月に咲く誘蛾灯
降り注ぐ真夏の太陽は、目の奥までトロけさせる光を放射させる。初めてできた友達に小さな手を引かれながら、小高い丘を駆け上がる。慣れない急斜面に息を切らし、唾が音を立てて喉を通過する。それでも君は足を止めることなく、操り人形のように脱力した僕の手を引っ張りながら走る。彼のスピードに付いていけず足が縺れ、何度も転びそうになった。それでも、足は前進することを余儀なくされた。
丘の頂上に辿り着くと、眼下には碧空を映し出した綺麗で澄みきった海が広がっていた。暑さと疲労で思考が空っぽになっても、青色に無数に散りばめられた透明な宝石は美しく眩い。死人の頭を背に宿した蝶が、目の前で真紅の羽を翻す。僕はそれをただ眺めることしかできなかった。あまりにも蝶が危険で美しかったから、手を触れることすらできなかった。
潮の香りが微かに溶け込んだ涼風が、小さな二人の肩の間を吹き抜ける。無邪気な笑顔の君が、傷だらけ右手の小指を差し出してきた。僕はそれをじっと見つめた後、大きく頷き、黒い小指を絡めようとした瞬間、抜けるような青空から黒い雨が降ってきた。空も海も丘も花も草も君も僕も、みんな黒く塗り潰された。真っ赤な蝶の行方は、真っ黒な僕には分からない――。
耳元で騒ぎ立てる蚊の羽音と喉の渇きにより、暑苦しくて冷たい夢は途中で千切れてしまった。光を探すように視点は彷徨い、意識は千切れた夢と現実の境界線上を漂っている。
「……喉が乾いた」
ただ、揺り起こされた聴覚と枯渇した喉だけが、無駄に冴えていた。
シーツが乱れた布団から、汗ばんだ躯を起こす。茹だる様な暑さのせいで、疲労感と倦怠感が体中に纏わりついていた。粘ついた唾液が、水分を失った喉を嫌な音を立てながら通過する。微かに開いたカーテンの隙間から青白い月明かりが射し、床に散乱した衣服を照らし出す。光に誘われ、夜空を見上げると、綺麗な満月が孤独に輝いていた。
「――でけぇ月だな。眩しくて、余計に喉が乾いてきた」
全裸のままベッドから起き上がり、冷蔵庫からオレンジ色に染められた透明なペットボトルを取り出す。夕日に似たデジタルな光が、暗がりに慣れた眼に沁みる。
再びベッドに腰を降ろし、光の残影を追い払うように瞬きをしながらキャップを捻り取り、乾燥した喉にミネラルウォーターを一気に流し込んだ。冷たく澄んだ川が渇いた一本道を潤し、次第に体内に広がっていく。水を半分まで飲み干し、大きく息を吐きながらペットボトルから口を離す。すでにボトルは汗をかき始め、指の間を雫が伝い、床に弾けた。
「全然足りねぇ……」
最近、どれだけ水やジュース、酒、女の蜜を飲んでも、ちっとも喉の渇きが癒えてくれない。誰の何を飲んでも、すぐに砂漠の真ん中に放り出された気分になる。特にこんな月夜は、どんなに水分を摂取しても乾きは癒えず、無駄な抵抗を朝日が昇るまで続けている様だ。
俺は、いつからこんなになったんだ? いくら考えても無駄だな。腐った毒の廻った頭じゃあ、思い出せるわけがない。
惨めな思考に支配された余韻に浸っていると、隣で女が微かに寝息を立てている。月は、女の色白で滑らかな背中に流れる血管まで浮かび上がらせていた。
寝苦しい真夏の夜といえども、とりあえず下着だけは履こうと思い、床に散らばった衣服を掻き分け、紫色のトランクスを探し出して履いた。股間部分が、少しだけ湿っている。
デニムのポケットから、フィリップモリスとライターを取り出す。片膝を立て、長いタバコに紛らせておいた手製のジョイントに火を点ける。灯された小さな火が消えないように息を吸い込み、肺が煙で満たされたのを確認してから大きく煙を吐いた。不安定で薄汚れた白煙の向こうで、光を増した月が俺を見下ろしている。
「何、それ? ――タバコ?」
女は眼を擦り、寝ぼけた声で訊いてきた。俺は背を向けたまま、腐った薬を吹かす。でけぇ月が、滲みながら肥大化していく。煙に吸い寄せられるように、女が背後から擦り寄ってきた。汗で湿った背中に弾力のある柔肌が張り付き、気持ち悪い。
「違うよ」
「じゃあ、何?」
甘ったるい声と手付きで、俺の躯に絡み付いてくる。せっかく履いたばかりの下着の中に、彼女の華奢な指が侵入してきた。すっかり熱を失った性器を、女は淫靡な手付きで刺激する。こんな事、誰に教わり、どこで覚えてきたんだか……。女が動く度に、彼女の長い髪の毛が俺の肩を擽る。そっちの方が、断然気持ち良かった。
「さあ、何だろうな? ところで、君は誰?」
女は唐突に手を止め、訝しげに俺の顔を覗き込む。先ほど床にできた小さな水溜りは月の光を集め、いっそう輝いていた。
「おい、ケイ。どうしたんだ、その顔? 野良猫にでも、引っ掻かれたのか?」
夏の夕焼け空の下でタバコを吹かしながら、悪友のシンが眉間に皺を寄せて訊いてきた。俺は彼から視線を外し、ビルの地平線に沈み行く太陽を瞳に宿した。このオープンテラスから見える夕日が、一番好きだ。
――あの後、俺の言葉に激高した女から平手打ちを喰らい、同時に長い爪が頬を引っ掻いた。鈍い痛みの中で、二本の赤い痛みだけが尖っている。俺は女を罵倒することも、殴り返すこともせず、口を噤んだまま、左周りに回転する満月だけを見ていた。女は何も言わずに着替えを手早く済まし、いつの間にか部屋を出て行ってしまった。
夕日に染められた風と紫煙が、赦されない生傷にヒリヒリと沁みる。
「……女にやられたんだよ。まったく、とんだ暴れ猫だぜ。って、自分から呼び出しておきながら、遅刻してきた人間の第一声がそれかよ!」
「連絡も無しに、遅れたのは悪かったよ。まあ、そう怒るな。それよりも、女って誰だよ? もしかして、ユリコ先輩か?」
シンはまったく悪びれた様子もなく謝罪をし、女については興味津々と言った顔をしている。そんな彼を一瞥し、ポケットからタバコを取り出して火を着けた。最初の一口目が一番美味いが、煙は喉から容赦なく水分を奪う。大きく煙を吐き、音を鳴らしながら唾を飲み込む。頬の鋭利な痛みよりも、喉を締め付ける痛みの方が空っぽの脳みそに響く。
すでに氷が溶けてしまったグラスに手を伸ばしたところで、冷えたビールが運ばれてきた。一日の終わりと小学生の時から本日まで続く腐れ縁を祝って、二人はグラスを合わせ、乾杯した。干からびた喉に、ビールの炭酸が堪らなく心地良い。
お気に入りの場所で、夕日と二度と戻っては来ない世界に包まれた中で飲むビールは、格別に美味い。黄金の海を漂う無数の泡が、白い空に舞い上がっていく。
「知らねぇよ、そんな先輩」
「知らないも何も、二人は先週から付き合ってんじゃないか!」
「……俺、彼女とかいたの?」
予想外のシンの言葉に驚いた。一方、シンは俺の告白に呆れて、タバコを口に含み、煙を吐きながら大きく溜め息をついた。
「お前、あの時ラリってたから、覚えてないのか。――ほら、これがユリコ先輩の写メだ。先週行われたサークルの飲み会ぐらい、覚えてるだろう?」
そう言って、彼は携帯電話を俺に手渡した。画面に視線を落とすと、俺とシンとあの女が写っていた。シンと女は無邪気に笑い、彼女は俺の腕に手を絡ませていた。俺はビールジョッキを得意気に掲げながら、空っぽな眼でカメラを見つめている。
「嗚呼。昨日ヤり合った暴れ猫は、確かにこの人だ」
シンに携帯電話を返し、タバコを吸った。ビールで潤ったはずの喉が、また渇き始めている。
「相変わらず、ひっでぇ男だな。最近、性的なサディズムだけじゃなくて、人の心まで痛めつけるようになったか。ユリコ先輩は、前の男を振ってまでお前と付き合いたかったのに、それに引き換えお前って男は……。そんなスタンスで生きていたら、いつか誰かに刺されるぞ。じゃあ、どんな女なら、お前は満足するんだ?」
二口しか吸っていないタバコを消し、残りのビールを一気に喉へ滑らせる。空になったグラスは、まだ透明な冷気を帯びていた。
「――さあ? 俺にも分からねえや。女なんて、他人から後ろ指を指されない程度の容姿と、入れる穴さえあれば、十分なんじゃないの?」
「お前、それを言ったらお仕舞いじゃないか。身も蓋もない言い方しやがって。……ところで、ユリコ先輩ってどうだった?」
シンは薄ら笑いを浮かべながら、豪快にビールを飲んだ。彼の飲みっぷりを見ていると、先ほどグラスを空けたばかりなのに、体の奥底がアルコールを渇望してきた。我慢できずに、通りかかったウエイターにビールの追加を頼んだ。
「おい、ケイ! 聞いてんのかよ?」
「ちゃんと聞いてるよ。そう焦るなって。んー、そうね……。酔っ払ってたから、ヤッテる最中の記憶は曖昧だけど、締まりは良かったんじゃないの。でも、テクニックはいまいちだったな」
タバコを取り出し、人差し指と中指で挟み、二本の指を上下運動させた。
「あの指使いじゃあ、イケねえよ」
俺の手付きにシンは爆笑しながらライターを取り、咥えたタバコに火を点けてくれた。
「その指使いは、こっち側だよ! いいじゃん、初々しくて。逆に、あの清楚で可憐な先輩が魅惑の超絶テクニシャンだったら、俺はドン引きするわ。どれだけ戦場を潜り抜けてきたのか、気になって集中できないよ」
彼の意外な繊細さに微笑みながら、ふぅーと苦い煙を吐く。
「でも、あのお嬢様みたいな身なりと雰囲気だからこそ、吸い付き絡むような舌使いと百戦錬磨の腰使いをされたら、男として燃えるんじゃない? 汚ったねえ涙と涎を垂らしながら、どんな快楽の修行に耐えてきたのか、想像したら興奮してこないか?」
「……確かに」
灰色の薄壁の向こうで、シンは夕空を仰ぎ見ながら呟いた。俺たちのイカガワシイ妄想に歯止めを掛けるように、ビールが運ばれてきた。
冷えたビールを即座に体の奥底に流し込む。全ての呼吸を停止させ、全神経を舌と喉に集中させた。呼吸を解放し、全身を支配していた力が外界に抜け落ちる。すると、指に挟んでおいたタバコの灰がテーブルに落下し、だらしなく砕け散った。溶けない灰色の雪を潤んだ視線で愛でていると、あっという間に真夏の風にさらわれてしまった。
「――ケイ、お前は、タトゥーとか興味あるか?」
相も変わらず、シンは空に眼を奪われたまま訊いてきた。彼の視線を辿ると、最後の太陽も怯えながら巨大なビルの合間に砕けていった。
「突然、どうしたんだ? ……シン、お前大学辞めて、漁師にでもなるのか?」
「身元確認の為じゃねえよ! 俺さぁ、タトゥー入れようと思ってるんだ。この前、知り合いの付き添いでスタジオに行ったら、そいつが彫られているところを見学させてもらったんだ。スミが徐々に完成していく工程を見てたら、なんか無性に入れたくなったんだよね。オリジナルのキャンバスに、そいつだけの絵が針で刻まれていく。同じ絵を、どんなに同じ色と針で入れても、肌の質や色はその人しか持っていない。あれは一種の芸術だね。ケイは、タトゥーとかどう思う?」
アルコールの廻った頭で名前が呼ぶ方を向くと、夕日と同じ寂しげな悪友の笑顔があった。
「俺はいいや。一生残したい言葉も絵柄もないから。スミ入れるなら、一人でしな。ただし、ファッション感覚だろうが、変身願望だろうが芸術だかなんだか知らねえが、俗世間と決別する覚悟で入れろよ。親から貰った躯を自らの意思で傷つけるんだから、偏見と一生闘って生きていきな」
いつの間にか短くなったタバコを吸うと、カラカラに乾いた喉に煙が纏わりつき、唾液が盛大に噴出してきた。嫌な唾を飲み込むと、シンが冷たい眼つきで薄ら笑いを浮かべていた。
「親、ねえ……。ケイの口からその単語が出てくるなんて、明日は雪でも降りそうだな。真夏の雪も悪くねぇが、それよりお前、本当はビビッてんじゃねえのか?」
真夏の街に溶け込めないシンの口元だけの笑み。俺は、彼の嫌味と冷笑を吹き飛ばすように一笑した。
「そんなんじゃねえよ。躯の表面だけ変容させても、そいつの中身が変わらなければ、ピアスやタトゥーなんて何も意味がないよ。でも、それで自分の心が強くなったり、人生が充実するならいいじゃねえ? 色々御託を並べたが、俺は止めやしねーよ。お前、それでも入れるのか?」
俺の持論と忠告を物ともせずに、相も変わらす彼は冷たく笑っていた。
「嗚呼。入れるよ」
「ほう――。それなら存分に入れてくるがいいさ。んで、どんな絵柄を入れるんだ? 鯉か? 龍か? それとも、仏像か? 仏像なら、俺の心が荒んだ時に、お前の躯を拝んで御仏に癒しを乞いに行くわ」
「俺の家は、無宗教だよ! 否、ばあちゃん家に仏壇が在ったから、仏教なのか? て、そんな事はどうでもいいんだよ。残念ながら、ケイの希望は叶えられそうにないよ。実は、肩から二の腕にかけて、蛾の絵柄を入れようと思っているんだ」
「蛾ぁ? 蝶じゃなくて、あえて蛾なのか?」
俺の間抜けな声が、夕闇の宙を舞う。シンの想定外の言葉に驚愕し、困惑した。そんな俺の反応を楽しむように彼はにっこりと笑い、頷いた。
「蝶を入れてるヤツは男女問わず沢山いるが、蛾の絵柄を入れている人間は、そうはいない。優雅に風の中を舞う蝶と違って、蛾は害虫と揶揄されながらも、光に向かって一直線に飛ぶ。そういう人間に憧れてるし、成りたいと思ったんだ。……これ、俺が書いたんだ。どうかな?」
そう言って鞄の中から一枚の紙を取り出し、俺に差し出してきた。ほう、と思わず声が零れた。そこには金粉を纏い、触角は真綿のように柔らかく、眼球のような模様に彩られた茶色の羽を不気味に広げ、丸くて太い胴体には奇怪な髑髏が描かれていた。彼の作り出した蛾は醜悪さの中にも、消せない美が存在し、強烈にその毒を放っていた。
「相変わらず、シンは絵が上手いな。妖しくて、危険で毒々しい匂いがする良いデザインじゃん。こいつの羽で、闇に灯る希望の光でも探しに行くのか?」
紙に折り目も皺も付かないように、慎重に返した。
「そんなんじゃないよ。こんなの糞みたいなデザイン、プロから見たら落書きにもならねえよ。俺よりも絵が上手いヤツなんて、腐るほどいるさ。そんな事、俺が一番よく分かってる」
シンは俺の質問に笑いながら答えた。その声は、どこか哀しげな色を帯びていた。俺は何も言わずに、ビールを飲んだ。冷気を奪われ、少し温くなったビールは、心なしか苦味が増していた。シンは新たに火を点けたタバコを吸いながら、デザイン画を鞄の中へぞんざいに押し込んだ。
「スミは、今月中に入れる予定なんだ。お前も気が変わって入れたくなったら言えよ。こんな俺の腕でよければ、デザイン画くらい書いてやるよ」
二人の間を流れる重く垂れ込んだ空気を断ち切るように、シンは紫煙の奥から満面の笑みを向けてくれた。彼のよく出来た作り笑顔につられて、俺も思わず笑みを溢した。
「言っただろう? 俺はサディストだって。でも万が一、気が変わったその時は、デザイン画頼むわ。デザイン料は、身内割引してくれよな?」
シンはこくりと小さく頷き、美味そうにビールを飲んでいた。俺も水滴のドレスを纏ったグラスに手を伸ばし、温くなったビールを飲み干し、彼に気になっていた事を訊いた。「なあ、シン。その、親父さんには言ったのか? タトゥーのこと……」
俺の心配そうな視線を振り払うように、グラスをテーブルに叩きつけた。
「言ってねえよ。あんな人間に、俺の崇高な作品の話をすると思うか? お前、知ってるよな。俺がどれだけ親父を憎んでいるのか! あいつのせいで、母さんと俺は―」
「分かった、分かった! 訊いた俺が悪かったよ。だから、とりあえず落ち着けよ!」
怒りに支配されたシンの左手の小指を握る。昔からこうすると、彼の感情の波が穏やかになることを俺は知っている。小指に張り付いた丸く焼き爛れたクレーターは、まだ消えてくれない。
「あ、ごっ、ごめん。つい、あいつの話になると……」
彼は我に返り、雨に濡れた向日葵のように肩を落とした。それでも俺は安堵し、ゆっくりと手を離した。
「気にすんな。あの人の話を振った俺が悪かったよ。ところで、今日呼び出したのは、タトゥーの話をするためか? 違うだろう?」
「それもあるけど……お前、アレ持ってるか?」
俺は手に付着した水滴をズボンで拭き、ほら、と言って、タバコに忍ばせていたジョイント二本とジップ袋に入れた白い錠剤を渡した。
「サンキュー」
「あんま無茶すんなよ」
分かってるよ、とシンは生返事をすると、ジップ袋を素早くポケットに突っ込み、直ぐ様ジョイントを吸い始めた。
「――随分大胆だな、シン君」
俺は乾いた笑みを向けた。シンはまるでビールと同じように、美味そうに毒を飲み込んでいる。彼の口からゆっくりと零れ落ちる白煙を眺めていると、昨夜の満月が不意に脳裏を過ぎった。
「コソコソやるから怪しまれるんだよ。それに、ここはオープンテラスだから、普段隅に追いやられている愛煙家達で占拠されている。店内よりも人目は多いが、いろんな煙の匂いがして、逆にバレないんだよ。それよりもお前、いつもどこでこいつを手に入れてるんだ?」
シンは不気味な笑みを浮かべながら、ポケットを二三度叩いた。すでに彼の眼は、現実と快楽の境界線上を淫らに彷徨い始めている。
「現代は、何でもアリの世の中だ。誰とでもお友達になれるし、欲しい物は大抵手に入る。人魚の髪の毛だって買える時代だぜ。こんな腐った真珠なんて、すぐに買えるさ」
そうだな、とシンは俯きながら笑った。
「じゃあ、俺行くわ。今からバイトなんだ」
彼は気持ち良さそうに立ち上がり、背を向けた。どことなく寂寞感の漂う背中の奥から、車の疳高いクラクションが鳴き叫んだ。音が発せられた方角に視線誘導されると、青信号の横断歩道を自転車で渡っている男子高校生が、右折してきた車に中指を立てていた。
「……あんま無茶するなよ。躯壊すぞ」
俺は悪意を孕んだ中指を見つめたまま言うと、シンがゆっくりと振り返った。彼は鋭利な業火を宿らせた視線で、俺を見下ろしてきた。あの少年の中指と同じだ。
「――ケイには、言われたくはないね」
「そっちじゃねえよ。バイトの話だ」
「大丈夫だよ。お前には迷惑かけないように上手くやるから、心配すんな。ここは俺が奢るから、好きなの頼めよ」
徐にシンはDior Hommeの財布から千円札を出し、テーブルに置いた。テーブルに横たわる野口英夫の生気がまったく感じられない渦を巻いた紺色の眼が、嫌に不気味だった。
「じゃあ、また連絡するわ。知らないお姉様方に声を掛けられても、ホイホイついて行くんじゃねえよ」
いつもの軽い調子で別れの言葉を残し、シンは再び俺に背を向けた。アルコールのせいなのかどうか知らないが、彼の足元はふらついていた。
「……おい、シン。待てよ!」
引き止める声に、シンは眉間に皺を寄せ、うざったそうな眼で振り返る。
「――これじゃあ、足りねえよ」
ラベンダー色のカーテンに覆われた夕焼けの空に、俺はヒラヒラと蛾の羽のように千円札をはためかせた。
目を覚ますと、見慣れた天井が広がっていた。開けっ放しだった窓から澄んだ夜風が迷い込み、月が汚れた肌を静かに愛撫する。眩い月明かりで満たされた部屋に、呼吸が二つ。隣には見知らぬ……否、俺の恋人らしき女が寝ていた。
シンと別れた後、他に行く当てもなかったのでアパートに戻ると、まるで捨て猫みたいに躯を丸くして、昨日の女がドアの前で蹲っていた。とりあえず、彼女を家の中に招き入れた。女が濡れた瞳でそっと頬を撫でたのを合図に、二人は貪り合う様に口づけをした。気が付けばベッドで肌を重ね合わせ、いつの間にか夢の世界に誘われていた。
愛しい月に手を翳すと、色を失くした手が光を切り裂いた。まるで昨夜のデジャヴだ。シンの口から零れる煙をぼんやりと眺めていた時、あの月に会いたくなったから、願いが叶ったのか? そんな世迷言を夜空に並べていると、痛みにも似た喉の渇きがぶり返してきた。
胸中で舌打ちをし、安らかに眠る女を起こさないように静かに冷蔵庫に向かう。冷えたビールかミネラルウォーターか迷ったが、起き抜けなのでミネラルウォーターを選択した。
心地良い冷気が、火照った躯を優しく包み込んでいく。橙の光を宿した水を、乾いた喉に豪快に注入する。……やっぱり駄目だ。刹那的に乾きは癒えるが、どれだけ飲んでも、すぐに水分を欲してしまう。何が原因なんだ。何を失くしてしまったんだ――。
答えの無い問いに静かに苛立ちながらベッドに戻ると、甘美な夢の世界から眠り姫がご帰還されていた。
「ごめん、起こした?」
彼女は眼を擦りながら、首を横に振った。丁寧に塗られたマスカラが崩れ落ちていく。
「――今、何時?」
女は少しかすれた声で訊いてきた。枕元の目覚まし時計を一瞥すると、針は十時半を少し回っていた。
「真夜中ですよ」
「そうなんだ。もう終電過ぎたのかな。……今夜は、泊まってもいい?」
俺はゆっくりと頷き、目覚まし時計を枕の下にそっと隠した。月明かりに照らされた女は、夜風に髪を揺らしながら優しく微笑んでいた。
「……ユリコ先輩、だっけ? 前の男を振ってまで、俺と付き合いたかったて聞いたんだけど、俺のどこが良いの?」
「顔」
ユリコ先輩の迷いの欠片もない即答に、口に含んでいた水が思わず噴出した。
「顔かい! でも、俺はそんなに良い顔してないですよ。ユリコ先輩みたいに綺麗な女性なら、もっとイケメンの男を捕まえられるはずだ。正直、俺には勿体無いよ」
彼女はくすりと笑い、俺の手からそっとペットボトルを奪い取り、喉を鳴らしながら水を勢い良く飲んだ。水が喉を通過するたびに、彼女の細く長い首筋が波打つ。まるで快楽の底に辿り着いたばかりの秘部みたいだ。
彼女はあっという間に、ペットボトルを空っぽにしてしまった。そして、口から滴り落ちる水を満足げに手の甲で拭う。唇はまだ、透明で潤った口紅に覆われていて、妖艶な光を放っていた。
「貴方の、そういう所が好きなのよ」
「――ちょっと、何を言っているのか分かりません」
俺の間抜けで正直過ぎる返答に、ユリコ先輩は一瞬眼を丸くしたが、すぐに口元を緩ませて眼を細めた。
「つまり、私に興味が無いところよ。自分を卑下してまで相手を尊重しているようで、実は、他人に興味が無いだけでしょう? でも本当は、他人に興味が無いフリをしているだけ。違う?」
そう言うと、ユリコ先輩は床に落ちたパンツとキャミソールを拾い上げた。それらを着終わると、彼女はすっくと立ち上がり、ビール貰うね、と俺の返事を聞かずに冷蔵庫からビールを取り出した。
「ケイ君の家の冷蔵庫、お酒と水しか入ってないね」
「他は、要らないから。家なんて寝に帰るだけし、水とアルコールさえ在れば十分なんです」
俺の声のトーンを無視するように、プシュと軽快で弾ける音が部屋に響き渡る。ユリコ先輩を横目で見ると、まるで水のようにビールを飲んでいた。
「……いい飲みっぷりですね」
「セックスした後のビールは、格別に美味しいのよ」
彼女の本当の姿を垣間見た気がした。俺もトランクスを履き、ズボンのポケットかたタバコを取り出し、火を点けようとした時、冷たい物体が頬に吸い付いてきた。驚いて振り返ると、笑顔のユリコ先輩から飲みかけのビールを渡された。俺は咥えていたタバコを一旦箱に戻し、随分軽くなったビールを受け取る。飲み口から微かに、彼女の甘ったるい砂糖菓子のような香水の匂いがした。
ユリコ先輩が隣に腰を降ろした振動で、ベッドが揺れる。まるで寄せては返す波のように、躯が不思議な浮遊感に包まれた。でも彼女と一緒に漂う船は、温かい真夏の海ではなく、凍てついた灰色の冬の海だ。そして、彼女は俺を挑発するように、腰をくねらせながら足を組む。月明かりに照らされたユリコ先輩の肌は蝋のように白く滑らかで、長い睫毛が端整な彼女の顔に影を落とす。優美さの中で、白き悪魔を飼い慣らしている女だ。
ビールの炭酸で頬と喉が痛くなるまで口に含み、ユリコ先輩の唇を塞いだ。彼女の口内に無理矢理ビールを流し込む。彼女が小さな呻き声を上げる。その声はいっそう俺を欲情させた。光沢のある下着に手を入れ、肉の割れ目に指を這わせ、二本の指を濡れていない穴に捻じ込もうとした瞬間、思いっきり背中を叩かれた。全身を貫くような熱い痛みが走り、思わす唇を離した。
「ちょっ、止めてよ! また引っ掻くわよ!」
ユリコ先輩の必死の形相と、背中の痛みで我に返り、手を止めた。
「……それは困るな。これ以上、顔に傷を作るわけにはいかないんだ。せっかく手に入れた容姿端麗な恋人に振られてしまうんでね。何て言ったって、先輩は面食いだから」
下着から抜き出された指には、テラテラと光る粘膜が張り付いていた。
消化不良の欲望を沈める為に、タバコに火を点ける。微かに指に付着したままだった愛液のせいで、フィルターの部分が湿ってしまった。
ユリコ先輩は乱れたパンツを履き直すと、ぼんやりと真っ暗な天井を見つめていた。月は雲の中に恥ずかしげに隠れてしまい、小さな部屋に拡散している闇の濃度が増す。
「ねえ、ケイ君は私のどこが好きなの?」
「……胸、かな」
顔の無い恋人は笑い声を上げながら、胸かい! と言った。俺も自分の直球過ぎる回答に思わず笑ってしまったが、吐き出された紫煙すら見えない。
「貧乳ではなく、そして巨乳過ぎず、先輩の掌から少しだけ溢れる形の良い胸が好きなんですよ。まな板に干し葡萄みたいな胸は興奮しないし、かと言って、乳がデカけりゃ良いてもんじゃない。胸と女心は、ちょっと手に持て余すぐらいが丁度良いんだ」
「やっぱり君は、私の好きなタイプの人間だわ」
煙で奪われた喉の水分を補給する為に、水滴が薄っすらと包み込む缶ビールを口元に近づける。真っ暗な闇の中、迷い無くビールの飲み口を探せたのは、ユリコ先輩の甘い残り香のお陰だ。
「そういえばケイ君って、どっちに似てるの? 君は中性的な顔立ちだから、やっぱりお母さん似?」
「……否、父親似だよ」
「そうなの! じゃあ、お父さんも綺麗な顔してるんだ。会ってみたいな」
「会えるけど、俺と同じ歳だよ」
「どういう意味?」
「言葉通り、そのままの意味だよ。親父とお袋は俺が生まれてすぐに死んだんだ。ちょうど二十歳の時に。交通事故だって聞かされたけど、……たぶん違うと思う。根拠はないですけどね。それからはよくある話で、親戚中たらいまわしにされて、小学生の時に施設に預けられた。そこでシンと出会ったんです。まさか、こんなに長く友達やってるとは思わなかったけど」
笑いながら、灰が伸びていることに気付いた。ベッド脇に備え付けてある小さな丸テーブル上に、いつも置いてある灰皿を手探りで探す。灰が落ちる前に見つけることができ、人差し指をニ三回鳴らす。
「施設はいつまでいたの?」
「小学校を卒業するまで。それからは、金持ちだけが取り柄の叔父さんに引き取られて、ここまで生かされてきました。これまたよくある話で、慈善活動の一環ってやつです。叔父夫婦には子供がいないし、身寄りのない可哀想な子供を引き取れば世間的に評価が上がるらしいですよ。俺にはよく分からない理屈ですけど、ね。でも、どうして今になって引き取る気になったのか彼らに訊いたら、手のかかる時期は引き取るのが嫌だった、て言ってました。まあ、ある意味幸せですよ。餌の代わりに金を貰えるのは悪くないし、金で買えないモノがたくさんあることも知れたし」
短くなったタバコを吸うと、なんだか苦味が増しているような気がした。
「今更だけど、なんか、無神経にいろいろ訊いてごめんね。私の周りには、その、なんて言うのかな、貴方達みたいな人がいなかったから、つい――」
「好奇心が抑えられなくなった?」
「そっ、そんなんじゃないよ!」
怒ったユリコ先輩をなだめるように、頭を軽く撫でた。綺麗で艶のある髪が指先に絡みつく。
「別にいいですよ。気にしてませんから。叔父さんの金でモラトリアムを謳歌しているのは事実だし、施設に行ったおかげでシンと出会うことができた。そう思えれば、今はそれでいいんです。それに変えられない過去に囚われても仕方がないし、それよりも前に進まないといけないから」
そう、俺達は光が射す方に進まなければいけないんだ。振り返ってもしょうがないんだ。だって、暗闇の中をずっと歩いてきた俺達の振り返った先に何が在るというのだ。
「でも、どうしてそんな大事な話を、私にしてくれたの?」
「……さあ、なんででしょうね?」
煙のように呟いた時、隣から奏でられていた一つの呼吸の音が消えた。とりあえず、タバコの火を消し、辺りを見回す。もう暗がりに慣れたはずの眼なのに、何も見えない。ただ、ゴソゴソ……と不気味に人間が蠢く音だけが、鼓膜に張り付いてきた。
残りのビールを一気に体内に流し込むと、突如あの香りが鼻腔に広がり、ベッドが小さく波打った。
「本当は昨日頼もうと思ったけど、タイミングを逃しちゃったから、今夜こそお願いしようと思ってたんだ」
亡霊のような彼女の柔らかく温かい手から、軽くて固い物体を渡された。何だ、これ? 脳みそを駆け回る疑問を吹き消すように月明かりが部屋に差し込み、手渡された四角い
プラスチックの器具を照らし出した。
「……何? これ」
「ピアッサーよ。これで、私の耳にピアスを開けて欲しいの」
俺は困惑し、眉間に皺を寄せたまま何も言えず、ユリコ先輩の顔を凝視した。青い光に染められた彼女は、穏やかな瞳で優しい笑みを浮かべていた。
「なんで俺に、そんな事頼むんですか? 病院か、ちゃんとしたスタジオで開けた方が、ホールも綺麗に完成しますよ。それに万が一、手元が狂って失敗しても、責任取れませんよ」
「今、両耳に開いているホールは、初めてできた彼氏が開けてくれたの。だから、ケイ君にも開けて欲しいんだ。私ね、自分が心と躯を赦した人間を覚えておきたいの。人は出会った瞬間から、どんな形であれ必ず別れが訪れるものだと思ってる。たとえ強く愛し、憎しみ合っても、これは未来永劫変わることはない。まだ二十一年間しか生きていないけれど、沢山の人間が私を追い抜き、横を通り過ぎて行ったわ。振り返ってくれる人もいれば、二度と顔を見なくなった人もいる。だから、せめて自分が愛した人だけは忘れたくないし、躯に刻み付けておきたいの。それに強烈な思い出を共有すれば、相手も私の事を忘れないでいてくれる気がするんだ。たとえ、短い時間しか一緒にいれなくても……。だから、お願い」
潤んだ瞳に月明かり集まり、二つの小さな黒い海が煌いていた。ユリコ先輩の表情は、永遠の愛なんて手に入らないと理解していながらも、それでも消えない愛を夢見ている純潔な乙女のようだ。
……笑わせるな。どこが清楚でお淑やかな女性だよ。純白に塗装された仮面の下は、ただの嫉妬深くて独占欲の強い女じゃないか。本当の目的は、男を自分の心に永遠に繋ぎとめる鎖が欲しいだけ。しかも鎖を繋ぐ杭を、男が自ら打つように仕向けてやがる。とんだ眠り姫だぜ。
「――やっぱり貴方は、俺の手には持て余す女性だ。最高に悪い女だよ」
ピアッサーの封を開け、ユリコ先輩の左耳たぶにプラスチックの銃を押し当てた。俺は一片の躊躇も無く、冷たい引き金を引いた。太い針が耳たぶを貫いた瞬間、彼女は痛みを越えて歪んだ笑顔をしていた。
窓の外では月が揺らめく雲と溶け合い、不穏な光を放っていた。
憂鬱な雲から逃れるように、鳥が低く飛んでいた。花の金曜日の駅前は、待ち合わせをする人々で賑わっている。おまけにここは繁華街。行き交う人達の足取りは、どこが浮かれている。
辺りを見回す。俺の待ち人は、まだ来ていないようだ。とりあえず、駅前の灰皿が設置された喫煙所に歩み寄る。集まった喫煙者により毒塗れの雲が形成され、煙は空へ舞い上がり、不安定な雲と同化していた。
ポケットから携帯電話を取り出すと、電話もメールの着信はなく、時刻は六時半を表示していた。待ち人に到着した旨のメールを打ち込んでいると、隣でタバコを吹かしている大学生風の二人の会話が、耳に飛び込んできた。
そう言えば、高校の時同じクラスだったハヤカワが、デリヘル嬢やってるの知ってた?
マジで!
なんか、ショウヘイがデリヘル頼もうと思って、店のHPを漁ってたら、見つけたらしいよ。画像を見たら、確かにハヤカワに似てたけど、俺もショウヘイも半信半疑だった。だって、嬢の写真なんてフォトショ修正だらけだから、男なら一度は痛い目に遭うじゃん? んで、俺の友達に頼んで、ハヤカワに指名入れてもらったんだ。もちろん、彼女の高校時代の写真も見せたぜ。そしたら、本人に間違いなかったよ。黒子の位置と歯並びが一致してた、てさ。こっそり携帯で声も録音してきてもらったけど、ハヤカワの声だったよ。
マジかあ……。でも、なんでデリヘルなんかで働いてるんだ? 彼女の実家は病院で、金持ちじゃなかったけ?
そうそう。ハヤカワも私立の医学部に通ってるよ。まあ、どう考えても借金ではないな。男絡みか、メンヘラビッチの暗黒面に堕ちたのかも。あるいは、性なる新しい扉でも開いちゃったんじゃないの?
セックス依存症の可能性もあるな……。だったら、AVにも出ればいいのに。
さすがに、そこまでの勇気はないでしょう。親から絶縁されるレベルだぜ? まあ、今時AV女優もアイドル並に可愛いから、ハヤカワだったらスカトロとか食虫とかキワモノ系にしか出させてもらえないよ。
確かに! ハヤカワとヤルぐらいなら、男とした方がマシだな。お前の友達、よく勃ったな。
あいつ、マジ勇者!
二人のせせら笑う声を掻き消したくて大きく煙を吐き、灰皿に磨り潰すようにタバコを押し付け、俺はその場を離れた。舌に残留したタバコの粘つく苦味を、唾と共に吐き捨てる。黒い鳥達が耳障りなほど甲高い鳴き声を上げながら、先ほどよりも低く飛んでいた。
ぼんやりと薄汚れた雑踏の海を見ていると、視線の先に一人の女が立っていた。艶やかな黒髪を湿った風に靡かせ、抜けるように白い肌、真夏なのに真っ黒な長袖のカットソーを着用している。その佇まいは、この世界のどこにも属していない生物に思えた。ただ、彼女が差している真紅の傘が以上に際立ち、女に異様な現実味を与えた。
女はじっと俺だけを凝視している。もしかしたら、俺の勘違いかも知れないと思ったが、そのナルシシズムな勘違い以上に、嫌な予感の方が上回っている気がした。女は暗い空洞のような冷たい眼で、瞬き一つせずに俺だけを見つめている。
誰だよ? 知り合いに、あんな女いないぞ。それに、雨なんて降ってないのに、なんで傘を差しているんだ?
嫌悪感を孕んだ眼で、女を睨み返す。ふと視線を落とすと、あるはずの闇が存在してない。俺は心の中で小さな悲鳴を上げた。女の足元には影が無かった。一気に心臓の音が加速し、容赦なく胸を圧迫する。腕は鳥肌がびっしり敷き詰められ、視界が霞んでいく。小刻みに震えながら目線を上げると、影の無い女は白い歯を覗かせた。
「ケイ!」
得体の知れない女との交信を遮断させるように、後ろから名前を呼ばれた。声がした方向に視線を滑らせると、雑踏を掻き分けて、待ち人であるアキが手を振りながら駆け寄ってきた。遅れておきながら、彼は無邪気に笑っていた。
俺は小さい子供のように怯えながら、アキの腕を掴んだ。全身を支配する恐怖の震えは、まだ止まってくれやしない。
「遅れて悪かったよ。ん? 腕なんか掴んで、どうしたんだ?」
俺の異変に気付いていないのか、アキはだらしなく笑ったままだ。
「あっ、あのさ……、俺の背後、つまりお前の視線の先に、赤い傘を持った不気味な女がいないか? いないよな? 否、いるよな。見えるか? なあ、早く答えてくれよ!」
思考は完全に混乱していた。奥歯はガタガタと震え、上手く言葉を紡ぎ出せない。体中を薄気味悪い冷気が包み込んでいるのに、恐怖で汚染された汗が背中を伝い、シャツが張り付く。まるで、腐乱した水死体に優しく触れられているみたいで、背筋が凍りついた。
アキが訝しげに俺を見下ろす。
「おいおい、大丈夫かよ? 顔が真っ青だぞ」
「いいから早く、真っ赤な傘を差した女がいるかどうか、答えくれよ!」
思わず語気を強めた。アキは訳が分からないといった感じで下顎を掻きながら背伸びをして、俺の背中越しに街を見回す。唾を飲み込む音が、鼓膜に痛い程響き渡る。ネットリとしたあの手に、背中は触れられたままだ。冷たいヘドロのようなぬめりがシャツを侵食し、直接皮膚に浸み込んできそうだ。それに抗うように身を捩る。
「傘を差している人間なんて、どこにもいないぜ。もしかして、幽霊でも見たのか?」
下唇を噛み締めながら顔を上げると、いつものアキの無垢な笑顔があった。ゆっくりと振り返ると、人で形成された海が広がり、一方的な波が押し寄せてくるだけだ。真紅の傘の花は、一輪も見当たらない。
勘違い、なのか……? それとも、やはり幽霊なのか? 否、どう考えても幽霊なんかじゃない。そんな実体の無いモノではなく、もっと違う存在だ。でも……それも違う。違わなければ、ならない。じゃあ、やっぱり――。
「アキは、幽霊とか信じる、か……?」
「幽霊ねえ。怖いとは思うけど、如何せん霊感が無いから、俺は彼らを見たことがないんだ。まあ、これだけの人間が生まれてきては死んでゆく世界だから、幽霊の一人や二人ぐらい居てもおかしくないよ。それよりも、人を飼い殺しにするような、業の深い人間や社会の方がよっぽど怖いけどな。生かしもせず、殺しもせず、てやつ? ケイが不吉な幽霊を見たのは気の毒だけど、嫌な記憶は楽しい記憶で塗りつぶさないと! いつまでも苦しい事や辛い事を憶えていたら、長生きできないよ。さあ、俺たちのイカれた楽園に行こうぜ!」
アキは親指を灰色の空に突き立て、眼を輝かせた。彼の濁りのない眼の輝きを見つめながら、俺は硬直していた頬の筋肉を無理矢理引き上げた。
「そう、そうだな。そうだよな! アキの言うとおりだよ。なんか、喉もカラカラに渇いたし、早くビールが飲みてぇよ」
掴んでいたアキの腕を離し、弱々しく笑った。彼の腕には、俺の暗い汗がべっとりと付着していたが、アキは気にも留めずに楽園へと歩き出した。
アキに遅れを取るまいと、俺も足を踏み出す。その刹那、強い風が二人の間に吹き抜け、だらしなく長く伸びた髪が靡き、視界が鮮やかに黒く染められた。
イカれた楽園は、駅から徒歩十分の所に点在している。仄暗い地下へ続く階段を下ると、顔中をピアスで装着した天使がカウンターで待ち受けていた。マッドな天使に五百円を支払い、ワンドリンクチケットを貰うと、饗宴へ繋がる重い扉が開かれる。随分近くて、安上がりな楽園だ。
扉の奥に広がる人工の楽園は、ブラックライトが光の矢を放ち、脳みそを貫くように甲高いエレクトロニックな音楽が充満していた。皆好き勝手に音を楽しみ、酒を嗜み、今夜を共に過ごす仮初めの恋人を欲望に占拠された瞳で探している。愛なんて面倒くさいモノは存在しない。すべてがフェイクだ。でも此処は、男も女も、ホモもヘテロも関係ない。ただ、抑圧された春を謳歌するだけだ。それだけが、此処で唯一存在を赦された真実。
べとついた汗と香水と熱気が混じる人々を掻き分け、ドリンクカウンターへ進む。カウンターで愛想の良い笑顔で出迎えた男も、あの天使と同様に顔面をピアスで武装していた。コインを渡し、二人ともハイネケンの瓶ビールを頼み、空いているテーブルに腰を降ろした。
互いの瓶の口を合わせて乾杯する。キンキンに冷えたビールは会場の熱気で火照った躯に染み入り、胃は冷たい手に掴まれたようにぎゅっと締め付けられた。
「美味いな!」
無意識に口から言葉が飛び出した。先ほどまで舌にこびり付いていた、煙たい苦味がアルコールで消毒されていく。アキも頬を綻ばせて頷いた。
どうやら今夜はテクノナイトらしく、軽快で近未来的なユーロビートが人工の光とマッチし、どこか別の惑星に迷い込んだ気がした。
ビールを飲みながら何気なく視線を泳がしていると、一組の男女が壁際で濃厚なディープキスをしていた。二人のねっとりとした絡みを見ながら、タバコに火をつける。灰色の薄いカーテンの奥で、一つの情事が始まろうとしていた。一瞬、女と視線が交錯した。俺は眼を逸らすことはせず、蛇のように彼女を睨んだ。女は逃げるように男の手を引き、トイレに篭城してしまった。
玩具を取り上げられて子供のようにむくれていると、アキがビールを置き、「あっ!」と突拍子もない声を上げた。
「なあ、ケイ。来週の水曜日、野球でも観に行かないか?」
予想外のアキの提案に、思わず眼を丸くした。
「突然どうしたんだ?」
「昨日、親父が取引先の会社の人から、内野自由席のチケットを貰ったんだ。しかも、四枚も! でも平日だし、親父は仕事だから、学生ニートの俺にくれたんだ。野外だけど、ナイターだし、涼しい中で野球が観れるぜ。まあ、日が暮れるのは八時過ぎだろうけどな。せっかくの二十歳の夏休みだし、行こうぜ!」
アキは無邪気な笑顔で、野球観戦に誘ってきた。俺は一服し、ビールを飲んだ。エメラルドグリーンの瓶がブラックライトのせいで、碧色に発色している。小さな海底から、幾つもの泡が舞い上がり、空に触れることなく弾けていく。
それを眺めていると、施設にいた時、頻繁に面会に来てくれた伯母を思い出した。母さんの妹だと、職員に教えられた。伯母はよく面会に来てくれて嬉しかったが、その事が原因で他の子に虐められた。施設には親がいない子や、片親の子が多く、その殆どは親になかなか会えずに寂しい思いを抱えて生きている。そんな彼らが、俺を快く思うわけがなかった。だけど、シンだけは違った。いつも俺を守り、生かしてくれた。「あんなの気にすんな!」と言い、励まし慰めてくれた。
しかし、当時の俺には施設しか居場所がなかった。だから小学校四年生のある夏の日、伯母にもう来なくていい、と告げた。彼女は少し寂しそうな顔をしたあと、最後に近所の寺で開催されるお祭りに行こうと誘ってきた。俺は静かに頷くことしかできなかった。
伯母に手を引かれて行った縁日で、ラムネを買ってもらった。蒼穹の空に漂う入道雲。命を燃やす蝉の声。夏草の匂い。彼女の紫陽花柄の浴衣とうちわ。互いの汗が交じり合う繋いだ手。浅く温くなったプールを優雅に揺れ動く水風船と金魚たち。風に溶ける風鈴の音。そして、カラカラに乾いた喉を潤すビー玉入りの甘ったるいラムネと日傘を差した母さんによく似た笑顔――。彼女はその一週間後、飛び降り自殺をした。
「――そうだな。こんな土竜の棲み処みたいな薄暗い地下世界じゃなくて、たまには青空の下で健全に遊びたいもんだ。四枚あるなら、シンも誘っていい?」
「いいぜ。じゃあ、俺はカネダに声掛けてみるわ。男四人で野球観戦なんて、小学生みたいだな」
まったくだ、と俺もアキに同調し、ビールを飲む。こんなアルコールだけが取り柄の苦い水じゃなくて、久しぶりに爽やかで夏の味がするラムネが飲みたくなった。
「それよりも、シンの奴、大丈夫か?」
頬杖をついて、遠くに仕舞いこんだ夏の思い出に浸っていると、アキが深刻そうな声で訊いてきた。彼の顔を見上げると、口を強く結び、上唇を噛んでいた。心配している時のアキの癖だ。
「……何が?」
「バイトだよ」
「嗚呼、その事ね。心配いらないんじゃねえの? この前会った時、普通だったし」
アキを心配させまいと、俺は努めて明るく答えた。でも、彼の顔を直視することができなかった。ダンスフロアでエテ公のような雄叫びを上げて騒ぐ若者達の声が、やけに癇に障る。
「まあ、シンを一番良く知るケイが言うなら、間違いないな。お前らって、ほんと喋り方とか似てるよな。服も似たようなものをよく着てるし、なんだか長年連れ添った恋人みたいだな!」
「そんなに似てるのか? 俺達。まあ、恋人ではないけど、小学校の時からずっと友達だからな。……だから、言えないこともあるんだけどな」
「えっ、なんて言ってんの? ごめん、音楽が五月蝿くて、よく聞こえなかった」
耳に手を当て、アキが顔を近づけてきた。どうやら、俺の小さな声は音楽に掻き消されてしまったようだ。湿気た空気を大きく吸い、アキの耳元に口を寄せた。
「俺は、シンと違って遅刻魔じゃないぜ!」
「確かに!」
アキは八重歯を覗かせながら、顔を綻ばせた。俺は下手糞な作り笑いを浮かべ、彼の少し赤くなった下唇を見つめながら頷いた。
「最近、二人でどこか行ったのか?」
「いつものテラスで、夕日を眺めながらビールを飲んだだけだよ。その時、俺はユリコ先輩とお付き合いしていることを知らされたよ」
「そうそう! お前、あのユリコ先輩と付き合ってるんだよな。いいよなー。あんなに綺麗でお金持ちの彼女がいて。先輩の話では、女子アナを目指して、養成所に通ってるらしいよ。あの美貌なら、どこかの局アナにはなれるよ。なんで俺じゃなくて、ケイなんだ?」
いじけたようにアキが唇を尖らせる。その顔が可愛くて、俺は肩を揺らして笑った。
「ユリコ先輩よりも、アキの方が可愛いからじゃないか? 女は自分より可愛い生物には、性別関係なく厳しいからね。合コンで、引き立て役用に必ずブスが投入されるのがいい例だ。しかし、どいつもこいつもユリコ先輩がお好きなんだな。俺は清楚な女子アナよりも、甘い蜜を出す穴の方が好きだけどね」
「誰が上手い事言えって言ったんだよ!」
アキの素早い突っ込みに、ニヒルな笑いを浮かべた。短くなったタバコを一口吸い、灰皿に押し潰す。灰皿から細く淡い煙が立ちのぼり、空に還ることなく消えた。
フロアに視線を漂わせると、金髪でショートヘアの女と眼が合った。女はホットパンツに髑髏が描かれたタンクトップというシンプルな装いだが、さらりとかっこよく着こなしていた。
女と視線を交わらせたまま、手を口に当て、指の間から舌を覗かせた。彼女は唇をなぞる様に、ゆっくりと舌を這わせる。女の瞳に欲望の色を見た。
俺はタバコと百円ライターをポケットに押し込み、立ち上がる。
「ケイ、どこに行くんだ?」
「ちょっくら、ハニーハントしてくるわ」
「おいおい、マジかよ!」
アキは驚嘆しているのか呆れているのか分からないが、眼を丸くして、俺を見上げた。
「精錬された上品な甘い蜜を待つよりか、自ら手を伸ばして、奪いに行った蜜の方が美味いに決まってる。そうだろう?」
「お前って、ヤツは……。ユリコ先輩には内緒にしておくよ。女を泣かすのは、俺の趣味じゃないしね。その代わり、純真無垢な夢の国に二度と足を踏み入れるなよ!」
「俺には、汚くて醜い大人の夢の国の方がお似合いだよ。それに、あっち側には帰るつもりも無いし、もう帰れないよ」
ひらひらと手を振りながら歩き出した瞬間、背中越しに小さく名前を呼ばれた気がした。立ち止まろうとしたが、女の妖艶な誘惑を振り切ることができなかった。
女に近付くと、寂しげなシトラスの香りした。耳元に息を吹きかける。彼女は睫毛を震わせ、くすぐったそうにはにかんだ。彼女は仕返しとばかりに、爪先立ちで俺の耳に息を吹きかけてきた。全ての音と温度が遠退き、生暖かいシトラスの風だけが俺の世界を満たした。二人の崩れ落ちそうな潤んだ瞳が重なる。言葉はいらない。
ポケットから白い錠剤を取り出す。舌に腐った真珠を乗せ、女を挑発するように舌をくねらせる。唾液が噴出し、ぬるぬると淫らに濡れた舌に薬が張り付く。宝石に魅せられた女は、自ら粘つき湿った舌を絡ませ、快楽の秘宝を飲み込んだ。互いの唇を獣のように貪り合う。女の豊満な胸を下から優しく揉むと、彼女は何度も舌を硬直させながら甘い声を漏らした。リズムに合わせて腰を密着させる。女は、俺の硬くなりかけている股間を弄る。躯は正直に反応し、ジーパンに押さえつけられた棘が痛い。甘美で、惨めで、滑稽で、不埒な愛撫。此処には、愛なんて面倒くさいモノは存在しない。
唇を離し、女を見下ろすと、光の失われた黒い球体が二つ横たわっていた。それは、幼い頃に見た皆既日蝕に似ていた。
雨の匂いに包まれて、赤い鴉が鳴く世界にさよならを告げた。柔らかい灰色の稜線が架かる空から、犯した傷を癒すように雨が降っていた。時計を見ると、二時を差している。
固まった首を左右に動かし、思考停止した頭を起こす為に、タバコに火を点ける。箱の中に、いつも偲ばせておいたジョイントがなくなっていた。眉間に皺を寄せ、記憶の断片を手繰り寄せる。そういえば、この前シンにあげたんだっけ……。窓の向こう側で、甲高く耳障りな犬の鳴き声が聞こえた。媚薬と寝不足に侵略された頭には、鈍器で殴られたように響く。
「うるせぇなあ……」
金髪女と同じ声だ。眉間の皺は、さらに深く濃くなる。見えない敵を握り潰すように、タバコを灰皿に押し潰した。
光の届かない世界に恋焦がれた俺は、すぐに金髪ショートの女とクラブのトイレで一発しけこんだ。突き上げる度に牝犬みたいに鳴き喚き、五月蝿い女だった。快楽の底に辿り着いた彼女は、上と下の口から白い泡をだらしなく吐き、虚ろな眼は太陽と月が重なったままだった。
染みの付いたパンツを片足に絡めたままの女を放置し、トイレから出ると、牝犬の声を嗅ぎつけ、誘き寄せられた息の荒い牡犬数匹がトイレに入ってきた。その中の一匹と目が合ったが、俺は何も言わずに片頬を吊り上げた。
牝犬が再び咆哮し始めた。快楽と悲劇の饗宴が幕を開けたようだ。女に引っこ抜かれるほど激しく吸い付かれた棘の痛みだけが、いつもでも残留していた。
その後、何事もなかったようにクラブを後にし、アキの家で朝まで飲み明かした。アキの同棲している彼女ヒロも交えて、先ほどまでの出来事が幻であったかのように、三人で仲良く健全にUNOを楽しんだ。ヒロとは幼稚園が一緒で、高校の時に偶然再会した。彼女は大学へは進学せず、美容師の専門学校に通っている。アキとヒロを引き合わせたのは、他ならぬ俺だ。だから、時々こうして三人で遊んだりしている。
ヒロがトイレに立った時、アキが俺の肩を叩いた。俺は手持ちのカードを、どう切るべきか真剣に考えていた。
「今、取り込み中だ」
アキがくっくっと肩を揺らす。俺は唇を尖らせながら、彼を睨んだ。
「やっぱり、ケイにはこっちの世界がお似合いだよ」
排泄物が流される音がする。ヒロが鼻歌交じりにトイレから出てきて、洗面台で手を洗っている。二つの流水音が重なり、部屋の中で不気味に蠢く。
「……そんなことねーよ」
「そうか? まあ、これは俺からの視点だが、ケイは望まずして、堕落した世界に身を置いているように見えるよ。本当は、分かってるはずだぜ。どっちの世界が、ケイにとって居心地が良いのか」
俺は何も言わず、じっとカードだけを見つめていた。このワイルド・ドロー4を、どこで使うかで勝負は決まるな。
「ビール持ってきたじぇい!」
ヒロがビールを手土産に、部屋に戻ってきた。頬は紅潮し、足元はふらつき、少々呂律が廻らなくなっている。だいぶ出来上がっているようだ。
アキは何事もなかったかのように、早いよと言い、ビールを受け取った。ヒロは一度首を傾げたが、またへらへらと笑っていた。
「はい、ケイちゃん!」
「ありがとう。ヒロ、ケイ君と呼びなさい。女の子みたいで、嫌なんだよ」
「なんで? 昔から、ケイちゃんは、ケイちゃんじゃん。君のオバさんだって、ケイちゃんて、呼んでたよ。確かに幼稚園の頃、ケイちゃんは髪が長かったし、ピンクの服も多かったし、何より名前のせいで、よく女の子に間違われてたよね。知らないおじさんに、声を掛けられた事もあったし、あと――」
「もういいだろう? 昔話は。早くゲームを再開しようぜ。負けた奴は罰ゲームとして、焼酎ロックでイッキな。もしくは、服を脱ぐでも可だ」
「おいおい、そんなにハードル上げていいのかよ?」
俺の提案に、アキが躊躇するように肩を竦めた。俺は不敵な笑みを浮かべ、彼に視線を送る。
「今夜の俺は、負ける気がしねぇよ!」
この夜、俺は一度もUNOで勝つことができなかった。結果的に、俺一人が罰ゲームに徹する形になった。焼酎を四杯飲んだところで瓶が空になったから、脱ぐしかなかった。素っ裸で酔っ払った俺を二人は大いに笑ってくれたのが、せめてもの救いだ。
夜も深まり、草木も眠る頃、アキとヒロは眠りについた。二人のよく似た寝息を聞きながら、ウイスキーのロックを嗜む。アルコールは躯と脳を火照らせるばかりで、ちっとも眠気が舞い降りて来ない。
―ケイにはこっちの世界がお似合いだよ―
アキの言葉が耳の奥で反響し、毒に犯された思考が剥がれ落ちていく。
―分かってるはずだぜ。どっちの世界が、ケイにとって居心地が良いのか―
嗚呼、そうさ。アキの言う通り、腐った頭でも答えはクリアだ。でも、こんな俺にも捨てられない約束があるんだ。それすら守れないなら、俺は死んだ方がマシなんだ。
眼はいつまでも冴えたままで、目蓋を閉じることはなかった。
太陽の訪れを知らせるように白い空に世界が包まれた時、俺はアキの言葉から逃げるように始発に飛び乗った。休日のせいか、車内は俺一人だ。このまま、天国まで連れて行ってくれたら、どれだけ幸せだろうか……。そんな一人よがりな妄想に取り憑かれたまま、電車に揺られる。灰色の空から放射される朝日が、やけに恨めしかった。
家に着き、シャワーを浴び、すべての思考を閉鎖するようにベッドに沈み込んだ。意識が夢の世界に旅立とうとしている時、微かに雨音が聞こえた。彼と約束を交わした日も、雨が降っていたっけなぁ……。あの日に戻りたい。せめて夢の中だけでも、何の不安も傷つける人間もいない幼き日に戻りたい。叶うはずもない願望を、狭い六畳半の白い宇宙に浮かべながら、眠りについた。
夢を見た。七歳ぐらいの背丈の俺は、母親と同じ匂いがする見知らぬ女に連れられて行った遊園地で、メリーゴーランドの前で得意気にマジックを披露していたピエロを、インチキだと指を刺しながら罵倒し、持っていた白い風船で殴り掛かった。道化師は悲鳴一つ上げず、無抵抗なまま無邪気な殺人者により嬲り殺した。凶器と化し、真紅に染まった真っ赤な風船は手を離すと、あっ気なく青空に吸い込まれていった。顔と手を赤く染めた俺は、ただ立ち尽くしたまま、自由に飛び立つ風船にさよならを告げた。
重く閉ざされた薄い膜を捲ると、細く黒いカーテンが視界を覆っていた。カーテンの隙間から、大好きな柔らかいオレンジ色の光が差してきた。夕方には雨が上がったようだ。
「……喉が乾いた」
唇を重ね合わせると皮が擦れ合い、かさかさと惨めな音を立てる。舌の表面を覆う襞が毛羽立っている。声を発するのが、やっとだ。躯は水分を失い、枯渇しているはずなのに、眼から一筋の川が流れた。蜘蛛の巣のように張り巡らされた黒いカーテンが涙に濡れ、せっかく届いた沈みゆく気高き希望の光は、闇に塗り潰されてしまった。
「いつもの、ある?」
「あるよ。……腫れてるけど、どうした?」
ドレッドヘアの男が刺青だらけの腕で、心配そうに眼を指差す。彼の指に装着された指輪が蛍光灯に反射して、鈍い光の矢を放つ。俺は光から逃避するように俯き、鼻を啜りながら笑った。店内に充満しているハーブの深く甘い匂いが鼻腔を刺激し、吐き気がする。
「何でもないよ。五本、頼めるかい? あと、あっちも五錠頼むよ」
「……それならいいんだ。ちょっと巻いてくるから、時間掛かるよ。その間に、吸う?」
男はパイプと火皿を差し出した。火皿には、一つまみ程ハーブが盛られている。
俺は首と手を横に振り、丁重にお断りした。今、こんな甘ったるい物を吸引したら、吐き気が止まらず、大惨事になるのは明白だ。
脳をトリップさせる媚薬を調合してもらっている間、手持ち無沙汰だったので、カウンターでタバコを吸おうとしたが、ライターが上手く着火しない。何度も親指を上下させていると、隣から揺らめく小さな炎を差し出された。顔を上げると、
「よお、久しぶり!」
優しくて懐かしい笑顔に遭遇した。その笑顔は何一つ色褪せることなく、美しい。
「久しぶりですね。ユウキさん」
軽く会釈し、遠慮なく火を拝借した。炎から、ユウキさんの香りがした。彼はZIPPOのウィックの先端に、自身の香水を数滴垂らすので、いつも炎からライオンハートの香りが微かに漂うのだ。甘く妖艶だが、不思議な爽やかさに包まれる香りは、ユウキさんそのものだ。
「また買いに来たのか?」
「ええ、まあ……。それよりも、ユウキさんはどうしてココに?」
「僕は、客と待ち合わせ。これからお仕事よ」
そう言うと、ジョイントを燻らせながらウインクをしてきた。ユウキさんの長い睫毛が、中性的で整った顔に影を落とす。彼は笑うと、そこら辺を闊歩する化粧で武装されたファンデーション臭い女性達よりも可愛く、兼ね備えた華奢な体躯、まるで妖精のように可憐だった。
「お勤めですか。ご苦労様です」
「好きでやってる仕事だから、ね。ただ、仕事が立ても混むと、椅子に座るのが難儀になるよ」
ユウキさんは肩を竦めながら、溜め息と煙を一緒に吐き出す。足を組みかえる動作が、心なしかぎこちない。
「ミント系のタブレットを患部に入れたら、いいらしいですよ。痛みが軽減しますよ」
「ケイ、嘘言うなよ! それをしたら、余計に悪化するばかりじゃなくて、新世界の扉を開く事になるだろうが! なんなら、ケイ君が新世界に飛び立ってみるかい?」
「勘弁してくださいよ!」
「でも、あれは便利だよね。フェラとか正直したくない客もいるからさ、あれを使うとさっさとイってくれるからいいよ。ケイ君は知らないと思うけど、結構顎が疲れるんだよ」
「そんな愛のないこと言わないで下さいよ。それを聞いちゃったら、お客さん達泣きますよ!」
二人で無邪気に笑い合う。ユウキさんとは、この店で偶然知り合った。何度か顔を合わせるうちに自然と打ち解け合い、今では二人で飲みに行くこともある。学校とバイト先以外でできた初めての友人だ。彼は昼間はデザイナーとして働き、時々、副業として男娼をしている。金目当てと言うよりも、仕事で溜まったストレス発散と性の開拓が目的らしい。どんなに極上の女よりも、好奇心に勝るものはない、がユウキさんの格言だ。
でも彼の事は、それ以上何も知らない。ユウキさんも、俺が余計な詮索を入れない人間だから、自分のテリトリーに侵入することを赦したんだと思う。
「あの、友達のシン君だっけ? 彼、ちゃんと生きてる?」
突然、ユウキさんが心配そうに訊いてきた。言葉とは裏腹に、彼の赤黒い色を帯びた大きな瞳に吸い込まれそうになり、俺は眼を逸らした。逃げ出した横顔に、ユウキさんの視線が痛いほど感じる。
「元気に生きていますよ。来週、野球を観に行く約束もしているんで、大丈夫ですよ」
俺は加速する鼓動を悟られまいと、明るい声で答えた。ユウキさんは俺の心を覗き込むように、じっと見つめていた。唾が嫌な音を奏でながら胃に流れ込む。
「――それならいいけど、あっちこっちの島にあんまり出入りしないように、忠告しておいてね」
ユウキさんは無邪気な笑みを浮かべ、真綿のように柔らかい声で警告してきた。でも、瞳は黒い炎が宿ったままだ。俺は彼の優しい圧力に押され、黙って俯き、タバコを吸う事しかできなかった。
「この前、ケイ君に見せてもらった彼の絵、凄く良かったし、危険な橋なんて渡らずに、自分で作った橋を渡って欲しいんだ」
以前、ユウキさんとサークルの話になり、シンがデザインしたビラを渡した事があった。ユウキさんは、彼の描いた金髪の女性に茨が絡みついた絵が非常に気に入り、シンの絵を高く評価してくれた。その事を興奮気味に彼に報告すると、現役のプロに褒められたのにも関わらず、ちっとも嬉しそうな顔をしなかった。ただ、「そうか」と静かな声で呟いただけだった。
「分かりました。シンには、頑丈で自分だけの橋を建設するように言っておきます」
俺の言葉に安堵したのか、ユウキさんが眼を細めた。短くなったタバコを押し潰していると、
「お客さん、できたよ」
カウンターから媚薬が完成した合図を送られた。財布から万札を五枚取り出し、薬を受け取る。
「いつもありがとうございます」
男はドレッドヘアを揺らしながら、丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございます」
彼につられて、俺も丁寧に礼を言い、ジョイントをタバコの箱に入れ、ジップ袋を財布に仕舞う。
「じゃあ、ユウキさん。俺、行きますね。また飲みに行きましょう。お尻の酷使は程々に」
「嗚呼、そろそろ軟膏も無くなるから、気をつけておくわ。今夜はオラオラ系の人だけど、俺がタチだから大丈夫よ。シン君の事、頼んだよ」
俺は下唇を軽く噛みながら頷き、店を後にした。店の甘ったるいお香の匂いが肺まで浸透し、再びタバコを吸っても消え去ってくれなかった。
雨の足跡が残る夕刻の街を当てもなく歩いていると、ユリコ先輩から電話が掛かってきた。どうやら俺に会いたいらしく、夜に家へ来る事になった。今夜は俺も一人になりたくなかったので、彼女の申し出を快諾した。
携帯電話をポケット入れると、生暖かく不気味な風に頬を撫でられた。冷たく、粘り気のある視線を背後に感じた。俺は怯えた眼で振り返ると、あの女がいた。この前と同様に漆黒の服で真っ赤な傘を差し、俺だけを見つめている。やはり、他の人間には見えていないようだ。でも、この前と少し顔つきが違っている。以前のように、彼女の眼は深い闇に繋がれてはいなかった。夕日に照らされた瞳は、小さな金色の星を宿していた。でも、光の届かない仄暗い海の中で、一人寂しく輝いているようにも思えた。
その瞳の秘密を知りたくて、咄嗟に女に声を掛けようとした刹那、肩を掴まれた。口を開いたまま振り返ると、
「ケイじゃないか! 偶然だな」
笑顔のシンがいた。俺は喉まで出ていた言葉を、泣く泣く飲み込んだ。飲み込んだはずの言葉達が、口内の水分を掻っ攫う。
「どうしたんだ?」
「……今、赤い傘を持った女を見なかったか?」
シンは鼻歌交じりに辺りを見回す。俺は喉の乾きが気になって仕方がなかった。
「否、見てねえよ」
やっぱり、な――。
「それより、暇なら飲みに行かないか? 今夜は俺の奢りだ。バイトで、特別報酬が貰えたんだ。財布が万札だけで、パンパンだぜ!」
ご機嫌な悪友は、大きく膨らんだ尻ポケットを軽快に叩いた。俺はそれが地獄の門をノックしているように聞こえ、眉を顰めた。アキとユウキさんの言葉が脳裏を掠める。でも、無邪気に笑うシンを見ていると、臆病者な自分は何も訊けなかった。
「残念だが、先約があってね。また今度、誘ってくれよ。今夜は、彼女のハルちゃんに相手してもらいなさい」
俺は精一杯の作り笑顔で応えた。シンに、心の声を悟られないように……。
「そうだな。たまには、ハルを高級イタリアンレストランにでも連れて行くか。って、今まで一度もそんな場所に連れて行ったことないけどな!」
相変わらず上機嫌な彼は笑いながら携帯電話を取り出し、ハルちゃんにメールを打ち始めた。俺は見えない荷物が肩から降りて、ほっとした。気がつくと、喉が限界まで渇いてきた。シンの腕には見分不相応なロレクスの時計が妖しく光っている。
「じゃあ、行くわ。ハルちゃんによろしくな」
「おう! ケイこそ、ユリコ先輩によろしくな!」
「なんで、分かったんだよ!」
俺は慌てて問い詰めると、シンは不敵な笑みだけを残し、さよならも言わずに街へと消えていった。
もう一度、周囲の世界を見渡したが、女はどこにもいなかった。とりあえず、コンビニでミネラルウォーターを買い、乾いた舌に滑り込ませた。腹の底から液体に満たされていくのを感じながら、雨の匂いを纏った女を思い出した。四角い地平線から放たれる眩い残光が、水が滴る口元を照らしていた。
半分に欠けた月が見下ろす部屋の片隅で、ユリコ先輩と絡み合った。まるで、誰の手も届かない深海を漂うクラゲみたいに影を重ねても、二人の心はすれ違っていく。何者にも邪魔されない二人の体液で形成された海にいるはずなのに、見えない大きな波にさらわれていく。どうすれば溶け合えるのか知りたくて、長い時間交わった。彼女が悲鳴を上げて懇願しても、手を、舌を、腰を離すことはしなかった。俺はただ、知りたかっただけなんだ。影すらも溶け合う世界を――。
結局、未知の世界を見つけられず、悪戯に汗をかいただけだった。ユリコ先輩は踊り疲れたのか、体液の海の上をゆったりと漂っている。
水分を補給するため、冷蔵庫からビールを二本取り出し、再びベッドに体を沈めた。息の荒いユリコ先輩の頬に、冷えた缶を当てる。彼女は虚ろな眼で俺を見上げ、力なく微笑み、ビールを受け取った。
「……ありがとう。この前、私が言った事を覚えていてくれたの?」
俺は静かに頷き、彼女の持っている缶のタブを引き、開けてあげた。賑やかに弾ける音が、部屋中を駆け巡る。
命の吹き上げる音が記憶の底で反響する。長い間海に潜り、海面で息を吹き返した時のことを思い出した。抑圧からの解放。俺はこの瞬間が堪らなく好きで、水に潜る時は必ず限界まで息を止め、生の衝動が襲って来た瞬間、水面に向って無我夢中で透明な階段を駆け上がる。無様に手足をバタつかせ、夏風の吹く世界に還り、体中で酸素を取り込む。収縮する心臓の圧力で、肺が軋む。苦しさと痛みと生への欲求の中で、心臓を加速させながら呼吸をすると、ちっぽけな自分の存在をリアルに確認することができた。母なる海と溶け合えなくても、太陽と潮の匂いが生きていると実感させてくれた。朦朧とした意識の奥に広がる霞んだ青空が、世界の終わりと始まりを讃えていた。
「嬉しい。ねえ、来週の水曜日会える?」
あの感覚が味わいたくて、息を止めて小金色の海に口先だけでも溺れてみようとしたが、ユリコ先輩の質問に思わず手が止まった。呼吸を止めたまま彼女を一瞥すると、タオルケットの繭で白い肌を包み、じっと俺を見つめていた。純白な繭から細い脚が伸び、悩ましげにくねらせる。卑しい唾が湧き上がり、喉を湿らせた。
「……その日は、友達と野球を観に行くから無理ですね」
「どうしても、ダメ? 少しの時間だけでも会いたいの」
「でも、ナイターが終わったら、シン達と飲みに行くかもしれないし……。なんでですか?」
ユリコ先輩は俯きながらビールを飲み、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「その日、私、誕生日なの」
そう遠慮がちに言った。そうだったのか……。彼女の潤んだ眼は、まるで迷子になった小さい女の子のように寂しげだった。
「分かりました。じゃあ、ナイターが終わったらメールします。高級イタリアンとかは無理ですが、飯でも食いに行きましょう」
ユリコ先輩は頬を緩ませ、嬉しそうに頷いた。俺は彼女の機嫌なんて興味なさそうに、タバコに火を点ける。先端から細い煙が立ち上った瞬間、小さな灯が消え、無様に焦げた黒点だけが彼女を眺めていた。
爽やかな夏のそよ風に誘われて目を覚ますと、ユリコ先輩の姿はなかった。太陽は既に高く昇り、眩い光が薄く開いた目蓋を照らす。
汗と体液で湿ったベッドから躯を起こし、洗面台で顔を洗い、歯を磨く。乾いて、粘ついた口内に、爽快なミントの香りが広がっていく。まじまじと鏡を覗くと、彼女の花弁が首筋に三枚刻まれていた。右に一枚、左に二枚。そういえば、ユリコ先輩に開けたピアスは、順調に成長しているのだろうか? ふっと寝ぼけた頭に過ぎったが、それよりも刻み付けられた花弁を隠す方法を思案する方が先だ。
タオルで顔を拭き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。偏狭な空はデジタルの太陽しかいなくて、夕焼け色に包まれた世界だけが存在することを赦されていた。でもなぜか、俺はいつも心惹かれている。冷蔵庫を閉じると、そんな俺の淡い願望を拒絶するように機械が低い唸り声を上げた。
「……喉が渇いただけだよ」
タバコを探してテーブルを一瞥すると、ひっそりと横たわる置手紙。ミネラルウォーターを飲みながら彼女の過去からの声を読むと、どうやらバイトがあるので帰ったようだ。
熱を帯びた汗が頬を伝い、薄紅色の手紙に落下した。美麗な文字が、汚い汗でどんどん滲んでいく。また汗が頬を伝う感覚が襲ってきたので、急いで手紙を丸めてゴミ箱へ投げ捨てた。手紙はゴミ箱の淵で跳ね返り、乾いた音と共に床に引き込まれた。その瞬間、顎から汗が滴り落ちた。
沈んだ気分を払拭させようとタバコに火を点けると、携帯電話が甲高く鳴き始めた。胸中で舌打ちをし、画面を見ると、呼び出し人はシンだ。
「もしもーし! ケイ?」
「そうだよ。他に、誰が出るんだよ」
「そうだよな! ごめん、ごめん。今、大丈夫か?」
「嗚呼。なんか用か?」
「アレが無くなったから、また譲ってくんないかな? もちろん、金は払うよ」
俺は煙を吐き、タバコの箱を覗くと、ジョイントが五本入っていた。まだ、一本もキメていなかった。
「――五本しか、手元にないけどいいか?」
「十分だよ! いくらだ?」
「金はいらねぇよ。その代わりに、またビールを奢ってくれよ。……それよりも、最近ペース早くないか?」
「……そんな事ねえよ。じゃあ、三時にスターライトカフェで待ってるわ!」
「あっ、ちょっ、シン!」
彼は俺の問いに答えることなく、一方的に電波を切断した。無機質な電子音が、耳の奥でこだまする。電話をテーブルに軽く投げ、頭を掻きながらタバコを灰皿に押し付けた。釈然としない気分を引きずったまま立ち上がり、クローゼットに着替えを取りに行くと、歪で尖った球体を踏み潰した。足を上げると、綺麗な薄紅色の紙がだらしなく横臥していた。
午後三時ぴったりにスターライトカフェに赴き、テラスでアイスコーヒーを飲みながらタバコを燻らせる。予想通り、悪友は遅れているようだ。例のごとく、連絡はない。
頬杖をつき、碧空を仰ぐ。積み上げられたコンクリートの壁の隙間から舞う強い日差し。風が一つだけ連れ忘れた入道雲。むせ返るアスファルトの焼けた匂い。歌い過ぎて錆付いた蝉の声。行き交う人々の髪を揺らす夏風。プラスティクに囲まれた黒い海を優雅に漂う氷。すべての命が煌き、街は鮮やかな原色に溢れていた。
でも、どうしてこんなに色褪せて見えるのだろう。夏の景色も、色も、風景も、匂いも昔と何一つ変わってなどいないのに……。
「お待たせ」
アイスカフェラテを手に、何事もなかったかのようにシンが笑顔で現れた。待たされるのは、小学校の頃から俺の専売特許だ。
「お待たせ、じゃないよ。可愛く言ってもダメ。今回は赦さないよ!」
「マジで!」
「嘘だよ。君が遅れてくることは、想定の範囲内だから、気にしてねえよ」
「ありがとう。でも、懐かしい流行語使うな」
俺はタバコに火を点けながら、うるせぇよ、と憎まれ口を叩く。シンもくすりと笑い、タバコに火を点けた。二人分の煙が空に舞い上がり、澄み切った青空に舞い上がっていく。
タバコの箱からジョイントを取り出し、シンに渡す。彼はタバコを咥えたまま、サンキュー、と礼を言い、ラッキーストライクの箱の中にしまった。
「ここでは吸うなよ。まだ昼間だし、健全な青少年が大勢居るんだからな」
「分かってるよ。――あっちはないのか?」
シンが俺の顔色を伺いながら、親指と人差し指で丸を作る。俺は大きく煙を吐き、タバコの灰を落とした。
「あっちは買ってないんだ。俺が行った時、ちょうど品切れで買えなかったんだ。悪いな」
「そうか……。なら、しょうがねえや!」
シンは笑顔とは裏腹に、露骨に肩を落とす。タバコを消し、汗をかいたアイスコーヒーに手を伸ばす。暑さのせいで大半の氷は溶け、味が薄くなっていた。
「それよりも、来週の水曜日、ナイター行かないか? アキが親父さんからチケットを貰ったらしく、カネダも来る予定なんだ。シンも行こうぜ!」
「その日はバイトも無いし、暇だから行けるぜ。でも、ケイの方が大丈夫なのか?」
タバコの火を消しながら、シンが訝しげに俺の顔を覗き込む。俺は心配される覚えがなく、首を傾げた。
「なんで?」
「『なんで?』ってお前、来週の水曜日って言ったら、ユリコ先輩の誕生日じゃん」
「あっ! すっかり忘れてた……。ナイターが終わってから、飯を食いに行く予定だから、たぶん大丈夫だよ。シンの方が、先輩に関する情報が豊富だな」
「実は一年の頃、先輩を狙ってたから、誕生日ぐらいリサーチ済みなのよ。その調子じゃあ、彼女にプレゼントを買ってないな。今から買いに行くか?」
「痛い所を突くなよ。プレゼント、ねえ。でも、金無いしな……」
空を見上げると、一人ぼっちだった雲に仲間が集まり、青空を塗り潰そうとしている。純白な侵略者が孤独な太陽にも手を掛け、無垢な影を地上に落とす。
「いい仕事、紹介してやろうか?」
影の濃度が増し、タバコの残り香がやけに鼻につく。しかし、シンの瞳は不埒な光を放ち、その存在は闇の中でいっそう際立っていた。
「いいよ。俺には、身が持たなさそうだから」
毒を含んだ紫煙の香りと彼の視線から逃げ出すように、鼻を啜り、苦味の角が削れたアイスコーヒーを一気に流し込んだ。それでもコーヒーとタバコの苦味が入り混じり、嫌な唾液が舌に纏わりついたままだった。
「今の仕事が成功したら、大金が入るんだ。そしたら、俺を虫けら扱いし、馬鹿にしてきたアイツらを見返すことができる。地位も名誉も財産も家族も、全部奪って壊してやるんだ。母さんから全てを奪った奴らから、今度はすべて奪い尽くすんだ。二度と這い上がれないように。その為なら、俺は何だってするぜ!」
彼は光を宿らせたまま、影に支配された世界で冷血な笑みを浮かべていた。俺は唾を吐き出したい衝動を打ち消したくて、あえて唾を飲み込んだ。太陽も雲に飲み込まれたままだ。
「……あんま無茶すんなよ」
太陽は雲の中で砕け散り、白い光の粒だけが降り注いでいた。影は変わらず其処にいた。
スターライトカフェを後にし、シンの忠告通り、ユリコ先輩のお誕生日プレゼントと言う名の、姫への貢ぎ物を買いに行くことにした。三越に行くか迷ったが、カフェから一番近場の阪急百貨店に赴くことになった。洋服でもアクセサリーでもバックでも、女が好きそうな物が所狭しと溢れていて、何でも揃っているデパートがプレゼントを選ぶ場所としては最適だ。
一階がアクセサー売り場になっており、手を繋いだカップルや俺と同じ目的の男性達が、店員と談笑しつつも真剣にショウケースを眺めている。
適当にフロアをぶらついていると、黒いスーツを優美に着こなす店員に声を掛けられた。店の名は『misty』。当たり前だが、初めて聞く名前だ。
「何か、お探しですか?」
一瞬、声が出なくなった。如何せんノープランでやって来たので、突然女性の店員に問いかけられても、何一つ言葉が思い浮かばない。
「プ、プレゼンを買いに……。なあ、シン君。どれがいいかな?」
隣で店員の胸元を凝視しているシンに、助け舟を求めた。
「どうした?」
「なっ、何でもねえよ! そんなに悩むくらいなら、ユリコ先輩に何が欲しいか、訊けばいいじゃないか」
慌てふためく彼を見ながら、こんな薄情な友人に訊いた自分に後悔した。また悪い病気が発症したな……。
「そんな季節外れのサンタクロースじゃあるまいし、そう易々と訊けないよ。それに、予定調和な贈り物なんて、つまらないじゃないか」
俺はショウケースに綺麗に並べられたピアスを手に取る。シンプルなリングタイプで、静かな海に打ち寄せる波のように美しく滑らかな流曲線を描いている。大人の女性を想起させるデザインだが、黒い海の中で揺れる銀の輪をした波は遊び心があり、ユリコ先輩に似合うと思った。
さっきまで店員の胸元をイカガワシイ眼つきで覗き込んでいたシンが、ピアスを食い入るように見つめていた。
「発言はご立派なほどイケメンだが、そんな味気ないデザインなら、イカリングを耳からぶら下げた方がマシだぜ。誰とも被らないし、何より非常食にもなるし、実用的だ」
彼の辛辣な評価に、その場は凍りつき、店員は頬を引き攣らせた。ピアスを持ち上げると、輪の中に蛍光灯の柔らかいオレンジ色の光が入り、波に身を委ねながら海の中から夕日を眺めているようだった。
「――でも、イカ臭い女は嫌だろう?」
俺の答えにシンが面を食らった顔をしたが、次の瞬間には頬を緩ませ、腹を抱えて笑い出した。
「確かに、そうだな。そんな女、何一つそそらねぇや!」
綺麗な子袋を提げながら阪急百貨店を出ると、街は琥珀色の海に沈んでいた。ビルも車も人も空も、みんな同じ光に照らされている。
結局、あのピアスを贈ることにした。最後はシンも賛成してくれたし、ユリコ先輩がたとえ気に入らなくても、俺は満足だ。
「あの店員、絶対隠れ巨乳だぜ。スーツのボタンが悲鳴を上げてたもん。あれは、少なく見積もってもFはあるな」
二人で肩を並べて駅に向かいながら、シンは観察結果を得意げに報告してきた。茜空に包まれた頃に吹く風に、少しだけ曼珠沙華の萌芽の鼓動と明日の匂いがした。
「相変わらず、透視能力には長けてるよな。まあ、おっぱいに限った事だけど」
「おっぱいには、男の夢とお宝が詰まっているんだ。男なら誰しも一度は、トレジャーハンターに憧れたもんだ。俺は今でも、宝探しをしているだけよ。夢は失いたくないもんだ」
「お前の夢は、男の夢が詰まった理想の乳を探し出すことなのか?」
「その通り! ホープダイヤモンド並みの夢が最低条件だな。ケイ、お前には分かるはずだぜ。この浪漫の意味が」
「分かんねーよ!」
馬鹿げた会話を繰り広げながら、二人で肩を揺らして笑い合った。夕日に照らされたシンの笑顔を見ていると、あの頃と何一つ変わらない優しい笑みを浮かべていた。両頬に作られた笑窪も、そのままだ。
翼を広げた鴉が急降下しながら、甲高く嫌な啼き声を発している。二人の間に影を落とす。涼しげな風とは違う、冷たくて湿り気を帯びた長い指に背中を触れられた気がした。振り返ると、またあの女がひっそりと佇んでいた。やはり、夕焼けよりも真紅な傘を差している。彼女の眼差しは綺麗な七色をしているのに、暗闇の中を孤独に漂っている。あの時と同じだ。女がゆっくりと、柘榴色の唇を動かす。何かを呟いているように見えるが、唇の動きだけでは分かるはずがない。
「どうした?」
シンの声にはっとした。振り返り、数歩先にいる彼の顔を見上げるが、上手く焦点が定まらない。酷く怯えた眼が、シンの顔を歪ませる。あの言葉はもしかして――。
「今、後ろにいた女を見たか?」
「否、見てねぇよ。お前が女に気を取られるなんて、珍しいなあ。そんなにいい女でもいたのか? お前もトレジャーハンターとしての、血が騒いだのか?」
シンが俺を茶化すように、だらしない笑みを浮かべる。どうやら、女はいなくなってしまったようだ。
「そんな良いもんじゃねえよ。何なんだ、あの女。この間から、チラチラ視界に侵入してきやがって。胸糞悪いぜ!」
俺は得体の知れない恐怖と不吉な予感のせいで感情をセーブすることができず、聞き分けのない子供のように声を荒げた。あの女、どうして知っているんだ? そして、どこか不安定なあの眼の色は―。
「お~、怖っ。でも、本当に珍しいよな。ケイが女の事で、感情が揺さぶられるなんて」
「あの女、似てるんだよ……」
「誰に?」
「……俺だ。言葉じゃあ上手く表現できないけど、どことなく似てるんだよ。あの女と俺は――」
「お前、正気か? とうとう薬が、頭の隅々まで廻ったか。いい病院紹介してやろうか?」
それ以上何も答えなかった。確かに可笑しな話だ。実態もない女に、自分が似ているなんて、誰が信じるかよ。同じ事をシンが言っても、俺は信じないと思う。でも、他に説明のしようがないんだ。
空に瑠璃色の幕が垂れてきた。鴉の影が、二人を包むことはなかった。
電車の轟音が、暑くなった鼓膜を叩く。汗が額を占拠し、長くなってきた前髪に張り付く。行きがけに買ってきたペットボトルの水はすでに空になり、自販機で新しいペットボトルを買った。冷えた水が、乾いた舌の上で踊り出す。でも、今一番飲みたいのは、脳みそが凍りつくほどキンキンに冷えたビールだ。それをくっきりと想い描きながら、下唇を噛む。
駅の改札口から、すでにユニホームを着た親子やカップル達が興奮気味に通り過ぎて行く。
「遅っせーな、シンの奴!」
カネダが苛立ちを隠せず、思わず舌打ちをした。時刻は、すでに午後六時二十分を過ぎている。待ち合わせ時間から二十分以上経過し、おまけにもうすぐでプレイボールだ。俺とアキは別段焦る様子はないが、カネダはきっちりとした性格なので、当初の計画が狂うのを大変嫌う。カネダの性格を重々承知しているので、彼と遊びに行く時、俺とアキは遅刻だけは絶対にしないのだ。その分、遊びに行くと決まれば、集合場所や時刻を決め、皆に連絡してくれる。
でも、カネダのようにリーダーシップが要求される役割を担う人間がいるからこそ、この四人は絶妙なバランスを保ちながら、ツルむことができるのだ。
携帯電話でメールの問い合わせをしたが、シンからの連絡はない。
「アキとカネダは、先に行って、席を取っててくれないか? たしか、内野自由席だったろ?」
俺は携帯電話をポケットに押し込みながら、二人に提案した。カネダとアキが不安げに眼を合わせる。ユニホームに身を包んだカップルが、手を繋ぎながら目の前を走り去る。女から、恋する乙女の甘い香りがした。
「ほら、もうすぐ試合が始まる。席がなかったら、悲惨だぜ。特に腰痛持ちの俺には、ちとキツいから、席を頼むよ」
カネダの肩を軽く叩くと、筋肉質で引き締まった健康的な男の躯だった。すでに枯れ始めている俺とは大違いだ。
「でも……、ケイ一人にしていいのか?」
「なあに、そろそろ御出でなさるよ。シンが社長出勤なのは、小学校の頃から変わらねぇよ。でも、どんなことがあろうと必ずアイツは来るから、俺はいつも信じて待ってるんだ。だから、俺のことは気にせず、先に行っててくれよ」
心配そうな二人に、穏やかに笑いかける。俺の気持ちが伝わったのか、カネダがふっと笑みを溢す。
「そりゃあ、筋金入りだな。お言葉に甘えて、シンの事はケイに任せて、俺達は席を確保しに行こうぜ!」
カネダの力強い言葉に、アキが首を縦に振る。その顔に、不安と戸惑いはなかった。
「シンが来たら、すぐに走って行くから」
「じゃあ、球場に着いたらメールするよ。あと、先に二人のチケット渡しとくわ。これがないと、ゲートが潜れないよ」
アキからチケットを受け取り、一足先に球場へ向う二人にひらひらと手を振る。シンとアキからのメールを待ち侘びながら、すでに生温くなった水で乾いた喉を潤す。
「暑っちーな……」
思わず言葉が零れた。まだまだ夕日は鋭い光を放っているが、髪を揺らす風は緩やかに流れ始めている。もう、夏の終わりの足音が聞こえていた。
蝉が最後に見る夢に思いを馳せながら、そっと空に視線を漂わせていると、ふらりとシンが現れた。改札口から走っている人間もいるのに、この男は遅刻しているにも関わらず優雅にゆっくりと歩み寄ってきた。
「お待たせ。あれ、ケイだけなのか? アキとカネダは?」
「お出迎えが、俺一人で悪かったな。二人は先に行ったよ」
「いつも悪りぃな」
彼は頭を掻きながら、眼の下に皺を寄せて微笑む。相変わらず、悪びれた様子一つない笑顔。俺も少しだけ唇を引き上げ、うっすらと笑顔を浮かべた。
「――昔、約束しただろう。ずっと一緒だ、て」
海沿いに建設された球場から波の音は聞こえないが、微かに潮の香りがした。俺達が球場に到着した頃、アキからメールが送られてきた。彼の指定するゲート番号を潜ると、俺達を歓迎するように二人がビールを片手に手を振っていた。
「遅くなって、すまなかったよ。二人とも、ありがとな。なかなかいい席じゃん!」
腰を降ろすと、球場を一望でき、邪魔なポールもなく、なかなかの良席だ。アキが得意気に鼻を鳴らす。さすが、野球フリークだ。なぜか、シンは落ち着きなく辺りを見回している。
「遅せーよ、シン!」
カネダが、わざとらしく高圧的にシンに言い寄る。彼の威嚇など物ともせず、シンはお目当ての人物が見つかり、大きく手を振る。視線の先には、ビールサーバーを背負い、派手な蛍光色の制服に身を包んだ売り子さんがいた。
「すみませーん! ビール二つ下さい。ケイも飲むよな?」
「人の話を聞けよ!」
二人の遣り取りに、俺とアキが柔らかな笑みを溢す。この会話の展開は、毎回お約束だ。叱責するカネダは、何時だってシンに軽くあしらわれるのだ。
「悪い、悪い。昨日、深夜まで働いてたから、起きられなくて。皆、ごめんな」
両手を合わせ、シンは悪戯っぽい笑みで謝罪した。カネダも「しょーがねえな」とだけ言い、嬉しそうにビールを流し込んだ。彼の笑顔は不思議な力がある。どんなに悪い事をしても、何故か憎めないのだ。だから、昔から立場や性別に関係なく人々に好かれる。まったく、得な性分だぜ。
「お待たせしました。生ビール二つです」
シンにビール代を渡そうと財布を開いた瞬間、彼の綺麗な指が覆いかぶさってきた。
「ビール奢る約束だろう?」
「すっかり忘れてたよ。じゃあ、奢られようかな」
彼は威勢良く「おう」と言い、千円札を売り子さんに手渡す。
「あの……、二つで千四百円なんですけど……」
彼女は千円札を握り締めたまま、困ったように笑みを浮かべる。俺はいつかのデジャヴに、腹を抱えて笑った。
「ケイ、笑い過ぎだってーの!」
不足額を払いながら、シンは顔を赤くして恥ずかしげに言った。太陽が置き去りにした切なさが満ちた空に、弾んだ声が楽しげに舞い上がった。
四人で、あらためて乾杯をした。クリーミーな泡と麦芽の苦味がマッチし、喉を心地良く締め付ける。零れ落ちる溜め息すら美味かった。
夕闇が迫る中、眼下に広がるスタジアムは眩いライトに照らされ、まるで異空間のように浮いていた。本当は、自分達の方が地上にいないのに、浮遊する島を上から覗いている気がした。見上げると、空は何物にも切り取られることなく、黄昏は果てしなく続いていた。心地の良い涼風が、頬を優しく愛撫する。
電子掲示板を見ると、点数は五回までで二対三、両チームともフォアボールがなく、悪くない試合内容だ。
「なかなかいい試合だな」
「投手の力量は同等だから、打線がどこまで繋げるかが勝負だな。デカイ一発を狙うより、地道に塁に出て、点を重ねていった方が、早くピッチャーを引き摺り降ろせる。時間と根気と気力の継続が必要だが、最善の戦略だと思うな」
アキがどこぞの野球解説者ばりに、試合の行方を予見する。
「確かに、この試合は両チームともエース同士の対決だから、先にピッチャーがマウンドを降りた方は負けるかもな。それよりも、あのマスコット可愛くない? ストラップ売ってるかな?」
カネダはアキに同調しつつも、チームのマスコットキャラに心を奪われていた。
「おい、カネダ! マスコットなんてド貧乳よりも、あのチアガールのおっぱい、超デカイぞ! カリナンⅠ世並だ」
シンはお得意のよく分からない例えを駆使しつつ、いつものように男の夢を追いかけている。
同じ空間で、同じものを見ているはずなのに、三人の向いている方向がてんでばらばらなのが可笑しくて、俺は肩を揺らす。それでも、四人の間に吹く夜風と紙コップ入りのビールは、同じ温度を有していた。
「夕方から雨が降る予報だったけど、天気持ちそうだな」
応援グッズのメガホンを軽快に鳴らしながら、カネダが言った。ライトに照らされた彼の顔は、頬がほんのり赤みを帯びている。四人で藍色に垂れ込んだ空を見上げた。星に欠片が瞬き、優しくウインクする。太陽に憧れる細い月に見守られながら、球場の歓声が舞い踊る。雨の匂いはしない。
七回の攻撃前にカネダとアキがトイレに行くと言い、席を外した。俺とシンは席を見張る為、その場に残った。このイニングが終われば、応援合戦だ。
「早く戻って来いよ!」
二人は威勢よく任せろと言い、ゲートに吸い込まれて行った。夜風は涼しくなってきたとは言え、まだまだ気温は高い。それなのに、シンは長袖を着用していた。もしかして……。
「そういえば、タトゥーは完成したのか?」
「否、まだだ。この前、筋だけ彫ってもらったから、今度色を入れるんだ」
「そうか……。長袖を着ているから、もう完成したと思ったよ。まあ、出来上がったら、俺にも見せてくれよ。お前だけの新しい羽を」
シンは明るい声で「おう」と言い、ビールを飲んだ。しかしその表情は、どこか萎れていた。いつの間にか、月のか細い光も空に散りばめられた宝石も、分厚い雲にさらわれていた。風に紛れて、ほんのりと鉛のように重苦しい湿った匂いがした。
「――ケイは卒業したら、どうするんだ?」
突然名前を呼ばれ、驚きながら横を見る。シンは曇った瞳のまま、グラウンドを眺めていた。一塁と三塁にランナーを背負うエースピッチャー。まだ1アウト。ピンチであり、勝負の瞬間だ。
「相変わらず、話が唐突だよな。さあ? まだ、何も決めてねえや。今のところ、就きたい職業もないから、就活の時にやらされる適性職業診断ってやつで、一番向いている職業にするわ。成りたい職業と、成れる職業は違うからな。今のご時勢、夢ばかり追いかけても、お飯食い上げられるだけだ」
三番バッター、フォークの空振り三振。2アウト。本当の勝負が始まる。
「そうか? ケイなら、なんにでもなれるよ。小学校の時の文集で、時空を自由に往来できて空を飛ぶ自動車が作りたい、て書いたの覚えてるか? あの時、ケイなら造れると思ったよ。だって、ケイの想像力と器用さがあれば、何でも造れるよ。本当は心のどこかで、今でもそう思っているんだろう? だから、工学部を選んだはずだ。そうだろう?」
「どうだろう、なぁ……。あんまり昔の事だから、覚えてねえや。その夢、完全に映画の影響だしな。大学は、シンと同じ学校に行きたかった。ただ、それだけだ。小学校の文集ねえ。そういえば小学生の時、シンとキャッチボールをしたのを思い出すよ。シンの球は速くてキレが良いから、いつもグローブからボールが逃げて行ったよ。それを追いかけるだけで、俺はヘトヘトだった。もう、あの頃には戻れないのかな……?」
夢中になって追いかけた白球。どんなに手を伸ばして届かない高い青空。巨大な入道雲。懐かしい夏草の匂いが、濃密になり始めた雨の香りに入り混じる。
「たとえ戻れなくても、まだまだ子供だよ。お前も俺も、な。何一つ、変わってなんかいない。それに、俺は見てみたい。車が自由に空を飛ぶ世界を」
シンの柔和な笑顔で、俺の胸を燻る不安は払拭された。彼の変わらない笑顔に、幼き日の自分を重ねた。
大きな歓声と落胆の悲鳴がスタジアムを揺らす。四番バッター、ストレートの見逃し三振。ピッチャーの気迫勝ちだ。
「よかった、間に合って!」
カネダとアキが、グッドタイミングで戻ってきた。
「今から、二人がお待ちかねの応援合戦だぜ」
二人はメガホンを打ち鳴らしながら、大声で応援歌を熱唱していた。俺とシンは、一心不乱にジェット風船を膨らます。久しぶりに風船に空気を入れるので、思った以上に手間取ってしまった。シンも同じく、悪戦苦闘していた。二人でジョット風船を歌に合わせて上下させていると、
「年は取りたくないな!」
シンが苦しそうに笑った。俺も乱れた呼吸を整えながら、口角を引き上げた。
一斉に真っ赤な流星が、歓喜の雄叫びを上げながら夜空を駆け上がる。短い命を燃やし尽くすと、だらしのない残骸達が落下してきた。真っ赤な星屑が降る空の向こうで蠢く雲の不穏な動きに、場内の誰もが気づき始めた。太陽と別れを告げるまで、あれほど晴れていたのに……。
そして赤い星屑は、雲に幽閉された星たちの嘆きの涙に姿を変えた。さめざめと涙を流すことなく、怒りと哀しみに支配されたように激しく降る雨が地面を叩きつける。肌を抉るように降り注ぐ雨。視界は完全に白く霞み、眼を開く事も赦されない。
すぐに試合は続行不可能になり、八回の表でコールドゲームになってしまった。皆、雨から逃げるようにゲートに向って走る。濡れた躯を引き摺りながら、口々にゲリラ豪雨に対して文句を垂れる。カネダとアキとシンも同じだ。それでも俺は、ライトが反射する白濁した空から無数に降る涙に心奪われ、とても綺麗だと思った。
駅に到着すると、嘘のように雨は止み、細い月が顔を覗かせた。星々は寂しがり屋の雲に、まだ枷を繋がれたままだ。
夜の気温が高い時期とはいえども、肌にべっとりと張り付く髪や服は気持ちが良いものではない。濡れた躯を乾かしたくて、俺達は近くの大衆居酒屋チェーン店に入った。本音は酒が飲み足りなくて、アルコールを摂取したかっただけだ。
居酒屋でたらふく酒と飯を食らい、その後は、定番の朝までカラオケコースだった。カネダは大好きなB’zばかり歌い、アキはジャンル関係なく流行のJポップ、シンは歌詞の大半が英語なジャパニーズロックの歌、俺は場が盛り上がる曲ばかり歌った。ここでも趣味はバラバラだ。それでも楽しいと思えるのは、この四人は互いの趣味や性格を絶対に否定しないからだ。他人に興味がない訳ではない。個人の生き方を認め合っているのだ。だから、いくら思想や趣向が違っても、こいつ等と居るのが楽しくて仕方がないのだ。
一晩中馬鹿騒ぎをして、汗と雨の臭気を漂わせながら家に帰ると、即座にベッドへ倒れこんだ。風呂に入る気力すら、夜の街に置いてきてしまった。
記憶を取り戻すと、真夏の日差しが震える目蓋を抉じ開ける。水気とアルコールで膨張した躯を起こし、携帯電話を開くと、時刻は二時を表示していた。着信とメールが一件ずつ。どちらもユリコ先輩だ。
「……しまった!」
情けないほどしゃがれた声が、部屋を飛び回る。部屋の片隅に、綺麗で小さな子袋が遠慮がちにこちらを見つめていた。その寂しげな姿が、歪んだメロディーを奏でている心臓に突き刺さった。
日が沈む頃、ユリコ先輩にお詫びと言い訳の連絡をした。彼女は何も言わず、ワインが飲みたい、とだけ言った。ご希望通り、ワインの種類が豊富に揃っているイタリアンレストランで食事をすることになった。
約束を破った俺を責めることも、罵倒することもせず、彼女は何事もなかったかのように、それまでと変わらず優しかった。プレゼントも無事に渡すことができ、ユリコ先輩も気に入ってくれた。ピアスも順調に成長しているようで、あと二週間も経てば銀色の波を揺らしながら街を闊歩できるだろう。
家に到着するなり、ユリコ先輩に眼を閉じる隙も与えないほど、激しく唇を重ねた。今夜の彼女の肌は一段と滑らかで、大胆で、溢れ出す声を抑制することなく猛っていた。柔らかく快楽と狂気が入り混じる花園を探り合い、貪り、躯の秘奥まで感じ合えた。ユリコ先輩の花の蜜を味わい、欲望で汚れた棘を刺す。駆け上がる衝動に身を委ねると、彼女は紅潮する顔を手で覆い、甘美な悲鳴を上げた。その手を無理矢理剥ぎ取り、乱暴に舌を絡める。苦しそうにもがきながらも舌を這わせ続ける健気な彼女に、正気が保てなくなる。理性をかなぐり捨て、毒が弾けた時、二人で白い海に溺れた。
互いの体液と唾液でべとついた躯を離すと、ユリコ先輩の瞳は影だけが存在を赦された黒い空洞のようだった。その眼に捕らえられた瞬間、彼女は力なく頬を引き上げた。
ベッドの中でビールを飲みながら、取り留めのない話をした。昨日の野球の事、今度のデートの事、彼女の飼っている猫の事、学校の事―。
「ねえ、シン君大丈夫なの? かなり危ない橋を渡ってるて、サークルの中でも噂になってるよ」
ビールをテーブルに置き、タバコに火に手を伸ばす。ライターの調子が悪く、上下に振っていると、ユリコ先輩が膝に擦り寄ってきた。万が一、彼女に灰がかかってはいけないと思い、顔を横に向けて火を点けた。ゆっくりと煙を吐くと、ユリコ先輩は紫煙を拒むようにタオルケットに顔を埋めた。
「大丈夫ですよ。シンは石橋を叩き割るまで叩いてから、橋を渡るから」
「……それって、橋、砕け散ってるよね。向こう岸に渡れないよ」
「それぐらい慎重な男ってことですよ! 橋が崩壊したら、飛び越えればいいんだよ。アイツの脚力は、ボルトも真っ青だぜ!」
俺の幼稚な弁解に、ユリコ先輩は愉快な笑顔のままビールを飲む。
「まあ、親友のケイ君が言うなら大丈夫でしょう。安心した」
「……そんなんじゃないですよ。ただの腐れ縁ですよ」
溶けない灰の雪が、人工の木が敷き詰められた大地に降り落ちた。それからも、だらだらと雑談を続けていると、小さな寝息が聞こえてきた。俺の膝の上で、彼女は幸せそうに眠っていた。
雲の切れ目から、三日月が顔を覗かせた。先ほどまで恥ずかしがって、姿を見せなかったのに……。眠り姫が兎の宇宙船に乗って、甘い蜜が滴る月へ行く夢を見たから、雲を追い払って月が出迎えに来たのかもしれない。そんな甘すぎる飴のような妄想をしている自分が可笑しくて、卑屈な笑みとビールを一気に躯へ流し込んだ。
酔いが廻った頭で、ユリコ先輩の艶やかな黒髪を撫でる。本能の海を潜った余韻なのか、微かに湿っていた。彼女の匂いが付着した手を、寝ている躯に擦りつける。ユリコ先輩は、幸せな旅に出かけたままだ。
雲のゲートが閉まり、三日月は身を隠してしまった。星の欠片も見えない。金色に滲んだ雲だけが、薄情な俺を浮かび上がらせる。どんなに取り繕っても、駄目なんだ。今日だってユリコ先輩の喜ぶ顔が見たかったからじゃなくて、しち面倒くさい罪悪感から逃れたかったから、彼女を抱いた。胸に圧し掛かる煩わしい鉛の重さの分だけ、強く抱きしめた。自分が救われたくて、贖罪したかっただけなんだ。どこまでいっても俺は、そういう男にしかなれないのか?
積もらせた答えのない問いを振り払いたくて、ジョイントを咥えた。粘膜にコーティングされた指から、彼女のトロリと甘い蜜の香りがした。
それからしばらくは穏やかな日々が流れた。適当にユリコ先輩とデートをし、お呼びがかかれば友人達と飲みに行き、完全に店主の趣味で経営している暇なアクセサリー屋でバイトし、気が向いたらジョイントを燻らせる。そんな緩やかな日々に、俺は満足していた。良い事も悪い事も起こらない凪のような生活。ただ、夏も次の国に行く支度を始めた頃なのに、日に日に喉の乾く間隔が短くなっていった。常に、飲み物を持ち歩かないと落ち着かない。治ったと思ってもすぐにぶり返す、立ちの悪い風邪にかかったようだ。
原因不明の病に蝕まれる日々を送っていたある日のバイト終わりに、何気なくレンタルビデオショップに寄った。特に借りたいCDもDVDもなかったが、なぜか足が店に向いたのだ。最近、めっきり映画を観ていないし、今夜は予定が何もないから、いい暇潰しになる。
空が夕陽を受け入れる頃、巨大な駐車場を見て目を見張った。盆も過ぎ、夏休みも終わりに近付いているせいか、百台は優に停められる駐車場には多くの車がお行儀良く並んでいた。
店内では、たくさんの小さな子供がお気に召したDVDを抱えて、元気いっぱい走り回っている。両親達の顔は、疲労の影が色濃く出ていた。夏休みのせいで、大人達は体力と気力を限界まで彼らに吸い取られてしまったようだ。今夜は大人しくDVDを鑑賞してもらい、寝落ちしてもらう魂胆なのだろうか。
はしゃぐ子供達を掻き分けながら、迷路のような陳列棚を当てもなく彷徨う。ぐるぐる、ぐるぐる何度も同じ範囲を行ったり来たり。気になる作品のパッケージを手に取り、ストーリーを読むのだが、どうも食指が動く映画がない。
「ママ、あったよ! これ、これが観たいの!」
隣にいた小さな男の子が、爪先立ちでDVDを取ろうとする。しかし、無情にも彼の身長では、お目当てのDVDは取れそうにない。子供の声に気がついた母親が、奥の棚から必死の形相で走ってきた。どうやら、縦横無尽に駆け回る彼を探し回っていたようだ。
「これ、これ!」
子供は唇を尖らせ、一生懸命小さな指を伸ばす。彼の指先を辿ると、誰もが一度は観たことのある、空に浮かぶ幻の島のアニメがいた。そうか、ここはキッズコーナーだったのか。
母親は綺麗なピンク色のハンケチで汗を拭いながら、渋い顔をしている。
「これは、この前もその前にも借りたでしょう。他のアニメにしようよ」
「これがいいの! 空から降ってきた女の子に、また会いたいの! あの島に行きたいの! だから、これじゃないとダメなの!」
甲高い声を上げ、地団駄を踏む。ダメなの、ダメなの! と呪文のように叫び、とうとう泣き出してしまった。俺は突然襲来した小さな怪物に驚愕し、間の抜けた顔で立ち尽くしていた。
母親は肩を落としながら大きな溜め息をつき、無言でパッケージからDVDを引き抜く。その刹那、男の子はぴたりと泣き止み、にっこりと無垢な笑顔を彼女に向けた。彼女の丸まった背中越しに見た彼の笑顔に、心臓が一瞬だけ高鳴った。
母親は疲れたように微笑み、男の子の手を握ると、レジへと歩いていった。願いが叶った男の子は楽しげに空を歩くようにスキップをしていたが、母親は憂鬱で重たい雨雲が足に絡み付いて飛べそうになかった。
二人の背中を見送りながら、男の子の笑顔を思い出した。あどけなくて愛くるしい笑顔は、シンにそっくりだった。不意に、彼の言葉が脳裏に蘇ってきた。
―ケイは卒業したら、どうするんだ?―
正直、自分でもよく分からない。確かに、工学部を選んだ理由は、ロボットでも何でもいいから物が造りたかったからだ。特にうちの大学は、機械工学に力を入れているし、著名な教授が数多く教鞭を振るっている。しかし、齧っただけの航空工学と流体力学の授業で、少なくとも翼のない車が空を飛べないことぐらい理論的に学んだつもりだ。
ましてや時間は不可逆だから、戻ることはできない。時間軸を往来できるとすれば、自分自身が時空を飛び越えるしかない。時間の概念とやらは専門外で分からないが、物体を瞬時に粒子に還元し、存在することすら証明されていない時空間に、どうやって粒子を運ぶのか? そんなことは、少なくとも今の科学では不可能だ。もしかしたら、俺の知らないところで研究が進んでいるかもしれないが、自分の持ち合わせている知識を総動員した限りではありえないのだ。そう、ありえないんだ―。
男の子の夢を溢れるほど詰め込んだアニメへ寂寥感に満ちた視線を投げかけると、その下の棚に懐かしい映画を発見した。彼と同じように、幼い頃、食い入るように何度も何度も見たSF映画だ。当時はまだ、VHSが全盛期の時代だったから、DVDと違って値段も高かった。クリスマスプレゼントに伯母さんに買ってもらった映画を、テープが擦り切れるほど夢中になって観た。
男の子を見ていたら、あの頃の自分に会いたくなった。幼いながらも、それまでで獲得してきた全ての価値観を奪われた時に感じた悦びと高揚感と僅かに抱いた畏敬の念を味わいたくて、映画を借りることにした。それはまるで、記憶の海に沈めた錆付いた夢の箱を開けるようだった。
足早にアパートに帰り、小学生の自分に多大な影響を及ぼし、今なお心を揺さぶり続けるSF映画を、大人になった眼で鑑賞した。あの頃と変わることなく、すべてが煌いて見えた。安っぽい付け焼刃のCGでさえも、輝いていた。変わってしまったことは、飲み物がジュースからビールになったことだけだ。
どんなに時が経過しても、この映画が好きだと思い知らされた。そして、自動車が縦横無尽に空を飛んでいる光景を見てみたいと思った。本当は、出来ないことを言い訳にしていただけなんだ。夢に背を向け、既存の知識で固められた本を積み重ねて、大人の枠にはまった振りをしていただけだ。
映画を見終わった後、どうしようもなく外に出たくなった。センチメンタルな心をぶら下げて、当てもなく星を紡ぎながら歩く。ビル群に切り取られ、排気ガスとネオンで塗り潰された都会でも、宇宙は広かった。
コンビニでビールと水を買った。帰り道に点在する公園で、ジョイントと財布に棲んでいた白い悪魔を公衆便所に全て捨てた。躊躇いもなくレバーを思いっきり足で踏みつけると毒薬は激流に飲み込まれ、あっけなく汚物として処理された。
薬を捨てたからといって、何か変わるわけではない。過去には戻れないし、変える事もできない。糞みたいな惰性で時間を垂れ流しにしてきた。でも、振り出しに戻ることはできるはずだ。もう手遅れかもしれない。それでも、戻りたいと思った。今は、この気持ちだけが真実。
水の流れをぼんやりと見下ろす俺は、まだ知る由もなかった。穏やかな日々と蒼く淡い炎を宿した夢は消え去り、おぞましい嵐が訪れ、濁流と共に美しい蛾を連れ去るとも知らずに――。
昔のように映画を繰り返し見ていると、不意に少しだけ真面目に勉強をしてみようと思った。試しに床に落ちていた機械力学の教科書を捲ってみる。……さっぱり分からない。胸中に暗雲が立ち込め始めので、電気電子力学の教科書も開いてみた。……何が書かれているのすら、理解できない。
教科書を静かにテーブルに置き、微かに残っている学校の記憶を手繰り寄せると、授業に出席した記憶はほとんどない。なので、前期の試験は追試を散々受けるはめになった。まあ、二年の前期なんて、最もモラトリアムを楽しむ時期なので、みんな遊んでばかりだ。追試を受かる為だけに、知識や公式を小さい脳みそが破裂寸前まで叩き込んだ。つまり、ここ四ヶ月近く勉強らしい勉強をしてこなかったのだ。
だから、教科書を開いても、さっぱり分からない。指先でなぞっただけの知識は、急激に膨張した脳みそから逃げるように消え去っていた。
このままでは、後期の単位を取れる自信がない。唯でさえ、冬の冷たい息吹が聞こえてくると、学校から足は遠退いてしまう。無垢な夢を見る前に、卒業できなくなる。そうすれば、就職における選択肢も狭められてしまう。夢を実現させる為には、知識という武器が必要だ。
それからは、暇な時間を見つけては、勉強をするようになった。あまり力んでも自分の性格上、長続きしないのは明白だったので、少しずつ知識を取り込むことにした。ただ勉強の遅れを取り戻すだけでなく、萌芽しつつある花に水と肥料を与える作業だと思うと、心が少しだけ満たされた気分になった。
花に水を与えることが、いつの間にか日課になりつつあった頃、秋も木の葉に訪れ始めたのに猛烈に暑い夜が訪れた。息をするのも苦しいほど、熱に囚われた夜だった。夜中に何度も目が覚め、その度に水を飲む。喉を落ち着かせて、汗で湿ったベッドに体を泳がせては、また焼けるような暑さで夢から現実に引きずり戻される。その繰り返し。どこまでが夢で、どこからが現実なのか境界線は曖昧になり、夢の中でも水を探して彷徨っていた。
桃色の朝焼けが虚ろな瞳に映る頃、やっと探していた眠りを見つけた。
目蓋のスクリーンに映し出された真っ暗な路地。鼻につく生ゴミの腐った臭い。足元から何かがカサカサと蠢く音。路地の先に、青白く人工的な冷たい光が見えた。それだけが、現在置かれている状況に対して唯一情報を与えてくれた。
ここはどこだ? 夢なのか……?
鼻の奥から脳髄にまで侵入してくる腐敗臭に耐え切れなくなり、壁に手を這わせ、暗く狭い路地を光に向って足を進めると、少し大きな道に出た。もう腐った臭いは追いかけてこない。
空を仰ぎ見ると、月も星も何一つ見えない。太陽が殺された世界だ。世界を照らす光は、青白く乾いた誘蛾灯だけ。誘蛾灯の下には、蛾の死体が転がっている。アスファルトの墓地では土に還ることもできず、体液を無情な人工光に奪われながら干からびていた。
一匹だけ、まだ微かに息がある。螺子の切れかけた人形のように、ぎこちなく産毛の生えた足を動かしている。それは、必死に生きようともがいている姿ではなく、まるで死の領域を引き寄せるかのごとく虚空を掴んでいた。嫌な世界だ。ここにはいたくない。
命が消えようとしている蛾を見下ろしていると、後ろから足音が聞こえた。その時、風の中に甘いシトラスの香りがした。匂いに引き寄せられるように、ゆっくりと振り返る。
「……シン、なのか?」
誘蛾灯に照らされたシンの顔は、ほとんど影に覆われていて表情はよく分からない。でも、最後に会った時よりも少し髪が伸びている気がした。
「ここは、どこなんだ? 夢の中だよな?」
「違う。俺の世界だ」
そう言って顔を上げた彼は、まるで迷子になった子供のように寂しげで縋るような瞳をしていた。俺の声を遮るように、一匹の蛾が鱗粉を撒きながら飛んできた。目の前に舞う金色の星屑は、輝きは不安定だが美しかった。
風が吹き、またあの匂いが鼻腔を擽る。俺は眉を顰めた。青く透明で目障りな無機質な光を見つめられていると、足元に転がる屍と同様に躯中のあらゆる水分が奪われそうになる。乾いた喉を、唾液が爪を立てながら通過した。
「この世界は、俺達の存在を拒絶したんだ。俺達は世間から見たら、除け者でやっかい者だ。誰からも必要とされていない。今や本当の親ですら、俺の死を望んでいる。だっから、非力で虫ケラみたいな俺が出来ることは何だ? 世間様から爪弾きされた俺ができることは何だ? ……盲目になり、口を噤んで心を壊して生きるか、それとも、己が信じる光に眼と体を焼かれて死ぬかのどちらかだ。デキソコナイの俺が、他人から唯一赦され、残された最後の光だ。そうだろう、ケイ? お前は、どちらを選ぶ?」
シンの言葉を掻き消すように、蛾の羽音がやけに五月蝿い。俺は言葉を発しようとしたが、青く冷たい光に喉が焼かれたせいで声が出ない。
「光に向って、一直線に飛ぶ蛾のような人間に成りたいて、以前言ったよな。でも、闇夜を照らすその光は、所詮人間が作り上げた偽物だったんだよ。誘蛾灯に眼が眩んだ俺の負けだ。どちらにせよ、盲目になった蛾は光を見つけられず、この世を当てもなく彷徨う運命だ。最初から、どこにも行けやしないんだ。それでも、俺は後者を選ぶぜ。――ケイ、お前は生きろ。無様に転がり、這い蹲り、紛い物の光を奪われても、な」
誘蛾灯の周りを飛んでいた蛾が、太く短い悲鳴と共に地面の落下してきた。命が消える瞬間を見た。
シンが憐れな蛾を慈しむように微笑んだ時、彼の左腕が千切れた。まるで、自然に肉片が腐り落ちたかのように、アスファルトにだらしなく横たわる。しかし、血は一滴も出ていない。落下した腕には、あの金の衣を纏った蛾が描かれていた。飛び散った肉の花弁だけが、腐乱した蛾への唯一の餞。
俺は小さな悲鳴を上げた。しかし、彼の表情は変わらない。ただ、瞳は澱みのない光を讃えている。俺はガタガタと震え、後ずさりしながら首を横に振る。その澄んだ眼が怖くて仕方がなかった。
「おい、さっきから何を言っているんだ? 全然意味が分からないよ。それにお前、うっ、腕が千切れてるじゃないか!」
怯える俺にシンは哀しくも優しい笑みを残し、背を向けた。そして、暗闇の底へ足を進める。
「そっちに行っちゃダメだ! 戻れなくなるぞ!」
必死に手を伸ばし、シンの腕を掴もうとした。彼が二度と光の届く世界に戻って来れなくなることよりも、一人になるのが堪らなく怖かった。
シンの進む先に、赤黒い塊が宙に浮いていた。あの女だ。こんな雨の降る気配なんて微塵もない夜なのに、いつもの真っ赤な傘を差していた。シンが女の横を通り過ぎる。しかし、二人の視線は一瞬たりとも交じらない。そして、羽と眼を失った彼は闇の中に吸い込まれていった。
「待てよ、シン! 俺を置いて行かないでくれ! お前がいなくなったら、俺は―」
そう言いかけた刹那、悪夢に支配された目蓋のスクリーンは幕を開けた。闇は消え失せ、影すら存在しない世界に放り出された。乾いた唇から漏れる乱れた呼吸。躯を起こすと、シャツは肌が透けるほど湿り、べっとりと張り付いていた。
「……なん、だったんだ?」
刮目して、辺りを見回す。床に転がる機械力学と確立・統計基礎の教科書。テーブルには飲みかけのビール、フィリップモリス、黒い灰皿。枕元には、蛍光ピンクの携帯電話。すべてが見慣れた俺の部屋だ。
あれは、間違いなく夢だったんだ。そうだよ、な……?
強張った躯から、力が抜け落ちた。呼吸は平常の動きを取り戻し、鼓動は緩やかに減速していく。安堵した俺は汗に塗れたシャツを、身を捩りながら脱ぎ捨てた。嫌な水分を吸収したシャツが鈍い音を立てて床に落下する。それはまるで、夢の中でシンの腕が腐り落ちた音に似ていた。
冷蔵庫から冷えたペットボトルを取り出し、キャップを捻るが、上手く力が入らない。悪夢の余韻が覚めていないせいか、まだ微かに手が震えていた。なんとかキャップを外し、ミネラルウォーターを干からびた躯に注入する。貪り狂うように水を飲んでいると、枕元の携帯電話に呼ばれた。
「――もしもし、ケイ? 俺……」
アキだ。細く消えるような声が、電話の奥から聞こえた。彼とは正反対に、外から蝉が短い命を燃す声が部屋に飛び込んできた。
「アキ? どうした?」
「……シンが……」
しゃくり上げるアキの声。夢で見たシンの悲壮感に満ちた笑顔が、目の奥で鮮やかに蘇る。静まったはずの鼓動が再び胸を締め付け、どっと汗が噴出す。それは、酷く冷たく濁った汗だった。
「シンが、どうしたんだ?」
握り締めていたペットボトルが、震える掌の中でグシャリと鈍い悲鳴を上げて変形した。表面に張り付いていた水滴が床に落下し、惨たらしく潰れた。蝉は命の讃美歌を、さらに大きな声で歌い上げる。
「――殺された」
影さえも焼き付けるような太陽に背を向け、夏草を蹴散らしながら警察署に辿り着いた。息を切らし、異様な冷気が漂う署内に駆け込むと、アキとカネダと泣きじゃくるハルが
いた。胸中に蠢く黒い渦を隠して、三人の元に走り寄る。
「シンが、殺されたって本当か?」
アキとカネダは言葉を飲み込んだまま俯き、ハルは溢れる涙を禁じえず、嗚咽混じりに泣くばかりで、何も答えてはくれない。
「悪い冗談なら、今のうちに正直に白状しろよ。あいつが、シンが死んだなんて、俺は信じないぞ! カネダ、アキ、黙ってないで本当の事言えよ。嘘なら、嘘でいいよ。今なら赦すよ。あっ、分かった! どうせ、いつものように待ち合わせ場所に来ていないだけだろう? 言っただろう。あいつは遅れてくるけど、ちゃんと来る奴だって。少しぐらい待っててやれよ。人生は長いんだから。……なあ、だから、早くこんな辛気臭い場所から出ようぜ。んで、四人でシンを迎えに行こうぜ!」
三人は声を押し殺し、俺の提案は黙殺された。蠢いていた黒い渦が瞬時に赤く染まり、体中に広がる。
「おい、何とか言えよ!」
彼らの煮え切らない態度に痺れを切らし、静寂が蔓延る廊下に俺の怒号が響き渡る。
「――迎えに行くって、どこに行くんだよ?」
アキが怒りと疑いを孕んだ眼で俺を睨みつける。彼の細い血の枝が張り巡らされた瞳のせいで拡散していた怒りが一気に沈静化し、知りたくもない真実がにじり寄り、恐れへと変貌していく。恐怖を噛み潰すように、下唇を強く噛む。
「俺達も……よく分からねえんだ。ただ、アキが警察から連絡が着て、ここに呼ばれただけだ。お前だってそうだろう?」
カネダの質問に、俺は下唇を噛みながらぎこちなく頷く。乾いた舌で噛みつけられた下唇を舐めると、ほのかに血の味がした。
「シンが、シンが、シンタロウが―」
ハルが呪文のように同じ言葉を繰り返す。小さな肩を震わせ、糜爛したマスカラが飛散した顔は、彼女の行き場の無い哀しみをいっそう際立たせた。久しぶりに再会したハルは、髪は乱れ、服も黒いワンピースを着ただけで、いつもの綺麗でおしゃれな彼女は消え失せていた。
「揃ったかな?」
扇子で脂ぎった顔を煽ぎながら、中年の刑事らしき男が俺たちに嗤いかけた。湿ったワイシャツから微かに乳首が透けていて、それが堪らなく不快だった。作られた笑顔は、金と権力に飼いならされた豚にしか見えない。笑顔の裏に、俺たちを侮蔑する意識が見え隠れしていた。
「突然呼び出して、すまないね。君たちの友人の事について、ちょっと話を聞かせて欲しいんだ。まずは……君から話を訊こうかな」
刑事はアキを指名した。そして、アキ、カネダ、俺、ハルの順番で事情聴取をすると告げられた。
二人は『捜査一課第弐取調室』と書かれた部屋に入っていった。アキが部屋に入る瞬間、視線が重なった。抱えきれない不安に満ちた瞳が、今にも破裂しそうだった。
茶色い革張りのソファーで待機している間、誰一人口を開く者はいなかった。ハルはずっと泣いていた。泣いても泣いても涙が零れ落ちるので、ワンピースは深い黒に染まっていた。化粧は完全に剥がれ落ち、まだ幼さの残る本当のハルが露になった。哀しみに暮れる泣き声から遠ざかりたくて、俯きながら耳を塞いだ。
「――イ、ケイ!」
指の隙間から、微かにカネダの声が聞こえた。顔を上げると、カネダの心配そうな顔があった。額には汗が滲んでいる。
「次、ケイの番だから……」
そう言い終わると、彼はフラフラと覚束無い足取りでトイレに入って行った。アキは何も言わず、ぼんやりと蕁麻疹のような茶色いシミが付着している天井を見上げていた。傍らに座るハルは、そのうち溶けてなくなりそうだった。
重力が増した躯で立ち上がる。少しでも気を抜けば、倒れてしまいそうだ。不意に、辺りを見回してみた。シンの両親の姿は、どこにもなかった。
取調室に入ると、ドラマでよく見たステレオタイプの光景が広がっていた。四角い灰色の机、卓上ランプ、パイプ椅子。予想通りの道具の配置に、思わず嫌な溜め息が零れた。ハンケチで汗を拭う刑事に促されるまま、古びたパイプ椅子に腰を降ろす。まだほんのり温かい。鉄格子の隙から、耳障りな蝉の声が聞こえた。
「友人達から聞いていると思うが、水城シンタロウ君の事で聞きたいことが幾つかある。あまり時間がないから、早速本題に入るよ。最近、彼の事で何か変わった様子はなかったか? 彼の事だけじゃなくて、君の周りで不審な出来事や人間を目撃したとかでもいいんだ。何か心当たりはないかい?」
警戒心を解く為なのか、刑事は努めて穏和な口調で喋っていた。紙コップに入った麦茶を渡された。俺は小さく一礼した。
「……特に、思い当たる事はありません。シンとは、シンタロウとは先週野球を見に行った時から会っていないし、連絡もしていません。それよりも、本当にシンは死んだんですか……?」
一瞬、刑事は訝しげな視線を投げかけてきた。
「残念だけど、君の友人は亡くなった。そして、彼は事件に巻き込まれた可能性が非常に高い。捜査中だから詳しい事は話せないが、暴力団との間に何かしらトラブルを抱えていたようだ。君は、彼がどのような仕事をしていたか知っているか?」
俺は口を横にきつく結び、震えながら首を振った。刑事は俺に顔を近づけてきた。彼の眼光が鋭くなる。
「本当に、何も知らないんだな?」
夢中で首を横に振った。眼を逸らしたい衝動に駆られたが、突きつけられた視線から逃れることができなかった。
「そう、かぁ……。じゃあ、これを見てくれるかな。これは、水城君の遺体写真だ。少し刺激が強いと思うが、見てくれないか?」
差し出された一枚の写真は、なぜか裏返っていた。不審に思い、刑事の顔を一瞥すると、彼は眉を引き上げた。受け入れがたい現実が思考を彷徨う。この写真を捲ってしまえば、曖昧な輪郭だった現実は、確固たる事実に変化してしまう。視界は白く濁り、恐怖が加速する。唾を飲み込むこともできない。
ダイジョウブダカラ、ミテゴラン。ソレニ、キミハユウジントシテ、コノシャシンヲミルギムガアルハズダ。
刑事の言葉は、どこか遠くの場所から送られてくる信号にしか見えなかった。震える手で写真を捲ると、強烈な吐き気が濁流のように押し寄せてきた。
顔は苦悶の表情を浮かべ、青紫色で倍に膨れ上がっていた。薄く開いたまま固定された目蓋から、真っ赤に染まった白目がいる。髪は濡れ、草のようなものが幾重にも絡まっていた。もはや、シンであるかどうかも判断がつかないほど顔は変容していた。シンが苦しみながら死んだ事を克明に映し出している。弄ばれた映像が浮かび上がるほど鮮明に―。
「今朝方、浜に打ち上げられていた遺体を、犬の散歩をしていた男性が発見した。ああ、ほら、球場の近くに海があるだろう。そこだ。しっかし、ヤクザにしては雑な処理の仕方なんだよなあ……。おっと、今のは忘れてくれ」
処理……。シンを冒涜するような発言がどうしても赦せなくて、刑事を憎悪の眼で睨んだ。しかし、今はこいつと言い合いをする気力すら湧い来なかった。
「……腕は、腕はどこにあるんですか?」
遺体の左腕は、肩から切り取られていた。引き千切られた肉片の間から、真っ白い骨が見える。
「まだ腕は見つかっていないんだ。鑑識の話しだと、どうも生きたまま腕をもっていかれたらしい。だから、死因は溺死だと思われる。ほら、肩のココの所を見てくれ。肩から腕にかけて刺青が彫られているようなんだが、どんな柄か知っているか?」
どす黒く変色した鎖骨に眼を凝らすと、金色の砂が散りばめられている。俺は静かに首を横に振る。全身に鳥肌がびっしりと広がり、ガタガタと躯を震わせる。強烈な酸味が口内を犯していく。刑事は眉間に皺を寄せながら、うざったそうに扇子を仰ぐ。彼のハンカケチはすでに湿り過ぎている。
「知りま、せん……」
ようやく絞り出した答えに、刑事は失望したように大きな溜め息をつき、「そうか」と小さく呟いただけで、それ以上何も訊いてこなかった。
厚手の紙に囲まれた茶色の海は、クーラーの湿った風のせいで絶え間なく波立っていた。
部屋を出ると、トイレに直行し、シンの惨い死体を吐き出した。昨夜から何も食べていなかったので、胃液しか出てこなかった。それでも、込上げる吐き気を止める術が分からなかった。酸に浸食された舌と歯茎の痺れが、これは夢ではないことを痛感させる。洗面台で顔を洗い、口を濯ぐ。水が滴る顔で鏡を覗くと、逆さに囚われたシンの顔と重なった。
俺がゲロを吐いている間にハルの取調べが終わっていた。彼女はまだ泣いていた。
四人で肩を並べて署を出ると、すでに空が赤く垂れ込んでいた。誰も口を開かないし、視線を合わさない。階段を下りていると、躯は鉛の塊を飲み込んだように重いのに、足が地に着いている感覚がしなかった。
「……のせいよ」
振り返ると、生気が抜け落ちたハルが俯きながら立っていた。彼女はゆっくりと顔を上げると、その瞳は怒りと絶望で揺れ動いていた。俺は襲来してきた恐怖に慄き、思わず後退りした。
「――ケイのせいよ。あんたが、あんたが、あんたがシンを殺したのよ!」
彼女の悲痛な声を合図に、アキとカネダも口を開く。
「そうだよ、お前のせいだ! 皆、何度もお前に頼んだじゃないか。シンにバイトを辞めさせるように。なのに、なんでケイはあいつに何も言わなかったんだよ!」
「お前が、もっとちゃんとシンを見ていれば、こんな結果にならなかったんじゃないか?」
三人が一斉に俺を糾弾し始めた。鋭利な視線が容赦なく浴びせられる。
「俺の……せい、なのか?」
目の前が真っ白になり、アスファルトから影が消え、まるで雲の上に立っているかのような不思議な浮遊感に包まれた。ここにいるはずなのに、自分がいない。
「お前がシンを見殺しにしたんだ!」
理性がはち切れる音がした。消えていた影が地の底から手を伸ばし、瞬時に俺の全身を飲み込んだ。
「俺にばっかり押し付けて、お前らは何かしたのかよ? 何か言ってやったのかよ? シンの相談に乗ってやったり、自分の口で忠告したのかよ? 口先ばっかで、何もしてねえじゃん。どうせシンから嫌われるのが怖くて、全部俺に押し付けたかっただけだろう? 知ってんだよ、お前らが友達面した卑劣な人間だってことぐらいよ!」
「てめぇ、自分の事は棚に上げて、よくも――」
カネダに胸倉を掴まれた。彼の瞳は酷く揺れていた。アキとハルは俺を睨んだまま、傍観しているだけ。嗚呼、こいつらはいつだってそうだったし、こうして生きてきたんだな。
「自分の事を棚に上げて、偉そうに俺を批判しているのは、お前らの方じゃないか。これまで散々俺を傷つけておきながら、今更心にダメージを喰らっ顔をしれっとすんのが気に食わないんだ。俺の心をズタズタに切り裂いておきながら、かまととぶって被害者面すんなよ! そうだろう、カネダ? お前は俺と同罪、否、それ以上だ。だって、シンが壊れていくのを見てみぬ振りをしていたんだろう? だったら俺と同じで、人殺しだ! お前らと俺が、シンを殺したんだよ!」
カネダの腕を払い除け、三人から逃げ出した。これが、三人を見た最後だ。二度と、四人で会うことはなかった。昔から俺が真実を突きつけると、それまで仲が良かった人間が途端に姿を消すんだ。何も言わず優しくて順応な人間だと決め付け、見下しているのを、優越感が蔓延った瞳が暴露するんだ。いつもなら、それでもよかった。耐えることができた。でも、あの言葉だけは、どうしても赦せなかった。赦してはならなかった。
足を止めると、夜に向って鴉達が呻きながら飛んでいた。もう隣を歩いてくれる人間は、誰もいない。どこを見渡しても、一つとして影はなかった。
よろめきながら家の鍵を開ける。ここまで辿り着くまでの記憶は断片しかない。ドアを開けた瞬間、その欠片すら消えてしまった。
疲弊した心をベッドに埋めた。ポケットから携帯電話を出すと、着信とメールが何十件も着ていた。俺は送り主を見ることすら拒絶し、電源を切った。何も聞きたくない。何も考えたくない。何も感じたくない。
どうしようもなく酒が飲みたくなった。歪な心を無理矢理起き上がらせ、冷蔵庫に向う途中、床に散らばった教科書に躓いた。
――俺は見てみたいよ。車が空を飛ぶ世界を――
夜風に髪を靡かせたシンの柔らかな笑顔が脳裏を過ぎる。鮮やか過ぎる記憶を追い払いたくて、壁に教科書を思いっきり投げつけた。鈍く弾ける音と共に床へ崩れ落ちる。それは、誘蛾灯に恋焦がれた蛾の死骸と同じように淫らにひしゃげた羽を広げていた。
翌朝、携帯電話の電源を入れてみると、留守電とメールの数字が降り積もっていた。誰が掛けてきたなんて、どうでもよかった。再び電源を落とし、携帯電話を折ろうとしたが、シンから電話が掛かってくる気がして、どうしても折れなかった。昨日突きつけられた残酷な事実を、頭では十分理解している。それでも、願望に似た予感を信じたかった。
通夜も葬式も火葬場も、全部行かなかった。シンがいなくなった実感なんて欲しくない。
それからは全ての連絡を遮断し、部屋に引き篭もった。テレビもパソコンも音楽も、すべて排除した。一日中、膝を抱えながら鳴らない電話が震えるのを待ち侘びた。電源を入れていないから鳴るはずなんてないのに、黒い画面ばかり見つめていた。何も食べる気がしなかったが、やたらと喉が渇いた。異常な渇望への兆候はあったが、悪化している気がした。水とアルコールだけをひたすら摂取する日々。飲んでも飲んでも、苦しいほど喉が乾く。シャワーは汚れた躯を洗うためでなく、喉へダイレクトに水を流し込む作業になっていた。風呂から上がると、僅かに新しい季節に彩られた風がカーテンを揺らす。けたたましい蝉の声の中に鈴の音をした歌声が混ざり合い、一人置いていかれた部屋を満たしていく。
六度目の夜を超えた頃だっただろうか。窓辺に佇む太陽のように陽気な電子音が来訪者の存在を告げた。俺は汗を吸収して重くなったタオルケットに包まり、煩わしい世界を塞いだ。またチャイムが土足で飛び込んできた。薄い繭のようなシェルターは、何の役にも立たない。
「――あの、私、です」
重く閉ざされた扉の向こうから、遠慮がちな声が聞こえた。ユリコ先輩だ。初めは無視を決め込むつもりだったが、タオルケットの隙間から悠然と流れる白い雲が見えた。こんな体液で汚染された繭ではなく、彼女の白く柔らかい腕に包まれたいと思った。繭を破り、のろのろと玄関まで歩き、鍵を開ける。ドアの割れ目から真昼の太陽が侵入してきた。空から零れ落ちる光の粒が、暗がりに慣れた瞳には眩し過ぎた。
ユリコ先輩を部屋に招き入れ、早急にドアを閉めた。眼を擦り、何度も瞬きをする。チカチカと赤い点滅が、目の奥で飛び回る。
「大丈夫?」
赤い星の瞬きに塗り潰され、心配そうに低く曇った声。俺はこくりと小さく頷いた。
冷蔵庫を開くと、夕焼け色の中にはビールが二本とボルヴィックが一本しか入っていなかった。冷蔵庫がブーンと耳障りな声で呻く。空っぽの音。ユリコ先輩は散らかったままの教科書やゴミを避けながら、ベッドに向かう。背中越しにスプリングの軋む音が聞こえた。
「――何か飲みますか? って言っても、ビールと水しかないですけど、ね。水は水でも、水道水じゃないですよ」
「じゃあ、お水を頂こうかな。しっかし、今日も暑いよね。立秋が過ぎたから、涼しくなってもおかしくないのに、こう毎日毎日暑いと、さすがに嫌になるね」
「でも、時々風の中に秋がいませんか?」
「そうなの? それよりも家に何もないようだから、後で買い物に行こうよ! ケイ君が元気になるように、私、美味しいもの作るよ」
俺は力なく微笑み、無言でミネラルウォーターを手渡した。彼女の横に腰を下ろし、ビールを開けた。爽快な音が二人の垂れ込んだ空気に、小さな風穴を開ける。渇きが癒えないと知りながらも、冷えたビールを豪快に流し込む。
「ユリコ先輩は、知ってるんですか? シンのこと――」
眼を震わせながらユリコ先輩の美麗な顔を覗き込むと、彼女は口を結び、静かに頷いた。悪夢が醒めてくれない。無意識に掌に力が入り、不穏な圧力に耐えかねてアルミ缶がイビツにへこむ。
「昨日、お葬式だったんだ。検死がなかなか終わらなくて、ようやくお葬式を執り行えたの」
「あの、ですね。先輩は、その、シンの葬式に行ったんですか?」
「……うん。皆、シン君が亡くなったことを凄く悲しんでいたわ。突然だったし、おまけに事件は未解決のままだから、余計にショックだった。でも、それ以上に親友のケイ君が、あの場所にいなかったことが皆ショックだった。どうして、お通夜にもお葬式にも来なかったの? 最後のお別れだったんだよ」
彼女の真っ直ぐに責め立てる眼から逃げるように俯いた。アルミ缶の不自然な窪みがさらに深くなる。
「ごめん、嫌な事を訊いて……。皆、言ってたよ。ケイ君が来ていないのは、シン君の死が受け入れられないからだ、て。誰よりも仲が良かったから、誰よりも傷ついたはずよね。ほんと、ごめんね」
うな垂れるユリコ先輩が横目で見えたが、肩を抱くことも、手を握ることもする気になれなかった。
「あの、シンの両親は来ていたんですよね……?」
彼女が小さく「えっ?」と声を漏らした。その声に反応して、嫌な予感にとり憑かれた心臓が大きく脈打つ。頬を伝う汗が、埃塗れの床に滴り落ちる。
「喪主は親戚の叔父さんだったよ。てっきり、シン君のご両親は亡くなっているものだと思っていたわ。じゃあ、彼のご両親はどこにいるの? そういえば、君達は施設で知り合ったんだよね。シン君のご両親はもしかして……」
好奇心が見え隠れした瞳をうざったそうに振り切る。鼓動は速度を緩め、いつもの速さで哀しげに脈を刻み始めた。
「いや、彼の父親は生きていますよ。ただ、今はそれ以上何も訊かないで下さい。お願いします」
「――分かったわ。あのね、アキ君とカネダ君が、貴方の事を心配していたの。電話もメールも出てくれないから……。それでね、アキ君とカネダ君からの伝言で『一人にさせてごめんな』だって。私にはさっぱり意味が分からないけど、二人が尋常じゃないほど泣きながら言ってたわ。どうしても、ケイ君に会いたいみたいなの。だから気持ちが落ち着いたらでいいから、二人に連絡してあげて。ケイ君も、二人に大事な話があるんじゃないの?」
縋るように顔を上げると、ユリコ先輩の強く怜悧な瞳に囚われた。鋭く輝く黒曜石に胸が押し潰され、何も言えなかった。缶は手の中で完全に拉げ、だらしなく白い泡をボトボトと垂らしていた。
ビールを飲み終わると。半ば強引にユリコ先輩に手を引かれ、外に連れ出された。久しぶりに見た外の世界は、アルコールと闇に溺れた躯には痛くなるほど青空は眩しく揺らめいている。俺は眼を細めた。
スーパーで飲み物と食材を買い込み、手を繋いで帰った。ユリコ先輩は知らない鼻歌を嬉しそうに歌っていた。二人分の汗が溶け合った左手が、壊れた光の中で重く痺れていく。
家に帰ると、ユリコ先輩が冷しゃぶサラダを作ってくれた。簡単で、野菜がたくさん摂取できて、暑い日にぴったりな料理らしい。彼女は俺の家にろくな調味料がないのを熟知しているので、ドレッシング一つで美味しく食べられるように、と言っていた。その間、俺は紫煙の中で揺らめく夕日を見ながらビールを三本空けていた。
ビールで乾杯し、ユリコ先輩が小皿に手際よく取り分けてくれた。白い皿に色鮮やかな野菜が踊る。赤と黄色のパプリカなんて、久しくお目にかかっていない。
「どお? 美味しい?」
ユリコ先輩が不安そうに俺の口元を見つめる。
「うん。美味しい、です。はい」
彼女は強張った頬を緩ませ、華やかに笑顔を浮かべた。正直、ドレッシングの味しかせず、美味いか不味いかなんてよく分からない。何度も同じことを訊いては、同じ返事に嬉しそうに微笑む。寄せては返すは波のように、同じ動作を繰り返す。結局、すぐに味に飽きてしまい、酒ばかり飲んでいた。ドレッシングの塩分で、喉が余計に渇いていく。
二人でビール四本と白ワイン一本を空け終わると、白い靄のかかったベッドで絡み合った。彼女をどんなにきつく抱いても、さらに喉が渇くだけで何一つ満たされない。まるで、人間の形を模した透明な血の人形を抱いているみたいで、誰もこの部屋にはいなかった。
軽薄な自己憐憫に浸りながら、ユリコ先輩の柔肌の腕に包まれた。赤ちゃんみたいだね、て言いながら彼女が優しく頭を撫でる。白く張りのある胸に顔を乗せると、穏やかで規則正しい呼吸が流れ込んでくる。しかし、どんなに甘い桃色の吐息に包まれても、無機質で不愉快な空白が耳の奥にこびり付いて離れない。
翌朝、ユリコ先輩は手短にシャワーを浴びると、カフェのバイトがあると言い、帰ってしまった。ホワイトシルバーのパンプスを履きながら、携帯電話の電源を入れることと、アキとカネダに連絡するように忠告された。パンプスには小さな傷がいくつも刻まれており、所々黒い皮が露呈していた。タバコを吸いながら、ぼんやりとそれを眺めた。
また部屋に一人、取り残された。タバコの火を消し、携帯電話の電源を入れる。電源を入れた途端に、受信問い合わせが起動し、未開封メールは十七件。読まずに、すべてのメールを消去した。電話帳を開き、メール同様に全件消去ボタンを押そうとしたが、それだけはできなかった。どうしてもシンの番号だけは消せない。消してはいけないと思った。 他の番号は全て消去し、彼の鳴らない番号を見つめていると、心臓が鉄の手で握られた。力強く冷たい手に締め付けられて息ができない。昼間の太陽が燦燦と降り注ぐ部屋なのに、ガタガタと歯が震え、得体の知れない寒気が全身を犯していく。口からだらしなく涎が垂れ、びっしりと鳥肌に覆われた首筋を冷たくなぞる。昨夜のドレッシングの酸味と塩分が逆流してきた。携帯電話を投げ捨て、トイレに駆け込む。シンの醜く腫れ上がった死に顔が印刷された記憶も一緒に、体内から押し出した。
部屋に戻り、タバコに火を点けようとするが、手と口元が震えて上手く点火できない。先端が黒く焦げただけのタバコを灰皿に押し潰し、外界から守ってくれる唯一のシェルターに包まる。しかし、一向に寒気は纏わり憑いたままで、息苦しさと悪寒で意識が遠退く。気が狂いそうになる。硬く眼を瞑っていると、シンの哀しげな笑顔が蘇った。その刹那、両目を見開き、白く幾重にも重なった襞が眼前に飛び込んできた。今なら……楽に死ねる。
シェルターを破り、もはや人でも獣でもない呻き声を上げながら、台所に向う。引出しから果物ナイフを出し、首に突き立てた。青筋に刃が食い込み、鋭い痛みが眼の裏にまで響く。首筋に涎と血が混ざり合い、淫らな音を立てながら床に滴る。規則正しく滴る音が、未練がましい鼓動と重なり合う。脱力した掌から、怯えたナイフがすり落ちる。弱く乾いた心とナイフが生温かい床に崩れ落ちた。涙のない嗚咽が粘ついた口から零れる。喉の奥から血がでるほど叫んでも、正気と狂気が鬩ぎ合う。どちらも自分であり、本当の自分じゃない。怖がりな血と涎は溶け合ったまま、仄暗い深淵から手招きしていた。
結局、臆病で卑劣な俺は、自ら命を絶つことすらできなかった。腑抜けた自分に失望した。俺と微かに血の滲んだナイフは、絶望と後悔の渦に飲まれた。どんなに手を伸ばしても、誰にも届きはしない。
だから、よくできた死ぬポーズを取ることはやめた。緩やかな死を得る為に、もう一度魔薬達に魂を売るのだ。軟弱で卑怯な俺には、もうこれしか残されていないし、これ以外に痛みを伴わない死を得る手段を知らないんだ。
簡単に着替えを済ませ、部屋に散らばる有り金をすべて財布に押し込んだ。よろめきながらドアに向う途中で、分厚い本らしきモノを踏んだ。鍵を回した時、哀しげな君との距離が遠退くのを感じながらも、少しだけ近くに行けた気がした。
昼間の熱が残る風が髪を揺らす。風の中に、鉱物のような匂いが溶けていた。終い込まれる西日に、行き場の無い笑みを浮かべる。もうすぐしたら地面に広がるあらゆる影が長く延びて、空白の世界を覆い隠していくだろう。
死への欲求を携えていつもの店に行くと、カウンターにユウキさんがいた。店内は相変わらず甘ったるいハーブの匂いに包まれている。
「よう、久しぶり!」
「こんにちは」
一礼すると、ユウキさんが柔和な笑みをたたえながら隣の椅子を引き、俺をカウンターに誘導する。椅子に座ると、べたべたとした甘さの中に、彼の艶かしいシトラスの香りが交じり合う。交じり混ざり溶け合い、重なる――。
「どうした? 暗い顔して?」
「あっ、いや、なんでもないです」
カウンターの奥から、こちらも変わりないドレッドヘアの店員が顔を出し、いらっしゃいと、挨拶された。
「ユウキさん、出来ましたよ」
「サンキュー。いつも悪いね」
ユウキさんはジョイント三本と錠剤一錠と引き換えに、二万を手渡す。
「今日は少ないですね」
「最近、この店で客と待ち合わせすることが多いから、一度に大量に買わなくていいんだ。まあ、こういう物は嗜む程度がベストだし、ね」
そう言うと、彼はさっそくジョイントに火を点けた。白い悪魔の吐息が舞い上がる。
「お客さんは、今日はどうしますか?」
「ジョイント七本と、あっとは……、あっちを五錠お願いします」
二人が眼を丸くし、俺を凝視してきた。ポケットからタバコを取り出し、火を灯す。
「……今日は、随分と多めですね」
店員は銀色の安っぽい灰皿を差し出すと、カウンターの奥へひっそりと消えていった。
「あと、ユウキさんに頼みがあるんですけど、俺にも仕事、紹介してくれませんか? どうしても金が入り用なんです」
ユウキさんは俺を見つめながらジョイントを吸い、ゆっくりと灰色の息を漏らす。煙が顔にかかり、視界に靄がかかる。薄いベールの奥で、彼の訝しげな瞳が儚げに揺らめいていた。
「人には色々事情ってもんがあるから何も訊かないけど、本当に大丈夫か? まあ、ケイ君の顔とスタイルなら、すぐに紹介できる人がいるのはいるけど……」
俺は小さく頷いた。ユウキさんは灰皿に火を磨り潰し、頬杖をつく。
「んで、いつにするの?」
煙を吐きながら、まだ二口しか味わっていないタバコの火を消した。銀色の墓には、ひしゃげた白い骨が寄り添うように二本並んでいる。
「今夜……いけますか?」
ユウキさんは俺を一瞥し、無言で席を立ち、店の隅で誰かに電話を掛け始めた。再びタバコに火をつけ、ちょうど一本が吸い終わる頃、彼は電話を終えた。
「今、紹介できそうな人に電話したら、今夜相手してもいいってさ。こっちの世界に足を突っ込もうとするからには、それなりに覚悟はあると思うけど、本当にどんな客でもいいんだな?」
「さすがに最初からスカトロ系は無理ですけど、金さえ貰えるなら、あとはどんなハードなプレイでも耐えられます。縛りでも流血でも、なんでもしますよ」
「おいおい、本当に大丈夫かよ? なんなら、俺も付いていこうか?」
奥から破滅への薬が運ばれてきた。諭吉七人を売り渡し、薬をポケットに仕舞い込む。
「――ユウキさん。世の中、自ら躬行してみないと分からないことが、たくさんあるでしょう? だから、一人で大丈夫です」
顔が曇ったままのユウキさんから客の連絡先を教えてもらい、毒を補充して店を後にした。彼から餞別にミント系のタブレットとコンドームを頂いた。必ず役に立つからと言われ、ありがたく頂戴した。
店を出ると、ネオンが乱反射する空は湿っているのに、風は妙に涼しげに頬を撫でてきた。雨の匂いがきつくなっていた。
ユウキさんから斡旋してもらった初めての客は、小太りの中年男で凄く鼻息が荒かった。鼻が詰まっているのか分からないが、常に口で酸素を取り込み、ヒューと鼻を鳴らしながら息を吐く。ノーマルなセックスには興味が無いらしく、会うなり服を脱がされ、躯を粘ついた視線で吟味される。そしてバスルームに優しく手を引かれ、足と腋と陰部の毛をすべて剃られた。まるで恋人を扱うかのように、それはそれは丁寧に剃刀を当てられた。
最初から濃い客を紹介してくれたもんだ。毛が一本も生えていない脇を舐められながら適当に喘ぐ。喘ぎ声の出し方さえ知らなかった。しかし男は、その素人っぽさがツボに入ったのか、何度も何度も鼻を鳴らしながら飽きもせず舌を這わせた。ワザとらしく啜る音を立て、激しく吸い付き、お決まりの言葉攻めを繰り出す。気色の悪い喘ぎと抑揚のない返事をする度にユウキさんの顔が浮かび、胸中で何度も身勝手な舌打ちをした。
一頻り脇を堪能すると、男は俺の前に仁王立ちになり、そそり立つアレを咥えるように指示した。予想できた展開だったので、以前ユウキさんから教わったタブレットフェラを勧めてみた。男は興味津々で、快諾してくれた。鞄から仕込んでおいたタブレットを出し、二三錠口に放り込む。噛むのは厳禁なので、四五回舌の上で転がし、テッシュに吐き捨てた。薄荷の刺激と匂いが消えぬまま、男の肉幹を咥える。筋に舌を這わしていると、効果は絶大だったようで、男は汚らしい鼻音をヒューヒュー鳴らしていた。初めて女の凄さが分かった。よくもまあ、こんな汚らしいモノを口の中に進入させることを許可できるものだ。眼を瞑り、すべての感覚をシャットアウトした。そして、愛する諭吉だけを想い描いた。豚男が、断りもなく口内に射精する。あまりにも勢いが良くて上手く口で受け止められず、思わず口を離してしまった。口と顔に白くドロリとした液体が浴びせられる。初めて飲んだ精液は、無駄に苦く喉を刺激する。テッシュで顔を拭いながら自分も同じ行為を女にしていたが、彼女に同じ思いをさせてはいけないと、なぜだか冷静に内省する自分がいた。男が長い時間俺の愚息を舐めしごいても、余計な考えのせいで逝けなかった。寧ろ、強力な男の吸引力で痛みしか感じなかった。
アナルをローション塗れの指で開発、拡張され、バックで挿入された。はち切れる痛みで顔が歪む。ゴムがめり込むたびに軋み、痛みが増幅される。豚男は鏡越しにその顔を「いい……。すごく、すごくいいよ。嗚呼……」とうわ言のように絶賛しながら醜く腰を振る。俺には痛みしかなかった。内臓を硬い棒でぐちゃぐちゃにかき回されて、突き上げられる度に下腹部に鈍痛が走る。それから正常位、騎乗位、最後は再びバックとお決まりのパターン。バックで突かれている時に苦痛で体勢を崩すと、強力な引力で腕を後ろに掴まれた。押さえつけられた自我と亡くした心。気持ち良さなんて皆無のはずなのに、躯は本能を隠せずにいた。それでも、逝かなかったのがせめてもの救いだ。豚男は快楽を加速させ、短い歓喜と共に生温かい白い粘液をアナルに注ぎ入れた。気色の悪い鼻息と濁った吐息が淫靡な室内に響き渡る。俺は汚れたシーツに顔を埋めながら、ちっぽけな矜持を盾にして壊れた涙だけは流すまいと必死だった。
二人でラブホテルを出て、駅で本日の報酬を渡された。男の希望で、どうしても駅まで一緒に居たいと言われた。五万を受け取り、誰にも見られないように足早に改札を潜る。別れ際にキスをされ、男に背を向けた瞬間、口の皮が捲れるまで袖で拭いた。
電車に乗り込み、握り締めていた札を財布に仕舞う。約二時間で五万円は悪くないが、亡くした代償を考えると居た堪れなくなった。いつかの見知らぬ大学生達の甲高いせせら笑う声がフラッシュバックしてきた。黒い窓には、諭吉と魔薬の奴隷に成り下がった俺がいた。新しい自分に力なく微笑み、皮肉を込めた挨拶をする。電車がトンネルに入った瞬間、眩い光線に影を持たない自分が殺された。
電車を降りると、雨が降っていた。熱帯夜なのに、酷く冷たい雨だった。雨を見上げながらホームで一服していると、世界中で一人だけ取り残された気分になった。
雨が支配する地に、傘を差さずに足を踏み出す。無数の雨がアスファルトに叩きつけられ、死んでいく。油色した車のライトが、死ぬ間際の雨にほんの一瞬だけ最後の輝きを与える。それの繰り返し。前も後ろも、右も左ない。
足を止め、銀の雫が降り注ぐ夜空を仰ぎ、乾いた舌を出した。弾力のある舌に、勢い良く雨がダイブする。冷たい雨を味わうように飲み込もうとしたが、舞い降りた衝撃で舌が痺れたせいなのか、タバコと粘ついた客の味しかしなかった。
眼を伏せて家路を歩いていると、ふと細く青白い脚と赤い靴が視界に映りこんだ。びしょ濡れの顔を上げると、女がいた。
「よう、久しぶりだな。どこ行ってたんだ?」
俺は虚ろな笑みを向けた。女は哀しげな瞳のまま、口を噤んでいた。二人は冷たい雨の世界に堕ちている。
「いつもは雨なんて降っていないのに、大層立派な傘を昼夜問わず無意味に持ってるくせに、肝心な時に、どっか忘れてきたのか?」
傲慢で女を嘲るような口調で言うと、彼女はくるりと軽い身のこなしで背を向けた。その瞬間、心臓が肋骨を押し潰すほど激しく脈打つ。またあの嫌な寒気が、胸の奥底から湧き上がる。
「待ってくれ! まだ行くなよ!」
生きているのか死んでいるのかも分からない女に、必死の形相で手を伸ばす。けたたましく鳴り響くクラクション。闇に紛れた車から閃光が発せられ、憂いた眼前に広がる。慌てて身を引くと、鉄の塊が物凄いスピードで通り過ぎた。車が通過し終えた時には、女は俺の知らない暗闇へ消えていた。
突然、ポケットの中で携帯電話が震えた。姿をくらました彼女の抜け殻を探しながら、画面を見ずに電話を耳に当てると、聞き覚えのある柔らかい声がした。
「もしもし、私」
「ユリコ先輩、ですか……?」
「横、向いて見て」
横? と思いつつ、左側を見ても誰もいない。あの車の赤いブレーキランプが闇に漂っているだけだ。
「逆よ、逆!」
電話口の声に若干ムカつきながらも促されるまま右を向くと、空色の傘を差したユリコ先輩が佇んでいた。表情は夜の帳に覆われて見えない。
「ねえ、今、誰と話してたの?」
鈍重な雨の足音が大きくなる。遠くで、切り裂かれた車が悲鳴を上げた。
それからは薬を買うためだけに、毎日奔走した。毒薬を手に入れる為に、愛せない金をばら撒く汚い男達を抱いて抱かれた。ユウキさんに紹介して貰いつつ、数珠繋ぎのように客を獲得し、仕事を増やした。お客様のご要望があれば、幼女の格好だってしたし、自慰や排泄行為だって見せたさ。機械仕掛けの人形みたいに飾り付けられて腰を振り、声が奪われるまで咆哮した。毎晩毎晩終わることのない狂った舞踏会。みんな仮面を被り、相手を組み替えては、押し潰し合い踊る。人の業は深く、その深淵は生温かい体液と腐乱し発酵したザクロ色の嘔吐物しか存在しなかった。
そして、仕事を終えた足でユリコ先輩の家に向かい、彼女を抱いた。汚らしい男共の体液が、ユリコ先輩の甘く純白な粘膜と溶け合う。汚れているのは、俺だけじゃない。俺だけじゃない――。自分は正常な人間で、汚物まみれで穢れているのは一人じゃないと思い込みたくて、ユリコ先輩を汚した。一人だけ、黒い後ろ指を刺されるのが怖かった。
綺麗な金なんていらない。汚い金で毒を買い漁り、醜く痩せ細った躯に絶え間なく注入する。コカイン、大麻、ヘロイン、LSD、モルヒネ、ゴメオ、巷で出回っている毒薬はすべて手に入れた。感覚を鈍らせてくれるなら、なんでもよかった。乾燥大麻を汚れた万札で巻き、吸ったりもした。もし誰かが、「これも飛べる薬だよ」と言って、金色の鍍金にコーティングされた林檎を差し出してきたとしても、疑いもせずに食べるだろう。いずれは、脳みそだけじゃなくて内臓ごと腐ってしまえばいいんだ。そうすれば、大嫌いなこの世界とサヨナラできる。夢の中で腐り落ちたシンの腕のように、血と骨と五臓六腑と思考が壊れて腐乱していくのをただ待つことしかできない。でも、それが堪らなく心地良かった。
この日も仕事を終え、ユリコ先輩の家で愛を忘れて睦み合い、眠りの世界に昼まで浸っていると、携帯電話が鳴り出した。芋虫のようにベッドから這い出し、脱ぎ捨てたズボンから四角いピンクの電話を取りだす。乱れた髪を掻き揚げ、霞んだ眼で操作をすると、飛び込みの仕事のメールが入っていた。―場所も条件も悪くない。
緩やかに昨夜の余韻が漂うベッドから躯を起こす。衣服を掻き集めて、家を出る仕度をしていると、ユリコ先輩が背後からするりと腰に手を回してきた。
「起こしてしまってすみません」
「……もう、帰るの?」
蒼いネルシャツを羽織りながら首を縦に振る。纏わりつく白い枝が腰を締め付ける。
「また、バイトなの? そんなにお金が必要なら、貸そうか?」
ゆっくりと腕を解き、静かに彼女を見下ろす。大きく綺麗な瞳が、切ない煌きに溢れていた。澱みのない午後の光が容赦なく浮かび上がらせる。
「大丈夫ですよ。借りても返す当てがないものは、借りない主義なんです。だから、どんなに仕事が忙しくても、猫の手は借りません。猫の手なんて、返しようがないしね」
触れられないユリコ先輩が、木漏れ日に揺れる花のように笑う。久しぶりの笑顔だ。
金と欲望で錆付いた手錠に引かれて部屋を出ると、雲一つない青空が広がっていた。すべてを包み込んでくれる青空の下にいるはずなのに、自分だけが街にも誰にも溶け込めすにいる。憂鬱さえ打ち消す孤影を引き連れ、背徳が蔓延る空間へと向った。
朽ち果てた歳月を重ねていると、朝起きると手が震え始めた。原因不明の震えは日に日に悪化していき、それは俺が生きていることを嫌でも認識させた。
震えに怯える朝を三回越えた日の仕事終わりに、ユリコ先輩に何度も電話したが、どうしても繋がらなかった。彼女のバイト先や友人関係など知る由もなく、一人だけ汚れたまま家に帰ることにした。
やけに静寂が満ちた夜だった。自分の足音以外に、何の声も存在していない。おっさんの唾液と精液を浄化したくて、道端に設置された自販機で水を買う。水を口に含んだ瞬間、自販機の前で盛大に吐いた。なぜか、躯が水を拒絶したのだ。それからは堰を切ったように胃の中が空っぽになるまで嘔吐した。内臓を突き上げられるたびに、口の中に強烈な酸味が広がり、吐き気を加速させる。足元に肌色に染められた汚物の池が形成された。昼に食したハンバーガーは、どこまでが肉でどこからがパンなのか分からないほど跡形もなく液状化していた。
乱れた呼吸まま、水で口を濯ぎ、酸っぱい唾と一緒に地面に吐いた。何度清らかな水で濯いでも、粘ついた胃液が残留して気持ち悪かった。自販機の横には誘蛾灯が一つ。紛い物の光に害虫どもが引き寄せられ、群がり、醜い叫び声を下敷きにして虚像が蠢く。一匹の蛾が青白い光に触れ、死んだ。足元に、魂を失った物体が吐瀉物の隣に横たわっていた。
潤んだ瞳で空を見上げる。雲一つない、星の瞬く夜空。
「――今夜は、月が見えねえなぁ」
そう言い残し、その場を去った。蛾は地面にめり込んだまま、乾燥した光に照らされていた。
それからは朝の震えに加えて、吐き気まで襲来してくるようになった。初めは、重い胃の不快感が常に居座っている感じだった。苦痛から逃れたくて、嘔吐しながら便器に顔を突っ込んでいると、シンのあの言葉が蘇り、傷ついて皮膚が捲れた心に容赦なく突き刺さる。記憶は何の前触れもなく、毎日襲い掛かってくる。得体の知れない相手に対して防ぐ手段も知らず、幾度となく染み入る痛みに耐えかねて、昼夜問わず何度も吐いた。胃酸が喉を焼く。吐く度に喉が痛み、痛みを軽減させようと水を飲むが、躯はそれさえも受け付けなくなった。吐瀉物を吐き散らし、洗面台で顔を洗った後、鏡の奥にはグロテスクな女神が生気のない俺に優しく微笑んでいた。何を食べても、何を飲んでも、訳の分からない胃の圧迫感と口内へ拡散する酸味に犯され、腐臭を放つ醜い女神に殺意すら芽生え始めていた。
いつものように仕事を終え、ユリコ先輩の家へ行った。今夜は遅番らしく、彼女は八時になると、バイトに出掛けた。泊まっていく? と訊かれたが、朝の震えを見られたくなくて、自分の家に帰ることにした。
電車を降り、通り道に点在する誘蛾灯に照らされた自販機で、この前と同じように水を買おうと思い足を止めた。自販機の傍には新しい死体が転がっている。蛾を拾い上げ、掌に乗せた。足を覆う産毛は、まだ柔らかい。冷たく優しい視線を感じた。視線の先を薄れた瞳で見ると、いつもの赤い傘の下にいつもの女がいた。艶やかな黒髪に夜風が愛撫する。
「最近、よく会うな」
羽をなぞると、サラサラとした鱗粉が張り付き、指先を綺麗な黄金色に染めた。青白い光に照らされても、その輝きは消えない。
「実はな、俺には親友の『シン』て男がいてな、小学校の頃からの悪友で、そいつは俺と違って、勉強はできるし、女にモテるし、おまけに無駄に行動力があるんだ。俺は女にモテたくて、アイツのマネばかりしていたよ。いつも隣で笑っていながら、根性無しでチキンの俺はあいつが羨ましかった。否、今でも羨望の眼差しで、アイツの背中を怯えながら見ているよ。
……本当は、全部知ってたんだ。シンがどんなに危険なバイトをして、大金を得ていたかなんて、重々承知だった。でも、俺には止めることはできなかった。アイツには果たさなきゃならない目的があって、それを捨てたら母親を裏切ることになるんだ、て言ってた。自分と母親を捨てた親父さんの会社の株を買い占めて、親父さんと継母に復讐するんだって。失う気持ちをアイツにも味あわせてやる、ていつも言ってた。事実と真実は違うって事を知っていても、やらなきゃならない仕事なんだとさ。だから、俺は何も言えなかった。
ほんと、シンは凄いよ。眩しくて、目ん玉焼かれても、自分を照らす光だけを信じて、必死に追いかけてる。それに引き換え俺は、紛い物やも知れぬ光を、何時までも本物だと信じてここまで歩いてきた。自分を誤魔化し、欺きながらも、それだけは捨てられなかった。でも、シンと違って最後は自分で握り潰しちまった。……分かっているんだ。本当の事なんて、ずっと前から。何で、こんな風になっちまったんだろうな。本当はシンみたいに、真っ直ぐに自分の信じた光を追い求める人間に成りたかった。ただ、その強さが欲しかっただけなのに、な。俺は……弱い」
顔を上げると、上弦の月が煌々と崇高な光を放ちながら孤独にぶら下がっていた。隣に視線を移行させると、先ほどまで隣にいた女は音も立てずに俺と世界を捨て去っていた。再び空を見上げると、月は俺を見捨てることなく、半分だけ優しい光を降り注いでくれた。
「――随分、遠くまで来ちまったなあ。引き返そうにも、戻れそうにねぇや」
臆病で卑怯な俺は薄ら笑いを抱えたまま、沈みゆく家路を歩いた。
仕事以外の時間は、恥も尊厳も捨てて毒薬に溺れた。膝を抱えて、部屋から一歩も外に出ない。欲望に塗れたゴミ屑だ。否、それすら成れそうにない。欲望がどれほど飽和しても、喉の乾きだけは癒えなかった。酒と水だけを食道に通しては、吐き出す。醒めない悪夢のように無限の輪に囚われた。空を見上げても、黒目を失った眼では昼か夜かも分からなくなっていた。
毒薬で分解された自我が浮遊する腐敗した部屋に、一件のメールが届いた。この空間に似つかわしくないほど鮮やかなエメラルドグリーンに光る携帯電話を足の指で手繰り寄せた。アキからだ。
『生きてるか?』
ただ一言だけ、薄汚れた画面に表示されていた。返事を打つことなくメールを消去していると、埃を吸い込んでしまったらしく盛大に咳き込んだ。荒れる喉を静める為に、冷えたミネラルウォーターを飲んだ。それでも咳は治まらず、久しぶりに窓を開けた。ずっと冷房の中で暮らしていたが、いつの間にかクーラーが要らないほど夕刻の風は涼しくなっていた。
沈みゆく部屋で夕日に恋焦がれながら、もう一度水を飲んだ。咳で噎せ返ることも、吐き出す気配はすでになかった。
「もしもし、ケイ君? 昨日はごめんね。今夜、会える?」
仕事の為にセットしていたアラームだと思い込み、携帯電話に手を伸ばすと、ユリコ先輩からだった。暗闇の中でカラフルな点滅を繰り返すだけの電力を垂れ流し続けるテレビ。時刻は六時半を表示している。朝なのか夜なのか分からず、カーテンの隙間から空を仰ぎ見ると、十三月夜が浮かんでいた。
「もしもし、もしもし、ケイ君? 聞こえる?」
テレビではスーツで武装したアナウンサーが淡々と原稿を読み上げる。
先ほどお伝えしたように、本日午前九時十一分に、シンガポール航空SQ5940便の飛行機が着陸に失敗し、シンガポール空港に墜落しました。原因はパイロットの操作ミスとの見解が、地元ニュースで報じられています。乗客一二九名のうち、一○三名の死亡が確認され、四名が救出され病院に搬送されました。残りの十二名については、いまだ安否が確認されておりません。同航空機に乗り合わせていた日本人は二十四名。只今の時刻までに二十三名の死亡が確認され、唯一救出された六歳の女の子は、現在も意識不明の重体です。繰り返しお伝えします。本日――。
「もしもーし!」
能天気な叫び声が耳の奥まで突き刺さり、思わず顔を歪め、携帯電話を離した。顳顬まで痛い。
「……あい」
「あっ、大きな声出してごめんね。てっきり電波が悪いのかなって思って……。今、大丈夫?」
「どうしたんですか?」
明かりを点け、温くなった缶ビールを干からびた喉に滑らせ、テーブルから消えたタバコを探して床を這い蹲る。
「今夜、会えるかな?」
胡坐をかき、ライターのフリントを回すが、なかなか火が点かない。舌打ちをしながらライターを振り、再度指に力を込めて回すと、ようやく火が灯った。
「……なんだか機嫌悪そうだから、やっぱり今夜会うのは、やめとくね」
躯を包む倦怠感をなぎ払うように煙を吐く。灰色の靄が部屋中に広がり、意味も持たずに消えていく。
「会いましょうよ。ユリコ先輩は俺にそこまで会いたくないかもしれませんけど、俺は先輩に会いたくてしょうがないんです。昨日の夜からずっと、ね。ただ、これからバイトがあるんで、先輩の家に着くのは十時頃になると思いますけど、それでもいいですか?」
彼女は待ってると言い、電話を切った。シャワーを浴び、適当な服に着替えて、出掛ける支度をノロノロとしていると、テレビでは同じニュースが繰り返し読み上げられていた。テレビの電源を落とすと、アナウンサーは黒い画面に呆気なく吸い込まれてしまった。彼の代わりに、痩せこけて生気のない器が映し出された。
今夜の客は新規ではない。所謂、リピーターてやつだ。初仕事をした豚男は、どうやら俺が気に入ったらしく、二日前に依頼のメールが着た。料金の交渉を持ちかけると、七万円にアップしてくれた。
この前と同じホテルで待ち合わせ、部屋に入るなり早速バスルームに行かされた。これまた同様にバスルームで全裸にされ、躯のあらゆる部分を凝視された。そして、生えてきてるねぇ、と気色の悪い感想と鼻息を漏らすと、また毛を剃られた。今度は、腕や背中の毛まで剃られた。俺は言われるがまま体勢を変え、時々訪れる安っぽい刃が肌を削ぐ痛みに耐えていた。
先払いで七万を受け取り、ベッドで蛇のように貪り絡み合った。互いの体液とローションがべったり張り付き、出来たての生傷に染み入る。全身を無数の小さい針に刺されているようで、体中を掻き毟りたい衝動を抑制するので精一杯だった。他には何もない。
仕事が終わり、シャワーを浴びて部屋に戻ると、男は窓辺でタバコを吸いながら欲望が渦巻く不埒な街を見下ろしていた。俺はそそくさと着替えを済ませ、携帯電話を開き、ユリコ先輩にメールを打った。彼女の家に辿り着くのは……十時半頃かな?
なあ、ケイ君。どうして僕が男に金を積んでまで買っていると思う? 僕ね、三年前に子供が出来たんだ。でもね、僕は子供なんて欲しくなかったんだ。子供の育て方や愛し方なんて学校で習わなかったから分からないし、第一、父親になんてなりたくなかった。だから、女に金を渡して、堕ろしてもらったんだ。女は泣いていたけど、これでよかったんだ。だって、本当に僕の子供かどうかなんて分からないし、母さんと同じような弱い女の子供なんて気持ち悪いだけだしね。ほら見て。ここにタバコを押し付けられた痕が、たくさんあるだろう? これは母親にやられたんだ。こっちの切り傷は狂った父親に……。嗚呼、ごめんね。こんなもの見せちゃって、気分悪いよね。それでね、最初の話に戻るんだけど、その一件があって以来、女の人とセックスするのが怖くなったんだ。だって、どれが人殺しか分からないじゃないか。中絶は殺人だよ。そりゃあ、止む終えない事情や状況なら仕方がないと思うよ。でも、そうじゃない人間の方が多すぎるんだ、今は。人間の皮を被った化け物だ。それに気が付いてしまったんだ。でも、神様は意地悪だよね。女を拒絶しても、性欲は無くならないし、それ以上に誰かと触れ合いたくて躯が疼くんだ。だから、男を買うことにしたんだ。男はいいよ。女みたいに簡単に股を開かないし、妊娠する心配もないし、何より殺人者はいない。でも、どうしても太い毛だけは我慢できないんだ。擦れ合う度に背筋が嫌悪感と不快感でゾクゾクするし、男と抱き合っているみたいでイヤなんだ。誰だって毛深い女は嫌だろう? 君に毛を剃ってもらったのは、そのためなんだ。君だって何か事情があってこんな仕事していると思うけど、本当は女とか男とか関係なくどこか満たされない部分があるから、他人から見たら汚らしくてゴミみたいな行為をしているんだろう。それとも、わざと自分をすり減らす為に、最低だと思う行動を繰り返しているのかな?
……えっ、何て? 僕が? あははは、何を可笑しなことを言っているんだ。僕は人殺しなんかじゃないよ。化け物にもなれない、ただのデキソコナイさ。
携帯電話をポケットに押し込み、部屋の扉を開けると、素早く動く黒い塊が侵入してきた。油塗れでギラギラとした光を背負って体液に汚染された床を這いずり回る茶羽ゴキブリを見ながら、あの女の子は死んだのかなと、ぼんやり思った。
ホテルから出て、ジョイントに火を点けると、隣に音もなくあの女が寄り添っていた。雨のない空に赤い傘。まるでそれが当たり前かのように、彼女は佇んでいた。立ちの悪いネオンに彩られたサイケドリックな幻覚の中で、実像の欠片もない彼女がいてくれて嬉しかった。
「なあ、お前は幽霊だけど、俺は……何だろうな? 小汚い化け物か? それとも悪魔に身売りしたモノか?」
―ケイなら、なんにでもなれるよ―
二度と会えない親友の声を、不愉快極まりない蝿の羽音が掻き消す。冷蔵庫と同じ音だ。もう誤魔化せやしない。
「俺が大人のカスみたいな都合で殺される胎児や、遠くの国で死んでいく子供を助けてあげられないことぐらいは知っている。……薬で頭を空っぽにする術は知っているが、友達を救う術一つ、知らないんだ。気付いているんだ。本当に手にしたい幸せを薬に掏り替えて、ちっぽけな脳みそと心を誤魔化していることぐらい……。だから、俺はいつだって空っぽなんだ。当たり前だよな。でも、もう何が体と心を満たしてくれていたのかも、分からなくなってきた。……なあ、シン。俺は、いつからこんな生き方をしてきたんだろうな? ラリった頭じゃあ、何も思い出せねぇや」
残された赤黒い体液に濡れたままで項垂れる肩の下で、赤い傘がゆらゆらと揺れていた。
ポケットに入れていた携帯電話が、低い呻り声を上げて震えだす。軽く舌打ちをして画面を開くと、ユリコ先輩からだった。文面だけ確認し、返事を打たずに携帯電話を閉じると、横目に見えていた赤い傘が視界から消えていた。
尻ポケットに携帯電話を仕舞い、ジョイントを足元に投げ捨て、粉々になるまで踏み潰した。足を上げると、アスファルトに死にぞこなった葉っぱが引き千切られていた。新しいジョイントを吸おうとタバコの箱をポケットから取り出す。タバコが三本とジョイントが二本。
「ちっ、あと一本しかねえや」
ジョイントを引き抜き、薄っぺらくなったフィリップモリスを定位置に押し込む。嘘の光にコーティングされた街が眼の奥で廻る。どこに天があり、どっちに地があるのかも分からない。空白の眼を擦り、煙たい毒薬を引き連れて駅に向かった。道の途中で知らない若い女がビルの谷間から落下し、目の前で壊れた。手足はあらぬ方向に曲がっていたが、眼だけはしっかりと見開き、ひしゃげた血の翼を広げていた。俺は驚きもせず女を跨ぎ、何事もなかったように歩き出し、額を掻きながら改札を通り過ぎた。恐怖に歪んだ女の悲鳴が遠い空の向こうから聞こえてきた。
ハヤカワさん! しっかり、ハヤカワさん! 誰か、救急車を呼んで下さい。お願いです、誰か――。
浮遊する頭を何とか作動させながら電車を乗り継ぎ、ユリコ先輩が住む街に到着した。時計の針に眼を落とすと十一時を回っていた。ふらつきながら足を進める。まるで薄雲の上を歩いているかのように、地に足を着けている実感があるようでなかった。
晩夏の夜風に乗って枯葉が舞い降りてきた。足を止め、街路樹を見上げると、月明かりの中で茶色く色付いている葉が何枚も見受けられた。風はまだ夏の匂いが残っているのに、葉は命を枯らし朽ち始めている。
枝にしがみ付く乳白色の物体がいた。じっと眼を凝らすと、蝉が羽化していた。しがみ付いていたのは枝では、抜け殻だった。透明で透き通る胴体と青白い月光に似た羽を乾かしている。何者にも汚されていないこの世で最も純白で美しい姿だ。七年間、暗い土の中で孤独に耐え、大空を羽ばたく夢だけを繰り返し見て、夜明け前に生まれ変わる儀式。手を伸ばし、枝で羽を乾かす蝉を取り上げた。蝉は小さな未来への産声を上げた。羽を指でなぞると、まだ柔らかくほのかに湿っている。一瞬、蝉と眼が合った気がした。その光に満ち満ちた眼が怖くて、手の中で握り潰した。鈍く命が壊れる音が脳髄にダイレクトに突き刺さる。蝉の体液が拳から滴り落ちる。その体液を一滴残らず舌で掬い、飲み込んだ。震える拳に臆病な白き刃を突きたて、涙が影も持たずに落下した。
ユリコ先輩のマンションに辿り着き、チャイムを押そうとした時、右手に蝉の残骸を握り締めたままだったことに気付いた。拳を広げると、ぐちゃぐちゃに握り潰された未来があった。それを投げ捨て、掌に付着したバラバラの破片を綺麗に塗装されたアスファルトに擦り付けた。死骸の山に唾を吐きかける。これで一つになれた。せめて土の上に捨ててやればよかったと思いながら、チャイムを鳴らした。
ドアを開けた彼女はにこやかに微笑み、腐った俺を出迎えてくれた。すでに風呂に入ったようで、黒のキャミソールと水玉の短パン姿だった。風呂上りなのに、俺がプレゼントしたピアスの輪が緩やかに揺れていた。濡れた髪から心地良いシャンプーの香りがする。俺には豚男と同じ安っぽいシャンプーの匂いが染み付いている。
「バイト、お疲れさま。中に入って」
促されるまま部屋に入ると、ユリコ先輩の香水と同じ匂いがした。砂糖菓子のように甘く、花のように柔らかい女の香りだ。
襲来した真っ赤な衝動を抑え切れずに、ユリコ先輩に乱暴な口づけをしながらキャミソールを捲り上げる。下から胸を揉むと、彼女が小さく甘美な声を上げた。
「ちょっ、ちょっと、待って! 今日はダメなの!」
五月蝿い口を塞ぎ、ブラジャーのホックを外した瞬間、ユリコ先輩を押し倒した。短パンとパンツを同時にずり下ろし、俺を拒みバタつかせる足を広げ、肉の割れ目に無理矢理赤黒く乾いた襞を這わせ、捻じ込んだ。生臭い血の味がした。でも、これが生き物、人間の本来の味なんだ。
「イヤ、ヤメテ。……ヤメテよぉ。やめ、やめてぇえええええええ!」
女の渾身の蹴りがわき腹に直撃し、鈍く篭った叫び声を上げた。息ができないほどの痛みで我に返り、薄い呼吸を漏らしながら顔を上げると、ユリコ先輩の恐怖に染められた絶叫が部屋中に響き渡る。彼女は素早くパンツを履き、震える人差し指で洗面台を差し示した。床には血の波紋が幾つも転がっていた。
洗面所に行き鏡を覗き込むと、血塗れの顔があった。口の中で芋虫のように蠢く異物を吐き出すと、血と唾液の泡に混じって、赤黒い塊が浮いていた。あの女の傘と同じ色だ。どれだけ顔を洗っても、擦っても、血の匂いは消えてくれなかった。むしろ、洗えば洗うほど血の濃度を増すばかりだ。
その夜を境に、ユリコ先輩と永遠に会うことはなかった。最後に彼女がくれた言葉は……、何だったかな? もう思い出せないや――。
死の影を引き連れたまま歩く帰り道でまた吐いた。ほんの二時間前に嘔吐したばかりなので、酸っぱい液体しか出てこなかった。唾液と胃液の海の中に、白い蛋白質とザクロ色をした血の塊が浮いていた。黒檀の海に浮いた赤と白の雲は、ナイターの帰りに見上げたあの雲に似ていた。豪雨が来る前の、雨の気配を孕んだ暗く湿った空。躯ににじり寄ってくる、優しい雨と柔らかな潮の匂い。命を亡くした風船。もう二度と見ることのできない親友の横顔。シンはいつも待ち合わせには遅れてくるくせに、どうしてこんな時だけ先に逝ってしまったんだ。待たされるのは、俺の役目なのに……。
すべてが混じり合えない過去のように思えた。眼を閉じ、目蓋の裏で微笑む亡霊に手を伸ばす。縋るように両手を差し出しても、決して彼に届く事はない。触れることも赦されない。シンはいつもと変わらない笑みを浮かべたまま、立ち尽くしていた。
眼を開けると、笑顔のシンがそこにいた。嗚呼、君はずっと俺の傍にいたんだね。そんな簡単なことに気付かなかった愚かな俺を、どうか赦してくれ。もう一人にしないでくれよ。だから、今度こそ手を伸ばしてくれ。君もこっちの世界に還って来るんだ。
手を伸ばし、シンに歩み寄った瞬間、二人の間に強い風が駆け抜けた。肩まで伸びた髪が顔を覆う。風が止み、黒い幕が開かれると、シンは足音一つさせずに連れ去られ手しまった。彼の残像が眼に深く焼きついて離れない。
シンの後ろ姿を探すようにフラフラとした足取りで、なんとか浜辺に辿り着いた。彼が死んだ海だ。今夜もナイターが開催されており、球場は眩い光と歓声に包まれている。
砂浜に腰を降ろし、背中越しにぼんやりと歓声を聞きながら、あの頃には戻れないことを痛感させられた。全てを捨て、友達も彼女も拒絶した俺は、もう帰る場所すら失くしてしまった。自分で捨てはずなのに、要らないモノを捨てただけなのに、どうしてこんなに胸が痛むのだろう……。
水面に満月の明かりが揺らめく。優しい波音で耳を塞ぐ。この中にシンがいる。打ち寄せる黒い波が俺を呼んでいる。
ゆっくりと立ち上がり、月が照らす道を歩き出す。晩夏の黒い海は、冷たくも温かくもなかった。
月下の海道を歩き疲れた時、躯が急に海へ吸い込まれた。鼻と口に大量の塩水が入ってきた。予想外に苦しくて手足を無様に動かす。塩水が体内に侵入すればするほど、恐怖が増加していく。あんなに海に溶けたかったはずなのに、酷く怖くて不安になり飲み込まれそうな眼を抉じ開けた瞬間、水面にシンの姿が見えた。パールの光に照らされた彼は初めて出会った時と同じ笑顔だった。
――なあ、ケイ。あの時の約束、覚えてる?―
嗚呼、勿論だ。あの約束こそが、俺達の絆であり、すべての始まりじゃないか。でも、どうしてだろう? ゆっくりと息を溢すたびに、約束の言葉が泡になり、音が一つずつ消えていく。あの言葉を失いたくなくて、必死に泡を掻き集めて口に戻しても、苦しくなるだけで、思い出せない。もう、自分が泣いているのすら分からない。シン、最後のお願いだ。あの言葉を、もう一度だけ囁いてくれ。そうすれば、たとえ肉体が消失しても、俺は君と永遠に魂で結ばれる。寂しさだけを抱えて、死ななくて済むんだ。
シンは柔和な笑顔のまま、揺らめく灰色の海に溶けていった。俺は無数の透明な真珠に囲まれて、暗い海と夜に埋もれた。
静穏な波音の囁きが、漂う意識を呼び覚ます。目蓋を開けると、朦朧とする視界の奥で、光の輪を纏った満月が煌々と輝いていた。口の中は砂と塩水が混じりあい、しょっぱくて生臭い砂が舌と頬に張り付いて気持ち悪い。
「生き……てる……」
月明かりの届かない海の中、沈みゆく言葉と泡に囲まれて眠りについたはずだった。
どうやら死に損なって、浜辺に打ち上げられたようだ。しかし、躯は海水を吸い込んだせいか身動きが取れないほど重く、目蓋をはためかせるのが精一杯だった。
かろうじて動く眼球で視界に映りこんだ細い足を見上げると、女がいた。月明かりしかない世界でも、血の色の傘を差している。遠くで聞こえる波の音が、優しく二人だけの世界を包み込む。
「お前が……助けたのか?」
女は無表情で俺を見下ろしたままだ。うつ伏せで砂浜に躯を沈めていたせいか、胸が苦しくなり寝返りを打とうとしたが、まだ上手く力が入らない。
「なあ、頼みがあるんだ。手ェ、貸してくれないか? そんで、俺をもう一度海に連れて行ってくれ。どうも泳ぎ疲れたみたいで、躯に力が入らないんだ。頼むよぉ……」
砂塗れの片頬を引き攣らせながら女に懇願した。月が光を増し、傘の下に隠れた彼女の表情を炙り出す。その顔は、いつもと同じようにあらゆる感情を排除した顔だったが、煌く瞳は月光に似ていた。
「俺は……俺は自分だけ醜く生き延びるのは、嫌なんだ。だから、死なせてくれよ。殺してくれよ。……それともお前は、腐りきって空っぽな俺に、生きろとでも言うのか?」
死に損なった人間を見下ろす死んだ人間。世界で一番小さな二つの海から、涙が溢れた。シンが死んだ日でさえ涙は一滴も出なかったのに、今夜は際限なく溢れ出す。まるで枯れることを知らない湧き水のように、止め処なく湧き上がる。砂浜に死人の熱が逃げていく。涙の奥で両者を隔てる壁が音もなく崩壊していく。積もる瓦礫の向こうに君の寂しげな笑顔が見えた。もう、手は伸ばせない。
胸を締め付ける波に混ざって、あの言葉が聞こえてきた。でも、それは彼女からではなく君の音だった。弱くて臆病で狡猾な俺を、女は冷めた眼で見下ろしたままだ。
「こんな、こんなクズで空っぽな俺でも、最後まで人間でありたいんだ……」
溢れ出す命と時間を悪戯に垂れ流し、自らの意思でゼロになることを望んだ俺の、祈りにも似た最後の願いだった。小さな海が満潮したせいで一度だけ深く眼を閉じると、滲んだ世界から彼女は跡形もなく消えていた。歪んだ波の音だけが、俺の歩むべき道を指し示していた。
両腕に渾身の力を込め、湿った躯を起こす。逃げ出した夜空には、幾千の星と失くした約束の代わりに一つだけ満月が輝いていた。弱々しい足で立ち上がり、月明かりが微かに揺らめく暗い海を見渡す。そして蜜色の光が滲む海に背を向け、歩き出した。俺が帰るべき場所へと――。
シンは戦って死んだ。虐待した母親を愛し、離婚をして一度はシンを捨てたが、暴力から彼を救った父親を憎み、潰そうとした。
壊れた母は幼い彼に残酷な約束をさせた。母親を壊したのは父親だと思い込まされ、そして彼女の呪縛に縛られ続けた。きつく結ばれた鎖は、シンが潰れることで解かれた。自らをすり減らし、命までも磨耗し、最後には朝と引き換えにしてまで母親との約束を果たそうとした。たとえそれが無残な死に様だとしても、彼は自分の守りたいものの為に死んでいった。
遠く暗い道を歩き出す。何もなく真っ直ぐな道を照らし出すのは、煌々と輝く満月だけ。躯に張り付いた砂は次第に乾いていき、風にさらわれた。サラサラと音もなく剥がれ落ちていく。風にさらわれた砂が祝福するように、俺の道筋に小さな星達を散りばめる。それはまるで月明かりを身に纏い、一筋の白い光に向って飛び続ける高潔な蛾の鱗粉のように輝いていた。
遅蒔きながら、やっと君が言っていた意味が分かったよ。やっぱり、そこにあったんだな。俺が知りたかったことが――。
自販機でボルヴィックを買う。諭吉達は塩水で醜く変容していた。生き残った小銭を入れ、ボタンを押すと、ゴトンと重苦しい音を響かせながらボトルが落ちてきた。キャップを空け、一口だけ飲んだ。乾いた喉に清冽な湧水が体中に染み渡る。細胞の一つ一つが潤い、無垢な産声を上げていく。
視界の隅で、ちらちらと赤い傘が揺れていた。彼女だ。いつものスタイルで、いつもと同じ無表情な顔で俺を見ていた。眩い月明かりが、寡黙で儚げな彼女を白く浮かび上がらせる。
「さっきは、ありがとう。お前のお陰で、大事な事に気づけたよ。俺も気づいたばっかだから、それが何なのか上手く君に伝えられないけれど、とにかくありがとうな。……ただ、シンと昔交わした約束がまだ思い出せないけど、今はなんだかそれで良いような気がするんだ」
俺が顔をほころばせると、女が静かに微笑んだ。その顔は、遠い彼方に置き去りにしてきた記憶と重なった。
「そうか……。やっと分かった。お前は、あの時の――」
女は笑ったまま背を向けた。当てのない記憶と彼女がシンクロした気がした。それは幼き日に見た、凍える前の貴女の笑顔だった。強く鮮やかな夜風が二人の間を吹き抜ける。伸びた前髪が眼を刺し、思わず眼を瞑る。痛みが過ぎ去った時には、彼女は壊れた闇夜に溶けていた。
丁寧にボトルのキャップを締め、自販機の隣に置かれたゴミ箱に、買ったばかりのペットボトルと濡れた札束をぐちゃぐちゃに握り潰して捨てた。自販機の白い人工光に、虚しそうに羽を広げた一匹の蛾が飛んできた。しかし、渇いた発光体に衝突する寸前、彼はひらりと羽を翻し、銀色に輝く満月に向って飛んでいった。足元には、手足を丸めた蝉の死骸が二つ。長い夏の終わりだ。
夜空を仰ぎ見ると、随分とでけぇ月が穢れた俺と眠っている世界を照らしている。黒く不気味な雲がゆるりと流れてきた。
「心配すんな。俺はもう逃げないし、アイツと一緒に生きて行くよ」
彼女は月に還っていった。もしかしたら勘違いかも知れないが、今はそんな気がする。俺があちら側に逝くまで、もう二度と会うことはないだろう。それは少しだけ寂しいけれど、静かな海に委ねた約束さえあれば、俺はどこへでも行ける。そうだろう? シン。
黄金に輝く雨が降り始めた。眼前を覆う陰惨な雨雲は完璧な月を隠すことはできずに、悪戯に黒い羽を広げている。荘厳な月が十字に照らす道をぶらりと歩き出す。顔に付着した雨を掌で拭うと、雨の中に淡い海の香りがした。
俺達、どこまで行けるかな――。
黒い羽が、一人ぼっちの濡れた影を世界の最果てへと追いやる。紺碧のベールに沈む夜明けは近い。
月に咲く誘蛾灯