桜花の証明(作・ゆゆゆ)
桜花の証明
この世界に色という概念は少数しか存在しないらしく、彼女の髪はただの白色として捉えられていた。それはとてももったいないことのように感じられたし、美しいその色が羊の毛と同じだとされていることに対しては悲しみを通り越して怒りすら覚える。もちろん、その怒りの感情の対象には、あまりに語彙の枯渇している住民だけでなく、彼らに美しさを伝える術を待たない自分自身も含まれている。
「きみを表す語がここには少なすぎるよ」
「なあに、またそれなの? 貴方は本当にその話題が好きね」
いつの間にか思考は言葉として宙に流れ出ていたらしい。耳に快い鈴の転がるような音で彼女は溢れ出た僕の声を拾い上げる。振り向いた際に飛んだ水の欠片が陽光を反射し、彼女の纏うワンピースをドレスへと仕立て上げていた。日常場面を切り取った一瞬すら彼女の手にかかれば舞踏会を凌駕する輝きを持ってしまうのだった。
「だって、おかしいだろう? 僕の住んでいた国はね、きみを表現する言の葉が何十も存在したんだ。なのに、こちらでは『きみは美しい人だね』で終わってしまう。そんなこと、到底許されることでない。そうは思わないかい」
「私にそれを言われてもね……貴方と違って私はここでずっと生きてきたのだし、ここでの言葉に不満を感じたことはないもの。案外、貴方の国に飛ばされた人は『なんてこの国は語彙が少ないのだ!』とか言っているかもしれないわよ」
彼女は少しだけ呆れを瞳に映して僕に背を向けてしまった。水と彼女の素足が触れ合う、軽やかな音が涼しげに響き渡る。川を流れる水の透明度は高く、見ているだけで冷たそうな印象を受けた。避暑にこの場所を選んだ彼女の判断は正しかったということだ。空調設備が発達していないこの世界では、暑いからといって家にこもっているのは自殺行為に等しい。
「しかし、これで夏じゃないんだろう?」
ええ、と答える声は吹いた風のせいでうまく聞こえなかった。熱気をはらんだその風は心地よさどころか不快感を煽る。僕の知っている限り、こちらとあちらでの相似点は四季があることだ。しかし、春がここまで暑いとなると話が違ってくる。
「でも、ここまで暑い日も稀よ?」
「せめて春らしい風物詩があればな……この暑さでも春と感じられるんだが」
「ふうぶつし……ああ、春っぽい何かってこと? 隣町では春の暖かさを祝うお祭りがあるわよ」
「隣町だろ。人が大勢いる中で楽しめるとは思わないな、僕は。こちらに突然飛ばされたのは許すとしても、せめて言葉ぐらいは通じるようにしてほしかった。きみ――エルフ族としか話ができないってかなり致命的じゃないか?」
「私と出会えてこうして生きているのだからいいでしょう。それにエルフだけじゃないわよ。翻訳の魔法を知っている者なら誰でも……」
僕は笑う彼女にうんざりした顔を見せる。「翻訳魔法が誰にでも覚えられるようなものなら、苦労していないよ。僕だって努力はした」
僕の知っている異世界というものはもっと飛ばされた者に対して優しいはずだ。魔法を使用する際に必要な魔力が生まれつきの才だなんて、そしてそれを伸ばす術はゼロに等しいなど、僕が理解し納得するまでどれだけの時間が必要だったか。
「じゃあ、これで我慢して?」
彼女は水から上がってくると、腰ほどまで伸ばした髪をそっと両手で摘み上げた。絹に似た艶やかさを持つ柔らかな髪の色は白――この世界で言えば。
ただ純粋な白色では決してない。淡い紅色を溶かし込んだその色は、光の加減で青を帯びた影を映し出す。その美しさは明るい陽光の中でも十分すぎるほどに見る者の心を射るが、夜空を背景にしてこそ真価を発揮することだろう。
闇夜をぼんやりと照らす月ように、その色は否応にも視線を奪うに違いない。降り注ぐ月光を浴び、自ら輝いているようにすら見えた。
「貴方の故郷での春……桜の髪色、なのでしょう? 私の色は」
幻視した夜桜を振り払い、彼女の桜色を見据える。桜のないこの世界は僕にとってひどくさびしいものだった。しかし、彼女の持つ色はここにないはずの桜を連想させる。この気持ちを表現する方法がないことがもどかしい。
「やはり、この世界に言葉は少なすぎるよ。きみの美しさを大勢の人が知らないまま過ごすなんて、許されることじゃない」
「でも、どうしようもないわ。私は貴方の世界を知らない。貴方が見て、聞いて、感じた世界を、知らないんだもの。いくら異国の言葉を理解できたとしても、まったく知らない景色を想像することは不可能だわ」
首をゆっくりと横に振る彼女を僕はどうしようもできないわだかまりを胸に抱いて見ている。揺れる毛先とそこから滴った水滴が陽光に瞬いて、僕は舞い散る桜の花弁を思い出した。
「……本当に、不可能かな」
しばらく熱をまとった風の吹く音だけが二人の間を流れていた。静寂を破ったのは僕だ。彼女は水のせせらぎに向けていた整った顔をそっと僕のほうへと戻す。
「僕の世界では、現実にないはずだった異世界を言葉で描いていたんだ。見たことのない、聞いたことのない世界を。あちらではできた。あちらでできたことをこちらでできないなんて、本当に言えるのかい?」
彼女は無言だった。返す言葉が見つからなかったのかもしれない。語彙の少ない、この世界では。
「願うだけじゃだめだ。行動しなくちゃ。きっと、僕がこちらに来た理由はこれだよ。僕はきみにきみの美しさを伝える言葉を贈ろう。ぼくはきみに、こちらの住民に理解してもらわなくてはならないんだ。きみの髪の色は桜色といって、とても美しいのだと」
彼女の髪を手に取ると、それは幻などではなくしっかりとした質量を持って手のひらの上にある。僕がきみに伝えたいこととは、僕の世界の桜か、桜色の美しさか、それともきみの美しさ――転じて、僕がどんなにきみを美しく、愛しく思っているか、か。そのどれもそうだろうし、実はまったく違う何かかもしれない。とにかく、僕はこの世界に不満を持っている。彼女の髪は決して白色という一言では表せないものなのだから。
桜花の証明(作・ゆゆゆ)