後ろ姿のある女と桜

散ってしまった桜の幻影を探し求める女。そんな女に幻惑される私

土曜の朝はとても静かだった。
草木が夜露に濡れて雫がしたたり落ちようとしている。

朝早く起きた子供達は連れ立って何かを喋りながら通り過ぎてゆく。


空気は澄んでいるが、空は曇っていて日差しは差してこず、少し肌寒い。


僕はいつもの道を、いつもどおりに歩きはじめた。
時折、犬の散歩や、ジョギングしている人達とすれ違い会釈を交わしたりした。


少し行くと広々とした公園があり、僕は日課で、その硬いあまり座りごごちがいいとは言えない二人掛けのベンチに腰をおろした。


そこには広場があり、そこを中心として、桜並木が植わっている。
桜はもう花びらを散らしてしまっていて、新緑の清新とした葉にすっかり様変わりしてしまっていた。


その時、黒いカーディガンとベージュのチノパンツを履いた一人の黒髪の女が斜向かいからやってきて僕の座っているベンチに無造作に座った。


僕は少し面食らったけれど、思いきって挨拶をしてみた。
その女性は何も聴こえなかったように、ただ
新緑になった桜の葉を見続けていた。


「おはようございます」
僕はもう一度同じ言葉を繰り返した。
女はおもむろにに「ねぇ、いつ桜の花は散ってしまったの」と低い声音で言った。


それは僕に質問しているようでもあり、まるで独り言のようでもあった。

僕はこの謎の女性に何故か惹きつけられるのを感じながら「一週間前ですよ、ちょうど桜が散ったのは。今ではもうすっかり新緑なってしまったけれど」


女は少し首を傾げて、そのことについて考えている様子だったが、しばらくして首を左右に振った。信じられないというように。
「一週間前には桜は咲いていた。でも今はすっかり新緑になっている」


「そうです。一週間前までは桜は咲いていたけれど、今はもうすっかり新緑になっています」と僕はなぞるように女と同じ言葉を繰り返した。

女は「ねえ、桜はどうだったの?とても美しかった?」

「ええ、とても綺麗で美しかったです。本当に」

「そう、それならいいの、桜は綺麗で美しかった、本当に」今度は女が僕の言葉をなぞって言った

女は安心したのか、そこでひと息つくように息を吐き、来た時と同じように無造作に立ち上がり、同じように広場を斜向かいに横切って歩き出そうとした。


僕はその後ろ姿に何か声を掛けようとしたが、それは言葉にならず、空中で霧みたいになって消えてしまった。


そうして僕は女が桜の新緑が青々と茂る木立の中を消えて行く様を、ぼんやりと見つめ続けた。

後ろ姿のある女と桜

後ろ姿のある女と桜

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-04

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