流浪の星

画策の糸

 児島隆は、昨晩からぶっ続けでパソコン画面に向かっていた。時計の針は、午前四時になろうとしていた。深夜のビル街の辺りから、早朝の準備をしようと出かけていくバイクの音――聞こえる方向から察するに、鮮魚市場の関係者であろう――が流れて行くのがかすかに聞こえる。マウスパッド横に置いてある煙草の箱には、頼りなさそうな二本の煙草しか残っていない。外へ買いに行くのも億劫で、口をへの字にし、左奥歯にくわえている煙草の火がじりじりと顔に近づいてるのもあり、徐々に苛ついて来ているのがわかった。
 昨晩、中洲のなじみのバーで大城ハウス営業部長、山崎桐彦と一緒に飲んだあと、誰もいなくなった会社へ戻り、住宅メーカー十二社で組織する住宅協議会の議事進行――事前に議長である山崎に思惑通り進行してもらうため――のシナリオを作っていた。
 児島は、広告代理店のプロデューサーという仕事をしていたが、実際にプロデューサーの仕事の大半は事前の根回しがほとんどといってもよかった。根回し、すなわち正当に仕事内容の評価を得て仕事を貰うのではなく、担当スポンサーの好みそうな、どちらかと言えば個人的趣味嗜好にアプローチすることによって、スポンサーとの抜き差しならない蜜月を結ぶことにあった。自分の描くシナリオを元に、それに関係する人々を思惑通り意のままにしていく。決して自分が表に立たず、人を媒介して進行していく。児島はそういう風に狡猾に仕事を進行させていくことに生き甲斐を感じていた。時には、わざと失敗し批判を浴びるようなことも巧妙にしつつ、一の失敗を見せておいて三の成功を収めていく。それもこれも全てが彼の計算上にたったことだった。

 その日の午後一時から行われた事務局会議で、議長を務める山崎が住宅メーカー十二社が集まる席上で児島へ訊いた。
 「児島君、これはどういうことだ? 外溝工事を一括事務局で発注して一元管理するというのは」
 山崎桐彦は大手住宅メーカー、大城ハウスの強面の営業部長である。彼の部下は、山崎の吊り上がった切れ目を据えた、般若のような角張った四角顔で叱責されると、否応なしに竦み上がる。そんな山崎だが、児島に対しては、今回の大型団地の販促計画に関し全幅の信頼をおいていた。そうして山崎が発した質問は、もちろん前夜の打ち合わせどおりのことであった。
 「そうですね、通常であれば住宅メーカーの方々が、個々に外溝工事業者へ発注することになるでしょうけど、今回は国土交通省の推進する住宅政策のひとつ、日照の確保をするための基準づくりに、こちら側サイド、つまり事務局側で管理する設計事務所で一元管理をし、市の建築局へ書類審査を提出する必要性があります。そのための事務局からの一括発注ということです」
 冷静に考えれば、市の建築局との対応は設計事務所で一括するにしても発注は別である。児島はこともなげに答えた。いわば、一元管理という伝家の宝刀を武器に、否応なしに屈服させようという魂胆である。さらに児島は説明を続ける。
 「それと、今回の住宅計画は、いち住宅メーカーの問題だけでなく、街並みづくりが基本ですから、Aという住宅の日照を確保するために、その敷地の配置をすることによって隣地との住宅配置の調整をしないといけないようになってきます。当然ながら外溝工事業者も住宅メーカーと個々に調整しても折り合いが難しく、設計事務所を通しての調整が必要になります」
 もっともなことであった。もっともなことではあるが、発注を一元化することとは別である。児島の説明を聞いていた面々は、もっともらしい説明を受けて、本当に理解しているのか甚だ疑問ではあるが、納得の面持ちをしようという雰囲気に支配されつつあった。おおよその形勢が一方へ傾きだすと、そこで異論を唱え翻すことは相当な労力とそれ相応の対抗論が必要となる。児島には、確固たる自信の裏づけがあった。それは、出席者全員が所詮サラリーマンであり、最終的には自腹を切るわけではなく、会社として右へ倣えをすることが、今後の会社運営を円滑に進めることになる、ということに誰も異論を挟む余地はないと確信していた。会社の金ではあるが誰の金でもない、というおかしな感覚がサラリーマンの習性として誰の中にも巣食っていることを確信していたのである。
 そうして、児島の煙を巻く説明を受けた会議の出席者全員は、児島の描くシナリオ通り外溝工事の事務局一括発注に同意した。事務局長は大城ハウスの山崎がやっていたが、実際の事務局の運営は代理店である児島の会社が運営していた。事務局からの発注は、実質は児島の手中にあったのである。

 会議の結果を受け、早々に外溝工事業者数社から合い見積もりを取り、その中から最も安く実績のある業者が選ばれた。ところが元々、数社からの合い見積もりなどは取っておらず、児島が選んだ業者に合い見積もりを用意させておいた。事務局からの発注に関しては、すべて児島の会社が一旦事務局運営費から受注をし、運営費を利益として取った上で、業者へ外注をする形を取っていた。つまり、事務局からの発注はすべて児島の会社が利ザヤを生むという構図が出来上がっていたのである。通常は、広告代理店である児島の会社が専門外の住宅建築の外溝工事を受けることは本来ありえないことであるが、実際には事務局発注という形を取っていたために出来たことである。1区画平均三百万円ぐらいの外溝工事で大型団地すべての受注をするとなると、三百区画×三百万で九億円の金額になる。利益五パーセントとしても四千五百万円の利益である。児島は、ここで全体のこの大型団地開発に伴う事務局運営に係わる会社売上のパーセンテージを鑑みて、全体で十五パーセントの利益を確保すれば会社的には良しとするであろうことがわかっていた。すでに会社への見込み数字はそれで報告済みで社内で承認されていた。つまり、この外溝工事の売り上げを含め十五パーセントの利益を確保すれば、それ以上に生じる利益は児島の仕事として会社への貢献をしなくとも責任を問われることのないことで、あとは意のままに如何に個人の利益として生み出すかということであった。

 児島隆には、二つ年下の美和子という妻がいた。美知子は外交的性格で、家にじっと閉じこもっているタイプではなく、次から次へと趣味や自らの仕事に動き回っていた。児島の仕事に関しても、とかく口出ししてくる始末であった。
 「最近帰りが遅いけど、何か仕事が忙しくなってるの?」
 「うん、ちょっとね。大型団地の仕事が始まってから、その準備で忙しい」
 「へえ、大型団地ってどんなことやるの? 住宅を売ったりするのかしら?」
 美和子は、お金の臭いには敏感であった。
児島は、しまったと思いつつも、言ってしまった手前引っ込みがつかず、また色々と口出ししてくるのかと思ったが、しょうがなくちょっとだけ話すことにした。
 「そう、大型団地で住宅販売することになって、その販売計画やらでうちの会社でやることになった」
 「ふうん、そう。それは大変だわねえ」
 意外やあっさりとそれだけ言って、そそくさと台所へ消えた。ところが、しばらくして案の定、再び聞いてきた。
 「あなた、さっきの仕事の件だけど……」
 また始まったと児島は思った。何でこうも夫の仕事に口出してくるのか……
 「うん、どうした?」
 「いや、別にどうということじゃないけど、これは千載一遇のチャンスじゃないかなあと思ったのよ」
 「どういう風に?」
 普通の主婦が口出すようなことじゃないだろうと思いぶっきらぼうに答えた。
 「大型団地がどれだけあるかよく解からないけど、やっぱり大きなお金が動くでしょうから、それがチャンスじゃないかと思って……」
 「いや、言ってる意味がよくわからないけど」
 「人生にはそうそう大きなお金の動きに巡りあうことはないということ。だからこのチャンスを上手く掴むことが大事ということよ」
 美知子は抑揚した声で、選挙演説をするように拳を握り締めながら言った。こういう時の美知子は止めどもなくしゃべりまくる。結婚してから十年になるが、美和子は五年程前から時々躁状態になることがあった。躁状態の時、美和子の眼は異常な輝きを放ち出す。美和子は、しばらくその話を延々と喋りつづけた。確かに、今回の仕事は児島の仕事の中でも、売上的にも巨額のお金が動く仕事である、というのは彼自身よくわかっていた。しかし、それは児島のサラリーマンとしての立場で仕事を成立させるだけのことであり、美知子の言うチャンスを掴むという話は全く別の話である。あえて美知子は言わなかったが、それは会社に対して背任を働いても良いということではないのか? チャンスを掴むというのはそういうことを言ってるのか? 妻ながら悪魔の囁きだなと児島は思った。
 しかし、裕福な家庭でもなく、特別な才能があるわけでもない、そういう人間にとって人生を劇的に変えるチャンスはそうそう巡り合うことが無いというのも事実である。バイオリズムのグラフのように、万にひとつのチャンスでプラスに転じるか、そうでなければ、プラマイゼロの領域をずっと続けていくか、やがて朽ち果てて下がっていくかそのどちらかである。児島は、劇的なプラスの人生でなければ、プラマイゼロもマイナスも一緒のことだと思った。

 児島の勤める博広は総合広告代理店として、媒体を中心に営業展開する地方の中堅どころの会社であった。児島は、地元の私立大学を出てその博広へ就職。営業として配属され、入社三年目からメインスポンサーである大手住宅メーカーの大城ハウスを担当しだした。その大城ハウスの宣伝担当が山崎桐彦であった。最初の頃は、強面の山崎からちょっとしたことで叱責、罵倒されの連続であったが、児島の地道な献身もあり大城ハウスにとって多大な販促結果を生み出していき徐々に信頼を得ていった。そうして山崎との付き合いも三年目になったころ、一緒に昼食を取っていた時のことであった。
 「児島君、実は今度大きい開発がある」
 山崎は周囲を憚るようにして身を乗り出して言った。
 「開発ですか、どういった……」
 「うん、福岡市の郊外になる春日市の奥に塚原台というところがある。そこは今は山林地帯だが、なだらかな山林で春日市がすでに周辺の地主から買い取って大手ゼネコンへの売却も話がついてる。春日市としては、福岡市のベットタウンとして売り出そうとしているわけだ」
 「そうですか、それはまた大きな話ですね」
 「うん、で、君は確か春日市役所に通っていたよね」
 「ええ、春日市役所の文化財保護課というところですけど」
 児島は質問の意味がよく解からないまま答えた。
 「うん、その文化財保護課だ。そこに行ってその塚原台地区に歴史的に見て文化財出土の可能性がどれくらいあるかどうか、その探りを入れて欲しいんだ」
 「どういうことでしょうか?」
 児島は相変わらず、よく質問の意味を掴めないでいた。
 「つまりだね、大型開発で宅地造成をするにしても途中で文化財の出土があると造成工事がストップされる。一旦ストップされると工事を再開するまでの見通しは、その文化財保護課の出土品鑑定の期間に委ねられ、それまで待たないといけなくなる。そうなるとゼネコンは開発に係る造成工事の資金繰りに頭を悩ませることになる。だからその見通しをつけておきたいわけだ」
 「そうですか、その情報を持ってゼネコンへの営業を有利に進めようと言うわけですね」
 「そうそう、さすがは児島君、理解が早い」
 山崎はそう言って児島の肩を鷹揚に叩いた。それが児島にとっての歯車の狂いの始まりだった。

 山崎から相談があるという電話があったのは、夕方の五時を少し過ぎた頃、年の瀬の慌ただしい時間だった。電話を受けた児島は、いくつかの案件を手早く処理し、明日以降の件に関しては素早くメールを送り、指定された場所へ出かけるために慌ただしく会社を出た。オフィスを出て地下鉄入口の階段を下り、夕方の人混みを掻き分け小走りで改札へ向かい、地下鉄のホームに立ち入ってくる電車を待った。目の前には、大分観光ホテルの”歳末緊急お得プラン!”と書いた広告電照板があった。その隣りには、携帯電話会社の”定額割引料金”を大きく書いた広告があった。児島は、どこを見渡しても広告で支配されてしまっているな、と思った。山崎の指定した場所は、博多駅筑紫口にある都ホテルの二階にある喫茶だった。
 「おう、来たか」
 珍しく先に来ていた山崎が、喫茶奥の席から手を上げて児島を大きな声で呼んだ。
 「どうもお待たせしました」
 児島は、約束の時間通りではあったが、山崎に対しそう答えながら小走りに席についた。
 「その後どうですか? 春日の件は」
 「うん、それなんだがねえ…… 君のお陰で文化財保護課の情報をきっかけに上手く入りこめたんだが、君もよく知ってのとおりゼネコンとの付き合いというのは結構なこれが掛ってねえ」
 山崎は親指と人差し指で丸を作りながら暗に諭すように言った。
 「なるほど、まあそれはそうでしょうねえ」
 児島は同調するともしないともとれるよう曖昧な相槌をうった。
 「まあ、必ず三人程連れだってくるから、それが会食をしてクラブなんぞを梯子しただけで軽く十万はかかる」
 「いや、そりゃそうでしょう」
 尤もだと言いたいところだが、早く結論を言ってくれとばかりに何度も頷いて見せた。
 「うちも大手住宅メーカーなどと言われてはいるが、実際のところ交際費が湯水の如くあるわけじゃなし、かと言ってここが勝負どころだからな、簡単に断るわけにもいかない」
 「いや、そりゃもうごもっともです」
 何度も頷きながら、要はお金をどうにかしたいとの相談だなとは思ったが、こちらからそれを先に言うべきではないと思った。そこまで悠長な雰囲気で話していた山崎は、ここからが核心だと言わんばかり突然身を乗り出して、児島の鼻先に顔を近づけながら言った。
 「ところで君のところの会社の定款はどうなってる?」唐突に山崎が聞いてきた。
 「はっ、会社の定款ですか?」
 児島は、急に近づいてきた山崎の脂ぎった顔に耐えきれないのもあって、思わず仰け反りながら答えた。
 「広告代理店ですから広告宣伝に関すること全般ですが、主にテレビ・ラジオ・新聞・雑誌のいわゆるマス媒体、それにWEB広告、交通広告・屋外広告などのSP媒体、そしてCM制作、デザイン、マーケティング調査、それから…… あと全く関係ないですけど塩の販売なんかも定款に入ってました」
 そこまで澱みなく喋っている途中でそれを山崎が遮るように言った。
 「そんなことはどうでもいい。住宅の外溝工事はどうなんだ、扱えるのか?」
 「はっ、外溝工事ですか? あの、住宅の周りの、植栽の、門扉とか、敷き石とか……」
 児島は脈絡なく単語を並べた。
 「君の会社で、その外溝工事の受発注が出来るかどうかと聞いているんだよ」
 山崎は先を急ぐように言った。
 「そうですね…… 広告代理店、というのは、主な仕事が広告の代理ですけど、一口に広告といっても広義の意味で言えば法に反すること以外はなんでも代理するのが常ですから…… それもありなんじゃないかと思いますが」
 「そうか、つまり大型団地の販促プロモーションの一環として、外溝工事を請け負うことも可能ということだな」
 山崎は興奮気味に勝手な解釈をしてたたみ掛けて来た。
 「ええ、そうですね、外溝工事…… 外溝…… 例えばその外溝工事に対して共通のデザインや設計管理の枠組みを作るというのはどうでしょう」
 「そうそう、それだ! 面白いねえ」
 「そうですよね。それだと市の建築局計画課あたりも統一ルールによる街並みづくりという好みの話になって、後押ししてくれるんじゃないでしょうか」
 「うんうん、その通りだ。ちょっとね、その街並み統一の線で企画書を作ってくれないかね」
 「それを前提に開発計画を提案する、そういうことですか」
 「そうだ。国土交通省の推進する街並みづくりに合致した大型団地の開発で市のお墨付きをもらって販売を有利に進められる、そういうプレゼンテーションが出来る」
 山崎は不敵な笑みを浮かべながら、確信めいた口調で言った。
児島はそこまでの話を聞いて、おぼろげながら全体の図式を構築し始めていた。児島は、唯一企画力に秀でていた。特に、散らばっている事柄をまとめて新しいものを作りだす、何も無いところから新たなことを作りだす、そういう企画力だった。今回の件に関して言えば、街並み統一ルールという新しい試みがそれであり、行政指導の元という絶対的お墨付きをもらった上での企画に対しては、誰もその領域に踏み込むことは出来ない、言わばパテント営業のようなものであった。

 都ホテルを出て、二人はタクシーを拾い運転手に中洲目抜き通りにある多門ビルの名前を告げた。この日は、たまたま中洲祭りが行われる時期で、今日が祭り二日目の女太鼓が中央広場で繰り広げられるとあって、中洲の街中は、いつもと違った観光客も集まり賑わいを見せていた。
 「こらあ進まんですねえ、どうします? 急ぐんだったら土居通りから廻って、川端あたりから歩かれた方がいいかも知れませんよ」
 タクシー運転手が気を利かせて言った。
すでに、中洲の中心街へ向かう駅前通りは、車の列で大渋滞を起こしていた。
 「どうします、部長?」
 児島は山崎がやや腰を浮かし気味なのを見て即座に言った。
 「うん、そうしようか」
 「あっ、じゃあそうして下さい」
 児島は、いつも行く”クラブよしの”に山崎のお目当ての子がいることを知っていた。
その子は源氏名が享子と言って、色白で目元がやや垂れ気味ではあるが、こじんまりとした顔で年は二十八歳であったが、二十歳そこそこにも見える顔立ちであった。享子はお店の中でも一、二番を争う人気嬢で、二十時過ぎとかに行くと決まって誰かお客に就いていた。時計の針は十九時半を廻っていた。
 タクシーは国体道路から土居通りに入り、櫛田神社の横を通り、冷泉公園前を左に周り突き当りの川端商店街の手前で止まった。二人がはやり気味にタクシーから降りて中洲へ入って行こうとしたその時、後ろから山崎を呼ぶ声が聞こえた。
 「あれ、山崎さんじゃないですか」
 二人が振り向くと、大城ハウスと共同分譲でいつも一緒になる三島ホームの営業課長、浅沼俊夫が立っていた。山崎は、チッと舌打ちした。
 「ああ、浅沼さん、今からですか」
 山崎は外交的なにこやかな顔で、ぐい飲みをするジェスチャーで答えた。
 「ええ、まあ下っ端ですから上司の誘いですよ」
 浅沼はそう言いながら、横目で児島の顔をチラッと見た。
三島ホームは、全国的に建売住宅の販売を手掛け、プレハブ建築ではナンバーワンの実績を誇る。住宅の設計・製造・販売・施工を行っている日本を代表する住宅メーカーである。浅沼の言う”下っ端ですから”という言葉は、地場企業である大城ハウスの山崎にとって、”あなたは部長だけどわたしは課長ですから、でも三島ホームのね”という皮肉にも聞こえた。
 「おやおや、大変ですね、それじゃ」
 山崎は社交辞令的に答え、簡単に手を挙げて別れた。児島は、山崎の後を追いながら聞いた。
 「いまの三島ホームの浅沼課長でしょう?」
 「うん、そうだな」
 山崎はそれだけ言うと、苦虫をつぶしたような顔で目的のビルへ急いだ。

 ”クラブよしの”へ入ると、入口近くのボックスにいたママ、佐和子が満面の笑みを浮かべ出て来た。
 「あらあ、山崎さん、今日あたり来られるかと思ってたんですよ」
 佐和子は、新人のホステスが山崎のコートを脱がせようとするのを制して、自らそれを取りながら猫なで声で答えた。
 「享子はいるかな」
 山崎は、早々に聞いた。
 「あっ、享子ちゃんでしょ? いまちょっとお客さん付いてるけど、すぐに行かせますから。どうぞどうぞ」
 二人は佐和子自らの案内で店内が見渡せる奥のボックスへ案内された。すぐにホステス三名がボックスに付いた。山崎と児島は、それぞれ席についた子と他愛もない話をしながら、お目当ての享子が来るのを待った。十五分程して、入口のドアが開き、ひとりの男が慌てて入ってきた。
 「あっ、部長、さっきの浅沼さんじゃないですか」
 児島は入ってきた男の顔を確認して山崎へ向かって言った。
女の子と話し込んでいた山崎は弾かれたように入口を見た。川端商店街の入り口ですれ違った浅沼だった。浅沼は、黒服を着たボーイの招きで左奥にあるVIP席のドアを開きながら入っていった。
 「浅沼さん、待ってたんですよう」
 奥から聞き覚えのある享子の声が聞こえた。それは山崎にもはっきりと聞き取れる声だった。よりによって、享子の先客が三島ホームの浅沼だったとは。児島は、山崎の顔を窺いながらまずいなと思った。児島は、トイレへ立つふりをして佐和子のところへ行った。
 「いま入って来た人、三島ホームの浅沼さんでしょう」
 児島は、佐和子に耳打ちしながら言った。
 「あら、よくご存じねえ? そうね、同業者ですもんねえ」
 佐和子は事情を知らずにこやかに答えた。
 「あの人よく来るんですか」
 「ああ、あの方は二回目。先にいらっしゃってる樺山建設の所長さんのご紹介でいらっしゃってから」
 「そうですか。で、享子ちゃん指名ですか」
 「ううん、享子ちゃんは浅沼さんがご指名されて。もう少し待って下さいね。すぐに行かせますから」
 佐和子は申し訳なさそうに満面の笑みを浮かべながら言った。児島は席へ戻るなり山崎へ耳打ちしながら言った。
 「樺山建設の所長が来てるみたいです」
 「なに、樺山建設?」
 一瞬、山崎の表情に動揺の色が走った。
樺山建設は、大手ゼネコンのひとつで今回の春日市大型団地開発へ参画している共同事業体の一社だった。共同事業体であるが、まだどのゼネコンがリーダーシップを取っていくのかは明確ではなかった。三島ホームの浅沼は、その一角に早くも唾をつけていた。

 享子が山崎の席へ来たのは三十分後だった。
 「ごめんなさい。先客の予約が入っていて」
 享子は山崎の水割りのグラスを取り、氷を入れながら言った。
 「しょうがないですよ、享子ちゃんは人気者だから」
 児島は、山崎の手前フォローするつもりで言った。
 「さっきの客は誰が指名してきたんだ?」
 山崎はグラスを受け取りながらさりげなく享子に聞いた。
 「えっ、ああ三島ホームの浅沼さんって方。最初から指名だったから私も誰かのご紹介ですかって聞いたんですよ。そしたら、いや一番人気って聞いたんでとか言って。私もそれ以上は聞かなかったんですけど……」
享子は浅沼が指名した理由をちょっと得意気に言った。
 「ふうん、そうか……」
 山崎もそれ以上は聞こうとはしなかった。

 児島へ浅沼から会って相談したいとの電話があったのは、年明けの挨拶廻りも一段落して七草粥の頃だった。浅沼の三島ホームとの直接の取引はなかった。
 「あっ、明けましておめでとうございます。昨年は色々とお世話になりまして」
 児島は、特段お世話になってはないのだが、形式上の挨拶を述べた。
 「いやいや、こちらこそ。博広の児島さんにちょっと相談したいことがあってね。近くに来てるもんだから、時間が取れればと思って」
 浅沼は、いつもの調子で妙ににやけた口調で言ってきた。児島としては、メインスポンサーである大城ハウスの商売敵でもあるし、忙しいからと言って口実を作ることは可能だったが、暮れのクラブよしのの件もあって、探りを入れてみようというつもりで誘いに応じることにした。
 場所は、博広の入っている天神にある日本生命ビルの裏手にある喫茶”ゲイン”だった。
児島が約束の時間十四時ちょうどに”ゲイン”へ入って行くと、浅沼は一番奥のテーブルに座ってパソコンを開き何やらカタカタと両手をせわしなく動かしていた。浅沼は、児島が近づいて来たのにはっと気づき手を休め、縁なしの眼鏡を鷹揚に右手で上げ顔を向けた。
 「やあやあ、児島さん、どうぞどうぞ」
 浅沼は児島へ向かって、手招きで向かい合わせの席を勧めた。
 「失礼します」
 児島は手短に挨拶し、会釈しながら座った。
 「どうですか、広告代理店さんは。年末年始もお忙しいんでしょう」
 「いや、月並みな行事に振り回されてばかりですよ」
 「まあ、それが代理店さんの仕事でもあるでしょうからねえ」
 児島は、当たり障りの無い挨拶がわりの会話も浅沼の口から発せられると嫌味っぽく聞こえるなと思った。ウェイターに注文を告げると、早々に切りだした。
 「ところでご相談というのは?」
 「いや、すぐにどうこうという話ではないんですがねえ、例の春日の件、ご存じでしょう」
 「ええ、詳しくは知りませんけど、ある程度は」
 「いや、あなたが大城さんと好意にしていることは承知の上でなんですけどねえ」
 語尾を長く伸ばす浅沼の喋り方は粘っこい納豆のようで心地よいものではなかった。
 「その春日の件で、大城さんと手を組まないといけないかなあと思ってるんですよ」
 相変わらずにやけた口調だった。
 「はあ、そうですか」
 児島はあくまでも第三者的にそっけなく言った。
 「それでね、児島さんにその辺のところをお願い出来ないかなと思って」
 妙に遠回しな言い方をしてるが、要するに大城ハウスとの橋渡し的なことを児島に頼んでいるらしいことはわかった。
 「ええっと、具体的にいいますと? どういうことでしょうか」
 児島は率直に聞いた。
浅沼の狙いは、今度の春日市の大型開発に関する販売計画に係ることになるであろう事務局運営のことであった。

 福岡市内の住宅メーカー十二社でつくる福岡住宅協議会は、福岡市内の住宅開発を進めるにあたり、郊外へと移りつつある大型開発での住宅販売を、住宅メーカーそれぞれが一社ずつ個別に関わろうとすると、広告宣伝費や現場での受け付け体勢など重なり合う部分が多いということから共同で進めようということで発足した。それに係る経費を十二社それぞれが出し合ってトータル的にやろうというものである。トータルですすめるためには、その運営をまとめる事務局的な役割をするものが必要であるが、それを各住宅メーカーから選抜するとなると、通常の営業活動にも影響するし、ましてそれ専門に人を出すことも難しい。じゃあどうするかということで、それを一括して広告代理店へお願いしたらどうかということになったのである。
事務局運営に広告代理店を据え、建物配置・外溝設計をする設計部会、工事のスケジュール管理をする建設部会、広報計画・宣伝広告をする広報部会、予算管理運営をする総務部会と分けて、それぞれの各部長に住宅メーカーの担当を置き、一定の部会を開き決議を取りながら運営していくのである。もちろんこういったシナリオづくりは児島が描いたものであった。浅沼が言うには、その運営の要に一枚加わりたいということだった。
そこまでは、分かったが具体的な内容は要領を得ないもので、浅沼がどういう意図で児島に接触を図ってきたのか、その真意がいまいち児島には掴めなかった。しかし、改めて児島に接触を図ってきた以上は、大城ハウスと協調し甘い汁を吸おうという魂胆であることに変わりはなかった。
三島ホームは、全国大手の押しも押されぬ住宅メーカーではあるが、地場大手の大城ハウスの福岡での実績と発言力を抜きには十二社をまとめていくことは難しいということを充分に理解していた。まして、今回のような大掛かりな開発において巨額の金が動くとなると、外様である三島ホーム一社だけでどうなるものでもないというのも理解していた。それだけに大城ハウスとの協調を図ることが重要になってくる、そう浅沼は睨んでわけである。

 「いや、別に具体的も何も、ただ大城さんとは仲良くしていこうと、ただそれだけのことですよ」
 「それならば、別に私でなくとも浅沼さんの方で直接、山崎部長にお話しされていいんじゃないでしょうか」
 「いやいや、それを児島さんの口からお願いしたいわけですよ」
 浅沼は、含みのあるにやけた口調で言った。
俺に三島と大城が既成事実として手を組んでいるということをわからせることが、どういう狙いに繋がるというのだろうか?
児島は釈然としないながらも一応この場は、聞いておこうと思った。
 「わかりました。まあとにかく浅沼さんの意向は山崎部長へお伝えします」
 「うん、そうしていただけるとありがたい。あっ、ここは私が払っておきますから」
 用件が済んだからとでも言いたげに浅沼が伝票を手繰り寄せたので、児島は、お互い分刻みの仕事をしているだろうからと挨拶し喫茶店を出た。児島は、オフィスへ戻らずに明治通りに出てからタクシーを拾い、運転手に大城ハウスのある博多駅前を告げた。

 児島は、受付に急な訪問の旨を告げ、通された応接室で案内嬢の入れてくれたお茶をすすりながら山崎を待った。しばらくすると、応接室のドアを叩く音がし、山崎が慌ただしく入ってきた。
 「どうしたというんだ? 急な話でもあるのかね」
 山崎は応接室のソファにドカっと座りながら鷹揚に聞いた。
 「ええ、実は……」
 児島は、かしこまった姿勢で浅沼との話の経緯を伝えた。
話を聞き終えた山崎は、焦点を窓の外の博多駅が見える方へやりながら煙草をくゆらせていた。
 「なるほどね…… とらえどころのない相談ねえ。あいつの考えそうなことだ」
 そう言いながら、短くなった煙草を苦々しげに灰皿に押し付けた。
 「と、言いますと?」
 児島は、山崎が機嫌悪そうにしているのを承知で聞いた。
 「もちろん、今回の春日の件にがっちり入りこもうという算段だろ」
 「先日、"よしの"にいらしてた樺山建設の所長さんに近づいているみたいですしねえ」
 「まだ、ゼネコンはどこがリーダーシップをとるかは決まってないが、樺山が有力であることは間違いない。そういう意味では浅沼は目ざとい」
 「それで、山崎部長と共同戦線を図って行こうということでしょうか」
 「全国ネットの住宅メーカーの中では、三島の意見が優先される。ところが、地場は私のところだ。その両社が協調すれば、全社の意見を統一できると読んでのことだろうが……」
 山崎の頭の中がぐるぐると廻っているのが見て取れた。
 「なるほどですねえ…… そうですか」
 児島は、博広としての立場も大城ハウスあってのことだが、三島が絡んで来るとなると三島のメイン代理店であるナショナルエージェンシーが出て来ることになると思った。大城が三島と共同戦線を図るとなると、博広とナショナルの住み分けが必要になってくる。
 「そうなるとだね、何もかもがガラス張りになってしまう可能性がある」
 山崎は思っても無いことを唐突に言いだした。
 「えっ、どういうことですか」
 「分からんかね、先日言っていた外溝工事の件だよ」
 山崎は含みを持ったような様子で身を乗り出して言った。
 「と、言いますと…… つまり……」
 児島は、発注金額操作のことだと理解したが、それを口に出して言えなかった。
 「そう、そのつまりだ。だから浅沼とは深く関われない。彼に事務局運営に絡んでもらっては困るんだ。わかるかね」
 山崎は念を押すように言った。
 「そういうことだから、君からは適当に断りの口実を言っといてくれ」
 「そうですか。わかりました。でもどうやって」
 「どうとでも言えるだろう。うまくやってくれ。それよりも企画書の方の進捗はどうだ」
 「ええ、今週中にはお見せできると思います」
 「そうか、急いでくれよ。出来あがったら早々に動きたいからな。浅沼に先駆けされんようにせんとな」
 児島は、了解の会釈をして大城ハウスの応接室を出た。
一月も中旬というのに、外へ出ると汗ばむような錯覚を覚えるぐらいの気温だった。博多駅前のイルミネーションが、煌びやかに光っていた。賑やかな夜の雑踏の中、児島の頭の中でいくつかの断片が形になろうとしていた。どうしたものか? 浅沼に口実を作って言うのは簡単だが、そうそう簡単に諦める相手ではないように思えた。いっそのこと逆に利用した方が、山崎への足枷に使えるのじゃないか。児島にとっては、山崎も浅沼も児島が描くシナリオの登場人物のひとつだった。

 児島は、街並みルールの企画書づくりを急ぎ進めていた。基本的には、設計事務所での設計図を元に作るのだが、統一ルールでの基本草案は児島の方で作ることになった。TIM建築設計事務所の真中幸彦から連絡があり、外溝工事の統一ルール案が出来たとのことで、児島は早々にTIM建築設計事務所へ向かった。TIM建築設計事務所は、大濠公園の西側、大使館などが多くある住宅街の中にあった。
 「早かったですね。でも大変だったでしょう」
 児島は、真中の労をねぎらい言った。
 「一応、ガイドルールに従い作りました。共通事項は、玄関から門扉までの敷き石、門柱、門扉、外灯、そして低木によるオープン外溝にして解放感を出します。南面からの日照時間が充分取れるよう隣地の建物配置を考慮しています」
 「なるほど、これで各メーカーの設計に対して何か制限はありますか」
 「一定の日照時間を確保するため建物の平米数に一定の制限を設けないといけません」
 「外溝工事は平均単価どれぐらいになりそうですか」
 「そうですねえ、大凡二百五十万円前後じゃないでしょうか」
 真中の答えに、児島は総区画数を掛けて暗算してみた。二百五十万円として七億五千万円、三百万にすれば九億もの金額だった。美知子の言葉が頭をよぎった。大きなお金が動く、それ事だけで言えばそうそう人生で巡り合うことのない金額である。やはり、浅沼の狙いはこの九億の利益配分に対する執着なのだろうか。児島は、真中に対して礼を言い事務所を出た。

 博広の福岡での今期売上扱高は、二百億ちょっとで県内で三位である。そういう意味からも、今回の春日の件は期待出来る案件として児島としても何とか上手く手中に収めたい思いであった。会社としても児島の報告を受けて相応の期待を寄せていた。これが上手くまとまれば、来期は一躍県内トップの代理店として踊り出ることができるし、児島への評価も一段と上がるはずである。ここで浅沼にいろいろと画策され、競合代理店に売上を持っていかれたら目もあてられない。早急に山崎と対応策を講じないといけない。児島の中でそういう思いが沸々と湧いていた。

 問題は、協議会の事務局長を誰に据えるかということであった。協議会の運営そのものは担当する代理店に委ねられるとしても、その都度の議案に対して思い通りに事を進めるためには事務局長の了解無しには出来かねることである。つまり、事務局長がいかに代理店の意のままに動いてくれるかであって、そのためにも事務局長は大城ハウスの山崎以外考えられないことであり、要は、事務局長を山崎にすることに対して、如何に協議会全社を納得させるかであった。児島は山崎推薦派を作るために個別に切り崩していくことにした。全国大手と地場の合わせて十二社ある中で、最低三分の二の八社確保すれば、ああいった会議の席での決定事項は、賛成多数の原理が作用すると確信していた。地場六社は、大城ハウスからの根回しで何とか同意を得られる。問題は、全国大手からあと二社引き入れないといけない。そこまでを考えて、児島は山崎の元へ対応策を相談することにした。

 西中洲にある料亭"きく華"にいるという山崎の誘いを受けて、児島は立ち寄り先の福岡市役所を出て、そのまま西中洲へ向かった。誘いというのは、つまりは博広がその支払いをするということである。"きく華"は、西中洲の那珂川沿いにあり、個室がある部屋からは中洲の夜のネオンが一望出来る。中洲の酔客の喧騒とタクシーのクラクションを鳴らす音が聞こえていた。児島が"きく華"に着いて、女中の案内で二階奥の座敷へ行くと、山崎が上機嫌で女中と話し中であった。
 「おう、来たか。まあ座りたまえ」
 児島は、軽く一礼すると山崎の向かいの下座に正座して座った。
 「山崎部長、実はあれから浅沼さんの件、色々と考えたんですが」
 「ああ、どうなってる」
 山崎は、部屋にいた女中に席をはずさせ、ぶっきらぼうに言った。
 「浅沼さんに対抗した場合のリスクと協調した場合のリスクとを考えてみたんです」
 「うん、それで」
 山崎は、目の前の"かますの塩焼き"を箸でつまみながら児島へ聞いた。
 「双方多々問題はあります。しかし絶対条件として、プレハブメーカーの賛同を得られないことには始まりません。まずは、その点をクリアにして、その後に浅沼さんとの問題を片付けたらどうでしょう」
 山崎の箸を持つ手がピタリと止まった。
 「浅沼と手を打てということか」
 山崎は、鬼瓦のような顔をいっそう強張らせ、ギョロリとした眼を見開いた。山崎の強面の顔には、児島も慣れてしまっていた。
 「ええ、それで浅沼さんと協調した場合のリスクなんですが、おそらく三島ホームの狙いは、建売住宅販売の際の注文住宅用地を出来るだけ多く確保したいというのが本音ではないかと思います」
 「それはどこだってそうだろう。うちだって一区画でも多く確保したい」
 「それともうひとつ、部長も心配されていた事務局運営のことですが、三島ホームが全面に出るとなると、ナショナルエージェンシーとうちとのJVを条件に出してくると思います」
 「だったら、君のところが主導権を取って、ナショナルを丸め込んだらいいだろう」
 ナショナルエージェンシーは、三島ホームをメインクライアントにした代理店で、規模的には博広よりもずっと小さかったが、そこの営業部長に三宅修二という男がいた。
 「ナショナルの三宅と話さないといけません」
 「三宅か、あいつそういえばこの前"よしの"に来てたな」
 「えっ、三宅も"よしの"に行ってるんですか。まあ浅沼さんも行ってますからね」
 「うん、ひとりじゃなかったな、確か何人かと来てたようだが」
 児島は、早速ナショナルエージェンシーの三宅に連絡を取ることにした。

 ナショナルエージェンシーは、高宮通りと百年橋通りの交差する少し北側の平尾一丁目にあるやや古ぼけたオフィスビルの中にあった。エレベーターを使わずに階段で二階へ上がり事務所の打合せ室で三宅を待った。打合せ室の中は、雑誌や資料などがテーブルの周りに雑然と積まれ、天井角にあるJBLのスピーカーからは、場違いな”ザ・ブーム”の”風になりたい”が小さく聞こえていた。
 「お待たせ。どうですか、最近は」
 三宅は、ダークスーツに身を包みスラリとした一七五センチある身体をしていた。ベリーショートの髪型で眼鼻立ちの濃い顔に黒縁の眼鏡を掛けている。
 「相変わらず忙しいばかりで儲かりませんよ」
 児島は、決まり文句の社交辞令で答え、出されたお茶に口をつけた。
 「実は、春日の件ですけど。先日、三島の浅沼さんから相談がありましてね」
 児島は、早々に切り出した。
 「ああ、聞いてますよ。児島さんに相談してるからそっちで上手くやってくれと」
 やはり、思ったとおりだった。すでに三宅に話が行っていた。
 <色々と画策してくる三宅のことだ。迂闊なことは言えない>
 「で、大城の山崎さんとも相談したんですが、やはり三島と大城が中心に進めていくのが一番じゃないかと」
 ここは敢えて三宅の思惑通りに話を進めていくことにした。
 「そうでしょうね。実際、他のメーカーは社員の頭数から言っても住宅販売の営業以外に手がかかることには躊躇すると思いますよ」
 三宅は、上着の内ポケットからマールボロメンソールを出して、フィルターをトントンと机の上で叩きながら答えた。
 「まあそれで、代理店側も上手くやってくれと言うことですけど」
 「ええ、基本的にはそういうことでしょうね。あとは色々と調整しないといけませんけどね」
 調整、つまり各々の取り扱いマージンをいくらにするかということである。やはり、児島の思ったとおりであった。三宅は事務局運営に関して浅沼から運営費のマージンに関して調整するように指示を受けていた。山崎、浅沼、三宅、そして児島。この四人が事務局運営に関わり、各々の思惑で画策しようとしていた。

 博多駅前にある日航ホテル博多の会議室で、住宅メーカー十二社を集めた春日市大型団地開発に伴う実行委員会が行われた。議題のひとつである事務局運営に関して、大城ハウスと三島ホーム、それぞれが事前に各社への根回しを行い、この両社が中心となって事務局運営に関わることになった。そして、実際の事務局運営を司るのは、博広とナショナルエージェンシーということで決定した。
ただ、一番重要な部分である外溝工事の業者選定と交渉に関してだけは、唯一三宅が対抗できない児島の持つブレーンと企画力の差が歴然とあり、児島が窓口となって進めることになった。児島は、外溝業者との交渉において、選定を条件に価格に関する相談を持ちかけた。それは、提示金額における三段階の価格設定であった。つまり、事務局に対しての金額がひとつ、そして事務局内部で留保するための金額、さらにその下を行く金額の設定であった。山崎、浅沼、三宅に納得させる内部留保の金額と禁断の果実ともいうべき全く個人的流用を目的とした金額をはじき出したのであった。

児島の計画は用意周到に行われた。まず、設計事務所であるTIM建築設計事務所の真中へ、設計費の支払いに色をつける条件で外溝工事業者を見つける相談を持ちかけた。それと同時に、設計上価格的に理解し辛い部分、一般的に日本の住宅メーカーがあまり馴染みのない素材を多く使うことを持ちかけた。例えば、枕木にはオーストラリア産ユーカリの仲間である”ジャラ”という色が濃く化粧的用途に使われる樹種を使う、レンガには天然石で色調や模様にバラつきがある”ピエトラプロヴァンスストーン”を使うといったことをルール作りに盛り込んだ。二重、三重にも価格設定を行う訳だが、問題は還流させるお金のやり方であった。それには、通常の会社であれば領収を伴わないことは不可能であり、通常でない会社が必要となる。通常でない会社――つまり架空会社をつくることだった。
架空と言っても、実際にきちんとした工事が行わなければいけない。そこで児島が考えたのは、実際の工事業者と博広の間に、この架空会社をかませることだった。
そうして作り上げたトンネル会社を使い、事務局運営費から支払われる外溝工事費を十とした場合、事務局内部に対しては九の価格で報告し一割を還元、実際には八の価格で発注し、児島は全体の一割の差額を手にしたのだった。実際に住宅建築が進み外溝工事の発注が行われると、総額九億ちょっとの発注金額となり、児島が手にした金額は一億近くになった。

 児島隆は思った。これが黒子に徹するというやり方である。相手を意のままにするというのは、決して主体とならないことであり、相手に操られていると悟られないことである。
今回の春日の件に関しては、主導権を取っているのは、あくまでも大城ハウスの山崎部長であり、三島ホームの浅沼課長であり、そしてJVのナショナルエージェンシーの三宅修二であるという図式、その図式に乗っ取って児島は指示通りに動いているのであって、そこに児島の思惑は微塵も無いということである。すべては、児島隆の思惑通りであった。

錯綜の足跡

 児島隆は、同僚の高井大作と一緒に水鏡天満宮横丁にある定食屋にいた。たっぷりと脂の乗った鯖の一枚焼きに割り箸を入れると、腹身の部分からジュワッと脂が溶け出した。
 「最近、ほとんどデスクにいないけど、連日の大城通いみたいだな」
 同期入社の高井大作が、小鉢の冷奴を半分食べ終わったころ頃訊いた。
 「そうでもないさ、役所だって行ってるしな。大作だって、OS参りだろ」
 児島が官公庁や住宅メーカーなど、ある程度広告代理店としての知識以外の専門的知識を必要とされる部署を担当しているのに対し、高井は、OSモールという服飾専門のショッピングモールや食品メーカーなど、CM制作が扱いの中心の部署を担当していた。高井の仕事が、いわゆる広告代理店としての王道を行くCM制作中心の理解しやすい仕事に対して、児島の仕事は、市の建築課へ建築確認申請を提出する書類作りを一手に引き受けたり、街並み計画におけるグランドデザインの基本設計計画に携わったりして、会社側からすると理解し辛いものばかりであった。児島の会社である博広ですらそうであるから、他に競合する相手など皆無に等しかった。唯一、ナショナルエージェンシーの三宅が三島ホームに対して食い込んでいるぐらいで、児島の扱い領域は、他社の追随を寄せ付けないものがあった。それが適正な価格なのか、誰もチェックしようがないし、きちんと正当な売り上げと利益を上げていれば問題とされることはない。
 「そういえば、今度うちが外資と提携するらしいな」情報通の高井が言った。
 高井は、役員である常務取締役綿貫健吾によく中洲へ誘われていた。
 「そうなのか? 綿貫情報か」
 「うん、何でもマッコイ&シンプソンとの提携話を進めてるらしい」
 イギリスに本社を置くマッコイ&シンプソンは、独自のブランディング・ノウハウとクリエイティブ力を生かし、世界百二十ヶ国に四百五十のオフィスを構えていた。
 「それで、提携前にいろいろと準備もあり、今度大掛かりな会計監査が入るらしい」
 「会計監査? どこがやるんだ、経理部か」
 「いや、どうも外部に委託してやるみたいだな。常務からも交際費の領収日付や宛名のチェックをしておくよう言われたからな」
 高井の説明だと、外資と提携する前に売上、売掛金、未収金、交際費などの一斉監査を行いクリーンにしておこうということらしかった。
 「そうすると、その外資との提携話は誰が推進したんだ?」
 「綿貫常務の話だと、青山専務が先日のメイラージャパンの九州地区でのブランディング調査をやった際に、代理店であるM&Sとのコネクションが出来たから、それを機に一気に進めようとしているみたいだな」
 「景山社長はどうなんだ?」
 「社長はあの性格だろ、鼻息荒い専務にゴリ押しされてる感があるな」
 博広の代表取締役社長を務める景山久幸は、経理畑出身で白髪をオールバックにし口数の少ない学者タイプの経営者だった。それに対し、専務取締役の青山寛治は、入社以来の営業畑で学生時代にラグビーで鍛えた隆々とした体つきをしていた。
 「そうか、なるほどな」
 児島は、高井の話を聞きながら、今度の外溝工事発注に関することを考えていた。外溝工事の業者には発注金額の件は厳重に言ってあるから、そこにチェックが入る余地はない。
問題は、架空会社の存在だ。ここを徹底して調べられたらまずい。何とかしないといけなかった。

 博広では、外注する場合、まず外注業者のデータを入力し、そのデータに基づき発注納品請求書を発行する。業者はそれを受け取り、業務件名、内容、金額を記入し社印捺印の上、博広に対して請求書という形で提出する。それが経理へ廻り支払期日が来ると業者へ対して支払いが実行される。そしてその発注納品請求書の発行は、担当者が各自基幹システムに入力し発行する。架空会社の登記簿上の内容には、不備はなかった。構成する役員名は友人の名前を借りていた。住所も同様である。

 その日、三島ホームの浅沼とナショナルエージェンシーの三宅は、中洲のクラブ”よしの”にいた。
 「塚原台の件もこれで首尾よく行きましたね」
 三宅は、浅沼のグラスにビールを注ぎながら言った。
 「ふん、これからだ」
 浅沼は、注がれたビールの泡と一緒に口腔へ流し込み、不敵な笑みを浮かべた。
 「と、いいますと?」
 「確か君の叔父さんは、飛鳥監査法人の重役だったよな?」
 「ええ、そうですけど」
 「いや、面白い話を聞いたんだが、その叔父さんと博広の経理部長の宮城とは学生時代の同期だそうじゃないか」
 「ああそうですね。確か大学時代の経営学研究会で一緒だったらしいです」
 「どうだろうか、その宮城は外部に監査を頼むとすれば、当然飛鳥を優先的に考えるんじゃないか?」
 「まあ、同期のよしみということで、そうでしょうね」
 「じゃあ、ちょっとリークしてもらいたいことがある」
 三宅は、浅沼の言葉に思わず身体を寄せていた。

 窓ガラスから降り注ぐ陽の光で、児島は目が覚めた。いつものように山崎に誘われ、中洲を数軒ハシゴして自宅に帰ったのが夜中の四時過ぎだった。それからすると、三時間ほどしか経っていなかった。どおりで眠気が覚めないはずだと思った。布団から横に置いたショートホープに手を伸ばし、半身になって火を点けた。降り注ぐ太陽の光の間を紫煙が絡まるように昇って行く。そしてその煙が光を遮るようにぼんやりと立ち込めていった。
同僚の高井の話によれば、専務取締役の青山寛治が推進するM&Sとの業務提携の準備として、近々会計監査が入るらしい。それも外部に発注するという異例の本格的監査のようだった。児島が仕組んだ架空会社へは、博広への振込、山崎への振込、浅沼へ渡るナショナルエージェンシーの三宅への振込を終えて一億円の余剰金が残っていた。あとは、この一億円を児島の口座へ振り込めば全て完了である。
 ――慌てることはない。いよいよの時は山崎と浅沼への振込は会社としても納得できる範疇だ。領収書の取れない金を作りだすことは誰しも大なり小なりやっていることだ。余剰金は、次の工作のプール金といえば何とでも説明がつく――
 折れ曲がった煙草の灰ごと灰皿に押し付け、専務の青山へ相談すべく携帯に手を伸ばした。

 日曜ということもあり、青山寛治の自宅のある高宮二丁目付近はほとんど人通りがない。
道すがら定年退職をして悠々自適の生活をしている様子の老夫婦が犬を連れて散歩をしているのに出くわした。老夫婦はにっこりと微笑み軽く会釈をする。この界隈では誰でもが会釈をする。夫の方は、白髪をきちんとセットし、フランスのポロシャツ、”ルトロア”をさりげなく着込んでいる。妻は、スワロフスキーのネックレスをさりげなく首から下げていた。二人の身を包む嫌みの無いブランド品は、これまでを真面目にこつこつと生きて来た証であり、誰からも後ろ指を指されることの無い人生を物語っていた。
 でも、児島は思った。あの白髪の初老の男は”ルトロア”をさりげなく着るのに何十年かかったであろうか。その妻は、三越デパートで”スワロフスキー”のネックレスをいとも簡単に買うのに何十年かかったであろうか。そうして確固たる人生を築き上げあげるのにどれぐらいの年月を要したんだろう。それで優雅な人生をあと何年続けられるのだろうか。児島にはそれがもろくくずれやすいガラス細工のように思えた。
 児島は、青山の自宅へ辿り着くと重厚な門構えの門柱にある呼び鈴を鳴らした。
 「はい、どちらさまでしょうか」
 ほどなくして、青山の妻らしき女性の声がインターホンから流れた。
 「博広の児島といいます。青山専務は御在宅でしょうか」
 「ああ児島さんね。ちょっとお待ちになってね」
 上司の妻であることを意識した応対に聞こえた。

 青山の妻に案内された児島は、吹き抜けのある玄関を通り、中庭の見える廊下の突き当たりの部屋へ通された。部屋へ入ると、高級そうな北欧製ソファに身を沈め、ラフなジャケットを着た青山寛治がいた。
 「まあ座りたまえ。電話で聞いたが、どういうことだ?」
 青山は、ソファに体を沈めたまま性急に聞いてきた。児島は、一連の山崎からの要求と対抗策としての浅沼の件を話した。児島は、予防線を張るために、敢えて架空会社の件を青山へ打ち明けたのである。会計監査が入る前に、会社側に架空会社の件を必要悪と理解させ、なし崩しにしてしまうのが狙いだった。そのためには、今回の監査をスムーズに終わらせるのに一番腐心している青山を巻き込むことが最善であった。青山としては、M&Sとの業務提携を進める上で、M&Sが要求している会計監査を無事に終わらせることが絶対条件である。もし、今回の監査で問題が発覚し業務提携に支障を期たすようなことがあると、次回の役員会でその汚点が指摘され、時期代表取締役の座を狙う立場にあるどころか、常務としての立場も危うくなってくる。
 「大城ハウスの山崎部長の要求に対して断ることが出来ませんでした」
 児島は、わざとらしく苦渋の表情を浮かべ深々と頭を下げた。
青山は、肘かけに掛けた手の指先を小刻みに叩きながら、しばらく言葉を発しようとしなかった。腰に痛みを抱えているかのように身体を起こしながら、テーブルに置かれた紅茶に手を伸ばし、意を決したように言った。
 「わかった。あとの処置はこちらでやる。規定の処罰は処罰として受けてもらう。それは覚悟しておいてくれ」
 児島は、さらに深々と頭を下げ席を立った。

 何らかの処罰。児島の進行している仕事の代役を務めることが出来る者など居るはずも無く、担当部署の移動は無いはず。あるとすれば、査定か職責のダウンであろう。減棒があったとしても、一億円を手中にしている児島としては問題外であったし、職責のダウンも特別に執着してはいなかった。青山が事のすべてを公にし、児島を業務横領の罪で起訴することなど出来はしない。そうすることは、青山自身、自分の出世の道を閉ざすことになるのだ。すべては児島の思惑通り首尾よく進行していた。

 青山寛治は、経理部の宮城良雄のところにいた。M&Sの会計監査基準の摺り合わせの事前打ち合わせという名目で来ていた。
 「M&Sの監査基準を適切に処理してもらえるところは決まったかな」
 青山は、経理部長の宮城にさりげなく聞いた。
 「ええ、気心も知れて実績と信頼面ということから飛鳥にする予定です」
 「なるほど、そうだな。それがいい。ところで君に話しておきたいことがある。ちょっと時間を取ってくれないか」
 「何でしょう。今すぐでも大丈夫ですけど」
 「いや、ちょっとここじゃ何だから、別の場所で。退社してからでいいから」

 青山と宮城は、中洲から離れた祇園にある小料理屋”ひさご”の小部屋にいた。そこで、宮城は青山から児島の話を聞き愕然とした。
 「専務、それはちょっとまずいですね。このままだと監査が無事終わらないと思います」
 「…… どうなる、と?」
 「おそらく、その架空会社の件を徹底して調べ上げるようM&Sから指示が出されると思われます」
 「そうなると、提携の件も危うくなるな」
 「その通りです。児島という社員は実際どうなんですか?」
 青山は片手に杯を持っていたが、テーブルに並んだ小鉢にはまだ手をつけていなかった。
この状況はまずい。何としてでも監査を上手くやり過ごさなければならない。青山は、杯の酒をグイっと煽りながらそう思った。
 「どうだろう、飛鳥の重役と君は学生時代の同期だそうじゃないか」
 宮城の問いには答えず本題ともいうべき質問をした。
 「ええ、そうですね」宮城は、青山の問いを察して答えた。
 「そこのところ、どうにかならんのかね」
 「ええ、まあそうですね…… 相談してみます」
 「相談とか、そんな軽い問題じゃないよ。是非モノの頼みだ」
 上司という立場を笠に着るような青山の物言いであった。
宮城は苦渋の表情を浮かべながら、同期である飛鳥監査法人の副社長である横山正範にどう相談すべきか思い巡らせた。はっきりとした解決策は思い付かなかった。同期であり、何でも気軽に話せる仲ではある。しかしこと仕事の事となると、横山は監査法人というコンプライアンスを売りにしている職業柄一番困難な頼みになることが予想された。正義感の塊のような横山がおいそれと首を縦に振ることはまず無理からぬことであった。
――それにしても、児島という男、どういうつもりなんだ。自分の汚点を武器に青山も一緒に引きずり込もうとしている。何らかの勝算でもあるというのか――
宮城は、児島という社員に対して一種の恐怖すら感じていた。

 美和子は、いつになく静かだった。躁状態の後に来る鬱の予感がした。躁状態の時は、周りの誰も彼も巻き込み手に負えなくなる。それが、一転して鬱に入るとほとんどと言っていいくらい何も語らなくなる。鬱に入ったかと思うと今度はふとしたきっかけで躁になる。その繰り返しが集中してやってくる。
 三年程前の出来事で、児島が会社から帰ると美和子は家におらず、食事の用意もしてなかったので、しかたなく冷蔵庫にあった缶ビールを出して飲んでいると電話が掛った。福岡から遠く離れた鹿児島市内の観光ホテルの女中からであった。
 「児島さんでしょうか。奥様がお宅のクレジットカードを使って料理を頼まれたんですが、その使い方が尋常じゃなかったんで電話をさせていただきました」
 「鹿児島にいるんですか?」
 どういう状況でというよりも、遠く離れた鹿児島にいることに驚いて答えた。美和子は鹿児島とは何の関わりもなく、そこに知人や友人がいるはずもなかった。
 「ええ、今朝こちらに来られて、それで突然近所を歩いていた通り掛かりの人達を呼び込んで宴会を始められたんです。そして注文の仕方がちょっと異常だったもので」
 「わかりました。これからすぐにそちらへ伺います。交通機関も終わっているので車を飛ばして行きますが六時間程かかると思いますので、それまでよろしくお願いします」
 誰彼かまわず声を掛けるということから、すぐに躁状態になっているというのがわかったので、それだけ言うとすぐにタクシーを呼び夜十時に家を飛び出した。駆け付けたタクシー運転手は、いきなり行き先を三百キロも離れた鹿児島までと告げられ、ありえない移動距離による困惑と一週間分の売り上げに匹敵しようかという金額を示されたことによる高揚とが入り混じった表情をしていた。その時の移動に六時間という時間を費やしたのだが、児島にはその時の記憶が全く残っていなかった。一体六時間もの間タクシーの中で何を考えていたのか、あるいは運転手と何か会話を続けていたのか、記憶に残っているのはその後のホテルでの出来事だけだった。
 ホテルへ着きすぐさま受付へ名前を告げると、即座にマネージャーらしき男が現れ、伝票を差し出しながら言った。
 「一応、クレジットカードは通っているので手前共としましては何も問題はないのですが、何分使われた金額の多さとそれ以前の行動とちょっと言動に引っかかる点がございましたので……」
 手元に渡された伝票の金額を見ると、そこには二十三万五千円という金額が示されていた。確かに、普通の主婦が縁もゆかりもない道行く人々を捉まえて、大盤振る舞いをする時点で常道を逸しているし、それに追い打ちをかける異常ともいえる金額であった。マネージャーの説明を聞くよりも、すぐに美和子の状態を確認する方が先だと思い、宴会をしているはずの大部屋へ向かった。大部屋へ駆け付けると、そこには美和子が一人意識朦朧とした状態で何やら片付けをしている女中達に大声で怒鳴り散らかしていた。すでに、泥酔した酔っ払いのように呂律が回ってない。畳部屋の大テーブルの上には、海老やら蟹やら刺身の切れ端やら、食べ散らかした料理がごった煮のように散らばっている。入ってきた児島に気付いた美和子は、焦点の定まらない異常な輝きをした眼をして言った。
 「あらあ、ダーリン、ほらこれ食べて。メロン、マスクメロンよ。ほらほら」
 美和子の差し出したスプーンの上に乗ったメロンを口に入れると同時に、彼女の両手を掴んで抱えあげていた。
 「さあ、帰ろうか。もう時間も遅いし」
 児島は一刻も早くその場を立ち去りたい気持ちで、美和子を抱え上げてタクシーまで運んだ。美和子は車の中でしばらくワアワア騒いでいた。山間を走っている途中で、この辺に霊気を感じるからちょっと止めてくれと言ってみたり、運転手には、気に入ったから帰ったら十万円上げるから、と本気とも冗談とも取れる微妙な金額を言ってみたり、そうかと思うと児島に対していきなり罵詈雑言を浴びせたり、それはまるで社会正義や道徳を根底から覆し、人間の持つ煩悩を炙り出す悪の化身のようだった。やがて疲れ果てたのか寝息を立てて崩れ落ちるようにしな垂れ眠ってしまった。
 児島は、そんな美和子の寝顔を見ながら思った。なぜ美和子と出会ったんだろうか、なぜ美和子に惹かれて行ったんだろうか。児島が突き進んでいる社会正義と共存する世界は皆が仮面を被った虚構の世界なのか、美和子の躁状態が人間の持つ善悪を浮き彫りにしているのか。車は早朝の薄明かりの中をただひたすらに進んで行き、そのままかかりつけの病院の精神科へ直行した。担当医は美和子の状態を確認してすぐに地下の隔離病棟へ入れることとなった。そこは、まるで刑務所の中のようで、暗く陰湿な病棟であった。時折、患者の奇声を上げる声が地下中に響き渡る。美和子は精神病ではなく重度の躁鬱病である。それなのに精神に異常を期たしたものと一緒くたにされ、鉄格子の檻の中へ閉じ込められてしまった。それから退院して社会復帰出来るようになるまでに半年の月日がかかったのである。

 あれから三年が経ち、相変わらず躁と鬱が繰り返されることが周期的にやってくる。そして、今また、先日仕事のことを聞いてその後数日して鬱に入っていた。児島は、青山に相談を持ちかけM&Sとの提携話をスムーズに進めることと引き換えに、事務局費操作の件を闇に葬ろうとしていた。この切羽詰まった局面で、美和子の鬱状態は何ともし難いことであった。せめて躁状態の方がこの局面を乗り越える上では有難い。しかし美和子は、児島が意を決するきっかけとなった言葉を残したまま殻に閉じこもっていた。躁状態の美和子であれば、おそらく児島の仕組んだことに対して後押しする狡賢い策略を共に考えることだろう。そういうことに期待する児島自身もまた狡賢い悪の化身であった。

 飛鳥監査法人の横山は、学生時代の同僚である博広の宮城から、たまには昼飯でも一緒にどうかとの誘いを受け、春吉交差点近くの中華料理店にいた。
 「相変わらず大食漢だな。大体昼間っから中華食えるのはお前の特技だな」
 唐揚げ定食とは別に餃子を一皿注文し、頬張り続ける横山に宮城はいつもながら感心して言った。
 「俺は、頭を使うと身体の脂肪が消耗していく」
 「なるほどね」
 前菜と中華そばですでに満腹状態の宮城は箸を休めていた。
宮城はそばにあったジャスミン茶を一口すすり、額に汗をかきながら頬張り続けている横山へ向かって言った。
 「ところで、監査の件だが……」
 「ああ、準備万端だ」
 横山は、最後の一個になった唐揚げを口へ放りこみながら自信たっぷりに言った。
 「うん、それでこっちの方だが、実はちょっとした問題が起きた」
 「どうした?」
 「スポンサーへの交際費捻出のための内部留保金の処理にちょっとした問題があってね」
 「それは、つまり裏金作りのことか?」
 「まあ、そういうことだ」
 「で? 俺にどうしろと」
 宮城は、聞くまでもあるまいと言いたかったが、しばらく口を真一文字にしたまま黙っていた。
 「良雄、他ならぬお前の頼みは何でも受ける、といいたいところだが俺の商売に関しては絶対に譲れないことがある」
 宮城は、いきなりそう言われてやはり言うべきではなかったという後悔の念に捉われた。
 「今回の監査は駄目だ。誰が何と言おうと徹底的にやらせてもらう」
 まるで大罪を犯した犯罪者に下される聖職者のような響きであった。
 「それと今回なぜかこの監査に関して上から直々にある噂話まで出た」
 「えっ、噂話?」
 「博広の塚原台の扱いの件で、児島と言う社員が事務局運営を一手に引き受けてやっている。そしてその運営費の一部が大城ハウスに流れている。良雄の言う問題とはこれのことか?」
 図星だった。宮城は横山の口からその話が出て驚いた。
 「そのとおりだ。でもなぜ飛鳥の上層部が」
 「わからん。とにかくこの件を徹底艇に調べるように言われている」
 ――なんてこった。誰かがこの件をリークしている。事務局運営に関わるものの仲間割れか、あるいはM&Sとの提携を阻止しょようと企む者なのか――
宮城は、誰がこの話をばら撒いたのか思いあぐねた。
 「ともかく誰かが誰かを陥れようとしている。良雄、お前がこの件に深く関わって足元をすくわれんようにしないとな」
 「ああ、しかしこっちも監査を無事切りぬけることが是非モノなんだ」
 今回、この話が公になるとM&Sとの提携話はご破算になる可能性が高い。それと同時に宮城が今現在取り組んでいる提携後の社内プロジェクトの図式が大きく変わることになる。そればかりか、青山専務派の子飼いともいうべき宮城の立場は微妙なものとなってくる。ここは何とか対抗策を抗じないといけない。中華料理店を出て横山と別れた宮城はすぐに青山へ連絡を取った。

 「なに? なぜ飛鳥がすでに知っているんだ」
 青山は、宮城の報告を聞くなりカッと目を開いて怒るように言った。
 「わかりません。ともかくこのことを知る誰かが飛鳥にリークしたという事だけは事実です」
 宮城は、対抗手段が思い付かない手前、無表情に言った。
 「すぐに児島君を呼んでくれ」
 「はっ、わかりました」
 すぐに児島の元へ連絡が行った。
児島は、ミーティングルームでクリエイティブの連中と塚原台販売戦略上のコンセプトワークの打ち合わせ中だった。
 「ターゲットは、二十代、三十代を中心とするファミリー層をコアに四十代、五十代のゆとり世代まで幅広く訴えていく」
 総括プロデューサーである児島は、制作スタッフへ向けて説明の最中であった。秘書課の女性が入って来て、児島の耳元で囁いた。それを聞いた児島は、区切りを入れるように言った。
 「万人に心地よく、ちょっと感度のある路線でいって欲しい。申し訳ないが、ちょっと席を外します」
 一同を見渡しながら鷹揚に席を立った児島は、計算通りの展開に自信を深めた。

 児島が青山のいる部屋のドアをノックして入ると、広々としたデスクに青山、そしてその前にあるソファに宮城がいた。児島は、宮城の向かい側に座ると、すぐに宮城から質問された。
 「専務から話は聞いているが、例の塚原台の件だ。実際の発注金額とプール金との差額はどうなっているんだ?」
 「区画によってバラつきがありますが、平均すると一区画あたりの外溝工事は二百五十万円で、その内二十五万円がプール金としてあります」
 「そうすると実際の発注金額はいくらになる?」
 「売上としては、二百二十五万円で、会社の利益としては二十五万円です。従いまして実際の発注金額は二百万円です」
 本当の発注金額は、そこから更に二十五万円下げた百七十五万円だった。博広からその外溝工事業者へは、二百万円の支払いがなされていた。つまり、二十五万円の児島へのキックバックが用意されていたのである。児島の返事を聞くや否や青山が立ち上がって言った。
 「宮城君の話だと、監査法人は徹底した調査をやることになっている。そこでだ。会社の売上を二十五万円追加して二百五十万円にする」
 「えっ、でも専務それだと差額の二十五万円の処理は……」
 宮城の心配をよそに青山はとんでもないことを言いだした。
 「発注金額を二十五万円プラスすればいい。差額分を追加発注という形でする。この際、うちの利益は度外視だ」
 理想通りの展開になり、児島はほくそ笑んだ。これで、架空会社の件も無かったことになる。事務局でのプール金も形上消滅してしまう。
 「いいな、これで何とか監査を乗り切ってくれ」
 青山の有無を言わせない強い口調に、宮城は首を縦に振らざるおえなかった。これでは、児島の仕出かしたことは闇に葬られてしまう。児島は青山の席で神妙な顔つきをしていたが、今回の一件で誰が一番利を得たのだろうか。何事も無く監査が無事終了すれば、もちろん青山の画策しているM&Sとの提携の話は軌道に乗る。そうすると青山にとっては、時期社長としての軌道が大きく動き出すことになる。おそらく児島に関しては、今回の一件が表に出ることは無く現状維持のままであろう。しかし、そうであろうか。宮城は、児島がヘマをやったとは思い難く合点がいかなかった。

 児島の足は、博多駅前に向かっていた。駅前通りを歩き、駅向かいの信号待ちをしていると左手にバスターミナルが見えた。児島の頭の中で何かが擡げてきていた。それは、天の邪鬼とも言える、大凡平常心の児島であれば考え及ぶはずもないことだった。バスターミナルのネオンをぼんやりと眺めながら、今ここですべてを断ち切ることを仕出かす自分を空想してみた。平穏無事な人生を歩んできた人が、何の前触れも無く突然、抗うことの出来ない不可抗力でその後の人生を大きく変えてしまう。突然、やってくる事故で百八十度異なる人生に曝される。そういう人もこの世の中には大勢いる。しかし、児島の空想する世界は、自らその世界に入っていく常人には考えつかない愚行であった。目の前の信号が青に変わり、足取りを左手のバスターミナルへ向けていた。児島は、自ら踏み込むその物語りを頭の中で空想し始めていた。
 神戸へ向かう夜行バスの切符を買った児島は、そのまま意を決するということではなく、天神界隈に遊びにでも行く感覚で飛び乗った。バスの中は、七割程の乗客で埋まっており指定された座席に座った。座席は夜行バス用に大きく後ろへ倒せるようリクライニング式になっていてそのまま寝れるようになっていた。発車の合図と同時に運転手の案内があり、バスはゆっくりとターミナルを発車した。神戸行き高速夜行バスは、天神を経由して天神北高速ランプに入りそのまま一路神戸へ向けて出発した。座席の窓から博多港の夜景が見えた。今頃、大城ハウスの山崎部長は、いつものように中洲のクラブで女の子を相手に、年の差を意識したLINEでのやりとりの話なんかをしているに違いなかった。三島ホームの浅沼は、ナショナルエージェンシーの三宅と大城ハウスに先駆けされないよう、小料理屋あたりで密談を交わしているに違いなかった。青山専務と経理部の宮城部長は、特別監査の段取りにピリピリとしていることだろう。美和子はどうしているだろうか?ひとりぼんやりとキッチンの食卓に座っているのだろうか? あれからまた少し躁状態になりつつある気配がしていたが…… 現実の雑念が次から次にバスの窓ガラスに映っていくのをひとつひとつ取り払うように打ち消しながら、すっかり疲れ切った児島はやがて深い眠りに就いた。早朝の陽の光に眼が覚めると、バスは神戸バスターミナルへ到着するところだった。携帯電話を開いてみると何件か電話連絡が入っていた。メールも数件届いている。一通り確認するといずれも児島が昨晩は中洲辺りで彷徨ったあげく、連絡つかないものと確信したようなものばかりだった。美和子からは何の連絡も入ってなかった。ターミナルに到着したバスから降りると、目的があるかのような足取りで建物の外へ出た。常人の理解を超えた行動をしていることなど微塵も考えもしなかった。
 毎年、行方不明者は十万人近くにものぼる。その内のひとりに加担してしまったわけである。児島の立場、状況、これまで積み上げて来たもの、諸々のことを鑑みても失踪する理由など何処にも見当たらない。確かに、不正を働いてそれが暴かれようとされている危機が生じた。しかしそれも万事児島の思惑通りに事が進もうとしていた矢先であった。いまこのタイミングではないし、児島自身予想外の行動に突き進むことに、まるでもう一人の自分がいるかのような錯覚を覚えた。
 陸橋の下を左に折れ阪神電車が走る通り沿いにまっすぐ歩くと三ノ宮駅に出た。駅の路線図を眺め何処へ行こうか考え、姫路の文字が見えたのでそのまま電車に乗り姫路へ向かった。姫路市はこじんまりとしたまとまった街だった。大都会でもなく小都市でもない。適度に色々なものがある。
 児島は、今日の宿泊先を確保するためにコンビニにある端末に”ヤマネシンイチ”という偽名を入力しチケットを購入した。宿泊先は姫路駅から歩いて十分のところにあった。フロントに偽名を告げ、チェックインの準備がまだだと言われるのを強引に頼み込み受付を済ませた。部屋に入ると、顔を洗い、しばらく椅子に座り、トイレを済ませ、すぐに部屋を出た。駅前通りに出た児島はあてどもなく街をうろつく。商店街の中は、どこにでもあるような店舗が立ち並び、午前十時になりぼちぼちと開店を始めていた。
 その時点で児島は、まるで思考が停止した徘徊老人かのように何も考えていない。通りの中ほどに本屋があったので中へ入り、奥の方の棚に並んでいた文庫本から一冊の本を取りあげる。レジで会計を済ませ、また夢遊病者のように通りへ出る。やがて、一件のハンバーガー店に入る。コーヒーと一番シンプルなハンバーガーを頼み席についた。コーヒーを一口すすり、買ってきた本を開いた。”アメリカの鱒釣り”タイトルにはそう書いていあった。作者はリチャード・ブローティガン。深い心理描写を故意に欠いた文体で独特の幻想世界が広がり、どちらかと言えば落伍者的、社会的弱者風の人々の孤立した生活が描写されていた。自らいまその生活に身を委ねようとしていた。その場の席についている全員が、児島のことをアウトサイダーとして見ているわけではなく、ハンバーガー店にいる一人のお客として見ている。普通に背広を着て革靴を履いている児島のことを、三十分ほどしたらここを出て行きオフィスへ戻り、コンピューターの前に座り、電話を掛け今日の商談の話をすると思っている。でも児島は何も考えず、これからどうしようと考えてもいない。児島の耳には、大声で高笑いする二十代の男女五人組の声が聞こえる。女の子通しでスマホをいじりながら理解不能なゲーム用語を話し合うのが聞こえる。店内に流れる五十年代ロックンロールのBGM、マニュアル通りに受付の応対をする甲高い店員の声、入口の自動ドアが開く度に聞こえる車の通り過ぎる音、それらが不協和音となって児島の頭の中で重なり合った。
 そこで児島は目が覚めた。時間にしてわずか五分ぐらいであろうか、佇んでいる地点は紛れもない博多駅前の交差点の場所であり、そこから左手にはバスターミナルのネオンがあった。

崩潰する障阻

 経理部の中は、静寂な緊張感が張り詰めていた。キーボードをブラインドタッチで叩く音、電話を受け小声で手短に話す声、コピー機とデスクの間を行き来する足音。時折、経理部の外の廊下から業界用語を並べたてた話声が通り過ぎて行く。
 宮城は、会計監査を進める横山の脇でじっと腕組みをしたまま眼を閉じていた。横山の傍らには、作業を進める飛鳥会計監査の職員が三名、それぞれ直近二期分の証憑類の有無と経理仕訳の正誤性、交際費や使途不明金などを損金として謝った処理していないか、また売上計上に対して正しい利益計上をしているかなどを調べている。監査を統括する横山は、預金と小口現金出納などの金額照合の閲覧調査をしながら適時事細かな指示を出していた。
飛鳥会計監査への事前情報として、児島の件があったため塚原台に関するところが徹底して調べられた。
 「この追加発注の日付のところだが」
 横山の不意の質問に、宮城は目を覚まされるように振り返った。
 「ああ、これは発注仕様の変更が生じたからだと思うが……」
 それは、紛れもない青山に指示されて外溝業者へ用意周到に準備させたものである。ひとつ間違うとそこから崩れ落ちてしまうもろ刃の刃とも言える危険性を孕んでいた。
 「何か問題でもあるのか」
 宮城は、平静を装って聞いた。
 「内容が問題じゃない。日付のところのインクが違う」
 「インク?」
 最終的な領収金額の指示は手抜かりなく指示しておいた。しかし、その後、日付のところで青山の指示を再度仰ぐために一旦、保留し改めて指示し直したのだった。その日付のインクの細かい滲み具合の違いを横山は発見していた。
 「何だろうな? 書きかけて、時間を置いて書き直したのかな」
 宮城は、とぼけながら答えた。
 「おいおい、良雄。お前の癖は俺が一番よく知ってる。お前は隠事をする時、必ず眉の間を右手の人差指でなぞる」
 横山がジェスチャーをしながらそういった時、宮城の右手人差し指は眉の間に行っていた。

 その頃、児島は美和子と薬院にあるレストランで久しぶりの外食をしていた。自宅近くにあるデザイン事務所との打合せを終えて、美和子へ電話を入れると嬉しそうに外食の誘いに応じて出て来ていた。テーブルの上には、ほとんどのスペースもなく、注文したアンガスサーロインステーキとそれにつけるソース、バイキング形式から取ってきたサラダ、数種類のパン、コーヒー、グラスに入った水、ナイフとフォークを入れるバスケットが並んでいる。
 「昨日、宏美から電話が会ってカットしに行ってきたわ」
 「ああ、例のパーマ屋?」
 「何それ、パーマ屋なんて死語言わないでよ。美容室かヘアサロン!」
 美和子は、そう言いながらカットしたステーキの肉にフォークを突き刺し口へ入れた。
 「そう言えば、ちょっと違うな」
 「ちょっとじゃないわよ。もう」
 さらにもう一切れ、オニオンソースとマスタードソース両方に浸して食べている。児島は、ステーキを二口ぐらい食べたところで、サラダにフォークを伸ばしていた。互いに関心が薄くなってきているのは確かであるが、児島の場合は美和子の外見に対してほとんどと言っていいくらい関心を示していなかった。
 「やっぱり、宏美のところじゃないと駄目ね、カールの仕方がね、やっぱりちょっと、他じゃ駄目」
 それからステーキを最後の一切れになるまで、宏美の美容室と他の美容室の違いを話し続けた。児島は、うんうんと頷きながら黙って黙々と食べながら聞いていた。ふと、出会った当時のことを思い出した。
 
――児島は、夜遅く会社から帰り、寝泊まりするだけと言っていいくらい何もない粗末なアパートの階段を重い足取りで上がっていた。暗闇の階段の上の方に人がいるのがわかった。見あげると美和子だった。
 「どうしたのよ、こんなに遅く」
 突然に、階段の上からそう言われ驚いた。
 「いや、君こそこんな深夜にボロアパートの階段に座ってるなんて尋常じゃないだろう」
 「遅い時間に一人じゃ可哀そうだから来てあげたのよ」
 「そうか、ありがとう」
 適当な返事が思い付かなくて、ありきたりのお礼を言っただけだった。部屋に入り、一通り見渡していた美和子はちょっと驚いたように言った。
 「何もないって言ってたけど、本当に何もないわね」
 家電は、テレビはおろか、冷蔵庫、洗濯機、掃除機など生活する上で何処の家でもあるものがなかった。あるのは、布団とテーブルがひとつ、それだけで他に何もなかった。
 「お風呂や着替えはどうしてるの?」
 美和子は、宇宙人か魔法使いとでも言いたそうに訊いた。
 「風呂は、サウナかネカフェのシャワーかな。着替えはコインランドリーで洗濯する」
 「冷蔵庫はいるでしょ」決め付けるように美和子が言う。
 「家じゃ何も食べないからいらない。コーヒーは飲むからポットだけはあるね」
 「掃除はどうするの?」
 美和子は、裁判の検察官のように矢継ぎ早やに質問してくる。それに対して児島は明快に回答していく。
 「箒と雑巾があるからそれで十分だね」
 「で、こんな今時、タイムスリップしたような部屋にいるわけね」
 美和子は驚きつつもまだ部屋を眺め廻しながら、下に座ろうとしない。やはり別世界と思っているのだろう。
 「でもネット回線を引いてノートパソコンを動かしているのは、この原始人が集まる洞窟荘で俺だけだろうな」
 「ええ、ええ、そりゃそうでしょうよ。でも何で手取り三十万円も給料貰っていてこんな生活なわけ?」
 「ようするに、俺には物が邪魔なだけで必要ないからさ。お金は自分自身に使う。物には使わない。物は必要な時だけ必要な物を借りて使う」
 「自分自身の何に?」
 「例えば、本を読んだり、音楽を聞いたり、映画を見たり、あと旅行に行ったりとかね」
 「あなた、でもテレビの仕事をしていてテレビは見ないの?」
 「テレビの仕事じゃなくて、広告、コマーシャルね」
 「一緒じゃない」
 「テレビを観だすと考えなくなるから観ないことにしてる。情報はネットで得ることが出来るし」
 「あなたって人は考えるのが好きな人?」
 「そうだね、色んなことに対して考えを巡らすのが好きかな」
 「考えないと駄目?」
 「そう、考えないと駄目になる」
 「ふうん、そっかあ」そう言うと、美和子は黙り込んでしまった。
 「君は、考えないのかい?」
 「どちらかと言えば、考えないかな。思ったままに動いている」
 「例えばどんな風に?」
 「自分が欲しいものに向かって進んでいるという感じかなあ」
 「誰だってそうだろう。車が欲しいと思ったら、その車を買うまでお金を貯めて買う」
 「あたしは、思ったことはすぐに実行する。自分が出来なければ誰かに頼んでもそれを手に入れるわ。だって待っていたら時間はどんどん過ぎていくのよ」
 「そうだね。誰でも限られた時間しかない」
 「そうでしょ、あたしは自分がしてることを誰かにどう思われているかなんて考えないし、とにかくそう思っている間にも時間はなくなっていくのよ」――

 児島は、あの時の美和子が言った言葉を思い出していた。この世に不変のものがあるとしたら、それは誰にでも時間は平等に与えられている。誰にでも、一分、一秒が振り分けられる。それを消化していくのも平等にある。
目の前にいる美和子は、デザートを食べ終え、何も語らずに外の景色を眺めている。
躁と鬱とを繰り返している美和子は、今は穏やかな表情を浮かべ静かな時間に身を委ねていた。

 宮城から報告を受けた青山は、愕然としていた。飛鳥会計監査の調べを受けてすぐに外溝工事業者との受発注金額が徹底的に調査され、売上金額の操作が暴露されていた。
 「監査で金額操作の件が指摘を受けました」宮城は苦渋の表情で深々と頭を下げた。
 「君と彼は同期の仲のはずじゃなかったのか?」
 「はい、誠に申し訳ございません」
 謝るだけで答えになってなかった。言い訳をしたところでどうなるものでもなく、ただひたすらに頭を下げるしかなかった。横山には、宮城とは同期であるがゆえに、遠慮してはいけないという職業意識が働いていた。青山としては、傷口を塞ごうとして更にその傷口を拡げる結果となっていた。青山は座ったまま、握りしめた両手の拳をデスクの上に置きかすかに震えていた。
 「M&Sとの提携は何としてでも進める。児島だ、児島を呼べ」
 「はい、すぐに」
 「経理部としての管理も問われるぞ。ともかくあいつを表に立てるんだ」
 矛先を他へ向けようとはしているが、もはや青山は冷静な判断能力を消失しつつあった。宮城は、すぐさま児島の携帯電話を鳴らした。
 「はい、児島です」児島は、抑揚のない声で電話に出た。
 「ああ、児島君、緊急の要件だ。すぐに会社へ出て来てくれ」
 「今日は、休みで、いまは妻と食事をしてますけど」
 緊急の用件が何であるかは十二分に分かっていたが、わざとらしく言った。
 「君自身に関わることだ! 急ぐ!」
 宮城は、何をバカなこと言ってるんだと言わんばかりに声を荒げて怒鳴った。
 「わかりました」
 児島の仕掛けた時限装置の爆弾が今にも発火しようとしていた。

 「早急に大城ハウスへ行って、担当部長にこの旨を伝えるんだ」青山が児島に向かって遮二無二言った。
 「どういう風に伝えるんでしょうか」児島は、他人事のような口振りで答えた。
 「それを考えるのが君の仕事だろうが」
 日頃冷静に振舞っている青山の口から余裕の無いヒステリックとも言える怒鳴り声が響いた。すぐさま児島は、短く、わかりました、と言っただけで平身低頭をした。内心、期は熟したと思った。導火線に火をつけるには絶好のタイミングだと思った。
 児島は思った。これまでの人生で構築してきたもの、それは何だったのだろうか。美和子から悪魔の囁きとも言える業務横領の誘い水を受けた時に、このチャンスを生かすとすれば、それはこれまで児島が培ったてきたものの破壊でしかないと思った。俺は一体何をしようとしているのか、何を探し続けているのだろうか。このサラリーマン生活を定年退職まで勤め上げ、美和子と定年後の安定した暮らしを望んでいるのだろうか。年金を受給しながらわずかばかりの仕事を続け、週末には二人でキャナルシティへ行って買い物をし、帰りにロイヤルホストへ行って今日はちょっと贅沢にステーキでも食べようかなと言って、メニューを長々と詮索したりすることを望んでいるのだろうか。それともきれいさっぱり、安定した生活を捨て、あえて孤独で困窮した生活に身を置こうとしているのか。明確な答えがわからないまま、船を漕ぎ出していた。頭の中では、両方の思いに揺れ動きながらも行き先の定まらない難破船が彷徨っていた。

 会社を出た児島は、天神から大城ハウスへ向かうべくタクシーに乗って、運転手に博多駅前を告げた。児島は、適度の緊張感から解放されて、少し眠気を感じ始めていた。沈着冷静にことを進めようというよりも、成り行きに身を任せようという空気に支配されつつあった。児島は、急に思いついたように運転手に、ちょっと銀行に止めてくれ、といい銀行で預金に入れておいた三百万円を下ろし、行き先をバスターミナルに変更した。バスターミナルに降りた児島は、ともかく眠りたいと思った。レストランに入ってメニューを開き適当に注文を頼むように、自動販売機にある切符購入機で熊本のボタンを押した。行き先の熊本に理由はない。押そうとした指先のところが熊本だったから押したまでだ。乗ってる間ぐっすり眠れると思い、そのままバスに乗り込んで中ほどの座席に腰を降ろし眼を閉じた。

 大城ハウスの山崎は、事務局会議での進捗が首尾よく進んだこともあって上機嫌であった。これで三島ホームの浅沼に先駆けされることもあるまい。今晩あたり児島を呼んで”よしの”にでも行ってみるかと思った。携帯電話を取り出し児島へ電話を掛ける。
 ――おかけになって電話番号は、現在電源が入っていないか通話が出来ない状態です。しばらくたってからお掛け直し下さい――
チッと山崎は舌打ちした。児島の携帯は留守電が繋がらないように設定してあった。児島が代理店の営業のくせして留守電の設定をしてないのを、山崎は日頃から苦々しく思っていた。山崎はしょうがなくショートメールを送ることにした。
 ――今晩八時、よしのにいる 山崎――

 山崎は、先に”よしの”に来て淳子を指名し飲み始めていた。時間は午後八時を過ぎており、そろそろ児島からの連絡が来てもいいころだが、と山崎は思い始めていた。ショートメールで送ったから、携帯を開けばすぐに気づくはずなのに、なぜ掛けてこないんだと腹立たしく感じていた。そこに急に会社の社員からの連絡が入った。電話の主は、大城ハウス営業部の明石雄太からだった。
 「はい、わたしだが、何の用かね」腹立たしい声のまま言った。
 「山崎部長、明石です。お取り込み中すみません。実は、急用でして」明石の声は緊迫した様子だった。
 「何だね、早く用件を言いたまえ」ぶしつけがましい声だった。
 「はい、実は博広の青山専務と宮城部長という方が来られまして、うちの担当の児島さんが山崎部長に会いに行くと言い残したまま行方が知れないらしくて……」
 「なに? だからどうだと言うんだ。別に児島君だって、予定変更もあるだろうさ。それをいちいち先方の専務まで出てくる必要もなかろう」
 「ええ、その児島さんが行方不明ということ、そのものは重大なことではないのですが…… それが、うちとも関係のある重大な問題が起きまして……」
 「何だね、君の言ってることはさっぱりわからんが、はっきり分かるように言いたまえ」
 「はい、すみません。実は博広の内部監査で、児島さんに関する問題が起きて、それがどうもうちと関係することみたいなんです」
 「なに? うちと関係すること? どういうことだ」
 「ええ、それ以上ははっきりとした内容は聞かされていないんですが、至急、直接山崎部長と会ってお話ししたい、ということでした」
 博広の内部監査で、児島に関する問題が起きた。そしてそれが大城ハウスと関係することと言われれば、それが何であるか、山崎にはよく分かっていた。
 「今日は、もう飲んでいるからな。明日以降、私に直接電話してもらえるよう伝えておいてくれたまえ、いいな」山崎は一方的に電話を切ろうとした。
 「はい、わかりました」明石は、山崎に緊急の用件として連絡を取ったことを悔やんだ。
博広の二人に、深刻な顔をされて一刻を争う口ぶりで言われたものだから、思わず山崎部長に電話をしてしまった。しかし、よくよく考えて見ると、取引先のしかも発注先の代理店のお家事情なのだ。それが大城ハウスに関係すると言っても、わざわざ退社してプライベートタイムに入っている上司を呼び出すほどの重要問題であるかどうか、よく確認もせずに連絡をとってしまったことに対して、山崎部長からマイナス評価を受けるのではないかという思いの方が先に立ってしまう。明石は、憂鬱な気持ちのまま博広の宮城に連絡を取った。
 「ああ、宮城さん、申し訳ないですが、山崎は今日はちょっと取り込み中でして、明日以降に連絡取っていただければと思います」明石は努めて丁重に言った。
 「えっ? でも明日になれば刑事事件として摘発されるかもしれません。そうなる前に対抗策を講じないと。山崎部長にご迷惑がかかってからでは遅いと思います」
 「何ですって? 刑事事件ですか?」明石は予想外のことを言われて困惑してしまった。
 刑事事件という言葉に恐れをなしてしまったのである。その後に、明石の取った行動は、さらに事を荒立てることになってしまった。山崎から明日以降にと言われたにも拘らず”よしの”に現れて、山崎に刑事事件に発展するかもやという由をご忠臣したのである。

 熊本市内のバスターミナルに着いた児島は、幾分頭に鈍痛を感じながらも到着アナウンスに促され、重い足を引き摺りながらゆっくりとバスを降りた。ターミナル構内は夜の十時を過ぎて人もまばらになり閑散としていた。すでに出発予定のなくなった乗り口そばの椅子に座って眠りこけている浮浪者がいた。何日間も風呂に入ってない様子で髭も伸ばし放題、着の身着のままの姿は年齢すら推し量ることは出来ない。児島は、熊本市内を仕事で何度か訪れたことがあり、特に商店街の中の東西南北は理解していた。空腹を感じたので、商店街の中をぶらぶらと歩いた。すでにシャッターの閉まった数店舗の間に、外食チェーンの店が一軒と深夜営業の喫茶店が一軒開いている。児島は何も考えずにその内の一軒の喫茶店に入った。店内は薄暗く数組のカップルらしき若者達が、時間つぶしをしているかのようにうごめいている。入口近くのテーブル席に座って、メニューを開き簡単に食べれそうなカレーライスとコーヒーを頼んだ。児島は、ゆっくりと目を閉じた。頭の中に、今日一日の出来事が浮かんでくる。そして段々と遡って行って、一週間前のことが思い起こされてくる。これまで児島が構築してきたあらゆる仕組みのひとつひとつが走馬灯のように現れてくる。それが児島がしようとしていることと相反する出来事として徐々に崩れ去っていく。何がそうさせるのか児島自身にもよくわかっていない。携帯の電源は切ってあるので、ただの鉄の塊のままである。
 そう言えば、遠い昔のことだがこの状況と似たような映画を見たのを思い出した。今までに積み上げてきたもの、作り上げてきたもの、主人公がそれらをものの見事に何らためらいもなく破壊していくのである。見ている側とすれば、せっかく今までに作り上げてきたものを何でわざわざ壊さないといけないのか? 全く持って理解し難い映画だった。人は誰しも欲望の赴くままに動くものである。腹が減れば食べ物を欲しがるし、その食べ物もより美味しいものを食べようとする。そのためにはより多くのお金が必要であり、そのために少しでもお金を稼ごうと頭を働かせる。そうして少しでも他人より秀でようとするために、一旦安定した生活を確保すると今度はその安定を保とうとする。それが自然な人の働きである。それなのにその真逆のことをするというのはどういうことなのか? それが児島の記憶の中に鮮明に残っていた。

 その映画は、アメリカのモノクロ映画でトーキーで作られていた。主人公は名前をリードといい、取り立てて裕福な家庭に生まれたわけではなく、ニューヨークに住む保険会社に勤めるサラリーマンである。リードには、人より優れた資質があった。それは人心把握の巧みさとあらゆる交渉において相手を説き伏せる説得力の旨さだった。例えばこうだ。ある商品を誰かに買わせようとする。そのためにどういった説得が相手に一番響くのか、そしてその商品を買うことによって、どうすれば相手が満足するのか、その点を言葉巧みに相手を自分の懐に引き釣り込んでしまう。リードは、営業力に人一倍秀でていた。やがてリードはメキメキと頭角を現し、保険会社でトップセールスの営業マンになる。社内で一番の高給取りになったリードは、貯金したお金を元手に不動産事業を始める。最初は、貯金を元金に銀行から融資を受け、四世帯の小さなアパートを建て賃貸として運用し、そこで生まれる利益を元手に更に物件の数を増やしていった。そうして、まとまった利益が生み出されると、今度は、その資金を元に小さなフリーペーパーの会社を設立する。始めは、情報源を唯一の武器としてあらゆる情報を掲載し街のありとあらゆるところに無料で配布した。そうして確実に読者の数を増やしていき、圧倒的な数の消費者をその媒体を使って獲得した。メディアが圧倒的な数を獲得すると、今度はそのメディアを媒介として多くの企業が活用しだそうとする。リードは自ら生み出したメディアを使って情報網を駆使するビジネスモデルを確立した。そしてリードは揺るぎない資産家になった。そこで彼の前へ突き進もうとする気持ちの変化が起きる。手に入れるものすべてが手中に納まると、それ以上は手の中に置いておくことが苦痛に感じられてくるのである。そうしてリードの中の何かが崩れ始めていく。もはや彼の中で、現状を維持していくことよりも、積み上げていくことの価値が失われたことの方が重大な感心事に変わっていく。そうして彼はひとつひとつを崩し始めていく。やがて彼は、資産のほとんどを放出し、無一文となり路上を彷徨う浮浪者となる。でもそこには、彼の感情や心の表現は一切表されない。淡々と起きる現象が綴られていくだけである。どうすれば良かったのか、人の生きがいとは何なのか、そういったお仕着せがましいストーリーではない。そこには一切の答えがない。ただ淡々と場面が展開していくだけである。

 児島は、目の前にあるカレーライスを頬張り、カレーの香辛料でヒリヒリする口の中をコーヒーで中和させた。さて、これから何処へ向かっていこうか、また、と言うよりも全てをリセットしたいま、再びということではなく、初めての未体験ゾーンの始まりなのだと思った。

 児島の行方不明は、社内でごく一部のものにしか知られていなかった。児島の所属する営業一部はもちろんのこと、制作部も同様で知られることはなかった。それは彼の業界では、出張で何週間も居なくなることは日常茶飯事のことであり、隣の部署がどういった業務を進行中であるか、ほぼ知られることはなかった。関心がないわけではなく、自分の業務に係わることで手が一杯なのである。経理部の宮城と常務の青山だけの極秘事項としてことが処理されようとしていた。
会計監査の結果、塚原台の外溝工事の追加発注に関する伝票類が徹底して調べられた。そして間に入っている児島が作ったトンネル会社の存在が明らかになった。発注先である実際の発注金額と納品請求伝票との差異が明らかにされたのである。そこで児島の作り上げたカラクリが露見されたが、ことの重大さはあまりにも大きく、公にしてしまうと博広の経営陣全ての責任に及ぶことから宮城と青山の間に暗黙の了解が取られたのである。児島の存在は、長期病気療養という形を取られることになった。

 喫茶店を出た児島は、コンビニの端末で今日の宿泊先を探し、ビジネスホテルに泊まることにした。熊本商店街から歩いて数分のところにあるビジネスホテルへ入り、チェックインしてすぐに外へ出た。通りを歩きながら、児島は目の前に広がる風景がいつか何処かで見た景色と同じことに気づいた。確か博多駅近くのタクシーの中でうとうとしていた時に見た夢の風景と一緒だと思った。通りをあてどもなく歩き続ける。そして一件の本屋へ入る。本屋の棚から一冊の本を取り出す。それは、リチャード・ブローディガンの「アメリカの鱒釣り」という本だ。散文的に書かれた小説は、鱒釣りについての話題をランダム的に書いてあり、アメリカモンタナ州の大自然の風景とそこで暮らす人々の様子を独特の調子で書いてあった。これもそうだ。夢の中で出てきた本だ。そうだ、確かこの後にコーヒーショップに入り本を開いて読んだんだ。そこで目が覚めた。それがいま目の前に展開されている。児島の頭の中にゆっくりと幻想の世界がフラッシュバックし、現実の世界と重なり合った。

 入社したての頃、児島に与えられた最初の仕事は、得意先と一緒に得意先の社内旅行へ同行することだった。同行というのは、実際には得意先の世話係のようなもので旅行代理店顔負けの世話をしないといけなかった。ホテルからゴルフに行く際の車の手配。ゴルフ場に着いたら、スタート位置への誘導とそれぞれのショットシーンを写真に納め、褒め言葉を添える。全員ラウンドが終わると、表彰の手配、司会を兼ねての賞品渡しの段取り。さらには、ゴルフ場から宴会会場への手配。その宴会が終わると、得意先の中でも特に故意にしている担当者を含む数人と連れ立っての近場の飲み屋街へ。そこでも場を盛り上げるために、まず先頭を切ってのカラオケトップバッター、そしてゲーム大会など、とにもかくにも裏方の世話係に徹していた。得意先の言うことには、絶対服従で、得意先が白と言えば白、黒と言えば黒なのである。そういったことを長いこと続けていると、そのことが当たり前の世界になってしまう。それが全ての仕事の進め方になって行く。まさに大城ハウスの山崎の言うことには絶対服従なのだ。それは、一社員である児島だけではない。宮城にしろ青山にしろ同じ道を歩んできている。だから児島のしたことは、懲戒解雇に値することで許されないことではあるが、代理店の営業担当であれば誰しも陥りやすい罠だと理解している。その道中に到る経緯は手に取るようによくわかるのである。広告代理店の営業の一線で働いたものには、その絶対服従の意味が良くわかるのである。制作の現場にいる人間は、そうした営業の苦労が頭では分かっていても、経験がないから個々人のわがままを通そうとし、それが得意先の反発を招いた際も、営業担当は板挟みとなり四苦八苦するはめになる。得意先の一喜一憂で何億単位の扱いが左右されるのである。そうしたことをつらつらと児島は思い描いていた。でもそうしたピエロに徹していた児島ではあったが、決してそれが嫌いと言うわけではなかった。そうしながらも結構自分がやりたい方向へ得意先の考えをコントロールすることができたし、逆に言えば得意先が言うことに順じてさえいれば、すべて思い通りになるのである。広告表現がどうとか、プロモーション計画がどうとか、そういったことを提案する前に、実は仕事はすでに完了したも同然なのだ。これが接待というものだ。広告の世界ほど無責任な仕事はない。大凡の企業が求めるものは、結果を求める中、広告の結果は突き詰めればはっきりとした数値がでることはない。テレビの視聴率というものがある。だからと言ってその視聴率の高さに順じてスポンサーの商品がどれくらい売れたか正確な数値が出されることはない。その時に交わされる会話は、ずっと昔から同じ会話なのだ。
 「先週の視聴率はかなり悪かったようだが?」と得意先の担当が言うと、「確かあの日は、朝から蒸し暑くて最高気温が三十度まで上がってませんでした?」と全く根拠のない天気の話を持ち出す。挙句の果てには、「やっぱり、ほとんどの人が外出したんじゃないでしょうかね……」と返事をすると、「ああ、それはあるかも知れないな」と妙に納得してしまい、それだからと言って、視聴率が商品の売上げに影響することもあるまい、などと思ってしまう。そう言っておいて、さらに「テレビというものに即効性の効果を期待してはいけません。長く続けることに意味があるわけで、例えばコカ・コーラは誰でも知ってますが、これが十年間全く広告を止めてしまったらどうでしょう。その十年間に生まれた人はコカ・コーラという商品を知らないということになる。だからどんなに認知されている商品でも長期間広告を出し続けることが必要なんです」
そうした本筋からずれた話をもっともらしく話し出す。児島は思った。結局、俺がやってきたことは、大衆を得意先の商品購買へ誘導するためのフェイクだったのだ。そうして、いま自分が突き進んでいこうとしていることもまたフェイクなのだ、と。

 博広の決算は、何事もなかったかのように決算期を通り過ぎていった。まるで、通りに散らかった新聞紙を風が吹き飛ばしていくように跡形も無く消し去った。企業の決算ほど無責任なものはない。決算期が近づくとあれほど帳尻合わせに四苦八苦していたのが、一旦、とある社員を人身御供として処分する代わりに損金として計上し処理され新しい期を迎える。そして何事もなかったかのように進んでいく。そうして博広は、晴れてマッコイ&シンプソンとの提携に漕ぎ着けたのである。その一年後に、博広へM&Sの資本が入り、社名もマッコイ&シンプソン・ジャパンとして本格的なグループ会社に変貌を遂げた。青山はその後に、株主総会において常務取締役から代表取締役として納まった。そうして青山時代がマッコイ&シンプソン・ジャパンで続くことになった。
そして十年の年月が流れた。

そして十年後

それから舞台は、十年後の話になる。場所も違えば、登場人物も変わる。全く新しい物語として進行し、巧妙な仕掛けによって全てが変わってしまう。

 レイコの夢は、一流のダンサーになってニューヨークを舞台に活躍することだった。まずは、その夢を実現するために手っ取り早くお金を稼ぐことだった。その為には、手段も選ばない。理想的な方法としては、自分に投資してくれる人物に巡り合うことである。とは言うものの、そういう人物に巡り合うことなど、一パーセントにも満たないことは明白であった。しょうがないな、と思った。レイコは、それ以上深く考えることが苦手なこともあって、女の武器である身体を売る商売に身を投じることにした。取り敢えずお金を稼ぐことだけ考えれば手っ取り早かったし、可能性は少ないが、お客の中に彼女の運命を大きく変える人物が現れるかもしれないし、その出会うきっかけさえ掴めれば、それでもいいと思ったからである。
 たまたま駅前のCDショップで、大好きなポップアニメーションダンサーであるディトーのDVDを買おうと、そのパッケージを手に取り眺めていたら、ふと横に誰かの視線を感じた。レイコは、その無粋な視線にじりじりと突き刺すような圧迫感を感じ、視線の方向に敵対心をこめて言った。
 「なに? 何か用事?」
 すると、その視線の先にいた男が言った。
 「いや、そのDVDを俺も買いたいと思ってたんで……」
 ぶしつけな視線を投げかけるわりには、遠慮がちな返事だったことと、ディトーに興味があるんだということの親近感も沸いて、レイコの敵対心は和らいだ。
 「ふうん、あなたもディトーに興味があるんだ」
 「いや、そのディトーってのはよく知らないけど、パッケージデザインが面白そうだったから」
 「はあ? パッケージデザイン? 何それ」
 レイコは、せっかく沸きかけていた親近感が一気に萎んでいくのを感じた。それと同時に、そのDVDの値段が高かったせいもあり、買う気も失せてきた。
 「まあ、デザインで買うというのもありだと思うけど……」男が言った。
 「いいわ、わたし、買う気がなくなったからあなたに譲るわ」
 正直なところ、手頃な値段であればと考えていたので、それにこだわる理由もなかった。
 「本当に? でもいいのかな? 何だったら俺の家で一緒に観てもいいけど」
 要するに見え透いたナンパなの? と思いレイコの中に怒りにも似た気持ちが沸いた。
 「どうぞ、好きになさって。それじゃ」レイコがそう言ってその場を立ち去ろうとすると、何を勘違いしたか男はにっこり笑ってレイコの袖口を掴んで言った。
 「すぐ近くなんだ。この店のすぐ裏さ」
 レイコは、予想外の男の行動に驚いたのもあって大声を張り上げた。
 「ちょっと、何すんのよ! 勘違いしないでよ、バカじゃないの」
 レイコはそう言って掴まれた手を振りほどくと、大股でその場を離れた。
 「どうだろうか、この出会いというのは無理があるかな?」
 ショートムービーのシナリオライターである山根真一が、監督をしている関根誠に訊いた。
 「大いに無理があるね」眼光鋭い関根は、山根を見ずに軽く息を吸い込んで、その息を鼻から軽く出したのち、右手で右側の髪を掻き揚げながら、どうしようもないなという顔をして言った。
 「どこだろう、女を武器にするというところかな……」山根は自分が話していることが不自然ではないとでも言うようにつぶやいた。
 「そもそも会話が不自然過ぎると思うがね」
 「会話? でもああいう会話は普通にないかなあ……」
 「ないね。横から眺められたからと言って話しかけたりはしないし、パッケージデザインが気に入ったから買うのもかなり不自然だ」と関根は断定的に言った。
 「そうかなあ…… ないかなあ」と山根はつぶやきながら「ところが、これが実際にあった話だとしたら?」と挑発するように言った。
山根に思いもかけないことを言われた関根は、思わず「うっ」と絶句し実話だったのかと思った。
 「どんな話なんだ? もったいぶらずに言えよ」関根は別に怒ってはいないが、ぶっきらぼうに言った。そうして山根の実に興味深い体験談が始まった。
 山根真一は、DVDショップで見かけた男に興味を抱いた。特別にどうという訳ではないが、何となく二人の意外性のある会話に惹かれたのだった。その男は女性から受け取ったDVDの代金を店頭で支払い店から出ると、通りを真直ぐに歩き出した。山根は男が一人で店を出るのを見て後を追った。通りに出た男は角を右手に曲がり、すぐのマンションへ入ろうとした。山根は男がマンションへ入りそうなのを見て思い切って声を掛けることにした。
 「あのう、すみません。ちょっとよろしいでしょうか?」
 「何か?」男は無表情な顔で答えた。
 「いや、あなたが買われたDVDのことでちょっと…… 商品を盗み見したわけではないのですが、気になることがありまして」山根はとっさの思いつきで言った。
 「ああ、このDVDのこと? それが何か?」男の表情は、まるで感情が感じられない能面のような顔をしていた。
 「それディトーのDVDですよね。ディトーに興味がおありかと思いまして」
山根はさっきの会話を聞いてなかったかのように改めて訊いた。
 「興味があったらどうだと言うんだ?」まだ男の表情には何ら感情が浮かんでいない。
 「いや、もし興味がおありでなかったら、私にそのDVDを譲っていただけないかと思いまして」山根は大胆な提案を述べた。
 「どうして? 中身に興味があるかどうか問題でも? 興味があるかないか、買ったんだから答えはわかるんじゃないか?」男の答えは非常に回りくどい。
 「ええ、ごもっともです。興味がおありだから買われたと思うんですが、もしかしたら買ったものの興味がない場合もあるかな、と」山根もやや回りくどく答えた。
 「なるほど、そういうケースもあるかも知れない。じゃあ君はどういうケースがそれに当たると思うんだ?」男はさらに回りくどく訊いてきた。
 山根とすれば、先ほどの会話を聞いていたから答えはわかっていた。この男は、ディトーには興味がない、というよりもディトーが何者かさえ知らない。この男が興味があるのは、中身ではなくてパッケージだと断言していた。パッケージに興味があるとは、どういうことなのか? あるいはパッケージに興味があるというのは口実かもしれなくて、このDVDを買おうとした女性の気を引こうとした単なる下心だけのことなのかもしれないとも思った。山根があれこれ思考してるとふいに男が言い出した。
 「譲って欲しいということは、君はどうなんだ? 君自身はこのアーティストに興味があるということか?」
 男が思うにはこうだ。山根がDVDに興味があるというのは、口実であって、本当は自分に興味があるからであって、そのきっかけ作りにそう言ったまでのことだ。だとするならば、自分に興味があるというのはどういうことか。そういったことをこの男は思ったに違いなかった。ここは正直に話した方がいいかも知れないな、と山根は思った。
 「まず最初の質問については、ひとつ考えられるのは、DVDそのものよりもパッケージデザインが気に入ったというケース。そしてもうひとつはDVDを買おうとした女性の方に興味があったというケース。そのいずれかじゃないかと思います。で、私自身はパッケージデザインが気に入ったと思ったわけです。そして次の質問については、私が譲って欲しいと言ったのは、単なるきっかけ作りが欲しかっただけで、そういうパッケージデザインが気に入ったというあなた自身に興味が沸いたということです」山根は一気にまくし立てた。
 山根の説明を不思議そうな顔をして聞いていた男は、しばらく考え込むようにしてその後にふいに笑い出した。
 「クックック、なるほど、いやいや恐れ入った。君は心理カウンセラーか何かかい? それとも人の心が読めるエスパーかな?」
 「いや、映画のシナリオライターをしています」
 「ほうほう、シナリオライターか。じゃ何かい、俺は格好のネタになりそうな人物ということかな?」
 「そうとも言えますし、そうじゃないとも言えます」
 「なるほどね。ともかく君としてみれば俺という存在に興味津々なわけだ」
 「ひとつ訊いてもいいですか? なぜパッケージデザインが気に入ったのか、それとそういうことだけでわざわざ買うものなのか」
 「どこをどう気に入ったか気になるということか? それは説明が難しいな。ちなみにこのDVDのディトーについては詳しくは知らないが、ある程度は分かっている。分かっているという意味は、感度が分かるという意味だけどね。つまり彼女の生い立ちやプロフィールがどうとかいうのは全く知らない。ただ一度だけその踊りは見たことがある。エベレストかどこだか忘れたが、有名な山岳の頂上で踊っていてそのシーンだけは鮮明に記憶している。それとそのシーンのBGMもね」
 「感度が分かるというのはどういう意味だろうか」
 「感度というのは、ある意味センスといってもいい。例えば色を好むとき、人それぞれだがそれがぴったりと一致するときがある。それが感度が分かる、あるいは感度が一致するということだ。それは理屈じゃないし、何ら理由もない。白が好きなら白が好きなだけで、そこにはなぜ白が好きなのかと訊かれても答えようがないということさ」
 「じゃあそのディトーとの感度が一致したということなのか」
 「ディトーというわけではなくて、記憶していたシーンと一致するパッケージデザインとの感度が一致したということかな」
 「随分とややこしい話だな。山根らしいといえばらしいが、その男も随分と変わった奴だな」関根は溜息がちに言った。「で、そのパッケージの件はどうなったんだ?」と関根が問いかけると再び山根は話し出した。
 「デザインそのものに興味があるということ?」山根が訊いた。
 「デザインに対して興味があるないとはあまり言わないと思うが…… 好きか嫌いかじゃないか?」男の答えは実に的を得ていた。
 「あなた自身そういう仕事に就いていたのかな?」さらに山根が訊いた。
 「ある程度似通ってはいる。でも自分がそれをするわけじゃない。そういうことをする人物と関わり合うと言った方がいいかもしれない」
 その男は話をしている間、ずっと虚空を眺めている。そしてしばらくして男が言った。
 「そういうわけで、いますぐにこのDVDを譲ることは出来ない。どうしても欲しかったら一週間経ってから連絡してくれ。その時にどうするかは分からんがね」
 そう言いつつ男は連絡先が書かれてあるカードを差し出した。それにはKという文字と電話番号だけが書いてあった。
山根は一週間後にさっそく電話をしてみた。ところが呼び出しのコールは鳴るが、電話に出る気配はなかった。何度か電話して見るが結果は同じで一向に繋がらず、再び男に出会ったマンションに行ってみることにした。
 マンションへ辿り着いたところで、男がどの部屋にいるのかは分からない。山根はどうしたものか思案に暮れた。考えた挙句、どうしようもないので出口のところにある垣根を超えた通り向かいにある草むらに潜んで見張ることにした。一日中部屋の中にいるということは考えにくいから、長くても二十四時間以内には必ず入口を通るはずだと思った。近くのコンビニで簡単に食べられる食料と下に敷くシートを買ってきてそこに座り込むことにした。山根がやっている行動は全く無意味なことで、何の目的で、その男のことを執拗に追い続けているのかということが彼自身の頭には入っていない。ただあるのは、男の正体を突き止めることであって、もっと言うならばその男がどういう人生を歩んできたのかを知ることだった。山根はなぜそういう無意味なことをするのか自分自身分かっていない。
 じっと待ち続けることに苦痛はない。山根はむしろそういった時に頭の中であれこれと空想することによって退屈しない方法を心得ていた。
 そうだ、まずあの男が就いていた仕事のことだ。手掛かりはある。ディトーというポップダンサー、まあこれはアーティストということでひとくくりで考えてもいい。そのアーティストに関わりのある仕事をしていたということだ。アーティストと関わるというのはどういう仕事だろうか? そうだ、デザインに興味があるというのだから、そのアーティストを売り出す、あるいは表現する…… 撮影のカメラマン、衣裳のコーディネイター、照明係り、撮影について言えばそういうことだ。編集者、コピーライター、グラフィックデザイナー、雑誌などで言えばそういうことだ。現場を仕切るディレクター、全体を総括するプロデューサー、さらにはクライアントとの繋ぎ役の営業担当、代理店的仕事で言えばそういうことだ。山根自身、映画のシナリオライターだけでなく、代理店からの依頼で色んなライティングの仕事をすることも多々あり、その手の業界には詳しかった。なるほど、ある程度は近い線を行っているかもしれない。山根はひとり合点し納得した。
そう言えば、山根自身、遥か遠い昔にそういったことをしていたような気がしていた。今年で何歳になるのかさえよく覚えていないのだが、関根の話によれば、多分六十歳ではないかと言う。話の端々に今年六十歳になる関根と共通の話題が出来るからだった。例えば、小学校六年生の頃にテレビでケネディ暗殺のニュースをおぼろげに覚えていたし、アポロの月面着陸も覚えていた。中学校時代によく口ずさんでいた歌がエルトンジョンのユアソングだったり、ギルバートオサリバンのアローンアゲインだったり、関根と一緒に居酒屋で酒を交わしながら大いに盛り上がった。
 山根は、公園のベンチで背広を着たまま意識不明でいたところを関根に見つけられ、そのまま病院に運ばれたが、回復後記憶喪失になっていた。そうして行き掛かり上、しばらく面倒を見てくれたのが関根だった。不思議な縁だった。その山根が記憶は戻ってないが、関根の仕事に関わることで無類の才能を発揮したのである。関根は映画監督としてショートムービーを手がけていたが、その関根のところには、昨今の動画配信ブームもあり、企業からのネット配信をするためのショートムービー制作の依頼が舞い込んで来ていた。山根は、そのショートムービーのシナリオを手掛け次から次へと書き進めたのである。どうしてそのような引き出しが沢山あるのか不思議だった。海外のこと、国内の大手企業のこと、ありとあらゆる業界業種に精通しており、経験値豊富だった。まさに知らないことはないと言ってもいいくらいで、しかしただひとつ自分自身のことだけが知らなかった。
草むらの茂みの中は、丁度いい按配に一人座るスペースがあり、さらに都合がいいことに横になると、頭の位置に枕木のようなものがあった。山根は、その空間にすっかり満足した。よしよし、これなら二十四時間ここに居座ることも苦痛じゃないな。そう思いながら待ち続けることにした。最初は、入口を出入りする人々を観察し続けることで退屈さを紛らわしていたが、その内あまりの変化のなさに時間ばかりが経過していくことに気づいた。そうだ、さっきの続きを考えることを忘れていた。あの男の素性だ。どういう人生を歩んできたのか。まずは過去に就いていた職業のことだった。そうだアーティスト関連業界だった。まああの業界も色々とあるが、あの男の鷹揚な態度と自身ありげな様子から取り敢えずは、全体を総括する仕事に就いていたということにしよう。いわゆるプロデューサー的な仕事だ。そうするとある程度はそれ相当の収入もあったに違いない。待てよ、今もその仕事に就いているのかどうか、それはさっきの話しぶりからすると過去形の話だったような気がする。じゃあ、今はその仕事に就いてないとすると、何らかの理由で辞めたとということだな。どういうことで辞めたのか、そこが問題だな。
 山根の空想は、果てしなくどんどんと膨らんでいく。その間に、マンション入口を多くの人が出入りしているが、目的の男は一向に現れない。
 まずは、家族構成だが、子供がいるようには見えなかったが独身ではない、あるいは独身ではなかった。妻がいる。しかし現在は一人だとすると、家庭を捨ててきた、あるいは妻を先に亡くしたか…… いやいや、どちらかと言えば家庭を捨ててきたタイプだろう。大体、ウィークデーの日中にDVDショップにぶらりと立ち寄る時点で、現在はたいした仕事もしてなさそうだし、家族もいる風には見えない。
 さて、そうした男がどういう経緯で無職になったのか。それなりの地位も名誉も収入もあった男がなぜ今の状態なのか。
 山根の頭の中で、ショートムービーのストーリーがすでに始まろうとしていた。
男の名前は、仮にKとしよう。Kは結婚して十年になるが、子供はいない。妻の名前はYとしよう。仕事は広告代理店の営業担当だ。
 そうすると、自分自身あの男と同じような境遇にあったのだろうか。山根は遠い記憶を辿るように遡って考えてみた。山根は、色んな事柄の知識について考えてみた。例えば、訪れた地域についてだ。なぜ北米や東南アジアなど知っているのか。おそらくそうしたところに何度も訪れているのだろう。あるいは、夜の繁華街を歩いている自分がいる。どこの街かはわからないが、誰かと一緒にいる。自分より立場が上の人物である。その人物と酒を酌み交わしているが、しきりに相手に話を合わせている自分がいる。そこがどういうところかはよくわからないが、料亭のようなところにいる。そうか、そういう接待みたいなことをやっていたのかもしれない。
 Kも同様に営業担当として、スポンサーを接待する立場にいた。来る日も来る日も接待の繰り返しの日々だ。そしてある日、重大な相談事を持ちかけられる。大きな取引と引き換えに個人的金銭の流用を強要される。Kにしてみれば、断れるはずもなく引き受けてしまう。それが転落の始まりだ。Kは気づけば会社の金を一部スポンサーへ個人的流用金として動かし、さらに自分自身も同様に流用してしまう。そうしてある日、会社の会計監査が行われKの不正が発覚する。
 一方、妻との関係はどうだったのか。子供もおらず二人だけの生活で特に問題はないが、何も問題がないこと自体が問題であって、そもそもが生き方の違うもの同士が一緒に暮らすと様々な軋轢が生じてくる。嗜好品、趣味、生活パターン、それら好き嫌いがぴったりと一致する夫婦なんて、この世の中にどれぐらいいるだろうか。そうした些細な日々の積み重ねが日常のひずみとなって蓄積されていく。そしてある日突然その亀裂の拡大が限界に達し崩壊してしまう。そこに理由を見つけようとしても、そこには一切の理由などない。一番近くにいて分かり合える存在のはずの妻に対して、何処まで行っても理解し難い存在である事実を知らされる。答えを羅列し、項目を箇条書きにしたところで、一つ一つ検証してみると、それらは実に取るに足らない、問題とすらなり得ない笑って済ませていいはずのことばかりである。例えばこうだ。何気ないことを言ってみる。
 「今日は、蒸し暑いな、まるで東南アジアのようだ」とKが言う。
 「東南アジアは蒸し暑くないわよ。何言ってんのよ」とYが言う。
 「そんなことはない、香港なんか一年中こんな蒸し暑ささ」とKが続けて言う。
 「東南アジアは蒸し暑くないわよ、日本だけよ、こんな蒸し暑いのは」とYが言う。
 そうすると、Kはそれ以上言うのが馬鹿らしくなってくる。東南アジアは亜熱帯気候だから蒸し暑いに決まっているということを主張することにどれだけの意味があるのだろうか? そんなことで相手の主張をねじ伏せたところで、問題の是非よりもねじ伏せられたことへの嫌悪感だけが相手に残ってしまう。間違いだろうが、何だろうがそんなことはどうでもいいとなってしまう。傍から見たら、何が問題なのか皆目検討がつかない。それよりも現状を維持していくことの方が絶対的に裕福に暮らしていけるはずなのにだ。Kにとって重大なことは、自我をつらぬくことの方が、現状の生活を維持していくことよりも大事なことであって、たとえ朽ち果てようとも、社会と隔絶したことになろうとも大事なことなのだ。そうしてKは徐々に社会と乖離する考えに支配されていく。社会生活を営むには、個人のあらゆる情報を登録しなければならない。戸籍登録、住民登録、まずはこの二つを登録して初めてKという個人が社会に存在する。逆にいえば、この二つがなければKという人間は、存在しないことになる。そして生活をしていく上で、住むところに加えて日々の食費、それに伴う光熱費、そしてそれらを賄うための収入が必要となり、その収入を得るために仕事をしなくてはいけない。そして一定の収入を得るための仕事に就くためには、個人情報が必要不可欠であり、携帯電話しかり、歯の治療をするための通院に必要な保険証しかり、それらが揃って初めてようやく個人としての活動ができるのである。
 しかしKは突如として居なくなる。家庭を、仕事場を、街を、これまで積み上げて来た人生そのものをすべて放り投げてしまったのである。当座のお金は持っていた。ビジネスホテルに宿泊して、普通に暮らしていても半年間は過ごせるだけのお金を所持していた。それを持って、今まで訪れたことのなかった町を渡り歩いた。最初は、何も考えずにただぶらぶらと過ごした。朝起きてホテルで朝食を取り、テレビで朝のニュースを見てパソコンの入った鞄を持ち、スーツに着替えて町へ出た。目的はない。唯一社会と繋がっているのは、ネット上の見知らぬ相手だけで、その見知らぬ相手と仕事的なやり取りをする。それは、Kが得意とするマーケティング論だったり、ライティングだったりする。時にはプレゼンテーションのやり方などをネット上で会話したりする。例えば、選択肢の話だ。二択と三択の違いについて、二択の場合は、是か非かで究極の選択を迫られるが、三択になるとそこに余裕が生まれる。そこで、相手に余裕を与えておいて、三択の順位を予め用意周到に仕掛ける。さてそれぞれの選択肢のパーセンテージはどうなると思う? 上、並、下があったとすると、かなりの確率で並を選ぶ、そういった会話を続ける。Kはそうしたマスを相手に情報操作だったり、心理を衝いた情報提供によって、思い通りになることに無常の喜びを感じていた。それは、突き詰めれば、自分というものが唯一無二の存在であって、全てを自分の思い通りに操作することが出来るという絶対君主的な考えでもあった。
 しばらく通りを歩いていくと、一軒の書店があった。さほど大きい店ではない。むしろこじんまりとした書棚と書棚の間に人ひとりが立つと、すれ違うのに苦労する狭さだ。Kは、開き戸の入口ドアを押して中へ入った。二メートル以上ある書棚と書棚の間の通路は奥の突き当たりまで見通せて、一番の奥のところにカウンターがありそこに一人の男が座っていた。年の頃は、六十歳過ぎにも見える。あるいは、七十以上かもしれない。濃い茶色の太い縁をした眼鏡を掛けており、頭はやや薄くなりかけた白髪と黒髪が入り混じっている。見るからに疲れ果てた様子で前屈姿勢のまま、本を読んでいる。Kが入ってきたことに対し、目もくれないし声を掛ける風でもない。ひょっとしたら気付いてないのでは、とすら思える。Kはその男の近くまで入って行った。
 「何かお探しかな?」突然、カウンターの男が前屈姿勢のまま、そして視線は読んでいる本に落としたまま、Kに向かって言葉を発した。
不意打ちのように問い掛けられたKは、ギクっとしたがその様子を悟られまいと努めて冷静な素振りで咳払いをひとつし落ち着いてゆっくりした口調で答えた。
 「この町を紹介している本を探していますが、ありますか?」Kは単に思いつきで言ったまでで、そんなのを探していることなど、一秒も前までこれっぽちも思ってなかったことだ。瞬時に思ってもないことを口するとはどういう頭の構造なのだとKは我ながら思った。普通は、頭の中に思いついて次にそれを口に出す。でも頭の中に思いついてなくて、突然口から発するとは、一体全体どこからその言葉は来るんだ? と思った。
 「ありますよ。色んなバージョンがあるけど、どういったのが好みかな?」
 「色んなバージョンとは、例えばどういうのですか?」バージョンと言われ興味をそそられたKは引き込まれるように訊ねた。
 「例えば、この町の歴史だけを紹介してたり、いま現在の観光地だけを紹介してたり、他にももっと面白いものもありますよ」
 「他のもっと面白いものって何ですか?」
 「この町を動かしている人物を紹介しているものがある」男は、どうやら興味がおありのようだな、とでも言わんばかりに人差し指を立てて言った。
 「町を動かしている人物?」
 「そう、町を動かしている人物だ。それらの人物のプロフィールが載ったものだ。氏名、年齢、住所、連絡先、勤務先、過去の実績、所有する技能、そういったことが網羅されている」男は言った。
 そんな、個人のプライバシーに関わるものが本当に売り買いされているとは驚きだった。一体全体、誰が何の目的でそんなものを作ったのか? Kも職業柄マーケティングデータを作る上で、意識調査や動向調査といったものを作ることはあった。しかし、あくまでもそれは、プロフィールデータであり、個人を特定するものではない。スポンサーが目的とする対象商品の購買層を絞り込むためのターゲット層を浮き彫りにするだけで、何処の誰それまでを明確にするものではない。もしそういうことがわかったならば、それこそピンポイントでそのターゲットに直接的にアクセス出来てしまう。しかも事前に相手のことを十二分に把握して用意周到にリーチ出来てしまう。Kはその本の出所の是非はともかく何としてでも手に入れたいという気持ちになっていた。
「どれぐらいの数が載っているんですか?」
「二名だ」
「たった二名?」
「そう、たった二名だ。この狭い町を動かしているのは二名もいれば十分じゃないかな」
「それでその本はいくらするんですか?」
「あなたが決めてくれ。私が編集して作ったファイルだ。一冊しかない」
「その二名は、それぞれ価値のある人物だろうか?」
「それは、難しいな。価値があるかどうかよりも、このストーリーを左右するターニングポイントになる人物であることは間違いない」そう男は言った。
 山根が勝手に思いついたことではあるが、ここで山根の頭の中に二名の名前が浮かぶ。いずれもサラリーマンだ。サラリーマンがこの町を動かしているだって? 一人目は、大手住宅会社の取締執行役員である。名前を浅沼俊夫といった。もう一人は、マッコイ&シンプソン・ジャパンの代表取締役社長、青山寛治。この二人の名前がすらすらと山根の頭の中に浮かんだのである。どうしてなのか、俺が過去に関わりのあった人物なのか? でもそれがどういう関わりなのか、皆目検討すらつかない。あとは今すぐに思いつかない。ゆっくり考えるとしよう。そうそう、これは俺のストーリーだからな、別にどう考えようと問題にすべきことではない。勝手に作ればいいことであって、いちいち気にすることではない。
 Kは二名の人物のファイルが載った冊子を二万円で買い、さっそく喫茶店に入り見てみることにした。最初に出てきたのは、編纂についての但し書きのようなものだった。おそらくさっきの書店の男が書いているのであろう。それには、この冊子に書かれている内容についての調査に至る経緯と個人ファイルの取り扱いについての注意書きみたいなものだった。
 この町を動かしてる人物リスト。というタイトルらしきものが最初にある。
 ”この町の方針を定め、この町の開発や周辺市町村、県や国との係わり合いに関して多大な影響力を持つ人物が二名います。この二名に対してアクセスするには、本冊子を十分に熟読検討された上でおこなって下さい。尚、データ内容の是非、アクセス後のトラブルに関しましては、当方は一切の責任を負いませんのでご了承下さい”
 随分と突き放したような書き方だなとKは思った。
データファイル1.
 氏名:青山寛治
 年齢:七十二歳
 住所:福岡市南区高宮二丁目十四ー三
 家族:青山幸恵(妻)六十九歳
 職業:会社役員 株式会社マッコイ&シンプソン・ジャパン 代表取締役社長
データファイル2.
 氏名:浅沼俊夫
 年齢:六十五歳
 住所:福岡市早良区百道一丁目十五ー二十八 レジデンシャルタワー百道二○三
 家族:浅沼美智子(妻)五十九歳、浅沼由紀(長女)二十九歳
 職業:会社役員 三島ホーム株式会社 取締執行役員九州支店長
データファイル3に行く前に、ここで前述した二人の関係について記しておきたい。青山寛治は、M&SJAPANの前身、博広時代に専務取締役であったが、イギリスに本社を置くグローバル企業、M&Sとの業務提携を画策していた。その矢先に福岡市の大型団地開発に関わる話が持ち上がり、旧知の仲であった浅沼俊夫に話を持ちかけた。青山と浅沼は同じ大学出身である。同時代に大学での接触はなかったが、たまたま同じサークル活動で知り合った仲であった。学閥は仕事をする上で、さほど問題ではないが、時に強固な絆を形成することがある。浅沼は青山からの話を受け早速その話に飛びついた。それには条件があった。青山が画策しているM&Sとの業務提携に反対していたのが、当時の代表取締役社長景山久幸だった。その景山を失脚に追い込み青山自身が代表の座に納まるには、まずはM&Sとの提携を成功させ、M&S本部からのお墨付きを貰うことであった。
策略は用意周到に行われた。青山から話を受けた浅沼は、まず餌を撒くことにした。それには餌に飛びつきそうなカモが必要だった。そのカモは会社の金を個人的流用している人物が相応しい。尚且つ世間体のあるそれ相当の地位にいる人物だ。
 Kはそれを読み進んでいくが、何を書いているのかさっぱり理解出来なかった。要するに、この二名が他人と違う策略を張り巡らし、この町において絶対的な地位を確立した、とそういうことか?
 山根の話を聞きながら関根は思った。登場人物の中にいくつも話が出てきて、かなり支離滅裂な様相を呈してきているが、この話に出てくるKというのは、実は山根自身ではないか、と。Kを追い続けている山根は、実は自分自身と会話をしているのではないか、山根が話しているKとは、山根自身の頭の中に出てくる人物であって、実際に実在する人間なんかじゃないのではないか? 途中からKの話になっていき、そこはあくまでも山根がKを待ち続けている間の単なる空想の話ということだが、リアリティを持った山根の話は彼自身の過去の出来事ではないのか? Kを待ち続けるまでは良かったが、なぜそこで執拗に自分の空想の話になって行くのか? そう関根は思ったが、話し続けている山根に対して問いかけようとすることが出来ない。出来ないばかりか、話し続ける山根のストーリーに引きずり込まれていた。山根の話はさらに果てしなく続いて行く。
 浅沼が照準を絞ったのは、大城ハウス営業部長、山崎桐彦だった。浅沼が部下を使って大型開発の情報を流したところ、旨いことその話に飛びついたのである。そしてその餌にありついた山崎は、Kに話を持ちかけた。Kにその餌を実らせるために策略を持ちかける。
ところが、浅沼の罠にはまった山崎はその策略を暴露されてしまう。すんでのところで、Kはその罠をすり抜け一切を断ち切ってしまい、逃げおおせた。
 そういったことが長々と書いてあった。つまり、Kはこの街を支配するこの二名によって闇に葬られ、抹殺されてしまった。そして流浪の旅へ出ることとなったのである。
山根は思った。と、まあ大凡そういったことを経て現在にあるのであろう、と。
ここで関根は思い切って話を断ち切ることにした。
「ちょっと待ってくれ。そこまでは分かったが、そこまではただ単に、君がKという男を待ち続けているだけの話だろう?」
「そのとおりだ」
「だから君の空想の話はもういいから、結局Kは現れたのか?」
「いいや、現れなかった。それっきり二度とね」
 関根心療内科の院長である関根誠は、この不思議な話を続ける山根真一と名乗る男の話を聞きながら、どこまでが実際に経験した話なのか見極める必要があると思った。この心療内科へ山根が最初に運ばれて来たのは、一週間前の出来事で、一人の四十代ぐらいの男性に連れられてやってきた。山根の格好は、背広を着てはいるが何も持っていない。身元が分かるようなものも何ひとつ所持していなかった。最初の会話はこうだ。
「どういったことでしょうか?」関根は訊いた。
「どうもこうもないんです。朝、気づいたら公園のベンチに横になっていて、それで家に帰ろうとしたんですが、あたりを見るとどうも見慣れない風景ばかりで、それで思わず声を掛けられた男性に訪ねたんです。”ここは何処ですか?”とね。そしたら姫路城裏にある公園というじゃありませんか。私がどうして姫路の町にいるのか皆目検討がつかない。それでまあともかく帰ることにしようと思ったんですが、待てよ、家は何処だったんだ、と思ったわけです」と、山根の話が続いていく。
 ―― 俺はどうしてしまったんだろうか? 頭は正常に機能しているみたいだが、肝心の自分自身のことが分からない。名前、住所、年齢、職業、家族構成、その他もろもろの過去の記憶、そういった個人情報が、まるで保存していたコンピューターからうっかり消去してしまったかのようだ。他のことは正常に分かる。世の中の全てのことは正常に分かる。それはデジタル的にはっきりと区分けされている。過去に繋がることと個人的な記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっているのだ――
「君の氏名は?」
「山根、真一…… そう確かそうだ、山根真一」
「住所は?」
「住所は…… 分からない。でも姫路じゃないことは確かだ」
「職業は?」
「よく分からない。いろんなことがごちゃ混ぜに頭の中に浮かんでくるが…… 分からない」
「君の家族は?」
「いないのかも知れない。ひょっとしたらいるのかも」
「うん、ちょっとテストをやってみよう」関根はそういうと簡単なテストを始めた。学校の試験に出る基礎問題のようなものだ。社会、歴史、地理、数学、物理、化学それぞれの高校受験に出る程度の簡単な質問だ。山根はそれらをてきぱきと答えていく。山根の答えはパーフェクトだった。さらに難度を上げていく。山根はよどみなく答えていく。更に社会性の高いものに変えていく。法律問題、企業情報、社会情勢、次々に出す問題に適時答えていく。すべてパーフェクトだった。通常の成人が知らないことも、溢れんばかりの知識の宝庫と言ってもいいくらいだった。
「ちょっと質問していいかな?」関根には、山根の知識が常人の平均以上を行ってることに疑問を持った。
「自分以外の質問なら答えられると思うが」山根は答えた。
「君のその豊富な知識は何処から来るんだろうか? それを自分で説明できるかな?」
「おそらく以前勤めていた職業の為せる業じゃないかと思う」山根は人ごとのように答えた。
「その職業は、オールラウンドにBtoBの関係を限りなく広げていく職業ということなのか」
「その通りかもしれない。様々な企業に精通しているということは、そういうことじゃないかな」山根は自身ありげに答えた。
 診断の結果、山根は精神性一時的記憶障害と診断された。一時的に記憶障害となり、生活する上では何ら支障はないが、肝心の自分自身のことが分からないということであった。関根は山根の過去を探るために、催眠療法を試みることにした。
 
 始めに設定したのは、山根の豊富な知識を生かすため、関根がショートムービーの監督で山根がシナリオライターということにした。そうして山根が作るショートムービーのシナリオを手がかりに探ってみようということにした。彼のシナリオがどういう方向へ向かうのか、それを探ってみることにする予定だった。そこで話は先ほどの山根の空想の話へ戻る。
「それで君はどうしたんだ? そこで待ち続けていたんじゃないのか?」
「そう、待ち続けていた。ずっとね、ところが自分の中でKの過去については、おそらくこういうことであろう、と理解できたので、もうKに会う必要もなかろう、と」
関根自身、不可解な迷路に入り込んだような感覚がした。複雑に入り組んだストーリーの迷路だ。どこからどこまでが真実で、どこからどこまでが空想の話なのか、その境界線が見えなくなっていた。
「それでその場を離れることにしようと思ったが、疲れていたせいもあってか、そのままそこで眠りこけてしまった」
眠りから覚めた山根は、その場を離れ再びDVDショップを訪れた。店内に入りDVDの棚を眺めていると、端の方に先日見た女性がいた。彼女は、前回同様ポップアーティストのコーナーを見ていた。
「どうやらポップアーティストがお好みのようですね」山根は思い切って声をかけた。
赤の他人に対しての突然馴れ馴れしい言葉に、レイコは警戒心と敵対心を持った。ちらっと山根の方を一瞥すると無視して再びコーナーの方を向いた。
「実は、先日あなたが他の男の方とディトーのDVDの件で話をしているのを拝見していまして、それで記憶に残っていたものですからお声をかけた次第です」山根の説明は事実その通りだが、レイコにしてみれば、そんなことをいちいち述べられても個人のプライバシーに関わることであって、失礼で迷惑な話である。
「だから?」レイコは怒った顔で大きな目を見開いて言った。
「ひとつ提案があるんですよ。聞いていただけますか?」山根は、レイコの返事を聞こうともせず話し続ける。「あなたが興味を持っているDVDを私が買って差し上げるとしましょう。そこで提案ですが、その代わりに先日あった男を見つけ出していただく」山根の提案は、実に荒唐無稽な提案である。レイコとしてみれば、何処の誰かも知らない男にナンパのような声をかけられ、その場で怒鳴ってそれっきりの相手である。その男を見つけ出して欲しいという、実に馬鹿げた提案に、この男も先日の男と同様ナンパ目的なんだなと思った。
「私がその男を見つけ出してきたら、どうしようというわけ?」レイコは訊いた。
「実は、私は自分自身のことがよく分からなくて、自分の過去がすっぽりと抜け落ちてしまっているんです。それで、その男は私の過去をよく知っている男なんです。ですからどうしてもその男に会って自分の過去を知りたいんです」山根は、不可解なことを懸命に言った。
レイコは、この男は頭がイカれていると思った。確かに自分の過去が分からないという記憶喪失の人はいる。しかし、この男は、身も知らずの他人を自分の過去を知る者だと思い込んでいる時点で頭のおかしい男だと思った。それと、この男が見つけようが、自分が見つけようが同じことなのに、それをわざわざ自分に頼むこと自体意味のないことだと思った。
「なぜ私に頼む必要があるわけ? 自分で見つければいかが?」レイコはそう言った。
「そう思って、先日その男をずっと待ち続けていました。が、しかし男は現れませんでした。おそらく私の目の前には二度と現れないと思います。だからあなたなら、ひょとして見つけられるんじゃないかと思ったんです」そう山根は説明した。
 でもレイコは思った。たったDVD一枚ごときのことで、なぜ私が見ず知らずの男を捜さないといけないのか。見つけ出して他に何か得なことでもあるのだろうか? 極めて不可解な男の頼みごとにきっぱりと断りを入れてその場を立ち去ろうとした。しかし、山根は尚も執拗に食い下がる。
「荒唐無稽の相談だとお思いでしょうが、もし見つけていただいたら、それはあなたにとって道が開けるきっかけになるかもしれない、そんな気がするのです」
そんな気がする、あまりにも安易な言葉にあきれ果ててしまった。が、同時に道が開けるという言葉にレイコの硬く閉ざされた心にわずかな隙間が生じた。そのわずかな隙間は、まるで細菌が増殖するようにじわじわとレイコの心の中で繁殖していった。これまで何をやっても結局同じことの繰り返しで、相変わらず生活は苦しい日々の連続であった。自分は、まだ若い。だからまだチャンスはいくらでもある。そう思い続けてきて気づけばすでに三十二歳になろうとしていた。あと八年経てば四十歳である。八年なんてあっという間である。ともかく何かのきっかけが欲しかった。何でもいい、誰か自分の人生を劇的に変えてくれる、そんな人物に出会うことでもない限り、この今の現状から一歩も外へ出ることができないのだ。そう思い始めるともう頭の中はそのことで一杯になってしまった。レイコは、駄目もとでこの話にかけてみようと思った。駄目でも別にどうということではない。ただちょっと、無駄な時間を過ごしただけと思えばいい。それ以上、この得体の知れない男と付き合うこともないし、これから見つけようという男もまたしかり、ともかく一切を関わり合う必要もないのだから、それっきりにすればいいだけの話である。レイコはそう思い話にのることにした。
「いいわ、じゃああなたのいう相談とやらにのってあげてもいいわよ」レイコは、しょうがないから、どうせ暇だし、ちょっと付き合ってあげてもいいというニュアンスをこめて言った。
「そう、それはよかった。じゃあさっそくだが、まずはこのDVDの代金を払うことにしよう」山根はそういうと、レジでDVDを差し出し代金を支払った。
「とりあえず何処かで打ち合わせをすることにしよう」山根は振り向きざまレイコに向かってそういった。
DVDショップを出て通りを歩いた。すっかり陽は落ちて、通りに並んでいるベーカリー店や衣料品店に明かりが灯り、家路を急ぐ人やこれから夜の繁華街へ出掛けようとする人の往来が増えてきていた。山根とレイコは、人混みを掻き分けながら通りを進んで行った。この男は、わたしを拘束して何かよからぬことをしようとしているのだろうか? それにしても何の得があるというのか? あらためて考えると、話す内容は荒唐無稽だが、話し方は理路整然としている。一体全体何をしようというのだろうか。
 しばらく歩いて行くと、交差点の角にある一軒の喫茶店が目についた。交差点の向かいの角には、シックな装いのお店が荘厳な雰囲気を携え構えていた。山根は、そのこじんまりとした喫茶店に入って行った。レイコも後をついていく。店の中へ入ると、通りの喧騒から逃れたように静かな雰囲気で、二人は空いていた奥のテーブル席に座った。
「まずは自己紹介をしておこう。といってもさっき話したとおり、自分のことをよく思い出せないでいるがね」と山根は自虐的に言った。
「なに? じゃあ記憶喪失か何か?」レイコが訊いた。
「精神性一時的記憶障害というらしい」
「ふうん、大変だね。でもそれ以外は普通なんでしょ?」
「そう、それ以外は普通に理解出来ているし、頭がどこかおかしいわけじゃない」
それ以外が何なのかよく分からないが、そう山根は答えた。
「それでともかく今は、ショートムービーのシナリオライターをしている」
「ショートムービー? ショートってどれぐらいの長さ? それって儲かるの?」レイコはいっぺんに質問してくる。
「おおよそ十五分ぐらいが一般的かな。これオンリーで上映することはないさ、ほとんどがスポンサー付きの内容になっている」山根はそう説明した。
「でも記憶喪失の人でもシナリオライターが出来るんだ」レイコは感心してそういった。
「そりゃ出来るさ。だってほとんど自分とは関係のないことを書くわけだから」山根はそう説明した。
店の中は、静まり返っていてショパンのピアノ曲がかすかに流れている。店内にいるお客の声も密かにしか聞こえない。空気が真空状態のようで、発生する音がダイレクトに端から端まで伝わるようだ。会話も自然と小声になってしまう。
「本当は、自分で見つけ出して真意を確かめたかったけど、多分あの男は二度と現れてこないと思う」山根は突然話を切り出した。
「どうして? その確証はないわけでしょう?」
「何となくね、ただ何となくそんな気がするのさ」山根はそう言いながらショートホープに火を点けた。そういえば、この煙草もなぜ吸っているのか、自分自身の肺には随分と昔からこの煙草のヤニが溜まっているような気がする。
「ねえ、どうしてその男があなたの過去を知っているかもしれないと思ったわけ?」ふいにレイコが訊いてきた。
「その男が語っていたことが自分の過去と被るからだ」山根は答えた。
「どうしてあなたの過去と被ると分かるの?」再びレイコが訊いた。
「それは、例えばディトーのDVDのことを語るとき、はっきりと記憶していることを自分も記憶していたからだ」
「ディトーの何を記憶しているというの?」
「ディトーが踊っているシーンだ。彼女がエベレストの頂上で踊っているシーンをはっきと記憶していたからだ」山根の頭の中に、そのシーンが鮮明に蘇ってきた。
 児島隆は、初めての海外出張へ行こうとしていた。博広へ入社して五年になるが、今まで関わった仕事で海外まで出張に行くことはなかった。CM撮影といってもせいぜいスタジオで撮影するか、周辺で撮影箇所をロケハンし、ラッシュは市内の編集スタジオで行うのが常であって、海外へ出ることはまずなかった。しかし今回は、春先から売り出す飲料メーカーのキャンペーンCMで、国内での撮影だと季節的にどうしても無理があり、南国の楽園と呼ばれるタヒチ島での撮影をすることになった。撮影するにあたって、女性モデルの起用を選定しなくてはいけなかったが、予定していた女性モデルがNGとなり、急遽新しいモデルを決める必要に迫られていた。
 「ともかくただ美しいだけじゃ駄目だ。今回のスパークを連想させる弾けるようなイメージの女性じゃないと」児島は制作プロデューサーの西山裕樹に言った。
「わかってる。ちょっとこれを見てくれないか」西山はそう言って一枚のDVDを取り出した。「女性ダンサーなんだが、ポップダンスといういわばロボットのような動きをするダンスなんだが……まあ、ともかく見れくれ」西山は、児島の返事を待たずDVDをプレーヤーにかけた。
 その女性は、エベレストの山の頂上でダンスをしていた。雪山の頂上で、流れるような動きで踊っていた。美しく躍動感のある踊りだった。児島はその女性の動きに目を奪われた。今まで見たことのない踊りで、流れている音楽に合わせリズム感溢れる動きをしていた。そのリズムに児島の感性が揺り動かされた。そして児島の中の肉体そのものがそのリズムの波長とぴたりと一致した。
「これだ! これで行こう」児島は力強く言い放った。
 目を閉じると脳裏に躍動する女性の動きが鮮明に蘇っていた。そして山根の頭の中に感性が揺さぶられる音楽が聞こえてきた。
レイコは思った。もし本当に探してる男を見つけることが出来たらどうなるのだろうか、と。そうすることで、目の前にいるこの男の記憶が蘇り、そのことによって自分の未来が開けるのだろうか。そんな保障はどこにもない。というよりむしろその可能性は限りなくないに等しい。それなのに自分はいま、この男について来てこの場にいるという事実。
「ねえ、その男が住んでいるところは知っているの?」
「建物は分かる。でも部屋がどこかは分からない」
「何だ、じゃあ分かったも同然じゃない。だってそうでしょう? その建物で待っていたらそのうち出てくるでしょう」レイコはせっつくように言った。
「そう、だから待っていたが結局現れなかった」山根が答えた。
「どれくらい待っていたの?」
「三日間待った。それだけ待てば十分だろう」
「じゃあ、あたしも同じように待ってみるわ。そうするしかないじゃない?」
確かにそうだ。そうする以外に男と遭遇することはないに等しいことなのだ。
レイコは、山根から聞いた建物向かいの垣根のところを教えてもらい、コンビニで食料品を買い込みそこに張り込むことにした。幸い街中にいるのでトイレなどは周辺にあり不自由することもない。レイコは、今回初めてだがひとつ気づいたことがあった。都会の中は、一見何不自由なく過ごせるように見えるが、それは自分の住むところがあって、食事や風呂に入ったり着替えをしたり出来る場合であって、もし住むところがなく、食事や風呂に不自由するとしたら、その場に座ることさえ難しいということだ。公園のベンチですら寝転がることが出来ないように仕切りのポールを付けている。例えば、昼間であればデパートや大型ショッピングセンターに座るところがある。しかし夜になれば閉まってしまう。駅の構内やバスの待合いも終電などが終わると閉めてしまう。だからといって深夜24時間営業の店に行って寝ることが出来るかというと、座席に野転がっていると店員に起こされる。結局ホテルやネットカフェなどできちんと料金を払わないと寝るところを確保することは難しいのだ。
 レイコは、垣根の裏側にある芝生のところにシートを広げそこを待機場所にした。目立たないから良いものの、普通であれば都会の中にシートを広げ座っていたら、間違いなく警官に職務質問を受けてしまう。日本という国はそれほどに国民が管理されている。屋根のないところで寝ている人は、不審者とみなされるのである。レイコは、山根の指示通りそこで待ち続けることにした。都会の中とはいえ、近くはオフィスなどが入った雑居ビルが多くあり、むしろ夜になると極端に人通りが少ない。つまりは声をかけられる心配もなかった。夜はおそらく建物からの人の出入りはほとんどないだろうから、注意しないといけないのは昼間であろうと思った。垣根の裏側にいる利点は、出入りする人の顔を間近にみることが出来ることだ。山根から教えてもらったその男の特徴的な顔は、髪をオールバックにし、口髭を上下に生やし、そして黒縁のメガネをかけている。これだけ特徴的な風貌をしてて間違うはずがないと思った。メガネと口髭とは、変装する際の必須アイテムだわ、とレイコは思った。
 そうして待つこと三時間経ったころ、ついに目的の男が現れた。その特徴的風貌はすぐにそれと分かった。まさしくDVDショップで会った男だった。それと同時に、レイコはどこかで見た顔のように思えた。レイコは、自分の頭の中でその男のメガネと口髭を取り外してみた。そうだ、と思った。いま見ているのは山根真一そのものだった。ふざけた話だ。山根が探している男というのは、山根自身であって、そうであれば山根の前にその男は二度と現れない道理である。レイコはあきれ果てると同時に、その男の狂気とも思える行動に薄ら寒い気がした。やはりあの山根と名乗る男は頭がいかれている。自分が探している男が自分自身であることを分かって行動しているのか。それとも二重人格者なのか。レイコは、以前学生時代に読んだフランツ・カフカの「ある兵士の闘い」という小説を思い出した。内容は戦争ものでも何でもなく、個人の葛藤を描いたものだった。主人公は、居酒屋にいるもう一人の男と会話を始める。居酒屋を出てひとりの少女と出会うのだが、その少女に対して一方の男は気を引こうと懸命に振舞うが、主人公はそれを阻止しようとする。その話が延々と続くのだが、結局実際には主人公が一人であって、彼自身の心の葛藤だったという話だ。これはこれで小説だから理解できる。でも山根の場合は、そうではない。彼自身がそれに気づいていないところに問題がある。
 レイコは、ともかく思い切って声を掛けてみようと思った。声を掛けてどういう反応を示すのか、それをこの目で確かめたかったのだ。垣根の横から通りへ出て、先を歩く山根(自称K)に声をかけた。
「あのう、すみません。もしかしてKさんですか?」レイコが訊いた。
「……だったらどうと言うのかな」Kはゆっくりと振り向きながら一呼吸置き言った。
「実は、あなたを探している人がいて、その人にあなたを見つけて欲しいと言われて……」レイコは、Kの変装をしげしげと見つめながら答えた。その間、Kは変装しているにも拘らず、その変装していることも自分の意思でしているのではないとでも思っているのか、変装のことを意識している風でもない。
「誰が探しているだって?」Kが訊いた。
「山根真一という人、ご存知かしら?」レイコは、本人にそのことを訊くのも変に思ったが、つとめて冷静に答えた。
「さあね、聞いたことないな。ところで君は誰なんだ?」本当にそう思って言っているのか、とぼけているのか、Kは迷惑そうな顔をして言った。
「覚えてないかしら? DVDショップであなたが声をかけたのを……」
「ああ、あの時の…… 確かディトーのDVDを眺めていた」
「そう、その後そのDVDの件であなたに声を掛けた人がいたんじゃない? その人が探している人よ」レイコは、そう言いながら訳が分からなくなっていた。声をかけた人というのは、山根自身であって、山根がKという別の人物と遭遇することなどあり得ないからだ。それでも成り行き上そう言った。
「いや、そんな人物とは会ってないし、君と別れた後はDVDショップを出て真直ぐ家に帰り誰とも会ってない」Kは平気な顔をして言った。
それでもレイコは、実際にKに山根と会ってくれと頼んだらどうするのだろうか、と思った。もし、会うことになったらどうするのだろうか。レイコは、いてもたってもいられなくなり、懇願してでもお願いしようと思った。
「ともかく、一度会ってもらえないかしら」レイコは言った。
「どうして本人が見つけに来ずに君に頼む必要がある?」Kがそう言った。
「彼は、自分の前には絶対にあなたは現れない、と言っていたわ」
「どうしてそう言い切れるんだ?」Kが言った。
「あなたが山根真一だからよ」レイコはしびれを切らしてそう言い放った。
「ほほう、君はまた不思議なことを言う人だ」Kは一呼吸おいて言った。
「じゃあ訊くが、もしそうだとしたら、彼はどうしてそんなややこしいことを君に頼んだりしたのかな? 君を試しているのかな」Kは山根真一と言われ、うろたえるかと思ったが、うろたえるどころか、むしろ余裕の表情で面白がってすらいた。
「それはわからないわ。でもあなたはいま口髭とメガネをかけて変装しているでしょう?」
レイコは、何とかこの男の矛盾をつこうとした。
「だったらどうだと言うのかな?口髭とメガネを取ったら、わたしがその山根真一になるというのかな」Kは不敵な笑みさせ浮かべて言った。
「ええ、そうよ。きっとそうよ。それをはずしたらあなたは山根真一なのよ」
 関根心療内科の診察室は静まり返っていた。関根が質問する声とそれに答える山根の声だけしか聞こえない。いま山根の頭の中で、Kという自分の過去に繋がる人物の全貌を明らかにしようとする考えが起きて来ていた。関根は、ずっと不思議な話をし続ける山根の話を聞きながら、もう少し山根との会話を続けてみて、何とか過去の手掛かりが見つからないか試みようとしていた。さらに山根の話は続いた。
そしてKはゆっくりと口髭を取りメガネをはずした。そこには間違いない山根真一そのものがいた。
「山根さん? あなた山根さんでしょ?」レイコは夢中でそう言った。
「うん? どうしたのかな? 何か分かったことでもあったかい?」Kではなく、山根真一がそう答えた。
「ええ? いま口髭とメガネをはずして……それで……」レイコは、もうすでにこの男は完全に二重人格者なのだと思った。彼の中でKはもうすでに居なくなっていた。たったいままでいたはずのKはもうすでに何処かへいなくなっていた。
「言ってることが何のことかよく分からないが……Kがいたのか?」
「ええ、そうよ。たったいままで居たのよ」
「それで?」
「それで、何とかあなたに会ってほしいと頼んだけど駄目だったわ」
「どうして? 何か言ってなかったか?」
「ええ、何も。でもあなたのことは知らないって。以前のことも言ったけど、そんなことは知らないの一点張りで」レイコは芝居がかった会話を続けることに何ら違和感を感じてはいなかった。しだいにレイコは中々話が進行しないことにもどかしく感じ始めていた。よくよく考えてみると、山根に頼まれて、ただKを待っていただけの話である。そしてそのKはと言うと、変装をはずした途端に居なくなってしまった。そしてまた山根が残っているだけだ。何も進展してはいなかった。いつまで経っても堂々巡りの話なのだ。
「ちょっと待ってくれ。君はKという人物が君自身だということに気付いていたということなのか?」関根は、淡々と話を続ける山根に向かって言った。
「そう、Kはわたし自身だ。自分の中の考えている自分自身なのだ」
催眠状態の山根は、意識してかどうか定かではないが、はっきりとそう答えた。
関根は、Kを呼び出すことができないか試みることにした。
Kがもし山根自身の姿であるならば、それは過去を紐解くカギになるかもしれない。そう思い山根の中に入り込むことにした。
 関根は、監督という立場で山根に問いかけた。
「それで、一体どうしたというんだ? 結局、Kは結局現れなかったというのか?」
「そう、自分の前にはKは二度と現れなかった」
山根は、おぼろげながらKのとった行動が見えて来ていた。彼は熊本の地にいた。その後、彼は翌日早々にバスターミナルへ戻り、神戸行きの切符を買った。Kを乗せたバスはターミナルをゆっくりと出発し、高速道路へ入りそのまま九州を縦断し、関門海峡を渡り本州、山口、広島を通過して岡山、そして兵庫県神戸の街へ降り立った。いつか夢の中で見た風景だった。一度も神戸へ来たこともないのに、一度夢の中で神戸の街中を歩いていた。そして現実にKは、電車に乗り隣の姫路に向かった。姫路はこじんまりとした街だった。商店街の中をしばらくぶらぶらと歩き、一件の本屋へ立ち寄る。そこでKは、一冊の本に出会う。「アメリカの鱒釣り」という本だ。アメリカ北西部に住む様々な人生の敗北者を描いた作品で、作者のリチャード・ブローディガンは、ピストル自殺という非業の最期を遂げる。なぜ自殺したのか定かではない。この作品で一躍世界中のヒーローになったが、その後、全く何も書けなくなってしまったとも言われている。その時彼は何を思ったのか、それは誰にも分からない。Kはその時、自分の人生を振り返り本当に自分がしたかったのは何だったのか、広告代理店の世界で売上げを上げ、役職が上がり、収入が増え、それで生活は安定したかもしれないが、本当の自分の世界を確立できたのかどうか。それは全くと言っていいほど自信がない。
しばらくは、持ってきたお金でホテル生活を続けていた。当座のお金は、三百万ほどあった。残りはすべて銀行へ入れたままにしていた。銀行カードも持っていた。万事しばらくはこのままホテル生活を続けていても大丈夫だった。しかし、三百万あったお金があっという間に百万円までに減っていた。何に使ったのかよく思い出せなかった。外食を続けていたが、それでそんなには使えないはずだ。宿泊代と食事代で一日贅沢に使ったとしてもせいぜい二万円ほどだから、二百万使うとすると三ヶ月毎日二万円使い続けなくてはならない。まだ、一ヶ月ちょっとだった。一日平均五万円ずつ使った計算になる。どうしたというのだろうか? 自分で自分のしたことが思い出せないなんて…… そしてついに持ち金すべてを使い果たす。その前に銀行カードで口座の預金を確認すべきだった。持ち金が二万円になった時に初めて銀行で確認をした。すると入っているはずの口座には残金が全く無くなっていた。なぜだ? と思ったが時すでに遅しで、その時点ですでに所持金は二千円を切っていた。夜の六時を過ぎ空腹も感じていた。しょうがないので、近くのレストランで千円の食事をした。レジに行くと千円ちょっとかかっていたので、ついには小銭だけになっていた。もうホテルに宿泊することは出来なかった。しばらくあてどもなく街をただぶらぶらと歩き続けた。しばらく歩くと疲れてくる。でも座る場所がなかった。都会の街中では、お金を出さずに座るところは中々見つけることは難しい。ようやく商店街を抜けたところにあるバスターミナルの待合所に座る座席を見つけた。もちろんバスに乗るわけではない。そこにじっとして座った。座ってただ虚空を見つめていた。何もしない時間が刻々と過ぎていくだけである。夕方から最終バスが出る夜の十時まで、只々じっと座り続けた。何もしない。ただ座っているだけである。じっと座っているとお尻の辺りが痛くなってくる。そして足元から冷えてくる。ふと見ると、向かいの席に自分と同じように何もせずにじっと座っている男がいた。冬だというのに、薄手のトレーナーを着てよれよれのズボンはあちこちが薄汚れていた。その男も頭をうな垂れたままピクリともしない。もしかして息をしていないのではないかと思うぐらい微動だにしない。Kもしだいに眠気をもよおして来た。うとうととしていたその時、館内アナウンスが流れた。最終バスが出発したためにあと十分で館内を閉鎖するという。Kはどうしたものかと思った。そう言われたところで、行き先のあてはない。そうは言ってもここを出なくてはいけないのは事実だ。当てもなく席を立ち、ふらふらと通りへ出た。外は容赦ない仕打ちをするように、冷たい雨が降り始めていた。よりによって傘も持っていなかった。この状況下でどうしろというのだ。Kはしばらくその場に立ち尽くした。そうして気がついたら公園のところに来ていた。降り続ける雨が身体中に染み込んでいくような感覚を覚えその場に座り込んだ。そしてKは疲れ果ててその場に倒れこんでしまった。もはや頭の中には何も残っていなかった。そして時間だけが過ぎて行った。
「ちょっと待ってくれ。Kはどうして熊本へ行ったんだ?」
「熊本? どうしてって、それは買った切符が熊本行きだったから」
「買った切符が長崎行きだったら長崎へ行ったということか?」
「そう、行き先は何も考えていない。なぜなら目的のない行き先だから」
目的のない行き先? 目的がないのになぜ移動しようとするのだろうか? ひとつあるとすれば、今居る場所を離れたいからだ。なぜ離れたいのか? 離れなくてはならない理由があるはずだ。それを解明しないといけない。
「なぜ今居る場所を離れなくてはいけなかったんだろうか……」
Kは、代理店営業のプロデューサーという立場を利用して、売上げと仕入れの金額操作を行っていた。それは単純なものではない。まず売上げ金額を割り増しする。そしてその差額を次の売上げで帳消しにする。その次の売上げの際に仕入れ金額を下げる。そして帳尻を合わせていた。そのわずかの差益を仕入先から還流させていたのである。通常どこの会社でもそうだが、最低でも年度末、あるいは上半期の中間決算においてしか、未回収金の確認はしない。それまではチェックされることはない。つまり執行猶予は六ヶ月は最低あるということになる。それまでは帳尻があってなくても大丈夫なのだ。しかしKは、その執行猶予の途中でリタイアしてしまった。だから通常は、執行猶予の期限が来るまでは発覚することはない。それでもKが蒸発してしまった時点ですぐにその策略が発覚してしまったのである。なぜだろうか? そこには窺い知れない謀略があったのである。Kはその謀略の餌食になってしまった。Kだけでなく、Kが策略を張り巡らせたスポンサーもその餌食になっていた。本命はこっちの方だったのだ。じゃあそのスポンサーが失脚することで漁夫の利を得るのは誰だろうか? その人物が黒幕なのか? その黒幕の謀略によってKは闇に葬られたのだ。Kは、その発覚するかも知れない情報をを事前にキャッチしていた。だから発覚前に蒸発したのだ。それが真実だった。実際のきっかけはそういうことだが、でも蒸発したからといって事態を改善できるわけではない。むしろ事態は悪化しただけである。そうしてKは関根に発見されたのである。
「君は一体誰なんだ? Kは君自身なのか?」関根がそう訊いた。
「そうだ。Kというのは私自身だ。自分の中にいる自分自身だ」山根はそう答えた。
児島隆は、自分の中の自我が崩壊し偽名を使っていた「山根真一」に成りすましていたが、記憶を失った時点で児島隆は消失してしまった。そして山根真一として目覚めたのである。その中に登場するKという人物は、実在する人物ではない。山根の、というよりも児島の中に存在する児島自身の分身なのだ。すべての出来事がフラッシュバックのように児島の中をぐるぐると回り出し、そしてそのままスピンアウトしてしまったのだ。
「君が考えている黒幕の謀略というのは一体何なんだ?」
「一人の男が張り巡らした巧妙なシナリオだ」
「シナリオ?」
「そう、シナリオだ。シナリオというのは筋書きが出来ていて、そのプロットのとおりに進行する。だからストーリーの演出家もそのシナリオどおりに事を運ぶ」
これは、山根が語る、Kが彷徨い本屋で見つけたデータファイルの話の続きである。データファイル1に登場する青山寛治は、博広の常務時代に綱渡りの状況にあった。綱を渡りきれば道が開けるが、ひとつ間違うと奈落の底に落ちてしまうのっぴきならない状況にあった。そんな時に登場したのがデータファイル2の浅沼俊夫である。浅沼は青山と同じ大学の出身で同じ映画研究会のサークルにいた。年の差が7つも離れているが、同じサークルにいたこともあって、その話で大いに盛り上がった。しかも現在のお互いの立場が代理店とスポンサーという関係にあり、そこに策略が生まれることになった。
 その時、青山は児島からの報告を受け、何としてでもこの監査を乗り切らねばならないと思っていた。せっかくのM&Sとの交渉も会計監査で汚点がつくと、ご破算になり兼ねなかった。しかしこのストーリーも実はといえば、青山自身が仕組んだものだった。なぜ自ら危険な橋を渡ろうとするのか、それは、ギリギリまで練りに練ったシナリオ通りの展開だった。それは山崎を失脚させることにあった。
 山崎は会社のデスクにいた。昨晩、部下から報告を受け、取引先の博広の常務と経理部長が来るという。何をどうしようというのだ? たとえ自分がしていることが分かってしまっていても、スポンサーに対して物を申すことなど出来はしまい。スポンサーに対して物を申す時は、今後の取引を辞退することになるということだ。事情は説明してもらえばいい。山崎はそう思っていた。反旗を翻すことなど有りはしないのだ。
「お客様がいらっしゃいました。博広の青山常務と宮城部長です」受付女性の声がインターホンから流れた。
「わかった。通してくれ」山崎は無愛想に言った。
強気一辺倒の山崎であったが、なぜか落ち武者のような気持ちになっていた。牙城を崩され城を明け渡し、追っ手から逃げているような、まさにそんな気持ちだった。ここまで来るのにどれだけの努力をしてきたことか。下っ端のころ、月締めの売上げ数字がどうしてもあと一件足りないことがあった。あの時、俺は何が何でもと、がむしゃらになった。深夜までお客が帰ってくるのを車に乗って待ち続けた。だから余計なことは考えなかった。ともかく売上げを上げることに必死で頑張った。限界ぎりぎりまで頑張ったんだ。
 ドアをノックする音が聞こえた。恰幅のいい肩幅をし、短い髪をした男と痩せ型でグレーの背広を着た男の二人が入ってきた。初めて見る顔だった。
「初めまして、いつもお世話になっております。博広の青山といいます」恰幅のいい男がそう言いながら名刺を差し出した。山崎はスポンサーであることの証であるかのように、先に受け取りそれからゆっくりと自分の名刺を差し出した。
「山崎です」山崎は手短に答えた。
「お世話になります。博広の宮城です」痩せ型の男が言った。
応接セットの椅子に向かい合わせで三人が座り、痩せ型の男が話し始めた。
「弊社の児島がいつもお世話になってます。実は、その児島ですが、急に失踪しまして行方が知れなくなってます。それは全く持って、そちら様には何の関係もないことではありますが、少々問題がございまして、実は、彼の担当する案件で売上げ操作をしていることが分かりまして、それでその売上げ差額の行方を調べていたところ、どうもそちら様の方へ送金されているようでして」宮城は切れ目のない話し方で、抑揚をつけずに淡々と言い放った。
「ほう、私のところへ送金してある、と……」山崎は他人事のように答えた
「ええ、そうなんです。ですので、もし心当たりがおありでしたら、一旦私どもの方へ戻していただければと思いますが」宮城は、心当たりという部分を殊更強調して言った。
山崎は、しばらく考え込むように虚空を見つめていた。
「ほう、それは困りましたねえ。わたしの方へ送金されていたというのは、送金先名は何と書いてあったのですか?」山崎が訊いた。
「山崎さんの個人口座です。まあ、同姓同名の方もいらっしゃるので絶対的なものではありませんが……」宮城は、努めて冷静に答えた。
「いや、まあ私の個人口座は妻が管理しているので、それは後ほど確認しておきましょう」あくまでも山崎の答えは、身に覚えのないこととしての回答だった。
山崎は、それよりも児島がなぜここで失踪してしまったのか、それがどうしても解せなかった。というよりも、なぜそんなすぐに発覚するような失策をしてしまったのか、常識で考えれば、頭の切れる児島のことだ、用意周到にしていたはずなのに、そんな誰にでも分かるような失策を自らするとはどうしても思えなかった。あるとすれば、それはわざとそうしたということだ。じゃあ、なぜわざとする必要があったのか、それがどうしても理解出来なかった。それか……俺を窮地に追い込むためなのか、それとも……目の前にいるこの二入を陥れるためなのか、いずれにしても何らかの児島の考える計画のような気がしてならなかった。
「仮に私の口座に送金されていたことが事実だったらどうされるおつもりですか?」山崎は徐々に余裕すら感じられてきていた。それは、あくまでもスポンサーと担当代理店という絶対的立場な立ち位置の成せることだった。それを嵩にしたある意味開き直りだった。
「もしそうであれば、ともかく一旦返金いただければと思いますが……それ以上は……」
「それ以上は?」山崎は、言葉に詰まる宮城に対して問い詰めるように言った。
「あとは、私どもの問題ですので、それ以上は何も……」宮城は、消え入るような言葉で答えた。今や、立場は完全に入れ替わっていた。本来、事と次第によっては、告発されてもおかしくない状況にある山崎の方が、優位に立っている感すらしていた。
――そうであろうとも。児島が俺の個人口座に送信したとしても、それが博広の売上金の一部であると誰が証明出来よう。児島が個人的に俺の知らぬところでそうする可能性だってあるはずだ。だから俺の立場は、善意の第三者だ。俺の知らないところで送金されていた。児島がどういう目的でそうしたか、それは知り得ぬことだ。そういうことだ――
そう山崎は思っていた。その時だった。横でじっと二人のやり取りを聞いていた体格のいい男が口を開いた。
「ところがそれが知らぬ存ぜぬという金額ではないんですよ」青山が口を開いた。
「と言いますと?」山崎はとぼけて答えた。
「二千万です。それがお宅の個人口座に送金されている。この金額は、サラリーマンである児島の許容範囲を超えています。つまり会社からのお金を操作した疑いがあります」
「成程、それは災難でしたな」山崎は他人事のように答えた。
「そしてその二千万円が送金されてからすでに一ヶ月が経過しようとしています。それまで全然気付かなかったじゃ済まされないと思いますが」青山はずばりと言った。
「それは、どういうことだ」山崎は、今までの口調と違って急に声を荒げて言った。
「つまり私どもは、そちらの出方次第では、あなたを告発しないといけなくなるということです」青山は畳み掛けるように言った。
「何だって! 告発する?」山崎は、自分が今まで発注している取引先から、よもやそういう挑発的な言葉を聞こうとは思ってもみなかった。博広は大城ハウスからの取引を停止してもいいということなのか? 博広の年間売上げの20%を超える大城ハウスとの取引を反故にしようということなのか? 山崎は、青山の挑戦的な鋭い眼光を見据えながら、相手の思惑を推していた。ここでカッとなっては、相手の思うつぼである。あくまでも冷静に対処することだ。告発という言葉に過剰に反応してしまいがちだが、どうということではない。金銭貸借の裁判なんて、双方の決着がついたところで裁判所に執行義務が生じるわけではなく、いついつまでにいくら支払えという履行命令が出されるだけである。履行命令が出されたところで、相手に支払い能力がなければどうしようもない。金銭貸借においては、借りる側が借り得なのだ。ましては、今回は借りたのではなく、貰ったのだ。それが不正を働いたお金かどうかは、こちらの知らないことなのだ。
 その後、児島は蒸発したまま懲戒解雇となった。そして山崎はその共謀者として博広からではなく、自分の会社である大城ハウスから業務上横領の罪で起訴され、裁判にて懲役10年の実刑判決を受けた。もちろん山崎も懲戒解雇を受けた。博広内部では、児島が不正操作した過剰売上げ分は年度末に損失金として計上され、新たに期を迎えることとなった。そして晴れて、博広はM&Sとの業務提携にこぎつけその後にM&Sの日本法人として生まれ変わることになった。そして青山は、株主総会において代表取締役の座についたのである。もちろん大城ハウスの扱いは他の代理店に移行し、三島ホームの扱いがそっくりそのまま博広へ移行することとなった。すべては、青山と浅沼が仕組んだことであった。
関根は、山根が話すKという男がいる本屋で買ったデータファイルの内容を聞きながら、それはまさしく山根自身のことなのだと思った。そして話に出てくる児島という男こそが山根自身なのだと確信した。もう一度尋ねることにした。
「じゃあ、その青山という男と浅沼という男が仕組んだ罠に児島が掛かってしまったというわけか」関根が訊いた。
「いやそういうわけではない。児島は自らの意思でアウトした。なぜそうしたのか…… それは、極めて説明が難しいことだ」
「児島は、問題が発覚することをわかっていたのか?」
「それは、分かっていたというよりも、すでに自らそれを説明している。山崎の強要によって操作せざる負えない状況にあったと。でもその時に、青山の気配に何かしらの企みが見え隠れしていた。ようするにその陥れようという気配から逃れたのだ」
「でも結局は、逃げただけでどうにもならなかった」関根は説明を求めるように言った。
「自業自得というやつさ」
山根の話はここで終わる。そして話は次の展開へと進んでいく。

そして再び

あと二ヶ月で六十五歳になろうとしている山崎桐彦は、いわゆる箱と呼ばれるヘルス店で店長を任されていた。この風俗店で働き出してまだ半年ちょっとだが、仕事が捌けていることもあってオーナーの信頼を得て店の経営そのものを任されていた。市内の大学を卒業後、すぐに就職して五十五歳まで約三十三年間サラリーマンをしてきた桐彦にとって、ここの経営など朝飯前で、簡単単純極まりないことである。何も難しいことなどないに等しい。むしろやろうと思えば大きく飛躍させることだって可能だ。しかし過去の桐彦の経歴からして、その急転直下の状況に身を置かざる負えない現実に直面するに、如何ともし難い思いが先に立つ。もちろん今までの知人に今の職業を語ることなど出来はしない。それは、会社で部長まで勤め上げ部下に対して適時的確な指示を出していた桐彦にとって彼のプライドが許さなかった。そうは言っても、日々生きていくための収入を確保しないといけない。
 会社を懲戒免職によって退職後、何もしていなかった桐彦は、あっという間に貯金を使い果たしていた。せっかく長年勤め上げた会社も業務上横領の罪で起訴され有罪判決を受けた後、刑務所に三年間収監された。出所後は、前科のついた経歴ではどこも雇ってくれるところなどなく、ましてや年齢的にも普通に雇用機会に遭遇する可能性は限りなく皆無に等しい状況にあった。光熱費もきちんと払えない状態に陥り、手っ取り早く収入を得るために、運送会社の仕分け作業のアルバイトに勤めていたが、肉体的に厳しいものがあって、ついには腰を痛めそのバイトも止めてしまっていた。六十過ぎの特別技術も持たない前科のある男に職を見つけることの困難さが大きく立ちはだかっていた。
何もすることがなく、家でぶらぶらしている時だった。離婚した元妻の知人だった知り合いの市会議員から突然電話があった。
「やあ、いまどうしてるんだ?」
「いやあ、最近ちょっと腰を痛めましてね、それで治療も兼ねて静養中といったところです」腰のせいにしていたが、実のところそれは二次的ことだった。本音を言えば、仕事がないからであって、敢えて静養しているわけではなかった。
「実は、ちょっと手伝って欲しいことがあるんだが……」
仕事は喉から手が出るほどしたいのだが、その気持ちを見透かされるのは嫌だった。
「今の状況で自分に出来ることは限られているから、どうだか分からないけど」そう言っては見たもののお金になることならば、何でもいいと思った。

そうして依頼のあったヘルス店に勤めることになった。相談内容は、あくまでもお店の経営全般を見て欲しいというもので、システムや料金の見直し、店で働く女の子のシフト及び時間帯の検討、それに付随する営業時間の見直しなどであった。桐彦にしてみれば、別にヘルス店であろうが、レストランであろうが、同じことだと思った。要するに正確な顧客データに基づき効率化を図り、マスに頼らない口コミニュケーションに近い戦略を立てれば、おのずと売上げも付いてくると思った。簡単なことだ。

桐彦は、まず連絡網の整備に取り組んだ。従業員と店で働く女の子全員に対して、携帯電話でやり取り出来る独自の基幹システムを使いリアルタイムに対応出来る体制を整えようとした。更に従業員の勤務内容に一定の評価を下し、それに基づく給与の査定をする考課評価制度を設けようとした。桐彦はそれをまずチーフである拓也に伝えようとした。
「ちょっといいかな」桐彦は、カウンターに座って携帯電話をいじっていた拓也に声をかけた。
「はい?」と拓也は、携帯電話に目を落としたまま返事をした。
「うん、実は今の給与体系についてちょっと思うところがあって……」桐彦は顔を落としたままの拓也に対して勢いを削がれる思いがした。一寸待ったが、拓也はそのままの姿勢を変えようとはしない。桐彦にとっては、初めて体験する相手だった。今までは、上司が声をかけたら少なくとも何らかのリアクションがあるのだが、この目の前にいる若者は全くその反応がない。その状態でも平気なのだ。そういう反応でも評価されることはないと思っている。それどころか、彼らには上下関係という考えは存在しない。お金を支払ってくれるのが雇い主で、それ以外は全員横一線で同じなのだ。
「勤務考課表という制度を設けようと思うんだが、どうだろうか」桐彦はそう言ってから、その提案を発してしまった自分を後悔した。言うんじゃなかったと思った。
「はあ? そんなややこしいこと言っても駄目じゃないすか?」
拓也をはじめ、この店で働くものにとっては、おそらく勤務考課表という言葉は、どういう漢字になるのかさえも知らないし、ましてや全く意味不明の言葉でしかなかった。
「どうして? でもやってみないと分からないだろう」
「いやいや、そんなの無理っす。誰も反応しないと思いますよ」
そう言われてしばらく黙り込んでしまった。これ以上この若者にこの話をしたところで通用しそうにないと思った。理解してもらえる人間が他にいれば、いずれはこの若者も従うのであろうが、今は無駄なような気がしていた。この業界で一番難しいのが従業員の勤務体制であった。いかに営業時間の中で効率よく従業員の勤務を振り分けるかが問題で、それはとかくわがままな従業員の希望を店側が意図する体制にいかに合致させるかであった。人気のある女の子ほどわがままになりがちで、それを上手く調整するのが店側の手腕にかかっていた。桐彦とすれば、今までのプロデューサーとしての経験をしてシフトの体制づくりは最も得意とするところだった。しかし、この業界にあっては、今までに経験したことのないことばかりだった。
「ところで、今度の週末の件、ユミはやっぱり出れないのかな?」桐彦は、話題を変えようと思って女の子の出勤の件を訊いた。
「うん、何かどこか出掛ける用事があるとか言ってたような……」拓也はそう答えた。
女の子はいつだって誰だってそうだった。稼ぎたいから来てるのだが、自分の都合でどうにでもしてしまう。週末だからお店が忙しい時で休むとお店に迷惑をかける、とは思わない。休みたい時に休む。しかも突然当日の夕方になって言い出す者もいる。金曜日とかにたったの三人しかいない、となるとお客がピークになる時が問題だった。何が問題かというと、お客からすれば三人だけであれば選びようがなかった。そしてその噂はすぐにお客の間で広まるのである。あの店は駄目だ、と。その場合は受付で見せる女の子の写真の数を誤魔化すことになる。実際にいるのは三人でも、受付に置いてある写真の数はその倍以上になる。
 この長い髪の女性でお願します。と気の弱そうな青年が尋ねる。
 あっ、この子はいま入っていてあと二時間はかかりますけど。と答える。
すると、大抵は諦めるのだが、中にはそれでも待つという輩もいる。そうなると厄介である。そういう場合は、途中でトラブルがあってから、みたいなことを言って何とか納得してもらうしかない。そうしたことが多々あるので、やはりシフトの問題は重要である。
この業界でもうひとつ桐彦がどうしても苦手なことがあった。それは、日本全国どこでもそうだが、基本本番行為は禁止されている。もちろん桐彦が勤めるお店は箱ヘルと言って本番行為は厳しく禁止されている。それでもそれを店の女の子に強要する輩が必ずいる。お店は各部屋に分かれているので中が行われているかを窺い知ることは出来ない。それをいいことに女の子と交渉しようというものがいるのである。交渉している間はいいが、強要してくるものに対しては、すぐに女の子が部屋にある呼び出しのベルを押す。すると受付カウンターの上にある電照灯が点灯する。そうするとすぐに受付にいるものが部屋へ駆けつけなければならない。その際に、普通に部屋へ入っていったのでは話にならない。まずドアを蹴破るぐらいの勢いで開けて、やんわりと、しかしながら凄みを利かせて行かないといけない。桐彦にとっては、この凄みを利かせるというのが苦手だった。出来ないことではないが、我ながらどうしてもそういう科白を吐くこと自体ちぐはぐな気持ちになってしまうのであった。
「お客さん、困りますね」といった科白をいうのである。それも凄みを利かせた声を出さないといけない。柄でもないと思った。
拓也は相変わらず他人事みたいな顔をしている。それはそうであろう。この男にとっては、店の動向などは関係のない話で、要は毎日きちんと働いた分の給料を貰えればそれでいいのである。余計なことに口出しをして、負担が増えるだけのことで給料が増えるわけではないのだから。無関心なわけではなくて、関わり合いたくないだけなのだ。
「どうしてもあと一人確保しないといけないけど、無理をお願いするとしたら誰がいいかな?」桐彦は拓也にそう訊いた。拓也は、店の動向には無関心だが、こと女の子とのコミュニケーション力に関しては長けていた。誰とでも分け隔てなく話をするし、女の子の受けもいい。だから女の子にお願いをする場合、拓也にお願いした方が早いのである。
「う~ん、レイコはどうかな。あの子だったら無理を聞いて貰えると思うけど」そう拓也は答えた。
「ちょっと頼まれていいかな? 君からお願いした方がいいと思うし……」
「ああ、いいスよ」拓也は、あまり乗り気ではないのだが、こと女の子との交渉に関しては自分じゃないと、という自負もあり二つ返事で受けた。
拓也という男は、学校を出てからずっとこの業界で生きて来ていた。他の仕事を知らない。だからちょっとしたことで、違和感を感じることがある。それは挨拶ひとつとってもそうだし、普通のコミュニケーションの取り方ひとつとってもそうで、例えば仕事の順番というのがあるとする。すると彼は時に順番を無視して進めようとすることがある。それを指摘すると全く理解出来ないという素振りを見せることがある。それはわざとじゃなく、本気でそうなのだ。ただ時として拓也のやり方で旨く行く時がある。でも失敗することもある。それでも拓也はやり方を変えようとはしない。自分のやり方にある種のこだわりがある。それは、桐彦には真似の出来ないことであった。桐彦は用意周到に事を進める。決して未知数のことに対してそのまま事を進めようとはしない。必ず事前のリサーチをして、例えば相手のことをきちんと調べてから動く。万全の体制を整えてから動くのである。しかし、それが時にはチャンスを逃してしまうこともある。チャンスはいつだって、一か八かの状態の時にしか訪れない。つまりチャンスを掴むにはある程度の賭けに出ないと、他人に先んじて勝負に出ないと掴めないのだ。桐彦は自分の運命を恨んだ。自分の人生の頂点ともいえるサラリーマン時代のことを振り返れば、いまの境遇に甘んじている自分のことが全く持って理解し難いことであった。鬼瓦のような顔をして部下を叱責すると皆一様に震え上がったものだった。それはまさしく自信の表れだった。取引先の担当は自分の足元にひれ伏して売上げの扱いを乞う。いきつけのクラブへ行くとママが満面の笑みで出迎えてくれる。でもそれらは、桐彦に対してではなく、桐彦のステイタスに対して施される態度なのだ。桐彦が働いている会社の部長という立場に対して接しているだけで、もっと言うならば、桐彦が支払うお金に対してひれ伏しているだけなのだ。その立場が変われば誰も振り向いてはくれない。桐彦個人に対して手を差し伸べてくれるものは、最終的には身内しかいないのだ。その最後の砦である身内からも見放されてはどうしようもない。桐彦が会社から懲戒解雇を言い渡された日、妻は家を出て行った。

 拓也はレイコに声を掛けてみようと思ったが、わざわざ自分の方から連絡を取るのも気が引けた。どうしてそういう気持ちになるのかはわからないが、レイコは、他の店の子とちょと違う感じがしていた。どう違うのかはっきりと説明は出来ないが、ともかく何かが違うのだ。拓也は、レイコがいつもよく行く喫茶店を知っていた。おそらくそこへ行けば会えるかも知れないと思った。ただ会えないことの確率の方が高いかな、とも思った。
DVDショップのあるすぐ裏手の通りにあるその喫茶店は、昭和の時代から営業をしている赤レンガ造りの老舗の店だった。拓也は、オーク材を使ったずっしりと重いドアを引いて中へ入って行った。木目調のカウンターテーブルがある窓際の席を見たら、そこに見覚えのあるレイコの姿があった。彼女は一心不乱に読書をしている様子だった。拓也はレイコの後ろから声を掛けた。
「やあ、何を読んでいる?」
レイコは突然の声掛けに一瞬驚いて振り向いた。
「ああ、何だ。拓也ね」レイコは少し驚いた顔で答えた。
「何だ、はないだろ。あまりに一生懸命の様子じゃないか?」拓也はそう言いながら遠慮なしにレイコが目を通している資料を覗き込んだ。拓也は一瞬戸惑った。そこにはまずもって今までもそしてこれからも出会うことのないであろう精神分析のファイルがあった。
「何だ? また難しい本を読んでるな」
「ええ? このファイルのこと?」
「そうさ、何だ精神……分析……における……よくわからんな」
「ちょっと、覗き込まないでよ。調べてみたいことがあったから」レイコは読んでいたファイルをバサッと裏返しながら言った。
「何を調べるんだ?」拓也は気になってさらに尋ねた。
「何だっていいじゃない。それより何か用事?」レイコの返事は素っ気なかった。
「うん、実は週末お店に出れないかと思って」拓也は、無理なら別にいいけどというニュアンスで訊いた。
「週末? そうね…… ね、頼みがあるんだけど聞いてくれない?」レイコは意地悪そうな顔をして言った。
「頼み? 出来ることならいいけど」拓也はしようがないなと思った。
「完全な二重人格ってあると思う?」レイコの癖は質問しておきながら突然話が飛ぶ。
「えっ? 二重人格って、あの人は二重人格だからとかいうこと?」
「違うわよ、そんなんじゃなくて、本当の二重人格者のことよ」
「いや、よくわからないなあ」拓也はレイコが言わんとしていることがよく分からなかったが、レイコの刺激的な話が始まる予感がしていた。

そうして語られ出したレイコの話は、実に奇妙な話だった。その話は、DVDショップで話しかけてきた男の物語だった。その男は突然レイコに声をかけてきた。それは、レイコが眺めていたDVDを譲ってほしいという話だった。レイコがどうしてと訊くと、そのDVDを以前見たことがあってもう一度見たいと思ったから、と尤もらしいことを言っていたが、実際のところただのナンパ目的じゃないかと思い、無視してほったらかした。ところがその後、再びその店にいた時に、別の男性からまたしても声を掛けられて、探している男がいるから見つけて欲しい、ということを頼まれた。条件として、レイコが欲しいと思っていたDVDを買ってあげるというものだった。DVDごときで受ける話ではないが、レイコとしては、何となく面白そうな予感がし、迷ったあげく相談を受けることにした。しかし、よくよく考えてみると最初に会った男は、横から声を掛けられ完全に無視して出てきたのでよく顔を覚えてなかった。行き掛かり上話を受けてしまったので男の指示で探すことにした。指示を受けたマンションの出入り口で待っているとそれらしき男が出てきたので、後ろから声を掛けた。確かにその最初の男は、指示を出した二番目の男のいう名前に反応した。しかし顔を見ると何と二番目の男だった。

「ちょっと待ってくれ、どういうことだ? 話が混乱してないか?」裕也が口を挟んだ。
「違うのよ、最初の男と二番目の男は同一人物だったのよ」
「何だって? そんなことがあるのか?」
「そう、そういうこと。それが二重人格者だったのよ」

 そう言って語られ出したレイコの話は、その二重人格者の実に破壊的な行動だった。レイコが手にしていたファイルは、関根診療内科の入院患者の記録だった。そのファイルには、ひとりの患者の記憶喪失に至る過程とその後の行動がつぶさに記録されていた。

 一人目は、児島隆という男だった。児島は広告代理店の営業プロデューサーという仕事をしていた。彼の仕事ぶりは、その分野で他の誰も立ち入ることの出来ないものだった。互いの利害関係を結びつけるネットワーク創りに優れていた。そのネットワークの構築は、まるでパズルのように複雑に絡み合い、それでいて強固なものだった。児島はその強固なネットワークを通じてマスを意のままにできることに無常の喜びを感じていた。市場分析をすることにより傾向を調べ、その傾向に沿って販促計画を立てていく。圧倒的な策略を駆使して思い通りに事を運ぶ、それが児島のやり方だった。児島のやり方に誰も異論を挟むものはいなかった。その児島が仕事で失策をして突然と失踪してしまう。すべてをそのままにして消えてしまった。彼は二度と現れることはなかった。

 二人目は、山根真一という男だった。山根は映画のシナリオライターという仕事をしていた。シナリオの内容は、主に社会からドロップアウトした男の話が色んなパターンで書かれていた。始めは前途洋々の人生が途中から急下降を始めるのである。例えばこうだ。会社で出世をしてそれなりの地位に就き、経済的に何ら問題のない生活を送っているのに自らその生活を破壊していくのである。それは、ある沸騰点まで来てしまうと歯止めが利かなくなる。そういったシナリオが山根の手によって展開されていく。そのシナリオも記録として残されていた。

ファイル2の添付資料:山根真一のシナリオ
――大宮賢悟は、その日会社の同僚と深酒をしてしまい、ふと時計を見たら深夜二時を過ぎていることに気づいた。いつもは、仕事で遅くなるといってもせいぜい夜の八時ぐらいには会社を出て、九時までには家に帰り着いていた。妻の沙希からは、もし遅くなる時は、必ず電話してね。じゃないとご飯の用意もあるから、と常日頃言われていた。その約束をことごとく破ってきていて、そのほとんどは得意先との接待であって、賢悟とすれば、得意先との接待は、仕事であってまだ仕事継続中なのだ、と。と言う風に自分自身を正当化していた。それが、今日は会社の同僚との酒だから、限りなくプライベートに近いものである。電話が出来ないはずはない。それなのに電話をしないとはどういう了見なの? と沙希は思った。一回だけ切りのいいところで電話を掛けてみようと思った。後にも先にも電話するのは今回が初めてだった。沙希がコールを鳴らしても、賢悟はなかなか電話に出ない。二十回、三十回と沙希は回数を数える。四十回目を過ぎた。次は五十回まで数えようと思った。おそらく五十回を過ぎても出ないのであろう。沙希は賢悟に電話に出てもらうために電話しているのに、四十回目を過ぎたあたりから五十回までは出ないで欲しいと思い始めた。なぜだろうと思いはしたが、どうしてそういう気持ちになるのか、それは沙希にも分からなかった。そして五十回を数えたところで電話を切った。
 一方、賢悟は同僚と話しをしている最中に沙希から電話が掛かって来たのを確認した。確認はしたが、バイブにしていたので同僚も賢悟に家から電話が掛かってきていることに気付いていない。賢悟はもし電話に出たなら沙希から何時に帰るのか聞かれるに決まっていることが分かっていた。聞かれたところで何時に帰るのかはっきりとした返事ができないことは分かっている。そこで言い争いになるかもしれない。結論の出ないことに対していくら話し合ってもどうしようもない。だから電話に出ないのだ。そう賢悟は思った。そういう沸々とした思いを抱えたまま家に帰ったところで問題の先送りなだけで、沙希との距離を縮めることにはならない。
 賢悟は、仕事の上では何ら問題がなかった。むしろ順風満風といっても良かった。ただ唯一の気掛かりは、仕事をする上での家庭との両立の問題だった。仕事の影響が家庭に及びその家庭の問題が徐々に仕事に影響を及ぼしてくる。そういうことになるのが問題となりそうな恐れを抱いていた。もともとは今の仕事に就こうと思っていたわけではない。ほとんどの者は、何となくだったり、ただ収入のためだけだったりで、何が何でもその仕事に就きたいと強い意志を持った人間は、ほんの一握りであろう。誰しもがどこかで妥協しているし、気づいたらその仕事に就いていた、というのが大多数だ。そうして関わることになった仕事も慣れてくると要領もよくなり、その道のプロとしてより向上していこうという気持ちがおきて来る。そうしていつの間にか会社の歯車のひとつになっていく。しかし最初のきっかけが後々に影響を及ぼしてくる。それはどこかで覚めた気持ちがあり、所詮雇用される側という意識が底辺にある。会社で働いている自分は、望むべくして望んだ姿ではなく、どこかで妥協の産物ということだ。その意識は最後まで変わることはない。
「大宮さん、ところで、明日のプレゼンの事前打合せは何時にしますか?」突然、同僚の岩崎和俊が賢悟に訊いてきた。同僚とはいえ、年齢的には賢悟が二歳年上だった。
「ああ、そうだったな。朝イチからでもいいけど」急な問いかけに彼方から我に返ったような返事だった。
「じゃあ、十時からにしますか」
「うん、そうしよう」賢悟は、明日行われる予定のプレゼンに関しては、ほとんど力が入っていなかった。競合社は全部で十社もあり、下馬評で決定する会社がほぼ確定しているのではないかと思われていた。しかしプレゼン実施の部署が役所内部の一部署でそこを疎かにすると、移動などで担当者が別の部署へ移った時のことを考えて辞退するわけにもいかなかった。賢悟自身営業的に優位に立っている場合は、プレゼンに至る前にスポンサーが望んでいることをほぼ確実に把握できる場合がある。そうれはもうほぼ確実に手中に納めることができるといっても過言ではない。そういった時は、そういった時で逆に取れて当たり前の中、もし取れなかったというプレッシャーに押しつぶされそうになる時がある。ほぼ間違いないと思っていることが、基本的な戦略だったり、効果だったりを図る以前の、もっと他の理由によることが存在する場合がある。そうした時に、自分が信じていたことがもろくも崩れて行った時の喪失感といったら非常に半端ないことだった。その確実視されているプレゼンが実はその翌日に控えていた。問題はこっちの方だった。明日のプレゼンをことなく済ませ、気持ちを切り替えて早く次の打合せに入りたかった。ところが、打合せの核になる制作ディレクターが出張中で明日の夕方にならないと帰ってこなかった。それまでは待っていないとどうしようもない。そうした気持ちを抱えていた。

 同僚の岩崎と別れ自宅へ帰るタクシーに乗るため、店を出て大通りに向った。時間は夜中の三時になろうとしていた。繁華街を抜けて大通りの歩道を交差点の角まで歩いていた。随分と飲み過ぎたせいもあっていささか千鳥足気味で歩いていた。その時だった。左前方から一瞬眩い光が賢悟の眼前に飛び込んで来た。賢悟は無意識に自分の身体を光の進行方向と逆の右前方へ除けていた。その瞬間、前方から飛び込んできた大型トラックが歩道へ乗り上げその場を歩いていた別のサラリーマンらしき男をグシャッと押しつぶし、歩道に立っていた案内表示板をなぎ倒し、さらにそのまま突き進み歩道脇のオフィスビルの壁に激突しようやく止まった。まるで爆弾が投下されたかのような轟音が鳴り響き、そして波が曳くように静まり返った。賢悟はその場にへたり込んでいた。あまりの一瞬の出来事で思考能力が停止状態になっていた。何も考えることが出来なかった。押しつぶされた男の肉片と血飛沫が辺り一面に飛び散っており、数メートル先に激突したトラックが前方のボンネットを紙屑のように折り曲げて白煙を上げていた。周辺にガソリンの匂いが立ち込めていた。
まるで戦場のような様子だった。賢悟は戦争を知らない世代だから戦場がどういうものか知らないが、ニュースで入ってくる中東あたりの映像で見るまさに世紀末的凄惨な映像が記憶に蘇った。賢悟は無意識にその場を立ちよろよろと歩き出した。膝に感覚がないような気がした。身体が浮いてるような感覚がする。それでも何とかその場を離れようとした。こんなことでいろいろと聞かれるのは迷惑千万だ。幸い辺りには誰も居そうになかった。後を振り返らずに足早で駅へ向った。その先へ進むと駅の灯りの中へ紛れ込むことができるのだ。そうすれば、今見た悪夢のような世界とは決別できるのだ。賢悟はすぐに駅の構内に紛れ込んだ。いつもはそのままタクシーに乗って家に帰るのだが、なぜかそのまま駅裏の雑居ビルの方へ向った。考えてそうしたわけではなく、無意識に足がそっちへ向っていた。なぜだか分からないが、何かより遠くへ行かねばならない、とそう思いだし始めていた。この時点で賢悟の中で何かが崩れ始めていた。今日のところは、ネットカフェで一夜を過ごし、翌朝、新幹線に乗ってしまえば、当然ながら家から遠く離れてしまう。それだけではない。会社のあるエリアからも遠のいてしまうことになる。取り合えずの現金は財布の中に十万円ほどあった。他にもキャッシュカードやクレジットカードも所持していた。このまま別の町へ行ってもしばらくは暮らしていけるはずだと思った。恐らくはそういつまでもというわけには行かないが、数ヶ月は大丈夫なはずだ。あの一瞬の出来事は、一歩違えば自分が巻き込まれていた。その時点で自分は消えてなくなったのだ。そう、まさしく自分は消滅してしまったのだ――

「その山根という人物が児島という人物と同一人物ということなのか」拓也が突然口を挟んだ。
「そう、だから話の筋が山根が書いている話なのに、児島の軌跡を辿っているような話なのよ」
「つまり山根は、創作として書いていながら、実は自分自身の経験を綴っているというわけか……」拓也はレイコに問いかけた。
「そうね、たぶんそうだと思うわ。このファイルには、山根が書いているこのリアルな出来事は、実は彼自身の深層心理にある経験に基づくものだ、とこの医師のレポートに書いてあるわ」
「もともと児島がいて、山根という人物が出てきたのなら、児島という人物はどういう人物なんだろうか…… それより頼みごとがあるんじゃなかったのか?」
「ちょっと待ってよ。まだ話は途中なんだから」レイコは拓也を遮るように言った。

 ――岩崎が会社へ出社すると、いつも先に出勤しているはずの大宮賢悟はまだ会社へ来ていなかった。いつもこの時間に会社へ行くと、奥のデスクに座ってパソコンに目をやり、難しい顔をして腕組みをしている大宮の姿があった。それが今日はその姿がないので何となく違和感がある。岩崎は、そう思ったが、いつものように厨房に行って朝のコーヒーを入れた。コーヒーポットからカップにコーヒーを入れていると、経理の高田芳子が冷蔵庫に用があったらしく、厨房へ入って来た。
「大宮さんはまだ来てないのか?」岩崎が高田へ訊いた。
「うん、そうみたいね。珍しいわね、岩崎さんが先に来るなんて」
岩崎は、ひとこと余計なことを言う奴だな、と思いつつ愛想笑いをしながら席へ戻った。しばらくして仕事に取り掛かり、一息つこうと時計を見た。すでに始業時間の九時半を過ぎて九時五十分になろうかとしていた。几帳面な大宮が全然連絡もしてこないのは、おかしいことである。おかしいとは思ってもだからと言って、大の大人がどうしたかなんて、いちいち電話をして聞くほどのことでもあるまいと思った。時間になれば来るだろう。プレゼンが行われる時間は、十一時からであった。プレゼンの会場までは車で十分あれば行ける。遅くとも十時半までに来れば大丈夫である。それにこのプレゼンは、参加するだけの案件だからぎりぎりでも間に合いさえすれば問題はない。そう思いつつ仕事を再開した。そうしてタイムリミットの十時半になった。しかし大宮は現れなかった。
 さすがに岩崎は電話をすることにした。が、しかし電話は電源を入れてないらしく携帯会社の案内アナウンスが流れるだけだった。すぐさま岩崎は上司の高田支店長へ報告をした。報告を受けた高田は、どうしたものか思案したあげく、とりあえずプレゼンへは岩崎単独で行くことを命じ、その間大宮の行方を捜すことにした。が、しかし捜すといってもどこをどう捜せばいいのか、皆目検討がつかない。電話をするが電源は切ったままである。まさか警察へ捜索願をするほどでもあるまいと思った。どこかで寝ているのかもしれない。大袈裟に事を荒立てることではないと思っていた。
 一件目のプレゼンを終えた岩崎は、無事プレゼンが終わったことの旨を連絡した。
「ところで大宮さんから連絡はありましたか?」高田から先にその件が何もないことで、結果は分かっていたが一応訊いてみた。
「ない。何もない。手掛かりも全くない」
「そうですか……」
「終業時間まで待って何も連絡がなければ、一応大宮の奥さんには連絡しておこうと思っているけどな」高田は、そうすることしかないとでも言いたそうだった。
「そうですね…… 問題は、明日のプレゼンが大宮さん抜きだとちょっとキツイです」
「うん、この場に及んでどうしようもないから、万全を尽くしてくれ」
「そうですね、分かりました」岩崎はそう答えたものの、実際のところ彼抜きでのプレゼンには、全く自信がなかった。

その頃、大宮は姫路の街にいた。姫路駅に降り立った大宮は、目的もなく繁華街を歩いていた。取り敢えず今日の宿泊先を見つけようと思った。すでに行方が知れなくなって大騒ぎになっているかも知れなかった。ひょっとしたら捜索願いが出ているかも知れない。毎年行方不明者の数は相当数に登るはずだ。そのほとんどは、現実からの逃避であっていわゆる失踪である。失踪して得るものは何もない。むしろ失うものの方が多い。にもかかわらずなぜ失踪するのか。確かに失うものは多い。でもそれ以上に一歩踏み出す気持ちを起こさせるのは一体何なんだろうか。そこで新しく生まれ変われるという期待感がないわけではない。実際には、生まれ変わるわけでも何でもないのだが、全てを断ち切った時点で、ある意味リセットするという思いが先に立つ。そうだ、どこかにワクワクする気持ちがあるのだ。それがいつまでも続くはずがないと思っていながら、そうすることを止めることができないのだ。その時にもう一人の自分がいて、冷静に自分のことを見つめている。失踪するなんて、もう一度考え直した方がいい。失踪することは新しい自分に出会えるのではなく、積み重ねてきた軌跡を失うことで、自分自身を喪失してしまうことなのだ。あの時、自分はすんでのところで事故に遭遇することを免れることができた。しかし、自分の前を歩いていた男は、紙屑のように吹き飛ばされていた。その違いはわずか数メートルにも満たない。わずかな違いで脈々と築いてきた男の人生は終わってしまったのだ。ひょっとしたら男の人生は順風満風だったかもしれない。しかしいくら満足のいく人生を歩んでいたにしろ突然とその人生は寸断されてしまったのだ。それは自分だったかも知れないという思いが大宮をして目的のない行動を起こさせていた――
そこで話は終わっていた。

「その山根という人物が書いた文章が君の言う児島という人物のことだというわけか」拓也はレイコに訊いた。
「そう、細部がかなり違っているけども全体的な流れは、ほぼこの児島という人物のことを書いているわ。それと、この児島がサラリーマン時代にやっていた不正の闇に蠢いている別の存在が見え隠れするのよ」レイコの言葉は、拓也には何のことかさっぱりわからなかった。
「ところで頼みって何だい?」
「ああ、あのね、週末に行きたいところがあるんだけど、一緒に行ってくれないかなと思って」突然、さらりと言われたから拓也は一瞬ドキッとした。
「えっ、どこに?」拓也はやや期待を込めて言った。
「釣りに行きたいのよ。拓也は釣りやるんだったっけ?」
「ああ、やるよ」
「渓流のあるところがあってそこでルアーをやりたいなと思って」
「ルアーか……マス釣りかな?」
「そうマス釣りに行きたいわ」
「いいよ、じゃあ一緒に行こう」
拓也はそう言って笑った。週末お店に出てもらう話はどこかにすっ飛んでいた。
二人が外へ出ると晴れ渡っていて突き抜けるような青い空が広がっていた。時の流れと共に、いろんなことがすべて吹っ飛んでしまったような雲ひとつない青さだった。すべてはきれいに流れさった。

流浪の星

流浪の星

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-08

Copyrighted
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  1. 画策の糸
  2. 錯綜の足跡
  3. 崩潰する障阻
  4. そして十年後
  5. そして再び