後押し
一
路地で寛ぐ猫が何処かの誰かの飼い猫じゃないとは言い切れないように,何処かの誰かの家にいる猫の一匹が,何処の誰にも飼われてはいないと,誰ひとりとして言い切れない。少なくとも,その場面だけからは。つまりはそういう事だ。必要なのは,事実の先にあるイメージを湧き起こすことに成功しているかいないかが大事なのだ。したがって,それは他人の目をもって完成する。瞬間の芸術という表現は,だから言葉の上の意味でしかない。能動的に切り取られた瞬間を間に挟んで,受け手の立場からの個人的な解釈が向けられること,それが予め許されている。瞬間に加えられる現実の時間の幅があることをもって,『時間の芸術』と評されることには,それに携わる者の頷きと実感が伴う。そういう一枚も色褪せずに残っている。例えば,丸テーブルに座る一部の人々の力強い眼差しは,しかし,その決を採るための挙手を行っている者が一人もいない事から,多分そのスピーチを注意深く,真剣に耳を傾けている途中だ。そして,その結論の内容は記録に残されている。なので,そこに写っている者は次の(スピーチの予定より長くなれば次の次の)瞬間には,一人残らずその賛意を示す挙手を行なっているはずだ。それが分かる一枚である。その題名も『歴史的な』で静止させられているのには,だからしっかりとした理由が詰め込まれている。その進む先に,万雷の拍手を控えさせている。それを紐解け,とは命じていない。ただ期待しているだけだ。誰が,と言えば,その人が。その人とは,と言えば,誰でも。厳密に言うなら,それを求めてシャッターを切り,それを感じて立ち止まった人の,誰でもということになる。
だから,その核となるのは,収めることが出来なかった次の(または次の次の)瞬間が含んでいた様々な可能性,その時に見かけなかった偶然に,選ばれなかった自由に,何が含まれていたのかを思い浮かべる,見る者の視点。それすら想像したかもしれない,切り取った者の直感。
共同で作業したかのように広がる,数センチメートルの違いの縦長または横長の時間の世界への始まり。雑踏が静まり,窓が開け放たれ,はにかみが残り,その手が正しく伸ばされた先にある,最も親しい存在へと繋がる道。後戻りすることが叶わない。それを幸せと感じられることが幸せだ,そう刻まれている名前の真横。いくつかの物。個人的な牛乳の空き瓶。
期待以上,と声が揃う気がするから,また嬉しくなる。そういう機会と巡り合わせが配置されている。計算し忘れた動機とともに,この世界に残されている。
だから私は,あの一枚が大好きだ。
後押し