〖最終章〗眠れぬ夜は君のせい

〖最終章〗眠れぬ夜は君のせい

■第207話 振り返る先に

 
 
 
 『タカナシさん、悪いけどお得意先に配達して来てくれる~?』
 
 
 
先輩のその声に、棚卸をしていたリコが振り返って笑顔で快諾をした。
 
 
隣街の小さな画材屋。
リコは美大卒業後、この店に就職して2年が経っていた。

だいぶ伸びた髪は、ポニーテールには少し低い位置でひとつに縛っている。
しかし髪の色はあの頃と同じ黒髪のままなのがリコらしい。
 
 
ここではエプロンが欠かせなかった。

小さな店なので事務仕事や販売だけではなく、時には配達も行っていて、
重い段ボールの上げ下げであっという間に服は汚れてしまう。Tシャツに
ジーンズ、そしてエプロンというのが専らの仕事スタイルだった。
 
 
軽自動車を運転して少し離れた顧客の所まで、注文の品を配達する。

いつもは大体、男性社員が行う仕事なのだが、今日はみな忙しかったので
リコが頼まれた。
 
 
もうすっかり慣れた車の運転にご機嫌な様子で鼻歌をうたいながら、リコ
は配達先の駐車場に車を停め、ダンボールを抱えて裏口へまわる。
 
 
模造紙やら折り紙・ヤマトのりなどがたくさん詰め込まれている段ボール
は想像よりずっと重い。底を支える軍手をした両手が、その重さで少し痺
れてくる。
 
 
『毎度様で~す! さくら画材で~す!!』 裏口玄関で呼びかけるも、
職員は出て来ない。奥の方からオルガンの音色とそれに併せて歌う可愛ら
しい歌声が響いているのみで。
 
 
『失礼しま~す!』 リコは玄関先で靴を脱いで、しずしずと中へ進んだ。
 
 
オルガンの音色に紛れて人の声がする方へと真っ直ぐ進む。
なにやら、愉しそうにはしゃぐ可愛らしい声で騒がしい。
 
 
リコがそっと足を止めた。
 
 
目の前の遊戯室には、元気に騒ぐ子供たちが。まるで色とりどりのスーパー
ボールが跳ねるような目映いほどの笑顔に、咄嗟に目を奪われたリコは自然
に顔がほころんでゆく。
 
 
 
配達にやってきたのは、隣町の保育園だった。
 
 
保育士がオルガンを弾いてそれに併せて元気に歌う声は、遊戯室の隣の教
室から響いているようだ。

広い遊戯室の壁にはカラフルなイラストがやさしく佇んでいる。

園児たちに賑やかに取り囲まれるその中心には、保育士の背中があった。
その背中は絵本を読んで聞かせているようだった。園児たちのキラキラし
た目が、保育士に一斉に向けられている。
 
 
『ぁ、配達・・・。』 思わず胸を騒がす切ない懐かしさに引き込まれて
いたリコが、仕事を思い出しその保育士に声を掛けようと1歩前へ進んだ。
 
 
すると、
 
 
 
 『おもしろかった~! 先生、もういっかいよんで~!!』
  
 
 
園児の嬉しそうな声に、背中の保育士がやさしく語る。
 
  
 
 『この絵本はねぇ~、

  先生の、とっても大好きな人から借りた大事な大事な本なんだ・・・
  
   
  でも、借りたまま返せなくなっちゃった・・・

  だから、大切な本だからね。

  優しくさわってあげてね? 分かった人~??』
 
  
 
園児が一斉に『は~い!』と声を合わせて元気に手を上げた。
 
 
『あ。先生、お客さんだよっ!』 振り返った園児がリコを指差して床に
座り込んでいる保育士の肩を小さな手でトントンと叩く。
 
  
 
   それは、スローモーションのようにゆっくりに見えた。

   その、床に座り込んだ背中がゆっくり振り返る。
  
 
 
髪が前より短い。
体は少しガッチリした感じがする。

でも、振り返りリコを見つけたその目は、あの頃と同じようにやさしくて
困ってるようで、なんだかまるで、泣いてしまいそうで・・・
 
  
 
 
 ”本当に縁がある人とは、例え今は離れたとしても必ずまた巡り会うわ。”
 
  
 
  
いつかのマリの言葉が、響いた・・・
  
  
 
コースケが、いた。
 
 
 

■第208話 ごめんなさい

 
 
 
その日の仕事終わり、コースケとリコは共に並んで歩いていた。

二人とも何からどう話したらいいのか躊躇い、口ごもってばかりいて結局
なにも話せずにただただアスファルトを擦る靴音だけ夕空に響かせて。
 
 
リコはあの日以来、ずっとコースケに謝りたいと思っていた。
しかし、なんて連絡していいのか分からず胸に後悔という名の棘が刺さっ
ったまま無情にも時間だけが過ぎてしまっていたのだった。
  
 
すると、居心地の悪い二人の空気に居た堪れなくなったコースケが、なんと
かそれを払拭しようと、たどたどしく切り出した。
 
 
 
 『去年から、あの保育園で働いてるんだ・・・。』
 
 
 
リコはチラっと横目で盗み見ると、コースケは嬉しそうに顔をほころばせて
いる。園児のことでも考えているのだろうか、それはあの頃のままの優しい
やわらかい表情だった。
 
 
『どうして別の園で?』 リコは何故実家ではなく別園で働いているのか不
思議に思い思わず口をついた問いに、コースケは『修行~!』と笑った。
 
 
その変わらない笑顔と笑い声に、リコの胸は一層痛みを増す。

思わず足を止め立ち止まると、泣き出しそうに顔を歪めリコはひとつ息を呑
んで心を決めた。
 
 
『コーチャン先生・・・ わ、私・・・』 リコが真剣な声色で言いかけた
時、即座にコースケがそれを遮った。
 
  
 
 『元気そうで、よかった・・・
 
 
  ・・・本当、

  ホントに、よかった・・・。』
 
  
  
その声色が優しすぎてあったかすぎて、あの頃となにも変わっていなくて
リコの心臓は刃物でも突き立てられたように激しく痛む。

急激に鼻の奥がツンとして、胸に溢れ込み上げるものに息苦しくなった。
まるで海の底に沈み溺れているような苦しさを必死に堪えて、言葉を喉の
奥から絞り出す。
  
 
  
  『ごめんなさい・・・

   何から謝ったらいいのか、全然わかんない・・・
 
 
   いっぱい酷いこと言った事も、

   誤解してた事も、

   全部全部、ごめんなさい・・・
 
 
   たくさんメールくれた事も・・・

   あのメールで本当に、元気付けられたの。
 
 
   なのに、

   返事もしないで、本当・・・

   ごめんなさい。
 
 
   ・・・ごめんなさい・・・。』
 
 
 
リコは ”ごめんなさい ”を繰り返し、頭を下げ続ける。謝っても謝っても
謝り足りなくて、もうどんな言葉を使えばいいのかどんな風にしたら気持ち
が伝わらるのか全く分からない。
  
 
すると、コースケは小さく息を付き落胆したようにそっと目を伏せた。

そしてしずしずとリコの両肩に手を置き顔を上げさせると、哀しそうな顔を
してリコをじっと見つめる。
  
  
 
  『やめようよ、そうゆうの・・・
 
 
   なんか・・・ 淋しいよ。

   ・・・せっかく、また会えたのにさ・・・。』
 
 
 
そして、『また友達になろうよ。 また、みんなでさ・・・。』 

そう言ってコースケが困ったような情けない顔で微笑んだ。眉尻を下げて
やわらかく目を細めて、少しだけぎこちなく表情筋を上げて。
 
 
リコは、コースケのそんな優しい言葉が苦しくて、ちょっとでも気を抜く
と涙が出そうで、再び俯いて声も出せずただ頷くしか出来なかった。優し
すぎるコースケに申し訳なさだけが募るも、いつまでもウジウジとしてい
る方が逆に困らせるだけだと必死に自分をいなした。
 
  
 
それから二人は再びゆっくり歩き出した。
少しずつ少しずつ、離れていた間の今までの色々な話をする。
 
 
どんなに表面上穏やかに話したって、今までのことが無かった事になんて
なる訳はない。

傷付いたことも、傷つけたことも。
泣いたことも、泣かせたことも。
 
 
しかしコースケは、少しずつまた笑い合えたらいいと思っていた。
きっと、そう出来るはずだと心の中で切に願っていた。
 
 
  
 
 
 『あっ、そうだ!

  アカリちゃん、遂に、あの子・・・ 彼氏になったんだねぇ?』
 
 
 
コースケが突然、思い出したそれを口にした。
 
 
リコがキョトンとした顔を向け目を見張る。
その言葉の意味を考えあぐね、せわしなく瞬きを繰り返す。
 
  
 
  (彼氏? ついに・・・? え? えええ?!)
 
 
 

■第209話 アカリの秘密

 
 
 
 『あれ~? 思ったより早かっ・・・』
  
 
 
アカリが自宅アパートの玄関ドアを細く開け、その隙間に想像していたそれ
とは違うリコとナチ二人の顔を見つけた瞬間、目を見張り慌ててドアを閉め
ようとした。

それに一瞬早く反応したナチが、すかさずドアの間に片足を滑り込ませて、
閉戸させるのを阻止する。
 
 
『な、なんなのよぉ!!!』 ドアノブを引っ張りながら、尚も閉めようと
躍起になりつつアカリが怒鳴る。

『なんで入れてくれないのよぉ!!!』 リコとナチが二人掛かりでドアを
こじ開けようと奮闘した。
 
 
しかしアカリの決死の反抗虚しく二人の力に負け呆気なくドアは大きく開き、
リコとナチはニヤニヤほくそ笑みながら勝手に玄関先で靴を脱ぎ部屋に入る。

アカリは大慌てでコソコソと色んな物を引っ掴むと後ろ手に隠し、寝室へ駆
け込んでそれを放ると何もなかったように部屋を出てきた。
 
  
 
 『ちょっと面白い話きいちゃったんだけど~・・・。』
 
 
 
ナチが半笑いで、勿体付けながらアカリを横目でチラっと眇める。
その顔は吹き出しそうなのを必死にいなし、口元がヒクヒクと蠢いて。
 
 
アカリは明らかに動揺してアタフタしている。

目を白黒させやたらと落ち着かず、じっとしていられない指先は髪の毛先
をいじったり口元に充てて爪を噛んだり、いつもの冷静沈着なアカリらし
さはまるでない。
 
 
 
 『ねぇ。 私達に報告する事とかない?!』 
 
 
 
ナチはアカリを真正面から見つめ、急に真剣な顔を向けた。
それはなんだか怒っているようで、しかし目の奥は優しく揺らいでいる。

アカリは困り果ててしまって、その視線から逃げるようにまるで助けを求
めるように、リコに弱々しく目を向ける。
二人の顔を見た瞬間 ”あの事 ”がバレたんだと気が付いていたアカリ。
 
 
リコは優しく目を細め、微笑みながら言った。
 
 
 
 『内緒にするなんて酷いじゃん! いつからなの~ぉ??』
 
  
 
アカリは丁度ヒナタと正式に付き合いだした頃、リコとナチ二人が大変な時
期だった事もあり、中々ヒナタの事を言い出せずにいたのだ。

その後も言おう言おうと思いつつ、元来この手の話をするのが苦手なのもあ
って、結局二人が何処からか情報を得て押しかけてきた今の今まで言えず。
 
 
 
 『ねぇ! もしかして、これから高校生君くるのっ?!』 
 
 
 
ナチが身を乗り出しアカリを舐めるように見つめてニヤニヤする。

アカリは、そのあからさまにからかって面白がる顔に舌打ちを打ちながら、
苛ついたようにツンと顎を上げ言い返した。
 
 
 
 『あのねっ!!

  もう高校生じゃないから。
 
 
  大・学・生ですからっ!!!』
  
 
 
ナチの攻撃に猛烈に立ち向かいつつも、アカリはずっとモヤモヤしていた
胸のつかえがやっと下りた事に内心ホっとしていた。
  
 
 
 
 
  ガチャガチャ・・・
 
 
その時、玄関の方で鍵が開く音がした。
 
 
 
そして、『あれ~? こんばんは~!!』

ヒナタが外側からドアを開錠し、指先で鍵のキーホルダーをクルクル回し
ながら当たり前のように部屋に入って来た。

そして、アカリに『ただいま。』と呟くと、そのままリビングの棚の所定
位置にキーホルダーを置いて、洗面所へ向かい手を洗っているその後ろ姿。
 
 
リコとナチが顔を見合わせ、暫し固まる。

パチパチとせわしなく瞬きを繰り返す二人の顔は、驚くに驚いてただの一
言も声を発せずに。
 
 
そして、同時に叫んだ。
 
  
 
 『ア・イ・カ・ギ~~~~!!!

  ・・・ってゆうか、同棲ぇぇええええ???』
 
 
 
興奮して手を取り合い、目を見開くリコとナチ。
二人の顔は真っ赤に染まり、抑え切れない胸の昂ぶりに今にも跳びはねそ
うな勢いのそれ。
 
 
すると、アカリが首まで真っ赤になって部屋中に響く大声で叫んだ。
 
  
  
  『うっ るっ さぁぁあああああああいっ!!!』
 
 
 
ヒナタだけがその様子をキョトンと見つめ、そして事態を察して愉しそう
にニコニコ笑っていた。
 
  
 
 
 
その夜は久しぶりにみんなで朝まで大笑いした。

ヒナタは息つく暇もないほどに矢継ぎ早に質問攻めされ、リュータとの遠
距離恋愛話をナチは熱く語り、リコもコースケと再会し仲直り出来た話を。
 
  
 
 『みんな、幸せになれたらいいね・・・。』
 
 
 
ナチが小さく呟いたその一言に、一同がやわらかく目を伏せ静かに頷いた。
 
 
 

■第210話 ドライブ

 
 
 
穏やかに、のたりのたりと時は流れる。
 
 
学生の頃とは違い、みな仕事に就き忙しく日々を過ごしてはいたけれど、
再びあの頃のように休日になると誰からともなく自然に集まるようになっ
ていた。
 
 
それは、とある休日のこと。
皆が集まるアカリのアパートで、ナチが背中を丸めてポツリとこぼした。
 
 
 
 『ここにリュータさんがいてくれたら、最高なのになぁ・・・。』
 
 
 
そう呟いた顔は、拗ねたこどものように下唇を尖らせ、ケータイの待受画面
に映し出されたリュータのお気楽に笑う顔を指先でなぞって。

それは皆が思っていたことだった。思ってはいても口には出さずにいたこと
だった。

リュータがいたら・・・、リカコがいたら・・・。

もう学生ではないのだから各々の生活があり、仕事がある。こうやって今、
再び休日に顔を合わせられるだけで充分凄いことだって分かっている。
 
 
それでも、やはり。
ピースが埋まらないジグソーパズルは、物足りなくて淋しくて逢いたくて。
 
 
 
するとコースケが顎に手を当て少し考え込み、そしてパっと顔を上げて笑
って言った。 『いい案があるよっ!!』
 
  
 
 
 
翌週の日曜早朝、一同はコースケ実家の園のグラウンドに集まっていた。

まだ朝靄けむるそこへ、1台の年季の入ったワンボックスカーが滑り込む。
『はい、乗った乗った!』 運転席のコースケは窓から身を乗り出すと、
満面の笑みで笑いながら一同を促した。
 
 
コースケは実家の車を借りて、リュータの住む街までドライブがてら遊びに
行く計画を思いついたのだった。

運転免許は持っていたけれど、今まで一度も皆でのドライブなどしたことは
無かった。専らアカリの部屋に集まって食べて飲んでを繰り返していたから。
 
 
運転手はコースケ。助手席にはヒナタが座り、後部座席にリコ・ナチ・アカ
リが乗り込む。
 
 
リュータの街までは片道で4時間はかかる。
日帰りの予定だったので少しでも滞在時間を長くする為に、早目に出発する
事にしていたのだった。
 
 
皆が乗車した途端に一気に車中は賑やかな喋り声で溢れる。
なんだか遠足みたいで誰しもワクワクする気持ちを抑え切れずにいた。
 
 
『リュータさんには連絡したの?』 リコが隣に座るナチに訊いた。

ナチはニヤけ笑いを浮かべながら首を横に振る。 『驚かすのよっ!!』
 
 
すると、アカリが冷静に 『オンナといるかもしんないじゃーん?』

『アカリさんっ! なんて事言うんですかぁ~!』 ヒナタが叱る。
 
 
その様子をコースケが眉尻を下げ困った顔をして笑って聞いていた。
皆が眩しいくらい笑顔だった。
 
 
 
片道4時間のドライブコースは、まだ早朝なこともあって車も少なく順調
に進んでいた。

1秒も静まることのない狭い車内。

相変わらずナチとアカリは喧々と言い合いばかりしている。
延々としつこいくらいに、リュータの浮気をナチに吹き込むアカリ。
ナチもからかわれている事は分かっているのだから相手にしなければいい
のに、ムキになって反撃したり本当にちょっと不安になったりしている。

そんな二人の遣り取りが可笑しくてリコは笑いっ放しだった。
 
 
 
すると、
  
 
 
   ♪♪~♪・・・♪♪~~ 
 
 
 
ナチのケータイが着信を受けて鳴った。

『リュータさんからだっ!』 ナチが慌ててケータイを睨み、人差し指を
口元にあて皆に ”静かに! ”のポーズを取る。
一同、その様子を笑い声を必死に堪えじっと見つめる。
 
 
 
 『ぅん、そう・・・

  え? 今??
 
 
  ・・・えーぇっと・・・家。 うん、そう家!家!!』
 
 
 
ナチも下手過ぎる自分の演技に、どんどん頬が緩み口元がふるふる震える。

 
 
 『ん。

  て言うか、私のことはいいから!

  リュータさんは? 今なにしてんの・・・??』
 
 
 
『オンナ~!オンナ~~!!』 アカリがナチにだけ聴こえるよう、小さな
小さな声で尚も囁きからかう。悪魔のような邪悪な笑顔で、手拍子まで付け
てリズムに乗せて。 『オ・ン・ナっ!!』
 
 
ナチの顔がみるみる険しくなり、耳が真っ赤に染まっていった。
 
 
そして遂に、
 
 
 
 『ねぇ・・・

  今、誰かと一緒とかじゃないよね?

  ひとりだよね? ホントにホントにひとりだよね??
  
  
  浮気とかしてたら、私・・・ 絶対絶対絶対許さないからっ!!』
 
  
 
そう言い放った瞬間、『あはははははははっ!!!』 

車内に一気に一同の笑い声が響いた。運転手のコースケも思わず道路脇に
車を停車させてハンドルに突っ伏して笑っている。
 
 
リュータだけが、ケータイの向こうから地鳴りのように響く笑い声にポカ
ンとして首を傾げた。
 
 
 

■第211話 帰り道

 
 
 
『帰りたくないな・・・。』 ナチがリュータのTシャツの裾を掴んで、
ゆらゆらと揺らしながら小さく呟く。
 
 
楽しい時間はあっという間に過ぎ、一同はもうそろそろ戻らないといけな
い時間になっていた。
 
 
リュータの街までの片道4時間のドライブ。

リュータは皆の襲来に予想をはるかに上回る驚きを見せ、そして喜んだ。
サプライズでやって来たナチの顔を見た途端、ひと目も憚らずに思い切り
抱きしめたリュータは中々ナチを離そうとせず、嬉しくて潤みそうな目を
隠すことに必死だった。

ナチはリュータに抱きしめられながら、浮気などしていなかった事にホっ
と胸を撫で下ろす。アカリは『うまく隠したわね・・・。』と、まだナチ
をからかって飽きずに攻撃を仕掛けていた。
  
 
子供のように不貞腐れて下唇を突き出し未だ不機嫌顔のナチに、リュータ
は頭をポンポンと優しく叩き笑う。
 
 
 
 『今度は俺がバイクで帰るからさ。』
 
 
 
それでもリュータと離れたくないナチは、ガックリとうな垂れたまま反応
が無い。スニーカーの爪先をじっと見眇め、眉根をひそめている。
 
 
『ナーチーっ?』 リュータが背を屈め、俯く顔を覗き込んだ。
すると、口をぎゅっと結び泣き出しそうに顔をしかめているナチ。
 
 
 
 『そんな顔されたら離れたくなくなるじゃんか~・・・。』
 
 
 
リュータが困った顔で後頭部をガシガシと掻き毟り小さく笑う。

そして、もう一度ギュっとナチを抱き締めた。
 
 
 
 『電話すっから・・・。』
 
 
 
心許なくわずかにコクリと頷いた瞬間、ナチの下まつ毛に留まっていた大粒
の雫がぽろりと落ちた。
  
 
 
 
 
 
帰り道はもうすっかり夜の帳が下り暗くなっていた。

運転席にはコースケ、そして助手席にリコが座る。後部座席の三人は互い
に寄り掛かり合いながら、既に呑気にすやすやと寝息を立てている。
 
 
『疲れたら代わるからね?』 リコが隣のコースケにチラリと視線を投げ
声を掛ける。

『うん、ありがとう~。』 コースケは美しい姿勢でハンドルを掴み真っ
直ぐ前を向いたまま、やわらかく返した。
 
 
静かで穏やかな車内。

聞こえるのは小さく流れるFMラジオの曲と、三人の気持ち良さそうな寝
息だけだった。コースケもリコもなにも喋らずに、ただただ車の揺れに身
を任せている。

しかし、それは嫌な沈黙ではなかった。とても心地のよい空間だった。

フロントガラスを道路脇の街灯のオレンジライトが流れ、コースケの顔を
等間隔に照らしては消える。その横顔をそっと見つめていたリコの視線に
気付いたコースケが、見られて照れくさそうに頬を緩めた。
 
 
すると、コースケが静かに話し始めた。
 
 
 
 『最近は・・・ 描いてないの・・・?』
 
 
 
それは、訊いていいのか否か。なんとなく遠慮をしているのが分かるたど
たどしさで。
 
 
リコは急に訊かれて驚き、少し間をおいて答える。
 
 
 
 『ん・・・

  ・・・全然・・・ 描いてない、かなぁ・・・。』
 
 
 
『そっか・・・。』 そう言ったきり、会話は途切れた。
 
 
リコにとっては絵はやはりキタジマに結び付く気がして、決して意識的に
ではなかったものの、美大卒業後は全く描く気にならなくなっていた。

コースケのその手の質問が更に続くのか、リコは少しだけ身構えてしまう。
 
 
すると、
 
 
 
 『もう・・・ 逢って、ない、の・・・?』
 
 
 
訊きたくて確かめたくて、でも怖くて訊けずにいた事を意を決して口に出
したコースケ。
 
 
隣に座るリコが息を止め、そっと目を伏せた気配を感じる。

いつかはこの話題を口にする時が来るとは思っていたけれど、まさかそれ
が今この瞬間だとは思いもせず。
 
 
 
 『一緒にいたってお互いつらいだけなら・・・ ねぇ?』
 
 
 
少し物悲しさと淋しさを含ませ、小さく笑いながらリコは呟いた。
その決して笑ってなどいない笑声がなんだかやけに耳に残る。

急速に胸が押し潰されるような重い空気になった車内に、それ以降は二人
ともひたすら黙ったまま車を真っ直ぐ走らせていた。
 
  
この時、コースケの中に強い確かな想いが芽生えていた。

いい加減諦めようとして、でもどうしても諦め切れずに秘め続けていた想
いからもう逃げるわけにはいなかい。何かや誰かを言い訳に、目を逸らす
ことも、もうしない。
  
 
 
  (ちゃんと、逃げずに向き合おう・・・

   ・・・たとえ、フラられたとしても・・・。)
 
 
 

■第212話 キーワード

 
 
 
  (ほら・・・ やっぱり・・・。)
 
  
 
その日。コースケはリコから借りたままの絵本を手に、そっとページをめ
くっていた。
 
 
長い間ずっと返せずにいる絵本。
本当にただ返すだけなら、郵送することだって出来たはずだった。

でも、コースケはそうしなかった。
この絵本が再びリコと繋がる為のキーワードになるような気がして、どう
しても安易に手放す気にはなれなかったのだ。
 
 
コースケの働く保育園に持っていって、子供たちに読んで聞かせてあげよ
うと思い付いたその日。園にある古くなった絵本は読み飽きているようで、
あまり子供たちの反応が良くない。やはり子供たちには、いつもいつも太
陽のようにキラキラした表情でいてほしい。
 
 
お昼寝から目覚めた子供たちが、コースケの姿を見付けるやいなや嬉しそ
うに小走りで集まってきた。

遊戯室の真ん中を陣取ってコースケが絵本を取り出し胡坐をかくと、目新
しいそれに面白いほど興味津々の輝く表情を向ける。コースケを中心に、
取り囲むように子供たちが床にペタンと座り込んだ。
 
 
ゆっくり丁寧に、場面場面で大袈裟に声色を変えながら読み聞かせをする。

楽しい場面では子供たちは過剰なくらいに笑い、怖い場面では体を強張ら
せて肩をすくめる。いつしかコースケにピッタリくっ付いて背中に隠れて
聞いている子も。
 
  
 
  (5年も前の事なんだなぁ・・・ この絵本借りたのは・・・。)
  
 
 
読み聞かせをしながらコースケは懐かしさに少し微笑み、そして少し胸を
痛めた。
 
  
 
  (元気にしてるのかなぁ・・・。)
 
  
 
そればかりを、この逢わない数年の間ずっと気にかけていた。
 
 
 
  ただ、一目だけでも・・・

  リコの元気にしている姿を見たかった・・・
 
 
 
しかし、必ずまた逢えるはずだとコースケは何故か強く感じていた。
 
  
  
『あ。 先生、お客さんだよっ!』 園児の声に、コースケは待っていた
ようにそっと静かに目を閉じる。深く深く呼吸をすると、意外にも胸の奥
の心臓はゆったりと凪いで優しいリズムを打っていた。
  
  
 
  (ほら・・・ やっぱり・・・。)
 
  
 
ゆっくりと後ろを振り返るコースケ。
 
 
そこには、髪が伸びて少し痩せたその姿が。あの頃の幼さはなく、凛とし
た空気をまとって見惚れてしまうほど綺麗な大人の女性になっている。
 
 
精一杯笑ったつもりだったけれど、きっと困った様な笑い顔になっている
のだろう。皆からよく指摘される、 ”情けない ”それに・・・
 
 
そこに佇むリコは、真っ直ぐコースケを見つめて呼吸すら忘れてしまった
かのように呆然と立ち竦んでいた。
 
  
 
   ほら、やっぱり・・・

   この絵本はキーワードなんだ、また再び逢う為の。
 
 
   だから、もう誤魔化したりはぐらかしたりはしない。

   自分の素直な気持ちを、ちゃんと伝えなきゃ・・・
 
  
  
 
 
  
コースケがケータイを耳に当てる。
 
 
4コール目で響いた、耳にやわらかい綺麗なソプラノのその声。

 『・・・コーチャン先生?』
 
  
  
 『リコちゃん。

  明日、仕事の後にでも・・・ 時間ある?
 
 
  ・・・逢えないかな・・・?』
 
  
  
コースケが遂に動き出した。
 
 
 

■第213話 最後のキーワード

 
 
 
仕事終わりの夜7時、コースケはリコの働く画材屋へ向かって歩いていた。
 
 
片手に提げた紙袋には、借りていた絵本と先日のドライブの写真。少し涼
しい夕風がそよぐ日暮れの街を、ゆっくりとゆっくりと進む。
 
 
自分でも驚くほど、心は落ち着いていた。
長い間借りていた絵本も、これで本当に手放すことになる。

これから ”伝える気持ち ”によって、もしかしたらもう二度とリコには
逢えなくなるかもしれない。本当にこれが最初で最後のチャンスだと感じ
ていた。それは、 ”腹をくくった ”という表現が的確なのかもしれない。
それほどまでに、コースケは落ち着き冷静だった。
 
 
リコの職場の通り向かいの電柱に寄りかかって、目の前の画材屋の出入口
をぼんやり眺めていた。

リコの仕事も7時で終わるらしいのだが、まだその姿は無い。残業でもし
ているのだろうか。社会人なのだから、それくらい当たり前か。
 
  
すると、『お先に失礼しま~す!』

リコの弾むような声が小さく聞こえ、従業員専用の裏口にその姿が現れた。
コースケは通りを挟んだ少し離れたそこから軽く手を上げて合図をする。

リコは少し周りを気にしながら、ちょっと照れ臭そうにパタパタと駆け寄っ
て来た。
 
 
その直後、『タカナシさん、デート頑張ってね~!』 

後ろからリコの同僚らしき人が笑いながら叫ぶ。その顔はからかいつつも
どこか嬉しそうに満面の笑みを向けて。
 
 
リコはすぐさま眉根をひそめ困り顔で振り返った。

『だから・・・ 違いますってば!!』 そう言い返すも、手を挙げてひ
らひらと左右に振り、同僚に笑顔を返した。
  
 
 
目の前に立つTシャツにジーンズ姿のリコがやはり新鮮で、コースケは思
わずじろじろ見つめ、そして吹き出す。リコは学生時代からスカート姿の
イメージが強かった為、見慣れぬその姿を見るだけでコースケの胸はじん
わりと熱をもった。
 
 
 
 『やっぱり・・・

  もうちょっと、ちゃんとした格好してくればよかった~・・・。』
 
 
 
リコはラフな格好を笑われた事を気にして、バツが悪そうに拗ねたように
Tシャツを軽く引っ張る。しかし、そんなコースケだって同じTシャツに
チノパン姿で、実際はなんの問題もなかったのだけれど。
 
 
『メシでも行こっか?』 微笑むコースケの言葉に、リコが笑顔で頷いた。
  
 
  
懐かしのファミレスに向かい歩きながら、今日一日あった出来事を話すリ
コ。身振り手振りを付け、たまに思い出し笑いをしたりしかめ面をしたり
しながら夢中になって話している。
 
 
コースケはそんなリコの横顔を見ながら、ただただこの時間を愛おしく感
じていた。こんな時間がずっと続けばいいのに、と・・・
  
 
すると、
 
 
 
 『ぁ。

  そう言えば・・・ 今日って、私になんか用事・・・?』 
 
 
 
散々自分の事ばかり話し続け、コースケに聞き役になってもらっている事に
気付きリコは少し申し訳なさそうに肩をすくめる。今日はコースケから呼び
出されたことを思い出していた。
 
 
その一言に、コースケが立ち止まりリコを見つめる。

切り出すキッカケを待ってはいたけれど、実際にそのタイミングになると
格好悪いくらいにドギマギし、喉はカラカラに乾いて中々言葉を紡げない。

なにか言いたげに口端を蠢かすコースケを、リコは黙って見つめた。
その顔はいつもの穏やかなそれとは違う真剣そのもので、リコは訳もなく
怖くなり少し身構えた。
  
  
 
  
 『俺・・・・・・。』
 
 
 
  ♪~♪♪・・・♪~♪・・・♪♪
 
 
 
その時、コースケのケータイが着信を受けてけたたましく鳴り響いた。
 
 
その瞬間、息が詰まるような重い空気が軽快なメロディーにふとほぐれ
どこかホっとしたような顔を向け合った二人。

『ちょ、ごめん・・・。』 一言謝って、コースケは電話に出た。
 
 
 
 
  その時、何故か一瞬そよぐ夕風が止まった気がした・・・
 
  
 
 
ケータイを耳に当てたまま目を見張って固まるコースケの顔が、まるで泣き
出しそうにどんどん青ざめてゆく。

コースケがゴクリと息を呑んだ瞬間、喉仏が上下に動いたのがハッキリ見え
た。次第にブルブルと震えだしたケータイを握るその手は、力が入り過ぎて
指の関節が白くなっている。
 
 
その尋常ではない様子に、リコも怖くなってしまい思わず未だ通話中のコー
スケへと声を掛けてしまう。 
  
 
 
 『ねぇ・・・ 大丈夫・・・?

  ・・・な、なんかあったの・・・??』
 
 
 
そんなリコの呼び掛けにも反応せず、心此処に在らずな表情で暫し呆然とし
ていたコースケが『分かった・・・。』と呟き、電話を切った。

しかし震えるその指先は、思うようにOFFボタンを押せずに空回る。
  
 
  
  
 
  『ァ・・・アニキが、見付かった・・・。』
 
 
 
 
  
最後のキーワードが、揃った・・・
 
 
 

■第214話 リカコからの電話

 
 
 
その日、リカコは留学先のロスで友人とお茶をしていた。
 
 
初めて入ったそのカフェ。古い感じの店だったが、とてもいい雰囲気で人気
がある店らしかった。

だいぶ流暢に話せるようになった英語でアメリカ人の友人と話をし、夢中に
なって大笑いをして何気なくカウンター席に目をやると、そこには何処かで
見たことがあるような東洋人の姿があった。
 
 
リカコは話そっちのけになって、その東洋人を目で追っていた。

カウンターチェアーに浅く腰掛けるその背中はどこか情けなく丸まり、身に
纏うジャケットも本来は上質なものだろうに何故か安っぽく見える。

伸ばしているというより、ただ伸びて切っていない感じの黒髪。不健康に見
える痩せた頬。しかし東洋人の割りにはスっと通った鼻筋が、元々は整った
顔だということを物語っている。
 
 
 
 (誰だろう・・・

  どっかで会ったことあると思うんだよなぁ・・・
 
 
  私より年上だよなぁ・・・
 
 
  大学の先輩だっけ・・・?

  それとも高校・・・?
 
 
  ・・・高校生くらいの時に、あの人のこと見てた、よう、な・・・。)
 
 
  
  
  
 『ケイタさん・・・??』
  
 
 
リカコは慌てて立ち上がり弾かれたように駆け寄った。

突然立ち上がった際に後ろに倒れたイスが堅い床にぶつかって大きな音を立
てる。店内にいる人間の目が一斉にリカコに注がれるも、そんな事一切気に
せずに、その人物の背後から震える声で呼びかけた。
 
 
異国で聴こえるはずのない自分の名前に反応し驚いて振り返ったその姿は、
リカコが知っているコースケの兄ケイタとは何処か違っていた。

なんだか疲れた感じが否めないが、昔より優しい目をして穏やかそうな雰囲
気になっている。
  
  
 
  
  『コースケ・・・?

   今、私・・・ ロスからかけてるんだけど・・・
 
 
   落ち着いて聞いてね・・・?
  
 
   ・・・ケ、ケイタさんがいた・・・。』
 
  
  
実のところ、リカコはそんなにケイタをよく知る訳ではなかった。
 
 
高校時代に数回、リュータと共にコースケの実家に遊びに行ったその時、
チラリと兄ケイタを見掛けたぐらいに過ぎなかったのだ。

しかしコースケとは真逆の、少し近寄りがたい雰囲気を持った人だという
感覚は忘れずにいた。当時、兄のことを誇らしげに話していたコースケの
朗らかで人懐こい顔をふと思い出す。
 
 
取り敢えずいの一番にコースケに連絡しなければと、リカコは慌てて電話
をかけてきたのだった。
 
 
ケータイを握るリカコの手は、笑ってしまうくらいに震えていた。

今まで生きていて感じたことのない尋常ではない自分の手の平の汗に、ど
こか他人事のように冷静に見ているもう一人の自分がいる。
 
 
これまでコースケがどれだけケイタを心配したか、血眼になって探し回っ
たか、マリの支えになろうと必死になってきたか、リカコはすぐ近くで見
てきて知っている。コースケの哀しむ顔も、涙を堪える顔も、怒った顔も
そしていつしか諦め失望した顔も全部全部見てきたのだから。
 
 
リカコの心臓が、ドクンドクンと大きく音を立てた。
ケータイを当てる耳が、燃えているように熱かった。
  
 
  
  
  
 『・・・アニキが見付かった・・・。』
  
 
コースケはこぼれ落ちそうなくらい目を見開き、ケータイを静かに切って
呟いた。その目はじわじわと潤みだし、口元は第一声なんて言葉を発しよ
うかと悩んでいるようにワナワナと震えている。

暫し壊れた人形のように呆然と立ち尽くし、次の瞬間、我に返ったように
いきなりアスファルトを蹴り上げ走り出した。
 
 
段々遠くに離れてゆく小さなその姿を、リコはただ見ていた。

本来は美しいフォームで走るコースケが、まるでつまずき転げるようにガ
ムシャラに脚を前に蹴り出して猛烈に駆けてゆく。
 
 
コースケは、マリの元へ急いでいるのだろう。一番にマリに伝える為に。

大切な大切なマリとタクヤにケイタが見つかったと、何より誰より優先し
て伝える為に。家族にしか分からないその深い深い愛情を再確認する様に。
 
 
リコは一人、その場で立ち竦んでいた。

まるでこの世には自分などいないかのように思われた気がして、なんだか
一気に寂しさや虚しさが込み上げる。
忘れかけていた懐かしい切なさを、ほんの少しだけ感じていた。
 
 
 
小さくなってゆくコースケの背中・・・
 
 
 
リコは思わず俯いて小さく溜息をつき、足元を見つめていた。

当時、諦めきれずに胸に秘め続けたコースケへの想いが、しゃぼん玉のよ
うにふんわり舞い上がってパチンパチンと弾けて消えてゆく。
 
 
すると、リコの耳に段々こちらに近づいてくる、スニーカーがアスファル
トに擦れる足音を感じた。

ゆっくりと顔を上げたリコの目に、コースケが息を切らして走り引き返し
て来たそれが映る。
そして何も言わずにリコの手を乱暴に引っ張ると、コースケは戸惑うその
華奢な手をぎゅっと強く握って再び走り出した。
 
 
訳が分からぬまま、リコは手を引かれてコースケと夜の商店街をひた走る。
 
 
 
 『マリ? 俺、コースケ。

  ・・・今、家か?
 
 
  ・・・これから、そっち行くからっ!』
 
 
 
コースケは走りながらケータイを耳にあて、息を切らしてマリへ連絡する。
 
  
コースケとリコはマリの家までの道程をひらすら駆け抜けた。
 
 
 

■第215話 マリの真実

 
 
 
マリが崩れ落ちるように膝をついて床にへたり込んだ。

口元に当てた指はワナワナと小刻みに震え、見開いた目はどこを見るでも
なく遠くを見ている。
 
 
 
 『ケ、ケイタが・・・。』
 
 
 
次の言葉が出て来ない。

ただただ苦しそうに荒い呼吸をしているマリ。破裂しそうに鼓動を打つ胸を
両手で押さえると、目をギュっとつぶって俯いた。
 
  
 
 『俺が行って来る・・・

  ・・・俺が、必ず連れて帰るから・・・。』
 
 
 
コースケは低くそして至極冷静な声で言った。
 
 
 
 『・・・殴ってでも、ゼッタイ連れ帰る・・・。』
 
 
 
すると、マリが俯いたまま小さな小さな聞き取れるかどうかの声で何かを
呟いた。それはまるで独り言のように、うな垂れたままのマリの口から足
元にのみこぼれて広がった。
 
  
  
 『・・・らないの・・・
 
 
  ケイタは・・・ 知らないの・・・。』
 
  
 
その言葉の意味をはかって、コースケとリコはじっとマリを見つめる。

すると、マリは息苦しそうにしかめた顔をガバっと上げ、まるでコースケ
に助けを求めるかのように二の句を継いだ。
 
  
 
 『ケイタは・・・

  ・・・ケイタは、たっくんの事・・・ 知らないの・・・
 
 
  私・・・ あの日・・・

  ・・・ケイタが出発した日に・・・ 言えなかったの・・・。』
 
  
 
それだけ呟いて、マリは顔を両手で覆って泣き出した。細く華奢な肩が壊
れてしまいそうに震えて揺れている。
 
 
『出発した日、って・・・。』 コースケは目を見張り、マリの肩を両手
で掴んだ。そして少し乱暴にそれを揺らす。
 
 
 
 『マリ・・・

  ・・・も、もしかして・・・ 知ってたのか・・・?』
 
  
  
 
 
 
 
その夜。ケイタは荷物を抱えてこっそり家を後にしていた。

肩に持ち手を引っ掛けたボストンバッグの中には、ほんの少しの着替えと
英和辞書。そして溢れる程の希望と、それと同じくらいの後ろめたさが詰
め込まれていた。
 
 
到着した空港には、それをたった一人で見送るマリの姿があった。

明らかに不安気な顔で目を伏せるケイタと、いつも通りの快活な笑顔のマ
リ。しかしギュッと繋いだ手に感じる汗はケイタ一人だけのものではない
事に、本心は不安で不安で仕方がないマリの心情を表していた。
 
 
ケイタは付き合い出した高校生の時からずっと、色々な国を巡りたいとマ
リにだけこっそり話をしていた。
色々な国で働き、そこで生活し、色々な文化・人間に触れてみたいと・・・
 
 
しっかり者の長男で親・親戚からも大きな期待を背負わされ、家業を継い
で当たり前という環境の中で幼少から過ごしてきていた。
大学でも言わずもがな経営学を学び、幼児教育の勉強もしてきた。

周りの人間には、何でも器用にこなすケイタにとってそれは簡単な事に見
えていたのかもしれない。
 
 
しかし、ケイタはもう限界だった。

自分で考えて自分で決めた道を歩みたかった。親も家業も決して嫌いでは
ないし投げ出したりしたくなどないけれど、それでも自由になりたい想い
をもう見て見ぬフリ出来ない程に、ケイタは追い詰められていたのだった。
 
 
そんなケイタの胸の内を理解し、励まし応援したのはマリだけだった。
 
 
そして、ケイタはマリを残し空の彼方へ消えたのだった。
『必ず戻るから、待っててくれ。』という一言だけ残して・・・
 
 
その時、マリのお腹にはタクヤが宿っていた。

ギリギリまで悩んだ。ケイタに伝えようか否か。しかしケイタにそれを告げ
てしまったら、責任感の強いケイタならそのままこの地に留まってマリと結
婚し家業を継いだことだろう。家族三人幸せに暮らせることは間違いないけ
れど、それでもケイタの胸の内に秘めた想いを無理やり消し去ることになる。
 
 
一人で生んで育てるなんてどれだけ不安だろうと、一人悩み苦しんだマリ。

しかし、どうしてもケイタを行かせてあげたいという気持ちが、新しい命の
誕生を告げられない結果になったのだった。
 
 
 
  (ケイタが戻ってきた時には、三人で生きていけるもの・・・。)
 
 
 
マリはケイタの心許ない背中が空港ゲートの奥の奥に消えて見えなくなるま
でずっと、凛とした強く美しい笑顔のまま手を振って見送ったその日。
 
  
 
 『ケイタに・・・

  ケイタに伝えて・・・
 
 
  待ってるって・・・

  ずっと、帰って来るのを待ってるって・・・
 
 
  私たちの、大切な大切なタクヤが・・・

  ・・・ケイタが帰るのを、ずっと・・・ 待ってる、って・・・。』
 
  
  
ケイタが居なくなってからの数年間、決して涙を見せることがなかったマリ
が泣きじゃくっている。まるで子供のように顎を上げ、声を堪えもせずに大
粒の雫を頬に伝わせて。
 
 
そんなマリを、最近ケイタにそっくりになってきたタクヤが寄り添ってそっ
と優しく抱きしめた。
 
 
 

■第216話 差し出したその手に

 
 
 
それは、あまりにも突然で・・・
 
 
 
待ち合わせた駅前の喫茶店の一番奥の席に、切なく胸をざわつかせる懐かし
い姿があった。

髭も剃り、髪もちゃんと短く切ってさっぱりとしている。
でも、どこかくたびれたシャツがやはりキタジマらしい。
 
 
2年半ぶりのキタジマの姿。
 
 
急にかかってきた電話に、着信者名が映るケータイ画面を見つめたままリコ
は動揺を隠しきれず、すぐには出ることが出来なかった。

そして、その相変わらずぶっきら棒で不器用な着信者は、数年ぶりに言葉を
交わすことに対しての言葉やら挨拶やら全てすっ飛ばして、第一声たった一
言ボソボソ呟いたのだった。 『・・・少し、時間ないか?』
 
 
独特のキタジマの ”間 ”が切ない想い出を呼び覚ます。
あの頃、リコの耳を真っ赤に染めたその声。その口調。その息遣い。
 
 
 
仕事が休みの週末にリコはキタジマと逢うために駅前に出向いていた。
 
 
互いに気を遣い合いながら、近況を話し合う。

大袈裟な相槌や反応が、なんだか淋しさを誘う。それはまるで余所余所しく
他人のようなそれで。二人で教室にいても何も喋らなくても居心地が良かっ
たあの頃にはもう戻れないのだと再確認し、リコはそっと目を伏せた。

話が尽きると、ぎこちない沈黙がいつまでも二人を包んでいた。
 
 
呑み込まれそうな息苦しい空気に、リコはそっと窓の外に目をやった。
休日の午後なだけあって駅前は人で混雑している。ロータリーにはバスを待
つ人が列を成している。タクシー同士が停車のベストポジションをめぐって
クラクションを鳴らし牽制し合い、店内にいてもそれが耳にうるさい。
  
 
ぼんやりそれに見入っていたリコ。

すると、
  
 
 
 『知り合いに誘われて

  ・・・来月、パリに行く・・・。』
 
  
  
キタジマが横を向いて、タバコの煙をゆっくり細く吐いた。
灰皿もリコから遠い対角線上に置き、過剰に気を遣っているのが分かる。
 
 
『いいですねぇ~。どのくらい行くんですか?』 リコはキタジマへと向き
直って訊いた。海外に行ったことがないリコにとって、パリなんてまるで夢
物語の世界で、なんだかその返答ひとつにも他人事感が表れてしまう。
 
 
キタジマは、少し遠くを見つめながらもう一度ゆっくり煙を吐いた。
そしてタバコを灰皿の淵に軽く打ち付けて先端の灰を落とし、小さく呟いた。
 
 
  
 『・・・暫くは向こうにいる。

  向こうで描いてみようかと思ってる・・・。』
  
 
 
『ぇ・・・?』 リコが声を詰まらせた。
パチパチと何度も瞬きをしながら、その意味を理解しようと必死になって。
 
 
 
 『ずっと、ってこと・・・ ですか・・・?』
  
 
 
『ん。』 コーヒーのカップに口を付け、香りを堪能するようにそれを口に
含むその横顔。まるでどうでもいい天気の話でもしたかのようなそれにリコ
は急激に込み上げる感情に顔をしかめた。
 
 
 
 『またきちんと絵に向き合えるようになったのは、

  お前のお陰だから・・・
 
 
  ・・・言っとこうと思って。』
 
  
  
その刹那、リコはどうしようもない淋しさに襲われていた。

キタジマとはずっと逢っていなかった。もう元通りにはなれるはずもない
って分かっている。しかし、本当に目の前からいなくなってしまう事を考
えると、それは淋しさとなって痛みを生じリコの胸を突き刺した。
  
 
その後は互いになにも喋らず、喫茶店が混み合ってきたのを目に店を後に
した二人。

キタジマはポケットに手を突っ込んで、痩せた背を丸めゆっくりと歩く。

もうすぐ駅に着く。
ここで、もうサヨナラなのだ。
それなのに、キタジマはなんでもないといった飄々とした顔で数歩先を歩
きリコを振り返りも、気にすることもない。
 
 
リコは複雑な気持ちを抱えていた。

こんな風に胸をざわつかせているのは自分だけなのだと、今更勝手だけど
少しガッカリしながらシワシワのシャツを見つめて。
 
 
『じゃぁ、ここで・・・。』 リコが俯く。
 
 
 
 『頑張って来て下さい。 応援・・・ してます・・・。』 
 
 
 
キタジマの目は見れなかった。なんだか一気に込み上げる熱いものが目元
を覆いそうで、そんな顔を見せたらキタジマを戸惑わせるのが分かってい
るから顔は上げられない。ㇵの字になったパンプスの爪先だけをじっと見
つめていた。
 
 
キタジマはそんなリコをそっと見つめていた。

短い期間だったけれど四六時中一緒にいたのだ。リコが今どんな顔をして
いるのか、なにを必死に堪えて隠しているのか分からないはずはない。

何か言いたそうに口を動かしリコへと手を伸ばそうとしてそれは空中を彷
徨い結局口をつぐんでしまった。力無く垂れたその絵具だらけの手が、体
の横で不甲斐なさそうに揺れる。
 
 
リコは俯いたまま、キタジマに背を向けて歩き出した。
口をぎゅっとつぐみ、眉根を寄せて今にも泣き出しそうなそれで。
 
 
キタジマはどんどん遠くなるその脆く華奢な背中をじっと見つめる。
 
 
キタジマもまた、まるで泣き出しそうな表情で。リコの前では必死に平静
を装っていた。今更リコにパリ行きを伝えたところで、あっさり一蹴され
ると思っていた。

しかし、リコはあの頃のリコで。純粋で真っ直ぐで、切ない程に素直なま
までキタジマのギリギリまで悩み苦しんだその決断を呆気なく覆してしま
う。
 
 
体の横で握り締めた拳が、少し震える。
 
 
すると、キタジマは大声でリコの名を叫びながら駆け出した。

アスファルトを蹴り上げるくたびれたスニーカーが、リコへとただ真っ直
ぐに直線を描く。

そして、後ろからリコの二の腕を乱暴に掴んで引き止めると、思いっきり
抱き締めて小さく小さく囁いた。
  
  
 
   『・・・一緒に、行かないか・・・?』
 
  
 
 
差し出したキタジマの手には、航空券が握られていた。
 
 
 

■第217話 母の言葉

 
 
 
部屋で一人、リコは壁によりかかり膝を抱えて座っていた。

小さくコンパクトに体を丸め、おでこを膝頭にくっ付けて。まるでいじける
ようにつぐんだ口は、胸の中に渦巻く想いを明確な言葉に出来ない歯がゆさ
が表れている。
 
 
膝を抱えるその手には、航空券が握られていた。
ずっと握り締めていた為、少し熱を持ってしっとりしたそれ。

キタジマのあの日の言葉を思い返すと胸はきゅんと痛みを発し、頬はほんの
り熱を帯びた。
 
 
嬉しくなかったと言えば嘘になる。

無口で照れ屋なキタジマが言った『一緒に』という言葉には、ただパリに行
こうという意味などではなく『これから一緒に生きてゆこう』という真剣な
言葉に他ならないのだから。
 
 
昨日や今日の思い付きで口から出た言葉なんかではないだろう。

あんな傷つけ合いをしその後2年以上の歳月を経て、それでもキタジマが
今でも想い続けていてくれた事に、リコの胸は切なく熱を帯びる。
 
 
 
しかし、もう一人の言葉もリコの頭をよぎるのだ。

それは、マリの家へ行った帰りのコースケのそれ。
 
  
 
 『必ずアニキを連れて帰るから・・・

  そしたら、リコちゃんに聞いてほしい話があるんだ・・・。』
 
  
 
コースケは以前の優柔不断な感じが最近あまり無くなっていた。

苦笑いで誤魔化したり、周りに合わせたり、自分を押し殺す事が少なくなっ
た。なんだかそれは、リコの胸の奥の奥にある幼なかったあの頃の想いを呼
び醒ますのであった。
 
 
そっと航空券を取り出す。
そこにある日付は、来月の最初の日曜日を示している。
 
 
『あと・・・ 2週間・・・。』 リコは小さく呟く。
 
 
それは、あと2週間で自分のこの先一生の決断をしなければならない事を意
味していた。
  
  
 
  
 
部屋にこもって溜息ばかりこぼしていたリコが階下のリビングへ下りると、
母ハルコが丁度お茶を淹れているところだった。優しい青いにおいが鼻をか
すめ、なんだか途端にホっとする。
 
 
『リコも飲む?』 ハルコの言葉に、小さく微笑んで頷いたリコ。
 
 
弟リクは最近はすっかり自室にこもって中々家族との団欒をしなくなってい
た。しかし、ハルコは『そうゆうお年頃なのよ。』と余裕の笑みを向ける。
 
 
静かなリビングにハルコと二人、向かい合ってお茶をのんでいた。

適温の湯呑が手の平にじんわり温かく、リコはそっと目を伏せてその若菜色
の揺らぎを見つめる。
ハルコは相変わらず芸能ネタを得意気に話して聞かせ、リコはそんな母が大
好きで肩をすくめてクスクス笑った。
 
 
 
すると、突然・・・
 
  
 
 『リコは好きな人いないの~?』
 
  
 
やわらかく微笑んでハルコが尋ねた。

リコはあまりの唐突な質問に戸惑い、一瞬息を呑む。そして自分を落ち着か
せるようにお茶を一口すすって小さく深呼吸する。
リビングの壁掛け時計の秒針が進む音だけが、部屋中に小さく響いている。
 
 
仲の良い母娘だが、今まで一度も恋愛関係の話をしたことは無かった。

過去にリコの落ち込む姿は幾度か見てきたハルコだが、直接リコへそれを根
掘り葉掘り訊いたりはせず、少しだけ離れた所で見守ってくれていたのだ。
 
  
 
 『分かんないの・・・

  ・・・気持ちが、ハッキリしないの・・・。』
 
  
 
リコの心許なく落ちた言葉を、微笑みながらうんうんと頷いて聞くハルコ。

そしてリコの空になった湯呑へと手を伸ばし、もう一杯お茶を注ぎながら
ハルコは言った。

それはまるで何かを思い出すように、そっと目を伏せあたたかい表情で。
 
  
  
 
   『目をつぶった時、一番に思い描く人は誰・・・?』
  
 
 

■第218話 秘めた想いが

 
 
 
コースケがロスへ飛び立って1週間が過ぎていた。
 
 
知らない異国の地での雲を掴むようなケイタ探し。その際、リカコがずっと
一緒に探し回ってくれていた。リカコはケイタを見掛け声をかけてはみたけ
れど、あまりに動転してしまってケイタの連絡先など一切訊けていなかった
のだ。コースケをロスへと来させたはいいが何の有力情報も持ち合わせてい
ない責任を感じ、リカコは泣き出しそうな不安気な表情で必死に何度も謝る
もコースケは笑ってそんなリカコを優しく優しく慰める。ここまで来る事が
出来て、リカコには感謝しか無かったのだから。
 
 
ケイタを見かけたカフェに毎日通ってみたものの、その姿はもうそこに見付
けることは出来なかった。店主に訊ねるも、たまにふらっと来る客の一人と
いう事しか分からなかった。
 
 
泊まらせてもらっているリカコのアパートに、今日もなんの手掛かりも見つ
け出せず肩を落としてトボトボと戻った二人。

近所のスーパーマーケットで買った遅い夕食を取りながら、この先どうした
ものかと途方に暮れていた。
 
 
すると、
  
 
 
  『ケイタさん連れて帰ったら、

   その後、コースケはどうするつもりなの・・・?』
 
  
 
リカコはずっと思っていた事をポツリと口に出した。

もうマリを支えていく毎日は終わるのだから、ある意味その後は自由にな
るコースケはどうするのかが気になっていたのだ。
 
  
リカコのそれに、コースケは目を細めてやわらかく情けなく微笑む。
  
 
 
 『 ”好きだ ”って言おうと思ってる・・・ ちゃんと。』
 
  
 
コースケのその言葉に、リカコがゆっくり大きくひとつ溜息を付いた。
そしてどこか呆れた様に、しかし安心した様に笑いながら静かに話し出す。
   
 
 
 『長~ぁい道程だったわね、随分・・・。』
 
 
 
そのリカコらしい皮肉めいた一言に、コースケも『そうだな』と苦笑いする。
  
  
 
 『コースケ、変わったよね・・・

  ・・・リコに出逢って、変わった。
 
 
  前は、もっともっっっとクズクズしたニブい優柔不断男だった。』
 
 
 
歯に衣着せぬ言葉にコースケが可笑しくて仕方なさそうに大笑いする。

その身体をよじらせて愉しそうに笑う情けない顔を、リカコは気付かれぬ
ようそっと見つめた。その目はほんのり滲んで揺らいでいたけれど、きっ
とコースケは気付いていない。 
 
 
  
 『これで、やっと・・・ 

  ・・・私も、前に進めるわ・・・。』
 
 
 
リカコの、長い間誰にも言えずにいた秘めた想いがやっと終わりを告げた
瞬間だった。リカコはスッキリしたような面持ちで腕をぐんと天井へ突き
上げ伸びをする。とても清々しい表情のリカコを見て、その意味が分から
ないコースケが『え?』と小首を傾げ無邪気に聞き返す。
 
 
『最後の最後までニブい男だねぇ~・・・。』 リカコが腰に手を当て豪
快に大口を開けて笑った。
 
  
  
 
 
 
翌日、二人は再びカフェに行き常連客にケイタを知らないか聞いて回った。

コースケが持つ最新のケイタの写真は大学時代のそれで、今はもっと歳を
とり雰囲気も違うということをリカコが英語で必死に説明を加える。
 
 
すると、カウンター席の端に座っていた客の一人が言った。 
 
 
 
 『毎朝、ジョギングしてるよ。 3丁目の大きな公園を・・・。』
 
 
 
その一言に二人は目を見張って固まり、互いに顔を見合って今聴こえたそれ
が聞き違いではないことを確認すると、声を押し殺してガッツポーズした。
 
 
 
明日の朝、明日の朝に遂にケイタを見つけられるかもしれない・・・
 
  
 
翌朝、リカコは目覚し時計のベルよりも先に目を覚ましふと視線を流すと、
コースケが既に起きている姿が目に入った。
しかし起きていたのではなく、一睡も出来ず夜が明けてしまったのだった。
 
 
『ちょっと早いけど、もう行ってみよっか?』 リカコの言葉にコースケ
は有難そうにコクリと頷き、『ありがとう。』と返した。
  
 
 
早朝のまだ人も少ない街を、目指す公園に向かう二人。

緊張と不安で互いに一言も口をきくことなく歩いた。
 
 
 

■第219話 誤解の果て

 
 
 
ジョギングコースとして有名らしい、その大きな公園の緑溢れる一本道を
ゆっくりと歩くコースケとリカコ。
 
 
朝の若い日差しが樹々の間から目映い光をこぼし、小鳥の囀りが静かなB
GMとなり耳に優しい。清々しい早朝の風に、走り過ぎ行く人の顔は皆一
様に活き活きとして眩しいほどだ。
 
 
二人はすれ違うランナーに目を凝らして入念に確認するも、それらしき姿
は無い。気付けば、もう公園を3周していた。リカコは不安気な面持ちで
コースケの横顔を盗み見ていた。 ”見つからないかもしれない ”という
思いが濃厚になってゆくにつれ、コースケの心情を慮ってそれは哀しげに
歪んでゆく。見付けてあげたいのに見付けられない。コースケを1秒でも
早く兄ケイタに会わせてあげたいのに。安心させてあげたいのに。
 
 
それでもコースケの目は希望を失ってはいなかった。

その目の奥の強い光に 『もし、今日ダメでも明日また早くに来・・・』 
リカコが言いかけた時、コースケが突然勢いよく飛び出した。
 
 
その足取りは転んでしまいそうに覚束なく、よろけながらも必死に進む。

コースケが向かう先には、黒髪でキレイなフォームのランナーがいた。
Tシャツのその背中は少し痩せてどこか情けないが、その走る姿勢が元々
は美しく正しいそれだと見て取れる。

猛ダッシュで駆け追い付いたコースケが、乱暴に後ろからランナーの腕を引
っ掴み無理矢理足を止めさせた。

突然のそれに驚いたその姿は、ビクっと身体を跳ねて怖々と振り返る。

そして、それがコースケだということに気付いたランナーが目を見張って立
ち竦む。
 
 
 
 
     ケイタだった・・・
 
 
 
 
瞬きも忘れケイタは目の前の、ここにいるはずなどない弟コースケを呆然と
見つめる。驚きすぎてまだ信じられなくて、そのうっすら開いた口からはた
だの一言も声が出せない。呼吸すら止まってしまったようで。

まるでこの世界の時間が止まったみたいに、二人はただただ向かい合ってい
た。互いの耳に聴こえるのは自分の心臓の音のみだった。
 
 
すると、凄い勢いでコースケがケイタの胸倉を掴んで怒鳴った。
みるみる歪んでゆくその顔は、温厚で穏やかないつものそれとは全く違う。
 
 
  
 『・・・っに、やってんだっ!! こんなとこで・・・
 
 
  一人で・・・

  勝手にいなくなって・・・

  何やってんだよっ!!!』
 
 
 
ケイタはコースケの鬼気とした気迫に、人形のようになすがまま揺さぶられ
る。いまだ事態が把握できずに魂が抜けたように放心状態のケイタ。Tシャ
ツの首元がコースケの凄まじい力で締め上げられているというのに、それに
すら抗おうとはせず、しかしその顔色はみるみる赤く染まっていった。
 
 
『やめなよっ!!』 慌ててリカコが駆け寄り、コースケの腕を掴んでケイ
タから引き離そうとする。

しかしリカコはもの凄い力でその手を振り解かれ、勢い余って道の脇に倒れ
込んだ。その瞬間、アスファルトに打ち付け擦った膝から血が滲んでゆく。
 
 
すると、『コ、コースケ・・・・・?』 
ケイタが虚ろな目をして見つめながら、やっと声を発した。

それはまるで夢の中のように現実味がなく浮ついた声色で、実際に目の前に
いるコースケのことは本当は理解できていないような目だった。
 
 
胸倉を掴んだまま、更にコースケはケイタを幾度となく乱暴に揺さぶる。

そして揺さぶりながら顔をしかめながら、遂に崩れ落ちるようにその場にし
ゃがみ込んだ。
 
  
 
 『どんだけ・・・

  どんだけ、みんなが心配したと思ってんだ・・・
 
 
  兄ちゃんを・・・

  ・・・兄ちゃんを・・・ どんだけ・・・・・・・・・・・。』
 
 
 
アスファルトに突っ伏しコースケがうな垂れて声を震わせる。
握り締めたままの拳は、力が入りすぎて真っ白になっている。

常連ランナーが何事かと遠巻きに眺めつつ走り去るその道に、コースケの涙
の粒が次から次へと落ちて広がる。

数年ぶりに呼び掛けることが出来た ”兄ちゃん ”という愛情あふれる呼称
が喉の奥でつかえて苦しくて、それが全て涙に変わってこぼれ落ちていた。
 
 
 
 
 
ケイタの簡素で正直みすぼらしいワンルームに、三人の姿があった。
 
  
『最初は、1~2年のつもりでこっちに来たんだ・・・。』 ケイタが静か
に話し始める。安物のパイプベッドの淵に腰掛けて、情けなく背中を丸めて。
 
 
 
 『でも自由な暮らしに夢中になり過ぎて、

  気が付いたら数年経ってて・・・
 
 
  マリに、どのツラ下げて戻ったらいいか分かんなくなって・・・
 
 
  でも・・・

  勝手だけどやっぱり帰りたくなって、一回帰国したんだ・・・
  
 
  マリの部屋の前まで行ったら・・・ そしたら・・・
 
 
  ・・・アイツ、結婚したんだな?
 
 
  小っちゃな子供と手ぇ繋いで、幸せそうに笑って歩いてた・・・

  スーパーの買い物袋下げてさ・・・。』
 
 
 
その一言に、コースケとリカコが絶句して目を見開く。
 
 
 
 『ああ、自業自得だなぁ・・・て、そん時思った・・・
 
 
  勝手に出て行った俺には、

  もう戻る場所も、待っててくれる人もいないんだって・・・。』
 
 
 
そう言って情けなく顔を歪め苦笑いするケイタ。

学生時代のいつもいつも自信に満ちて胸を張り、堂々としていた兄とは到底
同一人物と思えない。あからさまに落ちるその肩には、淋しさ以外なにもな
かった。手持無沙汰に絡めた指先は少し爪も汚れ、ささくれが痛々しい。
 
 
すると、コースケが俯きながら悔しそうに唇を噛み締め、震る拳をテーブル
に思い切り叩きつけて怒鳴った。
 
  
 
  『・・・っにやってんだよっ!!!
 
 
   タクヤ!!

   それは、タクヤだ!!!
 
 
   ・・・に、兄ちゃんと・・・ マリの・・・

   二人の子供だよっ!!!』
 
 
 
全ての真実を知ったケイタが、まるでスローモーションのように泣き崩れた。
 
 
 

■第220話 目を閉じて

 
 
 
 『マリ・・・

  今度の日曜、アニキ連れて戻るよ・・・。』
  
 
 
コースケがマリへと電話をかけた。

ケイタはすぐに荷造りを始め、職場やアパートなど諸々の手続きに追われて
いた。情けなく疲れてくたびれ果てたその顔は、溢れんばかりの希望と同じ
くらいの不安を滲ませながらも、もう一度人生をやり直そうと輝いている。
 
 
電話の向こうからは、マリの悲鳴にも似た泣き声がくぐもって響いている。

手でケータイを覆って必死に泣き声を隠そうとしているようだが、それは容
易くコースケの胸に届いた。そんなマリの様子に心の底から安心し、込み上
げる熱いものに声を詰まらせたものの、コースケもまた必死に平静を装って
やわらかく目を伏せた。
 
 
マリへの電話を切った後、再びケータイの画面を見つめボタンを押した。
それは、4度目のコールで静かに繋がる。
 
 
『もしもし? ・・・コーチャン先生?』 リコの鈴の音のような声が耳
に響く。そっと目を閉じひとつ深呼吸をして、コースケが静かに呟いた。
  
  
 
 『今度の日曜に帰るから・・・。』
  
  
  
  
  (今度の・・・ 日曜・・・。)
  
 
 
リコはギュっと目をつぶって、頭を垂れた。
ケータイを耳に当てる手がわずかに震え、冷たくなってゆく。
 
 
 
今度の日曜・・・
 
 
 
それは、キタジマがパリへ出発する日。
リコの人生を大きく左右する日だったのだ。
 
 
リコの机の上には航空券が入った封筒が置かれていた。
そしてその横には、大きなトランクが立て掛けられている。

しかし、まだ何も荷物が詰め込まれてはいない空のそれが、ポツンと心細
そうに置かれていた。
  
  
  
 
 
キタジマはその時、大学の教室にひとり佇んでいた。

長い間ここで絵を描いてきた。
学生の時から講師になるまでの数年間、この場所で毎日毎日筆を握ってきた。
 
 
すっかり片付いたどこか落ち着かない教室で、1本タバコを取り出し咥えて
静かに火をつけた。思い切り深く煙を吸い込み室内をゆっくりと見渡すと、
色々な思い出が頭を巡る。
 
 
つらすぎて苦しすぎて、もうキャンバスになんか向かえないと思ったあの日。

何にも心を動かされる事がなくなったキタジマの元へ、ある日、絵を見つめ
て『キレイ』と眩しそうに呟いたリコの横顔。
次第に心惹かれてゆくことへの戸惑いと、罪悪感に苛まれた日々。
田舎での突然の雨にあわてて走った、繋ぐ手の温もり。
はじめての、暗闇のトンネルでのキス。
 
 
ゆっくりと目を閉じて、キタジマは大きく深呼吸をした。
閉じた目の奥の奥に、あの顔が見える。
 
 
 
   リコが、眩しそうに目を細め笑う顔が浮かんでいた・・・
 
  
  
 
 
そして同じ時、帰国を3日後に控えたコースケも一人、そっと目を閉じて
いた。心臓がトクン・トクンと胸の奥でやけに落ち着いて打ち付けている。

ゆっくりと開いた目には、揺らぐ事のない確かなものが輝いていた。
 
  
  
  
  
   そして、運命の日曜・・・
 
 
 
リコは、空港に向けて家の前の坂道をくだっていた。
 
 
 

■第221話 親子の絆

 
 
 
成田空港の滑走路にゆっくりと機体が滑り降りた。
  
 
空港内の窓に張り付くようにして、タクヤは瞬きもせず飛行機を見つめて
いる。最近増々ケイタに似てきた、すっかり大きくなったその背中にそっ
と手をおいて、マリも静かに窓の外を見つめていた。
 
 
お互い高校生だった、出逢った頃のことを思い返していた。

あまり良いとは言えない第一印象だったが次第に惹かれはじめ、その感情
を恋と呼ぶのだという事を知った。

マリの日常には常にケイタがいた。横を向けばいつもいつもケイタがいた。
それがいつしか離ればなれになり、こんなに月日は経ってしまった。

タクヤを独りで産んで、周りの人達に助けてもらいながらなんとか育てて
きた。タクヤがいたからこそ、今まで生きてこられたのだ。ケイタの分身
であるタクヤが、横を向けばいつもいつも笑ってくれていたから・・・。
 
 
昨夜は一睡も出来なかったマリの赤い目が、更に潤んで赤く染まってゆく。
 
 
 
 
  もう少しで、ケイタが帰って来る・・・

  誰より愛しいケイタに、やっと、逢える・・・
 
 
 
 
すると、ガラス壁向こうの手荷物受取所付近が騒がしくなった。

到着した搭乗者が、回るレーンを覗き込みながら自分の荷物を探している
姿が映る。
慌ててマリとタクヤは人ごみを掻き分け、その出口がよく見える場所へと
移動する。皆一様に、待ち人を1秒でも早く見付けたくてごった返す人波。
 
 
マリの心臓が息苦しいほどに大きく鼓動を打った。
胸を上下させて細い呼吸を何度も何度も繰り返す。

タクヤと繋いでいる手にギュっと力が入る。返事をするかのように、握り
返すその手は少し汗ばんで熱を持っている。タクヤも子供ながらに緊張し
ているようだった。
 
 
係員が現れ、セキュリティエリアの出口が開いた。

大きなトランクを引き摺った搭乗者が、ガラガラと豪快にキャスターの音
を立てながら一斉に溢れて来る。
 
 
タクヤが爪先立ちをして、その中へと目をこらした。

幼い背中がその人を見つけ出そうと必死に右へ左へ揺れている。お気に入
りのスニーカーの爪先で立つ不安定なそれは、呆気なく雑踏に蹴散らされ
てしまいそうに心許ない。
 
 
すると、マリの手を離してひとり、タクヤが弾かれたように駆け出した。
 
  
 
 『パパっ!!!』
 
  
  
行き交う人にぶつかりながらかき分け進んだ先に、大きなトランクを引き摺
る何処かくたびれた風貌の痩せた男がいた。

昔の優等生の面影は微塵もない。しかし、あの頃よりも深くやわらかい表情
をしているのが、この数年という年月の間に苦労してきた証なのだろう。
 
 
まっしぐらにケイタに駆け寄り、思い切り抱きついたタクヤ。

その勢いは、迷いや戸惑いなど微塵もないそれで。
タクヤはマリが大切に飾っていた写真の中のケイタを、しっかり覚えていた
のだった。
 
 
ケイタが暫し、呆然と自分の腰に抱き付くその小さい体を見つめる。

この幼い手や腕の何処からこんな力が出るのだろうと思う程の、圧倒的な
熱量がじわじわとケイタの胸に沁み込んで来る。
 
 
ケイタはその腕を優しくほどき、そっとしゃがみ込んでタクヤの目線に合
わせる。瞬きもせず真っ直ぐ見つめると、その泣き出しそうなのを必死に
我慢している勝気な顔が、あの頃のマリにそっくりで。
 
 
目を細め微笑んで、少し乱暴にガシガシとタクヤの頭を撫でた。
 
 
 
 『・・・ただいま・・・・・。』
 
 
 
すると、タクヤはつぶらな瞳に涙をいっぱい溜めて笑った。
 
 
 
 『パパ、おかえりっ!!』
 
  
 
  
 (パパ、かぁ・・・・・・・・・。)
 
 
 
 
耳に響いたその一言に、ケイタは体中に熱いものが一気に込み上げるのを
感じぎゅっと目を閉じて思い切りタクヤを強く抱き締めた。

何度も何度も深呼吸をする。これが夢ではないことを祈るように、何度も
何度も息をして自分が確かにここにいて生きている事を確かめる。

そしてそっと目を上げると、少しだけ離れた所でマリが必死に涙を堪えな
がら佇んでいるのが見えた。
 
 
ケイタはゆっくり立ち上がると、タクヤの手を握ったままマリの元へと駆
け寄った。

次第に近付いて来る夢にまで見たその姿に、マリは遂に我慢の限界に達し
顔を両手で覆って泣き出してしまう。いくら手の平で塞いだところで悲痛
な嗚咽は漏れてこぼれる。マリの細い肩が壊れそうにガクガクと震える。
 
 
ケイタもまた泣き出しそうに顔を歪めて、力の限りマリを抱きしめた。

喉の奥が痞えて、中々言葉を紡ぐことが出来ない。
なんて言葉で謝ればこの想いが伝えられるのか分からない。

ただただ、この数年の距離を埋めようとでもするかのように、ケイタとマ
リは抱き合い、そして、泣いた。
 
  
 
 『ごめんな・・・

  もう・・・ 何処にも行かないから・・・
 
 
  約束するよ・・・ もう二度と離れない・・・
 
 
  だいぶ時間かかったけど・・・

  ・・・これからは、ずっと・・・ 一緒に生きてこう・・・。』
  
 
 
まるで最初からひとつだったかのように抱きしめ合うケイタとマリの間に、
タクヤがヤキモチを焼いて口を尖らせた膨れっ面で割って入る。

サンドイッチ状態の自分たちを見て、ぷっと吹き出したケイタ。それにつ
られてマリもタクヤも笑い出した。
 
 
家族三人、幸せそうにいつまでもいつまでも人混みの真ん中で笑っていた。
  
  
  
 
 
 
 
その頃、同じ成田空港の一角にキタジマの姿があった。
 
 
もう搭乗手続きを済ませ、待合席に腰掛けている。
左腕の袖をめくって、時計に目を落とした。出発まであと1時間・・・
 
 
何度も辺りを見渡し、ここに来て欲しいと願うその姿を探す。
落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返しているキタジマ。その姿からは
普段の冷静で無愛想な感じは微塵も感じられない。
 
 
ケータイを取り出し、その画面に着信の有無を確認してはまたポケットに
しまう。タバコを吸おうと取り出し、禁煙だと気付いてまたしまった。
  
  
  
 
  
  
国際線の上りエスカレーターには、国際線待合席へと向かう美しくピンと
背筋を伸ばした背中があった。
  
 
ゆっくりと顔を上げ、瞬きもせず真っ直ぐ見つめた先にキタジマの姿を捉
えたリコがいた・・・
 
 
 

■第222話 リュータの帰る日

 
 
 
そして時は流れ・・・
 
 
その日、ナチは朝早くからソワソワと落ち着かなかった。

前の晩は中々眠れず、ベッドの中で寝返りばかり打っては枕元に置いたケ
ータイを見つめる。どんなに何度見たところで時間は早く進むことは無い
と分かっているのに。
 
 
今日、遂にリュータが戻って来る。
3日後から本社赴任が決まり、今日が部屋を引き上げる日だったのだ。
 
 
何度も何度もケータイをタップして確認するも、一向にリュータからの連絡
は来ない。ラインやら新着メールの問合せやら、これで何回した事だろう。
 
  
 
 『メールの1通ぐらい出来るでしょーが・・・。』
 
 
 
ナチはイライラと不機嫌そうに眉根を寄せふくれっ面になりつつ、再びケー
タイを乱暴にタップして着信の有無を確認したり、かと思うとクッションに
向けて放り投げたりしていた。
  
  
  
遂に痺れを切らし、ナチがリュータに電話をかけた。

しかし、ケータイを当てる耳に延々無機質なコール音が響くのみで、繋がる
気配は全くない。やはりバイクに乗ってこちらに向かっているという事か。
到着予定の時間すら連絡がない事に、ソワソワするのを通り越して怒りが沸
々と沸きだしたナチ。
 
 
するとその時、
 
 
 
 
   ♪~♪♪・・・♪~♪・・・♪♪
 
 
 
 
   ◆着信:リュータ
 
  
 
リュータからやっと電話が来た。

そのけたたましく鳴り響いたメロディーに一瞬ナチは驚いて飛び上がり、
慌てて画面をスライドして電話に出る。ふと自宅リビングの壁掛け時計に
目を遣ると、もう時刻は昼を回っていた。
 
  
 
 『もしもし?

  ちょっと、何時頃に着く予定なのっ?!

  到着時間ぐらい前もって言えるでしょ・・・
 
 
  私、もう朝からずっと・・・・』
  
 
 
 
  ♪ピンポーン
 
 
 
リュータに向かって矢継ぎ早にまくし立てている最中に、来訪者が玄関ドア
のチャイムを押す音が響いた。

『お母さぁぁああん??』 ナチはケータイを口元から離してキッチンの方
へと呼び掛けるも、その間も引っ切り無しにドアチャイムは押され続ける。
 
 
 
 
  ♪ピンポーンピンポーンピンポーン・・・
 
 
 
 
母親の反応がない事にナチは首を傾げるも、そう言えばつい先ほど買い物
に行くと言って出掛けたことを思い出す。

『誰か来た。ちょっと待って。』 ナチはケータイを耳にあてたまま全く
以ってタイミングの悪い訪問客に舌打ちでも打ちそうな勢いで、かなり不
機嫌そうに玄関まで駆けて行くと鍵を開錠して玄関ドアを開けた。
 
  
すると、 
  
 
 
 『もっと嬉しそうに出迎えてくんなきゃ~!!』
  
 
  
そこには、ニヤニヤしながらケータイを耳にあてたリュータがいた。

ナチの家の玄関先でご機嫌に笑って佇んでいる。上げた左肩と頬の間にケ
ータイを挟み、片手にヘルメットを。もう片手は2本指を立ててナチに向
かってピースをして。
 
 
ナチが目を丸くして息を呑み、まだケータイをあてたまませわしなく瞬き
を繰り返した。驚きすぎて、いまだ声が出せないままに。
 
  
『ただいま。』 そんなナチを見つめて、リュータが微笑む。
 
 
 
 『・・・。 お・・おか、えり・・・』 
 
 
 
ナチはやっと事態を把握し、耳にくっ付けたままのケータイを離した。

そして、『なんなのよぉぉおお!!!』と笑ったような泣いてるような顔で
リュータの胸をポコポコと殴る。
 
 
 
 『もぉ・・・

  ずっとケータイと睨めっこばっかして待ってたっての!!!
 
 
  もしかして戻るの延期になった、とか・・・

  戻るの自体が無くなっちゃったんじゃないかって、

  すっごいすっっっっごい不安だったんだからねぇ・・・。』 
 
 
 
ナチが拗ねたような顔でリュータを見上げた次の瞬間、リュータはナチをき
つく抱き締めた。

目を閉じて大きく深呼吸しながら、小さなナチの体を強く強く抱きすくめる。
抱きしめられたナチも幸せそうにそっと目を閉じ、負けじとリュータの大き
な背中に手をまわした。

ご近所さんが、そんな二人の後ろを少しギョッとして見るも、見ぬふりをし
て通り過ぎる。
 
 
 
どのくらい抱きしめていただろう・・・

リュータがそっと目を開けた。
その目は輝き、1秒も我慢出来ず真夏のプールへ駆け出す子供のようで。
 
 
 
  (何か月も、金貯めんのなんか待てねぇよ・・・。)
 
 
 
そして、
  
  
 
  『・・・・・・。』
  
  
 
ナチの耳元に顔を寄せ、リュータが何か小さく囁いた。
その一言に、ナチがガバっと体を引き離し目を見開いて固まる。
 
 
リュータが微笑んでナチを覗き込み、問い掛ける。 『返事は・・・?』
 
  
  
 
  『・・・もちろん、OKよっ!!!』
 
  
  
 
そう言って、もう一度強く強く抱き合った。

ナチの耳が、リュータの『結婚しようか?』の耳打ちに真っ赤に染まっていた。
 
 
 

■第223話 突然の来客

 
 
 
  ♪ピンポーン
 
 
 
来客の報せを示す甲高いチャイム音に母ハルコが慌ててパタパタと駆け寄り、
玄関のドアを開けるとそこにはタケが立っていた。

そして照れくさそうに嬉しそうに顔を緩めるタケの隣には、可愛らしい小柄
な女性の姿。
 
  
 
タケは会社の休日を利用して、リコの実家を訪ねていた。

ハルコが突然の来訪に喜びを隠せない様子で、暫し玄関先でタケへの矢継ぎ
早な質問を繰り返す。立ち竦んだまま笑いながらその質問に答えている二人
の姿に、ハルコはやっとの事で状況に気が付き苦笑いをしながら家の中へと
招き入れた。
 
 
 
 『突然すみません・・・

  でも、どうしても挨拶したくて・・・。』 
 
 
 
タケがなんの連絡も無しに訪ねてしまった事を詫びるも、ハルコは笑顔で首
を左右に振った。

そして、チラっと女性へと目をやり 『タケ君・・・ もしかして?』
目をキラキラ輝かせ微笑みかけると、タケとその女性が照れ臭そうに笑った。
  
  
その彼女はフミという名の、タケと同じ職場で働く女性だった。

素朴で温かい感じのするフミは、タケの隣でずっと春の木漏れ日のように優
しくニコニコ微笑んでいる。
 
 
その職場に就いてから、タケの傍でずっとタケを支えてくれた人だという。
タケより年下だったが、まるで母親のように温かく優しくタケを包んでいた。

そんなフミの温かさに、タケの愛情を枯渇する心が次第に溶かされていった
のだった。
  
  
 
リビングのテーブルで三人でお茶を飲みながら、会っていなかった数年間の
他愛もない話をして笑い合った。
 
 
タケのティーカップが空になったタイミングでお代わりのお湯を沸かそうと
ハルコはキッチンに立ち、そっと振り返ってテーブルにつくタケを見つめる。

こんな風に挨拶に来てくれて嬉しくて仕方がない。しかし、この報告を受け
るのは自分でいいのか、もっと知らせたい相手がいるのではないのか、ハル
コの胸に渦巻く切なさに目を伏せた。
 
 
トレーにお代わりのお茶を乗せ、リビングに戻ったハルコ。
ティーカップを静かにテーブルの上に置きながら、少しぎこちなく間をおい
て遠慮がちに口を開いた。
  
 
  
 『・・・タケ君の、お母さんには・・・?』
  
  
  
本来ならば一番に知らせるべき相手であろう。

しかしタケの家庭環境を昔から知っているハルコは、普通なら簡単なそれが
タケにとってはそうではない事を改めて思い返し胸が痛んだ。あの頃の小さ
な小さなタケが、小学校の体育館で独りうずくまって涙を堪えていた姿が浮
かんでしまう。
 
 
すると、タケが隣にやわらかく佇むフミに小さく目を遣り、照れ臭そうに俯
いて呟いた。
 
  
  
 『それが・・・

  母さん。 もう、すごい・・・ 喜んじゃって・・・
 
 
  本当は連絡しようかどうか、ギリギリまで迷って・・・

  でも、フミが絶対に連絡すべきだって後押ししてくれて。
 
 
  何年かぶりに電話したら、もう・・・

  母さん、電話の向こうで泣きじゃくって・・・。』
  
 
  
その言葉に、優しく微笑むハルコの頬には涙がつたう。

タケの気持ちを思い、タケの母親の気持ちを思い、フミの気持ちを思って
あたたかい雫は止めどなく流れ続ける。
 
 
そして、心の底から安心したように目を細め見つめながら、ギュっとタケ
の手を握った。
 
 
 
 『良かった・・・

  ・・・本っ当に、良かったわね・・・ タケ君・・・。』
 
 
 
ふと目を上げると、隣に座るフミも頬が濡れている。

控え目なその佇まいだが、小さな身体にはまるでそぐわない広く深い愛情
溢れるその心に、ハルコは更に目を赤く染めてギュッとフミの手も握った。
 
 
 
 『ありがとう・・・

  タケ君を支えてくれて、本当にありがとね・・・。』
  
  
 
 
 
ハルコが握ったフミの左手薬指に、婚約指輪が煌いていた。
 
 
 

■第224話 小包

 
 
 
仕事から帰宅し、自室の机の上に置かれたエアメールの小包を手に取って
送付状の送り主を見ると、そこには“ Rikako ”とあった。
 
 
その日、ロスにいるリカコからリコへの荷物が届いていたのだった。

リカコは渡米先で知り合ったアメリカ人の彼にスッカリ見初められ、ロス
での生活を続けていた。
 
 
突然リカコから送られてきたそれに小首を傾げつつ、ゴソゴソと包みを開
け中の物をしずしずと取り出すと、それは1冊の雑誌だった。
 
 
『ん~??』 増々なんだかよく分からないまま、英語だらけの殆ど読め
そうにないそれを怪訝そうにペラペラとめくってみる。
 
 
すると、それにはカラフルな付箋が差し込まれたページがあり、そこで
リコの手が止まった。
 
 
  
目を見張ったその視線は、”Shun Kitajima ”という文字で停止する。
  
  
 
リコは、英語の文章をなんとか解読しようと目をこらす。知っている英単語
を途切れ途切れにパズルのように繋ぎ合わせ、必死にその内容を推測した。
 
 
それは、ロスでキタジマが小さな個展を開いたという記事のようだった。

雑誌の何十ページもある中のほんの小さな記事ではあったが、そこには写真
が何枚も掲載されている。
 
 
記事の中の小さな写真を見ると、それはキタジマが当時からよく描いていた
やわらかい風景画の数々があった。あの頃の情景が一気に甦り、リコはその
懐かしさに胸が締め付けられる。

しかし、あの頃のそれとは何処か違う。キャンバスから滲み出るような言葉
に出来ない淋しさを感じないのだ。その理由を、リコは目を細めて見つめた。
 
 
キタジマが描いた風景の中には、必ず一人の女性が優しく佇んでいたのだ。
 
  
 
  (ミホさんだ・・・。)
 
  
 
リコは心の中で呟く。
記事の中のその小さな作品からも、たくさんの溢れんばかりの愛情が伝わる。
 
 
リコは微笑んでいた。
心から、安心していた。

キタジマはちゃんと自分の描きたいものを、素直に描けているのだと・・・
 
  
嬉しくて心がじんわり温かくて少し熱を持った指先で、付箋が付けられた最
後のページをめくったリコは、手を止めてその記事に見入った。
 
  
 
 
  (・・・この、風景・・・・・・・・・・・・・。)
 
  
 
 
リコは最後に掲載されている作品を見て、記憶を手繰り何かを思い出そうと
必死になっている。眉根を寄せせわしなく瞬きを繰り返して、その遠い映像
を頭の片隅から引っ張り出そうとした。

そして、記事の文章をなんとか訳そうと英文を見眇める。
 
 
なにやらこの作品名は ”brilliancy ”というらしい。
しかし、まだまだ訳しきれない長い英文は続いた。
 
 
すると、その記事の下に日本語のメモ書きが添えられていた。

リカコの字のようだ。リカコらしいキッチリした美しい文字のそれ。わざわ
ざ和訳してくれたらしい。
 
 
 
そのメモに真っ直ぐ目を落とし、リコが顔をくしゃくしゃにして泣きだした。
 
 
 
ぎゅっと雑誌を胸に抱き締め、俯いて声を殺して泣く。
涙腺が決壊してしまったように、熱い涙がとめどなく溢れる。
 
  
 
  
 
 
     作品名は ”brilliancy ”

     ちなみに、 ”輝き ”っていう意味
 
 
 
     ハワイの言葉では LIKO って言うんだって
 
  
  
 
 
リコの脳裏に、キタジマと行った田舎の風景がよみがえる。
 
 
真っ青な空とキレイな山と花畑の風景の中、麦藁帽子のリコが夢中でスケッ
チをした。

そう言えばあの時、何故かキタジマは描いた絵を決して見せてはくれなかっ
た。ほんのり赤い顔をしかめて、リコにスケッチブックを見られまいと頑な
に死守していたのだ。
 
 
 
 
    あれは、リコを描いていたから・・・
 
 
 
 
照れ屋なキタジマがリコには見せられなかった、たった一枚の、世界で唯一
のキタジマの目を通したリコの姿。
 
 
 
 
    ”brilliancy ”には、花の海に埋もれて微笑むリコの姿が

    切ないほどに眩しく、優しく、あたたかく

    真っ直ぐひたむきなキタジマの愛情と共に描かれていた・・・
 
 
  
  
運命のあの日、空港のキタジマの元へ急いだ日の事をリコは思い返していた。
 
 
 

■第225話 あの日

 
 
 
あの日。
運命の日曜日。
 
 
 
緩やかに上階へといざなう空港のエスカレーターに、ゆっくりとキタジマの
元へ向かうリコの姿があった。
 
 
待合席で立ったり座ったりを繰り返し、幾度も幾度も左手首の腕時計を見眇
めたり待合所の壁に備えられた壁掛け時計を見つめていたキタジマ。

不安で不安で怖くて仕方なくて、1秒もじっとしていられないその大きな体。
 
 
しかし、搭乗を待ってごった返す人混みの中にリコの姿を遠く小さく見付け
た瞬間、前のめりにつんのめりながらもキタジマは慌てて駆け寄った。
 
 
そして、リコを思い切り強く抱き締めた。
細く脆いリコの身体をすっぽり包み隠すように、まるで誰にも取られないよ
う守るかのように。
 
 
懐かしいタバコの匂いが、相変わらずどこかくたびれたシャツや細いけれど
男性らしく筋肉がついた腕や、短くカットした髪の毛からほんのり薫る。

リコは震える胸でなんとか深く呼吸をしようとするも、眩暈がしそうに一気
に甦るあの頃の想い出に押し潰されそうで、もう既に泣き出してしまいそう。
 
 
 
 
    人がこんなにたくさんいる中で、

    こんな事が出来るキタジマではないはずなのに・・・
 
 
 
 
それは、心から嬉しかったのと安心した為だろう。
頭で考えるよりも先に身体が動いた感じだった。 
  
 
  
 『タカナシ・・・
  ・・・来ないかと、思った・・・。』
  
 
  
まるで子供を守る親のように、リコを抱きすくめながらキタジマは呟く。

そして何度も何度も繰り返す。『ありがとう・・・ ありがとう・・・。』
 
 
リコは今にも雫がこぼれ落ちそうな目をぎゅっと瞑り、耳に優しいキタジマ
のその低い声を体中に感じていた。

その声・におい・温度・息遣い・・・ キタジマを司る全てを身体に刻み込
むように。
 
 
そして、そっと身体を離してキタジマを見上げたリコ。

その潤んだ表情は、キタジマへの愛おしさと同じくらいの哀しさで溢れるも
涙で揺らぐ瞳の奥はリコらしい凛とした強い意思が覗いている。
 
  
  
 『私・・・ 一緒には行けません・・・
 
 
  キタジマさんが誘ってくれた事、本当に嬉しかった・・・

  キタジマさんの事が、私・・・ 本当に好きでした・・・
 
 
  ギリギリまで悩んだの。

  一緒に絵を描きながら生きてけたら、どんなに楽しいか・・・
  
 
 
  でも、私は行けない・・・

  ・・・ほんとに、ごめんなさい・・・・・・・・・・・・。』
 
  
  
『・・・そうか・・・。』 キタジマが力なく眉尻を下げ笑った。
 
 
心の何処かで十中八九こうなるとは思っていた。

分かってはいたのだ。
分かってはいたのだけれど・・・
 
 
キタジマが唇を噛み締め俯いていた顔を上げ、リコを掴んでいた手を静かに
静かに離す。リコの手首からゴツイ指の感触がひとつ、またひとつと消えて
ゆく。愛おしくて仕方なかった絵具だらけのその指先が、永遠に離れてゆく。
 
 
そして、海のように深くやわらかい眼差しで真っ直ぐリコを見つめて言った。
 
 
 
 
  『後悔しないように生きろ・・・

   後になって悔やまないように、真っ直ぐ自分に正直でいろ・・・。』
 
 
 
 
ほんのり橙色に染まったやわらかな夕暮れの並木道をふたり並んで歩いた、
あの日のキタジマが甦る。
 
 
そして、キタジマは飛び立って行った。
 
 
『グズグズしてないで、早くアイツのとこへ行け。』という言葉だけ残して。
  
 
  
  
 
 
 
空港へ向かう朝、リコは少し震える手を胸において静かに目を閉じていた。
 
 
大きく大きく深呼吸をする・・・
胸の奥が静かに静かに音を立てる・・・
 
 
 
 
   トクン・・・トクン・・・トクン・・・
  
 
 
 
  (目をつぶった時、一番に思い描く人は誰・・・?)
 
 
 
母ハルコのいつかの言葉が耳に響いていた。
 
 
 
瞼の奥に、見えたもの。
 
 
 
 
 
   『 1歩早かったチャン は、大事じゃないの~?

    ・・・なんか、すっげぇ、嬉しそうに抱えてたじゃん?』
 
 
 
  
  
そう言って、
眉尻を下げ困った様なまるで泣いてしまいそうな顔で微笑む姿だった・・・
 
 
 

■最終話 眠れぬ夜は君のせい

 
 
 
床いっぱいに画材を広げ、両手に色鉛筆を握って愉しそうに絵を描く君。
  
 
やわらかな午後の日差しが差し込む休日の保育園の遊戯室。

響いているのは壁掛け時計の秒針と、君が口ずさむ小さなメロディだけ。
少しだけ音程がズレている事に気付かず、随分ご機嫌に奏でている横顔。 
 
 
長く伸びた髪の毛がハラリと落ちて、模造紙に広がる。
君は細く白い指でそれを耳にかき上げ、そしてまた夢中になって色をつける。
 
 
 
今、僕がそっと見つめていることを、君はきっと気付いていない・・・
  
  
 
 
 
人は日常の何気ない瞬間に埋もれたキラキラ輝く大切なものを、いつも見落
としてしまう。

そしてそれはまるで突然起こったかのように思い込みがちだが、耳を澄まし
てみれば意外に近くにあった事を後になって気付くのだ。
  
  
 
 
  『・・・リコ?』
  
 
 
 
僕の呼びかけに、『ん?』と軽く返事をしただけで君はまだ絵に夢中だ。
 
 
長い睫毛に、やわらかな光がキラキラ積もっている。
君は眩しそうにそっと目を伏せた。
 
  
 
そして目を上げ、少し微笑んだ。  『・・・なに?』
  
  
  
  
  
 
  
  
           『結婚しないか・・・?』
 
  
  
 
  
  
  
  
きっと、君は気付いていないのだろう・・・
 
 
あの日、本屋でしゃがみ込んで絵本を読むセーラー服姿の女の子を、
僕が微笑みながら見つめていた事を。
 
 
あれからいくつもの涙や痛みを乗り越え、長い長い回り道をしてきた。

それも全て、この一瞬の為に・・・
  
  
 
そう・・・ いつだって、
  
 
  
  
 
             眠れぬ夜は君のせい
 
 
 
 
 

■エピローグ ~ 数年後 ~

 
 
 
コースケとリコの元へ、一枚のハガキが届いた。
それは、再び海外へ飛び立った兄ケイタ一家からのものだった。
 
 
ハガキには笑顔のケイタ・マリ・タクヤの写真。
そして、マリの胸に抱かれる小さな小さな赤ちゃんの姿がある。
 
 
お兄ちゃんになったタクヤはどこか自信に満ち、しかし妹の誕生が嬉しくて
仕方ない面持ちでカメラに向かって満面の笑みでピースサインを作る。

マリは緊張の糸がプッツリ切れてしまったようで、すっかり涙もろくなり
家族写真を撮るだけでもう幸せそうに目元を赤く染めた笑顔を向けて。

そんなタクヤとマリの肩にしっかり手を置き抱き寄せて、誰よりも情けない
笑顔で笑うケイタにはあの頃の優等生の仮面は微塵も感じられない。
  
 
 
  ”家族が増えてますます賑やかになりました ”
  
 
 
幸福そうなケイタ一家の様子が小さな写真の中に溢れていた。
  
 
  
  
 
その頃、リュータとナチは大喧嘩をしていた。
 
 
そんな二人を援護するのは、ヒナタとアカリ。
リュータ・ヒナタの男子チーム対ナチ・アカリの女子チームで、睨み合い
をしている。

なにせ口が達者な女子チーム。怒りの感情を一字一句噛むことなく、まる
で早口言葉のように怒涛の勢いでまくし立てる。リュータもヒナタもそれ
に逃げ腰で怯みつつも、歯切れ悪くボソボソと反撃をしていた。
 
 
リュータとナチは結婚しアカリとヒナタは同棲していたのだが、大きな一
軒家を借りそこで4人、ルームシェアをしながら暮らしていたのだった。
 
 
いつもの事ながら騒がしい声が響く家の中。
もうそれも慣れたと言わんばかりに、愛猫あおいが日向ぼっこしていた。
  
  
  
  
 
キタジマは数年海外で描いた後、祖母キヨの住む田舎へ移り住みアトリエ
を開いてのんびりとひたすら愉しみながら描く日々を送っていた。
 
 
少し有名になってしまったが故、ファンという名のミーハーがアトリエまで
押し寄せる事が徐々に増え、キタジマは落ち着かなそうに不機嫌そうにタバ
コの煙を深く吐く。ブツブツと文句を呟き相変わらず痩せた背中を丸めるも
キヨとの毎食の食事のお陰で以前より健康的に見える。しかしトマトだけは
食べられずに、いい大人のくせにいまだに祖母に叱られていた。
 
 
ファンの姿を横目に、キヨは『嫁候補はいないのか?』とからかっては笑う。

ジロリと恨めしそうに睨んで、タバコの煙と共にため息を深く深く吐き出し
た。そして、そんな嫌味も何処吹く風といった面持ちで絵筆を握る。
 
 
キタジマにも笑顔が戻っていた。
  
 
  
  
 
リカコはアメリカ人の彼と結婚し、アメリカ国籍を取得してすっかりご無沙
汰だったが、たまに絵葉書を送ってくれていた。増々セレブ感が強まったそ
の写真の中の姿は ”向かうところ敵無し ”な強気な笑顔を見せつけていた。
 
 
タケにはフミとの間に第一子が生まれ、リコの実家によく連れて遊びに来て
いた。母ハルコはまるで自分の孫のように可愛がり、時間になりそろそろ帰
ろうとするタケ一家をあの手この手で引き留めようと子供のように駄々を捏
ねる。そんなハルコを見つめ、タケが幸せそうにフミに目配せをして大笑い
した。温かい笑い声がリビング中に響き渡り、皆を包み込んでいた。
  
  
  
  
 
そして、コースケとリコはひまわり保育園にいた。
 
 
正式に実家の園を継ぎ、働きはじめたコースケ。
相変わらず子供たちからは ”コーチャン先生 ”と呼ばれている。
 
 
リコは保育士ではないものの、コースケと一緒に園の仕事を手伝っていた。
園のイラストを描くのが主な担当だった。
 
 
 
 『リコちゃん先生~~!! 絵本よんで~~!!』
 
 
 
たまに、子供たちにせがまれて絵本を読むこともあった。

すると決まって1冊の古びた絵本を棚から取り出し、遊戯室の中央に輪にな
って座る。子供たちが待ってましたとばかりにキラキラした瞳で見つめる。 
 
  
  
 
  『この絵本はねぇ~、

   世界一好きな人との、想い出いっっっぱいの大事な本なの・・・
  
   
   だから、大切な本だからね~

   優しくさわってあげてね? 分かった人~??』
  
  
 
 
子供たちが一斉に『はぁ~~い!!』と声を揃えて元気よく返す。 
  
  
 
少し離れた所でそれを聞いていたコースケが、照れ臭そうに困った顔をして
微笑む。ポリポリと指先でコメカミを掻いた左手薬指には、世界一好きな人
とペアの指輪が差し込んだ夏の日差しに照らされて輝いていた。
  
  
  
 
 
                           【おわり】    

 
  
  
 
長い長いお話だったにも関わらず最後まで読んで頂き、有難うございました。

本編はこれで終了ですが、引き続き【番外編】や【スピンオフ】など本編には
載らなかった登場人物たちの優しいお話をUPします。

どうぞ、暇つぶしにでも読んでいただけたら幸いです。       ひなも
 
 

〖最終章〗眠れぬ夜は君のせい

〖最終章〗眠れぬ夜は君のせい

新しい日々を送っていたリコに、ある日、いつかのマリの言葉が甦る。 ”本当に縁がある人とは、例え今は離れたとしても必ずまた巡り会うわ。” 最後のキーワードが揃った時、ふたりの運命は動き出す・・・。 【眠れぬ夜は君のせい】の続編 最終章。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. ■第207話 振り返る先に
  2. ■第208話 ごめんなさい
  3. ■第209話 アカリの秘密
  4. ■第210話 ドライブ
  5. ■第211話 帰り道
  6. ■第212話 キーワード
  7. ■第213話 最後のキーワード
  8. ■第214話 リカコからの電話
  9. ■第215話 マリの真実
  10. ■第216話 差し出したその手に
  11. ■第217話 母の言葉
  12. ■第218話 秘めた想いが
  13. ■第219話 誤解の果て
  14. ■第220話 目を閉じて
  15. ■第221話 親子の絆
  16. ■第222話 リュータの帰る日
  17. ■第223話 突然の来客
  18. ■第224話 小包
  19. ■第225話 あの日
  20. ■最終話 眠れぬ夜は君のせい
  21. ■エピローグ ~ 数年後 ~