今朝の話
ラムネとビー玉と花火と、アイスキャンディー。
ガチャポンを回した。透明な半球と赤い半球がパカッと聞こえそうな音と同時に真っ直ぐな線を描いて割れた。中から出てきたのはブルーのガラス玉。空とか海とか宝石とかそんな連想をする事は意外になく、ただただ半透明で、透けそうで透けないガラス玉であった。そのガラス玉はラムネの瓶に浮いた水玉の様であった。ゴクリと唾を飲む。暑い日差し、熱にジリジリ焦がされた土の匂い。蝉のガラ声。麦わら帽子と恥じらいのないつむじ風。そして炭酸の小さな砂の泡がシュワワと鳴る。久しぶりの暑さを感じた気がした。久しぶり。久しぶり。この久しぶりの感覚も久しぶりなのか? けれどもこの実感と言うのもおそらく、このガラス玉の一つの響いてくる鼓動なのだろう。そこで私は「これでいいな」と言った。
ほのぼのとした体験を味わうのが最近の趣向になっていた。若い頃は結構激しいモノを求めてガチャポンを回したものだが、些か年を取るとどうにも落ち着いて過ごしたくなる。取りあえずである。久しぶりの感覚がする、炭酸飲料の音が聞こえ、湿気の多い暑さが見て取れる、ブルーのガラス玉に身を任せて私の肉体は音も無く落っこちたのであった。
それから後に私は初めて歩く土地を適当に歩いていた。目的は特になかった。だが風に乗って来る潮の香りが何処からともなく鼻孔についた。それで潮がやって来る方向に向かって進みだした。まだ歩き出して間もないのに額から粘つく汗がポタリ。もう一度ポタリ。と蛇口を最後まで締めなかった様に私の水滴は地面に落ちて熱に吸収された。周りの景色には水分はないのに私の身体からは水分が湧いてくるのは不思議な光景にも思えたが考えるのを辞めた。暑くてやる気が出なくなった。地面にはアスファルト舗装。辺り一面には補強コンクリートブロック塀の味気ない色が広がり、たまに、塀から頭を飛び出している青い葉の木々が影を作り一瞬だけ私の頭を冷やしてくれた。シャツにへばりついた水たまりが現れた頃であった。私の背後から声変わりのしていない少年の声が聞こえた。自転車をこぐ音とチリィーンと鳴らす薄い鐘の音も聞こえた。その黒い自転車は一度私の前を通り過ぎた後に再び戻って来た。少年の左手には黄色いアイスキャンディーがあった。それでスキッパの前歯をにかっと見せて「おっ、マユナシ! こんな所で何をしてんだい?」とイキのいい発音と声で言ってきた。と、同時にマユナシとは何だ? と思った。
「俺は今、アゴナシの所に向かってんだ」少年はその様に言うとアイスキャンディーに向かって大きく長い舌を帯の様に巻いてペロリとたいらげた。
私は次にアゴナシとは何だ? と思った。
「アゴナシの奴等、俺たちに黙って秘密基地を作ってるらしいぜ! 許せねぇ……」と言った。その少年の顔は少年でありながらモグラとジンベイザメを足して火星が衝突してこの世に生を受けた顔であった。大人の様な顔立ちとも言えるが新人類とも言える様な面。何所となく世界平和を唱える事は永遠になさそうな顔であった。しかし嫌悪と言った文字は一つも出なかった。何故か憎めない奴、と、感じる事が出来た。
全く要点が掴めないので私は「知らない。そもそもマユナシとは何だね? それにアゴナシも分からない」と答えた。
「何を馬鹿げた事を言ってるんだ? お前は眉が無いからマユナシ。奴は顎がないからアゴナシ。今更、名称を変えようって根端じゃないだろうな? そんなの無理だぜ。なんせジュラ紀が始まった瞬間からお前はマユナシ何だからな」とニシシシとスキッパな歯をチラリと見せ、偉そうに笑った。
私は両手で目の上を撫でた。スベスベとして、ツルツルだ。なるほど、毛の一本も生えていない。この特徴から、マユナシ……。だが腹が立つもんだ。
「そりゃそうだ恐竜の目の上に眉毛があったら酷く滑稽な話だ」と私が反応を示すと、目の前に居る顔面に惑星が衝突してモグラとジンベイザメが混ざり合った少年は唇を動かして「お前がそんな言葉を言うなんて、今朝は何とも不思議な日だ。これはどうもマユナシが一種のキーきなるかもしれない」と驚愕的と感心と皮肉を同時にフライパンで炒めた声で言う。
「お前、私を日頃から舐めた態度で接しているな、お前こそ人の顔をしていないだろ! このヒトナシが!」と言ってやった。
「お前、中々酷い事言う奴だったんだな」とヒトナシは少しも動揺せずに言った。
ヒトナシのこぐ自転車の荷台に尻を置いて私は意気揚々とアゴナシの居ると言う秘密基地に向かっていた。面白くない補強コンクリートブロック塀を過ぎ去ると、辺りは緑に覆われていた。と言っても美しい緑ではない。自ら土地に根を張った木々で堂々と立っている。そこを過ぎると今度は畑が出来てきた。キャベツやパイナップルとか芋とかを育てている。さっきまであったコンクリートの電柱もなくなり、仮設用の緑色に着色された長い丸太が電柱として生えている。そこに深い青色の鳥と鳩が羽を休ませていた。向かい風が自転車をこげばこぐ程、強くなり、それと共に潮の香りが一層に増し加わる。ヒトナシが進む先には大きな入道雲と塗り立ての青空が視界を超えて広がる。何だかこの景色、カメラを持っているならば、今すぐに撮りたいと思った。自転車が進めば道が悪くなり石にゴムのタイヤが勢いよく踏む付け私の尻を振動させた。正直、痛かった。
それで漸くヒトナシが口を開いた。
「そろそろアゴナシの居る秘密基地に到着するぜ」と言った。
「どこだ? どうも畑しかないぞ周りには?」
「こんな土臭い所にアゴナシの奴が秘密基地を作るかよ!」と言うと大人の身長までで丁度よくカットされた林の前で自転車を止めた。短い脚を跨いでアゴナシは降りたので、私も真似し荷台から降りた。ヒトナシは慣れた足取りで坦々とした砂利道を歩き、私もヒトナシの小さな背中を追い砂利道をテクテク歩いた。五分程度進んだ。するとヒトナシと私の正面に黒影の穴が現れた。その穴は少年の腰のタケ程の高さの位置に何故か林がくり抜かれていた。
「よし! マユナシ、此処を抜けるとアゴナシの秘密基地に到着だ!」と言った。ニシシと調子よく笑う顔はキャッチャーミットがボールをキャッチした様であった。ヒトナシの尻が見えなくなった後に私もその林のくり抜いた穴をくぐった。手をつくと白い砂がパラパラとついて落ちた。膝をついてくぐり抜けると、スプレーで落書きされた堤防があった。堤防の先には溶かしたバターの砂浜と波打つ地平線があった。水面で反射したのは魚か漂流物かは分からなかったが、ただ綺麗だった。
「海って初めて見た」
私の発言にヒトナシは素早く反応して「嘘つけ。ガキの頃から見てるだろ。嘘つけ」と繰り返して嘘つけと言うのであった。それで私がムッとした表情でヒトナシを睨み付けると、彼は私から視線をそらして「まぁ、姿勢を短くしろ」と言った。
「この堤防から見るぞアゴナシの奴らを」とヒトナシは言う。
この時のヒトナシはとても嬉しそうで、非常に凶悪な顔であった。まるでトマト畑のトマトを瞬時に破裂させトマト花火を窺う様であり、その一帯は赤いトマトのエキスの沼に変貌するであろう。それを見て再びニシシシとヒトナシは笑うのだ。で、ヒトナシは堤防から頭半分出して「おお! 来たぞ来たぞ! アゴナシの奴らが子分の阿呆共をせっせと連れ出してこれはもう、潰しがいがあるというもんだぜ」
私も頭半分出してヒトナシが楽しそうに呟く先を見た。
小学生であろう、しかし、何故か全員、学ランを身に着け竹の槍を偉そうにブンブンと振り回している。そしてその真ん中に居るちんちくりんのちび助が、さらに偉そうに歩きタケノコが描かれたバンダナを頭に巻いている。そして前歯が飛び出し、顎がなかった。
「アゴナシはセナシでも良かったが、文字数的に語呂が何となくあわん。でアゴナシにした」とヒトナシはスキッパの歯を見せてニシシシと笑う。
「それでどうするんだ?」私は疑問的にかつ困惑的に聞いた。正直に言ってどうでも良く、学ランを着た彼らは、何処から見ても幼い小学生で『何とかごっこ』をやっているのだろうと私は考えた。その事柄に対して痛く感じたのだ。所謂、可愛らしいガキの遊びだと。
「マユナシ、お前、つまんそうな顔をすんな」
「だが、ニシシシ、俺は楽しいぞ」と言った。私は楽しくないと思った。
「見ろ、あの身長が高い奴がヒモナシ。パンツの紐がない。ヒモナシの隣居る奴がクチナシ。誰も奴の声を聴いた事がない。で、アゴナシの隣に居るのがコメナシ。こめかみを押されても痛がらない。そのコメナシの後ろに居るのがシタナシ。言葉の語尾が何を言っているのかサッパリ分からん。最後にシタナシの斜め後ろに居るのがフクナシ。何時も同じウサギの絵柄の服を履いているんだ」
私は呆れた声を出した。何だこのふざけたニックネームは、そう考え私は「お前がこのつまらないニックネームを奴らにつけたのか? 阿呆過ぎてウミガメの産卵を黙って見てる方が何倍も面白い」と言い放った。
その私の文句にヒトナシは私を見ずに反論した。「奴らのニックネームは白亜紀から決定されているんだ。お前の先輩にあたるから、面白くないとかつまらないとか、言ってはダメだ。お前はアロサウルス先輩やステゴサウルス先輩に『お前の格好と名前はつまらん! くそダセェ』と言えるか! ん? 言えないだろ? それと一緒だ。今後、このニックネームについて文句を言うとお前を冥王代からやり直しさせるぞ!」と滅茶苦茶な難癖的でムカつく表情で言われたものだから、こっちは貴様の顔面に金星パンチをお見舞いするぞ! と拳を小さく握り思ったが。すぐに辞めた。と言うのはヒトナシがススッと移動したからである。
「待て、何処に行く」
「なに、奴等への復讐だよ、それは過去の偉人が造ったもので俺は行動するんだよ」と言った。
私は、ヒトナシの背中を追う事に特段、もう意味がないと感じ始めた。が、ついていく事にした。彼が何を考えて此処に来たのかがまだ不明であったからだ。それで彼の脳内に浮かんでいる計画を知り、確かめると、私は元来た道に帰ろうと思った。姿勢を低くして幾度か歩くと何やら見た事のある産物が綺麗に並んで其処にはあった。
「火薬だ! さぁこれで奴らを恐怖のどん底におとしめるぞ!」
スーパーやコンビニから購入したのであろう。林の一角にロケット花火が設置されていた。結構小型なロケット花火があり、いちいち自転車に乗って此処にやってきたヒトナシの事を考えると非常に可哀想な火星人に思えてきた。
「同情するよ。ヒトナシ。お前は阿呆だ」
「何が、阿呆だ! この火薬によって人類は進歩してきたのだ!」
「そんな事を阿呆だと言っていない。私はその行動力が阿呆だと言っているんだ。ヒトナシはそれを奴らに向かって打ち放つのか?」
「無論だ! これは奴等への鉄槌! これで俺は力を示すんだ!」
ついに私はこの馬鹿馬鹿しいヒトナシに愛想を尽かして、このロケット花火がある林から抜け出したのである。そうして元来た道を目指して歩いたのだ。
これがホンの一時間半前だろう。私は元来た道、だいたい補強コンクリートブロック塀がある道が見えた先にある駄菓子屋で、黄色いアイスキャンディー一つとラムネを買って駄菓子屋の店主がおそらく作った手作りのベンチに座り、愛おしく口に頬張っていた。駄菓子屋の奥からは扇風機のクビがカタコトと音を鳴らし振っていた。と、駄菓子屋の店主がまるで独り言の様に私に話してきた。
「さっき、君と一緒に居た子は友達かい?」
私はラムネを飲んでいる途中に聞かれたので、間を置いてから答えた。
「そんな感じですかね」
「あの子はよく此処で黄色いアイスキャンディーを買うんだが、何時も一人で買いに来るんだ、最近。前までは顎のない子と何時も買いに来ていたのだが、二月前くらいかな。どうもね、ケンカでもしたのか、一人で買いに来るんだよあの子」と言い店主は小さなドーナツを袋から取り出して自分の口に入れて、モグモグと口を上下に動かした時である。補強コンクリートブロック塀の続く道の先からカァーン、カァーンと勇ましく鳴る叫びがだんだん、大きくなり聞こえてきたのである。そして、こっちの方向に向かって来ているらしく、救急車とパトカー、消防自動車が私と駄菓子屋に近づき過ぎ去っていく。どうやら、その車たちは私がさっきまで居た方向に進んで行くようであった。私はうるさいなぁと思い畑で農作業をしていたお爺さんが怪我をしたのかと思ったが、翌々考えてみるとヒトナシが放ったロケット花火が林に燃え移ってボヤを起こしたのかと、場面が思い浮かんで考える様になった。たちまち、居ても立っても居られない衝動が私の背中を押し続いて脚が海岸に向かって駆けていた。
息を切らして海岸に着くと警察と消防と大人たち、そして学ランを身に着けたアゴナシたちが海を囲っていた。煙や火は何処にもなかった。どうやら火事は起きていない。そうすると、どうしてこれ程までに大事になっているのだろうか? と思った。私は辺りを見渡すとヒトナシがいないのと、アゴナシが青ざめた顔で突っ立っているのがわかった。それで私はアゴナシに近づいて聞いた。
「何かあったのかい?」
アゴナシは私の言葉と私の声を聴いて瞳孔を開いた。理由は分からないが、アゴナシは説明し始めた。
「どうしてマユナシが此処に居るんだ? それがな、アイツがいきなりロケット花火でこっちに向かって打って来たんだ。それでアイツを追いかけまわして堤防の奥まで追い込んだんだ。そうしたらアイツ、足を滑らせて海に落ちたんだ」
私は小さな波を立てる青色の海を見た。そうしてヒトナシの肉体が中々見つからない事に叫んでいる大人たちと、足元に落ちている包み紙。それはロケット花火の袋だった。
途端に伸びた波の手がロケット花火の死骸を攫い飲み込んだ。白い波は私の足を投げ打ったが、戻ってこなかった。
青いブルーのガラス玉はもう消えていた。飴玉を舐め切った様に存在していなかった。
私は今朝のこの話を誰かに話そうかと思ったが、舌の上に薄っすらと広がるラムネの味を思い出して、やはり辞めた。
今朝の話