花たちが咲うとき 八
花たちが咲(わら)うとき
第八話 ~テンキ~
―― 何でこうなったんだっけ?
葵はホカホカと温まった体で、あぐらをかいた両膝の上に双子を乗せてテレビの前に居た
ワックスも落としていつもよりしんなりした頭を掻く
あの後、葵同様に月下兄弟に対して驚愕を隠せずにいた薊も追加され、仲良くケーキを食べた
ケーキを食べた後は月下三男、緋汐とゲームや漫画の話で予想以上に盛り上がって、気がついたら夜も更けてしまっていたので緋汐や双子が「泊まって行けば」と葵を引きとめたのだ
どうせ明日は休日なので、葵もそちらが良いならとあっさりオッケーしたのである
そして現在に至る――
襖の向こうの和室は寝室を兼ねているらしいのだが、今そこでは月下シスターズが宿題をしているらしい
パジャマ姿の女子三人がワイワイキャッキャ……――
何となくこっぱずかしい気分になって、葵はテレビに意識を注ぐことに集中しようと勤めた
―― ガララッ
そこで玄関から引き戸を引く音が聞こえた
さっきまで食事に使っていた机で勉強をしていた月下次男、潤が一番に席を立って玄関へ向かっていった
「ただいまー」
「お帰りなさい。兄さん」
薊は女性であり夜も遅いということでバス停まで香が送り届けに行ったのだが、今帰ってきたようだ
「お風呂は兄さん以外全員入り終えたので、ごゆっくりどうぞ」
「あぁ、ありがとう
葵、服のサイズは大丈夫?」
「おう、ちょっと足出るけど問題なし」
「ごめんなぁ。俺、胴長短足だから」
「日本人は皆そうだって! オレの方が香より身長高いし、ここで贅沢言うほどアレな人間じゃないから! フロゆっくり入ってこいよー」
「うん、ありがとう。悪いけどカイ(海丞)とスイ(水丞)のことよろしくね」
「ほいほーい」
葵が軽く手を振ると、両膝の双子も「ほいほいー」と言って行動を真似るのがいじらしい
香も小さく手を振って部屋を出た
再びテレビに向き直ろうとした葵に、声をかけたのは潤だった
「先程の言葉は必要でしょうか?」
「へ?」
潤のとげとげしい言葉に葵は声を裏返させてしまう
「この状況で贅沢を言う人間で無いと後付するくらいなら、始めから寝巻きに関して不備を言う必要はあったでしょうか?」
「え、えーと……」
「本当に気を使える人間はあのような言い方はしないと思います」
葵は少し戸惑いながらも、いい返す言葉も思いつかず年下相手に謝ることしか出来なかった
「す、スイマセン……」
「謝罪を述べるなら「すいません」ではなく「すみません」が正しい言い方です」
「す、スミマセン」
年下相手に頭の上がらない葵を擁護する形で入ってきたのは緋汐だった
読んでいた漫画雑誌をバンッと大きな音を立てて閉じる
「あーもー! ジュン兄ぃはいちいち細かいっ! 今のやり取りだって友達間のただのコミュニケーションじゃん! 真に受けるほうが馬鹿じゃないの!?
あーそっか。ジュン兄ぃ友達いないから分かんないんだ!」
「「親しき仲にも礼儀あり」と言う言葉があるだろ。お前は頭が悪いからそんな言葉も知らないのか?」
「そんぐらい知ってますぅー」
「知っていてそんな言葉が出るなんて、愚の骨頂だな」
葵は自分を挟んで喧嘩をし始めた月下兄弟に、悲鳴の一つでも上げたい気分だった
両膝の双子達が「こっちょー」と唱えながら笑っているのが唯一の癒しか
頭上で言い合いを続ける二人に対し、心の中で助けを求めた葵に意外にも早く助けの手は差し伸べられた
「うっさい! ベンキョーの邪魔だから騒ぐなら外出てろっ!」
襖が派手な音とともに開き、怒鳴り声を上げたのは月下長女の真赭だった
その手に竹刀が握られているのを見て取った潤と緋汐は、先程までが嘘のようにピタリと口を閉ざしてしまう
「すみません。姉さん」
「すんませんでしたー」
「ったく。ウチはテスト近いってのに……」
そうぼやきながら襖を閉めた後に残ったのは、不自然なまでに明るいテレビの声だけだった
潤は勉強に戻り、緋汐も漫画雑誌を再びめくり始める
葵はこの家の最強を知った
日をまたぐ前に、ほとんどの月下弟妹は畳の部屋へ寝に行ってしまった
今残っているのは部屋の隅でストレッチをしている長女真赭、勉強をしている潤、ゲームに熱中している緋汐
香は明日の準備があるといってキッチンに立っているので、葵も少し手伝っていた
弁当箱に彩り鮮やかな料理を詰めていく姿は手馴れている
「明日って休みだろ? 誰の弁当?」
「ウチ」
そう葵の後ろでストレッチの体勢のまま手を上げたのは真赭だった
「と、俺ー」
ゲーム機に向かったまま緋汐も手を上げた
「え、部活?」
「うん。ウチはね」
「俺は練習」
「練習? 何の?」
一旦ゲームを止めたのか、緋汐がゲーム機を置いてキッチンのほうへ歩いてくる
そして軽く握った左手を肩付近に、何かを摘まんだような形にした右手を、腹の前で小さく振るように上下させた
葵は何となくその動作に見覚えがあって、あ。と口を開ける
「ギター?」
「せーかい!」
にしし、と笑った緋汐は頭のバンダナを押し上げて位置を直すような仕草をした
「友達と練習の約束してんの。よかったらアオ兄ぃも来る?」
「え? でもオレ居ても邪魔じゃね?」
「そんな事ないって。聞いて感想欲しいな、知らない人がいると程よく緊張があっていいし」
音楽は聴くがそこまで詳しくないので少し迷った葵が香に視線をやると、香は弁当箱にラップをかけながら「葵が良いなら良いんじゃないか?」と笑った
「遊ぶくらいなら勉強したほうがいいと思いますがね」
そう冷たく言い放ったのは潤だった
ノートを走らせる手を止めないまま告げた潤に、緋汐はあからさま嫌そうな顔をした
「休みなんだから遊んだっていいじゃん」
「そこは否定しないが、お前の成績を思うと遊んでいる暇があるのかと思っただけだ」
「一個二個赤点があったくらいで……」
「くらい?」
ついに潤は手を止めて、今にもシャーペンが悲鳴を上げるのではないかと思うくらいに指先に力をこめると緋汐を睨みあげた
しかし緋汐はどこ吹く風で彼方を見たので、潤はなおさら表情を歪めた
また喧嘩が始まるのだろうかと体を緊張させた葵だったが、そうはならなかった
「閉めだされたいの?」
長女が静かに怒る声を聞いて、次男三男は再び口をつぐんだのである
そんな中、穏やかな口調で言葉を発したのは香だった
「潤だって休みくらい遊んだって良いんだぞ。まだ二年生なんだから、勉強に熱を入れるのは早いだろ? 遊べる時に遊んでおかないと」
「そ、そうかもしれませんが……。」
「緋汐も、遊ぶなとは言わないけど宿題だけはちゃんとやらないとダメだぞ」
「……はーい」
潤も緋汐も少し唇の先を尖らせて、視線をそらせてしまう
そんなところは絶妙に似ていて、兄弟だなぁと思わせる
その奥で真赭が大きなあくびを一つして「寝るわー」と言って和室へ入っていってしまった
それが何かの合図だったかのように潤も緋汐も寝る準備を始めた
葵が部屋の時計を確認すれば、いつも寝る時間より二時間は早い
いつもなら配信動画やスマートフォンなどゲームをして深夜まで起きていることの多い葵には、どうも不思議な感覚だった
時計の秒針が刻む音が、暗い室内に響いている
和室は狭くないはずなのに、埋め尽くされた布団のせいでぎゅうぎゅうに思えた
聞こえてくるいくつかの寝息たちと、湿気た空気に畳の香りが滲んで、部屋が生きているかのような感覚を覚える
葵はやはり寝付けず、何度目かの寝返りをうった時だ
「寝られないのか?」
優しい風が草花を撫でて出たような小さな声に、葵はもう一度寝返りをうって声の主に向き直った
豆電球のオレンジ色と夜の黒を吸い込んだような不思議な色合いの髪色になった香が、布団から顔を覗かせていた
「いつもはもっと遅くまで起きてるからさ」
「そっか……。少し、話でもする?」
「話って、何の?」
「そうだな……。……話したいことはいつも学校で話すから、いざ考えると何も思い浮かばないな……」
目を閉じて枕に顔を押し付けた香は、話題を探しているようだ
しかし、香は葵と違って眠気に襲われているようで「うーん」と唸っては一瞬意識を手放して沈黙すると、むず痒そうに目を開こうとする
これはもう直ぐ落ちるな。と思いながら葵は少し笑った
つられた様に香も笑う
「今日は、ありがとうな」
「へ? あ、いや。それはオレの台詞。……あんがと」
「驚いたろ?」
「そりゃぁ、いろいろな」
香はそう笑う葵の様子を少し見つめると、力が抜けたように微笑んで「よかった」と囁いた
葵はその言葉の意味が分からなくて、枕に頭を押し付けるように首を傾げる
「ん? 何が?」
「引かれちゃうかもって、心配、したかな……」
「なんでだよ。むしろちょっと羨ましいくらいだし」
「そうなの?」
「うん。オレ、一人っ子だし、親は共働きだしさ
大学行って一人暮らしとかしてるとさ。寂しくないのかとか聞かれるけど、家にいても一人が多かったからそんなに大差ないし。親がいない分、自由で楽なくらい
飯と掃除がメンドイけど……」
そこまで言うと葵は少し、考えるように目を伏せた
「……一人が楽だなぁっては思うけど、こういうのは……、いいかなって」
そこまで言うと、葵は湿気でへたった髪を掻いた
「親なんて……」
そこまで言って、葵はハッとしたように目を見開き少しだけ姿勢を起こした
「そういえば香……、香……?」
隣で身動き一つ、返事一つ帰ってこない香の布団を覗き見ると、香はすっかり夢の中だった
硬そうな枕に頬を押し付けて寝てしまっている。明日起きたら跡になってしまっているだろう
葵はいつから一人語りをしてしまっていたのだろうと、少し恥ずかしげに布団に戻った
雨の音がサアサアと聞こえてくる
押入れの匂いがする布団をかぶり直して、葵はそっと目を閉じた
優しい静けさが満ちたころ
すっかり寝息と秒針に支配された部屋で、布団から体を起こす影があった
※※※
「茨……」
紅の声は激しく降り出した雨にかき消されそうだった
艸は急のことに思わず視線を下げてしまった。茨の伏せられた瞳の下の濃いクマが目に入った瞬間だった
「ぅぐっ!?」
影が落ちて、咄嗟に身構えたことで艸への衝撃は最小限で済んだ筈だった
しかし足裏が地面を見失った後に、背中から腹を突き抜けたような衝撃に床にはいつくばってしまう
いつの間にか一気に遠くなった紅の背中に、艸は自分が壁際まで突き飛ばされたのだと知る
揺らぐ視界の先にいる紅は依然とその場に突っ立ったままだったが、外の闇から飛び出した小さな影に艸は目をむいた
―― 茱萸!?
茱萸は天井にぶつかるのではと思うほどに高く飛び上がり、手に持った茱萸の倍ほどもある長い何かを来訪者に投げつけた
その気配を感じ取ったのか、来訪者がぐるんと首をひねる
あろう事かその来訪者は茱萸の投げつけたものに向かって飛び掛ったのだ
地面に着地した茱萸がハッ顔を上げる
艸は唾液とも胃液ともいえぬものを、ごくりと飲み下した
絶叫とも歓喜とも取れる大音声が部屋に轟く
「会いたかったぞっ! 『黄泉路』っ!」
来訪者はそう叫ぶと、茱萸の投げつけたもの。『黄泉路』に抱きついたのだった
※※※
「……で? 貴方はいつまで寝ているつもりですか?」
そう言って未だ地面に倒れ伏している茨を、紅は軽く足蹴にした
もぞりと身じろぎをした茨は、重たそうに瞼を持ち上げる
「……痛いです……。アバラが数本逝きました……」
「とにかく上がるか出て行くかしてもらっていいですか? 玄関が閉められません」
そう冷たく言い放った紅は、玄関の引き戸を引っ張って茨のわき腹を轢いた
「ったくよぉ、蛇野郎はいつものこととして、影坊主までこの季節になってもアタシのところに来ないとは何様だ? あぁん?」
床にあぐらをかいて豪快に腰を落とすと、彼女。『沙棗』のたわわな胸が存在を主張するように揺れた
炎のような真っ赤な髪は毛先に向かうにつれ黒くなっていくという不思議な色合いをしており、後頭部の高い位置で一つに結い上げられている
豪快にはだけた胸元、右目だけ髪色とは異なる夕日のような瞳
そして何より、彼女の右半身を埋め尽くすように描かれた刺青
一度会えば決して忘れられないであろう女を目の前に、茨と茱萸、そして艸が正座をさせられていた
沙棗は『黄泉路』と『夜宵』を二人から取り上げると、子供をあやすような手つきで二刀を撫でている
これ以上沙棗の怒りを増幅させないために、艸は正直なところを話すことになった
「約束を破ったのは悪かったと思ってる。忘れていたんだ、お前のことも『夜宵』のことも」
「はぁ!?」
片眉を器用に持ち上げ、尖った犬歯を見せ付けた沙棗は怒りに身を任せるように艸の胸倉を掴んだ
隣で正座をしている茨が小さく悲鳴を上げた
若干息苦しい艸であったが、ここで黙ったら確実に絞め殺されるので無理にでも言葉を発する
「『獏鬼』に夢を食われて一部記憶喪失だったんだ。お前のことも忘れ――」
「アタシを忘れようが何だっていいっ! テメェ今『夜宵』を忘れたとか抜かしやがったな!?
アタシの可愛い娘を忘れるとはふざけてんのか! あぁん!?」
―― そこかよ
心底言い返す気も失せた艸に、見かねた紅が口を挟んだ
「もうその辺にしてくれませんか? これ以上うるさくされると迷惑なのですが」
「ああ!? ……、ん? んん? お前……」
沙棗の興味が紅に移ったのか、急に胸倉を掴んでいた手を離された艸は少しバランスを崩す
沙棗はぶつかりそうなほど紅に顔を近づけてじろじろと見定めているが、その間も紅は涼しい表情を崩さず微動だにしない
沙棗はそんな紅の顔を存分に見回すと、胸の前でポンと手を打った
「よぉく見たら、お前。〝オニ〟のとこにいたガキか!?」
「私は貴方より年上ですが」
「おー、やっぱりなぁ。あの時から相変わらずの女顔だな」
「怒っていいですか?」
すっと冷たい笑顔をつくった紅を見て、沙棗は大仰に身を引いて見せた
「おー、こわっ」
「……貴方のほうがよっぽど恐ろしいと言いたげな方々がいらっしゃいますがね」
そう吐いて正座した三人を見下ろした紅に、沙棗も思い出したように眉を吊り上げた
「こいつらが約束を守らねぇからだ!」
「……はぁ
艸君は許してあげてください。本当に不可抗力だったのですから」
「あー忘れてたってやつ? でももう思い出してんだろ? 何で思い出して直ぐに来なかった?」
「いろいろ面倒が重なったのですよ。もう直ぐ次の約束の時も近いのでしょう? その時にまとめて事情を説明するつもりでいたのでは?
ねぇ。艸君?」
「……、あぁ」
すべて紅に言い当てられてしまった艸は、ただ頷くだけで済んだ
沙棗は未だに不満そうだったが、怒りは収まってきたようだ
ふんっと鼻息を吐いて、腕を組んだ
憂さ晴らしのように茨の腹を軽く蹴る
「いたい……」
「おい、蛇。テメェは許してねぇぞコラ。毎度毎度逃げようとしやがって、いい加減諦めろコラ」
「逃げても逃げなくても殴るじゃんっ」
「あったりまえだボケェ! 毎回毎回『黄泉路』を傷ものにしやがって! 手入れはちゃんとしろってつってんだろうがハゲ!」
「ハゲてないっ」
そんな捨て台詞を残し、茨は後ろに吹っ飛んだ
そんな二人の間に茱萸が立って、おずおずと沙棗の着物の裾を掴んで止めようとしている
しかし、その意思表示は大人しい
艸がいつも不思議だったのはこの茱萸の態度だ。普段ならば茨に危害を加えようとするものに対して基本即戦闘態勢にはいる茱萸が、この沙棗に対してはそうならないのだ
「茱萸。心配すんな。殺しはしねぇ、殺しは」
「……」
いつもは人形のように微動だにしない茱萸の表情が、微かに変わって困ったように眉尻が下がった。行き場を無くした小さな手が風に吹かれた木の葉のように宙を彷徨っている
「失礼しますじゃ」
そんなごたごたの中に、ネズが夕食を持ってきたようだ
紅の前に食事を置いた後、来客である沙棗に食事を出そうと顔を上げたネズは一瞬カチンと固まったかと思うと、あっという間に顔を真っ赤に染めて思いっきり顔を背けた
そこまであからさまではないにしても、艸も正直なところ沙棗とは面と向かうと目のやり場に困る
へそが見えそうなまでに衿を開いたうえに、刺青で埋まっている左足の太ももを大胆にむき出しにしてあぐらをかく姿は直視するのが難しい
袖の無い着物からむき出しの両腕は、女性にしてはたくましいが、それは彼女の職業故だろう
ネズが慌てて部屋を出て行く様子に、沙棗は怪訝そうに首を傾げた
「何だあいつ? 失礼な奴だな」
「失礼なのは貴方の格好だと思いますが」
いつもは陶器のようになだらかな顔に、珍しくシワを寄せて沙棗を見た紅は溜息を一つ零した
「なんですか、そのだらしない格好は。淑女の姿とは思えませんね」
「アタシ、淑女じゃねーもん」
「三十六代目、『沙棗』の名を受け継いだんだから、十分立場はあるけどねぇ、お嬢」
そう零してお茶を一口啜った茨に、沙棗の肘鉄が飛んだ
「ごふっ」
「その呼び方ヤメロ。ゾワゾワする」
「お嬢はお嬢でしょうがぁ……」
口の端からお茶を垂れ流しながら、わき腹を押さえる茨は涙目ながらにそう零した
艸と言えば、『夜宵』を取り上げられてしまったことで立ち去ることすら叶わず、結局この場所に留まることになってしまった
赤、白、黄、緑と目がチカチカするような頭の奴らに囲まれて、目が痛い
『御子』というのは色素の作りまで人間とは違うのかもしれない
様々な国も民族も全部混ぜこぜにしたら、人間もこんな容貌になっていくのかもしれないが、そんな事は机上の空論だ
依然と動きがぎこちないネズが運んできた食事は、質素なものでいかにも体によさそうだ
「ねーね。肉は出ないの? 肉!」
「お、お肉は……」
沙棗に呼び止められてネズは視線を彷徨わせながら言葉に詰まっていたが、変わりに紅が答えた
「そういったものは出ません」
「はぁ!? 何で? 物足りねーじゃん!」
「私は取分けそうは思いません」
「ボクも別にぃ」
「……」
艸は何も答えなかったが、別に食べなければやっていけないと思ったことは無い。そんな雰囲気が沙棗にも伝わったのか、「はああ」と大きな溜息をついた彼女は何に怒っているのか思いっきり床を叩いた
「だからお前らひょろっこいんだよっ!」
そう叫ぶと、はっと庭のほうへ目をやった
何事かと全員がつられるように夜色の庭に目をやると、どうやって迷い込んだのか猫らしき二つの瞳が闇の中に浮かんでいた
こちらの視線に気づいたのか、猫はぴょいと駆け出してしまう
そんな様子を見送っていた艸たちだったが、一人だけ柄の長いトンカチを担いで飛び出そうとする女がいたものだから、屋敷は再び騒然となった
※※※
―― トントントン……
懐かしいような感覚に葵の意識は掬い上げられるように浮上した
自分のものとは違う匂いがする枕に、自分が置かれた状況を思い出して体を起こす
既に何人か起きているようで、夜には布団がぎゅうぎゅう詰めに敷かれていた和室はスカスカになっていた
葵の横にあったはずの香の布団も無くなっている
まだ眠っている緋汐や三女、双子を起こさないように襖を開ける
朝日が差し込んでいた
きらきらと埃が光の中を飛んでいて、フローリングの上を光が流れているようだった
「おはよう。葵」
「あ、おはよー」
キッチンに立っていた香は朝日のせいで神々しいまでに輝いていた
その隣で手伝いをしている潤も、小さく頭を下げて作業に戻る
四男は机の上に皿を並べていたのだが、葵と目を合わせると香に駆け寄ってしがみついてしまった
そんな四男の頭をなでながら香は葵に笑いかける
「良く眠れたか?」
「おう。なんかいつもよりスッキリしてるくらい」
「そうか、よかった」
まだ並べ終えてない皿が置かれた机を見て、葵は代わりに並べ始める
「それは、ジュン兄ぃの、だから……」
何となくで並べていると、か細い声がかけられた
見上げれば四男がおずおずと葵が置いたカップを置きなおす
どれがどこに置かれるか決まっているらしい。葵は極力四男を驚かせないように尋ねる
「これは、ここでいいのかな?」
「う、うん……。いいよ……」
未だ距離はあるものの四男と並んで食器を並び始めた葵を、キッチンから一瞥した潤は何か言いたげに視線を反らせた
「え? 香は来ねぇの?」
昨日の話しがあったので葵は緋汐の練習を見学しに行くつもりでいたのだが、香は別行動を取るのだという
「うん。さっき潤に遊びに連れて行って欲しいと言われてな」
「へぇ。潤くんが……」
昨日香が言っていたことを気にしたのだろうか。急にそんな事を言い出すタイプには見えなかったので少なからず驚いた
実際珍しいことだったようで、香も「潤が遊びに行こうと言い出すなんてなぁ」と嬉しそうだった
そうなれば葵が口出しできることではない
自分の好きに過ごすのが休日と言うものだ
「分かった。んじゃ、オレは緋汐くんと行って来るわ」
「うん。緋汐のことよろしくな」
「ほいよ。任された」
香は嬉しそうに頷くと、次女の若菜を呼び止めて留守番における注意事項などを確認していた
「あの」
ただ声を変えられただけなのに、葵は思わず飛び上がりそうになった
振り返ると潤が相変わらず涼しい表情で立っている
葵はまた何か言ってしまっただろうかと、自分の言葉を必死に思い出そうとしたが、そんな葵に潤は訝る表情を向け言葉を続けた
「兄が家に入れたということは、兄は貴方のことをそれなりに信用しているのでしょう」
「へ? あ、ど、どうも」
予想外に嬉しい言葉を貰った葵はホッと胸をなでおろしたのだが
「ですが、俺は貴方を全く信用していません」
「は、ハイ……」
「それに俺は、無知な人間が嫌いです」
「すい、スミマセン……」
「簡単に他者を傷つけた挙句、傷つけたことすら気づきもしないからです」
「……」
葵は返す言葉が思いつかず黙ってしまう
「正直、貴方が兄さんの友人を名乗って欲しくないくらいです」
「ええぇ……」
「あと……」
まだあるのか。と葵は天を軽く仰ぐ
だから葵は気づかなかった
「貴方は、兄を裏切らないでくださいね」
ぞっとするような声色に、慌てて潤を見返した葵の正面にいたのは潤ではなかった
そんな錯覚を呼ぶほどの恨みに満ちた顔
―― 殺される
そう思って、思わず飛びのいてしまったほどだ
「潤! そろそろ出かけようか」
香の呼ぶ声
仮面を外したかのように、一瞬で潤になった
「はい。兄さん」
遠ざかっていく潤の背中に呼応するように、葵の心臓は次第にバクバクと激しい鼓動を繰り返し始めた
流れた冷や汗が窓から入り込んできた風に吹かれて冷えていくのに、小さく身震いをする
葵の少し先で、人が変わったかのように香に笑顔を向ける潤
それを見ながら、葵は思った
ああ、そうか――
「あれが、香コンか……」
と―――-
※※※
―― カンッ ―― カンッ
どこから聞こえてくる甲高い音が耳に届いた
ゆっくり開けた視界に黒木の天井が見えて、艸は溜息をつきたくなった
『夜宵』を取り上げられてしまい、挙句ここに寝泊りをすることになってしまった
艸は嫌だったのだが『夜宵』を持たず夜道を帰って、変なものに出会ったら厄介だったのでしぶしぶ受け入れたのだ
この状態で寝られるものかと思っていたが、人間というのは欲望に忠実なようでいつの間にか眠ってしまっていたらしい
敷布団が体に合わなかったのか、昨日の沙棗の蹴りがこたえているのか、起き上がろうとすると体の所々が痛みを訴えた
部屋の隅では茨が大の字で寝ており、それを見守るように茱萸が隣に座っていた
茨が寝るということはそこが安全地帯である証拠だ。御子は基本的に睡眠を必要としないが、人間が必需品とまではしないながらも良かれと思ってサプリメントを飲んだりするように、たまに取ると体調が良いらしい
しかし寝るという行為自体は無防備なものなので、茱萸を傍に置くようにしているようだ
艸が起きたことに気づいた茱萸と目が合ったが、相変わらずに何を考えているのかサッパリ分からない
艸は枕横に畳んであった上着を手に取り、出来るだけ音を立てぬように部屋を出る
昨日とはうって変わって日が照っている
日差しが暑いくらいだ
艸は気の赴くままに、音の聞こえるほうへ歩く
そこには蔵らしき建物があった
一風変わった南京錠が掛けられており、中には入れないようだ
「おはようございます」
その声に振り返ると、紅が朝日に煌めく銀糸を揺らしながら渡り廊下を歩いてきた
「……あぁ」
「その蔵の中では昨晩から沙棗が貴方達の刀を打ち直しています。その間は立ち入り禁止になっておりますので、お戻りください」
「……そうか」
この蔵の中に刀を打ちなおせるほどの広さも設備もあるように感じないことを不思議に思いながらも、艸は紅とともに来た道を折り返した
昨日夕食をとった部屋に行くと、すでに朝食が準備されている
艸が適当な座布団に腰を下ろした時、紅が着物の袂に手を入れあるものを取り出した
「これについて、聞かせていただけますか?」
そう言って差し出された紙切れに、艸は思わず手に持っていた上着のポケットを漁った
いつの間にか無くなっている
紅の持っているものは、傘を探すために使った術の紙ともう一枚。茨の目を盗んで描いた下駄の絵の紙だった
それがただの落書きだったなら恥ずかしいで済むことだが、そうでは無いことくらい紅は察しているだろう
艸はどことなくバツが悪くなって、気持ち以上に不機嫌な声が出た
「いつの間に盗った?」
「盗ったとは失礼ですね。貴方が使った術紙を処分しておこと思ったら見つけただけです」
「だから、それがいつだって聞いてんだ」
「それはそんなに重要なことですか? それよりも、この紙を何に使おうとしていたかの方が私には重要に思います」
そう言う紅はいつに無く真剣な面差しだ
茨にも言われたが、術に危なくないものなど無い。紅はそのことを危惧しているように艸には見えた
別に隠すようなことでもないと、艸は一つ溜息をついて経緯を話した
「……では、その下駄を無くした者のために?」
「善意じゃねぇぞ。何か、嫌な感じがしたんだ。大変なことになるとそいつも言っていたし……」
「……なるほど」
紅は少し考えるように顎に手をやった
伏せられた白いまつげの下に見える真っ赤な瞳がジッと紙面を凝視している
艸はしばらく沈黙が続きそうだったので、一足先に両手を合わせて食事に手をつけた
艸が食事を始めてしばらくすると、不意に紅が顔を上げた
「その者は、頭に葉をかぶった作務衣姿の子供、で間違いないのですね?」
「ん? あぁ」
「それって、『児奴雨』ってやつじゃないですかぁ?」
急に現れた声の主は、眠たげに目をこすりながらやって来た茨であった
艸は少し眉根を寄せる
「じどう? 子供ではあったが……」
「あー、そうじゃなくてねぇ。君たちで言う『雨降り小僧』だよ。『雨師』に仕える子供でね、六月からは『児奴雨』の修行期間なのさ」
「修行?」
「要するに『児奴雨』が『雨師』になるために雨を降らせる練習をする時期ってこと。だから梅雨時期は雨が多いんだよ。雨が多き月ほど人材が豊富ってことになるのかな?
意味、分かる?」
「あぁ、なんとなく」
艸が白飯を飲み込み頷くと、茨は隣の座布団に腰を下ろして膳の上に置かれた箸を取った
「あー、おなか減った」
「……御子も腹は減るものなのか?」
「ん? 御子によるかな。保有霊力が多いほどそれを維持するためにエネルギーが必要になるから、ボクや先輩みたいに一定の食事が必要になる。でも御子によっては一生空腹に感じない者もいる
お嬢みたいに、普段は問題ないけど一定のことをすると急激に空腹を感じるタイプもある」
「一定のこと……」
「お嬢の場合は刀を鍛錬したりすることね
今やっている作業が終わったら獣のごとくご飯に飛びつくだろうね」
そう言うと、茨はくつくつと笑った
「ま、こっちの食事は栄養価が高すぎて、少し食べるだけでボクらには十分すぎるんだけど」
「……」
艸は膳に並べられた質素な食事を一瞥する
決して豪華とはいえないし、量が多いということは無いのだが、それでも茨たちには十分なのだろう
「それより、その下駄を無くしたのが本当に『児奴雨』なのであれば、艸君の嫌な予感は当たってしまったということになりますね」
紅の言葉に、お茶を飲んでいた茨は軽くむせた
「はいぃ? 下駄を?」
「ええ。艸君の言っていることが事実ならば……」
「それ、本当? 艸ちゃん」
「本当に無くしたかは知らん。ただ、下駄を片方履いていなかったし、探している風だった
というだけだ」
艸の言葉に紅も茨も黙ってしまった
そんなに問題のあることなのか
「……今日は、快晴か……」
茨がそうつぶやいたのが、確かに聞こえた
艸はその言葉に誘われるように外を見やる
昨日の雨が嘘のように青空が広がっていて、夏の面影を感じた
「艸君」
「あ?」
紅に呼ばれて視線を戻せば、紅は真剣な様子で艸を見返していた
「ならば〝これ〟は使うに越したことはありません」
そう言う紅の手にあるのは下駄の描かれた紙
茨はそれを見ると、いつの間にと言いたげに口の端を持ち上げた
「茨、あなたももう動けるはずですね? 様子を見てきてください」
「いいですけど、僕に何の得がありますか?」
「ようやく立ち去った『天司』が、またこの辺を警戒しなくて済みます」
「うーんん。まぁ、それは嬉しいですけど……」
茨はきんぴらごぼうをボリボリと噛み砕きながら、腕を組んで考える仕草をしている
食事を終えた艸は手を合わせて席を立とうとすると、紅が咎める様に呼び止めた
「貴方にも協力を願います」
「はぁ!?」
「その『児奴雨』を実際に目撃しているのは貴方なのですよ。それに、貴方も無関係ではありません」
「?」
目を伏せた紅の代わりに、茨が説明を始めた
「『児奴雨』の下駄には天気をつかさどる力があるのだけどねぇ
昨日の時点で下駄を無くしていたのなら、昨日と天気が変わっているのはおかしい。誰かがその下駄を使って天気を変えない限りは」
「その『児奴雨』が下駄を見つけたか、そいつの上司?の『雨師』ってやつが何かしたんじゃねえのか?」
「前者はありえるけど、後者はゼロ。『児奴雨』の修行中に『雨師』は手出ししないと決まっているし、『児奴雨』は雨を降らせるのが専門だから、この時期にこれだけの晴天を呼ぶのはおかしい」
「……つまり、『児奴雨』以外のやつが下駄を使っている、と?」
艸の言葉に茨が頷いた
そしていつもの下卑た笑みを浮かべる
「その下駄を持っているのが、悪鬼の類だったら。この町一体は様々な自然災害に襲われるだろうねぇ」
要するに、この町に住んでいる艸も無関係ではないということだ
茨に続くように、紅が淡々と言葉を繋いだ
「しかし、幸いなことに艸君の機転で早い段階からこの事態に気づくことができました。今ならたいした被害も出さずに終結できるかもしれません」
紅はすっと立ち上がり、艸の前に立つと下駄の絵が描かれた紙を差し出した
「まずはその『児奴雨』を探し出し、ことの状態を確認した後必要ならば使うといいでしょう
茨、もしもの時は頼みましたよ」
「はいはい。分かりましたよぉ。どうせボクに拒否権はないんでしょぉ」
茨は味噌汁を一気に飲み干すと立ち上がる
「行くよ。艸ちゃん」
「……」
艸にも拒否権は無いようだ
手元に戻って来たぶきっちょな下駄の絵を見て、艸は一つ溜息を吐いた
※※※
休日に学校に来ることほど悲しいことは無い
人気の無い学校に、見た目不審者の茨と茱萸を連れて艸は訪れた
昨日の喫煙所に行くと、茨は少し驚いたように見せた
「ここで会ったんだ? どうりであの時、雨くさいと思ったよ」
「はぁ……」
とりあえず来てみたはいいものの、そう都合よく『児奴雨』が居るわけも無く艸たちは早速行き詰ってしまった
どうすべきか、と気まずい空気に耐えながら考える艸に対して、茨はのんきに空を仰いでいる
「艸ちゃん。子供の時に靴を飛ばして天気を占ったことはあったぁ?」
「は?」
急にそんなことを言い出した茨に、艸は怪訝そうに茨を見返したが相変わらず空を見上げたままの姿に、艸はしぶしぶ昔のことを思い出そうとする
「……、無くは無い、が」
「そ。こんな感じ?」
ニヤッと笑う茨は急に片足を前後に振り出した
「あーした天気になぁれっ」
そう言いきると同時に足にぶら下げていたボロイつっかけを宙に投げ飛ばした
木でできたそれは、カンカンと乾いた音を立てて転がっていくと裏返しになって止まった
その時だ
「下駄っ!」
そう叫ぶように飛び出して来たのは頭に葉っぱを乗せた子供だった
飛びつくように茨の投げ飛ばしたそれを掴むが、すぐに首をかしげた
「……違う」
そうつぶやくと、しょんぼりとうな垂れてしまった
「やっぱり、まだこの辺で探してたね」
「ふおっ!?」
『児奴雨』は茨たちに気づくと、あからさまに驚いて飛び上がった
頭にかぶった葉っぱを両手で押さえてしゃがみこんでしまう
「ひいぃ、わ、わた私は、悪い妖ではござ、ございませんっ!
ど、どうか、ご慈悲をぉ……」
「うん、知ってる。君、『児奴雨』だね?」
「は、はい……。貴方様は……?」
「ただの通りすがりだよ。こっちの子に見覚えがあったりしない?」
そう言って艸を指す茨に、『児奴雨』は茨の飛ばしたつっかけを持って近づいて来た
そして艸の顔を見ると、はっとしたように体をピンと伸ばす
「き、昨日のっ!」
「やっぱりね。手伝ってあげてもいいよ? 探し物」
「て、手伝ってくださるのですか!?」
「うん。あ、もちろん対価は貰うけどね」
「そ、それは……どのような……?」
あからさまに動揺し始めた『児奴雨』の様子に、茨はあの嫌味な笑顔を崩さない
「うーん。君に金なんか要求しても無駄そうだし……
ま、何か思いついたら頼むよ。どうする?」
「うぅ……」
頭を抱えて真剣に悩み始めた『児奴雨』を見ていると、こちらがいじめている気分だ
艸はどこと無く居居心地が悪くて、周りへ目をやった
休日とはいえ万が一誰かに見つかるのは避けたい
周囲への注意は怠らないように心に戒めた
「わ、わかりました……。お願いします……」
「いいよぉ。契約成立
あ、それと。ボク達のこと誰かにしゃべったら君には消えてもらうから」
「ひいぃぃっ」
茨の笑った顔がよほど恐ろしかったのか『児奴雨』は真っ青になって口から泡を吹きそうなほどに震えた
そんな様子を楽しげに見下ろす茨は本当にたちが悪い
「んじゃ、早速それを見せてくれる?」
そう言って茨が指差したのは『児奴雨』が両手で大事に持っているランタンのようなものだ
その光は艸が昨日視たものより眩しくなった様に感じる
恐る恐る『児奴雨』から差し出されたそれを、茨はじっと四方八方から眺め始めた
眩しくないのだろうか
「……うん。やっぱり〝陽〟の加護がついてる」
「は、はい。それから発せられる光は太陽の光と同じものです」
「なるほど。この光の強弱で下駄の位置が分かったりする感じか」
「どういうことだ?」
艸の疑問に茨はランタンを眺めたまま答える
「下駄はそのものが天候を変えるほどに強い力を発しているんだけど、最後に出た結果が雨だとこの光が下駄に近づくほど雨の気に近づくので暗く、晴れなら近づくほど明るくなる
今は天気が晴れているから最後に出た結果は晴れ。つまりこの光が輝くほど下駄が近いということ……、で合ってる?」
「は、はい。よくご存知で……」
「や? なんとなくそう思っただけ。当たってたんだ」
「えぇ!?」
心底驚きを隠せない『児奴雨』に茨はランタンを返し、軽く伸びをする
「ま、本来の用途は周辺の天候を知るためのものだろうけど
ボクも『児奴雨』に合うのは初めてだからね……
んー、楽しくなってきたねぇ」
「さ、左様ですか……」
「ねぇ、その葉っぱの下ってどうなってるの? 剥いで良い?」
「お、おやめくださいぃっ!」
これ以上茨の横暴がエスカレートする前に、艸は本来の目的に戻るよう声をかけた
「おい。で? 下駄はこの辺にあるのか?」
「は、はい。そのはずなのですが……」
「つうか、何で無くしたんだ。そんな大事なもん」
「じ、実は……――」
この『児奴雨』はまだ新参者で、この修行も今回が始めてだったらしい
それで張り切って修行に挑んでいたのだが、思いっきり蹴り上げた下駄が偶然通りかかったトラックの荷台に乗ってしまったらしい
慌てて追いかけたが、結局見つけることができず探し回って今現在に至ったそうだ
「それで、なんとかここまで来たのですが……」
「……」
艸はなんとも言えなくなってしまった
呆れていいのやら、慰めればいいのやら、そんな不注意でこっちに災難が降りかかるこっちの身にもなって欲しいものだ
そう思っていた時、急にアスファルトの色が濃くなった
いや、空がかげったのだと気づいた時には遅かった
ひどい雨が艸たちの頭上から降り注いだ
慌てて喫煙所の屋根の下に逃げる艸だったが、茨と茱萸、『児奴雨』の三人は依然と雨の中に居る
じっとランタンの光に目を凝らしているようだ
ランタンの光は急に力を失ったように弱くなっていた
「やっぱりこの辺りだね」
「はい。そこまでは分かっているのですが……」
雨は嵐のように降り始め、さすがに茨たちも屋根の下に避難しに来た
「それにしてもすごい雨。もしかしたら今下駄を持ってるやつ、結構やばいかもね」
「やばい?」
「相当力のあるやつが持ってるかもってこと
……参ったね、今はボクも艸ちゃんも武器が無いし……。茱萸で何とかなる相手ならいいんだけど」
そうだ、今は沙棗に刀を鍛えなおしてもらっているので二人とも丸腰だ
情けないことだが、頼れるのは少女の茱萸一人。茱萸の強さを考えればそこまで深刻に考える必要は無いと思うが、慎重に行かなければならない
茨は相変わらずのへらへらとした笑みを浮かべて空を見上げていた
びっしょりと濡れてしまった服は重そうで、野良犬のように濡れ細っている
「とにかく、この天気でうろつくのは危ないし、いったん引き上げるかぁ」
茨がそう言いながら服の裾を絞っている
『児奴雨』は慌てつつも少し申し訳なさそうに茨を見上げる
「し、しかし。私にはあまり時間が……」
「わかってっるよぉ。これ以上は消えちゃうもんね」
「は、はい……」
「大丈夫だよ。こっちにはこの子が居るから」
そう言ってポンと肩に手を置かれた艸は、驚きつつもその手を掃う
『児奴雨』はちょいと頭の葉っぱを持ち上げて艸を見上げた
「そ、そちらの御仁が……?」
「そ。この子が君を気遣って、合わせの札を作ってくれたから君のもう片方の下駄さえあればあっという間に見つかるよ」
「ま、まことですか!? ありがとうございますっ!」
『児奴雨』の小さな両手が嬉しそうに艸の手を握る
艸はその冷たい両手から逃げるようにそっと手を解いた
「別に気遣ったのはお前じゃなくて……」
そう言いかけた艸に、茨が小さく声をかけた
「まぁまぁ、そういうことにしておきなって。相手に良く思われて悪いことなんて無いんだからさ」
そう囁くと、パンパンと手を打って注目を集めた
「と、いう訳だから。探すのは次に天気が良くなった時、またここに集合ね」
「おい、それなら後はお前がやれよ。もう術は使えるんだろ?」
そう言って艸は下駄の描かれた絵を茨に差し出すが、茨は軽く肩を上下させた
「でも、その絵を描いたのは君だから」
「お前が描き直せばいいだろうが」
「えー、矢立も紙も先輩に返しちゃったしぃ」
「……」
一瞬返す言葉を見失った合間に、茨は雨の中に飛び出してしまった
「そんじゃ、またねぇー」
そう言って雨で白く煙る道の向こうへと、茨と茱萸は消えてしまった
その様子を呆然と見送った艸と『児奴雨』は、二人取り残される
雨はひどくなる一方で、この様子だと無事に帰られるのかすら怪しい
暗く淀んだ空を見上げていた艸に、蚊の鳴くような声がかけられた
「あ、あの……。申し訳ありません」
「あ?」
「ひっ。あ、あの、この前は失礼なことを言ってしまい……」
「……言われ慣れてる。気にするな」
もじもじと両手を結んだり開いたりしている姿は人間の子供と大差ない
艸がベンチに腰掛けると、『児奴雨』も少し離れたところに座る
しばらく続いた雨音だけの空間に耐え切れなくなったのか、『児奴雨』は急に話し始めた
「『雨師』様というのは年に一度、この地域に数多に居る『児奴雨』の中から一人だけ選ばれるのです。私は出来損ないでもうかれこれ何十年と『児奴雨』のままでございまして、この水無月修行にも今年やっと参加する許可をいただけたのです……
しかし、下駄を無くすということは『雨師』様になれる資格を失うと同時に、私の存在消失を意味してしまうのです……
うわさでは五日以上下駄を持たずに居ると消えてしまうとか……
持ち主が消えれば下駄も消えてなくなるので、最も現世に被害が少ない方法らしいです……」
「……年に一度『雨師』が選ばれるってことは、前の『雨師』はどうなる?」
「……『雨師』様は一年ほどしか体が持ちません。天候を司るということはずっと大変なことなのでございます
なので、次の『雨師』様が選ばれれば今の『雨師』様は、お隠れになります……」
つまり死ぬということか、と艸は心のなかでひとりごちた
「……『児奴雨』のままなら、ずっと生きられるとは考えねぇのか?」
「ずっとということはございませんが、……確かにそうですね
ですが、私達は『雨師』様になるために生まれたもの。それに逆らうことは因果に逆らうこと。どうなってしまうか分かりません……
悪鬼に堕ちた者もいると聞きます」
それに、とつぶやいて『児奴雨』は少し寂しそうに笑った
「今の『雨師』様は私の友人だった者なのです。去年までは共に切磋琢磨しあった仲でありました。私はなんとしてもその友人を継いでいきたいのです
……たとえ、一年の命になろうとも」
『児奴雨』は手元のランタンから微かにこぼれてくる明るい光を暖かそうに手にかざした
「私のような出来損ないがここまでこれたのも、その友人という目標が居てくれたおかげでございます……
私はこの感謝の思いを『雨師』様になることで報いなければ……」
そうつぶやくと、『児奴雨』は急にベンチから立ち上がった
雨がざあざあと降りそそぐ屋根の外へ飛び出す
「私、やっぱり下駄を探してまいります!」
「お、おい……」
「ご心配には及びません! 雨は私たちの友も同然。この葉笠もありますので!」
そう言って『児奴雨』は駆け出して行ってしまった
片足だけ下駄を履いていないせいで、ひょこひょこと不恰好な走りだが確実に艸から遠くなっていき、やがて視えなくなった
―― 因果、か
艸はレースカーテンを纏ったような景色をぼうっと眺めた
※※※
どのくらい雨が止むのを待っただろうか
空が暗いせいで時間感覚がハッキリしないが、時計を見る限りそろそろ昼時だ
どおりで腹も減ってくるわけで、ここに座っていることすら苦痛に思えてきた艸は濡れてでもマンションに帰るかとベンチから立ち上がる
その時、雨音に混じってコンコンと地を打つような音が聞こえた
艸は思わず動きを止めて煙る道先を見据えた
―― コン、コン、コン
一定の速さで聞こえる音は徐々にこちらに近づいてくるようだった
『児奴雨』の下駄の音でも、茨が戻ってきたというわけでもなさそうだ
こんな雨の中、奇妙な音をさせながら歩いてくる存在に艸は少し身構える
もしかしたら『児奴雨』の下駄を持つ奴だったら……
―― 「それにしてもすごい雨。もしかしたら今下駄を持ってるやつ、結構やばいかもね」――
茨の言葉が思い出される
つい、いつもの癖で回した指先に『夜宵』の存在が無いことに対して舌打ちを一つする
そうこうしている内に音ともにおぼろげに浮き出てきた何者かに、自然と目が引き寄せられた
「……!? 月下!?」
「……え?」
艸に呼ばれた人物は心底驚いたように動きを止める
香は白い傘をさしながら、手持ち無沙汰な片方の手でもう一本の傘の石突部分で地面を叩いて歩いていたのだ
香は悪さが見つかった子供のように、あからさま動揺を見せて地面を突いていた傘と艸を見比べる
そして香には珍しく歪な笑顔を見せた
「み、見てた……?」
「……、何遊んでんだよ……」
「ほ、ほら。子供の時こんな風に傘で遊んで石突削っちゃったりしたなぁって……
な、なんとなく……」
そんな風に照れ隠しのように落ち着きの無い動きをする香に、艸は必要以上に疲れを感じて溜息を零す
無駄に警戒してしまった
「なんでこんなとこに居るんだよ。お前」
「え、えっとな。潤が俺の行っている大学を見たいって言うから一緒に……」
そこまで聞いて艸は一気に眉間のシワを濃くした
つまり香が差していないほうの傘は、この学校のどこかで香の帰りを待っている潤の分と言うわけか
「……そうかよ」
「君影は? 学期末テストの勉強?」
「まぁ、そんなとこだ……」
「そっか。偉いな」
ようやく動揺から脱したらしい香は、いつものように笑って喫煙所の屋根の下へ入ってくる
「急に降ってきたから驚いたな」
「……あぁ」
「ほら、これ使って」
そう言って香はさっきまで遊んでいた方の傘を艸に差し出した
「それは、潤に渡す分だろ」
「そうだけど、もう一回借りに行けばいいから」
「……。そこの、学生マンションか」
「うん。さすが」
艸にとって以前世話になった場所だ。持ち主不明の傘を貸し出している
香や潤にとってもこの急な雨は予測できなかったらしく、傘をかりてきたというわけか
そういえば、茨に持っていかれてしまったあの傘は結局どうなったのだろう
「君影、いつからここに? ずっと雨が止むのを待っていたのか?」
「……別に」
艸のその短い言葉からいったいいくつのことを察したのだろうか、香は少し困ったように笑って艸の座っていたベンチに持っていた傘を立て掛けた
「お前は昔から誰かに助けてもらうことを考えない奴だったよな」
「……」
「はたから見たらかっこいい事だと思うけど、あんまり無理はするなよ」
そう言うと香は再び雨の中へ入って行った
「じゃあ、またな」
「……さっさと帰れ」
「うん。君影も気をつけて帰ってな」
そう言って来た道を戻っていこうとした香だったが、不意に「そうだ」と呟いて足を止めると艸を振り返った
「ありがとう」
艸は急の感謝の言葉に眉をひそめる
香はそんな艸に対して清々しいまでの笑顔を向けて、今度こそ歩いていってしまった
急に雨の音が喧しくなった気がした
艸は結局その言葉の答えを導き出すことが出来なかったが、再び香が傘を借りてこの道を戻ってくる前にと傍らの傘を手に取った時だ
「艸殿は香殿がお嫌いなのか?」
「うぉ!?」
背後からの急な声に振り向けば、いつから居たのかネズが立っていた
先程の香のように傘をさした状態でもう一本傘を手に持っている
「お前、いつから……」
「少し前じゃ。茨殿から聞いて傘を持ってきたのだが、不要になってしまったようじゃの」
なぜか笑っているネズを横目に、艸は手に取った傘に視線を落とした
ネズはがっしりした腕を組んで、子供のように無邪気に質問を繰り返す
「それで? どうなのじゃ? 喧嘩でもしたのか?」
「別に……。アイツとは元々人間が違う
……そりゃぁ好かねぇだろうよ」
「……」
ネズは言葉と表情を同時に失ったように笑みを消して、じっと艸を見返した
そんなに長くも無かったはずの沈黙の後に、ネズは神妙な面持ちで言葉を紡いだ
「艸殿、以前お話したと思うんじゃが、儂はこの体になってからどうも感情と言うものに鋭くなった気がするのじゃ」
そういえばあの長い惚気と一緒にそんなことも言っていた気がする
ネズはいつにも無く真剣な面持ちで真っ直ぐに艸を見つめていた
「お主は香殿のことを嫌っているというよりも、香殿に関わる己自身を嫌っているように見える」
艸には、その言葉がやけに遠くで聞こえていた
雨の音が、また五月蝿くなった
※※※
「はーい。点呼とるよぉ」
「四人しかいねぇだろうが」
そう言ってから、艸は人間が自分しか居なかったことを思い出す
正確には一人と、一御と、一妖怪。茱萸は正直何に分類するか分からない
「細かいことは気にしなーい。昨日みたいに天気が急に変わる前に探そうか」
昨日の夜の時点で既に土砂災害や事故が起きてしまっているとこをニュースで見ていた艸は、これ以上放っておくのはまずいということを実感していた
今日は真夏のような晴天。昨日の大雨のせいで少し蒸し暑い
艸は茨の指示通り『児奴雨』の残ったもう片方の下駄の鼻緒に、例の絵を書いた紙を結びつける
「このまえ使った文言は覚えてる?」
「あぁ……」
艸の言葉に満足そうに笑った茨は、文言を唱えるように指示した
『児奴雨』が心配そうに艸と茨を伺っている
艸は一旦深呼吸をしてから、口を開いた
以前よりもずっと滑らかに出て来た言葉は、静まったキャンパス内に静かに染み渡っていくようだった
三度同じ文言を唱え終えると、艸はそっと目を開けた
下駄はしばらくその場にあるだけだったが、やがてカタカタと小さく震えたと思うとぴょんと跳ねた
カンッカンッと兎のように跳ねていく下駄を呆然と見送ってしまっていた艸と『児奴雨』であったが、茨の呼ぶ声に慌てて追いかける
キャンパス内を跳ねていく下駄を追いかけていくと、ついにキャンパスの周囲を囲むようにある山に入っていってしまった
昨日の雨のせいで足元が悪い
茱萸が裸足の『児奴雨』を背負って山を登り、その後ろに茨と艸が続く
森林公園とは違って道も草木もまったく整備されていないせいだろうか、昼間だというのに酷く暗い
少し目を離せばはぐれてしまいそうだ
―― いったいどこまで……
艸が足場の悪さと不安からか、そんなことを思った
「イッタイ ドコマデ イカナイト イケナインダ?」
突然降って来るように聞こえた声に全員が顔を上げた
聞き覚えは無い
しゃべらない茱萸を除いても今居る三人の声ではなかった
しかも、今の台詞は――
「マルデ ココロヲ ヨンダミタイダ」
「茱萸!」
茨の声が聞こえた瞬間、艸の意識は暗闇に包まれた
「こ、これは……」
『児奴雨』はすっかり腰を抜かしてその場に座り込んでしまっていた
一瞬だった
降ってきた不思議な声に一番早く動いたのは茨だった
急に後ろを歩いていた艸の鳩尾に肘鉄を入れたかと思うと、茱萸の手を引いて茨の背中に隠すように引っ張り込んだ
その急な衝撃に茱萸に背負われていた『児奴雨』は茱萸の背中から転げ落ちてしまったのだ
そして水の流れのごとく流暢に発せられた茨の言葉は、三人の時を止めた
『児奴雨』が咄嗟に三人に近づこうと手を伸ばすと、バチンッと見えないものに弾かれた
艸は地面に両膝を付いて頭を垂れたまま身動き一つせず、茱萸は地面に倒れている
茨は片膝を突いて片手を意味深に形をつくったまま目を閉じている
三人ともそのまま身動き一つせず眠ってしまったかのように『児奴雨』の呼びかけにもこたえない
「お三方っ! どうなさったのですか!?」
「ケケケ。意識ヲ閉ジタナ」
「ひっ!?」
さっきと同じ声が、今度こそ言葉どおり空から降ってきた
グチャリと土を踏んで空から落ちてきたそいつに、『児奴雨』は腰を抜かした状態のまま後ずさりしながらそいつを見上げた
猿にも見えるそいつは二足歩行で黒く長い体毛を全身に纏っている
『児奴雨』はその姿を見て震える指先をそいつに向けた
「お、おま、お前は! 『玃』!」
「ケッ。マダ ソンナダサイ名デ呼ブ奴ガイルトハナ
今ハ『覚』ッテ呼バレテンダヨ。コッチノホウガ カッコイイゼ」
泥で汚れてしまった着物を気遣う余裕もなく、恐る恐る立ち上がった『児奴雨』は『覚』の右手に握られたものに「あ」っと声をあげた
「そ、それ! 私の!」
「ア? コノ下駄カ? 拾ッタンダ。イイダロ?」
よくよく見ればその手に握られた下駄は、先程片方の下駄を探すために使った札が鼻緒に巻かれており、『覚』の右足には既にもう片方の下駄が履かれていた
「コレデ両足ソロッタゼ」
「か、返せ! それは私の下駄だ!」
「オ前ノ? ドコニソンナコト書イテアルンダ?」
そう見下すように笑った『覚』に『児奴雨』は少し言葉を詰まらせたが、負けじと両手に拳を作って声を張り上げる
「そ、それが無いと! 私は消えてしまうんだ! 『雨師』にもなれなくなってしまうんだ! だからっ……」
「ソンナ大事ナモンヲ落トスホウガ悪イノサ! コイツハ俺ノモンダ!」
「なっ!? わ、私が消えたらその下駄だって――」
「ウルサイナ! 目障リ!」
『覚』は右手に持っていた下駄で『児奴雨』をなぎ払うように思いっきり腕を振った
すると急に暴風と豪雨が『児奴雨』に襲い掛かってきたのだ
「うっ!? う、うわああぁ!」
体の小さい『児奴雨』はあっという間に足を取られ、体を宙に放り出されてしまう
そのまま枝葉にぶつかりながら森の外へと飛んでいってしまった
「フン、オ前ニ用ハ無イ」
『覚』は『児奴雨』の消えていった方を満足そうに見送りながら吐き捨てると、右手に持ったままだった下駄を裸足の左足に履いた
満足そうにその場で数回足踏みをした『覚』は、次に三人の前に立つとどかりと腰を下ろす
「ケケッ。マサカ術ヲ使エル奴ガ居ルトハナ……
ダガ術者ノ体力ガ尽キチマエバ術モ消エル
ソレマデココデ待ッテ、ソノ時ガキタラ オ前達ノ心。貰ウ。ケケッ」
静まり返った森の中で、ケケケと不気味な笑い声だけが響いていた
※※※
「……っれ、か……。だ、れ……か……」
赤、白、黒と色々な靴がその声を掻き消すように通り過ぎていく
「おね、が……」
葉笠も作務衣もすっかり泥まみれで、必死に伸ばした小さな手は虚空を掴む
誰も、立ち止まってくれる者はない
「う、うう……、り、ん。霖……。ぼく、どうしたら……」
不意に通り過ぎていく足たちが早足になって、さっきよりも慌しく通り過ぎていく
ぼたり、と『児奴雨』の頬を濡らした雨はやがて大降りになって全身を冷やしてゆく
「霖……」
ぐったりと力をなくした体は水溜りに沈む
―― バシャッ、バシャッ、バシャバシャッ
通り過ぎてゆく足音が次第に遠くなっていく
―― パシャリ……
その立ち止まった足音に、『児奴雨』が気づくことは無かった
※※※
「露! しゃきっとして!」
「だ、だって。霖。ぼく……」
「露! その「ぼく」って言うのダメだってば! 「私」って言わないと威厳がないよ!」
「う、うん……」
「私達はいつか立派な『雨師』様になるの! そして沢山の人たちに恵みの雨を降らせるの!」
「うん……」
「あー、早く水無月修行に私も参加できるようになりたい!」
「……」
「早く立派な『雨師』様になりたいよ。ね? 露」
「……。ぼくは……」
―― そんな立派なもの、ぼくがなれるわけない
なれなくたっていいから……
「ん? 何? どうしたの? 露」
「……」
―― ずっと、君の横に居たいよ……
※※※
雀が鳴いている
差し込んでくる空の青が眩しい
「お、目を覚ましたようじゃな!」
「う……?」
急に顔を覗きこんできた見知らぬガタイのいい男に、『児奴雨』は慌てて体を起こした
「いてっ!」
「まだ無理をしてはいかん!」
「あ、あの! ああ、あの、ぼくのせいでお三方がっ!」
「わかったわかった! だから横になっておくんじゃ」
無骨な手は想像よりも優しく『児奴雨』の体を布団に横たえさせた
「じっとしとれよ」と一言釘を刺して、男は『児奴雨』に背を向ける
頭の後ろで一つに結わえた灰色の髪がザンバラに広がっていた
そして
「旦那ぁ! 目を覚まされましたじゃ!」
そう腹に響くような声で叫んだのだった
「怪我人が居る。大声で叫ぶのはいかがなものかと」
そう言って部屋には言って来た男性
真っ黒な長い髪、前髪は真横に切り揃えられており、そこから覗く瞳は鋭い
「なんじゃ、お主が来たのか? 旦那はどうしたんじゃ?」
「代わりに状況を聞いてくるように仰せつかった」
それだけを言うと、黒い細身の男は『児奴雨』の横に腰を下ろし胡坐をかいた
その鋭い目つきにたじろぐ『児奴雨』にネズが二カッと人懐っこい笑顔を向けた
「儂はネズ。こっちはハク殿。お主を助けてくれた方じゃ」
「え……。そう、だったんですか……。ありがとうございます」
ハク、という名前のわりに髪も着ているものも真っ黒だなと失礼なことを思いながら『児奴雨』は頭を下げた
「構わぬ。何があったかを簡潔に頼む」
「あ、はい! あの、その実は……――」
簡潔に簡潔にと思うほど、なかなか上手く言葉をつなげられない『児奴雨』だったが、無事に全てのことを話し終えると、ほっと息をついた
ハクは話が済んだことを確認すると小さく頷く
「なるほど、了解した」
そう言って立ち上がると早々に部屋を出ようとする
「なんじゃ、もう行くのか?」
「聞くべき事は聞いた。早くお伝えせねばならん
それに、私にもやるべきことがある」
少し早口にそう告げたハクは、早々に襖を閉めた
ネズは分厚い肩を上下させて呆れたように息を吐いた
「どうも、奴とはなじめんのぉ」
「あ、あの……」
「おう、お主は休んでおれ。後のことは旦那達がちゃんとやってくれるからの」
「は、はい……」
それでいいのだろうか、と思いつつも『児奴雨』は体の気だるさに瞼を閉じる
そしてそのまま眠りに落ちていった
※※※
「なるほど、『覚』ですか……。厄介なことになりましたね」
「……」
蔵の扉の前に立ったままの紅の背後で、ハクは片膝をついて頭を垂れたまま次の言葉を待っている
「分かりました。後はこちらで何とかしますから、貴方は任に戻ってください」
「御意」
ふっと風が吹いたかと思うと、ハクは静かに姿を消した
蔵の中からは未だ金属のぶつかる音が聞こえてきている
紅は少しその場に立ったままだったが、やがて小さく声をかけた
「沙棗」
すると、蔵の中から聞こえてきていた音が止まる
少しの静寂の後に、紅の耳元で声の波が聞こえた
―― 何だ。声をかけるな ――
沙棗が霊波による疎通方法を忘れていなくて良かったと、紅は内心ほっとした
この反応の遅さからして、忘れかけていた可能性は無きにしも非ずだが
それよりここに来た時とはうって変わって声色が低い。かなり集中していたのか、邪魔をされて機嫌が悪いのか、こうなると沙棗は面倒なので紅は一言謝っておくことにした
「すみません。少し面倒なことになりました
『黄泉路』の直しが終わったら一度手を貸してくれませんか?」
―― ……わかった ――
それ以降沙棗の声が聞こえてくることは無かったが、代わりに金属の高い音が再び蔵から聞こえ出した
それを確認すると、紅は小さく息を吐いて蔵に背を向ける
『覚』は心を読む。それが一番有名な事象として広まっているが、恐ろしいのは実はその後なのだ
『覚』に心を読まれ続けると心を失ってしまう
正確には心を取られる
欲望、恐怖、満足、愛情、好奇心、憧憬、憎悪……
何を取られるかは分からないが、その人が大切にしている。もしくは一番強い感情を失う可能性が一番高い
だから茨の取った行動は正しい。本来その結界は過酷な土地などで長く生命活動を保つために使うことが多く、意識を失う代わりに、呼吸などの生命活動を最小限にとどめ生存確率を上げるものだ
しかし今回の件では重要なのはそこではなく、意識を失うということ
意識がなければ感情もわかない、心を読まれることもない
茨の体力を考えると一週間程度は持つと思うが、何が起こるか分からない
武器を持たない二人に対して頼れる武器であった茱萸と、最も相性の悪い相手に出会ってしまったということか
「……さて、どうするべきか……」
沙棗に『黄泉路』を直してもらい加勢に行ってもらうのも手だが、加勢に行ったところで沙棗すらも危険に陥る可能性が高い
紅は表情を一層険しくし、渡り廊下を進んでいった
※※※
豪奢な廊下、壁、天井――
赤を基調としたその廊下は家一つ丸々入ってしまうほどの広さと高さを誇り、どこまでも先へ続いている
その先、一人では開ける事すら困難に思えるほどの巨大で重厚な扉が構えていた
扉の向こう側は壁が遥か彼方に思えるほどの部屋が広がっており、奥には赤いレースカーテンが波打つ壁のように落ちていた
そのカーテンの向こう側に鎮座する影に跪いた背中が一つ、二つ、三つ――
重々しい空気を打ち震わすような低い重い声が、影から発せられた
「……そうか。こうなれば最終手段に出るしかないな……
〝キヨ〟はなんと言っていた?」
その影の前に跪く背中の一つが少し遠慮気味に言葉を発した
「それが、何も……」
「……そうか。……まぁいい、準備を進めろ。これもキヨのためだ」
「はっ!」
跪いた者達が揃えた様に返事をすると、一瞬でその場から消えうせた
残された影。この部屋の主は、ゆったりと椅子から腰を上げて窓に向かって歩き出す
「キヨ……、何を考えている……」
その呟きは純粋な疑問の色が混じって零れた
ようやく窓までたどり着いた主は、窓を開け放ち窓外の世界を見据えた
高い高い視界の悠遠たる眼下一面に広がる赤、赤、赤――
この世界の色
当然のごとく広がるその景色を今は見下ろすことなく、部屋の主はただただ前を見据えていた
その視線の先に見えぬ何かを見ているようだった
人の至れぬ世界、視れぬ景色
そこでは人知れず
転機が訪れようとしていた――
花たちが咲うとき 八
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