美神

 ファニー・コンフォースは急いでいた。予感に背中をおされている。足が勝手に駆けだそうとする。並木道は葉が落ちきって、木のあいだに見えるテムズ河は、流れがとまっているかのよう。吐く息が白い。川面にたなびく靄も白い。編み上げブーツの底が氷で滑った。泥水がはねた。ぺティコートのレースが台無しだ、せっかく夜なべして縫いつけたというのに。一八六二年、二月の早朝だった。今年はこのロンドンで五つ目となる、ヴィクトリア駅が完成するという。
 ふだんだったらファニーだってこんな朝早くから家を出たりはしない。雇い主である画家は、毎晩のように友人たちと飲み明かすから、しぜんと翌日の仕事は陽がてっぺんに昇るまではじまらない。だからファニーも、モデルを務めるまえの画家とのちょっとした楽しみを計算にいれても、十時をまわってから出かければ充分なのだった。
 けれど今朝はちがう。急がねばならない。だが頭のすみではなぜだか了解している。早く着こうが遅くなろうがおなじこと、どうせもう手の施しようはないのだ。といって、失望はしていない。それどころか勝利への期待がどんどんとふくらんでくる。期待がファニーの右足を急かしている。がしかし、反対の左足をさらに急かすのは罪悪感だ。こんなことを期待しているなんて、あたしはなんて罪深い女なんだろう。
 息を切らし泥をはねちらかしながら走るうち、ファニーは自分でもわからなくなってしまっていた。予感どおりの事態であってほしいのか、それともこの胸騒ぎは、ただの気のせいであってほしいのか。
 ファニーがブラックフライアーズ橋をわたってチャタムプレイスにあるロセッティ氏のアトリエに着いたとき、家はいいようのない静けさにつつまれていた。
 階段をあがってゆくと踊り場に人影があった。ファニーは足を止めた。医者とロセッティ氏の年若い友人だ。どちらも表情は深刻で、友人のほうはしきりにハンカチで涙をぬぐっている。
 若い男は医者の言葉に鋭く首を横に振ると階段を駆けおり、ファニーには眼もくれず行ってしまった。おそらく親戚や仲間たちに悲報を伝えにゆくのだろう。ということは──、ファニーはぐっと顎をひいた。
 あたしの勘はあたってたってことだ。
 ファニーは一歩、一歩、踏みしめて、階段をのぼっていった。医者はファニーに気づくと会釈をした。眼差しに悲しい疲れが見られた。自分の仕事に誠実にむきあっている証拠だとファニーは思った。ロセッティ家のかかりつけであるこの医者を、ファニーは以前から好ましく思っていた。彼はファニーを見下したりはしなかった。ときおりここで顔をあわせると、淑女(レディ)とまではいかなくても婦人として接してくれた。さすがお医者様だ。さっきの若い男など口もきいてくれない。ファニーがどれほど素晴らしいモデルであろうが、彼女を描いたおかげでロセッティ氏の絵がどれほど評価を得ようが、忌み嫌っている。ファニーの経歴が許しがたいんだそうだ。もっとも、このたっぷりとした胸や腰や金髪に、恐れをなしているだけかもしれないけれど。ふふん、若僧め。
 アトリエにはだれもいなかった。ファニーは鼻にしわを寄せた。この匂い、いつもとちがう。これは顔料に混ぜるゴムの匂いではない。アトリエではなく、むこうの部屋から漂ってくる。
 ファニーは廊下を進んだ。ここから先は画家の住まい、ロセッティ家のプライベートな空間、つまりファニーの立ち入ることのできない場所だった、これまでは。
 寝室の扉はあけはなしてあった。まず見えたのは、ひざまずいてベッドへ腕を乗せ、神に祈りを奉げているようにうずくまった、ロセッティ氏の後ろ姿だった。その大きな背中がベッドに横たわる人を隠している。シーツから出た腕だけが見える。白い。牡蠣の殻の裏側のような白さだ。ぴくりとも動かない。
 もう二度と、あの手が動くことはないのだろう。
 ファニーは慄いた。目の当たりにした現実は、怖れていた、けれど一方で夢見ていたものだった。
 ロセッティ氏の妻、エリザベス・シダルが死んだのだ。
 床に瓶が転がっている。茶色い大瓶のラベルの絵に、ファニーの完璧な形の眉があがる。ローダナムだ。アトリエまで漂っていたきつい香りはこれだ。
この阿片チンキをエリザベスは常用していた。瓶は空だった。いっぺんに一瓶飲んだ? なんてこと! 
 じゃあまさか、リジーさんは死ぬつもりで? 
 罪悪感というどす黒い魔物が襲いかかり、心臓をきりきりと締めあげる。右の腕の内側もいっしょにひきつれる。ファニーのふっくらした腕にはひっかき傷があった。もうかさぶたになっていたが、それは数日前にリジー、エリザベス・シダルにつけられた傷だった。その日ファニーは彼女と争った。そして阿片がきれて痛みにあえぐリジーにこう言い放ったのだ、勝ち誇って。
「ロセッティさんのほんとの女はあんたじゃなく、このあたしよ」
 そうしてリジーさんは死んでしまった。あたしがあんなことを言ったから? 絶望のあまり? 
 いいや、ちがう。だってリジーさんはローダナムが手放せなかった。中毒だったのだ。いままでも飲みすぎたことが何度もあった。そして今回はとうとう度をこしてしまった、そうに決まってる。
 ロセッティ氏はベッドの亡骸を抱くようにしてうつ伏せ、眼前の悲しみだけを見つめている。
 ファニーはそっと部屋にはいると、ローダナムの空瓶を拾って棚にしまった。死者へのささやかな思いやりのつもりだった。阿片チンキを浴びるほど飲んだなど、世間にはあまり知られたくはないだろう。
 すると眼にとまった。書き物机に紙片が置いてある。なにか書いてある。ファニーは紙片を手にとり凝視した。
 階段までもどると医者はまだそこにいた。
「親切なお医者様、」
 ファニーは伏し目がちにさしだした。
「奥様がこれを」
 じつはファニーは読み書きが心許なかった。しかしこの紙きれに書かれたコスモスのような細い文字は、リジーの筆跡であると知っていた。
 医者はちらりと見ただけで、すぐさま丸めて捨てた。
「詩の下書きだろう、彼女は詩も嗜んでいたからね」
「じゃあ遺書ではないんですね?」
「しっ」
 医者は自分の唇に人差し指を立てた。
「遺書とは、軽率なことを言うものではないよ。自殺は本人にとっても親族にとっても、たいへん不名誉なことなのだ。もちろんロセッティ夫人はローダナムの過剰摂取で亡くなった、不幸な事故だったのだ」
「この単語、勝つ、って読むんですよね?」
 ファニーは紙を拾いあげ、ひろげて見せる。
「いいかい、リジーさんはもう何年も病気だった、最近は具合がとくに悪く、絵も描けない状態だった、そんな人が勝つだなんて遺書に残すわけがあるかね? したがってこれは遺書でもないし、リジーさんも自殺ではない」
「あのう、なんて書いてあるんでしょう」
「──見よ、つねに勝利するのは、この私」
 大きな物音に医者はびくりとなった。よろけたファニーが思わず壁に手をついた音だった。

 ファニーが画家のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとはじめて会ったのは、四年前のことだ。ロセッティ氏はまだ独身で、そしてだれもが知っているしファニーも隠すつもりなどないが、当時彼女は娼婦だった。二人の出会いも、客をつかまえるファニー一流の作戦だったのだ。
 その夜はサウス・バンクの遊園地、ロイヤル・サレーで花火の催しが開かれるというから、ファニーも勇んで出かけていった。大変な人出だった。物売りが大声をはりあげて焼き栗やタルトを売り、買った人々が食べ食べ歩いてゆく。家柄のよい紳士や淑女は、寸法のぴったりあった服を着ているからひと目でわかる。職人や見習いたちの服にはインクや膠、それぞれ特有の汚れがついている。お針子は暗い屋根裏での手仕事のせいで、眉間に深いしわの跡がある。それからファニーの同業者たち。ストールを肩からわざとずらし素肌をさらしている。顔には白粉をてかるほど。口紅もこってり。そして手に弄んでいるのはクルミだ。
 めぼしい男がいたら、クルミを投げて気をひくというのがよく知られた娼婦の手だった。けれどファニーはもっと大胆で斬新だった。自分の一番の武器を見せつけてやるのだ。
 身なりのいい金払いのよさそうなその男──おまけに若くて男前じゃないか!──にファニーは狙いを定めた。視線は夜空の花火を見あげ、なにげなく近づいてゆく。そうしてすれちがいざま軽くぶつかって、同時に髪を結っていたピンをひき抜く。ピンには細工してあるのだ。通した糸を手もとでタイミングよくひっぱれば、まるでぶつかったショックで偶然、髪がほどけたように見えるのだ。はたして自慢の金髪はなだれ落ち、しかもうまいぐあいに転げた帽子まで、標的である旦那の手へと着地した。上出来だ。
 予想どおり男は眼を瞠った。帽子を返しながらファニーの髪を褒めた。そればかりか顔立ちからゴージャスな体つきまで熱心に讃えるので、なにやら勝手がちがいファニーは戸惑ってしまった。
 さっそく男は商談をはじめた。だがそれは妙な依頼だった。しかしファニーはすぐさま、その仕事は売春よりもはるかに上等で、実入りもよさそうだと判断した。男の前で男の望む衣装を着て、ただ立ったり座ったりするだけでいいと言うのだ。男は絵のモデルになってくれと申しこんだのだった。
 じつはあとになって知ったのだけど、ファニーが金髪を見せびらかして客引きするよりも先に、ロセッティ氏はこの『スタナー(世紀の美女)』に目をつけていたのだという。おのれの志す芸術にふさわしく、またおのれに霊感をあたえてくれる美神、スタナー。つねからロセッティ氏はモデルとなる女性、スタナーを探しており、ついに花火の夜、発見したのだ。青く輝く瞳と麗しの唇の美女──おお、いましも口づけを受けようとしているかのようだ! だけれどもこの唇は、幾度口づけされてもけっして汚されぬだろう!──まさしく世紀の美女を。
 それがファニーなのだと言う。ファニーは笑ってしまった。
 あたしが美神だって? 道っぱたで男に身体を売っているこのあたしが? 
 だいたい美神ってなにさ?
 ともかくファニーはモデルの仕事をひき受けた。約束の時間どおりチャタムプレイス十四番のアトリエに行くと、衣裳が用意されてあった。ファニーは内心驚いた。するとほんとうに脱がなくてもいいんだ。
 でもドレスは見るからにぺらぺらの安物で、画家が要求するポーズはなにを考えているのか知らないが、ひざまずいて板の壁に頭をおしつけていることだった。
 これのどこが美神なんだ? 膝は痛いし腰は強張るし、ファニーは不愉快でならなかった。なのに、その恥じらいの表情が素晴らしい、などとロセッティ氏は夢中でチョークを動かしている。
 画家の眼差しは不思議だ。冷酷に皮膚まで切り裂かんばかりかと思えば、切なげに求めるようでもある。
 ファニーも負けじと画家を観察してやる。
 褐色の髪がふさふさと肩にたれている。額は広く堅く、眉もくっきりと濃い。それが眼に影を落としているけれど、瞳は煌めいている。なかで炎が揺れているよう。なんだってそんなふうにあたしを見るの。なんだかまるでまだ青い少年みたいじゃないの。あの口もと、すねているみたいにきゅっと結ばれている。
 ところがロセッティ氏の描いた絵を拝見するだんになって、ファニーはがっかりしてしまった。これがわたし? これが美神? キャンバスのなかで農夫が女の手をつかみ問いただしている。女は力なく墓地の壁にもたれ、男から顔を背けている。女は街娼だ。いわゆる道を踏みはずしたというやつだ。恥ずべきその姿をかつての恋人に見つかってしまったのだ。
「ファニー、僕の眼は正しかった、君は素晴らしい、この絵はきっと傑作になる、僕の代表作だ、これなら王立美術協会の連中も文句なしに認めるだろう」
「ふん」
「気にいらないのかい」
「さあね、なんだかぱっとしないわね」
 それからも創作はつづけられた。だがけっきょく、なぜだか絵は完成しなかった。

 あれはいつのことだったか。
 とにかくロセッティ氏があのしみったれた街娼の絵はほっぽりだして、こころおもむくままにファニーをスケッチしているときだった。
 それは真剣な仕事ではなく、アトリエには画家仲間の一人が──気さくな紳士だった──遊びに来ていて、ファニーも長椅子でくつろいで、みんなで動物園へ行く計画を話していた。ロセッティ氏は鉛筆を動かしながら、構想中の次作のために仔鹿をデッサンしたいのだと言った。テーブルにはお茶のセットとクルミとクリームと、ヨークシャ・プディングがならんでいた。西日が長々と、床から壁へとのびていた。
「ちょっと君」
 ロセッティ氏が鉛筆で友人の画家をさす。
「もうすこし右によりたまえ」
「急になんだい、僕はここでいいよ」
「椅子ごとよりたまえ」
「それじゃあテーブルから遠くなるじゃないか」
「クルミがほしいときは投げてやるよ」
 ぶつぶつ言いながらも友人は椅子をひきずってゆく。ロセッティ氏はまたスケッチにもどる。おやっとファニーは気づいた。もう眩しくない。さっきから床に照り返している陽射しがきつくて、なるべく顔をそむけていたのだ。いまはそこに友人の影が落ちている。友人はまだ文句を言っていた。ロセッティ氏はファニーと眼があうと笑った。
そうして友人が帰ったあと、ロセッティ氏が描いていた幾枚かのスケッチを見せてくれた。
 少しのあいだファニーは声が出なかった。長椅子の背にしなだれるファニー、手で顎をささえるファニー、横顔のファニー。ファニーの金髪、ファニーの胸、ファニーの指。それは鉛筆やチョークで描かれた素朴な絵だったが、そしてファニーは芸術についてはまるで無知だったが、自分が素晴らしい美女に描かれていることはわかった。でも、ただ美しいだけじゃない。どうして彼が知っているのだろう、そこにはファニーがこれまで生きて感じてきた喜びがあった、悲しみがあった。
思わずファニーは抱きついた。おでこに、ほっぺに、そして男のかわいい唇にキスをする。
 ロセッティ氏は仰天する。ひっくりかえって、這って逃げだす。
 ファニーも驚いた。この慌てふためきよう、なんとロセッティ氏はまだ経験していないらしい。この紳士様は自分の股のあいだの小さな男の子を、まだどの女のスカートのなかにももぐらせてやったことがないのだ。
 このときロセッティ氏はファニーより四つ年上の三十歳だった。
 醜いのならその歳で童貞なのもわかる。だが彼はとてもハンサムだし、お金も持っていた。それに彼はひとを惹きつける。ロセッティ氏が話しだすと男も女も、みんなが耳を傾けずにはいられなかった。ロセッティの話は楽しい。無学なファニーは半分も理解できないが、聞いているとなぜだかわくわくしてくる。胸にわいてきて、こころを温かくぬらすこれは希望だ。ロセッティはひとに希望を植えつけるのが得意だ。それにもう一つ得意なのは、美点を見つけることだ。彼にかかると画家志望の青年はみな天才だ。でなかったら詩人か、少なくとも将来なにかしらの功績をあげて世間に一目おかれる人物になるらしい。ファニーだってうなじの黒子を、生まれながらにして黒真珠のイヤリングをつけていると言われたし、こっそり靴下の穴を繕っていたら、おおマグダラのマリアがこんなところにと感激されてしまった。
 ロセッティ氏は画家仲間の王様だった。年下の友人たちは彼を崇拝し、喜んで従った。モデルの女たちも報酬に関係なく、画家連中の誰よりもロセッティに声をかけてもらいたがっていた。
 そんな男がまだ一度も女と寝たことがないなんて。そりゃあ結婚しないかぎり良家のお嬢さんに手をつけるわけにはいかないけれど、ロンドンのちょいと奥の通りにはいりゃ、いくらでもあたしみたいなのがいるってぇのに。
 だが呆れつつもファニーはさっさと納得する。そうね、純真なロセッティ氏は、きっとこれまで絵のなかの女しか眼にはいってなかったんだね。
 だったらやっぱりあたしは娼婦だもの、彼のちいさな男の子の面倒も見てやらなきゃ。
 その夜は満月だった。アトリエの窓から月の光がランプよりも明るく射していた。満月の、熱のない冴えた光が、男たちをふだんよりもさらに興奮させることをファニーは知っていた。今夜のモデルの衣装が中世風であるのも具合がよかった。大きく胸のあいた薄絹はすぐ脱げる。部屋にベッドはない。だがファニーがいつも腰をおろしてポーズをとる長椅子がある。なんなら床の上だってかまわない。お上品なロセッティ氏はぐずぐずと躊躇っているけれど。
 いいや、本当は怯えているのだ。そう、はじめてのとき男はよくこんなふうに先をひきのばそうとする。
 だからファニーはうまく立ち位置を調節してから眩暈がおきたふりをして、この意気地のない男へ全身を投げおろし、その勢いと自分の体重を利用して、そのまま長椅子へと男ともども倒れこんだ。もちろん男を逃がさぬよう自分の体が上だ。それからさも起きあがろうとするかのようにもがいて、自慢の豊満な胸を男の顔におしつける。やっと男から半身を起こしたら、瞳を潤ませて見つめてやる。このとき思惑どおりに薄絹のドレスは乱れていて、乳首が片方見えている。
 それからはかんたんだった。溜めに溜めてやっとスタートをきった競走馬のように男の情熱は一気に燃えあがり、ファニーはときどき進路を修正してやるだけでよかった。肝心なのはやさしくつつみこんでやることだ、ロセッティ氏の母親になったつもりで。ファニーはプロの娼婦として、ロセッティのこの最初の体験を最高のものにしてやろうと決めていた。そして当然、それは思惑どおりにいった。ただ一つ、予想外だったのは、目が覚めると隣にロセッティがいない。
 まだ朝日はのぼっていないようだ。窓はラベンダー色をし、部屋は薄墨色に沈んでいる。
 ロセッティがいた。一心にキャンバスにむかっている。ランプの光が夜明けの星のようだ。
 ファニーは起きあがると体に服を巻きつけ、ロセッティの背後に立った。
 なんてこと──
 キャンバスはほぼ女の上半身で占められている。ローブを羽織った女だ。モデルはファニーだ。輝きながら広がる金髪、その後ろで咲き乱れるマリーゴールド、瞳は遠く誰かを求め、象牙の塔のような首は、その喉に流れ落ちるものを切望している。
 なんてこと。このあたしが、数え切れないほどの男に体を売ってきたあたしが、この絵にドキドキしている。赤くなっている。ただ女が一人描いてあるだけなのに。
 ロセッティが振り向いた。ファニーを抱きしめた。熱く口づけする。
 なんてこと。
 それはまったく迷いのない、自信さえ感じさせる口づけだった。

 年月は忙しくそして愉快に過ぎていった。絵の注文がたまっていた。ファニーも立ったり座ったりポーズをとった。注文以外にもロセッティはファニーを描いた。
 仕事のあとは二人で砂糖をたっぷりとかした紅茶を飲み、それから今度は自分たちが砂糖のようにとけあう。窓の下でテムズ河はたゆたい、映った月が満ち、やがて欠けてゆく。

 いったいなにが起こったというのだ。
 突然ロセッティが旅立った。行き先は南海岸の田舎町ヘイスティングズだったはずなのに、二ヶ月後、帰ってきたのはパリからだった。ロセッティのかたわらには女がいた。顔色の悪い痩せたその女をロセッティは妻だと紹介した。ヘイスティングズで式をあげ、パリへは新婚旅行だったというのだ。
 どうしたらいいのか。
 怒るべきか、それとも悲しむべきなのか。
 むろんファニーは、自分がロセッティ氏と結婚できる、などとは考えていなかった。いや、じつを言うと夢見たことはある。だってロセッティはベッドのなかでなくても優しい。気を遣ってくれる。面白い話をして笑わそうとしてくれる。一生こうしてロセッティといっしょにいられたら……。こんな感じだろうか、おとぎ話に出てくる無垢な娘の恋ごころは。身分や財産を捨ててまで好きな男との結婚を選ぶのだ。もちろんファニーの場合、財産など持っていないし、持っていたとしても捨てる気など毛頭ない。そもそも、もし万が一ファニーがロセッティと結婚できたとしたら、それはたいした出世なのだ。
 けれどもあるときファニーは立ち聞きしてしまった。ドアのむこう側でロセッティが友人に──この画家はお上品でご立派な紳士だった──忠告されていた。あなたは気前がよすぎます、わからないんですか、あの女はあなたにたかっているんですよ。
 ファニーの手にはついさっきロセッティからもらったソブリン金貨があった。自分の下宿の壁を流行りのガラス絵で飾りたかったし、メリノ毛糸の化粧着もほしかった。ロセッティにねだっているあいだ画家仲間は、渋い顔をして見ていた。
 部屋のなかからロセッティの声が聞こえてきた。「いいんだよ、これが僕のファニーへの誠意なんだ。いくらでもたかればいい、彼女にはその権利がある、だって僕が彼女にしてあげられるのはこれだけなんだからね」
 ファニーは部屋にもどらなかった。階段でお茶を運んできた女中にすれちがうと、さばさばとした調子で言った。
「旦那様に伝えといておくれ。ファニーさんはさっそく買い物に出かけたと」
 そう。街に立つのはとっくにやめたとはいえ娼婦は娼婦、身分をこえて良家の女主人になど、なれるわけがないのだ。けど問題はなかった。だって彼はあたしにぞっこんで、会うたびにこの金髪や、この二つの胸を褒めてくれ、いまではすっかり慣れた手つきで愛撫もしてくれる。それにあたしのような地位の女にはここが肝心、家賃や生活費を快く出してくれている。
 その彼が結婚? 
 結婚しただって!
 いやいや、ちゃんとした紳士ならいずれ妻を娶って家庭を持たなくてはならない、それはわかってる。でも、でも! なぜこの女なのだ? 
 ちっとも美人じゃない。
 女は赤毛で、眉は薄く、目蓋は厚く、首が長く背も高く、血管が浮いた手は枯れ枝のようだった。歳はロセッティの一つ下というから、ファニーより三つも上だ。
ふいに女の口が開かれた。
「あなた、ゲイブリエルの新しいモデル?」
 ファニーは女にむかって、女にはない大きな胸をつきだしてやった。
「ええ、そうですよ。奥さん」
 が、女は薄く微笑した。厚い目蓋の下の瞳は、遠くの雲や足もとの花を眺めるのとおなじように、ファニーを見やるだけだ。
 そして旅の荷物も解かずにアトリエの棚をいじりはじめる。顔料を調べてならべなおす。スケッチ帖をひっぱりだす。女の動作に遠慮はなかった。女はここをよく知っているようだった。ファニーでさえ気を遣ってさわらずにいた作品や道具を、あれこれと動かしている。
 ふと気づくとロセッティが戸口でちいさくなって手招きしていた。階段までファニーを連れだし、ぼそぼそと言った。君はこれからも僕の大切なモデルだよ。
「モデル? あの人もモデルだったんでしょ、そうでしょ、ええっとなんて言った、ス、スタナ? 美神?」
「リジーは僕の最初のスタナーだ、僕はひと目でわかった、彼女は哀しみを纏う謎めいた女王だって」
「あたしには痩せぎすの半病人にしか見えないね」
 叱られた子どもみたいにロセッティの首がたれる。
「リジーは僕の運命の美神なんだ、十年前リジーが現れたとき、僕の運命は決まってしまったんだ」
「十年? 十年も前だって?」
「婚約したのは七年前」
「ハッ、そんな昔っからいい人がいたとはね」呆れてものが言えないとはこのことだ。
「ファニー、僕が彼女との結婚にようやっとふみきれたのは、君のおかげなんだよ。君が僕を解放してくれたんだ、勇気をあたえてくれたんだ」
「なに言ってんのかちっともわかんない」
「ああファニー、君と幾たびも愛しあい、そして僕は何度も生まれ変わった、幾たびも」
 ロセッティは画家であると同時に詩人でもあった。しかしファニーにとって詩人の言葉など、犬の遠吠えとおんなじだ。
「ああ、お願いだよファニー、疲弊した大地には雨の恵みが必要なんだ」
 遠吠えは理解できなかったが、ファニーはロセッティの苦悩を感じ取ることはできた。それにここでひきさがったら、自分の生活はどうなる? だいいち、自分は彼のなんなのだ。スタナでもなく美神でもなく、たんなるお気にいりの娼婦か? それだけの存在で終わってしまっていいのか?
 ファニーはこれまでどおりモデルをつづけると約束した。当然モデル以上のこともするつもりだ、これまでどおりロセッティ氏が望みさえすれば。そしてむろんロセッティは望んだから、彼をはさんでファニー、そしてエリザベス・シダルの、奇妙な三角関係ができあがったのだった。

 誰もいないのを見計らって、ファニーはロセッティのアトリエを物色した。ファニーは確かめたかったのだ。ロセッティと結婚は無理だとしても、甘くて楽しくてそのうえ月々の支払いの心配をしなくていい生活を夢見ていた。なのにいきなり現れたリジーにぶちこわされてしまった。彼女ももとはファニーとおなじモデルだったという。リジーはロセッティにどんなふうに描かれたんだろう? あたしよりきれいに? あたしより色っぽく? 
 水彩画や油彩画は描きかけのものしかない。ロセッティはつねに注文に追われていて、完成させるはしからひきわたしてしまうからだ。奥から『見つかって』が出てきた。例の、ファニーが最初にモデルをした、街娼に身を落した女が昔の恋人に責められている絵だ。未完成のままこんなすみにほったらかしにされていたのか。ファニーは鼻を鳴らした。
 それから思い出した。笑みがこぼれた。
 この絵のあとにロセッティが描いた『ボッカバチアータ(口づけ)』。
 咲き乱れるマリーゴールドを背景に、あたしを描いた絵。
 誰がなんと言おうとあれこそがロセッティの最高傑作だ。
 画帖をひっぱり出したとたん、バサバサと落ちてきた。女の素描だ。リジーだった。
 窓辺に立つリジー。そむけた顔に光があたっている。
 いまより若い。娘のころのリジーだ。
 それだけだった。ファニーは素描にとくになにも感じなかった。肩をすくめ、
「まあ、神秘的といえば神秘的だわね」。
 ファニーはたとえロセッティの絵が飾られていたとしても、展覧会へ行くよりはピカデリーへ、『動くパノラマ』を見にいくのを選ぶ女だった。自分よりリジーが美女に描かれていないのを確認できて、このうえなく満足なのだった。

 それにしてもリジーという女は不可解だ。夫の愛人をどう思っているのか。彼女からはなんの感情も伝わってこない、嫉妬も憎しみも。
 リジーの印象は何日たっても初対面のときのままだった。どこか上の空で、無頓着。美神と呼ばれる女はこういうものなのか? だいたい良家の奥様なら刺繍を刺したり、ピアノを弾いたりして過ごすものだろう。それか窓辺に鉢をならべ薔薇作りにいそしむか。だがリジーのそんな姿などまず見たことがない。それどころかアトリエでファニーがロセッティのモデルをしていると、無言で入ってきて自分も紙とチョークをとり、ともに描きだした。
 女が絵を! 
 ファニーは仰天したがロセッティは平然としていた。あとから聞いたのだがエリザベス・エリーナー・シダルといえば、男とならんで展覧会にも出品したことのある画家で、また詩人だった。絵は世に認められ収入にもなっているという。ファニーは女でも画家や詩人になれるのだとはじめて知った。
 たしかにリジーは画家だ。モデルとしてもうベテランといっていいファニーにはわかる。画布の前に立つとリジーの雰囲気は変わる。うつむき気味の顔がしゃんとあがり、背すじも真っ直ぐになる。厚い目蓋の下から眼差しが、ひたとファニーに注がれる。
 ファニーは鳥肌が立っている。皮膚がひりひりする。ロセッティとリジー、二人の画家たちの視線が、いまファニーを克明に、すみからすみまで、なぞっているのだ。ひょっとするとより痛いのは、ロセッティよりもリジーの視線かもしれない。
 削りとられてゆく、とファニーは感じる。顔を、髪の毛を、眼や眉や鼻、唇、手と足、胸、爪も、あの画家たちは少しずつあたしから削りとっていき、紙の上にもう一人の あたしを、あたしであってでもあたしとはまったくべつのあたしを、新たにつくりだすのだ。なんだかあたしは供物になった気分だ。神にさしだされた供えもの。気がつくとファニーは、無心にデッサンするリジーに見とれているのだった。
 あれは女神だろうか。赤銅色の髪を燃やし、瑪瑙の眼であたしを射抜く。
 あれこそ美神だろうか。
 しかし蝋燭の炎が吹き消されたかのごとく、唐突にリジーはデッサンをやめてしまった。チョークをほうりだし紙を屑箱へつっこむ。そして奥の住居へひっこんでしまった。ロセッティの顔が曇った。リジーは阿片チンキを飲みにいったのだ。

 ほどなくファニーはロセッティの苦しみを理解した。ロセッティはリジーといると気の休まるときがなかった。リジーは始終、吐き気を訴えたり頭痛でベッドに臥したり、たまに調子がいいかと思えばすぐまた訳もなく不機嫌になったり。物憂げな顔をしてロセッティを振りまわすさまは、なるほど無意味な悲しい女王だった。そんな妻にロセッティはつねに神経を張りつめ、気遣うのだった。
 疲れきって倒れんばかりのロセッティを、ファニーはやさしく抱いた。求められるままその二つの乳房に、こころゆくまで彼の顔をうずめさせてやった。そうするとやっと下のほうで、小さな男の子はもぞもぞと起きだすのだった。
 もしかしたらロセッティとリジーさんは、あっちのほうはまるっきりなんじゃないのか。
 ファニーは勘ぐった。そうでないとリジーさんのあたしに対するあの無関心さ、説明がつかない。
 スタナーだの運命だの格好つけてるけど、ロセッティがリジーさんと結婚したのは、病弱なあの人を見捨てるわけにいかなかったからだろう。それとも婚約したのに十年もほうっておいた罪の意識? いや、世間体を気にした親戚から責めたてられた? どっちにしろ二人の結婚は体裁を保つためだけのものにちがいない。
 二人ともわりきっているんだ、夫は妻に一家の女主人という地位を保証し、妻は夫の愛人を黙認する、それが良家の人たちの事情ってやつだ。女一人路地裏で体はって生きてきたあたしには、まったく理解できないけれど。
 あるいはいまは夫の稼ぎに頼っているが、リジーさんは女流画家としてもっとのしあがろうとしているのかもしれない。男よりも名声を得て、男よりも儲けて、いずれ夫などお払い箱にできるくらいに。きっとそうだ、それがいちばん納得できる。
 聞くところによると彼女の才能を見出し、絵を描くように勧めたのは、ロセッティなのだそうだ。描きかたを教え、後援者も見つけてやったという。身分の賤しい女じゃあるまいし、御婦人が働いて収入を得ようだなんて世間が許さないだろう。けれども芸術家となると話はちがってくる。金を稼いで、なお尊敬もされるのだ。女にそんな生きかたがあったのかと、そしてそれを選び実現しようとするリジーに、ファニーはしばし反感を忘れ感心してしまう。
 よしわかった、ファニーはうなずく。リジーさんはどんどんのぼってゆけばいい。せいぜい夫を踏み台にして、世の女のまだ誰も手にしていない成功をつかめばいい。
あとのことはあたしにまかせてちょうだい。安心なさい、ロセッティはあたしがちゃんと面倒みてあげるから。
 ところが信じられないことが起こった。リジーが妊娠したのだ。デッサンを途中でなげだし制作に集中できなかったのも、どうやら悪阻のせいだったらしい。ファニーは 大いに混乱した。それで自分も結婚することにした。

 結婚したってなにも改善されない。暮らしは結婚前より落ちてしまった。新居であるサウス・バンクの下宿も、以前のより狭くみすぼらしい。
 ファニーの亭主は工場勤めのしがない機械工で、ずんぐりしたこの男のいいところといえば無口であることだ。女房が画家のもとにせっせとかよい、仕事はモデルだけではないと知っていても、いっさい口出ししない。もっともロセッティの援助なしでは生活が立ちゆかないのだから、文句など言えるはずもないのだった。
 モデルといえば、ときにはリジーも、ロセッティのためにモデルを務めることがあった。
 リジーが腰かけている。クッションをいくつも重ねているのは、お腹の子に障らないようにだ。手に持っているのはパンジーの花。首に何重にも巻いたネックレスは、この絵のためにわざわざ人をつかって調達した。
 それをロセッティが熱心に写生している。ファニーには気がつきもしない。
 ファニーは面白くなかった。なにか脅かされたような気持ちだった。せっかくサウス・バンクからテムズ河をこえチャタムプレイスまで、亭主の世話もそこそこにやって来たというのに、ファニーはロセッティに声をかけることなくアトリエから立ち去った。
 だが後日、ファニーは胸のすく思いを味わえた。その日はちょっと早めにアトリエに着いたのだが、女中が生意気にも「旦那様と奥様はまだお食事中です」などとほざいた。夫婦が食卓にむかいあっているようすが思い浮かばれて、ファニーはむしゃくしゃした。ゴムと油の臭いのアトリエで、ひとりぽっちで待たされている自分がみじめだった。
 と、眼についた。あのイーゼルに立てかけてあるのは、このあいだロセッティがリジーをモデルにした絵ではないか?
 絵には布がかけられている。ファニーは近よっていき、勢いよく布をとった。
 なによ、これ。
 笑いがこみあげてきた。絵はやはり、あのときのリジーを描いたものだった。まちがいない。手に持っているのはパンジーだし、首にネックレスも巻いている。
 しかし、女の顔はファニーだった。眼を腫れぼったくさせなんとかリジーに似せようとしているが、顔には、いや画面全体から、ファニーがにじみ出ていた。男を誘惑し愛してやるファニーだ。
 ファニーはモデルとしてロセッティをはじめ多くの画家たちと接するうち、なんとなくわかってきたことがある。どうやら連中は眼の前にモデルを立たせながら、無意識にか知らないが、自分の胸のうちをキャンバスに映すらしい。
 ファニーは布を拾い、絵にぞんざいにかけなおし、声を出して笑った。
 けれども失望がまたファニーを襲ったのは、それからいくらもたたないある午後だった。その日ファニーはロセッティのアトリエで二時間ほどポーズをとっていたのだけど、例によってリジーが気分がすぐれないと訴えだした。カモミールだ湯たんぽだとロセッティは駆けまわり、ファニーはしらけていた。どうせいつもの気鬱だろう。じゃなかったら阿片チンキを飲みすぎたのだ。
 リジーの悲鳴があがった。うずくまっている。その足もとに血が広がっていた。
「医者を呼べ!」
 ロセッティが怒鳴った、ファニーにむかってだ。
「ぐずぐずするな、医者を呼ばんかッ」
 ファニーは男に殴りつけられたように感じた。
 医者の診断によると出血は胎盤からで、安静にしなければならないという。
 静まり返った廊下をファニーは進んだ。アトリエより奥であるここは、ロセッティ夫婦の住まいだ。いつもはさすがのファニーもはいるのは遠慮しているのだが、今日はおいとまするまえに、お大事にとだけ言っておきたかった。寝室のドアはあいていた。なるべく通気するようにと医者に言われたからだ。
 リジーは眠っていた。ベッドのかたわらにつきそっているロセッティの背中も見える。背中には光があたっている。昼下がりの陽射しはあたたかそうだ。もう春なのだ。
 ファニーはうちひしがれていた。なにをあたしは夢みたいなことを考えていたんだろう、ロセッティの妻はリジーさんで、夫のロセッティはあんなにも妻を想っている。
 夫婦の寝室のなかまでは、とてもはいれなかった。ファニーは覗きこみ言葉をかけようとした。しかしそのとき、ロセッティの手もとが見えた。
 たったいままで占めていた悲しみとはべつの悲しみが、ファニーの胸に湧きあがってきた。
 かわいそう。
 自分もかわいそうだが、あそこで横たわっているリジーもかわいそう。
 ロセッティは画帖を持って、忙しく鉛筆を動かしているのだった。写生しているのは、リジーの血の気を失った寝顔だった。ロセッティの表情からは、さきほどの動揺も悲嘆も消え失せている。あれは対象をつぶさに観察する画家の顔だ。眼がきらめいているのは、インスピレーションを得たことに歓喜しているからだ。
 画家をつつむ陽射しが、まわりで舞う埃までも輝かせている。
 半月後、リジーは死産した。ロセッティの身も世もない嘆きように、ファニーももらい泣きした。リジーの阿片を飲む量がさらにふえた。
 そしてそれから九ヵ月たった二月、リジーは死んだ。謎の言葉を遺して。
 ──見よ、つねに勝利するのは、この私

 あの争い。
 リジーさんの死ぬ数日前にあたしとリジーさんが争った、あれ。
 あれはいったいなんだったんだろう?
 ファニーはどうしてもわからない。考えれば考えるほど、知らない路地に入りこんでしまったような、どれだけ歩いても抜け出せない、そればかりか濃い霧がたちこめてきて、自分ののばした手さえ見えなくなってしまったような、頼りない気持ちになる。
 あの日、リジーは突然帰ってきたのだ。
 ロセッティ夫婦は友人の新築の家に滞在していた。それが夫をおいてリジーは一人、チャタムプレイスのアトリエに帰ってきたのだ。
 慌てたロセッティがわざわざ電信までよこすから、ファニーはしかたなくチャタムプレイスまでようすを見にいってやった。
 リジーはキャンバスにかこまれて、ぽつんと座っていた。午後の陽射しはそこまでとどいていなかった。だから寒くないのかとファニーは心配した。河の流れる音がいつもより聞こえていた。
 よく見るとリジーは膝に画板をおいていた。スケッチしているのだった。それはまわりに立てかけられた作品──ロセッティのものだ──に比べたら、いかにも小さく粗末な紙きれだった。
 リジーが振り返った。思わずファニーはさがった。しかしリジーは言った。
「ちょうどよかったわ、そこに立ってちょうだい」
 ファニーは迷ったが、けっきょくいつものとおりに自分の務めをはたした。リジーの命じるまま、手をあわせて天を仰ぐように首をのばしたポーズをとる。あとはチョークが紙をこする、シャ、シャ、という音が聞こえるだけだ。リジーはとくに具合が悪いようには見えなかった。こんなふうに外出先から勝手に一人で帰ってきてしまうことは、これまでにもあった。気分屋なのだ。扱いにくい偏屈な女なのだ。
「あなた、彼から絵の手ほどきは受けたの?」
 訊かれた意味がわからなかった。
「彼──?」
「動かないで。もちろんゲイブリエルのことよ、彼はわたしに絵と詩を教えたのよ」
 その話は知っている。リジーにも芸術の才能があることをロセッティが発見したのだ。
「彼と最初に出会ったとき、わたしは帽子店に勤めていたの、レースや羽根や造花を自分で選んで組み合わせ、帽子に縫いつけて飾るのは好きだったわ。彼はわたしを『世紀の美女(スタナー)』だと絶賛し、ぜひモデルにと懇願したわ。そしてわたしに絵を描くべきだって、そりゃあ熱心に説くの、これほど画家に霊感を与える女性なら、本人にもその才能があってしかるべきなんですって」
「それでリジーさんも画家になれたんでしょう」
「そうよ、目線を動かさないでちょうだいね。それでね、まったく可笑しいったらないの。ゲイブリエルの友達のモリスも、妻に教えたの。妻のジェインを教育したのよ、わたしは芸術家にだったけど、あちらは貴婦人にね、まあ無難なせんよね。モリスはジェインを貴婦人に教育し直して結婚したのよ、そう、今日わたしが逃げ出してきた新築の家の持ち主の話、ウィリアム・モリスとジェイン・モリスの話よ」
 節をつけて歌うようにリジーはつづける。
「ゲイブリエルは得意ぃ、モデルを見つけるのが得意ぃ、ゲイブリエルが美女だと言えばぁ、みんな美女に見えてくるぅ」
 また阿片を飲んでいるのか? ファニーは眉をひそめる。
「というわけでご推察どおり、ジェインも見出されたのよ、オックスフォードの野暮ったい田舎娘だったのをね。もちろん見出したのはゲイブリエル、君こそスタナーだって例の調子で褒めちぎってね。ロセッティと彼の仲間たちはね、」
 一転してリジーは皮肉っぽい口調になった。
「競って発見するの、彼らいわく原石を、埋もれている宝石を。そして救い出すの。そうして自分好みに磨きあげて、とどめには結婚という抗いようのない救いの手をさしだすのよ」
 ファニーは戸惑った。この人はいったいなにを言っているんだろう。
「で、ファニーさん、あなたはどう? 彼はあなたになにを教育してくれた?」
「あたしはなんにも──」
絵どころか、読み書きだっておそわっていない、知りあって五年以上たつのに。
「あら、そうなの」リジーのチョークが止まった。
 じっくりと観察されているのをファニーは感じた。痛いほどのリジーの視線だった。
 いよいよだ、ファニーは覚悟した。これまで何事もなくすんでいたのがおかしかったのだ。罵られるか泣いてすがられるか。いまこそ妻の押し殺していた感情が愛人にぶつけられるのだ。
 ところがリジーは言った。それは皮肉でもやっかみでもなかった。感動を正直に表した言葉だった。
「あなたって本当にきれいだわ、その金髪、誰もが眼を瞠る。それに豊満な体。はしたないことを言ってごめんなさいね、褒めているのよ、きっと男はみな、あなたみたいな女が好きなのね。ええ、あなたこそ本物のスタナーだわ、誰もあなたに教育しようなんて思わない、そんな必要ないもの」
わけがわからない。この女はなにを考えているんだ? 阿片で頭がおかしくなってるんじゃないのか。
「変な顔しているのね、わからない? わたしはあなたを尊敬しているのよ」
「ハッ、奥さん、からかってるんですか」
「だってあなたは誰にも頼らずに自分の足で立っているもの」
「リジーさんだって立派な画家じゃあないですか」
 するとまったくだしぬけに、リジーがスケッチを破りだした。いまのいままでファニーを描いていたその絵だ。
 紙が裂かれる音を、ファニーは自分自身が真っ二つに裂かれたように聞いた。これがリジーの本心なのか? 憎しみか? 
 ああ、やっぱりね。ファニーの顔にのぼってきたのは、怒りの強張りではなく勝利の笑みだ。やっぱりリジーさんは、どんなに取り澄ましていてもあたしの存在が許せなかったんだ。
 ファニーは勝ち誇った。だが床に落ちた絵にファニーは思わず眼を凝らした。
 あれはあたしじゃない──
 たしかにそこには、さきほどまでファニーがとっていたポーズの女が描かれている。衣裳もおなじだ。けれど二つに裂かれた女は、ファニーに似せようとはしているが、ちがう女だった。ファニーのまったく知らない女だった。ファニーはよく承知していた。キャンバスに正確にモデルを写しとろうと務めても、つい、おのれの心情を描いてしまうのが画家なのだ。
 リジーの口からもれた。
 憎憎しげに、
「ふん、小娘が!」
 そして噛みしめた歯のあいだから、さらに不可解な言葉がおしだされた。
「たかが刺繍じゃないの」
 刺繍──? 
 なんのこと?
 リジーが阿片チンキの瓶に手をのばした。だがファニーがとりあげる。
「なにをするの、返してちょうだい、わたしのローダナムよ」
「奥さんは飲みすぎですよ、いくらお薬だからって」
「痛いのよ、気持ち悪いし吐き気もするの」
「刺繍ってなんです?」
「早くローダナムをちょうだい」
「刺繍ってなんです、あたしはリジーさんがきちんとした家の奥様みたいに、刺繍をしてるとこなんて見たことありませんがね」
 リジーの形相がかわった。
「わたしに刺繍しろと言うの? このわたしに!」
 リジーが飛びかかってきた。ファニーはリジーともみあった。「ローダナムをおよこし、この売女!」「やっと本音が出たね、この淑女気取りが!」
 リジーの爪がファニーの腕をひっかいた。ファニーは悲鳴をあげ瓶を離した。ひっかき傷に点々と血がもりあがってくる。リジーはもう戦利品に口をつけていた。喉を鳴らして飲む。そんなリジーをファニーは睨みつけ、怒鳴った。
「ああロセッティさんも大変だぁね、あんたの味も素っ気もない枯れ木みたいな体じゃ、たつもんもたたないよ。ロセッティさんを満足させてあげられる女は、このあたしだけさ」
 これだけ言ってやれば、リジーのガラスみたいにきれいに澄ました顔だって青ざめるだろう。
 ところがリジーはぽかんとしただけだった。
それから笑いだした。声をたてて笑いだした。リジーとは思えない、ほかのどの女からだって聞いたこともない、野太い声だった。まるで墓石の下でとっくに骨になってしまった死者が、地上の生者の愚かさを嘲笑っているようだ。
「そうよ、あなたの言うとおりだわ、ゲイブリエルは男よ」
「驚いた、紳士階級の奥様がはしたない口のききかたを」
「そう、それよ。あなたよく言っていたじゃない、ご立派な、し、ん、し、様って。まったくゲイブリエルはご立派な紳士様よ」
 リジーに唇からローダナムが垂れ、胸もとを汚す。
「すべてあの男がはじめたのよ」
「なんのことです」
「ゲイブリエルがわたしをつくったのよ、スタナー! 美神! 女流画家エリザベス・エリーナー・シダル! ゲイブリエルがはじめたことよ、なのにあのひとは、わたしが自分でゆこうとすると邪魔をする」
「どういう意味です」
「あらゆる意味でよ、指導、批評、保護、結婚、妊娠、えーえ、お腹が重たくて仕方なかったわ!」
「リジーさん、なにを言ってるんです」
「そしたら今度は刺繍! 刺繍、刺繍、刺繍ですって! わたしは職工じゃない、画家なのよ!」
「ええリジーさんは立派な画家ですよ、ローダナムはもうそのくらいにして」
「さわらないでっ。女が画家になれるわけないでしょう。女がなれるのは妻、じゃなかったらスタナー、それだけよ!」
「ったく中毒女が」
「一ついいことを教えてあげるわ」
「あたし帰ります」
「あなたさっきゲイブリエルは男だって言ったでしょう? あら言ったのはわたしだったかしら。ともかく、憶えておいてね。ゲイブリエルは男で紳士だけど、芸術家でもあるのよ」
 どういう意味だろう、いや、どうせ阿片のせいで、自分でなにを言っているのかもわかっていないに決まっている。
 ファニーはそう思ったが、同時に頭をよぎるものがあった。死産しそうになって臥しているリジーを、ロセッティは枕もとでせっせとスケッチしていた。
 リジーがまた、阿片チンキをあおった。

 リジー・シダルの埋葬が行なわれたのは冬晴れの日だった。
 晴れていてもロンドンの空はくすんでいる。頬にあたる風はさながら死者の手による愛撫のようだ。ハイゲイト共同墓地の門番は、葬送の行列が到着しても無関心を装っていた。ロセッティ家の墓所では墓掘り人夫らが、立てたスコップによりかかって待ちかねていた。
 柩が馬車から降ろされた。ファニーは一人、遠くから眺めていた。自分が画家仲間や親族の多くから嫌われていることは、充分に自覚していた。彼らは棺をとりかこみ、安心して悲しみにひたっている。検死陪審員がリジーの死にくだした評決が、阿片の過剰摂取による事故死だったからだ。
 ちがう、事故なんかじゃない。リジーさんは自殺したんだ。それはファニーの直感だった。
 男が柩にすがっているのが見えた。それをうしろから若い男が慰めている。すがっているのはロセッティ、ああ、あのひとったら子どもみたいに泣いて。慰めているのは、あれはたしか、リジーが死んだ朝アトリエにいち早く駆けつけてきていた男だ。彼はいつだったかファニーを淫売と呼んだことがある。ファニーを描いたロセッティの絵は絶賛したくせにだ。たしか詩人だと聞いた。詩人といい画家といい、連中の心のなかはわけがわからない。リジーさんの心のうちもけっきょくわからずじまいだった。
 ファニーは握りしめていた紙をひろげた。書かれた文字を何度も眼でなぞっているうち、読みかたを覚えてしまった。
 ──見よ、つねに勝利するのは、この私
 リジーが残した言葉はこの紙きれだけだ。詩の下書きだと言われたけれど、これは遺書ではなかろうか。
 だけど、いったいなにが言いたいのか? 
 まったく詩人の言葉は犬の遠吠えだ。あたしに勝ったと、そう言っているんだろうか。自殺したくせに? それとも自殺して勝ったってこと? ハッ、そんな馬鹿な──!
 だけど、ロセッティのあの悲しみよう。もしあたしが死んでもあのひとは、あんなふうにおいおいと泣いてくれるだろうか。
 とそのとき、ファニーは眼を疑った。まばたきしてふたたび参列者を凝視する。
 ほっと力が抜けた。リジーが生き返ったかと思ったのだ。ロセッティに近よっていく背の高い女が、リジーに見えた。
 なんだって見まちがえたりしたのだろう。背たけ以外、髪の色といい、がっしりした体つきといい、リジーとはまるで似ていない。それは今日はじめて見る、ファニーの知らない女だった。女はロセッティに話しかけていた。かたわらには猫背の丸っこい男がぴたりとよりそっていた。どうやら二人は夫婦のようだ。
が再度、雷に打たれでもしたかのように、ファニーは身を強張らせた。
 リジーが描いていたのはあの女だ。
 リジーと争ったあのとき、ファニーをモデルにしていたのに、描かれた絵は別人だった。それはあの女だったのだ。絵をリジーは真っ二つに裂いた──
 女はロセッティをやさしく抱きしめていた。

 いま、ファニーは確信している。あたしは勝った。けっきょくは生きている者が勝ちなのだ。
 ロセッティは悲しみをふりはらうかのようにアトリエを移した。ファニーも近くの下宿に引っ越した。そこはおなじロンドンでもずっと静かで高級なチェルシー地区だった。通りはゆるやかに湾曲し、木々の枝はのびのびと張り、テムズ河さえも水の色がちがって見える。しかもロセッティはアパートではなく、一軒の屋敷をまるごと借りたのだ。チューダー・ハウス。なんでも大昔トマス・ムアとかモアとかいう偉いひとが住んでいたこともある、由緒正しき家だ。家の鍵がファニーにもわたされた! 
 ファニーは屋敷の女主人も同然だった。使用人を監督する。正餐(ディナー)のメニューを決める。訪問客を玄関で出迎え、もてなす。ときには丁重にお帰りいただくこともある。どちらにするかはロセッティの気分次第なのだが、訊かなくてもファニーにはそれがわかるのだ。
 もちろんロセッティのモデルもやる。画家が難しい顔になってキャンバスを睨みだしたら、冗談を言って笑わせてやる。それからカードゲームに誘ってやる。ひとしきり遊んだら画家はにやにやしだして、最近ちょっと太ってきた愛人をゾウに見立て、さらさら落書きをした。「まっ、これってあたし?」「そうだよ、僕のかわいいゾウさん」そして裸になる。もう誰に気がねすることもない。
 屋敷の庭に動物園ができた。ロセッティは異国の珍しい動物が大好きだ。アルマジロやカメレオンやオオサンショウウオにワラビー、ファニーは目を丸くして、それからやれやれとかぶりを振った。この家の主人は孔雀が窓から飛びこんでこようが、インド産の牝牛が庭の芝生を食いつくしてテラスをおしつぶそうが、まるで頓着しないのだ。でもファニーだって、ウォンバットがお客の帽子を食べてしまったときにはほくそ笑んだ。帽子はロセッティの雇ったモデル嬢のものだった。
 またロセッティはファニーをパリへ連れていってくれた。亡き妻リジーとの新婚旅行で訪れたあのパリだ。パリの空はロンドンのように煤けておらず美しかった。この青い空を四年前、リジーも見あげなにを思ったのだろう。ロセッティが生前のリジー・シダルを描いたスケッチをもとに、大きな作品にとりかかっているのをファニーは知っていた。だが気にはならなかった。あれは死んじゃった人への鎮魂ってだけのこと、たった一枚だしね。だいいち、共同墓地で祈る女なんて陰気くさいったらありゃしない。リジーさん、墓のなかから見てる? あれからゲイブリエルはもう何枚もあたしを描いてるよ、ほら、あんたを描いた絵より明るいしきれいだし、それにすごく色っぽい。

 好まざる事態のはじまりは、いつでも誰かの突然の出現だ。ロセッティの結婚も、リジーと争ったあの午後も。
 この日はちょっとしたパーティーだった。リジーの死から二年、やっと喪があけたので、ロセッティがチューダー・ハウスの新しいアトリエを正式にお披露目したのだった。招待客の顔ぶれはロセッティの弟夫婦、古くからの仲間と新しい仲間と彼らの妻たち、彫刻家、小説家、あのいけ好かない若い詩人もいた。
 その夫婦はすこし遅れて到着した。またもやインド産の牝牛がおもての通りまで出歩き馬車が立ち往生していたので、ファニーは手を貸してやった。牝牛を追い立てながら振り返ると、馬車から夫婦が降りるところだった。ファニーは胸騒ぎをおぼえた。夫に手をひかれ馬車から現れたその人物、ひと目でわかった。
 あれはリジーさんの葬式のとき、あたしが死んだはずのリジーさんと見まちがえた女だ。
 あれはあの争いがあったとき、あたしをモデルにしながらリジーさんが描いていた女だ。
 ロセッティの声がかった。
「やあ、ジェイン、よく来てくれたね」
 ジェイン? 
 するとあの女がジェイン・モリス?
 ファニーの頭のなかでつながった。あの争いのときリジーがけなして嘲笑っていた相手。憎憎しげに小娘と呼んだ相手。そしてその姿を無意識に描いて、真っ二つに破って捨てた。ジェイン・モリスとはあの女か。
 うめき声と笑い声が同時にあがった。笑いは中庭のほうからまだ聞こえてくる。パーティー会場でウォンバットが粗相をしたのだった。モリス夫妻を案内するロセッティのあとから、ファニーも庭へまわったが、いけ好かない詩人が糞まみれのウォンバットと格闘しているさまを見ても、笑う気にはなれなかった。
 パーティーのあいだファニーは離れたところからじっくりと、ジェイン・モリスを観察していた。夫のモリス氏は無口で落ち着きがなく偏屈そうだったが、ジェインはどこから見ても貴婦人だった。物腰は優雅で、つねにまわりに気を配り、けれどけっしてでしゃばったりはしない。どうしてハイゲイト墓地であのひとを、リジーさんだなんて思ったんだろう。リジーさんは変わり者だったけれど、あのひとは、まあ普通のご婦人だ。だいたいリジーさんよりかなり若い。髪は黒髪だし、顔立ちもはっきりしている。けど、見た目はお世辞にもいいとは言えない。紐モップみたいな髪はなんとかなるにしても、鼻も大きすぎるし唇は蜂にでも刺されたよう。顎もたくましすぎる。あのギョロ眼、うちの牝牛にそっくりじゃないか。それに鼻の下のあのくぼみ、あの二本線!
 しかしウィリアム・モリスの妻ジェインといえば、ロセッティが見出したスタナー、『世紀の美女』の一人ではなかったか。ファニーの頭によみがえった。阿片に酔ったリジーの歌うような声だ。
 ──ゲイブリエルはモデルを見つけるのが得意ぃ、ゲイブリエルが美女だと言えばぁ、みんな美女に見えてくるぅ……
 ──ジェインはイモ娘だったのをレディに仕立てあげられモリスと結婚したのよ、彼らは救い出して教育し直すのが大好きなの……
 死んだ人をけなしたくはないが、リジーもあのジェイン同様、世間のいう美人からはほど遠かった。それをロセッティたちがスタナーだ美神だともてはやしていた。リジーも帽子店のしがないお針子でおわるところを救い出されたわけだ。そして絵と詩を習い、ロセッティの妻の座におさまりはしたけれど、芸術家にもなろうとあがいていた。
 あそこにいるジェインはなんになろうとしているのだろう。リジーみたいに男の妻以外のなにかになろうと、苦しみもがいているのだろうか。
「ファニー」
 ロセッティだった。モゴモゴとあとは言葉を濁す。大きな肩を縮こませている。
「ああゲイブリエル、わかってる。あの人たちはあたしが気にいらないんだね」
 パーティーの客は誰一人ファニーに声をかけようとはしなかった。ファニーの存在が、彼らの敬愛するD・G・ロセッティの品位を損なっていると考えているのだ。娼婦の商売はとうの昔にやめているというのに。
 ファニーは自分の下宿に帰ることにした。席を立ったファニーに一人だけ気づいた者がいた。ジェイン・モリスだ。
 ジェインが貴婦人のお辞儀をした。おや、とファニーは思った。ジェインが浮かべているのは親しげな笑みだった。

 あの感じのいいジェインという人は、聞くところによると父親は馬丁だそうだし、あたしたち似た者どうしかもしれない。
 ジェインの笑みにすっかり気をよくしたファニーだったが、翌日から事態は急変したのだった。ロセッティが使いの男の子をよこし、当分モデルの仕事はないから屋敷に来るなというのだ。
 いったいどういうことだ? ファニーは屋敷へ走った。しかしアトリエの戸口に立ったまま、動けなくなってしまった。ジェインが衣装を身につけポーズをとっている。ロセッティはスケッチに没頭している。その背中にかける言葉はない。ファニーは知っていた。こうなったら誰がなにを言おうと、ロセッティの耳にははいらない。
 ところがジェインがこっちに気づいた。ファニーにかすかに会釈した。モデルをしているあいだは動けないので、それ以上のことはできない。でも彼女はファニーに敬意をはらってくれた。ファニーはひとまずひきさがることにした。
 居間の前を通りかかるとウィリアム・モリスの姿があった。テーブルにむかって書きものをしていた。ということはジェイン一人でなく、夫婦で滞在しているのだ。当然だ、ご立派な家の奥様ならモデルを務めるためとはいえ、つきそいもなしによその男の住まいに来るわけがない。だったら心配はない。絵が仕上がればジェインは夫につれられさっさと帰るだろう。すぐまたファニーの出番だ。
 ところがそれ以来、ファニーにはまったくお呼びがかからなくなってしまったのだった。
 待てど暮らせどファニーをモデルに新しい絵を、という話は来ない。痺れをきらし、とうとうファニーはチューダー・ハウスを覗きにいった。するとどうだろう、庭にテントや長椅子や敷物、大掛かりな舞台がしつらえてある。なにに使うのかわからないが、大きな鏡の板も幾枚も立てかけられている。人間もいる。ファニーの見知らぬ男たちが指示を出したり、指示に従ったり、忙しく働いている。その中心にいるのはジェインだ。
 ジェインがじっとポーズをとっているさまは、絵のモデルのときとおなじだった。ちがうのはジェインの前に置かれてあるのはキャンバスではなく、写真機だった。撮影しているのだ。写真なんてファニーは話に聞くばかりで、写してもらったことなど一度もない。ジェインのまわりでは男たちが鏡板をささえ持ち、反射する光をジェインに集めている。牝牛そっくりのギョロ眼の女が、いまはまぶしいほどに輝いている。
 ファニーは認めないわけにはいかなかった。ジェインはいかにも美神だった。その美をひきだし、あますところなく写しとろうと、男たちが汗を流し奮闘しているのだ。
そしてあたしが撮影してもらえないのは、あんなふうに大勢の人間のまえに出せる女じゃないからだ。
 ロセッティがいた。自分はさがって写真技師の一群を眺めわたし、ロセッティはことのほか満足のようすだった。頬が紅潮し幸福そうなのは、まさしく新しい美神に恋しているからだろう。
 モリスは? 
 ファニーは探した。
 モリスはどこ行った? 妻につきそわなくていいのか?

 もう長いことロセッティと会っていない。ファニーはかよいの管理人になりさがった。屋敷の主は不在で、たまにとどけられるのは大量のジェインの絵と、聞きたくない噂だけ。
 ──画家のロセッティ氏は友人の妻を寝取った。ロセッティ氏は不倫相手との逢引きのために別荘にうつり住んだ。しかしなんとその別荘の共同借主はその友人、すなわち不倫相手の夫である。妻が夫の別荘に滞在してなんの不都合があろうか。これで体裁は守られた。素晴らしき哉、紳士と貴婦人らのすこぶる円満な暮らし。

 この日、ファニーを走らせたのは十三年前の、リジー・シダルの死んだ朝のような予感ではなかった。もっとたしかで、もっとよろこばしいものだ。電信が来たのだ。
そしてここも昔とちがうところだが、この電信をファニーはひとに頼まず自分で読んだ。ファニーは字をおぼえたのだ。主のいないチューダー・ハウスでただ待ちあぐねるより、読み書きを習ったほうがはるかに有益だとファニーは一念発起したのだ。詩なんて書く気はさらさらないが、あたしだってスタナーの一人として、手紙くらいしたためられるところを見せてやりたい。努力の甲斐あって、でたらめばかりの糞いまいましい請求書も、待ちに待ったロセッティからの電信も、自分の力で読めるようになった。十三年前のあの悲劇の朝は吐く息も凍る二月だったが、いまは七月。燃えたつ緑の香りにむせかえる。
 屋敷にとびこんだ。無人の食堂をつっきり階段をのぼる。アトリエにもいない。居間にもいない。どこだ、あたしをじらそうってつもり? また階段をのぼる。
寝室はカーテンがひかれ薄暗かった。ベッドの上掛けがもりあがっているのをファニーは見つけた。頭からかぶって眠っているようだ。お寝坊さん、何年あたしを待たせたと思ってるの、さっさと起きなさい!
 が、ファニーは息を呑んだ。はがした上掛けが床に落ちる。
 ロセッティはひどく面変わりしていた。顔はむくんで生気がなく、皮膚が乾燥し粉までふいている。閉じた目は深く落ちくぼみ、たるんだ下目蓋が青黒い。いったいなにがあったというのだ、田舎の別荘でジェイン・モリスとよろしくやっていたのではなかったのか。
 不吉な匂いがファニーの鼻腔を刺した。ローダナムだ、リジーが自殺するために飲んだのとおなじものだ。それにほとんど空になったブランデーや睡眠剤の瓶も小卓にならんでいる。
 ロセッティの目が薄く開いた。弱々しく囁いた。
「やあ、僕のゾウさん。どうしたんだい、またずいぶん変わったねえ」
 ファニーはロセッティが不在だったあいだにさらに太っていたのだ。でもゲイブリエル、笑いごとではないのはあんたの変わりようだ。
「し、黙って。いまはゆっくりお眠んなさい」
 ファニーは上掛けを拾うとすっぽりとロセッティをつつみこんでやった。そうしてこの哀れな男が眠ったのをたしかめると、ローダナムや酒瓶をすべてかかえて部屋を出た。
 
 ジェイン・モリスが見舞いに訪れたのは、それから一週間後のことだ。驚いたことに夫婦でやってきた。なんたる面の皮の厚さ! 「あいにくロセッティさんはお休みになっておられます」ファニーは慇懃に追い返そうとした。が、考え直した。
「せっかくだしお茶ぐらいお出ししますよ、もしかするとゲイブリエルも目を覚ますかもしれないしね」
 ファニーはロセッティの神経が、ああまでまいってしまった原因が知りたかったのだ。
 女中にお茶の用意を言いつけもどってくると、モリスの姿はなくジェインが一人で待っていた。
「夫はさきに失礼させていただきました、商会のほうがいま手がはなせませんの」
 その商会とはロセッティも創立からのメンバーだったのだが、このたび改組されて単独経営となり、モリス商会と改まったことはファニーも聞いていた。ロセッティは病気だというのに、モリスは新たな事業に大忙しなのだ。
「実際、」ファニーは上品ぶるつもりはなかった。
「あんたたち、夫婦でゲイブリエルになにしたの?」
が、ジェインが見せたのは当惑だった。
「なにをおっしゃっているのか……」
「しらばっくれる気かい? 田舎であんたとゲイブリエルは楽しくやってたんでしょ、あんたの旦那公認でさ。なのにゲイブリエルは病気になって帰ってきた、どういうことよ、だいたい夫婦でよく見舞いになんか来れたもんだね」
「当然ですわ、よその男性のお宅にうかがうんですもの、夫同伴でなくては」
「いまさらなにを! あんたら上流の連中の頭ンなかはどうなってんのかねっ、あたしみたいな賤しい女には、まるっきり理解できないよ」
 するとジェインが困ったように微笑んだ。それがファニーには嘲笑に見えた。あんたも娼婦だったあたしを馬鹿にするのか。
「奥さん、あんた、もとは馬丁の娘だって? リジーさんが言ってた、あんたもスタナーだってね」
「リジーさんですって? あのひとがわたしのことをなんて言ったですって?」
「スタナーってのは、拾われて、男好みの結婚相手に仕立てあげられた女なんだって?」
「リジーさんがそうおっしゃってたんですか、わたしのことを」
このときはじめてジェインの頬に赤みがさした。ファニーはいぶかしんだが、けっきょく鼻で笑った。
「だからなんだってんだい、結婚できたんだもの、よかったじゃないか。あたしとちがってたいした出世だよ、男に養われてぬくぬくと、やることといったらお喋りと子ども産むくらい、まったくいいご身分じゃないか」
「いいえ。お言葉を返すようですが、わたしにも仕事があります」
「へえ、どんな? 旦那につれられオペラにでも?」
「刺繍です。モリス商会の刺繍部門の監督を任されてますの」
 刺繍?
「夫と結婚して、新築の家を飾る壁掛けが最初の仕事でした。夫が図案を考え、わたしが刺したんですわ」
 刺繍──。新築の家──。
「じゃあリジーさんが言っていた刺繍というのは」
「あのひとがなにを言っていたというんです」
「十三年前のことだよ、リジーさんが死ぬ何日か前だった。ほら、リジーさんがあんたらの新築の家から、突然帰ってきたときだよ」
「ええ憶えています、ロセッティさんもひどく心配して」
「いま思うとようすが変だった、阿片チンキを飲んでいたけど、上機嫌だったり怒りだしたり、ころころ変わってた。リジーさんは叫ぶように言ったんだよ、自分は画家だって」
「そうですか」
「いったいあんたらの家でなにがあったんだい」
「なにも。わたしの刺した刺繍を見せただけですわ」
「それだけ? だってリジーさんは震えていた、なんていうか、屈辱? 怒り? 憎しみ?」
「ええ、あのひとはそういうひとですわ、プライドが高いんです、それがあのひとの不幸でした」
 わけがわからない。ジェインが刺繍した壁掛けってのがよっぽど出来がよくて、それでリジーはショックを受けたんだろうか。ほんとに? だってただの壁掛けだろう? それともそのころからジェインはロセッティとできていて、それにリジーが気づいた? うん、そっちのほうが納得がいく。ああ糞いまいましい。うすうす感じてはいたけれど、リジーさんはあたしのことなんか眼中になかった。嫉妬した相手はジェインだった。それもこれもあたしが娼婦あがりだからだ。
 ところがジェインが言った。
「あの人はわたしを認めなかった」
 穏やかな緑色だったジェインの瞳が、炎の揺らめきのような光を宿している。
「スタナーだなんてちやほやされるのは一時のこと、その後の人生はあまりに長い。いかにもわたしは馬丁の娘で、上流のかたがたの家で下働きをしていたときもありました。でもいまはちがいます、れっきとしたモリス家の女主人です。ですがわたしはたんなる主婦ではありません、わたしはスタナーとして見出されたんです、わたしは芸術にかかわっています、それは刺繍のお仕事です、わたしはモリス商会の一員として役割を担って、夫を助けているんです。けれどもリジーさんは、そんなわたしのことなど、まるで馬鹿にしてた。新築の家でわたしの刺繍を見せたとき、あのひと笑ったんです、こんなのご主人の図案どおりに刺しただけでしょうって」
 ジェインがまた微笑んだ。やはり困ったような笑みだった。瞳の光はもう隠されている。
「でもそれも当然ですわね。あのひとは美神でいつづけようとしたんですから」
「どういうこと」
「わたしが刺繍した壁掛けを見せて、ロセッティさんもモリスも、リジーさんに勧めたんです、絵のほうはひとまずやめて、わたしといっしょに刺繍の仕事をしないかと。ええ、あのころのリジーさんの状態を考えたら、これ以上の提案はありませんでしたでしょう、なにしろ体調も精神状態もひとなみではありませんでしたもの。だけどあのひとはすっかり機嫌を損ねてしまって。あの日突然帰ってしまわれたのはそんなわけなんですわ。リジーさんは身のほどを知るべきだったんです、なんといっても女なんですから。でもあのひとは頑なでした。幼稚といってもいいかもしれません。画家の道をどうしてもあきらようとはしませんでした。なにも完全にあきらめるべきだとは言ってません、妻の役目をはたしつつ、余暇にでも描けばよかったでしょうに」
 この女はなにを言っているのだろう。あたしが知りたいのはあんたとリジーさんとロセッティのあいだに、なにがあったかだ。
「けど、だったら、画家になりたかったのなら、なんでリジーさんは自殺したりしたのさ?」 
「なんてことを! あれは事故です」
「事故なもんか、これを見て」
 ファニーは化粧ポーチ(レティキュール)をひっつかむと、なかをかきまわした。失くさないよういつも持ち歩いていたのだ。
「ほら、リジーさんの遺書だよ」
 ジェインの頬がひくりとなった。紙を持つ指に力がはいっている。
「これをあのひとが……」
「リジーさんが死ぬまえに書き残したんだ」
「──見よ、つねに勝利するのは、この私」
「きっと精一杯の負け惜しみだろうよ、あんたに男を寝取られ、恨んで死んだんだからね」
 だがまたもやジェインが見せたのは、純粋な驚きだった。否定するどころか、言われた意味すらわからないと、緑の瞳を大きくさせている。
 今度こそファニーは我慢ならなかった。
「あんたらお上品な連中ときたら! どんだけ着こんで自分の恥ずかしい裸を隠してるんだい、ゲイブリエルと寝るときもコルセットは脱がないのかい!」
「あなたは誤解をなさっているようだわ」
 ジェインが遺書を返してきた。
「わたしはあのかたに身をまかせたことはありません、ええ、ただの一度もです」
 そんなわけあるもんか。ファニーはせせら笑ったが、ジェインの誇らしげな口調は変わらなかった。
「わたしたちはたしかに愛しあっていました。でもそれは肉体のつながりではありません。魂の愛です。あのリジーさんも手にいれられなかった、清く尊い、魂の愛です」
 魂? なんだ、それは。
 しかしファニーはたじろぐ。ジェインは胸をはり頭を真っ直ぐに立て、それこそ牝牛のごとき濡れた眼でこちらを見つめてくる。しかしファニーがたじろいだのは、ジェインのその毅然とした態度ではなかった。ジェインが話すたび、あけた口から闇が覗くのだ。たんに影になってそう見えるだけなのだろうか? 真っ暗だ。まるで底なしのほら穴みたいに真っ暗だ。
 その口がまた動き、穴から言葉がくりだされた。
「ですからわたしは、誰に後ろ指さされることもないのですわ」
 さらにつづけた。
「ですからわたしとの関係が、あのかたの病気の原因などということは断じてないのですわ、なんら不道徳な行いではなかったのですから。それでも彼の病いが罪の意識からだというのなら、彼を苛んでいるのはべつの罪なのでしょう」
「べつの罪って?」
 ジェインは視線で、ファニーの手のなかの紙切れをさした。いままでとうってかわって、じつに厭わしげな眼つきだった。
「ほんとうに遺書なら、あの人の書いたとおりになった」
「なんだって──?」
「わたしはリジーさんに負けたのです、敗者は去るしかありません、わたしとロセッティさんの愛は終わりました」
「あんた、ゲイブリエルを見捨てる気かい」
「いずれあなたにもわかる」

 ジェインの言ったとおりだった。その晩ファニーは思い知らされた。ロセッティの発作が起きたのだ。
 発作は錯乱だった。ロセッティは叫び、ベッドから転げ落ち、助け起こそうとしたファニーの手をはらいのけ、床を這いずってアトリエまで行き、一枚の絵にむかって許しを乞うのだった。
『ベアータ・ベアトリクス』、祝福されしベアトリーチェ。
 墓地で祈っているリジーの絵だった。リジーの鎮魂のために描かれた絵だった。ひょっとしたら墓地ではないのかもしれない。でもファニーには、リジーが埋葬されたハイゲイト共同墓地にしか見えなかった。ロセッティはいったい何枚おなじ絵を描く気なのだ。これはリジーの死の直後に描かれたもののレプリカだった。
 ロセッティは絵にひれ伏し、ひたすら懺悔する。君の健康をもっと気にかけるべきだった、苦しんでいる君をときに見て見ぬふりをした、君を重荷に思っていた、死んだときには解放されたようにも感じた、君は僕の妻なのに、永遠の愛を誓ったのに、僕が君を死なせてしまった。ジェイン・モリス? いいや彼女はちがう、たくさんのモデルの一人だよ、ほんとだよ、君だって知っているだろ画家にはどうしたってモデルが必要なんだ、ファニー? ああ、あれはゾウさんだ、ああリジー、許しておくれ、すべて一時の気の迷いだったんだ、君こそが僕の理想の美だ、僕の美神は君だけだ、許してくれ、許してくれ、許してくれ……
 しかしロセッティがどんなに額をすりつけて懇願しようとも、絵のなかのリジーは聞いているのかいないのか、眼を閉じ、うっとりと意識をべつの次元へと漂わせている。
 遺書のとおりじゃないか──
 慄然となってファニーは天をあおいだ。
 リジーが書き残したとおりだ。
 考えてみれば死ぬまえも死んでからも、つねに勝っていたのはリジーだった。ロセッティは幾たびもファニーと熱くとけあったというのに、けっきょくはリジーと結婚した。ジェインと魂の愛とやらに浸っても、こころのどこかではリジーを忘れられず、精神を病むまでになってしまった。そしていまも、彼女が死んでもう十数年たつというのに、亡霊に語りかけている。
 リジーはまさしくロセッティの運命の女だ。男の人生においてリジーはつねに君臨し、そしてこれからも支配しようとしている──
 そうはさせるか!
 しゃにむにファニーはロセッティの背中にしがみついた。
 リジーは死人だ、もういないのだ、ロセッティがすがっているあれは絵、ただの絵、リジーなんて幻、阿片チンキが見せる幻覚、そんな女になんか負けてたまるか。
「ゲイブリエル、あたしの家賃はどうなるのっ。もう何ヶ月もたまってるんだよ、早く払わなきゃ追い出されちまうよ、それからパン代も。あんた薄情な男だよ、あたしを飢えさせる気かい? あたしゃあお腹がぺこぺこなんだよ」
 しがみついた背中から男の震えが伝わってくる。震えをとめようとファニーはいっそう抱きしめる。
 リジー・シダルは美神になるために、みずから死を選んだのだろうか。
 画家になろうとしたが思うようにいかない。といってジェインの刺繍のような、男の手伝いでは誇りが許さない。ならば死んで美神なろう。ただの妻として生き永らえるより、男の美神になって永遠に支配してやろう。なるほどロセッティは男だ。ファニー・コンフォースのような肉感的な女に惹かれるのだろう。あるいはジェイン・モリス。ゲイブリエル好みの、これから大いに磨きがいのあるスタナー。そう、ゲイブリエルは男であるが、芸術家でもある。つねに美を求めている。おのれの理想の美をつくろうとしている。芸術家には崇拝する美が必要なのだ。だからわたしも拾いあげられたのだ。美しくもなんともない帽子店のお針子だったのに、拾いあげられ、理想の美神として仕立てあげられ、崇められたのだ。いいでしょう。わたしは男の、あわれにも芸術家に生まれついてしまった男の、望みどおりのものになりましょう。生きているうちはファニーの美貌にはかなわない。若さと可能性のあるジェインにも、いつか追いこされてしまう。だけど死ねばべつだ。だれも死者をこえることはできない。生には限りがある。けれど死は永遠だ。死の洗礼を受け、わたしは男の唯一無二の美神になりましょう。そうすれば男は一生、わたしに額ずくことになるでしょう。
 しかしファニーの考えはちがう。ファニーはこう思う。
 ロセッティはこうして亡き妻の絵に見おろされ、苦しみもだえているけれど、男の精神をここまで荒廃させたのは、リジーの亡霊ばかりではない。ジェイン・モリスとのあの気色の悪い関係こそ、要因だったのではなかろうか。男と女の熱情が、決して脱がされることのないコルセットのなかで腐り、毒となって生身の男を蝕んだのではなかろうか。
 だってあたしといっしょに暮らしていたときは、彼は亡霊なんかに一度だってとりつかれたりはしなかった。
「ゲイブリエル、こっちを見て、あたしを見て。家賃がたまってるんだよ、パンと玉子とベーコンを買うお金もいるよ、石炭や洗濯婦の支払いだってしなきゃなんない。あたしに家を買ってくれるって約束、あれはどうなってるの、ブロンプトンの帽子屋に目をつけてる品があるんだ、孔雀の羽根が三本もついてるんだよ。しっかりしなゲイブリエル! あたしにみじめな思いをさせるつもりかい、あんたにはあたしを養う責任があるんだよ」
 リジーさん、勘ちがいしないでおくれよね。まだあんたの勝ちと決まったわけじゃない。
 リジーさん、あんたはいつもなにかになろうとしていたね。スタナー、画家、美神。そしてあんたはロセッティの美神になった。ジェイン・モリスもなろうとした、美神か、なにかそれに似たものに。
 では、あたしは? 
 このあたしはなに?
 あたしは美神なんかじゃない。
 あたしは生身の男を愛した、生身の女だ。

 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが死んだのは、一八八二年の四月九日、復活祭の日だった。ロセッティの死はファニーには知らされなかった。葬儀にも呼ばれなかった。ロセッティは妻の眠るハイゲイトから遠く、海辺の小さな墓地に葬られた。
 ファニーがロセッティに誘われて湖水地方へ出かけたのは、そのほんの半年前のことだ。療養の旅だった。息をきらして山に登ったり、小川のしびれるほど冷たい流れに手をいれたり、羊肉のローストをかじったり、旅は愉快だった。旅のあいだじゅうファニーはことあるごとにロセッティに言って聞かせた。
 もしあんたがあの世へ行っちゃったら、あたしはどうやって暮らしを立てていこうかね。絵やチューダー・ハウスの家具や、みんなあたしにくれるしかないね。
 つきそい役のロセッティの秘書が横で眉をひそめていたが、まったくかまわなかった。

美神

美神

ヴィクトリア朝イギリス。 ゲイブリエル・ロセッティらラファエル前派の画家たちは、モデルであり、また霊感の源泉となる女性をスタナーと呼んでいた。そのスタナーとして見出されたファニー。ロセッティとの愛の日々もつかの間、彼には他にもスタナーがいた。勝ったのは誰? 真の勝利とは何? ロセッティを巡る3人の女の物語。(原稿用紙90枚)

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-04-28

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