ごひら


ぼくの家の庭には、ぼくが生まれたときに植えられた、一本の桜の木がある。
ぼくの家はとても広くて、その木がある中庭もまた広くて、外からは見えない。
その上、家族はみんな、その桜のことを忘れているみたいだった。
年を重ねるたびに、ぼくはたくさんのものを贈られ、周囲はみな、それらを贈ったことだけに満足していた。
その桜の木も同じなのだと思う。
若い木がたった一本。
花見をすることがあっても、中庭へは行かない。
今では花見もしない。
だけどぼくだけは、その桜の木を特別に思っていた。
ぼくだけの桜の木、という感じが気に入っていた。
だからぼくは花が咲かない季節にも、よく二階の部屋の窓からその木を眺めた。


そんなときだ。
ぼくは、ごひら、という少女に出会った。
彼女が人間でないということは、すぐにわかった。
ぼくがそれまで見てきたどんな人よりも美しく、透き通っていたからだ。
しばらく時が止まったように動けなかったが、彼女をもっと近くで見たいという気持ちが膨らんだ。
気付かれないように背後から近づいて、ぼくは声をかけた。
彼女は驚いたけれど、逃げなかった。
風に溶けて消えてしまいそうな儚さと、彼女の全身をヴェールのように包む淡い色彩。
近くで見るほど、その可憐さに心ふるえて涙が出そうになる。
その出会いは、まだ寒さ厳しい2月のことだった。


ぼくは毎日彼女に会いに行ったが、彼女の方は気まぐれで、たまにしか出てきてくれなかった。
さらに、必死に話しかけるぼくに対して、ごひらは口数がとても少なかった。
それも、ぼくの話と全く関係ないことを、いきなりポツリとしゃべるのだ。
ぼくはめげずに、彼女の言葉を拾ってその先を聞き出そうとした。
しかし、彼女がそれに応えてくれることも稀だった。
彼女が桜の花の精で、本当は誰にも姿を見られてはいけないことや、ぼくがいつも窓から眺めているのに気付かなかったことも、ゆっくりと時間をかけて彼女が教えてくれた。
何となくわかっていたことなのだが、彼女の口から聞くことができたのはよかったと思う。


ごひらが一番よく口にしていたのは、「寒い」という言葉だった。
その言葉を聞くといつも、ぼくは彼女を温めようと抱き寄せた。
そんなときでさえ、彼女はあまりぼくの方を見なかった。
それでも、黙って受け入れてくれるだけで、ぼくは幸せだった。


こんな日々を送ることができたのは、ぼくがずっと家にいる仕事をしていたからだ。
休憩がてら、昼間の一番気温が高い時間帯を狙って、ごひらに会いに行った。
しかし、桜のつぼみが綻ぶ季節を迎える前に、ぼくは家を離れることになった。
何よりも悔しいのは、それがぼく自身のために避けられないことだということ。
そして、どんなにぼく自身のために手を尽くしても、また戻ってこられる保証がないこと。


ぼくは全てをごひらに打ち明けた。
彼女はいつも通り、感情の見えない、ただただ透明な表情を浮かべる。
でもこのときは、いつもと同じその表情が少し悲しげに見えた。
これまではというと、常に微笑をたたえているように見えていた。
だが、それもこれも自分自身の感情の投影に過ぎないということを、ぼくは初めから自覚していた。
この日、ごひらは最後まで一言もしゃべらなかった。
ぼくは彼女に背を向けた瞬間、我慢することをやめ、静かに涙がこぼれるのを許した。
痛む胸を抱え、歩きながら、一方でどうしようもない歯がゆさを感じていた。


近づく別れを肌で感じる中、ぼくの頭を占めるのは、すべてへの感謝だ。
ごひらのことだけじゃない。
ぼくに大切な桜の木を与えてくれた家族にも、最近ほとんど会うことのない友人にも、仕事上付き合いのある人たちにも。
際限なく膨らんで、破裂しそうなぐらいだ。
この爆発的なまでの思いを、何とか伝えたいと思った。
一番伝えたい相手は、もちろんごひらだ。
振り返れば、ぼく自身のことを語ったり、彼女のことを少しでも聞き出そうとしたりと、彼女との会話は、ぼくの願望を彼女にぶつけることでしかなかった。
彼女と共にいるその時間を、ぼくがどれだけ有難く思っていたか、言葉にしたことはない。
今さら伝えたところで、彼女が表情を変えるとも、言葉を返してくれるとも思えない。
それでもいい。
ぼくの声が彼女に届くのなら、彼女が受け取ってくれるのなら、それだけでいい。


それなのに。
いくら探しても、何度呼んでも、彼女が再び姿を現すことはなかった。
旅立ちの日が迫りくる。
ぼくを突き動かすのはプラスの思いであるはずなのに、それを伝える機会が得られないというだけで苛立ちが込み上げる。
かたく蕾を閉じたまま頼りなげに立つ若木の幹に、こぶしをぶつける。
悪いのはぼくなのか?
どうして、出てきてくれないのだ、どうして――。


その日がやってきて、ぼくは彼女との全てを、いい夢だったと思うことにした。
後悔を残したまま家を離れたくなかった。
最後に、届かないとしてもあの木に一言、別れの挨拶をしていこう。
少し無茶をして晴れ晴れとした気持ちを胸に満たしたぼくは、中庭へと向かった。


そこには、信じがたい光景が待ち受けていた。
昨日までは確かに小さな蕾がちらほら付いているだけだった枝に、こぼれ落ちそうなほどびっしりと、隙間なく、薄紅の花が咲いている。
ひらひらと舞う花弁に包まれた、眩しい空間。
魔法をかけられたかのように何も考えられなくなったぼくの目の前に、魔法のように彼女が現れた。
彼女のまわりにはいつも優しい風が吹いていて、日の光が彼女に当たって、反射したりそのまま彼女の体をすり抜けたりする。
たくさんの薄紅が踊るなか、彼女もまた一枚の花弁のようで、また、花弁の一枚一枚が彼女の一部であるようにも見えた。
これほど生気に溢れたごひらをぼくは見たことがなかった。
彼女を一輪の桜の花だとするなら、五枚の花弁のひとつひとつに栄養が行き渡り、今まさにみずみずしく咲き誇っているのだろう。
あまりにも綺麗で、抑え込んだ後悔も伝えたかった思いも忘れ、理由のわからない涙が頬を滑り落ちた。


ごひらは、最後の日にぼくの前で満開の花を咲かせるために、力を蓄えていたのだ。
毎年春になっても誰にも愛でられることがなく、悲しんだ彼女は、木の生命力が衰えるのも構わずに、中庭へ出た。
そこをぼくに見られ、すぐに隠れなければならないとわかっていながら、寂しさを紛らわせるためにぼくと過ごすことを選んだ。
その姿を保つだけでも大変なことで、声を発することなどはほとんどできなかったのだという。
毎日出てくることができなかったのも同じ理由からだ。
桜の花の精なのだから、2月の冷気は彼女には過酷なものだったのだろう。
思わず「寒い」という言葉が出たとき、初めてぼくの体温を感じてから、恥じらう気持ちを抑えて、会うたびにその言葉を繰り返し、ぼくを求めた。
そして今、こうして、一番美しいときの彼女の姿を、ぼくの目に映してくれている。


何かを伝えたかったのはぼくの方だと思っていたのに、ぼくが思っていた以上にごひらはぼくのことを見ていたのだ。
彼女が抱えてきたものを全て理解してから、ぼくはもう、言葉など必要ないということに気がついた。
五感を総動員して、くらくらするようなごひらの美しさを、全身で感じていたい。
ごひらの表情は、幸せそうに見えた。


そして、幸せそうな顔のまま、一枚、一枚と、花弁が散っていくように、彼女は輝きを失っていった。
ふわりと吹いた風に、そっと溶けて、消えてしまった。


現実に引き戻されてみれば、そこは大して明るくもないいつもの中庭で、あまりの喪失感にぼくは膝をついた。
しばらく体が動きそうになかったが、頭の中では絶えず彼女のことを考えていた。
普通では有り得ない季節に無理やり花を咲かせたのだから、あの木にはもう、ほとんど生命力は残っていないだろう。
すでに死んでしまっていたとしても不思議はない。


でも、ぼくは信じることにする。
彼女は今、再びぼくと会う日のために必死で力を蓄えているのだと。
同時にぼくは、彼女に負けないよう、命を精いっぱい燃やしてみたくなった。
何年後になるかわからないけれど、もう一度、今度は春の麗らかな陽気の中で、ごひらに会う。
その日を、願ってみるのだ。



End.

ごひら

ごひら

桜のごひらちゃんの話。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-02-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted