神様と彼と私
始まりました!
プロローグ
-神様が私に語ってくれたこと、そして“彼”に刻まれていた記憶をもとに、ここに創世から現在に至るまでを記します-
手にとった曾祖母の手記は、その一文より始まっている。
アース暦 81731年現在、世界に普及している創世記は、彼女の手記から抜粋されて作られたものだ。
しかし、彼女が創世について書くに至った理由を知っているものは、決して多くはないだろう。
なぜ人である彼女が神と対話できたのか、“彼”とは誰のことであるのか・・・。
曾祖母の手記をもとに、私は全てをあなた方に語ろうと思う。虚偽も誇張もない、一つの愛の物語を。
全能の神により、丹精込めて作られた、緑あふれ、花咲き乱れる美しき世界、アース。
人も、動物も、小さな虫でさえ、この世の春とばかりにその生を謳歌する平和な地。
その地は、神によって遣わされた、新雪のような白き翼、はちみつ色に輝く黄金の髪と瞳を持つ“白き翼”の一族と、何物にも染まらぬ漆黒の翼、濃紺の髪と瞳を持つ“黒き翼”の一族によって治められていました。
神は言いました。
「この世界は私が慈しんで作った世界。白き翼の一族よ、黒き翼の一族よ、互いに力を合わせ、この世界で生きとし生けるもの全てが幸福に過ごせるように、よく治めるのですよ。私はこれより、創造する力を再び蓄えるために長き眠りにつきます。この世界を頼みましたよ。」
白き翼の一族は言いました。
「はい、お任せください、全能神さま。必ずやこの世界を完璧に統治してみせます。」
黒き翼の一族は言いました。
「全能神さまのお言いつけを忘れずに、この世界のために励みます。」
両一族の言葉に満足した神は、この一族に新しい名を授けることにしました。
白き翼の一族を天王(てんおう)一族、黒き翼の一族を地王(ちおう)一族と名づけ、アースの平和と繁栄を願いながら、長き眠りにつかれたのです。
天王一族と地王一族はともに天空に宮殿を建てて住まい、神によって授けられたその完璧とも言える統治能力によって、この世界を治めていきました。
それにより、人の世では驚異的な速度で文明が発達し、人々は豊かな生活を手に入れ、天王、地王一族に感謝と尊崇の念を抱き、彼らのための祠を立て、毎日祈るようになりました。
動植物たちの世では、いつでも気候がよいため飢えることもなく、様々な種が仲よく暮らしていました。そして彼らもまた、天王、地王一族を尊崇していました。
天王一族は満足気に言いました。
「私たちの統治は完璧だ。この世界は急速に、より美しくなっている。皆幸せそうであるし、私たちを尊敬している。なんて素晴らしいんだ。」
地王一族は笑って言いました。
「確かに、皆幸せそうだ。このまま、ずっと幸せな世界であり続けられるよう、より一層励もうではないか。」
創世から数十年経ち、天王と地王一族、それぞれの子どもが親に代わってアースを治め、そしてそれからまた数十年後、そのまた子どもが統治をする、という世代交代を繰り返しながら、彼らはアースを治めました。
世代交代により神の教えが忘れ去られてしまうことを恐れた地王一族は、神の言葉を末代まで忘れない呪を自分の一族にかけました。
それを見た天王一族は地王一族を笑いました。
そのような呪をかけずとも、我ら天王一族は決して神のお言葉を忘れたりはしない、美しき世界、幸せな世界を保ち続ける、と。
そして、何千、何万年と時が経ちました。地王一族は神の教えを忠実に守っていました。天王一族は、より美しい世界にしようと日々考えていました。
あるとき、天王一族のひとりが言いました。
「この世は美しい。しかし、私は思うのだ。赤や黄、緑や青、白に橙・・・ほかにも美しい色はたくさんあるが、黒はどうであろうか。色とりどりの花の中に黒い色の花が混じるとそこだけが汚れてしまっているように見える。」
それを聞いた他の天王一族は言いました。
「確かにそうだ。黒色の花が混じってしまっては、他の花の美しさが霞んでしまう。それならば、より美しい世界にするために、黒色の花はこの世から消してしまおう。」
そうして天王一族は、この世から黒色の花を消し去ってしまいました。
これを知った地王一族は怒り嘆きました。
「我々は消し去ることはできても、創造することはできない。創造は神にしか許されていないのだ。黒色の花はもうこの世界で咲き乱れることはない、なんということをしてしまったのだ、神の教えを忘れたか。」
天王一族は言いました。
「神はこの世を美しくしろと仰せになった。神の教えを忘れたのはそなたたちではないか。」
黒色の花を消し去ったことを皮切りに、天王一族は全ての生きとし生けるものの中から黒色のものだけを消し去り始めました。
当然地王一族は反発し、阻止しようとしました。
しかし天王一族はとまりません。そしてついに、その手は同じ統治者である地王一族にも及んでしまったのです。
地王一族の羽が、漆黒であったがために。
「はぁっはぁっはぁっ・・・おのれ、天王一族!!!本当に神の言葉を忘れてしまったのではあるまいな!?この世から黒きものたちを消し去るなど、神への冒涜であるぞ!!!」
「ふっ・・・何を言う。我ら天王一族は美しき世界のために汚れたものたちを排除しているのだ。神の教えに従ったまで。地王一族よ、今日をもって消滅するがよい。そなたたちがごとく汚らわしいものは、この美しい世に相応しくない。」
地王一族は抵抗しましたが、それも虚しく、一人、また一人と消滅していきました。
あと十数名といったところで、地王一族の一人が言いました。
「このことは何があっても忘れぬ。我らの魂に刻みつけた。必ずや我らの子孫が天王一族の行いに報いるであろう。そしてやがて神が目覚めたとき、神罰をもって天王一族を処罰するであろう!!」
天王一族はあざ笑って言いました。
「何を言う。神に褒められこそすれ、罰せられることなど何もない。それに、そなたらの一族が我らに報いることはない。今日このときをもって地王一族は滅びるのだからな。」
天王一族が一斉に呪を唱え始め、それを見た地王一族も呪を唱え始めました。そして、天王一族が唱え終わる直前に、地王一族は忽然と姿を消しました。
こうして、この世界から黒色のものが全てなくなってしまったのです。
物も、生き物も、植物も・・・全てが消えてしまったのです。
地王一族がどこに消えてしまったのか、それは地王一族と神だけが知り得るのです。
地王一族がいなくなった世界では、天王一族がこの世の全てだというような治世が始まりました。
天王一族のなかで一番力が強い者を天帝とし、この世界はアース帝国となったのです。
地王一族がいたという証は全ての生き物の記憶から消え去りました。
創世からこれまでの治世も、全て天王一族が行ったものとして書き換えられました。
このころに、旧創世記が編纂されました。
神に世界を託されたのは天王一族であるという内容であり、地王一族のことは最初からないものとされました。
しかし、天王一族は地王一族を警戒していました。彼らが自ら忽然と姿を消したことがひっかかっていたのです。
まだ、どこかで生きているのではないか、と彼らは疑っていました。
警戒はしていましたが、地王一族がいたということは、再び何千年という時が経つにつれて天王一族からも忘れ去られていきました。
嘘偽りの創世記と、黒きものは不吉であり、見つけ次第排除せよという言い伝えだけを残して。
それからまた何千年と経った天王一族の統治が続くアース暦81620年、この物語の主人公である曾祖母は、この世に生を受けた。
そして、運命は廻り始めた。
フェリアメルの手記
天王一族から逃げた私たちの先祖がたどり着いたのは、日の光も僅かしか届かぬ暗く湿った何もない場所でした。
彼らは自分たちの力が及ばなかったことを嘆き、神に侘び、そして来るべき日がくるまで隠遁し力を蓄えることにしました。
私が生まれたのはそれから何千年経ったころでしょうか。
天王一族から受けた仕打ちはその頃になっても私たち一族の中に爪痕として残り、神の教えは魂に刻みつけられていました。
大人になった私は当時の族長との間に子を一人授かりました。
私はそれに歓喜し、指折り数えて誕生を心待ちにしていました。
しかし一方で私は決して幸せとは言えない生を可愛い我が子に与えてしまうことに苦しみました。
他の一族の子等と同様に、このような暗く何もない場所で育ち、外の世界を知らぬままいつ目覚めるとも知れぬ神が目覚める日まで待ち続けるであろう我が子が憐れに思えてしかたがありませんでした。
だから私は決意したのです。
一時だけ、ほんの一時だけ腹の子を手放すことを。
幸い、産まれる前の子どもはまだ神の力で守られているので、天王一族に感知されることはありません。
少しの間でよかったのです。産まれた瞬間だけでもよかったのです。我が子が光射す地を見ることができれば。絶望といつ叶うともしれぬ願望だけの狭い世界ではなく、明るく陽がさすあの地を目に焼き付けることができれば。
暗く哀しい生を歩む中の一筋の光となればと私は思ったのです。
先祖の記憶を持つ我らは、産まれた瞬間から力を使うことができるため、万が一天王一族に感知されても、すぐにこの地に帰ることができるのです。
その事実に後押しされ、私は誰にも告げずに事に及んだのです。
硬い殻の中に我が子を移し、呪をもってあの地に送り出したのです。
私は知らなかったのです。
天王一族が我らを忘れ去ってしまっていることを。
私は知らなかったのです。
これにより私たちの運命が廻り始めたことを。
-地王一族フェリアメルの手記より抜粋-
運命の日
天帝のお膝元、ウェストアースタウン。
天帝・天王一族と人族とをつなぐ、人族の外交官達の瀟洒な館が立ち並ぶ美しい町だ。
その一角に立つ館に、ユーリ・レスタリアは外交官の父カズマと、専業主婦の母マリアの3人で暮らしていた。
「ユーリ、早くしないと姫様との約束に遅れるわよ!!」
「はぁい、今行くわ!」
リビングからマリアが声をかけると、鈴が鳴るような可愛らしい声が応え、パタパタと軽く走る音とともに、ひとりの少女が現れた。
シニヨンに結い上げられ、琥珀の珠飾りをした薄紅色の柔らかく波打つ髪、そして卵型の白く小さな顔に完璧に配置された紫水晶のような色合いの大きな瞳とふっくらとした瑞々しいピンクの唇、小さくて可愛らしい鼻。
身長はそんなに高くないが、スラリと伸びた手足はそれを感じさせない。
ふんわりとした生地が幾重にも重なったハイウェストの瞳と同色の膝丈ワンピースに身を包んだ、誰から見ても可憐な少女は、頬をバラ色に染めてにこにこと幸せそうに笑っている。
「今日は姫様がユーリの誕生日パーティーを開いて下さるのでしょう?皆様に失礼のないようにね。」
「わかってるわ、母様。私もう今日で16歳になったのよ、子どもじゃないんだから、ちゃんと失礼のないようにできるわ。」
マリアが柔らかく諭すように言うと、ユーリは唇を少し尖らせて不満気に応えた。
言葉とは裏腹な娘の反応にマリアはクスクスと笑い、エプロンのポケットから小さな長方形の箱を取り出した。
「じゃぁ、大人になったユーリには、母様と父様から大人にふさわしいプレゼントをあげるわ。」
「本当!?ありがとう母様!」
プレゼントを受け取り、早速開けてみると、そこにはダイヤモンドで作られたハートが2つ重なった、可愛らしくも大人っぽい雰囲気が漂う華奢なネックレスが収まっていた。
「わぁ・・・すごく綺麗、それに可愛い!すっごく嬉しいわ!母様、ありがとう!」
「ふふ、あとで父様にもお礼を言うのよ。」
「うん!これ、今つけてもいい?姫様にも見せてあげたいの。」
「もちろんよ。母様がつけてあげるわ。・・・はい、できた。よく似合うわ。さぁ、そろそろ出かけないと本当に遅れてしまうわ。気をつけていってらっしゃいね。」
「はーい!いってきます、母様!」
思わぬプレゼントに、不満気だった唇は弧を描き、嬉しさで上気した頬もそのままに、ユーリは家を飛び出した。
家の前を通る道を右に進み、天空宮殿が浮かんでいる小高い丘の手前で立ち止まると、そこには何やら小難し気な呪がサークル状にいくつも並び、その一つ一つに番号が振られていた。
事前に宮殿に申請しておいた番号のサークルの中に立ち、名前と行き先を告げると、あっと言う間にユーリの姿は立ち消え、次の瞬間には宮殿の中にある、数千種にも及ぶバラが咲き乱れる庭園に立っていた。
周りを見渡すと、パーティーのために大きな白い大理石でできた長方形のテーブルや椅子が配置され、バラをモチーフに作られたティーカップや、この日のために取り寄せられた最高級の紅茶、宮殿パティシエが腕に縒りをかけて作った自信作のプチケーキ、タルト、プディングにシュークリーム、そして軽食が盛られた皿を手に、宮殿女官が忙しく立ち働いていた。
細々と働いていた兎人族の女官がユーリに気づき、特徴的な長い耳をぴるぴると震わせ、笑顔を浮かべながら楚々と近づいてきた。
「ようこそいらっしゃいました、ユーリ様。姫様はあちらの東屋にてお待ちになっておられますよ。余程楽しみだったようで、朝からそわそわなさっておいででしたわ。」
「シャルロットさん、こんにちは。私もずっと楽しみにしてたから、姫様も同じだったのならとっても嬉しいわ!今日はやっと姫様と同じ16歳になれたんだもの!」
いたずらっぽい笑顔を浮かべたシャルロットの言葉に、ユーリはぱっと顔を輝かせてうきうきと応えた。
そしてシャルロットに案内され、東屋にたどり着くと、彼女の言葉通りにそわそわと落ち着かない様子で、天帝の第一子、エルメザリルアが待っていた。
エルメザリルアはまっすぐ腰まで伸びた黄金の髪を一つに編み込み、ところどころに小さな色とりどりの花を飾っており、ユーリより10センチは優に高いスラリとした長身を金糸が織り込まれた白いハイウェストのロングワンピースで包み、少し気が強そうな印象のアーモンド型の黄金の瞳を期待と興奮によりキラキラ輝かせていた。ぽってりとした唇がほのかに色気を漂わせ、老若男女問わず誰しもが見とれてしまうような美貌の持ち主だ。
いつもは天帝の姫然とした淑女っぷりを発揮しているのだが、今は用意されていた紅茶のカップを手持ち無沙汰にいじいじと行儀悪くいじっていた。
その姿を見たユーリは、少しおどけて姫に声をかけた。
「姫様、本日は私のためにパーティーを開いてくださって、本当にありがとうございます。身に余る光栄ですわ。」
「ユーリ!よく来たわね。・・・でも、なぁに?その口上。らしくないわよ!大方おじさまにこう言いなさいって言われたんでしょ。それに、私のことはいつもどおりエルって呼んでちょうだい。ユーリに姫様って呼ばれるとなんだか痒くなっちゃう!」
エルメザリルアは行儀の悪い仕草を見られたことをごまかすかのように憎まれ口をたたいた。
ユーリはおかしくなってしまい、クスクスと声を立てて笑った。
エルメザリルアは笑われたことにより少しむっとした顔をしたが、ユーリが来たという嬉しさのほうが優ったのか、すぐに満面の笑みを浮かべてユーリを自分の目の前の席に座らせた。
「パーティーの開始まではもう少し時間がかかるみたいなの。今日はパティシエが張り切ってお菓子をたくさん作ってくれたから、いっぱい食べていってね。あ、そうそう、これ私からの誕生日プレゼント!」
エルメザリルアは矢継ぎ早に言葉を発し、少し呆気にとられているユーリの手に正方形の小箱を押し付けた。
「きっと気にいると思うのよ。開けてみて!」
小箱を渡してからも興奮が収まらないのか、そわそわうきうきしながらエルメザリルアはユーリがプレゼントを開けるのを待った。
ユーリは嬉しそうに微笑んで頷き、丁寧に包装を解き、小箱の蓋を開けた。
すると、そこからキラキラとした光を振りまきながら、小さなユニコーンのホログラムが飛び出し、ユーリの周りを駆け回り始めた。
振りまかれた光から、小さな可愛い金平糖がぽんぽんと出てきて、ユーリの手のひらに収まった。
「わぁ・・・かわいい!このユニコーン、本当にかわいいわ!こんなプレゼント初めてよ。それに、この金平糖も!小さくて、きらきらしてて、素敵!エル、ありがとう!」
ユーリはきゃっきゃとはしゃいでエルメザリルアに礼を言った。
エルメザリルアはその反応に満足した様子で、得意げに胸を張った。
自分の呪がうまく作用したことに安堵しながら、
喜んでくれなきゃうそ。だって、このプレゼント、半年は悩んでたんだから!とエルメザリルアは心の中でつぶやき、大喜びしていた。
にこにこしながら金平糖の一つを口に含むユーリを見ると、胸元に見覚えのないネックレスがあることに気づいた。
「そのネックレス、とっても可愛い!もしかして、おばさまとおじさまから?」
「そうなの!大人っぽいでしょ?エルに是非見せなきゃって思って、もらってすぐに身につけてきたの。どう?」
「よく似合うわ。私たち、もう16歳だもの。やっぱり大人にふさわしいものを身につけなきゃね。」
したりといった雰囲気で交わされる言葉に、ユーリのためにお茶を用意していたシャルロットは声を出さずに笑った。背伸びをする少女たちを微笑ましく思いながら、お茶の入ったティーカップをユーリの前に出し、二人の邪魔をしないように静かに東屋をあとにした。
全ては必然
誕生日パーティーには、ユーリとエルメザルリアが通うウェストアース学院高校の同級生が招待された。
ユーリのために集まった同級生たちは、この天真爛漫で可憐な容貌を持った彼女を妹のように可愛がっており、16歳になったことをからかったり、祝福したりと、皆よく笑い、楽しそうに時間を過ごしていた。
ユーリも、からかわれてムキになったり、祝福されて喜んだり、ケーキを食べて、写真を撮って、笑って、とても楽しく過ごした。
あっという間にパーティーの時間は過ぎ、ユーリが皆に感謝の言葉を述べたことを契機とし、お開きとなった。
ユーリはエルメザルリア、そして友人たちと別れの挨拶を交わし、来たときと同じく呪のサークルに入り、家路についた。
丘の手前にあるサークルから出たユーリは、家に向かって歩きだそうとしたが、目の前の光景にぴたっと歩くのをやめた。
そこにはいつもと変わらぬ景色が広がっていて、今は夕方のため、街は夕焼け色に染まっている。
「すごく綺麗・・・夕焼け色の空って、なんだか不思議。暖かい色なのに、何か寂しいような、恋しいような気がするの。私はいったい何が寂しいの?いったい、何が恋しいのかしら。」
一人ぽつりとつぶやくと、再び歩き出した。
その時、
くるくるともふるふるともつかぬ、不思議な音が、聞こえた。
まるで、ユーリのことを呼んでいるかのような気持ちにさせる、切ない不思議な音だった。
「今の音はなに?どこから聞こえたのかしら?」
ユーリはきょろきょろと周りを見回したが、何も見つからない。
首をかしげ、気のせいだったのかと思い直したとき、
「っ! また聞こえたわ。」
再び聞こえたその音源を探すように視線を彷徨わせたが、ひたと街の西側にある森を見つめると、帰路から離れ、そこにむかっておもむろに走り出した。
彼女を知る人物がこの場にいたなら、このときの彼女の様子がいつもと違うことに気づいただろう。
走り出した彼女は、まるで何かに急かされているかのようだった。
そして彼女の表情は、熱にうかされているかのようだった。
天真爛漫で、人を疑うこともしないが、決して無鉄砲な子ではない。
それなのに、何とも知れぬ音源のもとに駆けていってしまったのだ。
世の中の事柄は、起こるべくして起こる。
彼女が無鉄砲にも駆けて行ってしまったのも、偶然ではない。
運命の足音が、すぐこまで迫っていた。
この森には公園があり、休日の昼間ともなれば親子連れや子どもたちで賑わうのだが、夕暮れにもなると、どこを見渡しても人は誰も見当たらない。
ユーリは半ば陶然としながら音源を目指し、公園には入らず、森の中に分け入った。
経験にないほどの幸福感が彼女をつつんでいた。
謎の音が聞こえれば聞こえるほど、彼女はうっとりとした表情を浮かべた。
音源を定めたユーリは、少し開けた場所に立つ、大人数人が手を回してやっと一周できるほどの大きな、大きな木の下に立った。
すると、また音が聞こえた。
くるくるくる、ふるふるふる
ユーリはしゃがみこみ、木に耳をあて、目を閉じた。
そよそよと夕方の涼しい風が吹き、木の葉がさらさらと鳴り、鳥のさえずりや虫の鳴く声があたりに響いていた。
それを堪能するようにしばらくそのままじっとしていたが、ゆっくりと目を開けると、おもむろに木肌を撫で、幸福感をにじませた声音で囁いた。
「ここにいるの?」
すると、ユーリから3歩ほどはなれたところに重なり合うようにして地面に出ていたその木の根が、ほのかに光りだした。
光は、ふわ、ふわ、ふわ、ふわ、と、ゆったりと規則的な速度で点滅を繰り返している。
その幻想的だが不可思議な現象に、幸福感に酔いしれていたユーリは目を見開き、思わず息をつめた。
根と根の間から夕焼けと同じ色をした、両手の平いっぱいの大きさの球体が一つ現れ、ふわりと宙に浮かんだ。
夕焼け色に輝くその球体は、くるくると廻りながら、空気を振動させるように鳴動していた。
その姿は美しく、この世のものではないように見えた。
未知の事態に、呆然と見入っていたユーリは、ばくばくと速い速度でうつ自分の鼓動で我に返った。先ほどまでの陶酔感は、かけらも残さず吹き飛んでいた。
心臓の音がやけに大きく聞こえる。
目の前の出来事が現実であると知覚するにつれだんだんと恐ろしくなり、球体から目を離さぬまま、そろそろと立ち上がり、数歩後ずさった。
不思議な音に気を惹かれてここまでやってきたが、それ事態も普段の自分なら絶対にありえない。
それなのに吸い寄せられるかのように、何の疑問も持たずにこんなところまで来てしまった。
夕日も沈み掛け、空一面が群青色に染まる夜がすぐそこに迫っており、そのことが余計にユーリの恐怖心をかきたてた。
恐怖を感じるままに走って逃げてしまおうと、きびすを返した瞬間。
ユーリの内心を感じ取ったかのように球体は弱弱しく発光し、哀れっぽく、くるくるふるふると鳴きだした。
ユーリは怖々と振り向き、その球体を見つめた。
まだそれに対する恐怖心はあるし、もちろん警戒心もあった。
しかし、なぜだかこのまま放って帰ってしまうことだけは、できない気がした。
してはいけない気がした。
なぜそう思うのかはわからない。でも自分の心が強烈に訴えてきたのだ。
ユーリは息をのみつつも、そっとその球体に近づいた。
そして意を決すると、震える手で優しくそれをすくいとった。
「私を呼んだのは、あなた?」
恐怖によりカラカラに渇いた喉で、できるだけ柔らかく問いかけると、返事をするかのように、また不思議な音が聞こえた。
そして、喜んでいるかのように、ころり、と、手の中で転がった。
それを見ると、不思議と恐怖心が薄らいでいくのが、わかった。
ユーリは球体を手に、家に帰った。
親に見られてはまずいということはわかっていたので、バッグの中にこっそりと忍ばせ、静かに玄関から家の中に入り、まっすぐ自分の部屋に向かった。
部屋の隅においてある、クマのぬいぐるみがはいっている小さなゆりかごをベッドの前にひきよせ、クマを取り出して、柔らかいタオルをゆりかごに敷き、バッグから取り出した球体をそっとゆりかごの中に入れた。
「見た目は綺麗な夕焼け色だけど、これ、もしかして卵・・・なのかしら?もしそうなら、いったい何が生まれるの?うーん、一度図書館で調べてみようかな。」
ユーリはゆりかごの中の球体をじっくりと観察しながら、これからのことを考えていた。
自分の心に従って持って帰ってきてしまったが、これからどうなるのか皆目見当もつかない。
持ち帰ったことを後悔はしていないが、心に暗雲が立ち込める。
思わずため息が出た。
ぴかぴか、くるくるふるふる
ユーリの吐き出した重いため息など気にもとめず、球体がユーリに見つめられて嬉しそうに点滅し、音を出す。
ユーリは脱力した。
「まぁ、いっか。もし何かの生き物だったときは母様と父様に話して、飼ってもいいって言ってもらえるまで説得するわ。それ以外のものだったときは・・・エルに相談しよう。」
そう言うと、人差し指でつん、と球体をつついた。
硬い殻の中で
我ら地王一族の寿命は、人族と変わらぬほどしかない。
しかし青年期は人族よりはるかに長く、死ぬ数年前まで若い姿を保ち続ける。
これには理由がある。
神の教えを末代まで伝える呪と、天王一族から受けた迫害を伝える呪、この二つはかなり強力な呪で、地王一族の一生の記憶がつまっている。
それ故に、未熟な赤ん坊は呪を受け入れようとすると、許容できずにショック死してしまう。
それを防ぐために、地王一族の子は母親の腹の中で少しずつ呪を受け入れ、長い時をかけてすべての呪を受け継ぐのだ。
その期間は17年~20年ほどかかるため、子孫を複数残すためには、出来るだけ長く若い姿を保つ必要がある。
産まれてからは1年ほどで年齢に見合った外見に育つ。
精神が育ってしまっている我らには、外見を子どもに保つ必要性がないのだ。
我が母の中に宿って16年経ったころ、それは起こった。
その頃にはもう呪を受け入れ終わっていて、あとは産まれる時を待つだけだった。
腹の中からも、母が何か思い悩んでいることは感じ取っていたが、まさかあのような思い切った行動をとるとは思ってもみなかった。
母は自分の腹に手を当てると、呪を唱え、我を腹から硬い殻の中に移し替えたのだ。
暖かく柔らかい、居心地の良い場所から、快適には整えられているものの無機質的なもののなかに入れられ、われは混乱していた。
何が起こったのかと慌てていると、母は我が入った殻を抱きしめた。
「光あふれる地を見ておいでなさい。広い世界を感じて、少しの間だけでも自由を味わいなさい。ですが、決して長居をしてはいけませんよ。世界は危険に満ちている。くれぐれも気をつけて。」
心配と愛情、不安と希望、複雑な感情を込めた声音で母はそう言った。
その言葉を聞いて、我は落ち着きを取り戻した。
母は、愛ゆえにこの行動をとったのだ。
そう理解すると、我はすんなりと自分が置かれている状況を受け入れた。
わかったと言うように殻を震わせると、母は我を離し、短く呪を唱えた。
その時に見えたのは、涙に濡れた頬に、笑顔を浮かべた母の顔だった。
次の瞬間には、我が入った殻は、木の根元にある暗い場所に抱かれていた。
我が産まれるまで、あとほんの少しだと感じていた。
外に出て世界を一目見たら、すぐに一族のもとに帰ろうと思っていた。
しかし、我の予想を超えて、1年経ってもこの殻は割れることがなかった。
母の腹の中にいた頃は、母の声やその周りの声が聞こえていたが、ここは何も聞こえない。
話しかけてくれるものは何一つなく、真っ暗なこの場所で、我は気が狂いそうになっていた。
呪は受け入れ終わっているのに、何故この殻は割れぬのだ、何故一人きりでこの時を過ごさねばならぬのだ、そういった暗い感情にとりつかれ、嘆いていた。
そこから更に1年ほど経ったある日、我は嘆きのあまり殻を震わせて慟哭していた。
もう限界だった。
誰でもいいから話しかけてほしかった。
抱きしめて安心させてほしかった。
慟哭がすすり泣きに変わったころ、ザッザッと、地を駆ける音がすぐ近くで聞こえた。
足音の持ち主はゆっくりと我の方に近寄ってきた。
我は息を潜め、外の様子を少しでも感じとろうとした。
足音の持ち主は、我がいる木に手を触れたようだった。
その手の暖かい感触が、我のもとまで届いたように思えた。
我は歓喜した。
しばらくその暖かさを喜びに打ち震える心で堪能していたが、もっとそれを近くで感じたいという欲求に逆らえなくなってきた。
そのときだった。
「ここにいるの?」
柔らかくて、優しくて、少し高めの、少女の声が聞こえたのだ。
その声を聞いたときに、我は気づいた。
我はこの少女と出会うために、2年もの間ここで佇んでいたのだ、と。
そう思うといてもたってもいられず、なんとか少女に気づいてもらおうと、今持てる力を殻の中から必死に使い、木の根から抜け出した。
抜け出して辺りを確認すると、ぽかんとした表情でこちらを見つめる、美しい少女がいた。
あぁ、やっと出会えた。
ふいにそう思った。
不思議だった。
初めて会ったのに、そう感じる自分が信じられなかった。
半ば呆然としていると、少女が怯えたように後ずさり、くるりと踵を返した。
我は焦った。
待ってくれ、おいていかないでくれ、必死にそう呼びかけた。
何がなんでも彼女といっしょにいたかった。
怯えずに笑顔をみせてほしかった。
触れて、ほしかった。
すると、願いが通じたのか、彼女は我のほうに振り向き我を手に取ると、少しかすれた優しい声で問いかけてきた。
「私を呼んだのは、あなた?」
我は彼女を呼んでいたのだろうか。
あぁ、きっとそうだ。
そうでなければ、彼女に話しかけられただけで、触れられただけで、こんなに心震えるわけがない。
我はそうだと返事をすると、喜びに殻を震わせた。
この日を境に、我の世界は彼女となったのだ。
謎だらけ
外交官や学者、医者や天王一族を親にもつ子息・令嬢が通うウェストアース学院は、気品あふれる白亜の城をモチーフとした校舎、勉学では神学を主に組み込んだカリキュラム、生徒の自主性を重んじる自由な校風を特徴としてもつ、帝国屈指のエリート養成校である。
誕生日の翌日、ユーリはその学院内にたつ、ウェストアース最大の蔵書を誇る図書館にきていた。
ユーリの時間割では今日は講義は入っていないので学院に来る必要はないが、あの球体・・・卵、が何なのかを調べるためにやってきたのだ。
ちなみに、その卵は哀れな鳴き声と点滅もむなしく、ユーリの親に見つからないようにクローゼットの奥にゆりかごごと押し込まれ、静かにしているようにと厳命をうけてお留守番をさせられている。
ユーリは、大きな卵をもつアース中の生き物の生態が載った分厚い図鑑を何冊も抱えて、最上階にある神学コーナーの隅にある、棚と棚に隠れるように配置されている席についた。
ここはユーリの特等席で、一人になりたいときなどはよく利用していた。
幸い、今までここで誰かと出会ったことはない。
親友であるエルメザルリアにも、秘密の場所である。
「えーっと、卵の特徴は夕焼け色で・・・つるつるで丸くて、輝いてて・・・うーん、ないわねぇ。」
ぱらぱらと図鑑をめくり、卵の特徴を思い浮かべながらめぼしい情報を探っていたユーリは、眉を八の字にし、困ったような声を出した。
持ってきた図鑑の中からは、卵の情報は何一つ見当たらなかった。
これではあの卵の処遇を決めることもできない。
ユーリの中では、あの球体は卵として定着していた。
話しかけると反応するし、なんとなく感情も読み取れる。
何かの生き物であるとしか考えられなかった。
木の根から出てきたところを見ると、鳥のように温める必要はなさそうであるし、かといって自分から出てきたものを再び根に埋め直すのも気がひけた。
観察する限りとっても元気そうであるので、手を加えるのはやめたのだ。
しかし育てるのならそうもいかないだろうと、何か手がかりがあればと思って図書館に足を運んだが、無駄だったようだ。
何もわからないことはかなり不安だが、例え産まれるのが猛獣であっても、爬虫類的なものであっても、鳥類であっても、きっちりと面倒を見る気でいた。
“もし産まれたら・・・手探りで育てるしかないのかしら。不安だわ・・・
あぁもうっ考え込んでも仕方がないわ。なるようになるわよ!”
そう自分を叱咤したユーリは、卵について調べるのは諦め、書かなければならない神学のレポートの参考書を探すために立ち上がった。
天王一族が書き記した神の言葉や、その神の言葉に従ってこの世を統治する天王一族、天帝について書かれた神学書は、このアースのなかで最も多く存在する分類の学術書だ。
ユーリはレポートに関連しそうな参考書を手にとって軽く目を通し、数冊借りて帰ることにした。
「ただいまー。」
「おかえり、ユーリ。今日のご飯はユーリの好きな煮込みハンバーグよ。昨日は父様がお仕事で誕生日のお祝いができなかったから、今日しちゃいましょうね。」
ユーリが帰り、キッチンのほうに入っていくと、母がうきうきと料理を作っていた。
テーブルの上には美味しそうな煮込みハンバーグやポテトサラダ、グリルしたトマトにマカロニグラタン、外はカリカリ、中はもっちりとした食感のバゲットが既に並べられている。
母は火にかけていた鍋をおろし、中に入っていたポタージュスープを皿に盛りながらユーリに笑顔を向けた。
「父様は書斎にいらっしゃるから、呼んできてくれる?」
「はーい、わかったわ。」
美味しそうな料理に顔を輝かせたユーリは、階段を上がり自分の部屋に荷物を置くと、廊下をはさんで右斜め前にある部屋の扉をノックした。
「父様、ご飯ができたみたいよ。早く降りて、一緒に食べましょう。」
ユーリが声をかけると、がちゃりとノブが回る音がし、そこから父が出てきた。
「あぁ、お帰り、ユーリ。一日遅れたけど、16歳おめでとう、私の可愛い天使!」
父は満面の笑みを浮かべると、ユーリを力強くぎゅっと抱きしめた。
「ちょっと、父様!その呼び方やめてって言ってるでしょ!それに、私はもう子どもじゃないのよ、大人の女性なんだから、そんなにぎゅうぎゅう抱きしめたりしないでよぉ!」
ユーリはバタバタと暴れながら抗議したが、父はどこ吹く風である。
笑い声を上げながら、最後にユーリの背中をぽんぽんと軽くたたき、ユーリを離した。
「ふふ、そうだな、ユーリはもう立派な女性だ。しかし、私の天使であることには変わりないのだよ。さぁ、母様が待ちくたびれてしまうよ、いこう。」
父の反応に軽く頬をふくらませながら、父について階段を降りようとしたが、思い出したかのように自分の部屋にむかって早足で歩き出した。
クローゼットをあけ、ゆりかごを引っ張り出すと、卵が拗ねたように点滅していた。
「遅くなってごめんね。クローゼットのなかで待つのなんて、嫌よね。次は何か別の方法を考えるから、機嫌直してちょうだい。ね?」
卵をすくい上げ、優しく撫でながら謝ると、拗ねていたのが嘘のように元気よくピカピカと光った。
その姿に微笑むと、ユーリはベッドの上に卵を下ろした。
「下でご飯を食べてくるわね。そしたらすぐにまた戻ってくるから、いい子にしててね。」
そう言うと、卵は一度光って返事をし、ころんころんと楽しそうに転がり始めた。
ユーリはもう一度卵を撫で、部屋の扉を閉めると、階下でまつ父と母のもとに降りていった。
誕生
家族3人のささやかな誕生日パーティーは和やかに過ぎていった。
片付けを手伝い、父と母に部屋でレポートを書くことを告げると、ユーリは再び自分の部屋に戻った。
「おまたせ。待ちくたびれちゃった?」
ベッドに転がったままの卵に近づき抱き上げると、くるくるふるふると嬉しそうに鳴いた。
ユーリは卵を抱いたままベッドに腰掛けると、撫でながら話しかけた。
「今日図書館であなたについて調べてみたんだけど、何もわからなかったの。もしかして、新種なのかしら?でも、神様はまだお目覚めになっていないって聞くし・・・新種っていうのは、考えられないわよねぇ。あなたが生まれたら、何を食べさせてあげたらいいのかとか、どんな環境で育てるのかとか、知りたかったんだけど。ねぇ、生まれたら、私に教えてくれる?どうすればあなたを育てられるのか。卵から出ても、今みたいにお返事したり、気持ちを伝えたりしてくれるかしら?」
卵は不安が入り混じった声を出したユーリを元気づけるようにぴかぴかと光った。
心配いらないよ、大丈夫だよ、と言っているようで、ユーリはぎゅっと卵を抱きしめた。
「あなたはいい子ね。生まれてくるのが楽しみ。早く会いたいわ。」
ユーリがそう言ったときだった。
腕の中の卵が、光るのをぴたりとやめた。
かと思った瞬間、今までにないほどしきりに点滅を繰り返し、ぶるぶると震え始めたのだ。
ユーリは驚き、慌てて卵をベッドにおろした。
「どうしたの、何か苦しいの?どうしよう、どうしたらいいの?」
突然のことにユーリはパニックになったが、よくよく見てみると卵に薄く亀裂が入っていた。
「もしかして、生まれるの!?な、なにか用意しなきゃいけないものとか、あるのかしら?」
生物の誕生になど立ち会ったことがないユーリは、おろおろしながら卵を見ていた。
パキパキ、パリンッ
卵が割れる音が小さく響いた。
ユーリは卵から出てきたものを見つめると、息を飲んだ。
「・・・人?」
卵から出てきたのは、両手の平にすっぽりとおさまるぐらいの、小さな小さな子どもであった。
紺色のつやつやしたまっすぐな髪は、腰のあたりまで伸びている。
髪と同色の目は切れ長で、子どもとは思えぬほど理知的な光を放っていた。
鼻筋はすっと通り、色白の肌に紅い薄めの唇が映え、この世のものとは思えぬほどの、氷のような美しい顔立ちをしているが、頬は子どもらしく丸みを帯びており、それがその子どもの美貌を温かみのあるものに見せていた。
しかし、何よりも目をひいたのは、その子どもの背中にあるものである。
「これは、羽・・・よね。エルのとそっくりだわ。」
そう、子どもには羽が生えていたのだ。
天王一族とよく似た羽が。
よく似てはいるが、その羽はユーリの見たことのない色をしていた。
「こんな色見たことないわ。夜の色よりも濃い、不思議な色。でも、なんて綺麗なのかしら・・・」
ユーリは恍惚とした表情を浮かべ、目の前の子どもを抱き寄せた。
「初めまして、私はユーリよ。今日からよろしくね。」
子どもはユーリをじっと見つめると、よろしく、というようにすりすりとユーリの頬に自分の頬をよせて擦り付けた。
その可愛らしい仕草にほっこりしたユーリだったが、はたと正気に返った。
「父様と母様に、なんて言ったらいいのかしら。」
鳥や犬のような動物を飼うのとは、わけが違う。
ユーリは頭を抱えた。
説得
ユーリはとてつもなく困っていた。
目の前の子どものことを、どう親に説明したものか。
卵から人が出てきた、なんて言っても信じてもらえないだろうし、子どもを飼ってもいい?などと聞こうものなら母は卒倒、父は絶句、といった結果になり、問答無用で子どもと離されてしまいそうだ。
「どうしたらいいのかしら。困っちゃったわ・・・」
ユーリの困惑を感じ取ったのか、子どもはユーリの腕をぺちぺちと可愛らしく叩き、どうしたのか、と目で問うてくる。
「あなたといっしょに暮らしてもいいかどうか父様と母様に聞こうと思うのだけれど、どう説明すればいいのかわからないの。小さな人を拾っちゃったなんて、言うわけにもいかないし。」
ユーリは泣きそうな顔で子どもを見つめた。
子どもは、なんだそんなことか、とでも言いたげに、にやりと子どもらしからぬ笑みをうかべると、ユーリから少し離れた。
子どもは目を閉じると、小さな口を開き、ユーリには聞き取れない言葉を発し始めた。
子ども特有の高めのか細い声が、柔らかな旋律を奏で始める。
すると、子どもの姿が徐々に変化し始め、ユーリが驚きに目を瞬いた次の瞬間には、なんと鷹になってしまっていた。
紺色の目と鋭い爪、目と同じ色の羽毛に覆われた身体は、翼にかけてグラデーションのようにだんだんと色が濃くなっていき、あの不思議な色の翼を違和感なく調和させている。
どうだと言わんばかりに胸をはって、軽く キュル、 と鷹は鳴いた。
その堂々たるたたずまいはさすが猛禽類といったところだが、いかんせんかなりコンパクトなサイズのため、威厳は半分以下である。
ユーリは呆気にとられ、ぽつりとつぶやいた。
「これは、とんでもないもの拾っちゃったかも。」
アースにはたくさんの種が存在する。
人族と同じ姿をしているが、兎人族や猫人族、犬人族のように、その名の動物の特徴である耳やしっぽをもつ亜人もいる。
彼らは動物的な特徴は持つが、その動物に変化することはできない。
あくまでも亜人なのだ。
人と動物の2つの姿を取れる生き物など、ユーリは見たことも聞いたこともなかった。
「あなたは一体何者なのかしら。余計にわからなくなっちゃったわ。・・・でも、確かにこの姿なら、なんとか父様と母様を説得できそうね。よし、あなたのがんばりを無駄にしないためにも、鉄は熱いうちに打て、善は急げ、よね!早速説得しにいくわ!」
ユーリは混乱しているのか、発した言葉がかなりおかしかった。
目の前にいる不思議な生き物も、自分が知らないだけで、もしかしたら何かの文献にはのっているのかもしれないし、と無理やり前向きに考え、自分を納得させた。
「
さぁ、いっしょに下に行きましょう。」
その言葉を聞き、鷹に変化した子どもは、爪で彼女を傷つけないように注意深くユーリの肩に飛び乗った。
ユーリはその気遣いを感じ取ってにこりと笑うと、父と母のいる階下に降りていった。
キッチンの横にあるリビングで、食後のお茶を楽しんでいた両親は、どうみても猛禽類の子どもにしか見えないものを肩に乗せた娘を見て、驚きに固まった。
しかもそれは見たことのない色の翼を持っていた。
ごくり、と喉を上下させた父が、娘に問いかけた。
「ユーリ、それは、いったい何だい?」
「昨日、西の森で拾っちゃったの。近くに親もいないみたいだったし、かわいそうだから連れてきたの。ねぇ、この子、うちで飼っちゃだめ?ちゃんと面倒見るから。父様ぁ、お願い!」
ユーリは、不思議な音につられてフラフラと夕方の森に近づいたことや、実はこの鷹は人の姿をしていて、しかも怪しげな卵から出てきた、という事実を包み隠し、簡単に説明した。
うるうると目をうるませ、上目遣いに父を見つめる。
娘のおねだりに弱い父は娘の上目遣いにでれっとした顔をし、思わず了承しそうになった。
その時母が正気に返り、慌てて父を遮った。
「あなた、ちょっと待って。 ユーリ、かわいそうだから拾っちゃったって、あなた・・・命を育てるっていうのは、とっても大変なことなのよ。そう簡単にいいわよって言えないわ。それに、近くに親がいなかったって言ったけど、もしかしたら餌を取るためにちょっと離れていただけかもしれないじゃない。それなのに、勝手に連れてきちゃったら、その子の親は探し回っているかもしれないわ。返してらっしゃい。」
母にぴしゃりと言われ、ユーリはしゅん、となった。ユーリの肩に止まっている鷹も、そんなユーリをみてしゅん、と首を下げた。
そんな一人と一匹を見て、母はため息をついた。
「・・・と、言いたいところなんだけど、その子にはもう人の匂いがついちゃったでしょうね。今返しても、その子の親はきっとその子を育てることはないわ。
ユーリ、本当にちゃんと面倒見られるの?」
ユーリの目を見て、母はそう問いかけた。
ユーリはしっかりと見つめ返すと、力強く言った。
「ちゃんと面倒見るわ。ご飯もあげるし、水浴びもさせてあげるし、寝る場所も準備する!お世話をさぼったりもしないし、父様と母様におしつけたりもしないわ!だからお願い!この子をうちの子にしてもいいでしょう?」
必死に言い募るユーリに、父と母は視線を交わし、仕方ない、というふうに微笑みあって頷いた。
「そこまで言うなら、父様は反対しないよ。毛並みはちょっと珍しい色をしているけれど、賢そうな顔をした立派な鷹だね。ちゃんと面倒をみれば、いい子に育つだろう。」
「ちゃんと約束を守ってちょうだいね。しっかりと面倒をみること!」
父と母から許しを得たユーリは、ぱぁっと顔を輝かせると、鷹を抱きしめて喜んだ。
「やったわ!あなた今日からうちの子よ!
父様、母様、ありがとう!」
そのまま踊りだしそうなほど喜んでいるユーリを横目に、
「そうと決まれば、その子に名前をつけなければならないね。」
「あら、こんなに珍しい毛並みと賢そうな顔をしているんだもの。理知的な名前がいいわ。」
「いやいや、ここは格好良い名前がいいんじゃないかな。」
「女の子だったらどうするの?」
「ふむ、たしかめてみようか。」
などと両親は勝手に盛り上がっていた。
そしてユーリの腕の中でユーリといっしょになってキュルキュルと鳴いて喜んでいる鷹を父がひょい、と奪うと、いきなりのことにびっくりして固まった鷹を二人していいように触り観察し始めた。
「おや、男の子のようだね。」
「じゃぁ、理知的で格好良い、素敵な名前を考えましょう。」
両親の手の中で固まってしまった鷹を慌ててユーリが回収し、腕の中に囲った。
「もう、まだ子どもなんだから、丁寧に触ってよね!」
「ごめんごめん、つい。ユーリはどんな名前がいいんだい?」
「え、そうねぇ、やっぱり・・・」
レスタリア家の面々が名づけという白熱したバトルを繰り広げるのに、そう時間はかからなかった
あなたの名前は
「じゃぁ、父様、母様、この子の名前は、これで異論ないわね?」
ユーリの問いかけに、父と母は重々しく頷いた。
あの後3人の名付け合戦はデッドヒートを繰り広げ、最初のうちは3人のやり取りを興味深げに見守っていた鷹が思わずうとうとと居眠りをしてしまうころにようやく決着した。
ユーリはこほん、と咳払いをすると、鷹をつんつんとつついて覚醒させ、目を見てゆっくりと名前を呼んだ。
「ビルトゥーア。今日からあなたはビルトゥーアよ。」
寝ぼけ眼をしぱしぱさせていた鷹は、名を告げられて目が覚めたのか、きらりと目を輝かせ、胸を張って厳かな雰囲気を醸し出すと、了解した、というようにキュルーっと鳴いた。
雰囲気とは裏腹な可愛らしい声に、ユーリと両親は思わず吹き出した。
名前が決まると、ユーリと両親はこれからのことについて話し合った。
何しろビルトゥーアは世にも珍しい羽毛の持ち主である(世にも珍しいのは羽毛だけではないのだが)ので、むやみに連れ回して好事家や鳥獣の研究者に見つかりでもしたら大変である。
自由に飛び回れないのはかわいそうだが、家の敷地内から出さないことが一番ビルトゥーアの安全を守ることにつながるだろうという考えに至った。
ユーリがビルトゥーアに言い含めるように敷地内で我慢してほしいと伝えると、キュルルル、と鳴いて了承の意を示した。
我慢させると言っても、レスタリア家の敷地は広大で、鷹1匹ぐらいなら放し飼いにしても十分余裕を持ってのびのびと飛び回ることができる。
敷地面積に対し、屋敷が占める割合はわずか2割ほどしかなく、残りの8割は木々が生い茂る林や、花が咲き乱れる庭であるので、ビルトゥーアも満足できるだろう。
これだけ広大であると手が行き届かないため、毎日家政婦や庭師が通っては美しく整えているのは、余談である。
ビルトゥーアの処遇が決まったところで、もうすでに時計は真夜中を指していた。
ユーリはうとうとと再びまどろみ始めたビルトゥーアをすくい上げると、父と母にビルトゥーアを寝かしつけてくると言って自分の部屋に入った。
「ビルトゥーア、今日は疲れたでしょ、もう変身を解いても大丈夫よ。それとも、その姿でいる方が楽かしら?」
ビルトゥーアはキュルキュルと小さな声で鳴くと、ユーリの手からぴょん、と飛び降り、ユーリのベッドの上に飛び乗って、枕元で寝る体勢をとった。
どうやら鷹の姿で寝るつもりらしい。
「ビルトゥーア、ビル、あなたの寝床はこのゆりかごでしょ。・・・もう、仕方ないわねぇ。」
つんつんとビルトゥーアをつついてゆりかごに移るよう促したが、もう目を開けることもできないほどの睡魔に襲われている子鷹に苦笑すると、そのまま自分のベッドの一角を譲り、タオルケットを掛けた。
ビルトゥーアが寝たのを見届けた後、ユーリは風呂に入り、最後に就寝の挨拶を父と母にすると、ビルトゥーアの横に寝転がり、掛け布団をたぐり寄せると、小さくあくびをして目を閉じた。
その頃、天王一族の長老たちは天空宮殿に集い、頭を突き合わせて何事かをしきりに話し合っていた。
月に一度の長老たちの役目である星読みを行った結果、不吉ともとれる結果が出たのだ。
曰く、
西の方角より来る宿命の御子、これ即ち衰退と繁栄、破滅と再生を呼ぶもの也。と。
読み取れた内容も大雑把なもので、宿命の御子という人物の特定も難しそうな上に、天王一族の治世に関わるものなのかもわからない。
だがしかし、長老たちは腹の底から湧き上がるような、言い知れぬ不安を感じていた。
目覚め
ほわほわ、ほわほわ。
むずむず・・・
ほわほわ、ほわほわ。
むずむず、むずむず。
ほわほわ、ほ「ふぇっくしょん!!!」
ユーリは何かほわほわとしたものに鼻をくすぐられ、乙女が出すとは思えないほどの盛大なくしゃみとともに飛び起きた。
その大きなくしゃみに驚いたのか、ユーリの鼻をくすぐっていた元凶も一緒に飛び起きた。
「もー、いったいなんなのよぅ・・・。」
鼻をぐすぐすとすすり、乙女あるまじき行為と、素敵な目覚めをプレゼントしてくれたそれを軽く睨んだ。
それは驚きのあまり昨夜からの変化がとけてしまったのか、卵から出てきたときと同じ姿で、目をぱちぱちさせながら佇んでいた。
ユーリに睨まれて、わけがわからないというようにきょとん、としている。
文句を言ってやろうと思ったユーリだったが、その幼げな姿に気勢を削がれ、しょうがないなぁ、と笑うと、その小さな頭を優しく撫でた。
「ビル、おはよう。」
にっこり微笑んで言うと、ビルトゥーアはユーリを見つめ、もごもごと口を動かし、う~う~と軽くうなったあと、
「お・・ぁよー?」
と、可愛らしい声で挨拶を返した。
・・・挨拶を返した?
「え~~~~~!!!ビル、しゃべれるの!?」
昨日からビルトゥーアが発した声といえば、人には聞き取れない不思議な旋律と、鷹に変化してからのキュルキュルという鳴き声だけである。
まさか人の言葉をしゃべれるとは思ってもみなかったユーリは、驚愕に目を見開き、思わず叫んでしまった。
ユーリの叫び声にまたしてもびっくりして固まったビルトゥーアだったが、ユーリが驚いた理由を理解すると、羽をはたはたとはためかせ、期待に満ちあふれた目でユーリをしきりに見つめた。
きらきら、きらきら、という音が聞こえてきそうである。
その視線の意味を正しく理解したユーリは、ビルトゥーアをギュッと抱きしめると、いい子いい子と頭を撫で、褒めちぎり始めた。
「とってもお利口さんね!!昨日生まれたばかりなのに、もうしゃべれるのね、えらいわ、ビル!」
自分の欲求を叶えてもらえたことに気をよくしたビルトゥーアは、自分からもユーリに抱きつき(身体の大きさがかなり違うので抱きつくというよりはしがみつく、であったが)、もっと撫でてくれ、と、ユーリの手に頭を擦り付けた。
ビルトゥーアの望むままに頭を撫でてやっていたユーリは、あることに気づいた。
「ビル・・・なんだか、ちょっと大きくなってない?」
昨日は両手のひらほどの大きさしかなかったビルトゥーアだが、今は両手からはみ出るほどまで成長していた。
「なんだか、どんどん大きくなっちゃうみたいね。ふふ、育ち盛りには美味しいご飯が必要よね。さぁ、着替えて下に行きましょうか。ママの朝ごはんは絶品よ。」
ユーリはクローゼットの中から紺色のキュロットと、胸元にふんわりとしたリボンがかかり、袖がぽわんと柔らかく膨らんでいる白いブラウス、そして黒のオーバーニーを出し、着替え始めた。
鷹の姿に変化したビルトゥーアは、やはり昨日よりも大きくなっているようだった。ユーリが階段を降りると、後ろからぴょんぴょん跳ねながらついてくる。
キッチンに入ると、そこには既に父と母の姿があり、母は朝食を作っていて、父はコーヒーを飲んでいた。
「父様、母様、おはよう。」
「キュルルルー。」
「ふふ、おはよう、ユーリ。ビルトゥーアも、おはよう。」
「おはよう、ユーリ、今日も私の天使はとびきりかわいいね。ビルトゥーアも、挨拶できてえらいぞ。」
愛娘と、昨日から家族の仲間入りをした小さな鷹の可愛らしい挨拶に頬をゆるませながら、父と母は挨拶を返した。
「今日の朝ごはんはヨーグルトサラダとフレンチトースト、オレンジジュースにグレープフルーツよ。フレンチトーストはできたてだから、早くたべちゃいなさい。」
「はーい。」
母の言葉にうきうきと返事をし、ユーリは席についた。
ビルトゥーアもユーリの椅子の手すりに止まり、フレンチトーストやグレープフルーツの相伴に預かった。
その姿をみて父は驚いたようだった。
「ビルトゥーアは鷹なのに、昆虫の類じゃなくて普通の食べ物を欲しがるんだね。人のものを食べて大丈夫なのかい?」
父の言葉にユーリは与えようとしていたグレープフルーツの房をひっこめた。
食べる直前でひっこめられたビルトゥーアは、不満を訴えてキュルキュルではなくギャーギャーと鳴き始めた。
「大丈夫、なんじゃないかな。ビルはかなり賢いし、自分の身体に悪いものは食べないよ。」
バタバタと抗議するビルを見て、元気そうだし、害はなさそうだと判断したユーリはそう言った。
「そうみたいだね。その暴れっぷりを見る限り、かなりグルメな鷹みたいだ。」
「ふふ、ビルはユーリと同じものが食べたいのよね。」
父と母はそろって笑い声をあげ、ビルトゥーアの首もとを撫でてからかった。
からかわれたビルトゥーアは不満そうに首を横に振っていたが、ユーリが新しくフレンチトーストを切り分けてよこしたのに気をとられ、不満に思ったことも吹き飛んでしまったようだった。
その姿を見てさらに笑われてしまったのは、言うまでもない。
連れて行ってよ
朝食を食べ、学院に行く準備をすませたユーリは、今日の講義の時間割を確認していた。
「えーっと、確か今日は神学が昼まであって、昼からは・・・数学ね。と言うことは3時には帰ってこら
れるわね。」
確認し終わると、ユーリの行動を興味深げに見ていたビルトゥーアに行ってくるわね、と言い、父と母にも行ってきますと挨拶し、鞄を持って玄関に向かった。
ユーリが玄関に続く廊下を歩いていると、彼女の後ろからカツカツという爪の音が聞こえた。
不審に思い振り返ると、ビルトゥーアがひょこひょことついて来ていた。
「あら、ビル、お見送りしてくれるの?」
ビルトゥーアにそう言うと、ビルトゥーアはキュル?と首をかしげた。
なぜ首をかしげるのだろうとユーリは不思議に思ったが、気に止めずにスリッパから靴に履き替えた。
「それじゃぁね、3時には帰ってくるから、いい子にしててね。」
ビルトゥーアにそう言うと、ユーリは玄関を開け、外に出た。
朝のすがすがしい空気を胸いっぱいに吸い込み、学院にむかって歩きだそうとしたとき、何か柔らかいものが足に当たっているのに気づいた。
嫌な予感を覚えて足元をそろりと見下ろすと、
「キュルー?」
行かないのかと言うようにビルトゥーアがユーリを見上げていた。
「・・・ビル、あなたはお留守番よ?」
たっぷり3秒間ほど見つめあった後、ユーリはビルトゥーアにそう告げた。
もちろんついていく気でいたビルトゥーアは、嫌だというようにギャーギャーと鳴いた。
鳴くだけでなく、翼はバサバサ、足はバタバタと身体全体で駄々をこねるビルトゥーアであったが、抗議も虚しく、ユーリにより呼ばれた母の腕の中に閉じ込められた。
ついていくと言って暴れるビルトゥーアに、昨日約束したでしょ、と言うと、それでもまだ不満を訴えるビルトゥーアを母に預け、今度こそユーリは学院に向かって歩き出した。
学院につき、神学の講義室に入ったユーリは、既に一番前の席に陣取っているエルメザルリアに気づいた。
ゆったりと椅子に腰掛けた彼女は、優雅に本を読んでいる。
「エル、おはよう。今日も早いのね。」
エルメザルリアに近づきにこやかに挨拶をすると、エルメザルリアも本を閉じてユーリの方を向いた。
「おはよう、ユーリ。あなただって、いつも早いじゃない。」
エルメザルリアも笑顔を浮かべて挨拶を返すと、自分の隣の席をユーリに勧めた。
「今日の午前中は神学の講義で埋め尽くされていて、嫌になっちゃうわ。神様についての講義ならまだしも、天王一族についての講義なら最悪よ。」
「そんなこと言わないで。天王一族がどうやってこの世界を統治しているのかとか、なぜそうすることになったのかとか、教授の口から語られるお話はとっても興味深いわ。」
ユーリが席につくと、エルメザルリアが顔をしかめて講義の不満を口にした。
エルメザルリアは天王一族の統治についてなど知り尽くしているがために講義で取り上げられてもつまらないのだ。
ユーリはそれを知っていたが、クスクス笑ってエルメザルリアをなだめた。
「それに、教授の主観を交えて語られるのだから、自分の知っていることを別の方向から考えてみるいいチャンスよ。」
「もう、ユーリは本当に真面目ねぇ。でもまぁ、不満を言っても仕方ないわよね。ユーリの言うとおり、そうしてみるわ。」
エルメザルリアは肩をすくめ、ユーリの言葉を受け入れた。
それから講義が始まるまで二人はたわいのない話をしたり、来週が締切のレポートについて意見を交換したりしていた。
そうこうしているうちに講義室に生徒が集まり、始業ベルがなり、神学の教授が入ってきた。
彼の名はアルベルト・ロキシントンと言い、優秀な神学の研究者であり、この学院の教授でもある。
彼は犬人族で、ひょろりと背が高く、鳶色の髪と赤茶色の垂れた耳、常に笑っているように見られる細い線のような目に、柔和な口元、鼻にかかる丸いメガネが特徴の青年である。
少し擦り切れた、しかし皺一つない白衣を羽織り教壇に立つと、教室中を見渡した。
「え~~~、皆さん、おはようございます。今日は午前中いっぱい、神学の講義をします。今日の講義内容はですねぇ、神がこの世界を創造した手順や方法についてと、この世界を託された天王一族が行なう統治の一部を、具体的に説明したいと思います。では、教科書の78ページを開いてください。」
見た目を裏切らないほんわかとした声でそう言うと、教科書を開き、内容について説明したり、補足をつけたりとよどみなく講義をし始めた。
エルメザルリアは少しげんなりとした顔をしたが、おとなしく教科書を開くと、真面目に教授の話に耳を傾け、ユーリも教科書を開き、気になったことをノートに書き留めた。
ランチタイム
神学の講義を終え、ユーリとエルメザルリアは昼食のために二人そろって講義室から出ると、カフェテリアにむかって歩き出した。
「ユーリの言うとおりに先生の考えを聞いてみたら、なかなか楽しかったわ。自分とは別の視点から見て考えるって、大事なことなのね。次からはもっと楽しく講義を受けられそうよ!」
「そうね、先生の考えは今日の講義で聞けたから、次はエルからも天王一族のお話を講義とからめて聞きたいわ。」
歩きながら交わされる会話は、周りからしてみれば真面目なことこの上ない。
だがそれも、二人が天帝の娘と外交官の娘であることを考えると、あながち不思議なことでもない。
エルメザルリアは、それこそ幼い頃からみっちりと、天帝の娘にふさわしくあれ、と言うように教育されてきており、それは今でも継続されている。
ユーリも、外交官の中でもかなり高い地位についている父親について幼い頃より宮殿に上がることも多く、失礼のないようにと、きっちりと教育を施されてきたのだ。
エリート養成校であるウェストアース学院においてもトップクラスの学力を誇る二人であるからして、この会話は日常的なものであるのだ。
学院のカフェテリアは白い壁と明るい青のカーテン、床はフローリングで、壁と同じく白くて丸いテーブルに、椅子が設置されている。
カウンターに所狭しと並べられているのは、本日のランチだ。
レタスときゅうり、トマトがカットされたシンプルな、しかし素材の良さが際立つサラダ、コーンの甘味と風味が口いっぱいに広がるポタージュ・スープに、皮はカリカリに、しかし中は柔らかく、噛むとじゅわっと肉汁があふれる絶妙にソテーされたチキンの香草焼き、もっちりとした食感にパン独特のほのかな甘味が人気の出来立てのクロワッサンに、青りんごとパイナップル、そしてさくらんぼの果肉が惜しげもなく使われた3色の小さなゼリー。
ユーリとエルメザルリアはトレーにランチを乗せると、いつも座る窓際の席についた。
完璧なテーブルマナーをもってランチを食べながら談笑する、タイプの違う美少女2人に、周りはため息を禁じ得なかった。
「ねぇ、ユーリ、今日講義が終わったら、うちに来ない?お父様とお母様が、久しぶりにユーリに会いたいのですって。先日のパーティーはお仕事で会えなかったから、ちょっと顔を見せてあげてほしいの。」
エルメザルリアの誘いに快く頷きそうになったユーリだったが、3時には帰るから、と言って家に置いてきたビルトゥーアのことを思い出し、残念だけど、と首を横に振った。
「今日はちょっと外せない用があるの。だから、また今度でもいいかしら?申し訳ないんだけど、お父様とお母様にも、近々必ずお目にかかりますってお伝えしてもらえる?」
心底申し訳なさそうに告げるユーリに、エルメザルリアは笑って応えた。
「急に言い出したお父様とお母様が悪いんだもの、気にしないで。ちゃんとそう伝えるわ。でも、用っていったい何なの?」
そう問われると、ユーリは固まった。
エルメザルリアになら話しても良いだろうか、いや、でも話すにしてもここでは他の人たちにも聞かれてしまう可能性もある、とりあえずこの場はごまかして、また落ち着いた頃に話そう、と脳内で目まぐるしく考えたユーリは、
「えっと、今日は・・・父様と母様といっしょにティーパーティーに使う茶葉やお菓子を選ぶの。次はもっと香りの強い茶葉はどうかとか、甘いものだけじゃなくてしょっぱいものも必要だとかって話し合ってて・・・もうすぐだし、早く決めてしまわないと、でしょう?」
と、手に汗をかきながら必死にごまかした。
「そういえば、もうすぐだったわね。ユーリのおうちのティーパーティーはいつも皆に人気だし、茶葉やお菓子にも気をぬけないものね。」
エルメザルリアは納得したようで、ユーリはほっと胸をなでおろした。
しかし親友に嘘をついてしまったことに良心がズキズキと痛んだ。
おかえりなさい!
昼食の後、エルメザルリアは経済学の講義に、ユーリは数学の講義にそれぞれ向かった。
数学の講義は神学や他の科目とは違い、教授から配られる問題集を解き終わった者から退出してもかまわない、となっている。
しかし問題の難易度は高く、大体の者が時間いっぱいかかるか、それでも解き終わらないかのどちらかである。
解き終わった者から退出してもかまわない、即ち言い換えれば解き終わらなければ退出できないのだ。
よって数学の講義は昼から行われることが多い。
ユーリは課題として出された難易度の高い問題をスラスラと解き始めると、他の者がまだまだ苦戦している、講義終了時間まであと1時間といったところで解き終え、教壇にある椅子に座っている教授に提出し、合格の印をもらうと、さっさと退出した。
(まだ3時まで30分あるわ。これなら、ビルとの約束に間に合いそうね。)
時計を見ながら心の中でつぶやくと、急いで帰宅し始めた。
「ただいまー!」
キュルッ!!バサバサバサ!!!
ユーリが家の扉を開けると、待ってましたと言わんばかりの鳴き声が聞こえ、ビルトゥーアが猛スピードでユーリに向かって飛んできた。
「きゃぁっ」
キュルッ!? ゴンッ ぼて。
あまりの速さで飛んでくる猛禽類に驚いたユーリは、衝突を避けようと思わず横に飛び退いた。
まさか避けられるとは思っていなかったビルトゥーアは、勢いそのままに扉に突っ込み、頭を強打し間抜けな音とともに地面に落ちた。
「「・・・・・・・・・・」」
両者に痛い沈黙が落ち、ユーリが恐る恐るビルトゥーアの身体を持ち上げた。
「キュルーーー」
「ビル、大丈夫?ご、ごめんね、驚いちゃって、つい・・・」
ビルトゥーアは恨めしそうな声を出し、涙目でユーリを軽くにらんだ。
それを見たユーリは気まずそうに謝った。
「あらあら、ビルトゥーアったら、大丈夫?でも、嬉しいからってそんなに勢い付けて飛び掛ったらユーリだってびっくりしちゃうわよ。次からはユーリを驚かせないようにゆっくり飛ぶのよ。」
ビルトゥーアの後に続いて玄関に出てきた母は、ユーリとビルトゥーアのやり取りにクスクスと笑い、ふてくされているビルトゥーアにアドバイスをし、ユーリにおかえりなさい、と言った。
ユーリはただいまと返すと、母のアドバイスに対し、ゆっくり飛んでくるとかじゃなくて、自分が行くまでおとなしく待っていてくれたらいいのに、と苦笑した。
リビングに鞄を置き、母がおやつに出してきたミルクレープをフォークで小さく切り分けてビルトゥーアにわけてやると、ビルトゥーアの機嫌もよくなったようだった。
「キュルキュルッキュルッ」
「はいはい、ちょっと待って。」
もっともっとと催促するビルトゥーアをなだめ、更にミルクレープを切り分けていると、新しい皿にもうひと切れミルクレープをのせた母がキッチンから出てきた。
「ユーリ、ビルトゥーアにあげちゃって、ほとんど食べていないでしょう。ワンホール作ってたくさんあるから、もうひと切れ食べなさい。」
「わぁ、ありがとう母様。こんなに美味しそうなのに、ビルがほとんどとっちゃうからちょっと切なく思っていたの。 ちょっとビル、これは私のよ。これ以上はさすがにビルも食べ過ぎよ。またすぐに晩御飯なんだから、我慢してちょうだい。」
母からミルクレープを受け取り、早速食べようとしたユーリだったが、切り分けられていたミルクレープを食べ終えたビルトゥーアがちょっかいをかけてきたので、あわてて皿を確保し、食べ始めた。
「おいしー。やっぱり母様のおやつは最高!」
「ふふ、ありがとう。今度のお茶会にも出そうと思うんだけど、どうかしら?」
ユーリの感想に嬉しそうに微笑んだ母は、娘の意見を求めた。
「すごくいいと思うわ!柔らかくて、ほんわり甘くて優しい味がして、いい匂いが鼻からふわっと抜けるの!これなら皆喜ぶわ!」
「そう?じゃぁ、お菓子はこれで一つ決まりね。」
飾り付けはどうしようか、横にアイスクリームを添えて出そうかなど、詳しいことをきゃいきゃいと話し合う母娘を横目で見ながら、ビルトゥーアはそろーーーーっとユーリの皿から残りのミルクレープを咥え取ると、ギューギューご機嫌な声を上げながら飲み込んだ。
それに気づいたユーリにこってりと絞られるまで、あと数秒の余地を残していた。
ビルトゥーアの心
我が森からユーリの部屋に連れ帰られ、見つめられたり撫でられたりつつかれたりと幸せなときを過ごした次の日、我はくろーぜっとなるものの奥に閉じ込められた。
我のことを調べに行くと言って出かけようとするユーリに自分も連れて行ってほしいと訴えかけただけであるのに・・・
ひどい。
せっかくユーリに出会えたというのに、我は片時も離れたくないというのに、ユーリは平気で我を放って行く。
本当にひどい。
こうなったらいじけてやるぞ、そして簡単には許してやらぬのだ。
そんなことを思いながらいじいじとしていたら、ユーリが帰って来た。
「遅くなってごめんね。クローゼットのなかで待つのなんて、嫌よね。次は何か別の方法を考えるから、機嫌直してちょうだい。ね?」
そんなことを言いながら撫でてくるものだから、いじけていた我の機嫌は悔しいが一気によくなった。
我の世界である愛おしき者に撫でられて機嫌が良くならぬわけがない。
これは仕方のないことだ、と、誰にでもなく心の中で言い訳をした。
ユーリはどうやらこれから夕餉のようだ。
我をベッドに置いて部屋から出て行った。
我は置いていかれても不機嫌にはならなかった。
こ・・・ここでユーリは毎晩就寝しているのか・・・ゴクリ。
試しに転がってみる。ころころころころ・・・・・・・
ユーリの香りがするベッドを転がると、まるでユーリに包まれているかのような幸福感を味わえた。
なんとすばらしい場所なのだろう!
満喫しているとユーリが戻ってきた。
ユーリは我に話しかけてきたが、我が殻から出た後のことに何やら不安を感じているらしい。
大丈夫だ、我はユーリが案ずるような世話を受ける必要はない、安心してくれ、と殻を点滅させると、ユーリが我を抱きしめ、こう言った。
「あなたはいい子ね。生まれてくるのが楽しみ。早く会いたいわ。」
ユーリが我に会いたいと言っている。
早く、会いたい、と。
その言葉を聞いた瞬間に、我は、殻が割れるのは今だ、と理解した。
殻はユーリが望むのを待っていたのだろう。
我は2年前からもうすでにいつ生まれてもおかしくはなかったのだから。
ユーリの焦る声が聞こえた。心配せずともよいと伝えたいが、今はそれができない。
もう殻にはひびが入っていて、我の意思とは関係なく点滅を繰り返している。
パキパキ、パリンッ
殻が割れ、我を外界の光が包んだ。
殻の中からも見えていたが、殻を隔てていない今、我を見つめるユーリの顔がはっきりと、より美しく見えた。
あぁ、なんという可愛らしさだ。
そのふわふわの髪に顔をうずめたい。
大きな目にずっと見つめられていたい。
やわらかそうな頬を触りたい。
そして・・・そのつやつやでふっくらとした唇に口付けたい・・・
自分でもこれではケダモノだと思うようなことをうっとりしながら考えていると、我を見つめていたユーリが我を観察し始めた。
人か、とつぶやいたあとに羽を触ったり、エルと似ているとかどうとか言った。
羽を持つ我らと似た存在。
そんなもの、一つしかない。
おそらくユーリはあの天王一族と知り合いなのだろう。
我らを消滅寸前まで追い込んだ、あの憎き天王一族と。
そう思い至ると、ふつふつと憎悪の感情が浮かぶ。
あやつ等に報復をしてやりたい、神が目覚めたら全てを打ち明け、天王一族の行った悪業を、罪を償わせるのだ。
いや、そんなものでは生ぬるい。
我らが受けた同等の、もしくはそれ以上の苦しみを、あやつ等にも味わわせてやるのだ。
憎しみに我を忘れていた、その時だった。
「こんな色見たことないわ。夜の色よりも濃い、不思議な色。でも、なんて綺麗なのかしら・・・」
ユーリの口からその言葉がこぼれ落ちた。
暗い感情の中に落ち込んでいた我は、その言葉を聞いて我に返り、まさか、と思った。
この色のせいで我らは長き苦しみの最中にいるのだ。
綺麗だなど、そんな感情を抱かれるはずがない。
我は聞き間違えたのだ。
そう思い、ユーリの目を見ると、ユーリは恍惚とした表情を浮かべていた。
嘘偽りなく、本当に我の色を、我ら地王一族の色を美しいと思ってくれていることが、ひしひしと伝わってきた。
どれだけ嬉しかっただろう。
泣きたい気分になっただろう。
笑い出したくもあり、怒り出したくもなるような、色々な感情が我の中でひしめいていた。
「初めまして、私はユーリよ。今日からよろしくね。」
そう言ってユーリが我を抱きしめてくれた瞬間に、ひしめいていた感情は息をひそめ、ただ喜びだけが我を包み込んだ。
我もよろしく、と言いたいのに、言葉に詰まって言えなかった。
喜びのあまり目に涙が浮かび、それをごまかすようにユーリの頬に頬ずりをした。
柔らかくて、優しい匂いがした。
我は胸を締め付けられるような、逆にほころぶような不思議な感覚を味わっていた。
ユーリに抱きしめられていた我はしばらくじっとしていたのだが、ユーリが再び何やら悩み始めたのを見て、何事か、と視線で問うた。
ユーリは泣きそうな顔で悩みを打ち明けた。
確かにこの形ではユーリの両親は納得しないだろう。
しかし、そんなことは瑣末なことだ。
我ら地王一族は長き時をただ何もせずに過ごしてきたわけではない。
我らは来る日のために、呪の研究を続けていた。
生み出した呪は数百にも及び、その中には我を殻に閉じ込めたあの呪も、そしてユーリの悩みを一気に解決するであろう、姿を変える呪も存在する。
しかし難点なのは、いくら形を変えられても、その者のもつ色だけは変えられぬし、器官も無くすこともできぬ。
だから、我らは羽のある動物に姿を変えることはできても、他の動物や植物等には変化できぬ。
色を変えられれば、羽を隠すことができれば、我らの一族は暗き場所ではなく、この明るき世界にてひっそりと暮らすことができたであろう。
今それを言っても詮ないことだ。
今はまずユーリの悩みを解決しなければ。
我はおそらく人間には聞き取ることができないであろう呪を唱え始めた。
我の姿は徐々に変化し、一匹の鷹になった。
我の姿を見たユーリは少々混乱しているようだった。
しかし、それでもこれを好機としたのか、我を連れて階下に降りた。
ユーリの懸命の説得により、我はここで生活できるようになった。
途中ユーリの父母に弄り回されたが、ビルトゥーアという名前も与えられ、我は確かな幸せの中にいた。
殻から出たら、すぐに暗き場所に戻らなければならないことは、わかっていた。
そうするつもりでいたし、今も戻らなければならないと思っている。
我は族長の息子。即ち次の地王一族族長である。
そんな我が、暗き場所に戻らずにここで暮らしてしまうことは、許されない。
しかし。
もう少しだけ、あと少しだけ、ユーリといっしょにいたい。
ユーリの声を聞き、柔らかな身体を抱きしめ、愛をささやき、そしてユーリも我を愛してくれたなら。
ユーリが我を見つけてくれた時から、我の世界がユーリとなったあの時から、もう離れられぬと心が叫んでいる。
父よ、母よ、一族の者たちよ。
もう少しだけ待っていてほしい。
勝手な事を言っているのは重々承知している。
自分の使命を忘れはしないし、必ずや皆のもとに戻る。
だから、今だけは。
この甘やかな幸せの中に浸ることを許して欲しい。
コミュニケーション・ブレイク
「もうっビルったら・・・私のミルクレープだったのにぃ・・・」
ビルトゥーアに散々不平をぶちまけたユーリは、キュルキュルと鳴いて自分の周りを跳ね歩きながらこちらを覗う彼をちょっとばかり・・・いや、完全に無視しながらぶつぶつと未だにつぶやいていた。
ユーリに無視されていることに多大なるショックを受け、打ちひしがれるように床にパタっと倒れこみ、弱弱しくキュゥ・・・と鳴くビルトゥーアがかわいそうになったのか、彼のかわりに母がユーリの機嫌をとり始めた。
「ほらほら、ユーリ。ミルクレープならまだあるから、お夕食の後に父様と一緒に食べなさい。
ビルトゥーアはミルクレープが珍しくてついつい食べ過ぎちゃったのよ。それに、まだ子どもだから、そんなに怒って無視しちゃうのは可愛そうよ。ほら、見てみなさい。すっかり落ち込んじゃって。」
母の言葉に、ユーリはビルトゥーアの方をちらりと見た。
母の言葉どおり、ビルトゥーアはかなり落ち込んでいるようだ。
倒れ伏し、弱弱しく鳴く姿は哀愁を漂わせ、かなりかわいそうに見える。
そんなビルトゥーアを見てしまったユーリの怒りは持続せず、すぐにしぼんでしまった。
母はビルトゥーアを抱き上げ、ユーリの腕の中にぽん、と置いてやると、ビルトゥーアの目を見つめた。
「ビルトゥーア、ユーリはもう怒っていないわ。でも、ちょっとおやつを食べ過ぎちゃったわね。また今度作ってあげるから、今日はもうユーリのミルクレープ、とっちゃだめよ。」
そう優しく言い聞かせるように言った母をビルトゥーアも見つめ返し、キュル、と返事をするとユーリを見上げた。
母が言ったとおり、ユーリはもう怒ってはいなかった。
「キュル・・・」
ユーリにごめんなさい、というように鳴くと、ユーリの顔がほころんだ。
「もう、食べ過ぎちゃだめだからね。ビルの身体にもよくないんだよ。今日のところは、特別に許してあげる。」
優しくビルトゥーアを撫でながらそう言うと、湿っぽい雰囲気を断ち切るためか、勢い付けて立ち上がった。
そして母に一言告げると、ビルトゥーアを連れて庭に出た。
「ビル、食べ過ぎた後は運動よ!しっかり動いて晩御飯までにお腹すかせなきゃ!」
そう言うと、ビルトゥーアを庭に放った。
最初は戸惑っていたビルトゥーアだったが、森や花々を見て好奇心を刺激されたのか、翼を広げ飛び立ち、気になるところを冒険し始めた。
庭での冒険を終えたユーリとビルトゥーアは、夕食の席についていた。
ユーリの髪にはビルトゥーアが咥えてきた小さな花々が散りばめられており、ビルトゥーアの首にもユーリが作った花冠がかかっていた。
まるで小さな子どものようなユーリとビルトゥーアの姿に、ちょうど帰ってきた父は思わず笑い、自分の天使と新しい息子を抱きしめた。
この子達、可愛すぎて悶えるわぁ、という心の声が聞こえてきそうだ。
「父様、おかえりなさい。苦しいからそろそろ離して。」
「ギュルー・・・」
苦しげなユーリとビルトゥーアの声を聞いて慌てて拘束を解いた。
「ごめんごめん、ただいま、ユーリ、ビルトゥーア。」
「あら、あなた、おかえりなさい。今日はあなたの好きなビーフシチューですよ。」
「あぁ、ただいま。それは嬉しいな、その美味しい食事にありつくために、ちゃちゃっと着替えてくるよ。」
母と言葉を交わした父は、自分の部屋に向かった。
言葉どおりちゃちゃっと着替えると、再びキッチンに向かい、席についた。
母が食事を運んできて、父の前に並べると、既に食べ始めていたユーリとビルトゥーアとともに父と母も食事をとり始めた。
ビルトゥーアが自分用に用意された皿から肉をついばんでいると、ユーリが自分のサラダからトマトを取り出してビルトゥーアに与えた。
「ビル、お肉ばっかり食べちゃだめよ。トマトも食べて。」
「こら、ユーリ。自分がトマト嫌いだからってビルトゥーアに与えるのは止しなさい。ちゃんと食べやすいように小さくカットしてるんだから、ちょっとぐらいは食べなさい。」
「はは、ユーリ、好き嫌いしているようじゃ、大人とは言えないなぁ。大人はなんでもしっかりと食べないとね。」
「うっ・・・じゃぁこれだけ食べる・・・」
「キュルル」
賑やかな夕食のひと時を過ごす一家であった。
食後のティータイムも終え、部屋に引っ込んだユーリとビルトゥーアであったが、ユーリがレポートを書き始めてしまったため、ビルトゥーアは暇を持て余していた。
「キュルルーー」
「はいはい、ちょっと待ってね。これだけやらせてちょうだい。」
机に向かい自分を構ってくれないユーリに不満をこぼすが、とりあってくれない。
仕方なくビルトゥーアはゆりかごに止まり、ユーリを見つめながら待つことにした。
ユーリが一生懸命何かに取り組む姿はとても可愛いな、という思考に浸っていれば、時間などすぐに経つ。
目をうっとりと細め、いやいや細めるなどもったいないと逆にかっ開き、しかし可愛いな、とでれっと顔を崩れさせる。
鷹の姿のくせにかなり器用な顔面である。
そうこうしているうちにレポートを書き終わったユーリがビルトゥーアに声をかけた。
「ビル、おまたせ。昨日はビルそのまま寝ちゃったから、今日はお風呂に入ろうね。私が洗ってあげる!」
ビルトゥーアは数秒固まった。
お風呂・・・ユーリとお風呂!!!!!!!
な・・・なんという幸運!
いや、違うだろ自分!
しかし自分を洗うだと!?
それはダメ、無理、やめて、自分でやるから!
ビルトゥーアの首の花冠を外し、自分の髪に散っている花も外したユーリは、固まったかと思えばキュルキュルと喚き始めたビルトゥーアを抱え、鼻歌を歌いながら風呂に突入した。
・・・服を着たままで。
ユーリに優しく丁寧に洗われたビルトゥーアは、タオルで拭われたあと母に手渡され、乾かされていた。
うぅ、なんたる羞恥!しかも風呂って、一緒じゃなかったのか!
ビルトゥーアは心の中で色々な意味がこもった滂沱の涙を流した。
ビルトゥーアを洗ったあと、服を脱いで自分も風呂に入ったユーリは、ほかほかと湯気を立てながらリビングに入ってきた。
ビルトゥーアを見ると、やさぐれたように母にされるままになっている。
お風呂、嫌いなのかしら?
そう考えたユーリは、ビルトゥーアに近づいた。
「ビル、お風呂に入って泥を落とさないと、寝られないのよ。お布団がドロドロになっちゃうでしょ?嫌かもしれないけど、ちょっとだけ我慢してちょうだいね。」
見当違いなことを駄々っ子に言い聞かせるような言い方で自分に話すユーリに、ビルトゥーアは心の中で深いため息を吐いたのだった。
不安
ビルトゥーアがユーリの家に住み始めて数日が経ったが、ユーリは未だにエルメザルリアにビルトゥーアのことを話せていなかった。
なんというか、タイミングがつかめないのだ。
~授業前~
「エル、あのね、」
「なぁに?ユーリ」
「二人ともー、教授がきちゃったわよー」
「あら、大変。ユーリ、行きましょう」
「あ、エル・・・はぁ。」
~放課後~
「エル、今日は時間ある?」
「ごめんなさい、ユーリ。今日は長老たちから呼ばれているの。」
「そ・・・そっか。じゃぁ仕方ないね。また今度にする。」
「えぇ、ごめんなさいね。あら、もうこんな時間!じゃぁね、ユーリ!」
「うーん、私ってタイミングはかるの下手なのかしら?」
このようなことが続いていた。
そしてユーリは情けない自分をごまかすためにこう考えた。
これはきっとエルメザルリアに話すときは今ではないというお達しなのだ。
ときが来たら自然と言えるだろう、と。
運任せというかなんというか、かなり無理がある考えだ、と自分でも思ったが、その思いに無理やり蓋をし、もう悩むのはやめた。
「ビルだってまだこの環境に慣れていないかもだし、もうちょっとビルが大きくなってからでもいいわよね!」
その頃、エルメザルリアは宮殿の謁見の間にて父と母とともに長老達の話を聞いていた。
「・・・というのが今回の星読みの結果である。」
先日の星読みの内容を長老達で話し合った結果、天帝に報告するという決定が下されたため、長老達は包み隠さずありのまま話していた。
それを聞き、天帝は難しい顔をして問うた。
「・・・して、長老達よ、そなた達はそれが我が治世に何かしらの影響を及ぼすやもしれぬと思うておるわけであるな?」
「然様。今までとは違い、少々不吉に感じるのでな。警戒するに越したことはなかろう。」
「長老、それは本当なのですか?この世界に何か不吉なことが起こる、という可能性もあるのですか?」
父と長老達の話を横で聞いていたエルメザルリアは、不安な面持ちで長老に話しかけた。
「その可能性も捨てきれぬ。しかし、本当のところはわからぬ。何が起きるのか、いつ起こるのか、それにアースは広大である、西の方角と言っても検討はつかぬ。・・・それこそ、未だにお目覚めになられておられぬ神のみぞ知る、と言うところであるだろう。」
「そんな・・・」
帝妃は両手で口を押さえ、青くなるエルメザルリアの両肩を抱いた。
「長老方、このことを知っている者は他にはおりませんね?」
帝妃は長老達を見つめ、静かに問うた。
「うむ。このようなこと、他の者に知られたらどんな邪推と混乱を招くとも知れぬ。杞憂であるとしても、最小限に止めることが最良である。」
「では、このことは他言無用と致そう。しかし、内密に調査を始めるのだ。長老よ、信のおける者を選出し、詳細は伏せてアース中に派遣せよ。些細なことでも、何かの予兆を感じたときは逐一報告させよ。」
「承った。では、これにて失礼する。」
天帝と長老の決定を微かに震えながら聞いていたエルメザルリアは、親友であるユーリのことを思った。
ユーリに話すことができたなら、この恐怖も少しは和らいだだろう、でも、話すわけにはいかない。天帝の決定は絶対だ。それに、あの可愛い親友を怖がらせたくない。あぁ、これが杞憂で終わるといいのに・・・
かくして、ユーリとエルメザルリアは認識は違えど双方ともに重要なことを心の中に隠し持つことになったのだ。
実に危うい均衡を保ちながら、時は過ぎていく。
いずれ来るであろうその時まで、運命の歯車は静かに廻る。
暗き場所にて
「息子はもう生まれたはずだ、なぜ帰って来ぬ・・・」
暗い部屋のなか、灯ったろうそくの光に照らされ、1組の男女が浮かび上がる。
双方ともに濃紺の髪と瞳、そして漆黒の翼をもっている。
男のほうがイライラと部屋の中をうろつきながらつぶやき、女は黙ったまま青ざめた顔で立ち尽くしている。
「そもそも、お前が勝手に息子を光の地にやったこと自体が信じられぬ。あやつは私の息子、つまりは次の族長であるのだぞ!あやつが呪を全て受け入れてもう2年も経つのだ、とっくに生まれてこちらに戻ってきていてもおかしくない。それでも帰って来ぬのは、何かあやつによからぬことでも起きたのではないのか?本当に安全な場所に送り出したのであろうな?」
「は・・・はい、それは抜かりなく。何重にも保護の呪をかけましたし、生まれるまでは神の守護がございますゆえ、何か起こる、ということは考え難いと思います。
そ、それに、このままここで生まれて暮らすよりはと送り出したことに間違いはないと思っております。すぐに帰ってくるようにとも言い聞かせましたし、きっと、必ずや近いうちに戻って来るかと。もう少しだけお待ちください、お願い申し上げます。」
ギロリと鋭い目で睨まれ、女は青ざめたまま震えながら気丈にもそう応えた。
「我ら地王一族がもつ光の地への憧れは強い。お前が息子に見せてやりたいと思う気持ちも分からぬではない。しかし、だからと言ってお前がとった行動は本当に正しかったのか?
ただ一人の次期族長を危険にさらしてまですることだったのか?
・・・お前の願いは聞き入れよう。しかし、私が言ったことをよく考えるのだ。」
男は激情を抑えた声音でそう言うと、踵を返して部屋から出て行った。
残された女は糸が切れたようにその場に座り込み、はらはらと静かに涙をこぼした。
「後悔はしておりませぬ、間違ったとも思っておりませぬ。しかし、息子が帰ってこない事実を見ぬふりもできませぬ・・・私の可愛い子、私の息子、何故帰ってきてくれないのです。お前が死んだ、なんてことはないと信じておりますが、母は心配で胸が張り裂けそうです。本当は、送り出さないほうがあなたのためであったのでしょうか?私は、私は、取り返しのつかないことをしてしまったのでしょうか?あぁ、息子よ、早く帰ってきて。そして無事な姿を見せて・・・」
暗い部屋の中に、いつまでもすすり泣く声が響いていた。
間違っておらぬ、後悔しておらぬと自分に言い聞かせる声が、女の頭の中で響いていた。
何故彼女がここまで執拗に自分の選択を信じているのか?
ここにもまた、何かはかり知れぬ力が働いているようにしか思えない。
後に彼女はこの時を振り返った手記を綴ったが、そのようなことに触れた形跡はない。
あくまでも己の意思で決定したのだという彼女の強い思いが伝わるようだ。
息子を危険な地に送り出した罪を、ナニカのせいにするのは耐えられなかったのだろう。
もし認めてしまったのなら、母の愛が得体のしれぬ力に屈した、ということを己に刻みつけてしまうことになる。
そのようなことを、母として認めるわけにはいかなかったのであろう。
恥ずかしすぎる!
ゆさゆさ
「ユーリ、朝だ。起きろ。」
「うーん、もうちょっとぉ・・・」
「ダメだ、今日は庭でピクニックするって言ってたじゃないか」
「・・・そうでした。起きるわ。」
ユーリは伸びをすると、自分を揺さぶって声をかけていたものに挨拶をした。
「おはよう、ビル」
「あぁ、おはよう、ユーリ」
ビルトゥーアが家族になってから、早いもので半年が経過していた。
ビルトゥーアは日に日に成長し、今では14歳ほどの男の子と同じくらい大きくなっていた。
言葉も流暢に口にするようになり、怜悧な美貌は更に磨きがかけられていた。
そんなビルトゥーアにユーリは最近あることで悩まされている。
「ユーリ、今日もかわいい。大好きだ、愛している」
「うっ・・・あ、ありがとう、ビル。ビルも今日も素敵よ、私も・・・大好きよ。」
日々このようにユーリに愛の言葉を恥ずかしげもなく囁くのだ。
ビルがもっと子どもの姿をしているときはよかった。
母親を慕うようなものだ、と可愛らしく思ってこちらも愛していると返せたのだから。
だがしかし、今のビルトゥーアはユーリと変わらぬほど、いや少し身長が高いぐらい大きくなっている。
しかも怜悧な美貌に加え、腰が砕けてしまいそうなほどの深い美声で愛を囁かれるのだ。
さすがに卵のころから面倒を見ていると言っても、ドギマギしてしまうのは仕方がないだろう。
少し赤らんでしまった頬を押さえ、うるさい心臓をなだめようと努力する今日この頃であった。
「父様、母様、おはよう。」
「キュルー」
「おはよう、ユーリ、ビルトゥーア」
「おはよう、二人とも。御飯できてるわよ、お弁当もね。今日は庭でピクニックするんでしょう?」
父と母は挨拶を返し、母は朝食を並べながらユーリに尋ねた。
「うん、今日は池の辺りに行こうと思うの。睡蓮が綺麗に咲いているでしょう?近くで見たいのよ。」
ユーリは母にそう応えながら、朝食のワッフルをかじった。
もちろんその横からビルトゥーアもワッフルをつついている。
「そうか、気をつけるんだよ。池に入って遊ばないように。」
小さな子どもに言うような注意を言いながら、父はビルトゥーアの首をくすぐった。
キュル、と良い子の返事をしたビルトゥーアにユーリは笑みをこぼし、朝食のオレンジをわけた。
エルメザルリアにビルトゥーアのことを話す機会を逃し、ずるずるとそのままでいたところ、長期休暇の時期になっていた。
この長期休暇中も公式行事やプリンセス教育で忙しいエルメザルリアには休暇に入ってから一度も会えていない。
年に2度ある長期休暇は、一度に約2ヶ月の期間を休暇とする。
それゆえ、エルメザルリアの公務の量は一気に跳ね上がるのだ。
そうなってしまうと、いっしょに遊ぶこともめったにできない。
エルメザルリアに秘密を抱えることに慣れていないユーリは、早くビルトゥーアのことを話してしまいたかったが、これでは仕方がない。
悩むのが性に合わないユーリは、こうなったら休暇中はビルトゥーアと目一杯遊ぼうと決めていた。
朝食を食べ終えると、ユーリとビルトゥーアはピクニック用のバスケットを提げて庭の奥にある池の方にむかって歩き出した。
30分ほど歩いたところで、木々の間からキラキラと水に光が反射している様子が見えた。
池についたのだ。
「うわぁ・・・」
池には一面に睡蓮の花が咲いていた。
ピンクや淡い蒼色、そして白、様々な種類の睡蓮が一面に花を広げる様子は圧巻だ。
ユーリはまるで異世界に迷い込んだかのような錯覚を受けた。
「美しいな。」
感嘆の声を上げるユーリの横でいつの間にか人型になったビルトゥーアも目を見開いて驚いていた。
ビルトゥーアは人型に戻ったときに着られるようにとユーリが用意してくれた服を纒っている。
ただのジャケットとジーンズといった格好なのにモデルも裸足で逃げ出しそうなほど様になっている。
そんなビルトゥーアを見て、ユーリは更にうっとりとした。
神秘的な雰囲気が漂う美青年と、この絶景が合わさってものすごい光景だ。
ユーリは本で読んだエルフという種族の服をビルトゥーアに着せこの場に立たせたのなら、もっと素晴らしそうだ、と考えた。
そんなふうにぽやん、としていると、ビルトゥーアがユーリを穴が空きそうなほど見つめだした。
「ユーリ、睡蓮の花も美しいが、ユーリが何よりも一番美しい。あの睡蓮の色よりも、ユーリの髪の色のほうが艶があって綺麗だ。」
ユーリの髪を一房すくい、指先で感触を確かめながらそんな言葉を言う。
ユーリは唖然とし、次の瞬間には真っ赤になり、ビルトゥーアの手から髪を取り戻し、声にならない呻き声をあげると、ビルトゥーアに背をむけてしゃがみこんだ。
あまりにも恥ずかしすぎる。
そんなユーリに気づいているのかいないのか、ビルトゥーアもしゃがみこみユーリに抱きつくと、ユーリの頭に自分の顎を乗せ、幸せそうにため息をこぼした。
「ユーリ、好きだ。ずっといっしょにいたい、愛している。」
ユーリの羞恥プレイはまだまだ続くようだ。
愛の意味
羞恥プレイからなんとか立ち直ったユーリは、ビルトゥーアを自分からベリッと音がしそうな勢いで剥がした。
いきなり剥がされたビルトゥーアは何が起きたのか、という顔をしている。
そんなビルトゥーアを尻目にユーリは真っ赤な顔でぷんぷんしながら彼に注意した。
「もう、ビル!そんな、そんなふうに言ったら、女の子は誤解しちゃうのよ!たとえ家族みたいに好き、のつもりで言っても違うふうに解釈されちゃうわ。だから、紛らわしい言い方をしないで友達として好きとか、家族みたいに好きとかって言うようにしなきゃ!わかった?それと、褒め方にも問題ありよ!もうちょっとソフトに言わなきゃ、余計に誤解を招くわ。私はビルのお母さんだから、ちゃんとビルが家族みたいに好きって思って褒めてくれてることがわかるけど・・・」
ユーリがそう言うと、ビルトゥーアはポカンとした顔から一転し、急に鋭い顔つきになった。
怜悧な美貌が刺すような視線をユーリに向ける。
視線を受けたユーリは、急に変貌したビルトゥーアに驚き、さっきまでの羞恥もすっかりしぼみ、少しの恐怖心を抱えながらビルトゥーアから一歩離れた。
そんなユーリの様子を見てもビルトゥーアは雰囲気をゆるめることをせず、尚もユーリから視線を外さずに言った。
「ユーリ、それは違う。我の母は別にいる。ユーリは母ではない。我はユーリを母だと思ったことは一度もない。」
ビルトゥーアが発した不機嫌さと苛立ちをにじませたきつい一言に、ユーリは凍りついた。
今までこんな突き放すような言葉をビルトゥーアが発したことはない。
いつだってユーリには甘くとろけるような声音で話しかけていた。
態度の違い、そして言葉の意味を理解するとともに手足ががくがくと震え、立つこともままならないほどのショックを受けていた。
「私・・・でも、私・・・」
ひきつる喉と渇いた唇からか細い声をなんとか発するも、何を言いたいのか自分でもわからない。
なんで?どうして?ビルは私のことを家族だと思っていないの?卵を拾って、雛のうちから育ててきた私は、お母さんじゃないの?
どうしてそんなに怖い目で私を見るの?
聞きたいことは心のうちから湧き上がるのに、それが言葉として出ない。
出そうとすればするほどユーリの身体は言うことをきかなくなった。
出ない言葉の代わりにユーリの目から大粒の涙がポロポロと零れ始めた。
可愛らしい桃色の唇からは嗚咽が漏れ、ひく、とのどがひきつっている。
泣き出したユーリに目を見開いたビルトゥーアは、さっきまでの剣呑な雰囲気をひっこめ、慌てふためいてユーリの顔を両手で包みこみ、おろおろと視線をさまよわせた。
「ユーリ、泣くな、ユーリ。ちがう、ちがうのだ・・・」
先ほどユーリに伝えた言葉に嘘はない。
しかし自分が伝え方を間違ったことは、ビルトゥーアにもわかっていた。
仕方がないのかもしれないが、いつまでも自分を子ども扱いし、恋愛対象として見てはくれないユーリに少し苛立っていた。
そこにきてのユーリの母親発言だ。
ビルトゥーアは一気に頭に血が上った。
そのせいでユーリを傷つけてしまった。
自分が伝えたかったのはユーリを傷つける言葉ではなく、母親としてではなく一人の男として見て欲しい、ということだったのだ。
家族だと思っていないわけではない、だが母親だと思われているのには我慢ができなかった。
それではいつまでたってもこの関係は変わらない。
ユーリがビルトゥーアのものになることは、絶対にないのだ。
ビルトゥーアは不安をにじませた目でユーリを見つめた。
これでユーリに嫌われてしまったら、許してもらえなかったら、自分はどうしたらいいのだろうか。
「・・・ぅくっ び・・・びるは、私のこと、 ひっく、 かぞくだって、おもってないの?」
さっきまでの雰囲気をひっこめ、おろおろとするビルトゥーアに少し落ち着いてきたユーリは、つまりながらもようやく一言絞り出し、涙をながし続けている目をビルトゥーアに向けた。
ユーリから出た言葉にビルトゥーアはその美しい顔を歪ませ、ふるふると首を横に振った。
「そうではない。我は、ユーリのことを家族だと思っている」
噛み締めるようにビルトゥーアが言うと、ユーリは強張った表情を少し緩め、ほっと息を吐いたが、続くビルトゥーアの言葉に再び表情を固くした。
「だが、さっき言った母親とは思っていない、ということも本当だ。」
ユーリの心が軋む。
ずきずきと胸が痛み、新しく涙が流れ落ちる。
くしゃりと顔を歪ませ、ビルトゥーアから再び一歩離れた。
しかしビルトゥーアはユーリの腕をつかみ、自分のほうにぐっと引き寄せると、ユーリを見つめ、言葉を続けた。
「我はただ・・・ユーリ、そなたを愛しているだけだ。母としてではない。姉でもない。家族としてももちろん愛しているが、それよりも強いのは、一人の女としてただただ愛しているのだ。」
時が止まったようだった。
ビルトゥーアの言葉が心に染み込む。
ユーリが最初に思ったことは、あぁ、よかった、ビルに嫌われているのでも、家族として思われていないのでもなかった、ということだった。
しかし、真剣なビルトゥーアの目と言葉が、決してそれだけで終わらせてくれるなと強く物語る。
ユーリはどうしたらいいのか、わからなかった。
「いきなりこんなことを言われてもユーリが困ることはわかっている。急に女として愛していると言われても、受け入れられないことも。
我はいつまででも待つ。だからユーリ、少しずつでもいい。我を男として見てくれ。それまでは今までどおりでもいい・・・」
そう言うと、ビルトゥーアは鷹の姿に変わり、ユーリの肩に爪を立てぬようにそっと止まると、その柔らかい頬に身体をすり寄せた。
無意識にビルトゥーアの首元を指先でくすぐり、その暖かさにほっとしながら、ユーリはビルトゥーアの言葉を心の中で反芻する。
ビルトゥーアはどこまでも真剣だった。本気だった。
自分はどうなのだろう。
ビルトゥーアを男として愛せるのか?
そもそも今ビルトゥーアに抱いている愛情は、母性愛なのか?
刺すような視線を向けられたときに感じたあの苦しみは、恐怖は、なぜあそこまで大きかったのだろう。
ユーリの心はいつまでも波立っていた。
天王一族の教育
「・・・・・・・・」
部屋に常在する近衛兵は、冷静な顔をなんとか保ちながらも、流れ落ちる冷や汗を止められないでいた。
厳しい訓練を経てこの役職につけられたエリートである彼等をそんな状況に陥れている元凶は、この部屋の主だ。
主ことエルメザルリアは不機嫌さも露に自室の椅子に腰掛け、テーブルの上に散乱した天王一族の資料を読みふけっていた。
天王一族たるもの、一族について何もかも承知しておくことは絶対に必要であることは彼女だって心得ている。特に彼女は天帝の姫だ。他の一族のものよりも多くを求められる。
それを理解していても、読んでも読んでも減らない資料にイライラする理由、それは・・・
夏休みに入ってから、ユーリに全然会えていない。
そして・・・
星読みの結果について芳しい情報が何も上がってこない。
自分の知らないところで不穏な事態が進んでいるとしたら、大問題だ。
何も気づかない間にこの世界が終わってしまった、なんてことになりかねない。
そんな焦燥感が彼女を不機嫌にさせているのだ。
ぎりぎりと美しく整えられた爪を噛み、眉間にしわをよせ、結い上げられた髪もふりみだし、鋭い眼光でもって資料を睨めつけるその姿は、鬼という生き物が存在するのならまさしく今の彼女のような顔をしているに違いないと思わせる。
日頃は穏やかで高潔な、姫とはかくあるべき、という姫然とした姿を地で行くエルメザルリアの尋常ではない状態に、狭き門をかいくぐってきた猛者である近衛兵たちも震え上がった。
とにかく、本当にこの女性が我らの姫であるのか、それが信じられない。
まじこえぇー・・・心の声が漏れてきそうだ。
そんな彼等を尻目に、苛立ちを資料にぶつけるかのごとく荒々しくページをめくるエルメザルリアの耳に、扉がノックされる音が入った。
「どうぞ」
エルメザルリアが刺々しい声音でそう言うと、天王一族の長老の一人であるアルデリオリンド(彼は星読みの結果について天帝と語り合った長老の一人である)がゆったりとした足取りで部屋に入ってきた。
触ったら実に気持ちよさそうな真っ白で柔らかい、喋ったらもふもふという音が聞こえそうな立派なひげを蓄えた小さな爺様である。
「ふぉふぉ、姫はよほど機嫌がよくないと見えるのぅ。ほれほれ、そんな怖い顔をするでない、兵が怯えておるぞ。せっかくの美人もだいなしじゃ。」
好々爺然としたアルデリオリンドにそう言われると、いままでの苛立ちがふしゅぅ、という音を立てながらしぼむのをエルメザルリアは感じた。
このもふもふの爺様はその可愛らしい見た目と話し方で人を和ませてしまう。
ユーリもこの爺様の雰囲気にやられてか、自分の祖父でもないのにお爺さまと呼んでいるほどだ。
しかし侮るなかれ、彼はこれでも天王一族の治世において右に出るものなしと言わしめるほど政治にも世情にも精通していて、自分のために命をかけて働く手駒を数え切れないほど有している、見た目とは裏腹の真っ黒なお腹をもつお方なのだ。
もちろん見た目も話し方も計算ずくだ。
「アルデ老、申し訳ございません。色々ときにかかることがあるもので・・・さぁ、席にお着きくださいませ、すぐにお茶を用意させますから。」
そう言うとエルメザルリアはメイドにお茶の用意を言いつけ、資料をテーブルの端に寄せた。
アルデリオリンドが席についたことを見ると、エルメザルリアは問うた。
「それで、今日はどのようなご用件でしょうか?アルデ老が私の部屋までこられるなんて、珍しいことですわ。」
「ふぅむ、今日はのう、姫にご教授せねばならぬことがありましてのぅ。」
「・・・あなたたち、少し席を外してちょうだい。お茶をありがとう。」
ヒゲをさわさわと触りながら、何か含んだ言い方をする腹黒爺様に、察しのいいエルメザルリアは近衛兵とお茶を運んできたメイドを部屋の外に下がらせた。
「それで、私に何を教えてくださるのかしら?」
長老が訪ねてくる予定など入っていなかったため、何を言い出すのか検討もつかない。
エルメザルリアは少し構えながら言葉を待った。
アルデリオリンドはこほん、と一つ咳を吐き、普段の雰囲気をがらりと変え、重々しく口を開いた。
「姫様ももう16歳に御成りでしたな、そこで、少々早いのですが、姫様を大人としてみなすこととし、天王一族に伝わる言いつけを姫様にお話しする、と長老会議で決めましたのじゃ。」
「伝わる言いつけ・・・?」
エルメザルリアは首をかしげた。
幼少の砌(みぎり)より天王一族について学んできた彼女は、大筋はもう学び終わっている。
今はそれを補足する意図で膨大な資料を片っ端から読んでいるに過ぎない。
それなのに、自分も聞いたことのない、明らかに重要そうな話しが出てエルメザルリアは困惑した。
そんなエルメザルリアを尻目に、アルデリオリンドは淡々と続けた。
「然様、言いつけじゃ。天王一族には古くから伝わる、絶対に伝えそびれてはならぬ教えがある。
姫よ、この箱を開くのじゃ。」
エルメザルリアはアルデリオリンドの懐から出された厳重に封を施された鉄製の細長い箱を受け取り、同じく渡された鍵でもって箱を開けた。
中には古ぼけ、折りたたまれた紙が入っていた。
アルデリオリンドに導かれるままにその紙を手に取り、かさり、と音をたてて開く。
「これは・・・?」
エルメザルリアは困惑を隠せなかった。
紙はエルメザルリアの見たことのない色で塗りつぶされていた。
何か言葉が書かれているわけでも、不思議な呪がかけられているわけでもない。
しかし続くアルデリオリンドの言葉で彼女は凍りついた。
「これは、天王一族に伝わる不吉のしるし。この色は“黒”というもので、アースにはこの色を持つ物はないとされておりますのじゃ。
しかし、昔は存在し、この世を不吉にするがために天王一族によって葬り去られたのじゃ。
先祖はもしこの先にもこの色を持つものが現れたならば、何をおいても滅せよと言い伝えを残し、代々天王一族の者が成人に達した時にのみ、この言い伝えを教授することになっておりますのじゃ。
天王一族が代々にまで言い残すほどの不吉を運ぶ色。これをしっかり覚えておきなされ。」
エルメザルリアは素早く紙を箱に押し込んだ。
不吉と言われるものを触ってしまったことに恐怖する。
青くなったエルメザルリアの手を優しく両手で包み、アルデリオリンドは更に続けた。
「姫様、この話を伝えたのには訳がありますのじゃ。天帝にのみ話したのじゃが、あの星読み・・・もしやこの黒が関係してはおらぬかと、わしは思っておるのじゃ。
穿ちすぎであると思われるやもしれぬが、可能性は捨てきれぬ。
よって、姫様にもこの色を知っていただき、万が一目にしたときはすぐに対処できるようにしておくべきだと考えたのじゃ。
姫、もしこの色を目にしたのならば、躊躇はいりませぬ。早急に滅してくださりますよう。それがこの世を守ることにつながりますのじゃ。」
「・・・わかったわ。アルデ老、わたくし、肝に銘じておきます。」
少し震えながらも、エルメザルリアはしっかりとそう応えた。
その色をもつものを消し去ることでこの世が平穏に保たれるのならば、自分はどんなことをしてでも消し去ってみせようと覚悟を決める。
後にこのことが彼女を苦しめることとなるとも知らずに。
悩む少女
ビルトゥーアの告白から数日が経過したが、ビルトゥーアの態度は以前と何ら変わりはなかった。
ぎゅー、すりすり
「きゃぁっ」
「ユーリ、ユーリ、今日は何をするのだ?我はユーリと一緒ならば何でもよい。 しかしユーリは柔らかいな。それにいい匂いだ」
ユーリを後ろから抱きしめ頬ずりをし、変態じみた言葉を恍惚とした表情で吐くビルトゥーアに、驚きの声を発したユーリは顔を熟したりんごのように真っ赤にしながら勢い付けて振り向き睨みつけた。
「ビル!いきなりは止めてって言ってるでしょ!それに、その、柔らかいとか匂いがどうとか言わないで!」
ビルトゥーアの気持ちを聞いてから、彼を見るとユーリの心臓はバクバクと大きな音を立てて暴れまわり、顔は抑えようとするのに真っ赤になり、言葉は少々どもってしまうようになっていた。
それを今のように後ろから抱きつかれようものなら、目に涙までためてしまう。
己の身体が全く言うことを聞かないので、ユーリは追い詰められた気分になり、ついついビルトゥーアにきつい物言いをしてしまう。
しかし愛するユーリが目に涙をためて喚きたてるのを見ると、ビルトゥーアの胸はきゅんきゅんとうずき、何とも言えぬ愛おしさでいっぱいになり、思わずその美貌に微笑みを浮かべてしまい、それを見たユーリは一瞬固まるものの余計に顔を真っ赤にしてきゃんきゃんと喚きたてた。
まさに悪循環である。
ビルトゥーアにとってみればユーリは何をしていても可愛いし愛おしい。
ユーリにしてみれば正気を保てず混乱してしまう自分にイライラし、ビルトゥーアの愛情をこめた微笑みを見て余計に混乱してしまう。
「き、今日は別行動!!!!!!」
「え、あ、ユーリ!!」
キャパオーバーしたユーリが叫んで部屋から飛び出して行き、叫ばれた内容にガーン、という音が聞こえそうなほどショックを受けたビルトゥーアが我に返ってユーリを呼び止めるも、時既に遅し。
ユーリは脱兎の勢いで逃げてしまっていた。
「別行動・・・ユーリは我が嫌いなのか?」
悲しげにうつむき、そうこぼしたビルトゥーアの背中から、目視できそうなほどの哀愁が漂っていた。
庭の奥まで走ってきたユーリは、横にある大きな木に手を付き、呼吸を整えていた。
「はぁ、はぁ、もう、ここまでくれば、ビルもそう簡単には見つけられないわよね・・・?」
誰に言うでもなくそうつぶやいたユーリは、その場に座り込んだ。
木々の間から差し込む日差しに目を細め、そのままゆっくりと目を閉じると、深く息を吸い込み、吐き出した。
思いっきり走ったせいで、彼女の額には汗が滲んでいる。
一つ、また一つと玉を結んでは流れ落ちる汗を拭うこともせず、深く呼吸を繰り返す。
鳥の囀りや川のせせらぎ、風が木の間を通り抜ける音が彼女の耳に届き始めたころ、ユーリはぼんやりと目をひらいた。
「私、どうしたらいいのかな。あんな態度をビルにとったりして、ビル、ショックを受けていないかしら」
そう言って、ふっ、と苦い笑みを浮かべた。
ショックを受けていないわけがない。
今頃きっと悲しくてうなだれているのだろう。
でも。
「でも、変なの。私、おかしいの。ビルのことを考えると、ほわほわ暖かい気持ちになるのに、なぜか苦しい気持ちにもなるの。胸の奥がぎゅってなって、泣きたいような、笑いたいような・・・不安になってきちゃって、思わずビルを抱きしめて。でもそうすると余計に変になるの。私、一体どうしちゃったの?」
ユーリの視界が滲み、ぽたり、と一粒の涙が膝に落ちた。
ビルに今までどおり接したい、哀しい顔を見たくない、一緒に笑っていたい、でもどうしたら前のように戻れるのかわからない。
ユーリの心の中はそんな思いで占められ、ただただ悩んでいた。
一方哀愁を漂わせていたビルトゥーアは首を振って顔をあげると、前方を見据え、ユーリの元に行くために鷹の姿になると、部屋の窓から外にむかって飛び出した。
彼の顔にはもう悲しみは浮かんでいなかった。
ユーリは混乱しているのだ。
あんなことを言ってしまったから、どういうふうに自分に接したらいいのかわからなくなったのだろう。
混乱させて悪いとは思うが、ビルトゥーアは内心少し喜んでいた。
ユーリは自分を意識している。
男として見始めているのだ。
このまま自分を意識してもらえるのであれば、多少の苦しさは耐えよう。
自分のことだけを考えるように、今までよりももっとユーリのそばにいよう。
そう考えながら、ユーリを探して庭を飛び回った。
しばらく飛ぶと、ユーリが庭の端の木にもたれかかって座っているのを見つけた。
ユーリに向かって急降下し、彼女の前に降り立つと、首を上げて顔を見た。
すーーーー・・・・
ユーリは目元を少し腫らしたまま眠っていた。
ビルトゥーアは鷹の姿から元の姿に戻ると、ユーリの足を跨ぐようににそっと膝をついた。
指先でユーリの目元から頬にかけてをスルリと一度撫で、涙のあとをなぞるように何度か指をすべらせる。
「ユーリ、おそらく我は最低の男であろうな。ユーリが他のものに心を動かして泣くことは耐えられぬが、我のことで悩み、我のことを思って泣いていることに計り知れぬほどの喜びを感じているのだから。」
自嘲気味に嗤うと、ユーリを自分のほうに抱き寄せ、身体を入れ替えて木にもたれかかると、羽でユーリをそっと包み込んだ。
誰にも渡さぬ。決して離れぬ。ユーリを抱きしめていいのは、ユーリの心を占めていいのは、この世に自分一人。例え天王一族に見つかろうとも、その時は・・・ユーリがどれだけ嫌がっても共に連れてどこまでも逃げる。苦労をさせてしまうこともあるだろう、もしかしたら憎まれることもあるかもしれぬ、それでも。
もう離れることなどできないのだ。
この思いの名は
夏休みも終わり、今日から学園がスタートする。
ユーリの朝はいつもどおり、ビルトゥーアとの挨拶で始まった。
「おはよう、ビル」
「きゅるー」
ビルトゥーアの告白によりぎくしゃくした態度をとるようになったユーリに気をつかったのか、ビルトゥーアは滅多なことでは人型にならなくなり、ユーリは再び平穏な日常を取り戻していた・・・かのように見えた。
(なぜかしら、最近鷹のビルを見るとちょっとだけがっかりしちゃうの・・・)
ユーリは表面上冷静な態度をとろうとしながらも、内心では戸惑いを抱えていた。
「ユーリ、久しぶりね、元気だった?」
「!!! エル、久しぶりね!もちろん元気だったわ」
学園に到着し、しばし物思いにふけっていると、いつの間にか来ていたらしいエルメザルリアが声をかけてきた。
思案中に声をかけられたため、一瞬返事に間が空いたユーリを訝しがりつつもエルメザルリアはにこにこと笑顔を崩さなかった。
「休暇中は公務で忙しくて、ユーリに全然会えなかったのが不満だわ。話したいことがたくさんあるのよ!ユーリも休暇中のこと、話してちょうだい」
「エルったら、落ち着いて!学校が始まったんだし、時間はたくさんあるわ」
きゃっきゃとはしゃぐ二人は、休暇中のことを話し合った。
エルメザルリアは公務で訪れたアース各地のことを、ユーリは家族で行った別荘地のことをのべつ幕なしに話し、それは講義のために先生が教室に入ってくるまで続いた。
エルメザルリアは講義中に何度もユーリの方を見ていた。
それというのも、いつもは真面目に講義に集中しているユーリがめずらしくも心ここにあらずといった風に何度もため息をついているからだ。
これは本格的に何か悩み事があるようだ、昼休みに問い詰めてみるか、とエルメザルリアは決心した。
カフェテリアには昼食のいい匂いが漂っていた。
主食のパンはブレッチェンで、白く柔らかいそのパンからはまだほのかな暖かさがただよっており、トロトロになるまで煮込まれた濃厚な豆乳の具だくさんスープからはコンソメと豆乳のよい香りが漂い、最高ランクの牛肉を使用した少し厚めに切られたローストビーフは香辛料がほどよく効いており、口に含めば良質の脂がとろけ、その味の余韻に思わず浸ってしまう。芽キャベツのサラダにはジュレ状にしたドレッシングがかかっており、素材の甘味を存分に引き出している。デザートにはベリーのタルトが上品にカットされ、控えめな甘味とベリーの甘酸っぱさが絶妙にマッチしている。
そんなランチを向かい合わせで取りながら、また一つため息をついたユーリにエルメザルリアは問うた。
「それで、ユーリは一体何に悩んでいるの?」
「っ!?」
唐突にそう切り出した目の前の親友に驚くあまり、手にしていたブレッチェンをスープに落としてしまったユーリは慌ててスプーンでそれを掬い取った。
幸いなことにスープはあとわずかであったためにパンは多少スープを吸い取っただけですみ、ユーリはそれをスプーンごと皿に置いた。
「な、なな、なんのこと?悩み事なんて・・・」
視線をさまよわせ、明らかに動揺しているユーリにエルメザルリアは吹き出した。
「本当に、嘘をつくのが下手よねぇ。ユーリったらため息ばっかりついてるんだもの。何かあったと思うのは、自然じゃない?何か悩みがあるなら、是非私に打ち明けてほしいわ。ユーリの力になりたいのよ。」
笑ってはいるが、エルメザルリアの目は心配そうな光をちらつかせていた。
ユーリは少し考え込んだ風であったが、意を決したように一つ頷き、エルメザルリアに打ち明けた。
「実は・・・」
ある人を見ると胸がどきどきする、姿が見られないと寂しい、でも近くにいるとどうしていいのかわからない・・・そんなことを打ち明けたユーリに、エルメザルリアは呆気にとられた。
「ユーリ、あなた・・・」
そこでエルメザルリアは口をつぐんだ。
彼女は本当にそれに気づいていないのだろうか。
ちらりとユーリを見る。
こちらを見つめて思いつめた顔をしている。
はぁ、とため息をつき、エルメザルリアはユーリをひたと見据えた。
「ユーリ、それは、恋よ。あなたはその人のことが好きなんだわ。」
ユーリは一瞬何を言われたのかわからないという顔をした。
しかし言葉を理解すると、ボンッという音が聞こえそうなほど一気に赤くなった。
「こ、ここここっこ!」
「ユーリ、それじゃ鶏よ。そうじゃなくて、恋よ、恋。もしかして、初恋なの?」
明らかに動揺しまくっているユーリに、エルメザルリアは冷静に返した。
「はつ、はつこい・・・」
ユーリはまだ冷静になれないようだ。
エルメザルリアは、これは初恋であると確信し、ニヤリと姫らしからぬ笑みを見せた。
「そう、初恋なのね。よかったじゃない。それで、どんな人なの?」
その追求にユーリはうっと詰まった。
どう言えばいいものか・・・
「えっと、そのー、とっても綺麗な人よ。でも、子どもみたいに無邪気なとこもあって、でも時々すごくう男らしいと言うか、何と言うか・・・」
しどろもどろなユーリであったが、内容はノロケそのものだ。
「ふふ、いいじゃない、好きな人ができるって、素敵なことよ。ねぇ、今度写真か何か見せてちょうだい。ユーリがここまで好きになる人がどんな人なのか、興味があるわ」
「・・・うん。紹介、できるといいな」
エルメザルリアの言葉にユーリは逡巡したものの、少し苦笑しながら頷いた。
何故そんな渋るような風なのか、エルメザルリアには理解できなかった。
誰よりも
そろり、そろり
きょろきょろ
そろり、そろり
エルメザルリアとの会話で恋心を自覚したユーリは余計にビルトゥーアと顔を合わせづらくなり、帰宅したもののただいまも言わずにゆっくりとドアを開閉し、周りを警戒しながら廊下を歩いていた。
リビングの方から、母とビルトゥーアの声が聞こえてくる。
「ギュルールルル」
「はいはい、そんな不機嫌にならないの。ユーリならもうすぐ帰ってくるわ。ほら、ビルトゥーア、今日はバナナケーキよ。フルーツ好きでしょ?こっちにいらっしゃい」
バタタタッ
「ギュルッギュー」
「慌てない慌てない、 はい。どうぞ。」
どうやらおやつのようだ。
きゅるるん
ユーリの腹から空腹を訴える音がしたが、片手で腹を押さえ、眉を下げた情けない顔をしながらも、ユーリはリビングに寄らずにそろーっと階段を上がった。
部屋に入り、ため息をひとつついた。
「つかれた・・・」
ぽつりと言葉が部屋に響く。
ベッドに近寄り、そのまま腰を下ろす。
考えるのは、エルメザルリアとのやりとりだ。
「初恋、かぁ」
思い出すだけで顔に熱が集まり、いてもたってもいられない気分になる。
手をもじもじしたり、髪をくるくるいじったり、熱くなった頬に手をあてたり。
「私、ビルのことが、すき、なのね」
自分の心を確かめるためにそうつぶやく。
自覚すればするほど恥ずかしくなるのはなぜだろうか。
そして、ありえないほどに高まる心臓の音、なんとも奇妙な高揚感。
好きでいることが、嬉しい、好きでいてもらえることが、幸せ。
恥ずかしくて、いてもたってもいられないのに顔に浮かぶのははにかんだ笑顔。
心がきゅーっとなって、せっかくばれないように静かに部屋にきたというのに、ベッドの上で手足をばたつかせ枕に顔をうずめてキャーキャーさけんだ。
「いやーやっぱりはずかしい!!」
ギュルー!!!!
はっ
階下からものすごい奇声が聞こえ、ユーリは我に返った。
バサバサバサバサ!!!!
高速で飛んでいるのであろうせわしない羽ばたき音が徐々に近づいてくる。
ガバっとベッドから飛び退き、ドアまで走って鍵をしめる。
がちゃり。
バサバサッ
部屋の前にビルトゥーアが来た気配がする。
ギュルッギュルッ
開けろ、と催促する声が聞こえるが、ユーリはそれどころではなくなっていた。
どうしよう、どんな顔して会えばいいの!?
テンパってしまって思わず鍵もかけてしまった。
ギュッ!!コツコツ!!ギュギュッ!!コツコツ!!
ユーリがオタオタしていると、扉を嘴で叩く音が聞こえてきた。
すぐに扉が開かなかったのに焦れているようだ。
「どうしよう・・・」
オロオロ。
一方ビルトゥーアは、一向に開けてもらえないドアの前で、何とかして部屋に入ろうともがいていた。
嘴でドアを叩いてもだめなら・・・
ギュエーギュエーギュルウルルウウー
「ぶふうっ」
ユーリは思わず吹き出した。
開けてもらえないと思うやいなやビルトゥーアはドアの下の隙間に嘴と翼を突っ込み、翼をわさわさ動かしながら情けない声を上げ始めたのだ。
そのなりふり構わぬ姿に、悩むのがバカらしくなるほどの笑いの衝動がユーリを襲う。
「もう、ビルったら。いったいどんな格好をしているのかしら」
恥ずかしいとか、どんな顔で会ったらいいのかとか、今もちょっと悩んでいる。
でもビルトゥーアの姿は、その悩みをも吹っ飛ばしてしまうほどの威力をもっていた。
ケタケタと腹を抱えて笑っていたユーリは、まだ同じことをしているビルトゥーアを部屋に入れるため、鍵を開けた。
ガチャ。
「ごめんなさい、ビル。開けるのが遅くなっちゃったわね。」
顔に笑を浮かべたまま、ビルトゥーアを迎え入れた。
べちょ、と床にはりついていたビルトゥーアは、開けられた途端にさっさと体勢を戻し、ぴょんぴょん跳ねながらユーリの部屋に入り、ユーリが扉を閉めたことを確認すると、そのまま人型になった。
「ユーリ、おかえり。帰ってきたのに気づかなかった。それに、もっと早くに開けてくれればよかったのに」
少し拗ねたように顔をゆがめ、ユーリに抱きつく。
人型になることも少なくなっていたのに、よっぽど焦れたようだ。
「ごめんね。ただいま。でも、さっきのビル、すっごくおかしかったわ」
ユーリはクスクス笑いながらビルトゥーアの背中をぽんぽん、と叩いた。
ビルトゥーアはユーリから離れ、頬を赤らめた。
「なりふりなんてかまってられない。好きなんだから」
ボンッ
爆発するのではなかろうか、という勢いでユーリは全身真っ赤になった。
異様に体が熱い。
好きって、好きって、いやぁ~~嬉しいけど恥ずかしい!!恥ずかしいけど嬉しい!!
「そ、そ、そう、そっか、うん。」
声が裏返る。
二人してもじもじしていると、ビルトゥーアはふと気づいた。
なんだか、ユーリの反応がいつもと少し違う。
顔もいつもより赤いし、好きだと言ってもぷんぷん怒るような反応をしない。
もしかして、体調でも悪いのだろうか?
「ユーリ、どこか具合でも悪いのか?」
こつん、と自分の額をユーリの額にくっつける。
「・・・?熱は、ないようだ」
そう言って、離れてぎょっとした。
ぷしゅぅ
ユーリの顔が更に赤くなっている。
「ななななななんでもななな・・・」
そして壊れたからくり人形のようにどもっている。
「ユーリ、落ち着け。どうかしたか?なんだかいつもとちがう」
ビルトゥーアは心配になり、ユーリの顔を覗き込んだ。
「もうだめぇ~~~~」
ユーリはそう言うとベッドにダイブし、ころころ転がり始めた。
その奇行にぎょっとしたビルトゥーアは、焦ってユーリのもとまで近寄る。
「ユ、ユーリ?」
おそるおそるユーリに触れる。
「な、なんでもないの。なんでも。ほんとに。調子は絶好調、これ以上ないくらい元気よ。それでね、あの、本日はお日柄もよく、ビルのご機嫌も麗しく、母様のケーキはいい匂い・・・」
だめだ、壊れている。
「ユーリ、いったいどうしたのだ?我に言ってくれ。このままでは心配でどうにかなってしまいそうだ。もしかして、学校でなにかあったのか?それとも、我のせいなのか?この姿でいるからだめなのか?そうなら鷹にもどる。だからなんとか言ってくれ」
ビルトゥーアはそう情けない声で言い募った。
学校で何かあったのなら相談にのりたい。
久しぶりに人型になったが、ユーリが厭うならすぐにでも鷹に変化したってかまわない。
自分の好きな女が悩んでいるのなら、その解決のためになんだってしてやりたかった。
悲愴さをも含ませたその声に、ユーリは胸がぎゅっとなった。
「ちがうの!!」
体勢を戻し、うるうるとした目でビルトゥーアを見る。
「学校では何もないし、ビルのせいでもないの!絶対それはない!ただ、その、なんていうか・・・」
涙目になりながらそこで口をつぐんだユーリを、辛抱強くビルトゥーアは待った。
「恥ずかしかっただけなの。本当に、それだけよ。ちょっと自覚が芽生えちゃって、その・・・」
ゴクリ。
ユーリの喉が上下した。
「あの、ね、私・・・」
チラリとビルトゥーアを見る。
いつもとかわらぬ美しい瞳。
そこには、自分にむけられる熱のこもった感情と、そして今は心配そうな光をおびている。
この世の誰もが持っていない、何物にも染まらぬその色合いをもつ、ビルトゥーア。
神秘的な美貌に、心地よい声、自分よりも大きな手。
子どもっぽいかと思えば急に大人びたり、笑顔で愛をささやき、ふわりと柔らかくだきしめてくれる。
その全てが、誰よりも、何よりも・・・
ぎゅっと目を閉じ、手を握り締めた。
「好きなの。ビル、ビルが、好きなの」
神様と彼と私
ちょっとファンタジック?