリーを完成しなくては、とは思ってなかったが、これ以上書き進めないということもなかった。今のところ話の展開が見えてこないだけで、それには時間を要するのかなと思っていた。そして今は、ジェシーの幸せそうな顔を見ていることで、僕も満ち足りた気持ちになることが出来た。出来ればこの時間を持続させていたいと思うが、同時に、それはいつかは必ず終わりが訪れるということに恐れを抱いている自分がいた。
中途半端な気持ちのまま、ジェシーを自宅近くまで送り届け、地下鉄に乗り家へ戻った。ユージから電話があったのは、家に戻ってからすぐだった。突然のことだが、彼によれば今の店を畳んでシンガポールへ渡り新たな事業を始めるという。
「何でまた日本じゃなくてシンガポールなんだ?」
僕は、相変わらず奇想天外なことを言い出すやつだなと感心しながら訊いた。
「そう訊くと思った。実は今、シンガポールはビジネス拠点として通信インフラ投資に積極的で、そこでのデータ通信速度は二十四ポイント三メガビットと世界中で最も高い。そして世界中の人種の坩堝になっている。そこで色んな国の色んな知識を集約して、新しい試みをやろうと思ってるのさ」ユージの声は、自信と確信に満ち溢れていた。
「ネットの新しい可能性を探ろうと思っている。それは動画を中心に世界中の出来事をリアルタイムで繋ぐ、全く新しいネットワークになるはずだ」
アナログの最右翼にある喫茶店をやってる人間が、ネットの世界でやって行こうということ自体驚きだが、ユージなら出来そうな気がする。
「タカシの作るストーリーも、俺のネットワークを使って、より多くの人間に浸透させていくことが可能になって来る。例えば、本を開くという行為が必要なくなって来るかもしれない」
「どういうことだろう? 本は開かないと読めないだろう」僕はユージの言ってる意味が理解出来なくて訊いた。
「いや、空間に表示するのさ。いつでも読みたい時に目の前の空間に表示させれば、すぐに読めるという段取りさ」
「それは凄いな。それは文字が表示出来るなら動画も可能なのかな」
「動画? もちろんさ、あらゆることが可能になって来る。動画や画像を表示させるのに、端末を必要としない時代がやって来るはずだ」
正直言って、ユージはネット関連技術そのものには詳しくはない。奇想天外な発想とバイタリティに溢れているから出来ることだろう。
「時空を超えて動画が表示されたら凄いことだけどね。過去の人間と交信が出来るなんて素晴らしいじゃないか」僕は言った。
「おいおい、何を言ってるんだ? 時空を超えるなんてどういう発想なんだ? それは無理に決まってるだろ」ユージがあきれた声で言った。
「いや、願望というか希望的観測を言ってるんでね」
過去の人物と出会えるのは、写真だったり動画だったりするがそれは一方的であって、こちらの問いかけには何も答えてはくれない。アーカイブの媒体としてただそこに存在するだけである。でももし時空を超えることが出来るとしたら、サミュエルになぜメアリーに会おうとしたのか訊ねてみたい。そうしたら何と答えただろう? メアリーにも訊いてみたい。本当にサミュエルから真実は知らされていなかったのか、あるいは知らされていたとしたら、なぜサミュエルを受け入れることができたのか? それは僕らが思っている以上に、古今東西、人類が繰り返し夢見てきたことである。
「タカシの発想は飛躍し過ぎるからなあ。ハッハッハ」電話の向こうでユージの高笑いが聞こえた。
「ところでいつ頃行くことになるんだ?」僕は訊いた。
「そうだな、準備が整い次第すぐだ。今の店を整理しないといけないし、多分クリスマス前頃になると思う」
「クリスマス前か……」
「タカシはクリスマスはどうやって過ごすんだ? まさかの一人なのか?」ユージは、ジェシーと同じ質問をして来た。
「うん、雑誌の仕事も残っているし、これでも結構忙しい」そう答えながらジェシーへ返した答えと同じだなと思った。
「ジェシーは? 最近どうしてる? 彼女と一緒に過ごすのもいいんじゃないか」やはり、ユージはまだ僕とジェシーの仲にこだわっていた。
「いや、彼女はクリスマスに合わせてボーズマンへ帰ると言っていた」
「それなら一緒に行ったらいいじゃないか、俺だったら是非そうするね」
「何を言うかと思ったら、そんな押し掛けるみたいじゃないか」
「押し掛けでも何でもいいじゃないか、タカシは満更でもないんじゃないか?」
「実際のところ、ユージは僕とジェシーのことをどう思っているんだ?」いつまでもそのことにこだわっているユージに思い切って訊いて見た。
「どうもこうもないだろう、タカシを見てたらジェシーに対して深い愛情を持って接しているのが手に取るようにわかるけどな」
「そうなのか?」僕は否定はしていなかった。
「ああ、そうだ。タカシは自分以外のことに対してはとことん真理を求めるくせに、こと自分のことになると、正直じゃなくなる。そうじゃないのか?」
「いや、そうではなくて、自分自身がジェシーを想う気持ちがどういうことなのか、まだよく理解していないのじゃないかと……」
「ややこしい奴だな。そこは理解することじゃなくていいんじゃないか」
確かに、ジェシーと一緒にいることで、幸せに満ち足りた気持ちになるのは間違いなかった。しかしそれは、相手を愛する気持ちとは少し違うような気がしていた。未だ自分の中に人を愛するという気持ちがどういったものかというのが理解出来てないのじゃないかという思いがある。それは、理解することじゃなくて感じることだろうが、それがわからないというのが正直な気持ちだった。
偶然にもジェシーがボーズマンへ帰る日と、ユージがシンガポールへ渡る出発日が重なり合った。そして僕は二人同時に見送りをすることになった。飛行機の出発に合わせた夕暮れの時刻、ラッシュアワーの渋滞の中を三人でタクシーに乗り空港へ向かった。空港へ到着すると、ジェシーとユージの二人は、それぞれ別の航空会社のカウンターで出国手続きを進めた。二人が手続きをしているあいだ、多くの人でひしめき合うロビーの座席に門外漢のように腰掛けて待っていると、ユージがシンガポール航空での手続きを終え僕のところへ戻って来た。
「ジェシーは受付は終わったのかな?」ユージが言った。
「多分インチョン経由の大韓航空のカウンターにまだいるはずだと思うけど」
ジェシーは、インチョン経由シアトル往きの大韓航空に乗り、シアトルでアラスカ航空に乗り換えてボーズマンまで帰る予定になっていた。
「二人とも出発までまだ時間があるから、一緒に三階のレストランへ行こう」肩掛けバッグひとつの身軽な格好になったユージは、せっかちに言った。
ジェシーが出国手続きを終えるのを待って、三人でレストランへ行くことにした。出国ゲートの前は多くの人が並んでいた。バックパッカー風の白人青年、ビジネスマンらしい背広姿の褐色の肌をした男性、はち切れんばかりの身体を真っ黒の衣裳に包んだアフロヘアーの黒人女性、こうやって見ると色んな人種が一堂に集まっているのも国際空港ならではの風景ではある。色んな言語が飛び交っているのを通りかかりに耳にしながら、エスカレーターに乗り三階にあるレストランへ行った。レストランの中は比較的空いていて、それぞれセルフのドリンクとフードを受け取り、窓際から飛行機の発着が見える席に着いた。
「何だ、タカシも一緒にアメリカへ行けば良かったのに」
席に着いて開口一番、ユージは僕とジェシーのことにまだこだわっていた。
「あら、彼は雑誌の仕事が佳境に入っていてとても無理だわ」ジェシーが僕を代弁するように言う。
「そんなことはないさ。だって考えても見ろよ。タカシの仕事はコンピューターさえあれば世界中何処へ行こうと出来るんだから。WiFiがあれば天下無敵さ」
ユージはハンバーガーにケチャップやマスタードソースをぐちゃぐちゃに塗りたくりながら一方的な主張を力説した。
「そんな単純でもない。色々と調べないと行けないこともあるし、ネットだけでの調べものには限界がある」僕はちょっといいわけがましく言った。
「何だかんだ言って、お前も強情だな。ジェシー、こいつを引っ張って行ったらどうだ?」
段々と、ユージの荒っぽい強引さが際立ってきた。
「勘弁してくれよ。ジェシーが困ってるだろ」
窓から外に眼をやると、ユージとジェシーが乗る予定の飛行機がそれぞれ出発の準備を進めていた。機体の中へ大型のカーゴに入れられたスーツケースなどの荷物が次々と運び込まれている。すでに日は暮れていて、投光機の灯りが重厚な機体を浮かび上がらせていた。ジェシーは、僕とユージの会話を楽しそうに眺め、グラスに入った冷たいカフェオーレを飲みながら終始微笑んでいる。
「で、肝心の雑誌の仕事の方はその後どうなんだ?」
ユージは、ハンバーガーを頬張り一杯になった口の中へ、更にフライドポテトを押し込みつつ豪快に食べながら言った。
「うん、書き進めている。書き進めてはいるが…… 答えが見つからない」
「答え? 答えっていうと、そこに結論を導き出すということか?」
「いや、そうではない。感じたままの答えを見い出そうとしているが、それが出て来ない。はっきり言ってわからない」
「だったらそれが答えじゃないのか? 答えが見い出せないとしたら…… きっとそれが答なんだろう」
ユージはケチャップがついた親指を舐めて、断言するように言った。僕に向けたユージの親指が唾液でテカテカに光ったままだ。僕には自由意思というものがないのだろうか。僕の意識は、得体のしれない無意識の心によって動かされ、自分では全く制御不能な存在を眺め、自分がやったことと錯覚しているのだろうか。そしてしばらく答えのない問いに向かい合っていた。
あっという間に時間が過ぎ、先にユージが出発ゲートへ向かうため席を立った。ユージは最後まで残り少ない二人の時間のことに気を使い、僕らがテーブルに座ったその場で別れの言葉を告げた。
「じゃあな、タカシ。仕事が成功したら連絡するよ。ジェシーを大事にしろよ。じゃあ、ジェシー元気で」
ユージは、二人と握手をすると、それぞれに意味深なウインクをして別れを告げた。
「ああ、じゃあな、ユージ」
僕は返事とも何ともつかない別れの言葉を、席に座ったままユージへ送った。ユージは潔くさっさと行ってしまった。そして、すぐにジェシーのフライトの時間になり二人で出発ゲートへ向かった。そこは多くの別れを惜しむ人々で溢れ返っていた。
「多分、今度いつ日本へ戻れるのか帰ってみないとわからないけど、はっきりしたら連絡するわ。それじゃあね、体を大事にしてね」
そのジェシーの弱々しい声は、わずかばかりの陽炎のようだった。
「うん、向こうから連絡して。じゃあ気をつけて」
別れの挨拶なのに、変にちぐはぐな返事をしてしまったのかなと思った。僕は、初めてジェシーとのわずかばかりの抱擁を交わした。別れの言葉は星の数ほど沢山あったはずなのに、どれもその場に相応しくなく、多くを語ることが何の効果もないように思えた。今度、という言葉が確証のないことだと分かっていた。そして再び、ということが起きることを密かに期待していた。別れの手を振り続けるジェシーが、銀幕が下りるように、ゲートの扉の向こう側に、微笑を投げかけながらゆっくりと消えていった。そしてしばらく立ち尽くしていた僕は、ジェシーが消えていった出発ゲートを数分間眺めその場を離れた。二人ともあっけなく行ってしまった。
空港の外へ出ると、冬を迎えようとする木枯らしが肌を突き刺し、心の芯まで凍えるように吹き荒れていた。急に暗闇の中に一人放り出されたような気持ちになり、そのまま都心の繁華街へ向かう循環バスに飛び乗った。今のこの寂しい気持ちを紛らすために、夜の街で誰かに語りたい気分だった。そうすることにしようと思った。そうしてポッカリ空いたようなこの気持ちを、何かで埋め合わせしなければならないのだ。そう思いながら、急に眠気をもよおしバスの座席に座ったまま、うとうととしてしまった。
気づいたら夜の繁華街をあてもなく徘徊していた。多くの車で渋滞する一方通行の歩道を歩いていく。道幅一杯に横並びで闊歩する酔っ払い達、煌々と光るネオン看板が灯る飲食ビルに佇む黒服の呼び込みの男や店の女の子達、それらを掻き分けながら進んでいった。そこから脇道の狭い歩道をした横丁に入り、赤提灯や暖簾が並ぶ通りにある馴染みの店『バルボア』に辿り着いた。そこでジントニックを注文し、考え事をするでもなく淡々と飲み、いつの間にか三杯目を口にしていた。マスターとは二言三言会話を交わしただけで店を出た。しばらくすると数多くのスナックが立ち並ぶ通りを歩いていた。そこに一軒のバーがあった。店の名前は『トランスフォーム』と書いてあった。どこかで聞いたような名前だなと思いながら、すっかり酩酊した状態で木製のドアを開くと、入ってすぐ脇の棚にグリーンのモスラビットが置いてあり、昼間見た映画が続いているような錯覚を覚えた。
ようこそ、トランスフォームへ、お帰りなさいませ。中でお客様がお待ちですよ。
モスラビットが甲高いアニメ声で言った。
お客? 誰なんだ?
さあ、あなたをよく知っている方のようですけど。
アンティークの置物がしゃべるなんて、俺も相当酔っ払っているなと思いながら店の奥へふらふらと入って行った。カウンター奥に一人の男が座っていた。男は僕を確認するとカウンターへ来るように手招きした。
やあ、タカシさん。お待ちしてました。
男が握手を求めて気軽に手を差し伸べて来たが、その顔には全く覚えがない。
誰だ、あんた? 僕は、敵対的な口調で言った。
あなたをずっと観察している者です。
僕は、男の勧める隣りのカウンター席に座った。
何で僕を観察する必要がある?
あなたは自分が人を愛する気持ちを持ちえない人間だと思っている。人を愛することがどういうものか実感として理解出来ない、そうではないですか?と男は僕の問いを無視し、いきなり決めつけるような口振りで言った。
余計な御世話だ。人は誰だって結局は自分自身のことを考えている。その延長線上に愛する他人がいて、それは自分自身の心の谷間を埋めるための存在だ。だから愛していると思っていてもそれは自己を愛する故の虚像にしか過ぎない。僕は、男の強い口調に対してちょっとムキになって答えた。
ジェシーのことはどうでしょう? 彼女と一緒にいることで心地いい時間を共有出来ているんじゃないですか?
それはそうだ。彼女と一緒にいることで、ある種心の安らぎを感じている。ずっと彼女と一緒にいたいと思う自分がいる。
それはもう彼女に対する愛情と言ってもいいんじゃないでしょうか。何かを与えたり、もらったりするようなことではなくて、心地良い時間と空間を共有できる相手がいる、そしてその人と一緒にいたいと思う、それが愛じゃないでしょうか。
僕はジェシーを愛しているんだろうか。こんな単純なことが愛なんだろうか。ただ単に一緒にいることが心地いいとか、それだけで愛していると言えるんだろうか? ちょっと違うような気がする。本当は、自分の事を愛して欲しいと、そのことに飢えているだけのことじゃないだろうか。自分のことを愛してくれる人を捜し求めているだけじゃないだろうか。僕は男の問いかけを無視するように、目の前に置かれたグラスの氷が溶けて行くのをじっと見つめていた。
どこかでチャイムの音が聞こえた。ふと気付くとそこは循環バスの中だった。バスに乗って座席に座ったまま眠ってしまっていたんだと分かった。空港を出た循環バスは、都市高速から下り、百貨店等の大型商業ビルが立ち並ぶ四車線道路をバスターミナルに向かって走っていた。大通り両サイドの歩道には、イルミネーションが煌びやかに光っている。終点のターミナルビルへ入ったバスから降り、繁華街の方へ向かった。僕はふと夢の続きが待ち受けているかもしれない気がして、飲食ビルが数多く建ち並ぶ方向へ向かって歩いた。ネオンが瞬く方向には、多くの喧騒が渦巻いていた。道行く男達に声を掛けている膝上二十センチ程のミニスカート姿の呼び込みの女性達がいる。そしてその声を掛けられた男達の一人が下卑た声で女性らを揶揄っている。すぐ近くの居酒屋から出て通りにたむろし、意味不明な大声を張り上げている二十代の若者達がいる。その中を取り締まりをしながら進んでいく警棒を持った警察官三名もいる。そしてネオンの渦の中を夥しい数の欲望を抱えた人々が引っ切りなしに行き交っていた。目の前に広がる光景がぐんにゃりと歪んで、笑い声や嬌声が耳の奥でこだましている。そしてふらついた足取りで、その繁華街のメイン通りから脇道へ入った細い路地にある馴染みのバー『バルボア』へ入った。
「やあタカシ、しばらく」
カウンター越しに週刊誌を読みながら椅子に座り、退屈そうにしていたマスターの声が聞こえた。
「ジントニックね」僕は一言だけ言ってカウンターの左端の椅子に腰掛けた。
「ユージはシンガポールへ行ったんだって?」
短く刈った髪型に顎髭を生やしたマスターは、僕へジントニックのグラスを差し出しながら言った。
「うん、向こうでネット関連の仕事をするらしい」
「ほう、一攫千金を狙っているかな」ユージとお金は無縁だが僕は軽く笑って相槌を打った。
「ところで今日はここへ来るのが二回目なんだ」
「二回目?」マスターは僕が言ってる意味がわからなくてキョトンとしていた。
「実はさっきまで見ていた夢の中で、もうすでに一回ここへ来ている」
「ほう、夢の話でここが出て来るとは光栄だ」
「そう、その夢の話なんだけど、実はその数日前にも一度来ている。いや正確にはそのもう一回は、夢の中に登場する結衣という女性が書くストーリーの中でのことだけどね」
「それも夢の中で? いやあ贔屓にしてもらってありがたい。でも夢の中に別の人物…… 誰だっけ? 結衣? その結衣が書くストーリーがあって、その中でまた……」
マスターが話に興味を示した時は顎髭をいじる癖がある。今もしきりに左の人差指で顎の右下を撫でている。
「そしてここでジントニックを三杯飲むことになっている」僕はマスターの復唱を中断するように言った。
「何だ? 三杯飲むための口実か? ははあ、そして何かが起こるというわけだな」
マスターはニヤリとし、眼を輝かせながら期待を膨らませている様子だった。
「いや、何も起こらない。それからここを出てしばらく彷徨い歩くと、一軒のバーに辿り着く。店の名前は『トランスフォーム』と言うんだ」
「トランスフォーム? バーの名前らしからぬ変な名前だな、変身……って意味か?」
「そう変身とか変形とか、ともかく生物の生態を変えるという意味だね」
「で、その店で何かが起こる。君の何かが変身するというのか?」
マスターは先を急ぐように答えを煽る。
「いや、何も起こらない。そこに一人の男が待っていて僕との会話を始める」
「一人の男? 誰なんだ?」
「わからない。見たこともない男だ…… ああ、確か名前がケリーとか言っていた。ともかく僕はその男と話しを始める」
「それで?」
「それで終わりさ。そこで目が覚める」
マスターは、左の人差し指を眉間の間で滑らせながらじっと考え込んでいる。
「マスター、これ」
空になったジントニックのグラスをマスターの目の前に差し出し二杯目を注文した。
「で、その男との話ってどういうことを話すんだ?」
「その男が言うには、僕が愛する気持ちを持ちえない人間だと思っていて、人を愛することがどういうものか実感として理解出来ないと思っている、と」
「深層心理で言うところのタカシの本音かもしれないということか…… それで?」
「それで僕は、人は誰だって自分自身のことを考えている。その延長線上に愛する他人がいて、それは自分自身の心の谷間を埋めるための存在だと。だから愛していると思っていてもそれは自己を愛する故の虚像にしか過ぎないと答える」
「かなり天の邪鬼的な答えのようだな…… で、二回とも同じ夢なのか?」
「いや、実際には違っている。何が違うかと言うと、その男との会話の中身が違っていて、一回目は、僕が書いているストーリーの登場人物である主人公が精神的疾患を抱えていて妄想と現実が入り混じっているとその男が指摘する。そして二回目がさっき言ったことだ」
実際の話、ややこしい話だと思った。僕が書くストーリーに出て来るケンジは妄想と現実の世界を彷徨っていて、それを書いている僕もまた夢と現実を行き来する同じ道を彷徨っている。見知らぬ男と会話をしていることが現実のようで、ジェシーと映画を見ている間が夢の世界のようで頭の中の境界線が見えなくなっている。ここで今こうして話をしていることも実は夢の続きなのかもしれないと思った。そして夢の中に出て来る男は僕自身の分身なのかもしれない。
「随分とピッチが速いな。じゃあ三杯目を頼むわけだな」
マスターはそう言いながら、空になったグラスを下げ三杯目のジントニックを置いた。
「そしてこの三杯目を飲んだらここを出て、そのトランスフォームという店を見つけそこに入る」
マスターは、ドキュメンタリー番組に被せるナレーションを読むように言った。
「夢の中ではね。でも現実にはそういうことは起こり得ない。実際、トランスフォームなんて店はどこにも存在しない。夢の中だけで存在する店であって、そこにいる男も夢の中だけの登場人物だし、そこで話される会話も僕の中の無意識の心象さ」
道に迷うと同じところをぐるぐると回るという話がある。太陽や月、山などの手掛かりがないと、方向や身体バランスの感覚のずれを修正できず、ずれが次第に大きくなってしまうためだという。その手掛かりとなる指針がトランスフォームなのか、あるいはそれがジェシーという存在なのだろうか、ということを物言わずに思った。そして三杯目のジントニックを飲み終え店を出た。深夜二時を廻っていたが、夜の繁華街は眠ることを知らず煌々と煌めくネオンと喧騒が渦巻いていた。そしてその日は何処へも寄らず、タクシーで真っ直ぐに家へ帰った。アルコールで麻痺した頭でベッドへ横になりそのまま寝てしまった。そして再び夢を見た。夢の中で僕はまた夜の街を徘徊している。ぐにゃぐにゃに曲がりくねった回廊のような夜の街をどこまでも徘徊する。このままではどうにもならないと思い上の階へ出てみようと考えつく。ともかく上の階というものが存在する。暗闇の中に降りてきている梯子を伝い上の階へ出た。そこへ出ると大部屋があり、部屋の両側に扉がいくつもあって、そのひとつを開き小部屋へ入ると、そこに机がひとつ置いてあった。そこで僕は机に向かいケンジと沙耶のストーリーを再び書き進めていく。
ケンジは仕事で遅くなり深夜の帰宅だった。ここ三日間、ほぼ徹夜に近い状態で圧倒的に睡眠が不足していたため、それが疲労と共に神経を参らせていた。そして何よりも右下の奥歯に言われのない鈍痛があって、それが更に神経を刺激し気持ちを沈ませていた。ケンジは、ハルと死別してそれまで住んでいたマンション――ハルとの思い出が残る空間に留まることに耐え難くなっていたという理由もあり――を売り払い、六畳一間の安アパートへ引っ越していた。いまのケンジにとって、一間以上の空間は必要なかった。ケンジがアパートの階段を、疲れ切った足を引き摺るようにして上がって行くと、階段の上に人の気配を感じた。
「あら、随分と遅かったのね」
低い抑揚のない声がする方向を見上げると沙耶だった。深夜のこの時間に、そこに沙耶がいること自体驚きだったが、それ以上に今までの沙耶と違う印象がした。それまでの沙耶は、掴みどころのない、それでいて凛々しい雰囲気だったが、そこにいる沙耶は、非常に威圧的な、まるで何事も受け付けない仁王像のような様子がした。
「仕事だったもんでね。いつもはもう少し早いけど。でもどうしてこんな遅い時間にここに?」
ケンジは深夜帰りの理由を、ちょっといいわけがましく言った。別にいいわけする必要もなかったが、何となく沙耶の威圧的雰囲気についそう言ってしまった。
「あなたがどういう生活をしているか、ちょっと見たくなったから来てみたのよ」
ケンジはふと試されているのかなと思った。一途に沙耶に会いたいと言っていたけれど、実際は他にも楽しみがあって、その隙間を埋めるだけのことでそう言ってる薄っぺらな人間なのかどうか、言わば不意打ちみたいにしてみたら、化けの皮が剥がれるんじゃないか、と。一瞬そう思ったが、それは考え過ぎのような気もした。彼女は純粋に自分のことが気になり、やって来たのだと思うことにした。部屋の中へ案内したケンジは、沙耶に座るよう椅子を勧める。しかし沙耶は座ろうとせず、部屋の中をひとしきり見渡していた。そして不思議そうな顔をして言った。
「電化製品や家具が何もないけどどうして?」
ケンジの部屋には、テレビはおろか、洗濯機や冷蔵庫、冷暖房などの生活する上で普通の人が必要とされる電化製品や家具が何もなかった。唯一置かれているのは、テーブルひとつとその上にあるノートパソコンだけだった。それはまるで、空き家と一緒だった。
「必要としないから持ってない。食事は外食だし風呂も外で入る。それとテレビは受身になって思考が停止するから見ないことにしている」
「あり得ないわ、じゃあここで生活していないのと一緒じゃないの?」
「確かにそうとも言える。でもここへ帰って来ている」
「帰って来てここで一人何をしているの?」
「パソコンを開く以外は特別に何もしない。後は本を読むか、ただ寝るだけだね」
「そんなバカな話ないでしょ。あなたは偽善者よ! とんでもない偽善者だわ」
いきなりケンジに対して沙耶が叫んだ。
ケンジは突然の沙耶の言動に驚くと同時に、その変わりようにどうしたんだろうと思った。正直、今までの沙耶とは明らかに様子が違っていた。
「いいわ、もしそれが本当だとしたら、あなたは自分を取り繕いながら生き長らえている落後者だわ」
「僕が落後者だって? 何の落後者なんだ?」
「たった一人で何をしようと言うの? 生活をしていない人間が一体何を目的に生きているの? あなたは、自分に対する落伍者で、人生の落伍者だわ! あなたのような落後者は生きる資格なんてないわ!」
ケンジはまんまと沙耶の術中に嵌ったと思った。沙耶はケンジへの報復を手ぐすねを引いて待っていた。直接的ではないにせよ、高澤教生を死に至らしめた張本人に対する許し難いことに対して、審判を下すタイミングを図っていたんだ。ケンジは沙耶が罵る声を受けて止め処もなく涙が溢れ出した。どこでどう自分の人生が狂ったのか、もはやケンジの頭の中は、それを解析できないほどに不具合を起こしクラッシュ寸前の状態に陥っていた。
ふと目が覚めた。昨夜飲み過ぎたせいで後頭部あたりに鈍痛を感じる。腫れぼったい眼球の奥に夢の続きの残像が残っていて、考えてもいなかった予想外の話の展開にどうしたことかと思った。僕が意図したものとは全然違う話しになっていったことに、心の不均衡を感じた。ベッドから出て、洗面所へ行き水道の蛇口を思いっきりひねり顔を洗った。テレビのスイッチを入れると、海外からの旅行者が日本に来て、日本の素晴らしい点を述べるバラエティ番組が流れていた。外国人が日本の素晴らしい風景や伝統、食べ物、最先端の技術などを褒め称える。そしてそれを日本人である僕らが見て、日本人であることに満足感と優越感を持つ。番組の作り方も、同じ外国人でも、アジアや中東などのいわゆる後進国からの訪問者と欧米先進国からの訪問者とでは紹介の仕方に微妙な違いがある。前者の場合は、これでもかと日本の先進的優れた点を強調し、それに対し驚きを表現させる。ところが後者の場合は、日本古来の伝統に赴きを置き文化的憧れといった方向性に持っていく。優越感と劣等感が如実に現れていて、日本人の本質は実に欺瞞的な心の持主なのかと思え、嫌気がさしテレビを消した。一昨日から繰り返し見る夢の中の相反する心の不均衡に対して、一度リセットしなくてはと思った。
が、何もしない日々が続く。まるで変化のない思いっきり欠伸をしたくなるような無為無策の毎日を過ごすことになる。ただ単に生きて行くための、生活費を稼ぐだけの必要最小限であるアルバイトのような原稿書きの仕事をし、ただひたすら本を読み、ただひたすら音楽を聴き続け、ただひたすら古い動画を見続けた。目的もなく川岸や公園や通りを歩き続け、たまに喫茶店でコーヒーを飲み、再び歩き続け、家に戻り少しだけ腕立て伏せと腹筋運動をし、そしてわずかばかりの野菜と豆腐をおかずにご飯を食べて、すべての灯りを消した漆黒の闇の中に一人寝て……
僕はもうすっかり考えることを止めてしまっていた。そして何かをするわけでもない。何も考えずに、書いて、読んで、観て、歩いて、飲んで、体を動かして、食べて、寝て…… ひたすらに日々が過ぎていくのをただ淡々と過ごした。結局、テッド・ジェファーソンには原稿が未完のまま完結出来ない由を伝え、ケンジと沙耶のストーリーはデータ毎消去してしまった。時折、ユージからシンガポールでの仕事の進捗のメールが来た。ジェシーからもしばらくボーズマンで生活を続けていくというメールを貰った。それに対して、それは良かったとか何とか、適当に気のない返事をしただけで、それ以上何もアクションを起こすことはなかった。そして何事もない何の変化もない一年が経過した。
そうしたある日の午後、いつものように駅前にある喫茶店へ行こうと、二車線道路に沿った通りの歩道を歩いていた。いつもと変わらない同じ風景だった。歩きながら店の中の様子を覗いて見ると、ベーカリーショップの中は、軽食で済ませようとパンとドリンクを買う人でごった返している。コンビニのレジ前には二列に並んだ人達が行列を作っていた。通りにある多くの飲食店は昼食時を迎え、多くのサラリーマンやOLがランチをしようと行き来していた。と、まさにその時だった。歩道に向かい合う左斜線の車道から歩道へ向かって一台の黒い乗用車が猛然としたスピードで、路肩を乗り越え歩道へ入り、通りを行き交う人々を次々となぎ倒しながら突っ込んできた。怒号と悲鳴が舞い上がる中、その車はたまたま僕が歩いていたすぐ横にあった石柱のモニュメントに猛スピードのままぶつかり、フロント部分のボンネットを、紙細工がつぶれるようにして大破し止まった。僕は、現実に起きていることが理解できず、反射的に座り込んだまま全く身動き出来なくなっていた。石柱との距離は数センチしかなかった。運転していた男は、ハンドルとフロントガラスの間に挟まれ身動き出来なくなっていた。頭から血を流しピクリとも動かない。車のボンネットからは、ぶつかった衝撃で水蒸気とオイルの焦げた臭いが立ち込めていた。目の前の歩道の上には、車に撥ねられその場に横たわっている人が数人、頭や腕、胸のあたりに血を流したまま微動だにしない。僕はその中の一人に声を掛けようとするが、まるで声帯を失ってしまったかのように茫然自失の状態に陥っていた。すぐにその場を動こうとするが、あまりの凄惨さにそれ以上どうすることも出来ず、ただ呆然と座り込んでいた。突発的な現実の出来事に対して、直感的に事態を把握し、理性の命ずるところに従い行動することは困難だった。たとえ事態を認識出来たとしても、それはせいぜい推移していく現実の次の事態を想定し得るだけで、この突発的出来事に対する現実的な手段としては何もなく、ただ自分の力のあまりにも無力なことを感じていた。時間にして数秒間の出来事であった。すぐに救急車とパトカーが大勢駆けつけ、サイレンの音と救急隊員や事故処理係が周囲へ注意を促す大声などで、辺りは騒然とした喧騒に包まれた。
幸いにも無傷でその場に居合わせた僕は、警察の事情聴取のために警察署へ向かい、事の経緯と状況についての聴き取りに答え、三時間後に解放された。目の前で数人の人がなぎ倒されるという悲惨な事故に遭遇し、しばらくは何も考えられなかった。わずか数センチの違いで石柱の間に挟まれていたら、おそらくは即死だったかも知れなかった。しかしながら無傷で生きていた。数センチの違いで僕という存在とそれを取り巻く繋がりが全く異なる世界になっていたかも知れなかった。いや、むしろ数センチの違いで大きく変化したのかも知れなかった。この事故に遭遇して、僕はこの一年間のあいだ、無為無策の生活を続けていたことを悔やんだ。もしこの事故で亡くなっていたとしても、この一年間、僕は生きていないのも同然だった。何も変わることのない、この世に対して何ら影響を与えることのない全く存在感のない、例えて言うなら、ただの無機質な生命体のひとつでしかなかったのだ。やりきれない気持ちが沸き起こると同時に、わけもなく涙が溢れてきた。どうしようもなく涙が溢れ出て止まらなかった。そしてショッキングな出来事に遭遇した放心状態のまま警察署を出て、ふらふらと歩き出した。帰り道の自宅近くから数分離れた川岸を歩いているとき、ふと夕暮れの空を見上げた。水色の空にオレンジ色に染まった雲が見えた。その雲の彼方に突如、キラリと光るものが見えた。それは抜けるような夕暮れの中に煌めく星だった。まさにその時だった。心の内側から突然と駆られる気持ちが湧き起こり、気づけば何処かへ出掛けようとしていた。
無意識の自我が僕を突き動かした。
自宅へ戻るとすぐに、食卓のテーブル廻りはそのままにし、デスクの上もちょっと片付けただけで書類関係やら読みかけの雑誌など置いたままにした。簡単な着替えとノートパソコン、それにUSBに入った写真や映像などのデータを持ち、すぐさま家を出た。通りへ出ると、家路を急ぐサラリーマンの群れが無機質なロボットのようにして、夕暮れの中を突き進んでいる。そしてその群れと逆行するように、両手と頭で掻き分けながら急ぎ足でバスターミナルの方向へ向うと、空港行きのバスが今まさに出発しようとしていた。駆け足で慌てるように飛び乗った。息を切らせながらバスの中へ入ると、疲れ切った一組の年配の男女が乗っているだけで、閑散とした空気に支配されていた。肩掛けバックひとつという軽装で前方の座席に座った。しばらくするとバスはゆっくりと出発し、ターミナルを出てすぐに空港へ向かうバイパスに入った。窓の外に目をやると、数多くのネオンの灯りがバイパス道路の眼下に煌めいていた。
その時僕は、ジェシーに話をしたモンゴル高原での星空のことを思い出した。そこに見えていたはずの星が、まばたきをした瞬間にはもう消えて無くなっている。あの輝いていた星は幻なのか? でも僕の頭の中には、はっきりとした煌めきの残像が確かに残っていた。ひとつひとつの星がそれぞれに光り輝く瞬間があって、それが存在するのは紛れもない事実なのだと。そして必ずや消えてしまうことも事実なのだと。
僕は空港へ到着したバスを降り、国際線ターミナルビルのロビーに表示された出発案内画面のモニターを見た。そこにはこれからまだ出発に間に合う便の表示が映し出されていて、一時間後の十九時十五分発インチョン行きの便があった。急いでチェックインカウンターへ行き手続きを終え出発ゲートへ向かう。そこから先どうするかは何も考えていない。とにかく今は、この地を離れて一旦リセットしなければならない。そう一年前に思ったはずだ。ただそれだけを思った。もはや、そうせざる負えない。
すっかり陽が落ち、街の灯りがともる中を飛行機はゆっくりと滑り出し、幾多の星が輝く夜空へ向かって離陸した。飛行機の窓から眼下を望むと夜空の星をそのまま投影するように、家路を急ぐ車のヘッドライト、数多のビル群の中で残業しているオフィスの灯り、喧騒と歓楽が渦巻く夜のネオン街、夕食をしながらの団欒をする家の電灯、それら沢山の灯りが形を整え煌めいている。闇夜の中を隼のように静かに移動した飛行機はインチョン国際空港へ到着した。僕はひとまず空港到着ロビーの外へ出て、リムジンバス乗り場の前にある喫煙所の所で煙草に火を点けた。煙草の煙を大きく吸い込むと、同時に染み入るような冷気が肺の奥深くに入り込んで来るのが分かった。
今まで何十年も僕は随分と寄り道をしながら生きて来たのかも知れない。そして漠然とした恐れに対しそれを回避することによって、あえて遠回りをしていたのかも知れない。そうせざる負えない、そうしないといけないと自分自身を抑制することが出来ない気持ち、そうした気持ちが起きることに理由などはない。人生を翻弄する不条理な出来事に理由なんてないのと一緒で、自分を抑制出来ないことに理由なんてないのだと思った。僕は、短くなった煙草の煙を吐き出すと同時に、いろんな輻湊する思いを振り払い、ジェシーのいるモンタナへ向かおうと決め、再びロビー内へ入って行った。
トランスフォーム