表現
一
ポインタを見つめ続ける彼は,モニターに映る白紙の出来具合いに満足して,力強く,何度も頷いている。彼と同じように画面を見つめている彼女は,顎を乗せた彼の肩越しに,画面に向かって(かつ,最も彼の耳に声が届く距離で),彼への疑問を投げかける。
「なに?何も書かないことこそ,最もそれを物語っている的な?」
ていうか,絶対そうでしょ?という断定だけを,そのトーンで上手に響かせる彼女に対して,真面目な彼はキーボードから離したまま,一度もその位置を目視することなく,正確に彼女の鼻を摘んでから答えた。
「確かにそうだね。これが一番しっくりくるよ。送信者としてはこれで満足だ。で,どう?送り先にいるはずの,大切にしたい宛名の貴女としては?」
そして,その趣旨を既に理解してくれている君としては?と彼はわざとらしいニュアンスを言葉の端々にきちんと敷き詰め,彼女に訊いた。必要な呼吸を繰り返すためにその口を開いていた彼女は,彼のささやかな暴挙を少しも気にしないまま,『そうねー』という鼻濁音を発して,彼への返事をしっかりと伝えた(彼の方から指を離してくれた。彼の耳のためでもあった)。
「視覚の面でも分かり易くしてもらえたら,すごく助かる。文字数は問わないよ。」
了解,と言って彼はすぐに対応する。キーボードに乗った指が打つ二文字,四文字。『どっちがいい?』と絵文字付きで訊いてきた。うーん,と真面目に悩む彼女は,その顔をモニターの方に近づけていく。彼女の視界は勿論,その視力も実にクリアなはずなので,そうすることにこそ意味がある。彼女に阻まれる形で,目の前にある画面が確実に見えなくなっていく彼は,自然に身に付けたブラインドタッチで修正を加える。一文,一文が完成されていく。打ち間違いが無ければ,即興的な言い回しが気の利いた演出を効かせているはずだ。彼はそう期待した。そして彼女が退いてくれた画面には,変換間違いの雨あられが予想以上の面白さを提供してくれていた。彼の期待はきちんと裏切られていた。それを見届けた彼女は,振り向いた先に座る彼に向かって言ってくれた。
「すごく伝わる。ありがとね。」
「素晴らしい皮肉。」
彼はもう,口頭で言った。その内心を推し量った彼女は,精一杯の微笑みとともに彼に対して伝えた。
「違う,違う。こっちじゃなくて,そっち。」
と彼女が指差す方向を,彼が確認する必要は無かった。その先には彼しかいない。だから,彼も自分自身を指差した。お互いにそう支持し合った二人は,彼女の認識を待った。彼女は立て続けに言った。
「珍しい失敗。褒めてもいるでしょ。伝わったらいいなー。」
そこまで言って,彼女は部屋を出て行こうとした。勿論,それは振りでしか無い。舞台に立つ彼女はどこまでも女優だ,と書いてみたくもなるが,勤める彼女に演技経験は無い。それを知っている彼は,だから彼女の本心を知ろうと試みる。そして,思い至る。分かった,と力強く断定した彼はその答えを口にした。
「来いってことだね。料理が冷めるから。」
本心から笑う彼女の素敵さは,筆舌に尽くしがたい。そのことを彼も認めるし,彼女も認める。
「一回呼んで来てくれるなら,もっと愛せるわ。」
そうして彼女は部屋を出て行った。彼もすぐに出て行ったから,部屋の中は静かになった。
少しばかりして,目立ち始めた機械音に,数行の言い間違いと,点滅するポインタが主役顔をするようになった。十分なスペースが余っていたし,続きがまだまだ書けそうだった。時計は針を動かしていたし,彼の部屋に持ち込まれた,彼女の辞書も捲れていた。アンダーラインが色付いていた。
末尾が「W」の一行が笑っていた。
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