2117年の大桜(作・さよならマン)
お題「桜」で書かれた作品です。
2117年の大桜
浅い眠りの中に、お父さんの顔を見たような気がした。
いつかほんの幼い頃に、手を繋いで歩いた水色のフロア──その中心に、柱みたいに堂々とそびえ立っていた、あのとてつもなく巨大な樹。
あれは一体、なんて言う植物だったっけな。
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ピピピピピ……
うるさいアラームの音が頭の中に鳴り響く。私は布団を握って目を固く閉じ、うなり声を上げた。昨晩いろいろと考え事をしていたせいか酷い寝不足だ。まるで身体中が泥になったみたいだ。まぶたが重くて、頭の中は煙ったようにもやもやする。ああ、怠い。まだ寝ていたい。
ピピピピピ!……
しつこい機械の音は一方的に鳴り続け、徐々に音量を増していく。二日酔いでもないのに頭がガンガンしてきた。こんな物に体を預けてたら、人間、いつか壊されてしまいそうだ。
「あーもう……はいはい、わかったよ。止めますよ」
上半身を起こして、壁に備え付けられたアラームの停止ボタンに手を伸ばす。
嘘のように音が止み、純白の部屋が静寂を取り戻す。カーテンが開いて朝日が差し込み、予約しておいたベーコンエッグの加熱が始まり、オレンジジュースがグラスへと注がれる。私はそのまま二度寝したくなる気持ちを抑えて、ベッドから起き上がった。
机の上のスマートデバイスを手に取り、夜のうちに入ったメールに義務的に目を通す。キャンペーンのご案内。フレンドデータの更新。新しいルーム・ガジェットのご紹介……見ているだけでバカになりそうなくらい、どうでもいい。ニュースアプリから入るポップアップウィンドウの中身も、芸能人が結婚するだとか浮気しただとか、政治家が失態を晒しただとか、ポリスステーションに落書きがあっただとか、くだらないことばかりだ。眠たい目が余計に細くなってしまう。
そんな有象無象の中に紛れ込んだ一つの短い文に、パネルを操作する手が止まった。
『大桜の撤去案が可決。来月工事開始か』
その見出しが一体何を意味しているのか、私はどうしてそこで手を止めたのか、しばらくの間、理解ができなかった。
大桜──想像だったのか夢なのかわからないけれど、私はついさっきまでそれを眺めていた気がする。たくさんの古い記憶の中から、どうして今朝に限ってそれが蘇ったのか……もしかしたら、私は無意識のうちにこのニュースを予感していたのかもしれない。
あるいは、私は既に事の経緯を街頭スクリーンかどこかで見て知りながら、気に留めていなかっただけなのだろうか。情報の洪水に埋もれていたせいで、今までずっと気がつかなかったのかな。
だけど今、確かに切ない気分が胸に迫っているのを感じる。まだ小さかったあの日、お父さんに連れられて見にいった大きな桜の木。玩具のように平らで単純なこの世界の中で、それだけは唯一いびつな形をしていて、力強くて、本当の意味で美しかった。もしもこのニュースが無ければ、私はあれを忘れたままだったのかもしれない。
ぽっかり穴の空いたような喪失感が全身の力を抜き、デバイスを持つ手が下がった。
──朝食の用意が出来ました。冷めない内にお召し上がり下さい。
部屋の真ん中に立ち尽くしたまま、窓の外を見ていた。パステルカラーの人工物の向こうにのぞく白い太陽が、まぶしく目の奥に染みた。
なんだか今日は長い一日になりそうだな、と思った。
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会社の昼休みに同僚にこの話をしたところ、どうやら皆んな随分前から知っているらしかった。だけど私のように思い入れのある人はいないらしく、その反応は思っていたよりずっと冷たかった。
「カルチャーエリアの真ん中に立ってるでっかい木のことでしょ?まあ、あの辺の人たちは、シンボルだから無くすなーとか言ってるみたいだけど、今時あんなの維持してらんないでしょうね」
「そうかな」
「そうよ。ただでさえ水が不足してるって言われてるのに、あれ一本で一日何リットルの水分を吸い上げてると思う?貧困層の人たちなんか、水がなくて病人まで出ちゃってるのよ。なのに木なんかに飲ませるなんて、バカみたいな話ね」
そう言われたら、私の中に言い返せる言葉はもう無かった。彼女の言うことも、もっともなのかもしれない。そしてそれはきっと、他のたくさんの人たちが同じように考える、世論とかってものなんだろう。
私個人の感情なんて理屈には敵わない。文化の優先順位はいつだって文明の次だ。そうやってこの世界はここまで発展してきたってことなんだろう。ムダなものは無くして、みんなが生きやすいように。
インターネットで桜を検索してみると、昔の画像がいくつも表示された。百年くらい前までは、この国のどこにでも桜は植えられていたらしい。人々は集まって宴を開いたり、桜の歌を作ったり、今でこそ廃れてしまったけれど、文学作品の中にも桜をモチーフにしたものは多く残っているみたいだ。
私はそのうちの何作かを読み漁ってみた。今時こんなことをするのは私か人文科学者くらいのものだろう。なんだか無性にワクワクする時間だった。
主要な作品を読んでみた限り、桜に対して不穏なイメージを抱く人もいたらしいことが分かった。私が見た文学作品の多くは、むしろそれに当てはまっていた。あの美しい花の裏には、暗い死の影が横たわっている──そう思う気持ちも、なんとなくだけど分かるような気がした。あれだけのきれいな、幻のような妖しさを帯びた桃色の花を見て、昔の人はあえてそんなことを言ったのだ。
すごいと思う。なんだかそれは、とてつもなく尊い感情のような気がする。桜の花を見て、生や死に思いを巡らせた人たちの意識が、私の体を通り抜けて春風のように過ぎていった。感嘆も、憂鬱さも、全てが新鮮で、同時に妙に懐かしく思えた。私の中に刻まれている太古からの人々の遺伝子が、ノスタルジックな感覚を呼び起こしたようだった。
「私、明日、桜を見に行くよ。無くなる前にもう一度見たいから」
「そう。やっぱり変わり者ね。あんた」
何を言われても気にならなかった。私はウィンドウを閉じると、背筋を伸ばして深く息をつき、わずかに火照った体を落ち着かせた。
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パイプトレインに乗って三十分も掛かる、久々の遠出だった。ホームに降りると、年配の人々が集まってプラカードを掲げていた。
『大桜を守ろう』『日本の心を絶やすな』
高そうなスーツに身を包んだ体格の良い初老の男が、先頭に立って口々に呼びかけをしていた。桜がいかに昔の人々にとって重要な植物であったのか、文化を守ることにどんな意義があるのか、そういうことをよく通る低い声で言い続けていた。
私はそれについて特別な感情を抱くことはなかった。自分と同じ意見の人々を前にして喜ぶべきなはずなのに、それはまるで全く別の問題について叫んでいるように見えた。少なくとも彼らの声音や表情の中には、私が昨日受けたような感動が含まれているようにはあまり見えなかった。
「お嬢さん、桜を見に来たのですか」
「ええ」
お嬢さん、なんて呼び方をされたことに、内心苦笑した。流石に私も、もうそんな歳じゃない。
「現在当エリアでは、大桜の撤去を止める為の運動を行なっているのです。よろしければこちらのコードから、署名サイトの方にアクセスして頂けませんか」
「すみませんが……」
私は申し出を断り、足早にその場を立ち去った。署名くらいしてもいいのに、と自分でも不思議に思ったけれど、それはそれでどうでもいいことのような気がした。政府の決定が後から覆されることなんてそうある訳じゃないし、私は桜をこの先も残したいと本気で考える訳でもないからだ。矛盾しているかもしれないけれど、それが私の中にある事実だった。それについて自分で分析してみても、理由はよく分からなかった。
ホームを抜けると、円形の大きな空間が目の前に広がった。周りを取り囲むドーム状の壁や床は、全て淡い水色に統一されていた。幼い頃に歩いた床そのものだ。
桜は、その真ん中にそびえ立っていた。
ごつごつとした太い木の幹。曲がりくねったたくさんの枝。どこもかしこもいびつで、生き生きしていて、美しかった。樹冠には桃色の花が咲き誇り、天井を埋め尽くしていた。そばに立って見上げると、視界いっぱいにそれは広がった。舞い落ちる花びらが頰に触れて、床に落ちた。小型のロボットが忙しく辺りを這い回り、桜の花びらをかき集めていた。
深呼吸をすると、木の香りが鼻を抜けて全身に満ちた。目を閉じてみると、ここが水色のドームの中だなんてまるで思えない。百年前の大地の上に立って、青空の下で桜の木に寄り添っているような気分になれた。いつまででも、そうしていられるような気がした。
目を開けると、いつの間にか背の高い誰かが私の右隣に立って桜を見上げていた。古風な茶色のセーターを着た、白髪の男の人だった。逆光に目が慣れると、それが誰なのかはすぐに分かった。
「お父さん?」
「やあ。久しぶりだな」
ずっと長い間会っていなかったことに、今更になって気づいた。顔のしわは少しだけ増えていたけれど、雰囲気は相変わらず朗らかで、何を考えているのかわからない感じも昔のままだった。
「桜、無くなっちゃうんだって」
「ああ」
小さな頃に一緒に見に来たことは、あえて言わなくても、多分、二人とも覚えていた。何となくそんな空気が伝わった。
「さっき反対運動に会ったけど、署名しなかった。なんでかわからないけど」
「いいさ。あれはあれで、政治的な運動にすぎない」
私たちの他には、お年寄りの夫婦が二組いるだけだった。みんな桜の撤去を知りながら、それを受け入れているように見えた。にこやかに花を見つめる顔には、未練なんて少しも表れていなかった。桜の木の方も、自分の最期が迫っていることを快く受け入れているように見えた。
「どうして無くしちゃうのか知ってる?会社の人は、水不足だからって言ってたけど」
「それは違うさ。木が吸い上げた水は、そのほとんどが蒸散されて外に返るんだ。だから、回収して再利用すれば大した問題にはならないはずだよ」
「ならどうして?」
「水の不足は実際には問題じゃないけれど、世の中の人たちは皆そう思い込んでる。だから撤去されるんだ」
維持費もかかるけど、それは新しい技術の開発費用なんかに比べれば微々たるものだよ、とお父さんは付け加えた。それでも、ムダなものはことごとくムダとされてしまうらしい。私はこれ以上の新しいものなんて何も要らないと思うけれど、皆が考えることはどうやら逆のようだ。
「世界の大半のものごとは、実情をよく知らない人々が動かしている。だけどそれは、そう悪いことでもないよ。人の感情や理想が社会を動かすのはね」
署名活動をしていた人達のことを考えると、それもある種、正しい話のように思えた。だけど──。
「だけど、お父さんはいいの?そんなことのために桜がなくなっても」
それからしばらく、自然な沈黙が降りた。舞い散る花びらが、全ての音を吸い込んで床に落ちていくようだった。
「少し寂しいけれど、構わないさ。もともと、桜の木を増やしたのも人の手なんだ。桜はね、たくさんの人に愛されるからこそ意味のあるものなんだよ。いまここにある桜は、昔から多くの人たちが愛してきた桜だ。だけど、今はもう人々は桜を愛せなくなった。だから一旦、ここでお終いさ」
一旦、という言葉の意味をあえて追及しようとは思わなかった。ただなんとなく、これで完全に終わるわけじゃない、という感じは私にも伝わった。それに、どうして私がさっき署名をしなかったのかも、これでわかった気がした。
「そっか」
私はそっとつぶやいて桜に向き直り、小さく手を振ってみた。
枝がゆったりと揺れて、いくつもの花が散る。まるで別れを告げるようだった。
来年になれば再び会える、というわけではない。だけどこの国に春が巡ってくるかぎり、その時はきっとまた訪れるはずだと思う。
「それまで、元気でいるからね」
私はそう言って、右の小指を差し出した。昔は誰かと約束をする時、そういう仕草をしていたらしい。
舞い落ちる花びらのうちの一つが、小指の先に乗っかった。
2117年の大桜(作・さよならマン)