魚の街
気づくと、ぼくは魚の街に来ていることがあった。
魚の街とは、文字通り、魚たちが歩き、生活している、海の底のように静かな街のことだ。なぜ、魚が歩いているのかは、わからない。たぶん、そこが水中ではないからだろう。それぞれ、足を持っているのだ。
勤めて一年と三カ月を過ぎた頃、少し仕事も任されるようになり、ようやく残業を終えて家路についた時だった。ぼくは、深夜バスの後部座席の端に座り、窓から入る風を心地よく感じながら、ぼんやり肘をついて外を眺めていた。
ふと、学生の頃につきあっていた麻衣の顔がそこにあった。彼女を後ろに乗せたバイクが、ひょいとバスを追い越していったのだ。運転している男の顔はよく見えなかったが、街燈の灯りの中で、彼の体に腕をまわし、背中に頬を寄せている顔が不思議とくっきりと見えた気がした。
幸せそうでよかった、と思った。ぼくでは彼女を幸せになんて出来なかったから。
次止まります、と車内にアナウンスが流れ、窓から顔を上げる。すると、一瞬眩暈でもしたかのように、車内の風景がどこかゆらゆらと見えた。落ち着くと、ぼくは魚の街に来ていたことを知った。先ほどまでつり革につかまっていた乗客たちは、いつの間にか色とりどりの魚に変わっている。水槽の中にいるようだった。バスが停まりドアが開くと、するりするりと魚たちが降りていく。ぼくもつられるように、そこで降りることにした。
魚たちは、足音を立てずに歩道を並んで歩き、すーっと暗がりの中に吸い込まれるように消えていった。夜空を見上げると、天頂近くに黄金色の光を放つアルクトゥールスがあった。夏の前になると現れる星で、その色から麦星とも呼ばれている。この世界でも、空の景色は、見慣れた空とまったく変わらない。ただ少し、月や星が滲んで揺れているように見えるだけの違いだ。空気の質が少し僕らの世界とは違うのだろう。でなければ、魚が呼吸できるわけがない。
ネクタイを外し、鞄の中に突っ込むと、乗客たちが消えていった後の暗がりを、一人歩き始める。ぼくは、ただ風に身をまかすように、彼らの消えた方向にぶらぶらと歩いていけばいい。そのうち、ほのかに揺れる提灯アンコウの灯りが見えてくるのだ。この街のなじみの店だ。今日のような初夏の夜も、桜が舞う日中でも、冬の木枯らしが吹く夕暮れ時でも、ぼくがこの街に来ると、必ず開けて待っていてくれるようだ。以前、地図で確かめようと思ったこともあるが、無駄だった。場所も特に決まっている訳でなく、地下鉄の中だったり、時に職場の喫煙所だったりすることもあるからだ。
この街に来ると、ぼくはなぜか坂本九の「上を向いて歩こう」を歌いたくなる。歩くスピードに、この歌のリズムがあっているのだろう。この街では、人に憚ることなく、大声で歌えるから気持ちいい。身体が心なしか軽く感じられ、気持ちはわかめのようにゆるゆるとほどけていく。
その日も、歌詞の中の思い出の春と夏の日を三度過ぎた辺りで、道端にぽつんと、か細い脚で胡坐をかいて居眠りをしている年老いた提灯アンコウを見つけた。見慣れた岩穴の奥に、地下へと続くバーの入り口があった。
ぼくは、当時友だちも少ない孤独な学生で、麻衣は、ぼくにはもったいないくらい優しい娘だった。初めて彼女の部屋に招待された日、それは僕の誕生日だった。数人の友人が呼ばれ、彼女の手料理でもてなされた。彼女は、料理を運ぶ間を縫って、そっとレコードに針を落とす。いつだったか、ぼくが好きだといったピアノソナタだった。ぼくは驚いて、キッチンへ戻る麻衣の後姿を見つめた。
彼女に誘われ、大学主催のスケートに行ったことがある。リンクの脇のベンチに腰掛け、深くかがんでしっかりとシューズの紐を結んでいた。リンクに立つと、まず、麻衣がちょこちょこと歩き出した。不安に思って彼女に追いつくと、「スケート初めてなの、ごめんね」と顔を赤らめた。彼女は友人も多いらしく、何人もの学生が彼女にエールを送っていた。いつしか、そんな輪の中にぼくもいた。よほど疲れたのだろうか、帰りのバスの中でぼくの肩に頭を乗せて彼女は寝息を立てていた。
先ほど見かけたように、夏、バイクで湘南の海にドライブに連れて行ったこともある。
その後幾度となく、デートのようなものを重ねたが、ついぞぼくは麻衣の手を握ることさえできなかった。二人だけでいると、何を話していいのか、ほとんど言葉が出てこない。彼女も俯いて、黙っていることが多かった。共通の友人と過ごしている時に見る彼女の快活な笑顔が眩しくて、ぼくなんかといるより、ずっと楽しそうだった。
ぼくの中で、彼女を幸せにはできないだろうという諦念が徐々に膨らみ始め、ぼくは、麻衣と距離を置くため、彼女に黙って、住み慣れた小さなアパートを出て、学生寮に入居を決めた。それ以来、ほとんど二人で会うことはなくなり、いつしか電話も途絶えた。結局、ぼくは、卒業式もサボり、その日、新しいアパートで引っ越しの片づけをしていた。
ぼくは、臆病な卑怯者だった。
酒がそれほど強くないぼくは、決まって薄目のカクテルを注文する。薄暗いカウンターに座り、いつものを、と頼む。太ったうつぼのマスターは、黙ったままジンのカクテルを用意し始めた。しばらく、煙草をふかしながら、スピーカーから流れ出したベートーベンの『月光』に耳を欹(そばだ)てた。誕生日の思い出の曲だ。荒涼とした岩肌を照らすような静かな旋律は、人の孤独な心を映しているように思えた。
「ところで、マスター。ぼくなんかは、この街に住むことはできないのかい? とても気に入っているんだけど」、と唐突に訊ねた。
するとマスターは、シェイクの手を止め、小さな丸い目を心持ち大きく見開いて、赤い口を開いた。
「そんなに難しいことじゃあ、ございません」
しわがれた声で応えた。
「転居届とか、同意書とかを書けばいいのかな?」
「いいえ、そんな役所や病院のような手続きなど、必要ありませんよ。ただ、人間をやめて魚になればいいんです」
彼は、淡く透き通ったチェリー色のシンガポールスリングをカウンターにそっと置くと、口を閉じた。
人間をやめて魚になるって、どうすればいいんだろう? 彼の言葉に疑問を抱きつつも、煙草を消して、一口カクテルをすする。甘酸っぱい気泡が、身体に流れ込み喉の奥で弾ける。
突然マスターの大きな体がカウンターの上にぬるりとせり出し、ぼくの耳元にとがった口先を向けた。
「魚になるのには、一番大切な記憶を一つ、そのカクテルに溶かして、飲み干せばいいんですよ」
マスターのしゃがれた声は、ぼくの心を見透かしたようだった。
一番大切な記憶かぁ。曲は、モノクロームな第一楽章から美しい天上の世界を思わせる第二楽章に移る。ぼくは、汗をかいた目の前のグラスを見つめた。
真っ先に思い出したのは、先ほど見かけたばかりの麻衣と過ごした日々だった。孤独な人生を過ごしてきたぼくにとって、それは天上の世界の出来事のようだった。この思い出を、失うことになるのだろうか? ふとそんな不安が過った。
もう一本煙草を吸おうとポケットをまさぐると、冷たく硬い石に手が触れた。恐る恐る取り出して見ると、飲みかけのカクテルのような、淡い薄桃色の小さな石が、手の中にあった。
「それが、お客さんの一番大切な記憶ですね。なるほど美しい恋の思い出だ」
マスターの丸い目が、一瞬細まったような気がした。
「これをその酒に、溶かすとどうなるんです? ぼくの記憶は消えてしまうんでしょうか?」
「まあ、半分は当たっています。それが、人間を人間足らしめるものですから。しかし、この酒を飲み干すことで、この街で、生涯をその甘美な記憶の中で暮らすことができるようになれる」
ぼくは、戸惑った。麻衣と再び昔のように過ごすことはありえないだろうと思ってきた。自ら、その生活を捨てたのだから。だが、この記憶は、身勝手かもしれないが、ぼくの孤独な人生の唯一の支えでもあった。しかし、その思い出の中でもう一度、麻衣と過ごせるのなら、それはどんなにか素敵なことだろうか。
「お客さん、こんなことを申し上げては失礼かもしれませんが。お客さんの場合、それを大切に胸の中に抱いている限り、一生を同じように逃げ続けて過ごすことになるんじゃありませんか? 未来は単に過去の上に過去を重なるだけ。むしろこの街で、永遠を手に入れられた方がどんなにか安らかなはずです」
彼の言うことは、的を射ていた。
「ぼくが、この街にこうして時々訪れることができる訳を、少しわかったような気がする」
「そう、あなたには、その資格がおありなのです」
「この街で、彼女とやり直すことは、できるのだろうか?」
「いいえ、それは無理でございます。記憶の世界ですから。それにお客様の場合、そんなことは望んではいないはず。彼女は、あなたと別れて、すでに幸せを手にしておられるようですしね。……失礼、言葉が過ぎましたかな」
マスターは、するすると体を引いて、もとの位置に戻った。
「つまり、この世界に住むということは、未来をも捨てるということなんだね」
マスターは、道具を洗い片付けていた。少し間を置いて、ぽつりと応えた。
「私は、未来なんぞ信じておりません。今が果てしなく続くだけでございましょう。それは、お客様もよくご存じのはず」
ぼくは、握っていた石をテーブルに置いて、カクテルを一口飲んだ。そして、ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。吐いた煙が、低い天上に漂い、人の顔を形作っていくようだった。ああ、麻衣のあかんべえをした顔だ。
それは、別れる少し前のこと。冬の日、映画を二人で観た帰りのことだった。最寄駅まで着くと、賑やかな改札口前で、彼女は本屋に寄っていくから先に帰ってて、と言った。ぼくは、もう少し彼女と一緒にいたい気がして、傘をさして店先まで送った。入り口の前でさよならを言い、改札口に向けて戻る。一瞬、振り向くと、本屋のガラス戸の向こうで、彼女があかんべえをしていた。その時、ぼくはその意味が解らず、慌てて目をそらした。電車の中で、ぼくはなぜだか泣き出したいくらい胸が痛かった。
「お客さん、あなたはこの店に来るたびに、酒が、体の中で少しずつ、あなたの記憶を溶かしている。すでにその思い出が、現在に溶け込んできているはずだ」
ぼくは、先ほど見たバイクにまたがる麻衣のくっきりとした顔を思い出した。あれは、過去の幻影だったのだろうか。つと、熱いものが込み上げ、訳も分からず涙が溢れ出てきた。それは、あの時の痛みであり、悲しみだったことに気づいた。
「ぼくは、もう一度、麻衣に会いたい。あかんべえをしていた彼女の気持ちが、今、ようやく少しわかりかけてきたんだ。何て言っていいか、わからないけど、せめてそのことを伝えたいんだ」
思うより早く、言葉が口に出て、その声に自分でも驚いた。
「それにどれほどの意味があるというのですか? 彼女は、もう新しい幸せを掴んでいるんじゃないんですか? 無意味どころか、かえって疎ましがられると思いますがね」
マスターは、手を止め、不機嫌そうに応えた。
「たとえ伝えられなくても、彼女はあの時、きっと悲しかったんだ。それをぼくに伝えたかったに違いない。今、それがようやくわかったんだ。もう過去には戻れないよ」
ぼくは、テーブルに置いた石をポケットに突っ込み、勘定を払い、煙草をもみ消して、立ち上がった。
「今なら、まだ最終バスに間に合うかもしれませんね」表情のないマスターの顔が、一瞬笑ったように見えた。
「ありがとう。世話になったね」
ぼくは、地上へ続く階段を駆け上がり、提灯アンコウにさよならを言うと、真直ぐもと来た道をバス停に向かった。砂が足を掴み、海流が壁のように立ちはだかる。それでもぼくは、持てる限りの力で足を持ち上げ、前に駆けて行った。
その後、彼女の電話にかけてみたが、無機質な音声が番号が使われていないことを告げていた。住んでいたアパートを訪ねたが、すでに越したようだった。ぼくは、連絡を取る術がなかった。それでも、ぼくの心の中の麻衣との思い出は、以前にも増して輝いている。
今でも時々、あの街で、ゆるりと過ごしたいと思うことがある。
しかし、あの日を最後に、ぼくの前に、再び魚の街が姿を現すことはなかった。
魚の街