東下り
色男、金と力はなかりけり、なんて言葉がありますが、これはモテる男が謙遜して言ったのか、モテない男がひがんで言ったのか、どっちなんでしょう。
あの『源氏物語』の光源氏なんかは、イケメンで金も力も持っているという、羨ましいような憎たらしいような男ですが、その光源氏よりもう少し前の時代に、やっぱりイケメンで金と力は程々という男がいました。これが祖父は天皇、父は親王、ついでに母は内親王という、すごい血筋の方なんですが、政変に巻き込まれて臣籍降下し、身分も中流貴族に甘んじなければいけないという境遇だったんですね。
おまけに世は藤原氏が次々に娘を天皇に嫁がせて、権力を盤石なものにしようとしていた時代。
そしてこの色男はというと、藤原氏とはなんの関わりもなく、むしろ敵対関係だったものですから、二十四歳で従五位下になって以来、まったく昇進しない日々が続きました。
本人の能力とは無関係に、いくら頑張っても出世できないとなれば、そりゃあ仕事なんてやる気がなくなります。なまじイケメンなら、色の道に走っても無理はありません。
でも、そういう人の家来となると、さらに気苦労が絶えないというもので。
「ああ、けったくそ悪い。千丸、私は東へ下るぞ!」
「おや、そうですか。ほな、何日くらい行かはりますか。役所に届けを出しとかんと」
「アホ! 物見遊山やないわ。都落ちや、都落ち。藤原の阿呆にあてつけてやるんや」
「そやけど五の君が都落ちしはったら、都中のオナゴはんが悲しむのとちゃいますか。逆にオトコはんは大喜び。ああ、これで都から色男が一人おらんようになった、もおけた思て、五の君が通ってはった姫君のところへも行くかもしれまへん」
「……そやな。それはかなんなあ」
「そうでっしゃろ。どうせ二条の姫に会えへんから、おもろない、思てはるんでしょ」
「そうや。やっと仲良うなったのに、姫の兄貴どもが、姫を御所に幽閉しよったんや。御所やで、御所。あんなとこ連れてかれたら、これまでみたいに会えへんやないか。せっかく藤原のアホンダラに一泡吹かせたろ思ってたのに」
「五の君が藤原家のことを、目の上のタンコブみたいに思うてはるのは知ってます。いくら仕事を頑張っても出世できへんのは、藤原一族が権力を笠に着て、他の貴族を締め出してるせいでっしゃろ。せやけど二条の姫は帝の婚約者ですやん。そういう御方とスキャンダルおこしたら、一泡吹かすくらいやすみまへん。下手したら五の君も失脚の憂き目にあって、東下りどころかもっと辺鄙な場所に左遷でっせ。そうなる前にこうなったんは、かえって良かったのとちゃいますか」
「良かったんかなあ。いつまでたっても仕事は干されっぱなしで、この先もずっと昇進なしやぞ」
「はい。おかげでわたしの給料もずっと横ばい。このままじゃ結婚しても、家族を養えるんか不安で不安で。にもかかわらず五の君は、色の道だけは精進なさる。わたしは婚活もままならんいうのに。それでも失脚して、これ以上給料が下がるよりは、なんぼかマシやと……」
「なんや、しょうもなくなってきたわ。もうええわ。とりあえず東下りは延期や。そやけど、なんやな。せっかく都で一、二を争う別嬪や噂の二条の姫を落としたいうのに、こないに中途半端な形で別れることになってもうて、おもろないな。手ぇ出したらあかんオナゴとの禁断の恋いうのも、恋愛の醍醐味なんやけどな」
「そないなこと言うたら罰があたりまっせ。これまでに関係を持たれた姫様方が、何人もいてはるやないですか。そういうオナゴはんのことも、ほかしたままやあきまへんやろ。ここんとこ、二条の姫にかかりきりで、文もよう出しとらんのとちがいますか」
「そうやな。ちいっと気ぃ引き締めんと、このままや色男の名がすたるいうもんや」
「そうでっしゃろ。たとえば二条の姫の前に通われとった六条の姫。確かこの姫を落とされたんも、もとはといえば藤原家絡みでしたやろ。藤原家のオトコはんが愛人にしようとしてたんを、五の君が横取りしはった」
「人聞きの悪いこと言うな。六条の姫はもともと正妻になろ、思うてたんや。そやけど受領の娘で身分が低いから、上流貴族の正妻にはなれまへん。そやから藤原のオトコが言い寄っても受け付けえへんかった」
「そこで中流貴族の五の君が言い寄られた。そやけど五の君も正妻に迎える気ぃはなかったんとちゃいますか。なにしろ中流と下流の間にも深おて暗い川がある、ちゃうな、越すに越されぬ大井川、あれ?」
「川から離れんかい。中流、下流でも身分差は大きいやろ。私も皇族である以上、受領の娘を正妻にはできんのや。そやけど、ないがしろにする気はないで」
「でもここしばらく、二条の姫にご執心で他の姫様方のことは、とんとお忘れやったでしょう。それでも恋にサバけた姫様ならともかく、真面目で一途な六条の姫は、どれほど不安に思っておいでやったか。きっと今頃、袖を涙で濡らしておいでや思います。よよよよよ」
「おかしな泣き真似すな。わかった。とにかく六条の姫のところへは行きまひょ」
「ほな善は急げ、言います。早速、牛車の用意をいたしまひょ」
「おおい、そないに慌てんでええ。行くんは夕方や、おい、言うてるやろ」
さて、五の君は数人の小舎人と側近を連れて、六条の姫のもとに参りました。
久しぶりに訪れた六条の姫の屋敷は、なんだか以前に比べて寂れています。
受領は任国によっては、下手な貴族よりよほど財産を蓄えていますから、住まいもそれ相応に整っています。六条の姫の父親は武蔵の守ですが、以前は建物も手入れが行き届いていて、庭も綺麗に掃除されていました。でも今日は気のせいか、汚れているというわけではないのですが、なんとなく埃っぽいというか、雑然としているように見えました。気をつけて辺りを見回すと、築地が所々傷んでいたり、庭も雑草が目に付きます。さすがに野良犬の糞はありませんが、以前ほど手を入れていないようです。
そのうら寂しい様子が、姫の心を現しているようで、さすがに五の君の胸も痛みました。
「なかなか会いに来られずに申し訳ありません。毎日あなたのことを思い浮かべては、どうしているかと気に掛けていました」
「もうわたくしのことなど、お忘れになったと思っていましたわ。屋敷の奥にいましても、風の噂は聞こえてまいりますゆえ」
「噂など尾ひれがつくものです。確かにお勤めが忙しく、こちらに来られぬ日が続きましたが……。それよりしばらくお会いしない間に、なんだかやつれられたような。これも私のせいなのでしょうね」
「……それもございますが。実は父が任国で病に臥しております」
「お父上が?」
「幸いお勤めに支障はないのですけれど、もうご高齢ですからゆっくり休んでいただきたいのです」
「それは……。確かお父上は五十路を過ぎておいでのはず」
「はい。なにも父が直接行かずとも、他の者に管理を任せたらよいのに、妙に律儀なところがおありで」
「お父上が不在なだけでも不安なのに、ご病気とあれば、さぞご心痛のことでしょう」
「わたくしは一人娘ですし、遅くにできた娘ですから、父もわたくしの行く末を案じているのです。五の君に通われるのは、女の誉れとはいえ、なにぶんにも身分が違いますもの。しょせんは殿上もできぬ者の娘ですから」
「やはりしばらくお会いしなかったことを、恨んでおいでなのですね。
恋ひ恋ひて 逢へる時だに うるはしき 言尽くしてよ 長くと思はば (これほど恋いわびてやっと逢えた時くらい、優しい言葉を尽くしてほしい。二人の仲を長くと思うなら)」
要するに、「せっかく会いに来たんだから、機嫌を直してくれよ」ということでしょうね。なにしろ歌はお得意な方ですから、四の五の言うより、歌でも詠んだ方が相手を言いくるめやすいことをわかっておいでです。
すると、さすがに五の君が愛人に選んだだけあって、姫もサラリと返歌されます。
「ちりぬれど 恋ふれど験なきものを けふこと桜 折らば折りてめ (散ってしまえば、その後いくら恋しく想っても何の効果もない、それなら今日のうちに桜を折るなら折ってしまおう)」
いやいや、これはなかなか痛烈です。一見、なんてことのない春の歌ですが、裏読みすれば「どうせ貴方は私のことなんて、もうなんとも想っていないんでしょう。まあ、一人寝が寂しいんなら、付き合ってあげてもいいわよ」という意味に取れます。
さあ、一体どう出る、五の君。
「そんな悲しいことはおっしゃらないで。あなたをないがしろにするようなことは、誓っていたしません……」
夜も更けて参りました。五の君は何とか姫の機嫌を取り結んで、一夜を過ごした様子です。
同じ頃、五の君の従者の千丸も、姫の侍女、桔梗と楽しい一夜を過ごしていました。実はこの男、五の君の文使いとして何度かこちらの屋敷に足を運ぶうちに、ちゃっかり桔梗と仲良くなっていたのです。五の君には他にも愛人がいるのに、六条の姫のことを話題に出したのは、間に桔梗が絡んでいるからでした。
「久しぶりにゆっくり会えて嬉しいわ。五の君が他所に行てるのに、俺だけここに来れへんからな」
「うちもずっと会いたかったわ。五の君の噂はようけ聞いとったから、どうなるんや思てハラハラしてたわ。二条の姫との仲がおおっぴらになったら、ただでは済まないんやろ」
「五の君の口癖は『東に下る』やけど、ホンマに世間にバレたら、東下りどころか左遷やからな。あの方は時々無茶しよるから、かなんのや。それよりしばらくぶりに来たせいか、お屋敷が妙に寂れて見えるんやけど、なんかあったんか」
「武蔵の守様の容態が思わしくないんよ。任国で体調を崩しはって臥せっておいでなんやて。それで屋敷の者は、皆、気ぃもそぞろなんよ」
「そないに具合が悪いんか?」
「そう伺ってるわ。そやから皆、もしものことを考えて、身の振り方を考えてるんよ。うちもお勤めを変えるんや」
「そうか。……姫だけならともかく、屋敷の者たちの面倒まで、五の君一人じゃみられへんからな」
「そういうことや。今度は播磨の守の屋敷に移るんよ。もし近くに来はったら寄ってな」
「じゃあ、これからはここへ来ても、桔梗とは会えへんのやな。楽しみが一つ減るわ」
「次は播磨の守の屋敷で会おうな。うち、待ってるから」
さて、それから数日は何事もなく過ぎました。
というのも五の君には六条の姫以外にも、何人か通っている方がおいでです。そういう方々の所へも、ご機嫌伺いに行かなければいけません。あちこちに通う女性がいるというのも、なかなか大変なことです。
そうして一週間ぶりに、六条の姫のもとを訪れた時、事件は起こりました。
なんと、屋敷はもぬけの殻だったのです。慌てて近所で聞いて回ったら、引っ越したということでした。
五の君は驚いて、千丸に姫の行方を捜させました。千丸はすぐに播磨の守の屋敷へ向かいました。ここには桔梗がいるはずですから、彼女なら姫の行き先を知っているでしょう。
「きっと来る思うとったわ」
「勤めを変えたんは、引っ越すからやったんやな。それならあの時言うてくれたらよかったのに」
「姫様に口止めされてたんや。五の君の従者には黙っててくれ、て。まあ、姫様の意地やったんよ」
「黙っておらへんくなることで、自分が振ったように見せかけたかったんやろか」
「姫様は五の君が来ぃへんようになって、そらぁ悲しまれたんよ。やっぱり受領階級の娘なんて、五の君には物足りぃひんのやないかて。なんせその後で噂になったんは、大臣家の姫やからな。正妻の座を望まれたんも、ご自分は一人娘やから、お父上に何かあったら、後ろ盾がのうなってしまうからや。宮仕えに出るんは、気ぃがすすまん言うとったから」
「ほんなら五の君へのあてつけに引っ越したんか」
「ちゃうよ。武蔵の守様の容態が悪いやろ。都に戻るんは無理かもしれへんのや。そやったらいっそ武蔵へ引っ越して、そこで家族で暮らそ、いうことになったんよ。武蔵なら都から来た姫をぜひ妻に、いう男はいくらでもおるやろ」
屋敷に戻った千丸に、五の君は食いつくように訊ねました。
「姫は、姫はどこへ行ったんや!」
「姫は、……姫は東へ下りました」
東下り