行ったり来たり、そして次の人
前書「曇天の日には収穫が多い」の続編
序
行ったり来たり、そして次の人
序
さて、今この書に目を通そうとしていただいている読者の方々の多くは私の前書であるところの「曇天の日には収穫が多い」をお読みいただいた方たちであろうか?
もしそうでない方がおられるのであればその方々にはたいへん恐縮ではあるが、この書はその「曇天の日には収穫が多い」の続編であるため、ここではその前書を踏まえたうえでの論述が展開されていくことになることを予めご承知願いたい
すでに前書において述べているが、「曇天の日には収穫が多い」も、またこの「行ったり来たり、そして次の人」もあくまでも個人的な私論であるので、そこに普遍的な価値があるかどうかは言うまでもなく読者諸君各々に御判断していただくことになるのであるが、前書「曇天の日には収穫が多い」をお読みなったおられない読者の方々も可能ならばであるが、前書をお読みいただいてこちらに移っていただけると実に幸いである
早速もって読者をまるで選別するかのような文言が並んでおり、何とも申し訳なくまた心苦しい限りであるが、前書「曇天の日には収穫が多い」とこの書「行ったり来たり、そして次の人」とはセパレートされて然るべきものであり、一冊に纏めることが私個人の見解ではあるが難しいため、この書で初めてアクセスされた方々にはほんとうに申し訳ないのではあるが、何卒ご理解いただけるよう御願い申し上げる所存である
したがって今一度お詫び申し上げながらも述べさせていただければ、この書「行ったり来たり、そして次の人」は前書「曇天の日には収穫が多い」を読んでいただいていることを前提のうえ論を進めることになるため、そうでない方には間違いなくご不憫な思いをさせることになると思われるが、何卒ご理解賜るよう御願い申し上げます
では早速、この書の私論のとばぐちに立たせていただきます
さて前書「曇天に日には収穫が多い」の序において前書のテーマは①なぜ人生はかくも辛いのか(ミクロ)と②なぜ神は人間を造ったのか(マクロ)の二つの疑問に自身で答えを導き出すために以下私論を重ねると書いたが、この書「行ったり来たり、そして次の人」も前書の続編であるため基本的にはその姿勢を受け継ぐことになる
また前書のあとがきでも触れたようにこの書では前書とは別の視点から論を進めることになるため、受動的ではなく能動的な内容になるであろうということもここで触れさせていただきたい
ただ前書において残念ながら述べることができなかった部分も幾つかあるのでそこをまず片づけてからその先へ進むことになろうかと思う
しかしここはこの書「行ったり来たり、そして次の人」の序でもあるので、大まかにではあるがこの書の全体像をここで掴んでおきたい
この書は能動的な、つまり手ではなく脚で得た情報によって構成されていくことになるため前書よりも一歩踏み込んだ内容になる、そこで強調されるのは二つである、一つは決断であり、今一つは勇気である
何れも「考える」ではなく「実践する」をその目的としているため一歩前進ではあるが同時に「考える」にはないリスクを孕むことになる、「考える」と「実践する」は必ずしもそのベクトルは真逆ではないが、その結果は大いに異なる
これは本論で述べるべきことであるが思い切ってここで述べてしまおう
「勇気を持って実践する」が生み出すものは、95%くらいの確率で「ハートブレイクの甘受」である
95%とはやや曖昧な数字であるが、個人的にはおおよそこれくらいであろうという感触がある、必ずしも恣意的な数字ではない、一定量の経験によって導き出された数字といってもよい、また「ハートブレイクの甘受」とはこの書において今後も多く使われる表現であろうが、上記したリスクを比較的うまく表現した言葉ではないかと思う
言うまでもなく「勇気を持って実践する」は善をその基本としていなければならないが、それについてはこの序で述べる必要はないであろう
私がすでに「曇天の日には収穫が多い」を著したにもかかわらずさらにその続編を記そうと考えたのは、前書のあとがきでも触れたように前書を書いているその途上で、であった
私論というものはどのようなものであれ、自分の経験から導き出される、あくまでも普遍的な性質を持つと思われる言葉または文章によって構成された論理を個人の精神、そして思想の根幹をなすもの(私にとってそれは神である)と常に絡めながら展開させていくものであるが、故に主観が幅を利かせ、また致し方無いことではあるが言葉の優先を認めるがために理性の対極をなす本能的な部分が表面に出づらくなってしまう傾向があるように思う
人は生きる、がしかしそれは理性的な判断により導き出された答えがそこにあるからではない、私たちはただ本能により生きるのである、したがって残念な結果ではあるが必ずしも人は善を選択するのではなく、しばしば悪に傾くのである
悪の一丁目一番地は嘘であるが、「嘘は泥棒の始まり」であっても私たちは悪をこの世から完全排除することは難しいであろう、それは「善」というものを強くしかも神と絡めて想起するときに具体的に認識される
善の対照的な位置に存在するものは確かに悪であるが、光が闇を切り裂いて初めて光を闇の対照的な存在として認識できるように、善もまた悪に手を染めてその時のバツの悪さによって初めて善を悪と切り離して認識できるようになるのである、この時に感じるいわゆる「疚しさ」は道徳に属するものであり直ちに信仰を呼び起こすものではないが、やがて善の持つ普遍性に気付くとき人は僅かではあっても信仰に目覚め、普遍を知るが故に行動を起こす、それは当初は内省的なものから発したものでありしたがって必ずしも決断を必要としない、つまり平均的なレヴェルより少し上程度の意思決定によりそれは為されるものであるが、しかしそれはいつしか「それでは足りないのだ」という善の普遍性に目覚めた者ならば必ず辿り着くであろう精神の境地から、より能動的なものを引き出そうと試みるという実は精神の旅路の当然の帰結に到達するのであり、そのように考えると信仰というものは最終的には「勇気を持って実践する」におそらくは99.999%の確率で昇華していくものと考えることができる
これはやや大袈裟に言えば人類の歴史とも符合しているのではあるまいか、人類も当初は本能のままに生きていたのであろう、無用な争いも多くまた悲劇も生まれたであろう、本能とは必ずしも善悪を判断する能力ではないために、力だけを頼りにするものがその人一倍の腕力をいいことに時に不必要なまでにその勢力を拡大していったことであろう、おそらく随分と長い間、言葉の発達によって人類が善や平和、そして権利といった概念を多くの労苦から導き出すまでは、ただ力による支配とそれに対する服従がホモサピエンスのみならず、すべての人類の間で繰り返されてきたのであろう、すでに絶滅してしまったホモサピエンス以外の人類のことを思う時、だからこそ私たちホモサピエンスはその望む、望まないにかかわらず、ある種の理想の実現のための責務を負うのであり、そういう点では昔に戻るという選択肢は実はないのだということを痛感させられる
「能動的である」ことのリスク、それは決して小さくはない、「わかってもらえない」という虚しさは理想を追う者であればこそそれは終生切り離すことのできないものであり、故に後継者にその理念の継続を託すしかないという現実のジレンマに理想主義者は如何なる世であれ苦しみ続けることになるのである、したがって真の理想主義者は実は笑顔からは遠い、なぜならば理想を語る者はついにその果実を見ることのないまま天国へと旅立つのだから
然るにここで前書「曇天の日には収穫が多い」でも触れたあの言葉が復活してくるのである
にもかかわらず
「にもかかわらず前進する」、「にもかかわらず理想を追求する」、そして「にもかかわらず諦めることをしない」
すべてはこれから生まれてくる人々のため、しかしここで自己犠牲という表現を用いるのは適切ではないかもしれない、なぜならばすべての先達もまたそうしてきたからである、そして時代は明らかに少しずつではあるが進歩を遂げ、その恩恵に少なくともこの2016~17年を生きる人々は皆程度の差こそあれ浴しているからである
私たちはそういう意味では決して一人ではないのである
少し長くなったのかもしれない、まだ序であることを忘れていたようだ
そろそろ本文に入ることにしよう
前作のまとめ及び補てん
前書「曇天の日には収穫が多い」のまとめ(書き漏らした部分の補てんを含む)
さて前書「曇天の日には収穫が多い」ではすでに述べたように二つの疑問に自ら答えを導き出すという視点から論考を重ねた
① 人生について、なぜかくも人生は辛いのか?
② 神について、なぜ神は人間を造ったのか?
この二つの疑問は私にとって幸福というものを考えたときにどうしても外せない問題であり、またたそがれの扉(老いの始まりのこと)を開け信仰というものを改めて検証する時、やはり私論とはいえ一つの結論を自分の内部において発見していくことはそしてそれを発表することは僭越ながら自他伴に有益であると考えたのである
言うまでもなく文学でも絵画でも、音楽でも映画、演劇でもどのような分野であれ作品というものは未完のものも含めてその発表をもって完成となる、つまり発表されない限りそれは完成されたということにはならない、そういう意味では私の論考は私論ではあるが多くの読者諸君の批評を受けてこそ筆者である私自身さえ想像しえなかった最終的な論域に達するものとなるのかもしれないと考えるのである
ちなみにこの私論はもっとわかりやすい言葉で表せばエッセイということになる、エッセイとは元々自分の思想、信条などを文章の形で明らかにするということなのでそのように捉えてくださっても結構である
さて前書「曇天の日には収穫が多い」では上記した二つの疑問に対する論考を重ねた結果幾つかのキーワードを読者諸君にお示ししたが、その筆頭に来るものが「負の肯定」であった
これは「人は死ぬ、にもかかわらず生きる」から導き出されたものであるが、この「にもかかわらず」が私たちの生活から切り離すことができない以上、負の肯定により私の私論がスタートするのは実は至極当たり前のことであった
いったい天国に何を持っていけるというの?
この素朴な疑問は12歳の子どもでも理解できるものである、そしてこの疑問に対して明確な答えを用意できない以上、私たちは幸福とは何かというある意味人が生きる上での根本的な問いを蔑ろにするわけにはいかないのではなかろうかと思うのである
20世紀、私たち人類の文明はそれまで超えられなかった障壁をついに乗り越え少なくとも二つの新しい扉をほぼ同時に開けた、一つは核の扉であり、今一つは宇宙の扉である、いずれも科学技術の成果であり、それによって宗教による既存の世界観は大きく揺らぐこととなった、人間を滅ぼすものは神ではなく人間であり、また人間を救うのも神ではなく人間である、この決して暫定的なものとは言えないそして仮説でもない一つの結論は、しかしだからこそ人類に新たな問いを投げかけることにもなっているのである
もし人間の運命を決定するのが神ではなく他ならぬ人間自身であるのであれば、では人間はこれから先どのように生きていけばよいのであろうか?
また今後神とは人間にとってどのような意味を持つものとなっていくのであろうか?
このような21世紀ならではの大いなる疑問は、人間の根本課題である「生きるとは何か?」という誰もが大人になるその過程において経験するような思考の蟠りを改めて人類の一人一人に提示することになったのである
このように考えてくると死の先に待ち受けるものがどのようなものであるかがわからない以上、私たちの安息の地を求めるが故の精神の彷徨はついにその終わりを見ることがなく、がしかし新たな段階へと入っていくのであろう、そして人生を考える時に必ずや立ち止まりしばし思考(試行も含む)する、以下の問いがにもかかわらず頭をもたげてくるのである
(人間にとって)幸福とは何か?
人生を考えるとは幸福を考えるということである、人権という言葉が教科書に載るようになり、つまり人生の選択肢がそれ以前と比べて格段に広がった20世紀後半以降、実は私たちにとって生きる意味を問うということは、一方で当たり前になっている分だけ重要になってきているのである、だが現実には振り子はそれとは逆の方へと振れているようだ
私は思う、「確信」という言葉を人が用いる時、それは「人生の核心」にもまた触れているのであると、「確信」とは100%ということである、おそらく19歳の若者であってもこの言葉を用いるにはそれなりの経験に裏打ちされた精神的な何かがその背景になければ、口に出すか否かはともかくこのような言葉を使うことはできないであろう、「確信」とは勉強や趣味よりははるかに仕事において用いられる言葉である、受験生が口にする確信は間違いではないが範囲の限定されたものともいえるであろう、しかし仕事における、特に職人や芸術家などが確信という言葉を語る時、彼らは間違いなくそこに普遍を見ている、故に後継者は確信からのみ生まれる、直接的な接触があるかどうかはともかく確信のない者についていく若者は少ないと推測することは可能であろう、なぜならば「確信」とはどのような分野であれイコール「人生の核心」のことなので、特に感受性の強い若者たちはそこにある普遍を時に容易に嗅ぎつけるのである、確信とは「感じる力」のなせる業、考えなければ確信できないような人は頭は良いのかもしれないが後継者に託すべき何かを発見することのできない人といえるのかもしれない、だからこそ最も感受性の強い14~21歳の時期に「なりたい自分」を発見する必要があるのだ、そして当たり前のことだがそれは「自分で考えて、自分で結論を出す」、その結果でなければならない、「大人の期待に副うことが自分の喜びに適う」という人は真の幸福を考えたときにはやはりいつかどこかでそれから卒業する必要性に迫られるのではなかろうか、だがそのタイミングは自分で決めなければならない、「人はいかに生きるべきか」を考えたときに人は皆厳粛な面持ちになるが、上記した通りであれば人は21歳までに自分自身で自分の人生の少なくとも最初の結論(大人たちの期待に応えることが人生のすべてではない)に達しなければならないということになるので、そういう意味でもやはり人生は厳しいということになる
負の肯定は、その背景に善という最終的には個の倫理観を超え信仰にまで達し得るものがあればだが、幾多の紆余曲折を経てその対象(時に対照でもある)である究極の善と伴に正のプライドへと達する
私は信仰は理性に優先されるべきものとは考えていないため、また組織によるその方面の有力者の結果的にせよ現出を、つまり絶対者が現れることを強く否定しているため、各々の個がその信仰において更なる高みへと達することを期待しているのだが、その実現には信じられないほどの時間が必要になると思われる、そういう意味では表現及び言論そして信仰の自由の保障を認める民主主義とその思想に則った憲法が重要になるのである
私のこのような思考であり思想は、この21世紀初頭においては必ずしも普遍性を持ちえずしたがってそこにあるメッセージはむしろ未来人に向けたものとしてのみ捉えられるべきなのであろうが、だがそのように考えた場合でも一つの原則が必要になる、それは「表現及び言論そして信仰の自由に関する社会的な合意というものが劣化していかないこと」である、つまり民主主義の原則が民意を反映する世論の支持を受けており故に反動的な分子が現れた場合でもその基盤が揺らぐことのないようにすることである
民主主義を否定する者にも選挙権及び被選挙権は平等に与えられているため実はこの原則を維持していくのは決して容易なことではない、また世論には流れがあるため不本意であってもそれに暫定的に従わざるを得ないという場面にも人々は遭遇するであろう、これは以下に説明するような図を想像していただけるとわかりやすいかもしれない
真ん中に一本の線を左右に引いていただきたい、これが基準線である
そして上に保守の陣営が、下にリベラルの陣営がある
基準線のやや上と下に同じ間隔で点線を引いていただきたい、つまり点線は等間隔で上下二本あるということになる、これで図は完成である
私は最も望ましいのはこの二本の点線の間をいわゆる権力というものが定期的に往復することであると考えている、一定期間保守に振れた後は、一定期間リベラルに振れるということになる
そして現実は、であるが、おそらくこの文章を書いている2017年1月現在、私たちの現在位置は上の点線上にあると思われる、つまり保守の陣営に現在位置があることになる、しかし実はこれはそう問題ではない、問題はその現在位置の方向性つまり矢印である、私たちの現在位置は無論点で表されることになるがその頭には矢印が付いている、これも読者諸君には容易に理解できるであろう、すべては現在進行形なのだから当然である、ではその頭についた矢印はどっちを指しているのであろうか?上記した私の理想からすれば、その点は往復運動をするべきと書いたのだから下を向いていなければならない、だが現実には矢印は上を向いている
だからといって上方につまりより保守陣営深くに進んでいるというわけでもなさそうだ、ゆっくりと上へ進んではいるのだがそのスピードはそれほど速いというわけではない、そういう意味では現時点では上記したような私の憂慮つまり「表現及び言論そして信仰の自由に関する社会的な合意というものが劣化していかないこと」はとりあえず許容範囲内にあるということになる、つまり一安心していられる状況にあるのだが、しかし世界の変化とは常に突然でありまた一旦事が起きれば急速にそれは動き始める、であるから私たちは常に用心していなければならないのであろう
さてこの章つまり前書「曇天の日には収穫が多い」のまとめの終わりにはこの言葉が登場することになる
回帰
私たちはこれからいったいどこへ行くのであろうか?
その答えとなるのがこの回帰である
つまり私たちはどこへも行かない、ただ回帰するのみであるということである
人生は渦を巻くようにつまり曲線的に進行する、実は幸福も曲線の中にある、直線上にあるのは成功でありまた富である、もちろん成功の方を選択するという人にとってはこの部分の結論は異なるのかもしれないが、私は人生の目的とは幸福の中にこそあると考えているのでこのような結論となる
また神の使者は痩せた旅人のようでありまた彼はメインストリートを闊歩することはない、彼は常にバックストリートにいる
この回帰はこの章の前半に登場した問いとも厳密にはつながっている
私たちは天国に何も持っていくことはできない、ただ後継者にこの世のすべてを託すことができるのみである
おそらくこの世の真理とは以下の如きものであろう
相異なる役割を担う二つの要素の間における飽くことなき永遠の往復運動
したがって多くを得てもいつかはゼロへと回帰する、だからこの世は普遍的に平等なのだ、太陽は地球上のその地点における「出(いずる)」と「没する」を誤ったことはない、それはこの世が普遍的に平等であることを間接的に証明している、「普遍的に平等である」とは「正確である」ということだ、そして「正確である」とは「偶然ではない」ということだ、そして「偶然ではない」ということはそこに「意思が働いている」ということであり、そして意思とはつまり神の意志の結果生ずるもののことである
すべては侵されるが、いつかすべては赦される
そしてそのための唯一の条件が信仰である
では回帰した後、私たちはどうなるのか?
その瞬間から再び「都市へと向かう」のであろうが、それについてはもう記す必要はあるまい
ではこの書「行ったり来たり、そして次の人」の本論へと進もう
半分だけ水の入ったコップ
半分だけ水の入ったコップ
さていよいよ本論に入るわけであるが、この書「行ったり来たり、そして次の人」は以下の一文によって始まる
ここに半分だけ水の入ったコップがある、さてこのコップを見たとき人はそれをどのように判断するであろうか?
それは以下の二通りに分かれると考えられる
① もう半分しか残っていない
② まだ半分残っている
① は半分しか残っていないのだから水を継ぎ足さなければいけないと考えるであろう、それに対して②はまだ半分残っているのだからそれを有効に活用しようと考えるであろう
最初に断っておくが、この二つはいずれも正しいのである、半分しか水の入っていないコップを見て、「半分しかない」なのか、それとも「まだ半分ある」なのか、この例文は今後もこの書において何度も繰り返されることになるのだが、前書の序でも触れてあるようにこの私論は私的幸福論でもあるために、前書同様この書でも「人間にとって幸福とは何か?」が重要なテーマとなっているのである
この例文でもおわかりのように私たちはほぼ常に少なくとも二つの選択肢を与えられているということになる、どちらを選ぶかは本人の意思によるわけだがその結果は時に大いに異なる、しかし選択自体は自由意思の結果であるためにその選択の結果がその後どのような変遷を辿ろうともそれに関してはすべてその選択者の自己責任という結論に至る
確かに選択を途中で変更することはできるかもしれない、「AではなくBにします」と、だが一度選択を変えて更にもう一度「やはりAに戻します」というのは難しいかもしれない、受験などで志望校を変更するのは容易だがそれはそれが仕事ではないからである、大人の世界では、判断がその時々で異なるというのは信用という面で実に不都合なことである、おそらくその本人は結果の重大性を考慮して呻吟を重ねた結果、その結論に達したのであろうが、しかし逡巡とはそれ自体が最悪の選択肢なのである、そのように考えると私たちは日頃から自分の取りうる選択肢というものを幾つか想定したうえで、そのための問答を自分の中で繰り返し、いざという時に困らないように、「こういう時、私はこうする」という前提をある程度作っておく必要があるのかもしれない
私は前書で豹変の重要性を認めながらも、豹変は人生で二度多くても三度までだと述べた、だが私の周囲で時に見られる逡巡はその範囲を大きく逸脱しているものも少なくない、たとえAかBかという選択肢が二つしかない場合でも、また高学歴の人であっても自分の進むべき道というものが一定の割合で認識されていない場合には人はおそらくしばしば逡巡に陥る
敢えて言おう、逡巡は99.9%、マイナスでしかない
それは貴重な時間の浪費でもあるが、また一方で自分がそれまでに辿ってきたいわゆる軌跡が左右にぶれていることを証明することになるため、信用問題に発展するとともに本人が予想する未来の絵図が大きくぐらつくことを意味する
だが人は五十年も生きていれば必ず数度は大きな決断に迫られる、もちろん決断しないということも一つの決断だが、これは「やって後悔するか、それともやらないで後悔するか」というまた別の迷いを想起することにもつながるため実は必ずしも良い選択とは言えないのかもしれない、また夢を叶えた人は概ねどこかで決断をしているという事実もあるであろう、オリンピックのゴールドメダリストが「あの時決断を回避したので今の自分があります」と言うのをあまり聞いたことがないように思う、それは時に外科手術であったり、または留学であったり、または所属チーム(時に国籍)を変えることであったのかもしれないが、社会的に高評価を得られる結果を残してきた人たちはかなり高い確率でいずれかの時点で決断をしてきた人たちではあるまいか、したがってこの章のキーワードがここで見つかったということになる
この章のキーワードは「選択」であり「決断」である
もちろん「回避」や「逡巡」といった人間の弱さを象徴するものでしかないと考えられる言葉にも一定の存在すべき場所が与えられると考えられるべきではある、なぜならばすべての人間が等しい結果を残すことができるわけではないという絶対的な現実がそこにあるからである、したがって選択や決断が可能な状態にある人にはやはりその結果が希望や幸福につながるものであってほしいと願わざるを得ない、オリンピックやパラリンピックにおける選手たちの活躍はやはり万人の幸福に最終的には直結するものであると私は思う、もちろんメダリストたちの栄誉は永遠に讃えられるべきだが、結果につながらなかった選手たちのそれまでのすべての時間の努力というものにも私たちはきちんと目を向けなければならないと思う、これはいわゆるマスコミの役割ではなく私たち国民一人一人の役割である、そういう意味ではオリンピック、パラリンピック伴にではあるがメダル以外にも賞を設ければよいのではないかと思う、私が思うにそれは「自己ベスト賞」である、つまり選手たちには皆公式記録があるのだから、その公式記録を大きく上回った選手にこの自己ベスト賞を贈るのである、そうすれば15歳の選手や正直メダルには届かない選手にも晴れやかな舞台が用意されていることになり、多様性の尊重という観点からも望ましいのではないかと思う、15歳の少年少女が4年後、または8年後再びオリンピックに戻って来られるという保証はない、そういう意味でももしかしたら栄誉の追加という点ではもう少し柔軟な対応があってもよいのかもしれない
いわゆる「喜び」は皆のためのものでなければならない、そこには公平なルールとチャンスの平等が絶対の原則である、だからドーピングは赦されないのであるが、この2016~17年世界的に特に経済的な面での格差が広がっている、貧しい国に暮らす子供たちにも平等に夢を追いかけるチャンスは与えられるべきだ、そのように考えるとFIFA World Cupにも第二World Cupがあってもいいはずだ、そうすればサッカーの途上国にもチャンスが与えられることになり全体の底上げにもつながるであろう、僭越ながらオリンピックのサッカーは年齢制限があることもあり、第二World Cupの機能は果たせないであろう
注)私がこの章を書いた直後、FIFAがワールドカップの出場可能国数を48にすると発表した、喜ばしいことである
私はすでに前書で20世紀は効率性重視の時代だったが、21世紀は多様性重視の時代になるべきだと書いたが、それはここでも引き継がれるべきであろう
私たちの喜びとはつまりは幸福のことである、故にそこには選択の自由と決断に伴う責任とが併せて認識されている必要がある、おそらくどちらか一方だけでは彼自身の幸福につながることはあっても万人の幸福にはつながらないであろう、権利だけを主張し義務を語らない人にも何らかの道理はあるのであろうが、私たちは先達が苦労に苦労を重ねて築き上げてきた社会的に肯定的に評価されうる価値観の上に生活というものを日々積み重ねそしてその中で夢を追いかけている、したがって少なくとも25歳くらいになれば社会の一員として果たさなければならない自身の役割というものをある程度は認識するべきなのであろう
序ですでに「勇気」という言葉を用いている以上、ここでは新しい展開というものも必要になるのであろう、前書に引き続きこの書をお読みいただいている方々には早くも異なる展開になることに少し戸惑うかもしれないが最終的にはここで述べられていることは前書に記されていたものの延長線上にあるものであり、故にそこに論理的な意味での矛盾はなく何卒もうしばらくご辛抱のうえ読み進めていただきたい
「個別」であることの義務、そして責任、「個別」の価値観は「共通」の価値観を上回る
幾度も繰り返されてきたこの一文は新しい価値の創造が「次の人」のための道を作るという点において前書をお読みいただいていない読者の方々にもここで認識していただきたい論点である
いったいなぜここで決断を促されなければならないの?
そう問う人々にはやはりここでこのように答えるしかないのであろう
貴兄のこの時点での決断が最終的には万人のための幸福につながる、少なくともその可能性があるからである
なぜならば勇気ある決断とは善に立脚しているからである、ここはまだ感受性豊かなしたがって理性的にはまだ成長過程にある14歳から21歳くらいの人々には容易に理解されえないことであろう、決断の回避が常に弱者または卑怯者の選択であるとここで断じることはできないが、しかしここで私はこの私論の一つの結論を述べる必要があるであろう
「他人の迷惑になることをしない」ではなく「他人の喜びにつながることをする」をにもかかわらず優先させるべきである
にもかかわらず、と書いたのは序にもある通り、勇気ある決断が招くものは95%くらいの確率で「ハートブレイクの甘受」と書いたからである、僭越ながら邪推は弱者の属性の一丁目一番地、弱者故に疑い弱者故に回避する、ここで告白しよう、私も以前はこのような弱者であったのだ、「懐疑を抱く」は権利であり、それは道徳上も擁護されるべき態度であると、だがそれを打ち破るために私は今この書を書いているのだ
確かにこれは難しい、したがってある種の猶予期間も設けたいと考えているが、それについては後に詳述しよう
しかし私がここで私的なものとはいえ決断すると書いているのはとにもかくにも前書において多くの分析を書き連ねたからである、もしここでその続編として選択と決断をテーマにした書を記さなかったならばそれは分析のための分析ということになり、果たして文字通り「次の人」にとってその分析が有益なものとなるかどうかわからなかったからである
分析の後に来るものは何か?
いうまでもなく実践である
実践を伴わない論理はスポーツを例にとれば容易に理解できるように机上の空論でしかない、そういう意味では分析をする、そしてそれを記し発表する(どのようなものであれ発表しないと作品は完成しない)ということはそれ自体がある種の冒険のようなものなのである、それは15世紀以降のヨーロッパの大航海時代における多くの航海士たちのそれに似ているかもしれない、確かに彼らの多くは私欲に駆られて大海原へと出帆したがしかし命の危険を顧みずそれを決行したという点では実は評価されるべき部分も多いのである、確かに侵略行為に及んだ者も多く数百年前のこととはいえ断罪されるべき部分も多いが、しかしそれでも「行う」は「回避する」よりも多くの賛同を得られなければならない、そうでなければ善をいくら論じても「次の人」のためのより良い社会づくりにはそれがつながらないからである、即ち何のための議論なのか?
つまりこういうことである
論じるとは決断するということである
これは我ながらかなり思い切った発言である、この部分に関しては自分で自分を少しだけ褒めてやってもいいであろう、それくらいの発言である、後はそれを実行できるかどうかだがまだこの書も冒頭であるが故に「猶予する」をある程度担保したうえで論を進めようと思う
「個」そして「孤」の決断とは常に不安の中にあるものだが、しかし戦争のただ中に放り込まれるよりはましであろう、だが同時にこうも思う、果たして日本の社会はある人物の勇気ある決断をすぐにではなくとも、最終的には正当に評価してくれるのであろうか?
私の不安は私が記すもののすべてが、モードに反しているまたは一定の社会的権威付けがなされていないなどの理由で安易に葬り去られることだ、「共通」が優先されている社会では安易な選別は実に簡単にまかり通る、誰がその最終的な決断を下したのかはたらい回しにされ、「結果的に平穏」がまるで至上の善のようにおおよそすべての人々にしかも瞬間的に受け入れられる、誰も責任を取らないのでそこで(時間と場所の両方)集団に紛れることは不安0~5%であるにもかかわらず多くを得ることができる、そこでは異を唱えること自体が悪であり、実際には流れに掉さす行為ではないのに「過ぎたことを蒸し返す者」として彼は邪魔者扱いされる、ところがその一方で「共通」の支持を得たものは明らかに流れに掉さす行為であるにもかかわらずこれまた瞬間的に受け入れられ、こっちは邪魔者扱いされることはなくそれどころか時には英雄扱いである(こういう連中をソフィストと呼ぶのか?)
私は諸君を信頼している、それだけは明言させていただく、だからこそこの辺りの所は確認させていただきたいのだ
私の不安は読者諸君に起因しているわけではない、敢えて言えばそれは日本の社会そのものとその仕組み全体に起因しているのである、だがこの不安は正常なものであろう、なぜならばこの書は日本語で書かれているため外国人はこの書を読めないからである、さらに言わせていただければ日本人の多くにはこの私論はおおよそ馴染み難いものでもあろう、この私論は普遍を強く意識しているが、日本人にとってはglobalやuniverseがdomesticを上回ることは正直稀である、したがって日本人的でないものは常に捨象される状態にあり、はみ出し者は敬遠され続ける
このような日本の社会の現状は歯痒さを大きく通り越し最早諦めに近い境地へと私を導くものであるが、そのように考えるとあまりここで踏み込んだ表現を用いない方が身のためかなとも思う
「価値あるものはおおよそ異端にその起源を発す」
この表現はそれほど誤りではあるまい、だが重要なのは異端、またははみ出し者であったとしてもそこに僅かでもいいからそれを受け入れるだけの土壌が醸成されているかどうかである、しかしそれはこの2016~17年の日本にはほとんどない
だから95%の確率での「ハートブレイクの甘受」になるのであるが、私の不安が現実のものになったとしてもそれを顧みる者が果たして何人いるであろうか?
しかし敢えて言わせていただこう、ここに記す私論が無下に扱われるようではより理想的な民主主義社会の到来など程遠いものとなろう、曖昧を好む、「出る杭は打たれる」を過剰に警戒する状態が延々と続くことが果たして健全な未来の形成に僅かでもつながるであろうか?
とりあえず先ほどの勇気ある発言は撤回しよう、だが削除はしない、なぜならば少なくともあの時点ではそのように感じていたからだ
どうやら、この書は分析だけによって書き連ねられたもう一方の書とは異なりやや迷走気味の論となりそうだ、しかし開き直るわけではないがそれもまた一興であるかもしれない、それほどまでに語ることを実行に移すことは難しい、時折踏み込みながらも同時におおよそ論理的に考えればこうするべきだというほどよく婉曲的な表現により構成される論の展開となりそうだが、それでもいくつかのキーワードは諸君に示すことは可能かもしれない、またこの書よりこの私論に加わった方々にも対象との距離を幾分かでも保った論の方がやはり読みやすいのではなかろうか
では次の章へと向かおう
WhatではなくHowである
WhatではなくHowである
さて前章では「半分だけ水の入ったコップ」と題して、この書の最も重要な論点とそれに続く自身の分析のみならず覚悟さえも記そうと試みたわけであるが、どうもうまくいかなかったようだ、しかし、「半分だけ水の入ったコップ」というある種象徴的な一文はこの書の論点を実に明確に言い表しているものでもあり、何卒諸君、記憶の片隅に留めておいていただけると有り難い
前章では「選択」、「決断」、「回避」、「逡巡」といったキーワードが書き連ねられたが、実を言えば前章では「半分だけ水の入ったコップ」というこの例文さえ理解していただければそれでよかったのである、最低限の選択肢の存在はそれだけで最低限の多様性の確保にもつながる、果たして「半分しか」水が入っていないとそれを受け取るのか、それとも「まだ半分ある」と受け取るのか、コップに水がまったく入っていなければおそらくそこに選択肢はあり得ずしたがって一見半分といえば中途半端に見えるのだがしかしそこには重要な論点が実は隠されているのである
確認のため①半分しか水が入っていないも②まだ半分あるも両方正しいともう一度言わせていただく、この世はすべて二つで一つであるために、両論を併記するという思考の整理は決断の一歩手前の段階としては実に理想的である、最初から片方の選択肢をもう片方よりも差別的に扱うということはそれ自体「多様性の尊重」に反することであり、故に私風に言わせていただければ21世紀的ではないということになる、最低数二はこの私論の原点ともいえる数字であるが、よく考えてみればこの逡巡の基ともなりえるようなこの複数形の数字こそがこの世の真理(「相異なる役割を担った二つの要素の間における飽くことなき往復運動」)につながる数字であり故に「行ったり来たり」にもつながるのである
では最低数が二ならば、私たちはその最低数二をどのように扱うべきなのか?
それがこの章の表題である「WhatではなくHow」である
これはやはり読書を例に取るとわかりやすい
私たちは学生時代など夏休みなど長期の休みに入る時はもちろん、それ以外でもしばしば書店に立ち寄り自分が読むべき本を物色しては特に文庫本などを買い漁る、一度に5~6冊買うということも珍しくはない、また友人たちと読書の話をするときでも最近何冊本を読んだかということが話題に上る、しかしこれは私に言わせればほぼ無益なことである、読書とは100%質であり量ではない、したがって今の自分が読むべき本は繰り返し読み込むべきであるし、そうでないものは早々と先送りしても構わないのである、さらに言えば、古典と呼ばれるような文学作品は学生の時にこそとにかく一度触れておくべきであろう、なぜならば社会人になると多くの実益書を読まなければならなくなる、また何らかの資格をとる必要にも迫られる、したがって古典文学作品を読む時間はほとんどとれなくなるといっていい、この辺りは先輩などに話を聞くとよいと思うが、量ではなく質を優先させることで、今自分が何を読むべきかをある程度推測することは可能かと思う
私たちは休日の予定などを立てる場合などには必ずと言っていいほど「何をやろうか」と考える、そこでは目的の選択が手段の選択を上回っているわけであるが、しかしこれを頭から否定するつもりはないにしてもこれではこの章のキーワードの一つには結びつかないかもしれない
そのキーワードとは「偶然」である
その時の偶然の結果に「いかに」上手に対応できるかによって、そこから意外なチャンスが芽生えたりもする
チャンスは常に予想もしない方向からのみやってくる、そうここで断言することはもしかしたらそう誤りではないかもしれない、期待が生み出すものは予定調和でありそれは真の感動とはやや異なる、なぜならば期待することでそこには期待値が生まれしたがってその期待値をクリアするために人は心の中で時に埋め合わせをするからである
これは実は極めて人間的な行為であり故に間違った行為ではないが、真の感動とはそこに期待値のまったくないいってみればまっさらな状態の中からこそ生まれるものだ、たとえば友人から「チケットが一枚余ったので一緒に行かないか」と誘われそれで友人についていったのが有名なジャズギタリストのライヴで、まったく期待していなかった(名前すら知らなかった)のだが一週間後にはもうギターを手にしていた、などというエピソードは世間にはごまんとあるであろう
たまたまつけたテレビで見た番組、たまたまつけたラジオでかかっていた曲、雨宿りついでに入った映画館でたまたま見た映画、なぜそこに感動のチャンスがあるのか?
期待していないからだ
「偶然」の反意語は「期待」である、したがって期待が僅かでもそこにある場合それは「必然」(『やっぱりすごかった』などと人は言う)となる、またしばしば私たちが日常で用いる「運命」という表現も偶然から生まれる、「運命」とはつまり良し悪しはともかく「まさか」のことであるため予定調和にも結び付く必然からはそれは生まれにくいかもしれない(だが実際には特に13~15歳くらいの少年少女はこの辺りを混同している)
「完全に諦めていた、そしてそこに○○が現れた、その瞬間から私の人生は変わった」確かにこのような経験をすれば人はそれを運命と受け取るのであろう
もちろん必然が絶対に感動に結びつかないと断言することはできないが、それでも私はここで偶然を優先させたい、なぜならば「偶然」はここでもう一つの言葉を私に想起させるからだ、それは「翻弄」である
少なくとも感受性豊かな時期に翻弄されるということはその時はともかく後のことを考えると有益なことが多い、もちろん道徳的または道義的な制限はそこに課されるべきでありしたがって無制限にそうであるとは言えないが、例えば旅などはこの範疇に入る、中学生の時などに故郷である地方の小都市を離れ人口500万人超の大都市へと家族旅行をする、もう中学生なのだから単独で行動することもあるであろうが、地下鉄の切符の買い方が分からないにもかかわらず人でごった返しているために誰にもヘルプを求めることができないなど、その時はがっくりくるのだが、後で振り返ってみるとそれは確かに有益な経験なのである、大学生時の海外旅行などもそうであろう、海外の都市はなぜかトイレがよく整備されていなかったりする、男性はそれほど苦にならないが女性は時に苦労するかもしれない、守らなければならない最低限のルールはあるがしかしそれでも「翻弄」を経験できる旅は帰郷後にようやくそこにあった感動に気付くなど、予定調和では絶対にありえないような経験をすることができるため、大人になり人生を俯瞰できるようになった時に改めてその価値の再確認ができ、したがってその人生をそれ以前よりも豊かなものにすることができるのではないかと思う
確かに「可愛い子には旅をさせよ」という諺もある、団体旅行でも翻弄は起こりうるのだからそうでない旅ならば尚更であろう
もしWhatではなくHowであるならば、偶然を肯定することは文字通り是である、「偶然」の肯定は「隙間」の肯定であり故に感情が理性の力を借りて精神にある程度のフリーハンド与えるということである、Whatを優先させれば予定を優先させることになるためにそこにいわゆる「遊び」が生じない、つまり「どちらでもよい」が生まれないために、したがって「見過ごし」がそこに生じたとしてもおそらくは気付かずに過ぎ去ってしまうであろう、いうまでもなく予定表にあるものが感動を確約してくれるわけでは必ずしもないので、予定通りに物事をこなしていくことが実は後から振り返ってみれば単発の自己満足の連続にすぎなかったということもあるかもしれない、特に自身が立てたものではないスケジュールで物事が進行していった場合、もちろん初めての経験の時などはやむを得ないのだが、もしかしたら「次の人」に伝えるべき感動とは意外に縁遠い結果に至るかもしれない
したがってHowになるのである
そこにあるものから最大限の感動を抽出する
さてここで前書でも登場した格言が再びお目見えすることになる
上善は水の如し
感動は日々の偶然の中に実は数えられないほど隠されている、後はHowを意識できるか否かである、そこでは選択とは何を選択するかではなく、いかに選択するかが問われる、偶然の結果でしかないまさにその時そこにあるものの中から最大限のさらに言えば自分にしかできない解釈による感動を得る、その時「受動」は受け手である自分の積極的にそれを肯定する理性の働きによってもっとも理想的な「均衡」状態へと達する
水は常に水平である、そして精神のもっとも理想的な状態も水平である、感動は水を波立たせるが瞬間熱でない感動は静かに持続し予定調和ではないがために彼が大人に成長するその過程において最終的には彼の決断におそらくは決定的な作用をもたらす、そしてここに現れるキーワードが実は「善」なのである
稀にそうでない場合もあるのであろうが、私たちのうち99.99%の人々は美しいものにこそ感動する、そして美しいものは善なのである、なぜならば美しいものは人間の心の奥底にあるその一部分(残念ながら人間の心のすべてが美しいというわけではない)も含めて神により創られたものであり、神に悪意はないからである
この世が神により創られたものであるならば、神の意思の結果はこの世の至る所に散見されるはずである、それは人間が造ったものの中にも時にあるであろう、建造物でもそうである、タージマハールやノイシュバンシュタイン城などはその代表であろう、いや世界遺産である必要は必ずしもない、感動の源になるべきものはどのようなものであれ、この世に数多く存在し、後は個々人に備わる目に見えないものの価値をその現実の中から抽出できる「感じる力」により確固たるものとしてその五感と記憶に刻まれることになる
すでに「運命」とは「まさか」のことであり故にそれは偶然から生まれると書いたが、過度の緊張状態にない限り、つまりほどほどの緊張または弛緩の状態であれば心の隙間にすっと入ってきた感動の種子はいつか芽生えそれからしばらくたった後ふとした瞬間に振り返った時に、「なるほど、そういうことだったのか」ということに気付かされる
なぜ人は振り返るのか?
それはそれが瞬間熱による感動ではなかったからだ、したがってそこには記念写真もなければおそらく思い出の品もない、しかしそれが個人的な経験に過ぎなかったからこそ、かなり高い確率でそこでは自身にしか解けない方程式による答えが導き出されるのである、それは幸福になるためのまたは成長するためのその第一段階におけるもしかしたら神のテスト
Whatを選べば感覚が隙間に入り込むことはおそらくないであろう、したがってWhatを選択することはとにもかくにも「選別する」であり、「遍く作用を及ぼす」という普遍的な効果をそこに期待することは難しいかもしれない、それに対してHowはそこにある隙間に入り込むことができる
個人的には高い完成度を誇るものはどのようなものであれ周りとの調和を図る必要があるために適度の隙間を必要とするという印象がある、だがこれに気付くには人間が築くものと自然に存在するものとの間に確かに漂っているエスプリ(ここでは人知によるものとそうでないものとの間にある絶妙なバランス状態が生み出すある種の神聖な雰囲気といった意味)のようなものを感じ取ることができる能力が備わっている必要がある、このエスプリとでも呼ぶべきものは歴史的建造物などのように膨大な時間の経過の中で少しずつ積み重なっていく(沈殿していく)ものが多いが、しかし一方でそこに霞のように漂っているものも少なくないため瞬間熱に馴れ過ぎてしまっている人であれば若い人であってもついに気付くことはないままに終わってしまうかもしれない、これに気付くにはある程度の「孤」と「個」の時間の経過による経験が必要であり、また人間が造ったもののうち優れたものや歴史あるものこそそこにこのエスプリを色濃く漂わせるため、そのような「次から次へと入れ替わるものではない」ものの価値を感じ取る力を養う必要がある、これを人は教養と呼ぶのであろうが、そのように考えると拡散していく価値とは対照的な所に存在する芸術たとえば文学などにはやはり若い内にこそ触れておくべきものなのかもしれない
ここでのもう一つのキーワードは時間である、前書でも触れたかもしれないが文化というものは時間によって育まれる、百年に一度の天才が紡ぎ出す旋律や名画は確かにマスコミュニケーションの発達した現在、たちどころに世界中に知れ渡り彼は多くの名声を獲得することになるのかもしれない、だが優れたものであればあるほど時にそれは膨大な時間を要する、タージマハールが破壊されなかったのは幸運の為せる業であったのかもしれないが、あの世界史の教科書に必ず載っている有名な歴史的建造物が未来人に語り掛けているものを知るには一週間や二週間ではとても足りないということは多くの読者諸君にも今ここでご理解いただけることではないかと思う、人間が行ったことでさえそこにあるそれを創造した者だけが持つ深い精神性を理解するのが簡単ではないのだから、神が行った行為の結果という基準で考えれば尚更それの価値を理解しそれを遍く行き渡らせるのが容易ではないことが実に明瞭に理解されよう
神がこの世に遍くばら蒔いた最終的には感動を呼び起こすであろう数多くのそして数えられないほどの種類の想像と創造につながる種子は、この世の至る所に散見されるものであるにもかかわらずかなり高い確率で瞬間熱だけを追い求めている人々にはついに発見されぬままに終わるであろうと思われるものばかりである、「より速く」、「より多く」は結局「より慎重に」、「より寛大に」を上回ることはできない、なぜならばこれは後で述べようと思っていることではあるが実はこの世にあるものはこの地球という惑星でさえ儚く壊れやすい物(fragile)であるため、目に見えるものもそうでないものも慎重にまるでガラス細工を扱うが如く用心深く取り扱われなければならないからである、ただ20世紀までそうでなかったのはただ単にそれまでの人々がそのことに気付かなかった(宇宙の扉をまだ開けていなかった)というただそれだけのことであり、このミレニアムの世紀多くの人はこのことに気付くべき時に来ているのである
そろそろこの章も終わりに近づいているが、私たちの周りは神がばら蒔いた最終的には善と判断されるべきもので溢れかえっている、いやそれどころか人間たちが創ったものでさえ歴史の評価に堪え得たものは皆そうなのである、したがってWhatを優先させればそこに「選別」が生じるため、「偶然」の産物にはおおよそ気付かないままにそこを通り過ぎてしまうことになる、これは注意深く日々を生きている人々からすれば実にもったいないことなのである
そうならないためにはHowを優先させ、どのようなものであれそこに潜んでいる想像と創造に最終的には結び付くつまり予定調和とは異なる感動を見つけ出すことができるように日々努めるべきである
ただ瞬間熱に覆われている過度に商業的なものはオリンピックなどの一部を除いて「まさか」(これこそ運命なのだが)にはつながらず、「必然」の感動しか呼び起こさないが故に確かにこの辺りは注意すべきことなのかもしれない
「何を」ではなく「いかに」
「いかに」は沸騰するのに時間を要するが、可能ならば14歳から21歳までの感受性豊かな時にこそ「いかに」の重要性に一度でよいので触れておくべきなのかもしれない、もちろんそれを確信に近いものとして認識できるようになるのは35歳を過ぎたころ辺りからではあるのだが…….
WhatではなくHowである Part2
WhatではなくHow Part2
さて前章では、「WhatではなくHow」と題して、この世に遍く存在する感動のための種子を十分に堪能するために「何を」ではなく「いかに」が重要なのであると書いた、つまりWhatが優先されれば「選別」が優先されることになりそれはつまり予定調和に端を発する瞬間熱の感動、つまり「必然」の感動が日常の多くを満たすことになり、「偶然」から生まれる予期せぬ感動(これこそ運命)が後退してしまう、しかし真の感動とはまっさらな状態から生じる感動のことであって、「やっぱりすごかった」というのはそこに無意識のうちにも想定と現実との埋め合わせが生じる可能性があるため、必ずしも真の感動とは言い切れない部分があるというようなことを書いた
特に14歳から21歳までは、人生で最も感受性の豊かな時期(あっという間に過ぎ去る)であり、そのような貴重な時期を瞬間熱による感動だけで満たしてしまうのはやはりもったいないのではないかと書いた
この「WhatではなくHow」には早くも信仰が顔を覗かせているが、この私論の場合、前書も含めて信仰は欠かせない要素であるためここでも引き続きその要素を援用していくことになる
もしそこにあるものが人間によって創造された物ばかりであったとしても、それが時代の荒波の耐えうることができればそれは数百年後には「歴史的な」価値を持つものとして未来を生きる人々によってそれにふさわしく扱われることになり、そこにはそれが創られた時代を生きた人々には理解できなかった部分が数百年という時間を経て初めて現れることになるのかもしれない、これは前章では書いていないが、作品とはその作者とは切り離して考えられるべきものであり、したがって作品とはその作者がまだ存命中でさえも独り歩きしていくものなのである
故に作者の死後、作品がその作者でさえ想像し得なかったような運命を辿るようになったとしてもそれは何ら不思議なことではなく、そういう意味ではどのような分野であれ作者(creator)というものはその作品の行く末を邪魔しないように、できるだけ地味に生き地味に亡くなるべきなのかもしれない
さてこの「WhatではなくHow Part2」では前章とは異なりある政治的な分野に焦点を定めて論じてみたいと思う
そのある政治的な分野とは民主主義のことである
前書同様この書でも民主主義は実に重要な意味を持って語られることになる、いやもしかしたら人間が作ったものの中でこの民主主義ほど、WhatではなくHowを感じさせるものも珍しいかもしれない
人類史上、私たちが作った社会的な仕組みのなかでおそらく完璧と呼べるものはひとつもないであろう、人間が明らかに不完全に造られているということがその第一の理由であろうが、また一方で人間というものは生き残っているのはホモサピエンスと呼ばれる種類のものだけであるにもかかわらず千差万別であり、すべての人にいわゆる個性があり、同じ人間というものはホモサピエンス30万年の歴史の中に二人としていないであろうという現実もある、たとえ双子などでDNAが同じであったとしてもそれでも彼らはまったく同じではない、そのように頭の数だけ異なる性格と性質を持つ人間たちがしかし生き残っていくために協力しなければならないのだとしたら、当然そこには最大公約数的な仕組みというものが必要となるのである
おそらく民主主義のルールというものもそのうちの一つであったのであろう、予め申し上げておくが私は民主主義というルールを金科玉条のように扱うつもりはない、もし遠い未来において現在の民主主義よりももっと望ましいルールというものが期待できるのであればそれに新しい望みをかけてみるというのは十分にありえることであり、したがってここに私が述べるのはあくまでもこの2016~17年頃という時代の制約のもとで述べられるべきものである、私はこの私論において普遍というものを強く意識しているが、しかしこの私論が普遍足り得るものであるとは言うまでもなく認識しておらずそのあたりは文字通り弾力的に解釈していただけると有り難い
民主主義とは私に言わせれば以下の3つである
① 主権在民
② 言論、表現および信仰の自由の保障
③ 直接普通選挙の実施(定期的)
この3つは言うまでもなくお互いに関連しておりいずれか一つだけをとってそれで民主主義を満たしているとは言えない、ただ民主主義を考えた場合以下の文言が付加されることになるため、WhatではなくHowが重要となるのである
過半数の賛成によってその都度の決定がなされる
この「過半数の支持で決まる」は民主主義のルールの基本中の基本なのであろうが、「決められない」ことによる政治または社会の運営の遅滞を防ぐためにこのことは民主主義社会においては実に重要な取り決めごとでありまた概念なのである
だがここで注意しなければならないのは「過半数の支持で決まる」が例えば65対35などのようにある程度お互いの票数の差が歴然である場合はよいのだが、51対49はもちろん、54対46くらいでも、つまり両者の獲得票数が接近している場合などにいわゆる「死に票」の問題が出てくることだ
死に票35であれば問題ではあるがしかしその一方でやむを得ないとも見て取ることも可能であろう、だが死に票が46や49ではそう簡単に諦めることはできないであろう、だが票の数え直しをやったとしても最終的にはこのルールは厳守されなければならない、したがって民主主義には時に多くの死に票が出ることのリスクを甘受したうえで以下の答えが導き出されることになる
WhatではなくHow
結論を先に言おう、この「WhatではなくHow」は今を生きる私たちのための方法論ではなくこれから生まれてくる人々のための方法論である
つまり民主主義というルールを尊重した結果民主主義の理念に必ずしもそぐわない人が選出されたまたは法案が可決された場合に、今という瞬間の劣化を最低限に抑えるためにこの「WhatではなくHow」があるのである
僭越ではあるが人間というものは不完全であるが故に時に間違いを犯す、だがそれが民主主義というルールに則って行われた場合にはその結果はいかに不平不満があろうとも認められなければならない、一度でも例外を作ってしまうと今度逆の結果が出たときに非民主主義派にその例外を逆手に取られて民主主義派にとっては都合の悪い事態をしぶしぶ認めなければならないということに陥る可能性があるからだ
「私たちには選択権がある」
民主主義社会というものを考えたときにこの文言ほど重要な言葉はない、選択肢とは一方で自由をもう一方で多様性を担保している、一番困るのはそこに選択肢がないということである、ならば選挙や議決が正当に行われたのであればいかなる結果が出ようともそれは尊重されなければならない、反対派がデモを行ったり、何らかの文章を新聞などに投稿するのは自由だが、しかしその結果が「都合が悪い」というただそれだけの理由で覆るなどということが絶対にあってはならないのである
では明らかにこれは民主主義社会にとっての危機であると認識されるような事態が生じた場合には私たちはどうすればよいのであろうか?
その答えがHowのなかにある
つまり「いかに」この荒天の中をしかし「次の人」にまで害が及ばないようにある意味上手に泳ぎ切るか、少なくとも次のチャンスが訪れるまで
嵐も強風も時に民主主義を信じる者であれば耐えなければならない試練である
私は前書「曇天の日には収穫が多い」のなかで弾力性のある社会またはインタラクティヴな社会とはしばしば面倒臭いものだ、なぜならば時に十分な情報を持たない者も参入してくるからだと書いたが、それをそのままここに当て嵌めてもよいであろう
つまり「民主主義社会とはしばしば面倒臭いものだ、なぜならば十分に民主主義というものの利点を理解していない者も票決に加わるからだ」と
本人がそのことをよく認識しているのかはともかく反民主主義者が民主主義社会だからこそ与えられる権利を主張して己の欲望を満たしている、このような矛盾もまた民主主義社会の一側面なのである
彼は反民主派なのにどうして民主主義社会が彼に権利を与えなければならないのか?
しかしこのような疑問に対しても私はこう答えるしかない
大切なのはWhatではなくHowである、したがって現在ある枠組みを最大限活用して彼のような反民主派が今以上勢いづくのを何とかギリギリのところで留め次の世代が諦めなくてもよいような、つまり希望の存続が可能な社会の継続を模索し続けるべきである、と
僭越ついでにもう一言、民主主義社会の本質は実は「なぜ彼のような理想からほど遠い人物が選ばれたのか?」という結果の中にこそある
民主主義社会は時に「間違った選択」(この表現は間違っていない)を是認する
もちろん反民主派(しばしば守旧派)は狂喜するのであろうが、この民主派にとっては悪夢でしかないような社会の決断のなかからしか学べないものというものもある
それはすべての有権者に平等に与えられた権利である
つまり一票を投じる権利
そう、誰でも一票である、セレブリティも労働者も、民主主義とは何かを理解する者もそうでない者も、理想を追いかける者も現実を受け入れる者も、そして「次」に期待をかけられる者もそうでない者も
この平等な一票とは極端な考え方を持つ者が権力を志向したときにこそその効力を発揮する、それはこういうことである、たとえ敗北するかもしれないとわかっていても自分の一票が文字通り権力を乱用しようとする者の反対票として認識されることが、また敗北後であったとしてもそこに社会の劣化を最低限にとどめようと模索する人々の連帯のための一つの動機になりえるものとしてそれが認識されることがそれでも尚希望を諦めないことの最初の行動になりうるのであると
また民主主義社会の理想的な側面として「やり直す権利」というものも挙げられるかもしれない、たとえ一度失敗してもそれで終わりというわけではないということ、そういう意味でももし「次」の人々のための「より良い」社会の実現はにもかかわらず可能であると信じるのであれば尚更のこと、私たちは反民主派の台頭に恐れおののくのではなく連帯をこそ模索すべきである
20世紀の拡大社会はその利益に浴することができる人とそうでない人との間に大きな格差を生じさせてしまった、多くの人々はいつかこれは是正されるであろうと考えていたが、いつになっても変化の生じない日常に疲弊した精神はなぜか「拡大」の対照的存在である「循環」へは向かわずにある種の報復へと向かっているようだ、つまりこれは我々のせいではなく彼らのせいであると
彼らとは誰であれ権力者がしばしば本質から民衆の眼をそらさせるために用意したスケープゴートに過ぎないのかもしれないが、だが「拡散」は明らかに「沈殿」よりも大きな瞬間熱を持つ、特にSNSの発達した現在それはwebがなかった時代よりも顕著であろう、民主主義とは何かを知る者の意見が有権者に届きにくくなっているということはそれだけ為政者によるミスリードの可能性が増しているということだ、それ以上に恐ろしいのはこの民主主義の危機は今後もしばらくは続きそうだということである、扇動者は滅んでも彼の思想は残る、これもまた民主主義であるからこそであるが、ならば尚更のこと言論の自由を守りながらしかし一方で私たちは今この瞬間の劣化を最低限に留めなければならない
重要なのは「何を」選ぶかではなく、「いかに」それを運用または活用するか
民主主義こそ「何を」ではなく「いかに」であろう
夢
夢
さて前章では「WhatではなくHow Part2」と題して民主主義について述べた
民主主義こそ「何を」選ぶかではなく「いかに」それを扱っていくか、つまり民主主義のルールをこそ上手に運用しまたは活用するべきであると
また民主主義はその主体が人間であるためそして人間は不完全に造られているため時に間違いを犯す、だからこそ民主主義のルールを「いかに」上手に活用するかが問われるのであると
WhatではなくHowとはつまり「選別」に期待をかけるのではなく「運用」に期待をかけようということである、そこにある仕組みというものがしっかりしているという条件さえ整っているのであれば、一度間違いが生じたとしてもそこであたふたとせずに次のチャンスに再起を期すことを考えるべきであると
そしてその仕組みというものが民主主義であり故にもし扇動者が現れても、彼の発言の自由は認めるがしかしその仕組みそのものの破壊は決してさせてはいけないと、結論としてはそういうことである
さて「半分だけ水の入ったコップ」そして「WhatではなくHow」と来て次は「夢」である
よく考えてみれば序にも書いてあるようにこの「行ったり来たり、そして次の人」は分析ではなく決断と行動を優先させるものであり、したがって受動的ではなく能動的な内容にならなければならないのだが、この辺りの所はうまく諸君に伝わっているであろうか?
この章で記す「夢」も、「未来」とか「諦めない」といった言葉から連想されるような内容になるのであるが、諸君は夢と聞いてまず何を連想するであろうか?
そこには未来もあるであろうがきっとお金もあるであろう、また結婚もあるであろうが出世もまたあるであろう、そのように夢とは一方で遠くにあるものでありながらしかし今一方ではすぐそばにあるものの延長線上にあるものでもあるのである、つまり夢とは「『遠く』と『近く』の融合体」
遠いだけではいつまでたっても手が届かないし、近くにあるものでは何か物足りない、しかしそのあたりの塩梅が実に難しいところであり、やや遠くに夢を置けば「無理だよ」と言われ、やや近くに夢を置けば「無難、安全策」と言われる
私たち人間に年齢性別に関わらず夢が必要なのは言うまでもないが夢に大小は関係ないはずなのに、たとえば若い人であれば宇宙飛行士、年配の人であれば北極旅行(オーロラを見る)などの方がやはり夢らしいと思えてしまうのはなぜだろうか?
それはきっと夢には一つの役割があると思われているからであろう
それは自分を未来に向かって引っ張っていってくれる力
そう夢の力である
未来という言葉を用いている以上、それは現実的なものとは少し離れたところにあるものの方が望ましいということなのであろう、したがって美容師と言えば夢にはならないがカリスマ美容師と言えば夢になりうるのである、なぜならばカリスマ美容師なんて地方の人口五~十万の小都市にはいないからだ、カリスマというだけでそこに都会への憧れを見て取ることができる
もちろん普通の美容師でも凄腕の人はいる、それはその地域に暮らす人々なら皆知っている、全国区にはならないがそのような人を見てそこに憧れを見出す人がいたとしても実は何ら不思議なことではない、夢は未来の中にある、しかしだからとって夢の本質を見誤ってはいけないのかもしれない
では夢の本質とは何か?
それはきっとこういうことであろう
敢えて逆風に身を晒し自分の可能性を試してみる
このように書くと私が若い人たちを意識しているように思われるかもしれないがそれは違う
五十歳を過ぎてもこの言葉はそのまま夢の本質の定義として当て嵌まるのである、だが以下の文言が加わるところが若い人とは違うということになるのかもしれない
自分という主体を生につなぎ留めておくために敢えて挑戦する
「敢えて」と「チャレンジする」という点では若い人とも変わりがない、だが問題は「生につなぎ留めておくために」という部分である
五十歳を過ぎると死がちらつき始める、そして死というものは抵抗しないと稀にではあっても簡単にそれに飲み込まれてしまうものなのである、これは若い人には容易に理解されえないことであろう、二十歳の人が自分が日々死に近づいている(ほんとうはそうなのだが)と認識しているとは考えにくい、しかし五十歳という年齢はいろんな意味でいつ何が起きてもおかしくないという年齢なのである
つまりはこういうことだ
抵抗しないと五十代は死に飲み込まれてしまう虞がある、だから夢を持ち自分という主体を常に生につなぎ留めておく必要がある、これは生死にかかわる問題でもあるので実は切実な問題である、したがってここでこう結論付けることもできるかと思う
夢とは五十代以上の者こそが必要とするものである
また五十代であれば家族もいる、したがって自分が生きるということ自体が家族の幸福にもつながると考えることもできる、また五十代にもなれば健康のことも気になり始める、どうすれば認知症を遠ざけていられるのかということはわからないが、可能な限り家族には迷惑をかけたくないと誰でも考えているであろう、ならばそのためなら何でもしようと考えている人が多くいたとしてもまったく不思議なことではない
だがここで重要なのは経験の有無なのである、つまり二十代において早々と夢を追うことから自ら離脱していった人が果たして五十代になってから新しい夢をその人生の中に見出すことができるであろうか?
夢を見ることは無論ただ(無料)である、にもかかわらず若くして夢を諦めて手堅い人生を誰に言われたわけでもないのに選ぶ人が多いのもまた事実である、おそらくはその青春時代において相対的にみて諦めの悪かった人の方が五十代以降においては精神的に優位に立つのではなかろうか?
これは良いことと結論付けなければならないのであろうが、遅かれ早かれ人生百年という時代がやってくる、きっとiPS細胞などの医学、生理学上の画期的な発見がかつては絶望的と思われていた疾病(リウマチはもはや絶望的な疾病ではない)への対処方法を劇的に変化させるに違いない、人生百年ということは五十歳でもまだ人生の半分ということである、ということは死の備えではなく生への備えを尚続けなければならないということになる、つまり20世紀の五十代よりも21世紀の五十代の方が自分という主体を生につなぎ留めておく努力をより多く必要とするということになる、つまり人生百年でも老いというものはやってくるのだから、それに抗うことなしに良き老後を送るということは不可能であろう
翻って夢である、夢なしに人生残りの五十年を有意義なものとすることは可能であろうか?だが若い時にすでに夢を諦めていた人が五十歳を過ぎて新しい夢を見出すことは簡単ではあるまい、なぜならば夢とは「諦めない」ことがその筆頭の条件になっているからだ
なぜ二十代で「諦めた」人が五十代で「諦めない」を実践できるのか?
私はこれは実は今後由々しき問題になると考えている、もし新薬の開発でアルツハイマー型認知症などが劇的に改善するとなったら尚更のこと精神をそれでも生に向かわせるのはおそらく容易なことではあるまい
「いつ死んでもいい」
たとえそう思っても人はなかなか死なない、そういう時代になる、重い病気のはずなのに投薬治療だけで改善してしまった、だがこれは喜ばしいことなのである、ここを取り違えると、では科学者たちは日々何のために徹夜までして人の命を救うために信じがたいほどの努力をしているのかということになる
だから長寿はいかなる理由があれそれは素晴らしいことであると社会的に認知され続けなければならない、だからこそ年老いても夢を追いかけることが可能な社会の実現を私たちは目指さなければならないのだ、だが二十代で「諦めること」をすでに学んでしまっている人にそれを託すのは難しいであろう、だから今後は若い人たちにこそ夢を絶対に諦めてはならないということを繰り返し訴えていくべきである、まだ五十五歳なのに何もやりたいことがない、正直な話、五十五歳では多くの場合もう子も望めないであろう、では百歳までの残り四十五年間をどう過ごすというのか?
我が国日本ではすでに2015年、九十歳人口が三十万人を超えた、僅か14年間で2.5倍になっている、驚くべきスピードである、このような傾向は今後も続くであろう、しかしこれを恐ろしいことと考えてはいけないのである、これは喜ばしいことでありだから還暦を過ぎても夢を忘れてはならないのである
私は思う、青春時代における模索の日々こそ人生の宝であると、そして模索の日々とはつまり限界の暗い奈落に怯えながらも自らの可能性を信じることであり、それはある意味運命に導かれたフェイク(fake)ではなくテイク(take)の選択であろう、それは明らかにストイックであり、またしばしばハートブレイクの甘受である、人生がもっと短いものであるならば「見切り」をつけることにためらいを覚える必要はなかったのだ、だが時代は変わり更に変わる
どのようなものであろうともその時々の選択を他人のせいにすることはできない、また瞬間熱に酔った者はその年齢にかかわらずそれだけ普遍に後れを取る、確かに幸運に恵まれた者も一定数存在し、また例外扱いされるべき事例は時代、分野を問わず絶えたことはない、そういう意味では「諦め」は実はフェイクに似ている、夢の本質を見誤ったものは「数えられるものの価値」に目を奪われ過ぎた結果、時代によって高い代償を払わされることになるのである
私はすでに前書において夢追い人の親友は孤独であると書いた、またこの書においてもゴールドメダリストとは決断した人のことであると書いた
ひとりぼっちを耐え忍ぶことと決断する勇気を持つこと、実はこの二つは夢そのものの力によって現実をおののかせるという点において不可分の関係にある、やや恣意的であるがこの二つが備わっていればその時は敗れても時代が彼に復活の機会をいつか与えるかもしれない
おそらく夢を叶えた者には二つの種類の人がいると思う、ひたすら直線的に進み当初夢見た形のままそれを叶えた人と、何らかの理由によって一度または二度道を閉ざされしかし時に運命の力により曲線的に進んだ結果最終的に違う形ではあったが夢を叶えた人、前者は夢の表通りを後者は夢の裏通りを歩んだのであろう、だが両者に共通しているのは夢を諦めなかったであり、また諦めさせてもらえなかったであろう、意志はついには神の使者をも屈服させる
この書のテーマの一つは勇気であるが、しかし勇気とはまったくもって「言うは易く行うは難し」である、勇気は愛と不可分であるにもかかわらず更なる負担をその主体に強いるものである
愛とは「私」の唯一の対象であるものが「神」であることを認識することによって初めて理解可能な理性の最上級の働きであるが、勇気はそれに実践が加わるのである
なるほどこれこそ正のプライド
イエス・キリストが言うところの「隣人のために身を捧げよ」であろうか
やはりこの書においては少し難しいテーマを選んでしまったのか、やや腰砕け気味であるが、諸君はこの章における私論の要旨をどのように受け取ったであろうか?
とりあえず先に進もう
儚い地球
儚い地球
さて前章では「夢」と題して、夢の力とは如何なるものであろうか、そしてそれはこの書のテーマでもある決断や勇気とどのような関係にあるのであろうかを論じた
夢とはその主体を生につなぎ留めておくものでありしたがって生がふらつき始める五十代以降においてこそその真価を発揮するものであると書いた
そのように考えると二十代ですでに夢を諦めていた人が果たして五十代で新たな夢を見出せるであろうか、また遅かれ早かれ到来するであろう人生百年の時代において夢を追いかけることのできない五十代はどのような老後を過ごすのであろう、そういう意味でもこれから生まれてくる人々は青春時代においてこそ何らかの夢を見つけるべきだ、だが夢の本質は安易なものではなく、夢を追うにはひとりぼっちの孤独に耐える力と決断する勇気を併せ持つ必要があるのであろう、しかしそれができれば現実が貴兄の意志の前に跪くであろう、と
おおよそそのようなことを書いた
前言を撤回するつもりは毛頭ないが、やはり夢を追いかけることは容易ではないということだけは確認できた
夢と愛は実に似た関係にある、いずれも信じることがその基盤となっておりまたいずれも対象がひとつであり、また結婚式における「誓い」から連想されるように両者ともにストイックである
故に「信じること」、「一貫性があること」そして「ストイックであること」の3つが夢または愛の必須条件ということになるのであろう、そしてここには残念ながら「楽しむこと」は含まれていない、敢えてそれは外している、それを楽しんでいるうちはプロではないと断じることも可能なのであろうが、私は楽しむことができたとはつまり自分のスタイルを貫徹できたということであると捉えている、つまり自分のスタイルを完成させることができて初めてそれを楽しめたと言えるのであって、したがってそこに辿り着くまでにはある種の幸運にさえも恵まれた強靭な意志と継続的な努力が必要なのであろう
あまり難しく考えるべきではないのであろうがしかし私はそう思う
私はすでにこう書いている
積極的な失敗の連続が自分にしか当てはまらない法則の発見につながる
積極的な失敗の概念の中には上記した3条件が含まれるのは言うまでもない、あのイチロー選手でさえ「(ヒット量産の一方で)打ち損じたボールが数えきれないほどある」と言っているのだから、夢を叶えるとは実に奥深いものである
さてこの章では「儚い地球」と題して勇気ある者の徳性のひとつについて触れたい、それは「優しさ」である、この言葉は前書「曇天の日には収穫が多い」を通じて初めて登場する言葉であるが逆に言えばそれだけ理解もまた実践も難しい言葉であるといえるであろう
まずこの優しさについて触れる前にその対照的な概念ともいえる厳しさについて考えてみることにしよう
厳しさとは何か?
これを一言で片づけるのは簡単である
厳しさとは現実のことである
これに異を唱える読者はたとえ14歳でもいないであろう、現実はそれほどまでに厳しく現実が行う選別にはその対象が何であれ容赦がない、しかも現実は正当なルールによって行われている場合にはどのような結果であれそれを覆すことは不可能であり、たとえ一国の宰相でもそれに甘んじるしかない
したがってここではこう結論付けることができる
この書では厳しさについて論じる必要はない
では優しさとは何か?
それに答える前に儚い地球についての論を進めよう、儚い地球はか弱い地球でもよい、だが「か弱い」という表現を母なる大地でもあるこの惑星の表現として用いるのは明らかに僭越であろう、したがってここでは表現上の理由もあり儚い地球とする
結論はつまりこういうことである
この世に存在する神により想像されたものは、ベテルギウスのような巨大な惑星(恒星も含む)や銀河やまたはブラックホールのようなものはともかく、命を体感できるようなものはすべて極めて「儚い」存在であり故にまるでガラス細工のように丁寧に扱わなければならないということである、地球は命を体感できるという概念にそぐわないかもしれないが、しかしこの地球という惑星が巨大な惑星ではないということはすでに明らかになっている、したがってこの地球という惑星さえ儚い存在であり人間など尚更であろうということである
言うまでもなく命あるものはいつか死を迎える、医学の飛躍的進歩による長寿は少なくとも人間を新たな段階へと導くのであろうが、しかし一年というものがあまりにもあっという間に過ぎ去ることになった場合人は「生」をもしかしたら苦しいものと理解するようになるかもしれない、命の長さを自由に扱うことはできても、精神が感じる時間の感覚をコントロールするのは難しいであろう
このことは将来「生」や「死」の意味をその根本から変えるかもしれないが、しかしそうなれば「命」もまたその意味をその根本から再考されることになるかもしれない
これを何と表現すればよいのであろうか、つまり長寿だからこそ命の儚さがより切実なものとして人の目に映るようになるのである
人はパンのみにて生きるにあらず
いったいこの表現を私はすでに何度用いているのであろうか?
しかし人が命を肉体ではなく精神によってより深く理解しようとすればするほど命というものが長寿であっても簡単に崩れ去る極めてか弱いものとして理解することができるようになる、これは僭越ながら人類の文明の実に大きな一歩なのである
用心して扱わないと簡単に崩れてしまうまるで砂の城のような構造物
だが命というものは概ねそういうものだ、ただ死者が語ることを許されないがために永遠とも思える錯覚が続いているだけであり、死のかけら(死そのものではない)のようなものを知る者は誰であれ命の儚さに思いを巡らせるのである
そういう意味では命の価値を知るには少なくとも七十年くらいの期間が必要なのでありしたがっていかなる理由があろうとも決して死に急いではいけないのである、そして七十年生きたその結果得た精神的に重要なものつまり生きる糧となるようなものを私たちは次の世代に伝えていくのである
たそがれの扉を開ければ誰でも死を意識するようになる、また二十代であっても大病を患い死線をさまよった経験のある者ならきっとおわかりいただけるであろう、人間は簡単に死ぬ、そして戦争など死があまりにも身近にある場合、おそらく人は生き延びようと試みる反面、自分だけが助かるはずはないとも考える、命の儚さは命を見つめる余裕があってこそ認識されうるものだ、彼は死んだ、彼女も死んだ、しかし自分は生き残った、この事実から生じるものはむしろ罪の意識であろう、なぜ自分だけが生き残ったのか?
死が共通のものである場合死は恐ろしいものではない、しかし死が自分にしか当てはまらないものである場合それはひどく恐ろしいものに思える、だから若くして大病を患ったものは「なぜ自分が」と思い故に「生とは、そして死とはどういうものなのか」を考えるようになる
孤独もそうであろう、皆が孤独である時は自分の孤独はあまり気にならない、しかし皆が幸福でいると想像される時には自分の孤独がひどく辛いものに思える、したがって常に夢を持ち、高齢であっても自分が何を好きで何をやりたいかを突き止める必要があるのだ、夢はしばしば心の栄養になる、市民マラソンの一般参加ランナーなどはこの範疇に入るかもしれない(年配の人も少なくない)、そういう意味でも若い時分にあまり「諦め癖」を身に着けない方が良いのかもしれない
長寿社会でも老いは訪れる、また長寿社会でも人は病に対する不安から逃れることはできない、この言葉もまた前書を通じて初めてお目見えするものである
寂しさ
夢は夢追い人を孤独の恐怖から解放する、未来への希望がたとえそこに何ら論理的な根拠がないものであったとしても、彼を明日にそして生につなぎ留める、夢中な人とは挑戦する人のことだ、そしてたとえ夢破れてもすぐにではないが彼はやがて儚さというものがどういうものであるか、また儚さというものがいかにこの世を遍く覆い尽くしているかを知ることになる、なぜならば彼は夢を持つことで対象を知るからだ
万物は対象を求める、それは何のために?
生または存在のために、である
「諦めないこと」、「挑戦すること」はそこに継続がある限り無益ではない、そしてそのことが長寿社会と科学技術の発展(医学上のものも含む)によって証明される、自動運転車が八十代でもロングドライヴが可能であることを証明する、次世代型ノートパソコンは還暦後の第二夢追い人の青春時代の夢の復活の一助となろう、そして今後もリタイア後の人々には朗報でしかないような発明、発見が相次ぐであろう、長寿社会であればこそそこには新たなビジネスチャンスも生まれるであろうことは想像に難くないからだ
介護ではなく、プラチナ世代(もはやシルヴァーではない)の挑戦のヘルパー
六十五歳の音楽プロデューサーがヒットを連発する
七十歳の元サラリーマンの書いた小説から流行語が生まれる
七十五歳のデザイナーの手によるバックパックが若者の間でもてはやされる
最早何事も夢のまた夢ではない
夢は寂しさを駆逐する、だがその確信を得られるのはその体験者だけだ
ひとりぼっちに怯えてばかりいた者は五十歳以前はともかくついにその後継者たちからも精神的に孤立する結果に陥るかもしれない、長寿社会とは逆転が可能になる社会のことだ、ただ単に利便性を享受する社会から脱しそれを自分なりにカスタマイズしてそこから還暦を過ぎているにもかかわらず新しい価値の創造に成功する、だが彼はこういうだけであろう
私は諦めることができなかったのだ、ただそれだけである
その時若者たちは夢を諦めた父親世代を通り越し、プラチナ世代に希望を見出そうとするかもしれない、なるほど人生とは渦巻き状に進むものなのであろう、だから上へ行くこともなければ下へ行くこともない、だが一周すればほぼ同じところへ戻ってくる、それは何のため?
確認のため
そこに夢がなかったのであればどうやってかつての自分を確認するのであろうか?
若くして亡くなったときのために保険に入るのではなく、長生きしたときのために年金保険に入る、時代はものすごいスピードで駆け始めた、いかなる条件下においても常に「歳月人を待たず」である、そして退職して初めて生の儚さを知る
もちろんまだ遅くはないのだが……
私はすでに命とは砂の城のようだと書いた
砂の城と聞いて諸君は何を連想するであろうか?
私の場合それは民主主義である、民主主義とは常に砂上の楼閣、砂の城
私たちはそれは容易には崩れ去らないとなぜか高を括っているが、果たしてそれは杞憂に終わるであろうか?
人間が作ったものは目に見えるものも目に見えないものも実に多くあるが、しかし目に見えるものもそうでないものも私には皆儚いものに思える、あのタイタニック号でさえあまりにも瞬間的に沈んでしまった、それはあの映画「タイタニック」を見なかった人々にもわかっていただけるであろう、そういえばジェームス・キャメロン監督がアカデミー賞の授賞式でタイタニック号は不確かな未来の象徴だと言っていたが、その通りであろう、特にその数年後にニューヨーク・ワシントン同時多発テロで世界貿易センタービルが二本とも崩壊してしまったので、更にその印象が強くなった、昨日までそこにあったあんなに巨大なものが今日はもうない、儚いという現実は悲しくそして恐ろしい
そうなるはずはないという幻想
地球そのものが儚いと考えればこの言葉には納得がいくのかもしれない
民主主義についてはすでにWhatではなくHowであると述べている、ここでもそれを想起していただきたい、民主主義の三要件とは①主権在民が憲法に記されていること②言論及び表現、そして信仰の自由が保障されていること③直接普通選挙が定期的に実施されていることであるが、しかし民主主義は実は大きな矛盾も抱えているため私たちはその運用に関してはたとえ若い人々でも少し神経質になるくらいでちょうどいいのかもしれない、その矛盾とは反民主派を自認する人々にも平等に一票が与えられているということである、反民主派が民主主義社会のルールに従って最高権力を手にし、にもかかわらず民主主義社会の転覆を図る、これは悲劇に違いないがしかし十分起こりうる事態でもある、確かに腑に落ちない部分もあるのだが非民主派にも平等に参政権を与えないと彼らは最終的にはクーデターを謀るであろう、私たちはたとえ非民主派が政権を取ったとしてもそれを然るべき期間が経過した後ひっくり返し元に戻すことができるように如何なる状況に陥ろうともこの民主主義社会の枠組みだけは文字通り死守していかなければならない、したがって非民主派が正当な選挙において当選し議員としての資格を得た後も民主派は彼らを徒に批判し、過激な言動に走るべきではない、またまかり間違っても選挙の無効を訴えるような何らかの運動をするべきではない、もちろん選挙そのものに不正または票の数え間違いがあることが明らかである場合は話が別だがそうでない限りは、民主主義のルールによる結果はどんなに納得がいかなくても受け入れるべきだ、そうでなければ砂上の楼閣に過ぎない民主主義というルールは反民主派が何らかの工作をする以前に崩壊してしまうであろう、果たしてそうなった場合民主主義社会の再建は可能なのであろうか?
民主主義のルールとは時に49%の死に票を甘受することを意味する、たった2%
の差でも当落は認められなければならない、このことは民主主義という概念そのものの不完全さを一方で証明するものでもある、だがこの2016~17年において他に世界を善に導く政治的仕組みとしてより理想的なものが考えられるであろうか?この答えがNoであるならば、民主派を自認する者たちはこのいまある政治システムをそれこそ儚いものとして大事に次の人々に受け渡していくべきである、そういう意味では一票の権利を有権者たちは決して蔑ろにしてはいけない、特に民主派は必ず投票に行かなければならない、選挙は平等なものであるので時に民主派が敗れるということは十分考えられるのである、そしてその後で異論を唱えてももう遅いのである、人間の社会においてカードを引いた後でその無効を訴えることは学生でも難しい、学生の場合は受験がそれにあたるが合否は絶対であり、ケアレスミスであったとしても追試はなく不合格になった者は次のチャンスを待つよりほかないのである
「儚い」を別の表現で表すとどうなるのであろうか?
「薄氷」なども似たような表現として有効かもしれない、「薄氷の勝利」とはしばしば聞かれる表現である、だが善が勝利するときというものはおそらくかなり高い確率で「薄氷の勝利」であろう、ナチスドイツがオーストリアを併合したときの国民投票の結果は賛成99%であった、この国民投票では投票用紙に細工がしてあったことやユダヤ人には投票権が与えられなかったことなどが問題とされているがそれでも99%という数字は驚異的である、もちろん当時のオーストリアの人々の判断が間違っていたとここで私が結論付けることはできないのであるが、しかしこの事実は今後少なくとも民主派を自認する人々にとって何らかの態度を決断するときの参考にはなるのではあるまいか?
地球は儚い、そして善もまた儚い
さらに言えば民主主義懐疑派はいついかなる時も絶えることはなく、また現時点では民主主義のルールという点で現状を上回る仕組みが見当たらないために民主派は民主主義擁護のための決定打を下せずにいる、つまり今のまま当面は行くしかないのだ、だが変革=非民主派の天下であってはならない、ではどうすればよいのか?
私はここで「多様性の尊重」という言葉を一つのキーワードとして掲げたい
確かにこの「多様性の尊重」とはきわめて社会的な言葉であり政治的な意味合いに用いるのはいささかそぐわない感もあるのであるが、しかし「多様性の尊重」という言葉が意味するものは第一に女性、子供、障害者といった社会的弱者の人たちの権利の擁護ということである、これは戦争によって最も多く被害を受けるのは誰かという単純な自問自答によっておおよその納得が得られると思う
もし私たち21世紀以降を生きる人々が僭越ながら常にこの「多様性の尊重」という言葉を意識しながら日常を送ることができるのであれば、少なくとも最悪の事態に陥ることだけは避けられるのではないかと思う、ちなみに「多様性」の反意語は「効率性」である、反民主派のすべてが効率性重視の人々であると言うつもりはないがおそらく効率性を重視すればするほど社会的弱者の活躍の場は狭まる、そのように考えると今私たち少なくとも民主主義を肯定する人々は岐路に立たされているのかもしれない、つまり「拡大」から「循環」への
しかし一方で循環型社会は拡大している社会であれば叶えられた夢を若者に諦めさせる結果になるかもしれない、拡大している社会であれば15人合格できたのに、循環型社会なので10人しか合格できなかった、「儚いもの」を守るためにはおそらく誰かが犠牲にならなければならない
何のために?______次の人のために、なぜならば民主派が敗れ去れば一部の夢追い人にとっては最初からノーチャンスになるかもしれないからだ、少なくとも平等にチャンスが与えられる社会を特に若者たちに最低限保障し続けていくには時に紆余曲折があれ最終的には民主派が勝利する必要がある
しかしそれにしても「儚さ」の側に立つ人々というものは何とも地味で口下手という印象がある、要領が悪く、また愛の表現も下手だ、金の計算が苦手でポリシーはあるのに緻密な損得勘定ができないがためにマスコミに取り上げられることも少ない、そしてこの逆を行くのが扇動者である
きっと彼は言うであろう
「すべての人々に平等なチャンスを!」
その通りである、だが選挙時の一票の権利を除いては実はチャンスはより多く社会的弱者の方に与えられなければならない、多様性の尊重とはそういうことだ、すべてにおいて民が平等であるならばおそらく弱者は敗れ去る、だがそれではいつか民主派は非民主派に敗れるであろう、だが社会的弱者だからといって特権を直ちに認められるわけにはいかない、なぜならば学歴もある健常者でさえ敗れ去ることはあるのだから
車いすの障害者に健常者と同じ義務を課すことはできない、しかしその一方で車いすの障害者が可能な限り健常者に近い役割を果たせるような社会作りに民主派は努めなければならない、つまり一定の範囲内で社会的弱者は社会から何らかの譲歩を得られるようにしなければならない、だがここで気を付けなければならないのはこの考えが拡大解釈されてしまう虞があるということだ、もしそれが起きれば社会的弱者に手を差し伸べすぎることは社会の不平等化につながりしたがってついには民主主義社会における均衡が崩れてしまうことにもなりかねない
これはやや難のある表現なのであろうが、社会は負の存在と捉えられる人々の自立が成立するそのぎりぎりの場所で譲歩の線引きをしなければならない
つまり正と負が拮抗するためには正が負にある程度譲歩することが求められるがしかしその塩梅を間違えると社会の不満がむしろ増長し、負の存在の軽視または排除につながりかねないのである
だが逆に考えれば負の存在と捉えられるような人々をどのように扱うかがその地域の民主主義度を測るひとつの指標ともなりうるのであろう
この辺りは実に難しいことなので次の章で考えてみよう
多様性社会の中心線
多様性社会の中心線
さて前章では儚い地球と題して、地球そのものが儚いのだから人間の命もまたそうであると書いた、死とは常に私たちのそばにある、しかしそれに気付くのは五十歳を過ぎた者かまたは死線をさまよった経験のある若者だけであろう、儚さを考える上でのキーワードは優しさであると書いたが、それについては前章では書き損じたのでこの章で述べることにする、というのも前章では儚いものの対象として民主主義を取り上げたからだ、ここでかなり紙数を割いてしまった
民主主義というものは実に儚いものであり私たちが私たちに与えられている投票時の一票の権利というものを行使しないで時を過ごせばいつか民主主義社会というものは砂の城のように崩壊してしまうかもしれない、なぜならば民主主義社会においては非民主派にも一票の権利が平等に与えられているからだ、彼らが非民主派の候補を応援しまたその候補者が一定数当選した場合は直ちに民主主義の危機が生じる、民主主義のルールに基づいて生じた結果はそこに不正がない限りどのようなものであれ受け入れなければならない、これは厳しい現実のしかしその中央に来るべき考え方である、もし民主派にとって都合の悪い結果を場合によっては覆すことができると仮定した場合その例外はいつか非民主派にも適用されその時の特に社会的弱者が困る結果につながりかねない、だから私たちは民主主義のルールを守りながらたとえ都合の悪い事態が生じたとしても民主主義のルールの範囲内でそれを解決していくべきであると
前章で書いたことは概ねそういうことである
この章では多様性社会の中心線として、前章の延長線上にあることを述べる
まず前章で書き漏らした優しさについて述べよう
言うまでもなくこの優しさという言葉は地球さえ儚いのだからという表現の脈絡のなかから生まれてきたものである
では優しさとはどういうことなのであろう?
おそらくそれは第一に「慎重に扱う」ということであろう、前書「曇天の日には収穫が多い」で大切なのは「より速く」、「より多く」ではなく、「より慎重に」、「より寛大に」であると書いたが、この概念と脈絡をある程度ここで踏襲しても問題はないであろう、忙しいことは良いことだという人もいるが僭越ながらそれは20世紀までの話である、そういう人はかつて忙しくまた正直な話かなり金を稼いだ人なのであろう、なるほどそういう経験があれば忙しいことは良いことだということになるのであろう、だが忙しい=チャンスの拡大=年収の増加などはかなり昔の話という印象が私にはある、我が国日本ではもう20年以上前にそういう時代は終わっている、忙しいという言葉は本来の意味通りに受け取られるべき時代に戻りつつある、つまり忙しいということは余裕をなくすということであると、「忙」という字には「亡」つまり亡びるという意味の漢字が隠されているが、確かに「忙しい」とは恐ろしい言葉でもある、だがすでに十分稼いだ人にはこれが分からないようだ、私にはスケジュール帳が時に休日でさえ予定で埋まっている人は優しさのわからない人であるという強い想いがある、優しさは隙間から生まれてくるものだ、また想像力や創造力もまた隙間から生まれてくるものだ、風に吹かれてふと立ち止まった時にこそ人は何か地味だが貴重なもの(貴重なものは得てして地味だ)を見つける、時計の針に日々背中をつつかれている人が果たして風に吹かれるであろうか?
だが不思議なことに日々忙しくまたすでにかなりの収入を得たであろう人の方が優しさを口にするのである、ここに私に言わせれば現実社会のトリックがある、優しさとはバックストリートを知る人が本来は口にするべき言葉なのだが、現実にはそうなっていないがためにバックストリートを歩む人は自分がやさしくなる必要はないのだと思い込んでしまっている、しかしホームレスを含むバックストリートを歩む人々よ、諸君こそこの世の理想と矛盾を伴に知りうる立場にある人々なのだ、なぜロールスロイスで移動する人にこの世の真理が理解できようか?
ここでこのように言明してもそう差し支えはないのかもしれない
神を僅かでも欺くことはできない、と
優しさとは平和や人権そして信仰といったスケールの大きな言葉を除けばつまり個人的に解釈されるべき言葉としては数えられないものの価値の中央に存在するものだ、そういう意味では優しさは民主主義に似ている、薄氷の上の存在でありまたしばしば人々がその重要性を口にするにもかかわらず実際にはそれを語るに相応しい人はあまりそれについて語らないのだ
これは民主主義だけに言えることではないのであろう、私たち人間はプライバシーを知るが故に数多くの見えないカーテンに正確に言えば心の視界を閉ざされている、だから軽自動車に触れたこともないような人間の甘言に惑わされるのである、人間の本質が幾多のカーテンで見えないように社会の本質も見極めることが難しい、だから理想を語れば普遍的な存在が必要になるのである、神を信じない者でも神社仏閣を軽蔑し無礼な態度をそれらに対してとることはできない、だが恐ろしいことに仏像を破壊するのは無神論者よりもむしろ狂信的なテロリストにはるかに多いのである、そういう意味では普遍的な存在は神だけでは足りない、そこには加えて善の概念が必要になるのだ、確かに善悪の絶対を明文化することは誰にもできない、人間はそこまで完全な存在ではなくまた人生そのものが極めて短く故に稀に天才が存在したとしてもついに間に合うことはないのである、では私たちに何ができるというのであろうか?神が永遠に沈黙している以上私たちの選択肢というものは実は限られている、ならば私たちは理性をこそ頼りに限界の中をしかし後継者にバトンをつなぎながら「より良い」を模索していく以外ないのではないのか?また厳しい視線を社会に向けながらしかし一方で本質を見極めるべき「より慎重」で「より寛大」な、つまり隙間を知っている人だけが持つ識別能力を身に着けていくべきではないのか?
したがってここまでの考察で優しさを以下のように定義することができる
優しさとは負の肯定から生まれる矜持のもう一つの姿である
つまり優しさとは彼から発せられる言葉のことではない、優しさとは彼が沈黙している時に投げかけるまなざしの対象の選別を司る意識の理性的な部分のことである、そこでは控えめに振る舞う感情故に少し引いた位置から即時的ではなく長期的に対象を見つめ結果的にせよ「したりしなかったり」を遠ざけることができる
恐らくこの意識を養うのは努力と才能そして生まれ持った素養だけでは足りないのであろう、そこには幸運が必要なのだ、ではどのような幸運か?
負、つまり挫折を味わう幸運である
すでに私は書いている
正だけを知る者は幸福から遠い者であると
またこうも書いている
神の使者は裏通りの、鼠がいるような、薄汚れた、そして綺麗なドレスを纏った人などは決して寄り付かないような所に現れる、と
何とこの世は神の理想から最も遠い所へとまっしぐらに進んでいることか!
神の手は汚れているのに私たちの手は画家のそれでさえかつてほどには汚れていない、確かにPCによるクリエイティヴな才能の開花を否定することはできないが、額に汗してといった表現が似合うような現状がもっとあってもよいのではないか
クリーンは優しさに反する、おそらく人間自体がそのようなクリーンな存在ではないのであろう、塵一つ落ちていないオフィスで安定的な収入を得ている人は農夫の祈りを生涯知ることはあるまい、たとえ彼が十桁を超える財産を残したとしてもそれは果たして幸福な人生だったのだろうか?
諸君こういう経験はないだろうか?
悲劇性の強い映画などを観た後にしばしの号泣の後、なぜか少しだけだが優しくなっている自分に気付く、エンターテイメント性の強い映画の場合はこうはいかないのである、優しさは笑顔とは逆を歩む、はじける笑顔ならば尚更のことである、そのように考えると真に優しい人間は「優しい」という言葉さえ滅多に口にしないのであろう
やや前置きが長くなったがそろそろ本題に進むとしよう、前章で優しさについて触れていなかったがために時間がかかってしまったようだ
さてこの章のタイトルであるが「多様性社会の中心線」である、もうおおよそこの結論については読者諸君も感づいておられるであろう、多様性社会の中心線は真ん中よりも少し負の側に寄っている、負の側とは社会的弱者の側である、だが民主主義社会の基本は「平等な一票」である、ここに私がこの章で言いたいことの本質がある、多様性社会というものは平等な一票の権利を基本とする民主主義社会の21世紀初頭における考え方を僅かに修正したところにその中心線を設える、この「修正」というのがこの章のキーワードであろうか?
私はすでにオリンピックとパラリンピックは分離して開催されるべきであると書いた、そうでなければパラリンピックはオリンピックに飲み込まれてしまうであろう、その結果オリンピックでも通用する人は満足できるがそうでない人は今よりも不遇な状態に陥るであろうと、つまりメダルの価値が平等ならばパラリンピアンだけの催しも成立しなければならないのだが、パラリンピックがオリンピックに飲み込まれてしまった場合オリンピアンだけの催しは成立するがパラリンピアンだけの催しは成立しないということになってしまうかもしれない、それは多様性の尊重に反するということなのである
同じ競技(水泳や陸上競技や車いすバスケットボールなど)であればメダルの価値は同じだ、だがそれを混同してしまえばオリンピックでも通用するような人を除いて状況は良くならない、早い話スポンサーの付く人は良いがそうでない人は相対的に見て今より辛くなるということだ、しかしそれはやはりおかしい
なぜならばそれではオリンピックとパラリンピックをほぼ同時に開催する意味がなくなってしまうからだ、この二つをほぼ同時にそして同じ都市で開催するということはつまりそこに両者に共通した理念が存在するということだ、それは「すべての人に平等にチャンスが与えられるべきである(The whole life matter)」という理念である、これは結果の平等を意味しないが、しかしメダルの価値の平等は意味する、したがってパラリンピアンだけの催しもまた成立しなければならないのである、これは経済の問題と一線を画する、確かに将来的にはパラリンピックのテレビ中継は増えるであろう、またパラリンピックの世界からもスーパースターが現れるであろう、だが障害者と健常者は違うという考え方は唯一以下のような状況でのみ認められるべきである
多様性社会の中心線は真ん中よりもやや負の側に寄っている
負をあまり特別なものと捉えてはいけない、健常者でも年を取れば皆負の側に立つことになる、また大病を患い五体満足ではあるが通院を強いられている人(透析など)などの場合は時に負の範疇に入ることもある、つまり負とは必ずしも障害者のみを指すものではない、いやそれどころか今後科学技術の発展により障害者の中から社会そのもののリーダー、例えば市長や会社社長または役員、そして様々な職種のクリエーターが生れることは想像に難くない、つまりここでいう負とはすべての人間を網羅したその範囲内に実は抽象的に存在している概念にすぎない、私もそうだが強度の近視の人は眼鏡なしでは車の運転ができない、これも幅広い意味での負である、また幼児、お年寄りはほぼ例外なくすべて負である、そしてこれらの人々に活躍する機会を与えるということはおそらく経済的な意味も含める社会的メリットがあるのであろう、また多様性の尊重=負の肯定はこれまでいろいろな意味であまり恵まれてこなかった地域に住む人々にも世に出るチャンスを与えることになるであろう、というのも社会の中心線を真ん中よりも僅かに負の側に寄せることでその修正された範囲内から敏感な人々が「もしかしたら」という思いのもと何らかの行動を起こし、その結果効率性重視の社会(これは行き過ぎると中心線がやや正の側にずれる)では決して気付かれなかったであろう人々にもスポットライトが当たりそれが長期的には万人の幸福に少なくともこれまでよりははるかにつながることになるであろうと思うからだ
おそらくこの「修正」という考え方は「多様性の尊重=負の肯定」という定義を重視する限りはどこかでしばしば触れることになるのであろう、それは人間というものが権利は平等であるのにその性質は千差万別であるという事実に起因する
本来人間は皆違うのだから与えられるチャンスに違いがあっても仕方がないという考え方をする人もいるのであろうが、だがそれでは民主主義というシステムは機能しない、私は民主主義肯定派なのでここはどうしてもこだわらずにはおられないのだが、国籍も慣習も風習も、もちろん言語も歴史も違う人々がしかし共通の理想の実現のために協力するということは実に簡単なことではない、そこにはおそらく日常的に修正可能なラインを持つやや曖昧なしかし最大公約数の合意を得られる概ね明文化可能な理念と論理的に説明のつくシステムがかなり高い確率で必要になるのである、そこにある共有可能な概念は平和だけではない、幸福の追求の権利やまた信仰の自由もあるであろう、そして幸福には「数えられるものの価値」と「数えられないものの価値」の二つが存在し、そしていずれも同等に大切なものである、数えられるものの価値を過剰に追い求める人がいたとしてもただそれだけでその人を批判することはできない、なぜならば多様性の尊重を肯定するならば日々生じる「修正」の必要性もまた認めなければならないからだ、そして修正の範囲は時に曖昧である
またやや負の側に寄っている多様性社会の中心線を正の側に引き戻そうとする人々も日々現れるであろう、もちろんそのような人々に悪意があると断ずることは誰にもできないのであり故に私たちは「より良い」とか「今日よりも明日」といった考え方に基づく模索を常に続ける必要があるのである
ただ最後に触れておかなければならないであろう
前章の終わりで私はすでに社会は負の存在と捉えられる人々の自立が成立するそのぎりぎりの場所で譲歩の線引きをしなければならないと書いたが、多様性社会の中心線がやや負の側に寄るということは最終的には「万人の平等なチャンス=可能な限り平等な幸福を追求する権利の確保」であり、この前提によって然るべき線引きが時に厳格に必要であるということである、つまり弱者の側の権利の確保のために不当に非弱者(経済的に恵まれている人など)の権利が歪められてはならないということである、ここは確かにかなり難しい問題であろう、修正という言葉を使って何とか切り抜けたいのだが実際には生活に密着した問題(富裕層には富裕層なりの悩みもあるようだ)も多いようである、したがってやはりここは協議の場でもある議会での民意を反映した人々による議論の結果に最終的判断を委ねるというやや煮え切らない結論になるのかもしれない
民主主義というシステムは完璧なシステムではない、だからいかにそれを運用するかがが常に論点になるのであるが、そういう意味でも逆差別が生じないようにしなければならない、なぜならばそういう事態が多く生まれると反動的な勢力の台頭につながるからだ、この辺りは議論の活性化を期待するという言葉で締めくくるしかないのであろう
悪について
悪について
さて前章では「多様性社会の中心線」と題して多様性社会におけるその中心線は
真ん中よりもやや負の側に寄っていると書いた、つまり中心線が真ん中にあれば結果的に負、つまり弱者ではなくその逆、正つまり健常者であり富裕層でありまた経済的に恵まれている人により多く恩恵がいくことになり、社会的弱者は相対的に見て不遇な生活を送ることになるであろうということを言いたかったのである、したがってそのような不平等な状態が生じないようにするためには中心線をやや負の側に「修正」し、全体のバランスを図る必要がある、だがこれが行き過ぎると正の側に立つ人々の幸福を追求する権利が不当に歪められることにもなりかねず、その場合は反動的な人々が多く誕生することにもつながりかねずそのあたりの塩梅は難しいところだと書いた
多様性の尊重としてまず頭に浮かぶのはパラリンピックであり故にパラリンピックはオリンピックに飲み込まれてはならず分離して開催されるのが望ましい、そうでなければオリンピックでも通用する一部の人を除いてパラリンピアンは然るべき扱いを受けられなくなるばかりかメダルの価値は同じはずなのにパラリンピアンだけの催しが成立しにくくなり相対的に見てバランスを欠いた社会になるであろうと書いた
よく考えてみれば多様性の尊重とは民主主義社会であれば当然のことなのであろうが、しかし既得権益を手放したがらないのは人間としては時に仕方のないことでもあろう(富裕層には富裕層なりの悩みがある)から、やはり多様性社会実現のためにその中心線を真ん中よりもやや負の側に置くというのは簡単なことではあるまいという結論になる
この辺りのことは引き続き考察を進めていくより他あるまい
さてこの章では悪とは何かについて述べる
やや唐突な印象を読者諸君には与えるだろうが、前書「曇天の日には収穫が多い」では繰り返し善悪について論じておきながら悪について論じるということがついになかったことに今気づいた、したがって早いうちにその空白のままになっている部分の穴埋めをしたいと思い、ここで記すことにする、またこの書の序でも述べているように前書で書き漏らした部分をこの書で補うという目的もこの書を書くうえでは当然の如く生じるので何卒ご理解くださるよう御願い申し上げる
さて悪とは何であるか?
その前に私はすでに神とは善の存在であり神に悪意はない、神に悪意があると看做すにはこの世は美しすぎるのだと書いた、この辺りを繰り返しになるがちょっと振り返ることにしよう
私は前章でも普遍的な価値を持つものが神に対する信仰だけでは理想とする社会の実現には届かない、そこに善の概念を加えることが必要だと書いた、これは
神を信じることは善を奉じることであり、また神=普遍であるから善を奉じることには普遍的な意味があるということである
この普遍という言葉に今一度注目していただきたい
人間自体が不完全な存在なので人間が誰であれ普遍という言葉を使うこと自体論じ詰めればやや無理があるのだが、しかし人間(ホモサピエンス)以外現時点ではこの地球上に知的生命体は存在していないためここはその無理を無視して論を進める
普遍とは言うまでもなく遍くありとあらゆる空間そして存在に対して等しく有益な価値を持つということである、それは正の価値であり、最終的には負を駆逐する、そして正とは善である、尚ここでいう負とは人間の情念などに主に見られる例えば怒りとか憎悪とか妬みとか蔑みとか復讐を企図する気持ちとか相手が困ることを承知で偽りの言葉を弄することとか、もちろん暴力に値するものも含めそれらすべての総称のことである
ここで重要なのは最終的に正、つまり善が勝利するということである、この善悪の相克の結果しかし最終的には善が勝利するというのは世界中の様々な宗教のその結論としてしばしば耳にするものであり、したがってこの表現は人類の中で一定の割合で認められている考え方であるということができるであろう
ではここに登場する最後まで善を苦しめる悪とはどのように定義できるものなのであろうか?
神に悪意がないという前提に立てば悪は神とは別のところに生まれまた存在しているものと考えることができる、ところがにもかかわらずそれは善を最後まで苦しめる存在なのである
では悪とは何ぞや?
私がここで指摘したいのは最終的に善が勝つがその直前までは善悪両者の力は拮抗しているのだから悪はさぞかし強い力を持っているのであろうと人々が考えることによって当然の如く起こる錯覚についてである
私は今錯覚と書いたがそのことについて以下述べたい
その前にここでひとつ質問である
私は神に悪意はないと書いたが、では神が創り給うた世界の中のどこかに諸君はかつて一度でも醜いそして悪意を強く感じる瞬間というのを見出したことがあるであろうか?たとえば青い海や白い雲のなかにのみならず、台風のような嵐でもよいし、また地震や火山の噴火でもよい、ここには悪があったといえるような光景をかつて見たことがあるであろうか?
そしてもう一つ、もし見たことがあるというのであればそれはその後どれほど貴兄を苦しめたであろうか?つまり悪というならばそこからそう簡単にリカヴァリーできるはずはなく相当長きに渡ってそれに苦しんだということになるが、果たして数年にわたってその苦しみが続いたということがどれくらいあるであろうか?
ここで重要なのはあくまでもこの苦しみは神が創り給うたものにその発端があるということでなければならないということである、したがって戦争やテロはこの範疇に入らずまた原子力発電所の事故も同じである
確かに地震や津波、火山の噴火によって住む家を追われた人は数多くあろう、だがそのような人にももう一つ問いたい
その苦しみはその後も繰り返し貴兄を襲ったであろうか?
つまりリカヴァリー不可能なほど繰り返し神の悪意とも思える悲劇に見舞われたであろうか?
私はこう思う
継続的に人々を苦しめ続けるのは実は神ではなく人間自身であると
そう人間自身
この「人間自身」という言葉を頭の片隅に入れておいたまま次に進んでいただきたい
私は20年おきに直下型地震に見舞われ続けている都市または場所というものを知らない、また私は冬に我が国日本を襲う台風の存在というものを知らない、また私は夏に寒波に見舞われた都市というものを知らず、また太陽がある日人類を裏切り夜明けの時間になっても顔を出さなかったという例を知らない
自然は時に私たちを大いに苦しめるがしかしその一方で授けるべき恩恵を人類に与えなかったという例を私は知らない
津波は悲劇であり多くの損害を与えるがその猛威が収まれば再び漁に出ることができる、また自然災害は時に彼の命を奪うが、彼の子の命までは奪わない、また彼の孫の命までは奪わない
津波を起こした海も生き残った漁師から漁場を奪うことはしない、それをするのは例えば原子力発電所の事故などである、またすでに述べたように原子力発電所は神が創り給うたものの中には入らない
だが戦争は違う、戦争は遺族の生活も破壊する、なぜか?戦争は神が起こしたものではないからだ
またもう一つ、自然災害を前にしたとき人はどうするか?
祈る
では戦争を前にしたとき人はどうするか?
憎む、または復讐を誓う
なぜこの二つは同じ悲劇なのにこうも人間の対応の仕方が違うのか?
さてここで少し話を転ずる
諸君は宇宙のどこかで戦争またはそれに類することが起きた痕跡があると天文学者が発表したのを聞いたことがあるだろうか?
もしないのならば、なぜないか不思議には思わなかったであろうか?
悪が普遍的な影響力を持つのであればそれは当然この惑星外においてもその痕跡が認められるということでなければならない、だが私は今だかつて天文学者の間から宇宙に存在する悪、または悪意という言葉を聞いたことがない
これはなぜなのであろう?
悪は善と最後まで争うほどの力を有しているのだから、この太陽系だけを見てもどこかに一つくらいは悪や、悪意の痕跡のようなものがもう見つかっていてもよいはず(ガリレオが木星の四衛星を発見してもう相当な年月が流れている)だが、つまり私たち人類をいつか必ずや滅ぼすに違いない何らかの神の悪意を感じずにはおれないような何かである、それとも実はすでにそれは見つかっているのだが発表すると人類がパニックに陥るので、学者たちが連携してその事実をひた隠しにしているということなのであろうか?
さて中間発表である
悪とは何か?
それは人間の知恵と想像力が沸点を超えた負の連鎖と負の記憶から生み出した欠損した理性故に繕うことのできない「信じないぞ」の最終的な形の集合体のことである
これもそう間違いではあるまい
「信じないぞ」は悪に傾くものの常套文句である
天文学者が宇宙に悪や悪意または戦争らしきものの痕跡をいまだに発見できていないというのは実に興味深いところだ、まだ結論付けるのは早いのであろうが、こう推論することはできるかもしれない、混沌と矛盾は現時点では天の川銀河周辺に限って言えば地球のしかも人間の間にのみ見られる現象であり、そういう意味では人間の営みというものは実に特異なものである、人間は神から隔絶された世界に住んでいるのである、と
したがって人間は数十万年前ならともかくいつしか対象を「外」から「内」へと切り替えた、結果的にせよ人間が選んだ無秩序や矛盾を包含したいわゆる恣意的な利益の分捕り合戦は増すことはあれその逆はなく、ついに惑星たちの整然とした運行と著しい対照を見せるようになり、にもかかわらず人間たちは宇宙の法則のその埒外にいることにその多くがついに気付かずに、それどころかまるでこの地球という惑星が宇宙というものの中心にあるかのような幻覚に捉われたまましかもその認識すらないままただ善悪について結論があるかのごとく論じ合っている
この世の善を100とした場合、では悪は?
答えは0.00000000000000000000000000001である
これでもゼロの数がまったく足りないがとりあえずこれくらいでよいであろう
よく考えてみれば悪とは実に面白い概念だ、世代を超えてまた大義を掲げてさらに言えば繰り返し戦争をするのは人間だけなのに、そこに正の価値を見出そうとする人々は悪というものには実体があると確信しているかのようだ、道徳と信仰の逆を例えば不幸な生い立ちなどを理由にある意味極めようしている輩などは善が100なら悪は99.999999だと思っているのであろう、また中には悪が100であり、善が99.999999だと思っている人もいるであろう
そう人間の世界だけなのだ、善と悪が拮抗しているのは
「最終的には善が勝つ」そう言っている時点で人間の世界にだけ悪があることがわかる、動物の世界には悪はない、なぜならば彼らには知恵がないからだ
では悪とは何か?
知恵の副産物のことである
確かにここに神の結果的な悪意を認めることは可能なのかもしれない、神は人間の中途半端な理性では知恵を善の世界にのみ押しとどめたままにすることはできないであろうことはわかっていたはずだからだ
だがそれ以上に可笑しいのは一部の人間が悪の中に美学めいたものを見つけ出そうとしていることである
抱腹絶倒とは言わない、だが大したロマンチストであるとはいえるであろう、彼もまた自己愛の犠牲者なのか?
悪とは100%人間自身の中にある、もし本当に宇宙人がいて恐竜が跋扈していた時代にでもこの地球へとやってきていてかなりの侵略行為と呼べるようなこと(資源の略奪)をし、またその痕跡が今なお残っているのであったならば、私たちはもっと救われたのだ、なぜならば対象を見つけたことにより悪が相対化されるからだ
悪人は私たちだけではない、そう思えればきっと悪は善と拮抗しているなどという幻想に憑かれることもなく、もっと悪というものを客観的に眺めることができたはずなのである
悪を選ぶことは人間だけに与えられた特権
悪に意味を見出そうとする者はこのように考える、何たる究極のナルシスト!
明日太陽が予定時刻を一時間遅刻して昇ってきてくれたら、彼らはその存在の意味を失う、そうならないのは悪人さえも赦す神の寛大さの表れなのか?
悪とは何か?
それは人間自身である、いや、現時点ではホモサピエンスだけである(宇宙人は必ずいるが彼らが私たちホモサピエンスと同じまたはそれ以下であるかどうかはわからない)、だが悪を信じられるものは幸福である、人間自身が作った勝手な幻想に思いを託すことができるなど、羨ましいほどの楽天主義者であるといえるからだ
しかしヴァーチャルリアリティなどという言葉が生まれた昨今、幻想に現実の思いを託すということは以前ほど滑稽なことではなくなっているのかもしれない
悪と善との違いを一言でいうと?
調和の有無
善とは何か?
それは例えば惑星の規則正しい運行、つまり調和のことである、これは宇宙レヴェルの時間の問題でありホモサピエンスが追求し突き止められるような程度の問題ではないということなのであろうが、太陽系の惑星に意思があるとすれば彼らは間違いなく地球でホモサピエンスどもが時に争いまた時に融和しまた時に沈黙していることなど知ってはいるがほぼ意識することなく文字通り粛々と神との約束を神が止まれというまで続けるということなのであろう
では悪とは何か?
それは調和に及ばずということである、悪は知恵の排せつ物のようなものだ、したがっておおよそ利用価値がない、善には調和があり故に脈絡がある、善とは冷たく静かなものであるが故にこの世を遍く覆い尽くすことができる、私は熱いものはすべて嘘だと書いた、善と悪、熱いものはどちらであろうか?
人間の意識の中にしか存在し得ない悪とは人間という枠組みを離れればおそらく無になる、したがって神が悪魔と賭けをするはずはなく神はただ知恵の副産物をいかに人間に自らの力で処理させるかそれだけを念頭に置いて人間を創造しまた知恵を与えたのであろう、そこには神が決めた人類の進むに相応しいスピードがある、私は人類の進化とは繁栄と衰退の繰り返しであると考えている、それは緊張と弛緩の繰り返しでもよいしまた「都会へ向かう」と「帰郷する」の繰り返しでもよい、いずれにせよ人類は「行ったり来たり」を繰り返しながら然るべき場所を目指していく、そして最終的にはかつていた場所に戻るのであり、確かに一部は火星など地球外への脱出を試みるのであろうが、彼らが戻って来ないと断言することはできないように思う
こういう人もいるのであろう
神と悪魔、その両者が存在する、と
だが私はそうは思わない、この世に二人いるのは神であり、悪魔などはこの世に存在しない、神は人間が悪または悪魔と口にするたびにそれをやんわりと無視しているであろう、その確率は100%である、人間は悪を口にするたびに自らの不完全さを認めているに他ならないのである、だが神の行う創造にはスピードがある、なぜならば神には理想があるからだ、だから神は人間なしでもこの世は十分成立するのに敢えて人間を造り、また進化のスピードを与えた、多くの犠牲がそこに生じることは承知していたが、神はすべてを救うのでそれは神=善に矛盾しない、神は人類を漸進させる、また命の限度を規定する、それは人間の中から神の代理人を名乗る者が決して現れないようにするための神の善的な配慮、それを証明するかのように神の代理人を名乗る者はおおよそ善悪を論じまたすべてが必ずしも救われるわけではないと説く、まるでこの世には神も存在するが同時に悪魔もまた存在するのだと認めたがっているかのようである
結論
悪とは人間の知恵(不完全な)が作り出した幻想のことであり神とはまったく関係のないものである、故に悪に染まるのは人間だけであり、それは神がホモサピエンスを見限らない限り続くであろう、しかし悪に染まる者に弁明の機会を与えないのは善ではなく法である、そういう意味では、銀のさらを盗んだジャン・バルジャンに二本の燭台をさらに与えた聖職者の如き善を奉じるが故の神の法に従うという行為が必要なのであろう、「赦し」とは普遍の概念を持つ者だけが語ることのできる言葉である、なぜならば赦しとは善に端を発する概念であり善とは神同様普遍的な意味を持つものであるからだ、惑星の規則正しい運行は善である、そしてそれは人類、少なくともホモサピエンスの事情などまったく顧みることなく日々まるで時計のように正確に更新されている、そういう意味では歴史のない私たち(たった30万年)にできることは限られているのかもしれない、だがここをあまり煎じ詰めると所詮人類に神の方程式を解き明かすことなどはできないのであるという結論に辿り着くことになってしまうため、一定の量の曖昧さ、つまり「もしかしたら」の余地を残しておくことも必要なのかもしれない
さて悪とは幻想である、では「にもかかわらず悪に傾く者」には弁明の機会はついに与えられないのであろうか?彼が真に罪を悔いまた神に救いを求める時、彼に人類は行くべき場所を与えないのであろうか?
この辺りの所は長くなりそうなので次の章で語ることにしよう
悪者の言い分
悪者の言い分
さて前章では、「悪について」と題し、悪とは何かについて論じた、結論としては悪とは人間が作り出した幻想であり、神とはまったく関係のないものである、神は善であり、またこの世に悪が存在する痕跡を認めることは現時点では難しい、もし神に悪意があるならば少なくともこの太陽系の中に一つくらいはその痕跡のようなものがもう見つかってもよいはずだがそのような話を天文学者の言に見たことは一度もない、また惑星の運行は極めて規則正しくどうやらそれが狂う気配が感じられない、神に悪意があるならば時に太陽の昇る時間が人類に都合の悪いように少しだけずれたとしてもおかしくはないはずなのである、なぜならば人類は繰り返し善に背き戦争を繰り返してきたのだから、お仕置きを人類が神から食らっても文句は言えないはずである、だがいまだその気配がない、なぜか?
悪とは神の意識の埒外にあるからだ
悪とは人間が自分たちに実は都合にいいように設えた幻想にすぎない、だから人間がいくら悪事を繰り返しても惑星の規則正しい運行に影響を与えないのである、誰もそんなもの気に留めていないのである
では悪に傾くものがたとえ悔い改めたとしても、彼はもう自分の人生に絶望するより他ないのか?また被害者の遺族には永遠にその悪者を彼が悔い改めたとしても許さないという選択肢しか残されていないのか?
もし法が彼の命を奪う判断をしてもそのことにより善がこの世に遍く普及することの一助にならないのであればそれは人類史においてどのような意味を持つのか?
答えはただこの言葉の中にのみある
神の法
だがこの言葉を用いる時はかなり用心する必要がある、神の代理人を私益のために名乗るような輩にとってこの世には人間が定めた法以外に神の法と呼ぶべきものがあるという考え方ほど彼らに都合のいい表現はないからである、言うまでもなく神は永遠に沈黙しているものである、彼が神の法を説いたとしても誰もそれを否定することはできてもその論拠を合理的に断罪することはできないのである
このように神とはその存在そのもの(誰も確認できない)がしばしばある種の人間たちの都合のいいように扱われる恐れがある、したがって私も十分そのことに留意しながら論を進めなければならない
この章の論点は、リカヴァー、つまり軌道を大きく逸れた者が元に戻ることはできるのか否かということにある
彼が罪人でない限り「回復」のチャンスは必ずある、問題は彼が罪人である場合だ、言うまでもなく法は犯していないが道義的な問題は彼には多々あったという場面も現実には数多く存在するであろう、つまり彼の人格には欠点があったということである、したがってここでは法を犯し法的に罪人となった人と、法は犯していないが彼は非人格者であったという場合と二通りを考えざるを得ない
だがこの両者には共通している事柄も多いとも考えられるのでその辺りの所も念頭に置きながら論を進めることになる
まず罪について考えなければならない
罪とは何か?
それは第一に人々によって定められた法や掟に反する行いをするということである、これは彼が約束を破ったということに起因する考え方である、例えば物を盗む、これは互いが互いの所有を尊重すべきであるという考え方に反する、つまりAがBの欲しいと思うものを持っていたとしてもBはAの承諾なしにそれを手に入れてはいけないというものである、つまり金銭による取引などがそこで成立している(合意の成立)のであれば問題はないが、いわゆる略奪によってその思いを遂げようとすることは誤りであるということである、ここには道徳の萌芽をも読み取ることができる、約束を守る、それはある意味道徳の入り口にある考え方である、私は前書「曇天の日には収穫が多い」で生理的善意のようなものが概ね人間には一律にではないが備わっているというようなことを書いた、約束を守るということは当たり前のことでありしたがってそこにこの生理的善意、つまり習得する努力なしに人間に備わっている道徳的な意識を見ることは可能であると思う、そのように考えると罪とは元々この生理的善意、人間であれば97%くらいの確率で生まれつき備わっている、また残りの3%もそのうちの半分つまり1.5%くらいは教育によってカヴァーできる道徳の感覚によって判断されるべきものであり、つまり明文化された法に背いたというのではなくその共同体の暗黙の掟、人間として当然の約束に背いたが故にそれなりの罰を受け、結果的に追放されるといったことに至るといった風に判断されるべきものであろう、ここで焦点となるのはそこには何か神のような霊的なものがそれらの判断に何らかの影響を与えていたであろうと考えられることだ、元々政とは宗教的な儀式と不可分のものであった、したがって占いや祈祷が政に対し影響力を持つというのは当たり前のことであった、そのように考えると共同体の精神的な規律維持のためのバックボーンに神または霊的な存在がありまたそれがその共同体の長によって統率され結果的にせよその共同体の円滑な運営に寄与していたと考えるべきであろう、つまり罪とは明文化された法を犯す罪と宗教的な戒律または道徳的な約束事に背くという二つの側面があると考えることができる、よく私たちは悪いことをすると罰(ばち)が当たるというが、これはたとえ法的に裁かれなくても悪いことをしているときっといつかその報いが来るよという意味である、したがって嘘は方便ともいうが実際には嘘をついてよい思いをしたという人は少ないのではないかというのが多くの人に共通する認識であると思われる
言うまでもなく罪は罰せられなければならない、古人がどのように人を裁きまたどのような刑罰を与えていたのか私は知らないが、ただ私が言えることは神という人間たちが共通に認識できる普遍的な価値を持つものとして最高位に来るものがもしそれぞれの地域に留まることなく遍く地球全体を覆うことができるのであれば、最終的には個々の事案によるそれぞれの解決策というのが図られるべきであることは認めつつも、そうでない状況であれば起こりえないような新たな罪人に対する何らかの対応というものが生じうるのではないかと思えるということである
ここにつまり「赦し」が来るのである
私はすでに「回復」という言葉を使っている、確かにすべての罪人に「回復」のチャンスが与えられるべきではないのかもしれない、私は法律家ではないのでここで断定的な文言を使用するのを差し控えなければならないが、人間の一生を八十年と見た場合、残念ながら彼の残り時間では罪の償いは難しいと判断される場面も十分ありうるのであろう、そのような場合は神の法の適用は諦めざるを得ないのかもしれない、だが問題は罪人ではあるが罪を悔い真に「回復」のための然るべき幾つものハードルの乗り越えに挑戦し、無論刑期も終えてかつてとはまったく違う人間に生まれ変わったといっても言い過ぎではあるまいと思える人への対応のことである
彼は娑婆に戻ってもついに元罪人の汚名から逃れることはできない、それは私風に言わせていただけるのであれば生前の約束を破った者の背負うべき十字架であろう、したがって彼が罪を犯す以前のように再び暮らすことは難しいのかもしれない、だがここにもし神の法を適用することができるのであればもしかしたら徐々にではあるが何かが変わるかもしれない
おそらく罪にも様々な段階というのがあるのであろうが、しかし以下の条件が整った場合、ある種の変化の兆しをそこに見ることは可能であろう
彼つまり元罪人が贖罪のための計画表を自らの責任において作成し確実に実行する、唯一の条件はそこに人類共通の普遍的な概念及び価値が存在すること
彼は学ばなければならない、また彼は実践しなければならない、そして彼は誓いを立てなければならない
私はすでに書いた、罪を贖った者には愛の表現は認められるべきであると
これは神の法の下においてのみ甘受されるべきある種の悟りでありまたヒューマニズムに追及により現出する新たな理性のフロンティアであろう
ここにあるのは忍耐ではなくむしろ挑戦である、では誰が挑戦するのか?
それは私たちだ、罪を犯した彼らではない
彼らを許さないことは、時に前進を拒むことである、確かに許しがたいと見做されるべき犯罪は後を絶たず私自身現時点では死刑廃止嘆願書に署名する意思を持たない、だが許されるべき人の割合が今後も一切変化しないことは神の理想の成就、いや、より健全なる社会の実現の理念にそぐわないであろうとも思う
ここからは赦しについて論じることになる
赦しとは何か?
赦しとは第一に彼のためにではなく社会全体のために行われなければならない、彼の更生が社会全体にとって有益なものとならない限りは罪人への赦しは一時的なものに終わってしまうであろうと考えられるからである、ただここで一つ考えておかなければならないのは、私たち人間は皆不完全であるということである、罪を犯したものは私たちと別の世界の住人になる、だが彼らが罪を悔い改めるか否かにかかわらずこのように判断することはそう間違いではあるまい
彼らの少なくとも一部は踏み絵を踏まされたのだ、と
この考え方は実は私たちは皆虞犯者であるという前提に立った場合のみ成立しうる考え方である、確かに私がここでこの言葉を用いるのは実に僭越な話である、だが序で決断と実践を唱えている以上ここでは一歩踏み込んだ表現をとらざるを得ない、何卒ご了承いただきたい
神は時に犠牲を強いる、それは命を奪うという行為のみではなく、しばしば忍従を強いるという意味にもなる、人生というものは厳しさの連続であり安息の地を与えられることはほぼない、一日二十四時間のうち本来の自分を取り戻せる時間などはほとんどなく、ただ習慣による日々を事務的に繰り返しているのみである、だからこそ夢や目標が必要になるのであるが、しかし虞犯者であることから逃れようと思えば思うほど人は事務的になるのである
神を畏れぬものは罪を犯すのであろう
また明日の自分を見失った者も時に罪を犯すのであろう
そして転落した者も時に罪を犯すのであろう
だが最初から諦めている人間は比較的高い確率で罪を犯すことはない
なぜならば神はそのような人間には踏み絵を踏ませないからだ
翻って赦しである
これは彼ら罪人たちの問題ではなく私たちの問題だ、そしてこれは悪の問題ではなく罪の問題だ、罪人は罰せられるが悪人は必ずしもそうではない、したがって「罪」は「赦し」の対象になりうるのである
悪が幻想ならば罪は?
過ち
そしてそれは人間が不完全な存在である以上避けては通れない罠
罪は必然と偶然の間を行ったり来たりしている、僭越ながら罪人になるべきして生まれてきた人もいる、しかしそれは神の過ちではなく究極の善のための定期のテスト、「汝の敵を愛せよ」という善の最終到達点に至るまでの数えきれない、しかしクリアしなければならないハードル、だがそのように考えれば人間なしでも成立するこの世になぜ人間が誕生したのかも推測できるのである
昨日と同じではない今日を歩めるのは人間だけである、そこに人類の存在意義のほぼすべてがあるのであり、また理想を抱きその成就に世代を超えて協力し合うという意味も理解できよう
ではなぜホモサピエンスだけが生き残ったのか?
たとえそれが度重なる戦争の結果であったとしても、それが争いに次ぐ争いしか生まない「平和」とも「善」とも無縁の「決断しない故に実践しない」の繰り返しであったとしたならば、私たちは今子供たちに何を伝えるべきなのであろうか?
限界への挑戦のすべてはこれから生まれてくる人々のための道を作るためにある、したがって「諦めない」がそのキーワードとなるのだ、そして私たちは皆誰かの後継者である
罪は社会が作るものではない、罪は人間が作るものである、少なくともそのように考えないと犯罪被害者の救済のための方策を導き出すことは難しいかもしれない、「社会が悪い」といった瞬間、「私」は解放され何も背負う必要がない、これは罪だけではあるまい、社会的弱者救済のための施策についても同じであろう、残念ながら国や公共機関に多くを頼ることはできないのであろう(きっとこれから先もそう変わるまい)、社会は法によっては改善されない、社会は私たちの決断と実践によってのみ浄化される
またもや難しい局面に至った
分析を重ねこの世の仕組みの謎を解き明かす、だがそれは救済に非ず
この世の救済は神の担当である
では隣人の救済は誰の担当なのか?
それは私の担当だ
しかしこれを自認したとしてもそれを声に発することは難しい
悪の否定は決断であろう
では罪の否定は?
実践であろう
だが彼が真に悔い改めているといったいどうやって確認すればよいのか?
このように考えるとやはり人類共通の普遍的な価値を有するものの最高位に坐する存在が必要になるのであろう
とりあえず今回はここまででよいであろう
罪における道義的責任または法を犯す罪と道義的な罪
罪における道義的責任または法を犯す罪と道義的な罪
さて前章では悪者の言い分として、「赦し」をテーマに論じた、つまり罪を犯したものは永遠に許されないのであろうか、また犯罪の被害者は永遠にその罪人を憎み続けることでしか救われないのであろうか?
赦しとは言うまでもなく一歩踏み込んだ表現である、赦しの主体は常に自分自身だ、社会がどのように思うかということは実は個々人の判断と隔絶されている、なぜならば赦しの主体が社会である場合は赦しの概念はその後継者へと必ずしも引き継がれていかずしたがって結局赦しは法律家の間でのみ議論され新たな局面を迎えていくものになると想像できるからだ、しかし社会を変える力を持つのは私たち一人一人の市民の力である、したがって私たち市民一人一人が「赦しとは何か?」の答えを自身で見つけ出していくこと、つまり「決断と実践」が重要な概念になるのである
このことが成就するためには恐ろしいほどの時間が必要なのであろうが、しかしこの書では「決断と実践」は筆頭に来るべきテーマとなっている、したがって僭越なる表現が続きながらも論の展開を進めていくより他ないのである
前書「曇天の日には収穫が多い」をすでにお読みになった方はおわかりのようにこの世の真理は「相異なる役割を担った二つの要素の間の飽くことなき永遠の往復運動」であるから前書における分析と推論だけではたとえ私論といえどもそれは完結せず、決断と実践へと向かうもう一つの精神の動きが必要になるのである
それはいってみれば「受動的」と「能動的」の対比であり、そしてそれらはいずれも必要なものでありそのどちらかだけをとって「十分である」とは言えないのである
表があれば必ず裏がある、表にどのような文言が記されていようともそしてそれが完璧という言葉で表すしかないほどの精神性と技術力を備えていたとしてもそれはあくまでも全体の半分である、右の極論には左の極論が来る、また中庸には保守の中庸とリベラルの中庸とがある、確かに発言の内容が矛盾しないように自分がいずれの立場を支持するのかということはどこかで表明しなければならないが、一方の側だけを強調し他方を軽視するというやり方はおそらく短期的には有効であろうが、数十年後に振り返った時に「あの人は語るだけで行動が伴っていなかった」、または「彼は実によく行動したが思想的には時にぶれていた」ということになりかねない
私たちの流す汗も涙も最終的にはこれから生まれてくる人々のためにとってプラスの効果を及ぼすものにならなければならない、そうでなければ歴史から継続が消えいってみれば「行き当たりばったり」の極めて不安定な社会が現出することになる、それらは今ここにいる人々が皆この世から去った後に起こることなのかもしれないが、にもかかわらず未来を想うという精神の強い動きは間違いなく後世の人々から称賛されることはあれその逆はないであろう、そして思索というものは実践に至って初めて完結する、言うまでもなく平和または戦争反対と連呼するだけでは平和にはならない、だから市民一人一人の共通の普遍的な価値をバックボーンとする連帯が必要になるのである、そういう意味ではSNSがいつかテロリスト集団ではなく民主派たちのために一役買うことになるかもしれない
人が一念発起すると必ず逆風が吹き彼は神によって試される、だがそれは神の悪意ではなく一念発起する人にしか耐えられない試練を神が彼に課すことによって「貴兄は選ばれた人間である」ということを神は彼に伝えようとしているのである、だから歴史に肯定的な意味で名を残した人というのはほぼ例外なく多くの負を抱えそしてそれらを超えた人であるのだ
理想のための分析は尊い、しかし理想のための決断と実践はさらに尊い、だがそれは革命ではない、それは一市民が行いうる次の人のためのささやかな抵抗運動、社会が瞬間的に1進むことはあり得ない、社会は常に0.0001ずつ進む、それはこの世に存在するものが一部の例外を除きこの地球も含め儚い存在であるからであり、「より寛大に」、「より慎重に」しかし社会を「より良い」へと導いていくためには儚さ故に私たちには「待つ」が必要になる、したがって自分の代でそれが完結することはなくだからこそ後継者が必要になるのである
私はすでに述べた、レールを逸れたときにこそ実はチャンスがある、と
思い出していただきたい
① 完璧を目指しスケジュールを組み、努力する
② しかしにもかかわらず失敗しレールを逸れる
③ しばし悲しみに暮れる
④ その後豹変し、「いやこれでよかったのだ」と昨日までとまったく逆の言葉を発し新たな目標へ向かう
この繰り返しによって自分にしか当てはまらない法則を発見することができる→自分が何を好きで何をやりたいかを知ることができる
そう再びこのキーワードが出てきた
豹変である
昨日までとまったく違う自分に変わる、これができれば許されるべき罪人の割合は確実に増える
だが問題はどうやってそれを確認するかである、すでに罪人の取りうるべき態度については述べた、では私たち一般人はどうすればよいのか?
ここは難しいところである
まず弁護士などの専門職そして何らかの権限を持つ人々が罪を償った人と一般人との仲介役をしばし務めるべきであろう、そして然るべき期間の経過後、罪を償った人は生まれ変わった人として社会に迎えられることになる
だが実際には事はそう単純ではあるまい、最終的には私たち一人一人がその都度その案件に応じて態度を決定していくしかないのであろう
私は信仰の重要性を繰り返し説いているがしかしいずれの組織にも属していない、それは人間は如何なる場合であれ絶対者にはなれないのだという私なりの結論が決定的な影響を私の信仰心に及ぼしているからであるが、どうやらここでその弱点が露呈した形になったようだ、何らかの組織に属していれば罪を贖った者がその組織の一員になることで一歩前進を図ることができる、だが私は「個別的」な信仰を支持しているためこの手段をここで強調することができない、ある意味袋小路である、したがってこの私論の現時点での限界を認めざるを得ない、つまり法的な罪を犯した者の救済に関しては社会的に一定の権威を認知され、また果たすべき役割も期待されている一組織の存在が不可欠となる、そして豊かな教養と見識そして善悪の正確な識別ができる、またその地位にふさわしい学歴、経歴もあるその組織の指導者によって、この問題の解決のための新しい一歩は刻まれるべきである
しかしここまで発言を続けてきた以上私としてもこの章で私なりの何らかの結論を上記した範囲以外の領域において見つけ出さなければならないであろう、そのように考えると一つの認識としてつまり社会を構成する一市民が個々人のレヴェルで選択可能な行動(上記した組織の存在が前提となるが)とはまた別の次元での何らかの結論を導き出すことはできるかもしれない
それは主に道徳的な罪を犯した場合である
法には触れていないがしかし誰かを傷つけてしまった場合などがそれにあたる、もしかしたらその彼、彼女は職場を追われてしまったかもしれない、そしてその後彼、彼女とは音信不通になった
そう、このような場面で使われる言葉は懺悔である
悔い改める
法を犯していないが故に自分自身の内側においてその結論を出すしかない
ここでは以下のように話をまとめたいと思う
私はすでに前書「曇天の日には収穫が多い」で大きな喪失を経験した者こそ「目覚め」を知る者であると書いた、ここでの目覚めとは信仰のことであるがここではそれを度外視してもよい
私は思う、大きな喪失を経験した者こそ再会のための切符の半分を得る者であると
半分とは曖昧な表現であるがしかしその大喪失の経験者が愛する者を失ったが故に得られるものというものが確かにあるのだ、多くを失った者は多くを得る者であると私は考える、そしてそのような者たちだけが辿り着ける境地というものがある、以下のメッセージは信仰を持たない者にも適用されるであろう
きっと必ずまた会える、だから正しく生きるのです
こう言えるのは大喪失を経験した者たちだけだ、そしてそのための新たな一歩を踏み出したとき切符の残り半分が彼らに与えられる、そういう意味では信仰の有無はともかく彼らは真に神に選ばれた存在、彼らは何かを次の世代に残すべき役割を天によって与えられたのだ
ここで一つの普遍的な結論を導き出すことも不可能ではないように思う
今この瞬間より選択されたすべての正しい行為が救済とその後に待ち受けるものの證券となる
その救済の後に待ち受けるものとは?
再生、然るに幸福、愛するものを失ったにもかかわらず明日を信じることができるという奇跡
悔い改めるに話を戻そう
懺悔とは自分が貴重な何かを失ったことを認める行為であり、故に回復を祈る行為である、負の「加える」「加えられる」の違いはあるにせよ、道徳的な意味においては加害者もまた何かを喪失した者なのであろう、それは信用なのか、それとも疚しさ故振り返ることのできないつまり過去の喪失なのか、だが負を「加えた」者は回復を祈り、「加えられた」者は再会を祈る、そしてそこでは善が癒しとなる
神はすべてを救う
だから私たちは幸福を探し求めるのである、救済は認められても幸福は善を追求した者にしか認められない、そして幸福は成功とは必ずしも一致しない場所に実に静かに横たわっている
罪の道義的責任という法を犯すとはまた別の側面にあるもう一つの規律、それは生理的善意の備わっている者ならばいつかは開かなければならない内省的な扉、道義的な責任を一度も感じることのないままに五十代に至る人はいない、罪とは法を別にすれば私たち不完全な人間にとってはおそらく日々贖っていかなければならない食物連鎖の頂点に立つものの責務、果たして人間は罪と無縁に生きることなどできるのであろうか?
罪を犯すとは顧みるということ、顧みるとは確認するということ、確認するとは善悪の判断をするということ、そして善悪の判断とは自らの誤りを認めるということ
したがってこう結論付けることができる
自らの誤りを認めるということは勇気を持って決断するということ
勇気とは何か?
潔いということ、逡巡しないということ
それは人生において何を意味するのか?
矜持を意味する
矜持とは何か?
たとえそれがその時点(瞬間)での常識であったとしてもそこに正義を見ることができないときは孤立の恐怖を感じながらもNoを言うべきであるということを確認すること
さらに言えば矜持とは最終的には実ではなく名をとるということ、矜持は義と不可分である
以下この章の結論である
罪における道義的責任とは?
法とは別の側面を司る規律のことである
そしてそれは個が自らを顧みるというその内省的な精神の動きの中から確認されるべきしばしば勇気を必要とする理性的な判断の中では愛の絡む問題(matter)と並びその最高位に来るものである
なぜならば道義的な罪を犯さない人間はいないからだ
極論すれば生きること自体が誰かをまたは何かを傷つけるということである(人間は不完全であるが故に美しく生きることなどできない)
したがって人知による法とは別にこれは神の法と定義づけることができる、そしてそれ故に、この法は遍く万人に適用されるべきものである
なぜそうなるのか?
これから生まれてくる人々のためのそれが指針となるからである
道徳はそこに普遍の概念を付加することで信仰となるが、信仰とは神=善であるので、罪(悪と完全に一致しているわけではない)を認識することで対象を確認することができる、また対象を確認した場合そこには「行ったり来たり」が生じしたがって言葉が生まれる、そしてその言葉が次の世代へと受け継がれていくのである
残念ながら人知による法を犯した者の救済についてはついに論じきることができなかったが、道徳的な罪については一定の結論に達することができたように思う、人知による法を犯すものは法によって裁かれ道義的な罪を犯したものは自身によって裁かれる、そういう意味では新しい自分に生まれ変わらない限り犯した罪の道義的責任からは最終的には逃れられないのであろう、しかし嘘に端を発する人間の道義的責任にはおそらく終わりはないのであろう、現実は厳しくそれが望ましいことではないとわかっていても人間は様々な意味で嘘とは無縁ではいられないのであるから、だが人間には知恵がありしたがって善を奉じることができれば、かつての嘘が大きく生まれ変わり最後は結果的にせよ誰かを救うことにもつながるかもしれない
あれは嘘だったが私は貴女を守らなければならなかったのだ、と
人知の法、そして神の法、前者は社会の規律(ここは民度でもよい)を後者は個人の徳性を測る物差し
やや楽観的であろうか、だが私はこう思う、信仰による善が担保されれば少なくとも後者はかなりその目的を達成し、その結果より健全なる社会の実現に大きく前進することになる
21世紀には間に合わないであろう、だが未来を生きる人々にはもしかしたら何かが伝わるかもしれない、より良い明日のために「決断と実践」が必要ならばこの章の終わりはこのようであってもよいはずである
リカヴァリー
リカヴァリー
さて前章では「罪における道義的責任または法を犯す罪と道義的な罪」と題して、人知による法とは別に神の法とでも呼ぶべき道義的な責任を問う基準があり、それは刑罰を目的とした法とは一線を画した個人的で内省的な道徳の意識によって判断されるべきものであると定義した、したがって法は裁判で法律家によって裁かれるが、道義的な罪に関しては自分自身で結論を導き出す必要があると書いた
そのためには新しい自分に生まれ変わる必要があり、そこでは決断と実践が求められるであろうと、また道義的な罪を犯さない者はいないのであり、それは嘘をつくことに端を発し故に人生の様々な場面において私たちは試されるのでありしたがって人間の道義的な罪に終わりはないのであろうと書いた
確かに人知による法に関してはついにその結果を見ることなく前章は終わった、刑罰を目的とした法を犯した者が刑期を終え回復を目指すときに必要なのは組織であるが、私は一貫して「個別的」な信仰の必要性を問うておりまた私自身如何なる組織にも属していない、故にこの書を書いている現時点においてはこの部分の結論は残念ながら出ない、人知による法を犯した者の救済についてはかなり長い時間をかけての内省的な議論及び考察といくつかの行動が必要であろう、したがって結果的な虚偽によって書全体の論理的一貫性または一定の精神性の維持が失われることを避けるためにもここではこれ以上の言及を控え、数年後以降にこの案件については先送りするものとする
確かにここまで僭越な論を時に強引に進めておきながらこのようなことを申し上げるのは読者諸君の中にも納得できないと思う者が多くあらわれるであろうことは想像に難くないが、何卒ここは御許し願いたい
とりあえず先へ進ませていただく
この章のテーマはリカヴァリー「回復」である
この言葉は前章、そして前々章でも登場しているが、ここでのリカヴァリーとはもっと単純に一度下降線を辿ったものが直ちにまたはしばしの期間を経たのち再びかつてと同じような状態にまで戻るという意味である
このリカヴァリーという言葉は前書「曇天の日には収穫が多い」ではそれほどでもないのだがこの書では実に重要なキーワードとなる
さて諸君この書の序を思い出していただきたい
このような文言がそこにあったはずである
ハートブレイクの甘受
決断と実践を説いている以上、ハートブレイクの甘受は避けられない現象である、まして私は前章でも神の法を犯す(嘘をつくなど)ことによって生じる道義的責任に対して信仰による善を奉じることでその救済を図りそれがついには幸福にもつながると書いたのだから、尚更ハートブレイクの甘受がどうしても避けられない問題であるということができる
言うまでもなく道義的な責任が明らかに生じているのだとしてもそれはあくまでも神の法を破ったということであるから、人知による法の対象とはならずしたがって社会的には何の罪にも問われないわけだからある意味、「知らぬ、存ぜぬ」で通すことも確かに可能なのである
だがそのように道義的責任から逃げている人は逆に言えばハートブレイクを受け入れたときにそこから回復することができないというある種の反道徳の呪縛に囚われているとも考えられるのである、彼はその方が楽だと勘違いしているのであろうが
また私たちの多くがそれが明らかに善意に基づいた行為であるのに二の足を踏むのは、その善意が蔑ろにされたときに傷つくのは自分自身だけであるということを知っているからだ、そしてそのようなときのショックからのリカヴァリーには結構な時間を要するのである
個における真実はその現象が起き、しばしの滞留の後言葉により一つの認識として理性の中に定着し数度の微調整を繰り返しながらやがて普遍的な価値を持つ理念として自身の精神において確固たる地位を築く、それは彷徨でありまた模索、そして真実は個人的なものであれ孤から逃れようとする限り掴み取ることができない
理想に反するとは「次の人」のことを考えないということだ、もしそのような立場を支持するのであればここでの私の言は彼の心に響かないであろう、だが理想の有無はともかく「次の人」のことを考えるというのであれば私の精神の咆哮はすぐにではないがいつか何かしらの価値を持って貴兄の心に達するかもしれない
決断するとは傷ついても構わないということだ、そして実践するとはかなり高い確率で傷つくということだ、生きること自体がリスクを伴うものであるためこれはきっと数百年後でも変わりがないであろう、意思と意志、想像と創造、いずれも個の確立なしに両者の違いの認識には達することのできないものである、そして決断と実践が意味するその現象の反作用に対するリカヴァリーの手段の会得なしには善への思いは継続するまたはさせることができない
何もしなければ何も生まれない、だが善意とはしばしば裏切られるものだ、なぜならば人は疑うことによって自己防御を図る一方でまた疑うことで自身の性質の安定を図っているからだ
どうやらここで重要なキーワードが出てきたようだ
安定
安定とは何か?
リスクの逆
ではリスクとは何か?
それはしばしば善意、または理想のことである
ではもう一度問う、安定とは何か?
今日と同じ明日のことである
今日と同じ明日とは何か?
「次の人」不在ということである
なぜそう言えるのか?
更新し続けなければ社会は衰退していくからだ、だから常に模索が必要なのである、どのようなものであれ人間の共同体において完璧はなくたとえ死がなくとも老いがある以上、私たちは新しい価値の創造から逃れることはできない、さらに言えば伝統とはその都度工夫を図り生き残りに成功したもののあくまでも現時点での姿である、時代の波に乗り切れず消えていったものも少なくはあるまい、したがって決断と実践の反意語は安定(時に逃避?)ということもできるであろう
だがここで重要なのは今の安定を過度に求めればそれは次の不安定につながる可能性があるということだ、言うまでもなく私たちは皆誰かの後継者であるが故に次の世代に対する責任を必然的に背負っているということになる、平和も繁栄もまたその逆の多くの負も前の世代の人々の幾千の悲しみと喜びのうち、にもかかわらず消え残ったものの姿である
子や孫の幸福を願うことは必然であろうか?
この答えがYesかNoかでこの章の結論は大きく異なることになる
人々が金銭的に見て切羽詰まっている場合、例えば増税は先送りされ後継者がいわゆるツケを払わされることになる、しかし子や孫の借金が増えることを考慮したうえでも現実の生活が優先されなければならないという場面はある、事実、現実が最優先されなければ結婚すらできない(長続きしない)のである、したがって簡単にYesを選択することはできない
回復は心の回復のみならず経済の回復の意味をも孕んでいる、職を失った者または多重債務に苦しむ者が他人にやさしくできるとは想像しにくいからだ、「食っていくのがやっと」という状況が指し示すものは実は現状維持であって向上ではない、これ以上堕ちたくないという思いが財布の紐が緩むのを戒めまた疑いの心を相対的に強めるのである
そしてリカヴァリーである
この章では経済のリカヴァリーを論じることはできない、私の責任においてそれをここで語ることはできない、ただ道徳および信仰の産物でもある決断と実践の必然的結果であるハートブレイクの甘受についてはこれまでの私論とその方向性を一にしているのでこの章のリカヴァリーの対象になるということができるであろう
おそらくリカヴァリーを会得できるのであればまたはハートブレイクの甘受に何ら抵抗がないのであれば間違いなく私たちは子々孫々のための選択を躊躇することなく行うことができる、ここでは経済のリカヴァリーは横においておくことになっていることをもう一度確認したうえで次へ進みたい
私はすでにこう書いた
理想のための分析は尊い、しかし理想のための決断と実践はさらに尊い、と
リカヴァリーの認識はそのための第一歩となるものである、誰でもしばしば恣意的に発言しまた行動する、そして人が動けばいかなる状況であれ負が生まれる、人間は簡単に疑いまた怒りまたそれを何らかの行動に結びつける、また時に自分が傷つかないためにはその対象の結末を想像することさえしない、気持ちの安定を図ることが精神的な意味での自己防御と同一化し結果的に善意というものを余りにも遠ざけてしまっている、だが人間の共同体というものはそういうものであり外出すること自体リスクを背負うということである、これは極論ではない、街は時に人を癒すがそれ以上にしばしば人を傷つける、スマートフォンはそのような時の安易な気持ちのシェルターだが、それは傷つきやすい若者たちの現状を象徴している一方で精神的な意味での逃げ場がないというのっぴきならない状況をも暗に示しているのであろう、そこでは幸福の追求が犠牲になり偽物のプライドがその主体の大半を占めている、過剰に孤立を恐れる不安が理想に目覚めるにはまだ若すぎるために偽物のプライドの言いなりになっている未成熟な理性を大幅に侵食している、そこにあるのはつまり負の連鎖である
負の連鎖、この言葉を幸福の追求の対極に据えることもできるであろう、だが恐ろしいのはこの負の連鎖が最終的には善の放棄さえもやむを得ないものとして社会的に認知されてしまうことだ、それを挽回するのはおそらくリカヴァリーの手段の会得しかないのであろうが、だがこれは万人共通のものではなくおおよそ個別に判断し実践されるべきものである、リカヴァリーに絶対の方程式はない
だがそれでは話が終わってしまうのでもう少し考察を進めよう
この章の最後はこの言葉で始まらざるを得ない
矜持
矜持とは本物のプライドのことだ、前書「曇天の日には収穫が多い」で述べた正のプライドとも基軸を一にするがここでは信仰を度外視しても論理的には成立するであろう、これは信仰のレヴェルではなく生理的善意のレヴェルの論であって故に信仰に達することができていない者でも容易に理解可能な論であろう
それは以下のような説明によっても理解できるであろう
他人に嫌がられることをしないのではなく他人に好まれることをするのです
これは道徳の一丁目一番地といってもよいような言である、ここに宗教や信仰を見出す人はあまりいないのではあるまいか
にもかかわらず微笑む、これも似たような表現であろう
ある意味私たちは曲がり角に来ているのであろう、20世紀の前半に私たちが陥った二度の世界大戦は実はその後も大きく改善されることなく現在に至っている、そして2001年9月のニューヨーク・ワシントンの同時多発テロは私たちの眼を覚まさせるには十分すぎるものであった
すべてはいつか瓦解する、セプテンバーイレヴンを私たちが忘れることができないのは、そこに私たちが私たち人間の意思と意志、想像力と創造力を善意に基づいて注ぎ込みそして築き上げた文明や繁栄とでも呼ぶべきものの一方の末路のようなものを象徴的にしかし明確に目撃したからだ
平和も民主主義もいずれも砂上の楼閣であり民主派の勝利は常に薄氷の勝利であるということ、そしてもしそれ(つまり現時点で是と判断されているもの)を望まないのであれば、私たちは正と判断されるものは遍く最終的には瓦解していくものだということを前提の上でそれについて論じ対処していく必要があるということを直ちに理解しなければならないのであろう
なぜ弱者を相手に攻撃的な態度をとらなければならないのだろうか?
いついかなる瞬間に崩壊してもおかしくないものを目にしたとき人はどう思うのだろうか?
これは生理的善意のレヴェルの話である
人はそのようなものを目にしたときやはりまずそれを擁護しようと考えるのではないだろうか、どうすればその崩壊を食い止めることができるのであろうかと考えるのではなかろうか、たとえ彼がテロリストであることが明白な場合でも彼が銃弾を受け血の海に横たわっている時、躊躇なく彼を放置できる人がそんなに多くいるであろうか?
テロリストの銃創を手当てする、これは善意ではなく矜持のなせる業である、事実彼を放置しても彼がテロリストであることが明白な場合おそらくそれは非難の対象とはならないであろう
罪人を許しまたその情状を酌量する
言うまでもなく罪とは悪である(完全一致ではない)、したがって罪人を愛する義務は私たちにはない、これは絶対である、だが罪人を最終的に裁く権利もまた私たちにはないのである、私たちは皆神の子であるとここで論じるつもりはない、だが人が人を裁く権威を身に着けるのは容易なことではないとは言い切れるであろう、なぜならば人間とは不完全であり真に権威と呼べるのは唯一の絶対者である神だけだからだ
さてリカヴァリーに話を戻そう
この章で私が言いたいことは何か?
善は私たちの周囲を分析することだけではその目的を達成することはできない、そこに決断と実践が伴って初めてそれは現実のものとなる、だがそこには時に深刻なリスクが横たわっているので、リカヴァリーの手段の会得をまず優先させその後決断と実践に移るのが理想的であろう、そうでなければ「したりしなかったり」ということになり「より良い」の実現のために最も重要な「継続」が失われてしまうことになる、また何もしないよりはましとはいえ「したりしなかったり」では説得力に乏しい、ではリカヴァリーの手段の会得のために最も重要な概念は何か?
それは矜持、本物のプライドである
個別の方法については個々人で判断していくより他ないのであるが、矜持が決断と実践の重要なキーワードであることに変わりはないであろう
その辺りの所は次の章で述べよう
矜持、本物のプライド
矜持、本物のプライド(必ずしも信仰を必要としない)
さて前章では「リカヴァリー」と題してこの書の少なくとも前半において最も重要な言葉のひとつともいえる言葉について論じた
善は分析だけではそれがどのように深くまた緻密なものでも十分ではなく、そこに決断と実践が伴わなければそれは真の善とは言えない、しかし善意とはしばしば裏切られるものである、なぜならば人の知恵は人間が不完全であるが故に疑うことを多くの場合優先しており、したがって精神的な意味での自己防御と心の安定のためにたとえ善意が自分に向けられていたとしてもそれをそのままに受け取ることを多くの人はしないからであるというようなことを書いた
したがって善を体現させるにはリカヴァリーの手段をまず会得しそれから善の決断と実践に移るべきであろうと書いた
そして最終的にはそのリカヴァリーを会得するには矜持、つまり本物のプライドを得る必要があると書いた
さて諸君前書「曇天の日には収穫が多い」でのあとがきをここで少し思い出していただきたい、私はこう書いた
ある辛い現実に直面したとき貴兄ならどう考えるのかということである
そんなことをやるくらいなら死んだ方がましだ、なのか
それとも食っていくためには仕方がないからそれをする、なのか?
前者はそれを拒否すれば食うに困るような事態になることが想像される、最悪の場合ホームレスのようになるかもしれない、だがたとえそうだとしても人間としてやってはいけないことをやるわけにはいかない、これは信仰に基づく考え方でもあるがそれ以前に生理的善意に基づく考え方である、また場合によっては「これは人間としての尊厳を問われているのだ」と解釈することも可能な状況をも孕んでいるのかもしれない、そういう意味では神を信じないという方にも理解されうる考えである
出世願望とは時に裏切りをも許容するのであろうか?友情に篤い者がNo.1になれるほど資本主義社会は甘くないように思えるが、しかし同時に「人生は一度しかないのだから立身出世こそ私の生きがい」という意見を蔑ろにすることもできないのであろう
私はすでに個人の人生においては螺旋階段説をとらないことを繰り返し明言している、つまり人生は同じことの繰り返しのようでいて実は螺旋階段のように少しずつ上へあがっているのだ、という考え方を否定しているのである、なぜならばこの考え方には致命的な欠陥があるからだ、この人生=螺旋階段説には幸福の天敵ともいえるある言葉が隠れ潜んでいる
その言葉とは、
比較
比較こそ幸福の天敵、もし人生=螺旋階段説をとるのであれば一番上まで行ける人を除いて皆比較の犠牲者になるであろう、幸福とは高さではなく広さである、私は思う、人生とは渦巻き状に進化していくものであるからゴールとは一番上にあるのではなく真ん中にある、と
したがって一周するたびにほぼ同じところを通過するのである、この時に人生のチェックをする必要があり、故に若い時には夢が必要なのだ、もし夢がなければ一周して再びほぼ同じ場所を通過するときにかつての自分を確認する手段がないということになってしまうのである
だが人生=螺旋階段説では上下で人生を判断することになるので再びほぼ同じ場所を通過するということがない(自ら降りてくる場合は別)、したがってかつての自分を顧みる機会というものが失われてしまうのである
「俺は上しか見ない(過去を振り返らない)」と言えば確かにかっこいいが、しかし人間が生きる上で原点回帰のようなことはやはり必要なのである、もちろん人生は短い、また突然死が訪れても何ら不思議ではなくまた異を唱えることもできない(そういう人はたくさんいるから)のだから、過去を振り返ることは時間の無駄であるという考えにも一定の説得力はあると思う、だが天賦の才に恵まれ、また人にも恵まれたような人を除いては人生を上下で判断すべきではないと私は考える、出世とは=一所懸命であろう、だがそれが行き過ぎると蓄えは増えるが人間として成長するのに必要な例えば旅をする機会などは減るであろう、それではその人はよいかもしれないがその後継者は苦労するかもしれない、言うまでもなく社会とはあらゆる意味で変遷していくものだから前任者のノウハウのすべてがそのままその後継者にも当てはまるわけではない、そのような時に必要となるのが原点回帰である、手法は変化して当然だが哲学が後退することはやはり許されないのである、組織とは如何なるものであれ社会に対する善的な貢献をその目的としている、したがっておおよそ組織を立ち上げたときには創業者は理想を掲げるものであり創業時の理念というものは重要なものである(創業時の理念に問題があることが明白な場合その組織は長続きしないであろう)からそれをその時々の判断でたとえ恣意的にではないにせよそう簡単に捨象することはできないのである、さらに言えば過度な利益第一主義は長期的には人々(消費者だけではない)に受け入れられないのではなかろうか?
では原点回帰とは何か?
つまり自分は何が好きで何をやりたくてここに至ったのかに思いを馳せるということである、そういう意味ではあまり数えられるものの価値に重きを置くべきではないのかもしれない、数えられるものの価値と数えられないものの価値は拮抗して然るべきである、だが人生=螺旋階段説ではうまくいけばいくほどその辺りが見えにくくなるのではなかろうか?
さて話を戻そう
ここで一つのたとえ話をすることは有効であるかもしれない
ここにAとB二人の人物がいる
Aは厚い氷の上に立っている、Bは薄い氷の上に立っている、そして氷の下は海である
さて貴兄ならこの二人に対してどのような思いになるであろうか?
おおよそ多くの人々はAに対しては何ら特別な思いに駆られることはないであろう、だがBに対しては90%以上の人が彼は大丈夫だろうか、氷が割れて彼は海に落ち込むのではないかと思い、また心配もするであろう、何らかの行動を起こすかはともかくBに対してはしばらく動きを止めてじっと彼を見やるのではなかろうか?しかしAに対してはそのようなことはしない
これは生理的善意の話である、信仰は関係ない
その氷の薄さにもよるが、もし氷がかなり薄い場合、またすでに少しヒビが氷に入っている場合、誰かがBにそこは危ないから非難しなさいと呼びかけるであろう、警察官などでなくともそうするであろう
そのように私たちにはそこに比較が成立する場合より弱い方、またはより危機に瀕している方に気持ちの上で味方するという性質がかなり高い確率で生まれつき備わっている、したがって善意そのものに対してもそれをまったく理解できないということはこれまたかなり高い確率でない、前を歩いている人のバッグからリンゴが一つ零れ落ちたら当然拾うしまたチップを要求することもない、なぜならば他人に親切にするとは人間として当然の行為だからだ
ではこの考えから矜持、本物のプライドにアプローチするとどのようになるのか以下考えてみたい
結論を先に言えば矜持、本物のプライドとは生理的善意に基づく人間の初歩的な精神の動きを確認したうえでのその積極的援用であるといえるであろう
これは誰にでも備わっているといってもよい感覚であるのでここに善意の分析の後に訪れるべき決断と実践の底辺を据えることは可能である、そしてこうも言うことができるであろう
人間は不完全であるから自分に対してなされる善意に基づいた行為をにもかかわらず疑うことは仕方がないが、彼がハートブレイクの甘受を覚悟の上行うことになる決断と実践はそれの継続が見られる限り長期的には程度の差こそあれ実を結ぶことはあってもその逆はないであろうと
つまりこういうことである、矜持とは如何なる場面においても強者に味方することはあり得ず、弱者はもちろん不安定な生活を余儀なくされている人々の側に、それでも尚立つということを意味する
実はここでは二つのキーワードが登場しなければならない
一つは「裏切り」であり、もう一つは「繰り返し」である
まず「裏切り」から始めなければならない
ここでイスカリオテのユダの話をすることは簡単だが、しかし善意とはいうものはそれほどまでに裏切られやすいものである、私たちが善意というものの重要性を生理的善意に基づいて十分すぎるほど認知しているにもかかわらずその決断と実践において常に躊躇するのはイエス・キリストでさえ免れ得なかった現実に横たわる不可避の悲劇の一側面を経験や知識によってよく理解しているからである
十人の人に三日前親切にした、そして皆から感謝された
五十人の人に一昨日親切にした、そして皆から感謝された
百人の人に昨日親切にした、そして皆から感謝された
千人の人に今日親切にした、九百九十九人からは感謝されたが、しかし一人だけ私に背を向けまた私の行為を私に敵対する者にやや誇張したうえで告げた
ここでは0.1%だが実際にはもっと多いであろう、私たちの不完全な理性は知性の負の側面をしばしば抑制することができない、最後に私をそれでも尚裏切る人が現れるのであれば十分に善意に基づく行為をした後であるのでそれほど問題はないが、最初にそれでも尚裏切る人が現れた場合はやはり悲劇的である、そしてその可能性をゼロにすることはほぼ永遠に無理であろう
いったい誰がそれでも尚私を裏切るのか?
それを外見などで判断することは相当困難であろう、なぜならば私もまたその裏切りを働くものと同様不完全な人間だからだ
不完全な人間と不完全な人間とが果たしてほんとうに共有できるかどうかわからない善意を巡って互いに牽制し合っている、そしてついに互いに一歩を踏み出せないままただ徒に時が経過していく
確かに私たちが大切にしているものや人が厚い氷の上に立っているのであればそれでよいのであるが、果たして私たちが心の拠り所にしているものは厚い氷の上にあるのであろうか、それとも薄い氷の上にあるのであろうか?
なぜ裏切りに私はこだわるのか?
それは善意の隣にあるものが裏切りであるからだ、私は前書「曇天の日には収穫が多い」でビートルズを例に出して、「犠牲」と「訣別」について論じた、彼らの成功はピート・ベストをビートルズのメンバーから外すこと(彼らがその決断をしたわけではないようだが)から始まり、ジョンとポールの訣別によって幕を閉じた
だがそれは彼らが真に何が好きで何をやりたいかがわかっていたからでありまた彼らに悪意はなかった、若者としての純粋な気持ちが彼らをスターダムにのし上げしかし一方で彼らから普通の生活を奪っていった、彼らの成功がもっと普通のものであったなら彼らは歴史にその名を残さない代わりにもっと平凡な幸福を手にできたであろう、彼らは確かに旧いものの破壊者であったが同時にそれ以上のものを創造した、より強く平和や理想的な社会を望みそれを歌に託すことは効果的だがその思いが強ければ強いほどそれに反発する人々の反動的な思いというものもまた強くする、どのような時代であれ変化を唱える人が絶えないのと同様に現状維持を望む人もまた絶えないのである、そして反動的な人が最終的に選択するものが裏切りでありまた告発である、イスカリオテのユダにも言い分はあったのであろう、新約聖書に書かれていることだけが真実というわけではないのかもしれない、だが裏切りの確率が12分の1というのはおそらくまったく不思議なことではない、さらに言えばイスカリオテのユダが裏切らなくても13人目かまたは14人目が反旗を翻したかもしれない、これは歴史上の事実というよりもいまそこにあるしかしまだ表面化していない事実といってもよいであろう、ビートルズの場合、ピート・ベストはむしろ裏切られた側だが、両者を分かつ何かというものは常に現実に存在しており、それがいつ表面化しても何ら不思議ではない、昨日までは親友だったが今日はもう他人でしかない、それはきっと善を志向したときにこそその確率が高まる(悪に傾いた場合友人はむしろ増える)
Love and Peace、ジョン・レノンだけではない、かつては多くの若者が口にしたこの言葉をここで引用するのは私の言いたいことを伝えるうえで実に効果的だ、loveもpeaceも実にリスキーな言葉だ、その真意が伝わればきっと多くの人が救われるのににもかかわらず場合によっては身の危険を覚悟しなければならない
ここで「皆と同じ」を選択していればそんなことにはならなかったのに……
果たして普遍的な価値の共有を唱える者の受難が絶えた時代などあったのであろうか?
常に誰かが裏切り者のために犠牲者になっている
イスカリオテのユダはこう言ったのかもしれない
私が理由もなく主を裏切ったと思いますか?だが私に弁明の機会は与えられなかったのです、と
きっとこういうことだ
善意は錯綜する故に誤解や曲解を生む
イエス・キリストにもっと多くの時間が与えられていたならば史実は変わっていたはずだ、そういう意味では逃亡や護衛をつけるという方法も善を奉じる者であればこそ時に必要なのかもしれない、だがそれでは彼の発する言葉の説得力にいくらかの違いが生まれるのかもしれないが
悪法もまた法なり
イスカリオテのユダがイエス・キリストの手に接吻したときイエス・キリストは危機が迫っていることを知りながらしかし逃げようとはしなかった(ペテロは三回イエス・キリストを知らないと言った)、これは預言者の言が成就したことを意味するが同時にイエス・キリストに確信があったことも意味している
矜持ある者は確信する者でもある、そういう意味では確信する者は富にあまり執着しないのかもしれない
「カエサルの物はカエサルに」
やはり真実に近ければ近いほどロールスロイスやビバリーヒルズからは遠のくということなのか?
私はすでに神の使者は痩せた旅人のようだと書いた、彼はバックストリートを歩みまた彼の手は汚れていると、そう、神の使者にはSPは似合わない
ならば受難は避けられないということなのか?
いったい何度同じことが繰り返されれば私たちは悟るのか?
どうやら再びこの言が登場する
そんなことをするくらいなら死ぬ方がまし、なのか
それとも生きていくためにはこれもまたやむなし、なのか?
この章は少し長くなりそうだ
人生は渦巻き状に進行する、故に一周ごとの確認の作業が必要だ、もし軌道を大きく逸れても確認ができれば修正ができる、しかしそのとき基準となるものは善でありつまり結局は矜持、本物のプライドである
矜持故それはできない、善を知る者は抑制を知る者であり同時に試みることを知る者
「しない」とは愛のなせる業
「する」とはヒューマニズムのなせる業
愛するが故に絶対に傷つけない、ヒューマニズム故に傷つくことを恐れない
だが「傷つける」の最上級が「裏切る」である、裏切るとは真実に背を向けること、だが彼が真実を述べていたと誰が断言できるのであろう?
彼が述べていたことは真実ではない、だから彼を告発したのです、彼は偽りの言葉を弄し民衆を扇動していた
しかし実際には偽りの言葉を弄する者はしばしば告発されず、またそのような者に相応しく然るべき権力を手にする
どうやらまた民主主義が出てくることになりそうだ
民主主義こそ薄氷の上の存在
だがその氷を砕くものは神ではない、人である
扇動者とは民主主義を裏切る者のことだ、だが民主主義のルールは彼の被選挙権を認めている、そして扇動者こそ真実を知る者を告発する者、イエス・キリストを磔刑に処したのはピラトではない、では誰なのか?
「裏切り」についてはこの辺りで留めることにしよう
善とは裏切られることを承知で施すもの、いや、裏切られることのない善意など存在しないであろう、ただ最後に一つだけ確認しておこう
富は善に反する
したがって「拡大」には要注意である
では次のキーワード「繰り返し」へと進もう
イエス・キリストは弟子イスカリオテのユダ(ユダという名前の弟子が二人いた)の裏切りによって彼に敵対する者の手に引き渡されその結果磔刑に処された
イエス・キリストの弟子は12人である、つまり12分の1の確率で裏切りが生じたということになる、ではどうすれば「裏切り」は「理解」へと変化するのであろう?
12分の1とはかなり高い確率なので、こんなに高い確率で裏切りが生じるならば善意など身につけない方が良いと考える人も多くあらわれるであろう、善意の動詞は「施す」である、これだけでも善意というものの対象が自分自身ではないということの確認ができる、事実「施す」には「めぐみあたえる」という意味もある
善意の右には裏切りが座っている、そして左には「絶対に信じないぞ」が座っている、ここで確認しておかなければならないのはいずれも厳しい現実がその主体である人物に与えた負の性質であり必ずしも生まれつき備わっている性質とは言い切れないということである、ウォルト・ディズニーもディズニーランドを作ったもののひとつが厳しい現実であると述べている、つまり夢や希望といった楽しい側面ばかりでこの世が満たされているならば夢の国は生まれないということなのであろう、正と負は拮抗して然るべきものでありしかし最終的には正が勝つ、だから私たちには「信じる」ということが必要なのである、また一定の負による苦しみが人類を見舞わなければ私たちは正の価値に気付くことさえないのかもしれない
では正の価値とは何か?
そしてその筆頭に来るものは何か?
それはおそらくこの惑星の歴史上一度も狂ったことのない太陽の軌道であろう
必ずその時刻になれば太陽はその地域の東の地平線から姿を現す、それは毎日である、1分さえ狂ったことはない、毎日、毎日、そう、繰り返し、繰り返しである
地球上のどこか一点だけでもいい、この法則が通用しない場所があるならば間違いなくこの私の私論のすべては崩れ去る、だが今日もまた太陽は私たちを裏切ることはなかった
裏切りの逆、それが人類を救ってきたもののその筆頭に来るべきものである
それはまず太陽であろう、太陽にはまず気紛れがない、また太陽には迷いがない、そして太陽には悪意がない
太陽は常に救世主であり、善であり、また神の忠実な僕である
したがって太陽は守る
何を守るのか?
神によって施された秩序を
秩序とは?
規則正しいということ
規則正しいとは?
そこに誤りや無駄がないということ
誤りや無駄とは?
そこに負が生じているということ
負とは?
正でないということ
では正とは?
繰り返すということ
何が繰り返されているの?
それが善である
矜持とは善という大地からのみ芽生え育つ樹木
「規則正しい」、「永遠と思えるほどのそれの繰り返し」、そして「プライド」
プライドを持って規則正しくそれを繰り返す
何のために?
リカヴァリーの手段を会得するために
なぜそれが必要なの?
究極的には神の理想とする世界を実現するためにだが、ここでは信仰は関係ないので「次の人のために」ということになる
なぜ次の人にためにそうしなければならないの?
私たちもかつては皆次の人だったから
このように考えてくるとなぜ戦争がいけないのかも理解できるような気がする、戦争は「次の人のために」を無にしてしまう、なぜならば領土を得た者の次の人は怨恨、復讐の対象となりまた領土を失った者の次の人は蔑み、嘲笑の対象となるからだ、自分がしたことではないのに負の対象となる、これを人は不条理と呼ぶのであろう、ただでさえこの世は不条理なものなのに戦争はそれを十倍にも百倍にもする、戦争に勝ったのに父親に感謝できない、その通りであろう、戦争に勝った者こそ苦杯をなめるのであるから
だがここで私たちはもう一つ確認しておかなければならない
戦争もまた人類史の中でのみであるが繰り返されてきたということをである
そしてもう一つ、戦争には裏切りが付き物であるということ、果たして裏切りの発生しなかった戦いなど一度でもあったのであろうか?
戦争には「裏切り」と「繰り返し」の両方を見て取ることができる、このことは人間の不完全性を証明するとともに、同時に善のみが「繰り返し」の対象ではないということを示している
憎しみの連鎖
これは争いの根本原因の筆頭に来るものであろう
父親の憎しみを息子が母親の憎しみを娘が継承し、何らかの方法で復讐を果たす、または果たそうとする、そして時に社会がその後押しをする
なぜ正ではなく負が繰り返しの対象となるのか?
それはリカヴァリーの手段を誰も会得していないからだ、善の対象は無差別だが矜持がテロリストの銃創の手当てを試みようとするとき、彼に反撃能力がないことが明白であってもテロリストの裏切りを容易に予見できる私たちはリカヴァリーの手段の会得なしにはここで放置すれば彼は死ぬことが99%明らかな場合でも高い理想に適う行為をすることはできない
つまり負の連鎖を断ち切るためにリカヴァリーの手段の会得つまり矜持の会得は必要不可欠であるが、これに同意できるものはこの21世紀、性別国籍を問わずかなり少ないであろうということである
私たちは繰り返さなければならない、太陽のように
規則正しく、そしてプライドに則った行為を
なるほど太陽とは矜持の象徴か?
そして戦争とは怯懦の象徴か?
太陽の反意語とは戦争である
人間にとってはいずれも繰り返しの対象であるにもかかわらずこの二つは何と対照的な性質を備えていることであろう、そして太陽は「循環」を、戦争は「拡大」をその役割として担っている、これは極論であろう、だが拡大を目論む者はきっと戦争をも好むのである
最後にもう一つだけ述べさせていただきたい
善とは何か、それは分析に始まりその後の決断と実践により成就する、しかし私たちはリカヴァリーの手段の会得なしには常にそこに「裏切り」の可能性があるために継続的に「繰り返し」を実践することができない(したりしなかったりになる)、したがって私たちは矜持、本物のプライドとは何かを知ることで今は踏み出せない勇気ある一歩をいつか踏み出せるようになるのかも知れない、そういう意味では矜持の象徴ともいえる太陽から何かを学ぶことはできるかもしれない、そして最終的に矜持、本物のプライドはある言葉を遠ざけることに成功する
それは衝撃
善は分析、そして決断と実践、最後は矜持ある試みの繰り返し
だがそこに衝撃は不必要だ、善の分析にスポットライトは必要ない、だが決断と実践にもそれは必要ない、したがって矜持、本物のプライドとはまるで凪のように個の主体を満たしていく、渇きにより亡くなった人はいても太陽により焼き殺された人はいない、太陽が現れる時鳴り物はなく没する時もまたそうである
なぜ善を奉じる個々の主体が分析の後行動に移る時に晴れやかな舞台が用意されなければならないのか?
矜持、本物のプライドは太陽をその守護神とし凪の中を一切の衝撃を伴わずに進む、したがってこの章の結論は以下のようになる
真のヒューマンは群衆のなかに存する無名の一市民である
栄誉に浴することもなくまたほぼ日常を脱することもない、だが彼女は時にごみ集積所の網のほつれを誰に言われたわけでもないのに直し、またしばしば地蔵に手を合わせる、そして常に天地に対する祈りを忘れない
平凡は退屈な言葉として認識されているのであろうか、だが矜持ある平凡は決して退屈ではない、それどころか非凡である、だが光に目を奪われやすくまた人生は短いがためにそのことに人が気付くことはほぼない、そして矜持ある者はそれを前提のうえで正しき行為に臨むのである
正とは地味である
正とは静寂である
正とはしばしば沈黙である
そして正とは人知れず生き人知れず亡くなる、である
ここでいう正とは善のことであると置き換えてもよいであろう
そういう意味では歴史に名を残した者は非凡ではあったが真に神により選ばれたる者ではなかったのかもしれない
彼らが残したもののすべては言ってみれば不条理なこの世を少しでもましなものにするための潤滑油のようなもの、つまり彼らは花ではあったが土ではなかった、ほんとうは私たちは光に感謝する前に大地そのものに感謝しなければならないのだが、人間が言う神とは大日如来や天照大御神のように光を司るものが多いようだ、やはり神はこの世の真実を幸福のさなかにある人々には決して見えない所にひっそりと隠したということなのか?
次の章ではこの章に関連したある言葉について述べる
帰郷
帰郷
さて前章では矜持、本物のプライドと題して、前々章の続きを述べた
善とはその分析に始まり、その後の決断と実践によって成就する、しかし善の決断と実践は現実には実に難しくそれを継続することは尚難しい、なぜならば私たち人間は不完全であるが故に不完全な理性は知性の怯懦故の警告を常に拡大解釈して精神の安定のためにその結末などお構いなしに猜疑心による自己防御という名の盾と矛を時にまるで普遍的な権利であるかのように、そして戦場における武勇名高い武士の如く振り回すからである
無論これは社会的には望ましい行為ではなくまた神の理想にも反している、また「世知辛い」とはこのような行為が多数現れたときのその延長線上に見え隠れする言葉でありまた「それでも尚信じない」人々は最終的には裏切りや告発に参加する人々の側に立つ人々のことであり、そういう人々はひどく地味だがしかし善意に基づいた行動を誰に言われたわけでもないのにその精神的基盤にしているような人々の理念が凪のようにしかし確実に宣布していくこと明らかに妨げているのである
そしてその(善を実践する人々の)精神的基盤にある大黒柱こそが矜持である
そして真の矜持は「それでも尚信じない」人々、裏切りの中に美徳さえ見出しているような人々を遥か彼方に見据えながらしかし決して動じることなく衝撃とは無縁の大地または海原をたった一人で進んでいく勇気をその持ち主に与える
凪故に彼は同じ動作を繰り返さなければ前に進むことはできない、毎日同じ時間に同じ動作が繰り返される、だがそれは蓄えのためではない、それは彼が信じる何かのため、または目指す目標のため
それは「拡大」ではなく「循環」
「循環」とは?
その良き例を私たちは太陽に見ることができる
太陽こそ循環している最良のものではあるまいか?
そしておそらく循環を知ることで人は善とは何かを知る、なぜならば善とはそれの繰り返しに他ならないからだ、したがってしたりしなかったりではなく継続が実に重要な意味を持つ言葉となる
では継続とは?
実践のことである
だがそのためにはリカヴァリーの手段の会得が必要になってくるというわけだ、そうでなければハートブレイクの甘受に耐え切れずにしたりしなかったりになってしまう、ではどうすればリカヴァリーの手段を会得できるの?
これは最終的には自分自身で見つけるしかないがそれでは話が終わってしまうのでここで一つのキーワードとして矜持が出てくるのである
おおよそ前章ではこのようなことを書いた
さて前章で書いたことの核心には何があったのであろうか?
いくつかキーワードを並べてみよう
静寂、沈黙、凪、地味、大地、献身、普通であるということ、そして祈り
おそらくここにこの言葉が連なったとしても何ら不思議ではあるまい
帰郷
だがこれは地理的な条件だけを意味しているのではない
そこには無論心のふるさとも含まれるのである
どんなに科学技術が進歩しようともつまり母親の胎内から子が産まれるのではないようになったとしても、要するに人工子宮から子が産まれるような未来になったとしても彼が生まれたその場所が出生地ということになる、つまり出生地のない子はいないということになる
もちろん生まれた場所と育った場所が違うということは十分考えられるがそれでも彼にとって故郷がないということはあり得ないであろう(原子力発電所の事故などで帰郷できないということはある)、帰郷とは帰るということ、そしてふつう「行くべき」場所は複数あるが「帰るべき」場所というのは一か所なのだ、もちろんボヘミアンのように定住地を持たないという人々もいるのではあるが、彼らとて出生地を持たないというわけではあるまい、ただ彼らの場合は場所ではなく家族が帰るべき場所ということになるのかもしれない、また政治的な理由で難民となった人々などは帰郷が難しいので国際的な援助が必要ということになる
さてここで私が言いたいことは誰にでも心の拠り所となるようなひとつの抽象的なまたは具体的な言葉または偶像のようなものが必要であり、またそれなしには健全なる特に精神面での成長が期待できないということである
神は二人いる、そう私は思っている、だが心のふるさとはひとつである、そしてそれを見つけるために旅がある、また読書がある、ここでまた「人はパンのみにて生きるにあらず」が出てくるのであるが、多くの場合教養と呼ばれる理性と知性の望ましい結合は「善を知る者が行う負の肯定」ではない「負(悪を含む)しか知らない者が行う負の肯定」を遠ざけることに成功する、35歳を過ぎて尚感情の赴くままに生きている人や本能が指し示すものを自分に都合のいいように解釈しているような人は正直稚拙な人である、そしてそのような人々が増えすぎるとこの世はその数に応じて頽廃的になる、果たしてこの2016~17年、この世はどのような方向に向かっているのであろうか?
心のふるさとを別の言葉で言い換えると何になるのであろうか?
実はこれがユニヴァース(universe)である
ユニヴァースというとどうしても宇宙に視線がいってしまうが、もちろんそれは間違いではないにせよしかし二神論を唱える私にとってユニヴァースとは宇宙の普遍と同時に心のふるさとを意味するのである
この地球上に存在する知的生命体は私たちホモサピエンスのみである、だからこのような考えにもなるのであろうが、私たちには実は共有可能なひとつの絶対的普遍的な心のふるさととでも呼べるような何か郷愁を誘うようなものがありもしそれを本当に共有できるようになればきっと世界はより良い循環を繰り返すようになると思うのであるが、正直な話、現実はそれとは逆の方に一直線に進んでおり、どうやらその実現は現時点では相当難しいように思える
だがパラリンピックのように正の循環を強く漂わせている世界的行事も定期的に行われているのでまったく絶望的というわけではない、前書「曇天の日には収穫が多い」では最後にグレートターンについて述べ、いつか私たちは回帰していくのでありそこに何らかの希望を見出すことができるであろうと書いたが、早ければ今世紀中にも世界の一部においてではあるがその萌芽のようなものを見ることができるかもしれない
「より速く」、「より多く」から「より慎重に」、「より寛大に」への認識の移行、
やや大袈裟に言えば地球の鼓動との整合性を図る、地球は儚いものであるからこちらがそれに合わせてあげる必要があるのだ、だが多くの人は、地球は少々のことではびくともしないと思っている、だがそれは誤りなのである
そう言えばディズニーランドにスモールワールド(It’s a small world)というアトラクションがある、かなり地味なアトラクションだが、もしこのスモールワールドが地球をあらわしているのだとすればウォルト・ディズニーは実に正しかったということになる、彼は夢とは何であるかを知り、また地球とはどのようなものであるかも知っていたことになる、個人的にはディズニーランドは「循環」とは結び付かないような印象があるが、ウォルト・ディズニーの理想の中に何か未来につながるものを見つけることは可能なのかもしれない
さてグレートターンとは言うまでもなく帰郷のことである、それは心のふるさとに帰ることも同時に意味している、私たちは日頃、自分は日本人だとかアメリカ人だとかフランス人だとか言っているが、この地球自体がスモールワールドなのだからそれほど理性的に考えなくとも国籍や肌の色で人を分けるのは決して良いことではないということが理解されるであろう、だが目を閉じて「私の心のふるさとって何だろう?」としばらく思いを巡らせてみることは「次」を考える上ではきっと大切なことなのでないかと思う
それぞれの人が抱えるそれぞれの心のふるさと、でもこの世の真実を知ろうと努める人々がそこに見出すものにはきっとある共通点が見られるのであろう
それは平和、愛、それとも神のような霊的な存在?
心のふるさとこそユニヴァース、ならばそこには誰にでも無差別に当てはまる有益な何かがあるはず、でもきっとそれは目に見えないものでありまた数えられないもの、マテリアルワールド(material world)ではなくインマテリアルワールド(immaterial world)、そしてそれは必ずしも信仰とは関係がないのだがしかしこのように考えてみるのも一興であろう
神による被創造物の中でなぜか人間だけが突出して不完全である、ではなぜ神はかくも不完全に人間を造ったのか?神に悪意はないはずだが
それはインマテリアルな何かを人間の中に埋め込んだからだ、実はそれが担保になっている、確かに人間はひどく不完全なのだが人間の中から神になろうとする者が出てこないようにし、尚且つ神自身の理想を実現するためには恐れながら神にも一段の工夫が必要であったということであろうか?
私はすでに悪とは人間のみに当てはまる幻想であり、したがって負の筆頭に来るものである怒りの最終形である戦争がいくら繰り返されてもそれは惑星の軌道に何ら影響を与えないのだと書いた、また前章では善の象徴を私たちは太陽に見ることができるとも書いた、規則正しい、循環の、プライドに則った動き
太陽にプライドがある?
太陽はただ神が設定した通りにそこに存在しているだけではないのか?
いや違う
太陽は私たち人間(ホモサピエンスだけではない)にプライドとは何かを教えるために神が創ったものだ、この世のすべてに存在する意味がある、そうでないものは何一つない、だから神は沈黙を守っているのだ、なぜならば自ら獲得したものは与えられたものよりはるかに強いからだ、そして知恵とは神が被創造物に与えた最低限の神の暗号の解読装置、すぐにはわからないであろう、だがいつかその時が来る、だからその時までは神でさえ「待つ」のである
さて心のふるさとである
私はすでに何度も回帰という言葉を使ってきた、いつか皆それぞれの故郷へと帰る、だがきっと心のふるさとにはある共通の何かがある、それはユニヴァース、そうでなければ神がなぜ人間を造ったのかが説明できない、事実この世は人間なしでも成立するではないか、にもかかわらずなぜ神は人間を造ったのか?
それはそこに神の理想があったからだ
私は思う、この世の空間と時間の配置は信じられないほど絶妙であると
すでに神はどこかで何らかのテストを行いそのうえで私たちを創ったのかと思いたくなるほどだ、だから私には神の悪意を見ることができないのである
神は何物をも滅ぼさない、神は何物をも選別しない、そして神は何物をも裏切らない、悪に傾く者は皆神の真実を知らないが故に悪に傾くのだ、そのような者にとって死はむしろ救いである、「おまえはいつか選別されるであろう」と言われれば言われるほど彼らは悪に傾く、彼らは天国など端から信じていないのだ
いったい私たちはどこから来たのだろう、そしてこれからどこへ行くのだろう?
だがその二か所はいずれも同じ場所だ
私たちの身体は墓から生まれるのではなく母の胎内から生まれる、だから私たちの心は生まれた場所に最終的に戻ることになる、なぜならばその後私たちには行くべき場所が待っているからだ、それはきっと再生の場所、それはきっと天国?それはわからないが、神はすべてを救うと私は考えている、そのように考えないとこの世を理解することができない、神は人間の延長線上に存在するものではない、だから神には悪意がない、神はついに太陽を隠すことをしない、私たちホモサピエンスがこの後どのような行程を辿るのかは誰にもわからない、だが神が知恵を私たちに与えている以上人間が神によってとっくに放たれている信号をキャッチできればそのように生き延びるし、またそうでなければそれに相応しい進化を遂げるのであろう、神の沈黙は私たちに選択の余地があることを少なくとも現時点では示している、ふるさととはホーム(home)のことだ、ホームがなければホームレスになる、しかしそのような場所にこそ神の使者はいる、そういう意味では貧しきものは富めるものよりもはるかに多くの貴重な何かを告げている、時代が下れば下るほど貧富の格差は広がっているのになぜ蓄えは平和をもたらさないのだろう?平和を阻害しているのは人間だけなのに
私は前書「曇天の日には収穫が多い」でたそがれの扉について述べた、誰でも生きている限りいつかたそがれの扉を開ける、たそがれの扉とは「老い」の扉のことである、だが老いとは素晴らしいものだ、老いて初めて青春時代を彩った喜びだけが人生のすべてではないことを知ることができるからだ、いつまでも若く、誰でもそう思う、だが満喫は拡大を志向し喪失は循環を志向する、フル(full)は百点満点ことであり、なぜか社会では肯定的に受け止められているようだが、それはもはや今の私の考えとはかなり違う、それについては次の章で述べよう
Full、百点満点について
Full、百点満点について
さて前章では、帰郷と題して、人間には地理的なものとは別に心のふるさとのようなものがあると書いた
心のふるさと、それはきっとこの地球という惑星が神にとってはもちろんのこと人間にとっても文字通りスモールワールドであることに依拠しているのかもしれない、さらに言えば人は皆女の腹からのみ産まれるということも神が仕組んだ一つのシグナルなのであろう、もし数パーセントでも男の腹の中から子が産まれるのであれば戦争をするのはやはり男であるから戦争の数も間違いなく減るはずであるが、神はそのように人間を造らなかった、なぜか?
これは愛の問題も絡むのであろうが、子を産むことのできない男が子を産むということはどういうことなのかを悟った時に大きな覚醒が起きることを神自身がよく知っているからであろう
スモールという意味ではこの地球という惑星のみならず人間そのものもスモールな存在なのであろう、しかしだからこそ何か共通の認識を持つことも可能だということになるのかもしれない、人間が巨大で複雑な生き物であるならば戦争の数は減るかもしれないがしかし同時に神の領域に思いが達するということも遅れるかもしれない、人間は日常的にもそうだが「行って」そして「帰る」を繰り返している、今人類の歴史は「行く」の途上にあるが、グレートターンが起き第一陣が「帰る」に入った時に心のふるさとはその最初の役割を果たす、誰でもそうであろう、行く時は緊張し、帰る時は弛緩する、緊張している時には決して見えなかったものが弛緩すると同時に目に入るようになる、そしてしばしばこう思うようになる
どうしてこんな簡単なことに今まで気付かなかったんだろう?
だが緊張している時は誰でも視野は狭くなるのである、挑戦することの重要性の一つは挑戦すれば緊張と弛緩の両方をほぼ同時に経験できるということである、これは受験でもスポーツでもまたそれ以外でも同じである、緊張だけでは何も生まれない、しかし弛緩だけでもまた何も生まれない、その両方がうまくバランスを保ってこそそこに新たな発見があるのである、戦争が悪なのは戦争には弛緩がないからだ、経験していないのでここは多分に空想的だが私はそう思う、私の想像する軍人はいつも緊張している、だから彼は常に武装しているのだ、このようなたとえは不適切であろうがテロリストもいつも緊張し武装しているという印象がある、そういう意味では「守る」という概念にもまた私たちは重々慎重に接していかなければならないのかもしれない、守る=武装であるならば、守る=緊張である、私は性善説の立場を支持しない(『至誠天に通ず』は日本人の間でのみ通用する言葉である)が、緊張している人というのはやはり目立つものだ、そして場を和ませるのはやはり緊張している人ではなくリラックスしている人である、笑顔もくつろいでいる人の方が圧倒的に多いであろう、例えば子供がそうである、子供はまだ緊張を知らない、だから子供の笑顔は私たちを癒すのである、逆に政情不安定な地域などでライフルを抱える少年兵を見ると何ともいたたまれない気持ちになる、本来ならば彼らは一日の大半を笑顔で過ごさなければならないのに
彼らが大人になった時、彼らは「次」の人にいったい何を教えるのだろうか?
心のふるさとはそのような緊張ばかりしている人々にこそ必要なものであろう、人は皆女の腹から産まれた、生まれた直後の記憶があるならばきっと誰もが母親が難儀した上で自分を産み落としたことを知るのであるが、特に男は子を産むことがないためにこの辺りは実に残念なことである
しかし故郷のない人間はいないのだから、もっと自分が生まれ育った地のことを誇りに思うべきであろう、そういう意味では政治的な難民ができるだけ生まれないように私たちは将来のプランを立てていかなければならない、故郷を知らない人間はいないかもしれないが故郷に帰れない人間はたくさんいる、これは悲劇である
前章では概ね以上のようなことを言いたかったのである
さてこの章では、full、百点満点についてと題し、主に「拡大」と「循環」について述べる
この2016~17年に至るまで人類が一貫して拡大を志向してきたということは読者諸君にも異論はないところであろう、少なくとも私たちホモサピエンスの動物としての意識は常に上昇し続けその結果道具を、火を、そして貨幣を扱うようになった、また複雑な言語をも操り、ついに惑星の軌道の解明にも成功した、私たちの築き上げた文明というものはきっといつか宇宙の真理の片鱗にまで達するであろう、そしてここがある意味恐ろしいところなのだがこの一貫して拡大を志向してきた私たちの文明の歴史というものに対して誰かが異を唱えるということが徐々に難しいものになってきていると私には思われるのである、進化も進歩も善であり、時代の流れに逆行することが、少なくともそのような言を弄することがまるで異端であるかのように扱われる可能性が生じつつあるということである、確かにこの地球上において人類はもう長い間その食物連鎖の頂点に立ち続けており、文明がより高度になりそして繁栄することが人間にとって良いことであるというのは間違いないであろう、だがそれが人間以外のすべてにとっても良いことなのだろうか?
私はすでに地球は儚いと書いた、もちろん人類が滅んだとしても直ちに地球そのものに危機が訪れるわけではない、だが地球は儚いという認識を人類が持つことは文明というものが健全なる成長を持続的に遂げていくためには極めて有意義なことなのではなかろうか?
このあたりの表現は誤解を受けやすいところでもありやや私は慎重に筆を進めるべきであろう、これは環境問題とも言うまでもなくリンクしているがしかしそれ以前の段階で私たちの富は一代でそれを使い切る量を遥かに凌駕していることも明白である、果たしてここまでの富が一人の個人に必要なのであろうか?
それでも尚彼方を目指すこと、が私たちに教えることとは?
確かに限界への挑戦による新しい価値の創造が次の世代のための新しい道を作る、だから私たちには夢が必要なのである、また夢と富は一定の範囲において重複しており富を分離すればそれだけ夢の実質的価値は下がる、ここでは環境問題は横においてもっと道徳的な見地から考察を続けよう
商業的に或いはプロフェッショナルとして富裕者の資産が増えることがその後に続く者のモチヴェーションを上げるということはあるであろう、だが夢を追うということが貧富の格差の拡大につながっているという現実はやがて、いやすでに不幸な生い立ちを余儀なくされている人々の不条理な現実に対する実は道理の通らない怒りにつながってはいないだろうか?またそうであったとしてもいったい誰がそのような若者たちに対して多くの反駁を加えられるのであろうか?おそらく彼の意思や努力とは無関係にノーチャンスの状況に押し込められている若者たちの中には過激な思想に走る人々もきっと少なくないであろう
つまりこういうことである
夢を叶えることによる富の一部は循環のために使われなければならない
これは「より多く」、「より速く」から「より慎重に」、「より寛大に」への第一歩である、僅か一年で日本円に換算して九十億円以上を稼ぐセレブリティがどのような夢を抱いているのか想像もつかないが、天賦の才に恵まれたということは時代にも恵まれたということである、私はここで還元という言葉を用いるつもりはないが、しかし新しい仕組みの必要性は多くの人々が感じていることではあるまいか、偶然にもミレニアムの世紀である、まさかセレブリティであっても故郷を忘れたというわけではあるまい、そして故郷とはすべての人に共通に存在するものなのである、彼が故郷を愛しているように死のすぐそばにある者もまた故郷を愛しているのである、拡大型社会では報われず循環型社会でなければ生きていけない人々がもし自らの夢を追うことを諦めなければならないような状況が今後増えていくのだとしたら、これまでの文明の進歩と繁栄は一体何のためだったのだろう?
果たしていわゆる生涯消費可能金額というものは人生百年の未来において大幅に伸張するのであろうか?
どこにでもあるような生活を送っている人にとっては「得る」の反意語は「失う」である、だがセレブリティにとって「得る」の反意語は「与える」である、だがこの次に来るものはプロフェッショナル、そしてスーパースターにしか分からない境地であろう、したがってここで私が還元という言葉を使うことはできない、それは彼らが自身で考えるべきことだ
話をもっと私たちに近いところまで戻そう
私はすでに人間にとっては「感じる力」が重要なのであって、したがって14歳から21歳くらいまでが実に重要な年齢になると書いた、感受性とはおおよそ25歳くらいまでは高い状態を維持するがその後は早くも下降局面に入る、したがって古典と呼ばれるようなそれを味わうのに時間がかかるようなものはできるだけ若いうちに触れておくべきであると書いた、そのためには一定の時間的な余裕というものが特に上記した年齢の前半、つまり14~17歳くらいまでは与えられるべきである、この年齢とは確かに反抗期にもあたりいわゆるアイデンティティクライシスとでも呼ぶのであろうか、いろいろな意味で不安的な時期でもある、だがこの時期は損得勘定を頭に入れずにもかかわらず自らの夢というものをある程度理性的に判断し現実的に予定を組むことができるという人生にとって最も重要な時期ということができる、ここはおそらく誰も異論はあるまい、ここでのキーワードは二つである
一つは「時間」、もう一つは「決断」である
14歳にもなれば教養はなくとも知識はある、また時間が連なり始めるため過去、現在、未来がこの辺りから明確に区別されるようになる、これは結果的にプライドの芽生えにつながる、過去を気にするようになるため友人の機嫌を損ねると後々まで尾を引くというのもこの14歳ころから見られる現象である、また大人批判を始めるのもこのころからである、「ああいう大人にはなりたくないよね」などといった発言が優等生以外からも聞かれるようになる、また受験が始まるため計画性やまたスケジュールの設定が必要になる、得意である程度結果の望める教科よりも苦手で結果の望めない教科に力を入れなければいけないという理性的な判断ができるようになる、即ちこれが成長するということであるが、ここで重要なのは時間=結果であるため、より多くの結果を望む者は理性的な判断が指し示すものにより多くの時間をかけ、またその結果が期待に副うものであった場合にはその経験は永続的に肯定的なものとしてつまりAクラスの経験として他のものと明確に区別されるようになるということである、ただここで注意しなければならないのはテストというものはこの年代においてはどのようなものであれ社会的な評価の物差しとしてその人物に当てはまることになるということである、無論社会との接点が増えなければ人としての成長もないためにここでの少年少女の結果的な差別化を即否定するわけにはいかないが、大切なのは大人の期待=将来の自分という図式が早々と出来上がってしまうと、おそらく彼または彼女は人生の選択を誤ることになりかねないということである、ここでのキーワードは予定調和である、14~15歳くらいまでは反抗期とはいえ大人の言うことに論理的に抗することはやはり難しい、したがって彼自身の判断よりも周囲の判断が優先されることになりしかしにもかかわらず結果的にそれが彼の幸福に結びつくことがあるということである、ここでは予定調和が厳然たる役割を果たす、「この選択は自分にとってプラスになるのだ」彼はそう思う、または思い込む、そしてすべてが丸く収まる
だが17歳くらいになると事は変化し始める、敏感な少年少女たちほど予定調和というものは実は大人たちが勝手に作り上げたもので必ずしも自分に当てはまるものではないということに少しずつだが気付き始めるのである
つまり、「ほんとうに私がやりたいのはこれじゃない」ということが徐々にわかり始めるのである
例えばクラシック音楽などがそうであろう、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」といえば誰でも知っている有名な曲である、だがこの曲は様々な指揮者とオーケストラの様々な演奏があり、どのCDを買えばいいのかいつも迷うものである、おおよそ15歳くらいまではガイドブックに書かれてある、つまり「名曲名盤100、交響曲編」などに載っているような有名な指揮者による演奏を選ぶのだが、17歳くらいになるとそれが変わる、「名曲名盤100」に載っていない指揮者の演奏の方をより優れていると時に解釈するようになるのである、つまり独自の解釈によって物事を判断するようになるのである、場合によっては「名曲名盤100」の音楽評論家の論を真っ向から否定することもある、社会一般の尺度ではなく自分独自の判断で様々な選択を行う、だがそれは大人たちの期待とは必ずしも一致しない、17歳とは予定調和とおさらばするその最初の年齢である、大型テーマパークも有名なアーティストのライヴも周囲に影響されず自身で判断し、評価するようになる、そこには区別が生まれ、個別の価値が生まれ、そして最終的には「なりたい自分」が生まれる、また17歳にもなればある程度論理的に大人たちに抗することもできるようになるため、彼は「決断」の権利を欲するようになる、ここで確認しておなかければならないのは彼がそのように欲したとしても予めレールが敷かれている場合にはその変更が必ずしも実現しないということだ、またついに「なりたい自分」を見つけることができずに17歳であるにもかかわらず予定調和からはみ出ることができない人もいるであろう、ここでのキーワードは隙間である、隙間を見つけることができた人は大人の期待(時に自身に対する期待も指す)と自分の個性(個人の実力を含む)との間に厳然と横たわる暗闇に気付きそこに橋を架けるべく独自の案を自身に提示するのであろうが、隙間を見つけられない人はそのまま大人の期待と自分の個性との間に横たわるものに気付くことがないまま18~19歳を迎えることになる
だが前書「曇天の日には収穫が多い」でも述べたように16歳であっても彼が望むのであれば分厚い古典文学に挑戦することは実に有意義なことだ、なぜならばこの14~21歳というのは人生において最も感受性の強い時期であり、またあっという間に過ぎ去るものでありながら一度過ぎ去ってしまうともう決して戻っては来ないものであるからだ、fullは彼の成績を押し上げるであろう、彼に能
力があるのであれば尚更である、だがその一方でfullは彼から隙間を奪うであろう、17歳になった時に気付くことができれば軌道を逸れるが故に彼は救われるが、そうでなければ生涯「なりたい自分」に接することなくただひたすら蓄える人としておそらくは天国には持っていけないであろう預金通帳の残高を日々確認し続けながらその余生を送るのであろう
やや論点は逸れるのであろうがこの章の最後に以下のような話を述べよう
2016年のアメリカNFLのスーパーボウル、デンバー・ブロンコスvsカロライナ・パンサーズ、デンバー・ブロンコスのQBペイトン・マニングは報道などで引退が囁かれていた、そしてスーパーボウルの前日デンバー・ブロンコスのマネージャーは電話でマニングにこう告げた
「明日の試合の結果がどうであれ、その場の雰囲気に流された発言はしないように」
これは言うまでもなく「試合の結果より君の進退の方が重要だ」という、マネージャーの彼を慮った発言である
私はここにこの章のキーワードのすべての要点のようなものを垣間見ることができるように思う、ブロンコスは試合に勝ち、マニングは一か月後に引退を表明する、彼が「史上最高の」と形容されたQBであったからこそこの逸話は心に残るが、「試合の勝敗がすべて、君の進退についてはその後だ」となっていなかったことに私は注目したい、ペイトン・マニングがNFLに残してきた功績がいかに偉大であるかアメリカ人なら誰でも知っている、だから上記したような発言になるのだ
自分が何を好きで何をやりたいかを見極めるには17歳の時の判断が実に重要になる、予定調和ではない真の感動を知っているそして「なりたい自分」がどのようなものであるか一時の感情に流されずに一定の批判や客観性を備えたうえで判断できる、そして18歳、旅立ちの時である
Fullとは勝利のことである、そしてfullとは第一志望のことである、だが真に心を打つものはfullとは別のところにある
限界を知ることは果たして弱さを知ることなのか?
私は思う、限界を知ることはもうひとつの道を知ることであると
ペイトン・マニングはスーパーボウルから引退表明までの一か月間きっと家族とその時間の多くを過ごしたに違いないと私は思う、どんなスーパースターも永遠ではない、そして彼の意志を彼の後継者たちが継いでいく、私たちは数字を残した人を尊敬するのではなく、「なりたい自分」を実現した人を尊敬するのだ
拡大は昔を懐かしむ人を増やす
そして循環は後継者を育成する人を増やす
ペイトン・マニングの総勝利数の記録は今年2017年、ニューイングランド・ペイトリオッツのトム・ブレイディによって破られた、このように伝説こそ受け継がれていくのである
拡大と循環Part2
拡大と循環Part2
さて前章では「Full、百点満点について」と題して、私たちはいわゆる富の行方についてどのような判断をするべきなのであろうか、そして富そのものをどのように解釈するべきなのであろうかについて論じたが、読者諸君もおわかりのように全体的にやや考察の不足した内容となった、したがってこの章では前章の続きを新たな視点も交えながら論点を整理したうえで述べていきたい
前章ではより多くのチャンスを掴んだ者がより多くの報酬を得るという現実は、その一方で才能がないわけではなくまた努力する用意があるにもかかわらず様々な理由でノーチャンスに終わっている特に若者たちに私たちはどのように接していくべきなのであろうかという課題を私たちに突き付けているということを論じるつもりだったのである、結果を残せたということは才能にも恵まれたのであろうが、同時に人にも恵まれ、また時代にも恵まれたということである
つまりすべての人が結果を残せるわけではなくまた結果を残せなかったからと言ってその人の不足している部分だけをあげつらうわけにはいかないのではないかということを言いたかったのである、この私論を私は今PCを使って書いているが、PCすら買い与えられない少年少女も世界中に決して少なくないのではあるまいか?
空腹を例に挙げれば簡単に理解できるように、空腹時には腹いっぱい食べたいと思うのは人間として当然である、だがそうできない人もいるようにまたそうしない方が良いという時もあるのである
Fullに欠けているものは隙間であり、故に時間である、時間的にゆとりがあるから隙間が生まれ、忙しければおそらく通り過ぎてしまうようなことにも気付くことができる、また大人の期待=将来の自分は14~15歳までは予定調和故そう大きな問題にはならないが、17歳にもなれば誰でも自分の世界を構築し始める、感動は与えられるものではないということがわかり始める、感情を排した大人批判が始まり時に社会的地位を確立している人の言にも異議を唱えるようになる、これは真の成長の始まりでありまた年齢的に言っても実はこのような傾向が現れることは歓迎すべきことであるのだが、すでに述べたように現実は文明の進歩、繁栄に対して批判を加えることが徐々に難しくなりつつある、ITツールは肯定されるべきものであり、SNSを知らないと常識がないと言われるのが当たり前になっている
だがそこに一万人いれば一万通りの幸福の形があるように、いかに文明が進歩しようとも最後の自己決定権はやはり自分の手中にあるべきである
夢=なりたい自分は人生の最初の一周を終えて二周目に入る時にかつての自分を確認する唯一の手掛かりであり故に夢がないと若い時には困らないが年を取ってから困るのである、すでに超高齢化社会の扉は開いている、七十二歳になった自分を想像するのは有益なことでありその逆では決してない、国、地域にもよるがそういう意味では貯金は勧められることであり、また「健康に長生き」ということも今より多くの時間をかけて考えられるべきである
おそらく私たちが拡大の中に見出そうとしているものは何らかの保険であろう、保険金もそうだが少ないよりは多い方がいいに決まっている、だが拡大には一つの大きな欠陥がある、それは拡大に成功した者の方がそうでない者よりもその次の者に何を残すことができるかにより多く悩むということである、金は実はいくら残しても相続税などによって三代後には三分の一以下になる、またその三代の間に浪費家の跡取りが一人でも生まれれば身代はあっという間に傾く、元々遺産で食っているので金を稼ぐ能力にも欠けているのであろう、しかもこういう輩は得てしてプライド(負の)だけは高いものだ、またしばしば尊大な態度をとるため信用もなく借金をこしらえたとしてもそれを返す見込みが立たない、言うまでもなくこのような輩の保証人になる者などいない、僅か三代でそのようになるのである、したがってそれを避けるためには拡大に成功した者は言葉とノウハウを金の代わりに残すことを考えるべきだが、これは(彼が)なりたい自分を明確に発見しそうなるための努力を日々散々繰り返すという前提を子が満たしてなければ実は子にも伝わらない、親が得た技術をそのまま子が受け継ぐことは難しくまた時代も異なるためそこには跡を継ぐ者の独自の判断によるオリジナルのスタイルや受け継いだもののカスタマイズが必要になるのだが、そのためにはかなりのそれらを導き支える言葉というものが必要になる、しかし拡大に奔走する者は昨日よりも今日、今日よりも明日と実質労働のための時間を増やさなければそれ以前の数字を維持できない(だから前年同期比の数字が重要になる)ために次の者に金を残すことはできても言葉を残すことは難しいのである、だがそれでは三代で身代は傾く、たとえ節制を家訓としていたとしても相続税からは逃れることができないために結局金はいつかなくなる、なくならないのは言葉とノウハウそしてブランドの名前だけである、もし自分の死の100年後でもいいから自分の末裔たちが復活の機会を得られるように何らかの措置を今講じたいのであれば、拡大を諦め「追及」から「分配」に大きく舵を切り、そして循環の中から時間を絞り出しそして言葉を残すことである
子は生まれたときから親を見ている、したがって親の言葉というものはどのようなものであれその子にしか伝わらない微妙な部分、ニュアンスを含んでおり故にオリジナリティー溢れるものとなりうるのである、そのオリジナリティー溢れる部分がノウハウであり、門外不出であろうがなかろうがその一族にしか理解できないものとして循環が続く限り子々孫々にまで伝えられ続けるであろう、そう言えば以前孔子の子孫の方がラジオに出ておられた、何代目であるかは忘れたがオリジナルの言葉を紡ぎうるような理想とそれ故の経験とそして研鑽を積んだ個人の言葉とはそう簡単には廃れないものだ、きっと孔子の一族の間でもしばしばその時代に合わせたカスタマイズが起こりにもかかわらずその中心の骨格だけは揺るぐことなく現在に至っているのであろう、孔子の場合それは例外的なものとも看做すことができるのであろうが、しかし孔子がより多くを言葉に負っていたのは事実であろう、おそらくは拡大からは1000年を超え得る言葉は生まれにくく、それを可能にする言葉の群れは循環からこそ生まれ得る、そして循環とはNot fullである
ここで前書「曇天の日には収穫が多い」より一貫して用いられている言葉である「隙間」をまた当て嵌めてもよいのであろう、拡大は一周してほぼ同じところに戻ってくるということが結果的にはあるかもしれないが予定の上ではないためにうまくいけばいくほど始点から離れていくことになる、成功すればするほどマイナスが増える、これを避けるには無神経を装って事実から目を背けるかまたは何らかの神経的、精神的な麻痺状態に陥ってそのような事実そのものに気付かないようになるかの何れかだが何れにせよ待っているのは悲劇だ、拡大は失敗すれば原点回帰に辿り着くが、うまくいけば原点を顧みるということがあったとしてももう手遅れということもあるであろう
隙間は都市においては負を抱える感受性豊かな特に若者が逃げ込む気持ちのシェルターの役割を果たすが、経済やクリエイティヴな世界においても同じようなことがいえる、誰でも両側を壁に仕切られた空間を移動するのはその距離がどの程度のものであるかわかっていたとしても不安に駆られるものだ、まして結果重視のいわゆるノルマが課せられていた場合には一定の裁量の自由が認められていなければ逃げ場を失った精神はパニックを起こすかもしれない、これはうつ病などとも関連することでもあり実は慎重にしかも継続的に扱っていかなければいけない問題でもある
言うまでもなく経済の成長が達成されたからといっていわゆる労災が増えるのであれば本末転倒である、だがそこに言葉がなければまたはあったとしてもそれが一切の普遍性を帯びていないのであれば、そこに人による救済はあり得ずしたがって「うまくやっていける者」と「うまくやっていけない者」との格差が日々広がっていくことになる
正直に言えば経済が極めて順調に言っている場合であればまたそれが十分期待できる状況であれば、格差は存在したとしても一時的なものとしてそれほど気に留めることもなくやり過ごすことが可能なのだが、「失われた三十年」を知る者であれば尚更のこと、未来の不確実性というものは私たちが想像するよりもはるかに手ごわいものであり、したがって拡大でさえ必ずしも保険にならないのだから真の安心というものは「なりたい自分」を発見した後に訪れるであろう一時の大人たちの支配から逃れた不安定だが自由なほんとうにやりたいことの模索の結果の、つまり比較の排除によるその時点での可能な限りの確固たる意思を持った精神の彷徨(時に咆哮でもあろう)の中から導き出されるべきものであろう、だが17歳でまだ予定調和と数値化された能力の比較から脱却できていない少年少女は大人の期待に副うという点では合格点だが不確実な未来(不確実性はこの21世紀さらに強まる?)を乗り越えるべき自我の育成という点では明らかに落第なのであろう、すでに述べているように「感じる力」をキーワードにした場合、17歳と19歳の二年の差は計り知れないほど大きい、「受験の結果がすべてだ、君の夢に関してはその後でもよいだろう」がもし今後も通用し続けるのであれば、それはきっとどこかでもしかしたら致命的な目に見えない部分における何らかの欠損を「うまくやった者」たちの心の隅に生じさせるかもしれない、ここでもう一度確認しておこう、人生はたそがれの扉を開ける前と後の二回あるが青春は一回しかないということだ、青春期において「なりたい自分」を発見できないものがその後の人生においてそれを発見できるかは個人的には甚だ疑問であると思う、最も感受性の強い時期にしか見えない風景というものがある、それは実際に見た風景だけでなく例えばニューヨークの摩天楼や、南太平洋の島々を囲む海の青と空の青、そして時にはアフリカであり、また時には北欧であろう、それらは現実を知ったら忽ち崩れ去ってしまいそうな空想的な期待感が作り上げた雑誌やネットなどにある写真や動画にヒントを得た幻想、だが人生が一周しさらにもう一周したときに思い出はその当時の感性を伴ってそのまま甦る、そしてそこでは誰も嘘をつけない、「感じる力」、「信じる力」そして「考える力」この三つのうち感じる力だけが生まれながらにしてすでに備わっている力である、つまり意思とは関係なく備わっている能力である、だからこそ原始的であり、本質的であり、そして無作為的なのである、たそがれの扉を開けた後新たな感性を手に入れることは難しいが、しかしだからこそ青春期に感動を覚えたものはその後もその上に何かを積み重ねていくことはあっても失われるということはないのである、それはきっと子守歌に始まり個別0共通100の幼少期を経て自我の目覚めとともに個性によって磨かれていく、だから反抗期が必要なのだ、「抗う」がなければ私たちはその歌やメロディに自分にしか理解できない空想の名残をそっと忍ばせることができないまま30歳になってしまう、それではあまりにも事務的で寂しい人生になってしまうのではなかろうか?
循環とは「隙間」と「脈絡」を維持するということだ、そして隙間と脈絡を維持することでそこにインスピレーションとストーリーが生まれる、そこでは緊張と弛緩が実に良いバランスを保ちながら往復運動を続けている、確かに野心的な人々にとってはそれはやや退屈なものと映るのかもしれない、隙間と脈絡を重視する人々はポルシェではなく自転車で移動する、一分一秒を競うスリリングな自己顕示欲よりも明日でも遅くない価値を持つものにより多くの神経を使う、ブロックを積み重ねていくことの重要性に気付いていながらしかしそれはある程度までで止めて後は不必要なブロックをいかに取り去っていくかそして「共通」の幸福のカスタマイズに集中力のほとんどを使用する
翻って拡大とは最悪でも最大公約数の尺度における現在の高さを維持するということだ、したがって幸福であるか否かよりもその高さを維持できているか否かがより重要になる、概ね「なりたい自分」はここでは17歳時のものよりも21歳以降において育まれたものがその過半数を占める、そのためここでは二つのキーワードが登場することになる
それは「競争」と「比較」である
これは幸福を考えたときには決して受け入れられるものではないが成功を考える時には外すことのできないものである
「競争」も「比較」もある言葉を私の脳裏に呼び起こす
それは「損得勘定」である、このあまり好ましい響きのない四文字はしかし早ければ受験期においてすでにみられる兆候でもある、きっと彼らの大人たちが彼らが素直で従順であることをいいことにさらに言えば、集中力もあり勉学に励めば偏差値が伸びることを知っているからこそ実は彼らには必ずしも必要でない情報を与えて暗に彼らの精神を牛耳っているのであろう、法律に関心のない者が法学部に行って何を勉強するというのだろう?だが偏差値重視の人々にとってそれは重大な意味を持っているのである、学問とは手段であり目的ではない、では学問の目的は何か?
それは自己実現である、だから「なりたい自分」を発見する必要があるのだ、そして100%ではないにせよかなり高い確率で「なりたい自分」は損得勘定の埒外にある、そういう意味ではあまり成績の良くなかった17歳の方が救われているのかもしれない、大人たちの余計な干渉を免れることができたために自分が「何を好きで何をやりたいか」を考える時間を彼はきっと確保できたに違いない、ここにすでに前書「曇天の日には収穫が多い」で述べた「大いなる無駄」という言葉を当て嵌めてもよい、大いなる無駄が理想を育みより良い未来を作る、大いなる無駄なしに健全なる前進、発展はあり得ない、これは負の肯定でもある、優等生たちは大人の期待=将来の自分であったために「大いなる無駄」を経験することが許されなかったのだ
私事で申し訳ないが私に読書の必要性を教えてくれたのは予備校の先生たちであった、中学校でも高校でも大学でも、予備校の先生たちほどには読書の必要性を説かれることはなかった、確かに古典文学に触れても偏差値はそれほど上昇しないであろう、だが17~19歳の若者たち(もはや理性的にも客観的にも物事を判断できる状態に至っている)にとっては目先の利益よりも人生の目標を見据えることの方がずっと重要なのである、ここはしつこいほど繰り返してもおそらく誰からも文句は言われまい、競争が文明の進歩を生み科学技術の未来を築いた、それは間違いではあるまい、だが拡大にはもう一つの欠陥がある、それはそのリスクに応じたリターンを必ずしも生じさせないということである
ローリスク・ローリターン
ミドルリスク・ミドルリターン
ハイリスク・ハイリターン
だが経済が順調であり拡大が堅持されると、それに相応しいリスクを負わないにもかかわらず高いリターンを得る者が現れることが容易に予想されるのである、経済が好調であれば金利が上がる、ということは億万長者は預金金利だけで一定の不労所得を得るということになる、そして預金残高が増えれば増えるほどその不労所得額が増えるということになる、そしてそれを彼の子や孫がすぐ近くで見ることになる、だがハイリターンはハイリスクを冒したものにこそ相応しいものであって、然るべき代償なくしてリターンに与るということは彼が将来人生の本質を見極めようとするときに思わぬ障害となるかもしれない
ローリスク・ハイリターン、これを幼少期に経験した子供たちは不幸である、彼らは深刻な勘違いをそれが誤りであることに気付かないまま成長し結婚することになる、彼はついにハイリターンというものの持つ特性を知らないまま老いていくのかもしれない
すでに述べているようにそれだけの代償を払ったのであれば一億ドル稼いだとしてもそれは綺麗な金であり、誰からも文句を言われる筋合いはない、だが一億ドルを相続した場合は異なる結果になる、彼が父親の苦労に苦労を重ねた過去を知っている場合話は別だが、そうでなければ彼は学生時代から特に金融業者などのおべんちゃらに囲まれて育つことになる、これは実に危険な現象だ、だが資本主義社会ではこれを否定することはできまい、したがって一億ドルを相続した者はそれがどのような意味を自分の人生において持つのかをおおよそ知ることのないまま三十歳になり結婚し子をなす、そして豪邸の範疇に入るかもしれないような邸宅に住みそのような者に相応しいウィークデイと週末を送ることになる、言うまでもなくこの過程において彼がローリスク・ハイリターンの危険性に気付いていなければ彼の運勢は確実にしかも急速に落下していくことになる、そして彼の子つまり三代目が成長し彼の後を継ぐことになる、三代目、そう最終ランナーである、もし二代目が途中で一億ドルを相続するということがどういうことであるかに気付き急いで軌道修正を行い、遅ればせながら「なりたい自分」の目標を達成すべく過去をかなぐり捨てて一からの努力を日々続けることができたのであれば、一億ドルを三代目に相続させることができない代わりに重要な言葉とノウハウ、場合によってはブランドも残すことができるであろう、だがそうでなければつまり漫然とした日々を一億ドルを相続した者に相応しく送れば、彼の帝国はその子の代で潰える
報酬は彼が背負ったリスクに応じて支払われるべきだ、したがって夢を追いその時点では結果を残せていなかったとしてもすでに多くのリスクを背負っている者には誰かその方面の有力者が便宜を図り彼に数度のチャンスを与えるべきだ、民主主義社会においては結果の平等は議会における議論などを通じて国民の代表者たちが結論を導き出すべきだが、チャンスの平等に関してはその方面の有力者たちが自発的に、何ら強制されることなく何らかの方策を打ち出すべきであると考えられる
そういう意味でも才能に恵まれ、人に恵まれ、時代にも恵まれた者はすぐにではないがその時が来たら誰からも何も言われなくても特に後継者たちのためにそれまで蓄えてきたものを可能な限り放出するべきであり、また言葉を伝えるべきである
そしてここが重要なのだがスポーツの世界で成功した者の富はスポーツの世界に還元されるべきであり、科学技術の世界で成功した者の富は科学技術の世界に還元されるべきであり、また芸術の世界で成功した者の富は芸術の世界に還元されるべきだ、ここに政府や役人が入り込むと、彼らの富が道路や箱モノや役人たちの退職金にいつしか変化してしまう、これではきっと世界は20世紀と比べて何も変わらないということになってしまうであろう
このように考えると拡大には二通りあるということになる、20世紀同様の決して循環には結びつかないつまりローリスク・ハイリターンの子孫を生み出すだけの結果的にせよ不毛な拡大と、もう一方の循環に結果的にせよ結びつく言葉とノウハウとそしてブランド名を残す、そしてその方面の有力者たちによってその蓄えた富の扱いが決定されるという私から言えば21世紀以降型の拡大と
もちろんあくまでも前者を選ぶという人が今後も現れ続けたとしても誰も彼らを批判できない、彼は相続人であれ被相続人であれ法を犯しているわけではない、また彼は社会の慣習に従っただけと看做すこともできる、最終的には彼自身の決定にすべて任せられているのである、さらに言えばこう考えることもできる
富裕層には富裕層にしか分からない悩み、苦しみがある
これはセレブリティにしか理解できないことだが、いつか富裕層の中から富裕層の常識を覆すような改革者が現れたら私たちは富に対してこれまでとは違う思いを抱くようになるかもしれない
ローリスク・ハイリターン
だがこれは彼(相続人)の罪ではない、また被相続人は彼ができるだけ楽な生活ができるようにと願っただけなのだ、自分が経験したようなものと同じ苦労を子たちには味あわせたくないと、決して傲岸不遜な目的の達成のために富を築いたわけではない、そのように考えることは富とは無縁な者にとっても無益なことではあるまい
「夢」または「自立」の対象は「厳しい現実」
したがってその厳しい現実を乗り越えてきたものにはそれなりの報酬が約束されるべきである、だがここには格差というまた別の問題が出てくる、この辺りはきっと22世紀以降も議論されていくべき問題なのであろう
産みの苦しみ
産みの苦しみ
さて前章では「拡大と循環Part2」と題して、この21世紀私たちは拡大から循環へと大きく舵を切っていかなければならないのではなかろうかということを述べた、前章では明確にFullを否定し、「足りない」ことから生まれる隙間、つまり時間からこそクリエイティヴな才能は開花していく、したがって17歳くらいまでには「大人の期待=未来の自分」ではなく「夢=なりたい自分」であることを発見すべきだと書いた
また循環型社会を肯定し、それを拡大型社会に対立する概念として規定しながらも拡大には二通りあるとも書いた
被相続人から相続人に対して受け継がれていくべきものは金銭ではなく、言葉でありノウハウであり、そしてブランド名であると、したがって一億ドルを相続した子に罪はないが彼がそのような者に相応しく漫然とした日々を送るのであれば三代目で彼の帝国は潰えるであろうと
だが最後にこうも書いた
セレブリティには彼らにしか分からない悩みがあり、誰か改革者が現れることでそれは変化していくかもしれないと
前章でのカギになっていたものはそれだけの代償を払って得た報酬は如何なるものであれ肯定されるべきものであり、したがってセレブリティ=恵まれた、または苦労を知らない者と単純に定義することは必ずしもできないということである
だがここでやはり一つの疑問が浮かぶ
上記した文章の意味を肯定するとしても、彼が相続人に遺すものが金銭だけであった場合は実はその相続人たちは結果的にせよ不幸な人生を送ることになるのではないかということである、果たしてそのような現実は改善されるべきではないのであろうか?
さて「産みの苦しみ」である
言うまでもなくこの章のテーマは「富は苦労して得たものでなければ意味がない」である
だが一方で苦労に苦労を重ねても必ずしもそれが結果に結びつかないという不条理な現実がある、ではどうすればよいのであろうか?
論点は二つある
まず人一倍の努力をしてさらにリスクを背負うことを潔く受け入れたにもかかわらずチャンスに恵まれないという人たちに光を当てるための新たな社会的な枠組みの構築であり、今一方はそのような現実に対する個々人の気持ちの整理の仕方、つまり間間ならぬ現実をただ嘆くのではなくそのような現実にどのように対処すればよいかを精神的に学ぶということである
まず前者から考えてみよう
もちろんこれは私論であるのでここに記す内容は一切現実社会に対して僅かも拘束力を持ちえないものではあるが一考察としてここに私見を記すことは僭越ながら無駄ではないように思う
私はすでに前章において誰かその方面の有力者が何らかの方策を打ち出しそれによって現実的には公とは無縁の民主導のシステムを構築すべきである、つまりスポーツマンが築いた富はスポーツの世界に還元されるべきであり、それは科学技術や芸術の世界においても同様であると述べてあるのでこれを基本的には踏襲していくことになるが、今一つ考えなければならないのは社会を構成する市民一人一人が夢を追うことは現実の慣習をそのまま踏襲するよりも尊いことであるということを認識することが重要なのではないかということである
かつて我が国日本はおそらく歴史的に見ても未曽有の経済発展そして繁栄を遂げた、それを支えたのは終身雇用と年功序列という日本独自のシステムであり(当時消費税は0%であった)、社会の慣習に従っていればよほどのことがない限りいわゆる食いっぱぐれることはないという現実であった(バスに乗り遅れるな)、そこでは大人の期待=将来の自分であることは時に美しいことでさえあり、またこの国は憲法によって戦争をすることを永久に放棄している(専守防衛の権利のみ有し集団的自衛権は有しない)ため、私たちは実はそれは当たり前のことではないのに平和であることを前提の上で人生設計を行うことができた、このことは諸外国の特に徴兵制を敷いている国々からすれば極めて例外的な状態と想像されたのであろうが、日本人の特に戦後生まれの人々にはその認識は希薄だったのではあるまいか
だが律儀で勤勉な日本人の努力はついに実を結びこの国の経済はジャパン・アズ・ナンバーワンとも、また一億総中流などとも形容される1980年代の栄華を極めることとなる
なるほど1970~80年代、若者たちは上から降りてくるものをそのまま受け入れるだけで人生というものをうまく切り抜けていくことができたのかもしれない、たとえ大学時代に髪を伸ばしまるでヒッピーのような風貌であったとしても、就職時に変貌を遂げれば問題はなかったのであろう、そこでは結果的にせよ「踏襲」が「工夫」を上回っていた、従順であることや怒りを遠ざけることはむしろ美徳の範疇に入るものであり、A大学の学生はA大生に相応しく、B大学の学生はB大生に相応しく振る舞うことで容易に大人たちの共感を得ることができた、彼らは皆勝ち組であり、そこでは平凡であることが中途半端と看做されないというつまり常識的に見れば実は異常な状態がにもかかわらず堅持されていた、幸福とは「個別」の中にはなく「共通」の中にのみ存在し、一定の情報をそのグループ内で共有することが彼らの満足と安心の両方に直ちにつながった、ただ驚くべきことは誰もそのような現実に対して警鐘を鳴らさなかったことだ、若者たちは皆若輩で比較の対象を持たないので仕方ないが大人たちの誰も「これはおかしい、いつか崩れるだろう」とは言わなかった、1970~80年代、日本人のほぼすべてが現実の99.9%を当然のものとして、そして肯定すべきものとして受け入れ異を唱えること自体が「不自然」または「異端」と看做された、はみ出し者に行くべき場所はなく、冷静に考えれば必ずしも喜ばしいことではない(地上げなどがあった)にもかかわらずその時点での社会のモードに若者を含む多くの人々が無条件に従った、そしてリセッションが流行語となった後も悲劇は続き、「かつて」と「今」とを比較することによる喪失感がまるで「儚い、その時々の瞬間」を楽しむことそれ自体がその目的であるかのように青春から希望を奪い去っていった
そしててっぺんに行ける人を除いて苦しみしかもたらさない比較の呪縛から人々は逃れることができず(下位に甘んじる者たちにも良い思い出はあったから)、また何十年もの間比較のうえ上位にいた者たちは幸福であり過ぎたが故にその習慣から逃れることができない、そして以下のような状態がすでに時代遅れのものであるにもかかわらず相も変わらず続いているのである
僅かでも上を行ったものがそこにある利益を総取りする
おそらく一度でもこれを経験すると、容易にはそこから立ち去れないのであろう、拡大とはほんとうに恐ろしいものだ、情報とマテリアルに日常のすべてを囲まれて過ごすということがいかに危険なものであるかに、回帰の重要性を知らない者は気付くことがないのである
やがてこの世は「勝ち組」と「負け組」に二分される、数字的にはセレブリティを含む勝ち組が30~35%、平凡(中間層)を含む負け組が残り65~70%といった感じであろう、だが勝ち組に幸運にも入ることができた者は次はセレブリティを目指そうとするであろう、社会が勝ち組と負け組に二分されたからといってつまり結果的にせよ勝ち組に入れたからといってそれで比較が終わるわけではないのだ、そしてこのような負の循環をなくすには上記した「僅かでも上を行ったものがそこにある利益を総取りする」社会を根本的に変える必要がある、だがこれを実現するのはこの21世紀ではまだ無理かもしれない
それほどまでにこの2017年の現実は理想からほど遠い
前章ですでに「なりたい自分」の発見が遅れた場合、彼は「比較」と「競争」の二つのキーワードで表されるような渦の中に放り込まれるであろうと書いたが、「数えられるものの価値」がもたらす成功を「数えられないものの価値」がもたらす幸福よりもより上位に来るものと彼が認識している場合、たとえ彼がハイリスク・ハイリターンという成功のための望ましい原則を理解していたとしても、彼は成功者ではあるが幸福者ではないということになるかもしれない、なぜならば彼がその後継者により高い理想の実現を託すための社会的な装置、枠組みがまだ現実にはないからである、言うまでもなく一生勝ち組でい続けることはできない、なぜならばその子、孫がそれに相応しいリスクを負わずに成長していくからである、彼の成功はそれが長じれば長じるほど彼の子や孫を非等身大の存在にしていく、人生は渦を巻くように曲線的に進行するが富の尺度はいつも直線的だ、この不一致を解消するためには第一には何らかの社会的な大改革が行われて拡大故の格差の解消のための何らかの方策がリーダーとして誰もが納得する実力者によって打ち出される必要があるが、この辺りの記述はかなり恣意的更には抽象的にならざるを得ないであろうから、すでに書いた二つの論点の二番目にそろそろ移りたいと思う、結局一番目の論点に関してはやや無責任ながら問題提起のみでここでは終わることになりそうだ、このことはこれが私論故の限界とも言えそうである
さてこのような現実の中で私たちはチャンスをその支払ってきた多大な努力とまた背負ってきたリスクにもかかわらず与えられずに終わった場合、どのようにすればそれを気持ちの上で整理し、尚且つ希望を失わずに「より良い」明日につなげていけるのであろうか?
ここでのキーワードは「復活」または「再生」である、決して「復讐」ではないことに読者諸君、何卒ご留意いただきたい
2017年現在の極めて不平等で、また不透明な現実は、現実にあるルールや尺度をリセットすることによって生まれるであろう混乱を有力者たちが回避し続けていることから生じている、混乱が不測の事態を招くという警戒もあるのであろうがそれ以上にすでに得た「利」を侵害されることを特にセレブリティたちが恐れているということがこの問題の根底にあるものであろう
ここにある法則は「持てば持つほど真実や理想から離れていく」であり、これはまた前書「曇天の日には収穫が多い」で述べたように「破産するのは金持ちだけ」にも通じるものでもあるであろう
そういう意味では私たちは例えば「志」といった言葉で表されるであろう何かもっと精神的なものを心の拠り所にするように努め始める時に来ているのかもしれない、では「志」の反意語は何であろうか?
それは「血統」、「血脈」、「民族性」などである、これらはいずれもナショナリズムにつながりうるものだ、言葉や慣習が同じであることが人を安心に導くことは否定できないが、この21世紀、その変革のための萌芽を見つけようと何らかのチャレンジをすることは決して無駄ではないであろう
例えばラグビーのワールドカップである、ラグビーの日本代表には実は日本の国籍を持たない者も選出されている、日本人でない人が君が代を歌っている、これを奇異に感じる人もいるようだが私は違う
私はこれを非常に素晴らしいことに感じた、彼らは血統や血脈ではなく日本ラグビーという旗の下に集った選手たちなのである、そこにあるのは勝利のための志である、リーチ・マイケルは日本の国籍を取得しているがそれ以前の段階ですでに日本人である
日本のラグビーが好きで日本でプレーしているのになぜ肌の色や出身地が問題にされなければならないの?
言うまでもなく感動に国籍は関係ない、感動を与えるにしても与えられるにしてもいずれにせよそこにあるのはひたむきさや真摯なまでのそれに対する姿勢でありそれ以外の要素は見当たらない、したがって私たちは敗者からも何かを学び取ることができるのである、確かに彼ら選手たちが勝利を求めて日々頑張っている以上、栄誉は勝者たちの上にのみ輝くべきだ、敗者はピッチから去りそして次のチャンスを掴むためにまた新しい日々が始まる、だがすでに何度も述べているように限界への挑戦による新しい価値の創造が次の人のための道を作る、そして限界への挑戦こそが最終的に「復活」や「再生」につながるのである
このことは自らの復活や再生のみならず自分は指導者となり自分の後継者たちにそれらの期待を託すという構図も考えられるということになる、ライヴァルは外側にのみいるわけではあるまい、ライヴァルは敵であると同時に過去の自分、したがって自己ベストを記録することがきっとそこでは重要になるに違いない、大きな大会で自己ベストを三回連続で記録した者は表彰台に上がれずともその者たちと同等に扱われるべきであろう、なぜならば彼は昨日の自分に勝ったのだから
このように考えると「復活」も「再生」もいずれも過去との決別であり、そこから新しい一歩を踏み出すことであると定義付けることができるようだ、彼のそして彼らの満足は結果の中にのみあるのではなく、過程の中にもあるべきである、それは例えばスポーツ選手であれば引退後も何らかの財産を彼らの中に残すであろう貴重な経験、後は社会そのものがその彼、彼らの限界までの挑戦の中にあるスピリットを理解するように努めることができるかどうかにかかっている
すでに社会を構成する市民一人一人が夢を追うことは現実の慣習をそのまま踏襲することよりも尊いのだと認識することが重要なのではないかと述べた、これは社会の意思決定に直接的な影響を与えるモード、空気の流れまたは世論のようなものの話であり、ただ単に自治体が予算を組むことができるか否かといった問題ではないように思う、もっと踏み込んでいえば意識の問題である
変化(change)が今必要であることを認識していない者は少なくとも先進国の市民には一人もいないのであるまいか?ならばこの21世紀を生きる市民にとって意識の問題とは未来の問題であるとここで私が言い切っても何も不都合は生じないであろう
「復活」も「再生」も未来にあるものでありまた「昨日までの自分」を超えたところにおいてのみ用いられるべき言葉である
どうやら上記した二つの論点はここにきて急接近し始めているようだ
努力もリスクもいずれも誰の眼にも十分なほど行いまた背負っている者がにもかかわらずノーチャンスに終わっている場合、その未来において私たちが担うべき義務はその改革を行うに相応しい人が現れたときに彼または彼女をできるだけ早く支持することでありまた彼または彼女をバックアップするべくSNSなどを通じて社会に広く協力を呼びかけることだ、きっとこれは言葉でいうよりはるかに難しいであろう、幸運にもチャンスを得られた者は拡大を目指す企業や団体の支援をすでに得ており、富はその方面に属していない者の動機にも容易になりうるため、拡大とは無縁の者たちはたとえその道の専門家の助言を得られたとしてもそのうち金銭的に生き詰まることが考えられる、ここに循環を支持する者たちの「産みの苦しみ」がある
だがここにあるキーワードがうまく当て嵌まる場合にはまた上記したものとは違う側面を現実に求めることもできるかもしれない
それは「拮抗」である
一強他弱であれば、そのような現実に変化を求めることは確かに難しいかもしれない、だがそれがどのような分野であれ、拡大にすでに成功したスポンサーによる支援が必要条件のすべてを満たしている場合でも、そこに拮抗が存在していると判断することができるのであれば、まだ諦めるには早いということになるのではなかろうか?
たとえば2015~16年シーズンにおけるイングランド、サッカー・プレミアリーグでのレスターの優勝などはまさにその範疇に入るものであろう、「拮抗」は富の独占を目論む者には厄介な言葉であろうが、「循環」を支持する者にすれば「復活」、「再生」のための決して外すことのできない概念である、「拮抗」していてこそ誰にも平等にチャンスが与えられることになるのでありまたその方面全体の底上げにもそれがつながるのである
どんなに下馬評が高くてもうかうかしていられない
これはスポーツの分野に当て嵌めれば容易に理解できることであろうが、結果がわからないからこそ注目が集まるのであり故にそこに必要なだけの緊張感が生まれ、また「諦め」を最小限にすることができる、そこに注ぎ込まれるべき力が増大すればするほど結果のグレードは上がる、だから富の独占はその分野の将来を見据えれば見据えるほど望ましいことではない、一部の人々の興奮はそれがそこに留まっている限りいつか低所得者層の反発を招き企業、団体による支援よりも重要なはずの「浅いが、しかし広大な」支持者を失うことになる、果たしてそうなった場合一番困るのは誰なのか?
さてここで前章でも触れた「拡大」と「循環」に戻る
価値あるものはすべて「産みの苦しみ」の結果である、それは個人であれ団体であれ関係ない、そして拡大を目指す者たちは彼らの望みが叶いしかしその結果拮抗が失われることによって最終的には自らの帝国を滅ぼすことになる、「浅いが、しかし広大な」支持者たちが離反し別の分野に週末の愉しみを移動させた場合、そこに富しか見出すことができなかった者たちは初めて「産みの苦しみ」というものが如何なるものであるかを思い知ることになる、この辺りの所は次の章で述べることにしよう
浄化
浄化
さて前章では「産みの苦しみ」と題して、拡大から循環への転換の過程において生じるであろう負とそれに対する私たちの対応の在り方について論じた
前章の論点はこの21世紀以降「私たちは夢を追うことは現実をただ踏襲することよりも尊いことなのだということを認識すること」が重要なのだという所にある、だが夢追い人たちにとってリスクを負うということはセーフティーネットのない現実を考えれば難しいものでもあり、また拡大を目論む企業や団体はたとえその方面に関心がない場合でも富そのものを動機として「より多く」を望むため結果的にせよノーチャンスに終わっている人々は彼らが負った努力を含むリスクにもかかわらず現実はそう簡単には改善されないであろうということである
ではどうすればよいのか?
社会を構成する市民一人一人の力には限界がある、そこに過剰な期待をすることはそこにその対象に関する長い歴史がない限り難しいであろう、したがって重要なのはたとえ一時的にそれが失われることがあったとしてもいつの日か「復活」し、その後継者たちによってその「再生」が実現されるか否かということである
だがそのためにはあることが必要になる
それがこの章のテーマである
この私論もそろそろ前半の終了に近づいているが前書「曇天の日には収穫が多い」同様、この書でも「拡大」と「循環」が、そして「『拡大』から『循環』への転換」が実に重要なテーマ、そしてモチーフになっている
前章でも述べたように拡大を望むものは個人、団体に関わらず「より多く」のためにその力のほぼすべてを傾注するのでそこに文化的な関心があるかどうかなどは実はほとんど関係がない、たとえ彼、または彼らの支援するその対象が良い成績を残せたとしてもその結果赤字が生まれるのであれば彼らにとっては本末転倒なのである、拡大がその目標になっている以上「より多く」は優先順位の筆頭に来るものであり続ける、拡大を目論む者の一挙手一投足はすべて「より多く」のためであり、したがって曲線的ではなく直線的である、1+1=2の2が示すものは無条件に2でありまた2でしかない、そこでは「答えは確かに2にすぎないが意味のある2だ」などという論理は通らない、損益分岐点が3である場合には2では赤字であり、あくまでも3.1以上でないと受け入れられないということになる、銀行からの融資がストップすれば従業員への給料の支払いも滞ることになる
これは「厳しい現実」の一丁目一番地に来るものでありここを理解できない者はかなり高い確率で出世競争から脱落していくことになる、5の利益をもたらすものと1の利益しかもたらさないものとを同列に扱わないことは商売上当然のことであり、そこには厳然たる優先順位がある
それは文化でも同じことである、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は一般のオーケストラとは別扱いであり、もし条件に大差がない場合はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の方がより優先されることになる、ここにあるのはまさに「より平等に」ではなく「より多く」である、これは資本主義または社会主義などという政治、または経済的イデオロギー以前の問題であり、厳密にはここにスローガンは必要ない、足し算と引き算ができればよいのだ
しかしこの現実はともすれば「産みの苦しみ」を意味のないものにしてしまう、これを達成できるのはセレブリティと大資本を持つ企業、団体だけであり故に幸福の分配を考えたときにそこに地域間格差が生まれても仕方がないということになってしまう、なぜならば地方の小都市には基本的に大資本は存在しないからだ、だがこれでは民主主義とは根本的に異なる構図をそれは持つということになってしまう
民主主義とは言うまでもなく第一に「すべての人に平等にチャンスが与えられるべきである」である。A市出身の代議士の発言力がほぼ同じ条件を持つB市出身の代議士よりも上にあってはならない、これは一票の価値とも関係することだが、有権者が保有する一票の価値は普遍的に同じでなければならない、そうでなければその選挙は最悪の場合無効ということになってしまう、民主主義とは、主権在民、言論、表現および信仰の自由、そして直接普通選挙制度の3つである、このうち一つでも欠ければ民主主義としては失格である
ということは拡大が「より多く」をその目標としまたその目的を達成し続けることによって民主主義の基盤は崩されていく可能性があるということである、中央に住む人がまたは大企業に勤める人が「より多く」を享受し、そうでない人よりも多くの点で上位に来る、果たしてそれは健全な社会であろうか?
ここに即民主主義の危機を読み取るのは時期尚早であろう、だがこのような状態が何らの改善策を試みられることなく昨日までとまったく同じ状態で明日を迎えることもまた問題であるのだ、もし現状が尚許容範囲内であるのならば尚更のこと今議論に着手するべきである、今ならば損得勘定なしに冷静な議論をそこに期待できるからだ
このように考えると市民一人の力は現状よりもっと大きな価値を持つものと認識されるべきであると言うことができる、夢を実現できるのは資本のバックアップを受けた者だけであるという現実が大手を振ってメインストリートを闊歩するような状態が長続きしてはいけない、たとえ夢を叶えた者がその後継者たちに残せるものの一つに豪邸とフェラーリが含まれていたとしてもそこにはもっと精神的な、より上位に来るものと認識される何かが付随していなければならない、そうでなければ貧しい国や地域に暮らす子供たちはかなり早い時点でノーチャンスということになり、そのような地域に住む少年少女の生末が危ぶまれてしまうことにきっとなるであろうから
だがどのような地域に住む者であったとしても子供たちがその暮らす地域故に夢を持つことが当たり前の年齢においてすでに夢を諦めなければならないのだとしたら私たち人類の文明の発展とは一体何のためだったのであろうか?
価値あるものはすべて「産みの苦しみ」の結果である、ならばそこにあるチャンスは最低限確保されていなければならないということになる、それとも人類にとって普遍的な価値を持つはずのものさえ大資本家の手に委ねられているということなのであろうか?
そろそろこの章の本題に入らなければならない
上記したような不幸な状態に陥らないためにはどうすればよいのであろうか?
そのキーワードは「交代」である
なるほど「政権交代」などはその最もポピュラーなものであるのかもしれない
これはスポーツなどの分野ではしばしばみられる現象でもある、例えば大相撲、おおよそ常に東の横綱として誰かがその座に君臨している、かつては大鵬であった、その後北の湖、千代の富士、貴乃花、朝青龍と続き現在は白鵬、そして稀勢の里へと続いているわけだが必ずどこかで新しい力士が誕生し、出世し番付を上げ主役の交代となる、だがそれこそが大相撲の魅力の筆頭に来るものなのである、どんなに強い横綱でもいつかはその御座から去らなければならない、永遠に勝者であり続けることなどできないのである
したがって「交代」とはある意味淋しい言葉なのだがしかし一方で人類の文明が発展していくことを担保していくうえでこれほど重要な言葉もそうあるまい、なぜならば交代は以下に示す重要な言葉をおそらく常に引き連れているからである、この言葉が前書「曇天の日には収穫が多い」も通じてこの書に現れるのはこれが初めてである
それは「浄化」である
交代が実現されることでそこは浄化されていく
政治の世界でもそうであろう、なぜ歴史の浅い国アメリカが民主主義というものを考えたときにそれでも尚机上に真っ先に乗るのはアメリカでは定期的に政権交代が実現しているからである、まさに今日日本時間で2017年1月21日、アメリカ合衆国第45代大統領にドナルド・トランプ氏が就任したが、なぜ下馬評の低かった彼が当選できたのであろうか?
様々な理由がそこでは考えられるのであろうが、おそらく政権が交代することによるプラスの効果をアメリカの市民は言葉でなくとも感覚的に知っていたからであろう、それはかなり高い確率で幾つかの既存の価値観の破壊と未知の価値観の創造、少なくとも昨日までと同じことが今後4年間続くことはアメリカの民主主義にとって良くないと判断する有権者たちの実は深謀遠慮な投票行動
「隠れトランプ」とは秘かにトランプ氏を支持していた人たちのことではない、彼らはヒラリー・クリントン氏が当選することによって政権交代によって(のみ)現実化する政治の浄化作用の劣化を危惧したのである
すでに私はopposite(反対勢力)が理想の実現のためには必要なのだと述べた、だからはみ出し者や、「抗う」者たちが新しい価値の創造や、既存の価値観からの脱却には重要な役割を担うのである、「大人の期待=将来の自分」からついに一歩も外に踏み出すことのできなかったエリートたちはまだ21歳ですでに守旧派なのである
民主主義=すべての人が平等にチャンスを得られるための制度
ならば既得権者の蓄財の保全と既存の価値観の固定化は社会の浄化のためのマイナス要因にしかならないのであるまいか、言うまでもなく富は無尽蔵ではない、パイは食い尽くしたらそこには何も残らないのである、したがって遅れれば遅れるほど与るべき利益は減少していく、椅子取りゲームと同じで、もっとも素早く動いた者が僅かでも上を行く者となりそこにある利益を総取りするのである、それは巨大油田(Giantとアメリカでは呼ぶ)と同じで、一分でも先にそれを見つけた者がそのGiantから生まれる富を独占する
もうおわかりであろう、独占≠浄化である
私たちが払う代償はそこにあるリスクも含めて尊いものだがしかし私たちは富も資源も次の人々のためにその費消については常に抑制的でなければならない、そうでなければ22世紀以降の人々の取り分が極端に少なくなってしまうからである、これは人類史上初めて起こっている現象である、その動機となるのは環境問題でもよいであろう、「これはおかしい、いつか崩れるであろう」がもっと特に若者たちの口をついて出てくる言葉にならなければいけない、崩壊を食い止めるものは一つは抑制であり、そしてもう一つが浄化である
そしてこれは最終的には拡大の否定である
拡大が独占の親戚であることはすでに論を待たない、それは価値あるものは「産みの苦しみ」からのみ生まれるという普遍的な価値観を台無しにし、また民主主義を形骸化させ、またにもかかわらずノーチャンスの終わる少年少女たちをテロリズムに駆り立てる
その末路に待つ言葉は何か?私はすでにその言葉を記している
復讐
家族とのそして愛する者との再会を信じない者にとって復讐こそ救いの言葉である、復讐は究極の善に反しているが同時にこの世の美しさにも反している
それはつまりどういうことか?
復讐には普遍性がないのである、なぜならば復讐が包含する悪意には人または地域または民族によってその解釈が異なるからである、復讐を遂行した者がたとえ一部の人々によって英雄視されたとしてもその隣の地域では彼はテロリストでしかない、血脈、血統、民族性、信仰する宗派の一致は、ナショナリズムの基本にもなりうるものだが故に正のプライドを得て初めて知る言葉がそこにはない
その言葉とは「不倶戴天の敵との和解」
したがって復讐からは「復活」も「再生」も生まれないということになる
愛の反意語は憎悪ではない、また無関心でもない
そこにあるのは嘘である
Avenger(復讐者)の属性は実は彼が浄化を知らないことに始まる、彼の暮らす国においてはまず政権交代がない、故に政治が浄化されることがなく成功は常に「大人の期待=将来の自分」の人々のものであり、またそこに「夢=なりたい自分」の人々の幸福を発見することも少ない、前者を重視することは目先の利益にこだわる場合には有効であるが言うまでもなく社会は変わる、故にいつしか先頭を走っていたものがしんがりになる、優秀故そのことにいつか気付くのだがもう手遅れである
彼は信じる対象を誤ったのだ
関が原において西軍から東軍に最後の最後で寝返った小早川秀秋のように彼は裏切りを断行するが、家康に勝利をもたらしたにもかかわらず日本人で小早川秀秋を英雄であると看做す人はおそらくほとんどいないであろう
そこに浄化がない場合私たちは後者を選択せざるを得ない
不浄化に対抗しうるもの、それは信仰である
人間が作ったシステムが機能しない以上、そこにおいて人に期待することは時が進むにつれて難しくなるであろう、この後者を選択する者のうち数パーセントはいつか母国を脱出し行くべき場所で人生の転換を図るであろう、やや残念ではあるがそれがきっと彼が取りうるその時点での最善の道
信仰がなければ浄化は現実のものとならない故に敏感な若者たちの何割かは最終的には外国へと旅立つ、そして経済の空洞化よりも恐ろしい精神の空洞化が彼らの母国で起きる
またこの言葉が現れることになる
「人はパンのみにて生きるにあらず」
食を論じることは文化を論じることである、だが何かについてオープンな議論を行う場合に食の話ばかりが出てくることはその議論の質を高めることにはおそらくほとんどつながらないであろう
「理想を追求する」はつまり「にもかかわらず理想を追求する」である、したがってそこで連想される言葉は「民主主義」や「薄氷の勝利」、そして「決して諦めない」であり、また21世紀的には「循環」であり「分配」でありまた「多様性」であろう、私はここにストイックを見る、「豊満」(『放漫』もか?)、「有り余る」のような言葉はここには相応しくない
神の使者は痩せた旅人のようにバックストリートを歩む
だから「拡大」は「信仰」に反するのである
さてここで前半終了である
諸君、よくぞここまでついてきてくれました、心より感謝申し上げます
この後も後半が続くことになるができればお付き合いいただければ有り難いです
ではしばし休憩をとってください
前半終了
前半のまとめ
行ったり来たり、そして次の人 後半
前半のまとめ
さてこの書もこれより後半に突入する、相も変らぬ私論が続くが可能な限り諸君が退屈しないよう努める所存であるから何卒途中で諦めずについてきていただけると有り難い
ではまず前半のまとめを行わなければならないが、その前に前半の最終章である「浄化」のまとめを行いたい
さて前半の最終章では「浄化」と題して私たちは今拡大と循環の分岐点に差し掛かりつつあるがこのまま拡大が続けばチャンスに恵まれ成功する人とそうでない人との格差が広がる一方であり、それは民主主義にも反しており、またノーチャンスに終わる人のすべてが努力不足と断定できない(地域間経済格差が一つの原因)以上、不遇な幼少時代を経た少年少女たちが最悪の場合テロリズムに走るかもしれないというようなことを述べた
だが前章での最も重要な部分は以下の文章に尽きる
どのような地域に住む者であったとしても子供たちがその暮らす地域故に夢を持つことが当たり前の年齢においてすでに夢を諦めなければならないのだとしたら私たち人類の文明の発展とは一体何のためだったのであろうか?
人類の主役とは誰であるか?
それは子供たちである
なぜか?
人類の文明は進歩していかなければならない、つまり今日と明日は違うものでなければならないと考えるのであればだが、それを実現できるのは子供たちだけだからだ
なぜそう言えるのか?
子供たちは夢を持つことができるからだ
なぜ夢が必要なのか?
限界への挑戦による新しい価値の創造が次の世代のための新しい道を作るからだ
なぜ新しい価値の創造が必要なのか?
それがなければ文明は劣化していくからだ
なぜそう言い切れるのか?
歴史がそれを証明しているからだ
では今を生きる私たちはどうすればよいのか?
第一に「夢を追うことは現実をただ踏襲していくことよりも尊いのだ」と認識することだ、そこからすべてが始まる
上記した内容のキーワードとなるのが、「交代」と「浄化」である
交代は例えば政権交代などを例にとるとわかりやすいが、与党が定期的に代わることで政治の浄化が行われる、私たちが民主主義を考える時真っ先にアメリカを思い起こすのは、アメリカ合衆国ではかならず8~12年おきに政権が交代しているからだ(唯一の例外はフランクリン・ルーズヴェルトからトルーマン大統領にかけての時のみ)、「交代」とは主役の交代のことなのでそこでは当然の如く「浄化」が起きる、したがって主役だけでなくスタッフも変わりその結果新しい人にチャンスが与えられることになる、それまで当然と思われてきたものがそうでなくなることによりそこに新風を吹き込むことができる、物事には常に二つの側面があるためそれまでとは反対側の視点にたってその問題を捉え直すということは有意義以外の何物でもないが、それを交代なしに実現することは難しいのかもしれない
特に政治的にはどのような政策をとるにせよ批判は付き物であり故に民主主義の劣化をこそ避ける必要がある、完璧が存在しない以上、私たちは劣化をこそ避けなければならない、大統領(国家元首)の在任期間についてはおそらく諸々な意見があるのであろうが、4年×2期の8年というのはおおよそ妥当な線と言えるであろう
それよりも問題は「交代」が行われないことの方である
交代がないということは浄化がない、エースピッチャーが連投に次ぐ連投ということになる、MLBではピッチャーの肩は消耗品と考えられているようだがこの考え方はきっと正しい、だから継投が必要になる、間違いなく優秀なピッチャーであればあるほど先発完投を望むであろう、できればマウンドを譲りたくない、だがチームは勝利しなければならない、それが原則である、しかしどのようなチームでも右投げ速球派のピッチャーの後に左投げの技巧派ピッチャーが出てくれば嫌な思いをするであろう、交代は先発ピッチャーにとっては喜ばしいことではないがそれによってチームは確実に勝利に近づく、つまり交代とは「誰かの我慢」なのである、だが「勝利」という絶対的な目標がそこにある以上ここを変更させるわけにはいかない、政治の上ではそれは民主主義ということになる、政権が交代すれば誰かが我慢を強いられる、だがそれよりも民主主義の劣化の方がより重要な問題なのである
確かに一方でこのような意見もあるのであろう
政権交代がしばしば起これば政権担当チーム(いわゆるブレーン)のメンバーもしばしば入れ替わることになるため、一国家としての政策の一貫性が失われることになる
だがこのような意見はある重要な論点を見逃していることになる、それは以下の言葉で表されることになる
リストラ
これは言うまでもなくrestructuring、つまり再編成のことだがこの言葉は本来人員削減を必ずしも意味するものではない、だが我が国日本においてリストラが即首切りを意味しているのは実はそこにセーフティーネットがないからである、ではなぜセーフティーネットがこの国にはないのか?
確かにアメリカにおけるキリスト教のような精神的に統一された背景を持つ宗教がないということも挙げられるのであろう、因みに歴代大統領はほとんどキリスト教プロテスタントであり唯一の例外はカトリックのジョン・F・ケネディだけである、このことはアメリカの歴史には実は一貫性があるということを、つまり「場当たり的ではない」ということを雄弁に物語っている
だが原因はおそらくそれだけではあるまい、日本の場合既得権者の利益が保護され続けてきたという所におそらくはその一因があるのである
なぜか?ブレーンが入れ替わらないからだ、つまり政権交代の有無がこのような事態を招いているのである
精神的に統一されたバックグラウンドがない、にもかかわらず(いやだからこそ、なのか?)政権交代がないという現実は言うまでもなく政治的な次元での選択肢がないということを意味している、私は21世紀において重要な意味を持つ言葉として、すでに「循環」、「分配」、そして「多様性」を挙げているが何れも一強他弱からは生まれにくい概念だ、この三つの概念の対極にあるのは、「既得権益」や「既知概念」であり
つまり「今日の延長線上にある明日」である
政権交代とは一時的な政治的分断である、だがそこに統一された概念の継続(言うまでもなく、より理想的な民主主義社会の追及)があれば政権交代時において生じる隙間はプラスの効果しかもたらさない、なぜならばこのことによって「にもかかわらずノーチャンス」に終わっている特に若者たちにも行き場が与えられることになるであろうことが容易に推測できるからだ
すでに前書「曇天の日には収穫が多い」においてビートルズを例に出して、「自分が何を好きで何をやりたいかがわかっている」若者たちはそれ故に「訣別」とは無縁ではいられないと書いたが、これをここにそのまま当て嵌めてもある程度通用するであろう、明確なそして理想的な目標は時に訣別を生むのである、ではなぜ我が国ではそうなっていないのか?
それはこの国特有の情緒的な推察が選挙に対しても引き合いに出されているからである
それは理想と慣習の分離の相対化
やや硬い話になるが民主主義の理想を実現しようと本気で思うのであれば理想は慣習と分離されて然るべきなのである、だがそれをすれば父母や祖父母と違う投票行動をすることになる、「抗う」を知っている若者ならばこれができるのであろうが「大人の期待=将来の自分」で三十代を迎えた人々はこれができないのである、なぜならば彼らは「大人の期待=将来の自分」による利益を十分すぎるほど享受しているからである、「慣習」とはつまり「踏襲」のことである、別の表現を用いれば「異、または新参者の排除」である、「拡大」派にとって「循環」派は異である、また「拡大派」にとっていわゆる「いちげんさん」は新参者である、これは日本の拡大派が既得権益を重視していることのあらわれであるのかもしれない
「追求」と「分配」、そして「効率性」と「多様性」の関係も同じである
実は「反」と「異」は違う、だがこの国日本では「反」=「異」である
その宗教的背景がしばしば議論の対象になるアメリカ大統領選(ミット・ロムニー氏はモルモン教徒であった)のように精神的バックグラウンドの違いが争点になることはほとんどないにもかかわらずこのような状態に陥っているのは確かに腑に落ちないのだがなぜかこの国ではそうなっている
「大人の期待=将来の自分」は間違いである、「夢=なりたい自分」が正しい、なぜ前者は間違いなのか?民主主義と矛盾しているからだ、民主主義の肯定は文明の刷新と常に直面している、文明が日々新しく生まれ変わっていかなければ民主主義はいつか劣化する、だから前者は望ましくないのである、そして後者の実現ためには「抗う」が必要なのだが、それは我が国日本の特に若者の間では年々衰退の一途を辿っている
理想を追求すれば追及するほど慣習の打破、そして変化への積極的関与へとつながる、だがこの日本という国ではそうなっていないどころかその逆の方向へとまっしぐらである
「交代する、とは誰かの我慢」だが、その彼の父も祖父も伴に総理大臣経験者であるという場合、貴兄は果たしてその彼の対立候補に投票できるであろうか?
「すべての人に平等にチャンスが与えられる」
すでに民主主義の理想を私はこう書いたが、こう表現することもできる
「その出自や属性に一切関係なく、その素養と能力によってのみその人を評価、判断する」
だがこの理念はおおよその場合慣習に反する、なぜならばこれは具体的であるが故にここには外国人(異邦人でもある)が入ってくるからだ、私はすでにラグビー日本代表を例に取り、「志」という言葉をキーワードに論説を試みたが、この辺りは日本人にとってはたいへん敏感な問題である
とりあえず先へ進むことにしよう
前半のまとめPart2
前半のまとめPart2
さて前半のまとめであるが、前半のまとめを行う前に前書「曇天の日には収穫が多い」でのあとがきに述べられていた文言の確認を行いたいと思う
それは極めて厳しいそして現実的な選択を迫られたときの対応の仕方である
それは以下の二通りであろう
① それを行うことは私のプライド故に不可能である、したがって万難を排したとしてもそれを行うことはできずどのようなリスクを負うことになってもそれについては一人間として断固拒否する、なのかそれとも
② それを行うことは私のプライド故不可能に近い、しかし現実的な選択肢というものは現代社会を生きるすべての者に日々突き付けられている課題でありそれを排して生きることはできない、したがって明日の自分が後悔することになったとしても今日の自分の都合というものを優先せざるを得ず、極めて不本意ではあるがそれを受け入れざるを得ない、なのか?
この上記した二つの選択肢は言うまでもなく究極の選択でありこれを自らの日常にそのまま当て嵌めるという場面はおそらくそうはないであろう、また人によってはこのような究極の選択をすることすらないまま老後の生活に入るという人もまた決して少なくはないであろう、だが前半に置いて私が述べた善の分析後の決断と実践という話になるとやはりこの究極の選択について考察を重ねるということが避けられない課題となるのである
上記した二つの選択肢に私がこだわるのはそれが社会人のみならず14歳以上のすべての老若男女の特に成長過程においてそれがそのまま当て嵌まると考えているからである、そのような状況に幸運にして立ち入らなかった者も多いのであろうが、それは結果的な幸運であってこうすればそのような状況下に置かれずに済むと断ずることができるものではない、そういう意味では上記した二つの選択肢は究極の選択であるが故に同時に厳しい現実を僭越ながら上手く言い表しているとも思えるのである
ここでのキーワードは「プライドまたは矜持」である、また「人間としての尊厳」と表現しても差し支えないかもしれない、だがにもかかわらずこの両者(矜持、尊厳)の言葉から受ける印象ほど高等な話でも実はないのだ
学生の場合それはいじめであろうか
また社会人の場合それは仕事であり時に結婚であろうか
前者の場合それは「やらなければ俺がやられることになる」であり、後者の場合それは日常的な特に金銭の絡む取引になるのであろう
学校とは極めて限られた空間であるにもかかわらず中高校生の場合、それは彼、彼女にとって世界のほぼすべてであり、時間のみならず意識の大半をも占める存在である、その「狭くて小さい」空間と日々交わされる情報はしかし感受性の強い世代にとってはどのようなものであれ彼らが構築する半ば空想による期待と実績の世界の中心に位置するものであり経験者ではあってもそれは大人たちが容易に入り込めるものでは必ずしもない、14歳であれ、17歳であれそこには大人たちが踏み込めない、言ってみれば聖域があり故に青春時代とは何もいいことがなかったとしてもすべてを吸収できた瞬間の連続としてたそがれの扉を開けた後も尚輝き続けるのである(懐メロが存在するのは青春が色褪せないことの証明である)
中学生はバイクに乗れない、そして高校生は車に乗れない、所有がないのに輝くことができるのは人生でこの時期の間違いなく思い出に刻まれるであろう幾つかのその瞬間だけである、したがって大学生になるとバイクも車も身近なものになるため空想からは解放されるがしかし工夫が減る分輝きは現実を帯びたものへと変化する
また青春とは一方では連帯であろう、高校時代の方がそれ以降よりも生涯の友人を作りやすいのはそのためでもあろう、だが一方で青春は「群れること」でもある、所有がないために単独で行動することが難しく、また校則を含む多くの規制が個々人の判断にたとえそれが優れているものであったとしても制約を課しつまり集団で動くことを強要する、だが協調は強い個性が発揮された場合容易に従属に変わる、そしてそれを知るのはその集団の一部の者だけなのだ、だからいじめは減らない、それが負の共通概念として教室の中で必ずしも共有されていないからだ、そしてここはすでに述べたように少年少女たちの聖域であるため(スマートフォンの普及は良くも悪くもそれに拍車をかけた)、大人たちには決して見えないブラインドがかかっている、もしクラスというものがもっと限定的な力しか持たずまた卒業に必要な単位の取得が時間的にももっと任意性のある弾力的な仕組みになっているのであればきっといじめは減るであろう、だがそうなればそこはもはや必ずしも聖域ではなくなるため彼らの一部つまり少しだけ成長の早い少年少女たちはそこからいち早く離脱し青春の輝きは今よりは統一感のないものとなるであろう、例えば甲子園はこれまでのようには高校球児たちで埋め尽くされることはなくなり、怪物たちの中には18歳ですでにMLBを明確に視野に入れそれに相応しい行動をする者も出てくるであろう(当然MLBのスカウトも動く)、そしてやがて甲子園は必ずしも高校球児の聖地ではなくなる
だが私は時々思うのだ、もう21世紀、それでも良いではないかと
はっきり言えばこういうことである
私がここに展開する論考は、最終的にはこの国から日本的な情緒のようなものの多くを取り去ることになる、普遍を優先するが故に個々のそこにしかない(正直な話、狭量なものもある)特異性の強い個性を排除することになる、もちろん幾つかの優れたものは生き残り普遍との間を行ったり来たりするのだがそれでも相対的には現状よりもはるかに減少することになる
旧いものが廃れるのではない、旧くても普遍性を帯びているものは廃れない、だが普遍とはつまりuniverseであり、domesticとは一線を画する、この私論の最終章にある象徴的な言葉はグレートターンつまり帰郷だが、これは私たち人類が皆心のふるさとに帰ることを意味している、したがってそこにあるのは個々の精神の中に必ずある普遍である、故郷を持たない人間はいない、そして帰るべき場所を持つのは日本人だけではない、故にグレートターンはuniverseなのである
翻って日本の文化である、日本の文化=狭量ではない、しかし鎖国の時代が長かったせいであろうか、この国には独自の解釈というものが実に多く蔓延っているようにも思う、ここで私が想起するのは中国である、中国は訪れたことはないが日本とは多くの点で異なっているように私には思える、それは第一に歴史に注目することで理解することができる、中国は長大な歴史を持つ国であるが、ヨーロッパもまたそうである、そしてこの二つの地域は歴史的に長くつながっていた、そうシルクロードである、このシルクロードの歴史が両者の間に存在していたことはきっと将来何らかの大きな意味を持つことになるような気が私はする、シルクロードいや貿易、または交易と言い換えてもよいであろう、それを現在の言葉で言い換えると何になるであろうか?答えはネットワークである、かつて中国とヨーロッパの間には歴史的にも無視できない強力なネットワークが存在していたのだ、物の行き来は言うまでもなくイコール人の行き来である、マルコ・ポーロはその代表格であろう、そして行き来する物や人によって、つまり「つながる」ことで両者間には相互理解へと発展する可能性のある何かが構築されていくことになる、そういえばシルクロードには陸だけでなく海のシルクロードと呼ばれるものもあった、おそらくそれらは政治に先行していたのであろう、政治に先行するものはまず経済、商業そして宗教であろう、日本にやってきたヨーロッパ人の第一号も宣教師であった、そして鎖国以降も清とオランダとだけは交易を続けた、政治は貿易、交易よりも優先されるものではなく故に国と国または地域と地域の関係においては、つまり国際間の「つながり」においては二番目の存在なのかもしれない
翻って再び日本である、日本には中国におけるシルクロードのようないわゆる「つながり」が果たしてヨーロッパとの間にあったであろうか?それどころかその逆になっていなかったであろうか?
ヨーロッパ人の日本観または日本人観に中にステレオタイプ的なものがないとは言い切れないのであろうが、文化的にそして精神的に強い影響力を持つヨーロッパ人との間に単純化された固定観念が多く入り込むことはおそらく長期的にはマイナス要因にしかならないのではなかろうか?私たち日本人は皆が土産物屋を営んでいるわけではない、日本人の中にもある普遍性を半ば無視する形でその(ヨーロッパ人の)認識を「極東の特異な文化、教養を持つオリエンタリズム溢れるワンダーランド」で終わらせるわけにはいかない、それは私たちのためではない、これから生まれる日本人のためにである、日本のロックバンド、イエローマジックオーケストラは今でも欧米で高い人気を誇っているが、彼らは香港のバンドではない、(坂本龍一氏が映画『ラストエンペラー』のテーマ曲を手掛けたことで勘違いがむしろ広まった?)
果たして欧米人は日本と中国との文化的な差異(かなりある)に気付いているのであろうか?
さてそろそろ話を本題に戻そう
この21世紀おそらく私たち日本人が直面する問題は究極的にはこの言葉つまりuniverseで言い表すことができる、そういう意味では私たち日本人ももっと英語などの外国語に堪能であることが求められる時代になるのであろう、「善」はuniverseである、では「美」は?美もまたuniverseである、そして「平和」、「人権」、「自由」すべてuniverseである、そして「民主主義」もそうなるべきであろう、もはや日本の若者たちにとっての舞台は世界である、日本一ではない、世界一になりたいのだ、それはuniverseの宣布を意味し、domesticの衰退を意味するが、それはしかしにもかかわらず最終的には国益に適うのではなかろうか?そう思えないのは日本にシルクロードのような「つながり」の歴史が少ないから?だとしたら、もし21世紀以降様々な意味でuniverseが上記したような概念も含めて世界に遍く行き渡っていくという前提に立った場合、日本ではなく中国が東アジアの盟主となるということになるが…….
話は一旦逸れるが、先日遠藤周作氏原作、マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙」を観た、果たしてこの映画に描かれる「踏み絵」とは信仰に直結するものなのかそれとも道徳の範疇に留まるものなのか?キリスト教では偶像崇拝は本来禁止されているはずだが
日本人の特異な宗教的倫理観を描いているようにしか見えないこの映画はもし現在の日本人に尚も感銘を与えうるものであるとしたならば、日本とヨーロッパとの間には埋め難い精神的な峡谷が今も存在しているということになるのかもしれない、踏み絵を踏むことが棄教(キリスト教の教えに背くこと)に直結するとは私にはどうしても思えないのだが……
さてuniverseである
学生についてはもう述べたので次は社会人である
社会人にとってのuniverseとは何であろうか?学生同様それは夢でもあるのだが、それだけではあるまい、仕事の達成感とか、または一社会人として世の中の役に立っているという自負もまた含まれるであろう、「私はすでに社会人として独り立ちし、また家族を養っている」というプライドをその根底において支える自意識というものは肯定されるべきものでありそれ以外の何物でもない、特に私のように事業に失敗してこのような文章を書き連ねている者からすれば、出世街道を順調に歩んで行っている若者に対しては羨望以外何も抱くことができない、だがこの私論では「人はいかに生きるべきか」を善や信仰といった言葉をキーワードに「分析」そして「決断と実践」をテーマにしているのでここから先はやや不快に思われるサラリーマン諸氏も現れると思うがなにとぞご理解の上読み進んでいただけると有り難い
さてサラリーマン諸君、ここで私が述べるのはたった一つのことだけである
それは超高齢化社会における心の備えとでもいうべきものであろうか
人生百年の時代、特に我が国日本ではそうであろう
私はすでに夢とは若い時のためではなく五十歳を過ぎてからこそ必要になるのである、したがって若い時に夢を諦めた者が果たして五十歳を過ぎてから新しい夢を発見できるであろうかと書いた、僭越ながらこれは「余計なお世話」ではない、事実私たちの周りには「認知症」、「老々介護」や「おひとり様」、そして「家族葬」といった20世紀にはなかったような言葉が次々と現れ出ているではないか?このような言葉は今後増えることはあれその逆はあるまい
ではそのような超高齢化社会を私たちはどのように生きていけばよいのであろうか?
二十代、三十代そして四十代と立派に社会人としての務めを果たしてきた諸君らは実に模範的な日本人ということができるであろう、それは書や言葉によって讃えられるべきものでなく友人や後輩そして家族の感謝によってこそ裏付けられるべきものであろう、私には子はいないが父の日に娘から何かプレゼントを贈られるということが諸君らにとって何物にも代え難い喜びであることは容易に理解できる、実に羨ましい限りである、しかしだからこそその喜びをより永続的なものとするためにこの超高齢化社会について論ずることは有意義なことなのである
来るべき超高齢化社会を乗り切るためのキーワードとして挙げられるのは先に挙げた夢ともう一つ家族が挙げられるのであろう、だが二十九歳の時に生まれた子は父母が九十歳を迎えるころには還暦を過ぎることになる、20世紀以前は自分が九十歳まで生きるなどということは単なる笑い話であり想像すらできなかったのだがこの2017年、人生百年の扉はもう目前まで迫っている、だがすでに述べたように長寿というのはいかなる理由があっても喜ばしいものでなければならない、そうでなければしばしば徹夜までして新薬の開発やまた生理、医学上における科学技術の発展のために、信じられないほどの努力をしている学者、科学者の方々の苦労が一体何のためのものであるのかということになってしまうからである、彼らの努力はすべて報われるものでなければならない、なぜならば彼らの努力は必ずしも長寿のためだけのものではないからだ、例えば盲目の人に光溢れる世界を体感していただきたいと思うことは人間として、また医学に携わる者として当然のことであろう、また重い病気のために学校へ通うことのできない子供たちのために何かできることはないのかと模索することも同様であろう、ここには明らかにヒューマニズムの根底をなす精神的な何かを読み取ることができる、故にこの部分は決して否定的に見られてはならないのである、ノーベル賞には生理医学賞があるがしかしそれ以前の段階で彼らの辛苦は社会的に陽の目を見なければならない、すでに前書「曇天の日には収穫が多い」の「感じる力」の章で命こそが人間にとって最も大切なものであると書いた、また決して命よりも大切なものがあるなどと思ってはならないとも書いた、そう、命、命、さらに命、超高齢化社会というものは人類史上初めて「命の在り方」にスポットライトを当てるものとなりうるのである
ここで恐ろしいキーワードが登場することになる、私にとっては身の毛もよだつといってもよいその言葉とは、「安楽死」である
老々介護が悲劇的な事実を数多く映し出したとしても、だからといってその一方で安楽死が認められるような対処方法があってはならない、しかしおそらくは遅かれ早かれブラックジャックに登場したドクター・キリコのような闇医者(敢えてこのように表記させていただく)が現れ暗躍するであろう、だがいったい誰にその命の終わりを宣告することができるというのだろう?なるほどこれは究極的には死刑の問題とも絡む問題であろう、私は死刑廃止嘆願書に署名するつもりはないと言明しているがそれでも安楽死にはとても賛成することはできない、なぜならばドクター・キリコは安楽死を望む者たちの切り札になることである種の絶対者となってしまうからだ、しかし何度も述べているように人間は絶対者にはなれないのである
最高裁で死刑が決定してもそこには数多くの裁判官が関与したことになる、だが安楽死は違う、たった一人の闇医者によってそれが決定されてしまうのである、家族の同意がそこにあったとしても、こんな愚かなことが社会的に認められてよいはずがないのだ
人生というものが如何なるものであれこのような悲劇的な結末を迎えずに済むようになるためには私たちは今何をすればよいのであろうか?もはや扉は僅かではあるが開いている、待ったなしの瞬間が近づきつつあるのだ
超高齢化社会とは命の在り方を人類史上初めて人々に考えさせるものだ、そしてそれは「命とは何か」を問うことになり、結果的にせよ命とはその人のものであるとの結論に達した場合はドクター・キリコの出番となる(本人が安楽死を望むかもしれない)のだが、私は命とはその人のものではないと思う、では誰の者か?
命とは神のものだ
だからここにこの言葉が出てくる
Universe
日本人ならば「命」をどのように英訳するであろうか?
まずlifeであろう、また人によってはsoulとかspiritなどといった単語も併せて想起されるかもしれない
だが私にとっては命とはuniverseである、命とは普遍的然るに平等な価値を有するものである、したがってその命を粗末にすることは許されず、したがって戦争やテロは不可でありまた死刑というものも本人が希望するか否かに関わらず最高裁において決定されなければならない
ここでもう一度民主主義の基本理念としてすでに私が挙げた言葉を繰り返して見るのも有効であろう
人はその出自や属性に一切関係なく、その素養及び能力によってのみ評価、判断されなければならない
なぜこのような結論になるのか?
命とは人のものではなく神のものであり、故にそれがそこに存在したその時点においてすでに普遍であるからだ
命の始まりは誰が決めるのか?
神だ
ならば命の終わりをお決めになるのも神である
話を元に戻そう
人生百年の扉はすでに開きつつある、それを個々人の力で止めることはできないであろう、翻って命とは尊いものである、人間は絶対者にはなれない、したがって人間が個人の命の結末に関して決定権を持つということは断じてあってはならない、さてこの2017年においてすでに五十代に突入している諸君よ、諸君らはいまどのような感想をお持ちになっているであろうか?
人は生きなければならない、しかし生きるということのリスクが医学の飛躍的進歩故に極端に低くなっていくのだとしたら私たちは三十年後命とどのように向き合うべきなのであろうか?今五十代の人々は三十年後には八十代、そして死にはまだ早いということになっているであろう、そう、老々介護の真っただ中である、かなり高い確率でそうなることが予見される今、五十代の人々よ、明日起きて最初に何をするべきなのであろうか?
この章では前半のまとめをするつもりであったが、大幅にずれてしまった感がある、だが前半に述べたことの復習をここでするよりも結果的にはこれでよかったのかもしれない、この続きは次の章で述べることにする
21世紀以降の老後の過ごし方について
突然死および不治の病が急速に減少することと前例のない老後の過ごし方について
さて前章では前半のまとめと題して、究極の選択を例示したうえでそこを足掛かりに前半の論旨の総括を行うつもりであったのだがどうもうまくいかなかったようだ、だが僭越ながら結果的にはそれでよかったのかなという感もある
前章で示した究極の選択とはつまり人間としての尊厳を失ってでも今日のパンを求めるべきであるのかどうかということを問いたかったのである、私はこの私論において繰り返し「人はパンのみにて生きるにあらず」と述べてきた、したがってこのような究極の選択が頭をかすめるのは至極当然のことなのだが、一方で「今日のパンこそ優先されるべき」という考え方にもそのすべてにではないが迎合できる部分も幾つかはあると思う、ここでのキーワードは言うまでもなく命である
パン、つまり食糧摂取による栄養補給が適切に行われないと極端な場合栄養失調に陥りその結果何らかの合併症により命を落とすことにもつながる、したがって人はパンのみで生きるわけではないことは認めるがパンこそ優先されるべきものであるという考え方も一定の割合で正しいのであろう
だが究極の場面においてはパンではなく、「ダイヤモンドかプライドか?」という選択を迫られるような状況に立ち至るということは現実的には特に男性の場合はやはり十分考えられるのである
例えば人間の尊厳を失ったとしても余りあると思えるほどの報償(reward)を提示された場合など
命は数えられるものの価値ではなく数えられないものの価値の範疇に属する
だが大切なのは今日であり明日ではない、おそらくこれが多数派の意見なのであろう
しかし超高齢化社会を迎えようとしている今、明日は必ずやってくるのだ、望むと望まないにかかわらず、この現実を直視しないわけにはいかない
だがそれはよいことではないのか?
さてこの章で私が言いたいことは以下のことのみである
1960~70年代生まれの日本人は人類史上誰も経験したことのない領域に今入ろうとしている
人類史上誰も経験したことのない領域とは言うまでもなく人生百年の超高齢化社会のことである、そして医療の飛躍的進歩の一方でそれ以外の科学技術の分野でも大きな進歩が果たされようとしている
太陽光発電(再生可能エネルギー)、リニアモーターカー、AI、ドローン(流通革命?)、自動運転自動車(免許はいるの?)、宇宙旅行、人間による直接的な火星探査、超高速旅客機(東京~LAが3~4時間で結ばれる)、3Dプリンター、携帯言語翻訳機(まだ登場していないが近い将来必ず実現する)、そしてクラウドソーシングに代表される次世代型コミュニケーションシステム(故にdiversityとなる)
そして次世代型のノートパソコンやスマートフォンである
これらは私たち人類の生活の利便性の向上を実現させるが故にその副作用も深刻なものとなるであろう
翻って、超高齢化社会である
繰り返すがこれは素晴らしいことなのである
だが、1960~70年代生まれの日本人たちは気を付けないと、飛躍的な利便性の向上によってにもかかわらず人生を破壊されたその最初の世代になる可能性がある
確かに目先の利益にこだわらないと給料は上がっていかない、「明日でも遅くない」ことを今日やるという姿勢が続かないと大学受験にすら失敗する恐れがある、このことが意味するものは何か?
常にぎりぎりの所で勝負する、である
もし結果を求めるのであれば、この姿勢は否定できないであろう
だがこの姿勢こそが負け組はもちろんおそらく勝ち組の何割かにとっても長期的には強い精神的プレッシャーとなるのである、そこに待っているのは鬱か、不眠か、それともEDか、果ては何らかの薬物依存?
ここでは敢えて「勝ち組」、「負け組」という言葉を使ったが、すでに述べたように勝ち組、負け組の中にも上下が存在するようになるのであろう、これらが意味するのはすでに貧富の格差として現出している、もはや待ったなし、1960~70年代生まれの日本人は追い込まれているのである
さてこの1960~70年代生まれの日本人たちを私はどう呼べばよいのであろうか?1986~95年生まれの日本人たちを世間ではプレッシャー世代と呼んでいるらしい、幼い時からデフレ社会を生きているために安いだけでは物を買わない、安くて良い物だけを買うという癖、習慣がすでに身についているのである、売り手にとっては手ごわい世代ということができるであろう、では1960~70年代生まれの日本人はどうなる?
高度成長期のど真ん中に生まれバブル景気も経験している、ジャパン・アズ・ナンバーワンを知る最後の世代であり、しかし一方で不条理な偏差値教育も知っている人々でもある、「もしかしたら自分は成功できるかもしれない」という淡い夢を抱くことができた半面、バブル崩壊後は就職において苦労をしなかった世代として就職氷河期世代から冷たい視線を投げかけられるという負の経験もしている、事実今後彼らバブル期社員が大量に退職するとき企業はたいへんな額の退職金の支払いを迫られるのであろう、団塊の世代が大量に退職した時と同じである、そしてこの世代は年金という面で苦労することが確実である、また年金を受け取れたとしても消費税が大幅に上昇することが予想されるため生活は困窮するであろう、一部の人以外還暦後の再就職は望めまい、また老々介護という点では子、孫に負担をかけることになるためそういう面でも苦しい老後となる、そう、夢去りし世代
「かつては良かった」が知らず知らずのうちに口をついて出る、車も、オーディオも、腕時計も、一眼レフカメラも、50ccのスクーターでさえ彼らが熱中したものはほとんどすべて今の若者たちの関心をそそらない、この世代の人々は孤立しているのだ、夢破れ(最初から夢を諦めていたわけではない)、尊敬を得られず、そして精神的に孤立する、そう、彼らは降下しているのだ、降下、辞書で引くと英訳すればdescendとなる、落ちぶれるという意味もあるようだが、ディセンド世代、やや発音しにくいがとりあえずここではそう呼ぶことにしよう
では私を含むディセンド世代の人々はこれからどのように生きればよいのであろうか?
もう一度確認しておこう、人生百年の超高齢化社会は良いことなのである、還暦を過ぎてもまだ四十年あるのだから新たな夢を見つけそれを追えばよいのだ、安楽死は忌むべき言葉であり、このような言葉が新聞紙面を度々飾るようなことがあってはならない、人生は如何なるものであれ素晴らしいものでなければならないのだ、しかし何度考えても「夢」や「プライド」以外のキーワードが思いつかない、ディセンド世代は十代の頃あまり金銭的に苦労していない、したがって趣味に勤しむ余裕を持つことができたはずであり故に文化的な意味での知識、教養の度合いは比較的高いと推察される、またネットがない分、雑誌やレコード、CDの「貸し借り」を経験しており、友人もSNSによるつながり(face to faceではない)を重視する1990年代以降生まれの人々よりも多いと考えられる、相対的に見て豊かだが通信革命以前の不便さもあったために皆工夫をしたのだ、例えば高校生のロックバンドがそうである、気の合う友人が見つからず隣の街の高校まで訪ねて行ったりしていたのだ、例えばドラマーがいない時、楽器店の伝言板で同年代のドラマーの電話番号を偶然知り接触を試みることなどまったく珍しいことではなかった、幼馴染だけでバンドを組めるほど楽器のできる人が多くなかったというのもあるかもしれない、いずれにせよディセンド世代は工夫することの喜びを知っている、これは大きなアドヴァンテージである
さて先ほどから抽象的ではない具体的かつ詳細な議論に立ち至っているがここはこのままこの考察を続けよう
工夫は「~ない」から始まる、それは「知らない」であり「足りない」であり、そして「できない」である、ディセンド世代は「ゆとり教育」とは無縁であったため偏差値教育という点ではかなり苦労をさせられたが、しかし比較的金銭的に恵まれていたことも手伝って「感じる力」を育むことに成功した人も多いのでなかろうか?きっと文学に対する造詣もゆとり教育世代よりは深いであろう、たとえば音楽の分野でも彼らの青春時代はFM放送の普及と重なっている、ネットがなかったが故に彼らはラジオを聞いて音楽の知識を増やしていったのである、したがって人類史上初めての領域に入る人々としてはその素養、能力という点では実は十分その苦難を乗り越えていけるだけの力量を備えているともいえるのであろう、問題はただ一つだけである
「諦め癖」が身についていないかどうか?
Descendとは文字通り「降下する」の意味である、降下を知る彼ら(私も含む)はしかしともすれば諦め上手でもあるのかもしれない
「もはや日本は世界経済市場においてエースピッチャーではない、ワンポイントリリーフに切り替えるべきだ」これは懸命な考えでもあるのであろう、多くを望む時代は過ぎ去った、これからは節制を旨とし、過去のことは忘れよう、それでなくともバブル期入社組は余っているのだから
しかし、ディセンド世代諸君、諸君らはある点においてはプレッシャー世代以降の人々よりもおそらくは多くの点で優っているということが考えられる、それは以下の言葉でもおおよそ表現できるであろう
Creative
ここにまた「工夫」が来ることになる、PCに馴染むことが少なかったが故に工夫し、故に「手を汚す」ことも多かったのである、ディセンド世代は彼らが知らず知らずのうちに身についているかもしれない「諦め癖」をかなぐり捨てることができればそれは人生百年の扉を開くうえで何か貴重なアドヴァイスをその後継者たちに遺すことがきっとできるのである
まず諸君は考え、残すべく努力するべきである
何を?
言葉を
ディセンド世代は金というものがいかにあっという間に雲散霧消していくものであるかをこの百年の間では最もよく知る世代である、金はいくら稼いでも必ずしも幸福にはつながらずまた尊敬を呼び起こすものにもならない、ディセンド世代は車に多くの金をつぎ込んだが、1990年代以降生まれはそのような父親の姿に憧れを抱くことはない、しかしだからこそディセンド世代は受け継がれていくものは「数えられないものの価値」の中にのみ存在するということをその経験から導き出すこともできるのである、「働いて、働いて、働いて、ポックリ死ぬ」だがそれは幸福な人生ではない、幸福な人生とは後継者に価値あるものを残せる人生のことだ、だから模索が必要であり故に「自分が何を好きで何をやりたい」のかを感受性の強い時期にある程度見定めておく必要がある、そのためには一定の知識と教養が必要になるが、ディセンド世代は偏差値教育(詰め込み教育)に苦しめられたその一方で金銭的には比較的ゆとりのある十代を送っているために、文化度は高いはずである、高校三年生、予備校の夏期講習を受ける、予備校講師から数冊の本を勧められる、偏差値教育故読書は必須、その数冊の本を読んでみる、感受性強い年齢であるために当然感銘を受け、大学進学後も読書を続けることになる(読書癖が自然に身につく)、ディセンド世代にはこのような経験をした人が多い、後はここに工夫が結びつくだけできっと彼らの老後は劇的に変わる
さてここで前章、前半のまとめの冒頭に登場した究極の選択が再登場することになる、プライドまたは人間の尊厳かそれとも今日のパンか?
すでに読者諸君はお気付きであろう、この問いはこの書の前半の冒頭で登場した「半分だけ水の入ったコップ」ともその根底において通じているものである
選択と解釈
そこに二つの概念がありそのいずれを選択するのか?
言うまでもなく物事には常に二つの側面がある故に定期的な攻守交代がそこで生まれその結果である浄化が行われる必要がある、どちらを選択するかは個々人の判断に100%委ねられているわけだが、重要なのは勝者と敗者が定期的に入れ替わるという客観的な事実であり、それは個々人の選択に影響を与えてはならないということである、最終的にはこれは結果ではなく過程こそが重要なのだという結論に行きつくのであるが、実はこれは普遍の概念とも絡む単純だが理解するには一定の条件を要するというおそらく日本人には苦手な分野の問題であるともいえるであろう、そしてここには忠義や誠意といった言葉はほとんど登場しない、もっと言えばこれはuniverseでありdomesticではないということになる
ここで一旦話を転じよう
私たちはいったい歴史から何を学べるのであろうか?
もし私たちが歴史から多くを学べるのだという結論に達するのであればそれは実に重要な意味を人類に対して発することになる、なぜならばこの瞬間結果第一主義者の牙城はおおよそ崩れ去ることになるからだ
歴史とはしばしば敗者の歴史である、いや、それどころか最終的に敗れ去った者の方が歴史の上ではそうでない者よりも多くの輝きを放っているということが決して少なくないのではなかろうか?ここが芸術の世界と異なる部分なのだが、例えば織田信長はどうであろうか?ナポレオンはどうであろうか?今となってはレーニンもこの範疇に入りそうである、ジョン・F・ケネディは勝者か?フィデル・カストロは22世紀においても社会の変革を成し遂げた者として肯定的に評価されているであろうか?
歴史をより深く知ろうとする者にとって歴史とは結果的事実の羅列ではなくむしろ過程の繰り返しの絵巻物のようなものである、したがって歴史を学ぶとはしばしば敗者からも学ぶということであり、これは結果だけを重視する姿勢からはきっと生まれ得ないものであり故に歴史においてはその結果のみで事の善し悪しを判断するのは禁物ということにもなるのであろう
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」とはよく言ったものだ、負けるとは故あって負けるということだ、そして人生においては一生勝ち組でい続けるなどということはできない
では過程とは何か?
私はここに普遍を観る
なぜか?
私たち人類は必ずや如何なることであれ「後で気付く」存在であるからだ
ここで予定調和という言葉が再び顔を出してもそう不思議ではあるまい、もし私たちが歴史から学べるものの中に「必然」があるのだとしたら私たちは未来を予見することができるということになる、そしてこの考え方が正しいのだとしたらそこには勝利のための一定の法則が存在しうることになる、奇跡の大勝利もある一定の条件を満たせば高い確率で実現するということになる
だが私は思う、奇跡は起こる、少なくともそう呼んでも差し支えないようなことは起きる、なぜならばこの世はすべて二つで一つであり去ったものは必ずや一定の期間経過後再びこちらに戻ってくるからだ、まったく同じものが戻ってくるわけではないが、どのようなものでも二つで一つである限りいつか戻ってくる、これは諦めてはいけないということを私たちに告げるものでもあり、また侮ってはいけないという戒めをもまた悟らせるものでもある
ただここが重要なのだが奇跡はにもかかわらず勇気やまたは意思の何らかの働きの結果生じるものではないということである、奇跡は必ずや「偶然」の結果起こる、したがって私たちはそれを予見することができないのであり、驚愕の度合いが強まれば強まるほど私たちはそれを「後で知る」ことになるのである
だが私に言わせれば偶然とは普遍のことである、予見が成り立たない以上そこに神を見出すことは十分可能である、ちなみに必然の中に神はいない、なぜならば偶然が「まさか」であるのに対し、必然は「やっぱり」であるからだ、必然は予定調和の拡大解釈を是とするため神ではなく人間の意思の中に奇跡を見出そうとする、このような考えを信奉する人は必然を追い求める人でありまたそれを運命と感じたがっている人々だが、未来が予見できるのであれば私たちは敗者からは何も学ぶことができないということになる、なぜならばおおよそ人間というものは口ではともかく実際には敗者にはなりたくないと思っているからである、「僕は大したことないから」などと言っている人ほど実は野心家である
だが歴史というものは敗者からも学ぶことができるという所にこそその醍醐味があるのである、これは偶然の肯定であり「まさか」の肯定である、そして神とは「まさか」の存在である、したがって神の永遠の沈黙は実は理に適っているのであり、もし神が沈黙を破れば神は「やっぱり」の存在ということになり必然ということになる、だがそれでは未来は予見できるということになる、恐れながらおそらくそれでは神の理想は実現しないであろう、つまり「まさか」とは偶然のことであり、偶然とは普遍のことである、そして普遍とは神のことである、故に奇跡は起こりうるものであり、したがって未来は予見不可能ということになる、そして同時にこれは敗者にも語るべき何かがあるということであり結果第一主義を否定するものでもある、結果第一主義は「未来は予見不可能」いう事実がそこに存在する限り、未来人にとって有益な何かを残すことにはつながらないであろう
また「敗者もまた何かを語る」とは以下の格言めいた表現にもつながるのであろう
私たちは負けたときに終わるのではなく、やめたときに終わるのである
これは挑戦し続けることの肯定でありまた決して諦めないという決意表明でもある、例えばスポーツの世界で25年ぶりにそのチーム(Aチーム)が優勝したとする、そのファンやサポーターたちは、平均して3年に一回のペースで優勝しているチーム(Bチーム)のファンやサポーターたちが決して経験できないような経験をすることになる、なぜならばそこにはAチームのファンやサポーターしか理解し得ないような言葉が生まれるからだ、そういえば我が国日本でも昨年の2016年「神ってる」という言葉が流行語となったが、これを主観的に捉えることができた人は幸福である、24年間負け続けたチームは「やめなかった」が故に奇跡を起こしたのである
かなり長い文章となってしまっているようだ、この続きは後ですることとしてそろそろ次の章へと移ろう
基準
基準
さて前章では、「突然死および不治の病が急速に減少することと前例のない老後の過ごし方について」と題して、1960~70年代生まれの日本人たちが人類史上初めての領域に今入ろうとしているその世界について述べた、私がディセンド世代と呼ぶこの世代は、人生百年という誰も経験したことのない世界の初めての住人になろうとしている、還暦後も夢を持つことができる者はより幸福になるがそうでない者はややたいへんな老後を送ることになるかもしれない、車もオーディオも腕時計もディセンド世代が熱中したものにその後継者は関心を示していない、時代は急激にしかも大きく変化し始めている、終身雇用も年功序列も過去のものとなる、しかもそれに代わる厳しい現実が日々ディセンド世代にとって都合の悪い形で現出しようとしている、尊敬されないばかりでなく消費税の増税により金銭的にも追い詰められていく、夢は潰え新しい友人を作ることもできないままただ徒に時間だけが過ぎていく、そして百歳
きっと安楽死が時代の中心の問題となるのであろう、だが自筆の書がそこにあったとしても人間の生死をたった一人の医師が決めるなどということが許されるのであろうか?だが時代はドクター・キリコを求めるのであろう、そうなった時、人の幸福を決定するのは何なのであろうか?
ディセンド世代が求めていたのは実は夢の実現ではなく人生の特に老後の保障であった、だが当時はこのような考えは理に適っていたのである、だから皆偏差値教育に疑問を持ちながらもそれに従ったのだ、だが時代は急カーヴを描いている、よく考えて見たら十分予想された事態であったのだがディセンド世代には振り返ることは許されていなかったのである、そう、僅かでも上を行くものがそこにある利益を総取りすることが当たり前だったのだから
それにしても変化のスピードが速すぎるという印象はある、だから誰もが戸惑い上手に現実に対処できないでいるのだ
すでに前章でディセンド世代は有り余る金銀も短期間で消滅することをよく知っていると書いたが、故に彼らのうち諦め癖のついている人々は夢も保障もないさらに加えて降下していく人生の中で、まだ死を想定するには早すぎるがためにただ目の前にある「するべきこと」に集中するしかないのである
果たしてディセンド世代に一発逆転はあるのであろうか?
だがここではそれについては後回しにして、別のことを述べたいと思う
この章のタイトルは「基準」である
さて前書「曇天の日には収穫が多い」をお読みになっている方々はすでにお気づきであろうがこの書では神の登場回数が少ない、だがこの章ではその神についての考察がその認識の根底を占めることとなる、前章でも「普遍」や「奇跡」について述べている、したがって基準について述べるのは良いタイミングであると判断したのである
さて諸君、頭の中の黒板の真ん中あたりにまずAという点を記していただきたい、そしてそのAという点の少し上の方にBという点を記していただきたい、そしてそのA点とB点を一本の線で結んでいただきたい、そしてB点の上部にC、D、E、Fととりあえず4つぐらいの任意の点を記していただきたい
では本論に入ろう
Aとは定点のことであり、つまり「私」のことである、そしてB点とは普遍のことでありつまり「神」のことである、そしてその両者を結ぶ線が基準である
私たちは物事の良し悪しを図る時に必ず自分の中にある基準をいわゆる物差しとして用い判断している、ここは誰にでもおわかりいただけることであろう、そして基準とはいくつかの分野に分かれているが大まかに言えば「時間」、「空間(地理的条件)」そして「能力」の3つである、そして基準は人生のある時点において本人の意識に必ずしも関係なく決まることの方が多い、例えばこういう例は今でも多いのであろう
ある勉学に優れた少年がいたとする、彼は優秀であるが故に私立の中高一貫校に合格し、彼と同様優秀なライヴァルとの競争に晒されることになる、そこで彼は見事に勝ち抜きそこに入学する以前とほぼ同じ結果を記録し続けることになったとする、年齢はまだ14~15歳だがその中高一貫校でも珍しいと思えるほど成績優秀であり、当然学校も親もつまり大人たちは彼に多くの期待を寄せることになる、そして彼は見事その期待に応えて最難関大学の最高学部に現役で合格する、そして本人も喜ぶがそれ以上に周りの大人たちが喜ぶということになる
さてここにはすでに彼の基準が明確に表れていることになるがそれはどこであろうか?それは大人たちの彼に対する期待を彼自身が明確に認識したその瞬間である、上記した例では14~15歳の時ということになる、ここが彼の基準である
彼はその後の人生の時間も、空間も、能力もすべてこの基準によって判断していくことになる
確かにそれ自体は問題ないのだが、重要なのはその基準が形成されたときの年齢である
私はすでに感受性豊かな時期は人生の中でも14~21歳くらいまでだと繰り返し述べてきた、その後はしばらく高い状態を維持するが早ければ二十代後半で下降局面に入ると、だから14~21歳くらいまでは多少無理してでも、古典文学などの優れた文化、芸術に一度でいいので触れてみるべきであると
人生における基準の形成は主観的には一度だけである、これはたそがれの扉を開けた後もそう変わりがない、したがってどのような経過を辿ったにせよ基準が一度形成されてしまうと、後で変更することが難しいということになる、また人生に保障がないということはディセンド世代によってすでに証明されている、したがって高い能力故幸福ではなく成功を優先させた場合でもセーフティーネットの不在により何らかの窮地に追い込まれてしまうということは十分考えられるのである、そのような時に彼の精神を救うのは一体何なのか?
基準に大きな影響を及ぼすのは二つ、つまり「数えられるもの」と「数えられないもの」である、だがこの両者は拮抗している必要がある、そうでなければ、豊かな人生にはつながらないというよりもむしろその時々の適切な判断力に狂いが生じてしまう虞があるということである、物事には常に二つの側面がある、そこを読み違えると重要なポストについている人ならば尚更のこと容易に「次の人」にとって代わられてしまうことにもなりかねないということになる
また「数えられないものの価値」は感受性豊かな時に育む必要があるため、14~21歳くらいまではこっちの方を「数えられるものの価値」に優先させる必要がある、ここで重要なのは「数えられないものの価値」は主観により判断される場合が多く、したがって大人たちがその代わりを務めることが難しいということである、この部分の決定権はたとえ12歳でもその少年少女の側にある、つまり幼少の頃よりどんなことでもよいので「時間がかかってもよいから自分で決めさせる癖」を身に着けさせることが重要であるということになる、そうでなければ22歳にもなって尚も「次は何をやればいいんですか?」が口癖の青年になってしまう虞がある、大切なのは答えを見つけることではなく課題を見つけることだ、だがそのためにはこの基準をあまり早く形成してしまうと課題は与えられるものだという考えが身にしみついてしまう可能性がある、これは恐ろしいことだ、13歳くらいまではともかくその後は課題のうちいくつかは自分で見つけるという癖を習慣づけることが大切であると私は確信する、偏差値は人生百年の時代においてそれほど大きな役割を果たさないということがディセンド世代によってすでに明らかになっている、これはディセンド世代には申し訳ないがその後継者たちにはよい教材となっている、つまり「人生とは量ではなく質である」ということが図らずも過度なマテリアルワールドを生きてきた人々によって証明されたということになる
高偏差値エリートの安定よりもバックパッカーの自由の方が価値を持つというのは社会に普遍的な価値をより多く根付かせるという点では好ましいことなのであろう、だが自分の人生を取り戻すには基準の再形成が必要になるのだがそれはそう簡単ではあるまい
さて先ほどの黒板に話を戻そう
A点は定点と書いたがこれは時に故郷のことでもある、故郷のない人間はいない、したがってB点が神であり普遍的な存在つまり「私」の対象である限りにおいて、そこに引かれた一本の線は基準線として人生において重要な役割を果たし続けることになる、ただここには問題もないわけではない
A点は時に故郷のことでもあるので、海外のいずれかの都市に生を受け、18歳くらいで日本に戻ってきて両親も伴に日本人であるので日本で生活の基盤を築こうと考えている人にとっては、定点であるA点が二つになることが考えられる、そうなると基準線は二本になる、また22世紀以降を考えた場合であれば火星に移住した地球人の子はそこで生まれた場合火星が故郷ということになる、そういう人は地球に戻ってきた場合やはり基準線が二本になるということが考えられるのであり、そういう場合はやや複雑な結末へ向かうことになるかもしれない、先ほどの黒板の例でいえばA点の「私」とB点の「神」、この両者を結ぶ線が基準線でありその線は一本ということになる、つまりそれは絶対的ということになる、それ故に、C、D、E、Fは相対的な点となり故に基準線との明確な区別が可能ということになる、だが線が二本であればどちらかに優先順位を与えなければならない、そうでなければ生活の基盤そのものがぐらつく虞がある、極端な場合「私のふるさとはどこ?」ということになる、これはやはり悲しいことである、彼は精神的にまるでボヘミアンのように漂う生活を続けることになるのであろう
これは地理的、空間的な例であるが、時間的な例でいえば、14~15歳で基準が決まった場合にも、大人になってから「僕は一体何になりたかったんだろう?」ということになる、これは故郷の喪失ならぬ青春の喪失である
誰でも皆人生のどこかで基準を決める、だがそのタイミングを誤るとまた二つの国籍を持つ場合などはそれは基準の形成に深刻な影響を与えるかもしれない
二十代で青春を歌いブレークしたシンガーはおおよそそこに基準線が敷かれることとなる、しかし五十代になればたそがれの扉を開け故に人生を歌うことになる、人生とは青春の延長線上にあるものとも定義できるのですべての青春歌でブレークしたシンガーにこの例が当て嵌まるわけではないのだろうが、彼の青春歌を聴きたくてホールに詰め掛けたファンたちは、人生をテーマに分析と提言を歌う彼の姿に以前ほどの魅力を感じなくなっているかもしれない、優れた楽曲であればあるほど時代を超えていく、二十二歳の時に作った曲にもはや五十歳を超えた今の自分を重ねなければならないというのはおそらく思うほど楽なことではあるまい、だが基準とはそういうものだ、一度そこが基準になるとそこから現実が枝葉のように分化していき成功したが故の時間の行き来を経験させられることになる、青春を歌って成功しなければ彼は45歳以降人生を歌って新境地を切り開くことができたのかもしれない、彼には成功の過去がないのだから誰も昔の曲をリクエストすることはないであろう、だが成功した場合彼は自身最大のヒット曲からシンガーであり続ける限り解放されないということになる、それどころかかつてのように青春を歌ってくれと、長年のファンからも言われるかもしれない、このように基準というものは彼の成功が大きなものであればあるほど新しい分野へのチャレンジを難しいものにしてしまう、彼は十六歳で天才と呼ばれた、ならば彼はその後も天才を演じ続けなければならないであろう、基準は時に自由と反比例する、優れていたが故に「あの頃の自分」との比較に苦しむことになる
17歳の時、それほど優秀でなければ大人たちは彼に特定された未来を押し付けるような真似をしないであろう(他の子に期待を託す)、それは彼の幸運であり彼は時に浪人ししかしそれ故にいろんな経験をすることができるであろう、彼は「均一」からおおよそ解放され、例えば小学生の頃に夢中になっていた時代絵巻を思い出したりしながら長期的なヴィジョンで自分の未来を予想することができる、かつてはこのようなことを誰も云々する必要はなかった、だが時代は変わりこのようなことを考えなければならない時代になった
人生百年の時代である
来年のことを言ってももはや鬼は笑わない、不謹慎だが、「働いて、働いて、働いて、ポックリ死ぬ」という幸福な時代は過ぎ去った、約束の九割は守った、にもかかわらず苦しい人生、破産は免れたがしかし終わりは見えず、もはや米寿を長寿とは呼ばない時代に突入した
果たして社会は安楽死を認める方向へと動き出すのであろうか?私はそれを絶望的な運命としてしか捉えることができないが、老々介護の現実はすでにレッドゾーンの領域に達しようとしている、そして選択権は尚も私たち自身にあるのだ
きっといつか誰かがこういうだろう
それでも戦争をやるよりはましだ
これは達観に似たしかし実際は現実から目を背けた意見である、そういう意味では悔しさも感じるが、だがこれは間違いではない、戦争は高い確率で私たちから選択権を奪う、今領土が奪われ婦女子が被害を受けようとしているのに何もしないという選択肢などそこにはないのだ、一旦火蓋が切られればきっと日常は人知を超え故に非日常となる
「戦争は始めるよりも終わらせることの方が難しいのだ」
このような考えはおそらく正しい、だからいくつかの悲劇は放置される、戦争を終わらせることができるのはそのような条件で断を決することのできる運命の人だけだ、長寿と聞いて「悲しい」と瞬間的に判断する人はいない、だが私は思う、人生に保障がないのであれば基準はあまり若い内に決められるべきではないと
空想的であることは少なくとも17歳くらいまでは彼、彼女の権利として社会的にも、そして家庭内でも認められるべきだ、幸福の天敵は比較である、だが15歳くらいまでは両親の幸福が即ち子の幸福であるのだ、だから少年少女たちを追い込んではいけない、なぜならばそこが基準になってしまうからだ
高校生が現役で最高学府を制することはなぜか多くの週刊誌を毎年賑わせているようだ、このような誠意に欠ける大人たちの態度は早急に是正されるべきではないかと私は考えるが諸君いかがであろうか?
何を為したかではなく如何に生きたか?
何を為したかではなく如何に生きたか?
さて前章では「基準」と題して前々章から一旦脱して、自分の人生であるにもかかわらず自分の意思を離れて決定されることもある基準について書いた、基準とは本来自分と唯一の絶対者であるところの神との二者の間に存在する線をもって判断されるべきものであるが前章ではそこからやや論点がはみ出して偏差値教育の方へと進んでしまった、だがこの21世紀においても自らの意思によって基準を設定することが許されていない少年少女も間違いなく多いと思われるため、そういう意味ではタイムリーでもあったのである、したがってこの章では前章で書き漏らした部分も補完しながら考察を進めることになる
前章ではディセンド世代が多くの代償を払ってくれたおかげでポスト・ディセンド世代はそれをよい教訓とすることができると書いた、つまり「人生とは量ではなく質である」と看做すことがより可能になったということである、このような前世代の遺した教訓はどのようなものであれ、現世代(特に若者層の世代という意味)の特に敏感な人々から迷いを取り去ってくれるという点で極めて貴重なものである、おそらくどのような時代であれ若い時にその全盛を極めた人は夭折すれば幸いだが(失礼だがそう思う)、そうでなければいつか自らの成功により負を痛感することとなろう、だが「成功しなければよかった」とはやはり言えない、なぜならば自分一人の力で成功できるほどこの世は甘くないからだ、多くの人々の協力の末ある意味自分の世界を極めたのだから、それでも「感謝の気持ち以外ありません」でなければいけない、だが一方で遅咲きの連中が神童と呼ばれた天才たちをしり目に四十歳を過ぎてから芽を出し始める、数字上はそのような遅咲きの連中が十代で名を成した連中を超えることはないが、天才であればこそそのような連中がついに大いなる迷いとブランクを経てついにその才能を開花させつつあることを知るはずだ、ここは常にトレンドばかりを追い続けている人々には決して理解されえぬところなのであろうが、本物の力を見破ることができるのは才能に恵まれた者たちだけだ、だが誰も十六歳の彼に「いつか才能が仇になるだろう」とは言わなかった、私はすでに成功した者は才能にも恵まれたのであろうが、同時に人にも時代にも恵まれたのだと書いた、だが十六歳でそれを客観的に理解できる少年少女はまずいないだろう、彼らはただその才能故与えられたレールの上をただひたすらそして時に従順に突っ走ってきただけなのだ、だがチャンスとは実はレールを逸れたところに存在する、だから人生において二度くらいであろうが豹変は認められるのだ、だが青春を歌って成功した者がそのイメージをひっくり返すことは難しいであろう、五十歳を過ぎれば二十代とはまったく違う考えを社会に対して持つようになる、それは至極当然のことなのに優れた楽曲は古びないが故に基準が変わることはない、かつては皆六十代か七十代で亡くなった、だからあまり将来の心配をしても始まらなかったのだ、だがもうそのような時代は終わった、「来年の事を言えば鬼が笑う」は過去のものとなり、まったく新しい時代が幕を開けようとしている、だが長寿は良いものでなければならない、「お迎えが来るのをただ待つだけだ」が老人の常套文句となるのであればたとえその国、社会がどのような経済発展を遂げたのだとしても、やはりそれは悲しすぎる現実である
「ロールスロイスの後部座席で泣くことになっても貧乏暮らしよりはまし」
それでも尚これを信じる者は多いのであろうが、2020年代以降に生を受ける者たちは、つまりポスト・ディセンド世代の次の人々はもしかしたら違う考え方を持つかもしれない
老々介護故の将来の不安を考えたら子供が三人は必要だ、故に住宅ローンの審査を通るだけの条件の整った人と結婚する必要がある、2DKのアパートでは三人の子を育てるのは難しいからだ
だがやはりここでひとつの疑問が生じるのである
ほんとうの幸せとは何か?
これは永遠普遍の問いであろう、そして人生百年の今、ついに誰もがその置かれた条件に一切関係なくこの問いを突き付けられる時代となった
かつて我が国日本では「安全、安心の右肩上がり」が当然の時代があった、そこでは誰もが勝ち組であり、「平凡」であることは即「勝利」を意味していた、能力のあるものは起業し、学歴にほぼ関係なく一発逆転の人生に賭けることができた、そしてそれはしばしば成功した、夢は地上にあり、ストイックの逆の概念である頽廃は成功のためのタブーではなかった(昭和40年の成人男子の喫煙率は80%を超える)、「普通」でありさえすれば「一人前」だったのである、だが本質的に物事を捉えることができるのであれば、たいへん失礼ながら皆と同じことしかできない人が給与という点において中級の上位に来るような生活をするというのは、やはり経済的に見て世界のトップに君臨する国家としては、何らかの矛盾をいつか抱えることになると考えられるのであろう
「成功」や「繁栄」がキーワードになり続ける限り、いつかこの国は「勝ち組」と「負け組」の二つに明確に分かれることになる
翻って幸福である
幸福とは何か?
新しい時代の扉とはいつも突然開くのであろう、そしてそうなった時、前時代の覇者はおおよそすべての条件でその時の最新のシステムの前に何の価値も持たなくなる、彼、そして彼らは「時代遅れのエリート」として当然の如く孤立していく、彼の肩書や経歴は一切意味を持たず「今何ができるか?」が問われる事態となるが、果たして今の彼に何ができるのであろうか?
必要な時に、必要な量を、然るべき人に、然るべき報酬で
21世紀はそれがすべてである
したがってこの言葉がついに出てくるのだ
自由
自由とは民主主義社会においては「理想的に自己を規律すること」である、だからネット上における不用意な発言やフォトの掲載は時に刑罰の対象ともなるのである、自由の反意語は権威、だが概念としての自由ではなく行為としての自由が伴うものは当然のことながら責任である
ならば発言者はそれがどのようなものであれそこに責任が生じることを予め認識していなけれればならない
自由とはいくつかの条件を満たせばどのような者でも過去や現在暮らしている地域に関係なくその能力を社会的に試すことができるというものだ、これは人や時代に恵まれてこなかった人々には大いなるチャンスではあるが、すでに功成り名を遂げた人々にとっては「過去の人」に成り下がる(表現は適切ではないがお許しいただきたい)危機的状況ということになる、おそらく日本人はこのような現実になかなか気づかないか、または気付こうとしないであろう、それほどまでに日本の二十世紀後半の繁栄は桁外れであった、懐メロが消滅しないように「懐古趣味」自体は無害なものだ、だが問われるものが「量」ではなく「質」になるとは、問われるものが「過去」ではなく「現在」になることを意味しているのである
貴殿がかつて何を成し遂げたかではなく今何をしているかが問われているのです
論点はこの問いをこの2017~18年以降は年少者が年配の者に対して発することになるということにある
何を為したかではなく如何に生きてきたのか?
もし夢があったのであればそれを叶えるために貴殿は何をしてきたのか?
ここで一つの仮説を掲げることは可能であろう
夢とは叶えるものではなく追いかけるもの、いや追い続けるものである、と
だからこそ「如何に生きるか」が問われるのだ
では夢とは何か?
夢とは幸福、つまり成功ではない
では幸福とは?
その状態つまり過程であり、結果ではない
だが金銭はその結果に対する報酬として支払われるのではないのか?
いや、これからはそもそも「如何に生きるか」を知らぬ人にオファーが行くことはない、なぜならば夢を叶えた人はその瞬間から「過去の人」になるからだ、時代は常に新しい人を求めている、この点はこの21世紀も20世紀と同様であろう、そして時代が下れば下るほど「今」が問われる、したがって21世紀とは「何を為したか」が問われるのではなく「如何に生きたか」が問われる時代となる
もう一度問う、夢とは?
感受性豊かな時期に育まれたインスピレーションが彼の中で最も永遠に近い価値を持つものと結びついたときに生まれる可視的な形よりはむしろ精神の高揚に近いそして当初は場合によっては言葉により表現することが難しいもの
だがここには一つだけ条件がある
それは善に結びつき得るものでなければならない
だからこの私論の場合、信仰が出てくるのであるが、それについては次の章で述べることとしよう
何を為したかではなく如何に生きたか?Part2
何を為したかではなく如何に生きたか?Part2
さて前章では「何を為したかではなく如何に生きたか?」と題して、この変わり行く社会は私たちの夢を、人生をどのような方向へと導こうとしているのであろうか、そしてそのような時代はある意味二十世紀的な価値観にこだわらざるを得ない人々にどのような問いを突き付けるのであろうかといったことを書いた
前章で書いたことを一言で言えば「保障、または保険の喪失」であろう、私たちが何を為しても、それはいつの日か過去のものとなる、二十世紀この国では経歴は華やかなものであればそれは還暦を過ぎても色褪せることはなかった、青春期の犠牲は実を結べば彼に「約束された未来」をある程度は保証した、したがって早ければ彼は十八歳で「明日を知る者」となりワンランク上の日常を手にすることができた、彼がそこに辿り着くまでに費やした程度の差こそあれその意思に反した行動はしかし明確な形となった時にはそれまでの苦しみの十倍の輝きを持って彼に他者にもわかる利益をもたらした、人生最初の勝ち組ともいえるこの十八歳たちは概ねレールを逸れることなく約束された未来をそのまま踏襲していく、そこにあるのは「納得」と「過ぎ去った出来事」、ないものは「後悔」と遅れた者だけが持つ「焦燥感」
十八歳とは第一志望を手に入れた者とそうでない者との人生最初の分かれ道、そして反抗した者が少しだけ劣等感を従順な者に感じるその人生最初の挫折、
「抗した、にもかかわらず大人たちを納得させる結果を残した」者たちを除くすべての抗った若者たちは多くの場合大学受験の結果と考えられる第一志望の壁の厚さにしばし感傷的な春を過ごすことになる、彼は生まれて初めて「遅れる」人となるのである
当たり前と思っていたものが当たり前でなかった時の衝撃はどのような分野であれ青春期を送る者には大きな傷跡を残す、おおよそ若者たちにとっては自分にとって「都合の悪い」ことは「当然のこと」とはならない、モラトリアムの期間にあることを十八歳にもなれば認識できるので「やり直せる」と「赦される」が混同されて「やり直せるが今回は赦されなかった」がすぐに理解できないのである
だが私はこう思う、青春期の早い時点で「負」を経験した者は幸福であると
私はすでに、正しか知らない人は不幸であると書いた、これは歴史に多く触れることによって間接的にではあるが確認することができる、日本史であれ、世界史であれ歴史を私たちが学ぶ上での醍醐味は、敗者からも何かを学ぶことができるという点にこそある、故に歴史とは結果ではなく過程なのだ、結果がすべてならば私たちは敗者からは何も学ぶことができないはずだ、勝者の歴史だけを知ればよいということになる、もちろんこの世についに一度も負けることのなかった人など存在するのかという根本的な問いもまた一方に存在するが、負(文字通り敗れるという意味も含む)を知ることによって私たちは物事には常に二つの側面があることを知るのである、そして私たちの認識における物事への対応にも常に二つの仮定とそれぞれの対処方法が必要になる、そうすることによって初めて「行ったり来たり」が可能になるのである
ならば負とは早めに経験した方が良いということになる、可能ならば最初に経験するべきであろう
ここにはすでに述べたfullを避けることの重要性もまた絡んでくるのであるが、つまり最初に失敗すればもうfullについては考える必要がなくなるからだ、これは後悔を排除することさえできれば自由という点において実に有意義な勝利であり、正(うまくいった)と負(うまくいかなかった)の両者を取りあえずfullに成功した者よりも早く経験できるという点においてほろ苦いものであるが、しかしアドヴァンテージを得ることができるのである、つまりnot fullを受け止めることによって精神はそれだけより多くの弾力性を有することになるのである
100点を取り続ければ、100点という結果を出すことそのものが目的となり当初は問題ないのであろうが、やがて16歳にもなれば自分が何を好きで何をやりたいかが客観的にも確認できるようになるためそこには大人への移行期特有のジレンマが生まれることになる、だが一度両親の幸福を目にすると彼らの期待を裏切ることはできないという気持ちの方が先に立ち、言い出せないまま18歳になる、だがそれほど優秀でなければ彼はその割合に応じて自由を得る、17歳前後においてついに彼らは自由とは「選択の自由」を意味するのであって「何もしない」を意味するのではないということを知るのである、故に彼はその人生で初めての決断をする、彼は自らの意思と経験によって自分の進むべき方向というものを見定めなければならないしまたその能力も17歳であればすでに備わっているであろう、故に「感じる力」が重要になるのであり、主観と客観とが拮抗し並走することでそこに彼にしかわからない秘密の暗号が生まれる、その正体を知るのはおそらく21歳くらいになってからであろうが、問題なのはそれを知ることなく19~20歳になることである、「優秀故言い出せない」が人生百年を考えたときに致命的な結果をもたらす事態にこれからはなっていくのかもしれない、周囲の喜びと自身の喜びとの間に厳然として存在する差異、だがそれがあるということが最終的には精神的な意味での救いにつながるのだから、それがない人々よりは幸運なのである、最も苦しいのはついに自分だけの世界のかけらも見つけることのできないまま、にもかかわらず周囲の期待とまったく同じ未来を描くことに何の疑問も持たずに昇進していく人々の方である、だがこの2017~18年、このことに気付いている日本人は果たしてどれくらいいるのであろうか?
さてここで少しだけ基準に話は戻る
私はすでに「積極的な失敗の連続が彼にしかわからない法則の発見につながる」と書いた、だからチャレンジすることが重要なのであり結果をやみくもに求めることは若い時にこそ発見可能な自分だけに当て嵌まる法則を見逃してしまうことにつながるかもしれない、と
まだ書いてなかったかもしれないのでここに記しておこう
① 積極的な失敗を重ねること
② 成功を重ねること
③ 消極的な失敗を重ねること
青春期においてだけではないであろう、おそらく三十代においてもこの順位は変わらないであろう、積極的な失敗を重ねることは成功を重ねることよりも上位に来るのである
なぜか?
基準の形成をそれだけ遅らせることができるからだ
確かに一芸に秀でた人というのはいる、ピアノやヴァイオリンがそうであろう、絵画やデザインもそうであろう、またスポーツがそうである、将棋もそうであろうし、また数学などもこの範疇に入るのではなかろうか?
だが正直な話この範疇に入る人は僅かである、チャレンジすることは大切なので諦めるよりはましだが16歳くらいになったら冷静に分析することを始めることも必要であろう、ここでもあまり優秀であると優秀故言い出せないということになってしまうので大人たちの配慮にも期待したいところではあるが
芸術の世界の最大の特色はそこには満点がないということである、例えばブラームスの交響曲第一番、これをフルトヴェングラー×ベルリン・フィル版と、カラヤン×ベルリン・フィル版とで比較すると、どちらにも軍配が上がることになる、かつては前者の方が優勢だったようだが今やそうではない、フルトヴェングラーには彼なりの、またカラヤンには彼なりの特色があり、それを客観的に論評することは自由だがおそらくあまり意味のないものであろう、ブラームスの交響曲は多くの指揮者とオーケストラによるCDが発売されているのでそのすべてを聴くことはとても時間的にも難しいが、できるだけ多くにチャレンジして自分なりの答えというものを見つけ出すことが大切なのではあるまいか?
中には買わなければよかったと思う演奏もあるかもしれない、だがそれこそ財産であろう、期待しなければそのCDを購入することはしないであろう、期待していたが故の落胆、だがその落差とはつまり貴兄の個性のことではあるまいか?もしそこに誰か他者の発言なりが入り込む余地がないのであればつまり純粋にオリジナルの判断によりその落胆が生まれたのであればそれは貴兄の成長を証明するものであり、積極的な失敗(当初は期待していた)によって甲と乙の区別(ここでは甲の方が乙よりも少しだけ優れているという意味)がついたということであろう、もっとも憂慮されるのは名盤といわれるものであったとしてもAとBの区別がつかないこと、または評論家の受け売りをしてしまうことである、いずれも16歳までは問題ないが17歳以降であれば残念なことである
基準の形成はそのタイミングがずれるときっとボタンの掛け違いを修正するのに相当な年月を要することになろう、またその範囲のてっぺんまで行けたとしても彼の後継者は彼から多くを学ぶことはできないかもしれない、なぜならば目覚めた者はたとえすでに三十歳を超えていたとしても、おそらく決断しそこから離脱する可能性があるからだ、決断する人とは優秀な人ではない、決断する人とは予感のある人のことだ、そしてこの予感がいってみれば彼にしか分からない秘密の暗号のことなのである、時に偏差値的に見て最難関大学を出て有名企業に総合職として就職したにもかかわらず早い時点でそこを離れ独自の路線を刻む人がいるがそのような人にはおそらく予感があったのであろう、多分彼が欲しているのは「納得のいく人生」、これは必ずしも善が担保されていないのでこの私論においてはあまり重要視されない文言であるが、しかし善または日本人的には誠意でもよいがそれを当然のことと彼が受け止めている場合には例外的にこの私論においても扱われるべき文言でもあろう
善、そろそろこの言葉に着目するべきであろうか
言うまでもなくこの言葉が出てくるということは信仰や普遍が出てくることになるが、善という信仰を前提とした場合のみではあるが普遍の要素足り得る概念が登場したということは、この「何を為したがではなく如何に生きたか」が最終段階に入っていることを意味している
実は「為す」の対象も善を基準としたものでなければならないはずだが、しかし「為す」とは結果のことであるので正直に言えば道徳とはおおよその場合において一線を画しているという印象がある、そこが「如何に生きる」という明らかに過程重視の概念とはその性質を異にしている部分であると言える
「為す」とは多くの場合「作る(創る、造るも含む)」である、これは形あるものではないものつまり法律なども含むのだが自らの基準に沿うというよりはむしろ社会の基準に沿ったうえでの行為と考える方が一般的であるかもしれない、また「為す」の先にあるものは「繁栄」でありまた対象を「興す」であり、そして最終目的地は「拡大」である、また「拡大」の前提になっているのは「所有」であり、その「所有」は「産」や「定」または「潤う」といった言葉によって表される概念にその底辺において通じている印象がある、しかしこれらを資本主義的概念と一言で片づけることは不可能だろう、なぜならばこれらは人類にとって有史以来の特に政治的な活動のその目的としてつまり民意(周囲の人々)を味方につけるために活用され続けてきた決まりきった文言であり概念であり解釈であるという印象が強いからだ、ここには資本主義も社会主義も、いやそれ以外もまだない、「為す」とは「子をなす」も含め原始的な人間の「動的」な部分のいってみれば総称のようなものであり、ここでは予断を排し善というキーワードのみを中心に置きしかし可能な限り中立的に論じるべきであろう
その「為す」に対して「如何に」とは方法論の問題でありまた道徳の問題でもある、文章を書くという行為もそうだが出発点と目的地とを結ぶ線というのは無数ではないがしかしかなりの数ある、目的地は私の場合善であるから、後はそこまでの経路の選択ということになる、ここに「為す」が必要以上に入り込むと、「為す」とはしばしば「損得勘定」という言葉をその主体に想起させるので、それが最も望ましい選択肢というものを時に見えづらくしてしまうかもしれない、このことは実は「大人の期待=将来の自分」であるときにはむしろ本来相反する二つのものが実に本人に都合よく並走するという点で、表現は悪いが「いい子ちゃん」にはスムーズな日常を供給し続けるものとなる、だが個人的にはこのような例が多く見られるような現象はおそらく新しい価値の創造という点ではいささか問題であるのかもしれないと思う、なぜならばここには「抗う」がないからだ
社会的に多くの共感を直ちに得る作品の中に芸術的にも普遍性があると看做される価値を見出すことは難しいのかもしれないなどというつもりはない、というのも芸術の対照的な概念でもある大衆という言葉の中にある種の持続可能な性質を見出すことはある意味可能なように思えるからだ、特にマスメディアの発達した二十世紀後半以降の社会においてその時代を見事に反映する大衆的な作品というものは映画、音楽、文学など各々の分野に関係なく多数現れ出でており、それらの中には芸術性は乏しいにもかかわらずその時代を振り返る時には必要不可欠なものも多いと私には思えるのである、確かに売り上げという点では記録を作ったが普遍性に乏しいが故に後継者が現れずに一時的な現象を生み出すだけに終わったような大衆的な作品または作品群もあったであろうが、そのような時代の波の副産物でもあるアマチュアリズムをここでは排するとしても、この21世紀、「芸術=甲」、「大衆=乙」とは言い切れない部分があるように私には思える、だがここまでラインを引き下げても「抗う」がない場合にそこに新しい価値の創造が可能であるかどうかは、やや疑問が残る
この部分はなにとぞ「普遍」をキーワードとして頭の片隅に入れたうえで読み進んでいただきたい、アマチュアリズムの排除についてはすでに述べている、したがって新しい価値の創造は「芸術」にも「大衆」にもその両方に当て嵌められるべきでありまた後者の代表は何度も述べているようにビートルズである
果たして普遍は多くの場合「抗う」から生まれるのか?
ここで私にYesと言い切れるだけの根拠はない、情報がまだ十分ではないからだ、だがここでお茶を濁すのはここまで書いてきた一文筆家としてやはり読者に対する礼節に欠けることになるのであろう、したがって50%をやや超えるほどの確信しか持てないが一定の推測によって結論をここに述べさせていただけるのであれば、やはりYesであろう
私は思う、ベートーヴェンとは当時のハードロックではなかったのか?
ここでは「狂気」という言葉を用いるつもりはないが、しかし芸術の中に狂気を見出そうとする人々はきっと今後も尽きることはないのであろう、この拡大解釈されやすい言葉は芸術の神髄を表現しうる言葉としてはすでに使い古されているという印象が正直な話、個人的にはある、やはりここでは普遍というむしろ宗教の分野において多用されている言葉で締めくくる方が適切ではあるまいか?
狂気に善が含まれているような感じがしないというのもあるが、もう一段踏み込んで表現させていただけるのであれば、広告用ポスターのコピーとして用いられるような言葉には僭越ながら真実は隠されていない、そのようなものも時代を映す鏡として百年後も尚失われるものではないということは重々承知しながらも私のように「神の使者は裏道を歩む」というある種の確信を持っている者としては、商業的なイメージさえある「狂気」という言葉は、芸術においてもその中心近くを漂うべき言葉としては不適格ではあるまいかと思うのである
さて話を戻そう
「為す」にはなく「如何に」にはあるものとは何か?
答えは「道徳」ではない、「為す」にも一定の割合でその主体者において道徳は存在しているであろうから、では何か?
その前に「如何に生きるか」から連想される言葉について考えてみよう
「模索」、「(社会ではなく)個人」、「ストイック」、「孤高」、「抑制」、「チャレンジ」そして「過程」、読者諸君の中にはすでにお気づきの方もおられるであろうが、私の場合ここに加えて「故郷」が入るのだ、そういう意味でも「何を為すかではなく如何に生きるか」である、さらに言わせていただけるならば、「如何に生きるか」には「何を為すか」にはない本質がある、両者の違いをこの本質という言葉で表現しようと試みることは野心ある方々には申し訳ないがそれほど的外れではないように思える、本質とは人生の本質であり、時に神の本質でもあろう、本質を追求すれば結果とはあらかじめ想定されるべきものではなく、その時々のモードの流れの結果たまたま遭遇した「その時点における取り分」を意味するものでしかない、そしてもしここに「共通」の目標達成のための望ましくない圧力がかかるとおそらくすぐにではないがいつかいわゆる金属疲労といった言葉から連想されるような状態に陥り、何らかの「破綻」が生じるであろう
なるほど「破綻」というのは上記した両者の違いとして挙げられる言葉の一つに入るであろう、「為す」は相対的に見て「如何に」よりも破綻に近い
それは「為す」が「共通」に属するものであり故にその結束を維持するために高い目標を掲げるがために逆風下では起きやすい事故をその優秀な頭脳をもってしても避けることが難しいからであろう
常にぎりぎりの所で勝負する
これは十八歳では勝ち組の勝どきの中に含まれていた表現である、自分を追い込み制限時間内に結果を出す、そしてそれに成功できた者が勝ち組となり「共通」のリーダーとしてそれを「為す」人となる、だがここで見誤っていけないのは目に見える結果というものはその時はともかく百年を超えるだけの普遍性を必ずしも持ち合わせていないということだ
ここでディセンド世代にもう一度登場していただこう
彼らは有り余る金銀のむなしさをここ数百年の日本人の中では最も知っている人々である
私はすでに前章で書いたことは「保障、または保険の喪失」であると書いた、僭越ながらそう的外れではあるまい、疾病を避けることはできても老いを避けることはできない、であるからこそ過程が重要になるのだ、それは夕べの祈りでありまた夜明けの安堵であろう、無事にその日が終了することの奇跡と再び目覚めることができたことの奇跡、何れも結果第一主義であろうがなかろうがそのようなことに関係なく理解できるものだが、「奇跡」が「軌跡」に通じるのであれば尚更のことそれは「結果」ではなく「過程」であろう、もとよりこの世に「より良い」明日を担保できるものなどあるはずはなく、これは1970~80年代において栄華を極めた経験を持つからこそ納得できる真実であろう、そして最後に「如何に生きるか」はこのような問いを私たちに突き付けるのであろう
かつて常識であったものが悉く破綻してしまった中で私たちはどのような未来を描いていけばよいのだろうか?
そう、時代は変わる、しかも短期間で
思い出の中の風景もメロディももう使い物にはならないのだ
今や時代はこのように進む、「効率性」と「多様性」の両方を担保できるものだけが人々の賛同を得たうえで生き残る
この辺りについては次の章で述べよう
ウイン、ウイン
ウイン、ウイン(Win win)
さて前章では、「何を為したかではなく如何に生きたか?Part2」と題して前々章に続き、この21世紀以降の激変する社会において特に20世紀の価値観に囚われやすい人々はどのような未来図を描けばよいのであろうかということを書いた
人生百年の未来は老々介護と消費税増税という半ば決定済みの負の精神的圧力をすでに日本人に強いている、これらは日本人である限りおおよそ逃げ切れるものではないために20世紀からの生き残り組は人生設計の根本的やり直しを迫られるのである、おそらくそれは容易ではあるまい、diversityはこの2017~18年を象徴する言葉の一つとして、30年後の社会でも通用しているであろう、「何かを為した」人は巨万の富を築く一方で生涯税対策に頭を悩ませることとなろう、また「何かを為せなかった」人は消費税増税に日々怯えながらもはや人生のやり直しをすることもできず、それどころか一部の人は失った夢(若い時にすでに諦めていた)を懐古することすらできないまま70歳から90歳までの二十年間の過ごし方に答えを見いだせないままになるであろう
このような悲劇は20世紀と21世紀が隣り合っているにもかかわらずまったく違う内容になることから生じるものである、20世紀に通用していたものは21世紀ではまったく通用しない、一部の普遍性を帯びることに成功していたものだけが新しいテクノロジー(AIなど)のもと復活してくるのだろうが、それ以外は信じられないほどのスピードで落下していく
自動車はすでに「所有」ではなく「利用」である
悲しむべきは20世紀の華やかな青春も一部を除いて廃れていくということだ、前章ですでに新しい文化の波の副産物でもあったアマチュアリズムは普遍性を帯びるものではないと書いたが、時代を極めたものであったとしても、そこに時代を超える価値がなければ後継者が現れない(現れても一時的)がために短期間で滅んでしまう、20世紀において大衆的なものは古くはなってもおおよそなくなることはなかったのだが、21世紀はどうやら違うようだ、新しい目標や夢を持つことができないafter 60はもちろん尊敬の対象にもならないままdescend(落ちぶれる)となる
怖いのは、20世紀の価値観が通用しなくなるため、かつてはある組織やまたはその分野においては一定の発言権を有していたものがまったくなくなってしまうかもしれないということだ、「頭の中にそろばんが入っている」はかつては誉め言葉だったのだが、しかし今後そろばんが会計ソフトを上回る時代になる(戻る)ことはおそらくあるまい
必要な時に、必要な量を、然るべき人に、然るべき報酬で
21世紀はこれがすべてである、彼の肩書や経歴は一切関係ない、もはや人ではなくAIに仕事を発注する時代がやってくる、学校でも英語や数学をAIが教える、そしてそれによってこうなるのだ
「効率性」と「多様性」の両方を同時に担保するものだけが価値を持つ
これがこの章のキーワードである
おそらくこの「『効率性』と『多様性』の両方を同時に担保する」は二つのものを壊滅させる、一つは懐古趣味でもう一つは忘新年会(つまり皆で何か一つのことをやる)である、懐メロは単なる懐メロでありそこから何か新しいものが派生していくことはない、忘新年会の二次会でカラオケに行くことはなくなりそれぞれが個別にグループごとにスケジュールを決めていく、カミナリ部長は消え失せその名残さえも感じられなくなるであろう、「同化」はなくなり「分化」が始まる、わかりやすく言えば、例えばサッカーでは代表チームではなく自分の贔屓するクラブチームを応援する、したがってその応援するクラブチームから代表が選出されない場合は代表チームを応援することはない、キーワードは「個人」であり「皆」は消え去る、そしてここが重要なのだがあっという間にこのように変わるのである
アメリカ第45代大統領ドナルド・トランプの評判がよくないのは彼が効率性重視のためには多様性が損なわれても仕方がないと考えているところにその理由がある、これは大きな誤りで、この21世紀、効率性と多様性は伴に担保されなければならないのだ
AIがそうだ、クラウドソーシングがそうだ、テレワーク(サテライトオフィス)、そしてウーバーがそうである、この21世紀になってから現れた言葉にはこの両者を担保するようなものが多い、この2020年前後に大きく起こる潮流は文字通り激流である、平凡なサラリーマンの半分は負け組であり故に自分の立ち位置というものをその年齢にかかわらず常に確認しておく必要がある、ふらふらしていると高学歴者であっても放り出されてしまうだろう
私はすでにオリンピックは効率性をパラリンピックは多様性を担保している、だからこの両者は分離して開催するのが望ましいと書いたが、しかしこの両者は連続して開催されなければならないとここで文言を追加するべきであろう、二者択一ではなくその両方をとる
まさにウイン・ウインである
だから私たちは少し急がなければならない、もう懐古は成立しない、慣習を踏襲することにはもう意味がなく、ルールは与えられるものではなく自分たちで作るものになる、株式会社ではなく協同組合のようなものが各地に生まれそれぞれが独自にネットなどを通じて情報を発信していく、ブランドという外側ではなくその中身が問われる時代になったのだ、時代を象徴するものまたは異彩を放つものはSNSによって拡散し、fake newsをチェックする機関によってお墨付きを与えられた情報だけが世界中に遍く行き渡り、品性に欠けるものは徐々にではあるが居場所を失っていくであろう、ネットだけではあるまい、社会全体がある言葉をキーワードに法とは別の動きを見せるようになるであろう、そのキーワードとはモラル、そう道徳のことである、信仰の一歩手前にあるこの言葉は新しいツールの出現の度に狂喜乱舞する精神年齢の低い者たちをしり目にじわじわとそしてやがて大きな勢力となって新しい時代の牽引役となるであろう、無論そうなるにはもう数十年必要であろうが、時代は二者択一からそれが社会的に望ましいものであれば両者選択へと変化していくことになる
ウイン・ウインである
このウイン・ウインは横軸となって縦軸であるギヴ・アンド・テイクとしばらくはイニシアチヴ合戦を繰り広げるであろうが、それでもおそらく「効率性」から「多様性」へのこの時代の潮流を元に戻すことにはならないであろう
ここまで書いてきて今私はある歴史的事実を思い出した
それはヴェトナム戦争である
この旧西側と旧東側との力が拮抗していたが故に1960年代に起きた悲劇は、ここへきてこの私論において実に大きなメッセージを発しようとしているようだ
私はすでにビートルズを引き合いに出して、確固たる意志のある所では、成功はあっても二つの言葉から彼らは自由にはなれないと書いた
その二つの言葉とは「犠牲」と「訣別」である
ビートルズのデビューから三年後に始まるアメリカ主導のヴェトナム戦争は、この二つのキーワードをまさに体現しさらに言えば大きな時代の転換期のきっかけとなった戦争である
「犠牲」についてはここで縷々述べる必要はあるまい、核が使われなかったことを差し引いてもヴェトナムの悲劇は今後も私たち人類に大きな課題を突き付け続けることになるであろう、だが彼らの苦しみは旧西側の人々にも大きな衝撃を与えた、平和と選択の自由とがヴェトナムの国民に与えられることはとりもなおさず南ヴェトナムが旧西側と「訣別」することを意味するが、しかしここにはこの「訣別」以上の意味が今にして思えばあったのである
アメリカ合衆国におけるヴェトナム反戦運動が異常な高まりを見せたのはおそらく1968年1月のテト(旧正月)攻勢以降であろう、それによってジョンソン大統領は大統領選不出馬に追い込まれた、また同年にマーチン・ルーサーキングJr牧師とロバート・ケネディ上院議員が暗殺されたことは混乱に更なる拍車をかけた、当時の人々はアメリカ以外の人々も含め、また若者たちさえもヴェトナム反戦を唱えることは「今私たちがなすべきこと」でしかなく、その先に待ち受けているものが何であるかなど想像すらしていなかったはずである、私はすでに1960年代は資本主義的なものと社会主義的なものとの力が拮抗し並走していたが故に新しいものが多く生まれた時代であったと書いた、ここで前言を撤回するつもりはないがしかしヴェトナム人が支払った「犠牲」はおそらく彼らさえも予想しなかったであろう一大ムーヴメントの序章となったのだということはここで追加したいと思う
何か得体のしれないそしてその瞬間はそれが正しいのかどうかも分からないようなエネルギーというものが必ずや人類史に大きな功績を残すような肯定的な動きにつながるとここで断言することはできない、しかし1968年ごろからアメリカまたはフランスなどから起こった動きというものは確かに五十年近くたったこの2017年においても間違いなくその後継者たちによって受け継がれ、それがおそらくは多くは直接的な作用をもたらし現実に大きな肯定的な影響を与え続けているように思う
それではその一大ムーヴメントとは何か?
それを一言で言うならば、ピープルズパワー(people’s power)ということになるのであろう、即ち民のことは民が決める、戦地に赴くのは若者たちであるが故にその是非も若者たちが決める、間違いなくそれ以前において戦争をするかしないかを決めるのは少なくとも国民ではなく政府であった、だが1968年以降、それは変わったのだ、これは人類史上初めて起こった現象である
共和党大統領候補リチャード・ニクソンは「ドミノ理論」を支持していた、ヴェトナムが赤化すればそれが東南アジア全体に広がり、やがて朝鮮半島もすべて赤化する、実はこのような考え方は当時普通であり故に韓国も南ヴェトナムに派兵している、ニクソンは大統領選に勝利し第37代アメリカ合衆国大統領に就任するが、彼が現在もダーティ・ヒーローとしての印象が強いということは、逆に言えば彼こそが時代の転換期の片側をつまり負の役割を担わされた文字通り運命の大統領であったということであろう、時代が大きなうねりを見せる時必ずや誰かが悪役を演じなければならない、彼はきっと今後も長い間名誉回復されないであろう(アメリカ国民にはたいへん申し訳ないが、「敗軍の将は兵を語らず」である)、しかし「犠牲」と「訣別」、この二つは確固たる意志が、彼らが正しいと信じる方向に向かって突き進んでいく時、ついには避けることのできない概念である、ヴェトナムは多くの犠牲を出した、そしてニクソンも負の大統領として歴史に当分の間刻まれることになる、では勝利したのは誰か?
People’s powerである
このpeople’s powerが最終的にはベルリンの壁をも崩壊させたとここで言い切ることはできないのであろうが、しかし21世紀へ向けての新秩序のための結果的にせよ何らかの布石を打ったとは言い切れるのかもしれない、なぜならばpeople’s powerには右も左もないからだ、そこにあるのは善か悪かのみである
もちろんそれが善であるかどうかはその時はわからない、人間はすべて「後で気付く」存在なので、その時点では手探りで「多分でこれでよいだろう」と少しずく前進をしていくしかないのだが、このpeople’s powerがどうしても無視できない、つまり人類史上画期的な(表現は平凡だがこの形容詞しかない)社会的ムーヴメントと位置付けられるのはこのpeople’s powerには後継者がいたからだ、その後継者とはこれである
Minority’s power
1968年当時これを予想していた人は僭越ながら一人もいなかったのではあるまいか、だが時代はそういう方向へと動いた、silent majorityという言葉はあってもminority’s powerという言葉はなかったはずだ、だがもはや流行語にもなったdiversityが21世紀以降の社会の流れをほぼ決定づけた
しかしよく考えてみればここに登場するキーワードとなりうるものはすべて恐ろしいものばかりだ、これまで大人たちから一切の異論なく肯定的に受け止められてきたものが急速にその力を減じていく、青春期において「大人の期待=将来の自分」であった者は、保障および保険の喪失をもっと深刻に考えるべきであろう
肩書は意味をなさない
有り余る財産も意味をなさない
そして大都市に住むことが意味をなさない
社会から中心がなくなり、一つの意志を中心にした無数の小さな輪が然るべき終着点に向かって各自、実に自由につまり時に休みまた時に走りしながら進んでいく、そこにあるのは自己完結
そう、minority’s powerとは自己完結のことだ、誰からも褒められない、社会的なステータスにも関心がない、だがそこには幸福感がある、そう彼は孤独ではないのだ
そして自己完結はある重要な結論を導き出す
それは、「探すべきは答えではなく課題である」
これは今後実に重要な社会的概念となる可能性があるのでもう一度述べさせていただこう
探すべきは答えではなく課題である
そう、課題とは与えられるものではなく自分で見つけるものである、したがってdomesticではなくuniverseとなり、また旅や読書がそのための重要なカギとなるのである
誰から言われたわけでもない、ただ自分がそうしたいから、そうするだけだ
この文言がこの21世紀以降は正しいものとして人々により扱われる可能性が高い、だがこの文言は善を必ずしも担保していない、故に信仰が道徳を上回るものとして認識される必要があるのだ
彼は学校に行っていない、また何らかの組織にも、企業にも属していない、だがそれは間違っていないのだ
なぜか?
彼は一国民として市区町村に属しているのだから
一市区町村民としてやるべきことをやればよいのである
なぜ善を奉じるのに何らかの組織団体に属していなければならないのか?
あくまでもそれは任意であろう
有所属で善を果たさぬよりも無所属で善を果たす方が尊いのではあるまいか?
指示ではなく意思で動くべきである
そしてその価値を決めるのはminority’s power、つまり自己完結に成功している人々である
おそらく彼らこそ未来人
だがそれについては次の章で述べることとしよう
Minority's power
Minority’s power
さて前章では、ウイン・ウインと題して、これからは「効率性」か「多様性」かの二者択一ではなく、「効率性」も「多様性」もという両者選択の時代に移るであろうと書いた、経歴などの過去のことではなく「今、何ができるか」が問われる時代、恐ろしいのはそのような変化が私たちが想像するよりもはるかに速いスピードで進行していくと思われることだ、ほんの僅かでも思考を停滞させているとあっという間に後れを取ることになる、どこに住んでいるかなどはこれからは関係ない、その時々において最もその需要に合った供給をそれに相応しい報酬で行ってくれる人が常に選択の対象となる、A→B→Cと来て次がDではなく突然Kになったりする、だが効率性と多様性の両方を担保しているのであれば、それは当然の選択なのである、だから慣習に囚われ過ぎているとその時はともかく思わぬところで敗北感を味わうことになるかもしれない、常にぎりぎりの所で勝負する、だがその舞台を誤るとそこにあるはずの「保障」を得ることができず、自分の番が回ってきたところで突然の制度変更による憂き目を見ることになるかもしれない、おそらく効率性と多様性の両方が担保されるべきであるという社会の流れは変わらないだろう、経歴も、経験も、資産も何も保障しない、では何が人生を保障するのか?
言葉である
そしてノウハウである
だがよく考えてみればこれは人間の社会としては当然のことなのかもしれない、なぜならば人間には知恵が与えられているからである、経歴と、経験と、資産が知恵によって大幅な変更を余儀なくされるということはあるまい、故にそこには豹変がないのである、それをすれば信用を無くしてしまう、「なぜおまえだけが赦されるのか?」と言われてしまうのだ、だから不本意でも昨日と同じ今日を踏襲していくことしかできない、すでに分け前を得ているが故に今更逃げ出すわけにもいかない、前もって安心という名の保障を得ることのリスクは自由を失うということだ、自由とは第一に選択の自由である、だが過去にこだわれば自由はその割合に応じて減ずる、明確な意思を持たない「今日を犠牲にして明日を楽しむ」人々は定期的に更新され、提示される幾パターンものセッティングリストを目安に人生設計を行ってきた、それはまるで保険の金融商品を購入する様に似ていたかもしれない、こうなればこうなる、A、Bの次はCでなければならない、そう、かつてはそうだったのだ、しかしその「かつて」こそ実は異常な時代だったのである
甚だ不謹慎な表現だが、「働いて、働いて、働いて、ポックリ死ぬ」という人生観が勤労者の意識の中にあったとき日本人は幸福だったのだ、余計なことを考える必要はなく、ただ、A、B、Cの次はDであるという「約束事」に従っていればよかった、だがついに恐るべき人生百年の時代が到来しようとしている、そう、こんなにも早くである
言うまでもなく時代は迷走する、これは至極当然のことであり、もしそうでなかったというのであれば、その時代は間違っていたということになる、正常でない時代に生まれた子たちが正常な時代に突入していく、だが特に我が国の場合その正常でない時代はあまりにも長く続いたのだ、だから今誰一人として先例に倣うことができないのである、先人の日記を紐解いてもそこにあるのは私たちがすでに知っていることばかりだ、にもかかわらずその前例のない事態に対処する術を誰も知らない、なぜならば知恵が蔑ろにされてきたからだ、なぜ知恵は蔑ろにされてきたのか?それは「私」という存在の対象が不明確なままバトンの引き渡しが行われていたからだ、ではこれからどうすればよいのか?今日本人は五里霧中の急峻な坂道を上っている、欧米の政情如何によってその都度国内の政治的意思決定が左右されるという事態は覆されないにもかかわらずdomesticがその勢力を伸ばそうとしている
Domesticとは何か?
自国ファーストのことである
自国ファーストとは何か?
効率性と多様性の両者選択を認めないということである
それはどのような結果をもたらすのか?
それは私にはわからない、ただ言えるのはカリスマ性のあるリーダーを中心とした巨大な円がその社会全体を取り込んでいくという時代は終わり、明確な意志を持つ小さな無数の円の集合体により社会が構成されるようになるということだ、これは一国の中心地に長くいる場合には決して読み解くことのできないパズルだ、なぜならばここにあるのは答えではなく課題そのものであるからだ、故に現時点では私も結論を導き出せないのである
People’ powerはその一方でポピュリズム(populism)を生む、だからこそ権威の反意語である自由を強く意識したうえでの言論、表現および信仰の自由が保障されなければならないのだ
さてここからは本格的にminority’s powerについて述べていくことになるが、その前に前章で簡単に述べた「帰属」の問題に触れておきたいと思う
前章では、彼は学校にも、組織にも、企業にも属していない、だが問題はない、なぜならば彼は一国民として市区町村に属しているからだと書いた、僭越ながらこれは実に重要な論点である、20世紀以前はこの帰属の問題とは私に言わせれば正常な時代ではなかったが故に一国民にとって非常に現実的な問題であり、つまり何かに属していなければ社会的体裁を保つことができないという状態にあった、故にサラリーマンは常に名刺を持ち歩きその都度自分が誰であるかを証明する必要に迫られていた、社会人であれば何らかの組織、企業に属していることが当然であり、帰属先に「市区町村」という選択肢はまったくなかった、だがすでに述べたように「かつて」の方が異常だったのである、なぜならば慣習の踏襲が知恵の有効活用よりも意識上において常に上回っていたからだ、このことは21世紀以降深刻な事態を招くことが予想されるので、とにもかくにも早く一国民それぞれ(役人ではない)が、この明日にでも深刻化する危機を認識する必要がある
貴兄はすでに一国民としてそれぞれの市区町村に帰属している、故に名刺を持ち歩かなくともそこに何の疚しさも感ずる必要はなく、正々堂々と日常において自分のやるべきことに専念していればよい、重要なのは「何を為したか」ではなく「如何に生きたか」であるので、「今私は○○をやっています」と言うだけで事は足りる、この「如何に」の中心をなす概念は言うまでもなく「善」である、貴兄が善を認識することで直ちに貴兄には今暮らしているその場所において有意義に存在するための資格が与えられる(神により与えられるのだ)、これは経歴や、経験や、資産を常に気にしている人には決してできない決断であり、またその実践である、神は人間を不完全に造った、にもかかわらず人間だけに豊富な知恵を与えた
なぜか?
その答えがこれから多くの人々によって導き出されていくことになる
「何を為したかではなく如何に生きたか」それが重要であると認識できる人々によって今後未来は切り開かれていくことになる
故に「何を為したか」にはなく「如何に生きたか」にあるものは「未来」ということになる
したがってそれを知る者は皆未来人ということになる
おそらく現時点においてこの未来人が認識するべきことは善ともう一つは効率性と多様性の両者選択の二つだけであろう、だがそれだけで当面は事足りる
18世紀イギリスより起こった産業革命は、ハードつまりマテリアルの革命であった、だが今世紀、すでにアメリカより起こり世界中に波及していっている第二次産業革命はソフト、つまりインマテリアルの革命になるであろう、interactiveやdiversityがそのキーワードとなる、地域も、年齢も性別も、無論学歴も関係ない、重要なのはその時々のニーズにその対象となる人が適合しているかどうかだけだ、それが意味するものは究極の自由、私たちはあまりにもその時々において的確な選択をするうえで余計な対象物に耳目を奪われ過ぎていたのだ、これまでは
故に今後は効率性という意味でもそのような状況は排除されていかなければならない、例えば相場から見て高すぎる家賃は非効率的と看做されるのではなかろうか、ではもっと家賃の安いつまり地方に住めばよい、今後は地域は関係ないのだから大都市に暮らし続けるメリットは相対的に見て薄れていくことになる、従来の暮らしのスタイルにこだわればこだわるほど彼の発言権は失われていく、なぜならば新しい人々は彼を支持しないからだ
2024年の夏季オリンピック、パラリンピック開催地に立候補しているロサンゼルスはスタジアムなど新規の施設を一切造らないことを言明している(ロサンゼルス市は2028年の夏季オリパラ開催地に決まった、施設の97%を改修で対応すると発表している、2017年9月記)、既存の施設の改修のみで対応すると言っているのである、これは実に画期的なことであろう、大切なのは感動という中身であってスタジアムという箱モノではない、そこにあるのはレガシーではなくメモリーである、対象にカメラを向けるのは誤りではないが真に感動的な風景は瞼にこそ焼き付けておくべきものなのかもしれない、そしてメモリーとは「数えられないものの価値」に属する
では肩書や経歴は「数えられるものの価値に」属するのかそれとも「数えられないものの価値」に属するのか?
この判断がこの章の前半のポイントである、マテリアルワールドの終焉とはその興隆期に散見された風景とは真逆の印象を特に若い人々に与えることになるのかもしれない、きっとそれは良い意味での裏切りの後にやってくる
核実験はもうできない、すでにマテリアルワールドは終焉した
ブルドーザーの果たすべき役割も大幅に減ずる、故郷に帰る人々が増えるからだ
スピードにスポンサーがつかなくなる、その瞬間を捉えることが大切なのだから、「移動する」よりも「待つ」ことの方が重要になる
おそらく間違いあるまい、10のレガシーよりも1つのメモリー、経験した数ではなく感動の深さ、そして感動とは日常の中にこそある
そういう意味では回帰はとっくにカウントダウンに入っているのだ、だがおそらく多くの日本人はそのことに気付いていない、ビバリーヒルズに暮らす人々が豹変し始めたら、時すでにタイムオーヴァー、日本のプレスはそれを「珍事」として伝えるのであろうが、とんでもない、そうなればこの国の方程式はもう国際的には通用しないのだ
そして「私は市区町村にこそ属している」と言える人々だけがそのような状況下においても唯一であろう、自分を見失うことなく明日を見つめ続けることができる人々である、帰属、それは地域であり故に故郷(心のふるさとも含む)、私たちが容易に過去から解放されないのはそこにあったメモリーが懐かしいメロディを連れてくるから
想い出とはそのようにいつも美しいものなのであろうか?
たとえそうだとしても、インマテリアルワールドの到来は時代の流れにこそ敏感なティーンエイジャーを短期間に取り込んでしまうであろう、そしてそれまでは先頭を走っていたものが最も遅れる者となる、上からの革命は長続きしないが下からの革命は民主主義故に国境を超える、そうなればもう「日本では~」は意味をなさなくなるのだ
Universe
だが逆転を受け入れることができない人々はそれでもdomesticにこだわり続けるであろう、だが皮肉なことにその反動的な動きこそが「グレートターン」の呼び水となるのである
守旧派(マテリアルワールド支持)の恍惚と回帰派(インマテリアルワールド支持)の孤独、だがここで見誤ってはならないのはむしろ前者の方にこそ逃避の兆候が見られることだ
光の中への逃亡
しかしこの逃亡は時代によって半ば常識化しているため誰もそこに異論を挟む者がいない、故に気付くことが遅れた者はいつしかしんがりを行くことになる
これはつまり「同化」から「分化」への移行
巨大(mega)の終わりであり、私的共同体(small world)の始まり、そして俯瞰すれば「共通」の終わりであり、「個別」の始まり
すでに2000年の周期で歴史は動いているのかもしれないと述べたが、このような論考の展開もまた一興であろう、革命家の一撃によって世界は変わるのではない、一私的共同体の日常によって世界は変わるのである、事実ソヴィエト連邦はもう存在していない、そしてそれは人類の歴史においてはもはや普遍の衣を纏い始めているといっても過言ではないほどのものであるのだが、しかし第一次産業革命以降私たちの眼は曇っていた、なぜならばその対象を見つけることができなかったからだ、すべては二つで一つ、しかし第二次産業革命によってようやく東西の両横綱が揃うことになる、ビルディングの背が高くなればなるほど私たちはインマテリアルワールドの中にある未来を失うことになる
すでに「効率性と多様性の両方を担保する」は「懐古趣味」と「皆で動く」を壊滅させると書いたが、600メートル上空から眺める景色にはもう未来はない、なぜならば私たちは回帰していくからだ、600メートルの次にあるのは700メートルではなく500メートル、または400メートルだ、回帰故私たちはかつていた場所へと戻っていくのである
まずAグループが離脱する、しかしまだ多くのグループが対象の範囲内に残っているので誰も騒いだりしない、そしてBグループが離脱する、だがそれでも残留派の方が圧倒的に多いのでそうでもない、だがC、D、Eと徐々に離脱するグループが増えていく、そしてJグループが離脱するころになって初めて恍惚に身を委ねていた人は「もしかしたら」という思いに駆られるのであるが、だがおそらくもう遅いのであろう、なぜならば最初にAグループやBグループが離脱してもその時点では誰もそれを気に留めたりしないからだ、
Gグループが離脱したぐらいからようやく人々は騒ぎ始める、だがその瞬間、残留派の「利」はゼロになる、後はいかにマイナスを減らすかに関心が移る
あくまでも「利」にこだわるのであればAグループに入るしかない、だがそのためには一つの必須条件がある
すでに守旧派の恍惚と回帰派の孤独と書いたのでもう詳述はしないが、上昇は20世紀においてきっと見かけほどには多くを生まなかったのであろう、だが対象を知らない当時の人々はそこにこそ幸福な未来があると信じそしてそれを後継者たちに伝えた、そして前任者の指示はしばしば明白な結果となって表れた、故に「指示を待つ人」が増えた、数字がそれを証明していたのだから、だが対象が現れた今数字が保障する範囲は実は私たちが想像していたものよりもはるかに狭いということがわかってきた、インマテリアルワールドの登場である、ネットを通じて入ってくるモノや情報はむしろ不便を強いられていた地域の人々にこそ「何だ、こんなものか」という思いを抱かせた、憧れの中にあったものは未知(時に無知)故にもっと光り輝いていたのだ、若さ故の逞しい想像力に現実はいつしか追いつくことができなくなっていたのだ
車の両輪は揃っていなかった、だからこんなにも早くお別れが来たのかも
「指示を待つ人」は確実に数字を残したにもかかわらず、その後継者は「意思を持つ人」になろうとしている、「共通の憧れ」の消滅であり、「分化による個々の輝き」の始まりである、そしてそれを明確に知る者こそが孤独であるが故にAグループに入る
自分が幸福であるか否かは自分が決める
この当たり前の事実に至るまでに随分と時間がかかったものだ、アイドルとは偶像のことだが分化の時代において彼らが伝説となることはない、ただ一つのメモリーとして個々人の夢と現実の間を偶像らしく非現実的な存在として行き来するだけだ
さてminority’ powerであるがこの章ではほとんど触れることができなかったようだ、次の章で詳述したい
Minority's power Part2
Minority’s Power Part2
さて前章ではminority’s powerと題して、この2017~18年以降の時代の変遷はどのようなものになるのであろうかという考察を試みた
では「効率性と多様性の両方を担保する」が21世紀を読み解くキーワードとして存在するのであれば、このウイン・ウインの社会は私たちにいったいどのような恩恵をもたらすのであろうか?
経歴や経験や資産に関係なくその時々において必要な量の仕事をそれに相応しい報酬で引き受けてくれる人を、つまり社会のニーズを満たしている人を発注者は必要とするのであろう、ということは地域や、年齢性別、無論学歴などは関係なくつまり「今何がやれるか」が問われる時代となるのである、したがって一方では「保障と保険の喪失」という恐ろしい現実に対処しなければならないにもかかわらず、しかしもう一方では才能もまた資格もあるのに地域間格差のせいで仕事に恵まれなかった人々にもチャンスが巡ってくるというプラスの面もそこにはあるということである
Interactiveとは一方通行ではないということであり、diversityとは外国人でもよいということである、おそらく従来のルール(明文化されていないものも含む)にこだわる人にはこの「効率性と多様性の両方を担保する」はマイナス以外のものをもたらすことはないであろう、だが「意思を持つ人」を自認できる人であればすぐにではないが楽観できる未来をそれは保証するであろう、問題はその後継者の判断である、果たして後継者はどちらを選択するであろうか?
指示を待つ人と意思を持つ人
よく考えて見れば20世紀においてもっと注目されて然るべきであったこの論点は、数えられるものの価値がメイン・ストリートを突っ走っていたが故にかなり遅れて私たちの下へとやってきた、また我が国日本では指示を待つ人は確実に数字も残していた(高度成長期という時代の流れに救われていた)が故に彼らを否定することが難しかったという現実もあったのであろう、だが「抗う」ことを忘れた人々から新しい価値の創造がなされることはなく、ただ前時代の成功例の踏襲だけが盲目の若者たち(景気が良い時はかなりの数に上る)によって支持され実際には焼き直しでしかないのにそこには壮大な物語が隠されているのだという風に愚かにも私たちは錯覚していたのだ、だがそれは私たちが対象を持たなかったが故のことでありそういう意味ではやむを得ない面もあったのであろう
だが今時代は変わる
前章では帰属にこだわったが、しかしそれは肩書や経歴の無価値化が進むことを予感してのことだ、そして僭越ながらこの予感はおそらくそんなには外れていない、名刺がなければ外食もできない父親の姿は美しいとは言い難かった、美しいものだけが普遍足り得るのだ、それ以外はdescendとなる
これは21世紀の残酷な現実のその最初の一ページを飾るものだが、しかしその一方で「私の居場所」を確保している人には実は安心材料でもある、なぜならば多様性が効率性と少なくとも同等に扱われるべきであるという考えはこれまで負け組として片づけられていた人の復活を一部約束するものとなるかもしれないからだ、作曲家は契約を得られなくてもネットでそれを発表することができる、小説家も故郷を離れる必要はない、いつもの自分を維持したまま次に移ることができるのだ、
Advantageとdisadvantage、このあまりにも固定化され過ぎていたこの両者の関係は利益と自由が矛盾しないことが証明されつつある今大きく見直されてきているように私には思える
確かに日常を犠牲にすることで保証を得られると信じていた人々には気の毒な未来となるだろう、残念ながら彼らの信じた法則はもう通用しないであろうと思われるからだ、彼らは資産を残せるであろうか?だとしても言葉は残せないであろう、彼らの言葉は「意思を持つ人」とまったくその方向性が逆である、四十年間も働いてきたのに尊敬の対象と看做されないことは特に高学歴の人々にとっては屈辱的でもあろう、更に消費税の大幅増税が金銭的に老後の彼らの生活を縛るであろう、だが誰もこんなにも早く時代が変わるとは想像していなかったのだ、しかし時代の変化とは常にそういうものなのかもしれない
民主主義故下からの変化は国境を超えるとすでに書いた、だからuniverseになるのだが、そのように考えると個人にせよ組織にせよ独自の解釈というのは様々な方面で成立しにくくなるのかもしれない、やはりキーワードは民主主義であろう、民主主義の不安定要素の一つは反民主派にも選挙権、被選挙権が与えられているということだが、このことは選択をうまくやれば一気に変化と上昇を手にすることができる反面間違えば一気に降下していくという裏腹な現実を孕んでいるということでもある
だからこそ早めに時代の変化に気付くということが必要になるのだが、光による恍惚に目を奪われ過ぎているとそれは私たちの観察眼を幾分かでも鈍らせてしまうであろう、先頭を走っていたが故に余裕を持ち過ぎたのだ
A、B、C、Dの次はK
だが自由とはそういうことだ、そして自由は多様性を肯定し、また結果的に効率性をも担保する、なぜならば私たちにはそれらを活かせるだけの知恵があるからだ
すべては二つで一つ
600メートルのタワー、それは私たちは空中で生活することはできないということを結局教えることにしかならなかった、なるほどナンバーワンに価値がないということはナンバーワンになってみないとわからないということなのか
私は思う、ナンバーワンとはプロフェッショナルだけが抱くことのできる、つまり自分のスタイルを完成させた人だけが掴むことのできる称号のようなものなのであろう、と
だが光はプロフェッショナルではない人々にも利益を与えてしまった、おそらくアマチュアリズムの台頭は勝ち組に有利なシステムの再構築でしかなかったのであろう、故にアマチュアリズムの上昇気流によって利益を得た人は一瞬の輝きの後、後継者が生まれたにもかかわらず夢を失ってしまったようだ
だからこそminority’s powerとなるのである
思い出していただきたい、minority’s powerとは自己完結のことなのだ、だから彼らは必ずしも都会を必要とせずまた学歴も気にしないのだ
Minority’s powerを語ればやはり以下の文言が再び最終的な結論として導き出されることとなる
探すべきは答えではない、課題である
答えは課題の後にやってくる、しかし課題を自分で見つけられなければ誰かから課題を与えられなければならないということになる、これでは自己完結にはならない、何かへの依存である、そして依存は自由に反する、たとえ幸福にランクをつけることができたとしてもそれは自身で決めるべきことだ、自分がAランクと思うのであれば、その判断に対して他人がとやかく言うことはできない
幸福の実感に客観的なデータによる裏付けは必要ない、将来を悲観し泣きながらロールスロイスを運転するよりも友人たちと夢を語り合いながら軽自動車に乗る方が楽しいと思う人々はこの21世紀確実に増えていくと思われる、自己完結には「他者の視点」は関係ないのだから、だがここで一つだけ確認しておかなければならないのは、人間は不完全故稀にではあっても狂信的になることがあるということだ、私たちはセプテンバー・イレブンを経験している、そしてあの悲劇は実に重要な言葉をこの21世紀に生きる人々に一方で伝えていたのだ
それは信仰
私はすでに神に悪意はないと繰り返し述べている、したがって人間が「神に代わって不義を打つ」ということはできないのである、なぜならば神は人間を罰しないからだ、神に悪意がないとはそういうことである、したがって神に代わって不義を打ったのだと主張する輩を私たちはまかり間違っても英雄視してはいけない、これはこれが私論であったとしても繰り返し述べなければならない点であろう、この部分はこの後何千年時が経過しようとも変わることはあるまい
神は善である
また神は待っている
そして神は冷ややかである
ではそのような神がなぜ雷をもって人を打つのか?
私にすればありえない話だ、もしこの世が合理的にできているのであれば神が人を苦しみをもって試すなどということはあり得ない、なぜならば合理的とは調和がとれているということであり、調和がとれているとはそれが善であるということだからだ
なぜ太陽が昇らない日がないのか?
なぜ月は私たちに背を見せないのか?
そして、なぜ死は私たちにその本性を明かさないのか?
それはすべてそうなることで調和がとれているからだ
和が善でないならば、では和とは一体何なのか?
読者諸君、この答えが一瞬で閃かないのであれば、僭越ながら私の方が正しいということになる
言うまでもなくこの世には負(マイナス)がある、だが負と引き換えに私たちは知恵を得た、知恵の裏は負ではないがそれでも知恵と負は密接な関係にある、なぜならば知恵によって解決不可能な負はないからだ、そういう意味では「神は背負うことのできない負を人に与えることはない」という説は正しい、故にマイナス100を知る者だけがプラス100を知るのである
理想とは一方では高さであるのかもしれないがしかしもう一方では深さのことだ、だから人生とは螺旋階段のようなものではないのである、なぜならば深さを知るには負を肯定する必要があるからだ、そして負の肯定とは究極の善を知るためには欠かすことのできない手続きでありまた概念である、
究極の善とは「不倶戴天の敵との和解」、私はこれを階段を昇ることではなく階段を下りることだと解釈している、どちらかが上位に坐すれば和解はあり得ない、和とは善のことである、そしてまた和とは平等のことである
神の理想は上位にはなくまた下位にもない、それは時の中にあり、軌道の中にあり、そして神の愛の中にある、キーワードは「平等」、誰一人そこから漏れる者はない、時は24時間であり、軌道は365日と4分の1日であり(いずれも地球の場合)、神の愛はその人が生まれたその日付である
果たして二度生まれた人間などかつていたのであろうか?
生年月日は名付け親になれない神からの唯一のプレゼント、そして生まれた日付に差別はない
さて話がminority’s powerから逸れていると感じておられる方もいるかもしれないがそうではない、minority’s powerとは自己完結のことである、ではどうすれば自己は完結するのか?
私は思う、それは対象を得ることによってのみ、そうなると
だから信仰の次に幸福が来なければならないのだ、自己完結に成功はまったく関係ない、成功にはデータの裏受けが必要になる、そうでなければただの自己満足である、だが私はロールスロイスを必要としたことはない、本来「数えられるものの価値」と「数えられないものの価値」は同じである、完全イコールである、だが現実には前者が後者を大きく上回っている状態がもう随分と長い間続いている、だから後者の重要性を私はより強調しているのである
「より速く」、「より多く」ではなく(我が国日本においてはもう十分でしょう)、「より寛大に」、「より慎重に」
これは多様性の担保であり、最終的には効率性の確保にもつながるものである、だがそのためには一つだけ条件がいる
Minority’s powerが社会的に認められることである
Minority’s powerとは自己完結のことである、故にそれは下からの改革のことである、したがってそこでは相対的に見てminority’s powerが認められていないときよりも多く女性などの弱者の発言権が認められるということになる、そしてそれは言うまでもなく対象の拡大を意味している、対象の拡大は経済的には購買の機会の拡大である、このことは結果的にせよ株式会社の利害に一致していないだろうか?
おそらく以下の定義が正しい
最終的には安いものが売れるのではなく良い物が売れる
なるほどそういう意味では我が国日本のデフレ社会が今後どのような展開を見せるのかは興味深いところだ、安い物だけが売れるのであればベアは実施されない、「多様性と効率性の両方を同時に担保する」のであれば、安い物だけが売れる社会は健全ではないということになるが、しかしデフォルト回避の最終決定権はおそらく国民の側にある、今日は2017年3月8日である、しばらくは事の推移を見守りたい
さてすでにこの私論は前書「曇天の日には収穫が多い」での分析をもとに、決断と実践をその後のキーワードに据えて書き始められたものであるが、このminority’s powerという象徴的なワードに辿り着いたことで一つの山場を迎えているようだ、しかしこの章もいくらか長くなった、この続きは次の章でということにしよう
払うべき代償
払うべき代償
さて前章では、「Minority’s Power Part2」と題して前々章で書き及ぶことのできなかったminority’s powerの本質について述べたが、尚も触れることのできなかった箇所も多いためこの章ではその部分の補完も含めて特に精神的な部分を中心に考察を進めたいと思う
すでにこの私論の後半において読者諸君に置かれても「『多様性』と『効率性』のどちらかではなくその両者を共に担保すること」が重要なテーマになっていることはご理解されているであろう、したがってここでは更に一歩踏み込んで、minority’s powerにこの私論全体のテーマである決断と実践を絡めながら自分なりの結論を導き出していきたいと思う
前章ではminority’s powerが「多様性」と「効率性」いずれにも矛盾していないことを、スケールの大きな概念を一部交えながら短期的未来における社会の予想図を私的な論点により描写しながら述べた
さてこの章の論点を一言で言えばminority’s powerというこの21世紀において時代の転換期をある意味象徴するであろうワードを仮にクローズアップした場合どのような対応が最も望ましいと考えられるのであろうかについて述べたいと思う
この章の最初のキーワードは調整、adjustmentである
Minority’s powerとは自己完結のことであるとすでに述べた、故にここでは社会共通の価値観としてすでに成立しているものを(時に無条件に)踏襲している人々ではなく、少なくとも十分な理性と一定の知性と経験を持つと推測される17歳以降の男女を基準に、「夢=なりたい自分」がある程度その主体の意思として固まっていると思われる人々を、そして今後の社会において彼らが中心的な役割を担っていくであろうということを前提に考察を進めていきたい
前者になく後者にあるものは「自己調整能力」である
ここで前書「曇天の日には収穫が多い」において頻繁に登場した言葉が再び出てくることになる
それは理性
だから17歳未満の人々は取りあえず対象外となるのである
だが理性的に物事に対処するということは即ち損得勘定を排除するということには必ずしもならない、偏差値教育は大学進学をもって終了するがしかしその後はそれに代わって「損か得か?」がその時々の選択の基準となる、常にぎりぎりの所で勝負するということはすでに理解しているため状況判断能力というものは日本の若者の場合高いと考えられる、したがって場の雰囲気を読むのがうまく、瞬時にして「するかしないか」を判別できる、何をやるにしてもまずネットを利用するなどしてマーケティングを行い成功する確率が低ければたとえどんなにやりたくても我慢するという癖がついている
だがそれではこれからの時代にうまく対応していけないのではないかと私は考えているのである
確かにこの2017年時点において結果を残しているのはかなり高い確率で「指示を待つ人」である、たとえ信ずるところに従って行動したのであっても四半期ベースでの成績が振るわなければ最終的にはリストラの対象者になるのであろう、ワーキングプアという言葉が定着し、勝ち組負け組という言葉を聞かない日はないというようなこの現実は多くの若者から「意思」という言葉そのものを奪っているようにも思える、故に「指示を待つ人」という選択肢はあっても「意思を持つ人」という選択肢はないのである
翻って「『多様性』と『効率性』の両方を同時に担保するものだけが21世紀以降価値を持つ」である、ドナルド・トランプの不人気がそれを証明している、では上記した例に見事に当て嵌まる人々はこの定義に沿っているのであろうか?
時代は変わる、しかも急速に、AIは教育を変えるであろう、特に数学のようにできる生徒とできない生徒との差が激しい教科にあっては、できる生徒には学習AI-1号が、まあまあできる生徒には学習AI-2号が、数学が特に苦手な生徒には学習AI-3号が当たるという風になるのであろう、数学のできない人が数学教師になることはない、だから数学の先生はできない人の気持ちが理解できないのである、故に生徒たちも最終的にはAIを選択する、できる生徒からは「なぜできない生徒に基準を置くのか?」という蟠りを取り除き、できない生徒からは「ようやく自分のペースで学習できる」という安心を得ることができるからである、AIにはおそらくコスト的にも、であろうが、この21世紀に相応しい役割が期待されているのである
繰り返さなければなるまい
「多様性」と「効率性」の両方を同時に担保する
だが一方でこのような問題も生じるであろう
意思を持つ人々が「多様性」と「効率性」のいずれをも担保する社会において台頭すると仮定した場合、かつてなら「負け組」に分類されていたであろう様な若者たちにもチャンスが与えられることになる、ということは「意思を持つ人」には有利だが従来型の「指示を待つ人」には不利な社会的な構図が新たに生まれるということになる、それが21世紀型の新秩序の原型となるのだが、これはこれまでとはまったく異なる新たな「勝ち組」、「負け組」の創造にならないのであろうか?
これまでの常識が通用しないということは即「勝ち組、負け組」の区別がなくなるということを意味するわけではない、そこには前例のない新秩序が生まれるということなのだから「逆転」はあっても負け組と呼ばれる人々の「消滅」を意味するわけではない、ではこの前例のないまったく新しい21世紀型秩序の下で私たちの取るべき望ましい対応とはいったいどのようなものなのであろうか?
さてここで一旦、すでにこの章の冒頭で述べているminority’s powerとこの私論のテーマである「決断と実践」に話を少しだけ移したい
なぜ私が「指示を待つ人」ではなく「意思を持つ人」であるということにこだわっているのか、ここにその答えに通ずるヒントがあるからである
おそらくこのように定義することも可能なのであろう
「意思を持つ人(自己完結)」+「自己調整能力」=「決断と実践」
ここで久しぶりにこの言葉が登場する
ハートブレイクの甘受
そう、ここでつながるのである
「指示を待つ人」ではこのハートブレイクの甘受ができないのである、すでに現実がそれを99.9%証明している、故に善の分析の次に来るべきワード、つまり決断と実践に対して有効な行動を起こせないのである、そしてそのような現実が常態化すれば私たちは世界的に肯定的に見為されるべき一大潮流から取り残されてしまうことになりかねない
私はすでにヴェトナム戦争による多大な「犠牲」がその後のpeople’s powerそしてminority’s powerと続く一大ムーヴメントのその始点になったと書いた、そしてこの流れは一朝一夕に始まったものではない、アメリカ軍による北爆開始から計算してもすでに52年が経過している、私はこの流れを止めることは誰にもできないように思える
そしてクラウドソーシングやAIが出てきた、然るべくしてそうなったのである
これまで我が国日本において先頭を走ってきたのはあくまでも「効率性」を担保した人々だった、だがもはやそれだけでは足りないのである、「多様性」が同時に担保されなければならない、当然そこに生じる隙間を私たちはどのようにして埋め、また時に維持していけばよいのであろうか?
私は思う、なぜ隙間が必要なのか?
隙間がなければ脈絡がなくなってしまうからである
特に都市においては隙間がなければ感受性の強い人々が逃げ込むことのできる退避スペースがなくなってしまう、そうなればクリエイティヴな人々はそこにそれ以上住めなくなり、故に新しい価値の創造が困難になる、そうなるとマテリアルな側面ばかりが優先されインマテリアルな側面が後退してしまう、果たしてそれで都市は21世紀の後半、そして22世紀へ向けて美しい街へと変貌できるのであろうか?
同じことである、効率性ばかりが優先され続けるとクリエイティヴな人々が育つべき素地である多様性が死んでしまう、それでその社会は真に望ましいものへと変化できるのであろうか?
隙間があるから調整ができるのだ、そして脈絡があるから後継者が生まれ続けるのだ、そこにあるのは望ましい未来
紆余曲折があったとしても自分で考え自分で結論が出せるような人々を育てること、それによって自己完結能力と自己調整能力との両方がその主体に備わることができる、そして決断と実践である
そろそろ明確に言わなければならないのであろう、「『多様性』と『効率性』の両方を同時に担保する」は暫定的にではあるが停滞と混乱を招く、直ちにそれについていくことができる人は多くの利益を得るが呑み込みの遅い人や従来のルールにこだわる人はしばらくの間置いてきぼりを食らう、これは歴史が新しい局面を迎える時にはある程度致し方ないことなのであろう、昨日までのやり方が今日はまったく通用しない、この勝ち組にとっては実に厄介な新しい時代の到来は勝ち組から負け組へと転落する人々のやっかみによってしばらくは能力があるのに干される人々とあくまでも勝ち組の肩書にこだわる人々との間で時に見苦しい権力争いが繰り広げられるのであろう
ようやくチャンスが巡ってきたと捉える人と落ちてたまるかとしがみつく人との争いである
だが問題はすでに述べたように政権交代時には停滞と混乱が生じるということである、したがって多くの無垢の人々はすぐには新しい人々を歓迎しないであろう、また社会のシステムが変わるということはそれを担当する人も変わるということであるから、「馴染み」の減退は守旧派以外の人々からも戸惑いの声が上がることにつながるかもしれないということになる、この短い期間での「行ったり来たり」の繰り返しはしかしアメリカやイギリスなどのような移民の受け入れに積極的に関わってきた歴史を持つ国々には、つまり「馴染みのない人々との付き合い」に抵抗感が薄い人々には有利に働く可能性がある、そのように考えると日本人のように「馴染み」にこだわりを持つ人々はdiversityが一部の企業でしか採用されずに、つまり決断が遅れる分、一方では才能溢れる人もいるにもかかわらず様々な面で欧米諸国の後塵を拝することになってしまうのかもしれない
だが思い出していただきたい
民主主義とは、第一に「すべての人に平等にチャンスを与える」と同時に「出自やその属性に一切関係なく、その素養及び能力によってのみその人を評価、判断する」ことであるから、世界において民主主義が後退しない限り「多様性」と「効率性」の両立に失敗する人々は次世代の若者たちからは敬遠されることになる可能性が高い
そして決断と実践である
私は何度も決断と実践がもたらすものは95%くらいの確率でハートブレイクの甘受であると述べている、また民主主義のシステムは現状では私たちが選択しうる社会的システムの中では最も理想に近く、故に善に近い、ならばもし私たちが「より良い社会の実現」を真に望むのであれば、私たちは民主主義の枠組みを維持したまましかし「馴染みのない人々との付き合い」にも積極的に振る舞う必要がある、「馴染みのない人々」とは私たち日本人の場合は即ち外国人を指すが、しかしdiversityとは彼らをこそ受け入れるということが第一であろう、果たして今後我が国に降りかかるすべての問題を日本人だけで解決していけるのであろうか?
Minority’s powerとは「自己完結」のことである、だがそれを自分の内側に対しても外側に対しても有効な何かを生み出すものに昇華させるためにはハートブレイクを甘んじて受け入れるだけの善に基づく勇気による決断と実践が必要なのである、だが人によってはこの善意に基づく勇気をあくまでも認めようとしない人もいる、だからそういう点ではその時々での調整が必要になるのである
さてこの章の最初のキーワードは「調整」であった。そして二番目のキーワードはこれである
待つ
この言葉は前書「曇天の日には収穫が多い」」ですでに登場している言葉であるがここでもほぼ同じ次元と意味で引用可能である
最初に述べておこう、「待つ」は「赦し」につながり、「赦し」は一定の範囲内での「曖昧さ」の肯定につながる
すでに時代の変革期においては直ちに良い結果が生まれるのではなくしばしの混乱と停滞を経て、その後にようやく肯定的な局面が現出してくることになると述べた、したがってここでは当然ある一定の「我慢」が必要になる、特にかつて勝ち組だった人は先輩たちと同様の保障を得られるかどうか不安な日々を送ることになるのであろう、「大人の期待=将来の自分」というその時点での社会的にも肯定的に見為されてきた規範に一切抗うことなく従ってきたのだから、ここで扉を閉ざされるのは正直な話納得がいかないであろう、21世紀後半に向けて多く現れるであろうこのような人々に対するケアに彼らを肯定的に見てきた人々は相対的に見て強く関わるべきであると私は考えるが果たしてそのようになるであろうか?
またドナルド・トランプが出てくることになる
彼の大統領就任は「均一」と「均質」に対するアメリカ合衆国有権者の一部にきっと満ち満ちていたのであろう辟易足る思いが実現させたものなのであろう、首都ワシントンが果たしてそのようなものであったのかどうかは私にはわからないがしかしこのように考えないと、New York Timesが当選確率90%と載せた、ヒラリー・クリントンの落選が腑に落ちないのである
なぜ「均一」と「均質」が嫌われたのか?
それは今時代が変わろうとしているからである、しかも大きく
昨日と同じことを今日してはいけない
なぜか?
時代が変わろうとしているからだ
今日と同じ明日を望んではいけない
なぜか?
それでは「より良い」社会の実現には結びつかないからだ
私たちは皆次世代の人々に対する責務を負っている、だから環境問題や国の借金の問題にも積極的に関わっていかなければならないのだ、私たちもかつては次世代の人々だったのだから
時代は変わる
ではその時私たちはまず何をすべきなのか?
それが「待つ」である
どうして?
正直に言えば「落ちぶれる」人が大量に出るからである
彼らが既存の価値観から脱し、新しい時代に適合できるようになるまで私たちは待たなければならない
しかしよく考えてみれば彼らの多くはその既存の価値観が支配する、つまり従来のルールによって構成された社会において勝ち組であったのであり、その時点で十分すぎるほどの利益を得ていたはずだが…….
だが彼らを「赦す」必要がある、彼らは時代の犠牲者、そのように考えないと次の変化が到来したときにパニックが生じる、それは「より良い」につながらない
そして最後に「曖昧さ」である
実際にはハイテクが社会を席巻する構図は変わらないので「曖昧さ」は許されないことだがここではこのように解釈してほしい
守旧派と改革派との対決は改革派の勝利によって終わらなければならない、そうでなければ私たちは「次の人々」に対する責任を全うできないことになる、だが守旧派もまたどのような形になるにせよ生きていかなければならない、しかし彼らは従来のルールに染まっている人々であるが故にそこには齟齬が生じる、その曖昧さを新しい人々は甘受しなければならないのだ
この混乱と停滞はどれくらいの間続くのであろうか?
我が国日本の場合、長引きそうな気配である
だがこの章での考察はこの程度でよいであろう
だが最後に一つだけ繰り返さなければならないのは、私たちはdomesticではなくuniverseを選択しなければならないということである
そして情緒的な判断は厳禁である
すべてはより良い明日のために
伝統
伝統
さて前章では、「払うべき代償」と題して、「『多様性』と『効率性』がいずれも担保された社会」において、社会はどのように変化していくのであろうかということを、「調整」と「待つ」をキーワードに一部「決断と実践」を交えて述べた
時代が大きなうねりを見せる時には直ちにbetterな結果が出るのではなく、しばしの混乱と停滞を経て、ようやく新しい時代へと向かうのであろうと書いた
このことは従来のルールに染まっている人々には、場合によっては大変な苦痛をもたらすのであろうが、しかしここで確認しておかなければならないのは「多様性」と「効率性」の両立とはつまり、部分的な「保障と保険の喪失」を意味するので、一切の悪意を排除したうえで「大人の期待=将来の自分」をその青春時代において時に演じてきた人々からすれば、時代の変化とはいえ容易に納得がいかないというのは至極もっともなことでもあるということだ、また前章では「払うべき代償」と題したがこれは時代そのものが大きなうねりを見せる時にはその出自や属性そしてその能力如何に寄らず、つまり誰でも何らかの代償を払わされることになるということを言いたかったのであり、守旧派の人々だけがその代償を払わされることになるということではないので、何卒誤解なさらないようにお願いしたい
だがすべてはこれから生まれる人々のためなのである、言うまでもなく今後生まれてくる人々には何の罪もない、にもかかわらず出生したその時点において多くの負を抱え込まざるを得ない状況にあるのだとしたらやはりそれはあまりにも気の毒なことであろう、だから戦争は許されないのであり、また環境問題や国の借金については一歩踏み込んだ対応が必要になると私には思われるのである
ここで当然ながら守旧派の人々の言い分についてもいくらかスペースを割く必要があろう、時代は変わる、そして「多様性」と「効率性」の両立を確立できるものだけが目に見える分野でも目に見えない分野でもアドヴァンテージを得ることになる、しかしそのように考えれば考えるほど従来のルールや価値観にこだわる人は「落ちぶれる」ことから逃れるうえでも激しく抵抗するのであろう
彼らの言い分とはこうである
この21世紀において伝統の役割とは何だ?
彼らが言うところの「復活」は、概ね20世紀の価値観のことであり、実はそこにはあまり普遍性を感じ取れる要素は多くないのであるが、おそらくアメリカ合衆国などにおいては「『多様性』と『効率性』の両立」が若者を中心に大きな広がりを見せているため、それについていけない人やそうなることで利益を失うことになる人々のなかで「昨日の幸福」を失うことへの危機感が醸成されているのであろう
私は思う、昨年2016年のアメリカ合衆国大統領選挙においてドナルド・トランプが当選したことは実はアメリカの民主主義の健全さをその裏では証明することになっているのだと
多様性が担保されなければならないのだとしたら、その逆は後退していかなければならない
その逆とは?
私はすでにその言葉を記している
「均一」と「均質」である
ドナルド・トランプが異端児ならば尚更のこと、彼のような人にこそ「生きる場所」が与えられなければならない
有名大学を出る、そして大企業に入る、または官僚になる、やがてエリートとして独立し勝ち組として自らの立場を確固たるものとする
テレビドラマや小説にでもなりそうなストーリーだが、しかしこのようなストーリーはもう徐々に通用しなくなっているのではないのだろうか?
出自やその属性からの解放
ここで繰り返しても差し障りはあるまい、家柄も門閥も意味を持たない、彼は自由であり、また彼は自ら望むものにチャレンジできる、条件はただ一つだけ、民主主義が守られていること、故に善が担保されているのだ、なぜならば民主主義社会においては以下の三つの要素が必須であるからだ
① 主権在民
② 言論、表現および信仰の自由の保障
③ 直接普通選挙の実施
私は公平な選挙が定期的に実施された場合、概ね善が優位に立つと感覚的にではあるが確信している、ここで必要なのは俯瞰である、したがってあまり選挙の結果に一喜一憂しない方が良いのかもしれない、「史実の正確な伝承」がジャーナリズムによって担保されているのであれば私は民主主義というものの将来についてそれほど悲観的になる必要はないように思う
誰もが自分の意思と能力によって自由に未来を想像することができる
これは可能性の肯定であり故に多様性の肯定である、たとえ彼が外国人であってもその国を愛し、その国で一年の半分以上の時間を過ごし、そしてその国のために知恵を絞り、また税金も納めているのであれば、その国においてやはり一定の社会的発言権が彼に与えられるべきだ、そうでなければ私たちは「均一」と「均質」、つまり大人たちの期待に沿った人生を歩んだ人々により律せられた社会の呪縛の中に落ちていくだけであろう
さて伝統である
キーワードとなるものの一つを先に挙げておこう
それは「非」である、私は繰り返し「負」の肯定という表現を用いているが、ここで明確に「非」と「負」は別物であると申し上げなければならないであろう、社会的に「非」とされているものの中には民主主義に反する要素が多いようにも思えるが、しかし同時に個人的な「非」と思えるものの中には郷愁を誘うものも多いように思える、そして「出自と属性に一切関係なく」が部分的にせよ蔑ろにされたときに、個人的な「非」が「出自と属性に一切関係なく」を押しのけて社会の表面に顔を出しているように思える、無論これは公私混同なのであるが、すでに述べたようにドナルド・トランプの当選がその一方でアメリカ合衆国における民主主義の健全性を証明しているように、個人的な「非」が社会の一部によって支持される現実もまた民主主義の一側面なのである
おそらく家柄も門閥もまったく関係ない社会においては、個人的な「非」にスポットライトが当たることはないように思える、なぜならば個人的な「非」とは厳密には民主主義に抵触するということも考えられるため、定期的な権力の交代が社会的に定着することによって初めて起こる権力交代時の浄化にそれは耐えられないと思うからだ、定期的な権力の交代は新しい人の登場を促す、その新しい人の中には当然「出自やその属性に一切関係なく」純粋にその能力故に選ばれた人も含まれることになる、そしてそのような人々が増えることによって個人的な「非」は徐々にではあるが衰退していくことになると私には思われるのである
かつての社会において「是」とされていたにもかかわらず、現在の社会においては「非」とされているものを個人的な「出自やその属性に関する」いくつかの条件にいずれにせよ適合する思想信条に基づいて、結果的にそれが大衆の利益に適うものだとしても、俯瞰して初めて知ることのできる時代の大きな流れに則していないのであれば、それを社会が認めることは危険であるように思える
なぜならばそこにはこの言葉が見え隠れするからだ
再び「均一」と「均質」である
もう一度言わなければなるまい、ドナルド・トランプの当選はアメリカ合衆国の民主主義の健全さを証明するものでもあるのだ、ここを表面的に受け取るべきではないのであろう、すでに俯瞰という言葉を二度用いている、ここは冷静に対処するべきである
「均一」と「均質」は「多様性の尊重」に反する
もし個人的な「非」が上記した文言に負の意味で抵触するのであれば、それは認められないということになる
憚りながら「安全と安心」が「多様性の尊重」よりも上位に来てはならない、それは即民主主義の劣化を意味する、そこが20世紀と21世紀の最大の相違点である、社会的な「非」に関してはその社会がその社会の責任において決める、だが個人的な「非」においては「出自とその属性」が一切問われることがないという時点、つまりワンランク上の民主主義に政治が達するまではそれを責任ある大人たちは決して認めてはいけないように思える(ワンランク上の民主主義についてはこの書では触れない、ただ一言だけ言えるのはワンランク上の民主主義社会では有権者のいわゆる民度が大きく上昇していると考えられるため、非民主派がたとえリーダーとなっても路線変更いわゆる豹変を迫られる局面が必然的に生じ、その結果民主主義の枠組みさえ維持されていれば大事には至らないように私には思われるということである)
伝統とはその時点での社会においていわゆるカスタマイズに成功して定着したという実績がないものである限りは、残念ながら歴史の露と消えゆくものである、いつか復活する日が来るのかもしれないがそれについて今を生きる人々が云々するのはあまりにも僭越である、言うまでもなく社会にはモードというものがある、これは時代の空気感とでも解釈すべきものであり、したがってかつて社会がどのようなものであったにせよ、そこにあるどのようにも定義できるある種の恍惚を伴う「創造力と想像力の賜物」を今のモードしか知らない人々に押し付けるべきではない
如何なるものであれ時の流れから自由になることはできない、その時々のメロディには当時の空気感を知る人にしか理解できない高揚感がある、それは実に郷愁に似ている
私は思う
想い出は如何なる人にとっても美しいものなのか?
たとえそうだとしても、新しい人による新しい価値観を求めるということが民主主義の本質の一つであるならば、私たちはにもかかわらず未来人への責任から逃れることはできないのであろう
繁栄とは社会全体の意志と知恵と発汗によって生まれ出でたものである、その結果、少なくとも一定の利益を私たちが享受している以上昨日亡くなった人も含めて彼らの遺志を常に慮る必要がある
私はすでに「多様性」と「効率性」の両立は「懐古趣味」と「皆で動く」の二つを壊滅させると書いた、そのように考えると古き良き日の感慨に浸れば浸るほど私たちは遅れていくことになるのかもしれない
そう、誰もこのような時代になるとは想像すらしていなかったのだ、昔を懐かしむということが美しくないと言い切れるような時代になるとは…….
そして人生百年である
前世代の人々がその社会の中心であった頃「復活」はどのようなものであれ不可能ではなかった、いつかその日が来るであろうと多くの人が思っていた、だがイギリスで起こった第一次産業革命(重厚長大、鉄道など)に続く、第二次産業革命(軽薄短小、スマートフォンなど)がアメリカで起きたことにより、少なくとも現世代は前世代よりも多く過去を失っている、だが時代が大きなうねりを見せる時とはそのようなものなのであろう
五十代、六十代にとって過去の喪失は青春の喪失でもある
もう若者たちはビートルズを聴くことはないのだろうか?
美しい物だけは例外であると私は考えるのでこれに対する答えはNoであるが、逆に言えば美に欠けるものはもう復活しないのかもしれない
伝統、私たちにできることはおそらく記録し続けることだけであろう、ツールの発達はカスタマイズをより簡易で身近なものにする、これはその分野への異分野からの参入を促すという点で実に魅力的でもある、ここに私は伝統の継承の可能性の萌芽を読み取ることができるように思える、姿形は変えることになるがしかしその高い精神性故消滅することはないのである
最後にもう一度伝統
それはおそらく「民族」から「人類」へと解脱することによって永遠となる
もしそれが任意の一個人の美意識に反するものだとしても、そしてそれが高名な芸術家であったとしても、私はそれで良いように思える
美にせよ、善にせよ、そのエッセンスというものは普遍なのだから
非と負
非と負
さて前章では、「伝統」と題して、この「多様性」と「効率性」のいずれをも担保するものだけが価値を持つものとしてこの21世紀以降も生き延びられる、そしてそのような未来において、あくまでも従来のルールや価値観にこだわり続ける人はどのような変遷を辿ることになるのであろうというようなことを書いた
今、時代は大きなうねりを見せようとしている、ジャスミン革命はface bookなしには起こりえなかったであろう、そしてそのような「20世紀までは起こりえなかったが今は起こり得る」事象が様々な分野で連続して起こるであろう、すべてはアメリカ主導における第二次産業革命の結果なのだが、しかし私たちは民主主義を肯定する限りこのような大きな時代の変化から自由になることはできない、マイクロフォンは地声のみで歌を歌っていた人から何割かの領域を奪い、その代わり地声ではやや劣るがしかし歌唱能力そのものは高い人にチャンスを与えた、地声でこそ勝負していた人からすればマイクロフォンは邪魔な存在だったかもしれない、しかしマイクロフォンの登場によって救われた人も多くいるのである、三味線もそうである、ジャズのアーティストなどと共演することによりその一楽器としての可能性を明らかに広げつつある、従来の価値観にこだわる人々からすれば、マイクロフォンもジャズも余計なものでしかないのであろうが、ここを否定すれば伝統的な文化そのものが衰退する、民謡を唄っていた人が上京し、演歌に挑戦する、だがそれは新しい価値の創造でもあるのだ、その分野の後継者たちが、「なるほどこういう方法もあるのだな」と思えることは、その後継者たちに「諦める必要はないよ」と告げることにもなるのである
さてこの章のタイトルは非と負である
前章において非と負は別物と書いたが十分な説明ができなかったのでこの章で取り上げることにする
「非」とはこの私論においては以下のように定義される
決して無価値なものではないが、大きな時代の変化を考えたときにそれにそぐわないものになってきているすべてのもの
それに対して「負」とはこの私論ではこのように定義される
怒りをその筆頭とする、主に人間の情念によって生まれ構成されるすべてのもの、つまり憎悪、妬み、嘘、蔑み、怨恨、裏切り、差別、盗み、故意に人を傷つけること、違反していると知りながら法を破ること、本人が望んでいないのにその過去を暴くこと、負の結果が出ることが明らかなのにそのことを当人に示唆しないこと、そのようなことすべてである
何れも「健全なる」という言葉からは程遠いものばかりだが、非と負には決定的な違いがある、それは「非」は個人的なまたは少数間においての見解というものが一定の比重を占めるが、「負」とは概ね誰にでも当て嵌まる普遍的な要素が強いということである、したがって「負の肯定」といえば多くの人に当て嵌まるが故にある種の普遍性を帯びて読み手、聞き手に伝わるが「非の肯定」といえばそこには個人的なまたは少数派の見解を差し挟むことも可能であるが故にしばしば中立性に欠ける結果になりかねないということである
しかしこのように定義したとしても重大な疑問が残る
民主主義を肯定している以上、一定数の獲得票によってその票数に応じた議席を得ることができるのであるから、その是非を明確にできない以上、「非」もまた「負」と同様主観的に判断されるべきものではないのか、ということである
つまり一任意の人物が「それは美しい」と断言した場合、それに共感する人が一定数現れたとしてもそれを無下に否定することはできないということである
無論、このような指摘が何処からか生じたとしても何ら不思議なことではないしまたこのような指摘は正しい、民主主義とは一方で49%の死に票が出ることを甘んじて受け止めるということなので、個人的なまたは少数派の意見に過ぎないものを、共通の、時に普遍性をも帯びるものであると定義して喧伝するのは私個人としては受け入れがたいが、一部の人々がそこに何らかの突破口を見出そうと試みるのは民主主義を肯定する以上やむを得ないことである
しかしその一方でここに重要な論点を読み取ることも可能である
「負の肯定」には「究極の善」という、対になる概念を想定することができる、つまり負の肯定はただそれだけでは何ら新しい価値の創造にはつながらないが、対の概念を組み入れることで未来にもつながる有意義な発想につながることが十分に考えられるということである
では「非の肯定」の対極にある概念とは何か?
非の肯定は個人的なまたは少数派の意見の代弁者たちによる見解の集合体、つまり例えば「リーダーシップ」などの言葉によって導かれるであろう普遍よりは組織的または地域的要素の強い、さらに言えばuniverseではなくdomesticな性格の強い、したがって時に排他的なしかし一部の人にとっては恍惚的な充足感のある、言ってみれば形而下的なメッセージによって確立された自由思想のやや極端な表現と定義することができるかもしれない
この概念と対になるものは、個人的なまたは少数派に属するという共通項を持ちながらも、そこに究極の善でも触れたように信仰というような要素が加わることによって永続的な価値を持ち得るものでなければならないのだが、だとしたらそれは何だ?
それはこうであろう
個の確立
そう、非の肯定はdomesticであるが故に、広がりを持たずしかしその組織や地域においてのみではあるが、強い影響力を持ち得るもの、それはある意味独裁の肯定であろう、またここにナショナリズムの色彩を一部認めることも可能であろう、私はすでにナショナリズムはヒューマニズムと矛盾すると書いたが同時にこうも書いた、ナショナリズムは功利主義と共通項がある
すでにdomesticという言葉を用いているので、功利主義は保護主義とも通ずるとここで文言を追加してもおそらく差支えはあるまい、独裁は民主主義の停滞期においては選択に迷っている有権者たちに説得力のあるメッセージを投げかけることができる、私はすでに時代が大きなうねりを見せるときにはすぐにbetterな結果が出るのではなく、一定の混乱と停滞を経てようやく変革へと向かうと書いた、したがってその大きなうねりの初期において非の肯定が一部ナショナリズムや功利主義と結びつくのは至極当然であり、故にそういう時にこそ長期的な視点に立って民主主義の仕組みを維持しなければならないのである
何時いかなる状況においても自分の意見を明確にまた自信をもって発することができる人に対して、特に理性的な面において十分成熟できていない若年層や女性の中から、そのような個の確立に成功した人へのいわゆる待望論が生まれるのは無理もないことでもある
個の確立は必ずしも信仰が必須の条件になっていないことからも、対象を持たない(時に絶対者を奉じることもある?)、ともすると独善的な傾向の強いものになるため、私がそのような人物を支持することはない、故に私のような鶴の一声で物事が決まることに強い危惧を覚える人間からすれば、私と最も対照的な位置にあるのがこの非の肯定を是とする「個の確立」に成功した人々ともいえるであろう
しかしこのような人々も、「自分が何を好きで何をやりたいかが明確にわかっている」という点では私と同じである
ではどこが違うのか?
やはりこの言葉に集約されるのであろう
信仰
信仰とは普遍を認識するということである
では普遍とは何か?
私はすでに二つの言葉を記している
神と善である
神に悪意はない、だから神と善は完全に一致しているのである、さらに言えば美もこれに加わるであろう、少なくとも私はこの地球という惑星に神の手による醜悪な何かを見出すことはできない(人間の手によるものはあるかもしれない)
だが「非の肯定」に迷いのない人々は私には信仰のないまたは正しい信仰を知らない確信犯のようにも思える
彼らはおそらく頭脳明晰なのであろう、理知的であり高い教養も備わっている、故にこう考えることもあるのであろう
この時代において行うべき改革のすべてを今を生きる私たちが断行する
これはこの21世紀初頭つまり第二次産業革命期だからこそ起きている現象ともいえる
20世紀までは改革はどのようなものであれ世代を超えて実現されてきたものである、前々世代が前世代にバトンをつなぎ、それを現世代がさらに受け継ぐ、そのようにして長い時間をかけて一つの大事業を完成させていく、だがこの2017年前後では必ずしもそのようになっていないようだ、これもネットの影響なのか、問いに対する答えは直ちに得られなければならないと多くの人は考えるようになってきているように私には思える、急進的というよりは刹那的である、急いでいるというよりも今目の前にあるものが次にどうなるのかを今すぐ知りたいというある種の強迫観念の結果のようにも思える
ここでパニックという言葉を使うのは少し抵抗があるのだがしかし数年後にはこの抵抗感は失われているかもしれない
「今がすべて」
そこに普遍的な概念が存在することが明らかな場合以外はこのように考えるべきではないと私は考えるが、しかし頭脳明晰でおそらく高学歴でもあるのであろう人々はそれ故に己の信ずるところに従って行動すること自体が美しいのだとある種のトランス状態に陥っているようだ
これは確かに民主主義の枠組みを維持することがあらゆる条件下においても必須であると考える以上は容易には受け入れられない理念であるが、だが一方で彼らは歴史の要請に従っているだけなのだと思えるような要素もこの第二次産業革命下においては確かに存在するため、20世紀的な価値観のみで、そのような「非の肯定」を行う人々を断ずることができないのも事実である
善にスピードは関係ない、だが利にはスピードが関係する
Time is moneyとはよく言ったものだ、これを否定することは難しい、したがって彼らは急いでいるのである、「歴史は巡る」だが二周目は一周目よりも良いものとなっていなければならない、そうでなければ私たちは歴史から何も学んでいないということになってしまう、だからこそ多様性の尊重であり、耳の痛い言葉にも寛容でなければならないのだが、「大人の期待=将来の自分」であった成績優秀な元学徒たちは前例に逆らうということが元来苦手なようだ
かつてわが国には「安全確実な右肩上がり」という時代があった、そこでは皆が勝ち組でありまた逆転も可能であり、一旦諦めてもどこかで復活を期すこともできた、だがそのような時代はもう過去のものとなりつつある、だが元俊才たちは自分がようやくその目的(しかしこれは前例に倣ったものでしかなく、彼のオリジナルではないのだが)が叶いそうになったその直前で扉を閉められては困ると、時代に妥協する形で「変化すべき部分」と「変化すべきでない部分」との取引を個人または少数派の利害を代弁するという主観的なそしてdomesticな方法で断行しようとしているようだ
確かに彼らの中には前々世代や前世代の言ってみれば遺言を引き継いでいる(彼らにとってはここもまた「伝統を守る」の一部なのであろう)に過ぎないという人もいるのであろうが、利はしばしば善と矛盾する、ここで普遍の概念を持ち合わせていない人がその能力に見合わない権力を掌握するともしかしたらこれから生まれてくる人々にも多大な損失を与えるような事態に陥ってしまうかもしれない、なるほどここでアウシュヴィッツという言葉が出てくるのは性急すぎるのであろう、しかしそれくらいの「民主主義のための危機感」とでも言えるものは脳裏をかすめる程度でもよいので今私たち少なくとも民主主義を肯定する人々は持ち合わせておくべきであろう
時代は今大きなうねりの中にある、それは何かの兆しであって、それが「良い兆し」なのか、「悪い兆し」なのかは、この2017年3月現在では判断がつかない、だが私はすでにこうも書いている
民主主義の勝利は常に薄氷の勝利であると
それほどまでに49%の死に票が出ることもルール上は「是」とされているこの民主主義という制度は一定の緊張感をもって運用されて行かなければ容易に崩壊していくものなのである
「より速く」「より多く」から「より寛容に」「より慎重に」への私たちの認識の移行、これはある意味Time is moneyへの挑戦でもある、だが「僅かでも上へ行ったものがそこにある利益を総取りする」というスタイルはやはり改められなければならない、そうでなければ世界全体がごく一部の個人および少数派の利害を代弁する人たちによって律せられてしまうことになりかねない、それは言うまでもなく「多様性の尊重」の劣化、後退であり故に新時代の民主主義への移行の失敗を意味する、きっとそれは恐ろしい事態を生じさせるであろう
最後にもはやこの私論の中心のワードの一つともなっている言葉をもう一度だけ記してこの章を終える
Minority’s power
次、Next
次、Next
さて前章では、「非と負」と題して、その定義と両者の違い、そしてそれぞれはこの大きな時代のうねりの中でそれを肯定する場合両者はそれぞれその時代の中でどのような意味を持つのであろうかということを「非」に批判的な立場を堅持しつつ述べた
これは民主主義をそれが実に重要なものであるということを「現在進行形」で捉えた場合、やはりそのような非に批判的な立場をとらざるを得ないと判断したが故のことである、私はすでに前書「曇天の日には収穫が多い」で21世紀型民主主義のキーワードとして以下のような言葉を挙げている
「多様性」「分配」「循環」、そして「より速く」「より多く」から「より寛大に」「より慎重に」への移行
こういったものは、すべて私が前書以降一貫して維持し続けている「信仰」や「負の肯定」そして「究極の善」などとその根底において明らかに強くつながっているものばかりであり、また私はこの書「行ったり来たり、そして次の人」においてはまだ記していなかったが、時代というものがおおよそ2000年を一区切りにして大きく動いていると見做すことは恣意的ではあるが可能なのではないかともすでに書いている、この2000年というのはイエス・キリストの生誕からの年数と偶然一致するが、キリスト教についてはここでは無視するとしても、この21世紀の初頭において2000年に一度の大きな時代のうねりが生じたとしても、個人的にはそれほど不思議なことではないように思えるのである
故に大きな動的な作用が生じるときにはそれに反する作用もほぼ同じ力で生じうると考えられるので、そのように考えると実は民主主義というものはある意味過去最大の正念場を迎えているともいえるのではなかろうか?
ポピュリズム、このあまりにも凡庸な響きを持つ言葉がにもかかわらず我が国のクオリティペーパーにおいても日々散見されるような実情はすでに部分的においては民主主義の劣化が世界的な規模で生じていることを明らかに示すものであり、それは「非」の定義でも触れた個人的なまたは少数派の利害に属するような事柄が何らかの理由(偶然も重なった)で過半数の支持を得て、そして一時的に突出してそれが既成事実として社会的に定着し、結果的にせよポピュリズムを支持した人々さえも想像しなかった領域においてもまるで癌のように成長していく、少なくともその初期段階にあることを意味している
「癌」という言葉はあまりにも不吉ではあるが、おそらくこのポピュリズムという言葉が今後も当分の間は新聞紙上において消え去ることはあるまいという観点からも、やや思い切ったワードをここでは使用させていただいた
これ以上この視点に立った発言を続けると必要以上に政治的になってしまう虞があるため一旦この話はここで止める
ではこの章のタイトルにもなっている次(Next)に話を移したいと思う
「次」とはやや奇妙な題名であるが、振り返ってみればこの書自体善の「分析」から脱しその「決断と実践」のために書かれたものであるにもかかわらずこの書の後半においてはややその論点がずれてしまっているような気がする
したがってそろそろ軌道修正を図りたいと考えているのである
善の分析については前書「曇天の日には収穫が多い」ですでに一定の結論を得ていると考えている、故にそれと比したときに齟齬が生じないような論理的な展開やワードがもう少し必要である、この辺りは読者諸君もすでにお気づきのことであろうし、なぜ論点が逸れたままになっているのか怪訝に思っていらっしゃった方も多いであろうから、ここで一気に最後の詰めに入りたいと思う
さてこの章のタイトルの「次」であるが、この書の題名が「行ったり来たり、そして次の人」となっているように「次」というのは私にとっては実に重要な言葉であり概念である、また私はすでに前書「曇天の日には収穫が多い」において「負の肯定」を強く主張していることからも悩みや苦しみというもの、いや現実の生活において避けることのできないすべての負を安易な手段で短絡的に忘れるということではなく、負の中にある「にもかかわらず肯定できるもの」(これは概念的な部分と方法的な部分と二つある)を積極的に取り入れることによってそこに負を肯定したまま何らかの突破口を見つけ出そうというのが私のその根底にある考えなのである
だが実際にはこの世を覆う「無理解」と「怪しむ心(suspicious mind)」は増すことはあっても尽きることはないようだ、ではそのようなただそこにいるだけなのに緊張していなければならないような日常から精神的に解放されるために、私たちはどのような心理的作用をその内側において、そして意思によるコントロールが可能な段階または範囲内において起こさせるように努めるべきなのか
この章ではこの書の本来の視点に戻り、個人的なそして内省的ではあるがしかしその一方で善を基調とするが故に普遍的な要素も持ち得るであろう、またヒューマニズムの視点からも肯定されるようなそのような意思の働き、精神の運用についてここからは述べていきたい
私はすでにこう述べている
積極的な失敗の連続が本人にしか通用しない法則の発見につながる(A)
そしてまた上記した文言に関連してこうも述べている
軌道を逸れたときにこそチャンスがある(B)
だが最初から失敗を前提としていたのでは、Aにつながらない、故に以下のサイクルが理想的である
① 完璧なスケジュールを組み一生懸命努力する
② にもかかわらず失敗する
③ しばし落胆する
④ 豹変し、「いや、これでよかったのだ」とまた新しい挑戦を始める
このサイクルを認識するためには絶えずチャレンジすること、つまり限界への挑戦が必要になるのである、故に「自分が何を好きで何をやりたいか」がある程度明確にわかっていないと、ただ単に客観的に見て信用のおける数字を上げることのためにのみ奔走することになり、それでは「自分が何を好きで何をやりたいか」もわからない上に「利につながらないこと」には消極的になってもよいという誤った考えにも染まってしまうことにもなりかねない
だがそれでは困るのである
誰が困るのか?
次の人たちである
よく考えていただきたい、私たちもかつては次の人だったのである、そう幼稚園の園児や小学生だった頃である、幼すぎて何も見えなかったがしかし当時の大人たちが一生懸命、結果的であったにせよ、理想を追求してくれたおかげで今の私たちがいる、彼らの多くはもうすでに鬼籍に入られているのであろう、だが彼らの遺志というものは受け継がれていかなければならない、そうでなければ時に命までかけて戦った人々、特に若者たちの無念というものを誰も汲み取ることができなくなってしまうのである
私たちは私たちだけで生きているわけではない、私たちは前世代と次世代とのその中間においていわゆる橋渡しの役割を果たしているにすぎない、だから私たちは常に前世代の人々に対する感謝の念を忘れてはいけないし、また次世代の人々に対する責任からも逃れられないのである、故に空き缶、ペットボトルのポイ捨てなどはこのような認識があれば絶対にできないはずなのである
そのように考えるとどのような時代になろうとも私たちの世代には特権が時代の進歩故に与えられたのであり、だから今を生きる私たちだけで問題のすべての解決を図ってもよいのだなどと考えてはいけないということになる、それをすると結局私たちに都合のいいような形での決着が図られることになってしまうのであり、それは果たしてそれがこれから生まれてくる人々のためになるのかどうかがわからないが故に人類の歴史の進歩という観点からはバランスを欠いたものになる虞がある、一部の例外を除いてこれから生まれてくる人々のためにもいくつかの選択肢を残しておくべきだ、だから国の借金は可能な限り減らしていかなければならない、借金を背負って生まれてきた子供たちがやがてその事実を知ったとき、必要以上に悲観的にならないように何らかの配慮を予め講じておくことは間違いなくその前世代の人々の責任である
文明とは漸進していくべきものだ、たとえ彼が類いまれな才能の持ち主であったとしてもたった一人の判断によって未来が決定づけられてはならない、なぜならばそれではその決定により「都合の良い人々」と「都合の悪い人々」とが生まれてしまう可能性が残るからだ、それはやはり民主主義に反するのである、「彼、彼らは犠牲になるが、しかしそれで残りの人々はすべて救うことができる」というのは、予めそこにあるべき理念としては大いに失格である、このあたりのところは、私たちは厳密に考えるべきであって、100-20の結果の80よりも
100-12の結果の88の方がいいだろう、このマイナス12は個人的には可哀想だとは思うがしかし意味のある12だ、などとは決して考えてはいけないのである
命はあくまでも無差別である
人権から導き出されるべき数字は常に100であり、それ以外は如何なる世になろうとも変わってはいけない
だからこそ理想を推進するためにも善の実践が必要になるだが、日常には刺々しい時間の断片が数多く横たわっている、ではどうすればよいのか?
それを残り少ない紙数の中で解き明かしていきたい
キーワードは「次」またはNextである
私は時にこう思う
今という時間を生きる人々がその年齢や性別に一切関係なく、負っている義務というのはたった一つのことでしかないのではないかと
それは「伝える」ということである
確かにここには「決定」あるいは「判断」がないために、説得力のある言葉とはならないのだが、しかし今を生きる人々の決定がその後に生まれてきた人々にとって実に重大な意味を持つということは20世紀以降実に多いのである
ヒロシマ、ナガサキ、アウシュヴィッツ、ソンミ村事件、カンボジア内戦、チェルノブイリ原発、おそらくここにアルカイダや日韓間の従軍慰安婦問題も絡んでくるのであろう
私はすでに自分が与り知らない過去の問題であるにもかかわらず負を負わされる、これを人は不条理と呼ぶのだと書いたが、もしこの定義に説得力があるのであれば、20世紀とは実に不条理の多い時代であったと呼ぶことができるのであろう、だがそれは繰り返されてはいけないのではないのか?
もしそうだとすればきっと「反省」だけでは足りないのであろう
ではどうすればよいのであろうか?
答えは「次」の中にある
絶えず「次」の人々のことを考える、「自分にとって良かれ」ではなく「これから生まれてくる人々のために良かれ」である
借金だけではあるまい、環境問題はどれほど悪化しているのであろうか?
食糧問題はどうか?
女性の教育問題はどうか?
また貧富の格差故であろう、テロリズムに走る若者たちをどのように目覚めさせればよいのであろうか?
この章では「次」をややスケールの大きい問題として捉え、次の章では「次」を個人的な内省的なものとして捉えたいと思う
私はすでにこう書いた
「史実の正確な伝承」という前提が守られている限り、民主主義が深刻な事態に陥ることはないであろう、と
「史実の正確な伝承」この文言には善は無論担保されていない、だが歴史を学べば多くの人はまずそこに横たわる人間の愚かさと醜さに目を奪われるであろう、そしてその次に同じ事象が定期的に繰り返されていることを知るだろう、そして三番目ににもかかわらず人類共通の理想のために立ち上がり闘い、しかし最後は敗れ去った人々が多くいることを知るだろう、そして一部の例外を除いて多くの人々は最終的にこう思うようになるであろう
それでは私たちはどう生きればよいのか?
なぜ私たちは歴史を学ばなければならないのか?
それはそうすることで敗者からも何かを得ることができるからだ
私たちの現実は勝者の論理によって埋め尽くされている
「僅かでも上をいくものがそこにある利益を総取りする」
だが民主主義を肯定する以上、ここはある意味譲歩しなければならないところなのである、この民主主義という49%の死に票が出ることを時に甘受するという制度は不十分ではあるが、しかし「多様性と効率性のいずれをも担保する」「追求から分配へ」「拡大から循環へ」、そして「より速く」「より多く」から「より寛大に」「より慎重に」への時代の私に言わせれば「適切な変化」を考えたときにはこの方法しか現時点ではないため、この不完全なシステムの中で私たちは最大限に理想的な未来図を描いていくしかないのである
そしてこの言葉が再び登場する
伝える
この必ずしも善を担保していない、故に12歳以下の小児でも理解可能な行為は「次」を考える時の最も基本的な行為であり、ここで正確性を期すことが最終的には善のために抗い、普遍的な目的のために闘い、そしてその死後良き後継者に恵まれる人々の誕生につながっていくのである
この世は明と暗の両方でできている、この二つは拮抗していなければならずどちらが突出しても最終的にはその後継者に良いものを残さない、確かに「明」とは「数えられるものの価値」を表し、「暗」とは「数えられないものの価値」を表すと大まかに定義することは可能なのであろう、だがもっと身近な言葉で表せば「明」とは「喜び」であり、「暗」とは「悲しみ」であろう、そしてその両方が私たちつまり「今」を生きる人々には必要なのである
そしてその「明」と「暗」の両方を象徴的に示しているのが他ならぬ人類の歴史である、私たちが今ここで何を思っても何も生み出せないのかもしれないが、クロマニヨン人やネアンデルタール人のような私たちホモサピエンスに敗れていった「兄弟」たちのことに思いを馳せることももしかしたら無駄ではないのかもしれない
彼らは「絶滅」した(ネアンデルタール人の一部はホモサピエンスと混血になったという説あり)、絶滅とはつまり死のことである、死人は文字通り何も語らないしまた復活もしない、だが彼らにも何らかの言い分があった、そして彼らにも何らかの理想があったはずだ、だがその理想を追いかける遥か手前の段階で彼らはこの世から去った、果たして彼らは何も残さなかったのであろうか?
ここは歴史でもあまり馴染みのない考古学の分野になるのであろうが、彼らもまた人類であった以上、「してよいこと」と「してはいけないこと」の間にある程度の線引きをしていたはずだ、ただ単に欲望の赴くままに行動していたわけでもあるまい
おそらくこのような発言をする人はわが国以外の文筆家でもそう多くはいないのかもしれない、だが私は「次」を考える以上、その逆も考えざるを得ないのである
その逆とは「去」でもあるがそれ以上に「死」である
私たちが死ぬことで次の人々にチャンスが巡ってくる、もちろん皆が70~80歳代まで生きられるわけではないが、有能な先輩を押しのけて自分がその後釜に座るということはそう簡単には許されない、なぜならばそれでは「その次の人たち」の支持を得られないからだ、だから私たちは「今」ではなく常に「次」を意識する必要がある、そうすることで自分はバトンを受け取り、そして然るべき瞬間が来たらそれを次の人に渡すだけなのだと思えるようになる
そう、これは悩みの相対化なのである
「次」を知ることで人生は必ず新しい局面を見せるようになる
それについては次の章で語ろう
次(Next)Part2
次(Next)Part2
さて前章では「次」Nextと題して、それ以前の論調を少しだけ変えてこの書のテーマでもある「善のための決断と実践」についてそれ以前に述べたことを絡めながらつまり矛盾のないように、私の見解を述べた
人類の未来にとって良いことと悪いこと、そしてそれらはこの大きな時代の転換期においてどのように定義されるべきなのであろうか?
前章で述べたかったことはつまりはそういうことである
明と暗
だがそのいずれもが私たちには必要なのである、だから「喜びに適う」ことだけを伝えるのは誤りで、「悲しみ」も含む明と暗の両方を伝えることが必要なのである
故に「史実の正確な伝承」となる
本来ならばここでジャーナリズムの話が出てくるべきなのであろうが、この書も残り少ないため、それについてはここでは述べない
「伝える」は必ずしも善が担保されていないために、逆に言えば悪に傾く者にも理解可能な概念であろう、私は彼らを理解も支持もしないが、「伝える」を皆が実践すればどこかでモードが変化したときに、そこにその時代に相応しい化学反応を見ることができるかもしれない、それはきっと私のような人間の役割ではなく「神など知らぬ、俺はただ自分の子がかわいいだけだ」という人によって為されるのかもしれない、だがそれでもそこには変遷が生まれる、きっとそれは歴史をキーワードにすれば少なくとも50%の確立で最終的には善へと向かう
なぜ歴史の話が出てくるのか?
敗者の言い分に耳を傾けるため
では、なぜネアンデルタール人さえもが出てくるのか?
私たちの「前」にも高等生物となれたかもしれない人々がいたことを知るため
「次」は最終的には何を意味するの?
それが前章とこの章の中心の論点であるが、一言で言えばこういうことだ
悩みの相対化
このことはある意味一部の人々には恐怖に映るであろう、彼は世界を変えようとしているのかもしれない、また彼は自分こそ歴史に名を刻むに相応しいと思っているのかもしれない、また彼には確信があるのかもしれない、私はこの世の普遍の原理を解明することができると
私はすでに人間の役割はバトンを前世代より引き継ぎ、それを然るべき瞬間に次世代に引き継がせることだけだと述べている、したがってそのような人々からすれば私のこの発言は自分の革新的な動きにストップをかけようとするものだと映るのかもしれない、確かにそこに明確に善が横たわっているのであれば、きっとそれは例外的に許されるのであろう、それでもそれを判断するのは彼自身ではない、それは彼の後継者たちである、それは次世代のみならず更にその次の世代の人々にも受け継がれ評価されていくのであろう、真の変革は功名心の後にあるものではなく善の後にある、そういう意味ではここで「信仰」をこの章で私が述べることを理解する上でのキーワードの一つに挙げることは有効なのである、信仰の先にあるのは「普遍」である、翻って人権は普遍ではないのか?
地域によって民に与えられるべき権利には格差が生じるのであろうか?
もしかしたらこの21世紀、つまり月世界旅行、そして火星有人探査がかなり高い確率で現実化するであろうこの宇宙世紀とでも呼べる世紀は、しかしその一方で私たち21世紀を生きる人々はそれ以前を生きた人々とは違うのだという、「驕り」ではないにしてもそのような「地球」が基準ではなく「宇宙」が基準になるが故の一種の錯覚に人類がとらわれてしまう、少なくともその虞のある世紀なのかもしれない、すでに過去のものとなっているので気づきにくいがバーソロミュー・ディアスの喜望峰発見に端を発する大航海時代においてもまた同じような現象が起きていたのかもしれない、つまり過去と現在に明確な一線を画すというある種の大規模な覚醒
なるほどこのことは人類の文明の進歩ということを考えた上ではもしかしたら避けて通ることのできないことなのかもしれない
どういうことか?
「今、この瞬間」の相対化を図る、である
そう、この「今、この瞬間」の相対化を図るということがこの章の中心の論点なのである
「今」という時間を「過去」または「未来」から切り離すという行為
それは人類全体にせよ、また一個人にせよ、ある場面においては必要不可欠なものなのかもしれない
そのある場面とは?
前進、または進歩
そして悩みの相対化は「にもかかわらず前進する、善または人類普遍の利益のために」をある分野における優秀な頭脳の持ち主が優秀故にそのための「使命感」を覚え昨日までとは違う行動をとることを決断したときに、おそらく必然的に講じる精神の動きのその初期段階において顕著にみられるものではないかと私は思うのである
そのような人の精神の動きとは以下のようなものであろう
「今」に不必要に滞留せず、その都度必要に応じて適宜「次」への意識の移行を促す
そこではまず時間が相対化されている
彼はきっと言うであろう
「今」じゃない「次」だ
重要なのは今それをやることだけを考えるのではなく、「今」やるべきことを「次」につないでいくことだ、その意識の中心にあるのは少なくともその「にもかかわらず前進する、善または人類普遍の利益のために」が意識上にある時は常に「次」であり、また「次」が主役である
故に些末なことに躓くときはまずこう考える
待て、まだ「次」がある
この意識以降にそれでも尚何かが生じた場合にはその生じたものを考慮の対象に入れればよいがそうでなければ無視すればよい
この精神の運動に意識の中核が達するにはきっと数か月は最低でもかかる
またそれ以前の段階で何か普遍的な価値を持つものに対する「目覚め」が必要になる、そう考えると上記した精神の運動というものは、悩みの相対化と一言で片づけるにはやや難解なものになるのかもしれないが
しかし社会ではなく個人を基準として考える上では「鬱」が文明の最先端を行く者を徐々に追い詰めているという一面を垣間見ることのできる現在においては、このような時間の相対化を一般の生活のレヴェルでも一定の範囲内で試みることはもしかしたら長期的には何らかの良い意味での意識の変化につながるのかもしれない
「次」を意識することは「今」を相対化するが故にそこには瞬間的に曖昧さが生まれる、それは絶えず緊張を強いられる仕事に携わる人々には受け入れられないことではあるが、しかし逆に言えば絶えず緊張しなければならない職業や立場などこの21世紀においてそう多くはないのではないかとも私には思えるのであるが
なぜならばAIなどの登場により良い意味での、つまり「多様性」と「効率性」の両方を担保する新しい形の分業がすでに起こり始めているであろうと考えるからだ、きっとEVは従来のガソリンエンジン型自動車よりも、「多様性」と「効率性」の両方を担保する存在となるであろう
「今しかない」それは自分を精神的に追い込むことにしかならず、もし「より多く」「より速く」から「より寛大に」「より慎重に」への意識の移行がこの21世紀においてつまり「多様性」と「効率性」その両方の担保に有効な働きをするのであれば、life(人生であり生活)をクールに眺めることにもつながる「次」への意識はきっと今後増加するのであろうpressured people(追い詰められた世代、言ってみれば20世紀型優等生)の良いサプリメントとなるのではないだろうか?
Think next
だがそれは利益のためではない、安定のためである、そしてnextは「伝える」と極めて密接な関係にある
今日は2017年3月30日である、そして今現在この世に存在している現世代はいずれにせよいつか皆この世を去る、時は静かに移ろうがしかし必ず日々「過去」はその数を増やしまた僅かずつではあるが昨日まで当たり前だったものが今日は当たり前ではなくなっていく
Think next
それは感情に対する精神の優位を決定づける理性の働き、しかしそれは一方でしばしば曖昧さの肯定、確実性を後回しにして「急がば回れ」を時に選択する精神の余裕、なるほどここで善が出てこないと「効率性」が再び頭をもたげてきそうだ、think nextで生じる精神の余裕は悩みの相対化のためのものであり、決して「利」に対する「効率性」の追求を意味するものではない
なるほどここは危うく落とし穴にはまるところであった、そういう意味ではthink next は集団や組織ではなく個人においてより有用なものなのであろう
「鬱」を呼び込む「今」の滞留を抑止する
だがハイスピードな時代はいつかその最先端を行く優秀な頭脳のバランスを狂わせる結果も生み出すかもしれない、その時に私たちを待っているのは何か?
グレートターンである
この言葉は前書「曇天の日には収穫が多い」で頻繁に登場した言葉だが、最終的には私たちは皆故郷へ帰る、そしてそのグレートターンが完了して初めて文明の第一周目が終了するのである、私たちはどこへも行かない、ただ回帰するだけだ
ただここで断っておかなければならないのは帰郷はdomesticを意味するものでは必ずしもないということだ、だが普通に考えるとグレートターンはuniverseからdomesticへの動きと捉えられても仕方がない側面を持つためここは補足が必要だ、そういう意味でもこの21世紀における新しい民主主義ともいえる「『多様性』と『効率性』の両方を担保する」はグレートターンが起きた後においてナショナリズムの復活を促しかねないdomesticの動きを抑制するためにもこの21世紀初頭においてはやはり不可欠な民主主義の健全なる動きと捉えることができるであろう、また前書を通じてこの私論でも述べているように普遍的な価値を人類の歴史という次元で認識するための何らかの精神の運動というものも必要であると私は考えるし、またそのキーワードの筆頭に来るのは「信仰」であろうと私は考えているのである
おそらく普遍的な価値観を人類の間に共通の認識として宣布させていくにはグレートターン以降も小さな「動」と「静」の繰り返しがその都度起きるのであろうが、しかし環境問題を例にとればわかるようにこの大きな時代のうねりというものを一部修正することは可能でも全面的にそれを否定することは誰にもできないように思える、そしてこのことは私たちが以下のことを強く認識したときに初めて世界規模の精神的な次元での何らかの新しい動きにつながるのであろう
これから生まれてくる人々に対する今を生きる人々の責任
これは「数えられるものの価値」と「数えられないものの価値」の両方にまたがる価値を有する文言である、そして僭越ながらこの21世紀初頭ほどこの文言が説得力をもって少なくとも知識人層に伝わると考えられた時代は他になかったと言ってよいだろう、私はすでに今民主主義は過去最大の試練に直面していると書いたが、このことは即ち人類自体が大きな岐路に直面していると置き換えることもできるのである
「次」の認識は日常のこまごまとした事案に苦慮するサラリーマンから新しい概念による民主主義の模索に心血を注ぐ政治家に至るまで実に幅広い人々にとってのキーワードに今後はなりうるものなのである
生き延びる
生き延びる
さて前章では、「次」Next Part2と題し、前々章からの一連の流れの中でこの21世紀初頭における新しい民主主義の形の模索を個人的な悩みの相対化と「次」をキーワードに両者を絡めながら私論を展開した
新しい民主主義も個人の悩みの相対化も「次」をキーワードにすれば同じ次元で語ることになるのではあるが、確かにこの部分は一方ではその優秀さ故に先を急ごうとする人々またはポピュリズムに批判的ではない保守派の人々からすれば容易には受け入れ難い面も多々あったであろう、私はすでに何度も鶴の一声で何にせよ物事の決定が図られることに対する危惧を表明しているが、しかしこれもすでに述べたようにその一方で停滞する現実において時の為政者の振る舞いにしばしば辟易させられてきた人々が多いというのもまた事実なのであるのだから、彼らにとっては独裁も辞さずという強いメッセージの発信者は埒のあかない日常故に好ましいものとしか映らないのであろう
だが僭越ながらこの「次」の重要性については時間をかけて考えていく必要がある、ここで英国のEU離脱を取り上げるつもりはないが、「動かない現実」を変えようとする意識がそこにあるのだとしても、マイナス10とマイナス5を比較するようなやり方で皆を納得させるように社会に働きかけていく方法には慎重であるべきだ、たとえ長期的にはプライドを傷つけられるような事態が発生することが憂慮されたのだとしても、今の大人たちの選択は言うまでもなくこれから生まれてくる人々の生活に大きな影響を与え続ける、国の借金はまさにその典型であろう、そして今を生きる私たちもまたかつては「次の人々」だったのだ、現在ある平和と繁栄はすでに鬼籍に入られた人々の時に壮絶なる生き様の結晶として現在に残ったものだ、このことについて冷静に思いを巡らせるとき、私は今日消費可能な米と油をわずかでもいいから明日を生きる人々のためにとっておく方を選ぶ(ここは35歳未満は対象外であろう)、反動とは「破れかぶれ」のことではない、反動とは今現在自分が生きる社会において正義とされていることに対する小さな不満が他のそれと同様なものと結合したときに生まれる瞬間的な化学反応の集合体のことである、これを大衆心理という言葉と絡めて論じることも不可能ではあるまい、一個人ではそのような状態にはならないのに群れると異常な事態に到る、そういう意味では反動とは「不信」でありまた「理性の喪失」の一面をも包含しているのであろう、現状に代わるべき確固たる理想があるわけでもないし、また自分という「個」をめぐる環境を変える方法も知らない、表面上は従っているのだが集団化すると突然先鋭化する、これはすでに述べた「非」に通ずるものでもある、だがそれでもここである種の結論めいた言葉を弄するのは不可能ではないように思える
それは「もはや狭い地球」
これは前半で述べた「儚い地球」にも関連する表現であるが、この地球という惑星はもうかつてのように広い世界ではなく、またフロンティアと呼べるような場所ももうほとんど残っていない、だから月世界旅行であり、火星有人探査なのである、火星にいったい何があるというのであろう?だが火星に行けば、私たちは私たちホモサピエンスにはこの地球しかないのだということを確認できる、しかしそれだけでも実は大きな精神的収穫である
こんな小さなそして狭い世界でやがて80億にもなろうとする私たちは何をするべきなのであろうか?
食糧問題は解決可能なのであろうか?
僭越ながらそれらを論ずるとき「次」は重要なキーワードになる
貴兄は人を愛したことはないのだろうか?
Yesであれば、この部分を理解することは可能であろう、今や「分かち合う」はロマンティシズムではなくリアリズムに属するものである、故に「次」を論じることは以下の言葉に通じる
Survival(生き延びる)
Survival、すでに人生百年の扉が開こうとしているこの日本においてこの言葉を弄するのは読者諸君にとってはやや奇異に聞こえるのかもしれないが、しかし少なくとも善の決断と実践を謳う以上私はここに踏み込まざるを得ない
何のために?
伝えるために、そして確認するために
これは意識の問題ではなく認識の問題である、しかし先進諸国に暮らすいわゆる常識というものを持ち合わせる40代以降の人々で、時代の要請を脇に置くとしてもそれでもなお変革の必要性を感じていない人が果たしてどれくらいいるのであろうか?
そしてこれはglobalな問題である
善を決断し実践する
だがそれはしばしばハートブレイクの甘受にしかつながらず、したがって善を前進させていくことはつまりまるで砂をかむような瞬間を連続して経験することから逃れることができないと認識することから始まると言い切ることができる
だが任意の一人物の勇気ある決断が実を結ぶにはおそらく途方もない時間が必要であろう、すでに「悪は拡散する」そして「善は沈殿する」と前書において述べている、そういう意味では善とは分厚い古典文学の書を読破するに似ている、つまり少しずつ進んでいくしかないのだ
言うまでもなく見知らぬ人間をたとえ故郷が同じであってもそう簡単に信用することはできない、人間とは不完全であるにもかかわらず複雑な動物だ、究極の善につながらない負の肯定しか見いだせない人も多くいるのであろう、それでなくとも序列を肯定する社会においては常に結果が求められる、だからそれに対する一つの反動としてクラウドソーシングが生まれたのであろう、序列化社会においては相対的にみて優位に立つ者たちが結局はそこにある利益の大半を独占し、いわゆる「バスに乗り遅れた」者たちはもはやかつてのように「おこぼれ」に与ることもできないような状態に今至っている、だがそれでは21世紀型民主主義は機能しない、その共同体が完全なるピラミッド状態ならば降り注ぐ「数えられるもの」も「数えられないもの」も同様に末端まで行きわたる、だが何度も繰り返しているようにこの21世紀は「多様性」が優先されるべきであり、「効率性」は同時に「多様性」をも担保しない限り如何なる理由があろうとも肯定されない、なぜならばそうでないと新しい民主主義を私たちが構築することができないからである、「限界までの挑戦」が「新しい価値の創造」を生み、そしてそれこそがこれから生まれてくる人々のための道を作る、果たして序列により上から流れてくるものをただ受け止めるだけで、幸福を追求する意思がその末端においてまで育まれていくであろうか?
序列化された社会において相対的にみて優位に立つ者がどうして「『効率性』は『多様性』を同等に担保しない限り無効」を強く支持するであろう、これは序列化された社会において相対的にみて優位に立たない者たちが担うべき役割なのである、故に私は思う
帰郷、ついにはグレートターン
私たちは会社に帰属しているのではない、同様に学校にも組織にも帰属していない、ただその暮らす市区町村にのみ帰属するのである、貴兄は今暮らすまさにその場所の半径50メートル以内にどのような人々が暮らしているのかすでに把握しているであろうか?老人、障害者、幼子のいる家庭、もしできていないなら早急にそれを講じるべきである、そして何らかの自然災害に見舞われた時には直ちにその救出に赴くことができるように普段から意識を高めておくべきである
残念ながら今現在においてはどの国においてもであろう、中央と地方が存在し故に幸福を追求する意思がたとえ強固なものであったとしても環境に恵まれない限り十分に社会的な役割を果たすことができないという、つまり旧態依然とした状態が続いている、なぜ善を実践するのに暮らす地域が限定されなければならないのか?仮にピラミッド型の共同体を認めるにしても「下から上へ」の動きがなぜかように見聞されないのか?
インタラクティヴ、おそらく流行語にもなったであろうこの言葉はしかし実際には次元が異なる場合には適用されていないようだ、私が記しているこの文章も私論に過ぎないが「下から上へ」の動きが一定の流れとして中央においてある程度定着されない限り、まったく顧みられることもないまま海の藻屑のように時間の中に消えていくのであろう、そういう意味では普遍的な価値を醸成し、また喚起していくには最終的には然るべき人物の登場を待たなければならないのであろうか?だがそのように考えれば考えるほどやはりこの言葉が想起される
Survival
なぜならば然るべき人物の登場が担保されない以上、社会というものが時代の流れというものを見誤らないように一市民として見守り続けなければならないと思うからだ
これから生まれてくる人々のために
やはりもう一度確認しておいた方がよいのであろうか?
出自やその属性に一切関係なくその素養及び能力によってのみその人物を評価、判断する
私はこれこそが「民衆すべてに平等なチャンスを」と同様、民主主義の原則の筆頭に来るものであると思う、そしてこれはクラウドソーシングやdiversityといった最近よく耳にする言葉ともその方向性を一にしているのだ
多様性とは?
異邦人を受け入れること
異邦人とは?
出自やその属性が私、または私たちと異なる人または人々
ネット社会は本当にインタラクティヴをこの社会において相対的にみて優位に立っていない人々に体現させることに成功したのであろうか?
結局は富める者がより富み、そうでない者は相も変わらずそのような状態に甘んじるだけの社会を、つまり20世紀の人々が最悪のシナリオとして想定していた社会の姿をむしろ前進させてしまっただけではないのか?
ならば再びこの言葉に到る
Survival
「動」的な流れが加速すれば「反動」的な流れも加速する、したがって「動」的な流れの中に新しい民主主義の形を見出そうとするものは通常の二倍抗う必要がある、確かにその「動」的な流れが十分に善を担保しているのだとしても、急速な変化はそれについていけない人々の「戸惑い」を生む、きっとそこに守旧派は入り込むのであろう、だからたとえそれが正しくてもそれはそれに相応しいスピードで進行していく必要がある、そう漸進である
だから少し早めにスタートしなければならないのだ
きっと理想はリニアモーターカーのように都合よくはいかない、しばしば必要に応じて停車し、休息をし、また必要な人材をその都度募集し、またそれまでの人々と交代させ、あっちこっちにぶつかりながら進んでいく、まるでバックストリートを歩む旅人のようだ
明は「喜び」、暗は「悲しみ」、では善は?
きっとそれは「陰」
晴れではなく、雨でもなく、つまり曇天
善とは時に歯痒いものだ、だから私たちは「待つ」必要がある、だが「待つ」とはつまり多様性の尊重のことではないのか?
では「待つ」を別の用語を用いて表すとすると?
Survival
生き残らなければ、善の実践もままならないであろう
おそらくBrexitもDonald Trumpも速すぎる変革に危機感を抱く者たちの、そして普段はあまり政治に関心を持たない層の人々の「変革は必要だがもう少しゆっくりやってくれ」という悲痛な叫びの結果、しかし彼らはこの21世紀において新しい民主主義の形を構築することの必要性は何となくではあってもわかっているので反動派として一つにまとまるということはない
故に変革の必要性の認識の有無ではない、そのスピードの程度の認識の違いなのだ、だから変革は進む、守旧派は尚も存在するであろうが、徐々に先進国においてはその影響力を失っていくであろう
Global、universe、diversityそして自由貿易
これらはその背後で環境問題とも結びついている、よく考えてみればBrexitやDonald Trumpの当選がなければ私たちは抵抗勢力の存在に気付かないまま、実際にはそうではないのに支持率100%だと錯覚したまま未来を想像し、創造していったかもしれない、おそらくその方が怖いのである
それが正しいのであればそれは逆風下を進まなければならない、なぜならば人は順風満帆の時には神を思わないからだ、神を思うことは普遍を知ることである、普遍を知ることは善とは何かを考えることである、そして善とは何かを考えることが「次」の世代の人々のことを考えることにつながる、「喜び」は晴れであり明である、だが正しい変革故に敗れ去る者がいる、彼らは時代の変化に抗った者たちであるがしかし彼らは後の時代においても尚まったく顧みられないのであろうか?
もしそうであれば、守旧派の恐怖は彼らさえ想像すらしなかった事態を導き出すかもしれない、善とは普遍であるが故に必ずしも「利」とは一致しない、だが利を優先させすぎると善は衰退する、もちろんこの21世紀初頭が最初で最後の変革のチャンスというわけでもあるまい、ということはやはり漸進なのか?
この辺りは意見の分かれるところであろう
この章についてはそろそろ終わりにすることにしよう
残りも少ない、もう次が待っているようだ
忘れてはいけないもの
忘れてはいけないもの
さて前章では「生き延びる」と題して、この21世紀初頭の大きな時代の変革期にその必要性を知っている者たちはどのように対処していけばよいのであろうかということを書いた、私はポピュリズムを支持する人々は二種類あると思っている、まず変革の必要性に気付いているがしかしそれをそのまま支持すると一気に時代が移り変わってしまい故に自分の出番がなくなる、そのことに強い危機感を覚えている45歳以上の結果的に反動勢力を暫定的に支持することになってしまっている人々(A)と、変革の必要性にまったく気付いていないかまたは気付いてはいるがまったくそれを支持する気がなく故にリベラルという肩書を持つ者はとにもかくにも排除しようと断固反対を貫いている人々(B)の二種類である、そして私は思う、このAとBではAの方が圧倒的に多いのではないかと、そうでなければネット社会がこれほどまでに短期間に社会の隅々にまで行き渡るはずがない、と
いわゆるインターネットの普及及びSNSの普及は正と負の両方がそこにあったとしても最終的には人類の利益に現時点では結びついている、そしてそのことを先進国に暮らす45歳以上の人間の80%以上は認知している、したがってポピュリズムそのものが危険なのではなく結果的にせよ、また暫定的にせよポピュリズムを支持しなければ生活が成り立っていかないという45歳以上の人々を取り巻くその環境こそが問題なのである、例えばLINEを使わないと他人と会話ができない人々、だが我が国日本ではそのような若者はもはや多数派になろうとしている、この45歳以上の人々にとってのっぴきならない現状は彼らの危機感を煽ることはあってもその逆はないであろう、さらに言えばそのようなSNSを使うことでしか社会との接点を確保することができない人々は客観的にみた場合やはり「美」から遠い、私はそのような「美」から遠い人々が世代を超えた支持を得られるとは思わない、そしてそのことは45歳以上の健全なる大人であればおおよそすでに気づいていることなのである
世代間の障壁を超えていくものは常に「美」か、またはそれに準ずるものだけだ
便利なものはそれがあれば傷つくことなく利を得られるので普及するのだ、だが人間とは元来無傷で成長可能な動物なのであろうか?あっちこっちにぶつかり擦り傷だらけになって初めて人は大切なものは何であるかに気付き、そして精神的に成長していくのではあるまいか?
きっとやがてそのことに気付く世代が登場する
彼らは若くして海外脱出を試みるであろう、キーワードは二つ、「言葉」と「多様性」だ、彼らは英語を流暢に話し、また外国人の友人が多い、日本を基盤にするのかそれとも外国に暮らすのかは分かれるところだろうが、いずれにせよ日本と外国の間を行ったり来たりするであろう、そして彼らの中から日本という国そのものを変えようとする勢力が台頭するであろう、彼らのスローガンの中には「『効率性』は『多様性』を同時に担保するものだけが価値あるものとして認められる」といった文言がきっと含まれるであろう、そして20年後の40代は一部を除いて社会的には価値ある存在とは見做されなくなる、そしてここが重要なのだが短期間でそうなるのである
果たして20年後、この国日本の消費税率は何パーセントであろうか?
それを考えただけでも私は恐ろしくなる、20世紀後半の50年間日本人が様々な意味で楽をしたとは私は思っていない、それどころか皆働き、働き、そして汗を流し、また涙も流した、それなのに時代は私たちがここで決断をしなければ、私たちの手の届かない彼方へと去っていってしまう、きっと海外脱出組は時代の流れを読み誤った人々を顧みることをしないであろう、なぜならばその時にはすでにこの国日本は世界経済ナンバー3どころか、そのはるか下位にまで順位を落としているであろうからだ、海外脱出組はきっと優秀なのであろう、だが彼らにも余裕はない、2010~20年代に結果的にせよ台頭していくポピュリズムはそれを支持した人々も想像しなかった事態を招く
それは頭としっぽが短期間で入れ替わるという事態
New Yorkは世界最先端を行く街である、またLondonもそうである、だがその先頭を走っていた街に暮らす人々がいつしか最下位に転落してしまうのである
「効率性」は同時に「多様性」をも担保しなければ価値を持たない
ならば大都市に住む必要性はもうないのだ
これは二つのものの価値を下げる
高品質とブランド性だ
これは差別ではない、しかしEVの時代になればMade in Japanである必要はない、Made in PhilippineでもMade in Indiaでもよい、そのユーザーが満足すればそれでよいのだ、すでに述べている、21世紀は、「必要な量を、必要な時に、然るべき人に、然るべき報酬で」がすべてである、ならばなぜその発注先がNew YorkやLondonでなければならないのだ?つまりどこでもよいのである
果たして、Donald Trumpはそのことに気付いているのであろうか?
だが彼がそのことに気付けば行動は速いだろう、彼はビジネスマンらしく豹変し、直ちにフランスもドイツもメキシコも彼を支持するであろう、さてその時日本はどうなるのか?
時代は変わる、18世紀も、19世紀も、20世紀もそうだった、そして21世紀、時代はさらに大きく変わる、なぜならばこの世紀はミレニアムの世紀だからだ
きっとセプテンバー=イレブンは何かの暗示だったのだろう、私はこの21世紀が戦争の世紀になるとは思わないが、しかしそれに匹敵するほどの変革の世紀になるとは思う
人生は螺旋階段のようなものではない、人生は渦巻き状に進む、故に最上階にいる者は一度下まで降りてくる必要があるのだ、だが上へ行った者ほどそれは難しいであろう、なぜならば結果を残した者ほど住む場所を選ばざるを得ないからだ、ハリウッドのムーヴィースターはビバリーヒルズを必要とするのである、成功した者が極北の地で暮らすなどありえないことだ
変革は金の価値を変えるのではなく、人の価値を変える
だから変革はしばしば残酷な結果を生むのである(ビートルズは様々な伝統の破壊者だった?)
敏感な人々よ、用心召されよ
さてこの章のタイトルは「忘れてはいけないもの」である、すでに諸君はお気づきであろうがこの私論が指し示しているものの一つに序列の否定がある、だから「人生は渦巻き状に進行する」となるのだ、このことは世界的に貧富の格差が限界値にまで達していると思われる現状故に僭越ながら一定の説得力を持つ
富める者はさらに富み、そうでない者は変わらぬ現状に甘んじる、だがネットとジャーナリズムが残酷な現実を今日も伝えている、このことはこれから生まれてくる人々の意識に何らかのある意味決定的な作用をもたらさないだろうか?
元サッカースペイン代表のフェルナンド・トーレスは、こう言っている「サッカーというスポーツはワールドカップがすべてではない、サッカーは石ころの転がるピッチで必死にボールを追う少年たちの未来に希望を与えることができる、そしてそのような現実は私たちに忘れていた何かを思い出させてくれるのだ」と
これは実に重要な発言だ、私は彼の年収を知らないが、しかし彼は忘れてはいけない何かを思い出す術をまだ失っていない、これはある意味奇跡的なことであろう、私はすでに書いた、スポーツの世界の利益はスポーツの世界に、科学技術の世界の利益は科学技術の世界に、そして芸術の世界の利益は芸術の世界に還元されなければならない、そこに役人の入り込むスペースはない、と
「忘れてはいけないもの」それは第一に「夢」である、夢がそこになければ追憶は非生産的なものしか生まない、だがproduceはcreationに続くものでなければならない、そうでなければ正当な対価を払った者がそれに見合う報酬を得ることができなくなるために、つまり最小の犠牲で多くを得るものが続出するためにcreativeな世界から脱退していく有能な人々が増えてしまうからである
これは悲劇なのだ
だから私は「夢」をそして「限界までの挑戦」と「新しい価値の創造を」強調していかざるを得ないのである
どのような分野であれ優秀な人は住む地域を選ばない、したがって日本人が21世紀の世界を読み誤ると優秀な若者は何も言わない代わりにしかし若いうちに出奔するであろう、行き先は多くがアメリカであろうが、彼らのうち50%は戻ってこないのであるまいか?このことはこの2017年においてもしかしたら日本人の多くが気付いていないある重大な事態を引き起こすかもしれない
知、美、または技術の空洞化
19歳でアメリカの大学に進学した者は、遅かれ早かれアメリカの社会に溶け込みまた英語も話せるようになる、彼らは優秀でありまた自信もある、だから日本の大学に進学しなかったのである、英語を完ぺきに理解できる彼らのテキストはきっとNew York Timesであり、Wall Street Journalである、もちろん彼らの故郷は日本なのでいつかは戻ってくるのであろうが、おそらくアメリカの知識層がそれを遅らせるであろう、なぜならば彼らは優秀でありアメリカ社会もまた優秀な人材を常に必要としているからである、もしアメリカ人の伴侶を得れば尚更のこと彼らの帰国は遅れる、したがってそうならないためには日本もアメリカに劣らない変革、改革を実行していなかければならないのだ、20年後の日本の若いエリートたちにとって英語を話せることはもう特別なことではない、むしろそれができない方が特別である、だがそのように考えるとこの2017年の日本人にそれは理解されているのであろうか?アメリカ人はそれができている、だから多くの若者たちが反ドナルド・トランプになるのである
すでに書いた、変革が起きれば一気に時代は変わる、と
きっとそうなれば僅かな遅れが命取りになる、外界を遮断し嵐が通り過ぎるのを待っている人たちの多くは、順調に序列化された社会をステップアップしていった人たちほど深刻な状態に陥るであろう、なぜならばこの言葉が20年後にはもう使えなくなっているかもしれないからだ
Domestic
普遍、つまりuniverseは僭越ながら私の自己満足のための言葉ではない、この言葉はじきに世界のその中心を歩む言葉となるのだ、ポピュリズムの台頭はおそらくそれに気づいている敏感な45歳以上の人々のささやかなる抵抗、イニシアティヴ(initiative)を失いたくないのであれば、世界の潮流に逆行することはできない、序列化された社会をステップアップしていくことの肯定は最終的には20世紀の価値観をそのまま踏襲することにしかならない、しかしそれでは困るのである
誰が?
「次」の人々が
スマートフォンは画期的なツールとなった、ITは文字通り世界の歴史を変えた、スティーヴ・ジョブズは間違いなくビートルズと並ぶ変革者だ、だがそれ故にその後遺症に苦しむ人々が一方で生じるのもまた歴史的にみて当然のことなのかもしれない、時代の先頭を走る、だがもう「次」の人々が背後に迫っているのである、最新のツールやアプリを自由自在に操作することは、最新故にその結果もまた未知数なのである、誰かが成功すればその後継者が出てきて彼を乗り越えていく、そしてここが重要なのだが、変革が進めば進むほどそのスピードは増していく、なぜならばそこに巨額の利益が生まれることが見込まれるからだ、その上位にはEVが、また人口増加による食糧に対する危機感から農業改革(遺伝子組み換え作物など)が来る、そしてそうなれなそうなるほど必要とされるのが優秀な人材である、だがすでに書いたように優秀な人材はその住む場所を選ばない、自分を最も高く評価してくれる所へ彼らは自由に移住するのである、「自由」の反意語は「権威」である、故に「知」、「美」、「技術」の分野の若き天才たちは最も多くの自由を与えてくれる、つまり権威から最も遠い所へと行くことになる、ポピュリズムはまず天才たちの反感をこそ買う、だから民主主義度の高い国ではポピュリズムは最終的には権力の頂点へと昇り詰めることはできない、だが民主主義度の低い国ではポピュリズムは一定の権力を手に収めるであろう、そして知、美、技術の格差が生まれる、diversityは少なくとも優秀な人材間においては国籍がまったく関係ないことを世界に証明するであろう、そして変革はつまり結果的にせよ新しい民主主義の形を肯定する人々たちによって彼らが最終的に望むスピードで進行していく、きっとその速度はそれほど速くないにもかかわらず民主主義そのものに懐疑的な人々を置いてきぼりにするには十分すぎるほどのものになるのであろう
では忘れていけないものとは何か?
普遍的な価値を宣布させていくことの重要性の認識
それはつまりどういうことか?
21世紀型の民主主義
もっと簡単に言うと?
20世紀以上の平等
つまりこういうことだ
価値の逆転
だから反動派もまた増長する、いやすでにそうなっている
彼らは気付いている、なぜならば少なくとも彼らのリーダー格はそれだけの知性を備えているからだ
このままいけば未来における約束は反故になり、保険と保障は目減りする、したがって一定の権力をすでに握っている者たちは時には利益のために、時には美学のためにまだ自らの言葉が有効なうちに「過去」を引き戻そうとする
反動派の恐怖は大都市に暮らす人々の恐怖、つまりメジャーであることの「利」をすでに手にしてしまっている人々の恐怖
上へ行けば行くほど下へ降りることは困難になる
恐怖の対象になるべきものはきっと二つ
一つはすでに述べた空洞化
もう一つは反民主派の資本家の躍進
きっとカウントダウンはもう始まっている
忘れてはいけないもの、それは子供の頃には当たり前のものだった夢と希望だけが育むことのできる自由な未来
そしてそれを失えば愛の表現も変わる
ロシア革命から100年の2017年、今度は何が世界をあっと言わせるのだろうか?
ご利益のない神様
ご利益のない神様
さて前章では、「忘れてはいけないもの」と題して、「動」が動けば「反動」も動く故に「忘れてはいけないもの」が浮上するという観点で私論を連ねた、やや政治的な論点も加わってしまったが、しかし何度も述べているようにこの2017年、世界は大きく変わろうとしている、そのような時代の流れの中で私たち特に民主主義を肯定する者たちはどのように対応していけばよいのであろうかということを今考えるのは僭越ながら有意義なことなのである
時代は常に動いている、しかし時に素早く動く
もし私たちが「次」を私たちが考えるべきその対象の群れから除外するのであれば、きっと反動派の暫定的な天下ももしかしたら受忍できる範囲内のものであるのかもしれない、おそらくその辺りは反動派ももう気付いているのであろう、反動派とはその多くが現時点での民主主義に懐疑的な勢力であろうが、誰も警鐘を鳴らさないまま時を過ごせば直ちにではないにしても、何らかの形で近い将来新しい民主主義の形成に影響が出るかもしれない
ドナルド・トランプの登場でアメリカがまごついている現在、反トランプでもある進歩的民主主義者との新しい民主主義の認識の差異を埋めるためにも日本にとっては絶好のチャンスが今訪れているのだが………
いずれにせよ「保障と保険の喪失」は先進国において個人がより民主的な、そして進歩的な存在になるためには一度経験せざるを得ない禊のようなものなのかもしれない
未来は自らが切り開いていくべきものであり、嵐は止まず、いつか外界を遮断する壁を自ら取り払ってにもかかわらずそれを選択する
「終身雇用」も「年功序列」も昭和を生きた人々にとっては「だからこそ頑張れる」その基盤となった制度であった、流した涙は報われ、また流した汗の結晶は然るべき後継者に委ねられた、今にして思えば幸福すぎる時代であった、どうしてあんなにも平和で繁栄した社会を私たち日本人は創造することができたのだろうと私も思う、だが今時代は変わる、しかも急速に
私たちは変わらなければならない、しかし忘れてはいけないものはしっかりと未来に持っていくべきだ、「次」の人々のために、民主主義の諸制度もその中に入る
私は時に思う、この国日本は鎖国の時代がもっとも日本らしかったのではなかろうかと、
この国は、島国でありまた気候が温暖であるが故にであろうか、衣、食、住が揃っており、したがって自己完結している、四季があり雨期がある、米、水、酒、魚、塩、味噌、醤油、砂糖、干物そして漬物、すべて自給自足が可能である、だから本来は侵略を行う必然性はないのである、おそらく英国などは、衣、食、住が日本ほど揃っていないのであろう、だから彼らは植民地を欲した、そして間違いなくフランスよりも強く欲した、だから植民地戦争において英国はフランスに敗れたことがないのである、きっとフランスは英国よりも気候など多くの点で恵まれていた(フランスは西ヨーロッパ最大の農業国である)、だから植民地戦争においても「英国はそこまでやるのか」と常に英国の軍隊に思わされてきたのであろう、恵まれているが故にフランス軍は英国軍ほどドライな感覚を持つことができなかった、日本も英国と同じ島国だが英国よりははるかに衣、食、住に恵まれた環境を維持している、それはまるでこの国が神によって選ばれた国だからだとつい思いたくなるほどではあるまいかと私も思う、この国では石油が取れない、また金もダイヤモンドも取れない、だからこの地域は中東や南アフリカのようにはならなかった、また地理的にも欧米両方から遠く、それも日本人には有利に働いた、さらに言えばやや不謹慎ではあるが1860年代のアメリカ南北戦争のおかげで、日本はアメリカの植民地にならずに済んだ、当時アメリカは東アジアで南下するロシアを牽制したかったはずだ、そしてそのことは東アジアにおいて北上するフランスを牽制したかった英国と利害が通じていたことを意味する、もし南北戦争がなければアメリカと英国は手を携えて日本をどのようにするか極秘に首脳会談を行ったであろう、そういう意味では日本とは実に恵まれた国である、資源はないが、地政学的にかつては欧米列強にとって重要な位置にあったはずなのである、にもかかわらずこの国は一貫して独立を維持し続けている、英国の軍隊は円明園を粉々に破壊したが、そのような暴挙はこの国では行われなかったのである
これを日本人が優秀であったが故のことだと理解する日本人も多くいるのであろう、日本人が優秀であったが故に英国人もその隙をつくことができなかったのだと、私はこのような意見に論理的に反駁することはできないが、しかしかなり日本は運がよかったのだとは言うことはできると思う、19世紀の後半ヨーロッパでは社会主義の気風が生じ始めていたのであろう、そしてそのような連中は英国やフランスなどの権力者にとっては現実の脅威ではなくとも将来の脅威にはなりえるものだったはずである、事実、1917年にはロシア革命が起きている、逆算すれば1870年代には何らかの動きが市民レヴェルで年表には表れない程度において起きていたと推測することができる、そういえば1860年代はロシアでは農奴解放令の頃である、つまりロシアが大国への道を歩み始めたのが1860年代といえるのかもしれない、となればやはりアメリカは極東においてロシアを牽制したかったはずなのである
さて話がやや本筋から逸れてしまったようだ、しかし日本が衣、食、住において自己完結していたという事実はここで再確認しておく必要がある、だから本来日本人は鎖国のような状況でこそ自分らしさを発揮できる民族なのである、なぜならば危急の要件がこの国にはないからだ、資源がないので侵略の憂き目に遭う可能性が少ない、またロシアが日本を侵略しても地政学的にみてアメリカやヨーロッパを牽制することにはならず、逆に国際世論の強烈な批判を浴びるだけである、もちろん彼らにとって北海道は「春の土地」を意味するのであろうから、北海道に暮らす人々が羨ましくて仕方がないという気持ちは間違いなくあるのであろうが…….
永久凍土という言葉の響き自体何とも不毛で寂しい感じがする、スラブ民族の不幸な歴史に思いが至るとき、少し気の毒な気持ちにならなくもないのではあるが……
きっと樺太では桜すら咲かないのではなかろうか、そして気候的条件において恵まれていないということは彼ら自身の明白な欠点の結果ではない
ロシア人の子供たちを日本に呼んで一緒に花見やサッカーができればいいのに、と時々思うこともある、住む地域によって子供たちの暮らしや未来に大きな違いが出るという理不尽さはやはりこの21世紀において改善されるべきではないのか?
そういう意味でも日本は恵まれているが故に自己完結している、だから一神教が大きな力を持つに至らず、精霊崇拝(故に偶像崇拝にもなる、しかし辻に地蔵がしばしば見られることは日本人の美徳の向上にプラスになっていることは明らかである)のようなやや曖昧な宗教観が日本人個々人の信仰心がそれほど大きく欠如しているというわけではないのに(そこそこ優れている)、社会においていまだに衰退していく傾向がみられないというのも、また食糧自給率が先進国間においてとびぬけて低いにもかかわらず人々の間において明確に危機感が生じないのも、自己完結しているが故のことなのであろう、故に日本人は強い個性を持った神を信奉せず、また守るべき戒律も議論の対象になることはない
このきっとユダヤ人などからすれば「恵まれすぎだ」と思われるに違いない現状をしかし日本人は特別な感情をもって認識しようとはしていないようだ
このことはしかし私にはやや残念なことに映る、もはや鎖国時代に戻ることはできない、きっと鎖国に戻れば伊藤若冲や葛飾北斎のような卓越した芸術家がまた出てくるであろう、そして彼らは一部欧米の技術を取り入れ、人類の誰もが到達したことのない領域へと達するであろう、だがそれはもうありえないのである
自己完結している、またはできるのにこれからの日本人はuniverseを実践していかなければならない、この歯痒さを極端に右寄りな保守派の数パーセントは認識している、だから彼らは時に民主主義という観点からすれば的外れな発言を繰り返すのである
私は時々こう思う、民主主義とは衣、食、住において自己完結していない国がその必要性から生じた国そのものの膨張の歴史を理性的に正当化するために編み出した普遍を強く感じられる仕組みのその最も上位に来るものであると
そう最初は侵略行為があったのだ、それは大航海時代に端を発する、資本家たちは船を航海士たちに用意する代わりに無事戻ってきた場合には利子を取った、資本家たちからすれば船が沈没するリスクを取らなければならないので、彼らがマラッカなどから香辛料を大量に運んでくることに成功したときには、自分たちが一定の報酬を得られることを確約させたうえで船乗りたちに資金を提供したのである
これらは皆「不足」故生まれた知恵であり認識である、ヨーロッパには肉はあった、がしかし香辛料はなかった、「不足」が「工夫」を生みしかし時に残虐な方法での侵略も正当化された、だが彼らは日本人とは違い自己完結していなかった、衣食住が少なくとも日本人ほどには整っていなかったので、「充足感」を人一倍求めたのである
植民地は彼らが欲している以上のものを彼らに与えた、故に「贅沢」が生まれ、セレブリティが生まれた、だがその一方で信仰と正義に生きる人々はそのような人々の在り方に疑問を覚えた
ラス・カサスの「インディアスの破壊についての簡潔な報告」はその有名な記録である、欧米の人々が一方で富を享受してきたにもかかわらず新しい民主主義や多様性の尊重を訴えるのはその頃の自国の歴史に対する強い反省の結果であろう、私はすでに「自分が与り知らない時代のことなのに負を背負わされる」これを人は不条理と呼ぶと書いたが、今の欧米の知識人たちもこの不条理を強く感じているからこそ理想を強く訴えるのであろう
無論自己完結していないことは彼らの責任ではない、しかしそれでも私たちは歴史を学ばなければならない、同じ過ちを繰り返さないために、だが先進国であればあるほどその歴史は「今」を生きる人々に不条理を押し付ける、そしてそれは時に耐え難いほどの屈辱でさえある、したがって耐えきれない人々はその不条理さ故に過去を正当化しそして歴史に目をつぶろうとする、それは彼らの「弱さ」、だがこの不条理さに真正面から向き合ってしかも肯定しまた自己批判をすることなど、実は常人のできることではない
そうここは読者諸君もすでにお気付きのように、「究極の善」につながる項目なのである
民主主義は最終的にはその根底において「究極の善」と通じることになる、だがここには歴史の逆説が常に横たわり私たちを試そうとする、神ではない、かつての私たちが今の私たちを試そうとするのである、侵略の歴史を持つ国の人々が民主主義をそして人権の尊重を訴える、だがおそらくこれが最上の方法なのだ、しかし侵略された側の人々は容易に耳を傾けることはしない、なぜならば十分な感情の冷却のための時間がまだ過ぎ去っていないからだ、したがって私たちは待たなければならない、また「次」の人々にこの思いを託さなければならない
きっと民主主義は等級を上げれば上げるほどより多くの「待つ」を必要とする、そこに神の御利益はない、あるのは人間の英知の結集と前世紀を上回る「寛容さ」と「慎重さ」である
ここに「より多く」と「より速く」が入り込むことは新しい民主主義の実現をキーワードにすればプラスにはならないだろう、新しい民主主義が指し示すものは「それぞれに見合ったスピード」である、だから総じてみれば「漸進」となる
よく考えてみれば、もし自己完結可能な日本において「より多く」「より速く」が見られるのであればそれは不思議なことである、日本人こそ自己完結可能なのだから「マイペース」を貫くことができるはずなのに
「『多様性』と「『効率性』の両方を同時に担保できるものだけが、この21世紀の民主主義社会において価値を持ち得る」
これが意味するのは大切なのは数値化できる目標ではなく、戒律のように様々な捉え方が可能な抽象的な目標に関する十年や二十年では結論を導き出せない議論の集積そのもの
そしてその時々においてその時点の人々が民主的な方法で結論を出す
そしてそれが「次」の人々へと正しく受け継がれていく、つまり史実の正確な伝承
ご利益のない神様
それは未来の民主主義のことだ
これは衣、食、住において自己完結可能な日本人には容易に理解できないものなのかもしれないが、「神を信じる」しかし「ご利益を期待しない」はuniverseを認識し、世界が「より良い」方向へと進むうえでは間違いなく避けられない認識なのである
そう考えるとまだ道のりは長い
ご利益のない神様 Part2
ご利益のない神様 Part2
さて前章では「ご利益のない神様」と題して、21世紀の新しい民主主義の形成のためには、20世紀までのように「損か、得か」ではなく、最終的には「究極の善」にもつながる、つまり普遍的な概念が必要なのではないかということを書きたかったのである、そこにあるのは「より良い」を目指す、であり、そして「『効率性』は同時に『多様性』を担保するもののみ価値を持つ」の肯定である
そのように考えると日本のような国は歴史的にみても極めて珍しいことではあるが、気候が温暖で衣、食、住が揃っているにもかかわらず、島国でありまた天然資源に恵まれているわけでもないため、欧米列強の帝国主義者の残忍な刃の犠牲になることもなかった、と書いた、そしてそこには不謹慎ではあるがアメリカ南北戦争のような日本側からすれば幸運な出来事も重なり、独立状態を一貫して維持することができたのだとも書いた
だがこの2017年になってついに民主主義は新しい変革の時代を迎えている
ドナルド・トランプの登場で日陰に追いやられてしまっているが、「多様性の尊重」はアメリカが中国やインドといった国々の追随を受けても尚世界ナンバーワンでいるために、必要不可欠な概念でありしたがってそのための新しい仕組みや制度の確立が急がれるのである、故にそれを知っている若いアメリカのリベラル派は彼の大統領就任からもうすぐ三か月になるのにまだ「反トランプ」を叫んでいる、彼らの言い分はこうだ
「アメリカはもううかうかしていられないのに」
「唯一の超大国アメリカ」の時代は終わろうとしている、故に鶴の一声で物事の決裁が行われるというかつては部分的にメリットもあった手法は遅かれ早かれ終焉を迎える
人生は渦巻き状に進行する、社会も一部を除いて渦巻き状に進歩する、そしてゴールは端にあるのではなく真ん中にある、だから頭脳明晰で決断力もある人々は、なぜ曲線的に進むのか?直線的に進めばすぐにゴールに着くではないかと考える、だがそれでは確認ができないのである、曲線的に進めば一周ごとに昨日までの自分をチェックできる、そしてそうすることで「次」が確実に育ってきているか否かも視界に捉えることができる、しかし「自分こそは」という人は常にこう思っている
大切なのは手続きではなくどれだけの成果をそのプロジェクトで生み出せたかどうかだ、リーダーが決断すればそれだけで多くの無駄を省くことができる
私はこの考え方を100%否定する気はない、確かに何かの都合によりまったく決断することのできないリーダーがその座に暫定的にではあっても就いたとき、喫緊の課題について彼がうまく対応できないということは十分考えられると思うからだ(そしてそのような時になぜか天災に襲われたりするのだ)、時に決断は一分一秒を争う、そう考えるとリーダーの逡巡は部長クラスの逡巡とは比較にならないほどのネガティヴな事態を引き起こす、そういう意味では自信過剰な反動派のリーダーの饒舌な物言いには一定の説得力があるのだと認めざるを得ない、そしてそのような反動派のボスは緊迫した場面においてこそ実に悠然と振る舞う、それは時にソフィストのようであるのかもしれないが、論理的で辻褄の合ったしかし客観的な論法よりも、その時々のモードを的確に捉えた客観性に乏しいにもかかわらず人々の琴線に訴えかけてくる熱情のこもった論法の方が最終的に有権者の背中を押すということはきっと珍しいことでも何でもあるまい、そしてそれが世界最高の民主主義国家アメリカ合衆国でも起きた、アメリカにおいて選挙以外の方法で国家元首が選ばれたことはなく、それどころか世襲の大統領さえも僅かだ、この模範的な国家で起きた前例のない事態はしかしやがて肝臓の病気のように民主主義そのものを蝕んでいくかもしれない、だが当面痛みがないため誰も気づかないのである
しかし私はすでに多くのキーワードを記している
「漸進」、「より多く」「より速く」から「より寛大に」「より慎重に」そして「待つ」
これらのワードは個人の人生も一部を除く社会も渦巻き状に成長し、進歩していくという前提に立っている、しかしだからこそこうなるのである
「『多様性』と『効率性』」の両方を同時に担保するものだけが価値を持つ」
直線的に物事が進むことを認めるのであればそれは数値化可能な結果を生み出すことのできる優秀な人々たちの手にのみ社会の決定権のほとんどが委ねられるということを意味し、結果的にせよ社会的弱者に対する行き届いた配慮の欠ける社会となってしまう、そして困ったことに「次」の尚且つ優秀な人々もそれを模倣するため、新しい民主主義の形成にはつながらず、それどころか部分的独裁が実現してしまう恐れさえある
ここでは前書「曇天の日には収穫が多い」で登場したある言葉を引き合いに出すにとどめておこう
引き際の美学
つまり私にはそれができる、しかしそれを私が今ここでやることは「次」の世代のためにならない、したがってここでは何もしないという考え方
民主主義なのに発言しないとはおかしな物言いだが、しかしこの「引き際の美学」は「数えられるものの価値」が「数えられないものの価値」を大幅に上回っている現在、僭越ながらもっと考慮されてしかるべき概念である
「敢えてそれをしない」そしてその代わりかつてであれば誰もしなかったようなことを「敢えてする」
この辺りはやや神経質な発言になるが、しかしそのような意思と能力と技術を兼ね備えている方であれば理解可能であろう
それでは次に移る
この章のタイトルは「ご利益のない神様Part2」である、これは信仰の在り方の変化はもちろんのこと、それ以上に21世紀を生きる先進国の常識ある人々の認識の変化を意味している、したがって神を信じるか否かということは必ずしもこの条件ではない
おそらく精霊信仰を中心とする多神教の世界では神に例えられる存在が無数にあるため「ご利益」という概念が当たり前のものとして人々の間に定着したのであろう、したがって商売繁盛であればお稲荷さんであり、学問成就であれば例えば太宰府天満宮となるのである、普通の神社のお札を受験生にあげても喜ばれないが、太宰府天満宮や北野天満宮のお札を上げれば喜ばれるといった具合だ
「ご利益」という考え方は見返りを求めるという点では信仰の純粋さにかけるのかもしれないが、いわゆる「神頼み」が励みとなり結果的にせよその時点での目標達成のための「限界への挑戦」につながることはあると思う、そしてそのような経験が繰り返されることで何らかの信仰心への目覚めにつながるということもあり得るのではないかと思う、信仰心のある人間がそうでない人間よりも強欲で尊大であるとは一般的にはあまり考えられないのではなかろうか、睡眠により鋭気を養い、目覚めにより活力を得、夕べの祈りで一日を終える、そのような日々の繰り返しはストイックであるが故に驕慢を戒め、自制(自省も)を促す
これは地蔵に手を合わせる慣習と相まって日本人の間に国際的にも通用する美徳を育んだ、これは一言でいえば「感謝の気持ち」で表現されるべき日本人独特の品性、つまりデリカシーであり、そしてこれは日本という国の歴史的、地理的特異性故にであろう、ほぼ原形をとどめたまま現状に到っている
きっとこの美徳を100%否定するのは難しいであろう、universeをキーワードにすれば新しい民主主義の到達すべき目標はおおよそ視界に捉えられている、それは私風に言わせれば「出自やその属性に一切関係なく、その素養及び才能のみによってその人を評価、判断する」であり、またそれ故に「すべての人々に平等にチャンスが与えられるべき」となるはずである
そしてこのように世界が新しい目標に向かって少なくとも欧米の若いリベラル派が一つにまとまっていこうとする現在において、この高等な美徳(ズバリ「感謝の気持ち」)を堅持する国民性を持つ私たち日本人はどのようにそれに対処していけばよいのであろうか?
神に見返りを求めず、ただ純粋に神の期待に副うがためにこの世の理想の追求に邁進する
一言で言えばそういうことであるがしかし日本人にはすでに高等な美徳が備わっている、そしてこれはすでにinternationalに認められているものでもある
「感謝の気持ち」があるからこそ勤勉でありまた礼儀正しいのである、そしてここが重要なのだがこの「感謝の気持ち」は、一日本人的ではあるが「新しい民主主義」というものを考えたときに一定の有効性をおそらく持つであろう概念を私に想起させるのである
それは「生かされている自分」
これはすでに述べた引き際の美学ともその根底においてつながっているものでもある、「私、または私たちの利益」よりも「彼、または彼らの利益」を優先させる、おそらくその初期においてはたとえばアフガニスタンなどの様々な理由で恵まれていない国々の人々に何らかの優先権を認めることでもあるのであろう、私はすでにこの書の前半の最後、つまり「浄化」においてこう述べている
どのような地域に住む者であったとしても子供たちがその暮らす地域故に夢を持つことが当たり前の年齢においてすでに夢を諦めなければならないのだとしたら私たち人類の文明の発展とは一体何のためだったのであろうか?
甚だ僭越ながらこの発言だけは何としても重視していただきたい、如何なる理由があろうともこの文言を否定するような性格及び性質がそこに確認されるのであればそれはどのようなものであれ、少なくともこの21世紀における人類共通の理想としては失格であり、したがって私たちはこの理想に僅かでも近づくために慣習との妥協点を見つけながら、しかし一歩ずつ前進していく勇気と決断力を身につけなければならない
そして引き続き甚だ僭越ながら「ご利益のある神様」はそこに美徳の喚起の可能性が生じることであろうことを十分認識したうえで、しかしにもかかわらずそれは地域性が強く故に普遍性という点では幾分かの納得しがたい部分もそこに含まれているという一つの側面もここで指摘せざるを得ないのである
ここは実に表現に気を使わなければならない場面だ、神様に「ご利益」を期待することはそれ自体信心と矛盾することはなく、したがってそこに悪意はない、だがuniverseをキーワードに新しい民主主義の形成を考えるのであればここに一つの結論を導き出さざるを得ない
「神の御利益」が指し示すものは21世紀的にはその影響を及ぼすべき範囲がやや狭い
「ご利益のある神様」は21世紀を生きる日本人の一つの認識の結果であるとみた場合、確かに間違ってはいない、では何なのか?
「狭い」のである
私たちはuniverseを目指さなければならない、これは反ポピュリズム、反テロリズム、そして反「不寛容な精神」を考えるうえでも僭越ながら譲れない一線なのである
そのためには精神的な意味での広大な土地が必要である、そしてそこに私たちはインマテリアルな創造物を建設していかなければならない、特に第一次産業革命以降人類は極端なマテリアル志向であったが故にその反動が来たのであろうか?
だが私たちには責任がある、「次」の人々に対する重大な責任が
原子力発電所は是か非か?
ここで私がその結論を出す必要はない、ただ一つだけ言えるのはいずれにせよその答えは民主主義的な手続きによって導き出されなければいけないということだ
ならばやはり反ポピュリズムであり、反テロリズムであり、そして反「不寛容な精神」である
「広大なる」ものの延長線上に普遍がある、そして普遍は二つの概念とイコールである
即ち「善」と「美」である
故に神でありまた信仰となるのである
神様の「ご利益」の悪意のかけらさえ感じとることのできないdomesticではあるが国際的にも通用する純粋なる美徳から生まれている日本人の慣習はしかしその一方でこの21世紀、世界との関わりという点においてある種の蟠りを私の中に生じさせているのである
あとがき
あとがき
さて前書「曇天の日には収穫が多い」から続いてこの私論もここで一応の決着を見た、諸君、完読に心より感謝申し上げる
だが諸君もお気づきであろう、この私論はこれほど多くの言辞を弄してきたにも関わらずまだ十分ではない、したがってこの後は、この二つの論文「曇天の日には収穫が多い」と「行ったり来たり、そして次の人」においてにもかかわらず書き漏らした部分の補てんを私は行わなければならない
これはたとえネットに発表されたものであろうとも一書き手としての当然の責任であり、またたそがれの扉を開けた者としてのその後輩たちに対する一つの礼儀でもあろう
そのように考えると、この私論は現時点では正直な話、終わりが見えないのではあるが、しかしかといって延々と続くというわけでもないように思える、僭越ながらこの2017年前後、世界は大きなうねりのその入り口に立っているという考えそのものは、読者諸君の賛同を得られるのではないかと考えている、したがってこれまでに続けてきた考察の継続はこれまた僭越ながら私自身にとってもまた諸君らにとっても決して無益なことではないように思えるのである
どのようなことでもいい、後世の人々に何かを「伝える」ことはこの21世紀ただそれだけで重要な意味を持つのである、映像や写真もまた多くを語るのであろうがしかし最も多くを語るのはやはり言葉であろう、言葉というものは多数の言語によって世界が隔てられている以上、翻訳が盛んにおこなわれない限り普遍性を持ちえぬものであるが、それでも尚最も多くのインスピレーションを喚起しうるものは言葉だけなのであろうとも思う、神はもしかしたらその辺りのことを熟慮したうえで、わざと多数の言語によって人類を分け隔てたのかもしれない、普遍とは異なる言語という逆境を跳ね返した先にようやく見えてくるものなのであると、なぜならば言語が異なるとは慣習が異なるということなので互いが歩み寄らない限りは言語の違いを最終的に克服したことにはならないからだ、互いが歩み寄るとは互いが互いの文化に尊敬のまなざしを向けるということであり、他の文化を慮るとはとりもなおさず「相違」の向こうにある、いや、向こう側にしかない価値に気付くということなのであろう
それは「協力」
ここでは「志」は不要であろう、「優劣」を差し挟むのではなく「相違」を認め合うことで、より望ましい「繁栄」と「平和」が実現する
すでに私は記している
私とあなたは違う、だからこそ協力できる
そう、そこに共通の目標があれば、国境の壁もそして世代間の隔たりもそれほど気に留める必要はないのかもしれない、もちろん「相違を認め合う」には一定の「待つ」が必要になるが、しかしそれはいくつかの世代交代を経てきっとuniversalなものへと昇華していくのであろう、ただそれについては私がここで述べる必要もなさそうだが
さてこの「行ったり来たり、そして次の人」を書き終えて、一つだけだがしっくりいかない気分に襲われている
そう、この書の最初で触れた「半分しか水の入っていないコップ」についての考察があまり行われなかったという事実についてである
「もう半分しかない」なのか、それとも「まだ半分ある」なのか
これはこの書「行ったり来たり、そして次の人」の骨格をなすはずの論点であった、この二つの視点はいずれも同じだけの価値を有しているのだが、故にその拮抗状態が維持されれば、「次」の人々にとって有益な何かを残せる、そのための重要なきっかけ、手掛かりになりうるものであった
理想は反動派を排除したところにのみ存在するのではない、人類の理想は「正」と「負」の拮抗のその先にのみあるものである、だから支持率100%からは何も価値あるものは生まれてこないのである
なるほどそういう意味でも僭越ながら理想の実現ための「行ったり来たり」が必要になるのであろう、そのように考えるとポピュリストというものは一方で人類の取り組むべき課題というものを実に「画期的に」(この語の使用法としては間違っているが)示しているのであろう
私にはドナルド・トランプの当選もヨーロッパにおけるポピュリズムの台頭も健全なる民主主義が実現されているが故の当然の保守派からの反動のように思えてならない、無論そこには憂慮すべき事態も想定されるのであろうが、しかし健全なものとはきっと何でもそうなのであろう、そうであればあるほどしばしば二の足を踏み、また停滞し、さらにあちこちにぶつかりながら「にもかかわらず諦めず」に進んでいった先にのみ待ち受けているものなのではないだろうか?
そうでなければ神がなぜ人間を不完全に作りながらしかし知恵を与えたのかが理解できないのではないかという気がする、恣意的な楽観論というのは言うまでもなく戒められるべきであるが、論理的、または科学的楽観論というものは一定の範囲内で了承されるべきであるとも私は考える、そうでなければ負の歴史を知るが故に必要以上に敏感になりその結果、過剰に用心深くなり行わなければならない変革に対しても消極的になってしまう虞があると思うからだ、いたずらに外界を遮断するということは理性的な人物のすることではない、車を運転しているとき、交差点内で横から右折車などが近づいてきたとき、ブレーキではなくアクセルを踏んだ方がより安全ということはある、そのように落ち着いて理性的に考えれば十分危機を回避できるのに、「危険=ブレーキ」という考え方が染みついていると経験する必要のない負、トラブルを経験することにもなり、それはもし繰り返されればもちろん自分のためにはならないし、また「次」の人のためにもならない
民主主義の仕組みそのものが守られていることが前提条件になるが、しかしその条件さえ守られているのであれば後は史実の正確な伝承がジャーナリズムによって担保されていれば、文明の進歩を肯定的に捉えているまた一定の教養ある有権者たちは「次」の人々が困るような選択をしないのではないかというやや確信めいたものは私の中にはある
民主主義はすでに二つのことを私たちに告げている、一つは「普遍」であり、もう一つは「下からの改革」である、人類の歴史は紆余曲折を経て最終的には普遍へと向かう、そしてその運動は「下から」起こったもののみ有効である
僭越ながらこの21世紀という人々が上ばかり見ている時代に、「下から」の改革を訴えることはすぐには理解されないであろうが、しかしこれは長期的には実に重要な概念なのではないかという気がする、「下から」動くことで人はおそらく二つのことを知る、一つが「隙間」でもう一つが「脈絡」だ、この二つは大都市の現状を見るとほとんど失われていることに気付かされるが、しかし人が限界までの挑戦の結果、新しい価値の創造を行い、そしてそれがこれから生まれてくる人々のための新しい道になるのであれば、この二つはどうしても失われてはいけないものなのである、隙間とはメッセージだ、脈絡とはストーリーだ、そしていずれもがcreationのためには決して外すことのできないものである、だがこの21世紀初頭かなり高い確率で、creationはproductionの下にある、本来は逆でなければならないのだが過剰な商業主義が価値の逆転を生じさせてしまった、これはcreatorたちにとっては分野を問わず悲劇である、このような現状は早急に改善されなければならないのだが、正直、道は遠そうである
Creatorは「数えられないものの価値」を代弁する役目を負っている、そしてproducerは「数えられるものの価値」を代弁する役目を負っている、この両者の力関係は言うまでもなく50 vs 50でなければならないのだが(厳密には50.5vs49.5くらいでcreatorに軍配が上がらなければならない、なぜならばproducerはcreatorを容易に変えることができるが、その逆は難しいからである)、実際にはproducerが90でcreatorが10だ、だがきっとアメリカではこのような現状は改善されるであろう、そうでなけれればHollywoodもiTunesももたないであろうから、そしてそうなったとき日本だけが取り残されるのだ
ビートルズにあってamateurismにないものは何か?
それは後継者である
さらに言えば優秀な後継者である、形だけをまねるのであれば誰にでもできる、そうではなく精神を踏襲するのだ、したがってそこにあるのはメッセージでありストーリーである、決して単なる描写ではない、描写とは最終的には技術のことでしかない、したがってテクニックが優れていてもそれだけではその時代を反映するだけの、さらに踏み込んで言えば後世を生きる人々にとっての時代考証のための参考資料にしかならない、そこには普遍がないのだ、ギターをいくら速く弾いてもそこにメロディがなければそれは世代間の障壁を超えるものとはならない
僭越ながらtechnic<spirit である
さらにもう一つだけ言わせていただきたい、芸術は技術のことではない、無論、最低限のラインはあるためまったくの初心者に発言権が与えられることにはならないが、おそらく技術が高まればそれだけそれは権威に近づく、だがcreatorにとって最も大切なものは「創作のための自由」であり、したがってcreativeであろうとすればするほど権威から彼は遠ざかることになる、故に真のcreatorは権威から離れる、そして結果的にせよ大都会からも離れる、大都会には隙間と脈絡がないため、99%未来における時代考証のための材料に過ぎない描写に興味のない真のcreatorは最終的には自分こそが見つけた場所(そこが心のふるさとになる)へと移住する、だが瞬間熱が優秀なproducerたちによって全盛期を迎えた感のあるこの2017年、メッセージもストーリーも隅へと追いやられ、おおよそ意味のない描写だけがまるでチャンピオンのように大通りを闊歩しているように思える、これはほんとうに残念なことである
もしかしたら近い将来再び価値の逆転が起き、creatorたちは再び枕を高くして眠りにつくことができるようになるかもしれないが、しかし今度の価値の逆転は歴史的にも象徴的な意味を持つものになるかもしれない、minority’s powerが意味するものはパラリンピックに限定されたものではない、EV革命はPhilippineやIndiaのエンジニアにもチャンスがあるということを証明する、そうなればその価値を決めるのは他でもないそれを利用するユーザー自身ということになる、つまり彼が「それでいい」といえばそれでいいのだ
この「彼が『それでいい』といえばそれでいい」は世界を変える、なぜならばもうお墨付きは必要ないからだ、そうなればきっと腕時計もSwiss madeである必要はない、そこにあるのは「利用」であり「所有」ではない、ブランドは時代を先取りしたもの以外「過去のもの」となる、ファッションモデルでも1億ドル稼げる時代は終わる、彼が幸福であるか否かを決めるのは彼自身だ、だから必ずしもNew YorkやParisに暮らす必要はない
あとがきなのにずいぶんと長くなった、諸君、可能ならばこの二つの私論の補てん版もお読みいただければ私にとってこれ以上の喜びはない、おそらくすでに書いた分の半分程度の分量で補てんは済むであろう、なにとぞご理解賜るよう御願い申し上げる
2017年4月29日
織部 和宏
行ったり来たり、そして次の人
不足した部分は補てんにより補う