折り目正しく不仕合せ
彼女が死んだと聞かされたのは、まだ春の香りが残る五月の事だった。
"僕"の語る彼女がなぜ死んだのか――――片思いを叶えられなかった男と、男の妻と、妻の思い人と、思い人の恋人と、それから思い人の思い人が織り成す連鎖的感情迷路。全体的に登場人物が死にがちです、微妙に痛い死亡表現有り。
折り目正しく不仕合せ
死んだ彼女の話をしよう。
綺麗な女だった。長い黒髪はいつも綺麗に整えられていて、芯の先まで艶やかに尖っている。丁寧に磨き上げられた爪先は蛍光灯をも反射するほどで、時々ぞっとする。彼女はいつも、その薄幸そうな唇に気に入りの真っ赤な口紅を塗り込めていて、僕はその赤に眩暈がする。
彼女が死んだと聞かされたのは、まだ春の香りが残る五月の事だった。山間には少しだけ山桜が残っていて、藤が綺麗に咲き誇っていたと思う。僕は心無い観光客に踏み荒らされた桜の花弁みたいになった彼女の遺体を見て、一瞬頭の中が真っ白になった。刑事が語る発見時の状況も聞こえない儘に、僕は彼女に歩み寄った。
「……どうして」
綺麗な、綺麗な女だった。いつでも死んでしまえそうな薄幸さを、僕は確かに愛していたけれど、だからっていざ蝋人形みたいに固まった彼女を見て冷静でいられる筈も無い。死んでしまった、僕の彼女。ばらばらに砕け散って、僕との思い出なんて碌に残さずに、逝ってしまった。酷い女だなぁ、なんて罵るのは楽だったけれど、それを承知で僕は彼女を愛していたのだから仕方がない。僕は冷たくなった彼女の身体に手を伸ばし、左手を掴んでそっと持ち上げる。
細い銀の指輪が、不健康そうな彼女の左の薬指に挟まっている。僕は泣きたいのか笑いたいのか分からずに、その場に崩れ落ちて祈るように両手で彼女の左手を握り締めた。
「……大丈夫ですか」
しばらくして、僕の様子が落ち着くのを待ってくれていた親切な刑事がおずおずと声を掛けてくれるのに従って、僕はのろのろと顔を持ち上げ彼の顔を見つめた。まだ若い、おそらくは独身だろう。彼は言い辛そうに数度瞬きを繰り返して、僕に別室へ移動するように勧めた。大人しく指示に従うと、病院内の狭い個室へと案内され、そこに用意されたパイプ椅子へと座るように促される。僕はそれにも大人しく従った。
「……まずは、確認を。貴方は被害者の夫で間違いないですか?」
「……はい。僕は、確かに彼女の夫です」
「ありがとうございます、事件当時の状況ですが……貴方の奥様は、ええ、非常に申し上げにくいのですが……とある男性と共に、京都の滝壺近くで発見されました。状況から見て、心中かと」
「……はい。はい、予想は、ついていました」
綺麗な、綺麗な女だった。僕のことは、愛してくれない女だった。僕の愛する彼女の心は、もうずっと前から僕ではない男のもので、それを承知に結婚している。そして、彼女が毎夜毎夜、愛した男の心をものに出来ない苦しみから精神をすり減らし、自傷行為を繰り返していることも知っていた。刑事の言う別の男性、というのも、本当は誰のことなのか、知っていた。だから、別の意味で驚きはしたと思う。絶対に彼女を振り返らないと思っていたあの男が、一体どうして彼女と心中なんてしたのだろう。
「……あの、刑事さん」
「はい?何でしょう」
「その、彼女と心中したという男性……姿を、見ることは出来ますか」
僕にとっては恋敵とも言えるような、その男の容貌を。最期に一度くらい、見ておきたいとも思う。僕は結局あの男の容貌を正面から見たことは一度も無かったからだ。
案内された先は霊安室で、そこには既に先客がいた。僕はその男の容貌を見た途端、言い知れぬ寒気を感じたが、彼はそんな僕の様子になんて何も構わないように淡々と顔を上げて座り込んでいたパイプ椅子から腰を上げ、そして僕の方へと軽く頭を下げる。
「……彼女の配偶者?僕はこの男の息子だ、父親が迷惑を、かけたね」
謝罪の体を保った言葉を吐くにしては、余りにも温度のない声で、余りにも感情の浮かばない面立ちだった。ともすればどうでもよさそうなその態度に、しかし僕は特別反感を覚えるという訳でもなく、ただ黙って釣られるように頭を下げる。男は、彼の息子はそれを見届けるとふいと顔を反らしてまた椅子へと腰掛ける。
「……あの、その。見てもいいですか」
彼の面立ちを覆う白い布を手のひらで示してそう問うと、男は無言で頷く。了承と受け取ってそっと手を伸ばし、いやに高級感漂うそれを静かに取り払うと、椅子に座る息子だという男によく似た、ぞっとするほど整った容貌がそこにある。閉じられた瞼は青白く、子供を持つ父親の肌とは思えないほどに綺麗だ。薄く、白く、まるで内の血管ごと透けているようにすら感じる。
彼女はまるで、踏み付けられた桜のように無残な有様だった。きっと身体を思い切り地面に叩き付けたのだろう、踏み荒らされた容赦のない残骸に成り果てていた。それなのに、この男は。この男だけは、どうしてどこまでも綺麗なのか。余りに綺麗な死に顔だった。彫刻のように、これこそが美の絶頂だとでも言うように、あんまりに綺麗なままでその時間を止めている。これがほんの少し前まで生きていた人間だなんて、きっと誰も信じないだろう。美術館から盗んできた鑑賞品だと言われた方が、ずっと納得出来る。
「……どうして。どうして、お前だけは、綺麗なんだ」
死んだのに、同じように崖から落ちたのに、どうしてこんなにも格差が生まれるんだ。石膏から削り出されたようなその面立ちが憎らしくて、いっそずたずたに切り裂いてやりたい。ゆっくり、片手を持ち上げる。衝動的に、無意識的に、僕は持ち上げた片手を彼に伸ばした。
「ねぇ」
はっと、意識が引き戻される。空気を切り裂くような冷たい声音に、僕ははっとして手を引っ込めた。声の方へと視線を向けると、横たわる彼によく似た彼の息子が、じっと僕を見つめている。何故だかどくりと、心臓が高鳴った。嗚呼、今、僕は何をしようとしていた?傷つけようとしていた、そんな僕の心境を知ってか知らずか、男は淡々とした無表情を崩さずに僕をじっと見つめ、それから彼へと視線を移す。男は自分の父親の遺体を前に、何にも感じていないようだった。透き通った知性を宿す瞳が胡乱気に瞬く。
「……そろそろ、僕は帰りたいんだけれど。貴方、まだこの人に用がある?」
「あ、いや……すまない、僕は大丈夫だよ、ありがとう」
「そう。……貴方、酷い顔だ。妻を亡くした男にこんな事を言うのも気が引けるけど、あんまり憔悴しないようにね」
男はそう言って再び身体を持ち上げた。改めてその男の容貌を眺めると、思ったよりも印象が若いことに気が付く。服装は、まだ学生服のようだった。堂々とした立ち居振る舞いと、それから父親によく似た風貌の所為か、成人しているように感じたが、それも気の所為だったのだろう。きちんと認識すれば、男性というより、まだ少年といった雰囲気が残っている。僕は、相手がまだ未成年と知って急に居心地が悪くなり、何と言っていいのか分からずにあ、とか意味をなさない吐息染みた声を漏らしてから、ようやく「……邪魔をして悪かったね」とだけ零して、少年より先に霊安室を後にした。一人になってみて、ようやく息を吐く。まだ思春期と思わしき少年は、自分の父親と心中した女の、その夫と対面して、一体何を思ったのだろう。硝子のような鉄壁の無表情からは何も伺えなかった。淡々としているように見えたけれど、年頃の少年が父親の死に何一つ心を揺らさない家庭というのも、少しだけ寂しい。なんて、愛のない結婚生活を送っていた僕が思うには、少々滑稽な感想だろうか。
ひとしきり廊下の隅で考え込んだ後、僕はもう一度だけ彼女の顔を見て帰ろうと、重たい腰を上げた。けれどその瞬間、ちょうど角を曲がってこちらへと歩いてきたらしい、一人の少女の容貌を認めて、動きが止まる。
「あ……」
思わず漏れたその声音に反応して、少女が顔を上げる。くるりと蛍光灯に反射した瞳が印象的な、制服に反して大人びた色を持つ、落ち着いた少女だった。薄っすらと施された化粧が彼女の印象年齢を押し上げているが、しかし面立ちはまだ高校生らしく、幼い。少女と女性の合間を揺蕩っている、そんな印象が伺える。僕は少女を見つめて、しばし時間が止まったように固まっていた。
「……?なぁに」
動かない僕を不審に思ったのだろう、静かに歩いてきていた少女は歩みを読めて、お行儀よく僕の方へと爪先を向ける。僕は、その時思わず、先程出て来た霊安室を指差してこう言った。
「……あの、もう、息子さん、帰られたと思います、けど」
少女の尋ね人が誰なのか、僕は知っていた。少女は別段、言い当てられたことに驚く様子も無く、そう、とだけ零して長い睫毛を揺らし瞳を伏せた。
「貴方、知ってるわ。お兄さんの彼女の、旦那さんでしょう」
ほんの少しの間を置いて、少女は静かにそう言った。僕は無言で頷く。
「……死んでしまったのね」
「そう、だね」
「貴方の奥さんも、死んでしまった」
「うん」
「……ねぇ、私、今から最低なことを言うわ。だからどうぞ、怒ったなら殴ってくれて構わない」
少女はそっと壁に背を預けて、視線を霊安室へと向ける。あの少年はもう帰ったのだろうか、向こうからは何の物音もしなかった。
「……あのね、私、貴方の奥さんが羨ましい。お兄さんに連れていってもらえて、私、羨ましい」
あんまりにも感情を抑え込んだような声だったから、僕は、何だか自分が殴られてしまったような心地を憶えて、瞼を抑えた。いらつくなぁ、むかつくなぁ。僕の彼女も、この少女も、それだけじゃなくて、きっと、もっとずっと多くの女の人の心を持って行ったまま、あいつは死んでしまった。何で死んだんだろう、何で彼女を連れていったんだろう。あいつと逝きたいと思う女なんてきっと腐るほどいたのに、どうしてその中で、特別愛していたわけでもない彼女だったんだろう。何も答えない僕に安堵したのか、少女はついに、咬み殺して耐えていたのだろう小さな嗚咽を漏らして、叫ぶように声を絞り出した。
「……どうしてって、そう思ってるんでしょう。どうして、僕の妻だったのかって、きっとそう考えてるんでしょう。私もそうよ、きっとそう、もっと大勢の人が考えてる。でもきっと理由なんてない、誰でもよかった、誰だって構わなかったの、だって誰だって、お兄さんにとっての本物じゃなかった」
ただ一人の本物を、たった一人の本物だけを、痛いほどに切ないほどに、愛していた。
「……本物、か。一番あの男に愛されていたように見える君ですら、本物でなかったなら、そんな人間、一体どこにいるんだ?」
少女の言葉に、少しだけ驚いて僕は声を上げた。僕の知る限り、あの男の一番傍にいる女は、目の前の少女であったように思う。だって、彼女は最近毎夜、この少女の存在を槍玉に上げて怒り散らしていた。あの女がいる所為だ、と何度も何度も鬼の形相でクッションに鋏を突き立てては、びりびりに破いて滅茶苦茶に荒らしていた。だからてっきり、一人には絞らない男なのだとしても、僕は少女が一番愛されているのだと思っていたのに、そうでは無かったんだろうか。
僕の言葉を聞いて、少女が笑う。とん、と軽く壁を蹴って、人気の無い廊下へと踊るように両足を踏み出した。
「……私はりんか、死んでしまったお兄さんの思い人の名前も、りんか。私がお兄さんに愛してもらえた理由はそれだけで、連れていってもらえなかった理由も、多分、それだけ」
本物に程近かったから一番傍に置いて貰えた。でも、本物に程近いだけの偽物だったから、一番最後で置いていかれた。本物じゃないと駄目だったんだ、一緒に逝きたいと願ったのはただ一人で、その一人がいないなら誰だって同じだった。ただ、本物はもういないと痛い程に知らしめる偽物だけは、その枠には入らなかった、それだけだ。
「私、行くね」
振り返らずに、少女が言う。僕の答えを待たずに、少女は霊安室を通り過ぎて、そのまま暗がりの中へと消えていった。残された僕はまた項垂れて、冷たい白亜の壁へと背中を預ける。
それから、何分経っただろうか。蛍光灯が時折鳴くだけの空間に、静かな靴音がそっと割り込んでくる。いやに上品なその音にふっと顔を上げれば、先程も出会った彼の息子が、やはり変わらぬ無表情で静かな調子で廊下の奥に佇んでいる。
「貴方、まだいたの」
「……君こそ、こんな時間まで何を?帰ったんじゃあ、なかったっけ」
少しだけ驚嘆を滲ませてそう囁くと、少年は僅かに肩を竦めて尊大に顎で霊安室の奥を指し示す。
「医者。呼ばれた」
それだけ答えて、僕の方へと静かに歩みを進める。やっぱり、彼の靴音は厭味なくらいに上品だった。音さえも綺麗に纏うその品格は、育ちの良さと同時に奇妙な色香も孕むのだから不思議なものだ。僕は、傍近くにある少年の面立ちを見上げているうちに、思わず思ったままを口走っていた。
「……君は、悲しい?」
「さぁ、どうだろうね」
突発的な問い掛けだというのに、少年は少しも狼狽えず、溜息と同時にそう零す。僕は尚も流れる思考回路をそのままにするすると口にした。
「でも、死んだのは、自分の父親で……それも、全然知らない女性と、心中なんてしていて。……嫌じゃあ、ないのかい」
溜息が、再び漏れた。まるで、何を分かり切ったことを聞くのかという呆れにも似たその反応に、薄情な子供だなぁなんて失礼な感想が僕の胸中に巣食い始める。少年は既に僕への興味を失ったようで、止めていた両脚を再び動かし階段の方へと身体を向ける。背中を向けたまま、やはり温度の無い静かな声だけが、薄い唇から吐き出された。
「……あの人は僕の母親が死んだ時、後追い自殺をしようと図った。でもね、出来なかったらしい。頭に撃った拳銃は弾が詰まって、飛び降りた身体は五体満足で助かって、沈んだ海からは丁重に引き上げられて――――そんなことを繰り返してるうちに、壊れちゃって。それで、今みたいな可笑しな人格が形成されたらしいよ」
それだけ言って、少年は振り返る。夜を閉じ込めたような、何処までも深い深海のような、ずっと眺め続けていれば、そのまま溺れてしまいそうな、不思議な光を持つ瞳が緩んで、薄っすらと細められる。三日月みたいに弧を描いた唇が、父親とそっくりな笑みを象った。
「……貴方は幸福だ。後を追っても誰も止めない、その点に置いてだけは、貴方は唯一、あの男を上回れるだろうね。おめでとう、これで君達は永遠だ」
静かで、緩やかで、穏やかで、神の信託のようなその言葉。まるで天命を受けた気分だった。僕は瞳を見開き、少年の背を視線で追いかける。死んだ彼女を思った。踏み付けられた桜の花弁のように、地面に押し潰されてしまった愛しい彼女。自慢の美貌がぐちゃぐちゃになってもなお、彼女は美しかった。そうだね、嗚呼そうだ、そうなのか。押し込めていた感情が堰を切ったように溢れ出す。彼女の手首に無数に残った赤い傷痕を思い出した。死にたい死にたいとずっと繰り返していたくせに、臆病な彼女は死ねなくて、愚かで無様な彼女は死ぬつもりなんてきっと無かった。ただ愛されたいだけだった。僕なら愛してあげられた。それなのに決して自分を見ない男ばかり追いかけて、嗚呼、そうだずっと、分かってる。ねぇ知っていたよ、本当は君は、自分を愛してくれる男じゃあ、駄目だったんだろう。でも、愛されないのは嫌だったんだろう。だから僕を選ばなかったけれど、僕と結婚したんだろう。分かってるんだ、だって僕は。
僕を見ない、可哀想で愚かな君が、好きだった。
これで君は永遠に僕を見てくれなくなった、嗚呼ありがとう、愛してる!
「祝福してくれてありがとう、どうか僕達の式に参列して欲しいな、名前も知らない恩人の息子さん」
結婚式の代わりに葬式を。ハネムーンの代わりに共の火葬を。幸せな僕らの結婚生活を夢見て、カッターナイフを取り出し、僕は喉を貫いた。
折り目正しく不仕合せ
「死んだ彼女の話をしよう」で始まる創作をするという企画に参加させて頂きました。登場人物の名前が一人も出てこないのはわざとです、これはこれである意味メリーバッドエンドだと主張しておきます。