酷(作・千代藻乱馬)
お題「桜」で書かれた作品です。
酷
高級住宅街の一画に一本の桜の木が植えられている。今流行りのデザイナーズハウスや如何にも医者が住んでいそうな大きな家が建ち並んでいる。そんな現代的な風景の中に突然現れる一本の桜。急に目の前に現れる桜に、少し動揺するかもしれないが、誰しもが、この桜に心を奪われるだろう。私も今、その一人である。
春の黄色い陽射しに照らされた薄いピンクは、青い天井を背に一層輝いて見える。幻想的な雰囲気に呑み込まれそうになりながら、今日ここにいる意味を思い出して我に返る。
――二十五年前
私は大学生だった。二つ上の兄は大学三年生だ。母と父がいるごく普通の家族構成。少し他と違うのは、私の家系は代々医者であるということだ。病院は家から二駅ほど離れたところにあり、それなりに名前も知られていた。院長は長男が継ぐと相場が決まっている。兄もそれに応えようと必死だった。
幼いころから私は兄と同じ習い事をし、同じように育てられていたつもりだった。しかし、父から私に「医者」という言葉を発せられることはなかった。特別医者になりたいわけでもないし、兄が継ぐだろうと思っていたけど、兄に嫉妬せずにはいられなかった。習い事のピアノを例に取ってもそうだった。同じコンクールに出場しても参加者の中で一番の喝采を浴びるのはいつも兄だった。兄の部屋には賞状やらトロフィーやらが几帳面に飾られていた。私の部屋に飾られていたのは小学生の頃にもらった読書感想文コンクールの賞状くらいだった。兄に対して抱く感情はせいぜい嫉妬程度のものだった。
普段と変わらないはずだった二十五年前の今日。その日は春だというのに少し厚手のコートを羽織るのが丁度いいくらいの肌寒い小雨の日だった。何がそうさせたのか分からなかったが、日が沈もうかとする頃、私は兄の部屋を訪れていた。突然のことに、あの非の打ち所がない兄も珍しく驚いた表情を浮かべる。そんな兄を見て私も心なしか驚いた表情をしていたと思う。僅かな沈黙を兄が破る。
「おまえが来るなんて珍しいな。悩み事か。」
机に向かったままこちらを見ずに呟く。
「兄さんってやっぱすごいよな。」
部屋に飾られてあるものを見て思わず本音を漏らす。
「すごいって何が。」
勉強をしていた手を止め、こちらに視線を移す。
「ここに飾ってあるやつ、全部兄さんのだろ。俺はいくら努力しても兄さんには敵わなかった。」
「別にすごくないよ。ピアノだって譜面通りに弾いてただけで、トロフィーなんておまけみたいなもんだ。」
そう言うと兄はすぐに勉強に戻る。私がどんなに刻苦しても兄には勝てない。そんな現実を突きつけられたようだった。別に兄の事が嫌いだったわけではないが、この時に私の中にある嫉妬の感情は確かに別の何かに変わっていた。気づいた時には兄の部屋にあったトロフィーを手にしていた。そしてなんの躊躇いもなく無抵抗な兄の後頭部に撲付けた。鈍い音がした。兄は意図的ではなく、力が抜け、重力に逆らうことなくそのまま机に顔をうつ伏せた。先程まで医療の勉強をしていたであろうルーズリーフは紅く染まっていた。医者と縁のない私の人生で、これほどまでに大量の血だまりを見るのはおそらくこれが最初で最後だろう。
外はすっかり暗くなっていた。雨露で濡れた窓ガラスは机上の蛍光灯が反射し、犯罪者の姿を映していた。それが自分であると認識するのが怖かった。遠くにぼんやりと月が見える。薄く広がる雲に覆われ龍の目のように見えた。私が犯したことを見られていたんじゃないかと思い、ゾッとした。
両親は必ず揃って帰宅する。おそらく小一時間もすれば帰ってくるだろう。もう後には引けない、そう思っていた。兄は遅くまで勉強をしていて眠れない日が多々あった。そのため父の病院から睡眠薬をもらっていた。机の上に置かれていた睡眠薬を手に取りリビングへ急いだ。
両親は規則正しく、帰宅後はすぐにうがいをし、水を一杯飲む。私はリビングに接するキッチンに行き、冷蔵庫を開ける。水の入ったペットボトルに睡眠薬を溶かす。あとは、いつも通り自分の部屋で両親の帰りを待つ。
しばらくすると両親が帰宅する。この日だけは両親の顔が見たくて直ぐにリビングに行く。会いたいというわけではない。いつも通りに水を飲んでくれるか、それだけを確かめたかった。案の定、彼らはうがいを済ますとすぐに水を飲んだ。それは確かにあの水だった。彼らは揃ってリビングに横たわった。残す作業は証拠を隠滅するだけだ。冬に使っていたストーブから灯油を取り出す。それをリビングと兄の部屋にまき散らす。医者なのにヘビースモーカーだった父のポケットからライターを取り出す。自分の部屋から財布とケータイを持ち出し、雨傘を持ち家の外に出る。ライターに火をつけて家の中に投げ込む。パチパチと音が聞こえ、徐々に火が燃え広がるのを確認し近くのコンビニへ行く。コーヒーを買い、戻ったときには、家は小雨も気にせずに黒い煙をあげて真っ赤になっていた。
遠くから消防車のサイレンが聞こえてくる。誰かが火災に気づき、呼んだんだろう。私は野次馬の一人になり消火活動を見守る。灯油を撒いたおかげで、雨粒をはじき、火は勢いを増して、消火は難航した。炎が完全に消えた時には、物的証拠が残らないくらい焼けきって、黒い影だけを残していた。その影を見て寂しいという感情は生まれなかった。寧ろ、上手くやれた、そう安堵の気持ちでいっぱいだった。
その後、警察の取り調べを受けたが、私だけが偶然外出していて、他のものは家に残され、不運にも火災で亡くなってしまった事故死として扱われた。
私は大学の近くのアパートで部屋を借り住むことにした。大学の生活にも慣れ、また寒さが訪れる季節がやってきた。私は空き地になっていた、元々家のあったその場所に桜の苗木を植えた。殺風景だった場所に何か変化を持たせたかっただけだ。
――そして今私はその桜の木の目の前にいる。桜の木は私が何者なのかも分からず、他の人にするようにご自慢の笑顔で私を見ている。私はその笑顔に見守られながら、彼の腕に縄をかけ、足元に一通の手紙を置き、縄に首を通した。本来なら時効を迎える今日、私は手紙越しに事実を話した。
この桜にどんな残酷な過去があっても、彼は毎年春になると変わらない笑顔で人々を魅了する。酷な存在だ。
酷(作・千代藻乱馬)