ゆらめいてみえて
ゆらめいてみえて
許された日
傘をパサっと閉じた瞬間に今しがた止んだはずの雨が再びゆっくりと降り始めた。冷え冷えとした空気の間をぬってあたり一面がじんわりと薄まってゆく。小さな身振りで遠慮がちに降る雨はいつにもまして他人行儀に思えた。
「なかなかやみませんね。」
「ええ、まあ予報通りではないでしょうか。」
私の隣を歩く安住さんは開いた傘の中棒を肩へ規則的に打ち付けながら、あさっての方向を見、そう言った。トントンと、肩にあたる傘によって弾かれた雨がさらさらと流れてゆく。安住さんは年にふさわしからぬその若白髪を肩のあたりまで伸ばし、獣のような風貌を持て余しているような男の人だった。安住さんの少しだけ産毛の生えたうなじはほどよく湿って、不健康な色なのに艶めいた肌は生命力に満ちているように見えた。私はじっと安住さんの後ろ姿を眺める。
冬に降る雨は苦手だ。苦手というのは冬の雨を表す氷雨にしても時雨にしてもその響きがうら寂しいからだ。そんな話を安住さんにすると、安住さんは「雨という響きだけだとさ、きっともっと寂しいよ。だから昔の人は雨の季節言葉をつくったじゃないでしょうか」と言う。
「詩人みたいなことを言うのですね。」
私がそう言うと安住さんは「くくく」とおかしそうに笑いその細長い人刺し指を下唇のあたりを何度かこすった。口角をあげて、眩しそうな目をする。その表情は計算されたようにうまい具合に私のピースにかっちりとはまる。
「さて、どうしたものでしょうか。」
「とりあえず雨宿りでもしましょうか。」
「そう…しましょうか、ねえ。」
そういうことで大通りをそれてアーケード通りへと入ることになった。足元はアスファルトからつぎはぎのようなレンガ地へと変わり、頭上を見上げると格子状のアーケードにいくつもの雨が音もなく張り付いては息絶えていた。
二十代前半に二回ほど結婚して、二回ほど離婚した。器用に生きてきたせいか女一人で生活できる能力と資金に困ることはなかったのだが、オプション感覚で結婚したのがまずかった。一人目は親の資金が潤沢な、洒脱な風格の男だった。私よりも5つ下でそのときはまだ大学生だった。「あなたよりも僕を幸せにしてくれそうな人を見つけたもので。」それが彼の別れ話の切り口で、結婚して半年のことだった。なんて自由な人なんだろうということで、後腐れのないよう協議離婚という形で同意した。気持ちの離れる速度と、漂白され続ける生活感。彼のいない生活は思ったほど後を引かず、なにより驚いたのは離婚の手続きの簡単なところだった。今、彼について覚えていることはマロニエの木についてやけに詳しかったことだけ。
二人目は公務員の男だった。世間のイメージするような堅苦しさはなく、むしろユーモアセンスが全身から漏れ出しているような人だった。この人とならと思いながらこれまた半年たったころ、突然彼は職場の女と結婚するということで別れてくれと言われた。提案された慰謝料を断ったのは、これまた後腐れないようにしたかったからだ。二度目ともなると慣れたもので今回も当然協議離婚ということで済ませた。彼からは今でも年賀状が送られてくる、ふたりの男の子に恵まれたそうだ。
二度の離婚を経験して感じたことは、もしかしたら私はそういうものを持っているのかもしれないということだった。そういうものというのは一緒にいるとその人の気持ちを遠ざけてしまうというかなんというか。遠すぎると思いが強くなって近すぎるとうんざりしてしまう。だけど往々にして夫婦ってそんなもんじゃないのだろうか。まあなんとなく気がきくほうでもないし、とりわけ何かできるというわけでもない。無難に生きてきたからきっとこれは仕方ないことなのかもしれない。
それから十年経った。その十年間に何人かとそこそこのところまでいったのだが、結局ダメになった。気づけば今年で四十となり、母が私を産んだ年齢に達した。もう一人でもいいかと思っていた矢先、安住さんは気づけばそこにいた。どこにいたのかはよく覚えていないが、そこにいると思ったらもう歯止めがきかなかった。
この年になって一目ぼれというのはどうかと思うが、そんな感じだったのだからそれ以外の言い方は思い浮かばない。頭の隅のどこかで卵がぱっくり割れたような感覚だった。
そして今、安住さんは私の隣にいる。それが普通になって半年が過ぎようとしている。
アーケード通りに設置された傘専用のビニール袋を二枚とって、一枚を安住さんに渡すと、「ありがとう」と言いながらくしゃくしゃに丸めたそれをモッズコートのポケットにしまい込んだ。傘をさしていた分二人の距離は近づいている。
日曜日のアーケード通りは人々でにぎわっていた。あちらこちらで音がする、大人、子供、老人、学生。男、女、テレビ、ラジオ。雑踏によって雨はどこか遠くへ行ってしまったような気さえした。
「おなかすきましたね。」
「ええ、今日は家でゆっくり食べませんか。」
「なら、魚でも焼きましょうか。」
「いいですねえ。ついでにお酒なんかあるともっといいかもしれませんねえ」
「なら、酒屋にもよりましょう。」
そう言って目的の魚屋にはいると、顔なじみのおじさんが冬なのにも関わらずピタッと張り付いた真っ白のTシャツを着て、いつものようにおすすめの魚を選んでくれた。
お礼を言い、店を離れる。サワラが2匹入った袋を安住さんは私の手からそっと取り、中覗き込んだかと思えば、よく分からない表情をして納得したように歩きはじめた。何が分からないのか私にも分からない。
「幸せそうですね。」
私がなにとなしにそう言うと
「ええ、まあ、幸せなんでしょうね。」
などと安住さんはなにとなしにそう言う。
それから酒屋に入り適当にカゴに突っ込み会計を済ませるころにはいい時間になっていた。
レジの前頭部の禿げ上がったおじいさんは私と安住さんを交互に見比べて値踏みするような目をしていた。
「帰りましょうか。」
「そうしましょうか。」
アーケード通りを出る頃には雨はすっかりやみ、うす雲から今にも抜け出してきそうな光によってあたりはしっとりとした空気に満ちていた。高層ビルも国産車も、路面も橋梁も輝いていた。このくらいいいじゃないかという程度に。
「あの、お腹。もう限界かもしれません。」
そう言い、袋から缶ビールをとりだして安住さんに差し出す。安住さんは礼の表情を作ってもの憂げに私の目を覗き込む。そして突然笑いだしたかと思うと
「ちょっとだけならいいかもしれませんね。」と言いそれを受け取る。
ふたりして缶ビールの蓋を開ける。人生にも雨にも終わりはある。何に許されたのか分からないけど私は許されることにした。
プシュっとした音が生まれ変わった街にささやかに響いた。
ゆらめいてみえて