大小


ちっちゃんに向かって投げたボールは勢いが良過ぎて,野球が上手なちっちゃんが取れない程だった(つまり,私にとっては過去に例を見ない絶好球だった)。だからちっちゃんも驚き,私も驚いて,二人で笑った。何が面白かったって,思いがけないやり取りに,これまでとは違う新たなやり取りを行える可能性を垣間見た喜びに,わくわくする面白さを感じたのだ。少なくとも私はそうだった。あの時,同い年だったちっちゃんもそうだったはず。そこのところを確かめられないのは,あの後,後ろに逸れて,ずっと向こうの原っぱまで,てんてんと転がっていったボールを追いかけていったちっちゃんの姿が小さくなって,見えなくなって,大声で呼んでも何の返事を無かったから,心配になった私が走って追いかけようとしたところでやっと戻って来たちっちゃんが,見上げる程に背が高くなった大人になってしまっていた。だから,私の質問に対して,素直に答えてくれなくなった大人のちっちゃんが,私の名前を呼んで,まるでお父さんかお兄ちゃんみたいに優しく,温かく見つめて「早く帰りなさい」みたいなことを私に向かって言ったから,色んな事が分からなくなった私が受け取ったボールをぎゅっと抱いて,逃げるように走って帰ってしまった。私も『それ』に巻き込まれるんじゃないかと不安だったし,他の大人の人に相談して,ちっちゃんを助けなきゃ!とも思っていた。でも,誰に訊いても,ちっちゃんは皆の中ですっかり大人になってしまっていて,そんな事を訊く私はまだまだ子供だねー,と言われる羽目になった。だったら,という気持ちから,クラスの子にメッセージで訊いてみたら,皆の中でもちっちゃんは前からそうだと言わんばかり(実際にそういう返事ばかりで),すっかり大人の人になっていた。私だけが知らないみたいになっていた。それが怖くて仕方なかった。世界が知らない世界になっているみたいに感じた。それで私はしくしくと泣いてしまって,日も落ち始めていたけど,靴を履いて玄関を開けて,まだ子供だったちっちゃんと遊んでいたさっきの場所に歩いて戻って行った。ボールは持っていかなかった。それどころじゃなかったから。溢れる涙とか,声を袖口で拭って,その道を真っ直ぐに進んだ私は,どの信号に引っかかることもなく,その場所にたどり着いた。原っぱが広がる場所。芝生が少なくて,地面の茶色が夕陽の明るさに寂しそうになって見えるそこ。
大人になったちっちゃんはまだそこにいた。さっきちっちゃんがボールを取りに追いかけて行き,そして大人になって戻って来た,原っぱの方を向いていて,足元から伸びる影と一緒だった。その姿も大人だった。大人っぽくて,私はまた,何とも言えない気持ちになった。そういう気持ちになったから,私はちっちゃんに向かって大声で,ちっちゃんのことを呼んだ。すぐにちっちゃんはこっちを向いて,初めて気付いたみたいに,私に向かって手を振った。ほっとしたような表情も浮かべていた。私は手を振り返せなかった。その代わり,ちっちゃんの方に小走りで進んでいった。学年で一,二を争う足の速さの持ち主の私,といういつもの自慢はどこかに隠れて,見上げる程に背が高くなったちっちゃんのことを,その目の前に立つまでしっかりと見ていた。スポーツ大好きって感じだった髪が伸びていたけど,笑い方がちっちゃんで,内側から,舌で頬を膨らませる癖もちっちゃんだった。変わらないちっちゃんだった。
私が立って,ちっちゃんがしゃがんでくれたから分かった不思議は,肩車をしてもらって初めて経験する視界みたいに,ずっと高くなって,遠くまで広がっていって,反対に,空が近付いたみたいに感じられて,嘘っぽくなって,けど前よりはよく知ったつもりで,それを口にしてみて,感じてみて,納得したり,出来なかったりした。陽はますます落ちていって,私とちっちゃんの姿は足元から伸びていった。どっちが子供で,どっちが大人かは,そこでも分かる違いだった。私は大きく手を振った。ちっちゃんはそこでも手を振ってくれた。
ボールは持って帰っちゃったと言うと,ちっちゃんはすごく残念そうな表情を見せて,今度はちゃんと取れるから,また遠慮せずに投げてね,と私に言った。うん,と答えた私は,ちっちゃんも自分の家に帰るんだと思っていた。けれど,ちっちゃんはまた,原っぱの向こうへ歩き出して,途中で思い出したみたいにこっちを振り返って,大きく口を動かして「後でね」と私に伝えた。どういう事なのかさっぱり分からなかった私は,ねえ,ちっちゃん,あなたのお家はこっちでしょー!と大声で教えてあげた,けど,ちっちゃんはそのまま進んでいって,見えなくなって,居なくなった。私より大人なちっちゃんのことだから,迷子になったりはしない,と思い込んでいた私は,だから心配するよりは今度は何が起きるんだろう,と期待する気持ちでいっぱいだった。お父さんみたいになったちっちゃんが,髭を伸ばして現れる場面なんていうのも想像もした。私に不安はなかった。だから,原っぱの向こうから,私と同じ年の,あのっちゃんが泣きじゃくりながら歩いて来たことにすごく驚いて,走って行った。自分の泣き声で包まれていたちっちゃんは,私が呼んでも気付かずに,ぶつかる形で接触して,やっと私に気付いて,ますます大声で泣いた。私はその頭を撫でてあげた。お姉さんになった気分で,ちっちゃんの傍を離れないで居てあげた。
二人して帰る途中,横断歩道の色が変わる前に,ちっちゃんは大人になった私に会ったと言った。私はそれを信じると言った。続いて,私も大人になったちっちゃんに会ったよ,と言った。ちっちゃんは驚いてしまって,頷けなかった。向こうの私は何も教えてくれなかったの?と訊いたら,戻ったときに私に訊けばいいよ,きちんと説明してくれるだろうから,と言って何も教えてくれなかったとちっちゃんは言った。それを聞いて私は呆れてしまった。そして,そんな大人にはならないようにしようと心に誓った。
それももう,何年も前の話だ。あの時に出会った私たちに近付いて,でも,まだここにいる私とちっちゃんは自転車に乗って移動できるようになって,回数は減ったけど,ボールを投げて,投げ返している。飛距離に合わせて長くなった二人の間を楽しそうに駆け回る,犬たちの数匹が飼われることになって,ちっちゃん家の新しい家族になった。

大小

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-04-28

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