いつかきっと、きみに
大切な人に伝えたい想いがある。伝えられるうちにその言葉を。
「おかしい」
頭が、心が、身体全体がそう叫んでいるのに、俺は耳を傾けなかった。聞こえないように全力で耳を塞いでいた。
ただ、彼女の春の木漏れ日のような、温かい笑顔を見た。彼女の髪から流れる、甘い匂いを嗅いだ。彼女の口から漏れ出す、吐息だけに耳を傾けていた。
「ねぇ」
テレビの画面を見ながら彼女は口を開く。
「どうした?」
「どっか行こうよ」
彼女はそう言っていたずらっ子のように目をキラキラさせて俺を見た。
「どっかってどこだよ」
そう言いながら俺はチャンネルを変える。しばらく回しているが、内容がさっぱり頭に入ってこない。そもそも、このテレビの内容は聴く価値があるのだろうかとさえ思う。
結局あきらめて最初の番組に戻した。
よくわからない誰かが永遠にしゃべっているだけだ。
「ここじゃないところよ」
そういったかと思うと彼女は座っていたソファから立ち上がって大きく伸びをする。
誰かよくわからないテレビの住人の代わりに、シンプルな半そでと短パンから細く伸びる白い腕と足が視線を奪う。
「ほら、早く用意してよ! 行くよ!」
全く、行動だけは早い。少し呆れつつも、俺は苦笑して立ち上がる。テレビを消して携帯だけつかむと、部屋の電気を消した。そして、彼女が待つ玄関へ向かう。
「おいしー! あっ、あれ見て、あの苺のジュース!」
彼女はそう言って突然走り出す。
「お、おいっ! 待てよ!」
そういうが、繋がれた手は離れない。彼女は勿論、俺だって離す気なんてさらさらなかった。
俺より小さな手で引っ張り、俺より小さい足で歩き回る。俺より小さい身体で俺より大きな喜びにあふれて今にも押しつぶされそうになっている。
目的のジュースを手に入れ、満足そうな彼女を目にすると、たとえ火の中水の中。どこにだってついて行こうと思った。
「他、どこ行きたい?」
そう問いかける俺が珍しく、驚いたように目を見開く彼女。
彼女は少し考えて小さく、遊園地、と言った。
賑やかな遊園地。子ども連れが多く、子供の元気な声があちこちではじけている。
彼女はそんな子供たちを楽しそうに見ながら、ジェットコースターからメリーゴーランドまで片っ端からすべて乗り始めた。
そのどれも一人で乗るわけではなく、俺も一緒に乗る羽目になった。
絶叫マシンがそんなに強くない、むしろ苦手な俺がジェットコースターや急流すべりから降りてげっそりと近くのベンチに座ると、彼女は心配そうにする一方、とても楽しげに俺のことを看てくれた。
最後、彼女の希望で観覧車に乗った。
小さく揺れるゴンドラは、俺たちを乗せてゆっくりと回り始める。
彼女は小さな子供のように窓の外の景色を楽しんでいる。だんだん建物や人が小さくなり、ままごとの人形くらいの大きさになると、彼女は満足げにため息を吐いた。
「楽しかったねぇ」
にこにこと俺の顔を見る。
「そうだな」
俺も彼女に笑みを返す。ただ、どうしたことか。その笑顔はどこか硬くて幸せな笑顔とは程遠いものだった。
「えー、なんで泣くの?」
「泣いてねーよ……」
そう言いながらも、目頭がどんどん熱を帯びてくる。鼻がツーンとするのを感じる。それでも、目から水滴をこぼすことだけは許さなかった。
泣いたりなんかしない。
必死に顔を上げると、彼女の温かい笑顔が目に入る。そっと頬に触れると、かすかに濡れていた。
「お前が泣いてるじゃないか」
その涙を必死に拭いながら大きく鼻をすする。
「あんたが泣かないから代わりに泣いてあげてるんでしょ」
「そーかよ」
俺は隣で泣く彼女の細い身体を優しく抱きしめた。
「どこにも行くなよ」
勝手に口から出た言葉。彼女はほんの少しだけ身じろぎする。
「絶対。勝手にどこにも行くなよ」
もう一度念を押すように。彼女をとどめておけるように強く言う。
「……うん。わかった……」
優しい彼女はそう言って小さく笑った気がした。
「ありがとうございましたー」
その声に出迎えられつつ、観覧車から慎重に降りる。大人になっても動いているものから飛び降りるのは少し怖い。
俺は、一瞬遊園地を見渡し、ポツンと空いているベンチに座る。
「ちょっと、もうちょっと詰めてよー」
笑いながらそう言う声がどこからか聞こえる。
「えー、やだよ」
そう言いながらもやっぱり笑う誰かの声が聞こえる。
俺はぼんやりと一人で空を見上げながら、彼女を思い出していた。
彼女の陽だまりのような笑顔。甘いにおい。明るい声。小さい身体。手足。
心の中で彼女に呼びかける。
「なにー?」と笑って返事をする彼女の姿が思い浮かぶ。
「愛してる」
ただ一人に聞こえるように、俺は宙に向かってそう呟く。
空のどこかで笑って俺のことを視ているであろう彼女に、いつか届くように願いながら。
いつかきっと、きみに