アニメの神様
轟々と鳴る業務用食器洗浄機の音が止まり、史郎はようやく自分が呼ばれていたことに気づいた。ふり返ると、オーナーシェフの小金沢が笑顔で立っていた。手にローストビーフの乗った皿を持っている。
「余りもんで悪いが、良かったら食えよ。腹へってるだろう」
「あ、ありがとうございます」
小金沢は余りものと言ったが、ローストビーフはきれいにスライスされて並べられており、ホースラディッシュ(西洋わさび)とクレソンも添えられている。おそらく、ディナーのオーダーが一段落した後、史郎のために用意してくれたのであろう。史郎は両手で皿を受け取った。
「すぐに食べるなら、グレイビーソースもやろう」
「すみません」
小金沢はソースポットごと渡してくれた。
「食べ終わったら、きれいに片づけといてくれよ。カミさんに見つかるとうるさいからな」
小金沢は片目をつぶって見せ、調理場に戻って行った。史郎はその背中に頭を下げると、狭い洗い場の隅でローストビーフを食べた。最高にうまかった。
史郎の働いているレストランパブ小金沢は、カウンター五席、テーブル二十席ほどの小さな店である。有名ホテルで修業したという小金沢は、料理を作ること以外のすべてを妻の清美に任せていた。求人誌のアルバイト募集を見て、この店を訪ねて来た史郎を面接したのも、清美だった。
「あなた、ずいぶん若いわね。いくつ?」
履歴書に書いてあるはずだと思ったが、せっかちそうな清美の様子を見て、「二十三歳です」と答えた。
「そっかあ、若いわねえ。あ、いえ、若くていいんだけど、五十歳以下の応募者は、あなたが初めてなのよ。ええと、念のため確認するけど、本当に洗い場でいいのね。ホールじゃなくて」
「はい。自分は人と話すのが苦手なので」
清美は、改めて史郎の履歴書に目を落とした。
「ふーん、アニメの専門学校を出て、アニメの会社に勤めてたんだ。この、スタジオ・ラスプーチンって割と有名なところじゃないの」
「ええ。大手ではないですが、中堅だと思います」
清美はちょっと皮肉そうな笑みを浮かべた。
「ねえねえ、アニメの業界って、結構ブラックだって言うじゃない。本当?」
史郎は苦いものがこみ上げるのをこらえた。
「まあ、そう、ですね」
史郎の表情で何か察したらしく、清美はそれ以上その話題には触れず、事務的な話に切り替えてくれた。採用はすぐに決まり、史郎は次の日からこの店で働くことになった。それから半年過ぎたが、今でも清美の顔を見るたび、この時のことを思い出してしまう。
史郎は、幼い頃からマンガやアニメが好きで、それが自分の仕事になればどんなに幸せだろうと思っていた。しかし、現実のアニメ制作は細切れに分業化されており、今自分がやっている仕事が全体の中でどういう位置付けなのか、いつの間にか見失ってしまった。その上、割り当てられる仕事の量が膨大で、元々不器用な史郎は自ら遅くまで残って働かざるを得なかった。先輩に相談しても、みな自分の仕事を期限までに仕上げるのに精一杯で、相手にしてもらえない。このままでは倒れてしまうと思いながらも、なかなか辞める決心がつかなかった。辞めれば、今までの努力がすべて無駄になってしまう。田舎の父からも、少なくとも三年は辛抱しろと言われていた。それでもついに耐え切れず、入社して一年足らずで退職した。
辞めてしばらくは、何も手に付かなかった。やがて貯金も底をつき、もう田舎に帰るしかないと、怒られるのを覚悟で父に電話した。だが、意外にも、父は穏やかな声で「帰りたければ、いつでも帰ってくればいいさ」と言った。
「だが、史郎、おまえに畑仕事は向かんだろう。せっかく都会にいるんだから、何か違う仕事を探してみたらどうだ。とりあえず、皿洗いでもなんでもいいじゃないか」
もちろん、父は例えとして「皿洗い」と言ったのだが、ちょうどその頃目にした求人誌に「洗い場スタッフ急募! レストランパブ小金沢」とあったのだった。
主人の小金沢は若い史郎に何かと目をかけてくれたし、清美も、言葉こそキツい時もあるが、丁寧に仕事を教えてくれた。もっとも、初めから承知の上だが、単純作業だから給料は安い。毎月の生活費はいつもカツカツだった。
「ダブルワークしなきゃ、貯金は無理だな」
そうひとり言をつぶやき、食べ終わったローストビーフの皿を洗った。
史郎は、ランチタイムサービスの終わる午後の二時から、休憩を挟んで夜の九時まで働いている。朝ゆっくり寝ていられるというのも、夜型の史郎には都合がよかった。特に用事がなくとも、寝るのはいつも三時を過ぎるのだ。
「いっそ深夜だけ、コンビニとかで働かせてもらうかな」
何度も考えたことだった。週に一度の休みは、溜まった洗濯や掃除などの家事で丸一日潰れる。別のところでも働くなら、深夜しかない。だが、そうすると、自由に使える時間がなくなってしまう。
「それは、イヤだな」
夢が破れた今、特にやりたいことがあるわけではなかった。それでも、生活のために働くだけの生活は虚しい気がする。自由な時間に何かしたかった。それが何なのか、史郎は未だに見つけられていないのだが。
「ちょっと、何ボーッとしてんのよ!」
清美だった。のせられるだけ皿をのせたトレイを持っている。
「あ、すみません。受け取ります」
史郎にトレイを渡すと、清美は「ふーっ」と息をついた。
「お客さん、みんな帰っちゃったから、あなたも食器下げるの手伝ってちょうだい。そのままの格好でかまわないから」
「わかりました」
それでも、防水エプロンだけは外し、史郎はホールに出た。
遅い時間に大人数のグループが来たとは聞いていたが、下げものはウンザリするほどあった。この時間にはもうホールのアルバイトの女の子は帰っているので、小金沢も調理場から出て来て手伝ってくれた。
史郎も何度か洗い場まで往復して食器を運んでいたが、ふと、テーブルの下にメモ帳が落ちているのに気がついた。何気なく開いてみると、細かい字でびっしり書き込みがしてある。裏返すと『KAGOSHIMA』と書いてあった。
その時、店のドアがドンドンと叩かれた。
清美が「すみませーん、もう、閉店なんですう」と言いながら、ドアを少し開いて外を覗いた。
「あ、監督さんじゃないですか」
「すまん、大事なものを忘れたようだ」
そう言いながら、ヒゲ面の初老の男が入って来た。
史郎はその顔を見て、思わず「あっ」と声が出た。有名なアニメ監督の鹿児島充だった。
「鹿児島監督、お忘れ物はこのメモ帳ですか?」
自分でも思いがけず、史郎はアニメの神様に話しかけていた。
「おお、そうだ。ありがとう。スタッフとの打ち合わせに夢中で、すっかり忘れてしまったよ」
真っ赤な顔でメモ帳を渡す史郎をみて、清美がニッと笑った。
「そうだわ、監督。この子もアニメの仕事をしてたんですよ」
ああ、今それは言わないでくれ、と史郎は内心で叫んだ。
「ほう、どこだね」
「あ、あの、スタジオ・ラスプーチンでした。もう、辞めましたけど」
「そうか」
鹿児島は痛ましいものを見るように目を細めた。
「あそこの噂は聞いてるよ。残念だが、それも我々の業界の現状だ。うちのスタジオ・サプリだって、まだまだ理想からは程遠い。それでもやる価値のある仕事だと思って、みんながんばってる。だけどね、上に立つぼくらは、それに甘えちゃいけない。現状を、変えなきゃいけないと思ってるよ」
「あ、はい」
横で聞いていた小金沢も笑顔でうなずいた。
「話せて良かったな、史郎。鹿児島さんはうちのお得意様なんだよ。おれは詳しくないけど、ほら、有名な『あなたのお名前』とか作った人だよ」
あ、それは他の人の作品、とまた内心叫んだ。鹿児島も苦笑している。
「まあ、こんなことだから、ぼくもうかうか引退なんかできない、というわけさ。まあ、次回作を見ていなさい。ああ、そうだ」
鹿児島は真顔に戻って史郎を見た。
「きみ、シナリオとか、書かないの?」
「え、いや、まだ、書いたことは」
「そうか。実は新作のシナリオを募集してるんだ。きみも挑戦してみないかね」
「あ、ありがとうございます。でも、どうして、ぼくに」
鹿児島は、ニヤリと笑った。
「カンさ。こういう仕事を長年やってると、なんとなくわかるんだよ。あの子は絵を描くのが上手、この子は文章を書くのが得意、ってね。ま、外れることもあるがね」
がははと豪快に笑うと、またすぐに真顔に戻った。
「まあ、気が向いたら、ってことでいいよ。もちろん、審査は厳しいし、ぼくが選ぶのは最終候補だけだから、そこまでたどり着くのは大変な競争だ。ぼくだって容赦はしない。だから焦らず、コツコツやればいい。幸い、小金沢さんご夫妻はいい方だ。働きながら、少しずつ書けばいいさ。きみはつらい目にあったかもしれないが、世の中、そう捨てたもんじゃないよ」
史郎は黙って頭を下げた。胸がつまって、言葉は、出なかった。
小金沢に「また食べに来ます」と礼を言って帰る鹿児島を、外まで清美が見送った。
「監督、無理なお願いをして、すみませんでした」
そう言って頭を下げる清美に、鹿児島は笑顔で片手を振った。
「とんでもない。励まして欲しいというご希望でしたが、彼に言った言葉にウソはないですよ。いいシナリオを、楽しみに待っています」
鹿児島はもう一度、がははと豪快に笑うと、スタッフが待っている車に戻って行った。
(おわり)
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