金魚邸の娘

金魚邸の娘

一九二四年 四月四日 果穂子

佐伯果穂子(さえきかほこ)の生涯に就て云へば一ツ二ツ、辻褄の合はぬことが起ってゐる。




ひら、ひらりと揺れる。
金魚が泳ぐ。

水はどこまでも透明なのに、多くの人は水を絵に(えが)くとき、何故青い色を使うのか。
水の冷たい清浄さが、寒色のブルーと重なるのか。
金魚はそのつめたさに抵抗している。燃えるような赤い色を纏ってひら、と花のような尾をゆらめかせ、水を発熱させようとしている。



庭を通り抜ける卯月の風は寒気を帯びてまだ冷たく、薄着で長く外にいるのは適さない。膝を折り曲げて池の際に佇んでいた果穂子は思わず紬のひとえの合わせを直した。
金魚邸(きんぎょてい)の庭はこぢんまりとはしているが、厳選されて植えられた樹々が美しい。今彩りを庭に与えている樹花は山茱萸(さんしゅゆ)、そしてあと数日もすれば桜が花開くはずだ。
けれど、この庭の主役は何と云っても中央に位置する(おお)きな池である。

ひら、とまた金魚は方向を変えた。果穂子は覗き込む。この池はまるでパレットだ、見る毎にそう思う。赤い琉金、朱の蘭鋳(らんちゅう)、更紗のコメットに黒く光る蝶尾(ちょうび)。珍しいものではキャリコの出目金など、複雑な柄のものもいる。さまざまな色がランダムに乗った絵具のパレット。
その中に淡い橙色の背びれを見つけたとき、不意に背後からしゃがれた声が響いた。
此方(こちら)に居なすったのですか」
振り向くと下ろしていた肩口の髪がはらりと落ちる。
「果穂子お(ひい)様」
(やしき)の方向から使用人のテイが歩いてくるのが見える。果穂子は立ち上がった。
「お姫様だなんてお呼びにならないでくださいな。その呼ばれ方、あまり得意でないの」
曖昧に笑ってみせる。
「それに、わたくしは」
「そんなことを云われましてもお姫様はお姫様でしょうに」
テイはやや強気に云ってのけ、婆を困らせないでくださいなと笑った。果穂子も困って結局微笑む。
「風が出てきましたのに。すぐ外に出ようとしなさる」
()さく結った灰色のまげを直しながら、お気持ちは分かりますけれど、とテイはちらりと池を見やった。池面には変わらず美しい色たちが浮き沈みしている。
「だって」
果穂子は敢えてテイの視界を遮るように袖をひらめかせながら彼女の前に出る。
「その風がわたくしには心地好いのだもの」
まあまあ、とテイは呆れたように笑い、果穂子は何故かほっとする。
それで、なにか御用事ですか、との果穂子の問いにテイが「そうでした、お客様が──」と答えかけたときだった。またしても邸の方から声がした。今度は溌剌とした若い娘のものである。
「果穂子さんはほんとうにこの池がお好きね」
現れたのは昱子(いくこ)であった。市松模様の着物に海老茶の袴という出で立ちである。良くいえばモダンな、悪くいえば奇抜な──要するに最先端の恰好。新しいものにいち早く飛びつくところが好奇心旺盛な昱子らしい。顔立ちが華やかな昱子にはその服装がよく似合っているので妙な感じはない。勝ち気な笑みを浮かべてこちらにやって来た。
「昱子姉様」
思わず声音が高くなる。
「あなたもテイさんも、何時(いつ)まで経ってもいらっしゃらないんだもの、こちらから来てしまったわ」
「あらあら、御免なさいね。お嬢様を捜すのに手間取ってしまって」
ちっとも慌てない様子でテイは云い、婆なんですもの、急かさないでくださいなと昱子の背にぽんと触れた。
「ではわたくしは中に居りますからね」
テイは踵を返し早々に邸に向かって歩いていく。池のほとりには果穂子と昱子だけになった。昱子は小さな笑いを漏らす。
「あなたのばあや、ご自分を貫いておいでで素敵ね」
「なあに、それ」
果穂子も笑う。今度は自然と笑顔になれていると分かる。果穂子は昱子といると気持ちにゆとりが出来るのだった。
「来てくださったのね」
「学校が終わったのでそのまま飛んできたの」
目に浮かぶ。お行儀を無視して大股で走る昱子の姿。それに驚く周りの人の姿も。
「きれいね」
昱子はふいとしゃがみ込んで池の金魚を覗き込む。頬杖をつくその仕草は幼子のようだが、昱子がやるとなぜか絵になる。果穂子は昱子のそばに寄って、彼女に倣っておなじようにした。
「学校はいかが? 」
深紅の蝶尾をぼんやり眺めながら尋ねてみる。
「素敵よ。とても、素敵」
昱子は頬杖をついたまま答える。
「けれど、あなたと通えたらもっと素敵だったでしょうね」
そうしていくぶん寂しそうに微笑んだ。
「昱子姉様はこうしてよくわたくしの所へいらしってくださるもの。わたくしはそれで充分」
「ほんとうに? 」
「ほんとうに」
だってあなた、さっきテイさんに云っていたじゃない、と昱子は食い下がる。
「お姫様と呼ばないでって。わたくしはもうお嬢様ではないって。それは」
「だって事実ですもの」
聞かれていたのか、と肚のうちで果穂子は苦く感じる。果穂子自身、自分に突然降りかかったこの境遇をどう処理したら良いのか、ほんとうはよく分かってはいなかった。ほんとうはよく分かってはいないから、だからついこの池へふらりと来てしまう。

「──果穂子さん、 」
しばらく黙っていた昱子は血色のよい頬を膨らませ、果穂子の袖をつんと引っ張った。なあに、それ──、昱子は異議あり、と云いたげな声音で果穂子に反論する。
「あなた、駄々っ子みたいよ」
膨らませた頬のままじっと円い眼で見つめてくる。昱子のその顔が齢に似合わずあまりに愛らしいので、先程までの気持ちも忘れて果穂子は思わず声を出して笑ってしまった。つられて昱子もくすくす声を漏らす。



やがてきゃらきゃらと高く響く少女たちの笑い声に驚いて、池の金魚たちはついと水の奥深くにまで潜ってしまった。

2025年 初夏 六花 1

白川町(しらかわまち)記念図書館は、街全体を見下ろすかたちで建っている。


下から徒歩でここまで来るのはたいへんに苦労する。傾斜のきついくねくねとした細道を三十分以上歩かねばならないのだから、到着する頃にはすっかりへとへとになってしまう。だから、利用者は大抵バスに乗ってやって来る。利用者用の駐車場もないので、途中まで車で来ても坂のふもとに車を置き、そうしてバスで図書館まで行くのである。
けれども、不便さにもかかわらずこの図書館はけっして廃れない。どの時間帯どの曜日でも人は一定数いるし、週に何度も通う利用者も少なくない。それだけの魅力がこの図書館にはあるのである。
どっしりとした煉瓦造りに壁はミントとクリームのツートーンカラー。そこに立派な瓦屋根が妙なバランスでマッチしている。三階まである館内の大閲覧室も開放感のある吹き抜けで──残念ながらそこから下がるシャンデリアは安全性のためあっさりとしたデザインのものに変えられてしまったらしいけれど──それでも充分に来る者を魅了する美しさだ。
ここ、白川町記念図書館は大正時代に建てられた名家の邸をリノベーションして図書館として使っており、館内の蔵書だけでなく建物自体が生きた史料となっている珍しいタイプの施設だ。図書館であると同時に記念館なのである。

柳六花(やなぎりっか)はこちらに向かってうねりながら近付いて来るバスをガラス越しに眺めていた。ここからは下の街の営みがよく見える。白川町記念図書館の三階、職員用休憩室の小窓である。この観光街をもっとも美しく、もっとも広やかに眺めることのできる場所は実はここの窓辺ではないかと、六花は踏んでいる。
白川町は観光の街である。理由は、この情緒ある美しい街並みだ。こんな山坂の多い土地に、それでもその昔資産家の住まいが集中し栄えたそうなのだ。現在はその跡地や周辺の施設、それに沿って発展した商店街が観光スポットとなっている。
昼休憩は慌ただしい。さっさと昼食を済ませて、残りの時間を窓から街並みを眺めて過ごすのが六花の習慣になっていた。
ここで働き始めて三年程になる。春、夏、秋、冬、と見ることの出来る景色は三巡した。今は春と夏のあいだ。すぐ近くの小学校の桜並木は花を散らし、若葉が日々緑の濃さを増している。白で統一された校庭の遊具や校舎さえも雰囲気があって街に溶け込むのは、何年か前の改装と拡大の際、敢えてそういうデザインを採用したからだそうだ。
バスが図書館前の停留所で止まり、乗客がぞろぞろ降車して来るさまを眺めていたときに背後から肩を軽く叩かれた。
「そろそろ時間だよ」
声を掛けてくれたのは同僚の金木(かねき)さんだった。ここの職員の中で一番六花と歳が近いのが彼女である。六花は最年少だった。
軽くお礼を言って他の何人かの同僚と共に休憩室を出る。臙脂(えんじ)色の絨毯が敷き詰められた階段を下りながらエプロンの腰ひもを結び直した。一番下っ端である六花の午後の仕事は大体決まっている。ひたすら配架(はいか)だ。



本を満載したカートを目当ての書棚近くで止めると、その書棚にしゃがみ込んで熱心に背表紙を目で追っている少女がいた。背負っている水色のランドセルの方が、彼女の背中よりまだ大きい。少女は六花の気配を敏感に察知すると勢いよく立ち上がり、くちびるを結んで逃げるようにして走り去ってしまった。ふと気付いて腕の時計を見ると、15時30分を過ぎている。そういえば微かにこちらにも流れて来る下校時刻を報せる校内放送を先程聞いたような気がする。
──逃げなくてもいいのに。
配架したい場所には常に利用者がいる、というのはどこの図書館でも同じなのらしい。それはそうかと思う。人気のある本だから頻繁に借りられてこうして返却されるわけだし、新たに借りようとする利用者がその書棚の辺りをうろついて物色するのだから当然の流れだ。
ああいう小さい子を見ると六花は自分の子供時代を思い出す。
大人しくて、無口で、気が弱くて。けれど本だけは夢中で貪るように読む子供だった。本の中の登場人物には割と六花のように孤立していて本の虫というような少女が多く、なんとはなしに安堵したものだ。
この児童書のコーナーにずらりと並ぶ背表紙のタイトルを、既に六花はほとんど子供時代に読破した。後で知ったことだが、司書の基本的な資格を満たす条件のひとつは蔵書の内容を熟知していることなのだという。『昔読んだ小説でこんな一文があったのだが、あの本は何というタイトルだろうか』、というような利用者の問い合わせに自動検索機能はほとんど用を成さない。そこに決してコンピューターが担えない、司書の存在価値がある。
だからといって六花が有能な司書かといえばそうでもないのだけれど。カウンター業務などはいかにも辿々しく、有能どころか見習いアルバイト同然である。
時々思うのだ。
あの頃読んだ物語の内気な少女たちは、どんな大人になったのだろうかと。彼女たちは、ごく自然に内気を克服して社会に溶け込んで難なく職に就いて、普通の生活を送れているのだろうか。
勝手な思い込みなのは重々承知だが、何だか六花だけが置いてけぼりを食らった気分である。
六花の内気は今に至るまで改善されずにいる。社交性も目立つ才能もない。強みといえば精々読書家であること、そこから得た膨大な知識を持っていることだけだ。
六花には、ここしかなかった。図書館しかなかった。
図書館で働きたいという積極的選択ではなく、図書館しか拾ってくれないという縋るような思いだけで司書を目指した。
勿論ただ本が好きという理由のみで務まる程この仕事は甘くない。実際、どんな仕事に就いていたって人と人との交流は避けては通れない。それどころか、レファレンスサービスの仕事に至ってはかなり高度なコミュニケーション能力が必要なのだと知った。
それでも曲がりなりに一人のライブリアンとして、六花はこの仕事を愛していた。特別美しいこの図書館で、本に囲まれて日々本のことを知り知識を足してゆく。そういう意味では六花は六花の憧れを叶えている。

近頃は日が延びてきて、十七時というと外はまだ充分明るい。けれど白川町記念図書館はそこで閉館時間となる。よその図書館よりも早い時刻だが、それは周りが観光街であることと、ここ自体も「記念図書館」として観光施設も兼ねている特殊性によるのだろう。閉館直前のカウンターは駆け込み返却の対応で俄かに慌ただしくなる。この時ばかりはカウンター仕事の苦手な六花も有無を言わさず駆り出される。返却業務が半ら片付いて殆ど利用者が退館した頃、金木さんが近づいてきた。
「柳さん」
緩くウェーブのかかった茶髪を耳に掛けながら、黒いエプロンのポケットからメモ帳を取り出す。
「今日私達が施錠当番だから。覚えてる? 」
メモ帳から目線をちらりと六花に移して彼女は問うた。言われて、今日は金曜だったと思い出す。返却された本を無意味に揃えながら何度か頷く。
「大丈夫です。よろしくお願いします」


明日に備えての雑務は全て片付いた。返却ポストも確認したし、見廻りも終えた。トイレもゴミ箱も綺麗だったはずだ。黒いパンツと白いシャツの仕事着から私服に着替え終えると、ロッカー室の外で既に着替えを終えた金木さんが待っていた。
図書館の鍵は金木さんが持っている。消灯し、施錠を二人で確認し、鍵を預かった職員が翌日早くに出勤して開錠するのだ。
じゃあ、良いねと金木さんと図書館を出ようとした時だった。
「あ、ちょっと…… 」
「どうかした? 」
「何か動いた気がして」
大閲覧室を振り返った一瞬、奥の書棚の向こうで何か動くものが慌てて引っ込んだ──ように見えた。ちょっと見てきます、六花は荷物を持ったまま駆け出した。
影が見えた辺りの書棚に近付くと、たたた、という軽い足音を聞いた。本当に誰かが居るらしい。途端に恐怖心と後悔に襲われる。不用心だった。泥棒か不審者かホームレスか。誰かが居る。確実に、この書棚の向こうに。
大丈夫ー、入口で叫ぶ金木さんの声が聞こえる。固まってしまった六花が答えられずにいると、彼女は素早くこちらにやって来た。
「なに、誰かいるの」
六花はこくこくと頷いて肯定する。眉を顰めた金木さんは荷物で身体をガードしつつゆっくりと歩みを進める。結構無謀なことをするな、頭のどこかで冷静に思いながらも六花もそれに倣った。恐ず恐ずと二人で書棚を覗く。
人は居た。
けれど想定していたような危険人物ではなかった。逃げ場のなくなった壁の隅にくっつくように立って、自らの腕をぎゅっと掴んで固まっている。口も同じように固く閉じられ、背中と壁の間で水色のランドセルが行き場もなく押し付けられていた。
「あ、昼間の──」
午後の配架の際、児童書の書棚で見掛けた小学生だった。
金木さんも拍子抜けしたようだった。
「どうしたの? 帰りそびれちゃった? 」
早い閉館時間とはいえ、もう時刻は十八時になろうとしている。小学生はそろそろ家に帰っていないと親が心配する頃だ。少女は睨むような、泣き出しそうな、とにかく緊張した面持ちで六花達をじっと見つめたまま口を開こうとしない。いや、開けないのかもしれない。六花にはなんとなくその感覚が分かる。
困ったなあ、すぐそこの学校に通ってる子だよねえ、金木さんは少女と同じ目線までしゃがみ込んで何やら思案しているらしい。
「お家はこの近くなの? 」
少女は頑なに答えない。
「何年生?」
何を尋ねても黙り込んでいる彼女に、うーん、と金木さんは頭を抱えてしまった。
「帰れない事情でもあるのかな」
これは時間が掛かるなと踏んだ。余計なことだと思いながら六花は口を挟んだ。
「あの」
多分緊張してるだけだと思うので──六花の言葉に金木さんが振り向く。
「私一人で大丈夫だと思います。施錠、していくので」
日が落ちかけた邸の暗い色の絨毯にしゃがんだ金木さんは迷うように六花と少女を交互に見る。
「ほんとに大丈夫? 」
「もし本当に困ったら交番に行くので」
大丈夫です、と念を押すと交番と聞いて安心したのか、金木さんは少し迷って立ち上がった。
「じゃあ、ごめんだけどお願いしても良いかな。実はこのあと用事があって。ほんとにごめんね」



少女と二人きりになると、六花は相変わらず固まっている彼女の隣に、少し間隔を置いて座った。壁に頭を傾けると自然と視線が上方へ向く。
「いいよ。何か言えるようになったら、言えばいいよ」
この低さから見回すと、館内は驚く程果てしない。吹き抜けなので余計そう感じるのだろう。本来はこれが個人の住まいだったというのだから驚く。昔の日常など想像もつかないが、こういう所に住む人たちというのはどんな暮らしをしていたのだろう。

六花は努めて少女に意識を向けないようにした。恐らくこの子は、子供の頃六花が持っていたような極度の内気さを抱えている。そういう子は、誰かに面と向かって問い詰められると余計言葉に詰まって黙り込んでしまう性質がある。もともと、元来が内気なのだからそうしたからといって心を開いてくれる保証はないのだが。問い詰められるよりは増しというだけである。長期戦を覚悟で粘る心構えでいた方がいい、そう思った。
とは言え、日が暮れ月明かりが照らし始めると徐々に六花も不安になって来た。腕時計を見ると十八時三十分を指し示している。辛うじて館内はまだ薄明るいが、十五分もすればすっかり暗くなってしまいそうだった。
あと五分したら無理矢理にでも交番に連れて行くしかないな、そう思った時、落とした──と半分泣きそうになって小さく呟く声を聴いた。少女は袖で力一杯目をこすってもう一度訴える。
「──落として、見つかんなかったから」
「落としたもの探してたの?」
ん、と声付きで幼く頷く。ひょっとして親から渡された家の鍵か何かだろうか。
「何落としたの」
「消しゴム、です」
消しゴム。正直拍子抜けしたが、小学生というとそんなものかと思い直す。この年頃の子供にとっては、ヘアピンやシール一枚が非常に貴重な宝物だったりする。
「大きさがこんくらいで、お花の形で、ピンクのやつで、匂い付きのやつ── 」
「うん。そしたら一緒に探そうか」
六花が立ち上がると、少女はまたしてもぶん、と前髪が揺れるほど力を入れて頷いた。

電気を点けるから待ってて、と駆け出した途中、スイッチの場所にたどり着く前に少女が元気に、あった、と叫んだのでまたしても肩透かしを食らった。そのまま声のした方へ戻る。
「あったの? 」
「うん! 」
行ってみるが、彼女がどこにいるのか分からない。暫くして、館内の中央にある閲覧机の下にいることに気が付いた。机の下なら、開館時間は人が座っていて落とした消しゴムが見えなかったのだろう。
巨大で長いその机が伸びる先には、やはり大きな白い格子窓がある。半月が窓から覗いていて、月あかりに反射した微細な埃がきらきら、ゆらゆら、舞っているのが見えた。(ふち)に特徴のある大机の上で静かに揺れている。
六花は思わず足を止めた。
何故だろう。既視感がある。
実際はそんな筈は無いのだけれど。こんな時刻までここに居るのは今日が初めてなのだ。それとも、美しいもののようにきらきら舞う埃に見覚えがあるのだろうか。

少女は床に脚をぺたりとつけて大机の下にじっと座っていた。見つかったの、と声を掛けても何も答えず出てこようとしない。側に寄ると、机の天板の裏側を見上げているのだと分かった。
六花もしゃがみ込んで大机の下に潜ってみる。少女は六花にだいぶ慣れたのか、動じたりはしなかった。それにしても大人にはここは窮屈だ。背中を丸めて縮こまっていることしか出来ない。
「どうかした? やっぱり消しゴムじゃなかった? 」
少女は初めて六花と目を合わせて、静かに首を横に振った。小動物のように曇りのない子供の目。右手を見ると、確かに小さな消しゴムらしきものが握られている。
消しゴムを握ったまま、彼女は人さし指を上に向ける。さっきまで見ていた天板の裏だ。何かあるのだろうか。
この体勢で上を見上げるのは苦しい。六花は絨毯の上に仰向けに寝転ぶ。

思わず目を見開いた。

見えている範囲内、隅から隅まで。
「何これ」
少女も六花の隣に並んで寝転ぶ。
照らすのは月明かりだけで、うっすらとしか判らない。



それでも確かに、大机の裏一面に文字がびっしり書き込まれているのが見えた。

2025年 初夏 六花 2

本は、総てだった。
私の総て。世界の総て。


朝からだらだらと降りつづけている雨が上がりつつある。
六花は自室の隅の壁に背中をくっつけて、才能あふれる変人の書いた小説を読んでいた。座布団を敷かない畳に直座りなので心地が悪い。
昔から読書をしていると他のことは何も構わなくなってしまうきらいがある。ぐん、と強い眠気に引き込まれるのと同じような感覚で六花は簡単に本の中の世界に入って行くことが出来た。眠っているときは眠りの世界しかないのと同じで、そのとき六花の周りには本の世界しかない。そうして何んにも見えなくなってしまうのだ。
本は、能動的だから良い。自分の想像力如何で世界をどこまでも広く豊かにできる。しかも自分のペースで読み進められるので存分に考えを巡らせられる。
考える、という行為は本当はとても贅沢なことなのだと思う。
難しい事は考えたくないとか、勉強するのが辛いとか、そんな言葉をよく耳にするし、自分でもそう思ったりするのだけれど、それでも。そういう違いが動物と人間を隔てている。
だから、考える時間をたっぷり持てて、ひとつしかない現実の他に頭の中の妄想的な世界を持つことをも許される学生は、本来はとても贅沢な立場にいると思う。
ただ、彼らの多くは幼くて、学生でなくなった時にその贅沢な特権に気づいたり、考える代わりに他のことに時間を用いてしまったりしがちだけれど。

頁を捲る。本の中の恍惚を感じるほどの世界の濃密感に、六花は途方に暮れる。このような世界を自分で創り出し、文章に起こす事が出来たのならどんなに素晴らしいかと思う。文学的に(さか)しい少女がうっかりその世界を目指してしまうのも無理からぬ事なのかもしれない。本というのは文字数は確かに膨大だが、紙の束にまとめてしまうとほんの数センチだ。その中に、世界密度が詰まっている。
本はこんなに叫んでいるのに。こんなに訴えているのに。動き出さないのが却って不思議なくらいだと思う。
特に好きなのは、日本文学。海外小説やハイファンタジーにはそれほど惹かれない。思うに六花は、日本語の文章表現の美しさや現実を模した世界観が好きなのだ。何が起こってもおかしくないファンタジーの世界設定と違って、現実世界を舞台にした物語には縛りがある。その縛りのある世界──本来何かが起こってはいけない世界──に妖しい歪みを垣間見るとき六花の胸は高まるのだ。空想世界の醍醐味である。
本当の現実は、駄目だ。現実は速すぎる。
六花には時間が足らない。物事を飲み込むのに、普通の人の数倍時間が掛かる。今の仕事だって、もう慣れましたとは言い難い。時間をたっぷり溜め込んで置ける場所があったなら迷わず飛び込んで行くのにと、幾度となく思う。
実年齢より幼い部分があることは、自覚している。情緒の発達に(むら)があるのだ。口下手のルーツは父からである。その元々の性質に加えて、拍車をかけたのは幼年期の環境だ。父もまた、文学的な人だった。父は本だけは惜しげも無く買い与えてくれる人で、それも手伝ってか見る間に六花は読書の魅力に呑み込まれていった。

読書を終えてふと時計を見ると、すでに午後になっていた。昼食もまだ食べていない。休日はいつもこんな調子になってしまう。六花は固まった体をほぐすように腕を回し、それからだらしなく寝転んだ。
本の知識に長けた代わりに、未だに未発達なのは他者との自然な関わり合いだ。端的に言えば内弁慶という事になるのだろうか、慣れない人物と対峙する場面に直面すると動作さえぎこちなくなる。
孤独は聡明さに比例して深くなると、誰かが本の中で言っていたのを思い出す。六花が聡明かというとそれは分からない。けれど、人の人生や心理について追求すればするほど、他人と関わり合うことがいかに繊細なバランスで成り立っているのかを思い知るのは確かで、どうしても誰かの懐へは入っていけないのだった。比較的自然に関わり合えるのは老人か、子供くらいか。
──子供。
結局、昨日の少女の名前は訊けず仕舞いだった。あの子の年齢すら知らない。
ただあの後彼女を家まで送ったときにネームプレートに『HARADA』と掲げられていたのを覚えている。最後にぴょこっと小さくお辞儀をした少女は、アパートのドアを開けて黄色い電気の灯る部屋の中へと消えていった。賑やかなテレビの音が聞こえ、ちらっと見えた玄関には子供の靴が乱雑に散らばっていた。少女はただいまも言わず、母親の声も聞こえなかった。
やけにあの子が気になっていた。自分と似た性質を表す少女。その家庭環境。そして一緒に見たあの、大机の。
あそこに書かれていたのは確かに文字だった。図書館の閲覧用大机の裏にびっしりと。あれは何だったのか。誰が何の目的で書いたのだろう。
まるで物語の中に出て来る『妖しい歪み』だ。月明かりの下、少女と二人並んで見上げる机の裏の文字群はまるで小説のワンシーンそのものだった。彼女と一緒にあれを見たせいで何とは無しに秘密を共有した気分になり、あの子とあの文字を余計気になるものにさせていた。
机の裏の謎文章。改めて机の下に潜ってその内容を確認しないと何とも言えない。けれど、誰かの単なるいたずらとも思えない。あんな地味で根気の要るいたずらなどない。そもそも誰にも気付かれないだろう。あんな所にある文字なんか、机の下に潜って尚且つ仰向けにならないと──。
──書くときもあの姿勢だった?
がばりと畳から起き上がった。あのびっしり書き込まれた緻密な文字を? それは不可能ではないだろうか。あの体勢では確実に文字が震える。真っ直ぐ書くことも不可能だろう。何しろ寝ても座っても腕と机の距離が中途半端なのだ。加えて大机があるのは大閲覧室の中央である。人の目に付かない時間帯など無い。
だとしたら、書いたのは図書館利用者ではない。職員も──六花自身が職員だから分かるのだが、それも無理だと思われる。
それならば。
──そうか。
机の方が逆さになっていれば可能なのか。もしくは立て掛けられていたかのどちらか。だとすれば、あの机は一定期間どこかに裏側が見える状態で置かれていた時期があったという事になる。あの文字はもしかすると相当昔に書かれたものなのかもしれない。充分にあり得る話だ。何せ施設自体が相当古く、元名家の邸宅を改装して使っているのだから。あの大机も今は滅多に見ないような珍しいデザインだし、当時から使っていた物だとしても不思議はない。
そうすると、あの文章は歴史資料という事になるのだろうか。


「一昨日はごめんね。あれから大丈夫だった? 」
開館前、新聞の差替え作業をしていると金木さんが近づいて来てそっと尋ねた。気にしてくれていたらしい。
「大丈夫でした。消しゴム、落としちゃったらしくて。見つけてから送っていきました」
良かった、ありがとと僅かに笑ってから金木さんは真顔になる。
「あの子学校が終わるといつも来るでしょ。しかも割と遅くまでいることが多いからさ、ちょっと複雑な家庭なのかとか思ってて。でもそんな単純な理由でよかった」
気付かなかった。つくづく六花は周りが見えていない。複雑な家庭、と言われればもしかするとそうなのかも知れない。あの雑然とした玄関を思い出す。返却ポスト見て来るね、と言い残して去っていく金木さんの背中を六花はぼんやりと見つめていた。

今日も大閲覧室の大机は利用者で埋まっている。歩いて来れる距離に住んでいる近所のお年寄り。平日休みの社会人。雑誌を広げている子連れの主婦。観光客風の人がちらほら。縁に独特の彫り飾りが施されたマホガニー製の机はその中心で堂々たる存在感を放っていた。
──あの机か。うん、当時の物らしいわ。
開架に本を戻しながら、昼休憩時に館長から聞いた言葉を思い出す。机のルーツが気になって、いつからのものか尋ねてみたのだ。裏面に文章が書かれている事は敢えて話さなかった。どんなものかきちんと確かめていないし、話してしまえば歴史資料としてたちまち六花の手の届かないところへ行ってしまいそうで惜しかった。どうしてそんな事を気にするのかとの問いに、利用者さんに時々聞かれるもので──と茶を濁す。事実、そういう事は何度かあったから嘘という訳ではない。
「あ、でもなあ」
館長は後退しかけた額をさすって何やら考え込む。
「そうだ、別荘だわ。あの大机と、他に二、三の調度品はそこから持って来たんだと。前任者がそんな事言ってたわ。何年か前にそこが取り壊しになるとかで、そん時に持って来たらしいで」


──別荘。
あの机は昔からこの本邸にあったものではないという。
避暑に別荘を訪れたこの邸の住人の誰かが、気まぐれか暇潰しで机の裏に文字を綴る。夏が来るたびそうするのが習慣になり、やがて一面に文字が埋まる──そんなところだろうか。そう考えながら文学の書棚を指で辿る。940のラベルの同一作者の作品が見当たらない。
指を彷徨わせていると、つん、と誰かに腰の辺りをつつかれた。
振り返ると、水色のランドセルを背負ったボブヘアの女の子が六花をちらちらと見やっていた。
「あ」
思わず声を漏らした六花は慌てて口を閉じた。少女はもじもじと体を揺らす。
「学校終わったんだ」
くんと首を曲げて頷き、上目遣いでこちらを見るので彼女の目線までしゃがみ込んだ。
「この間、お母さんに怒られなかった? 」
声量を抑えて問うと再び頷く。
「そうなんだ」
それは良い事なのか悪い事なのか。
けれど、彼女の深い事情にまで入り込むのは憚られて、結局「よかったね」と返すに留めた。
「ねえ、そう言えばさ」
あの机──と六花が話題を変えた途端、少女の顔がにわかに生き生きしだした。秘密を共有したと思ったのは彼女も同じだったらしい。私たち、すごい大発見をしたよねとでも言いたげな表情だ。
「……誰にも言ってない? 」
ここで初めて少女は声を発した。
「言ってないよ」
そう伝えると安心したのかはにかんだ笑顔になる。
「正直言って、あれが何なのか私もよく分かんないの。だから誰にも言わなかったの」
「──かほこ」
突然少女は六花の知らない名前を呟く。不意に登場したその名前に六花は戸惑った。
「え? 」
「かほこって名前だと思う。書いた人」
「かほこ?」
少女は出し抜けに背中のランドセルを下ろして(かぶ)せを開け、ごそごそと中身を探ってノートと筆箱を取り出した。そして足元の絨毯にしゃがみ込んでノートを広げ、何やら鉛筆で熱心に書き出す。唐突な行動に六花はただおろおろして周りの様子を伺った。専門性の高いドイツ文学のコーナーだったので幸い周辺に人が居ないのが助かった。
「『果穂子』? 」
過剰な筆圧で書かれた不格好な文字だったが、彼女が書いた漢字はそのように見えた。
「あそこに、書いてあった。あと、何月何日っていうのもいっぱいあった」
「じゃあ──日記? 」
大机の裏に日記。果穂子なる人物が書いた日記。それにしてもあの暗がりの中、この子はよく見ている。
「難しい字なのに、よく読めたね」
「字がかのんと同じだもん」
そう言って閉じたノートを突きつける。『かんじれんしゅうちょう』と書かれた表紙の下方に目を遣ると、『二 年 三 組 原 田 果 音』と彼女の伸び伸びとした字体で記されていた。
「本当だね。果音ちゃんていうんだ」
二年生なのか。
「“穂”はねえおばあちゃんに教わった」
照れながらも自慢気に話す果音を見つめながら六花は感心する。場面緘黙(かんもく)的な特質に隠れてしまいがちだけれど、先程の観察力といい、この子は中々に賢い子なのかも知れない。
「私は『りっか』って名前だよ」
仕事用に携帯しているメモ帳を破って『(やなぎ)六花(りっか)』とふりがな付きで書いて渡す。



受け取った果音は不思議なものでも貰ったようにその紙切れをじっと見つめていた。

2025年 初夏 六花 3

弾く、音がする。


弾いては消え、消えては弾けるゴムボールのような心許ない鍵盤楽器の音。少しだけもの悲しさを感じさせるその旋律に合わせて幽かだが合唱のような歌声も聞こえる。
外はくらむような眩しさなのに、この部屋はひんやりと仄暗い。唯一、小さな木枠の窓から僅かに差し込む光が、この場所のどこもかしこも厚く覆い尽くしている埃に当たって白く煌めかせていた。
私は何をしていたのだろう。
あの時はまだほんの小さな子どもで、私はそこにいた意味も、そこに至った経緯もまるで憶えていない。
ただ、歩く度に残った自分の足跡、動くとスノードームのように舞い上がった埃、それから終始外から漏れ聞こえていたピアノに合わせた合唱のようなうたごえ。
そういう感覚的なものだけははっきりと憶えている。
そして、赤い色。薄暗い中にも強烈に焼きつく赤い色。あのときたしか私は見上げて、それに気づいて。あれは──。




毎月の最終金曜日は館内整理日ということになっている。図書館は休館となり、職員だけが出勤して棚整理や書架替えを行う。総浚(そうざら)いで大ががりな蔵書点検を行うのは七月と決まっているから、その他の月の在架チェックはそれ程時間の掛かるものではない。開架と書庫の在架を貸出状況と照らし合わせ、所在不明の本がないかをざっと確認するだけだ。作業は大体昼過ぎには終わってしまう。今月のチェックもまもなく終了するところだ。
この作業の流れも大分慣れてきた。勤め始めの頃は全てにおいて何が何だか分からずおろおろしたものだ。
まず開架にある本より書庫にある本の方が圧倒的に多い事に衝撃を受けた。ここの書庫には開架の五、六倍は蔵書が保管してある。利用者だった頃の六花が『図書館』と見なしていたのは、実は図書館のほんの一部に過ぎなかったのだ。
驚いたことはもう一つある。館内にある膨大な量の蔵書が、事実上人の手と頭で管理されていた事だ。勿論全ての蔵書はコンピューターにインプットされてはいる。けれど、職員は特にそれを頼みにしている訳ではないらしかった。おおよその情報は自分の頭に入っているのだ。リクエストシートのラベルを見ればその本が大体書庫のどこにあるのかすぐに把握し、すっと利用者に手渡すことが出来るのである。
図書館はまるで樹だ。表に見える枝葉や幹、花や実は美しく整えられ見るものを満足させる。しかしその本質は地面の下の根にある。暗く目につかない地味な場所で地上に出ている何倍も深く複雑に根を張り、それによって見える部分の美しさを支えている。
美しい、と思った。図書館は『根』があるからこそ安定して美しい。

館内整理が終わったのは十三時を少し過ぎた頃だった。同僚たちが思い思いに一息入れている休憩室を抜けて、六花は庭園へと出る。建物は思い切り洋風なのに庭は石、池、松と純和風だ。それでも違和感が無いのはあのどっしりと黒い瓦屋根のおかげだろう。不可思議な調和である。この邸の元々の持ち主は、佐伯ナントカ、という資産家なのだということは前々から知っていた。通称佐伯邸。そのため近所に住む年配者は特に、ここを白川町記念図書館ではなく佐伯邸と呼ぶ。観光案内マップを見ても『白川町記念図書館 (旧佐伯邸)』と記されているので、あながち間違った呼び方ではないのだろう。
六花は庭の真ん中に丸くくり抜かれたみたいな池の前まで行って、ペットボトルのスポーツドリンクを全部飲み干した。池の辺りの松の木の枝が程よく伸びて、丁度良い日陰になっていて涼しい。じんわりと滲む汗を拭った。
たっぷりと水が張られた池の中にはちろちろとすばしこいオレンジ色の金魚が浮きつ沈みつ泳いでいる。
目に焼き付く、浮かび上がる赤い色。
六花には不可解な記憶がある。それが現実のものなのか、あるいは夢だったのかどうにもはっきりしない。幼少期の記憶だと思うが、子供の見る夢は妙にリアルだし色彩豊かに覚えていて、現実は現実で黄色いフィルターが掛かっているように夢のようだから現実との境が曖昧なのだ。いっそあの頃の六花は全人生を夢のようにふわふわと生きていたのかもしれない。こうやってたまに小さな切っ掛けで思い出す。
果音と二人、遅くまで図書館に残った日。月の白い光に照らされた大机を見た際もそんな感覚に囚われた。勿論絶対あり得ない。あり得ないはずなのだが、六花はあの日、その独特の飾りのついた大机をずっと前から知っているような懐かしい気持ちに囚われた。

記憶の中で、小さい六花はどこか知らない薄暗い部屋の中を歩いている。遠くに聞こえる何かの合唱。中は土蔵のようにしんと涼しく匂いもやはり土蔵のようで、六花はたった一人その中をきょろきょろと進む。
長い間誰も入っていなかったのか、あらゆるものに白い埃が厚く積もっている。六花が動くと埃も乱れて、どこか高いところにあった窓から洩れる光に当たって落ち着きなくゆらゆら揺れているのがよく分かった。記憶の最後は赤い色が覆い被さるような形で終わっている。

その時部屋にあった埃まみれの机が、大閲覧室の机の印象となぜか重なるのだ。デザインが似ていたのだろうか。
いや、記憶なんて都合の良いものだ。幾らでも塗り替えられる。夢かもしれないし、夢でないかも知れない。謎の部屋なんか存在せず机も無く、創り上げられた記憶だという可能性も無いではない。でも、何だか釈然とせず気持ちが悪い。せめてもう少し何かを思い出せればすっきりするのだけれど。いつもふとした時に引っかかるのである。

それにしても池の金魚は涼しそうだ。涼しいという感覚があるかは知らないけれど。そんな事を考えていたらつつじの植え込みの向こうから誰かがやって来た。
「暑くない? 」
同僚の瀬川さんだ。ここ、意外と風が通るんですと努めて外向的な笑顔で応じると彼女はこちらにやって来て、ああほんとだねえ、とからりと笑った。
瀬川さんはベテランの司書で、ここには十年ほど前から勤めているそうだ。カジュアルなTシャツにパンツ姿で、肩までの髪を下ろした姿は普段より若々しい。瀬川さんの様に司書として働く主婦の人は結構多い。ここの職員は半数以上が女性だ。おばちゃんがいっぱいいる職場、と言うと怒られるかも知れないが、そんなところだ。瀬川さんは池を軽く覗くとあれ、と何かに気が付いたのか素っ頓狂な声を上げた。
「金魚増えてない? 」
そもそも元の数を知らない。瀬川さんと並んで覗き込むと、十匹ほど確認できる。よくいる種類のその金魚はどれも同じように見えて、分身みたいにも思える。
「どうなんですかね。池自体、あんまり見ないので」
「なんか増えた気がするんだよねえ。一時期、三、四匹しかいなかったような気がするけど。沢山死んだから追加したのかもね」
金魚は儚い。子どもの頃、夏のイベントや何やらで手に入れて飼った金魚は皆揃って一年も生きなかったように思う。飼い方がまずかったのかも知れない。
「金魚って、普通はどれくらい生きるんですかね」
いやー、と瀬川さんは腰に手を当てたついでに叩きながら、
「ピンキリじゃないの。平均は十年とか聞くけど、金魚すくいで取って来たのとかはほら、雑に扱われてるでしょ。だから弱ってあんまり生きなかったりもするしさ。でも上手に飼えば三十年とか生きたりするらしいよ」
前の子達は寿命だったのかもね──彼女はそう言って暫く池を眺めていた。

一足先に瀬川さんが館内に戻ってしまうと、緊張から解かれて六花は無意識に溜め息をついた。今日は休館日だから果音は来ない。こういう日、あの子はどこで放課後の時間を過ごすのだろうか。今頃は給食を食べている頃かも知れない。彼女のやわらかい水色をしたランドセルを思い出す。
──果穂子。
机の裏に文章を書いたのは果穂子という人だと思う、と昨日彼女は言っていた。それが日記形式だったということも。
今になって様々な疑問が浮かび上がる。日記の書き主が本当に『果穂子』なのだとしたら、本来文字を書いてはいけない場所に、なぜ隠しもせず自分の名前を記したのか。なぜそんなところに書いたのか。日記なら日記帳にでも書けばいいだろうに。
いや、そんな単純なものでなかったとしたら。
ひょっとして人目に晒せない内容なのだろうか。それはちょっとまずいな、と思う。誰かの悪口だったり、昼ドラ顔負けのドロドロの愛憎劇みたいな内容だったら果音に何と説明すれば良いのだろう。そう考えると頻繁に出てくる果穂子という人物も、書き主本人ではなく悪口の対象になっている人物なのかも知れないし、禁断の恋の相手なのかも知れない。そうすると書き主の年齢や立場や性別も分からない。女中や使用人、書生という可能性だってある。
白紙に戻る。
分かっているのは佐伯家の別荘に自由に出入りできる人物であること、日記を書けるほど日常的に時間に余裕のある人物、天板一面に文字を埋め尽くせるほど長期間佐伯家と関わりがあった人物。そのくらいだろうか。
庭園から戻ると、他の職員はみな二階にいるようだった。上から談笑が聞こえる。一階の大閲覧室には誰もいない。はっとして大机の場所に行ってみる。チャンスだ。二、三度周囲確認をして、六花は机の下に潜り込んだ。
流れるように連なる美しい筆跡が目に飛び込む。墨で書かれたと思われる濃く深い黒。そして部分部分読み取れる文体は旧仮名遣いがかなり用いられている。見るのは二度目だけれど、圧巻だった。単なる文字群なのに思わず胸に迫る美しさがある。前回と違い光量があるので少しは読み取れそうだ。
『……子姉様が、』『わたくしは』『……のだけれど、かあさまが……』『秋……の』──やはり旧仮名遣いが難しい。平仮名と、見知っている漢字が辛うじて読み取れる程度だ。けれど、その筆跡や文体、一人称を見て確信した。この人は女性──しかもある程度教育を受けている女性だ。文章を書き慣れている。ろくに学校にも行けなかっただろう女中だったら片仮名を多用した辿々しい文体になるはずだ。姉様、かあさまと書かれている所々の内容から推測するに、おそらく年若い。ということは佐伯家の子女が娘時代に書いたものか。
各文の始まりには果音の言っていたように日付が記されていた。
「大正、十四年──」
昔に書かれたものだろうとは思っていたが、実際に目にすると気が遠くなる。経てきた時の長さに(おのの)きながらも六花の胸は本の世界の奥深くに入り込む時のように高まっていた。少し移動して別の箇所も見てみようと試みる。前回果音が見ていた辺りの場所。
「──ほんとだ」
果穂子は。果穂子の。その名が頻繁に記されている。
『あなたが残るなら、果穂子は……いきませう』
“行きましょう”、か。それとも“生きましょう”だろうか。


帰り道、ごつごつと膨らんだトートバッグが肩に食い込んだ。リュックサックの方が良かっただろうか。帆布製のシンプルな四角いそれはやや大きめなサイズで、六花はそれを図書袋としてずっと使っていた。あまり見ない綺麗な黄緑色で気に入っている。
白川町記念図書館の二階には、この街の歴史と旧佐伯家についての資料を集めたコーナーが設けられていた。普通、地域特有の資料本などは一冊しかないなどの希少性により、紛失防止のため館内閲覧に限られている事が多い。しかし、俄然果穂子の正体を知りたくて堪らなくなった六花は、本来貸出不可書籍に指定されているそれらの資料を無理を言って借りられないかと館長に掛け合った。館長は渋い顔をしたが、六花が職員ということもあり、明日必ず返すならという条件付きで家に持ち帰ることを許可してくれた。
家に帰ったら早速読まなければ。まずは佐伯家の家系を調べてみるのが良いかも知れない。そんな事を思い巡らしながら小学校の前を横切ると、下校時間なのだろう、道いっぱいに散らばって帰る小学生の集団とかち合った。色とりどりの服装とランドセルで色が溢れ返っている。ふと前方に目を遣ると、遅々とした足取りであちこち道草を食いながら独りで坂を下る見知った少女の姿を見つけた。
「果音ちゃん」
思わず呼び止める。彼女はぱっと振り向いた。六花に気がつくと、ぴょこぴょこ無駄な動きをしながらこちらに駆けてきた。ランドセルのフックに掛けた体操袋が上下に跳ねる。
「こんにちは」
果音は律儀に頭を下げて挨拶した。
「こんにちは」
六花も思わず頭を下げる。
「図書館開いてなくてごめんね。今日はすぐお家に帰るの」
何気ない問いかけのつもりだったのに、果音は唇を突き出し、曖昧に首を傾げていつまでも答えない。
「──帰らないの」
唇の形を戻さないまま、果音はこくりと頷いた。

こんな事をして良いのだろうか、と思わないでもなかった。でも放っておくのはあまりに可哀想で連れて来てしまった果音は今、六花と六花の住んでいる借家の縁側でゼリーを食べている。ここは学校と果音のアパートの中間地点なので地理的には丁度良い。なぜすぐに家に帰れないのか、原田家のルールはどのようになっているのか、果音は一言も触れないままだった。こちらも彼女が自然に話すまで催促しないことにした。夕方になったらこの間のように家まで送ればいいだろう。
「ねえ」
六花の声に果音はこちらを見上げる。
「机の裏側ね、今日もう一度よく見たんだ。果音ちゃんの言う通りだった。果穂子って人が書いた日記だった」
果音は興味津々といった様子で続く言葉を待っている。
「果穂子って誰なのか、知りたくない? 」
「……しりたい」
果音は透明な声で呟いた。
知りたい。
「私も知りたい」
果音はそれを聞くと可笑しそうににんまり笑って、こどもみたい、と嘯く。実際六花は子供なのだ。とっくに成人してはいても。六花もにやりと笑う。
「あのね。『脅かす訳ではありませんが、心は思う程大人にはなりません』」
目を丸くする果音に、私が子供だった時読んだ本にそう書いてあったの、と付け加える。
「びっくりするかも知れないけど、ほんとなんだ。私も読んだ時はびっくりしたけど、ほんとだった。嘘だと思ったら大人になってみればいい、きっと分かると思うから。私、実は子供なんだよね」
果音は幼い子しか出せない声でくすくす笑った。
ゼリーを食べ終えると六花は黄緑色のバッグから資料本を取り出す。『果穂子』という漢字が分かるなら、果音も一緒に調べる事が出来るだろう。借りるときにちらりと見たが、確かこの本の中に旧佐伯邸を建てた佐伯善彦(さえきよしひこ)から始まるかなり詳しい系図が載っていたはずだ。
「多分果穂子って人は、あそこがお家だったころ住んでた人だと思うんだ。昔っぽい字だったからね」
果音は真っ直ぐ頷く。系図を調べて果穂子の背景が分かったなら、もしかすると佐伯一族の家族写真で顔も知ることが出来るかも知れない。目当ての頁を開くと、縦横の線がそこかしこに繋いである佐伯家の家系図は、資料の古さから文字が小さく印刷も悪い。
「この中に、果穂子って名前があるか見るの。一緒に探そう」
「うん」
印刷のにじみも気にせず果音は資料に顔を近づけ、早速探ってゆく。六花も『果穂子』の文字を探し始めた。
けれど。
「──もう全部見た? 」
「見た」
「『果穂子』って、あった? 」
果音は首を振る。二人で顔を見合わせる。

そう、無いのだ。佐伯家の家系の中のどこにも『果穂子』の文字は無い。今日机の下に潜り込んでその内容を確認した時は、佐伯家の歴史を調べさえすれば簡単に彼女を見つけることが出来るものと思っていた。
──佐伯家の娘じゃない?
妻でも姉妹でもない。
どこの誰だかも分からない。


顔も知らぬ果穂子が、六花の内面に静かな揺らぎをもたらしていた。

一九二四年 十月八日 果穂子

《お邸のまん中のクルクルとした階段が(おほ)きくて、目が(まは)りさうだつた。
わたくしのお父様だと云はれるその方は、けれどわたくしを御覧になつてもチットモ嬉しさうでは無かつた。お目々の(あひだ)の皺が深くて、お肌がゴツゴツしてお出でで、お(ぢい)さんみたゐだつた── 》




金魚は美しい。

金魚というのは熟熟(つくづく)不思議な生き物だと、果穂子は思う。
食用でもなければ、生産物を生み出すでもない。おおよそ人間の生活に必要な存在とは思えない。それどころか、金魚は人の助けがなければ生存し得ないのだ。なのに何百年も昔からずっと人々に愛でられている──純粋な観賞用としての、魚。金魚はもう、魚としての枠を超えてしまっているのかも知れない。巧緻なつくりの芸術品として。
金魚は、人の美意識のためだけに創られた存在。あの、あでやかな赤も、優美な尾も、蘭鋳なんかは背びれさえも奪われて、ただ見た目の美しさのみを求められている魚。
確かに。果穂子はもういちど思う。
金魚は美しい。
薄昏い水の中に居たって、水面(みなも)に浮上すればたちまちその華が際立つ。さながら水中花のようにぱっと咲く尾。あでやかな色。
それでも主張もせず文句も云わず、ぬらりぬらりと煌めくから。
でも──そう。
そうしていられるのは、自分の処遇を知らないから。
金魚を人の助けなくしては生きられないようにしたのは他でもない、人なのだ。恵まれているのかそうでないのか、よくわからない。
人と共に生きてきた金魚は鯉と同じで物怖じしない。池の(ほと)りにそっとしゃがんで待っていれば、滑らかな鏡のような水面が徐々に乱れ始めて波紋を描き、その気配を感じ取ることができる。しばらくすると点々と紅い色が染みてくる。餌が投げ入れられるのを期待して金魚が上がってくるのだ。体全体が粘膜で出来た金魚はやはり粘膜性の透明感のある口を円くあけて、現実感のない眼で (たぶん)こちらを見ている。行動はほぼ鯉と同じなのだけれど、金魚はその全てがこぢんまりとしている。
「金魚の可愛らしいところは、小さいところではなくて 」
昱子はよくそのように云う。果穂子も同感だ。華や美しさなら、豪華絢爛でどっしりとした鯉に軍配が上がるかも知れない。けれど、果穂子たちの感覚にしっくりくるのは、この金魚のようなちんまりとした可愛らしさも兼ねた美なのである。あんなにも華やかなものが、こんなにも小さい。そこに真価があるのである。

此処(ここ)に来てから池を覗かない日はない。
最初のうちはただこの池全体に全部の金魚が一緒になって泳いでいるさまを愉しんでいたけれど、見ているうちにどうも一緒に泳がせておかない方が良い組み合わせがあることに気が付いた。金魚と言えども性格がちゃんとあるようなのだ。華美な外見のものはその分泳ぎがぎこちなく、性格もおっとりしているように見える。そういう種は撒かれた餌を素早い動きの種に横取りされがちだったり、水泡眼(すいほうがん)や出目などはその特殊な膨らみに傷をつけられてしまうことがある。だから、手ごろな板を池に沈めて仕切りとし、ゆるやかに分離した。
父の、珍しいものを集めるだけ集めてその世話の仕方に疎いところは尊敬し難いと、果穂子は思っている。本邸にいる選り抜きの金魚は詳しい方が手を掛けてくださるから問題ないのだけれど。父はただ、金魚の優雅さや美しさだけが好きなのだ。美しいものを愛でる気持ちは結構だけれど、その個々の性質や弱さなどはまるっきり知る気もないのだろう。
──かあさまの扱いと同じね。
母は美しいひとだった。もう果穂子が六つの時に亡くなって終われたけれど。おっとりとしていて穏やかで、微笑むときはいつも、困ったような笑顔だった。父は母のそんなところが好きだったのだろう。亡くなられた時もまだとても若かったように思う。あの時の母は一体お幾つだったのだろうか。
父を恨むつもりはない。母が亡くなったのは父のせいではないのだと分かっていた。むしろ、それまで果穂子と母に不自由ない暮らしをさせてくれた。母亡き後は果穂子を引き取って下さったことにも感謝している。
六つの歳に初めて連れて来られたお邸は、信じられないほどの広さだった。果穂子はそれまで話に聞くだけで一度も対面した事のなかった父に『果穂子』と呼ばれることに違和感ばかりを感じていた。
赤い色のふかふかした素材の布が一面に敷き詰められた、履物を脱がないお家。三層吹き抜けの階段ホールに圧倒され、その天井の高さは果てしなく心細く思えた。子ども用とは思えない立派な部屋を充てがわれ、萎縮している果穂子に父は云った。
「困ったことがあったら何時でも云っておいで」
つねに眉間に皺を刻んでいた父だけれど、その言動から察するに元来は優しい人なのだろう。けれど何処からともなく湧いてくる申し訳なさで、とうとう父に何かを相談すると云うことも無いままにこちらへ来てしまった。
──彼処(あそこ)に十年も居たのね。
佐伯邸の洋風の暮らしにも慣れ、やがて果穂子は邸の造りの美しさを愛おしむようになった。離れて一年と経っていないのに、宝石みたいな大広間のシャンデリアや優美な張出窓の曲線美の懐かしいこと。そこから見下ろす街並の清清しいこと。でも、戻りたいとは思わない。此処で暮らす日々の方がずっと心穏やかだ。此処の造りは日本式だし、かあさまと二人で暮らしていたお家に雰囲気が似ている。忙しなくいろいろな人が出入りする慌ただしさも、父の仕事関係のパーティも無い。
それに、果穂子が本邸を出たのは特に(たまき)様にとって(とて)も良かったと思う。
池の中の橙色の背びれが滑らかにうねる。果穂子はその素赤の小さい金魚を目線で追いながら思い起こす。


「一体如何(どう)してあの子にそんなに固執なさるのですか。うちには秋彦がいるのに。もう二歳になるのですよ」
此処に移るひと月程前、最後に聞いた父に訴える環様の言葉。
あの方が果穂子の事を良く思っていないのは知っていた。父や果穂子に面と向かって云うことは無かったが、周りにどんな風に話しているのかは自然と耳に入ってきた。邸の空気と云うのは大抵立場ある者の醸し出す雰囲気に感化される。当主の妻という立場であれば、その影響力は絶大だった。
──だってほら、あそこの娘はお(めかけ)さんの子供でしょうに。
──孤児なのですって。
何処からともなく囁き聞こえてくる果穂子の評判。意味は分からずとも、子供心に良い事を云われているのではないのは知れた。女で、しかも正式な妻の子ではない果穂子に家を継がせるなどと父が言い出して果穂子を引き取ったものだから、環様は夫に裏切られたような心持ちになったのだろう。あの方がその話題を持ち出すたびに父は不機嫌な顔をして黙り込む。あまり何度も言われると、
──お前に子供がないのだから仕方ないだろう。
環様が一番傷つく言葉だと知っていてそれを持ち出し、黙らせる。
そのやり取りを偶々耳にしてしまうと居た堪れなかった。自分は此処にいてはいけないのではないかという思いが発端となって、いや、そもそも何処にいてもいけないのだ、果穂子を愛する人物なんてもう何処にもいないのだからと思考の黒々とした沼に嵌っていく。
かあさまに会いたい。お膝の上に乗って、頭を撫ぜて貰いたい。
堪らず果穂子は庭の池に駆けてゆく。本邸でも此処でも、相変わらず果穂子の居場所は金魚池の(ほと)りだ。どんなに豪奢な部屋を与えられて、魅力的な御本や素敵なシャンデリアが有っても、果穂子の居場所は如何(どう)してもそこだけなのだ。
あそこはたしかに美しい。美しいけれど、息苦しいところだった。
感情が波立つほどの苦しさというわけではない。そうではなくて、あの苦しさは水の中に零れてぼんやりと全体に拡がってしまった絵具、そんな状態とよく似ていた。果穂子の存在そのものが、なんだかぼんやり苦しかった。泣けもせず、ただへらへらと笑っている子供だったように思う。


池に揺らめく薄紙のような尾がついと沈んで果穂子はその行方を見失う。身を乗り出したとき、くすくすと鈴の鳴るような笑い声がした。
「ねえ、わたくし、玄関へ向かうより先にお庭を先ず覗くのが習慣になってしまったわ」
ごきげんよう、と昱子が今日も銀木犀(ぎんもくせい)の陰から現れた。
「ごきげんよう」
果穂子も思わず笑いながら立ち上がる。
「だって」
「だってなあに」
なんでも有りません、と済まして云って再び二人で笑う。昱子はまるでお日様のようだ。真っ直ぐで、明るくて、暖かい。こんなに瞬時に場の空気を華やかにしてしまうのはもはや才能ではないかと思う。
「あなたのその帯、初めて見るわ。素敵ね」
「ありがとう。テイさんが用意してくだすったの」
「あなたのお好きな金魚と同じ赤なのね」
昱子は帯に不意に触れて、何事か思い出したように指を滑らせた。
「お邸住まいの頃も、果穂子さん、よく池にいらしったわね」
いつも飽きもせず無表情にお池をジッと見詰めているの──、昱子が急にそんな事を言い出すので果穂子は面食らう。
「昱子姉様? 」
「果穂子さんはお強いわ」
わたくしね、本当は悔しいの、昱子の声は殊の外低かった。
「果穂子さんから身分を奪って、こんな処へ追いやって、学校へも行けなくさせて。もう半年よ。あなたみたいに穏やかでいられない。今にも佐伯のおじさまと環様を憎んでしまいそう」
「昱子姉様」
「環様なんてあなたの──」
「ねえ、昱子姉様、きいて」
昱子は固く結んだ唇を噛んだ。
「わたくしね、実を云うと、お邸にいた頃より今の方が幸せなの。屹度(きっと)わたくしは馬鹿なのね。環様に疎まれる悲しさよりも昱子姉様がわたくしを想ってくだすっている事の方がずっと伝わって来て嬉しいんですもの。こうして毎日お喋り出来るのも楽しいし、それにお邸でのわたくしの立場なんてそもそもあってないようなものだったの」
昱子姉様はお日様。純粋で真っ直ぐ。だから果穂子は、あなたに魅かれる。
わたくしが悔しいのは果穂子さんを大事に守る役目の人がまるっきりそうしていないと云う事よ、と昱子は切なげに訴える。
「いいの。環様だってお父様だって苦しいと思うもの。本当に芯から悪い人なんてきっとそうそういないもの。大抵の方はどこかしら葛藤しているものよ。それはあの方達だって同じ」
だからって、昱子は一瞬気色ばんで、それから一気に力が抜けたように目線を下に落とした。
「果穂子さんはそうやっていつも許して、優し過ぎるのよ」
「昱子姉様の方がずっとお優しいわ」
昱子姉様は人を愛せるから人を憎める。きっと誰かを愛するとか、ましてや憎めるほど果穂子の情緒は育っていないのだろう。昱子姉様は果穂子のことを優しすぎると仰るけれど、その解釈は根本的に間違っている。嫌いな人がいないのは優しいからなのではない、情がないのだ。いつまでも相手が“他所様(よそさま)”で、『そうね、他所様(よそさま)だもの、わたくしの内面が分からなくても仕様がないわ』と、もうこちらで切ってしまうのである。
本当の果穂子は冷たい。人にそこまで興味が持てない。それとも人に興味を持つのが怖いのか。いつもそうなのだ。結局のところ自分にしか興味を持てないような、そんな薄情な娘なのだ。
唯一愛しても許される存在は、すでに喪くした。その愛情が奇妙な対象に傾いてしまう異常さは、自覚している。

「ねえ、わたくしのために怒ってくださって、ありがとう」
この十年間、昱子が居たからやって来れたのかも知れない。ことある毎に果穂子に人間らしさを教えてくれた。昱子は、そうでしょう、あなたの代わりに怒ってあげているのよ、とにやりとする。
「あなたももっと非道い事を云えば良いのよ」
「申しません」
笑い乍らかぶりを振る。
「ずっと環様のお顔の黒子(ほくろ)のこと、食べ残しか何かだと思っていましたって、子どもの頃みたいに云ったら良いのよ」
「そんなこと申しません! 」


二人でひとしきり笑いあった後、
「そうね、そうね。 果穂子さんがそう仰るのなら、そうなのでしょう」

昱子は共犯者めいた笑みを浮かべた。

2025年 盛夏 六花 1

『佐伯善彦は1865年佐伯兼彦(さえきかねひこ)の三男として生まれる。生家は裕福で、幼少の頃より高い教育を施されて育った。1891年、旧制大学外国語科卒業。1892年渡米。1895年帰国。早くから海外貿易の発達したこの地で、同年アメリカ留学の経験を生かし鉄鋼輸出を主とした貿易会社『佐伯商会」を立ち上げる。佐伯の優れた手腕や第一次世界大戦の大戦景気、いわゆる「大正バブル」の波に乗り事業は概ね好調だった。1929年、自身は退任し、当時佐伯の右腕だった加藤重清(しげきよ)に社長の座を譲る。しかし1939年第二次世界大戦が始まり、アメリカを主な取引相手としていた同商社は大打撃を受け倒産した。』
佐伯善彦に関しての情報をくまなく探る。どこかに果穂子へ通じる糸口はないか。それだけに焦点を絞る。内容を読み込む。頁を捲る。休館日の午後、六花は自分の世界に集中していた。

不意に首振り扇風機の風が六花の前髪を逆立てるのが気になった。窓の外ではミンミンゼミがけたたましく鳴いている。
集中力がふっと途切れて、六花はぶんぶんと頭を振って仰向けに寝転ぶ。タンクトップ型のワンピースから伸びる剥き出しの肩に黄ばんだ畳のざらざらした繊維が当たって少し痛い。そのまま首を傾けると相変わらず本で膨らんだイエローグリーンのバッグが視界に入った。
──持たせて。
幼馴染みの亜莉亜(ありあ)にそう言われたことがある。自分の方で気まぐれに言い出した癖に、六花の手からそれを受け取るなり「重っ」と顔をしかめて即座に返して来た。
──重い重すぎ、殺人的な重さ。
あはは、と気の抜けた声で笑う。確かに六花のバッグは詰まった本のせいで大体いつも重かった。この家でルームシェアしていた彼女が美容師になると言い出して、他県の専門学校へ行ったのは丁度一年前のことである。連絡もろくに取っていないが、どうしているだろうか。猫のように気ままなところがある亜莉亜は行動が読めない。
六花を取り巻く環境は少しずつ変化し始めていた。
亜莉亜が行ってしまってから輪をかけて独りで行動するようになった六花に変化を呼び込んだのは果音である。果穂子に関する謎も、果音が持ち込んだと言っていい。あの日、彼女が消しゴムを落とさなければ。机の下に潜り込んだりしなければ。六花はずっと机の裏の文章に気が付くことはなかったし、佐伯邸の歴史をそこまで深く知ろうと思う事もなかった。同時に果音の存在を気にすることすら無かっただろう。果音は六花に妙に懐いてきている。遅くまで図書館に残ることの多い彼女を放っておけなくて、六花はほぼ毎日閉館後果音を家まで送るようになっていた。最初のうちは口数の少なかった彼女も、慣れてきたのか色々なことを話してくれるようになった。国語が好きなこと。可愛い消しゴムを集めた宝箱を持っていること。教室で飼っている金魚はあまり顔が可愛くないこと。
「お母さんともそういうこと話すの」
何気ない風を装って訊いたつもりだったけれど、途端に果音は黙り込んで小さく首を振った。
今まで聞いた話を総合すると、果音の家族は母子家庭のようだった。中学生の兄が一人いて、仕事で遅くまで家に帰れない母親に代わり、スペアの鍵は彼が預かっている。元々中学校の方が下校時間が遅いのに加え、兄は放課後友達の家に寄り道することが多いらしく大体五時過ぎ辺りにならないと家に入れないそうだ。果音の母には未だ会ったことがない。一度、「お母さんに渡して」と言って六花が図書館の職員であり果音を家まで送っている旨と、休館日は兄が帰るまで六花の部屋で預かっている旨をメモに書いて果音に託した事がある。翌日果音が菓子折を持ってきて驚いた。「お母さんが『宜しく』って」という言葉を添えて。本当を言えば、六花が期待していたのはそういう事では無かった。もっと『なんとかしてほしい』という思いだったのだけれど。でも、と自分のその曖昧な思いに笑う。『なんとか』って、何だろう。六花はどこまで人の家庭に首を突っ込んでいいものか分からずにいる。

起き上がってもう一度頭を振る。窓を締め切り扇風機からクーラーに切り替え、ペンケースから耳栓を取り出した。今は果穂子のことに集中しよう。変幻自在の素材を細長く形作り、圧縮する。耳の縁を斜め上に引っ張り(ひね)りながら挿入すると上手くいく。やがてミシミシと音を立てながら、耳の内部空間に隙間なく充満していく。
静かに息を吐く。世界は再び『私』と『その他』に分類された。夏の音はもうどこかへ行ってしまう。目を上げると、もうよその世界だった。
果音とあの読みにくい家系図を一緒に見て以来、六花は佐伯家に関する膨大な資料を片っ端から調べている。佐伯善彦の事業の功績から、佐伯邸の建築構造の詳しい解説に至るまで。
今調べているのは、佐伯善彦の生い立ちに関するものだ。資料によると、佐伯善彦は四人兄弟の三男坊。上に兄三人、下に弟一人の男ばかりの兄弟の中で育ったようだ。いわゆる『良いとこのお坊ちゃん』で、それだけに留まらずどうやら商売の才能もあったらしい。出生地はここではないようだし、あの机は自身がアメリカから買い付けた家具だと考えるのが自然だろう。六花は本を閉じて表紙のぼやけた白黒写真を見つめる。堂々たる佇まい。身を包むスーツはサイズがきちんと合っており、似合っている。多分普段から着慣れていたのだろう。この時代特有の立派な髭を蓄えたその顔は若干気難しそうな印象で、五十代後半くらいに見える。本をもう一度開いて続きから読み始める。
『──私生活においては、三十七歳の時島崎家の十六歳の娘、(たまき)と婚姻。長年子供に恵まれずにいたが、五十七歳の時長男、秋彦が誕生。大変子煩悩な一面があったという。また、留学した経験からアメリカ式の生活を好み、それがそのまま佐伯邸の洋風の住宅様式に反映されている。息子にも自分のことを「パパ」と呼ばせていた。また、熱心な金魚収集家としても知られ、貿易相手国に含まれていた中国から珍しい種を買い付けるなどしていた。1947年、八十二歳没。』
一人の人の人生を──それがその人の全てを網羅している訳ではないとしても──一冊の本に纏められてしまう事を思うと何とも言えない気持ちになる。奥付を見てみると1992年十月十八日初版発行とある。佐伯が亡くなって四十五年経ってから発行されたものだ。つまりこの本の編集者も恐らく佐伯善彦という人物を個人的に知っている訳ではない。『昔の人』の情報をただ載せたに過ぎないという事だ。佐伯の人となりや事情を知る訳ではなく、思い入れもない。この本からはこれ以上個人的な情報は知れそうもない。
今まで調べてみて分かったことだが、佐伯善彦には娘がいなかった。それどころか、佐伯という一族は揃って男系のようで、従姉妹や姪といった女性の親族さえ皆無だった。記録を見ると、女の子が産まれても彼女達は揃って短命で皆幼くして亡くなっているようだ。女性といえば母と、兄弟それぞれの妻くらいのものである。息子の秋彦には娘はないのかと思ったのだが、青春時代が太平洋戦争の時期と重なった秋彦は二十一の時陸軍に入隊し、独身で子供も持たないまま1945年、フィリピンのルソン島で戦死している。一人息子しかいなかった佐伯家はここであっさり家系が途絶えているのだ。
はっきり言って行き詰まっていた。果穂子に繋がる糸が見つからない。百年以上前の人物だ。そう簡単に知ることの出来るものではないのかも知れない。同年代の人も当然亡くなっているし、子孫もいない。そうなると、全ての情報は資料頼みだ。

佐伯家に該当する娘がいないとなると、あの人はどうだろう。加藤重清。佐伯商会を継いだ二代目社長。彼なら佐伯邸に頻繁に出入りしていてもおかしくない。年頃の娘もいたかも知れない。日記に書かれていた日付、大正十四年──1925年──辺りの時期に加藤の娘が十代だったとしたら。佐伯家と加藤家が毎年佐伯家の別荘で一緒に休暇を過ごす間柄だったとしたら。佐伯が加藤に会社を譲ったのは彼が六十四歳の時だ。当然後継者として選ばれた加藤は佐伯より年下だと考えて良いだろう。加藤が当時四十代や五十代だとしたら、そのくらいの娘がいてもおかしくない。
──正解かも。
バッグの中を探って大判の本を取り出した。佐伯一族と、佐伯一族と親交のあった人々の写真が収められている写真資料だ。
まず最初の方の頁は佐伯善彦を中心に写された家族写真が何枚か連なる。ステッキまで持った立派な洋装姿の善彦とは対照的に、妻と息子は和服である。夫婦の年の差二十一歳とあって、初老の域に達した善彦に比べて妻の方はずっと若そうだ。派手ではないが、アーチ型の細眉に小作りに整った顔は上品で気品がある。難点は唇の端にある黒子(ほくろ)だろうか。唇からもう少し離れていれば色気があるのだろうけれど、その位置から食べかすのように見えてしまう。袴に“着られている感”がある秋彦はまだ幼児である。写真の下の注記に『1924年撮影』とあった。
家族写真が終わると次は善彦のバストアップ写真だ。先程見ていた資料の表紙になった写真もその中にある。続いて妻の環。そして中学生くらいに成長した学帽を被った秋彦。それを捲るとようやく佐伯商会関連の人物写真が出てきた。そこで六花は手を止めて息を漏らした。
──違った。
果穂子は加藤の娘ではない。二代目社長加藤重清、と記されている注記には続いて『1929年撮影。この年三十一歳となった加藤は若き二代目として佐伯商会を継ぐ。同年に清水斉子(せいこ)と婚姻』とあった。また果穂子に近づけると期待した途端遠のいた。

果穂子は本当に何者なのだろう。これだけ調べてもその影すら掴めない。六花は探ってはいけない領域に踏み込んでしまっているのだろうか。もはや誰かが果穂子を意図的に隠しているのではないかと思う程である。何だか力が抜けて、惰性で頁を捲っていく。
ふと手を止めた。
どこかの家族写真の中に十代半ばの若い娘が写っている。しかもとびきり美しい。濃い眉、はっきりした目元、滑らかな額。微笑んだ唇の弧の描き方まで完璧だ。大正時代特有の大きく膨らんだ奇抜な髪型なのに、そんなものまるで気にならない。今の時代にいてもモデルや女優にでもなれそうな、はっとするほどの美少女だった。そんなに大きく写っている訳でもないのにやけに目を惹く。
『佐伯と深い親交があった高篠準造(たかしのじゅんぞう)とその家族。妻の条子(ながこ)、長男の正一郎(せいいちろう)、長女の昱子(いくこ)と共に。高篠は洋反物の輸入を主に扱う『高篠商会』の社長で、佐伯家とは家族ぐるみの付き合いであった。』
注記にはそうあった。娘は昱子という名らしい。成る程、父親の濃い顔が良い具合に娘に遺伝している。またしても彼女が果穂子でないことに僅かに失望しつつも、『家族ぐるみ』という一文に目が行く。恐らく大机のあった佐伯家の別荘にも遊びに行ける間柄。もしかすると彼女は。彼女こそが──。
考えている途中、不意に視線の端にちらりと動く赤い何かを捉えて、狼狽えた六花は派手に仰け反った。耳栓による世界の遮断効果は絶大だ。慌てて外す。
「おじゃましますって言ったよ」
六花の尋常でない驚き様に目を丸くして、赤いスカートの果音は畳の上にとすんと座った。



「六花ちゃん、これなんて読む? 」
透明なコップにこぽこぽと音を立てながら麦茶を注ぐ六花を上目遣いに見て、果音は頁の一箇所を指さした。果音の知識欲は旺盛だ。知らない知識はどんどん取り込もうとする。
「んー? 」
図書館の休館日に限って、ここは果音専用の児童館と化す。以前六花が「私、本当は子供なんだよね」と言った一言が効いたのか、彼女は六花のことをいつの間にか『六花ちゃん』と呼ぶようになった。
「それは“婚姻”」
「こんいん? 」
「結婚ってこと」
「じゃあ何でけっこんって書かないの」
毎回質問攻めである。適当な言い訳をぐだぐだ述べながら相手をしている。自分はこういう時間が割と好きだったのだと、最近気づいて驚いている。果音は六花が先程まで見ていた写真資料を興味深そうに捲っていた。ふと気になる。
「ねえ、果音ちゃんのおばあちゃんも色んな難しい漢字教えてくれるの? 」
果音は手を止めて顔を上げる。
「おばあちゃん? 」
前に果穂子の『穂』って漢字教えてくれたって言ったでしょ、六花が言い添えると果音はふるふると首を振った。
「果音のおばあちゃんじゃないよ」
「え? 」
聞き返すも、
「果音のおばあちゃんじゃない」
と繰り返す。
「じゃあ、誰」
果音は少し考えて、図書館で会ったおばあちゃん──と答えた。
「前にね、ソファーのとこに漢字ノート置きっ放しのまま忘れちゃったことがあってね、そしたらおばあちゃんが忘れてるよって教えてくれてね、果音の名前見て、『かほこねえさまと一緒の字なのね』って言った。穂って字はその時教わった」
「“かほこねえさま”? 」
思わず乗り出して食い付く。
「机の裏の果穂子と同じ字のかほこ? 」
果音は頷く。
「──ねえ、そのおばあちゃん、机の裏に日記を書いた果穂子のこと、知ってるんじゃない? 」
果音はあっと息を呑む。
果穂子を知る人物が、まだ生きている? 資料本ではなく何かしらの経緯で果穂子のことを知る人物が。仮に果穂子が1925年時点で十五歳だと仮定しても、生きていれば今年で百十五歳だ。その果穂子の事を果音の言う『おばあちゃん』が本当に知っていたとして、彼女は果穂子とどういう間柄なのだろう。実の妹と考えてもかなり高齢だし、そうでないとしたらなぜ『姉様』と呼ぶのだろうか。
「六花ちゃん」
逡巡していると、果音がぽつりと六花を呼んだ。見ていた写真資料を差し出す。
「ここ、なんか入ってると思う」
「入ってるって?」
「ここの隙間になんか挟まってると思う」
果音が示したのは資料の裏表紙だった。見た目ではよく分からないが、触ってみると確かに一箇所が不自然に膨らんでいる。
「ちょっと貸して」
ハードカバーの裏に貼られた薄黄色の見返しの紙は、よく見ると上の部分に隙間が開いていて表紙とくっついていない。隙間を覗くと確かに紙切れのようなものが確認できた。いたずらだろうか。でも、普段この写真資料はあまり閲覧されていないし、貸出不可のため館内でしか見ることが出来ないものだ。そんな本にわざわざ館内でこんな事をするだろうか。
本を傷めないよう細心の注意を払って、ピンセットで紙切れを引き出せないか試みてみた。何回か試した後、ついにピンセットの先で紙切れを挟むことに成功し、そのままゆっくり引き出す。思ったよりしっかりした紙質だった。書き込みのようなものは見えない。固唾を飲んで見守っていた果音はその裏側を覗きこんで声を上げる。
「写真──」
全部を引き出したその紙は確かに古い写真のようだった。裏返したそこには、白黒のぼやけた画質で二人の少女が写っていた。そのうち一人には見覚えがある。モデルの様な美しい顔立ち。はっきりした目元に濃い眉、滑らかな額。
「いくこ」
果音は呟く。そう、資料で見た高篠昱子なのだった。髪型や服装こそ違うけれど、間違いない。資料に載っていた家族写真の彼女よりこちらの方が幾分大人びて見える。
並んで微笑んでいる少女に心当たりはない。けれど不思議な魅力がある娘だった。顔の造形だけ見れば昱子の方が整っているのだが、そういう基準で推し量れない求心力がある。年の頃は昱子と同じくらい。同級生だろうか。下がり気味の眉に華奢な撫で肩と細い首。おっとりとカーブした口元と、笑っているせいなのか殊更強調された涙袋と。そこに長い下睫毛が影を作っている。昱子が意志の強さを感じさせる正統派美人とするならば、この娘は如何にも大正的で、儚げな雰囲気美人といったところだった。
「お揃いのリボンしてるね」
言われて頭を見れば、確かに頭からはみ出す程の大きなリボンは同じ縞柄のようだ。色までは分からないけれど。
誰が、いつ、何の為にこの写真を忍び込ませたのか。全く分からず、何の根拠もないのだけれど。
「──見つけた」
果穂子だ。そうすとんと胸に落ちた。誰かが果穂子を意図的に隠しているのではという六花の妄想はあながち間違っていないのかも知れない。果穂子がこんな形でしか写真を残して貰えないような人物ならば、いくら資料を調べても痕跡を探れないのは当然だ。

「果音ちゃん」
六花と同じく写真に見入っている果音に掠れた声で呼び掛ける。
「その『おばあちゃん』にこの写真、見せてみようか」


口を尖らせた果音は六花を見上げてゆっくりと頷いた。

2025年 盛夏 六花 2

『おばあちゃん』──三石()ゆり婦人は想像していたよりも若々しい、洋服を上品に着こなした女性だった。年齢を訊くのは憚られるが見たところ七十代前半といったところだろう。
六花は三石家の客間のソファに腰掛けて、婦人がアイスティーを運んで来るのをそわそわと落ち着きなく見守っていた。



仕事中、果穂子の顔が頭を(よぎ)る。一人で作業する午後の配架作業中は、うっかりすると自分の世界に入ってしまう。吹き抜けのシャンデリアを見上げる時も、螺旋階段を上る時も写真で見た果穂子の姿が浮かんでしまう。六花は段の途中で立ち止まり、一階の大閲覧室を顧みる。
同じ大きさの、同じ窓枠。
同じプラタナスの樹。
ここと“そこ”が同一の場所である、という事実がいっそう身に迫って六花を動揺させる。
六花より先に生まれた六花より年下の少女。きっとこの絨毯は果穂子が踏みしめたものとは違っているのだろう。それでも、たぶん同じ階段を使って同じ手摺りに触れた。
もしかすると果穂子はここから階下を見下ろして眺めたことがあったかもしれない。六花が見ているのと同じような角度で、同じような景色を。六花は仕事着にエプロンだけれど、果穂子はワンピースやら着物姿だったのだろうか。あの写真のように穏やかな笑顔でいたのだろうか。
写真の少女は果穂子であると、六花は半ば決めつけていた。そうであるという不思議な説得力がその写真にあった。一旦顔を見てしまうと、六花の中でなんとなくぼやけていた果穂子像は急速にフォーカスが合って、実際に存在していた人なのだという実感が濃くなる。そうするととても不思議な心持ちになった。以前から意識していない訳では無かったけれど、今まではどこか六花とは直接関係のない、おとぎ話を聞くような感覚でいた。でも、よく考えればここは昔本当に個人の邸宅として使われていて、あの写真資料で見た佐伯善彦や環や明彦も実際に存在していたのだ。時間が経っただけで、確かにここに居た人たちなのだ。地繋ぎなのだ。
果穂子はどのような人生を送った人なのだろう。佐伯家とはどのような間柄で、晩年はどんな様子だったのだろう。あの儚げな少女もその時にはお婆さんになっていて、子供や孫たちに囲まれて過ごしたのだろうか。

小学校は下校時刻を過ぎたようだった。そろそろ果音が図書館にやって来る頃だろう。図書館で宿題を済ませて、残った時間を本を読んで過ごす。そして閉館後は六花が家まで送っていく。
ここ最近の果音は宿題に取り組む時も館内を歩く時も、やたらときょろきょろしている。読書さえ控えているようだ。少し申し訳なく思う。彼女の落ち着きのなさの原因は六花の頼みごとに起因していた。『果穂子姉様を知るおばあちゃん』を見掛けたら教えて欲しいと、深く考えずにお願いしてしまったのだ。果音も何かに夢中になると一直線なタイプだから、宿題の時まで気もそぞろなのは少し心配になる。写真を見つけてから二週間ほど経つ。果音によると『おばあちゃん』は今のところ姿を見せていないらしいし、今日は自分のことに集中して良いよと言ってみようか。
一階の方でぱたぱたと誰かが駆ける音がした。静かな館内でその音は非常に響く。何事かと怪訝に思って階下を覗くと、ランドセルを背負って走る果音と目が合った。果音は六花目掛けて円い階段をくるくると駆け上がってきたかと思うと六花のエプロンをぎゅっと掴んだ。
「走らない! 」
小声で注意して、人差し指を立てる。果音ははっと気がつき何度か頷いて、しばらく息を整えていた。
「いた」
荒い呼吸と共に、彼女はそう告げる。
「『おばあちゃん』? 」
再び頷く。
「すぐ戻るから、ちょっと待ってて、下さいって、言って走ってきた」



「アイスコーヒーの方が良かったかしら。それとも温かい飲み物が良かった? あなた、お腹は強いほう? 」
大丈夫です、と汗を拭ったハンカチを仕舞いながら居住まいを正す。三石家は白川町記念図書館から小さな通り二つ挟んだだけのごく近所の静かな場所に佇んでいた。古そうな外観だが、どっしりしていて洋風の趣がある。センスの良い調度品。きちんと整えられた室内。窓から見える庭も広くはないが小綺麗に整えられていて、イングリッシュガーデンのような雰囲気だ。普段他人の家に訪ねていくという機会がないので、こういう時どうしたら良いのか分からない。
「いいのいいの、そんなに畏まらなくて」
婦人は明るく言って向かいのソファに腰掛けた。
「あの、びっくりされませんでしたか、突然こんな──」
言ってしまってから唐突に話を切り出したことに後悔したが、婦人は気にする風もなくゆったりと頷く。
「そうね」
そしていたずらっぽい笑みを加える。
「でも嬉しかったの」

二日前。
──存じておりますよ。
早ゆり婦人はそう答えたのだった。
果音に連れられて図書館で婦人と対面した六花はポケットに忍ばせていた例の写真を取り出して、この人をご存知ですか、と尋ねてみた。婦人は驚いたように写真を手に取って、
「ああ、右側のこの人は母ね。懐かしいこと」
骨張った指で高篠昱子を差す。
「お母様、ですか」
この人が高篠昱子の娘。それはそれで驚きだったが、本題はそこではない。
「あの、この隣の人のことは」
「勿論存じておりますよ。この方は──」
婦人はしばらく間を空けて目を細めながら写真に見入っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「果穂子姉様ですよ」
そして、あなた、お休みの日に宜しければ(うち)にいらっしゃらない──と意味ありげに囁いた。

「百年も経てばね」
わずかに微笑みながら早ゆり婦人はアイスティーを差し出す。
「余程丈夫で運のある方でない限り、大抵は死んでいますでしょ」
「はあ」
返答に困って、六花はどうでも良い相槌を打った。
「ですから、別段しんみり語るのはよそうと思うのだけれど。母も含めて当時の方は皆亡くなっているのだし」
婦人はテーブルに積まれたアルバムに手を伸ばす。
「あなたがいらっしゃると思ったら張り切ってしまってね。何か残っているかしらと思ってあちこち探してみたの。わたくし自身も久し振りに見て、ちょっと懐かしかったわ。こちらがあなたがお調べになっている果穂子さんでしょう」
慣れた手つきで重いページのとある箇所を迷わず開く。随分古びたそれは、けれど丁寧に台紙とフィルムとの間に挟み込まれていた。
「同じですね」
思わず溜息が漏れた。
「資料の背表紙に挟み込まれていたものと、同じ」
状態が良いせいか、こちらの写真の果穂子の方が一層笑顔が優しく美しい。持ってきた写真を取り出して隣に並べる。
「時間を」
その四角い空間に吸い寄せられたのを気取ったのか、婦人は六花に話し掛けた。
「──切り取ったみたいでしょう」
婦人の表情は変わらず穏やかだ。
「昔の写真って、モノクロームだし、画質も悪いのだけれどなぜか惹きつけられるものがあるでしょう? 物語性があるというか。今とは写真に対する捉え方が違っていたからなのかしら」
「捉え方、ですか」
「そう。心構えというか、こう、気合いを入れて撮ったのよ。精一杯のお洒落をしたりとかね」
早ゆり婦人は写真をするりと撫ぜた。
「母はよくこうして愛おしそうに触りながら話していたわ。これは二人きりの秘密のパーティーをした日に撮ったものなのよ、って。なんだか思わせぶりよね」
「パーティー? 」
「そう、パーティーって。母が十八の頃と言っていたから、ひとつ年下だった果穂子姉様は十七ね」
果穂子姉様が写っている写真はこれ一枚きりよ、婦人の深い皺が刻まれた、でも美しい指に見惚れながら六花は聞き入る。
「子供の頃はね、果穂子姉様についてそれほど知っていた訳ではないの、わたくしは一度もお会いしたことがなかったし。時々娘時代の思い出話として聞かされる程度でね。母が果穂子さんのことをよく話すようになったのは、そうね──痴呆を発症し始めた辺りからかしら」
痴呆。あの輝くような笑顔の美少女が歳を取り、痴呆になる。人は皆平等に歳を重ねて死んでゆくと知っているのに、なぜだか俄かには受け入れられなかった。昱子は三十年程前、九十一歳で亡くなったのだという。
「随分長生きしたでしょう。これは米寿のお祝いの時のよ」
別のアルバム帳を開いて見せてくれたその写真には、早ゆり婦人を含む何人かの人達──恐らく子や孫達──に囲まれて真ん中の椅子で微笑む老婆がいた。当然ながらカラー写真で、柔らかそうな白髪に目がいく。明るい色のカーディガンもよく似合っていた。
「子供の頃から、母が美人なのが自慢でね。子の欲目かも知れないけれど、歳を取っても母はずっと綺麗だったと思っているの」
「私も、そう思います」
確かにその顔は皺深く、少女のままの美貌を保っている訳では無い。けれど、完璧な弧を描いた唇は変わらず彼女の魅力を引き立てていた。果穂子とはその後どうなったのだろう。
「母と果穂子姉様は御相手だったのよ」
「おあいて?」
「要するに家柄の釣り合う親公認の同性の遊び相手ね。元々は華族の方々のしきたりだったらしいけれど。昔は学校にいくら気の合うお友達がいたからといっても、家柄によってはその娘さんを必ずしもお家に呼んで遊べるわけではなかったようなのね。佐伯家と高篠家はお互いの家柄が釣り合っていたから。初めて会ったのは母が七つの頃だったらしいわ」
母と果穂子姉様は元々そういう関係だったの──婦人の説明を六花は不思議な気持ちで聞いていた。家柄が釣り合う者同士のお付き合い。佐伯家と深い親交があった高篠家。
「──ということは、果穂子さんはやっぱり佐伯家の娘さんということなんですよね」
「ええ。佐伯果穂子さんとおっしゃるもの」
それならば、どうして果穂子は佐伯家の娘としてどこの資料にも出ていないのだろう。どの本を調べても佐伯家に子供は一人、息子の秋彦だけとしかなかった。見落としたとは思えない。
その不可解さに婦人に目を遣るも、それに気づいたはずの彼女ははぐらかすように、あら、お喋りが楽しくて喉が渇いてしまったわ──とアイスティーに手を伸ばす。六花も彼女に倣って冷えたグラスを手に取った。不自然な沈黙が流れる。六花はストローでグラスを掻き混ぜる。カラカラと、涼しげな氷の音だけが辺りに響いた。
「──果穂子姉様のことは、どうして? 」
どうして彼女の事をお調べになっているの──沈黙を破って、婦人がそっと尋ねた。
「日記を見つけたんです」
「日記? 」
顔を顰めて聞き返される。
「本当に偶然で。偶然、閲覧用大机の裏にびっしり日記が書いてあるのを見つけて。びっくりしたんです、あんなところに日記があるなんて。そうじゃなければ果穂子という人の事なんか知らなかった──早ゆりさんはご存知でしたか、日記のこと」
「いいえ。初めて知ったわ。──そう、日記が」
そう──と繰り返して、どんなことが書いてあったのかしらと尋ねる。
「それが、まだあまり詳しくは読み込めていなくて。言葉遣いも難しかったですし、 何よりあそこは常に人がいてじっくり見る機会があまりないんです」
「そうなの。残念」
婦人は溜息混じりに相槌を打つ。
「それでも、昔のものだというのと、果穂子さんという人が書いたものだという事は目星がついたので、それからずっと佐伯家の資料を調べていました」
「そう」
調べても見つからなかったでしょう──婦人がさらりと言う。
「だからこそこうして此処に、わたくしの家にいらしている訳だものね」
あそこの資料を調べても無駄よ、いかにもきっぱりとした調子で婦人がそう口にするので、思わず唾を飲み込んだ。
「あの」
それは、早ゆりさんがその詳しい事情を知っているという事でしょうか──六花は無意識のうちにソファーから身を乗り出す。
「いえ、知っていらっしゃるんですよね。それを話して下さるつもりで、だから私を誘われたんですよね」
婦人は六花を正面から見て、確と頷いた。
「ええ、そうね。そのつもりよ」
穏やかな口調とは裏腹に、婦人の笑顔が硬くなる。そしてそのまま二つ並んだ白黒の写真に目を移して、
「その写真。資料本に忍ばせたのは、恐らく母でしょうね」
そう言った。
「昱子さん? 」
「母は果穂子姉様を居ない事にしたくなかったのね、きっと」
お母様の願いは叶ったのかも知れないわ──婦人は六花が持ってきた方の写真を手に取り六花に返す。


「果穂子姉様はね、十九歳で亡くなられたの」
息を呑む。顔色一つ変えずに婦人は続ける。



「その後、佐伯家の奥様が佐伯家の歴史から果穂子姉様の存在を消したのよ」

一九二五年 五月二日 果穂子

《突如夕暮(ゆふぐれ)の風がハタハタと強まつて昱子姉様の長い御髪を煽つたので其れが姉様のお顔に被さつて、お口以外の殆どを(おほ)つた。
其の時お笑ひになつた昱子姉様の金魚みたゐに紅ひくちびるの色だけ、やけに憶えてゐる──》



近くの尋常小学校から聞こえてくる子供達の声が近頃殊に賑やかになってきた。
新年度を迎えて一月が経ち、新しく入学して来たちいさい子達も学校生活にだいぶん慣れて来たのだろう。慣らしの期間もそろそろ終わって、学習も本格的に始まったようだった。
子供達の声は心地好い。純粋で生命力に溢れていて愛らしい。
秋彦も、それは愛らしかった。幼い子は幼い程、純粋な命のかたまりだ。只ひたすら、生きることだけ。大きな声で泣いたり笑ったり拒んだり。求めて求めて、自分に必要なことをその場でそのまま要求してくる。そして誰をも疑わない。見るもの触れるもの聞くもの、全部を吸収しようとするのだ。強く握ったら皮が破けてしまうのではないかと思うほど柔らかくて瑞々しい手であらゆるものを触り、隙あらば口に入れようとさえする。その行動に乳母達は手を焼いていたけれど。
秋彦は果穂子の義弟(おとうと)だったけれど、環様はそうは見なしておられないようだった。だからあまり表立っては秋彦と接触することは出来ず、それが心残りだと時折思う。
お邸を出た日、秋彦は数えで三つの年だった。あれから一年経っているのでもう四つになっているはずだ。話せる言葉もさぞかし増えたことだろう。やがてここに通う子達のように秋彦も一年生になって、元気に校庭を駆け回ったり、大きな声でお返事をしたり、歌ったりすることだろう。
唱歌の授業なのか、風に乗ってオルガンの音色と共に子供達の合唱が聴こえてくる。澄んだソプラノの声音から察するに、高学年の子供達が歌っているようだった。小さい子達が『かたつむり』や『牛若丸』を思い思いに歌う声も微笑ましいが、音程がしっかりとしてぶれなくなり、歌い方がなってきた綺麗な声は、聴いていて心が洗われるようだ。果穂子の知らない、穏やかな旋律に乗せて流れるように歌詞が紡がれる。何と歌っているのか聴き取ろうとするけれど、室内では僅かに声が篭って分からない。学校は道を挟んでほぼ隣という至近距離だから、庭に出たら聴き取れるかも知れない。そう思い付いて縁側に出、置いてある履物を引っ掛けようとすると、そこで奥からテイの声が飛んできた。
「お嬢様、じきお昼ですからお池をご覧になるのはその後になさいませ」
「いいえ、そうじゃなくて」
果穂子がそう云っている内に間が悪く唱歌は終わり、歌声は途絶えていた。
なんとなく名残惜しく、テイに内緒でこっそり庭に出て沙羅の木に寄りかかる。珍しく早く咲いたその花弁のぬめやかな裏側の感触を味わってからそっと戻った。今日は土曜。学校は午後半休である。昱子も此処へ早くに来てくれるに違いないが、果穂子は今日こそ彼女に伝えねばならないと思っていることがあった。仕方のないことだが、心苦しい。彼女は納得してくれるだろうか。


「毎日ここに閉じ籠ってばかりなんて退屈ではなくて? 」
午後一番、玄関の引き戸を開けるなり挨拶もそこそこに勢いよく昱子は云った。そうしてつかつか進んで息をつく間もなく家に上がる。けれども忘れずにきちんと履き物を揃えるところなぞは、いかにも育ちの良いお嬢様らしい。
「昱子姉様は、そんなに毎日いらしって大丈夫なの」
果穂子の言葉に、昱子は振り向く。眼をまるく見開いて、それからひとつ瞬きをした。
「大丈夫って? なにが」
「だから、そうね……。わたくしは昱子姉様が来て下さればそれだけ嬉しいわ。でも、進学なさったばかりなのに。新しいお友達も出来るでしょう? わたくしに構ってばかりでは昱子姉様の世界が狭まってしまうのではなくて」
昱子はなんだという風に息を漏らして立ち上がった。
「大丈夫に決まっているわ」
「それと、」
「なあに」
「知っているの。わたくしにあまり関わらないように高篠のおじさまに云われているんでしょう」
昱子の評判に傷が付かないように、それは高篠家なりの娘に対する配慮だろう。決して果穂子が憎くてそう云っている訳ではない。分かっていた。だから果穂子は大人にならなければならない。
けれどそれを聞いて昱子はけらけら笑いだした。
「そんなの! 」
笑いながら昱子は勝ち気に云い捨てる。
「云わせておけば宜しいの。素直に全部その通りにしていてご覧なさい、終いにはなにも出来なくなってしまうわ!」
何が正しいかなんて、結局は誰にもわからないものよ、昱子は饒舌に続ける。
「お父様の考えている事だって、結局は見た目よ。世間体よ。わたくしを守るようでいて、わたくしから代わりの利かない大切なお友達を失わせようとするの」
あなたが逆の立場だったら大人しく従うの、と昱子が問うので果穂子は慌ててかぶりを振った。
「でしょう? 」
昱子は得意気ににやりとする。敵わない、と思った。これほど美しく、聡明で、しかも自分を確り貫く強さを持った新しい時代の女性。
「それでね、」
けれど次の瞬間昱子の表情は途端に幼くなった。
「今からわたくしと街へ出ない? 今日はそのつもりで来たの」
「え? 」
「二人でお買い物するのよ。果穂子さんに似合うリボンを見繕ってあげる」
今度は果穂子の方が眼を丸くする。
「今から? 」
「そうよ」
「だって、お金は」
「大丈夫よ。お父様に、新学期だし、お友達と女の子同士だけのパーティをやるから、贈り物を買いたいと云ったの」
澄まして昱子は答えるので果穂子は呆気に取られる。
「嘘吐いたの? 」
「あら、嘘だと思われる? 」
昱子はくすくす笑いながら飛び付いてきて、その勢いのまま果穂子を玄関へ押し出した。
「嘘ではなくてよ! 」
表へ出ると早く、と急かして昱子は走り出した。
「今日はパーティのような一日にするのよ! 」
パーティ。鈴を転がすような昱子の声で発せられるその言葉は、本邸にいた時嫌という程聞き慣れていたのに、それとは全く別物のように果穂子の耳に魅惑的に響いた。
騒ぎを聞いて慌ててテイが飛び出してくる。
「あら、まあ、一体どうなさったというのです、何処へ行きなさるのですか」
「ちょっと街まで。果穂子さんとお買い物をして来るわ」
数寄屋(すきや)門のところで少し足を止めて無邪気に昱子は叫び、テイを慌てさせる。
「何を仰られるのです、旦那様に叱られてしまいます。お戻りなさいませ! 」
「大丈夫よ!大丈夫。日が暮れる頃には戻って来るんですもの」
「昱子お嬢様! 」
「行って参ります! 」
昱子は花のような笑顔をテイに向けてから、走りましょ、と悪戯っぽく囁いて果穂子の手を強く引いた。後ろに慌てふためくテイが遠のいて、前方では昱子のワンピースの白い襟が風にひらめく。帽子のつばから覗くそのうなじが儚げで、外の溢れる緑が目に眩しくて、果穂子はなぜだか胸が一杯になる。目に見えるもの総てが永遠に続くものみたいにスロウ・モーションに映った。不良少女になってしまったわね、と昱子が可笑しそうに笑う。果穂子も一緒になって笑って、笑って、二人できゃあきゃあ騒いだ。
「パーティなのだもの、いろんなお店を見て回りましょ、それからミルクホールに入って、あと、記念写真も撮らなくっちゃ── 」
はしゃいだ声で互いに途切れることなく話し続けて、間もなく少しひらけた場所に出た。多くの人が行き交い、音で溢れている。果穂子は呆気に取られる。勿論、賑やかな場所へ行くのは初めてでは無かったし、父に何度か百貨店に連れて行ってもらったこともある。けれど、自分の足ひとつで保護者もなしに街に出るのはこれが初めてだった。思わずきょろきょろと辺りを見回していると、ねえ、と昱子が果穂子の肩に触れる。あれ見て、と彼女が指差したのは市電だった。四角いフォルムが美しい。
「市電ってお乗りになった事ある? 」
「ないわ」
移動はいつも運転手付きの車だった。それ以外で外に出してもらったことはない。かあさまと暮らしたちいさい頃は徒歩だったが、精々家の周りの商店や銭湯、神社へ出向くくらいだったように思う。昱子姉様はあるの、と問うと、彼女も首を横振りした。
「実はわたくしも無いの。あれに乗って、一番開けたところに行ってみないこと? 」
「上手く乗れるかしら」
「だからわくわくするのよ」
昱子の果敢な性格は果穂子には無いもので、いつも新鮮な思いがする。彼女は果穂子を新しい世界へと導き、新しい考え方を教えてくれる。

果穂子たちが市電を降りると、他の多くの乗客もその停留所でぞろぞろ降りてきた。この辺りがいちばん栄えているからでしょう、と昱子は云う。
「駅もあるから余計そうなのね。──さあ、」
リボンよ、と果穂子の手を引きズラリと商店の建ち並ぶ方に向かって歩き出した。
「あなた、一本もリボンをお持ちになっていらっしゃらないでしょう」
「そうだけれど──」
佐伯家では、リボンは許可されていなかった。あれは派手で下品に見えると云う父の考えによるものだ。密かに果穂子は憧れていたのだけれど。
「──でも、わたくしに似合うかしら」
少し不安になって昱子にくっ付いて問いかける。昱子はにっこりと顔を向けた。
屹度(きっと)似合うわ。以前からずっとそう思っていたの」
果穂子さんはお顔つきが(たお)やかだから(とて)も華やかになるわ、と悪戯っぽく果穂子の腕にしがみつく。
「ほんとう? 」
「ほんとうよ」

昱子が足を止めたのは、大きな円い時計の嵌め込まれた白いビルヂングの前だった。
中は、別世界だった。広い空間がいくつかの分類に仕切られ、呉服関係の品の他に最新型の洒落た時計や洋傘、ハンカチーフなど モダンな品物が揃っており思わず目移りしてしまう。あちこちをくるくると眺めていると、来て、と昱子が手招きする。行ってみるとその光景に息を呑んだ。
何処(どこ)彼処(かしこ)も リボン、リボン、リボン……。
ガラスのショウ・ウィンドウに並べられた目の醒めるような赤や青、矢絣柄、花柄、格子柄。縮緬(ちりめん)や艶々した滑らかな素材のもの、しっかりした印象の綾織り──。
夢みたい、と思わず呟く。そうでしょう、パーティだものと昱子。
「如何なさいましょうか」
店の若い女性が上品に微笑んだ。
「何かお勧めはあるのかしら」
昱子は物怖じすることなく慣れた様子で女性に尋ねる。
「やっぱりいちばん人気のあるのは無地のもので御座いましょうか、あんまり奇抜なものは合わせるのも難しくなりますでしょう? 無地のものは何と云っても赤いのが人気ですし、柄物でしたらこちらとこちらと……」
女性は滑らかに説明しながら五種類ほどをガラス・ケエスの中から取り出した。果穂子はただ事の成り行きを見守って、出されたリボンの柄を示されるまま見つめる。
「果穂子さんは()れか気に入ったものがあって」
「えっ」
言われて我に返る。ふふ、と昱子は笑った。
「あなたのリボンよ」
「みんな素敵で、見惚れてしまって……。自分では分からないから、わたくしに似合うのを選んでいただけない? 」
「そういえばわたくし、最初にそのように云ったわね」
良いわ、と昱子は張り切った風にズラリと並んだリボンを眺めた。
「少し、試してみても宜しいかしら」
「もちろんどうぞ。鏡も御用意してございますので」
果穂子に手鏡を持たせて、昱子は次々とリボンを変えては吟味していく。
ああでもない、こうでもないと云いながら最終的に彼女が手に取ったのは、張りと光沢のある絹の幅広リボンだった。赤を基調にした縞柄。黄や藍が良いアクセントになっている。
「縞がいいわ。華やかなのに凛としていて果穂子さんみたい。素敵」
どう、と果穂子に訊いてくる。
「素敵──」
綺麗な柄の憧れのリボン。これを掛けた果穂子はどのように見えるだろう。昱子のようにモダンな様子になれるだろうか。
「ではそれにして頂戴。二つ頂くわ」
わたくしとのお揃いにしましょう、と何故かこっそり昱子は果穂子に耳打ちした。

明るい青い空の(もと)、爽やかなそよ風が心地好い。空の色さへ陽気です、時は楽しい五月です──ポオル・フォルの詩が頭の中で駆け巡る。賑やかな街の喧騒の中、果穂子の前を颯爽と昱子が歩く。ピンと伸びた背筋のラインが凛として、その背中で豊かな長い髪が緩く波打って揺れる。頭のてっぺんには先程お揃いで買った縞のリボン。
リボンを買って直ぐに、二人で髪に掛けてみることにした。昱子は被っていたクロッシェ帽を脱いで、お下げ髪を解く。途端に髪がふわりと拡がった。外国人とも日本人ともつかないエキゾチックなウェーブが美しい。果穂子はその横髪だけまたお下げに編み直して頭の後ろに纏め、仕上げにリボンを掛けてあげた。
一方果穂子の髪はひさし髪に固めてあったので、店の女性に頼んで結んだリボンに櫛をおまけで軽く縫い付けてもらった。髪に挿すとまるで掛けてあるように見える。
先を歩く昱子が自信に満ちた笑みで振り向いた。
「あなた、そのリボンが本当にお似合いね。わたくしの思った通り」
「ありがとう。ずっと大切にします」
リボンひとつで世界が全然違って見えるのは如何したことだろう。如何してこんなに浮き足立つのだろう。
「写真、出来上がるのが楽しみね」
果穂子は微笑んで応える。リボンを買った同じビルヂング内の三階にあった写真館で、二人の記念写真を撮った。頭の上の昱子とお揃いのリボンのことを思って微かに笑った時、シャッターが押された。

市電から降りても、まだ日が暮れるには早かった。二人で別荘近くの丘の上まで行ってみる。青々した柔らかそうな草が一面に生えていた。風はそよ風から夕暮れの強めの風に変わってきており、二人の髪やら袖やらを大きく煽る。一休みしようと草の上に腰掛けると、先程まであちこち歩き回っていた街がいっぺんに見渡せた。市電が子供の玩具みたいにことこと移動している。
「ねえ」
昱子は()さい少女のように屈託無く話し掛ける。
「あなた、知っていらっしゃる?」
「存じません」
果穂子が済まして応じると彼女は頬を膨らませる。
「まだ何も云っていないのに」
じゃあ教えて、と目を上げると昱子は得意げな顔になってこう切り出した。
「その昔、この辺り一帯はただの荒れ野だったのですって。たくさん木が生い茂っていて、雉やら狸やらが住んでいたのですって」
「そうなの? 」
果穂子はあらためて眼下の街を見下ろした。今の繁栄した街並みからはとても想像がつかない。
「昔の人だって、きっとわたくし達とそう変わらないわ。おんなじお日さまの光を浴びて、おんなじ月の光を見て、おんなじ地面の上で暮らして。だけど街は様変わりして人だけがくるくると入れ替わるのね。それが不思議なことに思えてくるの」
昱子は街から目を逸らさずにそんなことを云う。濃くて長い睫毛が細い針金みたいに一直線に伸びている。
「そう考えるとこうして果穂子さんと過ごしている毎日が、とても貴重なものに思えてくるの」
夕方の風に煽られて、普段勝ち気な昱子が不意に夢幻的に見えてくる。
「何か──あったの」
「縁談がね、来たの」
唐突な告白に果穂子の心臓が鳴る。昱子のような美人なら当然あっておかしくない話だ。何故今迄思い至らなかったのだろう。
「──お嫁に行かれるの? 」
合点がいった。急に果穂子を街へ誘ったり、リボンをお揃いにしたり、記念写真を撮ったり。今日のパーティは最後の思い出作りだったのだろうか。声が掠れる。
「お相手はどんな方? 優しそうな方? 」
「知らないわ。(ろく)に聞きもしなかったから」
「え? 」
結局ね、直ぐに断ったの、かなり強引に蹴ってしまったわ、と漸く街から目を離して此方に顔を向けた。果穂子は深い安堵とともに胸を撫で下ろす。
「ごめんなさい。不謹慎なのだけれど、ほっとしてしまったわ」
「いいの」
そう云って笑う昱子は、やはり誰もが見惚れてしまうほど眩しく麗しい。
「結婚はしたくない。このままがいいわ。どこかのお家に縛られるなんて嫌。果穂子さんに会えなくなるのはもっと嫌…… 」
呪文のようにうっそりと呟き、昱子は目を閉じる。
「神は総てのものをその時に適い美しく造られり。永遠を想う心をさえ人に与え給う。されど決して人はすべてを知り尽くし得ず── 」
出し抜けに昱子は詩か何かの暗唱を始め、あなたご存じ、と果穂子に振った。
「いいえ」
そう、と昱子は微笑み、あのね、と続ける。
「ずっとこのままが続けばいいって気持ち、神様がお与えになったのよ。だから永遠を願うことは我儘なんかではないの。歳を取りたくないって云う気持ちもよ」
昱子は立ち上がって二歩三歩と歩く。日が傾き始め、更に風が出てくる。
「終わりがないって、どういうものか想像出来る? 」
昱子は風で乱れる髪を押さえてあどけなく振り向いた。
「いいえ」
果穂子はかぶりを振る。
「じゃあ始まりがないっていうのは? 」
正直、果穂子はどちらの問いにも興味はなかった。ただ、美しい、と只管思っていた。この景色も、昱子も、今この瞬間も。
──このまま時が止まったら良いのだわ。


あの日の夕暮れ、笑った昱子のくちびるの色だけ、やけに憶えている。

2025年 盛夏 六花 3

「全部母(づて)に聞いた話よ」
最初に早ゆり婦人はそう断りを入れた。

「だからどこまでが正確なのか私には判断しかねるけれど。他の方に聞いて確かめようにも、事情を知っている人間はごく限られていて、それが誰なのかはわたくしには知りようがなかったもの」
涼しげな水音をたてながら、婦人は二つのグラスにゆっくりとアイスティーを継ぎ足す。
「でも、母の語る果穂子姉様の話は何度聞いても齟齬(そご)がなかった。痴呆になってからでさえもね。それで、わたくしは母のためにもこれが真実なのだと思うことにしたの」
座り直した六花は、返された写真をぼんやりと見つめた。
晩年の老婆になった果穂子のイメージは一瞬にして崩れ去った。婦人によると、果穂子は十九歳で亡くなった。この元気そうな写真のたった二年後だ。
しかも、その後果穂子に関する記録はすっかり払拭されてしまったのだという。
──佐伯環によって。
佐伯家当主、佐伯善彦の妻。あのつるりとした顔立ちと口許の黒子(ほくろ)を思い出す。
──佐伯家の奥様が果穂子姉様の存在を消したのよ。
予想外の言葉に、六花はどう応じて良いのか分からずにいた。果穂子が佐伯家の娘なら、環は果穂子の母親だ。家族の記録から娘の存在を消す母親などいるだろうか。そうせざるを得ない何か深い事情があったのか、二人の折り合いが悪かったのか。もし折り合いが悪かったのなら果穂子の死にも彼女が一枚噛んでいたのではと不穏な想像が広がっていく。
けれどそんな事を訊くのも失礼なように思えて、かといって何をどう質問して良いのか分からず、写真を手にしたまま六花は黙り込んでしまった。
「果穂子姉様がお亡くなりになったのはね、」
六花に合わせて、早ゆり婦人は少し間を空けて言葉を継いだ。
「結核が原因だったそうよ」
ごめんなさいね、いきなり結論だけ話してしまったから吃驚(びっくり)なさったでしょう、彼女は六花に詫びた。
「いいえ。私が話し下手なんです」
結核ですか、と答えながら先程の推測を口に出さなくて良かったと六花はこっそり胸を撫で下ろす。
「随分若くに病死されたんですね」
結核というと六花には咳や喀血を伴う昔の病気という乏しいイメージしかない。昔は随分流行したものよ──婦人は思い出すようにそう言った。
「あの頃はみんなTB(テーベー)って呼んでいたけれど。結核の怖いところは感染してもすぐには発症しないで、それに長らく気づかないところなの。何年も経って忘れた頃に発症するのよ。果穂子姉様の場合だって、いつ菌が潜伏したか分からない。彼女のお母様も結核で亡くなっていたそうだから、子供の頃すでに感染していたのかも知れないし、お邸で風邪をこじらせたときかも知れない。はっきりした事は分からないの」
「え?」
──今何て言った?
思わず早ゆり婦人の顔をまともに見る。
「お母様が亡くなったって──じゃあ、果穂子さんと佐伯環さんは実の親子じゃなかったんですか」
「そこなのね」
六花を見返して婦人は頷いた。
「まあ、よくある話なのよ。少なくとも当時の資産家の間では珍しい事でもなかったの」
動機はきっと単純ではなかったのだわ──婦人は独り言のように嘯いてから、
「あなた佐伯一族の家系図もお調べになったのでしょう? 妙だと思った箇所は無かったかしら」
と六花に振った。
「妙なところ、ですか」
黄ばんだ紙に印刷された滲んだ文字を思い出す。どうだろう。正直『果穂子』という文字を探す事だけに注意が行っていて、それ以外のことはあまり慎重に見ていなかった。
「ああいうのは普通、夫──当主の記載の隣に妻の名前があるでしょう。子供はその二人を繋ぐ線から真っ直ぐ下に伸びた縦線の先に名前が記される。もしくは男、女、そうでなければ子と書かれているはずよ。そうして下へ行くごとにどんどん子孫が枝分かれしていく。でも中には夫の名のすぐ下から直接縦線が伸びて、子の存在が示されている図もあったと思うの。どうかしら」
「そういえば──」
確か善彦の兄弟の子の何人かがそのような記載になっていたのを思い出す。妻がいるのに、まるで無性生殖でもあるかのように妻を介せず夫の下に出現する子の名。古い資料なので、印刷上のミスなのかも知れないとさして気に留めていなかった。
「そういう子供はね」
婦人は相変わらず穏やかに続ける。
「お妾さんの子」
「お妾さん、ですか」
とりあえずの相槌を打つがどうにもピンと来ない。いくら繰り返し考えてみてもよその世界の創作ごとのように感じられてそこから先へ想像が進まないのだった。
「果穂子姉様もそれよ。お妾さんの子なの。だから果穂子姉様と環様は血が繋がってないの。尤も果穂子姉様はそういう形の記載さえされなかったのだけれど」
「そうでしたか──」
納得した。そうすると、おそらく環からすれば家系図に果穂子が記されない方が自然という言い分だったのだろう。元々妾は家系図に記録されないという前例もあったのだ。果穂子は彼女にとって妾同然の存在だったのかも知れない。
「本当のお母様は元々佐伯家で働いていた女中さんだったと聞いているわ。果穂子姉様を見て分かるように、とてもお綺麗な方だったようね。お妾さんになったのが先か、果穂子姉様を妊娠したのが先か分からないけれど、とにかくお邸を出て小さな家を与えられて、そこに住むようになった。果穂子姉様が産まれて、しばらくは母娘二人で暮らしていたようだけれど、お母様は果穂子姉様が六つの頃亡くなってしまわれたらしいわ。それで佐伯家の当主が果穂子姉様を引き取ったの」
しかも正式な佐伯家の跡取りにするつもりで引き取ったらしいのね──婦人は続ける。
「──その年齢だと、なんとなくの事情は分かっても、全てを理解するのは難しかったでしょうね」
「そうね」
婦人は何事か思い出すように目を細めた。
「母もそれをいつも気の毒がっていたの。けれど結局最後まで果穂子姉様の泣き言も涙も見ることはなかったのですって。母は自分が不甲斐なかったと悔やんでいたわ」
それは昱子が果穂子にとって心を許せる存在になれなかった、という意味だろうか。この写真を見る限りでは二人はすっかりお互いを信頼し合っているように見えるけれど。
「環様にしてみれば自分を苦しめた女性の子で、しかも面影がそっくりな果穂子姉様の事をどうしても継子として愛せなかったのかも知れないわね。お妾さんを持つ資産家は珍しくない時代だったとはいえ、だからと言って正妻が傷付かないかといえばそうではないものね」
六花は思いを馳せる。あそこが記念図書館になるずっと前、 あの美しい邸に住んでいた人々は、そんな複雑な事情を抱えながら暮らしていたのだ。優雅な暮らしをして、上等な服を着て、他人から見れば何不自由ない資産家の奥様、お嬢様と見られてはいたものの、きっとどちらも窮屈な思いをしたに違いない。
「環様には焦りもお有りだったのが彼女を追い詰めた理由の一つかも知れないわ。早くから佐伯の家に嫁入りしたのに一向に子供が出来なくてね。夫の心は自分になく、お気に入りの妾そっくりの娘、果穂子にばかり目を掛ける。子供だったとはいえ、果穂子姉様に複雑な気持ちを募らせたのかも知れないわ」
「──そういえば、調べた資料にも佐伯家は長年子供に恵まれなかったとありました。確か環さんに男の子が生まれたのは当主が五十代のとき──でしたか」
佐伯秋彦。果穂子は彼の義姉だったのか。
「そう。それが転機だったのね」
「転機? 」
婦人はええ、と頷く。
「環様は夫を上手く言いくるめたのか弱いところを突いたのか知らないけれど、その男の子が二歳になった頃、果穂子姉様を別荘に追いやることに成功したの。ほら、正妻から長男が生まれて果穂子姉様に必ずしも跡継ぎをさせる必要も無くなってしまったものだから。 別荘へ移す表向きの理由は『結核に感染したため隔離と療養に専念』というふうにしてね。十六歳の時のことよ」
──別荘。
「住んでいたんですか、別荘に」
「そうらしいわ」
繋がった。書かれた果穂子の日記はその頃のものだ。
「どうして佐伯家の当主が環様の言いなりになってしまったのかは分からない。でも、事実として、結局実の父も果穂子姉様ではなく環様とその息子の秋彦さんを取ったのよ」
皮肉な事に、果穂子はその後本当に結核で亡くなってしまったから、環の目論見は事実になってしまったらしい。そしてその後彼女は果穂子の痕跡をすっかり除いてしまった。持ち物も写真も、何から何まで、全て。歴史資料に果穂子の存在がきれいに無かった事になっているのはそういう事情なのだと早ゆり婦人は結んだ。
果穂子は亡くなるまでの三年間、世話役の女中とその別荘で二人暮らしをしていたそうだ。その時点で、果穂子は跡継ぎの立場を失い、通っていた女学校も退学して実質ただの妾の子同然の立ち位置になってしまったらしい。当然昱子との御相手は解消されたけれど、彼女はそんな果穂子の元に周囲の反対を押しきって来る日も来る日も通ったそうだ。
果穂子さんは金魚のようねと早ゆり婦人は言う。
「金魚? 」
「華やかに美しく生きて、美しいところだけ見せて。そして儚く去ったわ」
美人薄命とでも言うのかしらねと肩を竦める。
果穂子は少女のまま死んだ。
けれども昱子はそのずっとずっと先まで生きて、様々な幸や不幸を経験し、時代の波に揉まれ、歳を重ねた。晩年は痴呆になり、それでも果穂子を忘れなかった。
果穂子が金魚なら、昱子はたぶん、花。美しく咲いて、のちに萎れて枯れるところまでが人生。
真相は説明してもらえばなる程あり得ない話ではなかった。その時代を知っている人なら察しがつくようなことだろう。
偶然出生に恵まれなかった悲劇の令嬢。果穂子の背景は知ることが出来た。けれど、どうにもすっきりしない思いが靴裏に引っ付いたガムのようにまだ六花に纏わりついていた。
これで果穂子の正体は全て知れた、ということになるのだろうか。本当に? むしろここからが入り口なのではないだろうか。知れば知るほど却って謎が深まるような感覚に六花は戸惑っていた。
──果穂子は本当に何者なのだろう。
最初に抱いた疑問は今もそのまま疑問で、彼女の背景を知れたからといって解決出来た訳でもない。おそらく佐伯果穂子という娘の事情はもっと込み入っていてもっと執念深い。良くも悪くも。
「その『日記』を、果穂子姉様の痕跡を見附けてくれたのがあなたで良かったって、しみじみ思うわ」
六花が自分の考え事に没頭していると、ふっと早ゆり婦人が柔らかな声を投げかけた。
「わたくし、なんとなくなのだけれど果穂子姉様を一番に理解できるのはあなたなんじゃないかって、そんな風に思うのよ」
「私が、ですか? 」
きょとんとする六花に彼女はそう、と続ける。
「大親友の母でさえ、果穂子さんの心の深いところは理解出来ていなかったように思うと言っていたわ。でもね、あなたと今日話してみて、わたくしの中で母から色々聞いていた果穂子さん像とあなたが重なるの」
「はあ」
何の心当たりもない。早ゆり婦人はなぜそんなふうに思うのだろう。果穂子と自分に共通点があるなど、少なくとも今の時点で六花には思いもよらないのだけれど。


✳︎



「あなたが少し羨ましいのよ」
帰り際、早ゆり婦人はぽつりと口を開いた。
「あの場所で毎日働くことができるなんて。あんな素敵なお邸が職場だなんて」
思わず目を丸くする六花に、「これも母の受け売りなのだけれど」と早ゆり婦人はチャーミングな笑みを浮かべて二人しかいない玄関先で何故か囁き声になった。
「どうしてあの図書館がいつまでも魅力的なのか、教えて差し上げるわね」
「え? 」
「『もともとあのお邸に住んでいた美しい娘さんが、美しい仕掛けを(こしら)えたからなのよ。それが今の今まで機能しているの』」
目尻と鼻に皺を寄せた笑い顔の早ゆり婦人は六花の目を見つめる。
「あなたはきっとそれも見附けてしまうわね」
一瞬、いっそうこちらに顔を近づけた婦人と若い頃の昱子が重なり、その妖艶さに六花は息を呑む。
──美しい仕掛け。
私も、六花は上擦った声で返した。
「あそこにはまだ何かあるように思うんです。果穂子さんは、ただ境遇に流されて亡くなった可哀想なだけの人じゃないような気がするんです」
ほとんど未読状態の机の裏のあの日記もきちんと読んでみようと思う。少しずつでも。
「多分日記に昱子さんの事はたくさん書いてあると思います。姉様、かあさま、という文字が目立っていましたから」
自分だけで理解しきれない部分は早ゆりさんに助けていただけるでしょうか、とお願いしたら、快諾した彼女は可笑しそうに「まあ、まあ」と笑った。
「あなたは本当に、果穂子姉様と同じ時代に生まれて来たら宜しかったわね」
それから付け加えた。


「そうね。何かがあるはずね。あなたがそう仰るのだから、そうなのでしょう」

一九二五年 八月二十一日 果穂子

《かあさまはご覧と云ひ乍らわたくしの眼の前にその金魚を差し出して下さつたけれど、幼かつたわたくしはもう(こは)くて夢中でイヤイヤと首を振るばかりなのだつた。そんな様子(やうす)をご覧になつて、かあさまはおかしさふにお笑ひになつて居られた──》

つるつると流れる水の音が耳に心地好かった。

湯船で聞く音と似ている。ほんの幼い頃かあさまと通った銭湯のことを思い出す。
お湯から上がったばかりのかあさまの上気したお顔は、まるで金魚の『さくら』のようで、いっそう少女めいて見えて、お化粧を施されたときよりずっとお美しい。そんな内容を幼い語彙でかあさまにお伝えしたことがあったけれど、かあさまは可笑しなお話でも聞いたように屈託無くお笑いになっただけだった。
帰りの道中歩くときは必ずふっくりと白い手指で果穂子の手を包んで下さって、もう片方の手に持ったお風呂の道具を揺らしながら、ほうら果穂子さん、虫が鳴いていますよ、あれはきっとコオロギね、などといつでも楽しそうにしておられた。
かあさまは、幸せな方なのだと思っていた。日頃よりご自分でもそう仰っておられた。かあさまは果穂子さんと一緒だから迚も幸せなのよ、ありがたいことね、と。
果穂子はいつも歩きながら見上げるかあさまの綺麗に結い上げられた長い髪が羨ましくて、かあさまのお風呂上りのなんてことのない絣の浴衣が憧れで、自分の髪もあのように早く伸びるように願い、大きくなったらかあさまの浴衣をいただく約束を取り付けた。

苔むした岩の間を縫うように流れる小川を通じてつるつると新しい水が常に入り込んで来るので、この池は淀むことがない。古い水は別の箇所から排出されて、常に少しずつ循環している。金魚たちは、あるものは素早く、あるものはちまちまと思い思いに池の中を巡っている。
夏は金魚の季節だ。あまり暑さが続くと弱ったりもするけれど、他の季節にも(まさ)って金魚たちは夏の空や風景によく映える。住処や環境を変えるのならば体力のある夏の終わりか秋が良いのだと、いつか父が云っていたように思う。それに、金魚売りが出歩くのも、お祭りの金魚すくいも、この季節だ。
かあさまとお祭りで初めて金魚すくいをしたのはたしか四つの頃のはずだ。
よく分からぬまま針金で出来たぽいを握らされて、かあさまや他の知らない大人たちに何やらわあわあ急かされて、桶の中の赤いちろりと動く変なものを指差されるのだけれど、果穂子は何が何やら訳が分からず口を固く結んで不機嫌になってしまった。
かあさまが手を引いて桶に近づけてくださったとき、果穂子はその赤いのが怖くてとうとう大声で泣きだした。
かあさまは果穂子を(なだ)めるのに回り、困ったようにお笑いになりながら(しゃが)み込んで頭を撫ぜる。果穂子はかあさまの着物の胸元に涙や鼻水をべったり付けながらしがみ付き、もうひとしきり泣いて不服を訴えたのだった。
その後、かあさまが果穂子に金魚すくいをしているところを見せて下さって、かあさまも見ている果穂子もおっかなびっくり、四苦八苦のすえ金魚を一匹だけ掬い上げることに成功した。
「果穂子さん良おく御覧なさいな。可愛らしいのよ」
帰り道、掬い取った金魚の容れ物を大事そうに手のひらに包んでかあさまは云う。
「ほうら、ご覧。ほうら」
かあさまは嬉しそうに、果穂子からもよく見えるよう容れ物をこちらに近づけてくださったのだけれど、果穂子には金魚の心臓そのもののような腹の動きが得体も知れなく思えてどうしても恐ろしく、かあさまの後ろに回って藍染の着物にしがみ付いた。
(うごめ)く、蠢く、
紅い紅い金魚。
「なあに、そんなに怖がって」
と、かあさまは笑った。

成長に伴って果穂子も金魚の魅力を知るようになった。母が何度も「ご覧」と促されたのも今なら分かるように思う。池の(ほと)りの沙羅の木陰で涼みながら、水音と金魚たちの色彩とを愉しむ。
庭に次々と白い花を咲かせては落としていく沙羅の木は、この季節には夏椿と呼ぶのが相応しい。完成された花の形ごと池面にも落ちるので、さながら金魚池を引き立てる装飾のようになる。だから果穂子は毎日の庭掃除の際に、池に落ちたものだけは形の良いものをわざと二つ三つ残したままにしている。繊細で軽やかなつくりの薄い尾と、ぬめって光る腹部。赤や墨色、浅葱に薄桜(うすざくら)紅緋(べにひ)色の金魚たち。対して夏椿はしっとりと肉厚の質感で艶のない純白色なので互いが互いを引立てて見目が良い。
あの後、母は金魚をどうされたのだったか。金魚鉢に入れたのだったか、白い広口の器の方だったか。もう思い出せない。本人にお訊きすることも出来ない。ご自分が掬ってきた金魚より先にお亡くなりになってしまうなど、そんなおかしな話があるだろうか。父が母を放って置かないで、もっとお身体のあんばいなど細やかに気遣って下さっていれば今もお元気でおられただろうか。
母は幸せな方なのだと思っていた。
けれどあの方は呆気なく死んでしまった。
病がいよいよ重くなった頃、そのときから果穂子の世話をしてくれたテイに連れられて久方振りに面会の許可が出た母に会いに行った。母の弱った姿は不思議と憶えていない。病室の風景も、匂いも気候も色彩も記憶に無い。ただ、その時の母の言葉は(そら)んじることが出来るほど一字一句耳に残っている。
気高く生きなさいと母は云った。
笑顔でいなさい、背中をしゃんと張って出来るだけ美しく装いなさい。そうすれば惨めにならずにいられるから。自分は幸せだと、事あるたびに口に出しなさい。
それから、かあさまが果穂子さんをずっと愛していることを片時も忘れては駄目よ。
母はその後しばらくして亡くなられたのだったか。お葬式の時の様子はどんなだったか。これも不思議と思い出せない。
果穂子は瞼を閉じる。うっすらと汗ばんだ首筋に心地良く当たる夏風と。さらさら揺れる木の葉とつるつる淀まぬ水音と。口角を上げて、唇を動かして唱える。
──果穂子は幸せです。果穂子は幸せです。
果穂子は、出来る限り母の教えを守っている。

瞼を開けて池の夏椿に目を遣ったとき、果穂子は違和感を覚えて目を凝らした。
違和感の正体が分かると、自分で自分の血の気が引いてゆくのが分かった。不安に駆られた果穂子は堪らずすっくと立ち上がる。そうして一目散に邸の方に駆けてゆき、縁側に膝をついて奥の部屋に向かって声を張る。
「テイさん! テイさん! 」
テイは前掛けで手を拭きながら何事かとやって来た。果穂子はテイが縁側に置かれた履物を履くのももどかしく、来て、来て、と彼女の手を引いて金魚池まで引っ張っていった。
「何です、そんなに急かされて」
「──あれなの」
果穂子は先程の夏椿を指差す。
「あの子、さっきからずっとああしているの。平気だと思われる? 何かした方が──そう、塩水浴でもさせた方が宜しいかしら」
夏椿の陰で、小さな素赤の金魚が一匹、水から顔を出して小さな口をぱくぱくさせていた。テイは一瞬きょとんとして、それから果穂子の方に向き直った。あらあら、テイはのんびりと笑ってから、
「お嬢様は心配性ですこと」
とひとこと云って宥めるように果穂子の腕に触れる。不安の残る果穂子の目を見返してテイは続けた。
「あれくらいなら大丈夫でしょう、元々生命力の強い種ですし、下手に弄らないで二、三日そっとしておけばすっかり元気になっていると思いますよ」



「具合が悪いの? 」
学校が終わってやって来た昱子は折り畳んだ体を傾けて池の陰を覗き込む。少しね、果穂子は昱子の様子を眺めながら頷いた。
「鼻上げといって、しょっちゅう水の上に顔を出して息継ぎをしていたの。弱っているとよくやるのよ。夏の疲れかも知れないわ」
「金魚にもそういう事があるのね」
昱子は物珍しそうに池を見渡す。今年の春から導入されたという女学校の制服のセーラーカラーの濃い色と直線は昱子の華奢な首を縁取って強調させる。身頃が白い綿布で出来た夏服は、袖も襟も時折ハタハタと風に煽られて涼しげだ。
「よくお気付きになられたわね」
あんなにちいさいのに、と昱子が感心するので果穂子は笑った。
「だって、ご存知でしょう。大事なの。だから目がいくのね」
「そう」
昱子は了承したように僅か笑って、すぐに良くなるといいわね、とスカートの襞を広げてなめらかに立ち上がった。
「さっきよく見て気付いたのだけれど」
続けて立ち上がる果穂子に昱子は声を掛けた。
天頂眼(てんちょうがん)って、思ったより体がふっくりしているのね」
果穂子は思わず目を(しばた)かせた。
「上から見るばかりだったし、ほら、あんまり眼が主張するものだから」
「──前からそんなに金魚にお詳しかった? 」
昱子は思い切りの良い笑顔を見せた。
「だって、果穂子さんがあんまりお好きなものだから、覚えてしまうもの」
果穂子は息を詰めていっそう昱子を見つめた。
「ほら、あの子は蘭鋳、あの子は琉金、今弱っている子は和金……」
うたうように云って指差しながら昱子は金魚の種を当ててみせる。果穂子はうっかり溢れそうな涙を堪えるため懸命に目に力を入れた。何でもないことのように云いながら、暗記の苦手な昱子は恐らく金魚の種を覚えておくのに努力したに違いなかった。
「そうしたら、」
明るい声音になるよう気をつけながら云いさして果穂子も池を指差す。
「そうしたら、昱子姉様はさしずめ蘭鋳ね」
花形中の花形。優雅で、大勢に注目されても余裕で微笑むことが出来るような人。この友人には多くの人を引き寄せる不可思議な魅力がある。賢い人も博識な人も家柄の良い人も彼女の友人の中に幾らでもいる。それなのに昱子は、自分の一番の親友は果穂子だと云って憚らない。
「では果穂子さんは玉サバね」
昱子はにやりと笑う。
「玉サバ? どうして? 」
だって蘭鋳はどうしたって玉サバにはなれないもの、との昱子の発言の意味をはかりかねた果穂子は妙な顔をしていたらしく、その顔を笑われてそのまま誤魔化されてしまった。
「ちょっとそのままでいて」
昱子の表情は刻々と変わる。不意に目を上にあげた彼女は声音を変えて果穂子の後ろに回った。
「曲がってるわ」
そのままひょいと果穂子の頭のリボンを直す。やっと使ってくれるようになったのね、少し拗ねるような口調で昱子は続けた。
「買ってしばらくは、大事に仕舞い込んだきりだったものね」
果穂子も決まり悪く笑う。
「はじめのうちは使うのが勿体無いような気がしていたのだけれど、よく考えたら使わない方が勿体無いと思って」
「本当にそうよ。だってとてもよく似合うのだもの」
果穂子のお下げを整えて昱子は満足そうに見やる。
「果穂子さんの髪はきれいね。艶があって真っ直ぐでしっかりしていて」
果穂子は振り返る。記憶の中の髪を綺麗に結った母が浮かんで昱子の姿と重複した。
「──子供の頃は、細くて頼りない髪だったの」
昱子は不思議そうに瞬きをする。
「ちいさい時はみんな大抵そうでなくて、」
「ずっと母の髪に憧れていたの」
果穂子のお下げに触れている昱子の手がひくりと動く。
「母みたいに長く伸ばして、綺麗に結ってみたかったの」
あのころ憧れていた母の髪のように、果穂子の髪もなれただろうか。
それでは願いが叶ったのね、昱子は穏やかに云った。
「お母様がお元気でいらしたら、あなたの髪をどんな風に結われたかしらね」
ほんとね、果穂子は微笑んで頷いた。
かあさまが今もお元気でおられたらと幾度も思う。けれど、時々それとは真逆の、考えてはならぬことも考える。果穂子はそれが浮かぶたびにその考えを努めて打ち消すけれど。
「わたくしが小さな頃に亡くなられたからこそかあさまは聖母さまなの」
え、と訊き直した昱子に果穂子はただ笑顔で応えた。
元々母はあまり丈夫なほうではなかったのだ。だからあの時持ち直したとしてもそれほど長くは生きられぬ身体だったかも知れない。
──そうしたらいっそ。
かあさまには、いつまでも果穂子の聖母さまでいて貰わなくっちゃ厭なのだもの。
かあさまはお優しい方だったけれど、もっと後に亡くなられていたら果穂子はきっとあなたを憎んでしまったかもしれないもの。
果穂子は心が狭いから、共に過ごした月日が長くなるだけ果穂子一人を置いてけぼりにして行ってしまわれた母をきっと恨んでしまう。母の弱点もきっと目に付いてしまう。
「わたくし、幸せよ。昱子姉様のおかげで幸せよ」
「なあに、いきなり」

母の死に関してそれほど冷たい考え方をする一方で、あんなちっぽけな金魚一匹の命が不安定になるだけで動揺してしまう。
──わたくしのしている事はきっとまるで馬鹿なのでしょうけれど。



金魚の尾が水の(おもて)をひるがえるぽしゃんという音は思いの外響いて、そして消えた。

2025年 晩夏 六花

娘よ、覚めよ、覚めよ
光を放て
錠を解け
歌うたいの子らは洋琴に合わせ口ずさぶ
ご覧、おまえは美しい
ご覧、おまえは美しい



これから百年のち、今ある一体どれくらいのものが変わらず残っているのだろう。
科学や常識や風習がどんどん変化していく世の中で、変わった方が良いものと、変わらず残すべきものと、どうやって仕分けしたら良いのだろう。携帯端末のディスプレイに指を滑らせながらそんな事を思った。
果穂子の日記は彼女が別荘に移ったごく初期から記されていた。最初の記述は大正十三年四月四日から始まっている。
『ひら、ひらりと揺れる。金魚が泳ぐ。水はどこまでも透明なのに多くの人は水を絵に描くとき、何故青ひ色を使ふのか。水の冷たひ清浄さが寒色のブルーと重なるのか。金魚はその冷たさに抵抗してゐる。燃へるやうな赤い色を纏つてひら、と花のやうな尾をゆらめかせ、水を発熱させやうとしてゐる。』
随分詩的な内容だと感じたけれど、日によってはその日の出来事を淡々と綴っているものもあり、中々に変化に富んでいる。日記は毎日欠かさず記されているわけではなく飛び飛びで、果穂子が何か書きたい衝動に駆られたときにだけ記されているようだった。
果穂子の日記をちゃんと読もうと決意してから、六花は思案した。一体どうやったらあの日記を精読することができるだろうか。
一日中図書館に居られる立場ではあっても、六花は職員だ。ある程度自由が利くにしても、さすがに大机の裏まで覗き込むようなことは出来ない。最初のうちは施錠当番の閉館後に携帯端末のライトを照らして読むのはどうかと試してみた。けれど、思ったよりも時間は取れないし読みにくいし気は急くしでちっとも内容が把握できない。そんなとき、果音が助け船を出してきた。施錠の準備をしている隙に日記の部分を写真に撮ってくれるというのである。一瞬、また果音の集中力を削ぐことになりはしまいかと思わず言葉を濁したら彼女はたいそう不服そうな顔をした。出来るだけ自分も秘密を探ることに関わりたいらしい。
「大丈夫だから」
果音は声を張って主張した。
「だって、図書館が閉まるまでに宿題を終わらせたらぜんぜん問題ないよ。できるよ」
果音は今や六花の優秀なパートナーだった。早速その日の閉館直後、人がいなくなった僅かな隙をついて一番古い記述の部分、大机の右端からきっちり三枚写真を撮ってくれた。そのようにして果音が少しづつ撮り貯めていってくれた日記を読み進めていくうち、果穂子がどんな生活をしていたか、どんな事を考えていたかが徐々に分かってきた。
『今日は女学校(ぢよがくかう)が半休なのに合はせてわたくしと昱子姉様とテイさんとで何かを拵へることになった。お彼岸は少し過ぎたけれど、ではおはぎにしませうかと云ふやうに纏まって、三人で泥んこ遊びでもするやうにして拵へた。昱子姉様が洋風の菓子の話などなさるので三人で洋菓子のあんのやうに使ふ白いのは一体どうやつて拵へるのだらうかと考へたが、結局答は出なかった。わたくしはミルクをゆつくり煮詰めるとあのやうになるのだらうかと想像した。』
『満年齢でかぞへて今日で秋彦が四つになつた。四つと云ふと存外(ぞんぐわい)大きくなつてもその頃の想ひ出が残つていたりする。秋彦はどうしているだらうか。丈夫(ぢやうぶ)で健やかに過ごしているだらうか。わたくしのことは、もう全く覚へてはゐないのかも知れない。』
『昱子姉様にお聞きするところによれば、リボンは学校では依然としてうんと人気なのださふである。けれどもあんまり流行るので先生方は良くは思っておられないらしく、大きく派手なものとか、毎日違うのを付けかへてくる娘には注意(ちゆうい)がいくさふだ。』
はじめの内は多感な少女らしい記述や、他愛もない日々の出来事が大半を占めていた。けれど、読み進める内段々に様相が変わってきた。夜な夜な写真データと睨めっこしていた六花は自分でも予測していなかった程に日記にのめり込んでいくのを感じていた。
うまく言えない。でも、なんだろう。これはなんだろう。
この感覚には覚えがある。これは、真剣に読まなければならない類のものだ。
改めて疑問に思う。なぜ、日記だったのか。なぜ大机の裏だったのか。


「金魚邸と呼ばれていたの」
みんなそう呼んでいたのよ、と早ゆり婦人は教えてくれた。果音が夏休みなので一緒に撮り溜めていた写真をまとめて、プリントアウトしてから婦人宅に伺った午後のことだった。果音の母親は相変わらずのようで、子供たちが夏休みだからといって自分も合わせて仕事を休むという考えは無いらしかった。
「本邸には見ての通りお庭に大きな池があって、当時はそこに外国から仕入れないと手に入らないような珍しい金魚が沢山いたのね。わざわざ専門の方を雇って世話をさせていたそうよ。で、当主が飽きたり、好みの柄に育たなかったものは別荘行き。別荘にも本邸程ではないけれど割合大きな池があってそこに適当に放っていたのね。近所の人もそれを知っていて、その池があんまり目立つから『金魚邸』って」
そういえば佐伯善彦は熱心な金魚収集家だったと資料に記されていたことを思い出す。果穂子の日記にも、最初の記述から池だとか金魚だとかいう単語がよく出てきていた。果穂子が幼い頃の、実の母親と夏祭りで体験した金魚すくいの思い出も記されていた。それ以後も色々な種類の金魚の記述があったけれど、あの詳しさはそういう事情によるのだったか。
「母が遊びに行くと、余程お好きだったのか果穂子姉様はいつも池にいてじっと金魚を眺めていたそうよ。でも、池には幾らでも華やかで珍しいのが居たのに果穂子姉様が特に目を掛けていたお気に入りの金魚というのが、あまり見栄えのしない、小さな素赤の細長い和金だったそうでね」
「すあかのわきん、ですか? 」
「今の旧佐伯邸の池の金魚のような、どこにでもいる赤くて細長い金魚のことよ。母は自分だったらもっと華やかなのを可愛がるのにと不思議がっていたわ」
学校も行けず外出も滅多に出来ず、来る日も来る日も金魚邸に閉じ込められて池を覗いていた果穂子。その鬱屈した日々が、果穂子に心境の変化をもたらしたのだろうか。
「プリントアウトした日記は、まだ全体の半分程度なんです。日付でいうと最新のものが大正十五年の六月くらいだったと思います。でも、何というか日を追うごとに日記の内容の質が変わってきている気がするんです。上手く言えないんですけど、迫力が増してきているというか」
「そうなの? 」
婦人はひとりごちるように言って両手指をクロスした。
「果穂子姉様は──そうね、あまりご自分の心を打ち明けられないお方のようだったから」
婦人は何かを思い起こすような遠い目をする。
「自分の身に何が起ころうとおっとりと微笑んでいるような方だったらしいけれど、いつだったか母が『果穂子さんは馬鹿よ』と言ったことがあって。驚いたの。果穂子姉様の悪口なんて母の口から聞いたことがなかったから」
──それは昱子の痴呆が大分進んでいた頃の話だという。
昱子は窓辺近くの椅子にちょこんと座って、かなりの間窓の外の景色をじっと眺めていたそうだ。既に夕暮れになった景色を黙って眺め続ける昱子の背に早ゆり婦人は冷えますよ、と声を掛けたのだという。
「果穂子さんは」
出し抜けに昱子はそう口にした。
「果穂子さんは、あの子は、馬鹿よ」
驚いた早ゆり婦人は昱子の顔を覗き込む。
「だってあの子は口では何にも言わないの。人当たり良くにこにこしていらっしゃるけれど、あの子の心の中には誰も居ないの。頑固なのよ」
窓の外を眺める昱子の顔は無表情だった。
「わたくしが必死に手を握っていないと、独りで何処かへ行ってしまおうとするのだもの。あの子の行動ひとつでわたくしが傷付いたりするなんて、知らないのだもの」
自分が誰かにとっての大切な存在だなんて思いもしないのだわ、呂律の回らない舌足らずな口調で昱子は訥々と続ける。一瞬母親が痴呆特有の一時的な正気状態になったのかと早ゆり婦人は訝ったが、どうやら昱子の精神は娘時代に飛び戻っているようだった。
「果穂子さんはね、わたくしのこと、いつも強いと思われているの」
まるでうぶな娘のように昱子が涙ぐむので、婦人は思わず声を掛けた。
「お母さまは、お強いわ」
「あら、早ゆりさんもそんな風に思うの?」
その途端昱子の顔は母親に戻る。
「そんなら、きっとそうなのね。あなたがそう仰るのなら、そうなのでしょう」
──それっきりその話題は終わってしまったけれど、何だか母と果穂子姉様のもどかしい関係を垣間見た気がしてね、と早ゆり婦人は語った。
「母は果穂子姉様が大好きなの。わたくしに彼女の事を呼ぶ際は果穂子“姉様”と付けなさい、と注意したのも母よ。仲は間違いなく良かったと思うわ。でも、お互い伝えられなかった部分は色々あったのでしょうね。そういうデリケートな部分が日記では素直に書き表せたのかもしれないわ」
心して読んでみます、ありがとうね、と婦人は印刷された日記の写真に触れた。
昱子でさえ知ることの出来なかった果穂子の本当の想い。この先の日記を読めば、恐らく六花はその部分に触れることになる。たまたま日記の存在を知って、佐伯果穂子に対面したこともない六花が。そういうのって、どうなんだろう。果穂子の望んだのはそんな形なのだろうか。
「あの子、賢い子ね」
不意に婦人は庭を散策している果音に目を遣った。
「そんなにお喋りな子じゃないけれど、集中力が凄いのね」
本当に、と六花も庭を見て答える。
「色んな事をよく見ているし、細かい変化も目敏く気が付くんです。日記の読み込みだって、果音ちゃんがいなかったら出来なかったですし」
「そういえばあなた『りっかちゃん』って呼ばれているの」
随分慕われているのね、婦人は含み笑いをする。
「私は保護者というより友達みたいなものですから」
「いいえ」
そう思っていたとしても、やっぱり年齢の差はあるわ、婦人は急に真面目な顔になった。
「あなたが気付いていないだけで、彼女はあなたに随分救われているわ。同い年の子が出来ないことも、大人のあなただからしてあげられることもある。どうぞ(そば)にいて、彼女の力になってやってあげてね」


『近ごろは体調(たいちやう)が思はしくないので大人しく読書に没頭してゐる。なかでも八木重吉といふ人の詩集はなぜか純度の高い、磨かれた水のやうにわたくしの中へすうと入つてぐんぐんしみ込んでいく思ひがする。この人の大体の詩は簡明で素朴だけれど、そこが日常を想起(さうき)させやすく良ひところだと思ふ。けれど時々不意打ちのように魂をぐさりとやられるやうなものも混じっているから、少し心構えがなければならない。けれど、白状(はくじやう)すれば果穂子が一番に欲してゐるのはそのぐさりとやられる感覚なのである。』
相変わらず夜の時間を利用して日記の読み込みは続く。予感通り果穂子の日記は日が進むごとに深く激しく、自分の心の在りどころを探るような内容になっていった。果穂子という娘はその若さに似つかわしくない深い考えを持っていることを窺わせた。佐伯家のこと、昱子との友情、実母との思い出。まるで魂を削り取るようにして書き記されたそこには佐伯果穂子という人物の人生観が丸ごと詰め込まれているようだった。
『もしわたくしが、何も残さずに命を落してしまふならば、それは一体わたくしにとつて世界にとつて何の意味合いがあるのだらう。生きてゐる者には何かしらを残す義務があるのだとわたくしは信じてゐる。』
果穂子は多分、美しく着飾って友人たちと楽しく毎日を過ごせればそれで満足できるような単純な娘ではなかったのだ。それにしても、こんなに内容が「生」に執着していくのは、この頃から自分が結核に感染しているとはっきり分かったからなのだろうか。果穂子はいつ自分が病に侵されていることを知ったのだろう。
日記の下部に、走り書きのようなものがさらさらとした字体で記されていた。こういう字は殊に読みにくい。思わず眉間に皺を寄せながら写真に顔を近づける。

絵はひとより永くのこるだらう カンヴァスが朽ちても詩はのこるだらう
しかしその国語がほろびたら詩ものこりはしまい
のこすことは(とこしなへ)のみちではないとしりつつも できるかぎりうつくしくけふをうたわせたまへ

詩──だろうか。果穂子自作の?
──いや。
六花は小さなメモ帳を千切って『八木重吉』と記し、仕事用の鞄に滑り込ませた。

翌日、仕事中に配架するふりをして911の書棚を覗くと、あった。八木重吉(やぎじゅうきち)という読みをするらしいその詩人の作品は、室生犀星やら萩原朔太郎やら金子みすゞといった大正から昭和の時代にかけて活動していた詩人と棚を同じくして並んでいた。
八木重吉はたしかに不思議な詩人だった。六花は昼休み毎に窓の外を眺めるのを中断して彼の詩集を読み耽った。こんなものが詩と呼べるのだろうか、と思うものもあれば、あまりにも表現が直接的で不意打ちを食らうものもある。果穂子が彼の作品にのめり込んだのも分かるような気がする。生を求める強さが果穂子と一致するのだ。
──残すことは(とこしなえ)の道ではないと知りつつも、出来る限り美しく今日を詠わせ給え。

午後の配下作業の時間になっても、果穂子の生き方について考え続けてしまう。いつの間にか六花は自分と果穂子を重ねるようになっていった。踏み込んでみれば果穂子と六花の価値観はよく似ていた。
おそらく、果穂子にとって心の一番根底にあるものは“伝えたい”“残したい”なのだ。それが最も重要なことで、その思いは“幸せになりたい”という気持ちさえ上回っている。幸せより残すことを優先させたのだ。
果穂子はそんな生き方しか出来ない不器用な娘で、それは多分、六花自身もそうなのだ。
──果穂子姉様を一番に理解できるのはあなたなんじゃないかって。
早ゆり婦人のあの言葉。伝えることと残すこと。自分の幸せや命より大切なこと。
それに無意識に引き寄せられて、六花は。
不思議な事は何も起こっていない。起こっていない、はず──なのだけれど。
──何だこの、
この。
感覚は。この誘引力は一体何なのだ。これも果穂子のかけた仕掛けなのか。
この場の空気が何かいっぺんに全く別なものにすり替わってしまった不自然な感覚がして、六花は作業中の手を止めた。
ぞくりと周囲を見回す。(そび)え立つ本棚の壁。壁。壁。
──そうか。
図書館が、そういう場所の最たるものなのだ。
中にはいかにも商業主義的に出版された本もあるにはある。けれど、その中に混在して大正時代の詩人たちのように命をかけて執筆したような本もあるのだ。本に時間を託して、作者の人生を託して、たとえ自分が死のうとも、本は人より永く残るからと。
そういう人はきっと時間が欲しかったのに違いない。六花のようにたっぷりの時間を求めていたのに違いない。その『手に入れたかった時間』を本の未来に詰め込んだのだ。
不意に合点が行く。六花が図書館に惹かれる理由。そこに飛び込んでしまった理由。『図書館しか拾ってくれないから司書になった』なんて、そんなの嘘だ。


本を持つ手が震えた。
六花は、目覚めさせたのだと思った。揺すり続けて、揺すり続けて、知らず知らずの内にこの邸に眠っている『果穂子』を。

2025年 秋 六花

世は去り、世は来る。
それは人の営みの本質なのだろう。けれど去った世と同時に、そこに生きてきた人々の息遣いや強い想いまでもが去ってしまうという切なさに人は決して慣れることがない。


良い図書館の三要素というものがあるという。
まず建物、次に蔵書、そして人──つまり司書──の三つだ。なかでも最も重要なのは三番目の『優秀な司書』の存在で、これが欠けるとどんなに他の二条件が満たされていても宝の持ち腐れになってしまう。
熟練した司書は、図書館を正しく機能させる役割を担っている。どんなに小規模な図書館でも、どこにどんな本が並んでいるか熟知するにはそれ相応の時間と労力が必要だ。知りたい情報が載っている書籍や読みたいと思っている本がその図書館にあったとしても、誰もが皆必要な本に巡り会えるとは限らない。そこで司書が本と人の架け橋的な存在となる。司書の仕事内容は多岐にわたるが、そのどれもが利用者と本を繋ぐためのものだ。時折そんなことを思い出すと気持ちが引き締まる。司書は知の象徴だ。一見地味だと見なされがちなこの仕事は、本当はどうでも良いものなどではない。六花の仕事は、どうしても必要な仕事だ。
古代において、司書は王から高い地位を与えられ、ときには助言者と見なされるなど非常に重宝されたらしい。優秀な司書を奪われたり引き抜かれたりした国家はやがて廃れ、滅びてしまったという。
図書館の三要素を白川町記念図書館に当てはめてみる。ここはもともと図書館として造られた建物ではない。とはいえ広さは充分だし、図書館として機能するよう改築したのでその点は問題ない。何より美しさも雰囲気も存分にある。蔵書もよく揃えられている方だと思う。ここにしかない白川町と佐伯家にまつわる稀少な歴史資料も置いてある。
では司書の質はどうだろう、と六花は考える。
こと白川町記念図書館に関しては、一般的な町の図書館にはない葛藤がある。観光施設としての側面だ。ここの館長は司書の資格を有していない。彼は町の観光課から派遣された人で、図書館職員というより観光施設の管理者なのだ。揃いのエプロンだけでなく、カフェ店員よろしく中に着る白シャツや黒いパンツやスカートまできっちりと定まった制服があるのもそのためだ。
観光施設か、歴史資料館か、図書館か。
美しくないより美しい方が良いに決まっている。歴史があれば箔も付く。けれど、ここの揺るがぬ土台は『図書館』なのだ。六花含め職員たちはそういう心積もりで働いている。そのことに関して何かはっきりした発言があるわけではないが、そんな姿勢が垣間見える。穏やかで淡白そうに見える金木さんも、あっけらかんとした雰囲気の瀬川さんも、和気藹々と働く他の同僚たちも本に対する愛情は一致していて、静かな熱意が感じられる。個々の性質の違いはあってもそこで繋がっているのだ。
だから余計に館長と職員たちの温度差が際立つのは六花も気がついていた。観光課の人間なのだから仕方ない面もあるのだろうが、彼の主な意識は如何にここを魅力的な観光スポットにするかにある。勿論悪い事ではないが、そこに力を入れようとするあまりこの図書館とそこに収められている本たちを雑な思いで扱って欲しくない。果穂子の日記を読み解くにつれ、その思いはますます強くなった。もちろん施設の美しさや親しみやすさも重要だ。けれども、図書館にはある種の気高さを保っていて欲しい、少なくとも六花はそう思うのだ。必要以上に観光客に迎合して欲しくない。館長は悪い人ではないのは六花も承知している。でも、時々怖い。この人によって図書館の要である何かが脅かされてしまうのではという可能性が、怖い。
ここで大切なのは何だろう。守るべきものは何だろう。その先にあるものは何なのだろう。
なぜここで働くか。
本が好きか。なぜ好きか。
守りたい本があるか。それはなぜか。
守りたい本があるというのと、守りたい想いがあるというのは殆ど同義だ。
本を書くというのは、ささやかな抵抗だから。想いや主張を命懸けで具現化したものだから。彼らのたましいの詰まった本たちが館内の密度を果てしなく濃くし、ざわざわと六花に問う。
──本を、愛していますか。人の想いを、愛していますか。


(まは)りはよく「(をんな)の幸せ」などと云ふ。女の幸せは相応(さうおう)の御方と一緒になって仲睦まじく暮らし、子を産み慈しみ育てることだと云ふ。わたくしにはその望みが無いから可哀相(かはいさう)だと云はれる方も中には居られる。たしかにわたくしは可哀想な女やも知れぬとも思ふ。だけれども“女の幸せ”と云ふのはそれだけに限るやうなものなのだらうか。それが不思議なことのやうに思へる。女は嫁いだらそれで終わりなのだらうか。わたくしはきつとそれだけでは満たされない。わたくしの人生でいちばんに願ふのは、もつと自由(じいう)で人間らしい生き方なのだ。職を持つのも恋をするのもずつと自由な、新しい時代の女として伸び伸びと生きてみたいのだ。』
十八歳の果穂子はそんなことを書く。この年頃ならではの無敵な感じが本物なのか虚勢なのか六花には分からない。積極的な昱子の影響やも知れない。早ゆり婦人の話によると、この頃には肺病は確実に果穂子を蝕んでいたのだから。
『昱子姉様が大好き。昱子姉様の全部が好き。子どものやうなところとか、苦労知らずで我儘なところとか、あまり良く無いところも愛ほしく思つてしまふのだから実際困つてゐるのよ。だからこそ果穂子の中には昱子姉様に触れて頂きたくない部分もある。あの方は純粋過ぎるのだもの、耐へられないわ。』
果穂子の文体はときに喋り口調になったり元の堅い感じに戻ったりと、次第に安定しなくなって来る。果穂子は昱子に弱音を吐けなかったのではない。弱音を吐けなかったのは、単に昱子の心を思い遣る健気さだった。
──私は絶対、負けるのだ。
日記を読みながらそんなことを思う。対峙しているのはそういう類のものなのだ。決着はもうとっくに、百年も前に着いている。過ぎ去ってしまった時間はもう一秒前でも百年前でも1ミリたりとも変化しない。六花はただ、知るだろう。知って負けるだろう。物事を変えられない悔しさに立ち尽くすだろう。
それでもいい。六花は埋もれてしまった果穂子を発掘するのだ。それだけが果穂子を目覚めさせた六花の使命のように思えた。

指先で画面をスライドさせる。果音が撮影してくれた日記はこれが最新分だった。果穂子の日記は読みにくい。今まで何度も解読に手こずったし、暗い机の裏に毛筆書きなのだから当然だ。最新の写真を見て思わず六花は顔をしかめた。難解さが更に増している。几帳面だった字体は不安定な文体と共に次第に崩れていくのが分かる。体調の悪さが影響しているのだろうか。大正期を終え、年号はもう昭和元年だ。昭和二年、十九歳の春に亡くなったらしい果穂子は一体いつ頃まで日記を記すことが出来たのだろう。
顔をしかめたまま、画面をズームさせてゆっくり読み進めていた六花は手を止めた。
──これ、まただ。
果穂子の死期が迫るにつれて頻繁に出て来るようになっていた単語があった。
『わたくしの最後の望みとして留根千代が居る。だからわたくしは決して不幸(ふしあは)せな女ではない。留根千代だけが本当(ほんたう)の果穂子を知つてくれてゐる。それだけでもう救はれる思ひがする。』
()のひとがどんなにか果穂子の支へになってゐるか、誰も知りはしないだらう。テイさんにも、昱子姉様にさへわたくしと留根千代の関係は打ち明けはしなかつたのだもの。』
『留根千代に会ひたい』
『留根千代に会ひたい』
留根千代。留根千代。文字からもいかにも切羽詰った必死さがありありと伝わってくる。どうやら人名らしいということは何となく分かるのだが、読み方が不明だ。そしてもう一つ気になるのが、この留根千代なる人物に就いての記述が増えるのに比例して、昱子をはじめとする他の人物の記述が減っている事。
この時期、一体果穂子に何があったのか。なぜこんなに急激に現れて、心身共に弱った果穂子の心を埋め尽くす程になったのか。

『わたくしの命はもう覚束無いと云ふのを近ごろウンと強く感じる。喀血も回数が段々に増してゆくし、近ごろなどはとても怠いのだ。けれど、存外やすらかな心地で或る。
永遠は願つても好いのだもの、残すことも自由だもの。
留根千代。留根千代。わたくしが死んでもあなたは残る。だから心配は要らない。
あなたが残るのなら、果穂子は百年も、千年も、永遠(えいゑん)にまでいきませう。』

六花ははっとして読み返す。いつかの蔵書整理の日に、ここの記述は直に見たことがある。
あなたが残るのなら、果穂子は百年も、千年も、永遠にまで。
──“生きましょう”、だったんだ。
最初からここまで順に読んできてやっと分かる。この言葉の意味も強さも。そこで六花の中でやにわに一つの可能性が浮かんだ。
──果穂子は恋愛をしていた?
昱子に対しては必死に抑えていた思いをここまで曝け出し、尚且つ託された留根千代なる人物。そこまで信頼を置かれていた彼は果穂子の想い人だったのではないだろうか。親友の昱子にさえ打ち明けなかった果穂子と留根千代の関係は、何か後ろ暗いものがあったのだろうか。

留根千代は果穂子と同じく、佐伯家の歴史資料を調べても名前の出てこない人物だった。果穂子の時と同じく、果音と一緒になって調べたが手掛かりは一切無い。彼の正体は果穂子の足跡を辿るより遥かに困難かも知れない。もっと言えば不可能に近いだろう。日記の時期的にいえば、二人が出会ったのは果穂子が金魚邸で暮らしていた頃である可能性が高い。そうなのだとしたら、六花にそれを突き止められる自信はなかった。
──惜しいなあ。
『留根千代』は明らかに果穂子の秘密を紐解くキーマンだと思うのだけれど。



世は去り、世は来る。地球も宇宙も変わらずそこにあるのに、人だけが入れ替わる。いつまでも慣れないのでそれを忘れることによって人は平常を保つ。誰かの人生も、誰かが真剣に悩んだことも苦しんだことも全ては無かったことのようになる。精々全力で抵抗して辛うじて足跡を残す程度。果穂子と昱子とその想いも。そして果穂子の縋った留根千代も。

一九二五年 十一月十九日 果穂子

《写真の中のわたくしたちはなんにも変はることなく永遠なのだと昱子姉様は云はれた。永遠つてわたくしたちが想像(さうざう)するのよりウンと素晴らしいものでなくて。わたくしはさふ思ふの。そんなご様子で明るく話されるのでなんだか泣きさふになってしまつた。》


試しに果物に蜂蜜をかけて食べてみると良い。
よく味わって分析するなら、蜂蜜が果物を受け入れていないことに気付くだろう。確かに甘みはあるのに果実の酸味が和らいだようには感じないはずだ。蜂蜜は自分が甘いだけで、ごく近しい相手をも受け入れないのだ。
果穂子はそういう意味で蜂蜜だ。
優しいようで、撥ね退ける。自分の領域に相手が侵入するのを許さないし、簡単には相手と乳化するような事はしない。
失礼な話である。偽善といっても良い。
そんな風に考えると自分の性質がほとほと嫌になって、果穂子は読んでいた本から顔を上げた。耳を澄ませると相変わらず今日も隣の尋常小学校からは子供たちの唱歌が心地良く響いている。歌声だけでなく、別の場所からは自由にはしゃぐ歓声なども少しだけ届いた。冬場はこちらの窓もあちらの窓もすっかり閉め切っているから幾分くぐもった風に聴こえるけれど。
──もしかするとあの子の組が歌っているのかも知れないのだわ。
毎朝、池の様子を確かめに庭に出ると椿の生垣の隙間からぞろぞろと吸い込まれるように子供達が通り向かいの校門をくぐっていくのが見える。幼いながらもみな一人前に自分の荷物を携えていて中々立派な様子である。
揃って登校する学校違いの兄弟の姿を見附けたのはその集団内でのことだった。弟は八つ九つと云った外見で、兄の方は黒い詰襟の制服を着ているので中学生なのだろう。こちらの少年は十五、六ほどだろうか。毎日自分の学校へ行く道中に弟を送ってやっているのらしい。二人ともよく似ていて、浅黒い肌にどこか栗鼠(リス)のような愛嬌のある顔立ちをしていた。兄の方は校門で弟と別れると方向転換をして、果穂子のいる生垣の脇の道を通り過ぎる。彼は時折庭を整える果穂子と目が合うと、矢張り栗鼠のような白い歯を覗かせて笑顔で会釈したりした。そんな風に自然に挨拶するようになって三月ほど経つ。果穂子の閉じた生活の中で、開けた未来に向かって日々学び舎に通うその兄弟の姿が眩しかった。思い出すと少しだけ明るい心持ちになる。最近の果穂子の楽しみごとはそのようなささやかなものだった。

目の前の火鉢がはぜる音がする。こちらの響きはぼんやりとしか届かない子供たちの歌声とは反対に明瞭だ。火鉢を挟んで向かいにはテイがいて、綿入(わたいれ)の袖口をせっせと縫っている。果穂子はテイの方に少しずって行って身を乗り出す。
「わたくしも手伝うわ」
「果穂子お(ひい)様のなさることではありません」
テイは手を休めないままピシャリと返した。
「あのね、テイさん。わたくし、いつまでも変にお高くとまっていたって仕様が無いと思うの」
御母(つや)様に云われなすったでしょう、そのお云い付けを守りませんと」
気高く生きなさい。出来るだけ美しく装いなさい。母が幼い果穂子に告げた言葉をあの時隣にいたテイも、聞いていた。
「綿入を縫うことは気高さを失うことなの? わたくしはテイさんのお手伝いをしてもいけないの」
「そう云うことでは御座いませんでしょ。わたくしの申しているのは、ご自分でご自分の立場を落とすようなことをしなくても宜しいということですよ」
「あら自分の生活を自分で立てられない方が恥ずかしいわ。かあさまはご自分のことは全部ご自分でなさっていたもの」
テイが眼鏡の奥で此方をきつく睨め付けるので果穂子は肩を竦めて黙った。この人はおかしなところで頑固だったりするので時々困ってしまう。ぴち、と眼の前の火の粉が跳ねた。
「──いずれまた本邸に戻って頂きませんと。本来はそう云う立場のお方なのですから」
テイは続けて独り言のように低く呟く。
「わたくしの生きているうちに」
思わず目を伏せる。そんな云い方をされると、果穂子はもう何も云えなくなってしまう。仕方がないのでおとなしく諦めて再び本を開き、本越しにテイの乾燥して皺寄った手が針を運ぶさまをそっと見詰めた。
彼女はきっとこの先を見ている。自分の行く末ではなく、果穂子の行く末を。いずれ果穂子が佐伯家の長女としての立場を取り戻す未来を。テイが果穂子の事をまるで自分の子か孫のように想ってくれている事は充分に伝わっていた。なのに当の果穂子は“蜂蜜”で、彼女にさえも上手に心を許すことが出来ない。表面の甘さは(すべ)らかにその場から零れ落ちて、どうしても馴染まない。



午後になり、昱子は鼻と頬を赤くして冷たい外気と共にやって来た。三和土(たたき)で両手を擦り合わせ、此処は暖かいわと微笑む。
「果穂子さんに写真館の写真をお見せしようと思って持ってきたの」
「写真館? 」
もう、と昱子は大袈裟に目と眉を上げる。
「お忘れになった? 春にわたくしと一緒に写真を撮ったじゃない! 」
昱子が憤慨してそのまま話し続けそうだったので果穂子は慌てて宥める。
「勿論覚えているわ。忘れる訳無いわ。だけど、あんまりいきなり仰るから吃驚したの。ね、此処だと冷えるでしょう。早くお上がりになって暖まっていかれて」
そこで何故か家にいた果穂子の方が咳き込み、昱子は再びもう、と云って笑った。
「大丈夫? わたくしの方がずっと外で寒い風に当たっているのだから、あなたが風邪なんてひかれないで頂戴な」
玄関から立ち上がるのを助けるために取った昱子の柔らかな手は、確かに金魚池の水のような冷たさだった。
客間で昱子が大事そうに鞄から平たい厚紙の封筒を取り出すのを、果穂子は胸を高鳴らせて見守った。すぐ隣にぴったりくっ付いて座る昱子の体温が布越しに伝わって来て温かい。封筒を開く直前、昱子は手を止めお転婆少女の顔で果穂子の目を覗き込みくすりと()んだ。
「とても素敵なの」
それから勿体ぶるようにゆっくりと封筒から写真を引き出す。
「──まあ」
出てきたそれを一目見て声が漏れた。
四角く区切られた枠の中。その中に、絵画のように上手に収まっている自分たちが揃いのリボンで姉妹のように肩を寄せ合っている。いつ見ても文句のつけようのない美貌の昱子の隣で顔を綻ばせる果穂子。あの日の幸せな気分が一気に押し寄せ蘇る。
──あのとき、わたくしはこんな笑顔をしていたの。
両手に収まる程度の小さな紙から、果穂子は視線を逸らせなくなった。あまりにきれいに出来上がった二人だけのその世界に、却って現実を突きつけられる思いがした。手渡された写真を両手で持って、暫く無言で写真の中の自分と見つめ合う。
「わたくしね。確かにわたくしね」
写真に写るのが初めてと云うわけでもないのに、何故か不思議な事のように感じられて仕方がない。
「綺麗に撮れているでしょう」
「──写真機というのはたいへんな機械ね」
「なあにいきなり」
「時間を、切り取るのね」
このまま時が止まったら好いのだと、あの日果穂子は願ったのだ。写真の中の自分を人指し指でつるりと撫ぜる。
「こうして見ると、過去の人みたい」
昱子は笑った。
「わたくし達が過去の人になるのはうんと先のことよ」
暖かくなったらまた行きましょ、今度はテイさんをきちんと説得してね、と昱子は自分の肩で果穂子の肩を押した。つい笑った果穂子の手から写真を取り返した昱子はそれを二人の顔の高さまで上げて襖の硝子から洩れる霜月の僅かな日に翳す。
「二枚あるからこちらは果穂子さんに差し上げるわ。お揃いがもう一つ増えるわね」
「本当に? 良いの? 」
「貰っていただけない方がかなしいもの」
ありがとう、果穂子は改めて美しく仕上がったポートレイトを眺めた。
「それにしても昱子姉様は格別。こうして写真になると本当にきれい」
果穂子は溜め息をつく。左右対称に同じだけの角度をつけて上がる眉や唇やはっきりした上瞼の線や。賢さも容姿も並の人以上に与えられた。恵まれた人。
「あら、賢さも美しさもただ一つの種類だけとは限らないのではなくて」
果穂子の発言に昱子はそう直言して続ける。
「たとえば果穂子さんの仰るわたくしの賢さや美しさは、わたくしが果穂子さんの中に見ている賢さや美しさとは別のものだと思うの」
果穂子を美しい、などと昱子は驚くようなこと云う。あまりに不意を突く言葉だったので何も云えずに黙っていると、分かってるの、と静かに昱子は写真を下ろして膝の上に置いた。そして果穂子の顔を見て等角に唇を上げる。
「だけど、屹度(きっと)届かないのね。わたくしがあなたをどんなに褒めても、どんなに大事なのか伝えても、あなたの受容するその部分はすでに壊死してしまっているのだわ」



どうやら本当に風邪を引いてしまったらしく、近頃は咳がなかなか治まらずぼんやりと怠いので部屋に篭りきりの日々が続いている。風邪をうつしてしまうので昱子も来られずつまらない。
──あなたのその部分は、すでに壊死してしまっているのだわ。
昱子のその言葉と、笑っているのに何故か悲しそうな顔が頭に残って離れない。
昱子は気付いているのだ、蜂蜜のような果穂子の性質を。笑っているのは顔だけで、相手からの好意を何事も本心で受け取れないことを。耐えられなくなると考えるのをすっかり放って逃げてしまう悪い癖を。
抽斗を開けて薔薇の絵が大きく描かれた平たい箱の蓋を取る。丁寧に折り畳んだ赤色の縞のリボンの下にある写真を取り出して漫然と眺めた。
──果穂子は一体誰を愛せると云うの。
お父様も、テイさんも、昱子姉様も。皆果穂子を想っている。愛してくれている。そして果穂子はそれを知っている。
テイは果穂子の安定した家庭環境を望み、昱子は果穂子の姉となり親友となってくれ、父は毎月金魚邸に果穂子宛の小包を送って寄越す。
だけど、きっとみんな行ってしまう。うかうかしていたら結局最後は果穂子ただひとりになってしまう。
──こんなことでは駄目よ。
不調なので思考が弱っているのだ、と思う。気を取り直して読みかけの本を開く。果穂子が読書を好きなのを知っていて、父からの小包の中には必ず本が入っていた。目新しいものが好きな父は大抵ごく最近出たばかりのものを送ってくれる。今読んでいるのは、八木重吉という人の素朴な詩集だった。


雨の音がきこえる
雨が降っていたのだ
あのおとのように そっと世のためにはたらいていよう
雨があがるようにしずかに死んでいこう


果穂子もつねにこういう気持ちでいられたらば、と思う。この詩人は自分の心の深い部分をとことん掘り下げようとする。率直すぎるくらいである。別の詩では自分が残らず消えてしまうことを恐れる気持ちを詠いながら、ここでは死ぬのならそっと静かに、と詠う。それでも全てが彼の本当で、そのさまに惹かれる。果穂子は有り余る時間の中で読み耽った。
体調はいつまで経ってもぐずぐずと好くならなかった。微熱もあまりに何日も続くので全体的な体力が弱まってしまう。テイが呼んでくれた医者に診て貰ったのち、別室でのテイと医者の話が長引いているので果穂子はこっそりと布団を抜け出し、舞良戸の隙間から客間を覗いた。
テイがなにやら泣いているのが分かった。


その月の末、果穂子の特に可愛がっていた金魚が死んだ。
夏に弱っていた時は見事に快復したのに、冬眠前のこの時期、果穂子があまり様子を見ることが出来なくなった間に健康を損ねたらしい。果穂子の乾いた口や目からは何の言葉も涙も出なかった。黙って掬い上げ、そのまま赤い椿の生垣のふもとに穴を深く深く掘って丁重に葬った。

2025年 晩秋 六花 1

「あのね、これで最後」
閉館後の帰り際、入り口の手前で果音が湿ったちいさな手を翳して、屈んだ六花の耳にそう囁いた。
「最後? 」
問うと果音は口をすぼめて頷く。
「日記、今日で机の端っこまで撮り終わった。これで終わり」
「えっほんと」
「ほんと」
六花の間抜けな返事に果音は笑う。
「るねちよのこと分かるといいね」
そうだね、と六花は頷く。留根千代。彼についての詳細は依然謎に包まれたままだった。読みが不明なので、二人の間では当てずっぽうで『るねちよ』と読むかたちで落ち着いた。ありがとね、助かったよと六花も囁き返す。
「じゃあ鍵閉めるよー。果音ちゃん、忘れ物ない? 」
施錠当番のペアになっている金木さんがドアの外から果音に声を掛けた。
「大丈夫」
果音は徐々に交流の幅を広げているようだった。六花と親しくなったのを切っ掛けとして、他の図書館職員にも少しずつ慣れて来たらしい。はじめは硬かった態度や表情も最近では影を潜めているし、こと優しくてこまやかに気の利く金木さんに対しては、全く緊張しなくなっている様子だった。最初、果音と自分はよく似ていると勝手に仲間意識を持っていた六花だったが、付き合ってみれば彼女の方がずっと適応力も社交性も高い。
「そういえば、柳さん聞いてる? 」
不意に自分に話題が振られたので、完全に油断していた六花の返事はワンテンポ遅れた。
「ええと、何を──ですか? 」
「館長がなんかここのやり方を変えるって。もっと商業的な感じでやってくとか、そうじゃないとか。噂程度だけど」
その内容に思わず不快な気持ちが表情に出てしまう。
「噂、ですか」
図書館の核をなす大事なものが削がれる。噂が本当ならばそんな変化になるような予感がする。館長の価値観は司書の価値観と違うから。意外にも、金木さんも不快さを顔に滲ませて頷いた。
「噂だけど、何にもなければそんな話は出ないからね。私、結構ここの図書館好きだから、下手に変わるのはやだなと思って」
思わず金木さんの顔をぽかんと見つめてしまった。彼女も同じことを心配していた。同じことを思っていた。六花がただ頷くと、まあ無いかも知れない話で悩むのも馬鹿らしいから、悩むならせめて正式に話が出てからだよね、と笑った。

金木さんの言っていた“噂”にもやもやしてしまって何やら晴れない気分になってしまう。果音はそんな六花に慣れっ子なので、いつもの習慣通り平気な顔で六花と並んで歩く。一歩ごとに彼女の首の後ろで結んだマフラーの先端が揺れるのが可愛らしい。元々ひっきりなしにお喋りをしたいタイプの子ではなくて助かった。この季節は夕方になってから暗くなるまでが本当に早い。都会ではないとはいえ、果音がこの道を一人で帰ることにならなくて良かったと思う。去年はそうしていたのだろうかと考えるとぞっとしない。
そんな事々を考えていると、いつの間にか六花の家の近くの道まで来ていた。果音の家に向かう途中の道なりに見えるのだ。六花はなんとなくそちらに目を向けて、向けた瞬間げんなりした。
「電気ついてる」
果音が見たままを言う。誰も居ない六花の部屋に、明かりが煌々と点いていた。やらかした、と後悔する。今朝家を出るとき消し忘れたのだったか。
「またやっちゃったよ」
(たま)にそんな失敗をするのだ。慌てて家を出ると帰宅してからしまった、となる事が時折ある。
「今消してく? 」
「うん。ごめん」
果音の言葉に甘えて、少しだけ進路を変えた。
少し焦っていたので、深く考えずに手早く鍵を回して玄関扉を開ける。途端に暖かい空気と美味しそうな匂いが流れてきた。思考が追い付かなくて混乱する。
「お帰りー」
奥からのんきな声が聞こえてきた。声を聞いてやっと事態を把握する。まだ訳の分からない果音の方は、六花に体を寄せて不安そうな面持ちでこちらを見上げた。説明する間も無く、声の主がドタドタとこちらへ向かって来る。
「ごめんごめんいきなりでちょっと悪いと思ったんだけどさあ──」
やって来た幼馴染、亜莉亜──木内亜莉亜(きうちありあ)──のオレンジっぽい金髪のショートマッシュが蛍光灯に照らされて目にちかちかした。来るなり隣の果音を凝視する。
「何そのちびっこ」
疑問をそのまま口に出す亜莉亜に、果音が一気に硬直した。



果音を送り届けて再び自分の家の玄関扉の前に立ったとき、六花の口から思わず溜め息が漏れた。
亜莉亜はいつもそう。常識を疑うほどにマイペースで自由なのだ。たしかに六花は去年まで亜莉亜とここで一緒に暮らしていた。勿論その頃はお互いこの家に自由に出入りしていたし、元々幼稚園からの幼馴染で、家族のような間柄でもある。
でも、だからと言ってあんまり突飛過ぎる。昔はどうあれ、今は六花の独り住まいなのだから事情が違うのである。そもそも学校はどうしたのだ。他県の美容専門学校に通っていたのではなかったか。頭に『中退』の二文字がちらつく。本気であり得そうな話で怖い。今日は果穂子の日記の最終部分を読み込むつもりだったのに、これは出来そうもないなと諦める。
ただいま、と力なく言って扉を開けると、おー、と適当な返事が返って来た。

「三連休で戻ってきただけだから。そんだけ」
亜莉亜はよそったご飯を六花にぽんと手渡す。彼女は甲斐甲斐しくも夕食の支度をすっかり整えていた。促されるまま向かい合わせに席に着く。テーブルには湯気を立てた味噌汁にサラダに生姜焼き。そしてなんだか分からない煮物。奇抜な外見に似合わず亜莉亜は案外家庭的だ。というより彼女は割と何でもそつなくこなせるバランスタイプの人間なのである。
「三連休? 」
「勤労感謝の日! あと振替休日! ついでにうちの学校は今日も都合で休み! 」
「そうなんだ……」
忘れていた。図書館は週末でも祝日でも開館するのでカレンダー通りの休日に疎くなってしまう。
「まあ、そんで夏休みのときも帰ってなかったから。ちょっと戻ろうかなって」
そこは普通実家に帰るでしょ、と返したら実家にはもう顔は出したからいいと平気な顔で言う。
「六花に会いたかったんだもん」
味噌汁を啜りながら亜莉亜は気の抜けるようなふわっとした顔で笑う。こういう調子の良いところは昔から変わらない。
「分かった。それは分かった。だけど正直いきなり来てびっくりしたから。せめてメールしとくとか、あるでしょ」
「うんごめん」
全然響いていない。六花は肩を落とす。幼馴染でなかったら絶対友達にならないタイプなのは確実だ。ただ、いまいち憎めない。
「──その髪、思い切ったよね」
諦めて話題を変え、彼女の頭髪を見上げた。先程目が眩んだアニメみたいな明るい髪色に、何やらお洒落っぽいショート。たしかこの家を出たときは無難なミディアムの茶髪だった。
「良いでしょ。こういう毛色の猿いるじゃん、知ってる? それを参考にした」
「猿」
「そう猿」
駄目だ。いくら話題を変えても亜莉亜のペースだ。
「六花も変わったよね」
一転して真顔でこちらをじっと見てくるので面食らう。
「そう? 」
あの女の子のこと、と言って亜莉亜はごくごく水を飲んだ。
「さっき、いつも家まで送ってるって言ってたでしょ。そんな事するんだって正直びっくりした。小さい子好きだったっけ? 」
確かに(はた)から見れば二人は不思議な組み合わせなのかも知れない。
「なんか流れで仲良くなって。友達になったの」
「え、お世話してるんじゃなくて友達なの? 」
亜莉亜は興味津々といった様子で身を乗り出してきた。
「なんで? 」
訊かれて、まだ味の染みない煮物を噛み締めて暫く考える。果音は果穂子の日記のことを亜莉亜に知られるのを嫌がるだろうか。でも、事情を知っていそうな早ゆり婦人に打ち明けることは厭わなかった。ならば、亜莉亜も同じ立場にいることになる。
「──図書館で、偶然昔の日記を一緒に見付けたんだよね」
ここだけの話だと釘を刺して、六花はせっかちな亜莉亜が早とちりしない様に出来るだけ丁寧に果穂子の日記を追っている経緯(いきさつ)を説明していった。日記が大机の裏に書き込まれていたこと。書き主は佐伯果穂子という旧佐伯邸の訳ありの令嬢であったこと。資料本に隠されていた写真から早ゆり婦人と知り合い、少しずつ背景が見えてきたこと。実際日記を読み込んで更に深い事情が分かり、今は新たに「留根千代」なる人物の正体と果穂子の関係性を探っていること。今日もそのために日記の読み込みをしようと思っていたこと──。亜莉亜は想定外のおとなしさで時折ふんふんと相槌を打ちながら聞いていた。ひと通り聞き終えて何やら首を傾げる。
「──あの大机、元々は別荘にあったんだ」
「館長からはそう聞いたよ」
「そこに昔果穂子っていうお嬢様が住んでて? 」
「うん。さっき言ったじゃん」
六花が意図も分からず肯定すると、私その話聞いたことあるかもしれない──と亜莉亜はことんとテーブルにコップを置いた。
「いつ」
驚いた。もしかすると力になってくれるかも知れないとは思っていたが、こんなに直接的なことを言われるとは予想外だった。
「いや、多分私達子どもの頃その別荘行ったことあるよ。あそこが『金魚邸』だったんだ。そこに行った時に伯父さんとお父さんがそんなこと話しててさ」
「待って、“私達”って? そこに私もいたの? 」
思わず亜莉亜の言葉を遮ってしまう。話の急な展開について行けない。
「私、そんな記憶ないよ」
「嘘っそ。覚えてないの? 」
本当に覚えてないの、亜莉亜は念押しして目を丸くした。



不可解な記憶がある。
記憶の中で、小さい六花はどこか知らない薄暗い部屋の中を歩いている。遠くに聞こえる何かの合唱。中は土蔵のようにしんと涼しく匂いもやはり土蔵のようで、六花はたった一人その中をきょろきょろと進む。理由があってそこにいたのか、それとも不本意に迷い込んだのか。
長い間誰も入っていないらしいそこは、あらゆるものに白い埃が厚く積もっている。六花が動くと埃も乱れて、どこか高いところにあった窓から洩れる光に当たって落ち着きなくゆらゆら揺れた。置いてある家具に施された独特の彫り飾りを目でなぞり、ふと見上げると強烈な赤い色が襲いかかりそうに目に痛くて思わず幾度か瞬きをした。

あれがもし、夢でなかったとしたら。あれが金魚邸に行った時の思い出なのだとしたら。
もしかすると六花は、忘れているだけで既にに果穂子の仕掛けの真相に辿り着いているのかも知れない。

亜莉亜の説明によると『別荘』を訪れたのは十九年前。亜莉亜が五つ、六花が四つの頃だったという。六花が館長から聞いた別荘の取り壊しというのはその後に行われ、取り壊しの前の荷物整理の際、亜莉亜の母方の伯父に木内家が駆り出されたというのが真相のようだ。六花がそこに居合わせたのは全くの偶然だった。いつものように木内家で亜莉亜と遊んでいて、ついでに連れて行ってもらったというのだ。
白川町には佐伯姓が多い。経済的に成功した善彦を頼って兄弟の何人かがこの土地に移り住み、彼の仕事に関わっていた過去があるからだ。とはいえ起業者である善彦の家系はとうの昔に途絶えてしまったし、佐伯商会も既に無い。旧佐伯邸が町の財産になっている今では佐伯家は別段特別な家柄という訳でもなかった。ただ善彦の所有物や財産は兄弟たちの間で分配され、その中であの別荘──金魚邸──は亜莉亜の母親の家系が譲り受けたというのだ。亜莉亜の母親、旧姓佐伯恭子は、佐伯家の末裔の一人なのである。亜莉亜に果穂子の日記の事を話したのも、彼女なら母親繋がりで佐伯家の情報を何か持っているのではと期待したからだった。
知る事ができたのは別荘を譲り受けたはいいが使い道がなく持て余し、先の代から放置されていたそれをその時にやっと取り壊したという金魚邸の末路だった。
「まあ、四歳の頃って記憶が曖昧なところがあるからね。六花が忘れてても不思議じゃないか。私は五歳だったから割とちゃんと憶えてるけど」
その時にね、カホコって人が昔住んでたみたいな事を大人が話してたんだよね、私は全然興味ないからふーんって感じだったんだけど、と亜莉亜は頬杖をつく。
「広まりはしなかったけど、果穂子の事、知ってる人は知ってたのかもね」
──ただ、興味が無かっただけで。
興味を持たれない事と忘れ去られる事の間に一体どれほどの違いがあるのだろうと六花は思う。もしかすると大半の人は果穂子の事が明るみに出たとしても興味を持たないのかも知れない。
けれども、自分の想いを忘れて欲しくなくて果穂子は足掻いた。果穂子を決して忘れて欲しくなかった人達も確かにいた。細い糸のように連綿と、それは目立たぬながらもずっと繋がってきた。だから六花も、それを繋げる。繋げたい、と思う。
「──私ね、夢か現実か分からない記憶があったの。ずっと気になってて。でも子供の頃に金魚邸に行った事があるんだったら、説明がつく」
私多分あの大机、子供の頃に一回見てた──、六花は思い出の中の机と大閲覧室の机を重ね合わせる。
「だってあの机、金魚邸から持ってきたんでしょ。あの時見た縁の彫り飾りのデザインが同じなんだもん。そうしたらあれと一緒に見た記憶も現実って事になるよね」
「どんな? 」
頬杖を崩してテーブルに頭を乗せた亜莉亜が上目遣いで問う。
「まず音。ピアノとそれに合わせた合唱みたいなのが聞こえるの。私は埃だらけの薄暗い部屋にいて、ひとりで歩いてる。他には誰も居なくて。そこにあの大机があって。すごく大きい机だなって思った。その後、どこかを見上げた時によく分からない赤いのが見えたんだよね。そこで記憶が途切れちゃってるんだけど──」
「赤いの? 色だけ憶えてんの? 」
なんか本当に夢か現実か分かんないような光景だなー、亜莉亜は訝るような顔をする。と、次の瞬間あっと声と頭を上げた。
「思い出した! そうだ、そうかも! 」
いちいちリアクションが大袈裟な亜莉亜はテーブル越しに両手で六花の肩をぱんぱん叩いた。反応に困った六花はただ無表情で亜莉亜の顔を見返す。
「六花、あの時独りでどっか消えちゃったって結構騒ぎになったんだった」
「え? 」
「なんだったけな、急にいなくなっちゃって、うちのお母さんとかすごい慌てちゃってさ。でも騒いでるうちにひょっこり自分で戻ってきたんだよ。その時さあ、もう六花埃まみれ。ほんと忘れてた。確かそんな事あったわ」
じゃあ。じゃあ本当に、あの記憶は。
不確かだったものが段々と繋がってくる。空いていた穴が徐々に埋まっていく。
──辿り着ける。
留根千代のことも、赤い記憶の正体も。
このタイミングで帰ってきて良かった、亜莉亜はふうっと息を吐いて言う。
「ね、あそこにもう一度行ってみない? 果音って子も誘って三人でさ」

まずは予習させてよ、と亜莉亜は果穂子の日記画像が詰まった六花の携帯端末に手を伸ばした。

2025年 晩秋 六花 2

果音は律儀に鏡の前の畳にかっちり固まって正座していた。
日曜日、六花の休みに合わせて果音も誘い、亜莉亜は午前中からやって来た果音のヘアアレンジに奮闘していた。
「果音ちゃん動かないでね。コテ熱いから」
緊張のあまり表情が固まり、不機嫌顔になった果音と上機嫌な亜莉亜を見比べて六花はそわそわする。
「果音ちゃん小学生なんだから、コテとかやり過ぎじゃない」
「ちょっとだけ! ちょっと巻くだけでふあっとするから! 」
気が気でなかったが、亜莉亜は言った通り素早い手捌きで作業を終え、果音の髪は本当にふわふわと可愛らしい柔らかさになった。
果音はいたく感動したようで、驚きと嬉しさに何度もぱちぱちと瞬く。
「触っても、いいですか」
「いいよー。あとハーフアップにしよっか」
これまた慣れた手つきで亜莉亜はサイドの髪を捻り始める。果音は黒目をぐるぐる動かしてその指の動きを追う。亜莉亜が美容師になるために学校に行っていることはずっと知っていたが、実際にその技術を目にして初めて彼女が本気で美容師になりたいと願っているのだと、そのためにきちんと努力しているのだと実感する。普段が軽いのでそういうところを見逃していた。
「──名前、何ていうんですか」
「私? 言ってなかったっけ、亜莉亜だよ」
ありあ、と鏡越しの彼女を見ながら果音は呟く。
「キラキラネーム……」
「キラキラネームって言うな! 割と気にしてんの! 」
ふふん、とされるがままになりながら控え目に笑いの息を漏らす果音と、楽しげに彼女の髪をいじる亜莉亜の図は見ていて平和でなんだか可笑しかった。こういう表情を見せたら果音はもう大丈夫だ。亜莉亜が人を自然と和ませる性格で良かったと思う。



「別荘っていうか、別宅って感じの使われ方をしてたみたい。少なくとも避暑のための別荘って感じじゃないね。同じ町内だし」
三人横並びで座った電車の中で亜莉亜は金魚邸の細かな事情を説明する。車移動でも良かったが、電車の方が金魚邸周辺の様子を歩きながらくまなく見ることが出来るので果穂子の暮らしを掴みやすいのでは、という事でそうなった。

電車に揺られながら、六花は亜莉亜と読んだ果穂子の日記の内容を思い返していた。
──わたくしの心は誰にも内緒にして。お願いよ。
誰に頼んでいるのか、果穂子はそんな事を書いていた。留根千代か、昱子か、使用人のテイにか。案外独り言なのかも知れない。
『わたくしのこの日記はきつと永く残るでせう。留根千代と一緒に。そうしたらわたくしは本当に、百年までもいきるでせう。それはなんと心おどることでせう。』
感じ取った雰囲気でしかないが、一時狂気を感じるほどだった果穂子の執着心のようなものが少し和らいで、穏やかになっているような気がした。相変わらず留根千代についての記述はあるが、昱子やテイを気遣う様子や、少しだが父善彦や秋彦、継母の環についても触れられていた。果穂子の切羽詰まった心を解すような出来事でもあったのだろうか。少なくとも日記にはそれに関することは触れられていない。けれど、その少ない記録から果穂子の環に対する思いが少しだけ覗けた。果穂子は環を恨んではいなかった。むしろ憐れんでさえいた。同時に、彼女が自分の継母だという意識も薄いようで、悪気はないものの彼女を他人として捉えている節があるように思えた。だからこそ恨むことがなかったのだ。
もしかすると果穂子のそういうところが環の癇に障ったのかも知れない。彼女は本当は果穂子と純粋に家族になりたかったのかも知れない。その思いが変に拗れて、憎んでしまったのではないか。そうなのだとしたら、どちらも気の毒だ。
『心待ちにしていた庭の桜が咲いた。床に居ながらでも開け放つた雨戸からよく見へる。何処の桜よりも此処のが一等綺麗に見へる。』
記述の最後はそんな一文で終わっていた。少し前のあたりからもう日付を記すこともなくなっていたが、内容から察するに四月の初旬であったと思われる。そこには何ら終わりらしい響きはなく、唐突に中断されたような印象を受けた。当然だ。日記は物語ではないのだから。本人に書く意志があるのなら、生き続けている限りずっと「次回へ続く」なのだから。そして、その「次回へ続く」のまま、徐々に弱って果穂子は死んだのか。
金魚邸の跡地の周辺は、今も果穂子が見ていた景色を保っているだろうか。果穂子が愛した日々と共に。
流れる。流れる。電車の窓から見えるこの景色のように、時間の経過には抗うことはできない。たとえ今に至るまで果穂子に(まつ)わるものも、金魚邸もそのまま残っていたとして、変化を留めることなど出来はしない。

降り立った駅は旧佐伯邸の最寄駅から六つ先だった。白川町一番の繁華街を一つ過ぎた駅だ。果穂子の時代はどうであったのか知らないが、割と洒落た場所であることに驚く。佐伯邸の周辺もある程度栄えているが、こちらの方が幾分賑やかな印象だ。比較的平らな土地だという事も関係しているのだろうか。駅自体は綺麗だけれど中規模で、周辺はカフェや本屋、雑貨屋などがちらほら建っている。やはりここも図書館まわりの環境と同じく観光客を意識した街並みだ。三人で揃って降り立ったその土地は、見慣れなさ故の物珍しさを除けば特に目立って特徴的な印象はなかった。
「歩いて十五分位らしいから。昨日お母さんに地図描いて貰ってきた」
「そうなの? 」
聞けば、昨日六花が仕事で家を空けていた間に近所にある実家に行って金魚邸についての情報を教えてもらったという。
「言っても大した事は分かんなかったんだけどさ。『あそこには昔果穂子っていう病気のお嬢さんが住んでたことがあるらしい』って、本当それだけ。はっきり知れたのは金魚邸の詳しい場所だけ」
果音ちゃん歩くの平気、と声を掛けながら亜莉亜は果音と手を繋いだ。
「ありがとね」
歩き始めながら六花が少し驚きを含ませた声でそう言うと、珍しく亜莉亜は歯切れ悪くうーんと唸った。
「正直、私情も混じってる。あの日記読んだら、私も個人的に果穂子のこと知りたくなっちゃった」
あんな日記を書いたのがどんな女の子なのか、あの子が何を言いたかったのか、興味あるんだよね──、そうさらっと言う亜莉亜の視線は歪な鉛筆書きの地図一点に向けられていてどんな表情をしているのか分からなかった。
十五分で着くはずのその場所に、散々迷って六花たちは三十分ほどの時間を要して辿り着いた。亜莉亜の母親の描く地図があまりに主観的で絵本のような世界観だからこれは仕方ない。金魚邸の跡地だというその場所はそう指摘されなければ全く分からない程現代の住宅地と化していた。
「普通のアパートだね」
拍子抜けして思わずそう漏らした。
「すぐ貸土地にしちゃったからね」
想像していたより幾分広いその土地には、まるで昔からそこにあったかの様に馴染んだ三階建てのクリーム色のアパートが建っていた。金魚邸などなかったみたいに。アパート周りはフェンスと密に葉の茂った生け垣でぐるりと囲ってある。
果穂子の日記にはよく庭の木々や金魚池の記述が出てきたが、それらもみな切られたり埋め立てられたりしてすっかり更地になってしまったのか。考えてみれば当然の事なのだけれど。
「なんか思い出す?──って無理か」
「無理かなあ」
実のないやりとりに果音がくすくす笑った。
「ちょっとこの辺り歩いてみようか。何か思い出すきっかけがあるかも知れない」
六花の意見に二人は賛成して、特に目的地を決めずにふらふらと歩き始めた。
歩きながら六花はもう一度自分の記憶を思い返す。
あのひんやりと肌を覆う暗い部屋の空気感。隅々まで探らずにはいられないような謎めいた魅力。そう、あそこはすっかり埃まみれだったにも拘らず、異国情緒溢れる家具やら見たことのない珍しい道具がひしめき合っていて、美しい古美術展の様な趣があったのだ。物置きの様な場所だったのだろうか。そもそも六花はどうしてあそこに迷い込んだのか。あそこに迷い込んだきっかけは一体何であったのだったか。
「眺めめっちゃいいな! 」
亜莉亜の声で六花は現実に引き戻された。そこは、住宅街や疎らに生えていた木が途切れて、唐突に雑草が斜面全体に生えた見晴らしの良い丘だった。繁華街から一駅分離れただけのこの土地はこんなに標高が高かったのか。
「ほら果音ちゃんバスが動いてるのすごく良く分かるよ」
街が一望できる広々しい丘。果穂子も時折ここへ来てこの景色を眺めたことがあったのだろうか。昱子と共に。誰ともなく三人で腰を下ろす。もうこの季節、雑草は半分枯れた藁みたいな黄色になりかけている。みんな防寒はしっかりしているけれど、それでも吹いてくる風で耳辺りが冷たい。
「知ってる?」
亜莉亜が唐突に切り出した。
「昔──果穂子の時代かな。あそこのショッピングモールになってるとこ、デパートだったんだって」
「そうなの? 」
「バブルが崩壊した時に撤退しちゃったらしいんだけど。白川町にデパートがあったとか驚きだよね」
確かに驚きだった。でも、当時は資産家が沢山いた土地だったというし、きっととても栄えていたのだろう。果穂子が昱子とリボンを買いに行った百貨店というのはそこのことだろうか。いずれにしても昔の話だ。
ふと思う。果穂子や昱子だけではない。六花たちもまた当事者だ。六花たちも、あの時三人でここに来て一緒に景色を眺めたよね、と晩年振り返るときがいつか来るのだ。果音ちゃんなんてまだ小学生だったよね、などと懐かしい顔で語り合うのだろうか。語り合える機会は来るのだろうか。
「寒いね」
亜莉亜は立ち上がる。私達はもう一度金魚邸跡に戻ることにした。
「聞こえた合唱と赤い色の正体のどっちかでもヒントがあれば良かったのにねえ」
ピアノ付きの合唱なんて聞こえて来る機会とか場所とか限られて来るでしょ、と歩きながら亜莉亜は六花に振る。
「でも、所詮記憶だしね。記憶なんていつのまにか足したり消えたりして、曖昧だし」
段々に自信がなくなって来る。赤い色の記憶だって、あそこで見たものではないかも知れない。取り壊す前の金魚邸の池に赤い金魚が泳いでいて、その記憶と混ざったのかも知れない。どうだろう。でも、もっと大きかったような気もする。
金魚邸跡地のアパートの前の広めの道路の交通量はまばらだ。そこにいかにも観光用といったデザインのバスがやって来て、アパートの目の前で止まった。
「あそこにバス停あったんだ」
バスの向かいの横断歩道側で信号待ちをしながら亜莉亜は呟く。
「収穫もなさそうだし、次に来たバスで駅まで戻っちゃおうか。観光用だしすぐ来るでしょ」
果音はそれでいい、ともう適当に呼び捨てにして問いかける。果音は素直に頷いた。
「るねちよの事は全然分かんなかったね」
言われて、亜莉亜と顔を見合わせる。そうだ。留根千代の謎もあった。彼に至っては何から手を付けていいかさえ分からない。
バス停の時刻表によれば次のバスは十分後には来るようだった。駅まで直通だ。一休みするには丁度良い時間かも知れない。まだ昼前で、大した事もしていないのになんだか疲れてしまった。亜莉亜も同じようだ。この土地に着いて彼女の母のメルヘンな地図に迷った三十分で地味に消耗した。娘の名付けのセンスといい、あの人のふんわりとした感じは確実に亜莉亜に遺伝している。果音だけが元気で、バスを待つ間もひたすらうろちょろしていた。と、急にこちらにやって来て六花の腰のあたりをつつく。
「どうしたの? 」
「小学校って書いてあるよ」
果音は唐突にそんなことを言いだす。
「どこに? 」
果音はバス停の立て札を指差す。え、と近付いて停留所名を見て驚く。
──南小学校前。
丸い立て札に太字でそう記されていた。こんな目立つ表記に気が付かなかったなんて。
「小学校って──無いよね」
こちら側にはアパート、向かい側には大きな食品工場があるだけだ。
「でもバス停には小学校前ってあるよね」
「なに話してんの? 」
亜莉亜も二人のやり取りに入ってきた。
「いや、停留所の名前がさ」
六花が言いかけるや否や亜莉亜は目を見開いて、でかした、と叫んだ。
「小学校ならピアノで合唱するじゃん! 」
「だからその小学校がないんだって」
「そんなの! 今ないだけでしょ」

駅に着いたら腹ごしらえするよ、それから聞き込み調査するか──、と亜莉亜はにわかに元気を取り戻して言った。

一九二六年 三月十日 果穂子

《気力が保たないとでも云ふのでせうか、普段は気丈(きぢやう)を振舞っている果穂子も時折本当に駄目になってしまいます。そんなとき昱子姉様やテイさんに弱音でも吐けると好いのですが、果穂子は甘え方ひとつさへ碌に分からないのです── 》


水はどこまでも透明なのに、多くの人は水を絵に描くとき、何故青い色を使うのか。そんな疑問を昱子に投げかけたことがある。
「この池を見るたび不思議なの。水って透明でしょう。全然色は付いていないでしょう」
小枝で水面を突ついていた昱子は疑問顔でこちらをじっと見た。
「だのにどうして、大体の人の頭の中には“水は青色”と云う概念があるのかしら。学校で絵を描かされるとみんな水のところは青で塗るし、勿論わたくしもそうしたわ。だけど別に深く考えてそうしているわけでは無いの。特に考えているのでもないのに何故青色なのかしら」
どちらかと云うと、絵を描くために突き詰めるならば果穂子にとって水の色は濁りや影も含んで大抵昏い色の印象だったのだ。この金魚池だってそうだ。覗いた水の底は果てしなく暗く、黒色(こくしょく)に近い。
けれども昱子はあっさりと予想外のことを云い放った。
「あら、海は青いじゃない」
その発言に果穂子は息を呑む。そうか、海は青いのか。
「空が映り込んで自然と青く見えるわ」
昱子は持っていた小枝を無造作に放って、面白いことを考えるのね、と果穂子に笑いかけた。生活の中で普段見る水辺が池や川だけで、海をまったく念頭に置いていなかったことに果穂子は漸く気が付く。きっと昱子のこういうところに果穂子は惹かれているのだと思う。同じような歳で同じ地域に住んでいるのに、一つ所に考え方を固定せず、広くて自由な見方が出来る昱子。云いたい事があれば変に遠慮したりせず自分の意見を気持ちよく発する昱子。そんな性格に憧れて、自分もそのようにありたいものだと思った。
病身になって思う。普段の生が、平坦な日々の生活がなんと得難いことか。
ほんの小さな幸せと思っていた事々がなんと大きな幸せだったことか。


微熱や怠さも手伝ってか、こうして休んでばかりの毎日だと今が何日なのか何時なのか、だんだんぼんやりと分からなくなってゆく。現実の世界から、遠のいてゆく。しかも、ひとり布団に潜り込んでいると悪い考えがふと(よぎ)るのだ。
──果穂子はそもそも、だれに必要とされているのだろう。
これは果穂子を掻き乱す呪文として酷く良く効いた。そうすると、病気なぞ何が何でも治そうとしなくとも別段好いような気になってくる。考えてはならぬとは思うのだが、如何してもそちらの思考に強く引かれてしまう。果穂子は布団の中で歯を食いしばって身体を丸めた。そうやってじっと固まって遣り過すのが習慣になった。
けれども生きる意味が判然としなくなるのとは別に、“残したい”という衝動は体が弱っていくにつれ却って果穂子の中で日に日に強くなるのが自分でも不思議なのだった。

金魚邸は蔵と母屋が一つに繋がっている造りだった。勝手場にある、開けにくく重たい木の引き戸から先が蔵になっていて、やや狭くはあったが本邸で使わなくなった家具などをいくつか置くだけの用途なので別段不便はなかった。蔵内の明かり取りはかなり高い所にある小窓のみで薄暗く、いつもどこかしら冷気を纏っている。その中で特に場所を占めているのがマホガニー製の長方形をした大机で、長い辺を下にして裏面が此方側に来るように立て掛けられたそれは蔵の面積の大部分を占めているのだった。果穂子は此処に移されて間もない頃から、その机の裏にこっそり日記を記していた。ただ紙に書いたのではきっと誰かにいつか処分されてしまうという危機感を抱いたのは、無意識に環のことを思い浮かべたからだろうか。テイだけが果穂子のその習慣を承知していて、尚且つ許してくれた。普段は埃除けの大きな布が被さっているので一見しただけでは気付かれない。
苦しさや恐ろしさの分だけ、体力の許す限り果穂子は大机の裏に文字を連ねる。書きたい衝動は病が重くなるにつれいっそう熱を帯び加速してゆく。テイがあんまり心配して止めることもあったが、構わなかった。そうしないと居られなかった。あの八木重吉という詩人の詩のように、残すことだけが果穂子に与えられた使命のように思われたのだ。そうしてそれと同時に、ここまでして残した果穂子の生きた証を誰が守ってくれるのだろうと不安にもなった。
──留根千代。
もう逢うことの叶わない瞼の裏のその面影を追う。留根千代なら、果穂子のことを覚えて、一緒に果穂子を連れて行ってくれるかしらん。
留根千代は自由だ。果穂子と違って、望めばなんでも出来る。何にでもなれる。
果穂子にはもう留根千代の他いない。他の人は頼れない。留根千代。いとしい留根千代。わたくしを忘れないで。わたくしを死なせないで。死んでなんにも無くなってしまうのはどうしても嫌なの。肉体的な辛さより、そちらの方が(こた)えるの。
──かあさまもこんな事を思われたのかしら。
ふとそんな事を思う。臨終の間際、あなたはどうやって耐えていたのですか。あなたが縋った救いは何でしたか。そしてあなたに、残せたものはあったのですか。



もうずっと昱子の顔を見ていない。とは云っても彼女は此処へ相変わらず訪ねて来てくれる。昱子は襖の向こうで声だけ掛けて、果穂子の体調の良い時だけ他愛もないお喋りを幾らかしては帰ってゆく。
昱子の心遣いは嬉しかった。しかし、テイから聞くところによると、昱子は父親から金魚邸への訪問をいよいよ強く反対されているのらしい。彼女のことだから大いに反発しているに違いないが。
結核と診断されてから、果穂子の体の調子は良くなったり悪くなったりの繰り返しである。気分が良くて外に出られるときもあれば、熱が下がらず何日も寝込むこともある。最近では喀血も何度かある。罹ってから一年半近く、一向に好くなる気配がない。一通りの治療や対策は試みたが、おそらく治りはしないのだろう。同じ病であったかあさまを見ていたから分かる。TB(テーベー)は不治の病なのである。
──何時(いつ)までもこんな事ではいけない。
昱子姉様は、未来のあるお方だから。感染でもして果穂子のような思いなど決してして欲しくはないから。


寝床を替えて貰ったばかりの布団に横たわると、白い敷布の上に果穂子の下ろしっぱなしの黒い髪がパッと広がった。それは艶々と生命力に溢れ、日毎(ひごと)に弱ってゆく果穂子とはまるきりの対照をなして豊かに輝くのだった。
果穂子はテイの視線に気がつくと出来るだけ穏やかに微笑み、それからふと気づいて廊下の引き戸から見える庭に視線を移した。
山茱萸(さんしゅゆ)の花、」
布団から青白くしなびた手を出して外を指差す。
「もう咲いているのね」
くすんだ枝先にやわらかな黄色がちらほらと灯っていた。山茱萸は、春一番に咲く花。これが咲いたあと他の木々が一斉に花ひらく。
「桜は見られるかしらね」
「ご覧になれますでしょう、それは」
テイは質問の意味を確認することもせず何でもないことのように返した。口周りを手拭いで覆っているので表情が分からない。
「テイさん」
呼ばれた彼女は花瓶の底の水滴を拭いながら何ですかと応じる。
「わたくし、もう昱子姉様に此処には来ないでと云うわ」
束の間、テイの手が止まる。止まったのはそのひと時だけで、再び仕事を再開し始めた。
「──そうですか」
暫し沈黙が訪れる。では、と云ってそのままテイが出て行こうとするので果穂子は起き上がって彼女の背に問いを掛ける。
「テイさんは怖くはないの。ずっとわたくしの世話をされて。テイさんまで感染されたら──」
「お嬢様」
思いの外強い声に、果穂子は黙った。
「わたくしはわたくしのやりたいようにやっているのです。なに、婆ですからこの歳になってそれ程恐ろしいものなんて大してありはしませんよ」
言葉を継げない果穂子にテイは言い添える。
「果穂子お嬢様ももっと気持ちを強くお持ちなさいませ。大丈夫ですから」
そう云ってテイは半分隠れた顔のままにっこりと笑い顔になった。
果穂子は薄情な娘だ。テイにはそのまま居てもらう癖に、昱子の方は捨てるのだ。与えて貰った愛情や友情に対して何も返せてはいないのに、一方的に捨てるのだ。



もうやめて欲しいの、と午後に訪ねてきた昱子に切り出したとき、果穂子は声の震えを抑えるのに大変苦労した。襖一枚隔てて二人の距離はおそらく頭一つ分も開いていないだろう。襖に寄り添って果穂子は続ける。
「中途半端に優しくして頂いても、困るだけなの。傷付くの」
「何を仰ってるの」
昱子は困惑した声音で返した。
「全然意味が分からないわ」
「では、後腐れないようにハッキリ云うわ。もう此処には来ないで頂きたいの。御免なさい、今までありがとう」
出来るだけ明瞭に、出来るだけ冷たい響きになるようにそう告げる。しかしこの程度で容易く折れる昱子でないことは果穂子も知っていた。
「あなた、我儘よ」
昱子はピシャリと返す。
「あなたが何を考えているか知れないけれど、ご自分の考えだけで勝手に結論を出して、他の人に黙って従ってくださいと云うのは傲慢なのではなくて」
果穂子さんはわたくしの気持ちを考えたことがお有り、昱子の声は普段より低かった。時折深呼吸のような息遣いが聞こえる。怒っている。
「果穂子さんがどう思われているか知れないけれど、わたくしは」
「どうせわたくしたちは遅かれ早かれ離れてしまうのよ」
感情を含めぬように、気持ちを空にするように、それだけに集中して果穂子は声を出す。
「それが現実よ。ずっと今のままがいいって、わたくしと一緒がいいって前に昱子姉様は仰ったけれど、そんなの綺麗事でしょう。じきに昱子姉様もお嫁に行かれて今のままではいられなくなるのだわ。その前にもしわたくしの病気が感染(うつ)ったりしたらどうするの。お家同士の揉め事になるわ。そんなのは嫌よ」
「果穂子さんあなた変よ! どうしてそんな風に考えるの」
「説明したって無駄だもの。誰からも愛されて育った昱子姉様には分からないことよ」
その一言が昱子には効いたようだった。昱子には分からない。昱子には果穂子と心を通じあわせることなど出来ない。親友などではない。果穂子はそう云ったも同然だった。襖の向こうでは暫く沈黙が続き、やがて洟をすする音が聞こえた。
「──馬鹿よ」
馬鹿よ、昱子は()さい()のような泣き声で只々そう繰り返した。
「果穂子さんは、馬鹿よ」



昱子が帰ってから果穂子は身体中の力をすっかり失った。
襖にもたれたまま布団に戻ることすら出来ずに、ボンヤリと廊下を隔てる障子の枠を見つめる。果穂子は昱子を一体どれ程傷付けただろう。どれだけ非道いことをしたのだろう。けれど、ここまで強引でないと果穂子は流されてしまいそうだった。自分の感情と、昱子の優しさとに。けれどきっと、この別れかたは模範的とはとてもいえないものだっただろう。恐らく果穂子のやり方は色々正しくなかった。間違ったことをした。あれほどしてくれた昱子の心を滅茶滅茶に傷付けた。
ほんとうはもっと美しくて、もっと優しい別れ方をしたかった。
──あなた、我儘よ。
──果穂子さんは馬鹿よ。
その通りで云い訳も出来ない。自分の方がずっと非道いことを云ったのに、こんなありきたりの言葉に傷付くなんて、笑ってしまう。
──もう会えない。
今更その現実がズシンと重くて、急に死への恐怖が濃くなって、いつのまにか頰に涙が伝っていた。
テイが廊下側からやって来て、そっと声を掛けて障子を開ける。
「あんまり上手な断り方では御座いませんでしたね」
歯に衣着せぬテイの物言いに果穂子は不意を突かれて笑う。ほんとね、と云った弾みに新しい涙がもうふた粒零れて落ちた。
「わたくし、ちっとも分かっていなかったの。人をわざと傷付けるのは辛いわ。独りは怖いわ。死ぬのも怖いわ」
泣き顔を見られて気が抜けた。決して吐くまいと思っていた弱音も思わず漏れる。
「わたくし、大人にもなれずに死ぬのかしら」
昱子を苦しめたままで。たった独りきりで。
まだ、全然。
わたくしは全然。
一人前でもなく、生きている意味も全然なにも残せてはいないのに。
「──大人なぞ居ないのです。本当は誰もが大人にもなれずに死ぬのです」
その場に座ったままぽつりと穏やかに、テイは応えた。
「きっと誰もがそうで御座いましょ。わたくしだってこんな婆ですけれど、心はずっと娘のままなのですから」
「そうなの──」
果穂子は縋るようにテイを見つめた。何の答えにも、解決にもなってはいなかったけれど、それでも果穂子の奥の方の何かが少し満たされる心地がした。


昱子の夢を見た。夢の中の昱子はなぜだかいっそう綺麗だった。果穂子が冷たく突き放したことも果穂子の病気も無かったことなっていて、仲良さげに二人して何処かを歩いている。
昱子の薄桃色のワンピースは強風ではためき、フレアのスカートが緩やかにひらめく。果穂子の赤い着物も落ち着き無く揺れている。
──金魚みたい。
揃いのリボンや帯は背びれ、そしてスカートの裾や着物の袖は尾のように。昱子は風を楽しむかのようにクルクルと回る。
──ねえ。果穂子さん。
昱子の声が水の中みたいにぼんやりと耳に響く。
──知っていらっしゃる? 永遠を願うことは我儘なんかではないの。歳を取りたくないって云う気持ちもよ。

──────────

何処かで聞いた言葉で目が覚めて、次に自分が涙を流していたことに驚く。心臓がわくわくと落ち着かない。果穂子は床から起き上がった。外は春の嵐なのか、先ほど見た夢のように風が唸っている。
居ても立っても居られず、果穂子は灯りを点けて久し振りに文机に向かった。そうして便箋を取り出して貪るように筆を執る。書き始めるともう止まらなく、取り憑かれるように筆を走らせた。


昱子姉様へ
こんなに長い間一緒に過ごしてきたのに、これがわたくしから昱子姉様への最初のお手紙です。
わたくし達が初めてお会ひしたときを覚えておられるでせうか。まだお邸に来たばかりで緊張(きんちやう)し通しだった果穂子に、昱子姉様は妹が出来たみたいと云つて受け入れて下さいました。あたりまへのやうに手を繋いでくだすつて、亡くしたかあさまに手を握られてゐるやうでした。それがどんなに嬉しかつたか知れません。
思えば、果穂子はいつも受け身ばかりでした。みんな昱子姉様にして頂いて成立するものばかり。恩返(おんがへ)しが出来ればとずつと思つてゐたけれど、それが叶わず申し訳も御座いません。却つてあの日、昱子姉様を酷く傷付けてしまつたこと、本当に御免なさい。

いつかわたくしに永遠のお話をしてくだすったことを憶えておられるでせうか。
永遠を願う事は我儘ではないのよ、と貴女はわたくしに教へて下さいました。近ごろのわたくしにはようやつとその言葉が深く染み入ります。
わたくしが望むのは、永遠に残る証です。
佐伯果穂子がこの場所この時に生きていたといふ、存在の証が欲しいのです。

死とは一体何なのでせう。死とは、生き返らないもののことを呼ぶのでせうか。もしもそうならば、果穂子は屹度(きつと)生き返つてみせます。そうしたら、死んだことにはならないのでせう。
ですから、わたくしのことで悲しまないで。わたくしのことを忘れないで。でも、もしもお辛くなるのならわたくしの事はわすれてくださいな。そうしてどうか御幸せになつて。いつか素敵な結婚をなさつてください。可愛いあかんぼを生んでください。

昱子姉様はわたくしの宝石のやうな方でした。貴重(きちよう)で、憧れで、お会ひするたび魅了されるのでした。貴女と居ると、わたくしまでもがなにか素敵な人間に思へてきて夢のやうなのでした。
頂いたリボンと御写真と、あの日の二人だけのパーティはずつとわたくしの一番の宝物だつたのよ。
貴女のようなお方は他にはいらっしゃいません。

昱子姉様、大好き。





大好き。

──果穂子より



胸に鉛が詰まったようだった。
書くだけ書いたその手紙を果穂子は几帳面に畳んで、畳んで、畳んで、畳んで、最後に手の中できゅっと握り締めて緩めた手から滑らせてくずかごの中にそっと落とした。

2025年 晩秋 六花 3

軽やかなリズムだった。その澄んだ声は幼心にもなにか心惹かれるものがあった。
そうだ。六花はコーラスの出どころを探ろうと邸のあちらこちらを覗きまわったのだ。そうして、吸い寄せられるようにあの引き戸の前へ辿り着いた。
幼いなりの力を込めて、六花は開けた。果穂子の世界を。



結局何か分からないことが出るとこの人を頼ってしまう。
「いらっしゃるたびに人数が増えるのね」
早ゆり婦人はいそいそと四人分のティーカップを運びながら笑って言った。
「すみません」
「金魚邸の跡地にまで行かれたなんて吃驚よ。若い方は行動力が違うわ」
「いえ」
行動力があるのは亜莉亜である。彼女の発言がなければ金魚邸の場所など突き止められないものと思っていたのだから。手土産にあの街で買って来たロールケーキを各皿に並べるのを手伝いながら六花は頭を下げた。
結局、六花たち三人は戻ってきたその足で、早ゆり婦人の家を訪ねたのだった。あそこで何か探ろうとしても、足りていないピースが圧倒的に多いと実感したのだ。
「──いえね、あなたとお知り合いになってからここのところ本当に楽しいの。うちにいらっしゃる方といえばずっとヘルパーさんかご近所さんだけだったから」
こうして若い方と仲良く出来るなんて願ってもいないことよ、早ゆり婦人が突然の訪問を温かく受け入れてくれるので少しほっとする。彼女の言葉がまんざら社交辞令でもないのが伝わるのも嬉しい。
「あら果音ちゃん、今日は髪の毛がとっても可愛いのね」
「私がやってみました! 可愛いですよね! 」
亜莉亜が茶葉を取り出しながら満面の笑みで自画自賛する。それを受けて果音までが照れてもじもじしだす。きっかけが出来た亜莉亜と早ゆり婦人との間でしばらくヘアスタイル談義に花が咲き、とうとう六花にまで飛び火する。六花には冒険が足りないだの、若いのに勿体ないだの、果ては亜莉亜にプロデュースして貰ったらいいだの具体的な案まで出て辟易した。確かに六花の髪は染めもいじりもしないシンプルな黒いストレートだけれど。婦人まで亜莉亜と一緒になって、まるで女子大生だ。
今更だが、考えてみれば早ゆり婦人はあの高篠昱子の娘なのである。新しい物好きで時代の先をゆくカリスマ性のある昱子の娘。こんな場面でそういうところを実感して何だかおかしく、少し不思議にも感じる。



金魚邸跡の最寄駅前にある昔ながらの食堂で昼食を取ると、すっかり亜莉亜は元気と意欲を取り戻した。水を継ぎ足しに来てくれた年配の女性に亜莉亜は躊躇うことなく明るく話しかけた。
「私達、観光で来たんですけど」
観光、という言葉選びにやや驚く。言われてみれば観光と言えなくもないし、そう言った方が相手もこちらの状況を理解しやすいのだろうけれど。
「さっき乗ったバス停の名前が『南小学校前』ってなってたんです。でも、近くに小学校っぽいのがないのがちょっと気になって」
店の女性は、あー、と合点がいったというようにぱっと目を見開いて、持っていたピッチャーをテーブルの上にどん、と置いた。
「あそこはなあ、どっかの小学校と統合されたんだわ」
亜利亜の質問は呼び水となったようだった。
「せってもそんな昔の話でもねえな。確か五、六年くらい前だったかや、子どもも少ねえし割と小さいとこだったからしょうねえやな。今あそこは食品工場が買い取っちまったからまぁんず跡形もねえけど──」
エプロンをした腰に手を当てて店中に響くようなヴォリュームで次々話しだす。いや、思い返してみればこの人は最初の『いらっしゃい』からこれ位の声量だったかも知れない。常連らしき店内の客達は誰一人として動じないのでいつもここはこういう雰囲気なのだろう。若干度肝を抜かれたが、それはそれとしても彼女の証言で金魚邸跡の向かいに五、六年前までは小学校があったという事実は確証されたと言える。亜莉亜は期待の篭った目で六花と果音を一瞬見て女性に視線を戻し、
「おばちゃん昔からここの人? 」
全く動じることなく会話を続ける。さり気なく敬語が抜けている。女性はそうだがや、と肯定した。
「じゃあその向かいにあった金魚邸のことも知ってる? 」
「なに、お姉ちゃん達金魚邸見に来たんか」
たまげたなあ、女性は一層声を高くした。
「あそこを見に来る観光客がいるとは思わねかったわ! 」
聞けば、女性が子どもの頃から、金魚邸は滅多に持ち主が訪れない、ひっそりとした場所だったそうだ。大人たちがそこを『金魚邸』と呼んでおり、子どもらも訳も分からず真似して同じように呼んでいたという。けれど、そこに金魚など一匹もおらず、それが幼心に不思議だったと、女性は語った。
「まあ確かに立派な建物だったけどな。取り壊されっちまってお姉ちゃん達残念だったに。あんなとこ良く知ってたなあ」
女性は感心する。
「あの、ちなみに──その金魚邸繋がりで『るねちよ』っていう人のことを聞かれたことはありませんか」
「おれは知らねえな。初めて聞いたわ」
六花が尋ねると、女性は何やら神妙な面持ちで首を傾げた。




「──そんなことがあったの」
六花の説明を聞いて、早ゆり婦人は手を胸に当てながら何度か頷いた。
「結局分かった情報は、私と亜莉亜が初めて金魚邸に行った頃は向かいにまだ小学校があったということ位でした。でも、それを聞いているうちはっきり思い出したんです。どうして私があの時あそこにいたのか」
婦人はそうなの、とだけ言って六花から目を逸らさず、続く言葉を穏やかに促した。
「歌声の出処を探していたんです」
開け放たれた雨戸から差し込む眩むような白い日差し。初めての場所。大人達はあちこち動き回っていて、亜莉亜は自分の母親にくっ付いていた。六花はただ独り自由の身でそこにいた。だだっ広い畳の部屋の向こうに見える庭が何やら面白そうで、六花は靴も履かずに庭へ下りた。その時だった。不意に歌声が聞こえたのは。
「あの歌声に導かれるようにして、私はあそこに居たんです」
そう。導かれるように。
実際ピアノと合唱の()は通り向かいの小学校から聞こえて来たのだろうけれど、あの時の六花にはそれが分からず、邸の敷地内中をうろうろと探ったのだった。
そうしているうちに恐らく勝手口だろうが、庭の方からも入れる入口を発見して躊躇なくがらりと開けた。中は土間になっていて、がらんとした不思議な空間だった。ひとまわり見回すと、邸の奥へ続きそうな薄いガラスが嵌め込まれた戸とは別に、一際ひっそりと日の届かない空間に、厚みのある重そうな木の引き戸があるのに気が付いた。
──歌声はあそこからきこえるんだ。
あの時の六花にはどうしてもそう思えた。だから、小さな体に目一杯力を込めて戸を押したり引いたりした。引戸はずず、と少しずつ空間を広げ、六花はその空間に自分の身体をねじ込んだ。
「そこで例の大机を見たという訳ね? 」
婦人は納得したという風に尋ねた。
「はい。実際そこに入ったら、置いてある色々な珍しいものや大机に関心が移ってしまって、合唱はただのBGMになってしまったんですけど」
「その時机は立て掛けられていた? 裏側は見なかったの? 」
「え? 」
言われて初めてはっとした。
「──今のところ机のことで鮮明に思い出せるのは、机に積もる埃と端に縁取るように彫られた装飾だけで、置かれ方に違和感を感じた記憶は特になくて──」
「机に埃が積もっていた、ということは普通の置き方をされていた可能性が高いわね」
「そう──ですね」
早ゆり婦人は鋭い。六花は目が開かれた思いだった。
「裏側まで見たかどうかは、正直微妙なところです」
見たか、見ないか。今のところ断言は出来ない。けれど、机の下に(しゃが)み込んで潜った記憶は無いように感じたのだった。

皆でロールケーキを食べ終えひと息ついたところで、六花は最終部分まで全てプリントアウトした日記を早ゆり婦人に差し出した。
「これに就いても手掛かりを掴めなかったんですが──。早ゆりさんは『留根千代』という人のこと、お聞きになったことはありますか」
婦人は不可解な顔で紅茶のカップを置く。
「なあに」
「日記の後半で、唐突にこの人についての記述が幾つも出てくるんです」
六花は記述のある部分を指し示す。
「しかも日記を追うごとにどんどん増えてくるし、果穂子さんの執着具合がちょっと怖いくらいなんです」
聞いたことないわね、と言いながらも婦人は眼鏡を外して顔を寄せ注視した。
「読みが分からないので、私達は勝手にるねちよと呼んでいるんですけど」
「るねちよ、ね」
少し読ませて、と婦人はしばらく日記を顔から離したり近づけたりして読み込む。やがて読み終えた婦人は日記をテーブルに戻した。
「確かに、依存していると言って良いくらいの執着だわね。あなた達としては、この方は果穂子さんにとってどんな存在だと考えているの? 」
亜莉亜の方に顔を向けると、彼女は果音の紅茶にミルクを足してやりながら、六花にそのまま続けるように目で促した。
「果穂子さんはこの人と恋愛関係だったんじゃないかという気がして……。昱子さんにまで関係を隠すなんて、よっぽどのことだと思うんです」
「そうね。確かにそうだわ。でも──」
婦人は不可解そうに顔を顰めた。
「そうだとしたら、何故母に隠さなければならなかったのかしら。それにいくら内緒にしている関係だと言っても、母がそのことに全く感づかないというのも不自然なように思うの」
納得いかないというように首を傾げる。
「わたくしの存じている限りでは、生涯果穂子姉様といちばん親しくしていたのは母だったと認識しているのだけれど──」
婦人は日記のその部分にもう一度視線を向ける。
「それにしても変わったお名前ね。母の時代、こんなお名前なら相当目立つはずなのだけれど。母の名前でさえ、昱の字がちょっと珍しいから割合と浮いたみたいよ。でもこの方の場合はさらに──」
婦人は日記のその部分に目を落として暫く考え込む。
「るねちよ、と読むのだとしても、この人、ちょっと疑問ね。こんな人本当にいらしたのかしら」
え、と婦人以外の三人が声を上げた。婦人は変わらぬトーンで続ける。
「そもそも──男性なのか女性なのか分からないわ」

留根千代。
実在性を疑われ、しかも性別不明。早ゆり婦人の言葉は六花にとって衝撃だった。恋人に宛てた手紙のようなその文面から、てっきり留根千代は男性だという固定観念があったのだ。
「よく考えたらあれ、本名じゃないかも知れないしね。二人の間だけで通じる渾名(あだな)とか。果穂子が作り上げた架空の人物とかさ」
婦人宅からの帰り道、亜莉亜がぼんやりとそんなことを嘯く。確かに、そう考える方が自然なのかも知れない。今日は何だか色々疲れた。各々何か思うところがあるのか、道中三人とも言葉少なだった。亜莉亜は夕飯を食べ終えたら今日のうちに夜行バスに乗って今の住まいに戻るという。
「なんか分かったら私にも教えて」
「そうする」
亜莉亜に答えながら思案する。留根千代に就いては、明日からもっと違う仕方で探らなければならない。



果音を送り届けてから亜莉亜と二人で食材の買い出しをして家に戻った。何だかこういうのは久し振りで、少し懐かしく感じる。
亜莉亜が帰りの準備をしている間に六花の方は夕食の準備を進めた。勝手を知っている家の中で、彼女は洗濯した服を取り込んだり美容道具を仕舞い込んだりしている。
互いに背中合わせの状態で、亜莉亜がふいと話しかけてきた。
「果音ちゃんの親って忙しい人なの? 」
何でもないようなさりげなさを装ってはいるが、どこか探るような言い方だった。今日送り届けた時も、日曜なのにも(かかわ)らず家には母も兄も不在だった。事前に果音の母親に許可を取りはしたが、昼食も跨いで一日連れ回したにも拘らず、アパートに行ってみればあんな様子だ。果音はお母さんは仕事が忙しいからとしか言わないが、本当にそれだけが理由なのだろうか。
「一応忙しい人だとは聞いてる。シングルマザーだって」
振り返って答えると、ふうんと亜莉亜は靴下をひと組みにまとめ、何やら考え込んでいた。
「果音ちゃんってさ、緊張すると物凄く顔が(こわ)ばるでしょ。一見睨んでるようにも見えるやつ」
そうだ。図書館で消しゴムを落とした時も、亜莉亜に髪を巻いてもらった時も果音は緊張を感じると決まってあの表情になった。
「気にしてくれてんの」
「六花と、似てるなと思った」
「私、あんな顔してた? 」
面食らって思わず声が高くなる。
「子供の頃はよくそうなってたよ。多分果音ちゃんと同じ。緊張してる時にああなってたんだと思う」
性質が似ている自覚はあった。それゆえに助けたいと思い関わり合いになったのだ。
「あと、聞き分け良過ぎない? 親離れも出来過ぎてる気がする」
亜莉亜がそう指摘したとき、六花の胸に重大な嘘が暴かれた時のような緊張と恐ろしさと居心地悪さが一気に襲った。
「六花、実家には帰ってる? 」
「──なんで」
意地悪な質問だ。亜莉亜は知っている癖に。
「果音ちゃんも心配。だけど私が心配してるのは六花のほう」
六花は亜莉亜に背を向けたままひたすら野菜を切り刻み続けた。そうせずにはいられなかった。やめて欲しい。もうこの話題はやめて欲しい。
「六花は自分の感情にわざと鈍感になってるでしょ。出来るだけ自分の傷のことは考えないようにしてるでしょ。そうやって安定を保とうとしてる」
普段はふわふわしているのに、亜莉亜は時々容赦ない言い方をする。マイナスのことを考えないようにする事のどこが悪いというのだ。いつまでもうじうじと考えた方が良いとでもいうのだろうか。
「──別に。古傷だし」
「いつもそう言うけど、古傷じゃないよね、それ」
思いがけない言葉に六花は手を止める。包丁を置いて、背後の亜莉亜をゆっくりと顧みた。光量の足らない蛍光灯の下で、亜莉亜の奇抜な髪色は矢張り目に痛い。
「傷のとこ、定期的に自分で押し拡げて痛がってるよね。だからいつまでも治らない。拡げたその形のまんま、癖がついちゃってもう戻んないんでしょ」
果穂子と同じじゃん、と亜莉亜は言った。
「辛いことは考えようとしない、人に頼らない、踏み込んで行かない果穂子と同じじゃん」
(まばた)きさえも忘れた。多分、六花は今亜莉亜を睨むような目で見ている。子どもの頃みたいに。
別に実家に帰んなくたって良いよ、私も良いとは思えないし──、畳んだ洗濯物を膝の上に積んだまま亜莉亜は静かな声音でそう言った。
「でも癒せるよ、それ。六花自身だって無自覚だけど癒そうとしてる。果音ちゃんに関わるのも、果穂子を追うのも、本当は自分を癒したいと思ってるからじゃん」


同情なんかしてあげないからね、亜莉亜の声は抑揚なく響いた。

2025年 晩秋 六花 4

母の夢を見た。
三十代くらいに若返った母がいる。何をしているのか、他愛もない日常風景でよく覚えていない。夢の中の六花はいつも思い通りに動けない。もどかしくて、それでいてなぜか酷く傷ついていて、どういう経緯でそうなったのか、最後は錯乱しながら母に暴力を振るっている。叩いても叩いても、その手は空を打つようで少しも相手にダメージを与えない。母は何が何だかわからない様子でただおろおろするばかりだ。

寝覚めは最悪だった。快復のために眠ったのに、そのせいで却って疲れが酷くなったように思う。目を開けようとすると瞼が大量の目やにでしっかり糊付けされていて開かない。いつの間に泣いたのか、頰には乾いた涙の跡があった。人はときにこういう形で無意識に泣いてしまうこともあるらしい。
鏡を見ると、いつもより目の影が深いような気がした。のろのろと、六花は出勤の支度を始めた。

「ちょっと、柳さん疲れてるんじゃない? 」
案の定顔の不調は周囲にうまく誤魔化せなかったらしく、朝のミーティングの後瀬川さんが肘をつついてきた。
「すみません。多分、寝不足です」
こんな事なら伊達眼鏡でもかけてきた方が幾分ましだったかと後悔する。
「駄目だよー。若いからって無理したら」
気を付けます、と笑って応じるが、同僚に見抜かれてしまうと何となく居心地悪く恥ずかしい。瀬川さんは六花の背中を軽く叩いてカウンターの方へ歩いて行ってしまった。
──亜莉亜があんな事を言うからだ。
前日分の新聞をファイリングしながら溜め息をつく。いつも以上に仕事に身が入らないのは切実に困る。せっかく穏やかに整えてきた日常を、亜莉亜はどうしてこうも滅茶苦茶に引っ掻き回すのだろう。掻き回すだけしておいて、自分は早々に帰ってしまうのも勝手だと思う。一旦呼び覚まされた苦しい記憶は誘い水になって連鎖し、強力な牽引力で六花を引きずって離さない。これを恐れていたからこそ、記憶を奥深くにしまい込んでいたことを亜莉亜は知っていただろうか。
──六花は同じじゃん。
──果穂子と、同じじゃん。
包み隠しのない亜莉亜の発言。彼女はおそらく怒っているのだ。本当は傷を抱えていながら、誤魔化し誤魔化し逃げている六花に。
確かにそうなのかも知れない。亜莉亜が六花に踏み込んだのは確実に善意なのだろう。
でも、だったら、じゃあ。
あの頃、六花が全力で寄りかかることの出来る相手はいただろうか。いない。世界中どこを探したって、一人もいない。だとしたら、自分独りでどうにか対処する他なかったのではないだろうか。
子ども時代、自分が何に傷付いていたのか正確には言い表せない。家族を疎む理由が、虐待だとか育児放棄だとかはっきりとした理由があるのなら却って他人に説明しやすくすっきりするのだろう。けれども六花には明確な言い訳はないのだ。全ては六花の我儘で、六花の感じ方の問題だ。実際家族側は娘は我儘で帰って来ないと思っている。
亜莉亜はなぜだか幼い時からそういう所に目敏くて、なんとも説明し難い六花の傷心と居心地悪さに気付いていた。昨日彼女が言っていた目つきや親への態度も含め恐らく浮いていたのだろう。だからこそ亜莉亜はよく六花を遊びに誘ってくれた。当の六花は癒される余裕さえなかったけれど、確かに亜莉亜といる時間は本の世界に没頭するのと同様に、一息つくことが出来る数少ない憩いだったように思う。

癒せる、と亜莉亜は言った。そして、六花自身で癒そうとしているとも。



果音は連休中の小旅行以来、亜莉亜にすっかり懐いたようだった。今度会えるのはいつ、と(しき)りにせっついてくる。あれから一週間ほど経ったので、六花の方も受けたダメージから大方立ち直りつつあった。留根千代の謎に関しては全く手付かずだったので、今週から少しずつ絞り込みを進めはている。またいつもの日常が戻ってきた。

亜莉亜が言っていたように、留根千代が架空の人物である可能性は決して低くはない。けれどそれを言ってしまえば元も子もない。取り敢えず可能性の一つとして留めて、他の方向でも探ってみることにした。まずは“留根千代”という名は二人の間だけで通ずる渾名であったと仮定して、再三日記を読み直し果穂子と関わりのある人物を洗い出す。
前提として昱子とテイ、父善彦と義母環の四人は留根千代候補から除外。根拠は、『テイさんにも、昱子姉様にさへわたくしと留根千代の関係は打ち明けはしなかつた』という果穂子の日記の一文だ。昱子とテイは明確に留根千代とは別人物として書かれている。父と義母については『昱子もテイも知らなかった関係』という点で外れる。
義弟の秋彦については微妙なところだ。環は果穂子と秋彦を姉弟として認めていなかったようなので『知らない関係』と表現しても差し支えないかも知れない。ただ、当時秋彦が四歳か五歳、果穂子も肺病持ちだった事からすると、接触するチャンスは極めて低かっただろう。もしかすると果穂子が日記の中だけで一方的な想いを綴っただけなのかも知れない。
比較的可能性が高いのは本邸の女中や書生、金魚邸の庭で登校時挨拶を交わしていたという中学生辺りだろうか。
女中や書生は本邸に住み込みだったのだろうし、果穂子が金魚邸に移る前に親しくなる時間は充分にあっただろう。中学生とは挨拶を交わすうち近しくなったのかも知れない。いずれの場合も直接会ったり長々と話すことは難しくても、文通という形で通じ合っていたとしたら昱子やテイも気付かなかったのではないか。留根千代に想いを馳せる時の果穂子の文章表現は何となく対象が同い年か年下、自分より下の立場の者に向けられている印象を受ける。その辺も足掛かりになりそうだった。
「果音ちゃんは、るねちよって誰だと思う? 」
薄暗い細道を並んで歩きながら何気なく果音に問うてみた。投げかけられた質問に、果音は一人前に眉間に皺寄せて黙り込む。唇を尖らせる癖は年相応で、そこはなんだか愛らしい。
「分かんないけど、」
果音はその顔のまま歩き続けてまた考える。
「たぶん、新しい人じゃないと思う。果穂子は、たぶん」
「──たぶん? 」
「果穂子はきっとそういう人じゃないから」
果音は矢張りこういうところに鋭い。彼女の言わんとするところは何となく分かるような気がした。
果穂子は八方美人なところがあるから。誰にでも朗らかに接しはするけれど、本当に心を許している人物はごく限られているから。
そんな彼女が出会って比較的日の浅い人物にあんな風に縋るとは思えない。昱子以上の関係になれるとも思えない。それに、留根千代という名が出現し始めた時期も気になるところだ。死期の間際に、あんなに唐突に頻繁に留根千代について書きだしたのは何らかの意味があったように思える。
そう、果音のように理屈や可能性を除外して言えば、女中や書生や中学生に入れ込むのは果穂子らしくないのだ。
──なんとなく、果穂子らしくない。
「そっか。そうだね」
きっと果穂子は六花よりずっと器用な娘だったろう。けれど、根本の部分では矢張り自分と通ずるものがある。金魚邸跡に行った際、亜莉亜が果穂子のことを知りたくなったとやけに真面目なトーンで言ったことが不意に思い出された。




その月の蔵書整理は通常より早めに切り上げられた。館長から職員全員に報告があるのだという。普段は使わない会議室にわざわざ集められる仰々しさに、階段を上りながら何事かと職員たちもざわつく。嫌な予感がした。金木さんが「噂程度だけど」と前置きして懸念していた件を思い出したからだ。

全員が席に着くと、館長は「蔵書整理お疲れ様です」とだけ前置きし、いつもの様によく通る気楽な声ですぐに本題に入った。
「ここのところ観光課で議題に出ていた件なんですが、来年度から図書館のスペースを縮小しようという計画が持ち上がってます。空いたスペースにカフェを入れて、まぁ観光の方達に立ち寄ってもらいやすくするっていう──」
そこまで聞いて、六花は慄然(りつぜん)とした。あまりのことに固まっている間にも館長の言葉はさらに続く。
若い人の集客効果も狙ってパソコン室や談話室も設けること。映画上映を定期的に行うこと。コミックやライトノベル、話題の芸能人の本のラインナップを増やすこと。「まあ、お堅くて近づき難いイメージを払拭したいんですわ」骨張った手の中の資料を確認しながら館長は明るくそう言う。
「──それで、今より充実した施設にするために、さっき言ったようにスペースも限られてくるんで蔵書を半分くらいに縮小させる必要が出てきます。その作業を皆さんにやって貰いたいんです。貸し出しのあまり多くない、古い書籍から削っていけばそれほど弊害もないと思いますし」
──何言ってるんだろう。
胸に苦いものが満ちていた。もし、その計画通りに改変されたらそれは図書館ではない。図書館とは名ばかりの、ただの娯楽施設だ。
そうしたら、ここは死ぬ。ここに息づいている果穂子ももう一度死ぬ。
別に、カフェもパソコンや談話室も、映画上映も悪くはない。話題のものだってそれなりの美点はある。けれど、優先順位が違う。
徐々に状況が飲み込めて来ると、苦いものはふつふつと怒りに変わった。この人はそれが一体どういう事か本当に分かっているのだろうか。
周りを見回すと、他の職員たちの表情も硬かった。六花と同じく信じられないという気持ちなのだろう。
金木さんは、どうだろう。金木さんは以前、ここが下手に変わるのは嫌だと思っていると六花に明かしてくれた。目だけ動かして彼女の姿を探していたとき、(とつ)として今まで黙っていた職員の誰かが立ち上がって口を開いた。
「それは」
もう決定した事なんですか──済んだ若い声で発言したのは、金木さんだった。
「その計画に司書の意見は取り入れられているんですか」
館長は面食らったような顔をした。反対意見が出ることすら念頭に置いていなかったようだ。その表情から察するに、司書に意見を聞くという思考は(はな)からなかったのだと知れた。六花もまた館長とは別の意味で衝撃を受けた。普段物静かで淡々としている彼女がこんな風に大勢の前で口火を切るというのが意外だったのだ。金木さんはそのまま毅然と続けた。
「充実って何ですか。今の図書スペースを削って、よりによって司書に蔵書を処分させて、それで充実ですか。私は館長の言う『充実』の基準が理解出来ません」
古いから大して価値がないなんて、命懸けで執筆した作者への侮辱です──語気を強めて主張する金木さんが、六花には眩しく映った。普段は落ち着いている彼女がこんなに強い熱を潜ませていたなんて知らなかった。
彼女の発言を皮切りに、他の職員たちも金木さんにぽつりぽつり賛同しだす。いつの間にか会議室は騒がしい熱気で溢れていた。
「館長」
やや興奮状態の皆を制して、職員の中では割と年長に当たる瀬川さんが諭すように呼び掛けた。
「なんていうか、図書館は森みたいな性質のものなんですよ。古くても価値のある大切なものを守って後世へ繋げていく。今さえ良ければ良いってスタンスのレジャー施設とは根本的に違います。活性化がどうとか、儲かるとか儲からないとか、司書はそんな基準で物を考えたら駄目なんです。五十年後とか百年後とか、もっと広い視野で見ないといけないんです。本当に実行すべきかどうか、もう一度観光課の方で話し合って貰えませんかね」
館長は思いがけぬ反論に大分圧倒されているようだったが、何が何でもワンマンに権力で押し通す人ではない。話が全く通じないほど頭が固い訳でもない。暫く考えるようにして頷いて、観光課で再考してみると約束してくれた。
六花の目の前にあるのは信じられないような光景だった。ほぼ決定事項のようになっていたものが覆された。声を上げること。真摯に伝えようとすること。勇気を持ってそれを行うことによって、ときに未来が変わる。
必要な時に不必要に黙する必要はない。自分の大切なものは遠慮なく守って良い。


職員用のドアから出ると、果音がクリーム色の外壁に寄りかかって待っていた。先程の一件で、結局いつもの蔵書点検日より出るのが遅くになってしまった。
「ごめんね! 」
駆け寄るとこちらを見上げた果音の小さな鼻先が赤かった。
「あのね」
果音は上着のポケットを何やらごそごそ探りだす。やがて抜き出した手を閉じたまま差し出しながら、手ぇ出して、と少しはにかんだ。
六花の手のひらに乗せられたのは細長く艶のある小さなどんぐりだった。
「校庭にいっぱい落ちてるの」
「くれるの? 」
やはり照れた顔のまま口を尖らせて頷く果音を愛おしく思う。
果音は可愛い。この子はこんなに素直で優しい子だけれど、その良さを彼女を取りまく人々のうち幾人が理解しているだろうかと心配になることもある。学校や家庭で、果音はどんな存在として扱われているのだろう。
館長は、古くはあっても魅力溢れる本たちの価値を理解していなかった。それらの本は一見しただけでは真価が分かりにくい存在だからだ。金木さんが声を上げてくれなければ、間違いなく処分されるか他所の図書館の閉架へ移されるかのどちらかだったろう。
「ありがとう」
貰ったどんぐりは縞の入った帽子付きだった。
「どんぐりの帽子ってちゃんとした言い方だと何て言うのかな」
分かんないと果音は首を傾げる。
「あと、もっとまるい感じで帽子がもさもさしてるのもあるよね。図書館で図鑑とか調べたら分かるかな」
「あるよ」
唐突に果音は元気よく声を出す。
「え? 」
一瞬図鑑の話かと思ったが、果音は弾ませた声のまま続ける。
「まるっこいどんぐり、うちの近くの公園にある! 」

そのまま二人でやって来た公園には、果音の言う通りずんぐりとしたどんぐりが幾つも落ちていた。物も言わず夢中で拾いだす果音の隣で、六花も倣って拾ってみる。ぐるりを桜の木で囲まれた中規模な公園で、置いてあるのはベンチが二つと鉄棒だけの質素な様相だけれど、桜の他にも銀杏や桂など数種類の木が植わっているし、すぐ裏手がささやかな雑木林になっているので様々な色合いが楽しめて心地良い場所だ。どんぐりは雑木林の方から転がってきているらしかった。
やがてポケットだけでは対応しきれない程の数を集めた果音は、それを一旦ベンチにあけて几帳面に選別し出した。
「綺麗なの選んでるの? 」
「うん」
気難しげな顔のままどんぐりから目を逸らしもせずに果音は答えた。
「お母さんの」
果音は大きさや虫食い穴の有無を慎重にチェックしながら続ける。
「お花は枯れちゃうから()だって言うけど、どんぐりは飾ってくれるから」
果音はまったく真剣に、神様に献上する品を吟味するような恭しさでひとつひとつを手のひらに乗せ摘んでは帽子の隙間まで確かめてゆく。
──果音ちゃん、聞き分け良すぎない? 親離れも出来過ぎてる。
不意にあのときの亜莉亜の言葉が思い出された。
花は枯れて嫌だと言うから、どんぐりにする。夜まで家は閉まっているから、外で時間を潰す。六花とするような他愛ないお喋りも碌に出来ない。
寂しくない訳がない。
それでも母親を慕って自分の物の中で一番良いものを選ぶ。
もしかしたらこの子、相当頑張ってるんじゃないだろうかと六花は居た堪れなくなり、思わずその横顔に呼びかけようとした。ちょうどその時果音は選別したどんぐりだけポケットに入れてぱっと立ち上がった。
「ちょっと家に行ってもいい? 」
「え? 」
声を掛けるタイミングを失った六花は妙な声を出す。果音はベンチに大量に集められたどんぐりを指差した。
「全部持って帰れないから、外にあるバケツ取って来る」

砂遊び用の果音の赤いバケツは、アパート階段下の共用スペースに置いてありすぐに分かった。明るい内にここに来るのは久し振りだった。暗いときに来るのとは僅かに雰囲気が違う。
原田家の部屋の中に、六花は入ったことがない。ここで親子三人どんな風に暮らしているのか殆ど知らない。想像するだけだ。
もし今のような生活状態で果音が外で耐え難いような辛い目にあった時、彼女は一体それを誰に話せるだろう。誰に助けを求められるだろう。いや、もしかしたら今だって。今までだって。
こんなのがいつまでも続くはずがない。果音の従順さは彼女自身の能力を超えているのではないかと思う。
いつか何かが、こわれる。
真っ赤なバケツをひょいと果音が取ったとき、不意にかしゃりと原田家の玄関ドアが開く音がした。驚いて顔を向ける。
「果音」
どきりとするような鋭い声だった。ドアから出てきたスーツ姿の女性は、綺麗にウェーブした髪を束ねた清潔感のある人だった。果音から動線を辿って、やがてその人は隣の六花に気付いて目を丸くした。
「柳さん、ですか」
──果音ちゃんとよく似てる。
果音の母親と会うのは初めてだった。目立ちはしないが可愛らしい顔立ちで、想像していたより随分若く見える。六花は慌てて頭を下げた。
「初めまして。いつも果音ちゃんと仲良くさせていただいてます」
「いえ、こちらこそ。母の美貴です。果音がいつもお世話になっています」
訳もなくどぎまぎして、今日はお帰りが早かったんですねと繕うと、美貴は残念ですけど違うんですよ、と聞き取りやすい声で答えた。
「ちょっとものを取りに戻っただけで、仕事はまだ残ってるんです」
そうは言うが、それほど急ぎの仕事のように見えない。子供がいると言って早く上がらせてもらう事は出来ないのだろうか。
六花のそんな様子を察したと見えてにこやかな笑顔で美貴は切り出した。
「私シングルマザーでしょ」
「はあ」
何だろう。笑顔なのに有無を言わせぬような強引さを感じる。
「昔よりは良くなったのかも知れないですけど、世間はひとり親にまだまだ偏見があるから。これだからシングルマザーはって言われたくないんです」
子供が理由で早く帰ったりしたら社会では結局舐められるんです──美貴は得意げな様子で滑らかに喋り続ける。
「別れた旦那を見返したいっていうのもあるし、それに、子供たちにとってもかっこいいママでいたいなって」
六花は曖昧に相槌を打ちながらも違和感を感じずにはいられなかった。
美貴が主張することも全く分からないでもない。実際、たった一人で二人の子供を養っていくというのは並大抵のことではないだろう。働くのが厳しいというのも、殊に不器用な六花にはよく分かる。でも。
──自分の望むやり方を、子どもを理由に正当化してるんだ。
何というか、聞けば聞くほど美貴が考慮に入れているのは自分だけの視点だ。『仕事を優先するかっこいいママでいて欲しい』なんて、果音がいつ望んだのだろう。六花自身さえ蔑ろにされたようなこの感覚は一体何なのだろう。
ふと果音に目を向けると、果音は下を向いて所在なさげに立っていた。六花の視線に気が付いて、美貴も果音に目を移す。
「いつもごめんなさいね。この子難しい子でしょ」
難しい子でしょ。

──難しい子でねえ。

美貴が何の気なしに使った言葉に、六花は固まった。何の返答も出来なかった。
「なんかあるとすぐ睨むの。無口だから何考えてるのかもはっきりしないし。お兄ちゃんとは全然違くて」
世間話の延長のように笑顔のままそう言う美貴に、果音は弁明も口答えもしなかった。ただ、諦念を含んだ暗い瞳できっと唇を結んでいる。六花は果音が右手で強く掴んだ上着のポケットの中の選り抜きのどんぐりの事を思った。
「──果音ちゃんは、良い子ですよ」
今日の金木さんに見倣って、六花は毅然とした調子になるよう気を付けて声を出した。黙って美貴の意見に賛同したままでいたくなかった。
「それ、睨んでるんじゃなく緊張してるだけなんじゃないでしょうか。果音ちゃん、お母さんのこと大好きですよ。“難しい子”だなんて、本人の前で簡単に言わないであげて下さい」
美貴は不意を突かれたように目を丸くした。
「お願いです。もう少しだけゆっくり果音ちゃんの話を聞いてあげて下さい。お母さんに認められないというのは誰にも認められないのと殆ど変わらないんです。いつでも自分のことを上手く説明出来なくても、それは当たり前じゃないでしょうか。子どもなんですから」
言いたいことは沢山ある。でも滑らかには出て来ない。六花はあまりに無力だ。そして経験不足だ。
「結局」
美貴は落ちかけたバッグを肩にかけ直しながら苛立ちを抑えるような声を出した。
「結局責められるのはいつも私なんですね。どんなに頑張っても手薄なところを狙って責められるの。私は超人でも何でもないのに」
子育てをした事もないような人にまでそんな事を言われるなんて思ってもいませんでした──そう言った美貴は失礼します、と一礼して足早に立ち去ってしまった。

「──ごめん。お母さんのこと、怒らせちゃった。私が馬鹿だね」
果音は視線を合わせず首だけ横振りした。しばらく二人して呆然と立ち尽くした。
美貴自身が言ったように、多分六花には子育てに意見する資格などなかったのだろう。きっと的外れで、生意気で、理想主義。けれど実際は六花とは逆に碌に深く考えもせず親になる人は世の中にごまんといて、多分そういう人の方が圧倒的に多くて、六花はそれが悔しい。きっと的外れなのだろうけれど。美貴の苦しい立場をもっと思い遣るべきだったのだろうけれど。
──難しい子でねえ。
その言葉は、六花自身も子供時代母親によく言われた言葉だった。母が周りにそう言う時いつも困ったものだった。母の横で六花は一体どんな顔をして立っていれば良かったのだろう。どうしたら難しい子でなくなるのだろう。自分が“難しい子”であるのが悲しくて、いつか見捨てられてしまうのが怖かった。
そうだ。六花は家族が恐ろしかったのだ。
そして家族を諦めた。成長してゆくにつれいつしか怒りに変わった。傷付きだけはそのまま抱えて。
「果音ちゃん」
加減が分からず、蹲み込んだ六花は果音の頭を恐る恐る撫ぜた。北風に晒された彼女の髪は重く乾いた冷たさだった。
結局、あの人が果音にとって一番良いお母さん。六花よりずっと良いお母さん。種類の異なる栄養成分のように、ある栄養は他人から受け取れても、母親からしか受け取れない栄養素があるのだ。六花にあの人の代わりを務めることなど出来はしない。
子供というのはなんて不幸なんだと思う。自分の身も心も上手く守ることができない。自分の環境を変えることもほとんど出来ない。ただじっと、置かれた環境にひたすら慣れて耐えるしかない。六花のように逃げることも叶わない。
「かわいそうにね」
それは正しくない言葉だったのかも知れない。本当は言っては駄目な言葉だったのかも知れない。でも、自分が果音の立場だったらそう言ってもらって安心したかったように思う。
「かわいそうにね」
まだ幼い果音のパーツは何もかもが瑞々しくやわらかい。その唇を固く引き結んで、いっそう睨むような目つきになって耐えていた果音は物も言わず唐突に涙を溢れさせた。ぽろぽろと止まらない涙を拭いもせず、ひたすら歯を食いしばって睨むようにどこか一点を見ていた。

私たちには課題がある。若くても幼くても、生きにくさに繋がる性質があってもそれは免除されず、息も絶え絶えにその課題に立ち向かって日々を生きていく。どうしても生きていく。



美貴からはあれから特に何のアクションもなく、六花は変わらず果音との友情関係を続け、一緒に帰宅し休館日には共に時を過ごした。果音が涙を見せたのはあの日きりだった。図書館の縮小計画も一旦中断したらしく、今までと変わらない比較的穏やかな日々に戻った。
留根千代についても、日記を何度読み返しても決め手となるような記述は発見出来ず、果穂子を充分知ることのないまま時だけがだらだらと過ぎて行った。
もしかすると、ずっと核心に迫れぬまま六花は果穂子の事も段々に忘れてゆくのかもしれない。他の大切なことも、時間に希釈されてそうやって薄れていくのかも知れない。


秋が終わり、冬が過ぎ、やがて春が来ようとしていた。

一九二六年 四月四日 果穂子

《最近、眠くて堪らなひのはなにも春だから、といふ理由だけではなく、自分の体が死につつあるからなのだといふことは、ちゃんと判つてゐた。》


──死とは一体何なのでしょう。

出せなかった昱子への手紙の中で、自分が(したた)めた一文を思い出し、繰り返し考えていた。
死んだって生きたって果穂子はどちらでも好いのだと何処かでひたひたと思っていた。
ただ、自ら死ぬのは何となく罪深い感じがするから手を染めなかっただけだ。生きていたって果穂子が愛しても許される人物なぞもう何処にもいないのだから。あとはもう、果穂子は誰にとっても他人でしかないのだから。
なのに、どうして怖いの。
死ぬのは怖いの。
少しずつ消えゆく果穂子を、みなが忘れぬようにと願うの。



「ねえ、留根千代(るねちよ)は元気? 」
寝間着の替えを持ってきたテイに果穂子は問うた。近頃は一日の大半を床で過ごすようになっている。あれこれ活動する体力が無いのだ。テイの表情は留根千代と聞いた途端に苦くなり、
「ええ、ええ、変わらず元気ですとも」
決まって素っ気なく返すのだった。お決まりのやり取りになりつつある。果穂子はもう、昱子さえ切り捨てて(しま)ったのだから、拠り所なぞ何処にもないのだ。けれどもテイはそれを良くは思っていないらしい。
残された体力のなかで、テイの叱責に耳も貸さず果穂子は留根千代の絵を描いた。出来るだけ大きく、大きく。もう会えなくとも、こうして絵として留めるだけでその存在は憧憬の念を抱かせる。ここのところ日記と並行して毎日少しずつ描き進めている。描いているうちにそれが本当なのか幻影なのか分からなくなって、果穂子はぷくりと円い息を吐く。此処は何処だろう。果穂子は何処へ向かうのだろう。
死を意識するようになって却って、果穂子は自分の生き方というものをいちずに考えるようになった。
──わたくしは本当はもっと、色々知りたいと思っていたのやも知れない。
世界の広さを、深さを知って、それを美しくかたちにし続けることが出来たなら。そんな生き方を選べたのなら。

忘れて。忘れないで。
生きたくない。生きたい。
本当のわたくしの心は何方(どちら)なのかしら。そうして力の入らない唇を噛み、心で唱える。

大丈夫。果穂子は平気です。果穂子は平気です。
果穂子は幸せです。



父が金魚邸を訪れたのは、そんな時だった。久し振りに見た父は仕事の時のかちりとした洋装姿ではなく暗灰色(チャコールグレー)の着流し姿であった。わざわざ来てくれたはいいが、何だか決まり悪そうな様子でいる。果穂子も決まり悪かった。振り返ってみれば、今まで父と二人きりで対面して話すということが無に等しかったのだ。父の訪問は、おそらくテイの働きかけによるのだろう。初老の域に達した、相変わらずごつごつした肌の厳めしい顔をした父はその顔に似合わず所在無さげに部屋のあちこちをうろうろした。
「こんな格好で、お布団の中で御免なさい」
身支度を整えるのさえ体力を消耗する程に虚弱になってしまった果穂子が寝間着のまま詫びると、なんだ、そんなことは好いんだとぶっきらぼうに云って布団の傍らの座布団にやっと座った。それからひとつ、深く息を吐いた。
「その、体のあんばいはどうなんだ」
「日によって好くなったり、かと思えば悪くなったり、安定はしていません」
「そうか」
「はい」
「送っているものの他に何か欲しいものはあるか」
「いいえ。じゅうぶんです」
「そうか」
お互いの会話は随分とぎこちないものだった。父と話すのは酷く緊張する。父は父で、外国人を含む仕事関連の人にはあんなに滑らかに朗らかに話すのに、果穂子とはどうもうまくいかない。
「秋彦は、どうしていますか」
「秋彦は──今は数えで六つだったか──あれは随分お喋りになったな。男のくせによく喋りよる」
「では、元気でいるのね」
あっという間に話すことは尽き、気まずい沈黙が訪れる。あまりに静まり返っているので廊下に置かれている時計の振り子の音まで変に気になってしまう。暫くの沈黙の後、ようやっと父が意を決したように口を開いた。
「お前はきっと、お父さんの事を恨んでいるのだろうな」
「いいえ! 」
果穂子は驚き身を乗り出して否定した。その様子を見てそうか、と彼方(あちら)も驚いたように反応し、
「いや、お継母(かあ)さんとの関係で辛い思いをさせたと思ってなあ」
トーンを下げて溜め息交じりにそう云った。果穂子はゆっくりと首を振る。
「環様のことは恨んでいないわ。だってあの人の涙を見てしまっているのだもの。お父様のことも、勿論」
父はただ黙って悲しそうに聞いていた。父が果穂子と環の窮屈な関係をちゃんと了知していたというのは驚きだった。その上で何の反応もしなかったのだ。そしてその分だけお仕事に熱心に関わられたのか。
この人は外弁慶だ。他所の人にはとても器用に関わることが出来るのに、冗談さえ云って笑わせるのに、相手が家族となると途端に不器用になる。それに気付いてしまうと、変に切なくなった。ひょっとすると父と話せるのはこれで最後かも知れないのだ。
「パパ」
秋彦が幼い頃父をそう呼んでいたのを思い出して、果穂子は思わず口に出す。父は白髪混じりの眉を上げ少し驚いたような顔をする。『パパ』という言葉は使ってみるとなにやら少し甘えたような親しい響きがあった。
「わたくしのかあさまのことは、大事だった? 」
ひととき躊躇い、辛そうに黙って頷く父に、たまらなくなって果穂子は更に問う。
「かあさまは──かあさまは、何か残せたものはお有りだったと思う? 」
それを聞いて父はまた黙る。可哀想なかあさま。若くして美しいまま亡くなられたかあさま。未練だって幾つもあったに違いない。
父はあぐらを組み直してから、そうだな──と云った。
「つやは、お前の実の母さんは、あんな外見で中々芯があってな。お前は随分母さん似だよ。そんな風に考えるところも」
お前は秋彦と違ってもう大人だから話そうか──回顧の表情を浮かべた父は(おもむろ)に窓から見える景色に目を移した。
「どうしてお前の名前を果穂子にしたか、話したことはなかっただろう。お前の名前はな、つやが付けたんだ」
「かあさまが? でも──」
どこの家庭でも子の名は大抵家長が決定するものである。本妻でもない母にその主張が通るような権利があったとは思えない。
「お前が生まれた時ひどく懇願されてな。字はそちらが決めて構わない、ただ音だけは『かほこ』にして欲しいとそればかり繰り返して譲らない。どうしてそんなに拘るのか不思議に思って聞いてみれば、この子は『家宝』だからと、そうキッパリ云われてな」
「え? 」
──そんなことを、かあさまは。
そこから先は何の言葉も出なかった。下手に何かを発しようとすれば色々と張り詰めて耐えていたものが崩れてしまいそうだった。
──かあさまは果穂子さんと一緒だからとても幸せなのよ。
幼い日によく聞いたあの言葉。優しく囁くような話し方に、困ったような笑い方をする母。幼心にそんな母を果穂子がお護りしなければと何処かで思っていた。かあさまはか弱い方だと、いつの間にやら思い込んでいた。
「お前はな、家宝なのだよ。つやがどうしても残したかったのは──お前だよ」
母とは対称をなすようなざらざらした声で父は云う。けれど、辿々しく伝えられるこの言葉はおそらく、不器用な父なりの精一杯の愛情表現でもあるのだと思う。
「──かあさまは一言もそんな事仰って下さらなかったわ」
父の顔を見ることは出来なかった。かわりに庭を見る。桜があと数日で開花しそうにまあるく蕾んでいた。それを見ながら思う。平気な表情を保つのに手一杯で、こんな場面でも素直に自分の感情を出せない果穂子の頑固なところなぞは、屹度(きっと)父に似たのだ。
「──ご自分の残したものがご自分の子だなんて、随分、ありきたりな話ですね」
それからはもう父も果穂子もなんにも云わず、けれど、二人して同じ桜の木をただ静かに、いつまでも見ていた。


父が帰ってから、果穂子は泥のように眠った。翌日、留根千代の絵が仕上がった。少し迷った末、留根千代の周りの色彩は少し淡い濁ったような色味にした。なんだかその方が似合うように思ったのだ。留根千代自身が輝いているのだからそれで良いのだ。
留根千代はわたくしの宝。わたくしの希望。
久し振りに穏やかな心地だった。


「テイさん」
なにやらいつもより自分の頭がはっきりしているのを感じて、果穂子は横になったまま改まってテイに呼び掛けた。
「わたくしが死んだ後のことで、テイさんにお願いがあるの」
「そんなこと」
テイは瞬間眉を吊り上げる。この人は働き者で、真面目で、器用で、だけど少し怒りっぽい。そんなところまで何だか親近の情を感じる。
「まじめにお願いしているの。大事なことだもの」
テイは観念して果穂子の枕元まで来て座った。
「くだらない事と思われるか知れないけれど、わたくしが死んだら、どうかあの縞のリボンを掛けてね。昱子姉様はわたくしにとても似合うと仰られていたから」
「ええ、ええ、そうしましょ」
テイが果穂子の言葉を軽んじないでくれて助かった。屹度(きっと)よ、と果穂子は念を押してみせる。
「そこの抽斗の、大きな薔薇の書いてあるブリキのケエスに入っていますから。でも、一緒にある写真はわたくしと一緒に燃さないでね。昱子姉様も写っていて、燃やすのに忍びないから」
テイはええ、と了承した。
「それから」
それから──と云いかけて、何と伝えたら良いものか、しばらく言葉を彷徨わせる。何故だか非道く切ないような、夢見るようなボンヤリとした心持ちになる。
「──わたくしの仕掛けのことは、誰にも云わないように、見附からないようにして欲しいの」
慎重に(かく)して、何時(いつ)までも見附からないようにして欲しいの──果穂子の言葉に、テイは面食らった顔をした。
「何時までも、ですか」
「ええ」
「わたくしもあと何年生きられるやも分かりませんのに」
「良いの。それで良いのよ。頑なに匿して、そうしていつか誰もが居なくなって、仕掛けだけ残ればいいのよ。時が来たら自然とどなたか相応しい方が見附けてくださるでしょう。ね、とても素敵だと思わないこと」
テイはくすりと笑った。
「随分と少女趣味でいらっしゃいますわね」
その言葉に果穂子も久し振りに声を出して笑う。
「昱子お嬢様にも内緒になさるのですか」
テイが昱子の名を出すので、胸がしくりと痛んだ。
昱子は果穂子にとってあまりに特別な存在だった。あんまり大好きで、どうして良いのか見当もつかなかった。
けれど、だからこそ果穂子の中には昱子に触れて欲しくない部分もあった。あの方は純粋すぎて果穂子の澱んだ部分にとても耐えられない。果穂子自身も耐えられない。
「あれは昱子姉様にも誰にも内緒にして。お願いよ」
テイの顔は不満気だった。
「なぜ」
「お願い」
「お嬢様」
「お願い」

お願い。
昱子姉様、わたくしのことでけっして苦しまないで。








子ども達の歌声で、果穂子はぼんやりと目覚めた。

不意に、庭の方から薄紅の桜の花びらが風に乗ってひとつふたつやって来る。陽気がいいのでテイが廊下の引き戸を開け放してくれたのだろう。いつの間にやら満開になった桜は、そろそろゆっくり散り始めているようだ。
目覚めたはいいが、あんまり心地良くて、まだ眠くて仕方ない。こんなに存分に寝ているのに、と少し可笑しく思う。
学校は新しくやって来たちいさい子らで新たに活気づき、その騒がしさもまた愛しい。あの学校違いの兄弟も学年が一つ上がって新生活に奮闘している頃だろう。
風に乗って聴こえてくる歌声はとても浄く澄んでいた。


雨の音がきこえる
雨が降っていたのだ

雨の音がきこえる
雨が降っていたのだ

あの音のように そっと 世のためにはたらいていよう

雨があがるように 静かに死んでゆこう


それを聴くうちぼんやりと晴れない頭で果穂子は思い出す。
──そうだ。この歌はいつかの春も気になったけれど、歌詞を聴きそびれてしまったのだったわ。

あの音のように そっと 世のためにはたらいていよう

澄んだ子どもたちの歌声が心地よく耳にリフレインする。
毎年春になると決まって歌う曲なのだと納得して、その満足感に果穂子は目を閉じる。あの音のようにそっと。



あの音のように そっと 静かに





静かに。


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2026年 春 六花 1

春には、綻ぶ。
固く閉じていた蕾も木の芽も、日陰で氷のように融け残った雪も、春が来たというそれだけで何やら呆気ないほどにくずくずと(ほぐ)れる。図書館の庭の金魚さえ春の気配をちゃんと感じ取って泳ぎが俊敏になるのだ。

桜はそろそろ散りかけて、開け放たれた館内の窓から風に乗って時折花弁が舞い込んでいた。
その日、六花は月一の館内整理日で出勤していた。貸し出し状況と在架を照らし合わせてチェックする。白川町記念図書館のいつもと変わらぬ業務である。観光課の予定通りに事が進んでいたら、今頃は図書館の改変がすっかり終わり、色々と変わっていた頃なのかも知れない。
図書館の方針変更の計画は全て中止される事になったと、朝のミーティングで正式に館長から知らされたのは二日前のことだった。
二重チェックを頼まれたデータの確認が終わった旨を金木さんに伝えるとき、六花は彼女に切り出した。
「あのとき、図書館(ここ)を守ってくださって、ありがとうございました」
いっときは図書館も果穂子の守っていたものも死に絶えてしまうと思っていた。でも、実際は声を上げた彼女のお陰でこうして守るべきものは無事守られて、変わらず古き良き図書館のままでいる。必要事項以外の話題を自分から振ったことのない六花が話し掛けたので、金木さんは何事かと物珍しそうな顔でこちらを見る。
「あの──格好良いなと思ったんです。館長がここを変えるって言い出したとき、あんな風にきっぱりと発言されて。大事なものを守れるって格好良いなって」
「やだ」
そわそわしながら六花が付け足した言葉に、金木さんは顔をくしゃりと崩した幼い笑い顔になった。
「私だけじゃないよ。皆ちゃんとフォローしてくれたでしょ。私、実はあの後言い過ぎたなって反省して、館長に謝ったの」
「そうなんですか」
思いがけない返答に驚く。
「守りたい本があるんだ、どうしても」
「守りたい本? 」
「うん。相当古い本で、真っ先に処分されると思ったら止まらなくて。きっと他の人にとっても同じような思い入れのある古い本ってあるよなあって。だから、守れて良かった」
図書館は森。司書はその番人で管理人。穏やかに「守れて良かった」と言う金木さんの、けれど“守りたい本”がなんなのか、結局聞けず仕舞いだった。

在架チェックに続いて、傷んだ本の修繕作業を行った。特に破損しやすい(あたま)側の背表紙を透明接着フィルムで(くる)んだり、外れた頁を接着剤で簡易補修したりする。
──守りたいもの。
作業をしながら果穂子の生涯について考えていた。
あれからずっと留根千代のことも、金魚邸で見た赤い記憶のことも分からない。気に掛かってはいるものの手掛かりが掴めず、少し焦りも混じり始めていた。果穂子のことを曖昧で分からないままに終わらせたくはなかった。果穂子にとってはきっと留根千代こそが “守りたいもの”だから。
どうして留根千代なのだろう。
時折そんな疑問が浮かぶ。実際果穂子のことを想ってくれている人物は他にもいた。けれど、結局果穂子が最後の最後に頼ったのは留根千代だった。家族でも親友でもなく、得体の知れない留根千代に。
果穂子の仕掛けは、留根千代と深く繋がっているのかも知れない。

──どうしてこの図書館がいつまでも美しいままなのか教えて差し上げるわね。
──このお邸の住んでいた美しい娘さんが、美しい仕掛けを拵えたからなのよ。

仕掛けは今でも、待っているのだろうか。この建物のどこかでひっそりと、誰かに見つけてもらうのを。
遠目に見える、天板に日光を受けて柔らかく反射するあの大机の裏に、果穂子の想いを託した日記が一面に記されていることを、六花以外の職員の誰も知らない。誰も知らないまま様々な人がそこで読書をしたり調べ物や書き物をしたりしているのを見ると少し不思議な心持ちになる。
あの机自体──裏に何も書かれていないとしても──なんとも言えない雰囲気がある。美しい飴色の照りに、縁にまで意匠が凝らされた特別感。きっと高級品なのだろう。金魚邸の蔵で見たときはもっとずっと広く大きなイメージだったのは、それを見たのが体の小さい幼年期であったせいか。
──赤い、何か。
なぜかあの大机を見ると、正体の知れない赤い記憶のことを思い出す。そう、六花はあのとき見上げて。そうして赤い何かを見た。出来る限りあの頃見た記憶を手繰り寄せようとする。机と共に蔵内で見た、目に刺さるような印象の強い赤。色だけはあんなに強烈に思い出すのに、どうしてそこから先を忘れてしまっているのだろうか。あの記憶はもしかすると留根千代と密接に関係しているのかも知れないのに。

補修作業が大方終わりに近づいて来た頃、隣で作業していた金木さんが話しかけて来た。
「柳さん、それ終わったらでいいんだけど」
言いながらやたら年季の入った古めかしいデザインの本を数冊積み上げる。
「これ、保管室まで持って行ってくれないかな」
私の作業はもう少しかかりそうだから──そういう金木さんの傍には、なるほどまだ随分と本が積んである。けれど、それよりも“保管室”という言葉が六花の興味を引いた。
「保管室、なんてあるんですか」
この四年間勤めてきて、初めて聞いた。金木さんは察したらしく軽く頷いて説明してくれた。
「私も二、三回しか行った事ないんだけどね。廊下の途中をパーテーションで仕切られてるから目に付かないし。東の階段の三階の、ちょうど会議室の反対方向にあるから。ちょっと面白いところだから、一回行ってみるといいよ」
そう言ってエプロンのポケットを探り、随分古そうなデザインの鍵を渡してきた。
保管室に行けばもしかすると留根千代に関わる何かが分かるかも知れない。取り敢えず今している作業を片付けようと、六花は()いた。

そこかしこの窓が開け放たれて、吹き込んでくる春風が心地良い。そのうち風に混じって小学生の澄んだコーラスが聞こえてきた。
はじめは何気なく聴きながら作業していたけれど、六花はふと気がつきはたと手を止めた。
──この歌。
何だろう。なぜか懐かしい。旋律を聴く限り、六花自身は学生時代歌ったことはないと思う。どこかで聴いたのだろうか、思い出せない。
「ああ、この歌。懐かしいなあ」
隣で作業していた金木さんが独り言のように呟いた。
「え? 」
「小学生の頃毎年歌ってた歌だったから。春になるとこの曲歌うの、南小学校の伝統だったんだよね。統合されても残ってるんだ」
──南小学校。
聞き覚えのある名称だった。次の瞬間思い当たり、思わず声が大きくなる。
「南小学校って、中ノ原駅の近くの、今は食品工場になってる場所にあった、あの南小学校のことですか」
金魚邸の向かいにあったあの小学校跡。あそこは確か南小学校という名称だった。六花の勢いに気圧されて、金木さんはそうだけど、と戸惑うように頷いた。
「私の母校。ここの小学校と統合されたの、知らなかった? 」

金木さんによると、子供たちが歌っているのは「雨」という曲だった。


雨の音が聞こえる
雨が降っていたのだ

雨の音が聞こえる
雨が降っていたのだ

あの音のように そっと世のために働いていよう

雨があがるように 静かに死んでいこう


詞には覚えがある。八木重吉の作だった。

胸が高鳴る。六花は本を両手で抱えてゆっくりと絨毯の敷き詰められた階段を上る。はっきりと思い出していた。六花が金魚邸跡で聞いたピアノの旋律と歌声は、間違いなくこの曲であった。あのとき、幼い六花はこの曲に導かれるようにして蔵に入り込んだのだ。
階段を上りながらも唱歌は繰り返し歌われ、まだ続いて辺りに響いている。印象的な歌詞と相まって、六花はなにやら不思議な感覚に陥る。
春には、綻ぶ。
頑なに正体を隠した、自分ではどうにも辿り着けなかった留根千代が、今になってあちらからひとりでにふらりと現われる予感がする。
子どもの頃と同じ、響く歌声に導かれるような奇妙な心地に陥りながら、六花は更に階段を一段一段踏みしめる。
六花を導いているのは果穂子か留根千代か、はたまた八木重吉か。

パーテーションを退けると、金木さんの言っていたように突き当たりに古く重々しいドアがあった。普段は閉じられているそこに辿り着き、ポケットから鍵を取り出す。
躊躇うことなく真っ直ぐ鍵を差し入れくるりと回し、触れたことのない取手を回す。錆びかけた金属の丸みが、何故か掌にしっくりと落ち着く。



娘よ、覚めよ、覚めよ、


光を放て


錠を解け


歌うたいの子らは洋琴に合わせ口ずさぶ


ご覧、おまえは美しい


ご覧、おまえは美しい



──軋んだ音を立てながら、扉はゆっくりと開いた。





春のあかるい陽気が、閉め切ったままのカーテンの隙間から射し込んでいた。

長いこと誰の出入りもなかったその部屋は、六花が扉を開けて風を入れた瞬間、封印を解かれでもしたようにわっと生気めいたように感じた。


ひんやりと薄暗い部屋の床板にそっと一歩を踏み入れる。一面に薄く積もった埃が途端にくるくる舞い上がる。細かな埃が細く射し込む陽光に当たって、まるで貴いもののように煌めくのを、多分六花はずっと前から予感していた。
どこか古ぼけた印象のその部屋は、いつも勤めている図書館の同じ建物内にある世界とはまるで断絶されている。もしかするとここは改装の際あまり手を入れられていないのかも知れない。いつまでも続く唱歌や見慣れない部屋の風景のせいか、なんだか現実感がない。
本を抱えたまま薄暗い室内を窓に向かって進む。六花は自分が何をすべきか、不思議と分かっていた。
厚い織地のカーテンを開けると、光が一気に部屋全体へと行き渡った。それだけの動作でも埃はわらわらと舞い、むせ返るようなスノードームの世界となる。続けてネジ鍵式の木枠の窓を盛大に軋ませながら開けると、微かに洩れ聴こえていた子どもたちの歌声はクリアにこちらに届いた。
ここに至って六花は改めて明るくなった室内を顧みた。
六花のいる窓に近い側の壁一面は備え付けの本棚になっており、収納にはまだ幾分余裕がある。持たされた本はここに置けということなのだろう。本棚まわりは何に使うのやら大きなクロスや幾つかの段ボール箱が重ね置きされている。それから、昔風の背の低い箪笥やら長持やら、用途の分からぬ不思議な道具がちらほら。
──あの大机と、他に二、三の調度品は別荘から持ってきたんだと。
昨夏、館長がそう言っていたのを不意に思い出す。あれは、ここにしまい込まれていたのだったか。だったらこの部屋は半ば、取り壊された金魚邸の蔵の再現だ。道理で妙な既視感があるはずだ。
部屋で一番面積を取って中央に陣取っている大机に目を遣ったとき、六花は目を疑った。その机は、色味やサイズ、側面に施された彫り飾りに至るまで、大閲覧室の大机と全く同じデザインのものだったのだ。
──同じものが、ふたつ。
そうか、と心に落ちる。机があんなに大きく見えたのは、単に幼かったからだけではなかったのだ。二台あったこの大机は、元々はあの蔵で横並びに繋げて置かれていたのではなかったか。
そう気づいた途端はっとする。六花はつかつかと歩み寄り、司書らしからぬ乱暴さで抱えていた本を机上に投げ出す。
あのとき。
あのとき見たものが、ここにある。
心臓がぞくぞくと騒いだ。懐かしい旋律のピアノと歌声が更にそれを助長する。そうして怖いほど鮮明に思い出す。
六花は、知っている。机の裏に何があるのか。
屈み込んで潜った記憶がないのは、単にそうする必要がなかったから。四つだった六花は、ちょっと首を傾げるだけで難なく机の下に入り込めるほど低身長だったのだ。あのとき六花はほとんど立ったまま歩いてそこに入り、そして見上げた。あの赤を。
六花は(はや)る胸を押さえて大机の下に潜り込み、躊躇無く埃の積もる床板に仰向けに寝転んだ。
果たして、それはあった。
天板の裏一面に大きく大きく。

──金魚。

目に焼きつくほど赤く鮮やかな素赤の細長い和金が、絵とは思えぬ説得力を伴って緻密に美しく描かれているのだった。


子どもたちの歌声を聴きながら、六花はその場で寝転んだまましばらく惚けていた。絵の中の金魚をしばし下から見下ろす。照り輝く鱗、見えるか見えないかの黒い目、うねった背に沿ってひらめく極薄の背鰭。溶けて消えてしまいそうなふうわりとした胸鰭や腹鰭、それに優雅に長い尾鰭。たった一匹、油絵の具で丹念に丹念に描かれたそれは淡く濁ったような色彩の水の中、上見姿で机の天板という池を赤い色を見せびらかしながら悠々と泳いでいた。
子どもの頃を思い出していた。あの時の六花もこの絵に強烈に魅せられたのだった。そして埃まみれになるのも構わず、今しているように仰向けでうっとりと眺めた。作者は十中八九果穂子だろう。果穂子は大机の一方に日記を、もう一方に絵を描いていたのだ。当時ろくに字も読めなかった六花は、目立たぬ毛筆書きの日記の文字列より、ぱっと見て印象に残る絵の方だけが記憶に残ったのだろう。その後金魚邸から二台の大机が運び込まれて、どういう訳か日記の書かれた方の一台だけが閲覧室で使われた。絵の描かれたもう一方はここに置き去りになっていたのか。
何の変哲もない素赤の和金を、ここまで美しいと思ったのは初めてだった。
──果穂子姉様が特に目を掛けていたお気に入りの金魚というのが、あまり見栄えのしない、小さな素赤の細長い和金だったそうでね。
ここに描かれているこれが、果穂子のお気に入りの金魚なのだろうか。
六花は訝る。これを描くのにはかなりの体力を要したのではないだろうか。しかも独特のにおいが付き物の油絵だ。果穂子はこの絵のおかげで幾分か命を縮めはしなかったろうか。そこまでしてどうしても描きたいほど、この金魚の絵──この金魚は果穂子にとって重要だったのか。しかも日記と対になるように、大机の天板の裏に描いて誰にも見つからないように。
──果穂子が異常なほどに縋ったもの。
思い至ったちょうどその時、絵の端にサインのようなものが書いてあるのが目に入った。近寄って見るとやはりそうで、見慣れた果穂子の筆跡で黒い色を使って記してあった。

その内容に、茫然自失となる。



『一九二六年 留根千代 佐伯果穂子 画』



──留根千代。

これが。

留根千代。

──あなたが残るなら、果穂子は百年も千年も、永遠にまでいきませう。

果穂子が晩年あんなに縋った留根千代は、ただの一匹の金魚に過ぎなかった。



不思議と六花の頭の中でするすると以前に読んだ日記の内容の不可解さが解れて繋がり、ひとつになっていった。まるで果穂子と長い間共に濃密な時を過ごした錯覚に陥る。

──絵はひとより永くのこるだらう カンヴァスが朽ちても詩はのこるだらう

──のこすことは(とこしなへ)のみちではないとしりつつも できるかぎりうつくしくけふをうたわせたまへ

ああと腑に落ちる。

──美しい仕掛け。

これは、仕掛けだ。
果穂子はずっとここに居た。二台の大机の裏の『果穂子』が佐伯家の人々の目を免れて、自分の痕跡に気づいて探し、心を通わすことのできる人物が現れるまで。留根千代に全てを託して。

それまで果穂子は百年も、千年も、永遠にまで生き続ける。

決して卓越している訳でも模範的な訳でもなかった臆病な生身の女の子の、精一杯の生きた証。そしてなんと不器用で美しい仕掛けだろう。
いつの間に、六花は泣いていた。意味も分からぬ涙が止まらず、只管悠々と泳ぐ艶やかな鱗の留根千代から目が離せなかった。



折しもそれは、果穂子が亡くなってからちょうど百年後の春のことだった。

2026年 春 六花 2

人はかなしく、しかしかなしいなりきに美しい。


「形見だったんじゃないかと思うんです」
六花の発言に、どういうこと、と向かいのソファに座る早ゆり婦人は穏やかに問うた。
「今までの日記を振り返ってみると、どうもそんな風に思うんです」
六花はあちこち前後しながら、日記の記述や婦人から聞いていた話を基に自分の立てた仮説を説明する。実母と行ったなんでもない幼い日の夏祭りの思い出、そこで掬った金魚のこと、実母はその金魚より先に亡くなったこと、辛い事があると決まって金魚池を覗く癖、『留根千代』への過度の執着……。

「──多分、実のお母さんが亡くなった時、幼い果穂子さんに遺されたのはその金魚一匹だけだったんじゃないでしょうか。金魚は佐伯邸の池に放されて、その後金魚邸に移されて。果穂子さんはお母さんの死をうまく受け止められずに遺された金魚にお母さんを重ねていたのかも知れません。そうしたら、果穂子さんが思い切り縋ったのが昱子さんでもテイさんでもないのも納得出来るなって思ったんです」
婦人は六花が説明を終えても暫くは黙ったままだった。それからやっと、しみじみと頷いた。
「──金魚しか、愛せなかった方なのね」
あなたの予想をお聞きして、わたくしもようやっと腑に落ちました──何かから解放されたような婦人の顔は瑞々しい美しさを持つ少女のようだった。
「あなたの考えは(あた)っているのだと思うわ。晩年の狂気じみた歪みが果穂子姉様に留根千代を異常なほど愛させたのね」
ちょっと待ってね、と婦人は席を立ち、暫くしていつかのアルバム帳を胸に抱えて戻ってきた。前回の様に迷いなく例の写真のある頁を開く。
「生きずらい方だったでしょうね。繊細で、誰も愛せなくて」
独白のような早ゆり婦人の言葉を、六花はただ黙って聞いていた。
「母のことだって、心の底では本当は愛していたのでしょ。でもそこから堂々と踏み込むのが怖かったのだわ。一度愛した人をお小さい頃に失っていらしたから。──ひょっとしたら、母は果穂子姉様のお母様に嫉妬していたのかも知れない」
え、と漏らすと婦人はアルバム帳をこちらに寄せた。
「この写真と同じよ。幾ら一緒に過ごしてもお互いに見つめ合っても、果穂子姉様の心はぜんぶ居もしないお母様で占められているのだもの。まるで写真の中の相手と見つめ合っているような感覚だったのではないかしら」
あの時の母の独り言の意味が分かった気がするわ──意識してかそうでないのか、婦人は写真の中の美少女のままの昱子を何度も指の腹でなぞった。
──果穂子さんの心の中には誰も居ないの。
「なんというか、不幸ですね」
あまりにもどかしい昱子と果穂子の関係。こんな救いようのないままに二人は死に別れてしまったのだと思うとやるせない。
「──だけどね、」
婦人は顔を上げて六花に真っ直ぐ視線を合わせ、口許で笑んだ。
「救いはちゃんとあったのよ」
六花がその意味を把握しかねている間に、婦人はアルバム帳の別の頁を開く。
彼女が開いたのは一番最後の、裏表紙の見返し部分だった。
「これ──」
六花が婦人に目で問うと、彼女は大きく頷いた。見返しの上部の糊付けが剥がされている。写真が挟み込まれていた図書館の資料本と同じように。
「思い返せば大事な紙類をここに隠すの、母の常套手段だったの。あなたから写真を見つけた場所をお聞きした時すぐに思い出せれば良かったのだけれど。この間漸くはっとしてね。もしやと思ってここも見てみたらね」
「──取り出しても、良いですか」
気が逸った。剥がれた見返しの端からほんのわずか白い紙切れが覗いている。摘んで引くと、それは簡単に引き出され、上質なのに皺だらけの便箋がぺらりと一枚現れた。
細々とした毛筆書き。流れるような濃く深い黒で書かれたなじみの字体。

『昱子姉様へ』で始まる果穂子の手紙だった。

そこには二人にしか分からない、ごく個人的な思い出や感謝や謝罪、そして昱子への率直な想いが記されていた。純粋に、美しく、切々と。

『……わたくしが望むのは、永遠に残る証です。
佐伯果穂子がこの場所この時に生きていたといふ、存在の証が欲しいのです。

死とは一体何なのでせう。死とは、生き返らないもののことを呼ぶのでせうか。もしもそうならば、果穂子は屹度(きつと)生き返つてみせます。そうしたら、死んだことにはならないのでせう。』

──あなたが残るなら、果穂子は。

果穂子がどんな事を本当に願ったのか、今となっては正確なことはもう分からない。だから六花の予測や思うことはどれも微妙に不正解だ。きっとそうなのだ。

昱子姉様、大好き。



大好き。



「素敵な手紙でしょう」
早ゆり婦人の声で、六花は我に返った。とても、と答えてテーブルの上の便箋を改めて眺める。
「でも、こんなに大切に挟み込んでいた手紙なのに、どうして皺々な感じなんですかね」
「本当。きっと、何かいろいろあったのでしょ」
けれどそれはわたくしたちが知らなくても良い事なのだわ──婦人は茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。




「るねちよ、もうすぐお家に連れて帰れるんでしょ」
淡い水色のスカートを揺らしながらぴょこぴょこ帰り道を歩く果音は六花の袖を引っ張ってこちらを見上げた。うん、と六花は応える。
「来週くらいからなら大丈夫って言われたよ。水槽と、赤ちゃん用の餌も一緒にくれるって」

定期的に図書館の金魚池の管理をしてくれる業者が、水草に産みつけられた卵が孵っていると教えてくれたのは前回のメンテナンス時のことだった。覗きに行った池には、言われないと分からないようなメダカのような頼りない稚魚が何匹か漂っていた。体が赤くなるのはもう少し成長してからだそうで、まだ金魚らしさは感じられない。その中の一匹を六花が貰える事となり、迎え入れる予定の金魚は果音と相談して留根千代と名付けたのだった。果音もまた六花があの日携帯端末の写真に収めた、もうひとつの大机の裏の元祖『留根千代』の絵を見てすっかり金魚が好きになったらしい。

果音は三年生になった。
彼女によるとクラス替えはどの学年でも行われなかったそうだ。南小学校と統合されても四クラスしかない小規模な学校なので、他クラスの子どもでも顔を知らないということもないのだろう。それが果音にとって良かったのか良くなかったのか、六花は知らない。果音はいつも言葉少なで、学校生活を楽しんでいるのか耐えているのか、分からない。
──他人と関わり合うことは難しい。
未だに、というか果穂子の人生をなぞった今だからこそ改めてそう思う。人の想いはデリケートで複雑で、人間関係のいかに繊細なバランスで成り立っているかを思い知る。
果音と同時に、美貴に関することもずっと気にはなっていた。気にしてはいるものの二の足を踏んだままで、どうしたものかと六花は若干途方に暮れていた。そもそも顔を合わせる機会がないのだ。
──あの時、私はどうしていたら良かったのだろう。
あれから幾度も考えた。
きっと、あの状態の美貴を本来の美貴だと捉えてはいけないのだろう。息抜き出来る場所がなく、毎日がいっぱいいっぱいで余裕がないのだ。だからあんなピリピリした態度を取ったのだろう。というか、六花の彼女を刺激するような言い方にもおそらく問題があった。
けれど、難しい。六花は一番に果音の味方でいたい。果音があんな風に、日常無意識に傷付けられていると思ったら我慢ならなかったのだ。ストレスを受け流す機能が未発達な子供が健全に生活できるのは、泣きたいときに思いきり泣くことができるからなのだそうだ。それを上手に出来ない果音が幼い自分と重なり、どうしても肩を持ちたくなる。それは単なるエゴイズムなのだろうか。

「果穂子さんを追っていて何度か感じたんですけど、私の臆病さは果穂子さんとよく似ているんです」
あの後、六花は早ゆり婦人にそう漏らした。
「きっと感性そのものが似ていらっしゃるのね。……おかしな言い方になるのだけれど、だからこそ果穂子姉様はあなたを選んだのだと思うわ。素敵なことよ」
でも、と六花は言いかけてやめる。今の六花は果穂子の長所と、その裏返しの短所もよく知っている。亜莉亜にもあのとき言われた。もし、自分も大事な場面で果穂子のような頑なさを発揮してしまうのだとしたら。
「大丈夫。あなたは何とかしたいと思っていらっしゃるのでしょ」
軽々と早ゆり婦人はそんな事を言ってのける。
「苦しかったら苦しんだら良いし、悲しかったら悲しんだら良いってわたくしは思うの。そうして散々迷えばいい。人になかなか心を開けなくてもそれは生まれ持った性質だもの、責めることではないわ。だけど、孤立したら駄目よ。孤立したら駄目。歳をとってからしみじみ思うの」
ねえ、あなたに提案があるのだけれど──婦人はきらきらとした瞳で六花の耳元で内緒話でもするように囁いた。

果音を原田家に送り届けた帰り、普段と違う道を通った。冬と比べると随分と日が延びてきて明るい。
歩きながら早ゆり婦人の言葉を反芻していた。
──孤立しては駄目よ。
多分それは六花だけでなく、早ゆり婦人も、果音も、美貴も、亜莉亜も、誰でも。だから、婦人の提案は特別誰の為というものではない。誰も気兼ねする必要のないものなのだと思う。
普段の道では目にすることのない月極駐車場の脇を通り過ぎる途中、何の気なしに疎らに停まる車を眺めていた六花はあっと小さく声を上げてぴたりと立ち止まった。車の一台に、美貴が乗っていた。エンジンも掛かっていない。不自然な動き方をした六花にあちらも気付いたらしく目が合った。
手で顔を拭う仕草で、泣いていたのだと分かってしまう。気まずいけれどそのまま立ち去るわけにも行かず、六花は頭を下げた。美貴も気まずそうに車から出て来る。
「お疲れ様です」
「いえ」
美貴は頭を下げた。
「この前は──本当にすみませんでした。美貴さんの状況も知らないのに、生意気なことを言いました」
「いえ」
気まずさからか、美貴は前回のような覇気もなく短い返事をするだけだ。
沈黙に突入してしまうのが怖くて、まだお仕事中ですかと聞こうとして車内に目を遣ると、助手席にスーパーの袋に入った野菜やら冷凍食品やらが目に入った。今はまだ18時前のはずだ。果音は美貴が帰宅するのは大抵19時半くらいだと言っていた。何を言っていいのか、言葉に詰まる。
「──わからないの」
突如、美貴がそう呟いた。
「自分でも子どもたちが寂しそうなのは気付いてたんです。でもどうすれば良いのかわからないの。全部カバーすることなんか出来ないし、せめて週に一回は早く帰るように調整もしてみたんだけど──」
私もう、どうやって子どもたちと他愛ないお喋りをしたら良いのかも分からないって気付いたの──そう言って美貴は果音そっくりな仕方でほろほろと涙を溢した。
「いつもあれしなさいこれしなさいって言うだけで、いざ時間ができても他に何にも言葉が出てこないの」
美貴は無理矢理涙を切り上げて顔を拭い、息を整えた。
「変なところを見せてしまってごめんなさい」
美貴は助手席のレジ袋を取り出して車をロックし、六花に一礼する。色々な感情が渦巻いて呆然と立っていた六花は立ち去ろうとする美貴に慌てて声を掛けた。
「美貴さん」
あの、と逡巡してから言葉を繋げる。
「そしたら週に一回、みんなで一緒に夕飯を食べませんか」
六花の唐突な提案に、目元の化粧が崩れた美貴は怪訝な顔をする。
「私たちが料理しますから。週に一回、美貴さんがご飯を作らなくても良い日ができるように。図書館のそばに住んでいる、三石さんというおばあさんに果音ちゃんが懐いているんです。三石さんが(うち)でそうして貰えたら嬉しいって。私もそうして貰えたら嬉しいです。他愛ないお喋りって、気が張っていると出ないものだと思うので。美貴さんは仕事帰り、息子さんと来ていただくだけですから」
──他人と関わり合うことは難しい。

難しいけれど、少しでも分かり合えたら、うれしい。

神妙な顔で固まっていた美貴は不意に噴き出した。歳と比べて幼い、半分化粧の取れた美貴の笑顔は六花の好きな笑顔だった。
考えてみます──美貴は笑った顔のまま、もう一度頭を下げてアパートの方へ去って行った。
──言えた。
亜莉亜にメールしよう、美貴の背中を見送りながら何故かそんな事を思った。亜莉亜にメールして、近頃起こった様々なことや、留根千代のことも果穂子の手紙のことも話そう。それから、ずっと気にかけてくれてありがとうと送ってみようか。










白川町記念図書館は、街全体を見下ろすかたちで建っている。

六花は相も変わらず職員用休憩室の小窓で昼休憩を過ごすのを日課としている。ガラス越しに見下ろすと、坂のふもとからやって来るバスが、子どもの玩具みたいにことこと移動している。

その昔、この辺り一帯は資産家の住まいがひしめき合う活気づいたところだったそうだ。今は図書館となっているこの建物も、当時は資産家の住む邸宅でそれは立派な様子だったらしい。その家の佐伯果穂子という娘は、特殊な家族関係を経験し、唯一無二の友情を築いて青春を過ごしたあと、結核に罹って十九年という短い生涯を閉じたそうだ。
今では彼女のことを知る人は無きに等しい。百年も経てば彼女に限らずほとんどの人が忘れ去られたまま、これからも人々の記憶に上ることはない。

完璧とは程遠い人々が、生まれて死んで、生まれて死んで、その結果無数の小さな幸せや切なさが発生して消える。その繰り返し。当人にとってはその人生のどれもがかけがえのない特別なもので、けれど他人にはどうでもいい話。
街は様変わりしてくる、くるりと人だけが綺麗に入れ替わり、私たちは僅かに残った断片から当時を読み取るしか無い。それも本当の事なのか、間違っているのか、もう分からない。

でも、二台の大机に残された果穂子の日記と留根千代の絵は、次の百年にも残っているといい。六花は勝手にそう願うのだ。



昼休憩から上がる間際窓から見下ろすと、ふもとから上ってきたバスが図書館前の停留所で止まり、乗客がぞろぞろ降車してきた。



金魚邸の娘

金魚邸の娘

「あなたが残るなら、果穂子は百年も、千年も、永遠にまでいきませう──」 司書として働く六花はある日、図書館の大机の裏にびっしり日記が書いてあるのを発見する。その日記の秘密を紐解くとき、ある少女の一生と、命を賭けた美しい仕掛けが動き出す。

  • 小説
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  • 青春
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  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-04

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  1. 一九二四年 四月四日 果穂子
  2. 2025年 初夏 六花 1
  3. 2025年 初夏 六花 2
  4. 2025年 初夏 六花 3
  5. 一九二四年 十月八日 果穂子
  6. 2025年 盛夏 六花 1
  7. 2025年 盛夏 六花 2
  8. 一九二五年 五月二日 果穂子
  9. 2025年 盛夏 六花 3
  10. 一九二五年 八月二十一日 果穂子
  11. 2025年 晩夏 六花
  12. 2025年 秋 六花
  13. 一九二五年 十一月十九日 果穂子
  14. 2025年 晩秋 六花 1
  15. 2025年 晩秋 六花 2
  16. 一九二六年 三月十日 果穂子
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  19. 一九二六年 四月四日 果穂子
  20. 2026年 春 六花 1
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