国境の村

2012/08/07

 幹に付いた手が木の皮を巻き込んで力なくずり落ちる。ひどい頭痛だ。平衡感覚が無くなる程の耳鳴りは、止む気配もない。曖昧な意識の中に、先刻見たばかりの地図を思い浮かべるが、記憶よりも方向感覚に自信が持てなかった。天地が回転するような目眩を抱えながら、山腹を歩き続けると、水の流れる音が聞こえた。川が近いのだろう。方角は正しかったようだ。
 川縁に転がり出る頃には、立つことすらままならなかった。ただひどく喉が渇いていることが、体を動かす力となる。這うように手を伸ばし、水を口に含むと、体中に水分が行き渡る感覚を覚えた。全身の有害な物質を薄めるように水を求めるが、次第に薄れる意識がそれを許さなかった。両腕の抵抗も虚しく、体は川に押し流される。
 水面の光だろうか。目の奥でちらつく白い光が眩しい。暖かな光は伸ばした手で掴めそうであり、しかし指の間からすり抜けて逃げてしまう。まだ届かない。
 幼い日に聞いた優しい声が聞こえるようだった。
「怪我は痛みませんか。休めるところを捜してくるので待っていてください」
 そう言って駆けて行ったその背中には、まだ届かない。
「ごめんな。いつも守ってもらってばかりで」
 頼りない声が出た。いつも背中ばかりを見ていた気がする。光の中に消えてしまった背中には届かずに、意識は途切れた。

 記憶よりも柔らかな毛布に触れた手が、何かに当たる。反射的に目を開けると、最初に見えたのは、見慣れない木目の天井だった。全身の倦怠感を振り切って首を動かすと、手に当たったものの正体が、気持ち良さそうに寝息を立てている様子が視界に入る。子どもだ。周囲に水や薬が置いてある。この子が看病してくれたのだろうか。
 子どもの頭を撫でながら記憶を呼び起こす。川に落ちた辺りからの記憶が定かではないので、恐らく流された後どこかで拾われたのだろう。どれくらい前に見たか分からない地図を思い浮かべると、川下の村に行き当たった。未だ生きた心地はしないが、どうやら生きているようだ。
 手元が動く感覚に目線を落とすと、子どもが目と口を大きく開けてこちらを見ていた。床も抜け落ちる勢いで立ち上がると、派手に扉を開けて部屋から飛び出してしまった。遠くから起きたと騒ぐ声と共に、人の気配を感じることができる。扉が開いたままなので、会話まで筒抜けだ。子ども声に答えて、女性の声が近づいてくる。開いたままの扉から姿を見せた彼女は、目を細めて笑った。
「顔色は良いみたいですね。よかった」
 その手が抱えている器からは、美味しそうな香りが漂う。その香りを吸い込むと、腹の虫が鳴った。それに返事をするように、彼女は小さく笑って手元の器を差し出す。
「どうぞ。食欲があるようでしたら、ちゃんとした食事もお持ちしますね」
 それを受け取ると、暖かな重みに幾許かの安堵を覚えた。
「ありがとう、助けてくれて」
 純粋な礼の気持ちのつもりではあったが、その言葉に彼女の表情が曇ってしまった。
「あなたは、軍の方でしょう。それもこの国のものではない」
 頷いて良いものかと思案するも、すべてを見通しているような彼女の瞳に嘘など吐けそうもなかった。問いかけに対して不自然な沈黙の時間が流れる。
「あなたが、侵略戦争に来たのではない事は分かっています。ただ、ここにいるべきでもない」
 彼女の口調は、責めるでも励ますでもなく、ただ事実を語っているようだった。
「これからの話は、食事の後にしましょう。その体では何もできませんよ」
 穏やかに笑った彼女に、曖昧な笑顔を返した。
 長い話になりそうだ。

国境の村

続きません

いつか物語になればと思います

国境の村

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-08-07

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