本の中
本のなかに吸いこまれたことが、ある。
本のなかで、イルカと泳いだ。
ヒトデを女の子に、プレゼントした。
女の子はよろこんで、ヒトデを干した。
干してかぴかぴになったヒトデを、髪飾りにした。
女の子の黒い髪に、干からびて白くなったヒトデはよく似合っていた。
本のなかでは青い海にいた。
現実の海は真っ黒いし、イルカなんてとっくのむかしに絶滅している。
本のなかのヒトデはきれいな五角形の星型をしていたけれど、現実のヒトデは奇形しか生まれず、さいきんでは足のようなものがあるヒトデや、しゃべるヒトデなんてのも存在する。しゃべるヒトデの声は、ブタの鳴き声に似ている。しゃべりながら、ところどころで、ぶへ、ぶへ、という。こんにち、ぶへ、は、ぶへ、ほん、ぶへ、じつはおひ、ぶへ、がらもよく、ぶへ。という感じで、なにをしゃべっているのかよくわからないので、私はあまり好きではないのだが、かわいい、とキミは笑う。流行りに乗っかってないと生きている価値がないと思っている女の子みたいに、キミは、なんにでもすぐ「かわいい」と言う。
本のなかに吸いこまれたことは、キミにしか話していない。
「女の子とエッチした?」
真顔でたずねてくるキミの、そういう脊髄反射で生きているところとか、好きだ。私は首を横に振った。
キミは残念そうに、つまらんわ、と言った。アイスの溶けかけたコーラフロートをストローで、ぐるぐるとかきまわした。二十三時のファミリーレストラン。女の子はこどもだった。
「そらあかんわ」
目をかっと見開き、キミはきっぱりと言った。
あかんやろ、と私が言うと、キミは、あかんわ、あかんで、と繰り返し言った。
二十三時のファミリーレストランには、いろんなひとがいる。
スマートフォンしか見ていない若い男。
なにやら書いている(描いている)、女。
もくもくとハンバーグをたべている、スーツ姿の中年男。
上下ジャージの男と上下スウェットの女の、カップル。
アニメ雑誌をひろげて盛り上がっている、大学生くらいの女たち。
「おれも本のなか、入ってみたいわ」
エロ本のなかやろ。
私は言った。
さっき淹れてきたばかりのコーヒーを、ごくごくと飲んだ。
「ええなぁ、それ」
ずずずっと音をたてながらコーラフロートをすする、小学生みたいな、キミ。
本のなかの女の子よりもこどもっぽい、キミ。
「しっかしおまえ、イルカと泳いでってそんなかわいらしいキャラちゃうやろ」
けらけらとキミが笑う。
ジャージとスウェットのカップルが、けんかを始める。
ハンバーグが鉄板の上で、じゅうじゅう焼かれている音がする。
やる気のなさそうなウェイターが、やたら水を注ぎにくる。
大学生くらいの女たちが、うるさい。
「青い海とか、写真でしか見たことないし、うらやましいわ」
私はすっかりかわいたおしぼりを丸める。ひろげる。また丸める。
コーヒーを飲み干して、たばこに火をつける。
「今度連れてったるわ、青い海」
うれしそうにほほえむ、キミ。
私はたばこの煙をゆっくり、ゆっくりと、吐き出す。
本の中