望まれない果実の話

2013年の時の作品。よくわかんない感じの話ですが、「おっさんと女子高生が2人で生きている退廃的な雰囲気」というのを書きたかったようです。

 望まれない果実のはなし

 しんでしまいそうなあたしのてをとったのはひどくやつれたおとこだった
 あたしをみておとこはひどくおどろいたように**た

【1】

 季節としては初夏と言える時分。肌をさす陽射しはどちらかと言えば、
「夏かよ……」
 気だるげな男の声。振り返ればシャツ一枚に、無精髭を生やしたやつれたおっさん。下はトランクス一丁であるが、その美しくもないすね毛の生えた足は布団に隠されている。
 都会の狭苦しいマンションにしてはよい物件。ベランダからは朝陽がしっかりと差し込む。南側に高層ビルもない。まだ涼しい風が抜けていって、見苦しく出された男の腹を撫でていく。
「まだ湿気がないだけマシじゃない?」
「それにしたって三十一度は」いつの間にかテレビは天気予報を映している。「春とは言い難い」
「まあね」
 電気をつけていないのにこの明るさ。確かに今日は暑くなりそうだ。
「三十度越えたら夏日じゃねえ、真夏日だぞ? 今何月だと思ってやがる」
「五月。……ね、おっさん。そろそろ退いて。布団干しちゃわないと」
 男は虚ろな目で少女を見上げた。
「もう少しだけ……」
 その腰を、蹴飛ばす。力は抜いたが、彼は大げさにうぐぅとうめき声を上げた。
「布団の方が暑いでしょ、馬鹿」
 はいはい。そう、大義そうに言ってから、男は体を起こした。
「ああ。そうだ」
「……何」
 なんとも、重要なことを思いだしたように言うので。振り返れば、上半身だけを起こした体勢で、おっさんはこちらを見て、へらりと笑って、言った。
「おはよ、ふぃーこ」
「……おはよ」
 今日初めての、苦笑いじゃない笑みを浮かべながら。少女は卵を割って、フライパンに目玉をつくる。
 朝、はじめにすることは、いつも一緒だ。
 日差しが差し込んできて目覚めたら、自分の布団を整える。それから、お湯を沸かして、インスタントのコーヒーを淹れる。夜に汗をかいていて、じっとりした感じがあれば、シャワーを浴びに行く。トーストを焼きだす、じりじりというオーブンの音がすると、おっさんが目覚める。
 六畳程のワンルームマンションには、トイレも、お風呂も、別々についている。ユニットバスはぜったい嫌だと、少女がだだをこねたから。床は井草のカーペット。これはおっさんの要望だった。荷物の少ない二人にとっては、なかなか快適な生活空間。
 電気はもう、つけなくてもすっかり明るい。電気の紐を引っ張ると、影は少し濃くなった。自然光はとても眩しく、二人の目を刺す。
 薄暗い部屋で、二人は生きている。
 布団を畳んで、部屋の隅に追いやってから、ちゃぶ台の足を立ててどんと置く。それがおっさんの仕事。その上に、目玉焼きの乗ったトーストを運んでくるのが、少女の仕事。その間におっさんはひとつあくびをしてから、コップ一杯ずつのジュースを用意する。
 暗黙のうちに定められた、朝の営み。
「なあ、ふぃーこ」
 手で口を押さえながら、彼が言う。
「なに、おっさん」
 口の中のものを飲みこんでから、彼女が応える。
「今日の夕食は、ハンバーグがいい」
「そっか」
 一口、ジュースを飲みこんでから、
「ひき肉、安売りだったっけ……」
 床に散らばったチラシをかき集めた。
 日常が、過ぎて行く。
 ごちそうさま、そう言って、おっさんが立ちあがる。食器を持って、流しへ持っていく。目覚めから時を経るごとに、彼は少しずつしゃきっとしていく。不精髭は酷いけれども、一つため息を漏らす姿は、憂いのある、という形容が、とても似合っていた。
 少なくとも、少女には、そんな風にうつる。
 少女がゆっくりと朝食を嗜んでいる間に、男は顔を洗って、白いTシャツはワイシャツに代わっていた。ジーンズを履いたラフな格好。スーツでも着ればいいのに、と言ったら、
「動きにくいだろ」
 と苦笑いされた。
 それから、彼は靴箱の上、籠に入った鍵を二つ取り出して、ポケットに入れる。
「財布、持った?」
 おっさんは少し膨らんだ尻ポケットをぱんぱんと叩いてみせた。
「持ったよ」
「えと、携帯は?」
 反対側のポケットを、叩く。
「あ、」
「充電しっぱなし」
 コードを抜いて放り投げれば、危なげもなくキャッチされる。
「過充電は、電池の消耗を早めるよ?」
「うっせ」
 くたびれた紐靴を履いて、おっさんが一つ、伸びをした。
「行ってくる」
 かちゃ、と音を立てて、ドアが開いた。
 外からの弱い光が、彼の頬をぼんやりと濡らした。それは少女のいる所までは届かなくて、いっそう影を深くした。
「行ってらっしゃい」
 お互いに手を振って、ドアがばたんと閉まる。
 少女は、床に放置されていたブランケットを手繰り寄せると、それを被って、震える。かれはまたでかけていった、その事実が部屋の体温を酷く下げてしまう。口に当てて、深く息を吸い込んだ。
 煙草の匂いが、染みついている。
 南側についた窓からは光が差し込む。ブランケットの向こう側がとても明るい。もうすぐ八時だった。そろそろ換気も止めてしまわないといけない。喉がひゅうひゅうと音をたてていた。心臓が痛い。洗い物もまだしていない。おっさんが脱ぎ散らかしていった服を、洗濯してやらなくてはいけない。
 いけない。いけない。いけない。
 カチ、と秒針が音を刻んだ、その時チャイムの音がした。おっさんの趣味で、きん、こん、かん、こん、と懐かしい音。
 私を、蝕んでいく。
 それを合図にしたように、窓の外でする低いエンジン音。飛行機雲のように、それは尾を引いて飛んでいくのだ。
 滑らかな機体(ボディ)は、未確認の金属(ダークマター)で。
 胸部(コックピット)に人を乗せ、反重力(オーバーテクノロジー)で空を行く。
 人のかたちを模したような、空想的(アニメチック)なデザインで。
 それは少女のいるマンションを『見て』、一つ、手を上げた。

【2】

 おっさんが殺すのは、せかいの歪みみたいなものだ。
 ここにはたくさん欠損質量がある。誰にもよくわからないけれど、確かにそこにあって、それがなくちゃ話が成り立たなくて、だけどやっぱりわからないもの。ミッシング・マス。
 そんな欠損――裂け目から、歪みが吹きだしてくる。
 歪みは、ひどくつよい力で、せかいを吸いこむ。物理的(フィジカル)じゃなくて、精神的(メンタル)で。吸いこまれた人は、虚ろになって、まわりの人を、吸いこもうとする。だけど人にできるのは、物理的(フィジカル)な吸収だけだった。
 つまり、そういうことだ。
 おっさんは、そういう歪みを殺すお仕事をしている。うっかり、未確認物体に飲みこまれて、パイロットになってしまったばっかりに。
 あの滑らかな肌をしたロボットが勢いよく空を飛んで、裂け目を見つける。
 朝七時半くらいにおっさんは笑って家を出て、夕方五時半くらいに死んだ魚のような目をして帰ってくる。お帰りと言われれば、へらりと笑って、ただいまと言って、それから敷いておいた布団に倒れこむようにして寝てしまう。夕食はだいたい七時くらいで、おっさんはその香りで目が覚めるのだ。
 どうやって殺しているのかは、知らない。聞いても、教えてもらえなかったから。
 それでも、きっと、おっさんは死にそうな目にあっているのだ。毎日、毎日。
 窓から行う二回目の見送りが終われば、ようやく体が言うことを聞くようになる。ずるり、と、影から這い出すように、少女は体を起こした。
 おっさんが帰ってきたとき、すぐに眠れる家をつくる。それが少女の仕事だった。
 そんな仕事が始まったのは、もう一年も前だっただろうか。
 今日も、家をつくらなくてはいけない。帰ってこないかもしれない。帰ってきた彼が、虚ろになっていないとも限らない。それでも少女は家をつくらなくてはならないのだ。
 布団を干して、おっさんが脱ぎ散らかしていった寝間着を集めて、洗面所に行く。置いてある小さな洗濯機に、ポイと男物の下着やらなんやらを放って、それから自分も、着たままだった寝間着を脱いだ。
 ノースリーブの水色と白のボーダーワンピに、薄手で紺のカーディガン。黒のタイツを合わせた──通気性がよくても、やはり暑い。鏡で自分の姿を見て、少女は苦笑した。おっさんが、彼女には青が似合うと言うから、タンスには青系統ばかりが増えていく。
 年齢としては女子高生だが、行くべき高校はとっくになくなっていた。
「ああ、ひき肉、安売りじゃん」
 チラシを確認しながら、ふふ、と笑みを漏らす。財布が寂しいわけではない。むしろ潤いすぎているくらいだ。おっさんがあんまりに体を張った仕事をしている報酬、……国からの援助。人々の生活を護るための多額の税金で、おっさんの口座はよく潤っている。
 こんな『粗末な』家に住んでいるのは、おっさんの趣味だ。
 顔にぱしゃりと水をかけて、タオルでさっと拭き取った。やたらうるさく言われるので、高一レベルの勉強はしている。化学とか、物理とかも、おっさんはやれやれとうるさいのだが、独学でやるのにいくつもいくつも教科があると、頭がパンクしそうになる。やれと言うわりに教えてくれるわけでもなく、わからなくても教科書を睨むしかない。今日は数学をやる日で、数日前にやった円の方程式はもうすっかり記憶から飛んでいる。
 うんうん唸りながらなんとか一問解いたところで、きんこんかんこん、とまたチャイムが鳴った。一時間半毎に音が立つ。どっと肩の疲れが抜けた。数学をやる日は二番目に辛い。一番は物理だが。教科書もノートも、ちゃぶ台の上に出しっ放しだ。どうせまた昼になったらやるのだから。
 タンスの上に置かれたエコバッグを取って、内ポケットに携帯と財布を放りこむ。一つ、伸びをした。鏡を見れば、青ざめた顔の、不健康そうな少女に睨み返される。
 いってきます。
 口だけ動かして、『うち』と『外』を隔てるドアを開けた。

 〔陽光は、〕
 〔肌 を  歪む〕
 〔あつ い〕
 彼女は、一つ足を踏み出して、毎日毎日やるように、息を大きく吸った。
 〔熱  を〕
 〔はら    んで〕
 風が頬を撫で、ワンピースがはためいた。爽やかな出で立ちに、不釣り合いな主婦っぽいバッグ。全くセンスもクソもなくて、けれどどっちも止められなかった。可愛くあろうとしているわけではなかったから。
 〔ね   え〕
 〔い ま〕

 ──私、ここに   いるのに。

 スーパーの自動ドアが開くと、冷気が汗ばんだ身体を包んだ。
 あまり長引かせると、おそらくまたお腹を冷やす。サクサク選んでいかなくてはいけない。こういうあたり、夏が近づくのは憂鬱だ。
 ただでさえ涼しい店内は、肉売り場の前ではもはや極寒。カーディガンはその対策だったのだが、あまり意味を成しているとは思えない。さむさむ、と脳内で繰り返しながら、安売りになった合い挽き肉を手に取った。百グラム七十円。
 この間購入した豆腐はまだ残っていたから、それで少しかさ増しして。マヨネーズはまだあるし、タマネギも残ってる。使いかけが、半玉だったか──全部入れてしまっても問題ない。まだ使っていないのが二つ三つ、残っていた筈だ。
 料理を始めたのはおっさんと一緒に住むようになってからで、だから安いものを適当に買って、そこからレシピを考えるなどという高等技術は彼女になかった。それができるのはある程度のスキルを有した人間だ。少女もはじめはそうしようとしたものの、野菜の使い道がわからずに痛んで使えなくなり無駄に捨ててばかりだった。先にレシピを見て食材を確認し、それを忠実に再現する。味を覚え、作り方のパターンを把握し、野菜を切ることに慣れ、……とにかく、ありあわせで一汁三菜を達成する域にはまだ遠い。
 当然、食費がかさむので、食費以外の出費を控える生活となる。食事を祖末にして済ませるのは、おっさんが許さなかった。
「数少ない俺の楽しみを潰すってのか、ふぃーこ!」
 というのが彼の主張である。
「食費、結構かさむんだけど?」
「スーパー行って、安かったもんで作ればいいって」
 そう、言ったが、それが少女にはできなかった。
 ──『できる』ことが当たり前な人間は、それを行うことが当たり前でない人間の能力を、想像することができない。
 勉強ができる人間は、複雑な因数分解ができない気持ちがわからない。運動神経がよければ、跳び箱を飛べない気持ちはわからない。絵を描くのが趣味な人間には、雑談も居眠りもできない授業中のヒマ潰しを『絵を描く』以外でどのように行うのかわからない。射精の瞬間を女性に想像することはできないし、生理が近づいた身体の重さを、男性が想像することもできない。
 少女は全くわからなかった。料理をするということが。期待に応えられなかった。
「悪いな」
 記憶のうちの、彼は言う。
「気にしてるんなら、ゆっくりでいい」
 言った本人はきっと軽い気持ちだったのだろうに、少女は必死になって期待に応えようとする。

 帰宅しても、何かあるわけではない。少女が外出した時そのままの姿。唯一、窓から差し込む光だけが少し動いていた。
 一年料理をしても、なかなか手際はよくならなかった。夕方になってからスムーズに料理ができるように、下ごしらえを始める。一年前は七ミリ四方程度のサイズだったタマネギのみじん切りも、最近は五ミリ四方くらいになってきた。
 ハンバーグにタマネギや人参を加えるのは彼女の趣味ではなくおっさんの趣味である。豆腐は彼女の趣味だが、何度か食卓に並んだハンバーグに豆腐が混入しているという事実に、今までおっさんが気がついた様子はない。
「ふぃーこの作るハンバーグ、惣菜コーナーで売ってるやつより柔らかいよな」
 くらいのものである。
 豆腐嫌いのおっさんに豆腐を食わせるには、これが一番だった。
 野菜を切り、肉をこね、と下ごしらえを済ませると、だいたい、三回目のチャイムが鳴る時間だ。ついでに昼ご飯を作ってしまう。だいたいは、フレンチトースト。卵と牛乳を消費していく。液にパンをぺちゃっと入れて、タイマーに三十分を測らせた。もっと時間を伸ばせば更に美味しいと知ってはいるものの、面倒臭さが勝ってしまう。
 ヒマな間に、窓枠に布団を干す。換気ついでに、六畳の生活スペースに掃除機をかける。今日は少し気合いがあった。日によっては、このタイミングで二度寝したりも、する。ピピピピ、と高い音がして、手を洗ってから、パンをひっくり返した。もう一度、三十分。
 掃除。
 少女は掃除も嫌いで、それでもやっているのは、ひとえに、血も繋がらぬ男のため。

 彼女自身に、生きる価値は存在しない。
 ループするように。
 彼女の日々は食いつぶされていく。

──「お嬢ちゃん、生きてるのか?」
──「うん」
──「そうか、」

【3】

 おっさんが殺すのは、世界の歪みみたいなものだ。
 それはある日突然街を襲って、一つの街が消し飛んだ。
 以来、いくらでも吹き出してきて、おっさんも頑張るには頑張るけれど、対処療法(いたちごっこ)にしかならない。
 おっさんが殺さなくてはいけないのは、歪みの根本だ。
 だけどそれがどこにあるかわからないので、おっさんは今日もむやみに命を削らなくてはいけない。
 五時のチャイムが鳴った数分後、おっさんは家の鍵を開けて、ただいま、と言って帰ってきた。その時には既に布団もふかふかになって干されていて、すぐに寝れるようにセットしてある。
「おかえり」
 ふらふらと歩くおっさんに駆け寄って支えて、布団の下まで歩かせる。足に触れるのが畳から柔らかな布地へと変わった瞬間、その足の力はがくんと抜けて、その時には既におっさんは眠りに落ちている。少女は必死に引っ張ったり押したりして、方向を整えると、布団をかけてやる──しかし、すぐに蹴られて足下にくしゃっと丸まった。
 その表情は、まるで悪夢を見ているように険しいものだ。
 彼が起きてくるまでの間、少女は静かに勉強をする。音を立てないように。彼の休息を邪魔しないように。その時の科目はだいたい理系科目だ。声に出さなくてもできることをやる。文章題を解いていく。図形と方程式は、理解してしまえばすらすらと問題が進んでいった。だいたい、パターンなのだ。
 そうして六時半になったら、食事の支度を始める。時報は五時でおしまいで、部屋の中はしぃんとしていた。アルミホイルで包んでおいたハンバーグを、オーブントースターで焼き始めると、狭い家の中いっぱいに肉の焼ける香りが充満する。それを換気扇で、飛ばす。みそ汁用のだし汁を冷蔵庫から出し、鍋にかける。切っておいた野菜は後で入れる。今日は里芋と三つ葉だ。里芋は数日前に茹でておいたものがまだ残っていた。それからもう一つの鍋で湯を湧かし、冷凍してあったほうれん草を解凍していく。いりごまでも使って、ごま和えにすればいいだろう──
「……ふぃーこ、ご飯、そろそろか?」
「うん」
「そうか」
 暑くなったとは言え夕方にもなれば涼しい。昼間開けたままの窓からは風が吹き込んできていた。まだ夏ではないのだ。
 レンジで解凍したご飯を茶碗に盛って、メニューが出そろう。
 ちゃぶ台の上に乗った一汁二菜を、おっさんは嬉しそうに見つめた。それから二人同時に手を合わせて、笑う。
「いただきます」
 ──それがいつもの流れだった。
 その日もそうなる筈だった。
 しかしおっさんは、起き上がり、今日のご飯を確認する筈のタイミングで、倒れ伏せたままぽつんと言った。

「明日で、一年か」

 うつ伏せの表情は伺えなかったが、きっと遠い目でもしていたのだろう。一年前のおっさんは、崩壊した街の中で逃げ惑う、弱い市民の一人だった。そうしてそこで死ぬはずだったのだ。
 狭いちゃぶ台に運ぼうとしていた二人分の箸が、少女の足下に転がっていた。
 ──崩れ落ちたマンションの脇で、出会ったおっさんは既に、ダークマターに取り込まれた後だった。だから私は、そうじゃないおっさんのことを知らない。
 既に歪みを殺し、そうして埋めあわせ不可能な程に歪んだ人──そこまで行き着き、変化した人と形容する人はいないだろうが──も殺したおっさんは、今まで人の死など間近に感じたことすらなかったおっさんは、自分の手を染めざるを得なかった自分を呪いながら、ふらふらと歩いていた。
「ほらふぃーこ、箸落としてる」
 おっさんは顔を上げ、少女の足下を見て笑った。それから、何事もなかったかのように、そう、いつも通り立ち上がった。立ち上がろうとして、崩れ落ちた。
 縛りが解けたように、硬直していた少女はぱっと駆け寄り、男の支えとなる。その息が、ひゅうひゅうと乾いた喉を通り抜けていた。どうしたの。どうしちゃったの。震える少女の声に答えた一言は、囁くようなもので、ともすれば聞き漏らしそうなほどだった。
「わーってるんだよ」
 ……わーってるんだよ。おっさんはもう一度繰り返す。
 その身体は、少女が手を添えた体が、成人男性のものにしては──いや、人間としても、異常なまでに軽かった。
 歪みを殺すためには、せかいの欠陥を埋めなくてはいけない。その時に使う質量は、ダークマターと一体になった、彼の命そのもの。もう一年も歪みを殺して、彼の身体はぼろぼろだった。

 私は、その崩壊した身体を、
 静かな瞳で見つめていた。

 もうおっさんに、歪みを埋めるための質量は殆ど残されていない。
「おっさん、おっさん」
 殺さなくてはいけない歪みの根本、欠陥の種は、まだ埋められていないというのに。おっさんは死にそうな瞳をして、光を失った瞳をして、少女に視線を返す。
「ハンバーグ、食べよう」
 絞るように出したその声に。苦く私たちは、笑った。
 そうして少女はいつも通りに、ぼろぼろの男を支えながら、暖かくゆるやかな食卓を囲んだ。ハンバーグに、少女はチーズを乗せた。おっさんはみそ汁をすすり、「うん、味噌の量が丁度良い」と笑った。
 そうしてすっかり食べ終えて、何もかも片付けて、時計の針が九時を差すころ、二人はいつもより少しだけ早く、いつもと違って一緒の布団の中に入った。
 そして彼は、私を抱きしめる。少女は一つ身震いをして、それからそっと彼の背中に手を回した。いつからかぽっかりと空いていた少女の胸に、柔らかく暖かな何かが流れ込む。
 ゆっくりと、溶けていく。

 何もかもを無くした少女に、
 記憶も家も居場所も歪み潰された彼女に、
 ただ『母』として生きる少女に。
 男が与えられた『もの』は何も無かった。

「ふぃーこ」

 それは花の無い果実の名。
 咲かずに尽きる、一つの少女。
 中に孕んだ果実(わたし)は、ぐしゃりと歪んでつぶれていった。

「満たされてたか?」
「うん、今満ちた」
「それは、……よかった」

望まれない果実の話

望まれない果実の話

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-04-22

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