喪失と再生の果てに

喪失と再生の果てに

prologue

 マッケンジー州北部、トレントン郊外に位置するミールタウン。人口5000人足らずの街は一年を通して降水量が多く、朝夕の気温差が激しいことで知られている。州の北東はクレモント川越しにサンタナ州に接し、付近を年に一度、巨大なハリケーンが襲う。近年は不況による経済格差によって街の治安悪化が問題視されるようになり、クレモント川の汚染も悪化の一途をたどっている。




 昨晩から降り続いた激しい雨は、朝には上がっていた。重い腰を上げようとしなかった雨雲も、今ではどこかへ消え去り、早朝のミールタウンにはコバルトブルーの空が広がっている。その単調な色彩は、街での平凡な生活を代弁しているかのようだ。路面はほとんど乾きつつあったが、陽当たりの悪いアッカー通りには、未だ多くの水たまりが残り、若い新聞配達の操る自転車がその上を勢いよく通過していった。
 クローンのように外観がそっくりな家々の前には、筒状に丸められた地方紙が配達員によって無造作に投げ捨てられている。今朝は、プライベートでの女性問題が取り沙汰されたフィル・ジョーンズ議員の記事が一面を飾っていた。”知人”の女性を監禁・暴行した議員のニュースは、ここミールタウンでも大きな話題を呼んだ。それもそのはずで、彼はこの街から政界へと飛び立った、街のヒーロー的存在だったからだ。
 路上に放置された、ダークグレイの薄汚い車には水滴が付着し、その一粒一粒が、かすかな太陽光を反射している。おそらく、その水滴も何十分と経たないうちに蒸発してしまうだろう。まだ早朝だというのに、充分と夏を感じさせる、じめじめとしたうだるような暑さが、街をベールのように覆い尽くしていた。


 僕は、今日もこうして独り街を歩き、昔からの面影を残すこの街に思いを馳せる。今では若い子連れの夫婦で賑わうハイドレーパーク、ジョニー・ミルズの妹が働いていた花屋、そしてあの質屋。
 世界的な失業の波が若者の夢を奪うなか、ここミールタウンも少なからずその影響を受けていた。街では犯罪が増え、地元警察も頭を抱えていた。僕はといえば、働いていた不動産会社を半年前に解雇されてから、以来アルバイトで食いつなぐ日々を過ごしている。あれから十年が経ち、僕も三十を過ぎて、働くことに意味を見出せなくなっていた。時の流れに身を任せて、どうなってもいい。そんな安易な考えがちらつき始めたのは、決して最近のことではない。


 時刻も七時を回ると、だいぶ人が目に付くようになってきた。客入りが悪いのは分かっているはずなのに、毎朝きっかり決まった時間に店のシャッターを開ける商店。道行く人は見向きもせず、まるっきり無関心という感じだった。
 僕の横を、音も無く通り過ぎていった女性も、その一人にすぎなかった。ブロンドの髪を後ろで一つに束ね、両耳にイヤホンを突っ込んで、他人との交流を嫌うかのように早足で過ぎ去っていくその後ろ姿は、僕に”彼女”の姿を思い起こさせるほど強烈だった。女性は、まだ車通りの少ない、街の中心部を走る大通りを颯爽と渡り、そのうち物陰に隠れるようにして通りの向こうへと消えて行った。あの時、突如として僕の手から離れていってしまった”彼女”のように。

1

 
 彼女に初めて出逢ったあの日



 
 浅い睡眠から目覚めると、昨日の夜更かしがよくなかったのか、異様なまでの瞼の重さと、体中の関節の痛みに苛まれた。苦痛に顔を歪めながら重たい体を奮い起こし、閉じ切った部屋のカーテンを開け放つ。どんよりとした曇り空。予報では、午後から天気が回復すると言っていた。静かな朝だ。時計の秒針が刻む音が、部屋中に響く。六時三十五分。僕の心は平静を保っていた。僕は何を思ったのか、露に濡れた冷たい窓ガラスに顔を押し付け、あまりの冷たさに飛び上がった。自分の意図しない突発的な行動に困惑しながら、濡れた頬をパジャマの袖で拭う。


 念を押すように今一度大きな伸びをして、階下へ降りようと冷たい扉の取手に手をかけた。すると、軽い衝撃が腕に伝わる。扉は開かなかった。昨晩、無意識のうちに鍵をかけていたのか。自分の記憶のおぼつかなさに呆れつつ、解錠して、再び扉を開けた。ニス塗りの、光沢のある木製の扉は不快な音をたてて開き、そして僕が部屋から出ると、扉はいつも以上に大きな音を響かせて閉まった。


 家には誰もいなかった。特に驚きはない。いつものことだ。数年前に”出張”という名目の下、家を飛び出してから一度も連絡をよこさない父さんに比べれば、家事と仕事を両立している母さんにはいつも頭が下がる。二週間前に十五歳の誕生日を迎えたばかりの妹ジェーンは、昨晩も友人の家に泊まり込みらしく、きちんと整理されたダイニングテーブルの上に「遅くなる」という走り書きのメモが残されていた。あいつの「遅くなる」はいつもこうだ。
 誕生日のときも、あいつは家に帰ってこなかった。妹の誕生日を祝ってやれなかったのは、兄として失格だったかもしれない。ジェーンが過敏な年頃なのは誰の目にも明らかだったが、それ以上に、あれほど”仲睦まじい”と言われていたジェーンとの間に、こうも大きな溝が生じてしまうことは、僕にとって驚きだった。これから先のことを考えると、言葉にならないやるせなさが、胸の奥底から沸き上がる。ジェーンだけは、裏切りたくなかった。
 いずれにしても、家に誰もいない、という状況はいつも僕にとって好都合だった。そこにいるのは自分一人。逃げも隠れもできない。良い意味で、自分の本心に迫れる空間が、そこにはあった。


 なにか特別なことがあるわけではなかったが、いつも以上に時間をかけて顔を洗い、身だしなみを整えた。冷水で顔を洗うと、身も心も引き締まる感じがした。棚からカーキ色のタオルを引っ張りだし、濡れた顔にあてがう。湿気の臭いが鼻についた。苦手な臭いだった。タオルに顔を埋めていると、外から新聞配達の自転車のベルの音が聞こえた。  
 しばらくしてから新聞を回収しに、外へ出た。


 「ジョーンズ氏、下院議員に初当選」、「ヤマダの工場進出、住民は反対」
 今日も、目を惹くような記事は無かった。大きな事件が起こることを期待しているわけではないが、この退屈な日常に、心揺さぶるなにかを求めているのも確かだった。気を紛らわすためにテレビをつけようとしたが、下らないバラエティー番組が目に浮かび、リモコンを置いた。 
「まったく」
 短く悪態をつき、新聞を力一杯丸めて、真横にあるゴミ箱に思いきり投げ捨てた。新聞はゴミ箱の外枠にあたり、その衝撃でゴミ箱はテレビの前に飛んでいった。ゴミ箱からこぼれ落ちた紙屑を見て、虚しさが込み上げる。外れた新聞を拾い上げ、もう一度倒れたゴミ箱の中に捨てるほど、僕の心に余裕は無かった。
 
 
 朝食を食べる気にはなれなかった。

2


 夕方になると、予報に反して猛烈な雨が降ってきた。風も強く、突風で家がギシギシと音をたてて揺れた。「今日中には帰ってこい」とジェーンにメールしたことを今になって後悔した。もう友人の家を出てしまっただろうか。あいつのことだから、傘は持ってないに違いない。


 ジェーンから「バス停まで迎えに来てほしい」というメールが届いたときには、辺りはすっかり夕闇に包まれていた。二人分の傘を傘立てから抜き取り、玄関の扉を開けて外に出ようとしたが、あまりの雨の強さに一端開けた扉をまた閉めた。突風が扉に叩き付け、やっとの思いで再び扉を開けたときには、すっかり体中びしょ濡れになってしまった。もう少し様子を見てから出掛けようとも思ったが、自分の送ったメールの内容を思い、なるべく早くジェーンの下へ向かうことにした。
 

 通勤帰りの時間帯だったこともあり、街は雨宿りをする人で溢れかえっていた。交差点の曲がり角、ジュエリーショップの軒先で雨脚が弱まるのを待つ人々の視線を尻目に、僕はバス停へと急いだ。
 途中で大きな水たまりを踏みそうになりながら、前方にバス停が見え始めたのは家を出てから二十分後のことだった。じっと寒さに耐えながら、ジェーンの乗っているバスを待つ。雨脚は家を出たときよりもさらに強くなっていた。上着を着てくるべきだった。傘を差していても、横殴りの雨は防ぎようがない。冷たい雨に濡れ、手の感覚は無くなり始めていた。


 数分待つと、雨の中にヘッドライトの明かりが見え、ブルックストン行きのバスが到着した。バスは水しぶきをあげて停まり、降車口が開くと、二、三人の客に続いてジェーンが降りてきた。
「早かったわね。待つかと思った」ジェーンはそう言いながら、僕が差し出した傘を受け取った。
「急いで来たんだ」僕は、礼を言わずに半ば奪い取るような形で傘を取ったジェーンに語気を強めて言った。
「ごめんなさい。バスに乗ってる間に急に降ってきて」そう言いながら、僕たちは家へと歩き始めた。
「ママは帰ってきた?」ジェーンの声は、明らかに疲れ果てていた。
「いや、さっき連絡があって、今日も残業で遅くなるって言ってたよ」
「ママは迎えに行かなくていいの?」
「母さんが帰ってくる頃には止んでるんじゃないかな。また、いつものスコールだろうし」
「そうね」
 二人の間に沈黙が流れる。ジェーンは黙り込んでしまった。本当は話したいことがたくさんあった。学校のこと、将来のこと、父さんのこと。特に父さんのことに関しては、ジェーンはいつも固く口を閉ざして喋りたがらなかった。
 父さんのことで一番ショックを受けていたのはジェーンだった。ジェーンは父さんと仲が良かった。それだけに、父さんが何も言わずに自分の目の前からいなくなったことに驚きを隠せなかったのだろう。父さんが消えてから、ジェーンは、あれほど何でも話した母さんにさえ、口を閉ざすようになった。僕はジェーンに同情した。僕だけが、毎晩隣の部屋ですすり泣くジェーンの声を聞いていた。自分の殻に閉じこもるようになってしまったジェーンを、僕たち家族は助けることができなかった。ジェーンがよく友達の家に泊まるようになったのもその頃からだ。
 僕は父さんが許せなかった。家族三人を残して消えたのも、それ以上に、父さんがジェーンにはやらずに僕にだけしたことが許せなかった。ジェーンは知る由もない。ジェーンが生まれる前のことだ。僕が父さんから虐待を受けていたのは。

3


 十分ほど歩き、裏の小道から再び表通りへ出る頃には二人とも傘を閉じていた。雨は霧雨状に変わり、酒屋の電飾看板に照らされて、細かい水滴が空気中を漂うのが見えた。タイミングを見計らって反対側の歩道へ渡り、一マイルほど先の突き当たりを目指して歩く。そこを曲がれば、家はすぐ近くだった。辺りには雨上がりの独特の臭いが漂い、しんと張りつめた空気が二人を包み込む。時折、僕は沈黙に耐えかねて話題を振ったが、ジェーンから返ってくるのはどれも中途半端な返事ばかりだった。


 「なあジェーン」僕が意を決して父さんの話題に触れようとしたその時だった。突然、僕たちのすぐ近くで男の叫び声が響き渡った。恐怖に怯えるその声は、明らかに助けを求める声だった。それから、間髪入れずに聞こえた、何かが弾けたような乾いた音。間違いない。小さい頃に聞き慣れたその音は、紛れもなく銃声だった。
 咄嗟にジェーンが声にならない悲鳴を上げ、腰が砕けたように力なく地面にへたりこむ。僕はその場に凍り付き、恐怖で身動きができなくなった。ジェーンを守らないと。心ではそう思っていても、自分の周りのものが皆、止まって見える。ジェーンが泣きながら、僕に向かって何かを叫んでも、僕には何も聞こえない。それは僕の中で、何かが崩れ落ちた瞬間だった。
 「お前は世界で一番の息子だ」と言ったあの頃の父さん。明るく、いつも笑顔が絶えなかったジェーン。そして、母親から僕に注がれた、溢れんばかりの愛情。どれも失いたくなかった。目の前で、僕という一人の人間を形づくったものが崩れていく悲しみ。喪失。一体僕とは何だったのか。僕に残されたものは皆無だった。
 そして僕は、数ヤード先の質屋から勢いよく飛び出してきた何かに激突し、不意を突かれた衝撃でなす術無く、そのまま雨で濡れたアスファルトに倒れ込んだ。

喪失と再生の果てに

喪失と再生の果てに

彼女との出逢いは、殺人現場だった。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-08-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. prologue
  2. 1
  3. 2
  4. 3